深沢秋男研究室 井関隆子の研究

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井関隆子の研究  目次
^羇慘柑劼箸僚于颪
井関隆子の批評精神 ―幕末旗本夫人の日記から
『井関隆子日記』の古書価
ぁ悵羇慘柑卞記』解説 
ァ悵羇慘柑卞記』関係資料
Π羇慘柑匣遏愃雄が物語』の研究
О羇慘柑匣遏愎逝紊里い泙靴瓠戮慮Φ
┛羇慍箸半嬰腸箸硫杏
「旗本夫人 井関隆子がみた幕末の江戸城」
「奥様と雪隠 井関隆子」


★「奥様と雪隠 井関隆子」野口武彦氏(『週刊新潮』2004年7月29日号)
●天保11年5月17日の条を取り上げている。江戸城に近い、九段坂下に、およそ500坪ほどの屋敷はあったが、それでも隣家とは接近しており、様々な悩みはあったようである。ここでは、トイレの臭いを取り上げ、特に、こちらが食事時や、来客の折は閉口する、と嘆く。このような、下ネタなどは、ほどほどに止めれば済むものを、彼女はそうはしない。古典の中の描写から、現在の江戸の糞尿の処理に至るまで、延々と記し続けるのである。ここに、隆子の好奇心一杯な性格と、書かずにいられない、作家的資質を見る事ができる。
●野口氏は、この条を軽妙な文章で紹介してくれた。そして、
「旦那様は可もなく不可もない人物だったようだが、奥様の方は古典文学の教養が深かった。読書量がすさまじい。才気溌剌とウンチクを傾け、クサイ話題を王朝物語の香りにくるむのが強みである。・・・どんな下世話な事柄でも上品になるから妙である。」
として、その文章力を高く評価しておられる。

★「旗本夫人 井関隆子がみた幕末の江戸城」深沢秋男(『歴史読本』2004年2月号)
●「井関家の人々」
●「家斉はいつ死んだか」
●「幕府への論評」
●「政治批判小説」


▲本データの一部分は、国会図書館のDnavi にリンクされています。→http://dnavi.ndl.go.jp/ 「日本文学」→「日記・書簡・紀行」

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●昭和47年、恩師・重友先生の使いとして、桜山本『春雨物語』を返却するため、鹿島則幸氏の御自宅へお伺いした。用件が済んだ時、鹿島様は「こんなものもございますが」と言って、桐箱入りの12冊の写本を見せて下さった。私の専攻は近世初期の仮名草子であり、幕末の名も無い女性の日記に手を着けるのは、憚られた。しかし、初めから読み進めるうちに、その文体と内容に、グングン惹かれていった。
●岩波の『国書総目録』は書名を「天保日記」とし、著者は「井筒隆女」から「井筒隆」へと変更していた。女性の日記か、男性の著作か、それさえはっきりはしていなかった。
●『日記』を読みながら、著者の調査も進めた。幕末の旗本の妻であり、「井関隆子(いせき たかこ)」と言う女性である事が明らかになっていった。もともと出版社の要請で原稿作成に着手したのであるが、オイルショックで企画は中止となってしまった。しかし、その時、私は、この『日記』のトリコになってしまっていた。
●勉誠社に頼み込んで、全3冊の校註を終えるまでに8年間の年月を費やした。仮名草子研究者としては、8年間の寄り道であった。



*■井関隆子の批評精神 ―幕末旗本夫人の日記から―
 
 井関隆子(いせきたかこ)と言っても,御存知ない方が多いと思う。江戸文学の中で,最近,少し知られてきた女性である。それは,平成11年度の大学入試センター試験の,国語機Ν兇慮妬犬法悵羇慘柑卞記』が採り上げられたことも関連している。
 しかし,私と隆子との出会いは,もう25年も前になる。鹿島神宮宮司家・67代の鹿島則文のコレクション・桜山文庫の中に,桐箱入り・全12冊の自筆の『日記』を発見した時から彼女との付き合いが始まった。
 この全く無名の著者の『日記』を初めて読んだ時,大変驚いた。『日記』は幕末の天保11年(1840)から5年間に亙って書かれていたが,そこには,徳川11代将軍・家斉,12代・家慶,13代・家定の名が所々に出てきて,しかも将軍家の動静がかなり詳しく書かれていたからである。
 隆子は江戸城に近い九段坂下に住んでいた。夫は,この時すでに他界していたが,子の親経は御広敷御用人を勤め,家斉の正妻の広大院の掛りをしていた。孫の親賢も家慶の御小納戸を勤め,後には御広敷御用人となり,和宮の掛りとなっている。
 井関家は,代々,初めは将軍の身の回りの世話をする掛りであり,だんだん出世して,晩年には,江戸城の表(政治を行う所)と大奥(将軍の私生活の場)との接点である御広敷の責任者になる,そんな家柄であった。隆子は将軍家へ仕える子や孫から,毎日,江戸城中での出来事を聞き,それを『日記』に書さ残していたものと推測される。
 一例を紹介すると,将軍・家斉は天保12年閏1月30日に他界した,というのが,現在でも定説になっている。しかし,隆子は,閏1月7日に家斉が没した事を記している。徳川家の正史ともいうべき『徳川実紀』には虚構があり,一女牲の日記に真実が伝えられているのである。隆子は,当時の女性としては珍しく,広い視野の持ち主で,その興味は、歴史・文芸・文化・政治・社会と多方面に亙っている。国学者の鹿島則文は,最初,男性の日記かと間違えた程である。そして、単に興味を示すに止まらず,それらに,ことごとく論評を加えているが,その批評は極めて厳しく,しかも的確なものが多い。
 隆子が的確な批判をする事が出来たのは,彼女自身,広く古典を渉猟し,豊かな学識を備えていて,人間を歴史の流れの中でとらえるという,視点を持っていたからである。その上,前にも述べたように,親経・親賢,父子から,江戸城内の様子や幕政等に関する正確な情報を得ていた事も関係しているように思われる。
 首席老中・水野忠邦は,家斉没後,天保の改革に着手し,強引な政策を実行しているが、隆子はこれらを手厳しく批判している。そこに、彼女の老いてますます衰えることのない批評精神を見る事ができる。
 隆子は草花の中ではススキが大好きで,自分の庭を鹿屋園(かやぞの)と称して,四季折々の自然の変化を楽しんでいたが,また,大変な酒好きでもあった。子の親経は,時には、彼女の部屋へ,銘酒を樽のまま届ける程であった。だが,彼女の酒は,大勢でワイワイ飲むのではなく,一人静かに嗜む飲み方であった。
 彼女の晩年の1,2年は,両親は言うまでもなく,8人の兄弟姉妹にもことごとく先立たれ,寂しい日々であり,人の世の哀れを感じることも度々ではあったが,それは,決してみすぼらしいものではなかった。
 天保15年11月1日,60歳の生涯を閉じているが,彼女の生き方を『日記』その他の著作を通して見ると,それは,自分の意思や感性に,どこまでも忠実に生きた一生であったと言ってよい。その故に,子供や孫や・その他の家族,使用人にも尊敬され,権威をもってこの世を去ることができたものと推測される。
 私は,近世初期の仮名草子を研究していたので,この近世末期の女性の日記にめぐり合ったからといって,即座にこれに手を付ける訳にはゆかなかった。海のものとも山のものとも判らない,全く無名の女性の作物を手掛けるという事は,常識では考えられない事である。昭和37年から仮名草子研究をはじめ,この日記に出会った時には,仮名草子関係の本も5点程出してもいたので,普通ではこういう事はしない。しかし,鹿島氏からこの『日記』の原本を拝借して読み進めるうちに,私はこの女性の日記に,グングン惹きつけられていった。それは,隆子の老いてますます衰えることのない批評精神であり,モノをみる目の確かさであり,毅然と生きる女性の姿であった。そして,それらを伝える文章も見事であった。自筆写本・全12冊,日記とは言いながら,これらは全て浄書されている。誤写の部分は,切り抜き,裏から紙を貼り,訂正している。全体では64万字程になるが,誤字は,私の校訂した結果では,10数箇所に過ぎなかった。研究生活の中で,私は8年間の寄り道をしてしまったが,これは,これでよかった,と今思っている。
 江戸末期に、このように、自己の意思の通りに生きた、いわば近代的な生き方をした女性にめぐり会えた事は、江戸文学の研究者として、幸せであったと、つくづく思う。 (平成11年)

*■『井関隆子日記』の古書価
●桜山文庫の収集者・鹿島則文は明治15年11月14日、神田淡路町壱番地の古書籍商・斎藤兼蔵から、この『日記』を7円で購入している。斎藤兼蔵は、老舗・琳瑯閣である。淡路町時代の華客に、狩野亨吉・大野洒竹・伊藤松宇等と共に鹿島則文の名がある。
●横山重先生の『書物捜索』は、幸田成友氏の、明治16年の記録「好色一代男、8冊、1円。東海道名所記、6冊、1円」を引用され、昭和17年の推定時価を『好色一代男』初版を3000円、『東海道名所記』400円としておられる。昭和49年1月の反町弘文荘の古書展示即売会では、天和2年の初版『一代男』が550万円であった。約1800倍である。『一代男』と比較するのは、やや無謀かと思われるので、『東海道名所記』と比較すると、昭和17年に400円であるから、『日記』は7倍の2800円、昭和49年の『一代男』は約1800倍であるので、『日記』は500万円強ということになる。このように単純に比較換算することに問題が無いわけではないが、明治15年頃、則文がこの『日記』を、『一代男』や『東海道名所記』の7倍で購入している事は事実であり、老舗古書店の斎藤兼蔵も則文も、この無名の著者の『日記』をかなり高く評価していたものと推測される。
                               
■ぁ悵羇慘柑卞記』解説 
 
 
●一、書 誌
 
所蔵者  桜山文庫(鹿島則幸氏)。
装 訂  袋綴。大本。縦262mm×横190mm(第一冊)。
表 紙  第一冊〜第三冊は白茶色布目表紙。第四冊〜第十二冊は幹色(薄黄茶色)布目表紙。
匡 郭  なし。一行の字の高さは215mm前後。
題 簽  第一冊〜第三冊は縹色、第十一冊・第十二冊は濃縹色の書題簽(縦191mmX横32mm、第一冊)に、他は直接表紙に次の如くある。
    第一冊…「天保十一年   壱」
    第二冊…「天保十一年   弐」
    第三冊…「天保十一年   参」
    第四冊…「天保十一年   肆」
    第五冊…「天保十二年   伍」
    第六冊…「天保十二年   陸」
    第七冊…「天保十三年   漆」
    第八冊…「天保十三年   捌」
    第九冊…「天保十四年   玖」
    第十冊…「天保十四年   拾」
    第十一冊…「天保十五年  一」
    第十二冊…「天保十五年  二」
冊 数  十二冊。
墨 付  合計 九六六葉。
    第一冊…88葉。
    第二冊…99葉。
    第三冊…77葉。
    第四冊…76葉。
    第五冊…100葉。
    第六冊…94葉。
    第七冊…105葉。
    第八冊…66葉。
    第九冊…75葉。
    第十冊…71葉。
    第十一冊…84葉。
    第十二冊…31葉。
    外に、第一冊巻頭に遊紙一葉を切り取った痕跡がある。また第十二冊の九月と十月の間(28葉と29葉の間)に白紙一葉、巻末に遊紙一葉がある。
行 数  毎半葉11行。
字 数  一行約29字。
句読点  「、」
挿 絵  合計一八図。
    第一冊…2図(11葉表・11葉裏、24葉表)。
    第二冊…5図(14葉表、31葉表、34葉裏、59葉表、69葉表)。
    第三冊…3図(13葉裏、19葉裏・20葉表、53葉表)。
    第四冊…5図(5葉表、7葉裏、22葉裏、26葉表、38葉表)。
    第九冊…2図(59葉表、62菓表)。
    第十冊…1図 (6葉表)。
蔵書印・識語  第三冊を除く各冊第1葉に「桜山文庫」の朱印。第一冊前表紙右上に、白紙を貼付「丙十八 十二」と墨書、表紙に直接「五十八号 共十二本」と朱書。
   縦262mm×横174mmの白紙が添付されており、墨書(一部朱書)にて鹿島則文氏の次の識語がある。
 
