深沢秋男研究室 鈴木重嶺関係資料

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■鈴木重嶺関係資料  目次
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●平成13年6月、佐渡の毎日新聞の磯野氏から電話をもらい、佐渡金山開山400年を記念したイベントに来ないか、と誘われた。佐渡の資料に関しては、兼ねてから気になっていたので、これを機に調査する事にした。

 鈴木重嶺(翠園)関係資料の紹介は,これまで3回報告してきた。重嶺の御子孫の松本栄子氏から関係資料を寄贈された昭和女子大学図書館では,「翠園文庫」を新設して関係資料の収集に努めてきた。今回,佐渡に現存する,重嶺関係資料の調査を実施することができたので,その結果を報告したい。


1,鈴木重嶺翁小伝

金井町図書館・岩木文庫(新潟県佐渡郡金井町千種240)平成13年9月11日調査。
岩木文庫・第六十『本間家滅亡顛末・河村以下諸奉行伝記』半紙本・全二九六ページ。本文用紙は「佐渡国誌編纂用紙」(朱色)を使用。この内「鈴木重嶺翁小伝」は,九丁(一八ページ),毎半葉一三行。岩木擴の書写。翻字にあたって句読点を補った。
「鈴木重嶺翁小伝(同方会報)
私は、モー八十四歳になりますから、皆様は達者だと仰しやいますが、大分耄碌致しまして、昨日のことを今日忘れるやうになりました。別ニ只今コーといつて、思出すこともこさいませんから、御尋の通り、私の勤め方のことを申上ませう。私ハ、元軽い身分てこざいましたか、段々と御取立ニ預りまして、諸太夫にまでなることが出来ましたのは、徳川公の御厚恩と存じて有難いことニ思て居ります。私の家ハ小禄てこさいますが、三河以来御扶持を戴た古い家柄で、兎も角も三河武士に相違ありません。全体私の家ハあき屋敷伊賀と申しまして、同じ伊賀の中でも、少々変つて居ますので、明屋敷伊賀と申しますと些少なから、六ケ村の知行を戴て之を同僚で配分するのでございます。凡そ人数は百人余もありましたからうか、ハツキリとハ覚て居りませんが、此内から出世致して、諸太夫以上ニなりましたのハ唯三人ほかこざりません。一人は勝安房守で、一人は都筑駿河守、一人は私でこさいます。私ハ小普請から二十才位でしたらうか、御広敷伊賀へ出まして、八、九年も勤めましたらう。其内に水野越前守殿の御改革で、丁度其頃留守居を勤めて、八丁堀ニ邸のこさいました松平内匠頭が、支配向の免許以上の武術見分をいたすといふので、私も剣術を受けて出ました。御広敷番の頭で窪田源太夫と云ふ人が取扱で有ましたか、此人ハ私の柔術の師匠の悴で、岡田真澄の門弟ニて歌を詠みますゆへ、武術の見分の済みました跡で、鼻紙へ一首歌を認めて見せました。
  つるぎだち鞘にをさめし世になれて みがかぬわざのはづかしきかな
窪田氏か見まして、夫れを内匠頭へ出しましたので、私ハ其頃大之進と申しましたか、其歌を短冊に認めて差出すやうニとの命か有りました故、サウ云ふつもりで詠むだのでハこさいまんでしたが、拠ところなく宅へ戻りましたから、短冊へ認め、翌朝出勤がけニ御留守部屋へ持参致しました。スルト武術見分帳を差出す時、私のヘボ歌を添へ、越前守殿へ進達になりました。内匠頭と云ふ人ハ親切な人てごさいまして、其頃、御徒士目付が五六人あきが有りましたので、ドウゾ大之進を御徒士目付にして戴きたいと云はれたそうで、越前殿も早速御承引下すつて、私は御徒士目付ニなりました。全体私ハ十八の年から、加藤千蔭の門人の村山素行と申す者ニ歌を学びましたが、此時より一層心を入れて生涯歌はやめまいと存じました。歌の御蔭で出世の緒を得た故ニサウ思つたやうニ聞へますが、左様ばかりでハこざいません。我邦ニ於きまして、神代より伝つて居りますものハ歌ばかりて、其前は文字を始め、皆他国から参つたものてございますから、何うか此歌の道はかりハ廃らぬやうニしたい。