深沢秋男研究室 鹿島則孝の研究

HOME
.廛蹈侫ール&研究分野
担当科目&時間割
主要編著書&雑誌論文
こ設ホームページの紹介
ゾ赦遜子大学図書館所蔵(桜山文庫)
昭和女子大学図書館所蔵(翠園文庫)
鈴木重嶺関係資料
南部新一児童図書コレクション
上海交通大学「日本文化資料センター」
百人一首の研究
井関隆子の研究
−2井関隆子の研究2
仮名草子研究
-2仮名草子研究2
-3仮名草子研究3
-4仮名草子研究4
鹿島則孝の研究
上田秋成の研究
鈴木重嶺の研究
案本古典文学作品・画像公開
厩掌与泙犯單栂彊貉瓩竜貘⊇
穏愼親盛(如儡子)の研究
該愼親盛(如儡子)の研究・2
●新刊紹介
●学界ニュース
日録
◆自著を語る 1
◆自著を語る 2
◆自著を語る 3
◎篆刻・遊印

鹿島則孝の研究
ー島則孝との出会い
⊆島則孝略伝
鹿島則孝の生家
ぁ愎正棔校頁厂慎』の刊行
ァ愎正棔校頁厂慎』の書誌
Α愎正棔校頁厂慎』と伊勢神宮
А愃斎随筆』の刊行
本の友社版『桜斎随筆』の概要
『桜斎随筆』総目録
『桜斎随筆』収録の絵図


ー島則孝との出会い
●鹿島則文のコレクション「桜山文庫」は、鹿島神宮関係を含む歴史的資料と国文学関係・文化史関係の2つに大別され、前者は茨城県歴史資料館に移管され、後者は昭和女子大学に移管された。これ以外の漢籍の一部は、水戸の徳川家の彰考館にも保存されている。
●平成2年10月、鹿島町(鹿嶋市)宮中の鹿島氏宅を伺った折、第69代・鹿島則幸氏から、鹿島家に関する資料のある事を知らされ、閲覧を許された。鹿島家歴代の歌集や記録、絵画など、軸を広げて見せて下さった。中で、私の注目したのは、第66代・則孝の著作であった。『桜斎随筆』全60冊、3500丁、7000ページ、幕末・維新の膨大な記録である。
●この則孝自筆の写本にめぐり会って、私の関心は、3000石の旗本・筑紫佐渡守孝門の三男・則孝に集中した。以後、則孝の伝記研究と、『桜斎随筆』の公刊という、途轍もない闘争に突入した。


*⊆島則孝略伝

 鹿島神宮・宮司家の六十六代・鹿島則孝、六十七代・鹿島則文の伝記については、かつて発表した事がある。(注1)従って、ここでは、その概要を記すにとどめたい。
 則孝略伝を述べるに先だって、鹿島神宮の宮司家・塙鹿島家の家系を『中臣鹿島連姓鹿島氏系譜』(鹿島則良氏蔵)に拠って略記する。

【1】天児屋命―【2】天押雲命―【3】天多禰伎命―【4】宇佐津臣命―【5】大御食津臣命―【6】伊香津臣命―【7】梨迹臣命―【8】神聞勝命―【9】久志宇賀主命―【10】国摩大鹿島命―【11】臣狭山命―【12】狭山彦命―【13】大広見命―【14】津彦命―【15】島根大連(允恭天皇十五年丙寅賜大連)―【16】波波良麻呂―【17】佐佐麻呂―【18】千志麻大連―【19】小主―【20】東麻呂―【21】春魚―【22】国石―【23】広庭―【24】鹿門―【25】諸躬―【26】武主(天平十八年丙戌三月丙子賜中臣鹿島連姓)―【27】大宗―【28】治嶋―【29】治風―【30】武則―【31】則高―【32】則成―【33】則助―【34】則綱―【35】則純―【36】則景―【37】則長―【38】則宗―【39】則常―【40】則行―【41】則雄―【42】則光―【43】則幹―【44】則仲―【45】則藤―【46】則国―【47】則密―【48】則弘―【49】則隆―【50】則満―【51】則熙―【52】則房―【53】則家―【54】則恒―【55】則久―【56】則興―【57】則盛―【58】則広―【59】則敦―【60】則直―【61】則長―【62】定則―【63】則備―【64】則峰―【65】則瓊―【66】則孝(荘三郎 主税之助 従五位下 大隅守 大宮司 幕臣筑紫佐渡守孝門三男 文化十年癸酉江戸牛籠逢坂ニテ出生 天保八年丁酉十二月六日則瓊聟養子トナリ下向婚姻ス 同十四年癸卯潮来館ニテ水戸斉昭卿ニ謁見ス 弘化三年丙午正月十四日参宮初メ 同四年丁未五月六日上京 七月廿一日叙従五位下任大隅守執奏鷹家 安政五年十一月六日則瓊隠居則孝襲職 十五日継目礼将軍ニ謁見 同十二月十五日将軍代替ノ礼登場謁見 万延元年庚申三月押手社祝詞社阿津社津東西社鎌足社遷宮執行 文久二年壬戌十一月禁中ヨリ米御寄附ニヨリ則文ヲ代理トシテ上京セシム 元治元年九月二日筑波ノ浪士隊鹿島ニ来ル六日出発ス巳亥幕府兵追討シ来リ宮域ニ発銃ス飛丸霰ノ如シ則孝昨夜ヨリ宿直警衛遂ニ事無キヲウ此時大舟津一ノ鳥居焼失ス 慶応元年乙丑十月濫ニ暴徒卜交通シ祭典ヲ改正シタルニ坐シ則孝職ヲ褫ハレ謹慎則文ハ八丈島ニ謫セラル 同二年丙寅二月謹慎ヲ免サル 明治元年七月四日非常御奉公ノコトヲ出願ス 十一月十七日則瓊高年ニ付代理ヲ命セラル 十二月六日奉幣勅使植松雅言参向父子祭典執行七日息栖社則孝執行 同二年正月常陸帯祭及二月十四日十五日祭典式改正 四月七日則瓊辞職則孝大宮司宣下 五月六日神宮内院洒掃ス当禰宜事ニ托シ御鍵ヲ秘シ開扉ナキヲ以テ数十年ノ塵挨山ノ如シ 六月五日則文赦免十三日帰国 七月朔日稽照館開講 八月二日祭典復古ノ儀ヲ神祇官ヘ出願 四日本氏鹿島に復スルヲ届出 廿日総神官改補禄改正ノ儀願出皆聞届ラル 九月九日復古大祭典執行 十月八日御内内陣新ニ安置破損ノ物ヲ取出ス 九日両宝蔵洒掃 十一月四日奥宮御内陣洒掃 十一月廿三日学校保存資トシテ米金を寄附ス 同三年庚午七月十一日数百年廃絶ノ神幸祭再興執行 九月四日大奉幣使参向奉幣使神祇少副羽美静宣命使大弁坊城俊政則孝則文父子勤仕ス 同四年辛未五月十六日新ニ奥宮内内陣ヲ造リ奉奠ス 六月廿八日父子三名位記返上ス 七月十七日総神官御暇乞トシテ香取神宮ヘ参拝則孝則文仝道 十二月廿九日本年職禄ノ半租ヲ賜フ 同五年壬申七月八日教部省ヨリ達アリ総神官被免神勤 十二月表座敷并表門ヲ取毀 同六年癸酉七月十二日士族編入新治県族被達 同八年乙亥五月七日新治県被廃茨城県ヘ管轄換 同六月十二日新宅ヲ造り移ル 同九年丙子九月隠居時ニ六十三年七ケ月前後在職十二年 同十七年甲申四月二日則文伊勢神宮宮司拝命赴任ス 七月家族皆任地伊勢二赴 同十八年四月十六日畿内ノ花ヲ巡覧ス 同廿五年壬辰十月二日卒年八十是ヨリ先廿一年十一月卅日中風ヲ発シ三週間ニシテ愈シモ遂ニ再発シテ此ニ至ル 三重県度会郡宇治山田市浦田町今北山ニ葬ル
実父 幕臣筑紫佐渡守孝門 天保九年六月十一日卒
実母 貞子青木甲斐守一貫女 弘化三年五月十日没
妻嵯智子 則瓊女 母香取氏 文政六年生 天保八年丁酉十二月十五日結婚 明治十七年則文伊勢ニ赴任スルニヨリ同ク赴ク 同廿六年十月十五日没年六十九年一ケ月 今北山則孝君墓側ニ葬ル)――――――――――――――――
【67】則文(則孝長男 布美麿 矗之輔 出羽守 鹿島神宮々司 神宮宮司 母鹿島氏 従四位 天保十年己亥正月十三日出生 嘉永四年吉川天浦ニ従ツテ読書 六年十一月二日元服 六年二月朔日参宮始 万延元年上京安井息軒ノ塾ニ学フ……慶応元年七月暴徒卜交通シ祭式ヲ変改スルニ坐シテ揚屋入り 二年五月廿四日八丈島ニ謫セラル 明治二年五月朔日赦サレ廿八日帰京 六月十三目帰郷ス 七月朔日稽照館ヲ開キ講学セシム父祖ノ素志ヲ達スルナリ……九年九月七日家督相続……十七年四月二日神宮宮司ニ任セラレ五月家ヲ携テ赴任ス……〔明治二十八年〕四月故事類苑編纂始メ 六月廿一日叙正五位 廿九年十一月叙高等官二等 卅年皇学拡張是ヨリ先赴任ノ時皇学館ヲ興シ教育を計ル此ニ至り基礎定マル 卅一年五月廿二日夜神宮参集所失火司庁類焼御正殿屋根ニ及ビ風宮ヘ遷シ奉ル 六月黒木御殿出来遷宮 六月廿七日依願免本官 七月三日帰郷 卅四年五月十三日特旨ヲ以テ叙従四位 十月十日前三時卒 三笠山先塋ニ葬ル享年六十二
母 嵯智子 祖父則瓊君女……)――――――――――――――――
(以下省略)


 以上、『中臣鹿島連姓鹿島氏系譜』に従って鹿島家の歴代の当主を掲げたが、第六十六代・鹿島則孝の条は、これで全文である。さらに、この系譜には、則孝の末尾に「筑紫系図」として、則孝の実父・孝門について次の如く記されている。
 「孝門 仙石淡路守政寅三男 安永四年五月廿四日生 筑紫惟門養子 従五位下 佐渡守 藤原姓 采地三千石 中奥御小姓 浦賀奉行 日光奉行 西丸新番頭 後隠居 天保九年戊戌六月十一日卒年六十四 浅草新堀端永見寺ヘ葬」
 孝門には五人の子がある。長男・徳門、二男・義処、三男・則孝、四男・正路、五男・孝本である。
 則孝は『桜斎随筆』巻二の上の第一項において「則孝略履歴」として、自らの略歴を記している。
 「壱 予ハ文化十年癸酉三月廿八日晴巳ノ刻武州豊嶋郡峡田領牛籠之里逢阪下筑紫邸に生〔父君第三子也〕初名壮三郎と称す
 〔時に初名に添て濃州西郡住寿命短刀父君ヨリ賜〕 文政十一年戊子十一月廿一日晴元服〔時に十六歳〕理髪仁科一刀太 〔家臣〕同日実名孝勝〔孝勝切興花押〕右実父より賜ふ 天保八年丁酉十二月則瓊君の聟養子となる〔時廿五歳〕実名を則孝通称主税助に改む 実父より給ふ 同月十五日婚姻整ふ 弘化三年丙午正月十四日曇初て神宮に奉仕〔時に三十四歳〕同四年丁未五月上京 七月廿二日晴叙従五位下任大隅守同十一月廿八日曇拝賀参宮〔時に三十五歳〕
  安政五年戊午十一月六日晴任大宮司家督相続〔時に四十六歳〕
  文久三年癸亥十一月廿一日惣髪となる〔時に五十歳〕
  慶応元年乙丑十月廿九日事に当りて免職位官元の如し〔時に五十三歳〕
  明治元年戊辰十一月廿七晴多年謹王之志操を相励候条神妙ニ候依之父大和守ニ相代り神宮祭奠者勿論神領所務万事可令指揮事と神祇官より賞典を給ふ位官元の如し〔時に五十六歳〕
  同二年己巳四月七日晴更に大宮司職宣下〔時に五十七歳〕本年より髻を後ろへ下げる
  四年辛未十一月廿三日散髪となる〔時に五十九歳〕
  同九年丙子九月七日願の上隠居〔時に六十四歳〕
    実名則孝帰納抓 花押
                                」


 鹿島則孝は、文化十年(一八一三)、江戸牛込に、旗本・筑紫佐渡守孝門三千石の三男として生まれた。天保八年(一八三七)六十五代・鹿島則瓊の養子となり、安政五年(一八五八)大宮司となる。慶応元年(一八六五)、謹皇の志士と交わったとして謹慎を命じられたが、翌二年免される。明治九年(一八七六)隠居し、同二十五年十月二日没、八十歳であった。この間、明治十七年、子の則文が伊勢神宮の大宮司に任命され、共に伊勢に移住していたため、宇治山田市浦田町今北山に葬られた。
 明治六年、大宮司の職を子の則文に譲り、九年には家督相続を済ませ隠居している。則孝晩年の十五、六年間は悠々自適の生活を送ったものと推測される。則孝は、生来大変筆まめであったらしく、その書き残したものはかなりの量になる。現在、鹿島則良氏が所蔵されるものを掲げると次のごとくである。
◎桜斎随筆・54巻・60冊。◎都日記・2冊。◎上京日記・1冊。万我津比の記・3冊。◎桜斎書牘集・7冊。◎桜斎雑記・1冊。◎桜斎雑録・1冊。◎則孝雑記・2冊。◎飛鳥川附録・1冊。◎家茂将軍謁見記・1冊。◎幕府朱印改渡記・2冊。◎幕府祈祷次第記・1冊。◎朝廷御寄附米記・1冊。◎末社遷宮記・2冊。◎官幣使御参向記・1冊。◎復古二年紀・3冊。◎桜斎家督記・1冊。水戸家書類・1冊。◎則文諸祝儀・1冊。◎大宮司鹿島連家系・1冊。◎日記(大宮司としてのもの。天保十三年・十五年・弘化二年・嘉永三年・四年・明治二年・三年)。その他、詠草などがある。
 則孝の生家の場所は、江戸牛込の逢坂の角で、牛込と市谷の堺、市谷船河原町だという。安政四年、尾張屋版の江戸切絵図を見ると、牛込御門から外壕に添って、市谷御門へ向かう途中の右手に逢坂があり、その角地に「筑紫帯刀」とある。また、この辺が「船河原町」で、その先が「同(市谷田町)三丁目」とあり、則孝の記述と合致する。ここが、則孝の実家・筑紫孝門の屋敷であろう。三千石の家柄であるため、屋敷も広い。この辺の街並は、現在もあまり変っておらず、中央線の飯田橋駅から市谷駅に向かって外堀通りを進むと、神楽坂の次に臾嶺坂(別名、若宮坂、行人坂、祐玄坂。切絵図には、シンサカとある)があり、次に逢坂がある。この辺が現在も市谷船河原町で、筑紫家の屋敷跡と思われる逢坂の角地は、現在、空き地になっていて、奥の方に東京理科大学の薬学部が建っている。
 則孝は、ここで生まれ、二十四歳までこの地で過ごした。則孝の父、筑紫孝門は、浦賀奉行・日光奉行等を勤め、采地三千石の旗本であった。旗本の総数約五千二百名、その内、三千石以上は約二百四十名に過ぎない(寛政年間。深井雅海氏『国史大辞典』に拠る)。筑紫家はかなり上位の家柄であった訳であるが、『桜斎随筆』巻四には、その則孝の実家の生活の様子が記録されている。
 生活用品の購入は、牛込寺町まで出かけていたが、文政の頃より、神楽坂に商家が出来たので、ここに、一日二回、買い物に使いを出したという。また、市谷田町へは一日おき、日本橋へは一か月に一度、買い物に行ったと記している。
 正月の年始の様子も伝えられている。父・孝門は、元日から連日、諸方面へ年始廻りに出かけ、年始の来客の応対は、母、兄が行い、則孝も面会する事があったという。また、その折の饗応の様、年賀状の事も書き止められている。
 さらに、筑紫家に仕える、家老、用人、給人、近習、中小性、老女、側女、次女、小間使、茶の間女、末の女などの給料についても詳細に記している。当時の旗本の生活の実例として参考になるものと思われる。
 則孝は、『桜斎随筆』巻二下において「五十一 大宮司 中古代々忌日」「五十二 三笠山墓碑」など、鹿島家の先祖代々の忌年、墓誌等を記録しているが、続いて「五十三 恭徳院様御棺槨御石碑之覚」として、父、孝門(恭徳院殿朝大夫前佐州刺吏泰翁良温大居士)の墓所、墓石等について記している。今は、則孝の父母、兄弟の忌年を引用するに止めたい。