   「距天保十五年絶筆三十八年距明治維新斯書散逸十四年(朱書)/この書は明治十あまり五とせ神道事務局の幹事てふ職にてしはし都にかり住せしころ/十一月十四日に神田淡路町壱番地斎藤兼吉といへる書商より七円にてあかなひしを家に帰/りて後つはらに読たるにかく心して書記せし人の名のおほろけになんあなれはいとゝ残りおしく其/子孫の公に仕へしさまをもて天保の武鑑に正し又其家屋敷の飯田町なるをたよりに東京(朱書にて「東京」を「江戸」と正す)切絵図を考/へとかくして井関氏なることはあかし得たれともなほたと/\しきこゝちせらるゝに今年都にまう上りついてに/小石川戸崎町喜運寺にたつねゆきて井関氏かおくつき又その寺の過去帳をさへみるに井関前総州守親経/は安政五年五月同前総州守親賢は元治二(朱書にて「元治二」を「慶応元」と正す)年十二月にみまかりしよし記せりその親経の父弥右衛門といへるは文政/九年にみまかりぬさてはこの日記かきし人のまたいふかしくうたかはるゝふしおほきに喜運寺の主のつ/まにはかりとふにその親族戸張氏神田かち町卅七番地にわひ住せれはそをとひて尋ねはしるよしあらめと言/にやかて車はしらせてそのあり所をさくりおとつれてきくにやう/\記せし人をさたかにしえたりそは弥右衛門と/言人の妻庄田氏の娘にて隆子となのれる人にそありける弥右衛門うせし後古学を専らにして歌よみ文かき/古事記伝を手にうつし朝夕にいたつき学ひて十年はかりのほとにおさ/\世にゆるさるゝ学者とはなりしとそ/かくて天保の十五年冬(朱書にて「弘化元年ナリ」と注)病こと三日ほとにてうせしかその書遺せしものは箱に納めてかりそめならすものせしも明治/の初めの世の中さはかしく親族も駿河にうつりぬれはそのころ何人か盗みいたして売ひさきけんとむかししのひてしめり/かちに物語りぬけにこの日記は十一年より十五年十月まて一日もおこたらす物せられしをやかて病ころまてかゝれし/とおほし誠に男もかく長き月日をたゆみなく美はしく書いてんはいかにとおもはるにまして女子の筆のあとには/古しへ人の清少納言紫式部にも立おとるましう思はるゝになほその人のしたはるゝ心地そせらる然はあれといたつ/らに紙反古の中に入て見る人もなくなりたらんには口おしかるへきにおのかこと書好む人の手にいりてかくまて調へたつ/ねて書庫の中におさめられたらんは書し人もいかにうれしとこそおもふならめとそのゆへよしをかいつけおくになむ/明治十五年冬十月廿九日相模大祭事の日雨ふる□との下に 桜宇主人鹿島則文/桜宇(朱印陰刻)」
 
 第一冊後見返しに、縦217mm×横169mmの白紙が貼付されており、墨書にて鹿島則文氏の次の識語がある。
 
「(右上に切絵図の写しがあり、その下に)第二ノ巻 天保十一年六月九日/ひんがしの隣は榊原ノ某/とふ人すめり此ノ中垣/いと間近きに其垣に添/ていみじう大きなる/胡桃ノ木あり云々」
「寺ハ小石川戸崎町禅宗/喜運寺」「井関弥右衛門菅原親経――下総守/天保十二年六月ヨリ御広敷御用人/此人ノ妻ハ戸田氏栄ノ姉/後浦賀奉行伊豆守ナリ――親賢次郎右衛門/御小納戸 紋丸ノ内二劔梅鉢」
更にその上に、縦158mm×横89mmの白紙が貼付されており、墨書にて鹿島則文氏の次の識語がある。
「天保十二年丑四月以前ノ大成武鑑所載//井関縫殿頭/父弥右衛門 二百五十表/いゝだ丁/天保八年八月ヨリ二丸御留守居//井関貞之丞/父縫殿頭 三百表/いゝだ丁/天保十年正月ヨリ御小納戸衆//右之通相見エ候」
 
第十二冊本文最終葉裏及び巻末の遊紙に墨書にて、鹿島敏夫氏の次の識語がある。
 
「井関氏 菅原姓 紋丸ノ内劔梅鉢 屋敷飯田町 菩提所小石川戸崎町喜運寺//弥右衛門/禄二百五十俵/文政九年二月廿九日卒/妻隆子 庄田氏女 天保十五年冬死 智清院(天保日記筆者)//親経/縫殿頭 後下総守 妻戸田伊豆守妹栄子 号八捲斎 安政五年五月廿/五日死 天保八年八月より二丸御留守居 同十二年六月より御広敷御/用人 後浦賀奉行となり伊豆守//親賢/養子戸張氏子 貞之丞 後ニ次郎右エ門 後ニ下総守 妻養父親経女/天保十年正月より御小納戸 部屋住料三百俵 元治元年丑年十二月/廿六日死 年六十余」
「此天保日記は父君の明治十四年上京なされたる時書やにて見出られて目つらし/きものとて購れ同しく十五年十月上京せられし時其菩提所小石川なる喜運寺を/尋ね墓碑過去帳を見られ猶親賢の実家なる神田の戸張氏を訪はれ其外武鑑江戸/絵図なとを調られて此日記の筆者又其家からなと知られしものなり御日記の一/部を左に抄出す/十月七日くもる〔中略〕さてかね/\心にかゝれる井関の日記一条につき記者をさため/んと戸崎町喜運寺をとふて井関の墓をとふ草あれはてゝ薮蚊おほしさて墓碑は/前井関下総守親経号八捲斎と云安政五年五月廿五日ニ死去すと言同前下総守親賢/は元治元年丑年十二月廿六日死ス年は六十余なり妻は親経の女とあり日記にはう/まこ親賢とあり其祖父は文政九年二月廿九日井関弥右衛門とありさては天保の日記有/へくもなし寺僧をとふて過去帳をさかせるにさたかならす其子孫は静岡にあり/てさらに音信もなし只かち丁に戸張と言る人をり/\とひおとつるゝと言にさら/はそれをたつねんとて別る墓の草かり料十銭まいらす〔中略〕ひるけしたゝめ神田か/ち町卅七番地戸張某の古道具みせを出せるをたつねて井関氏の事をとふ主人の/妻忰そか娘□なよく昔話すこは親賢の実家なり井関氏は静岡にあり親賢の妻は/七十斗りにて今なほありと言その子はおさなきによりとひおとつれも久しうせ/すといへりさて天保日記のかきては文政九年にみまかれる井関氏の妻にて親経/の母刀自のよし名は隆子とて庄田氏の女にて智清院と諡せり卒中にて三日ほと/病て死せり御本丸の焼しころゆへ天保十五年頃なるべし初めはさまでよみかき/をなさねと夫死して後学問をはしめ千蔭の書をまなべりとそ古事記伝をみな写/しその外随筆せるもの凡三箱ほとありしと言瓦解後みな反古に成したるべしと/言へり日記の内の事をとふにみなあへりやう/\に作者判然せり誠に作者もおの/れかことき蔵書家にあひて心いかにうれしからんと思はるしかしなから婦人の/日記とはかけておもはさりしまことに清女にもおとらぬ人なるべし男子にて/もはつかしきこゝちそせらる〔下略〕 〔右明治十五年御上京日記抄出〕」
 
その他  角切は第一冊〜第三冊、第四冊〜第十二冊の二種類となっている。保存状態は非常に良く、虫損は極めて少ない。また、書題簽の記述、第一冊巻頭の文章、著者の没日等から判断して、本書はこの十二冊で完全本であると考えられる。
 
著 者  井関隆子(いせきたかこ)。
   原本には著者の序跋・署名等は無い。第一冊巻頭の遊紙一葉を切り取った痕跡があり、もしこれが伝わっていたなら、ここに著者に関する記述が在ったかも知れない。しかし、日記の内容を総合すると著者が何人であるかを知る事はそれ程むずかしくない。自らの歌に「源ノたか子」と記しているし、広敷用人・井関親経は子であり、家慶小納戸・親賢は孫であるという。父は大番衆・庄田安僚であり、兄は安邦であるという。著者の家・井関家は九段坂下にあり、菩提寺は小石川戸崎町の喜運寺、実家・庄田家は四谷にあり、菩提寺は本郷元町の昌清寺であるという。また、著者は巳年の生まれであり、子供の頃は五十年余り前であるという。これらの日記の内容は『庄田家系譜』『昌清寺過去帳』『井関家過去帳』及び『徳川実紀』『柳営補任』等の記述とも一致する。次に名前の「たか子」であるが、『井関隆子長短歌』 の詞書に「隆子」とあり、著者の書写本『宇津保物語考』の末尾には「天保のととせとふ年の秋なが月 隆子」と記しており、さらに蔵田茂樹の紀行文『野山の夢』に跋文を付した著者は「天保とふ歳のとゝせ冬の中ら源隆子しるす」と結んでいる。また著者の創作『神代のいましめ』について蔵田茂樹は「此一巻は井関親経朝臣の御母君におはしゝ隆子の君の筆ずさみ也」と記している。以上の点から、この日記の著者は「井関(旧姓・庄田)隆子」と断定してよいと思う。
 
書写者  井関隆子。
   原本の書写は極めて整然となされており、天保十一年二月十日の部分に重複がみられる点などから推測すると、草稿をもとにして清書したものと思われる。さらに、追加補筆の部分が同筆であり、著者自身でなけれは補い得ないような内容もあること、一字二字の誤りが生じた場合、その部分のみ紙を張替えて補修し訂正していること、この日記と同筆の写本『宇津保物語考』に「此ふみは臼井房輝ぬしのもたるをかりてうつせる也/天保のとゝせとふ年の秋なが月 隆子」とあり、同じく『恵美草』に「天保十三年三月写之 みなもとのたか子」とあること、これらの点から判断して、この日記は著者・井関隆子の自筆本と断定してよいと思われる。
 
書 名  井関隆子日記。
   原本には、書題簽に「天保十一年 壱」「天保十五年 二」等とあるのみで書名はない。したがって、この日記の書名としては、著者の名を冠して「井関隆子日記」「源隆子日記」「隆女の記」等とするか、あるいは、この日記の記された年号を冠して「天保日記」等とするのが妥当と思われる。
   鹿島則文氏はその識語の中で「天保日記」「天保の日記」とされており、私も最初これに従って「天保日記」としたのであるが、この場合類似した書名が他に多いためこの日記の独自性が失われるように思う。その後の調査で著者についても大体の事が明らかになってきたし、内容的に考えても、この時代の記録というよりも、この女性の記者の作物という点に注目すべきだと思われるので、現所蔵者・鹿島則幸氏の御承諾も得て「井関隆子日記」とすることにした。鹿島則文氏の識語は著者に関する調査の過程でのものであり、この書名変更の事はお許し下さるものと思う。
 
 
●二、『井関隆子日記』について
 
 『井関隆子日記』(以下『日記』と略称)の記者・井関隆子は、江戸九段坂下に屋敷のあった旗本の主婦で、年齢は五十六歳から六十歳までの日記である。期間は、天保十一年一月一日から十五年十月十一日までの約五年間。日記であるが毎日記されている訳ではなく、例えば十一年は三五五日間の内、一八五日について記されており、一日の分量も小は二行程度のものから大は十二葉に及ぷものもあり、必ずしも一定はしていない。各年の分量は最初の十一年が最も多く四冊、以後は各二冊と半分になっている。これは十二年以後、年中行事などの記述を省いたためである。
 内容は、その日の天候、地震、四季折々の変化、その日その日の出来事、行事、種々の見聞、随感、幼い頃・若い頃の追憶、人物・社会・政治・学問・文学等に対する批評、折々に詠じた和歌等々が、著者の意のおもむくままに記されている。
  むね/\しきことは公に記され、はたさらぬ事どもゝ、世の人の賢き筆におのがじゝ記すべかめれば、とりたてゝ何ごとかはいはれむ。然れどもつれ/゛\なるものゝすさびには、はかなき事をも記しつゝ、心をやるよりほかの慰めなむなき。今年は天保てふ歳の十年あまり、一年になんなれりける。いでやこの大江戸にて、天の下の大政事、しろしめしはじめさせたまひし、其かみより引つゞき、御代/\の平らに治まり、いや年のはの御栄、いへばさらなる中にも、今のおほん上(家慶)太政大臣(家斉)の御譲りうけさせ給ひて、若君(家定)はた去年初冠らせたまひ、三所の御前並びたゝせ給へるためしなき御有様、新しき春の光りさへ加りて、天の下ゆすり、祝ひことほぎ奉れる年のはじめの、いみじう愛度御事は、賢き筆にもえつくすまじきを、ましておれ/\しき心にかたはし記さんもおよびなく、中/\に畏くてなむ。かくたぐひなき御世に生れあひて、子(親経)も孫(親賢)も立ならひ仕うまつりて、此家にはいまだためしなき、あつく広き御恵みかうぷりぬれば、いふかひなき老の身も、あけの袂みどりの抽におほはれて、おもふことなく心やすきに、今朝あさ日のさしのぼる空を見て、
    玉くしげあくるけさしも君が代の千世にかぞふる日のはじめ哉
 『日記』はこのように書き始められている。夫・親興に先立たれて十三年、家庭の中は、子・親経(二丸留守居)も孫・親賢(家慶小納戸)も健在で、特にこれといって為す事もない、そんな著者は、古典の世界に遊び、歌を詠み、そして、この『日記』を記すことが生活の全てであったようである。
  今己がみじかき心、つたなき筆して書くことは、世に散すべき物ならず。こゝの幼き人の、其子どもなどの末の世に、此家の今の有かた、世の中のことなどもいさゝかしらむためにとて記しおけど、かゝる反故どもは紙魚の住かはさるものにて、鼠のうぶ屋にやひかれん。よしさばれ、せん方なさのすさびになむ。(11年2月12日)
といって、この『日記』は自分の子孫のために記しているのであり、世間の人の目にさらすべきものではないとしているが、これはその前の、
  いにしへの哥に詠みたる事なしとて、名のいやし気なき物は、哥に詠み板にも彫りおかまほしきことになむ。
以下の文章に照応して生まれた、著者の自省の言であるといえる。『日記』全体をながめても、殊に自分の子孫にのみ語りかけ、伝えるという点はみられない。むしろここから、著者は初めから人に読まれる事を想定して記している事が知られるのである。
  古き世の物語文どもを見るに、其かみは世のならはし人の有様など、ありのまに/\おもしろうもをかしうもとりなし、書出せる物になんあるらし。さるを世のいたう移りもてゆくまゝに、人の心こそさのみは変らざるらめ、世の掟よりはじめ、人のたゝずまひも、古とは異なる事あまたにて、大方のさま違へることなん多かるべき。然るを今文書物語など作らむにも、たゞ古のおもむきにのみならひて、今の愛度御世の有様ども記さゞらんは、あかず口惜しきわざになんあるべき。(11年3月3日)
 