歌を致しますのハ、取りもなをさす、此国体を知るの道でこさいまして、自国の事を知らないでハ、此国に居る詮のないことで、日本ニ居て日本の学問を知らないで、他国の学問をすると云ふのハ間違つた話てごさいます。自国の学問をした上で他国の学問をするのが順でこさいませう。西洋でも自国の学問を先にして、夫れから他国の学問をすると云ふことでごさいます。それで、西洋人の内にハ、モーは疾ニ日本の学問をして、源氏を読だり、万葉を暗誦したりする人があるそうで、却つて日本人ニ此考かなくてハ誠ニ心細い訳てこさいます。せめて天仁遠岐語格位は知つてもらいたいので、往々仮名文を書いても片言て読めぬのが有ります。そこを思ひますと、古の学者ハ感心なもので、漢学者なども傍ら国学をやつたものと見えます。皆様か御承知の四書五経等で、後藤点道春点書をみますと語格ニ合つて居る。申せば「又君子ならずや」と結びの言葉をやと読み、かではない。或は「忠ならさるか」をならさるやと送らせない。是れハかと書かねばならぬ漢書の点が此の様ニ間違はんでこさいます。独り後藤点道春点ニ限りませず、夫の猿楽の謡本なども語格か凡そ合つて居ります。又、固い本でなく、極く卑しゐ浄瑠璃本で近松門左エ門の作なぞは矢張りチヤント法ニ協つて居ります。法ニ協つて居なければ、文ニも歌ニもなりません。此国ニ居て此国の文も歌も出来ぬのハ、笑止なものと存じます。何学をなさる方でも、日本固有の国学だけハ、御心掛になる様ニ致したい。前申しました窪田氏でも、松平内匠頭でも、水野越前殿でも武道はもとより、漢書も読んで居られますが、亦歌道を心得られて居りまして、是れハ左様なけれバならないことでこさいます。大分自分の田へ水を引く様てこさいますか、私の歌を修めましたのハ、斯様の心得からのことでこさいまして、是れがまぐれ当りニ出世の梯となりましたのでこさいます。夫れから徒目附から評定所留役ニなりまして勤めて居りましたが、御人べらしで、又小普請へ這入りまして、翌年御勘定所御勝手方ニなり、夫れから組頭ニなり、御勘定吟味役ニなり、御勘定奉行並又御旗奉行ニなり、其の後御役御免勤仕並寄合、夫れより佐渡奉行被仰付、其の後従五位下兵庫頭となりました。……文久の初めの頃でした。西洋五ケ国へ御使を遣はされたことかありまして、竹内下野守か行きました。其の時ニ随ひ行く人を見ますと、漢学者と洋学者ばかりである。夫れから竹内下野守へ面会いたしまして、今度御連れなさるものハ漢学者と洋学者はかりで国学者ハないやうニ承はりますか、私の考でハ西洋へ行てハ西洋の事ハ聞きますまい。支那の事も聞きますまい。聞けば、日本の事を聞くでせう処へ出て行て日本の事を聞れても、日本の事を御承知なかつたら、御答か出来ますまい。然らバ日本の恥を掻きニ行く様なものでハこさいませんか。御使者ニ御出なさるあなたが、御滞留中斯様な事かないとも申されますまい、といひましたら下野守も如何ニも左様の事であると、云はれました。夫れから、私ハ繁多の処を深夜まで起きてゐて、皇風大意と名付て二十余枚ばかりのものを認めて、竹内ニ遣はしました。御使果てゝ、帰朝致しますと先づ私ニ逢ひたいと申して来ましたから、参りますと、誠ニドウモ御手前の云つた通り、色々我国の事を質問されたか、御手前の書いてくれたものが役ニ立て恥もかゝなかつたと申して、羅紗を一巻礼ニ貰つたことかこさいました。それから佐渡奉行ニて維新前まで、様々難渋いたしたことなど、御咄申したうこさいますか、余りなかくなりますから、追て御話し申しませう。私ハ御徒目付から評定所留役ニなり、暫くして御人減じで又小普請入りを致しましたか、翌年、御勘定御勝手方ニ出まして、それから組頭から御勘定吟味役ニなりましたか、京都近海へ御台場か出来ることニなりまして、私が御勘定奉行並ニなりました。然るニ御台場建築か見合せニ成りました。此少々前、吟味役の節、大坂近海台場新築御用ニて出張中、大和五条ニ一揆か起り、浪士共か御代官鈴木源内を打取り、近郷を騒かしましたので、其罹災の民を救恤するため、会津中将からの命で俄かニ私ニ此救助を取計ふ様ニ下命で御坐いました。江戸へ向つて居る暇かないから、追て老中へ申立るニ依て、早く行てくれと仰しやるので、丁度文久三年の末でこさいましたか、それから大和へ参り吉野郡の山中を雪を踏み分けて一々見分しまして、夫々御救助を取計ひました。其日礼かこさいましたつけ。