「実方親族忌年月日
父 孝門 筑紫佐渡守 清弟霊神 天保九年戊戌六月十一日卒 享年六十四
母 貞子 青木氏 端玉媛霊神 弘化三年丙午五月十日 同六十九
兄 徳門 筑紫右近 后蓮水 厳鞆霊神 明治元年戊辰六月九日同七十一
同 義処 青木新五兵衛 后鶴山 実相院 万延元年庚申七月七日 同六十二
弟 正路 佐々木寛四郎 寛量院 明治元年戊辰六月十九日 同五十六
同 孝本 小倉氏 元通称貞之助 同七年甲戌六月三十日 同四十九年四ケ月
甥 礼門 筑紫主殿 右靱霊神 慶応二年丙寅六月廿二日 同五十三

筑紫家先塋   東京浅草区栄久町百八番地 永見寺〔禅宗宗洞〕
同       同府下北豊島郡地方今戸町拾七番地 永伝寺 同
同 〔裏方埋葬〕同牛込区横寺町三拾三番地 龍門寺 禅宗
青木家先塋   同浅草区神吉町四十七番地 幡随院 浄土宗
佐々木家先塋  同四ッ谷区南寺町三拾四番地 松巌寺 禅宗    」

 旗本の三男とはいえ、三千石の家柄でもあり、同じ武家の養子なら納得もゆくが、何故、則孝は神官の道を選んだのであろうか。鹿島神宮・大宮司家といえば、長い伝統と高い格式の家柄であり、その故であろうか。その理由について、則孝自身の書き残した文章がある。(『桜斎随筆』巻四の二)

 「弐 予が武家を厭ひ、神家に成たる原因は、実父の君、昌平坂学問所御用勤中ニ、寄合肝煎、内藤外記と云人と、学校上の事ニ付、議論せしに、父の勝利と成りしを、内藤不快ニ思ひ居たるが、同人は、浦賀奉行勤仕となりたり。父君も又、同役と成られたるが、先勤故、諸事内藤の、指引を被受たるが、此時に至り、先きの遺恨を含み、種々不都合の差図にて、甚迷惑被致、其後も、内藤の親族、水野美濃守〔御側御用取次〕の為めに、讒言せられ、青雲の妨害となりしを、目撃せし故、断然武門を廃せむと、決意の処、恰もよし、鹿島より養子の相談あるニ付、取極たるなり。」

 則孝の神官への転身には、実父・孝門の、同じ旗本・内藤外記との確執が大きく関わっていたようである。
 孝門と内藤は、昌平坂学問所に勤務の折、意見の対立があり、結果は孝門の主張が通ったが、内藤はこれを根にもち、やがて、浦賀奉行となった時、先役の立場を利用して、いやがらせをしたという。さらに、内藤外記は、親類の水野美濃守忠篤に働きかけ、水野の讒言によって、孝門は出世の道を阻まれたという。水野忠篤は、家斉の小納戸から小性、大坂町奉行などを勤め、文政四年五月に側衆となり、八千石を与えられていた。家斉に重用され、第一の側衆として、心のままに振る舞っていた。天保十一年、家斉が没すると、首席老中・水野忠邦は、家斉側近の三佞人を処分しているが、水野美濃はその一人である。孝門は天保九年に没しているので、ちょうど、水野美濃守が専横を極めた時代にあたる。正論を主張したが故に、出世の道を閉ざされた父の姿を、少年・青年時代の則孝は見ていた。「断然武門を廃せむ」という表現に、その時の則孝の強い意思が示されていると思う。
 鹿島則瓊が大宮司家の後継者として、筑紫荘三郎に白羽の矢を立てたのは、単に、三千石の幕臣の三男坊という事のみでは無かったであろう。その人品、学殖ともに吟味の上であったと思われる。則瓊も歌文を能くした人物であった。両者相通うものがあり、この縁組は結ばれたものと推測される。

 (注1)「鹿島則孝と『桜斎随筆』」(平成5年6月25日発行。私家版)

鹿島則孝の生家

 則孝は、幕臣・筑紫佐渡守孝門の三男として、江戸牛込逢坂に生まれた。その生家の様子を、則孝自身、次の如く記している(『桜斎随筆』巻四)

「則孝が実家、筑紫の邸は、牛込逢阪の角にて、牛込と市谷の堺なり〔右隣は、市谷田町三丁目、実家は、牛込の部也。門前町、家は市谷船河原町也〕。右故に、諸物品を買には、毎日、東の方〔即左方也〕牛込寺町と云ふ所へ、小使男〔中間の中より撰び定め置也〕を遺す事也。文政年中より、寺町の手前なる、神楽阪といふ所〔市谷田町四丁目、失火後取払ひになり、神楽阪を代地に賜ふ〕に、町家繁昌して、諸物品を商ふゆゑ、寺町迄不行して、諸事足り、これにて買也。神楽阪へは、毎日昼前昼後と、両度づゝ遣す。西の方〔即右方也〕市谷田町へは、隔日に遣す也。若し、其時に買物申付ざれば、翌日まで買事能ず、至極不自由に覚たりき。又、日本橋最寄をば、山の手辺にては、下町と称し〔これは、九段阪より下たと云ふ心か〕、筑紫などにては、一ケ月に一度宛、買物に遣す也〔小使にあらず。外の中間二人づゝ、御膳籠を担ひ行く也〕。其時には、前日に、明何日、下町使出し候、と奥向は勿論、長屋住居の家臣へも、戸毎に触る也〔買物は、数品ゆゑ、間違無き為に、金銭に紙札を付、何品何銭と書付、奥向は、何印、家臣等は、苗字抔、巨細に認置て、使の者に、申付るなり。又、隣家などの、小高旗本抔も、頼入て買事もあり〕。此日、忘れて買ざれば、次の月迄、買事能はず、甚不都合也き。日本橋迄、大凡壱里余もあり、此日は、京橋以南、芝辺までも、使の者は行く事也。ゆゑに、短日には、未明に出て、夜に入て帰る也。
○予が幼年迄は、門前の商戸大方貧にて、不便也〔食物店は、豆腐屋、麩屋、居酒屋のみ、米屋は一軒あり、酒屋へは二町余〕。然るに、天保の末より、可成り、鮓屋も出来、従前よりありし居酒屋抔も、少く中等に成たり。外に料理屋も出来、追々繁昌す。これは、近年、米価騰貴に随ひ、武家の金融、よろしく成りし故、自らに、食物店の繁昌する也〔此門前町、家貧窮もの也。先年、再度の飢饉の時、筑紫より、白米弐百俵宛、二度施行せり。其以後、俄に富有の評判高く成りしと云〕。前条の如き故、天保以前には、実に俄の賓客などある時には、饗応に困却致されしを、予も幼年ながら覚居れり。
毎年、正月初には、年始の来客絶間無く、父君には、日々諸家へ祝詞として、御出故、来客には、母君、兄君、御面会被成〔予も面会する事有〕。甚繁忙也。殊に母君には、毎早朝より、髪結、入浴、粧ひ被成、七日迄は、地赤の服に、白無垢重ね着用にて、客来れば、かひどりを着給ひ、面会せられ、饗応には、冷酒、燗酒、吸もの、取肴〔二種〕出す〔先年は、雑煮も出しが、近年、互に略す〕。刻限によりては、昼飯も出す〔これは前日より、頼の申込書状来る〕。婢も皆、衣服改、〔役柄に寄り、惣模様、裾もやう等給分つ〕。又、毎朝、親族、知己等へ奥向より、年始状差出す。夕刻には、返書来る。日中には、諸家より、年始状来る〔直に返書遣す〕。近親へは、文のみならず、品物の贈答もあり〔奉礼とて、右筆の女、兼て認置ども、万端、母君差図被成候。右故、其多忙思ひ遣るべし。予など、たま/\、歌がるた、双六、など、初て遊ばむとするほどに、忽ち客来の障りにて、止むるを残惜く思ひたり。故に夜を更して遊るあり〕。
八日よりは、略服にて、男は服紗小袖〔朔日迄は慰斗目〕、女も模様に被成候。十六日よりは、平服に成るなり〔酒肴も出さず、茶菓のみ出す也〕。大体廿日頃迄、客来あり。
○暑寒の見舞も、客来、右同断也〔但、酒肴は出さず〕。昼飯は、頼あれば出す〔年始、暑寒とも、来客の供方どもは、皆弁当持参也〕。別して、暑中見舞の客は、早朝より入来故、未明より起出て、待受居る也〔右の如きゆゑ、年始は勿論、暑寒中に、母君には、昼飯は大方時刻に食し給ふ事稀なりき〕。
○家来共給分、譜代の家老〔壱人ツヽ用人供より登揚〕、玄米七拾俵より百俵迄ニ而、其人物ニ寄て不同也。用人〔三人或は四人〕同五拾俵より四拾俵迄。給人〔弐人或は三人也〕同四拾俵より廿五俵迄〔米は何れも四斗入〕。近習〔人員不定〕金八両より七両迄、外に弐人扶持米にて。中小性、金六両弐人扶持〔妻あれば、近習も中小性も一人扶持増遣す。近習已下、戸毎ニ塩噌代金少々づゝ遣す。○主人の髪を結者へは、別ニ金を遣す。但、米価は高下ニ不抱、俵数は定まり也。又、糯米は、何俵何斗と家族の員数に随ひて、外ニ毎年遣す事也。○米は主従の分とも、米搗男を抱置て搗せ、其給金は主家より遣し、家臣どもは無代価にて搗せる也。糯も同断也。○家老より近習侍迄は、主人の衣服を毎年恵遣也〕。
女共の給金は、老女〔壱人或は側女ニて兼帯〕壱ケ年金拾両より八両迄。側女同三両。次女同弐両弐歩。小間使〔小女、小性〕同壱両弐歩。茶の間女〔御膳の菜ごしらへ致也〕同弐両弐歩。末の女同弐両也。外に押并て、菜代として、一人に付一ケ月銭弐百文宛遣す也。又、主人之心添にて、老女より小間使迄へは、毎年主人の衣服或は物品を遣す也。〔右の如くの少給金にては、縮緬以上の衣服は、中々着用する事は、出来ぬ訳なれ共、大方は、その親共が、上等の事、見習の為に、奉公させる故、衣服、髪結等は、自分より持出にて、勤る也。婢共の中、大方は相模産にて、同国は、習らはしにて、一度江戸へ出奉公せざる婦人をば、嫁に貰はぬ抔云とぞ。夫ゆゑ、実父母共が、物を費しても、見習に奉仕させるよし。尤も、屋敷に因りて、給金よりも、多分の衣服諸品をも恵み遣すもあり。予が母君などは、毎年、あまたの衣服、物品を恵賜ひ、縁付時などには、品々恵み給ひしを、予も覚居れり。其恩を忝思ふゆゑにや、婢ども、長く重年して、勤仕致し、暇を遣して後も、江戸内は勿論、他国の者迄も、毎年機嫌伺に参りたり。其一事にても、慈恵の程思ひやられたり〕。
前に記す如く、筑紫より下町へ、買もの使出す時には、前々日頃、隣家の藩禄旗本共へ通ずるゆゑ、隣家の、久世忠右衛門〔広政と号す、高三石俵、御小性組番士也〕方より、度々男もの頼越したるが、其品々の中にも、住吉町の竹村喜兵衛見せの灸を、毎度頼れたり。母君、久世は小身者の事故、憐み給ひて、いつも代価を断り、進物になし給ひけるが、或夏、灸の礼謝とて、母君の日頃、嗜まるゝ技豆を贈るとて、興歌
                       源広政
 戴てばかりいぶきのさしも艾沢山すゑて豆に成けり
中々の風雅人にて、和歌も可なりによみたり。又、三絃もひきたり 長唄(ママ)
如斯、近隣へ迄も、慈善の御心深かゝりし母君の陰徳、今に至りて、其陽報、予に、意外の幸ありけるにや、いとも畏し。 」

 則孝の生家の場所は、江戸牛込の逢坂の角で、牛込と市谷の堺、市谷船河原町だという。安政四年、尾張屋版の江戸切絵図を見ると、牛込御門から外濠に添って、市谷御門へ向かう途中の右手に逢坂があり、その角地に「筑紫帯刀」とある。また、この辺が「船河原町」で、その先が「同(市谷田町)三丁目」とあり、則孝の記述と合致する。ここが、則孝の実家・筑紫孝門の屋敷であろう。三千石の家柄であるため、屋敷も広い。この辺の街並は、現在もあまり変っておらず、中央線の飯田橋駅から市谷駅に向かって外堀通りを進むと、神楽坂の次に臾嶺坂(別名、若宮坂、行人坂、祐玄坂。切絵図には、シンサカとある)があり、次に逢坂がある。この辺が現在も市谷船河原町で、筑紫家の屋敷跡と思われる逢坂の角地は、現在、空き地になっていて、奥の方に東京理科大学の薬学部が建っている。
 この屋敷跡の道の分岐点に「逢坂」についての史跡の標柱(新宿区教育委員会)が建てられていて、
「昔、小野美作吾という人が武蔵守となり、この地にきた時、美しい娘と恋仲になり、のちに都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で再び逢ったという伝説に因み、逢坂と呼ばれるようになったという。」
と説明されている。この伝説に関しては『江戸名所図会』などに詳しく記されている。また、この逢坂の反対側の高台には、現在、東京日仏学院があり、その下の角に筑土神社があり、そこに「堀兼の井」の史跡がある。