 『日記』は、当時の国学者が多く用いた、いわゆる雅文で記されているが、この文章でもわかるように、内容は現実社会の種々の出来事を積極的に、そして自由自在にとり入れている。それはこの熟達した文章力があってはじめて可能であったと思われる。
 『日記』には、元旦、年越し、鏡開き、十四日年越し、初午、雛祭り、出替り、更衣、灌仏会、流鏑馬、端午の節句、両国の川開き、山王祭り、七夕、四万六千日、草市、廿六夜待、十五夜、重陽、十三夜、神田祭り、玄猪の祝、子祭り、宮参り、事始め、煤払い等。また、桜の花見頃の上野・隅田河・牛が淵・牛嶋・早稲田等の様、牡丹の谷中・北沢村、巣鴨の菊、浅草の見せ物、吉原の乾店、両国・佃島の釣り舟の様等々この期の江戸の様子が所々に活写されている。
 この天保十一年から十五年までの五年間は、歴史の上からみても問題の多い時期であるが、『日記』には政治の中枢としての江戸城中の動静がしばしば記されている。これらは主として、親経・親賢父子よりの聞き書きであると思われるが、『徳川実紀』『柳営補任』『徳川幕府家譜』その他の記録類と比較してみると、この『日記』の記述はかなり正確であると言い得る。
 記す内容は、将軍及びその一族の行動、幕府の諸政策、大名の転封、旗本の任免、城中での事件等々であり、これらの中には従来の公の記録にみられない他の一面が伝えられている。十二年閏一月に家斉が没すると首席老中水野忠邦は天保の改革に着手し、家斉時代の政策を次々と改めてゆくが、十四年七月の上知令の失敗から閏九月その職を解かれている。『日記』にはこの間の様子が詳細に記され、忠邦への厳しい批評も加えられている。
 今、一例として、この時期に他界した徳川家の主要人物の没日について記すと別表の通りである。(HTML版では別表省略)具体的には『日記』本文を参照して頂けば解る事であるが、家斉に関する部分のみ引用してみたい。家斉の没日は現在のところ、どの歴史書も辞典類も十二年閏一月晦日というのが通説である。これは『徳川幕府家譜』の「同(天保)十二辛丑年閏正月晦日薨御」や『徳川実紀』閏一月三十日の条の「大御所御危篤の御ありさまなるとて。群臣総出仕ありて御けしきうかゞふ。辰刻ばかりに遂に 大御所かくれさせ給ふ」等の記録に従ったためであろうと思われるが、『日記』には次の如くある。
  此ほどいみじき御気色におはしますとて御薬師かたぶき申、御方の人々はいかに/\と打歎くなど聞えしが、たちし七日の夕日のくだち、ひかりかくれさせ給へりとほの聞ゆ。後の御おきてども大方ならぬ御事なめれば、世に秘させたまひて未だおはしますに変らず。上もたび/\わたらせ給ひて何くれの御沙汰どもあめり。はた御祈よりはじめ日毎の御使、例に変らずといへども、大方世にもれ聞ゆめれは、ゆゝしう畏さにおのづから打しめり、物の音たつる人もあらざるべし。(閏1月10日)
  かの西の大殿の上の御なやみの事、昨日あまねく世にしらしめたまふ。今日なべての人々御気色うかゞふとて参上れり。(閏1月20日)
  廿八日打つゞき空の気色さへはれ/゛\しからず、をり/\雨ふりぬ。今日も御気色うかゞふとて、西の大城に人々参上れり。此ごろ梅のはな盛也ときけど、かの御ことに憚られて心をさへにやりかねたり。(閏1月28日)
  晦日すこし曇りぬ。かの御ンこと世にしられむは今日なめりといひさわぎて、此ほどより軒の板間垣のくづれといはず、そこねたるわたりは急ぎつくろはせ、はた食物よりはじめさりがたき物はみな求めあへり。さるは商人もなべて、しばし生業をやめ、打ひそみをるめればとて、さるまうけをなすなめり。西の大城には昨日より御病急におはしますとて、上俄にわたらせ給ひ、さらに御薬の御事よりはじめ、さるべきかぎりの御おきてども仰せおこなはせ給ふなど聞えしが、今日辰のくだちかくれさせ給ふ御こと、あまねく天の下にしらしめ給ふ。都への御使は御遠侍に仕うまつれる某くれがし二人、いそぎ旅だちぬとぞ。其外国々へつげ給ふ御使、公私といはず、四方八方にはせちがふ様あわたゞしう、誠に天の下ゆすりて、いみじとはおろか也とぞ。紀の殿も一日おはし付ぬとか、尾張ノ大納言殿水戸の中納言殿、其外の君だち御族の御方々みな参上らせ給ひ、司々の人々も、井伊の中将よりはじめ、残るなう所せきまで侍らひ給ふ。御子たち中ら過て失させ給へれど、猶多かる君だち、さらぬ御わかれにくれまどひ給ふめるに、はたあらたまりたる今日のいみじさに、さらに御秋もぬれそはり給ふめり。(閏1月晦日)
  今日は例のよろこび申にことかはり、御気色うかゞひ奉るとて大城に集ふ人多しとぞ。あるじも参上りぬ。…(中略)…御喪にこもり給ふ御かた/゛\多かめるに、天のした高きみじかき仕うまつれるかぎり、月代そらず髭だにはらはず、日数はそれ/゛\の御おきてあり。こゝにも御ン三七日のほどは、やつれたるまゝにて仕うまつりぬめり。御墓は芝の御寺なりと聞えしが、俄に上野に定りぬとぞ。さるは大御台所の御ねがひによりて然りとなむ。後の御わざ御墓のいはがまへなどすべていみじき御事共なれば、御葬は日数経ぬべしと聞ゆ。(2月1日)
  廿日昨日いみじう風吹おそろしかりしが、今日はやみぬれど、空の気色はれ/゛\しからず、おもひなしにかあはれ気なり。きのふけふ大路に人おと聞えず、家々に煙たゝず、たゞむら鳥の声のみ聞えて、しらぬ御山に入けむもかゝるらむ。午のくだち御葬也と聞ゆ。古き御あとによらせ給ふめれど、いにしへよりも猶こと加りて、いみじき御事まねばむは中/\浅かるべし。けさ上、右大将の君にも西の大城へ渡らせ給ふ。…(中略)…御内通りは、山里吹上より、矢来の御門まで二十町斗のほどたゝみ敷わたし、空に雨おほひし、皆白栲にかざりまつりて、御柩の御事引奉ることゝぞ。夫より御輿にすゑ奉り御読経有て、竹橋一ツ橋筋違などいへる御門々、ちまたはさら也、御山の内までかため、さるべき人々うけ給りぬとぞ。…(中略)…御霊屋は数の限りあればか建られず、先つ御祖のと、一つ殿に座さしめ給へりと聞ゆ。(2月20日)
 廿一日天気静也。きのふいさゝか雨降りしが夕付てやみぬ。今朝御気色うかゞひあり。御定によりてこゝの人々も月代そりぬ。かの御葬、けさの卯のはじめまでに、事無ふはてさせ給へりとぞ。(2月21日)
 
 家斉は閏一月七日に没したが、幕府は十九日に病気である事を公にし、晦日にその死を公表したというのが事実のようである。また『日記』は家斉の墓所も最初芝増上寺の予定であったが、御台所の願いによって、急遽上野寛永寺に変更になったと記している。さらに、西丸奥医師筆頭の吉田成方院が後日咎めを受けるが、その原因について、
  吉田成方院と聞ゆるは、西の大殿の一の御薬師にて、又ならぶ者なかりしが、御病おもらせ給ひては、御枕のほとりをさらで常にさぶらひしに、いかなるおこたりならむ、いまはの御とぢめをえ知で、いつかきえいらせ給ひて後、人の見付奉りしに驚きけるなど、其頃沙汰しけるが、同じう御咎あり。(5月15日)
としている。以上が家斉死亡に関する『日記』の記述であるが、『徳川実紀』『徳川幕府家譜』の記録との間には、かなりの相違がある。別表からも解る如く、『徳川実紀』に記す没日は、泰姫・若姫を除けば、実際に死亡した日ではなく、その死を公に発表した日であると言えそうである。暉姫は五月四日に没していると思われるのにもかかわらず、『徳川実紀』では七日の条に「この日暉姫君御けしきすぐれさせたまはざるにより。鴈間詰。奏者番まうのばり御けしきうかゞふ。」としているし、家斉は閏一月七日には、すでに他界していると思われるのに、『徳川実紀』は十三日の条に「大御所御不予により高家大沢修理大夫御使して。日光准后に御祈祷科銀五百枚。純子十巻をおくらせらる。」とし、さらに十九日には「大御所御不予によて使番川勝舎人上使として。増上寺方丈に御祈祷料として銀百枚を遣はさる。」としている。また池田斉訓は『日記』によれば、天保十二年六月九日に没しているが、『徳川実紀』では七月三日と九日に、二度も見舞いの使者を遣わし、然る後、七月十三日に没したと記している。とかく信じられがちな公の記録にこのような虚構があり、一女性の日記に真実が伝えられている訳である。
 
 著者は、真淵・宣長・千蔭等の著書について学んだため、その、ものの考え方には国学的思想が大きな影響を与えているように思われる。したがって、仏者・儒者には概して好感を示さず、それらに対する批判には厳しいものがみられるが、さらに、それは「かいなで」の国学者・歌人にまで及んでいる。(11年2月26日の条など参照)具体的な一例として、国学者・林国雄への批判(11年11月6日)を引用したい。
  今の世の人さま/゛\物の考へなどもし、あるは哥の上てにをはなど、詳しきがうへにも、猶みづから思ふすぢなど考へそへ、はた物の註釈など次々出来つれば、初学のともがらには、いとたよりなむよかめる。然れどもかゝる物識人の中にも、其本性により、己が思ふすぢをたてゝ、ひたぶるに傾きたるは、中/\に僻事も出くるに歟。かの玉河の水上たづねたりといひし、林の何がしは、五十韻に詳しとて其ことにつのり、阿伊宇於の文字は、古言にはかならず省く事とかたよりおもひ、…(中略)…吾だけう世の人をいひおとして、詞の緒環といへる書を著したりき。
この『詞緒環』を読んだ著者は、不審の点が多いので手紙で問合せると、その返事に「えもいはぬしれ/゛\しき事ども」を書いてきたので、再度問うことはしなかったという。そして、
  (この林国雄は)昔こゝにも度々来て哥よみ文講じなどせさせしが、ともすれば例のかたよりたるくせのみ常に言ひたりしを、此者一とせ身まかりぬと聞つ。世に長からましかば、はたいかなる僻事共をか物せましを、とく失たるなむ、いさゝかはうしろやすかめる。
と評している。内容は天保九年刊行の林国雄の『詞緒環』を、宣長の『玉霰』との関連において批判したものであるが、前年二月に没した国雄への批評としては、極めて厳しいものと言わなければならない。その他、『扶桑国号考』の著者・平田篤胤に対する批判(13年3月18日)、市川匡麿の 『末賀能比連』・宣長の『葛花』・沼田順義の『級長戸風』・林文康の『ますみの鏡』による論争への評(15年9月18日)、荒木田久老の『万葉集槻の落葉』への感想(13年3月18日)等々が記されている。
 また、著者は歌を能くし、『日記』には長歌をも含めて八百余首が収められている。『万葉集』『古今集』を好んだようであるが、収める歌は、この時代の一般的傾向であるが、観念的で、美意識も型にはまっており、伝統的な歌語をとり入れて一首にまとめたものが目立つ。ただ、その中にも新しい言葉によって詠もうとする努力はみられ、清新な詩情を素直に歌ったものもある。
 十四年十一月五日、著者は杉嶋勾当に短編物語を創って与えている。前田夏蔭の文会に出すものを杉嶋に依頼されたからである。分量は四十四行、内容は幕府の印旛沼開鑿を暗に批判したもので、これは杉嶋の発案であるが、この内容に著者が賛同していた事はいうまでもない。「今めかしき事を雅かにとりなさむとするに、みじかき筆のあさき心には、はかなうひとひらの文といへどもあやしう手づゝにこそあらめ、されど其つみ己が身におはぬなむうしろやすき。」と言っている。この工事は、水野越前守を筆頭に、町奉行鳥居甲斐守、勘定奉行梶野土佐守、目付榊原主計守、同戸田寛十郎、勘定組頭五味与三郎等が中心となって進められたが、この中の戸田寛十郎は家刀自(親経の妻)の兄であり、しばしば著者の家を訪れ、工事の様子を伝えている。この年の九月水野忠邦は罷免され、工事も中止された。この「今めかしき」出来事を著者は物語の中にとり入れたのであろう。その他、落語『品川心中』の原話かと思われる、品川の遊女と武士の心中(11年2月21日)や、旗本・春日左門と同・赤井某の妹との心中(11年11月17日)等は、当時の事件の顛末を詳細に記したものであるが、六葉半、五葉半という十分のスペースをとり、会話を入れ、男女の心理をも描いているのであり、これらも一種の創作と言えない事はない。さらに、十四年一月晦日の条に、
  (佐渡の蔵田茂樹が)一年こゝへまでこし頃見せつる文の中に、神代のいましめと名おふせたる、かくれ蓑かくれ笠の物語、あるが中にこゝろにそみたりとてこひおこせたれば書てつかはしぬ。
と記しているが、この『神代のいましめ』は、平安朝散逸物語の一『隠れ蓑の物語』に想を得て成った創作で、最後の佐渡奉行・鈴木重嶺の「翠園叢書」(松本誠氏所蔵)巻二六に収められている。
 また、『日記』には古典等に対する、短い批評や感想は所々に記されているが、今は『花月草紙』についての批評を紹介したいと思う。著者は、これより前、十五年三月二十一日に人から借りて書写し、同様の感想を記しているが、次に掲げるのは、十五年八月二十九日、子の親経の求めに応じて認めたものである。
  花月と名おふせつる此文は、己が幼かりつる頃大政事ことゝり申され松平越中守と聞えて世の人今も其おきてを仰ぎぬる、従四位ノ少将定信主の物せられし文也。此父君は田安中納言宗武ノ卿と南聞えつる、其三郎にあたり給ふめり。人の家を継て公に仕うまつられ、さがなき人をも教へさとし普く憐れみ深かりしかば、天の下押並て打靡きつゝ其うつくしみを慕はぬ人社なかりしが、程なく致仕せられて後も、白河殿とたゝへつゝ人皆心よせたりき。いでや此文のさますゞろごとのやうなれどはかなきこと或はあやしきこと、世の中にあらゆることを物に譬へ事によせ人の教へともなりぬべきふし/゛\こゝのも唐のもあまた書まぜられたるに、をかしう目とまる南多かりける。本より唐ざえありて手などよくかゝれ、かつやまと心もなべてにはあらざりけむ。こをすぎ/\見もてゆくに、さはいへおのづから韓心になづみたる事もまじれゝど、なほ一ふし有て近き世にいにしへ学びとて物する人の文に似ず、はた雲の上人の筆のすさびにもたがひて一つの丈高き姿なむ有ける。そも/\いにしへの文ども誰がすさびとも其人え知ざるなむ多かるは、己が名を求めざる雅たる人のしわざにこそありけめ。此花月もそれにならひて咲花の匂ひをつゝみ照月の光りを覆ひ誰がわざとも知れぬさまに物せられけむかし。然るにあかぬことには言の葉のとゝのはざるあるは自他のまぎらはしき処々まじれる南玉に疵ありとやいふべからむ。
 