(先生自ら起ちて書筐を捜ぐり其日礼といふを示さる。受けて見るニ和文ニて数々の歌を添へられぬ。源内の墓ニ詣でられたる時の歌二首
  なき数にいられてありせば梓弓 はる/\来ぬる甲斐もありしを
  身ハ苔のしたにありとも玉櫛笥 ふたこゝろなき名こそ朽ちせね)
御用か済みましてから御旗奉行ニ転しました。泰平のつゞきました世の中故、今迄は前々御旗の御用と申して軍旗を守護して戦場へ出ると云ふこともこさいませなんたので、至つて閑散な役柄で、それで二千石戴いて勿体ないやうニ存じて居りました。組屋敷ハ市ケ谷柳町にこさいまして、俗ニおはたと申します。私ハ当時駿河台ニ居りました処か、段々世の中か騒々敷なりましたので、大小鑑察から御鑓奉行御旗奉行ハ三千石以上の者を御使ニなつたなら、何ぞの時の御用ニ立ませうと申出しましたので、私ハ勤仕並寄合ニなりまして、両三年過て佐渡奉行を命ぜられ、四年目ニ瓦解となりましたので、組頭を一人残して私ハ自分入用で引上げて駿河台の邸へ戻りましたが、当地ハ彰義隊騒きで……甥が彰義隊ニ這入て居りましたか、戦争の時鉄砲疵を受けて私の二階ニ匿れて居たことがありました。只今ハ名古屋ニ居ります。陸軍大尉を勤めて金田貞尋と申します。
全体、佐渡奉行ハ居場品でもつて何の守で行く人ハ何の守で参りますが、権兵ヱ八兵ヱでハ左様ニ参りませぬ。遠国奉行の中でも、京都だの大坂だのゝ町奉行や禁裏などの奉行ハ、奉行ニなれバ直々守名を戴いて諸大夫以上ニなれますか、佐渡ハ左様ニ参りません。然るニ私ハ出格の例ニ由り、諸太夫を被仰付兵庫頭と付けました。佐渡から戻りまして隠居しましたか、維新後悴が田安家へ貰はれまして、其縁故で又隠居の私を政事向其他の協議ニ御用部屋へ引出されました。処か甲州の田安領で一揆か起りまして、朝廷領になりたいと云ふ様な民意なので、御維新で上地ニなると云ふことを知らないのでこさいますか、政府から田安の重役ニ出役して処置する様ニ達せられましたので、私ハ家老ニなつて此鎮撫旁参りました。して赤松大参事土肥権知事などゝ引合まして、此方ニ損の行かないやうニ取計ひましたが、此談判中ニ鼻紙へ一寸歌を認めて見せたのを、此頃見出しました。
  数ならぬ身おばおします山梨の なりもならずも君かまに/\
それから明治四年ニ新政府から不意ニ召されて佐渡の権知事ニなり、九年迄勤めて病気免職を願ひまして、此時従五位ニ叙せられました。佐渡ニハ都合十年居りましたが、人気も宜しく、誠ニ不自由のない土地で時候も意外ニ暖かで、北陸の雪国の様でハありません。東京よりも暖いほとです。
私か二度目の御上洛の時でした(元治元年)大坂へ御用で参つて居りましたら、上洛の御供を命せられまして、直ニ上京致しましたか、二条の御城奥ニて布衣以上の者へ御酒を下され、御小姓御小納戸の御酌で戴くことでこさいましたが……大之進は酒を好むかと仰せかこさいましたら、御用御取次の土岐下野守が二三献ハ戴けますと御答を申し上ました。此下野守と云ふ人ハ、歌道の友ニて私の御酒を戴けないのを知つて居るのでこさいますか、斯様ニ申上て御前でございますのニ、殊ニ御手づから御酌をなされましたので恐縮して御盃をいたゝき、其儘下がらうと存じましたら、何ぞ御話を申上げる様ニとのことで、別ニ申上ることもこさいませんでしたから、一首うかみましたと申上げました。
  忘れめや君か賜はるさかつきに あふるはかりのけふの恵を
土岐ニ短冊を下げいと仰しやつたので此歌を認めて差上げよとの命でございましたが、下戸が酔ひましたので手が震へて書けないで困りました。           (終)