 則孝は、ここで生まれ、二十四歳までこの地で過ごした。則孝の父、筑紫孝門は、浦賀奉行・日光奉行等を勤め、采地三千石の旗本であった。旗本の総数約五千二百名、その内、三千石以上は約二百四十名に過ぎない(寛政年間。深井雅海氏『国史大辞典』に拠る)。筑紫家はかなり上位の家柄であった訳であるが、ここには、その則孝の実家の生活の様子が記録されている。
 生活用品の購入は、牛込寺町まで出かけていたが、文政の頃より、神楽坂に商家が出来たので、ここに、一日二回、買い物に使いを出したという。また、市谷田町へは一日おき、日本橋へは一か月に一度、買い物に行ったと記している。
 正月の年始の様子も伝えられている。父・孝門は、元日から連日、諸方面へ年始廻りに出かけ、年始の来客の応対は、母、兄が行い、則孝も面会する事があったという。また、その折の饗応の様、年賀状の事も書き止められている。
 さらに、筑紫家に仕える、家老、用人、給人、近習、中小性、老女、側女、次女、小間使、茶の間女、末の女などの給料についても詳細に記している。当時の旗本の生活の実例として参考になるものと思われる。
 則孝は、『桜斎随筆』巻二下において「五十一 大宮司 中古代々忌日」「五十二 三笠山墓碑」など、鹿島家の先祖代々の忌年、墓誌等を記録しているが、続いて「五十三 恭徳院様御棺槨御石碑之覚」として、父、孝門(恭徳院殿朝大夫前佐州刺吏泰翁良温大居士)の墓所、墓石等について記している。これらに関しては、いずれ、詳しく紹介したいと念じているが、今は、則孝の父母、兄弟の忌年を引用するに止めたい。

「実方親族忌年月日
父 孝門 筑紫佐渡守 清弟霊神 天保九年戊戌六月十一日卒 享年六十四
母 貞子 青木氏 端玉媛霊神 弘化三年丙午五月十日 同六十九
兄 徳門 筑紫右近 后蓮水 厳靹霊神 明治元年戊辰六月九日 同七十一
同 義処 青木新五兵衛 后鶴山 実相院 万延元年庚申七月七日 同六十二
弟 正路 佐々木寛四郎 寛量院 明治元年戊辰六月十九日 同五十六
同 孝本 小倉氏 元通称貞之助 同七年甲戌六月三十日 同四十九年四ケ月
甥 礼門 筑紫主殿 石靱霊神 慶応二年丙寅六月廿二日 同五十三

筑紫家先塋  東京浅草区栄久町百八番地 永見寺〔禅宗宗洞〕
同      同府下北豊島郡地方今戸町拾七番地 永伝寺 同
同〔裏方埋葬〕同牛込区横寺町三拾三番地 龍門寺 禅宗
青木家先塋  同浅草区神吉町四十七番地 幡随院 浄土宗
佐々木家先塋 同四ッ谷区南寺町三拾四番地 松巌寺 禅宗 」

 旗本の三男とはいえ、三千石の家柄でもあり、同じ武家の養子なら納得もゆくが、何故、則孝は神官の道を選んだのであろうか。鹿島神宮・大宮司家といえば、長い伝統と高い格式の家柄であり、その故であろうか。その理由について、則孝自身の書き残した文章がある。(『桜斎随筆』巻四の二)

「弐 予が武家を厭ひ、神家に成たる原因は、実父の君、昌平坂学問所御用勤中ニ、寄合肝煎、内藤外記と云人と、学校上の事ニ付、議論せしに、父の勝利と成りしを、内藤不快ニ思ひ居たるが、同人は、浦賀奉行勤仕となりたり。父君も又、同役と成られたるが、先勤故、諸事内藤の、指引を被受たるが、此時に至り、先きの遺恨を含み、種々不都合の差図にて、甚迷惑被致、其後も、内藤の親族、水野美濃守〔御側御用取次〕の為めに、讒言せられ、青雲の妨害となりしを、目撃せし故、断然武門を廃せむと、決意の処、恰もよし、鹿島より養子の相談あるニ付、取極たるなり。」

 則孝の神官への転身には、実父・孝門の、同じ旗本・内藤外記との確執が大きく関わっていたようである。

 孝門と内藤は、昌平坂学問所に勤務の折、意見の対立があり、結果は孝門の主張が通ったが、内藤はこれを根にもち、やがて、浦賀奉行となった時、先役の立場を利用して、いやがらせをしたという。さらに、内藤外記は、親類の水野美濃守忠篤に働きかけ、水野の讒言によって、孝門は出世の道を阻まれたという。水野忠篤は、家斉の小納戸から小性、大坂町奉行などを勤め、文政四年五月に側衆となり、八千石を与えられていた。家斉に重用され、第一の側衆として、心のままに振る舞っていた。天保十一年、家斉が没すると、主席老中・水野忠邦は、家斉側近の三佞人を処分しているが、水野美濃はその一人である。孝門は天保九年に没しているので、ちょうど、水野美濃守が専横を極めた時代にあたる。正論を主張したが故に、出世の道を閉ざされた父の姿を、少年・青年時代の則孝は見ていた。「断然武門を廃せむ」という表現に、その時の則孝の強い意思が示されていると思う。
 鹿島則瓊が大宮司家の後継者として、筑紫荘三郎に白羽の矢を立てたのは、単に、三千石の幕臣の三男坊という事のみでは無かったであろう。その人品、学殖ともに吟味の上であったと思われる。則瓊も歌文を能くした人物であった。両者相通うものがあり、この縁組は結ばれたものと推測される。

ぁ愎正棔校頁厂慎』の刊行
●『神宮々司拝命記』は、明治17年、息子の則文が47歳の若さで、伊勢神宮の大宮司を拝命したが、この、大宮司就任の要請から着任するまでの経緯を、父の則孝が詳細に記した貴重な記録である。貴重な記録ではあるが、このような特殊な内容の文書は、どこの出版社も出してはくれない。そこで、私は自費出版する事にした。昭和女子大学図書館の加藤幸子氏・現在の鹿島神宮権宮司・鹿島則良氏の協力を得て、平成10年7月25日、『神宮々司拝命記』を私家版として発行した。

■ァ愎正棔校頁厂慎』書誌

 『神宮々司拝命記』は、鹿島則良氏所蔵の桜山文庫に収められている。鹿島則孝の編著で「桜斎書牘集」の一部である。「桜斎書牘集」は、第四冊から第十冊までの七冊が現存しており、その内の五冊目と六冊目が『神宮々司拝命記』である。第四冊目は「教院録」とあり、明治十二年から十七年にかけての書簡等を収め、第七冊目、第八冊目は「皇典講究所入黌記・上下」で、鹿島則泰(則孝の孫、則文の長男)の皇典講究所入所中の記録、第九冊目は「大学校入一条」とあり、則泰の東京帝国大学入学から卒業に至る記録、第十冊目は、明治十七年、十八年の則泰から、則孝・則文に宛てた書簡等を収めている。
 以下に、『神宮々司拝命記』の書誌を記す。

所蔵者 桜山文庫(鹿島則良氏蔵)。
編著者 鹿島則孝。
最終調査年月日 平成八年二月十九日。
体裁 写本(鹿島則孝自筆本)、半紙本、上・下二冊、袋綴。「桜斎書牘集」七冊の内、五冊目(上)、六冊目(下)。
表紙 青色布目原表紙、縦二三九ミリ×横一七〇ミリ(上)。
題簽 左肩に子持枠(版刷り)、文字は墨書の原題簽。縦一七二ミリ×横四〇ミリ。子持枠は縦一六五ミリ×横三二ミリ。「桜斎書牘集 伊勢記 五」「桜斎書牘衆 伊勢記 六」
内題 五冊目は、1葉オ、中央上部に「神宮々司拝命記 上」、六冊目は、2葉オ(1葉は遊紙)、中央上部に「神宮々司拝命記 下」とある。
目録題・尾題 無し。
匡郭・丁付 無し。一行の字の高さは、一八〇ミリ前後。
紙数 五冊目……墨付51葉(他に、巻末に遊紙1葉)。六冊目……墨付41葉(他に、巻頭に遊紙1葉)。合計九十二葉。
行数 毎半葉9行。補説部分は二行割書になっている。
字数 一行22字前後から30字前後と一定していない。二行割書の部分も、30字前後から40前後と、これも一定していない。
本文 漢字交じり平仮名が大部分であるが、片仮名も使用。振り仮名をわずかに使い、濁点を付すが、句読点は無い。また、印等は朱で書いたところもある。
挿絵(挿図) 五冊目……25葉オ・ウ(伊勢都会郡宇治今在家町領寓居)、30葉オ(古市備前屋舞台)、37葉オ(住吉神社配置図)、38葉オ(舞子の帯)、42葉オ(段組の図)、43葉オ(神宮祭主・朝彦親王拝謁の図)、49葉オ・ウ、50葉オ(浦田町神宮教院内東寮の図)、50葉ウ(司庁教院総図)。
       六冊目……31葉ウ(赤福餅)、37葉オ・ウ(献備の品物の図)。
序・跋 無し。
蔵書印 五冊目は、2葉オの右上に、六冊目は、3葉オの右上に、陽刻円形朱印「桜山文庫」。直径三〇ミリ。

Α愎正棔校頁厂慎』と伊勢神宮

   一、伊勢神宮宮司拝命

 伊勢神宮は、度会氏と荒木田氏が、神主の家柄として代々神に仕えてきた。しかし、明治維新と共に、この世襲制度は廃止された。
 明治四年五月十四日布達の、太政官令第二三四号(注1)は、その趣旨を次の如く伝えている。
 「神社ノ儀ハ国家ノ宗祀ニテ一人一家ノ私有ニスヘキニ非サルハ勿論ノ事ニ候処中古以来大道ノ陵夷ニ随ヒ神官家ノ輩中ニハ神世相伝由緒ノ向モ有之候ヘ共多クハ一時補任ノ社職其儘沿襲致シ或ハ領家地頭世変ニ因リ終ニ一社ノ執務致シ居リ其余村邑小祠ノ社家等ニ至ル迄総テ世襲卜相成社入ヲ以テ家禄卜為シ一己ノ私有卜相心得候儀天下一般ノ積習ニテ神官ハ自然士民ノ別種卜相成祭政一致ノ御政体ニ相悖リ其弊害不尠候ニ付今般御改正被為在伊勢両宮世襲ノ神官ヲ始メ天下大小ノ神官社家ニ至ル迄精撰補任可致旨被 仰出候事」
 また、当日付の第二三五号では、職員として、
「○神宮
  祭主      相当正三位 一員  掌統領祭祀総判宮事
  大宮司     相当正五位 一員  掌申詞知祭祀判庶務
  少宮司     相当正六位 一員  掌同大宮司
  皇太神宮禰宜  相当正七位 五員
  豊受太神宮禰宜 相当従七位 五員  掌奉仕神殿修祀事検庶務
  雨宮権禰宜   相当正八位 各五員 掌同禰宜
  同上主典    相当従八位 各八員 掌助事修庶務
  同上権主典   相当正九位 各八員 掌同主典
  宮掌      相当従九位 掌雑役          」
このように改組している。さらに、明治十年十二月八日付の太政官達、第九十一号では、
「神宮並官国幣社神官ヲ廃シ更ニ祭主以下職員官等月俸左ノ通被定候条此旨相達候事
    神宮
  祭主    壱員    三等  八拾円
  宮司    壱員    六等  三拾円
  禰宜    五員    九等  拾五円
  主典   弐拾員   十三等   八円
  宮掌   三拾員   十六等   七円
 と、組織を改め、俸給を決めている。

 鹿島神宮、宮司家の第六十七代・鹿島則文が、伊勢神宮の宮司を拝命したのは、明治十七年、四十六歳の事であった。
 鹿島則孝の編著『神宮々司拝命記』は、明治十七年三月十七日付、内務省社寺局の諌早生二・井上真優から鹿島則文宛の、伊勢神宮宮司就任要請の書簡の記録から始まっているが、この書留至急便は、三月二十日午後七時鹿島に着いた。ここから、則文の伊勢神宮宮司への道は始まった訳である。
 書簡の文面は、この度、神宮の宮司を採用することになったが、その人材に乏しく、貴兄(則文)以外に適任者はいないという事になった。神宮の跡役は暫くの間、権宮司の藤岡好古に担当させているので、神宮宮司就任の件、至急検討して欲しい、というものであった。
 この時、則文は東京へ出ていたので、父の則孝は至急便でもあるので開封し、内容確認のうえ、これを則文へ転送した。則文は、二十三日、井上真優を訪ねて事の詳細を問うている。井上によると、田中頼庸が宮司を辞職して以来、後は藤岡好古権宮司がその役に当たっているが、どうも評判が芳しくないので、宮司の人選を進めているところであるとのこと。
 田中頼庸は、明治七年、神宮大宮司に任じ、十年に官制改革によって神宮宮司となっているが、十五年に神道神宮教管長に就任、同時に神宮宮司を辞した。伊勢神宮の諸記録によると、十四年十二月七日付の書類には「神宮祭主朝彦親王代理/神宮宮司 田中頼庸」とあるが、十五年以後は、神宮禰宜中田正朔や権宮司藤岡好古が代わって署名している。
 このような事情があり、田中頼庸の後任として、則文に白羽の矢が立ったという事であろう。
 則文は、二十五日に、内務省社寺局長・丸岡誓爾の六番町の自宅へ呼ばれ、鹿島神宮の宮司の後任の件も含めて、さらに詳しい打合せをして、これを父の則孝に報告しているが、その中で、藤岡好古が権宮司に就任するにあたって、桜井局長へ五百円の賄賂を贈っているが、私の場合、先方から話があったのだから、全くその必要はない、と記している。当時の神社界の一面を知る事ができる。
 このような経緯の後、鹿島則文は、明治十七年四月二日付で、太政大臣三条実美より、神宮宮司を任命された。