 以上が『日記』の内容の概略であるが、前にも述べた如く、著者は初めから人に読まれる事を想定して筆を執ったものと思われ、著者にとって、日記を記すという事は、身辺の雑事や、社会的諸事象をそのまま記録する事ではなく、それらの「今めかしき事を雅かにとりな」す、つまり、雅文によって著者らしく表現する一種の創作であったとも言える。しかし、その文章は、美文を成すことに決してとらわれてはいない。意図することを思いのままに表現し得ている。その意味でこれは、単なる記録・日記の域にとどまるものではなく、日記文学として、今後検討されるべき価値を十分もっていると思われる。
 近世の日記文学に関する研究は、決して進んでいるとは言えない。檀上正孝氏は「近世の日記文学」(『文学語学』第49号、昭和43年9月)で、
  近世の日記文学についての研究は、現段階においては、なお概論的考察の範囲にとどまっているもののようで、個々の作品に対する精緻な研究は、まだほとんど見られない状態である。
と述べておられる。それは、この時代が秀れた日記文学に恵まれなかったという事とも関連しているものと思う。
 真下三郎氏は「近世の日記文学」(『日本文学の全貌』昭和25年刊)において、近世の日記全般について考察を加えられたが、その論考を次の如く結んでおられる。
  結局近世には日記は多く残された、にも拘らず、文学には乏しい。日記を文学とするのは無理には違いないが少いのは事実である。むしろ印刷蒐集せられない他の日記、陽の目を見ないで埋れている日記の中に、もしや自照性のすぐれた文学作品が残っているのではないか。…(中略)…こういう事を思わしめるのが、近世の日記文学というテーマにおける一つの結論になるであろう。
そして、女性の日記としては、井上通女の 『東海紀行』『婦家日記』、頼静の『遊洛記』『梅●日記』、武女の『庚子道の記』等を掲げられ、
  多感なるべき彼女たちの作品は読んでみても、いかにも味の薄さ、見方感じ方の浅さを思わせるのは淋しいことである。才女には違いないが冷たさが先立って、暖かい愛情が見られない。記録は正確で眼光は人の気づかぬ細かい所にも及んでいるかも知れないが、それだけに想像も情緒も、又思想も与えられていないのが多い。いわば人間としての作者が浮かんで来ないのである。生活や環境がそうならしめたというより、やはり文芸的資質の貧困によるのであろう。井上通女の紀行も梅●夫人の日記もリズムに乏しく乾燥平板の語につきているであろう。
と評しておられる。
 井関隆子の残したこの『日記』が、近世日記文学の上で、どれ程の位置を与えられるか、それは今後の課題である。ここに収められた長歌を含む八百余首の歌と共に、多くの研究者によって分析研究される事を切に念じている。
 
 
●三、井関隆子について
 
 鹿島則文氏は『日記』の著者についての調査を、明治十五年にしておられる。幸いその貴重な記録は原本の識語として伝えられた(四二三頁参照)。これによって井関隆子についての大略は解る訳であるが、その後、私の調査し得た事を簡単に述べてみたい。
 著者の実家の庄田家は、代々徳川家に仕えた旗本であり、庄田本家三代・安勝の二男・安議を祖とする。父・安勝は采地三千石の内、二千六百石を長男・安利に、四百石を二男・安議に分知してこれを分家とした。
 著者・隆子は四代・安僚の四女として、天明五年六月二十一日に生まれた。幼名を「キチ」という。『日記』の中で、子供の頃は五十年余り前であるといい(11年1月30日、5月26日)、自分は巳の年の生まれであるといっている(11年6月23日)が、天保十一年から五十年前は寛政二年で著者は六歳、また天明五年の干支は乙巳でいずれも符合する。父・安僚は小栗信倚の四男として元文元年に生まれ、三代・安信の養女(二代・安清の娘)と結婚し庄田家を継いだ。明和二年に小普請入り、同三年に大番に列して大坂城・二条城に在番、寛政四年九月二十五日、五十七歳で没した。母は後妻で、文政九年六月一日、七十八歳で没している。隆子は父・五十歳母・三十七歳の時の子で、兄妹には、安邦・安固・利安の三人の兄と三人の姉、一人の妹があった。
 屋敷は『庄田家系譜』安議の条に「延宝五丁巳年三月十七日於四谷表大番町屋敷六百六拾坪余納領仕候」とあり、天保四年の江戸切絵図の大番町に「庄田」とあり、嘉永二年の切絵図には「庄田金之助」(今の新宿区大京町二六・二七番地辺)とあるので、代々移転はなかったものと思われる。ただ、五代・安邦が文政二年に没した後、六代安玄は身持が悪く、弟・安明と共に築地の庄田本家に預けられ、四谷の屋敷は空家同様になっていたらしい。その様は十一年五月二十六日の条によく描写されている。
 また、庄田家は初代・安議より代々、本郷元町の浄土宗・昌清寺(今、文京区本郷一の八の三に現存)を菩提寺としており、この昌清寺には過去帳も現存し、『日記』の内容とほとんど合致する。多数存した庄田家代々の墓石はその後整理され、現在は初代・安議の一基のみを残している。
 六代・安玄は天保七年に没し、弟・安明がその養子となり七代目を継いだ。安明(金之助)は天保七年小普請入り、同十一年御目見、同十四年に西丸腰物方となり、同じ十四年の六月には四谷の家を新築して本家から引き移っている。この事は当然著者の所へも知らされ、安堵の様が『日記』に記されている。
 さて、『庄田家系譜』の著者の条には次の如くある。「女子キチ 天明五乙巳年六月廿一日出生/大御番山口周防守組 松波源右衛門妻 不嫁ニ付/西丸御納戸組 井関弥右衛門」つまり、著者は、大番衆・松波源右衛門と婚約したが(あるいは結婚したが)、何かの事情で嫁がなかった(あるいは離婚した)。そして、その後、井関弥右衛門の後妻となったらしい。代々大番に列し、源右衛門を称した家に、重貞を祖とする松波家があるが、ここにいう源右衛門がその家の人物か否かは未詳である。ただ、山口周防守弘致が大番組頭であったのは、文化四年から文政元年までの十二年間であるので、この間に大番衆であった松波源右衝門と婚約または結婚したものと思われる。そして、これが破談となり、寛政九年より西丸納戸組頭を勤めていた井関弥右衛門・親興の後妻として井関家へ嫁いだものと思われるが、親興の先妻が文化九年八月一日に没しているので、それは文化十年以後ではなかろうか。仮に文化十一年とすると、隆子は三十歳、親興は四十九歳である。この最初の縁談(結婚)の破談(離婚)という出来事は、女性の著者にとって、人生の大きなつまずきであったと思われる。五年間に亙る『日記』には多くの思い出が語られているが、この間の事情に関しては一切記されていない。その傷手の深さを物語っているように思われる。
 著者の嫁ぎ先の井関家は、実家・庄田家と同様、代々徳川氏に仕えた旗本である。始祖は近江の国の住人次郎右衛門・親秀である。その嫡男・親正は下総国葛飾郡に采地二百二十石を与えられ、大坂冬夏の陣に参戦し、尾州熱田において深手を負って没している。以後、三代・親信は細工頭、四代・親房、五代・親倫は大坂の金奉行、六代・貞経は裏門切手番頭をそれぞれ勤めている。
 七代・親興(乙三郎・弥右衛門)は新見正峰の三男であるが、六代・貞経の娘と結婚して寛政二年に井関家を継いだ。この時二十五歳、持高は二百五十俵であった。天明四年将軍・家治に拝謁、寛政六年納戸番に列し、同九年より西丸(家慶)納戸組頭となり、文政九年二月二十九日没、六十一歳。隆子との間に子は無かったようである。八代・親経(富之助・次郎右衛門。縫殿頭・下総守)は文化二年十月家慶小納戸、同年十一月西丸小納戸、文政八年二丸留守居、天保十二年広敷用人、嘉永七年職を辞す。広敷用人在職中七百俵を与えられた。安政五年五月二十五日没。九代・親賢(貞之丞、次郎右衛門。下総守・肥後守)は戸張氏の男で八代・親経の娘と結婚して井関家を継いだ。天保十年家慶小納戸、嘉永四年家定小納戸、安政五年家茂小納戸、文久三年広敷用人、元治元年御役御免となる。慶応元年十二月二十六日没。
 菩提寺は三代・親信以後、小石川戸崎町の曹洞宗・喜運寺(今、文京区白山二の一〇の三に現存)である。もとは代々の墓石二十数基があったが、数度の移転の折に整理されて、現在は、嘉永五年に親経・親賢父子が再建したと思われる一基のみを存している。その墓石には初代・親秀、二代・親正に関する墓誌が刻されている。なお、喜運寺の過去帳は戦災によって焼失してしまった由であるが、幸い昭和九年に、これより転写した『井関家過去帳』が井閑家に現存している。屋敷は九段坂下の飯田町(今の千代田区九段南一目五番地辺)にあり、嘉永二年の江戸切絵図には「井関縫殿正」とある。
 『日記』の書き始められた、天保十一年の井関家の家族構成をみると、五十六歳になる著者・隆子、二丸留守居を勤める当主の親経、親経の妻(後に日光奉行・浦賀奉行・大坂町奉行となった戸田氏栄の妹)、家慶の小納戸を勤める親賢、親賢の妻(親経の長女)、親経の三女(二十三、四歳になるが縁がなく未婚)、十一歳になる親賢の長男、以上の七名であるが、この年の四月親賢の妻が女子を出産している。これに二十年来井関家に仕えている河野某をはじめとする男女の奉公人が加わる。
 隆子が井関家へ嫁いだのが文化十一年と仮定すると、この時三十歳。四十九歳の夫・親興と十三年間生活を共にした事になる。文政九年に親興が没した後学問を始めたという(鹿島則文氏調査)が、『栄花物語』などは二十年余り前から所蔵していると記している(13年5月17日)ので、すでに親興在世中から、かなりの蔵書を所有し、古典に親しんでいた事が知られる。また、親興が没する前年に子の親経は二丸留守居にまで進んでおり、家庭は安定していた。さらに親経の妻(服部氏)が文化十四年に没したため、後妻(溝口氏)を迎えたが、これも天保六年に没し、さらに戸田氏の娘を迎えている。このような家庭の中にあって、著者は文筆もあることではあり、親経の母、親賢の祖母として権威をもって、好きな道を楽しんでいたものと思われる。
 著者は歌や古学を学ぶにあたって特定の師に就いてはいない。国学者・林国雄の講釈を聴いたり、冷泉流の女性歌人に接した事もあったが、いずれも満足できなかったらしい。真淵・宣長・千蔭等の著書を熟読することによって、古典への理解を深めていったものと思われる。ただ、この間、何人かの文化人との交流はあった。家刀自の兄・戸田氏栄は勤めのかたわら、歌を木村定良に学んでおり、一度ではあるが隆子も定良と歌を交わしている。道一つ隔てた所に屋敷のある新見正路とは親類であり、交流は深かったらしい。正路は大坂町奉行から側衆となり、五千石を食み『徳川実紀』をも記しているが、その蔵書は賜蘆文庫として知られている。おそらく隆子もこの正路の蔵書は見ていたものと思われる。また正路を介して屋代弘賢と会った事もある。著者の家に出入りして浅からず交わっている歌人に杉嶋勾当かついちがいる。盲目のため隆子から『古事記伝』『万葉集』等を読んでもらっているが、この杉嶋は前田夏蔭や北村季文・湖南の父子とも交流しており、隆子も杉嶋を通じてその歌等に接していた。佐渡の歌人・蔵田茂樹とは、茂樹が職務のため天保十年に出府した折、ある歌会の席上で知り合い、以後、隆子が没するまで文通による交流は絶えなかった。
 『日記』に引かれる主な古典は、古事記、日本書紀、続日本紀、日本紀略、万葉集、古今集、後撰集、拾遺集、後拾遺集、金葉集、詞花集、新古今集、新後撰集、続千載集、風雅集、躬恒集、草庵集、六百番歌合、土佐日記、竹取物語、伊勢物語、落窪物語、枕草子、源氏物語、栄花物語、小右記、今昔物語、台記、宇治拾遺物語、平家物語、吾妻鏡、徒然草、太平記等々であり、これらが自由にとり入れられているところに、著者の力量の程がうかがえる。また『古事記伝』を書写して学んだと伝えられているが、『浜松中納言物語』の欠落した部分を補って書写したものを『万葉集略解』の書写本と共に、家斉の夫人・広大院に親経を通じて献上してもいる。現・井関家の安吉・元御夫妻のお話によれば、代々二つの行李を大切に伝えてきたが、その中には多くの短冊、冊子本、巻物、絵、墨付などが入っていた。第二次大戦当時、東京三ノ輪に居住しており、昭和二十年二月十五日の空襲は免れたが、三月九日の大空襲で全て灰燼に帰してしまったとの事である。おそらく、その中には隆子のもの、親経・親賢のもの等が入っていたと推測されるが、惜しんでも余りあるものがある。なお、この『日記』は明治維新の動乱の折、何等かの事情で井関家から持出されたものと思われる(鹿島氏調査)が、その後、隆子の書写本『宇津保物語考』(静嘉堂文庫蔵)、『恵美草』(国会図書館蔵)が現存する事を確認し得た。これらも同様の事情から他家の所蔵するところとなったのであろうか。さらに、著者が佐渡の蔵田茂樹に書き送った中編物語『神代のいましめ』及び『井関隆子長短歌』が佐渡奉行・鈴木重嶺の「翠園叢書」(松本誠氏蔵)に収められているが、これは茂樹の子・茂時が献上したためである。以上のような経緯から『日記』をはじめとする隆子の著作・書写本が今日に伝えられたのは、不幸中の幸いであったと言える。
 著者は幼い頃の思い出として次のような事を記している。ある日、四谷・長安寺の僧が堂宇再建の資金集めに托鉢して回ると、親類の嫗が目に涙をためてありがたがる。それを見た著者は「全くかの堂の出来たらばこそしかもほめ給はめ。日毎といふ斗奉らせ給ふ物をも、うまき物などにかへてや賜べ給はむかし。」という。嫗は立腹して「あなもたいな、幼きものゝさるさがなきこといふ物かな、此子は常にさくじりおよづけたる口つきこそはしたなけれ、あなにく。」と叱りつける(11年6月8日)。また、母が非常に蛇を嫌ったので著者は折々これを打ち殺した。母は「己がためにはうしろやすけれど、女子の似げなきわざなせそ、ことに巳はおことが歳なるを。」と注意するが、これに対して著者は「己が歳に侍れば、猶己が心にまかせてむに、なでうことかあらむ。」と返答している(11年6月23日)。
 この男勝りとも言うべき性格はその後も持続されたようである。『日記』にみえる著者は、年齢の関係もあると思うが、決して女々しくはない。目先の感情におぼれず、批判精神の強い、それだけに気位の高い女性であったらしい。が、このような性格であっただけに、青春のつまずきは、それなりに著者の内部に大きな衝撃を与えたものと思われる。そして、それが著者をして歌や古典の世界へ目を向けさせる動機になったのかも知れない。松波家との婚姻が不調に終わり、井関家へ嫁ぐまで約十年の年月があったものと思われる。『日記』に述べる「はかなき事をも記しつゝ、心をやるよりほかの慰めなむなき。」「つれ/゛\なるものゝ慰めには、はかなき書より外の友しなければ、」という老いの心境は、勿論次元は相違していたであろうが、すでに青春において味わった事であったかも知れない。『日記』は天保十五年十月十一日の条を、
  十一日昨日はいさゝかむら雨うちし、はた晴き。今朝はいさゝか雲たゝず風静なり。うへ大将ノ君駒ノ原にれいの御ことゝて御狩あり。御遠侍なる氏族かれ是御供にあたれり。親賢も仕うまつりて夕付てかへりぬ。
と記している。平凡な一日の記述である。隆子は二十日後の十一月一日に他界した。卒中のため三日ほど病んだのみだという。おそらく、病の床に臥すまで『日記』は記し続けたものと思われるが、清書はされなかったのであろう。亡骸は井関家代々の菩提寺・喜運寺に葬られた。法名は「知清院殿悟菴貞心大姉」という。享年六十歳であった。