2,越路迺日記

佐渡高等学校・舟崎文庫(新潟県佐渡郡佐和田町石田567)平成13年9月12日調査。
舟崎文庫・601。「佐渡群書類従/第 冊/地誌部/共一冊/萩野由之集」のラベル。半紙本,版本,袋綴,一冊。全三四丁。左肩に四周双辺原題簽「越路迺日記」。題簽の右に朱筆にて「明治十七年鈴木重嶺著」とあり。丁付は版心に「一〜三十四」とある。刊記無し。一丁に鈴木弘恭の序,二丁に鈴木重嶺の自序がある。序等の翻字にあたって適宜句読点を補った。
「越路日記叙
うつしゑの上手は、山川のけしきをたゝありのまゝにかきなすなれと、みもてゆけは、いとをかし。わろものはあらぬいはれをまうけたかる木をそへ、高とのにそり橋に、馬に舟にてさくの物をかきつらねて、いと/\うるさし。いにしへ人の旅の日記は上手のかけるうつしゑのさまして、たゝその日にし有しをも越うちみるやうに、かいつけたるを近きよの人のものせるは、わろものゝ出たる絵のさまおほへて、見るにうるさきか多かり。さるはそのくにの人からの、よしあしより其心のなつきたるゆゑよし、むかし有しいくさ物語やうのことまても、くと/\あなくり出てかいつくる也けり。翠園翁か越路の日記は、いにしへ人の書きさまにて、日ことにみしこと聞しことのみを、そのまゝにかいつけられたれは、うち見るに、いとをかし。こまやかにみもてゆかむには、いかにをかしからましを、ましておのれは十年余りも、かの国にすめりしかは、ことになつかしくて、おもほへすくりかへさるゝに、さらにまたその国に隔り、そのところにあそへる心ちせられて、そのをかしさたとへなけれは、わろものゝ筆のうるさゝをもうちわすれてかくなむ
  明治十七年九月とを日七日                    鈴木弘恭 」
「おほやけわたくしのけちめなく、都を離れて旅たちし時の日記は、わかき頃よりのかこゝらあれとも、人に見すへくもあらねは、はこの底にいれおくのみ。されと玉さか出し見るにからるくるしきこともありき。かくおもしろきことにもあひにけるかなと、昔をしのひてうち歎きうちゑまるゝこそと、あるは其をりのさまをしるしおけはなりけり。おのれ世をしそきてより、ことし九とせ、よはひは七十にあまれと、幸に病といふことをしらす。この八月は哥むしろのつとひもなけれは、越のあたりへ行て見はやと、思ひおこして遊ひありくまにまに日に/\ありしことゝもを、しるしおきたるか、かく旅日記やうのものにそなりたる。老ほれたる身の、ふたゝひ遠き旅ちにいてたゝむことの頼みかたけれは、すり巻にものして、こゝの友たち、又こたひ尋ゆきて、まよはし人たちにもおくりてんとて、かくすはものしけるになむ
  明治十七年九月                      鈴木重嶺しるす 」


3,島曲の古豆美

佐渡高等学校・舟崎文庫。平成13年9月12日調査。
舟崎文庫・48。佐渡叢書四五。「佐渡群書類従/第四十五冊/叢書部/共五十冊/萩野由之集」のラベル。半紙本,写本,袋綴,一冊。濃藍空押模様原表紙。左肩に子持枠原題簽,「佐渡叢書 四十五」と墨書。一丁表に「野山のつと 泉本主水正/黄花園和歌稿/矢柄の道之記/島曲の古豆美 星野千之本/佐渡二十一番歌合 同批判本/島根之真筆長谷川安邦編集自筆本」とある。『島曲の古豆美』は共紙の表紙に「嶌曲の古豆美」とあり,墨付十九丁。一丁〜二丁に鈴木重嶺の序がある。
「二柱のおほみ神のうませたまへりしおほやしま国の中に、佐渡の国はしも、はたつものたなつもの、海のさち山のさちはさらなり、こかね白かねさへみちたらへる国にして、いさなとる海はた広らかに河のさきくれのみなと、足曵のやま/\高くそひえ、こゝの峯かしこの岡と、とり/\をかしき名ところもさはなるものから、うひ日さす都にとほく、ひとりわた中にはなれたるおきつ嶌くになれはにや。昔の哥人もとめこさりけん。世々の撰集もこゝの名所をよめるなん、をさ/\見へさりける。たゝ承久のみかとのおほみ歌、さては都より流されこし人はそのをりに、ふれよみ出たるか残れるのみなりけらし。近き世になりて、此国の任におもむきたる人々のは、おのれ重嶺□とひとしく哥のやうにもあらさめれと、かの名ところを何くれと、よみ出たるはた少なからねは、なほその二のまひして、つれ/\なるをりをりとによみ出たるかいかて□はかりにもなりにけるを、哥はとまれ遠つ嶌くににも、かゝるみやひたる名所とものあなるを、古さと人にもしらせまほしうてなむ。
      慶応といふとしの二とせみな月
                               翠園あるししるす」
末尾に五丁分「佐渡国人 井上幹」の跋がある。井上幹は,蔵田茂樹に歌を学んだ明治維新期に活躍した歌人。酒井友二氏の調査・研究に詳しい。(注2)さらに巻末に朱筆にて荻野由之の次の識語がある。
「右島曲の古豆美一巻ハ、星野千之ノ旧蔵ナリシヲ、世ニ散ボヒタル也。予コレヲ文行堂ニ購得ツ。初ノ十五首バカリ、題・下ニ細書セル歌ハ千之ノヨメルナリ。千之ハ著者翠園翁ト交深カリシカハ、千之モコノ題ニ一首ツヽ和セントテ、詠ミ畢ヘサリシサマナリ。後ニ写サン人、コノケヂメヲ心得テ混ゼシムヘカラス。         /荻野由之 」