 五月六日、横浜より三菱の汽船・東海丸で出発、七日午後二時、四日市着、白木屋に一泊。八日は陸路を、白子、津、松阪、新茶屋と進み、午後六時に伊勢に到着。九日より、神宮宮司としての仕事が始まっている。
 『神宮々司拝命記』五月二十六日の条に、
 「廿六日、出庁、コレヨリ先、祭主宮司職制十九日付ヲ以テ達セラレ、局長へ郵便廿二日夜届ク、兼テ内話アリテ待処、廿四日不在中司庁へ達ス、廿五日、日曜ニ付、本日各課へ通達上申ナシ、本日庁務ノ決判ヲナス首メナリ、コレ迄ハ祭主ノ代理ニ非ル故、上申下達ハ勿論、庶事内検ハナセトモ決判ハ代理ノ東禰宜ノミナリ、局長出庁ノ上、各課へ諭達アリ」
と記し、祭主と宮司のみを掲げ、以下省略されているが、明治十七年五月十九日の内務省達に、次の如くある。
「今般神宮職制別紙之通被定候条相達候事
 (別紙)
 神宮職制
 祭主    一員
  大御手代トシテ祭祀ニ奉仕シ祭事ヲ総判スル事ヲ掌ル
 宮司
  祭祀ニ奉仕シ諄辞ヲ奏読シ及庁務ヲ総判スル事ヲ掌ル
 権宮司
  掌宮司ニ准ス
 禰宜
  御前二祗候シ神膳ヲ供撒シ殿内一切ヲ管シ臨時祈祷祓除ヲ為シ及庁務ヲ処弁スル事ヲ掌ル宮司欠席スル時ハ上席ノ禰宜代理タル事ヲ得
 主典
  神饌ヲ調理シ大麻暦ヲ製造シ及庁中各課ノ事務ニ従事スル事ヲ掌ル
 宮掌
  雑務ニ従事スル事掌ル                    」
 父・則孝は、代々伝えられた家の宝物(三代将軍の掛け物等)を親戚の筑紫重門に預け、七月二十日に鹿島を出発。二十五日、横浜より蓬莱丸で伊勢へ向かっている。
 則文は、最初、三、四年という話で、伊勢神宮の宮司を引き受けたが、明治三十一年五月、内宮炎上という不祥事が発生、その責を負って職を辞するまで、十五年間の長きに亙ってこの要職を勤める事になる。この『神宮々司拝命記』は、その就任の経緯・経過を記録したもので、様々の点で興味深い内容をもっているが、それは本文を参照して頂き、以下に、則文在任中の事績の一、二を簡略にまとめておきたい。

   二、式年遷宮(明治二十二年、第五十六回)

 則文が宮司就任後、五年目の明治二十二年に、伊勢神宮の大行事、第五十六回式年遷宮が行われた。戦前の式年遷宮に関しては、胡麻鶴醇之氏の調査(注2)に詳しいが、明治二十二年度の概略は以下の如くである。
 明治二十二年の式年遷宮の準備は、それより十四年前の明治八年から開始されていて、様々な手続きは、田中頼庸宮司等を中心に進められている。明治十五年四月、新宮造営に必要な材木伐採の御杣山は、信濃国西筑摩郡小川村字床沢并打越官林及び木曽谷官林と決定。鎮地祭は、十九年三月五日に行われた。
 「甲第三号
  鎮地祭日時上申
  皇大神宮豊受大神宮御造替鎮地祭ノ儀、明治二年度ハ同年正月廿二日執行相成候、然ルニ今度ハ御地形御築立可相成ニ付、遷宮ノ当年ニテハ御不都合ニ候ハ、寛正三年遷宮ノ節四ケ年前長禄三年鎮地祭執行ノ例ニ拠リ、明治十九年三月五日トシ、時間ハ明治二年度ニ準拠シ、皇大神宮ハ卯刻ニ付午前八時、豊受大神宮ハ午刻ニ付正午十二時ニ執行仕度、別宮ハ漸次ヲ以御治定相成度、祭式ハ山口木本木造三祭ノ如ク旧式ニ拠リ取調次第書并日時付相添此段上申候也
    明治十九年一月八日
                           神宮宮司 鹿島則文
  内務大臣 伯爵 山形 有朋殿                    」
                       (明治己丑/遷宮公文類纂十一)

 仮御樋代木伐採式は二十年十一月九日に実施され、準備は着々と進行した。式年遷宮の節、儀杖兵は、陸軍歩兵大佐・渡部進以下総員百七十八名が派遣された。また、神楽並びに秘曲が初めて奉納されたが、以後、これが踏襲されている。
 「伏テ惟ミルニ神宮ハ 天祖 神霊ノ在ス所、皇統ノ基ユル所、是以 列聖尊奉敢テ怠リ玉フ事ナシ、中世以降古典旧儀ノ燦然ルヘキ者赫々相廃止シテ復タ拾収スヘカラス、王政維新首トシテ旧典ヲ回復セラレ綱挙リ目張ル、尋テ式年 御遷宮ノ如キ古ヲ稽へ今ヲ照シ一時衰廃セシ典儀今ハ則チ炳然世ニ明ナルヲ得タリ、洵ニ国家経綸ノ一大美事卜謂フヘキナリ、神霊感格シテ 宝祚ヲ冥護シ玉フ疑フ所ナシ、然リト雖トモ独り遷宮ノ際神楽ノ式ナキ豈 昭代ノ一大欠典ニアラスヤ、古語拾遺ニ曰ク、磯城瑞垣朝漸畏神威、同殿不安、仍就於倭笠縫邑殊立磯城神籬奉遷天照大神及草薙剣令皇女豊鍬入姫命奉斎焉其遷祭之夕人皆参終夜宴楽歌曰、ミヤヒトノオホヨスカラ爾イサトホシユキノヨロシモオホヨスカラ爾、又延喜大神宮式ニ斎宮女孺四人供五節舞云々、又同式ニ凡三節祭并解斎直会之日鳥子名舞童男童女十八人装束青摺衣装在前摺備臨祭給之云云、又百錬抄ニ曰ク、仁治三年五月十日丙申将軍家被行大神宮臨時祭舞人装束已下移鞍等被調下云云、ト是ニ因テ之ヲ観レハ上世 神宮ニ於テ神楽ヲ奏スルコト燎焉タリ、仰キ願クハ 朝廷御尊崇ノ厚キト旧儀復古ノ御主意トニヨリ、之ヲ 上聞ニ達シ 奉幣ノ夜御神楽大曲御執行アラン事ヲ神意ヲ奉慰シ国家ノ静謐ヲ祈請スルハ神官ノ職ナリ、是以敢テ叨リニ請フ所アリ、尊厳ヲ冒涜シ戦兢ノ至リニ任へス、則文誠惶誠恐頓首再拝
   明治二十二年三月二日
                      神宮宮司 正六位 鹿島 則文
   内務大臣 従二位勲一等 伯爵 松方 正義殿
                     閣 下             」
「庚第二四号
神楽執行之儀ニ付建言相成候処、右者既ニ客月十五日神楽并大曲被為行旨披仰出宮内大臣ヨリ式部長官ヘ達相成候趣ニ依リ、其旨貴庁ヘ達相成候儀ニ付、該建言書ハ其儘留置、為御心得此段申進候也
  明治廿二年三月十四日                 内務書記官
   神宮宮司 鹿島 則文殿                   」
 鎮地祭、仮御樋代木伐採式、立柱祭、御形祭、上棟祭、檐付祭、甍祭、御戸祭、御船代祭、洗清、心御柱奉建、杵築祭、後鎮祭、御装束神宝読合、川原大祓、御飾、遷御、奉幣、古物渡、御神楽御饌、御神楽と、この大祭を則文は、その最高責任者として、滞りなく実行した。
 次に掲げるのは、その折配布された遷宮諸祭日時表である。

     明治二十二年
    神宮式年御遷宮始諸祭日時
             十三所別官ハ略ス    (非売品) 神宮司庁
皇大神宮
  立柱祭  三月十一日午前八時
  御形祭  三月十一日午後二時
  上棟祭  三月廿六日午前十時
  檐付祭  四月廿四日午前十時
  甍 祭  八月廿一日午前八時
  御戸祭  九月十三日午前十時
  御船代祭 九月十七日午前八時
  洗 清  九月廿四日午前八時
  心御柱奉建九月廿五日午前八時
  杵築祭  九月廿八日午前八時
  後鎮祭  十月一日午前八時
  御装束神宝読合 十月一日午前十時
  川原大祓 十月一日午後四時
  御 餝  十月二日午前八時
  遷 御  十月二日午後八時
  遷御儲日 十月四日
  奉 幣  遷御翌日午前八時
  古物渡  十月三日午後二時
豊受大神宮
  立柱祭  三月十三日正午十二時
  御形祭  三月十三日午後四時
  上棟祭  三月廿八日正午十二時
  檐付祭  四月廿六日午前十時
  甍 祭  八月廿三日正午十二時
  御戸祭  九月十五日午前十時
  御船代祭 九月十九日午前十時
  洗 清  九月廿六日午前八時
  心御柱奉建九月廿七日午前八時
  杵築祭  九月廿九日午前十時
  後鎮祭  十月四日午前八時
  御装束神宝読合 十月四日午前十時
  川原大祓 十月四日午後四時
  御 餝  十月五日午前八時
  遷 御  十月五日午後八時
  遷御儲日 十月七日
  奉 幣  遷御翌日午前八時
  古物渡  十月六日午後二時

明治二十二年遷宮諸祭日時表(神宮文庫蔵)

 

   三、神宮皇学館の開校

 神宮皇学館と鹿島則文の関係については、私もかつて纏めた事がある(注3)が、その後、高原美忠氏の詳細な調査(注4)が発表されている。今は、この高原氏の御調査に主として拠りながら、簡略に紹介したいと思う。
 明治十五年四月三十日、神宮祭主・朝彦親王は、神宮職員に対して、皇学館設置に関する令達を発した。
 「神宮祭主朝彦親王令達
  今般林崎文庫ニ皇学館設置候条、此旨相達候事/但組織学規等ハ追而相達可申事」
                 (明治十五年四月三十日 神宮皇学館史料上)
 この令達を受けて、藤岡好古権宮司等がその実現に努力したが、未だ開校に至らず三年間が過ぎた。宮司田中頼庸が神宮教管長に転じ、その後を受けて宮司に就任した則文は、祭主宮の台命を奉じ、この開校に着手した。
 則文について、高原氏は次の如く記しておられる。
 「十七年四月来任の鹿島宮司は鹿島神宮大宮司鹿島則孝の子で、多くの勤王志士を寄宿させ、郷党の師弟を集めて皇道宣揚につくし、幕府の忌むところとなって八丈島に流されたのが廿二才の時であった。「任を罷めるの日、事後資を載せず、唯々蔵書三万余」と云ふ有名な句を残した好学の人であり、皇学館の興隆に力をつくした。」
 明治十八年一月、学制を定め、教授・教授補・助教・授読等の職員を置き、広く学生を募り、同月十一日、宇治浦田町神宮司庁の仮教室で開講式を挙げた。定員五十名、神宮祀官の人材養成を目的として開校したが、学生は思うほど集まらなかった。
 明治二十年三月、則文は神宮宮掌の人々にあてて、次の如き勧学諭告文を送っている。
 「今般宮掌雇学術研究スルノ所、僅カニ五六名ニ過ギズ。然ラバ其ノ余ハ無学ノ人卜言ハザルヲ得ズ。是迄再三研究ノ義、訓諭ニ及ブモ、曰ク老年ノ読書ハ難シ、曰ク庁務ヲ専ラト心得学問ハ怠レリト。是大ナル謬見也。読書ハ他ノ技卜違ヒ、老年ニテモ一日研究スル一日ノ益アリ。又庁務ヲ口実トスルハ、神宮ノ何タルヲ知ラズト云フベシ。賽銭ノ勘定、文書ノ往復、神饌ノ買入レ、奉仕ノ分課ナドハ神官本務ヨリ生ズル末事也。譬バ農商ニモセヨ金銭ノ出納、味噌薪ノ買入レ、書状ノ遣取ハ一家ノ本務トハセズ。抑々今日ノ学問ハ実地ノ事業、則チ宇内ノ形勢古今ノ治乱ニ通暁シ、事物ノ理ヲ精査研究脳裏ニ含蓄シ、発シテ日用俗務万般ニ作用スルモノニシテ、彼ノ詩歌風雅ヲ玩ビ、字ヲ識リ事ニ博ク所謂本箱学問ノ比ニシテ、世事ニ迂遠俗務ニ達セズ昔日ノ学問ニハアラズ。俗務学問決シテ二途ニハ非ザルナリ。然リ。而シテ神官ノ本務タル神冥ニ奉仕スルヤ、誠意真心ヲ以テ神慮ヲ感格スルヲ主トス。徒ラニ外貌ノ礼容虚飾ヲ指スモノニアラズ。其ノ誠実簾恥ヲ興起確守スルハ学問ノ培養ニ基ク故ニ、神官ノ本務学問ヲ舎テ他ニ執ル所ナシ。今ヤ天下ノ風潮、博学有為ノ神官スラ度外無用視セラル。況ヤ碌々タル鄙陋寡聞ノ神官ニシテ世間ニ信任ヲ得ルハ、豈難カラズヤ。本月十一日ノ官報ニ神官ハ壱万六千余円ノ経費ヲ増額セラレ、去ル十一月ニハ官等一階昇級アリ。是ニ反シテ十七八日ノ官報ニ各社ノ神官ハ廃セラレ無給ノ神職トナレリ。各社ノ神官悉ク不学無術無用ノ人ニシテ、独リ神宮ノ神官有用ノ人材トモ云難シ。他ナシ偏ヘニ奉仕ノ大神宮ノ恩徳ノ然ラシムルヨリ興廃地ヲ異ニセリ。嗚呼、本宮ノ神官内ニハ妻子飢餓ノ顧ナク、外ニハ奏判任ノ官ヲ辱スル栄ヲ思惟スレバ、一日片時神恩神徳ヲ軽忽スルヲ得ンヤ。肝ニ銘ジ骨ニ刻ミ、其ノ涯リナキ恩徳ニ報ゼントナラバ、世ニ無用視セラレズ、学ヲ修メ行ヲ慎ミ、誠意真心天下ヲシテ神宮ノ神官ハ特別ナル故ニ朝廷ノ待遇モ又非常ナリ、ト言ハレルヨリ外ノ義ナシ。唇亡テ歯寒シ。各社神官ノ廃ハ前車ノ覆轍ナリ。加之官吏試験法不日ニ発布セラル、卜云フ。其ノ時ニ臨ミ臍ヲ屡ノ悔ナカラン。事ヲ屡スレバ疎ゼラルト古人ノ言アリ。従来学事ニ付再三訓諭其ノ効ナキモ、則文老婆心ノアマリ不得止更ニ忠告ニ及べり。篤卜熟慮反省シテ、過日来令セズシテ洋服ニ改装ナリシ如ク、翻然子弟ヲ督責シテ皇学館ニ入レ、自己モ一層勉励神官ノ神官タル本務ヲ尽サレン事ヲ希望ス。言ハ意ヲ尽サズ。論アラバ面議セラレヨ。
各自各字ノ下二可否ヲ記シテ返戻アリタシ。
 明治廿年三月廿二日                 宮司 鹿島則文」