■ァ悵羇慘柑卞記』関係資料
 
【著 作】
1,『井関隆子日記』原本,昭和女子大学・桜山文庫所蔵。全12冊。校注本・深沢秋男校注,勉誠社(昭和53年〜56年)
 ◎『井関隆子日記』上巻 昭和53年11月30日 勉誠社発行 定価4500円
 ◎『井関隆子日記』中巻 昭和55年 8月30日 勉誠社発行 定価4500円
 ◎『井関隆子日記』下巻 昭和56年 6月 5日 勉誠社発行 定価4500円
  平成4年品切れ絶版。(再版の予定なし)
2,『さくら雄が物かたり』原本,東北大学図書館・狩野文庫所蔵。全39葉。新田孝子氏校訂 『図書館学研究報告』(東北大学)第10号,昭和52年12月。
3,『神代のいましめ』原本,昭和女子大学・鈴木重嶺文庫所蔵。全27葉。深沢秋男校訂 『文学研究』第46号,昭和52年12月。
4,『いなみ野』原本,吉海直人氏所蔵。吉海直人氏校訂 『同志社大学・日本語日本文学』第8号,平成8年6月。
5,『井関隆子長短歌』原本,昭和抑女子大学・鈴木重嶺文庫所蔵。深沢秋男校訂 『文学研究』第53号,昭和56年10月。
6,『野山の夢』(蔵田茂樹著)・跋文 原本・昭和女子大学・鈴木重嶺文庫所蔵。深沢秋男校訂 『文学研究』第46号,昭和52年12月。
7,和歌一首 蔵田茂樹著『恵美草』に書き加えたもの。
8,和歌三首 木内有渓編『秋野の花』(天保4年刊)に収録。
 
【書 写 本】
1,桑原やよ子著『宇津保物語考』静嘉堂文庫所蔵。1冊。
2,蔵田茂樹著『恵美草』 国立国会図書館所蔵。1冊。
3,隆子は『浜松中納言物語』・『万葉集略解』の書写本を,11代将軍家斉の正妻・広大院に献上しているが,現在所在は未詳。
 
【作者伝記資料】
1,『井関家過去帳』井関家所蔵。深沢秋男校訂。 『文学研究』第53号,昭和56年6月。
2,井関家墓石 井関家菩提寺・喜運寺に現存。
3,『庄田家系譜』 庄田家所蔵。正本と副本がある。
4,『昌清寺過去帳』 昌清寺所蔵。深沢秋男校訂。 『文学研究』第53号・昭和56年6月。
5,庄田家墓石 庄田家菩提寺・昌清寺に現存。
6,井関親経・短冊。北野克氏所蔵。
 
【調査・報告・論考】
1,「鹿島則文識語」鹿島則文,『井関隆子日記』原本に付されている。
2,「国立国会図書館蔵『恵美草』の書写者について」 深沢秋男 『参考書誌研究』(国会図書館)第11号,昭和50年6月。
3,「桜山文庫所蔵『天保日記』とその著者について」 深沢秋男 『文学研究』第42号,昭和50年11月。
4,「井関隆子研究覚え書」 深沢秋男 『文学研究』第44号,昭和51年11月。
5,「井関隆子研究覚え書(2)―新資料『神代のいましめ』の紹介―」 深沢秋男 『文学研究』第46号,昭和52年12月。
6,「『さくら雄が物かたり』―館蔵稀覯本翻刻―」 新田孝子氏 『図書館学研究報告』(東北大)第10号,昭和52年12月。
7,「井関隆子作『神代のいましめ』について」 深沢秋男 『文学研究』第47号,昭和53年7月。
8,「井関隆子の文芸―館蔵『さくら雄が物かたり』の著者」 新田孝子氏 『図書館学研究報告』(東北大)第13号,昭和55年12月。
9,「井関隆子研究覚え書(3)―『井関隆子長短歌』・井関家過去帳・昌清寺過去帳―」 深沢秋男 『文学研究』第53号,昭和56年6月。
10,「井関隆子研究覚え書(4)―『井関隆子日記』と『しづのおだまき』―」 深沢秋男 『文学研究』第56号,昭和57年12月。
11,『井関隆子日記』ドナルド・キーン氏+金関寿夫氏訳 『朝日新聞』昭和59年4月4日・5日・6日(後『百代の過客』下 朝日新聞社,昭和59年8月20日発行 に収録)。
12,「『井関隆子日記』に見る天保改革の評判」 大口勇次郎氏『日本の歴史』(小学館)8巻付録,昭和59年6月。
13,「『井関隆子日記』と天保改革」 中津美恵子氏『二松学舎大学人文論叢』第28輯,昭和59年8月。
14,「井関隆子の日記」 内田保広氏 『研究資料日本古典文学9 日記・紀行文学』 昭和59年11月30日,明治書院発行。
15,「井関隆子の日記」 鈴木瑞枝氏 『天保・化政の人と書物』(私家版),昭和59年11月20日発行。
16,「江戸の女流日記―日記文学の一面―」 内田保広氏 『解釈と鑑賞』 昭和60年7月。
17,「『井関隆子日記』の中の風俗描写」 二川清氏「近世部会会報(日文協)第8号,昭和61年8月。
18,「『品川心中』の原話」 二村文人氏 『近世部会会報』(日文協)第8号・昭和61年8月。
19,「井関隆子研究覚え書(5)―桜山文庫『桜斎随筆』の記述―」 深沢秋男 『文学研究』第72号,平成2年12月。
20,『日本女性の歴史・近世』 総合女性史研究会編 「学問と女性」関民子氏 角川書店,平成5年10月5日発行。
21,『日本の近世・15』「女性の近世」 林玲子氏編「天保改革期の一旗本女性の肖像」 関民子氏 中央公論社,平成5年11月20日発行。
22,『日本の日記総覧』(『歴史読本』特別増刊・事典シリーズ21号・新人物往来社発行)「女性篇・井関隆子日記」 関民子氏 平成6年4月10日。
23,「井関隆子作『神代のいましめ』のモデル―主人公・某の少将は忠邦か定信か―」 深沢秋男 「文学研究」第81号・平成7年6月。
24,「井関隆子作『さくら雄が物かたり』考」 深沢秋男 『文学研究』第85号,平成9年7月。
25「井関隆子の人と文学(上)」 深沢秋男 『文学研究』第85号,平成10年4月。
 
◎平成11年度,大学センター試験に出題された。(平成11年1月17日)

*■Π羇慘柑匣遏愃雄が物語』の研究
 
 井関隆子は,天保9年(1838)『桜雄が物語』という雅文小説を創っている。54歳の時である。この原本は,現在,東北大学附属図書館・狩野文庫に所蔵されている。写本・大本,6巻1冊,隆子の自筆本である。「魯文」の蔵書印があるので,幕末の頃,井関家から古書店に流出し,幕末の戯作者・仮名垣魯文の所有するところとなり,さらに,狩野亨吉の手に渡り,東北大学に所蔵され,今日に伝えられたものと推測される。
 
 ●『桜雄が物語』のあらすじ
 
  花のあるじ  一ノ巻
 武蔵の国、荏原の郡に,立派な構えの家に一人の男が住んでいた。親は幕府に仕えて,かなりの地位にあったが,ある事件に巻き込まれて,それが原因で浪人し,この地に住み着いたが,やがて他界した。
 この男は,世間の目を避けて,家の仕事にも身を入れない。若いのに,非常に賢く,歌を詠み,書も上手で,容姿も美しいので,人々は〃荏原の君〃と呼んでいた。
 愛宕山一帯は,西はなだらかな山に続き,東は海が広く見渡される所で,春には桜の名所として,近在の人々で賑わった。そんな,のどかな春の一日,男は,特に友がいる訳でもなかったので,一人で,あちこち桜の花を見て歩いていた。やがて,入相の鐘が聞こえ,人影もなくなったので,家に帰ろうとしたが,一本の古木の桜があまりにも美しく,花の香も身にしむ心地がして,しばらく陶然として眺めていた。すると,花の蔭の小暗い方
に,扇をかざして花を愛でる人がいる。怪しいと思って近づいてみると,それは,
 「いとわかう,なまめきたる女房の,白きあやの下重ねに,さくら色のきぬ着たるが,あからめもせで,花を見ゐたる,やうだいおもやう,ほのかなれど,いとうつくしげに,たゞうどならず気高う見ゆ。」
 男は,つい心が動いて,近づいて声をかけると,女は,さるお屋敷に奉公しているが,昼間の人込みをさけて,夜桜の情趣を楽しんでいるとのこと。一人では心細いので,一緒に花を見ながら話し相手になって下さい,と言うので,男もその気になる。二人は,苔のむしろに添い伏して,美しい花のことなど,一晩中語り明かす。やがて,男が色に迷い,女を抱こうとすると,彼女は忽然と姿を消してしまう。あたりを見回すと,芝生の上に花文字で一首書かれていた。
  「身にかへてあやなく花を惜むかないけらば後の花も社あれ」
 男は、泣く泣く家に帰った。
 