4,松迺古枝・序

山本修巳氏蔵。平成13年9月11日調査。
半紙本,洋活字,袋綴,一冊。左肩に子持枠題簽,「松迺古枝」。本書は原本のコピーを酒井友二氏より閲覧させて頂いた。現在,山本修巳氏の原本は未整理のため閲覧出来ない。一丁に鈴木重嶺の序がある。
「うつゆふの佐渡の国ハしもおほきなる国にハあらねと玉くしけ、二はしらのおほみ神のうませたまひし国にて、汐なわのこりてなれるたくひにハあらす。かれ都に遠けれとも、みやひこのむ人少からすなむ有ける。そか中にも養松軒のおきなハ、はやくよりことのはの道にいりたち、ことし七十まり七とせのよハひなれとも、若き人々ををしへみちひかれ、いとすくよかにて、一日も歌よまぬ日なむなかりけらし。さるをこゝらのとし月よめるか中に疵なからむをは、林のおち栗ひろひ出て、一巻となしおきてんとて、かくハものせられしとか。そハめつ子うま子たちのせちにこハるゝによりてなり、とみつからのはし書にもいはれたれと、さなくとも翁のいさをゝ世に残さまほしきハ、おのれらも願ハしくこそ。明治といふとしの十あまり六とせ八月はかり翠園のあるし。
                                穂積重嶺しるす」
二丁には,養松軒・中村春彦の自序がある。中村春彦は,鈴木重嶺と深い関係にあり,重嶺が相川を拠点として活躍していたのに対し,春彦は両津を中心に門弟百人を抱えて活躍していた。これも,酒井友二氏の研究を参照願いたい。(注3)