 則文は、着々と学制の充実を図り、この四月大改革を行った。館長に中田正朔、幹事に孫福弘坦、教頭に東貞吉、副教頭兼教授に下田義天類をそれぞれ任命し、科を尋常科と高等科に分け、修業年限を各四か年、定員百名とした。その後、明治二十三年五月には第一回目の卒業生二名を出し、二十七年には、祭主宮・有栖川熾仁親王を総裁に仰ぎ、則文自身館長の要職を兼ねて、その充実・発展に努力を重ねた。明治二十八年六月一日、則文は皇学館の官立化を計り、「神宮皇学館之儀ハ、去明治十六年五月中、御省ヘ伺済之上、設置、専ラ補典及国史・国文ヲ教授罷在候処、爾来、漸次隆盛ニ立至リ候ニ付、…一層規模ヲ拡張シ、御省所管ノ官立学校ニ被成下度…」と内務大臣・野村靖に申請した。この申請が許可され、神宮皇館官制が勅令をもって公布されたのは、則文が伊勢を去って五年後、他界して二年後の明治三十六年八月のことである。神宮皇学館の館長は、初代中田正朔、二代鹿島則文、三代冷泉為紀、四代桑原芳樹、五代木野戸勝隆、六代武田千代三郎、七代松浦寅三郎、八代上田万年、九代森田実、十代平田貫一、十一代山田孝雄……と錚々たる人々がその任にあたり、学問発展のために尽くしてこられたが、則文はその礎を築いたと言っても、決して過言ではない。

   四、古事類苑の編纂刊行

 『古事類苑』は、本文一千巻、洋装本五十一冊(和装本三五〇冊)、日本最大の百科事彙である。明治十二年、西村茂樹の建議に基づいて文部省が小中村清矩を主任として編纂に着手、その後、東京学士会院、皇典講究所、最後に神宮司庁に移管されて、大正三年、三十五年の歳月を費やして完成した。編修には、川田剛、細川潤次郎、佐藤誠実、松本愛重、黒川真頼、本居豊穎、木村正辞、井上頼国等をはじめ多数の人々が携わった。明治二十八年、皇典講究所は契約の期限になったが、完成することが出来ず、「文部省ガ国家文運ノ為ニ計画シタル此一大事業モ、或ハ蹉跌セントスルノ状況」(注5)に至った。この時、社寺局長・阿部浩は神宮宮司の則文に議り、これを完成させようとした。則文は意を決し、その許可を内務大臣に申請した。
 「秘甲第一〇号
世界孰ノ邦モ、文運ノ開クルニ従ヒ、類聚書ノ必須ナルハ自然ノ勢ニシテ、漢洋共ニ其ノ書ニ乏シカラズ、然ルニ吾邦ニ於テハ、文運夙ニ開ケタルモ、未類聚書ノ完全ナルモノアラズ、是豈盛世ノ一大闕典ナラズヤ、文部省曩ニ此ニ見ル所アリテ、古事類苑編纂ノ挙アリ、然レドモ其事未ダ成ルニ及バズシテ、予メ完成ノ期ヲ定メ、之ヲ皇典講究所ニ委託セリ、皇典講究所、又孜孜編纂ニ従事シタルモ、未完成ニ至ラズシテ、既ニ約スル所ノ年期ニ達セリ、豈又遺憾ノ至ナラズヤ、故ニ今之ヲ同所ニ謀リ、文部省ニ稟請シテ、神宮司庁、編纂ノ責務ヲ負ヒ、五ケ年ヲ期シテ完成セシメントス、仰ギ願クハ神宮司庁ニ於テ、該編纂ニ従事スベキ件、併セテ向フ五ケ年間、累積スベキ社入金非常予備金ヲ以テ、之ガ費用ニ充ツルコトヲ、御許可アランコトヲ、抑遠近子来ノ崇敬者、奉献スル所ノ金ヲ以テ、コノ国家無前ノ大業ヲ成シ、大ニ文運ノ開進ヲ裨補スルコトアラバ、幸ニ
天覆ノ
神徳ヲ、偏ク衆庶ニ蒙ラシムルノ一端卜相成、天祖愛民ノ御盛意ニモ協ヒ候儀ニ存候ニ付、前件御許可ノ程奉願候也、
   明治二十八年二月十二日              神宮宮司 鹿島則文
     内務大臣子爵野村靖殿                     」
 この申請は、三月二十九日付で許可され、神宮司庁は、文部省及び東京学士会院作成の原稿二三四巻と皇典講究所作成の原稿四〇七巻、合計六四一巻を受領し、『古事類苑』編纂の事業を引き継いだ。明治二十九年十一月八日、第一冊目帝王部第二十七巻を刊行、則文は明治三十一年職を辞し帰郷したが、この大事業は、冷泉為紀、三室戸和光、岡部譲、桑原芳樹、木野戸勝隆等によって続けられ、大正三年完結した。

 

注1 太政官令・太政官布告・太政官達等は『法令全集』に拠った。
注2 胡麻鶴醇之氏「戦前三代の式年遷宮」(『神宮・明治百年史・上巻』昭和62年9月1日、神宮司庁発行)。
注3 拙稿「鹿島則文と桜山文庫」(『井関隆子日記・中巻』昭和55年8月20日、勉誠社発行)。
注4 高原美忠氏「神宮の文化事業・神宮皇学館」(『神宮・明治百年史・下巻』昭和63年10月20日、神宮司庁発行)。
注5 『古事類苑編纂事歴』

А愃斎随筆』の刊行
●鹿島則孝自筆の写本『桜斎随筆』は、全60冊、3500丁、7000ページという膨大な記録である。則孝が鹿島神宮の大宮司を辞し、家督を子の則文に譲り、その閑職の余暇を利用して記したものである。幕末・維新の激動の時代を定着した貴重な記録と判断された。地域的には、江戸・鹿島・伊勢である。
●貴重な記録ではあるが、何分、大量であり、諸方の出版社に交渉したが話が進まない。ある出版社では、テストの複写・製版まで進んだが、最終の役員会議で保留になってしまった。別の出版社では、文部省の科研を申請して、昭和の助手や院生に参加してもらう計画も立てたが、手順としては、まず全巻の複製を出し、次にそれを利用して研究する事になる。つまり出版助成の申請が次年度以後になり、その間の費用の回転が出来ない、と言う理由で中止となった。かと言って、自費出版には、膨大な費用で、とても私に出来る事ではない。本書の出版計画は暗礁に乗り上げた。
●何はともあれ、と思って、この記録の膨大な目録と解説を『鹿島則孝と『桜斎随筆』』(平成5年6月25日)を執筆刊行し、同時に、ホームページにアップした。と、このネット上の情報に食指を動かした出版社があった。菊池先生の仲介をお願いして、出版の運びとなった。
●株式会社・本の友社(新宿区西新宿3-9-6)である。本書に対しては、歴史学者の評価が高かったので、法政大学名誉教授の村上直先生に御参加頂いて、刊行計画を練った。

本の友社版『桜斎随筆』の概要
『桜斎随筆』全18巻

               鹿島則孝 編著
               鹿島則良・村上直・深沢秋男 編
               本の友社発行

 第1回配本 1巻〜6巻(原本・1冊〜22冊)2000年11月10日発行
 第2回配本 13巻〜18巻(原本・38冊〜60冊)2001年11月10日発行
 第3回配本 7巻〜12巻(原本・23冊〜37冊)2002年11月10日発行
       B5判・上製本・各配本全6巻セット定価12万円+税(全18巻、合計36万円+税)


 第1巻(第1冊〜第4冊)目次
  鹿島則孝略伝 ………………………………………………  3
  鹿島則文略伝 ……………………………………………… 13
  『桜斎随筆』書誌 ………………………………………… 27
  凡例 ………………………………………………………… 32
  第1巻 判読未詳部分等の注記 ………………………… 33
  第1巻 本文目録 ………………………………………… 35
  第1巻 本文複製 ………………………………(1〜416)
  付記 ……………………………………………………… 418
 第2巻(第5冊〜第8冊)目次
  凡例 …………………………………………………………  4
  第2巻 判読未詳部分等の注記 …………………………  5
  第2巻 本文目録 …………………………………………  7
  第2巻 本文複製 ………………………………(1〜370)
 第3巻(第9冊〜第11冊)目次
  凡例 …………………………………………………………  4
  第3巻 判読未詳部分等の注記 …………………………  5
  第3巻 本文目録 …………………………………………  7
  第3巻 本文複製 ………………………………(1〜326)
 第4巻(第12冊〜第14冊)目次
  凡例 …………………………………………………………  4
  第4巻 判読未詳部分等の注記 …………………………  5
  第4巻 本文目録 …………………………………………  7
  第4巻 本文複製 ………………………………(1〜300)
 第5巻(第16冊〜第19冊)目次
  凡例 …………………………………………………………  4
  第5巻 判読未詳部分等の注記 …………………………  5
  第5巻 本文目録 …………………………………………  8
  第5巻 本文複製 ………………………………(1〜390)
 第6巻(第20冊〜第22冊)目次
  凡例 …………………………………………………………  4
  第6巻 判読未詳部分等の注記 …………………………  5
  第6巻 本文目録 …………………………………………  8
  第6巻 本文複製 ………………………………(1〜328)


 第7巻(『あすか川』第23冊〜第25冊)目次
  凡例…………………………………………………………………………………   4
  判読未詳部分等の注記……………………………………………………………   5
  本文目録……………………………………………………………………………   9
  「あすか川」解説・内容(村上直)……………………………………………  13
  本文複製……………………………………………………………………(1〜308)
 第8巻(『あすか川』第26冊〜第28冊)目次
  凡例…………………………………………………………………………………   4
  判読未詳部分等の注記……………………………………………………………   5
  本文目録……………………………………………………………………………   9
  本文複製……………………………………………………………………(1〜566)
 第9巻(『あすか川』第29冊〜第30冊)目次
  凡例…………………………………………………………………………………   4
  判読未詳部分等の注記……………………………………………………………   5
  本文目録……………………………………………………………………………  10
  本文複製……………………………………………………………………(1〜380)
 第10巻(『あすか川』第31冊〜第32冊)目次
  凡例…………………………………………………………………………………   4
  判読未詳部分等の注記……………………………………………………………   5
  本文目録……………………………………………………………………………  14
  本文複製……………………………………………………………………(1〜386)
 第11巻(『あすか川』第33冊〜第35冊)目次
  凡例…………………………………………………………………………………   4
  判読未詳部分等の注記……………………………………………………………   5
  本文目録……………………………………………………………………………   9
  本文複製……………………………………………………………………(1〜514)
 第12巻(『あすか川』第33冊〜第35冊)目次
  凡例…………………………………………………………………………………   4
  判読未詳部分等の注記……………………………………………………………   5
  本文目録……………………………………………………………………………   7
  本文複製……………………………………………………………………(1〜360)
  あとがき(深沢秋男)…………………………………………………………… 361

 第13巻(第38冊〜第41冊)目次
  凡例………………………………………………………………………   4
  第13巻 判読未詳部分等の注記……………………………………   5
  第13巻 本文目録……………………………………………………   7
  第13巻 本文複製……………………………………………(1〜450)
 第14巻(第42冊〜第45冊)目次
  凡例………………………………………………………………………   4
  第14巻 判読未詳部分等の注記……………………………………   5
  第14巻 本文目録……………………………………………………   8
  第14巻 本文複製……………………………………………(1〜448)
 第15巻(第46冊〜第49冊)目次
  凡例………………………………………………………………………   4
  第15巻 判読未詳部分等の注記……………………………………   5
  第15巻 本文目録……………………………………………………   8
  第15巻 本文複製……………………………………………(1〜436)
 第16巻(第50冊〜第53冊)目次
  凡例………………………………………………………………………   4
  第16巻 判読未詳部分等の注記……………………………………   5
  第16巻 本文目録……………………………………………………   8
  第16巻 本文複製……………………………………………(1〜396)
 第17巻(第54冊〜第56冊)目次
  凡例………………………………………………………………………   4
  第17巻 判読未詳部分等の注記……………………………………   5
  第17巻 本文目録……………………………………………………   7
  第17巻 本文複製……………………………………………(1〜394)
 第18巻(第54冊〜第56冊)目次
  凡例………………………………………………………………………   4
  第18巻 判読未詳部分等の注記……………………………………   5
  第18巻 本文目録……………………………………………………   7
  第18巻 本文複製……………………………………………(1〜454)

『桜斎随筆』総目録

これは、『桜斎随筆』の内容を紹介する一助として、各巻頭にある目録を全て翻字したものである。

第1冊 桜斎随筆 一上
 桜斎随筆巻壱
   目録
 月雪花之部 上

第2冊 桜斎随筆 一下
 桜斎随筆巻壱
   目録
 月雪花之部 下

第3冊 桜斎随筆 二上
 桜斎随筆巻二上
   目録
壱 則孝略履歴 附 さち子改名 則文元服 父子三人参宮
弐 則峯君鼠を愛せらる 附 下僕の幻術 則瓊君御性質 同御筆記 則孝武術流名
参 白蘭和尚
四 幕府の流鏑馬
五 野鷹屋に入る
六 鹿島大雪
七 江戸城中妖怪
八 江戸市中大火
九 大猿の造り物
十 江戸城焼亡
十一 筑紫家霊社号
十二 大塩騒動
十三 白気出現
十四 江戸市中大火
十五 日輪二出る 附 関東洪水
十六 妖星出現 附 強風 地震 信州大地震 諸国風災
十七 安政元年大地震 附 豆州紀州洪波 同二月大地震 同三年暴風雨
十八 水戸浪士井伊直弼を殺害 附 浪士鹿島神宮狼藉
十九 浪士安藤信睦を刃傷
二十 浪士根本寺に屯衆
廿一 長州藩士京師乱入 附 家茂将軍征長出発
廿二 妖星出現
廿三 浮浪徒外国人旅館へ乱入
廿四 禁中より鹿島神宮へ御米御寄附
廿五 鹿島二ノ鳥居炎上 附 建替上棟
廿六 伏見にて戦争
廿七 娘を教諭する詩
廿八 数星飛行す
廿九 九十九里の海岸に姥貝数多うち寄せる
三十 春日杜の神鏡破裂
卅一 後醍醐天皇の御陵破裂
卅二 室内に妖光現る
卅三 雀の戦争
卅四 宮中村大町局両度出火
卅五 宮中村諸所の井水渇
卅六 赤気現る
卅七 宮中村諸所出火
卅八 九十九里の浜暴風雨
卅九 秀行朝臣の影像焼亡
四十 春日杜比売神の説
四十一 小町は一人に非らず
四十二 大宮司持高収納米俵数調
四十三 東京両度大火の景況
四十四 鹿島浦にて鰯の大漁獲
四十五 真田大助信隆〔或ハ幸昌に作〕 附 石川丈山
四十六 霊芝生ず 附 則文帰国 別泰和歌
四十七 十難七悪
四十八 狸の怪
四十九 将軍家綱判物 前田島津
五十 水戸家代々忌日
五十一 慶長以後大宮司代々忌日
五十二 三笠山墓碑 附 墓誌 則広君辞世御歌
五十三 筑紫家棺槨墓誌石碑 附 実方親族忌日 墓地
五十四 塙台墓地碑 附 稲生氏墓地
五十五 彗星出現
五十六 鹿島郡中金銭不融通の原因
五十七 米国にて海蛇顕る
五十八 文久年中物価略表 附 天保年中同
五十九 借馬 附 馬乗袴仕立方
六十 大宮司配当禄公債 附当籖
六十一 筑紫金禄公債
六十二 大宮司賀表
六十三 筑紫重門鹿島神宮等外出仕拝命
六十四 関白豊臣秀吉の銅印
六十五 肘かけ匂ひ袋
六十六 大守宮
六十七 身体刺繍の人集会 附 婦人の刺繍
六十八 士族活計法
六十九 隠宅家根茸替諸費計算表
七十 電気力を以て彫絵
七十一 高名なる江戸町奉行
七十二 鷹は住馴たる所をよく知る
七十三 甲冑堂の神体
七十四 由井正雪
七十五 十州冷物
七十六 熊谷雪秀の履歴
七十七 紀伊頼宣卿の和歌