  神あそび   二ノ巻
 男は,その夜の女の香りが身に染みついて,忘れられず,何も手に付かない。家はますます貧しくなってゆく。やがて秋になり,嵐が吹き荒れて,あちこちの大木が折れた,などと聞くと,例の桜の古木が気にかかる。せめて,その桜の種でも庭に植えて形見にしたいと思い,その場所へ行ってみたが,種も葉もことごとく木枯しに吹き飛ばされて何もない。仕方なく引き返そうとすると,突然,桜の古木はドドと音をたてて倒れる。裂けた洞のの中から赤子の泣き声がして,花のような芳香が漂う。覗い玉のように美しい男の子であったが,その容貌は例の女の面影を写していた。
 男は,喜んで,赤ん坊を懐に入れて家に帰った。近所の人々は,この子は,この世のものとは思えない,きっと,天人が誤って落としたのではないか,などと噂した。子供を育てるには妻が必要だろうという事になって,古老が海士の娘を世話してくれて結婚する。
 新年を迎え,子供はすくすくと成長し,光源氏よりも美しく,薫大将よりも芳しく,〃紀のさくら雄〃と名付けた。桜雄は琴も笛も上手で,太刀打ち・弓なども,教えると出来ない事はない。こんな桜雄の美しさに,男も女も,思いを寄せる人々が多くなってゆく。
 九月には,神田祭があり,桜雄は稚児としてその祭に出た。たちまち評判となり,見物人が,競って品物を与えたので,まるで大江の玉渕の娘のようであった。この事が知れ渡り,桜雄に心を寄せる人々が荏原の家に次々と訪れ,家は次第に豊かになってゆく。
 
  なみだの玉  三ノ巻
 神田祭も過ぎ,世間は静かになったが,それに引き替え,桜雄を一目見た人は心をさわがせた。さるべき国の守・某の僧正・くれがしの阿闍梨・世間にこの上なく尊ばれている修験者・いう甲斐なき老法師など,これらの人々で荏原の里は賑わう。しかし,桜雄は,これらの事を味気なく思い,一向に靡く気配はない。
 やごとなき山の座主は,桜雄に思いを寄せ,朝夕お修行も怠りがちで,衣に様々の宝玉を包んで与え,望みを遂げようとする。また,近所の某寺の僧正は,
  「山ざくら霞のまよりほのかにも見てし人社恋しかりけれ」
と,独り言して,本尊に向かえば,弥陀の顔が,桜雄の顔に見えてしまう。この熱い心の内を認めた手紙を何度も出すが,桜雄からの返事はない。
 その他,別当・僧都・律師など,男といわず女といわず,絶えることなく恋の手紙が届けられる。ある山伏は,白い扇に,
  「吾のみやもえてきえなんよとゝもにおもひもならぬ不二の根の如」
と,歌を記して,返事がなければ,この門前で死ぬ,と言う。仕方なく,親が代わりに返事を出す。また,老法師は,
  「あまた見し神の祭りのもろ人の君しも物を思はするかな」
と,その心の内を一首に託した。
 さて,何年が経って,桜雄を育てるためにと娶った妻にも,子供が二三人出来たが,並べて見ると比較にならない有様である。そんな中で,桜雄は,もう子供も出来たので,自分は桜の花のように散り果てたいものだ,と思うようになる。
  「いさ桜われもちりなんひとさかりありなば人にうきめみえなん」
 
  旅のやどり  四ノ巻
 桜雄は,自分を思いわびて身を滅ぼす人が多いのを耳にして,打ち沈む。浜辺へでも行って,気分を晴らすように,という親のすすめで,友を連れて浜辺へ出る。
 そんな折,京都へ行こうとする門主が,ものものしい共を連れて,この品川の宿を通りかかる。輿の中から桜雄を見て,心を奪われ,是非,京へ連れて行きたいと思い込み,何日も逗留する。
 また,ちょうど上総へ向けて船出しようとする船に乗っていた若い女は,桜雄の姿を一目見て,ものに憑かれたように打ちわななく。この様を見た親は,気に入ったのなら,聟にとってやろう,と言う。すると,これを聞いた船頭の答えには,この君を得たいと,身分の高い人々が,世にある宝の限りを運んでも,事は叶わない,とのこと。
 さて,例の門主は,是非,桜雄に会いたいものと,この宿に泊まり込み,使いを出して掛け合ったが埒はあか
ない。共の老僧も早い出立をすすめるので,一夜,思い切って門主自身が出掛けて,交渉したが,やはり,望み
は叶えられない。
 
  こがねの山  五ノ巻
 上総の船は国に着いたが,例の娘は,桜雄を恋してしまい物も食わず,次第に衰弱してゆく。親は何とか娘の願いを叶えてやろうと考える。この親は,多くの船を持って,手広く諸国と交易して,宝の蔵をたくさん持っている。親は桜雄に千両箱を贈って,娘の気持ちを伝えたが,桜雄は心を動かさない。そこで,日毎に千両箱を運んだので,黄金は軒と同じ高さにまでなった。
 今,江戸幕府の中枢にあって政治を執行している,某の少将(首席老中)の娘は,神田祭の折,桜雄を一目見て,恋してしまう。少将は、桜雄の祖父が,以前,罪を犯している事を突き止め,これを許してやる,という条件を持ち出す。これは,自分の親に関わる事なので,桜雄は非常に苦しむ。
 この噂を聞いた,京の門主も,上総の親も大変慌てる。上総の男は,もとは海賊であった。一か月にわたって,千両箱を運んだこともあり,家来に言いつけて,桜雄をさらって来るよう命じる。また,門前に押しかけていた法師たちの中には,堂塔建立の資金を使い果たした者も少なくない。
 
  さくら河   六ノ巻
 幕府から,今日明日にも召し出される,ということで,家の者は皆喜んでいる。しかし,桜雄は,親のためとはいえ,少将の所へ行かなければならないと思うと,悲しく憂鬱であった。
  「今までにちらずはあれど桜花なき物とのみおもほゆるかな」
 これに対して,親は,
  「桜花けふのかざしにさしながらかくて千とせの春をこそへめ」
 と慰める。
 いよいよ,登城の日となる。荏原からお城まではかなりの道程なので,前日の夕方出発し,その夜は叔父の某殿の家に泊まることになり,父親は衣服も整えて出発するが,桜雄はその勇ましい出で立ちを見送りながらも,ふと涙を落とす。廻りの人々は,その様子を不審に思う。
 折しも,家に盗賊が押し入り,桜雄は太刀を抜き放って,賊を追い払ったが,母親は非常に恐ろしがる。その様を見た桜雄は,自分がこの家に居るから,このような災いがかかるのだ,と意を決して家を出る。やがて愛宕山の麓を流れる川に身を投じて果てる。
 家をあげて,川の辺りをくまなく捜したが,桜雄を見つける事は出来なかった。人々は,誰かがさらって行ったのではないか,と沙汰し合った。
 この川岸に一本の桜の木が立っており,その花の散った枝に,桜雄が,いつも肌身離さず持っていた小刀が掛かっていて,その小刀の緒に結び付けられた短冊には,
  「のこりなくちるぞめでたき桜花ありて世の中はてのうければ」
の歌が書かれていた。
 今も,この川を桜川と言っている。
 
 四百字詰め原稿用紙で約八十枚の作品を短く縮めた荒筋なので,漏れた部分は多いが,概略は紹介できたかと思う。
 
 
 ●『さくら雄が物かたり』の創作意図
 
  花のあるじ (一)   なみだの玉 (三)  こがねの山 (五)
  神あそび  (二)   旅のやどり (四)  さくら河  (六)
 このような構成の『さくら雄』を通して、隆子は何を描き,何を訴えようとしているのであろうか。新田孝子氏の説く如く,桜花の美と,それに陶酔する人間の在り方を描き,桜花に対する無限の愛着を物語化したものであろうか。
 確かに,桜雄はその出生において,桜花と関連深い。かぐや姫が竹の中から発見されたように,その古木は,以前,荏原の君と女が花を愛でた桜の木である。その意味で,荏原の君と桜の精との間に生まれた子と言い得ない事もない。さらに,多くの求婚者を拒んで入水して果てる川は,美しい桜が立ち並ぶ桜川であった。出生から他界まで,この物語が桜花と深い関連をもつ構成になっている事もまた言うまでもない。問題は,その主人公・桜雄が,この物語の中で,具体的にどのような体験をさせられているか,という事である。
 桜の古木の中から発見された赤児は,やがて才色備えた美少年として成長し,江戸の二大祭の神田祭に稚児として出たのをきっかけに,桜雄の噂は江戸中に広まってゆく。
 「今もむかしも人の心同しからず。おもひおもひなる中に,世にしたがふとては,こゝろにもあらぬついそうしはた,おのれさかしうみせんとては,ことよくいつはりなんどいふ人のおほかれば,なべての人の心のおくぞしられざりける。しかはあれども,かしこきもおろかなるも,天地のおのづからなるしるしにやあらん,恋てふ物によりて人の心のまことなむ見えける。かの神ンわざも過もてゆき,世の中しづかなるに引かへ,桜雄がありさま見聞せし人々は,いたう心さわぎせられて,……」(三ノ巻)
 隆子は,人間は,表面をつくろって,なかなか本心は解らないものであるが,恋する時ほど,その心の奥底がよく見える事はないという。そして,このように美しい桜雄に心を寄せる人々の様子を長々と具体的に描いてみせている。それらの人々を整理すると以下の如くである。
 ○さるべき国の守。             ○世にいみじく尊ばれている修験者。
 ○某の僧正。                ○いう甲斐なき老法師。
 ○くれがしの阿闍梨。            ○やんごとなき山の座主。
 ○近きわたりの某寺の僧正(竹芝の大徳)。  ○京へのぼる門主。
 ○それより下ざまの弁当,僧都,律師。    ○海上の翁の娘。
 ○いう甲斐なききわの法師ばら。       ○某の少将の姫君。
 ○見ぐるしき山伏。
 「をとこ女といはずひまなく」桜雄に言い寄るこれらの人々を見て,まず注目されるのは,僧侶が多いという事である。これは,この物語の場所の設定とも関わっていると思われる。
 桜雄の家は,武蔵国荏原郡で,桜川の流れる愛宕山の近くである。これは,現在の港区虎ノ門,愛宕,芝公園,西新橋,新橋,芝大門,東新橋,浜松町に相当する地域であろうと推測される。隆子がこの物語を書いた頃,桜川は,新シ橋(現,西新橋交差点辺)→愛宕山下→御成門→増上寺学寮の外側→大門→将監橋(現,都営三田線,芝公園駅辺)を流れていたが,大正の頃に暗渠となった。この辺一帯は増上寺をはじめ寺院が多い。寛永8年(一六三一),幕府は寺院新造の禁止令を出しているが,この地域は,新造や移建が盛んに行われている。これは、浄土宗鎮西派大本山である増上寺が,徳川家の菩提寺である事と関連しているのかも知れない。とにかく,この辺一帯 は,江戸において,浅草・下谷に次いで寺社地が多い地域である。
 また,桜川とほぼ平行して東側には旧東海道(現、第一京浜)が通っていて,北から,芝口,源助町,露月町,柴井町,宇田川町,神明町,浜松町と並んで,品川宿へと連なってゆく。この街道は,桜雄が浜辺へ出た折,通りかかった,京の門主に目を止められる場所である。さらに,上総辺で手広く交易を営んでいる富豪の翁の娘が,桜雄に一目惚れする場所は,源助町内から浜御殿へかけて下水があり,この辺りが,当時船着場になっていたが,これを利用したものと思われる。
 隆子は,このように,自分が生きている天保期の,この辺一帯を物語の舞台に利用し,その江戸に,桜雄を登場させ,この美少年を取り巻く人々の様子を描いて,人の心の奥を示そうとしたものと考えられる。
 桜雄に言い寄る人物の中で,より具体的に描かれている,やごとなき山の座主とは,天台宗,比叡山延暦寺あたりの座主を想定していたのであろうか。また,京の門主とは,真宗本願寺派,西本願寺の門主を想においていたのであろうか。近き所の某寺の僧正をも含めて,僧侶の中でも最高位の高僧が,その宗教的地位と権威を利用して,桜雄を我がものにしようとしている。
 一方,上総辺で手広く海運事業を行い,財をなした富豪は,自分の娘のために,大量の黄金を積んで桜雄を獲得しようとする。
 最後に登場するのが,某の少将である。幕政を司る首席老中クラスの人物と言ってよい。少将は,自分の娘の願いを叶えてやろうと,様々画策して,桜雄の祖父の罪を許し,父に元の領地と屋敷を与えると言ってくる。
 これまで,全ての申し出でを拒み続けてきた桜雄であるが,長年の願いが叶ったと喜んで,太刀を研ぎ,馬を求めて仕官の準備を進める父の姿を見ると,これは拒む事が出来ない。
 桜雄が少将の娘の許へ行く,という噂を聞いた,やごとなき山の座主も,京の門主も,上総辺の翁(実は,もとは海賊であった)も,それぞれに手を尽くして抵抗するが,所詮,政治の力にはかなわない。
 このような状況の中で,桜雄は苦渋の選択をせまられ,入水して果てる。
 隆子は『日記』を記すにも,創作をするにも,現実社会の出来事を積極的に書き止めるべきであると主張している(『日記』天保11年3月3日)。そして,創作は「今めかしき事を雅かにとりな」すものであると考えていた(『日記』天保14年11月5日)。前述の如く,新田氏もこの事は指摘しておられるが,ただ,氏は,この作品に描かれた天保の世相の描写として,神田祭と子宝の形象化という二点を指摘するに止めておられる。
 隆子の筆は,一ノ巻の出生の経緯と,六ノ巻の桜川入水の様子を除いて,その大部分が,桜雄に思いを寄せる人々の諸相の描写に費やされている。作者の描こうとしたものが,この部分にある事は明らかであろう。
 