5,佐渡奉行鈴木大之進殿御巡村先触写

金井町図書館・岩木文庫。平成13年9月11日調査。
岩木文庫・第七十一『佐渡奉行鈴木大之進殿御巡村先触写』,半紙本・墨付一八丁。岩木擴の墨書。共紙の表紙に「慶応元年丑年/佐渡奉行鈴木大之進殿御巡村先触写」とある。
以下,内容の一部を順序に従って掲出する。
「一 国中為巡村来る十九日頃令出立候道筋先挌之通相心得地境江村役人之内一両人罷出
 見分候所不洩様可致案内事
一 村々盛衰之様子者勿論其外之稼方等有躰申聞孝行もの忠義之もの貞節之もの又者奇特
 なる取計いたし候もの有之候はヽ其始末等可申立事
一 古城古戦場古墳之類洩ざる様可申聞事附農夫樵夫等筋目有之候ものハ有躰可申聞候尤
 系譜之類又者感状其外持伝之品可令一覧事
一 山海等ニ而取揚候諸品又者古来より持伝之品心得ニ相成べき物者一見ニ差出し可申事一 休泊之儀寺院又者百姓家にても手狭見苦鋪分者不苦候間宿数可成丈け一二軒ニ極め可
 申若村方勝手ニ而軒数多方宜敷候ハヽ何軒ニ而も割付可申付候尤畳表替障子張替其外取
 繕ひケ間鋪儀决而致間鋪事
一 巡村ニ付道筋取繕等ハ堅無用ニ致すべく事
一 休泊ニ而御定之木銭米代并茶代等相渡候間所有合之品を以一汁一菜之外何ニ而も馳走
 ケ間鋪事無用たるべく事
一 此度出役之役人休泊等も右ニ准し可申事
一 巡村中末々之者まても無拠調物申付候ハヽ少々之品たり共代物急度請取之買上ケ書付
 可差出事
一 此度出役之役人并家来又者迄以御威光不法之儀并非分かさつケ間鋪儀有之候ハヽ村役
 人たりとも封訴ニ致し可差出事
一 人馬之儀去る明和元申年被仰出候通無賃ニ而差出先触其外余計ニ差出申間敷若余計ニ
 人馬入用之節者役人より断次第差出可申候事
一 此度先触之通御船相廻候間供船之儀者其所有合之小船差出し不差支様可取計事右之趣相触れ可申事
 丑
   四月
右者今般御巡村ニ付書面の通被仰出候間村役人承知仕末々小百姓迄急度可触知尤是迄御巡村之時ニ被仰出候事ニ候とも村方ニ寄御賄方等心を用ひ或者不用之人馬差出候哉にも被及御聞近年時々不作ニ而村方難儀之時節可成丈費用相省き候様可致其度尚亦御沙汰有之既ニ御同勢并人足等も挌別被減候廉も或之候条得其意組合村々一同申合当月十九日頃御出立別紙御日割之通御巡村有之候間御宿其外用意可致置候尤小早御船相廻り候間先挌之通り別船可差出候御休泊附人数并継人馬別紙之通相心得此触書江村々受印いたし順達之上留りより可相返候以上
  丑
         四月三日                堀口弥右衛門
 追而先挌之通御立寄場江御出之積り候間寺社江兼而其段申通し置候用可致候以上 」この後に,十五日間の宿泊の町名,泊割書付,御休泊組合村々,船割書付,鑓人馬書付,御精進日書付,覚,等が記されている。


6,水辺秋風 歌集

磯野保氏所蔵。『水辺秋風 歌集』は二十一名の歌人が「水辺秋風」の歌題で各一首ずつ詠じ,思い思いの料紙に書いたもの。かつて相川の旧家から求めた由。順序は決まっていなかったとのこと。平成13年9月10日調査。相川の磯野保氏宅(相川町羽田73―2)にて。
重嶺,井上幹,田沢うひ子,楽山,和田信敏,今川忠昌,元道,元昌,久留一叟,い串,野村総子,真嶋景耀,杉山昌隆,豊嶋有常,加藤重任,松平閑山,金井源部衛,磯部最信,守緒,高橋国夫,高橋鐺次郎。これらの歌人に関しての調査はこれからであるが,鈴木重嶺の歌を掲げる。
「水辺秋風/重嶺/山の井の秋またあさきゆふくれに水おとすみてかせわたるなり」
 【写真図版省略】


7,鈴木重嶺短冊


磯野保氏所蔵。平成13年9月10日調査。
「あふち/なつかしき香にそ匂へれ吾妹子にあふちはなさくたそかれのやと 重嶺」


8,鈴木重嶺短冊

磯野保氏所蔵。平成13年9月10日調査。
「月前螢/中々にことのかけにはあらはれてつきにかくるゝ夜はのほたるか 重嶺」


9,鈴木重嶺色紙

松栄和津氏所蔵。相川町三丁目浜の松栄氏宅にて,平成13年9月10日調査。
「亀/おのかよにかめなわたりそよろつ代とかきらぬ君の御代も有けり/重嶺」
これは松栄家の屏風に貼られている。松栄家はもと佐藤氏であったが慶応年中に鈴木重嶺より「松栄軒」の三字を賜り,「松栄」(まつばえ)と姓を改めたという。その額が現存する。「松栄軒/佐藤氏堂名松鶴/慶応中鎮台鈴木公/改賜此三字/辛卯八月三洲居士書(印)」辛卯は明治二十四年。三洲は書家の長三洲か。長三洲は明治二十八年に没している。


10,鈴木重嶺軸

山本修巳氏所蔵。(新潟県佐渡郡真野町新町354)平成13年9月13日調査。
縦一三〇〇ミリ×横六九〇ミリ。「山本雪亭翁古稀の賀に/寄琴祝のこゝろをよめる/従五位穂積重嶺/千代まても君いますらむ松かえに/かよふを琴のこゑにひかれて」『佐渡山本半右衛門家年代記』(注4)の明治十年四月の条に次の如くある。
「一、同月(四月)十五日、祖父雪亭古稀之賀宴を催し、町内親類知人を相招候。此時自寿之詩及び俳句あり。」重嶺は明治九年に相川県権令兼六等判事を辞して,東京駿河台の家へ帰っているので,この軸は東京で書いたものであろうか。