第4冊
桜斎随筆 二下

第5冊
桜斎随筆 三
桜斎随筆巻三
  目録
壱 文政の頃蕎麦の値
弐 神田近江作琴
参 皷の古胴
四 高貴の人に諛を言ひて迷惑す
五 畸医平山玄格
六 児を亡ふて猿井に投ず
七 戸田氏栄狼藉者を討
八 旧幕府奥医師の悪弊
九 三万石の価ある轡 附 古器物大楠の材
十 肥前の海腸
十一 窮鬼朝倉家を立去る
十二 閣老参政の遠馬流行
十三 伊達家の武備
十四 公用雑纂編集
十五 伊達政宗の詩
十六 異国人長崎港乱暴
十七 祝町の敵討
十八 鹿島浦にて隼を捕ふ
十九 交文亭へ歌を奉る
二十 本居宣長翁四季の桜の歌
廿一 角折村より塩を貢
廿二 盲人砂漠中にて焦死す
廿三 大蟇
廿四 京都の舁丁
廿五 江戸の舁丁 附 医師舁丁薬凾持悪弊
廿六 ●(オウヘンに「毒」。補助漢字 区点=4427 16進=4C3B)瑁
廿七 赤坂奴
廿八 水戸の追鳥狩 附 陣太鼓の銘
廿九 幕府奸臣を罰す
三十 江戸大地震に付 幕府より祈祷
卅一 徳川五代将軍神仏を信ず
卅二 禁中へ御祓献上に付道中駅々問屋名主共請書
卅三 孔明岳飛文天祥
卅四 美禄と云年号
卅五 芸妓の咎
卅六 高橋作左衛門死罪
卅七 幕府にて角觝上覧
卅八 成島邦之丞邸宅焼亡
卅九 霊元天皇御製御歌
四十 新待賢門院吉野山にて御歌
四十一 鼠小僧次郎太夫
四十二 洋学嫌疑に依て冤罪
四十三 殿居嚢其他著述物に付咎
四十四 蘭学に付達
四十五 江戸内海の蜃気楼

第6冊 桜斎随筆 四
桜斎随筆巻四
  目録
壱 筑紫家の昔話
弐 則孝鹿島に下る原因
参 京都の人関東訛を笑ふ
四 鹿島洋の妖火 附 鹿島浦の怪 ヤンサ船
五 斃馬棄場の怪 附 砂山にて水牛闘
六 加賀手子
七 穢多頭団ノ左衛門の養子
八 薯蕷鰻魚に化す 附 鰻薯蕷に化す
九 穢多の罪科
十 永代橋崩れ溺死人の昔話
十一 厩河岸の渡船覆没
十二 中新道開設
十三 諸国にて墓所の石碑洗ひ流行
十四 大蛇小児を呑む 附 竜蛇昇天 鹿島山内にて大蛇を見る
十五 本所深川辺洪水 附 天明度の天変地妖
十六 古人の狂歌
十七 文政の頃の紙鳶
十八 八十八歳祝寿金下賜
十九 老狸憎に化て旅行す
二十 大阪城中の妖怪
廿一 勇婦強盗を切る
廿二 南総上茂原邑の牡丹
廿三 房州小湊鯛の浦
廿四 天狗火
廿五 伊東主膳御咎 附 仙石道之助同
廿六 刑罪場の狗

第7冊
桜斎随筆 五上
桜斎随筆巻五上
  目録
壱 徳川将軍家祈祷之起源
弐 大施度祈祷式
参 続撰清正記
四 筑紫家先祖書 附 諸書抜萃 細川三斎作花活 豊太閤染筆 同感状 征韓陣触 高橋主膳書牘 筑紫家紋
五 豊臣家譜 附 淀氏 豊臣太閤辞世の歌 塙九郎右衛門
六 大宮司家茶会式
七 貞子君の詠歌 附 孝門君の小柄
八 揚補之画
九 枕草紙抜萃 附 源氏物語抜萃
十 隠宅の額面
十一 皇学先生の詠歌 附 贈位諡
十二 黄堊の画竹
十三 東照豊国両社
十四 ●(「音」に「市」の頭の点のない字。補助漢字 区点=7179 16進=676F)霊剣
十五 鹿島海道記抜萃
十六 鎌足神社
十七 鹿を神の使いと言説
十八 常陸帯記抜萃
十九 鶴に效て長寿
二十 増田尚賢履歴
廿一 博徒勢力富五郎敬神
廿二 宮中村にて江戸相撲興行
廿三 温泉変方
廿四 桐の木売の心得
廿五 鶏一万羽養法
廿六 色紙短冊掛の図 附 弓袋 馬尾袋の図
廿七 向島梅園
廿八 三度栗の考
廿九 天保七年の凶作
三十 金壱両賭の見せ物
卅一 乞食の義気
卅二 幽霊と劇場を見る
卅三 老狐二条家へ参殿
卅四 伊豆の大鷲
卅五 鶏昇天
卅六 香取社職配当高
卅七 村田権右衛門系図 并由緒
卅八 明智光秀王并四王天
卅九 徳川家康堺浦より伊勢に遁る
四十 豊臣秀頼誕生 附 薩州に下る 嶋津家久伏水に至る 徳川家康書牘

第8冊
桜斎随筆 五下

第9冊
桜斎随筆 六上
桜斎随筆巻
  目録
壱 正親町実豊卿女作松陰日記抜萃
弐 慶徳麗女の著書抜萃
参 井関たか子の日記抜萃 附 略系図 江戸邸絵図
四 松平吉里は常憲公の落胤と云説
五 川北自然斎の歌 附 佐川田昌俊の歌
六 戸田茂睡 附 武家秀逸の歌
七 播州加茂山の三大字
八 江戸遊覧花暦抜萃 附 上野の桜植添 秋色女
九 本居大平翁の文集
十 嘉多比沙志抜萃 斎藤彦麻呂翁随筆
十一 鷺草の図
十二 剣太刀の説 附 普請 かたひさしの抜萃
十三 幕府へ進上の玉串寸法 水戸家同
十四 鹿島神宮僧侶特高勤務調 貞享天明 附 惣大行事当禰宜
十五 浅野吉良大石の遺跡見聞記
十六 元禄宝永間珍話
十七 則敦君の内室

第10冊 桜斎随筆 六下

第11冊 桜斎随筆 七
桜斎随筆巻七
  目録

壱 大鰻魚の毒人を害ふ
弐 もみぢ茸の毒
参 大蜂大黒の木像を授く
四 独婦石塊を産
五 珍物数品
六 白鹿と尾長の鹿
七 幕府より施米
八 和宮御行状 附 御詠和歌
九 京師よりの来状
十 朝政一新に付御達
十一 慶応三年米金江戸相場 附 諸所失火
十二 青木氏所蔵石川丈山翁の和歌 附 近松門左衛門狂歌 十万堂発句
十三 同氏邸内網かけの古松
十四 駅路の鈴
十五 明暦の大火焼死の数十万二千百余人にあらず
十六 勢州一志郡星合の里の和歌
十七 北畠の家臣星合具泰
十八 樺太地方に鹿島神宮建設
十九 同御霊代送り
二十 十二ひとへ 附 女房の奉書
廿一 旧幕府奥女中の書状 附 旧幕府世子誕生に付玉串献ず
廿二 是に似たる非正に似たる邪
廿三 為朝の鏃を幕府の槍と為す
廿四 背わり羽織
廿五 狐つき 附 小年の剛胆狐妖去る
廿六 たのしみの興歌
廿七 水雷火を以て沈没艦を破裂す
廿八 鹿島にて鳶を銃猟す
廿九 下総の牧にて野馬捕を見る
三十 海軍端船の競漕 附 水雷火
卅一 狂風 附 颱風中に竜を見る。颶風海水を巻あげる。浪逆江に颶風河水をまき揚げる
卅二 純金の色を山吹色と云ふ説
卅三 蕎麦の大食
卅四 水虎
卅五 芸妓刺繍か祢吉 附 御東幸に付御酒下賜
卅六 妖火の偽物
卅七 早稲田の別荘四季の景
卅八 妖火出現
卅九 走倉六右衛門羅馬国に使す
四十 鹿島神山の鹿晴雨を前知す
四十一 日本橋魚市場古今変革
四十二 父子夫婦の楽み
四十三 富興行
四十四 蚊●(「巾」に「廚」。補助漢字 区点=2832 16進=3C40)売

第12冊 桜斎随筆 八
 桜斎随筆巻八
   目録
壱 光り物飛行 諸国
弐 浅間山の噴烟烈し
参 西京の光怪
四 地震強し 東京及横浜越中
五 諸国光怪
六 地震にて家屋損害多し 附 大島及浅間山噴火
七 東京市中大火 数度 附 箱館大火 宮中村中村所々失火
八 落雷にて河汽船中狼狽
九 十二年冬より十三年三月迄の季候
十 根本寺逓減禄返上
十一 摸掏捕縛
十二 妖光空中より降る
十三 山陽道筋大雨地震
十四 東京の降雪 二月の初雪
十五 信州の季候
十六 東京大雪
十七 妖児を産
十八 脱欖 附 懲役場失火 附 宮中村所々失火
十九 越後にて川汽船破裂
二十 陸中にて三輪の日昇るを見る 附 石川県下の地変
廿一 雷鳴早し
廿二 汽船破裂の詳報
廿三 但馬に隕石あり
廿四 皇大神宮近傍山焼
廿五 怪児を産 附 老翁肉角を生ず
廿六 越中の光怪 附 地震 旋風 支那にて東方に光怪を見る 横浜にて大光物出現
廿七 大阪の季候
廿八 石川県下鳴動
廿九 鹿嶋大雨雷鳴
三十 信州及北海道季候
卅一 十三年三月四月鹿島の風雨表
卅二 異形の虫
卅三 東北諸国季候
卅四 妖光 附 隕石届書
卅五 利根川にて汽船衝突
卅六 米価表 附 一厘銭相場騰貴
卅七 根室の海氷厚し
卅八 猪苗代湖の大鯉魚
卅九 大珊瑚
四十 諸国泥雨降る
四十一 東京出火表
四十二 大風
四十三 埼玉県下野の大火 附 諸国野の大火
四十四 魚の骨鰭等にて刺したる時の薬 附 温泉変方 人命の長短を計る法 肉を貯ふ法 草木の治療法
四十五 里見家略系図
四十六 第十三国立銀行 鴻池善右衛門
四十七 清原武則及藤原経清略系図 附 吉彦秀武
四十八 全地球上多数の妻妾を有する人
四十九 獣類統計表
五十 鴉の戦争
五十一 米国より償金返還
五十二 痔疾治療法 附 栗実貯法
五十三 美婦人競妍研会

第13冊 桜斎随筆 九
 桜斎随筆巻九
   目録
壱 旧幕府の美事
弐 旧幕府の臣脱走して宮中村に止宿す
参 明治元年晴雨表 鹿島の分
四 長崎の大竹
五 鹿島浦鰹の大漁獲
六 明治元年厳寒
七 中島父子戦死
八 赤気乾の方にあらはる
九 正月元旦光り物飛行 附 西方赤くして如火 暴風雨
十 葉室光子神葬行列
十一 北総神崎河中より水牛出現 附 大樟
十二 諸国洪水
十三 桜町失火
十四 津田蓮光院 附 徳川世子孝恭院
十五 松平外記西域にて刃傷
十六 一日の内に四の変事
十七 秋元但馬守の家臣発狂
十八 妖童寅書物語 附 牝鷄昇天
十九 幕府より鹿と鳩を放す 附 田野辺谷の蜃気楼
二十 九十九里浜鰯大漁獲 九年
廿一 鹿島浦鰯大漁獲 十二年
廿二 同上 十三年 附 海苔の景況
廿三 大相撲興行中無降雨 附 札の売高 不漁
廿四 物に誓て謎のことば
廿五 寒水石
廿六 聖上弓馬御稽古
廿七 十二年常州作割表
廿八 老媼児を産
廿九 騎射法式奏上
三十 蓮月尼
卅一 三男児を産
卅二 鮫の種類
卅三 桜田にて大老を殺害の時狂句
卅四 米国人日本の練兵を賞与
卅五 珍草発見
卅六 皇城御新築 附 皇大神宮遥拝所落成
卅七 米国にて日本の物品流行
卅八 長寿の人
卅九 桜東雄の歌
四十 岐阜県下にて駆犬流行
四十一 旧幕府の頃の落首
四十二 十四年中食金銀貨幣の相馬
四十三 欧米各国にて日本の扇子及諸物品流行
四十四 文政より嘉永迄流行の拳 附 維新後流行物品
四十五 弘化より嘉永まで流行の拳 附 予が若年の時所持の物品
四十六 大宮司伝来什物
四十七 鹿島神宮権殿引移
四十八 同数石落成 附 寄金ニ付木盃下賜
四十九 太郎事則泰と改名
五十 鹿島の気候 十五年
五十一 鹿島近郷歳末の景況 同上
五十二 大阪歳末の景況
五十三 十六年一月鹿島の季候
五十四 同二月鹿島降雪
五十五 同一月鹿島及東京地震
五十六 同月大阪の季候 附 霞浦の堅氷
五十七 尾濃両州にて妖虹を見る
五十八 東京及佐倉不景気
五十九 漁船八手綱の名儀