 ●井関隆子の仏教批判
 
 井関隆子は鋭く厳しい批評意識の持主であったが,彼女の目に映る現実の仏教界では,眉を顰める事件がしばしば発生していた。『日記』天保11年6月8日の条に,
 「すべて世の中の物,人はいへばさら也,何物も時世に従ひ,用ひらるゝ折は,さしもえあらぬ者もいみじく時めき,捨らるゝにいたりては,さるべき物といへども,なきにひとしき事,昔の人の物にたとへていへる,ことわりなりかし。近き年頃はあるが中に日蓮宗殊更に時めきぬ。さるはやごとなき上に,此宗をとりわき尊ばせ給へれば、御かたがた皆それにならはせ給ひ,はた上臈女房達是にいみじく傾きぬれば,下様の人々もそれにへつらひて,大かたかの宗旨に変ぬとぞ。……」
 この頃,日蓮宗の羽振りがいいのは,将軍家(家慶)がこの宗を尊ぶので,皆,これに従うのだという。さらに続けて,それらの中でも,中山の法華寺の祖師は,度々,江戸城へ召されて祈祷しており,上からの使いも毎日絶えた事がない。清水の君(五男・慶昌)の病気の時も,ものものしい加持祈祷を行ったが効果はなかった。それでも,まだ尊ばれているとは愚かな事である。また,家慶の六女・暉姫の病気の時には,薬の事まで指図して,医師の思い通りにゆかなかった。結局姫は空しくなってしまったが,それでも祖師は疎まれなかった。どうしたことか知らないが「いといとあやしきこと」である,という。
 大奥に仕える井上某は,本心は仏など信じない人物であるが,女房達が皆日蓮宗を信心しているのを察して,大奥へ勤める時は、わずかの暇をみつけて法華経を書写していた。これが女房達の噂となり,やがて将軍の耳に入り,異例の出世をした。これに対し,隆子は「是もとよりはかりごとゝはいひながら,またく此御経の徳とかいはまし,いかゞいはまし,しらずかし。」と評している。
 隆子は,この後に,幼い頃の思い出として,四谷・長安寺(浄土宗)の僧が,堂塔建立のためと托鉢して歩いていたが,実は女を二人も囲って,その生活費に当てていた,という出来事を記している。
 天保十三年一月七日の「ふる年あやしきことの聞えしは」と書き始められたこの条は,天保12年11月に起きた,伏見宮幾佐姫と勧修寺宮済範親王の出奔事件について記しているが,
 「かゝるすぢの事はかしこき愚かといはず,昔より過つならひなれど,出家といひ今はいむべき近しき御中といひ,えあるまじきことに人いひさわぐなむ浅ましき。いにしへも何がしの聖,くれがしの阿闍梨など,朽木のやうなるあやしき様してだに,恋の山路にはふみまどひぬるためしあり……。すべていづくにも法師どもの戒やぶり罪にあたるは,好たる道によれるなむいと多かる。」
と評している。さらに,ある人の話として,
 昔,親鸞が一向宗を弘めたが,ただ念仏を唱えよとのみ教えたので,この安易な宗教が世間に普及した。比叡山の大覚禅師は,これを仏法の正道の衰亡と心配して,日蓮に命じて新宗をひらかせた。日蓮は北条時頼・時宗に取り入って,様々な計略で一向宗の勢いを食い止めた。
 この話を聞いて,隆子は次の如く批評している。
 「……己れ是をつらつら思ふに,若此ことまことならば,仏法の方にとりては,日蓮がはたらきにあらめど,鎌倉の執権北条がはかりごとは何事ぞや。こはたとへば,きたなき物をにくみて,くさき物を愛すとかいはむ。かくあらたなる宗をたてゝ争はせむより,かの親鸞がともがらのはびこらぬほどに,とくとらへていましめたらましかば、今此二つの宗はなからましを、其頃の政事さらにゆきとゞかず,天の下ともすれば,かゝるあやしき者共も時を得たるにぞ。」
 天保11年10月26日の条には,男色について次の如く記されている。
 「今の世陰間てふものは,大方法師ばらの遊び物となれり。湯島,はた,よし町のわたりに,是を集へ置て,生業とせる家どもあり。男色とふ事もろこしには国王よりはじめ,是を愛して世をみだりしためしありとか。されば頑童を近づくるをいましめたる文ありとぞ。こゝは中昔よりくだりてのころ,是によりいさゝけきいさかひなどあなれど,さばかり世のわづらひとなるべきばかりの事はあらざりしかし。西の大殿御盛りの頃此たはれ好ませ給へりしなど聞えしが,たゞいまは此すさびすたれたるにか、おほよそ人の是にまどへるなどいふことを聞ず。」
 この後に,深川の富岡八幡の別当寺・永代寺の法師の蔭間ぐるいの様を描き(絵入り),この法師は,この遊びだけでなく,他に悪事を働き,寺社奉行・脇坂安菫に召し取られた,と記している。
 この他,『日記』には,谷中・延命院(12年3月24日),谷中・法華寺(12年8月18日),感応寺(12年10月10日)などをはじめ,法師の不行跡を記している。しかし,隆子は決して感情的な非難に走ることなく,冷静な目で批評している。彼女の批評が,深く徹底してしいるのは,このためである。
 
 ●ま と め
 
 以上,作者・井関隆子は『さくら雄』を通して,何を描き,何を訴えようとしているのか。
 私は,この作品に,より厳しい現実批判のある事を主張したいと思う。隆子は『竹取物語』を利用して『さくら雄』を創った。かぐや姫(女性)の位置に桜雄(男性)を据えている。この桜雄に恋の思いを寄せるのは,富豪の娘や某少将の姫も居たが,何と言っても,その中心は数知れぬ僧侶達であった。
 隆子が『竹取物語』をどのように解釈し,受容していたかという事は,『日記』の記述たらは判断し得なかったが,右に見てきたところからも明らかな如く,隆子は『竹取物語』に五人の貴公子への批判・風刺の様を読み取り,これにヒントを得て,しかも,主人公を男性に置き換えて,当時、作者自身が見聞きしていたと推測される,僧侶を中心に風習の伝わる男色の様を描こうとしたものと考えられる。
 作品には、桜花の美しさも,そして,それに群れ集う人々の様子も,よく描かれている。しかし,これは,隆子のいう,今めかしき事を雅びやかに表現する,一種のオブラートでもあった。
 隆子にとって,僧侶とは、仏道修行に真剣に励み,衆生済度を心掛けるような存在であって欲しいのである。修行中に弥陀の顔が桜雄に見えてしまうようでは困るのである。自分の修行はそっちのけで,桜雄に恋歌を贈り,返事がなければ自殺する,などという山伏では困るのである。延暦寺の座主の如き立場にある高僧が,信徒から奉納された浄財で,あらん限りの宝玉を贖い求めて,桜雄に贈っているようでは困るのである。西本願寺の門主のような高徳の僧が,京都へ上る途中,品川宿に何日も逗留して,美少年にうつつを抜かし,果ては,我が師の為には命も惜しまぬという弟子価値を京から荏原の里へ差し向けて,桜雄を盗み出そうとさせているようでは,これは困るのである。
 天保九年にこの『さくら雄が物かたり』を創った作者は,その後『神代のいましめ』を創って,徳川幕閣の第一の実力者・首席老中を厳しく批判している。井関隆子の資質は,鋭い感覚に支えられた厳しい批評意識と緻密で明晰な思考力にその特色があるものと考えている。『さくら雄が物かたり』は,そのような作者の作品である。
                           (H・11・7・31)

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 井関隆子は,天保10年(1839)前後に『神代のいましめ』という雅文小説を創っている。55歳の頃である。この作品の原本は,最後の佐渡奉行であった,翠園・鈴木重嶺の「翠園叢書」の中に収録されている。
 「翠園叢書」は重嶺の御子孫の松本誠氏が所蔵しておられたが,現在は松本氏から寄贈されて,昭和女子大学図書館・翠園文庫に所蔵されている。「翠園叢書」は写本,半紙本,全68巻・67冊(巻之30・巻之63は欠),袋綴。『神代のいましめ』は,その中の巻26に収録されているが,その末尾に,佐渡の歌人・蔵田茂樹の次の識語がある。
   「此一巻は井関親経朝臣の御母君にお/はしゝ隆子の君の筆すさみ也茂樹/いむさき江門に在し時御もとにまゐて/けるに見せ給ひしかいと珍らかにおほえ/つれと何くれと事しけかれはうつし/あへさりしを後に消息の序其よし/ねき侍つるにやかて御みつから書て給/へるになむ君今はなき員に入給へは/(28オ)わすれ形見とかくは物し置ぬ/弘化四年文月 松隠所」
 
 ●『神代のいましめ』の内容
 
 この一編の冒頭に「武蔵野の原」とあり,「ならぶ国なくなん栄えたり」とあることから解るように,江戸がその舞台となっている。
 主人公は公事に従事する某の少将で,経済的にも地位の上でも,また家庭の中も全て満ち足りた生活をしている。ところが,この少将は,ある時,平公誠の歌「隠れ蓑隠れ笠をも得てしがな……」を見てから,隠れ蓑笠が無性に欲しくなる。近習に相談しても効果がないので,屋敷の内の大国神に祈願したところ,その甲斐があって,これを入手する事が出来る。この隠れ蓑笠に身をかくした少将は,無二の友や,少将の所へ出入りしている歌人や,家中の全てを任せておく家長や,深い契りを交わしている女性などの所へ行き,自分に対する様々の批評や批判,また世間の人々の予想外の行動に接し,驚き,怒り,悔しがる。そんな事を続けているうちに,長男に,隠れ蓑のみを着ているところ(首のみ見える状態)を見られてしまい,それを知った少将は,変な噂の立つのを恐れて,隠れ蓑笠を神に返す,というのが,この物語の荒筋である。
 この主人公は,領地を広く持ち,将軍の覚えも第一で,世間の人々も少将に従い,全てが思いのままである。妻もしかるべき人の娘を迎え,子供も皆それぞれに立派に成人している。使用人も目やすい者を選び,遊びも雅びを好んで,歌合わせ・絵合わせなどが絶えない。住まいも立派で見所が多く,調度品も日本の物は勿論,唐の物まで集め,何不足ない生活ぶりで,少将自身「大方あかぬ事なき身」と言って,この生活に満足している。
 このように現実生活で,全ての面で満ち足りた日々を送っている人間が,次に望むことは,自分の身を隠すという如き,超現実的な望みしか残っていない。主人公は,隠れ蓑笠を入手したいと願うようになり,もしその願いが実現出来たなら,自分の思う所へ行き,知らない人の側に立ち、世間の人々の有様を見て、「公の御ため後ろめだきことをも聞出」す事が出来るであろう,もしそれが実現できたなら,さらに満足であると思う。
 つまり,隠れ蓑笠に身を隠して,世の中を見て歩く理由として,幕府に対する陰での批判を聞き出す事をあげている。これは,政治を司っている老中クラスの人物としてみれば当然の事と言えるのであり,好色的な目的が第一であったであろうと推測される,平安朝の『隠れ蓑』とは大きな違いである。
 