11,鈴木重嶺短冊

山本修巳氏所蔵。平成13年9月13日調査。
「山家花/大かたのちりての後を時としてはな見に来ませみやこうた人 重嶺」


12,鈴木重嶺歌碑

熊野神社境内。(新潟県佐渡郡新穂村武井)平成13年9月13日調査。
正面に「玉置清麿翁か寿偈/つゆの玉清くおきたる菊見ても君が千代こそ世にかをるらめ/従五位重嶺」向って左に「明治三十年六月 門人建之/中川政成彫刻」とある。玉置清麿は鈴木重嶺の門人。


13,明治現存/三十六歌撰

昭和女子大学図書館・近代文庫所蔵。(文庫/2/679)平成13年10月17日調査。
半紙本,袋綴,一冊。全十八丁。左肩に四周双辺原題簽「山田謙益編集/三十六歌撰 完」。前見返に、中央に「明治現存/三十六歌撰 完」,右に「山田謙益編集/竹本石亭画」,左に「雪吹屋蔵版」とある。奥付は後見返に「明治十年六月廿八日出板/東京第三大区五小区/牛込二十騎町三十四番地/編集兼出版人/東京府士族/山田謙益/蔵版主/東京本郷区/本郷春木町二丁目五十九番地/東京府士族/豊島有常」とある。
十一丁表に「右 鈴木重嶺/千鳥/もしほくむあまのまてかたまてしはしおりたちかねて千鳥なく也」,十一丁裏に「左 屋代柳漁/檀浦懐古/あら浪をかつきなれたるあまならはいたける玉はしつめさらまし」
本書については、昭和女子大学図書館の飯沼三和子氏の示教によって知ることを得た。

  (注1)第一回は『学苑』第六九四号(平成10年1月),第二回は第七〇五号(平成11年1月),第三回は第七一六号(平成12年1月)。
  (注2)酒井友二氏『佐渡のうたびとたち』平成6年9月10日,新潟日報事業社出版部発行。
  (注3)(注2)に同じ。
  (注4)山本修之助編『佐渡叢書・第七巻』昭和50年10月10日,佐渡叢書刊行会発行


追  記



一,舟崎文庫(佐渡高等学校所蔵)


 舟崎文庫は萩野由之の旧蔵書である。歴史・伝記・民俗・地誌・文学・図録・古文書・絵図・巻子本等に分類された,佐渡に関する貴重なコレクションで,その総数は,一三〇〇点余。萩野由之は明治・大正時代の著名な歴史・国文学者である。佐渡相川の出身で,東京帝国大学教授として活躍した。大正十三年,六十五歳で没したが,幸い蔵書は関東大震災,第二次世界大戦の震災・戦災にもあわず,子孫によって保管されて伝えられた。しかし、戦後の混乱期に経済的事情によって手離さざるを得ないことになった。この折,東京大学法学部は江戸時代法制史の史料として,購入を検討した。また,萩野博士の郷里佐渡でも,この貴重な資料の購入保管を考え,真野町出身の代議士・舟崎由之氏に事情を説明し,協力を求めた。舟崎氏は快諾され,当時の額で十八万円を投じて,萩野由之の旧蔵書は,郷里・佐渡高等学校の所蔵となったのである。舟崎由之氏にちなんで「舟崎文庫」と命名され,現在は,佐渡高等学校同窓会の管理のもとに大切に保存されている。


二,岩木文庫(金井町図書館所蔵)


 岩木文庫・全四〇一点は,岩木擴の旧蔵書である。岩木擴は安政元年(1854),佐渡相川で生まれた。慶応二年学古塾に入り,円山溟北に学ぶ。明治二年修教館に入学。同九年新潟師範学校詰に採用される。後,佐渡へ帰り,小木小学校訓導,新穂の中学校(佐渡高等小学校)の助教諭,相川小学校長等を歴任。『佐渡名勝』『相川町誌』『畑野村誌』等を編纂。明治四十年,『佐渡国誌』の編纂主任として活躍。昭和八年,八十一歳で没した。岩木文庫は,岩木擴の佐渡研究に使用されたものであり,貴重なコレクションである。