第14冊 桜斎随筆 十上
 桜斎随筆巻十上
   目録
壱 活たる法螺貝鰒の図
弐 俗に優曇花と云ふ物の図 実は虫の卵
参 ハブ草 附 狂犬に噛れたる時の薬方
四 鍼治の効にて長生
五 孝門君の書牘 附 実父母の履歴 外祖父の記念物品
六 千羽の鶴を放す 附 彦根にて老鶴を銃獲す
七 怪光飛行
八 同鹿島にても見たる説
九 大陽鋼色に変ず 附 鹿島迅雷北海道暴風
十 長歌を賞美す 附 外国幼稚園の歌
十一 諸芸人并娼妓の員数 十四年 十五年
十二 日本全国町村の数 十六年
十三 常陸国の湖周囲里数
十四 七十三国茶畑段別
十五 宮中邨戸数
十六 川汽船の賃表
十七 北海道の狼馬を害す
十八 戸田忠至建碑の地所
十九 十六年諸国寒暖調査
二十 蛇の合戦
廿一 忠臣贈位
廿二 王子の里避暑繁昌
廿三 独乙の婦人日本の物品を賞翫す
廿四 仏京巴里府にて日本の物品を賞翫す
廿五 狩野土佐両家の絵価騰貴 并 撃剣器、茶器、盆栽 飼鳥類同
廿六 九月十三日東京及西国筋暴風
廿七 大陽の黒点
廿八 十六年八月より九月迄宮中村天気の模様 附 大陽の鋼色、落雷、二百十日穏、秋作豊熟、東京及東海道筋暴風
廿九 大阪不景気
三十 奇怪の婦人
卅一 中野梧一自殺 附 履歴
卅二 八丈島の赦免蘇鉄
卅三 和歌山県下各村節倹規約
卅四 大阪兵庫酒造家減高
卅五 十六年九月中の天気模様 附 大阪の観月
卅六 大阪及紀州辺旱魃 附 蜜柑樹枯る
卅七 東京深川の材木問屋小北彦七名刀奉納
卅八 不景気 附 物品の価下落
卅九 五穀豊熟
四十 金環蝕
四十一 鰹大漁獲
四十二 大陽光線微弱の論
四十三 米国の女新聞記者
四十四 陸軍の総人員調査 附 全国人員総計
四十五 西方の空赤く火の如し
四十六 富田光知君の和歌
四十七 大阪の席貸商不景気
四十八 別林府人民の倫理道徳壌頽
四十九 教道職総計
五十 暴風の為電信線路損害多し 附 水害
五十一 武内宿禰の真筆
五十二 札幌地方の初雪
五十三 宮中村の季候 附 風雨
五十四 金環蝕霧にて見えず 宮中村
五十五 鹿児島県下田畑宅地の価格低落
五十六 東京及大阪府下にて呉服太物并古書類売れず
五十七 金環蝕見えず 東京及宮城県
五十八 暴風にて大椴倒る
五十九 紅葉観の便り
六十 大阪暴風
六十一 九年中全国戸数人口調査
六十二 金環蝕新潟県下にては見えたり
六十三 外客の窮難を憐みて治療を施す
六十四 英国人癩病の治療を受けて全癒す
六十五 青森県下より良馬を献ず
六十六 小鳥の剥製もの輸出多し
六十七 仏国人首を切断せられて後記憶力を存す
六十八 大阪商家歳の景況
六十九 鹿島郡秋の景況
七十 上総東金町の大火
七十一 隠れ家の冬籠
七十二 品川御殿再建築無し
七十三 芭蕉蔵
七十四 首を切断せられて記憶力を存す
七十五 古人の歌詩 附 幼女の書画
七十六 無類の大杉
七十七 笠森の観音堂

第15冊(桜斎随筆 十下)(欠巻、47〜77欠)

第16冊 桜斎随筆 十一上
桜斎随筆巻十一上
  目録
壱 徳川将軍史編の注意 谷干城演説
弐 同天朝へ不忠
参 同史編の注意追加
四 同天朝へ不忠
五 外国船渡来に付武家伝奏より御達 附 男山八幡宮へ勅使参向
六 日光門主を迎下せしは天海の姦謀 附 徳川慶喜謹慎
七 同門主下向の発端
八 京都所司代の心得
九 徳川氏の末世
十 輪王者法親王千住駅着
十一 東叡山戦争諸説
十二 東照宮の古簾は芝の神宮の御簾と成る
十三 楠公の書牘 附 小楠公新田公書牘 楠公墓碑 同旗 同書牘 同遺物 北畠公書牘 新田公願書 小楠公歌
十四 藤田東湖正気歌 同和歌 附 蒲生秀実山稜志
十五 高山正之蒲生秀実御追贈
十六 閑院典仁親王太上天皇尊号御追贈
十七 中山愛親卿位階御追贈
十八 源義公の歌及び書牘
十九 源烈公の長歌  附 水戸弘道館碑文幕府の嫌疑 義公烈公退隠
二十 烈公の書牘 附 将軍家慶公水戸邸へ御立寄 義公烈公幕府の嗣立諌言 同公贈位神号を賜
廿一 後光明天皇
廿二 水戸藩士二田二虎
廿三 水戸浪士桜田事件
廿四 外国の事に付著書
廿五 菊池寂阿 同妻の歌

第17冊 桜斎随筆 十一下

第18冊 桜斎随筆十二
 桜斎随筆巻十二
  目録
壱 正月元旦葩煎売 附 宝船 から皮其他 新年の景物
弐 なめ魚 附 鯨
参 元日の発句
四 旧幕府の頃の衣服
五 炮碌調煉
六 男女髪の沿革
七 旗下の士不品行 附 火煙 渡り仲間
八 物品の古色を失ふ過 附 慾情より損失
九 渡り侍士の貧窮 附 鹿島神宮品行沿革
十 三笠山内にて夜中の響 附 浪逆江の妖火
十一 大鳶の怪 附 猟師天狗に遇ふ 狐の嫁入
十二 鹿島大宮司家新年の繁忙
十三 五歳童の詠歌
十四 疱瘡中の怪
十五 旧幕府の殿中厠の不潔
十六 諸侯及び旗下の臣供連の図 附 火消役。使番。火事場見廻。等出馬供連。火見櫓。其他諸物品図。城中庭
十七 鹿島大宮司将軍謁見の席
十八 諸侯より献上物の高価
十九 旧幕府の通用金銀貨数種 附 銭
二十 同時代世上一般贅沢
廿一 色紙掛の図
廿二 書画宴会に芸妓を聘すは亀田鵬斎より始る
廿三 宮本水雲翁の確言
廿四 旧幕府にて為朝の箭鏃の鑓所持由緒
廿五 頼政籐の弓
廿六 真田大助の実名
廿七 水野十郎左衛門并於伝の方
廿八 狐の新婦入り

第19冊 桜斎随筆 十三
 桜斎随筆巻十三
   目録
壱 神童憑談略記 平田篤胤天狗小僧寅吉問答
弐 伊勢度会郡高の宮岩窟の怪異
参 神宮司庁にて夜中皷ケ岳の音楽を聞く
四 東山の麓のクモ火
五 樵夫大蛇に投らる 附 朝熊岳の大池
六 松葉犬女の和歌
七 布谷の●(「樗」の右側。補助漢字 区点=7090 16進=667A) 附 神隠し 朝熊岳白蛇の怪
八 田中良助妻の異病
九 福島兄弟某寺田某と間の山に闘ふ
十 割烹店の下婢変死
十一 土中より宝石を掘出す
十二 古市町娼家騒動 演劇福岡責の実録
十三 落魂の説
十四 文明東漸史抜萃

第20冊 桜斎随筆 十四
 桜斎随筆巻十四
  目録
壱 外国へ金魚の輸出
弐 西京にて百歳以上の者調 附 天色赤原因
参 品川駅の大火
四 大阪大火
五 一月東京の景況
六 陸前国にて古鏡剣発見
七 人口戸数調査
八 柳亭種彦谷文晁 附 江戸六大家合作
九 英国人ハムプソン宅中奇妖
十 維新以後贈位官の神社
十一 笠置山
十二 東京芸娼妓及芸人調査
十三 鹿島郡徴兵適齢人員
十四 旧会津藩士戦死総計
十五 烟草好きの老人
十六 勝下村の颶風
拾七 水戸下市大火
拾八 忠臣贈位
拾九 磯浜村大火
二十 皇城炎上の節献金に付御賞与
廿一 宮中村戸数調査
廿二 大塔宮及八宮御遺跡
廿三 四辻氏杉氏の狂歌 附 杉氏の詩
廿四 日本紀の仮名書
廿五 患難痛苦は身体の禍に非ず 附 掌勃烈翁の金言
廿六 塙仲顕復姓願 附 大宮司系図抜萃
廿七 柳橋新橋芸妓の景況
廿八 日本及各国都下の人口調査
廿九 富田村東金町辺白蝶群飛す
三十 東京及諸国暴風雨
卅一 東京と札幌の季候差違
卅二 鹿島郡暴風雨
卅三 東京中暴風雨被害の概況
卅四 上総暴風雨
卅五 東国諸州出水
卅六 維新以来強震表
卅七 強震
卅八 勢州一志郡の山崩る
卅九 大阪暴風雨
四十 鹿島郡の人気不穏
四十一 加波山暴徒事件
四十二 鹿島年末の景況
四十三 東京年末の景況
四十四 滋賀県下大雪

第21冊 桜斎随筆 十五
 桜斎随筆巻十五
  目録
壱 一箇年間月を賞翫す
弐 則泰の和歌
参 朝熊山に登る
四 北山に遊記 附 南山観紅葉
五 重盛楠
六 二見の浦に遊
七 伊勢の初雪 附 滋賀県下大雪
八 東京菊と紅葉の景況
九 御苑内観菊の御宴
十 王子辺の紅葉
十一 大櫃川の中島に松楓を植させらる 附 森寛斎嵐山を画く
十二 大阪府下紅葉の景況 附 山形県下の季候
十三 伊勢宇治の山々の色冬を催す
十四 王子滝の川観楓記
十五 伊勢の雪 附 江州東京の雪
十六 尾濃遊歴
十七 鹿島の佐助参宮
十八 東京大雪 附 諸国大雪
十九 鹿島の景況 附 東京及京都の余寒 銚港大雪
二十 東京及近郊梅花の景況
廿一 諸国春の大雪
廿二 梅花の景況 附 春雪
廿三 余寒強し 附 飛鳥山の桜花
廿四 宇治山田梅桜の花 附 上野公園 宇治山田 月瀬の景況
廿五 山田の観梅
廿六 蒲桜
廿七 音無山
廿八 京都の桜と楓
廿九 宇治の観紅葉
参十 東京の雪
卅一 皇居御苑の模様
卅二 松茸狩
卅三 投網の遊 附 鯊釣
卅四 教院の能楽狂言
卅五 宇治の初雪
卅六 全国戸数人口 附 鉢植梅
卅七 西京道中雪の模様 附 谷鉄臣翁の話
卅八 牡丹の古木

第22冊 桜斎随筆 十六
 桜斎随筆巻十六
  目録
壱 新年宴会祝詞 附 答辞
弐 宇治山田花暦 附 京都東京大坂及外三ケ国同 月瀬梅信 金梅 神花梅
参 色紙の歌作者絵画者姓名
四 宇治山田繁盛
五 神宮賽物金高 附 両宮へ献備物
六 歳末の門飾り其他諸式
七 宇治山田の景況 附 季候風土雑事産物
八 一月二月の寒気 附 関東諸国
九 宇治山田に無き物品 附 いせおなど 鷺草 農家の棒
十 おかげ参りの年間
十一 浦田町寓居
十二 伊勢の人気 附 初鰹を賞翫す 名産物
十三 参宮者質素 附 琴平神社景況
十四 宇治山田及在方女の風体 附 蚊の出る早し
十五 月の瀬の梅及畿内の桜景況 附 観花道中雑記
十六 京都淋し 附 火水の難
十七 京阪洪水
十八 勢州燕蛤柳蠣鰹の売人
十九 古市町太田光照履歴
二十 神号の木目 附 鶏卵盃
廿一 セコと称す町名
廿二 本居宣長翁の先祖
廿三 伊勢国司紀略
廿四 七月一日大雨にて洪水 附 東西諸国同
廿五 北畠信雄父子
廿六 宇治山田両郷の豪商二幅対七本鎗の見立
廿七 伊勢三郎物見の松

第23冊 桜斎随筆 一あすか川 十七
第24冊 桜斎随筆 一あすか川 十八
第25冊 桜斎随筆 一あすか川 十九
第26冊 桜斎随筆 一あすか川 二十
第27冊 桜斎髄筆 一あすか川 廿一
第28冊 桜斎随筆 一あすか川 廿二
第29冊 桜斎随筆 一あすか川 廿三
第30冊 桜斎随筆 一あすか川 廿四
第31冊 桜斎随筆 一あすか川 廿五
第32冊 桜斎随筆 一あすか川 二十六
第33冊 桜斎随筆 一あすか川 二十七
第34冊 桜斎随筆 一あすか川 二十八
第35冊 桜斎髄筆 一あすか川 二十九
第36冊 桜斎随筆 一あすか川 三十
第37冊 桜斎随筆 一あすか川 三十壱

第38冊 桜斎随筆 古歌抄出 三十二
 鹿島名所の和歌
 柳沢里泰の文
 近世名家の和歌

第39冊 桜斎随筆 旅日記 三十三
 南総道之記
 羇旅の日記・日光筑波両山紀行
 二十年の観花
 勢州度会郡野後村阿曽村観花の記

第40冊 桜斎随筆 観花日記 三十四

第41冊 桜斎随筆 三十五
 三輪物語抄抜萃(熊沢蕃山)
 南遊紀行(貝原篤信)
 続諸州めくり七 摂州より京都洛外
 菅笠の日記(本居宣長)
 ゑ夫くろの日記(本居大平)

第42冊 桜斎随筆 三十六
 桜斎随筆巻
   目録
壱 桜田事件 附 米艦始て浦賀入港幕府養君紛議
弐 政権返上に付慶喜公及土越両藩主の意見
  阪下門外事件
  井伊久世安藤等御咎