 ●現実社会への批判
 
 隠れ蓑笠に身を隠した少将の行動や見聞した事を整理してみると次の如くである。
1,「二つなき友」と思っている某殿の家へ第一に行ってみると,主人と共に二,三人が杯を傾けている。この
 人々はいずれも,少将の所へ出入りしている者で,楽しそうに語り合っている。
 (a),主人―「あの少将の所へはよく行っているかい? 最近,美しい妾を引き入れたそうだが,私には何の心隔てもないようであるが,少しも見せてくれないのは妬ましいことだ。」
 (b),話し相手―「見苦しいほど睦れ合っているそうだ。女性の世話は何でも叶えてくれるというので,私は長い間,それを期待して,折にふれ贈り物などしているが,未だに何の効果もない。」
 (c),別の相手―「公の人事についても,少将の気に入った者は,それ程の人物でなくでも出世しているが不公平な事だ。それに最近は,負けじ魂だけがまさって付き合いづらい。この間も碁を打っていて,私が少しでもいい手を打つと機嫌が悪いので,わざと負けたら,髭をなでながら誇らし気に笑っていたが,憎らしいものだ。」
 少将は,これらの親友と思っている人々の会話を立ち聞きして「味気なう腹だゝしう」思いながら立ち帰る。
2,その後,風邪のために公の勤めも休んだが,ようやく回復したので,今度は自分の知っている人々の家を見て歩く。
 (a),日頃,真面目で恥じらいのある者も,内々の様子を見ると,みだりで,はしたなく,まるで別人のようである。
 (b),仏の再来かとまで尊ばれている僧侶も,陰ではあだあだしき女と戯れ,酒を飲んでいる。
 (c),少将は少将で,生まれながらの色好みの性格から,他人の娘や,人妻の所へ勝手にに忍び込み,心をときめかしている。
 (d),路上で,いろいろ噂話をしている者もいるが,この少将の事を良く言う人はほとんどいない。
 (e),物を背負った行商人らしい者は「全く世知辛い世の中だ。税金は年々増えて,利益が少なく,暮らしも楽ではない」と嘆く。
 (f),旗本の身分の低い者が連れ立って歩きながら「今年の禄はもっと良いと思っていたが,悪い年よりも更にに少ない。これは政治を司る老中たちが,自分達だけ奢って,下の者を労らないからである」と批判する。
3,少将は,これらの噂や批判を聞いて,自分独りの過ちの如く受け止め,心地を悪くして,家に引き籠もってしまう。すると,次々と見舞いの人々が訪れ、見舞いの品は山のように積み上げられる。これらの品々を眺め,大した病でもないのに,心配そうに毎日様子を伺う者が居るのに接すると,少将は,意を強くして「世間は憎い者のみではない」と思い返す。
4,一日,多くの歌人達を呼び集めて歌会を催したが,席上,自分の歌が皆から賞賛された少将は機嫌をよくして,それぞれに物を与える。翌日,隠れ蓑笠に姿を隠した少将は,歌会の判者の家を窺うと,ちょうど皆で少将の歌について話し合っている。少将はそっと近づいて,会話に耳を傾けると,その批評たるや,歌会の席上の評価とはまるで反対で,ことごとに貶し,「初の五文字よ,中の句のいひかけよ,むすびの七文字よ,文のはし,いさゝかも見給はむには,かゝるつたなきこと有なんや。いかめしき御身の程には似もつかず」と少将の文才の無さを弄じている。これらを聞いた少将は「打も殺しつべく思ほせど,せめて念じて」帰る。
5,帰る途中に,若者に講義をしている学者の家がある。少将は,猶もこりずに覗くと「利によりて行へば恨み多し」という『論語』の一節を講じている。それを聞いた少将は「ただ我事」と思って,このまま聞いていたら,何を言われるかわからないと,早々に逃げ帰る。
6,このように,世間の人の心が信用できないので,自分の家の中まで不安になって,家中の様子を見て廻ると,自分の決めた掟は全く守られていず,厳禁されているはずの博奕さえ堂々と行われている。
7,そこで,家中の事は公私共に全て任せている,家老の家へ行って見ると,ちょうど,奉行をはじめ,使いの者が大勢来ている。家の中には進物が所狭しと積み上げられている。家老は妻と向かい合って何事か話し合っ
 ているので,近づいて聞いてみると,「この五百両は某殿から少将殿へ差し上げて,今度の雑役をのがれようとのものである。しかし,これは少将殿へは差し上げないで,次にまた持って来るだろうから,それを差し上げることにしよう。」と言う。妻も相槌をうって「そうそう,それがよい。これで私の望みも叶います。」と微笑む。万事がこの有様なので,少将は,人間の両面にあきれ果てて,家に帰る。
8,北の方へ行こうと思い,途中のある局に立ち寄り,日頃から深く契っている女房の所をのぞくと,女は他の男から来た手紙への返事を書いている。胸がつぶれる思いで,その書きさしの返事を盗み読みした少将は,妬ましく,また立腹する。
 
 以上が,隠れ蓑笠に身をかくして歩き廻った少将が知り得た,人間社会の裏面・実相であり,それは,少将の予想をはるかに越える事々であった。ここには,人前では,礼儀正しく,恥じらいの有る者が,自分独りになると,何の遠慮もなく,猥りがわしい行動をとる様子。この上なく尊ばれている僧侶の,陰での酒色にふける様子。課役をのがれる為に賄賂を贈る大名,また,出世のために幣をおくる旗本たちなど,社会の腐敗・頽廃ぶりが描かれており,さらに,友人や,歌人や,家老や,女房等の表裏の二面性も自ずから批判されている訳であるが,しかし,それらを通して,最終的に向けられている批判の対象は、主人公・少将自身であると言ってよい。少将への批判は,色好みで,負けじ魂のみ募り,その身分に似合わず文才もない,という個人的な面と,税金の増額からくる庶民生活の窮乏,公の人事の不公平,少ない禄に対する旗本たちの不平不満など,政治家としての公的
な面の両面からなされている。
 主人公は,すでにみた如く,将軍が第一に重用している人物であり,種々の政策批判を自分一人の過ちと受けとめる程の人物であれば,その地位は首席老中とみてよいと思われる。この幕閣第一の人物に対する批判,これがこの一編の主題であると言い得る。
 
 この『神代』は,まさに「今めかしき事を雅かにとりな」した一編と言う事が出来る。井関隆子の特色の一つは、厳しい批評精神にあると思うが,その点、この一編は注意すべき作品であると思う。
 滑稽本『人間万事虚誕計』は,前編は式亭三馬の作で文化10年に刊行され,後編は滝亭鯉丈の作で天保四年の出版であるが,これは人間の表裏の二面性を笑いの種にした作品である。隆子は同じ主題を,隠れ蓑笠という超現実的な道具を利用する事によって,現実の首席老中批判という形で一編にまとめた訳である。
 主人公・某の少将は,現実生活において,何の不足もない幸せな日々を送っている。それ以上の望みといえば,人間業では不可能な超現実的なものとなる。主人公はその望みさえも叶えられた。しかし,その瞬間から,驚き,怒り,妬み,苦しまなければならなかった。それが人間社会の真実なのだ,と作者は言いたかったのではなかろうか。
 「神代のいましめ」という題が示す如く,この作品は国学者的立場から創られている。文章も雅文体である。古典を尊重し,それらを巧みに作中に採り入れている。しかし,それは宣長の『手枕』の如く,王朝文学の補完としての筆ずさみではない。王朝文学に想を借り,超現実的な構想の上に成ってはいるが,その内容は,あまりに現実的なものである。ここに,とかく現実と遊離しがちな,いわゆる国学者流の作物と異なる,この一編の特色があり,作者・井関隆子の特色もあるものと思われる。
 
 ●主人公・某の少将のモデル―松平定信か水野忠邦か―
 
 作品の主人公は,将軍が第一に重用する人物であるから,幕府の政策を担当する,老中の中で最も地位の高い首席老中とみることが出来る。この時期の首席老中で,この作品のモデルに相応しい人物として,松平定信と水野忠邦という,2つの意見が出されている。
 松平定信説を出されたのは,新田孝子氏である。新田氏の説を要約すると,次の通りである。
 
1,『神代』の書かれた時期は,蔵田茂樹が江戸を出発した天保11年5月20余日以前であったことは確実である。
2,水野忠邦は,文政11年西丸老中,天保5年本丸老中,同10年12月老中首座となり,11年12月に、3ケ年の倹約令が公布され,天保の改革が宣言されたのは同12年5月であった。したがって,『神代』が忠邦の人物や政策を諷刺していたとすれば,それは西丸老中であった忠邦のそれであったことになる。
3,忠邦は,天保十二年に新見正路(井関家と親戚関係にある)を御側御用取次に起用し,井関親経(隆子の子)もこの年広敷用人になって七百俵を与えられている。天保14年9月に目付・戸田氏栄(新経の妻の兄)が印旛沼開鑿に関連して左遷されるまでは,隆子が特に忠邦を憎む理由はなかった。
4,「烏滸の者として描出されるその人間像には,敬愛する人物を擬するのは憚られるのだが,それも最終的には反省され,修正されるていのものであれば,あながち冒涜的であるとも言へないであらう。したがって,主人公某の少将は「たそがれの少将」のニックネームを持つ為政者松平定信と考へた方がよい。」
5、蔵田茂樹が,この物語を気に入ったというが,それは,老中水野忠邦批判のゆえとは考え難く,むしろ,歌人として名声が抜群であった松平定信を想い,そこに惹かれたものと思われる。
 以上,論拠を要約したが,長い文章故,十分でない点があるにしても,氏の論旨は,ほぼ,これで尽くしていると思う。
 
 これに対して,私は,水野忠邦説を主張している。以下に結論のみを掲げる。
 第一に,忠邦とした場合,西丸老中、本丸老中の間の政策が批判の対象になる,とされているが,これは,右に見てきた如く,10年12月には本丸老中首座となっているし,また,本丸老中の間を含めても差し支えないと思う。本丸老中昇進後,1,2年で,松平康任と共に幕政を動かしていたと推測されるからである。
 第二に,隆子は,縁戚関係にある戸田氏栄が左遷された天保14年9月以前は,忠邦を憎む理由がなかった,という点であるが,この『神代』は,そのような私的感情の捌け口として創られたものではないし,戸田氏栄の一件が発生する前も後も,忠邦に対する隆子の態度に大きな変化は見られない。
 第三に,松平定信の官位は少将まで進んでおり「たそがれの少将」のニックネームを持っていた,という点であるが,確かに忠邦は侍従であり,少将ではなかった。しかし,隆子自身「ゆくすゑはしらず,此ごろ殊にならぶ人なう時めき給へり。」(12年6月3日)と言っている如く,おそらく,天保9年〜11年には,忠邦は並ぶ人無き状態であり,それは,侍従の中の,〃一ノ人〃であり,〃少将〃に匹敵する存在であったと思われる。歴史的事実としても,もし,忠邦が天保の改革を為し遂げ,円満に職を辞していたならば、定信と同様,少将に昇進する,という事は十分に予測し得る事であり,隆子がそのように予測していた可能性もある。
 また,隆子が,主人公を「少将」とした点に関しては,このような,現実的社会との関連の他に,この作品の構想の上で影響の認められる『宝物集』の「少将」も合わせ考慮されなければならない。さらに言うならば,この「少将」は,目の前の現実を描く上での一種のカムフラージュであったかも知れないのである。
 さて,この場合,それよりも重要な事は,新田氏が「烏滸の者として描出されるその人間像には,敬愛する人物を擬するのは憚かられる」と述べられている如く,この主人公が極めて厳しい批判の対象になっているという事である。新田氏は最終的には,反省され,修正されているので,あながち冒涜的であるとも言えない,としておられるが,そうとは言えない。主人公・某の少将への批判は,色好みで,負けじ魂のみ募り,身分相応の文才もない,という個人的な面と,税金の増額からくる庶民生活の窮乏,公の人事の不公平,少ない禄に対する旗本たちの不平不満等、政治家としての公的な面の両面からなされており,これらには,反省・修正し得るものと,修正し得ないものがあり,そのような主人公に,自分の尊敬する人物を擬する,という事は考え難い。そして,それよりも,さらに重要な事は,創作心理に関する事である。将軍の権威を後ろ盾に,幕閣第一の実力者として,幕政を思いのままに動かそうとする主人公を描こうとした時,現に,目の前に,そのモデルに最もふさわしい人物・忠邦が居るのに,どうして,50年も前の,たとえ「少将」であろうと,自分の敬愛し尊敬してやまない定信を登場させる必要があるだろうか。このような創作者の心理から考えても,定信説は妥当と思えない。
 第四に,蔵田茂樹が,この物語を気に入ったのは,歌人として有名であった定信を想い,そこに惹かれたものである,という点であるが,この事は,一読者である茂樹がどこに惹かれようとも,それは,作品それ自体に何の関係もない事である。それにしても,この主人公は、歌会の席上で賞賛された歌を,その選者たち(北村季文等がモデルか?)から,陰では徹底的に批判,嘲笑されているのであり,そのような某の少将(定信)に,茂樹
が惹かれたという説も理解し難いものである。
    
 
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●井関隆子の嫁ぎ先の屋敷は、江戸城に近い九段坂下にあった。現在のりそな銀行九段支店の場所である。屋敷はおよそ500坪位だったと思われる。
 北側は九段坂上から俎板橋への広い通りに面し、こちらに玄関があったものと推測される。西側は飯田町から清水門への通りに面していて、こちらの面の方が広かった。この西側の通りの向かい側には、井関家と親戚関係にある、新見正路の屋敷があった。現在の九段会館の場所である。東隣には榊原隠岐守の屋敷があり、南隣には能勢河内守の屋敷があった。
 井関家の屋敷が、江戸城の近くにあるのは、井関家は代々、初めは小納戸衆という、将軍の身の回りの世話をする掛りであり、だんだん出世して、晩年には、江戸城の表(将軍が政治を行う所)と大奥(将軍が私生活をする所)との接点である御広敷(おひろしき)の責任者になる、という家系であったからであろうと思われる。
 隆子は、この江戸の中心の、文字通り将軍家のお膝元で、当時の江戸の様々な動きを見ていたのである。

■隆子の実家・庄田家の新宿の屋敷■

●隆子の実家の庄田家は、3千石の旗本庄田安信の本家からの分家である。本家は築地の東本願寺の近くに屋敷があったが、第4代・安勝の時、長男・安利に2600石、次男・安議に400石を分知して、これを分家とした。分家・庄田家の屋敷は『庄田家系譜』の延宝5年(1677)の条に「於四谷表大番町屋敷六百六拾坪余納領仕候」とあり、場所は現在の新宿区大京町26番地辺で、幕末まで存続していたと思われる。
●余談であるが、赤穂事件で、元禄16年2月4日、幕府は、大石良雄ら46名に対して切腹を命じるが、その時の大目付・庄田下総守は、本家4代・安利である。









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