付  記


 長年の懸案であった,佐渡資料の実地調査が漸く実現した。今回の調査は,昨年六月,佐渡の毎日新聞の磯野保氏から,佐渡金山四百年祭に来ないか,と言う電話を頂いた事から始まった。今回の調査は,磯野氏の御配慮があってはじめて実現したことであり,まずこの事に感謝する。
 資料所蔵機関では,新潟県立佐渡高等学校・舟崎文庫,金井町図書館・岩木文庫,相川町史編纂室等のお世話になり,資料の閲覧にあたっては,渡辺剛忠氏,山本修巳氏,余湖明彦氏,三浦啓作氏,松栄和津氏等の御配慮を賜った。佐渡の研究者,磯部欣三(本間寅雄)氏,酒井友二氏,山本修巳氏には多くの御教示を賜った。更に,相川町教育委員会社会教育課長・齋藤正氏,佐渡観光協会事務局長・坂下善英氏をはじめ,郷土史研究家の多くの方々のお教えも少なくなかった。ここに記して心からの感謝を申し上げます。
 今回の佐渡の調査では,鈴木重嶺以外に,蔵田茂樹・蔵田茂時・井関隆子関係の資料も閲覧・調査したが,ここでは,鈴木重嶺に限定した。
 鈴木重嶺に関する,佐渡資料の調査は,今回が初めてであるが,諸氏の御配慮で多くの成果をあげる事が出来た。しかし,この調査は,むしろ残されたものの方が多いと思われる。今後とも,事情が許す限り調査を継続してゆきたいと思っている。
                             平成14年1月18日

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[解説] 『越路廼日記』は,鈴木重嶺,71歳の時の著作。半紙本,1冊,34丁,版本。巻頭に「明治十七年九月とをる七日 鈴木弘恭」の序があり、続いて鈴木重嶺の自序がある。「おほやけ、わたくしの、けちめなく、都を離れて、旅たちし時の日記は、わかき頃よりのか、こゝらあれとも、人に見すへくもあらね婆、はこの底にいれおくのみ。されとも玉さか出し見るに、かゝるくるしきこともありき、かくおもしろきことにもあひにけるか、なと昔をしのひて、うち嘆きうちゑまるゝこそ、とあるは其をりのさまをしるしおけはなりけり。おのれ、世をしりそきてより、ことし九とせ、よはひは七十にあまれゝと、幸に病といふことをしらす、この八月は、哥むしろのつとひもなけれは、越のあたりへ〔行やらん〕はや、と思ひおこして、遊ひありくまにまに、日に/\ありしことゝもをしるしおきたるか、かく旅日記やうのにそなりたるは、老ほれたる身の、ふたゝひ遠き旅ちに、いてたゝむことの、頼みかたけれは、すり巻にものして、こゝの友たち、又こたひ尋ゆきて、まみえし人たちにも、おくりてんとて、かくはものしけるになむ/明治十七年九月 鈴木重嶺しるす」この自序からもわかるように、明治十七年の八月は歌会も無いので、重嶺にとって縁の深い越後への旅を計画し、その折の事を記したものである。七月三十一日、八月一日〜廿八日の約一カ月。冒頭には、佐々木信綱、加藤安彦、鶴久子、中嶋哥子等の歌を記し、佐渡では相川の長谷川安邦、松田美政、三河清親、小木の伊藤清、赤塚薫、岩木擴等の歌を載せている。巻末は、「例の所々にて、車をとゝめ、おりのほりして、うへ野なる停車場につきしは、未のなかははかりなり。いとうれしくて、くるまをやとひ、家にかへりしは、申過し頃なりけり。後のおもひ出くさにもと、ありしことゝもをかくなむ。」とある。鈴木重嶺の伝記資料としても参考になるものと思われる。
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[解説] 『雅言解』は,鈴木重嶺,66歳の時の著作。巻末の広告に「雅言解=全4冊=定価壱円/此書ハ雅言集覧、和訓栞ノ類ニシテ、以呂波ノ順ニ集メ、倭歌ヲ引証トナシ、俗言ヲ以テ解シ易キ様説キ明シタルモノナリ。」とある。一例を掲げると「べらなり ○デアリサウヂヤ」ト伊庭秀賢訳ス。あゆひ抄ニ、デアリサウニ思ハルヽ」ト訳シタルハアタラズ。」として,『古今集』の「峯高きかすがの山にいづる日はくもる時なくてらすべらなり」等を掲げている。深沢蔵本は,巻1=43丁,巻2=43丁,巻3=37丁,巻4=47丁,合計170丁。昭和女子大学図書館「翠園文庫」にも1本を所蔵し、書誌の詳細は拙稿「鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介」(『学苑』694号,平成10年1月)を参照願いたい。本書は「明治期国語辞書大系・雅2」(飛田良文氏等編,1997年9月,大空社発行,底本は境田稔信氏所蔵本)に複製が収録されている。
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