第43冊 桜斎随筆 三十七
 桜斎随筆巻
   目録
     桜田事件
     水戸浪士鹿島市中止宿等の件 附 水戸藩士始末

第44冊 桜斎随筆 三十八
 桜斎随筆巻
   目録
壱 三月の頃鈴虫松虫の高価
弐 松葉屋の娼妓瀬川の伝 附 島原のよし野の発句
参 吉原廓中の花 附 娼妓の発句 ちり塚於松の伝 権堂の住の江の和歌 其他婦人の句
四 高安●(「戸」の下に「巾」。補助漢字 区点=2806 16進=3C26)杖翁の発句
五 磁石の功能
六 古今高名の角觝
七 長岡是容の和歌
八 甘露降
九 興良親王の墳墓
十 幽霊の説
十一 婦人同志の交情
十二 富士見宝蔵の盗賊
十三 親族を忌疑して宗家衰ふ
十四 勢州虎烈剌病流行
十五 松阪の屠牛
十六 浅間山の景況
十七 十九年九月廿四日宇治辺暴風雨 附 東西京及諸国同
十八 神宮奉仕官員月俸及職員官等改正
十九 練雀の図
二十 要石の謡曲
廿一 神功后宮御服帯
廿二 星の数
廿三 春日杜境内に棲息せる鹿の実数
廿四 帝国大学文科古典科生徒より溺死遺族へ施与金
廿五 神馬御牽進の式
廿六 司庁内へ庭を造る
廿七 皷ケ岳へ登る
廿八 日本全国田面総反別
廿九 緋色の鰌
三十 銀盃下賜
卅一 松原神社へ祭資金を賜ふ
卅二 管轄下の貧富に因て県庁に幸不幸あり
卅三 正宗の刀献上の由来
卅四 十九年中東京花紅葉の評
卅五 孝明天皇の御製 附 源烈侯詠歌 米艦初て入港の時落書
卅六 大藩主へ正月元日家老共より伺
卅七 支那人の苦学
卅八 天樹院入輿
卅九 松平光政池田良臣を扶持せらる
四十 長寿の人
四十一 藤原惺窩先生江戸に下る 附 和歌 四日京
四十二 金子を并べ楽しみたる人
四十三 小金井村へ桜の苗を栽らる 附 碑を建る
四十四 同所の花観は寛政の頃より始る 附 加藤千蔭の詠歌
四十五 薩州下邸へ琉球の竹を栽らる
四十六 江戸にて菊花の形物造り始る
四十七 右につき抱一上人の発句
四十八 画工花隠江戸に下る 附 諸大人姓名
四十九 抱一上人逝去
五十 諸侯の隠居梵論に紛して出行
五十一 水野越前守姦謀諸人を欺く
五十二 星多く空中を飛ぶ
五十三 十二世将軍家慶公下総国小金原にて鹿狩せらる
五十四 江戸大塚にて鷹巣をくむ
五十五 炮碌調練
五十六 江戸中花紅葉の名所

第45冊 桜斎随筆 三十九
 桜斎随筆巻
   目録
壱 沙漠中の蜃気楼
弐 海気現蜃楼 附 国々にて其称異なる事
参 肥前の天火
四 楼上看怪ヲ
五 夜鬼清石墳
六 洩れものの小唄
七 歩兵吉原遊廓及所々乱妨
八 薩藩士所々にて金子及武器等強借乱妨狼藉
九 江城二ノ丸焼亡
十 薩藩三田邸戦闘 右ニ付諸説
十一 天女雲上に舞ふ
十二 神戸横浜間航海記
十三 鹿島郡長
十四 長崎奉行家臣を試る
十五 文政年間江戸中外邪流行 附 狂歌
十六 天保十二年江戸大雪
十七 嘉永六年正月江戸及鹿島大雪
十八 鼠山感応寺興廃 附 下総中山村知仙院
十九 河童の図
二十 梅園
廿一 桜の名目
廿二 吉野山と嵐山の花便
廿三 梅香寺の観藤
廿四 夜鷹蕎麦の名 附 街端の雪駄直し 下等売淫女の名
廿五 外国人来攻の説に付幕府より遠陬へ立退の達あり
廿六 挿花に時節相当ある事
廿七 数多の星空中を飛ぶ 附 光り物空中を飛
廿八 定則君の筆記 附 跡部光海翁の書牘
廿九 定則君の詠歌
三十 筑紫従門君の書牘
卅一 伊能穎則翁長歌短歌

第46冊 桜斎随筆 四十
桜斎随筆巻
  目録
壱 後光明天皇
弐 宗長親王詠歌 附 南北南朝の武臣
参 尊王略 附 皇威の衰弱及武将の衰弱
四 武将歴世
五 大老井伊直弼政治 附 徳川氏将軍職を失ふ原因 安政の大獄
六 豊太閤の父異説区々 附一族
七 豊太閤の詠歌
八 英雄は人の国家を奪ふ 附 惺窩先生の評
九 大谷派本願寺の怪異
十 馬夢に玉を授く
十一 琵琶笛流行 附 図
十二 春日姫神考
十三 武家諸姓
十四 百児斉国より駱駝渡る
十五 廿一年一月中下総常陸火災多し
十六 同年の雪 附 拙吟発句
十七 同年参宮人多し
十八 豊受神宮神馬牽進式
十九 廿一年鹿島の景況
二十 蛞蝓の戦争
廿一 貧者の寄附金
廿二 旧通用金奉納
廿三 安永元年江戸大火
廿四 火の玉飛ぶ
廿五 勝伯爵の感慨
廿六 大石良雄の定紋二ツ巴 附 笠間大石邸
廿七 文化三年江戸大火
廿八 丸山作楽外国の話
廿九 太平記は虚構多し
三十 山岡鉄太郎と覚王院との談判 附 天海が皇子を招待は東西両朝の企下心なり
卅一 日暮里の十二景
卅二 享保中武相の界怪異

第47冊 桜斎随筆 四十壱
 桜斎随筆巻
  目録
壱 先哲和歌
弐 蝮草
参 諏訪湖の水
四 戸隠山の老猿
五 谷中将の演説
六 同氏の履歴
七 万機沿革
八 安政二年江戸大震
九 同三年暴風雨
十 幕府の閣老不仁 附 家慶公仁慈
十一 伊勢台に遊ぶ
十二 甲冑現神霊
十三 旧幕の小臣等商売を始む
十四 花かつみ
十五 江戸及近郷大橋の掛始
十六 安永元年江戸大火
十七 安政五年同所大火
十八 琉球人の和歌
十九 西山遺事抜萃 附 常陸記抜萃
二十 カン/゛\ノーキウレンスと云唄踊流行
廿一 光格天皇御製和歌
廿二 源烈侯尊王 附 久昌寺等の事
廿三 鹿島にて鹿を神の使と云説
廿四 蜀山人の狂歌
廿五 一富士二鷹三茄子は駿河の名物なり
廿六 英一蝶画系
廿七 墨水消夏録抜萃
廿八 馬怨を報ふ
廿九 神罰
三十 盲女山中に妖声を聞
卅一 盲人雪中に狼を殺す
卅二 田野村竹田。三熊露香女
卅二 二十年の秋深楓
第48冊 桜斎随筆 四十二
 桜斎随筆巻
   目録
壱 二十年度・廿一年度社入金増減表 附 別宮其他廿年・廿一年四月分
弐 雨宮域内大樹調査
参 鏡台山の観月
四 三重県へ転籍 附 大宮司旧記
五 大宮司分家
六 桜花帖題跋
七 文政年間流行の物品
八 島津久光公の伝
九 尊号美談
十 新井白石翁太平記の評
十一 木下家に太平記の稿本ある事
十二 西条山と妻妾山との説
十三 高台寺の怪事
十四 源平両家の盛衰論
十五 三世の説
十六 世治て功臣殺さる
十七 板倉重昌辞世の和歌
十八 鄭芝龍授兵を乞し時加州侯の書牘
十九 皇学者と僧と問答
二十 赤穂義士仇討に付白石翁の意見 附 幕府の臣両国橋にて義士を遮きる
廿一 右義士に付将軍綱吉公苦慮 附 明治元年大石以下に金を賜ふ 寺阪吉右衛門の事 多門氏堀内氏覚書 外数件
廿二 鹿島神宮へ鳳凰来儀
廿三 鸞の剥製
廿四 枸杞は養生の仙薬
廿五 天保政府
廿六 顕官の人々本国
廿七 梅林変して桑園となる
廿八 徳川幕府は世々閨門無締
廿九 頼三樹三郎辞世の和歌
三十 勝安芳伯の艱苦
卅一 林羅山翁上野の別荘に十二景を定む
卅二 朝廷に対し徳川氏の跋扈 附 松平正之及惺窩先生井伊直亮松平容保の事
卅三 旧会津藩士の問答
卅四 上杉謙信の詩歌 附 武田信玄の歌並家康呪咀の句

第49冊 桜斎随筆 四十三
 桜斎随筆巻
  目録
壱 元禄十六年江戸大震
弐 寛政十年星多く飛ぶ
参 小菅御殿 附 日々の松 浅草海苔
四 文化十三年の奇怪
五 松前の海嘯
六 名立崩
七 信州の大震
八 文化十三年五月江戸にて所々変事あり
九 江戸にて夜中人を突事流行
十 越後の大震
十一 江戸及近在洪水
十二 同所怪異
十三 京都大震
十四 伊勢ダリの怪
十五 仏法の盛衰は耶蘇教に因る
十六 鬼役
十七 篠塚伊賀守は畠山重忠六世の孫
十八 海防貢献上の者へ位階の褒賞を賜ふ
十九 易義翁の長寿

第50冊 桜斎随筆 四十四
 桜斎随筆巻
  目録
壱 高倉山の怪異 附 岩戸山近辺同内宮々域内の怪 六日中狼市中に出る クモ火
弐 則文大滝を見る 附 大淀の古松
参 野後村の香魚
四 文化三年及弘化三年江戸大火
五 二十年水戸及太田の景況 附 鹿島同
六 男女徳義の検査
七 七百五十名の婦人溺死
八 鯱と鯨の争闘
九 鹿島沖の鯱
十 阿曽村の鉱泉
十一 古市町の産土祭ねり物
十二 板倉景山両女子の書牘
十三 四条派の画価騰貴
十四 墨陀の公園設立
十五 日蝕の話 附 図 嘉永五年の日蝕
十六 越後の大震
十七 東京大雷雨
十八 神宮皇学館
十九 古今画伯十傑
二十 皇学館
廿一 弦巻形古鈴の図
廿二 釣り玉の図
廿三 古代の鎌の図
廿四 同枝折の図
廿五 汐合橋の間数
廿六 所得金高
廿七 神
廿八 神宛会
廿九 岳飛四字 附 文天祥三十二字
三十 吉野山中の池
卅一 暴風雨 二十年十月八日 附 腕車修復 駐車場設立
卅二 塊炎空を渡る
卅三 大蘿蔔 大蕪
卅四 松浦翁の書牘
卅五 勢州暴風雨
卅六 娼妓の数
卅七 東京不穏
卅八 島津久光君の辞世
卅九 米人大神楽奉納
四十 有志東京退居に付勝伯の話 附 詠歌
四十一 孝行なる娼妓

第51冊 桜斎随筆 四十五
 桜斎随筆巻
  目録
壱 慶光院旧記
弐 伊勢国司北畠紀略 抜萃
参 宝永二年伊勢参宮之事 世俗 おかげ参と云

第52冊 桜斎随筆 四十六
 桜斎随筆巻
  目録
壱 十九年一月一日参宮人の景況
弐 鰡の大漁獲
参 日本全国の田数
四 鹿島及伊勢新年の花
五 僧月僊の陰徳
六 有栖川幟仁親王薨去
七 十九年一月以降降雪
八 同年陰暦正月元日大々神楽小神楽供に多く奉納
九 画伯米僊来遊
十 梅花及春雨
十一 久邇宮懇親会御催
十二 宇治山田辺の上等料理店の下物
十三 十九年鹿島の景況
十四 東京火災の惨状
十五 重三の雪
十六 鹿島及佐倉火災
十七 氷魚に飯蛸交る
十八 元禄の頃の簪 附 宮崎文庫溝川の怪虫の図
十九 キンコウジユ
二十 古金銀奉納者
廿一 十九年伊勢の観花
廿二 天保会
廿三 孝子万吉の子孫江州に在り
廿四 東京地形沿革
廿五 鹿島神宮の景況
廿六 製暦局増築
廿七 独逸人大々神楽奉納
廿八 牛馬の闘争
廿九 千草村の温泉
三十 京都の地積及町数溝梁調査
卅一 黒金葛の杖奉納
卅二 神苑設立に付総神官より金円寄附
卅三 第一教院部長
卅四 延命草
卅五 宇治橋の間数
卅六 富士山の測量
卅七 年中休暇日
卅八 諸国旱魃
卅九 狐狗狸

第53冊 桜斎随筆 四十七
 桜斎随筆巻
  目録
壱 二十年一月一日より三日迄の天色 附 支那 同東京及諸国降雪
弐 鹿島大祭日毎降雨
参 水戸大火の詳報
四 同 附 常総所々大火
五 鹿島大祭日降に付不景気
六 支那陰暦元日より十日迄雨雪
七 天候の嘆声 東京附下
八 神宮参詣人早し
九 支那上海寒気強し
十 神社仏閣保存費下賜 附 官国幣社改正
十一 髭の流行
十二 当世女の骨格
十三 茨城県下十傑
十四 芝区の大火
十五 野狐音曲を聞 附 野狐投真金聞長唄三絃
十六 鹿島神宮の景況 附 市中の景況
十七 同文学の地名も国々にて読方に替りあり
十八 弘化四年三月信州大震
十九 世に云ふ白柄組は椶櫚柄の誤なり
二十 一家内の共和政治
廿一 千葉茨城両県より東京へ輸入の家禽水禽惣数 附 山鷄の味
廿二 欧洲戦争の数及其原因
廿三 食用鳥類 附 内外の飼鳥種類
廿四 雌燕姦通の冤罪に斃る 附 貴頭の夜会不品行の説
廿五 英人日本の活花を賞す
廿六 慶喜公と勝伯と贈答の和歌
廿七 政府の景況
廿八 本夫の為に謝罪
廿九 毎年強風暴風ある時候
三十 皇子御命名式
卅一 祭典費減少に付大谷氏より来状
卅二 儲君の御筆
卅三 大阪の実況
卅四 蛇の幽霊
卅五 東京人が田舎の食物を譏るは不心得
卅六 縊死せし人の魄を靖める法 附 人魄を捕ふ
卅七 古市町の幻灯会を看る
卅八 東叡山内戦闘実況
卅九 関東の士民天朝を怨む
四十 歩兵吉原廓中及所々乱妨
四十一 毛利邸 上中 破却
四十二 慶応二年江戸中強盗跋扈 附 島津邸焼討
四十三 奸徒等神仏の玉串札を降らす
四十四 毛利氏の藩士必死を極むる原因
四十五 毛利邸破却人数配り 附 長井雅楽辞世詩歌
四十六 同家破却詳細記

第54冊 桜斎随筆 四十八
 桜斎随筆巻
   目録
 壱
 弐
 参
 四
 五

第55冊 桜斎随筆 四十九
 (目録ナシ)
第56冊 桜斎随筆 五十
 (目録ナシ)
第57冊 桜斎随筆 五十一
 (目録ナシ)
第58冊 桜斎随筆 五十二
 (目録ナシ)
第59冊 桜斎随筆 五十三
 (目録ナシ)
第60冊 桜斎随筆 五十四 止
 明治二十年三月 皇太后御参拝記
 同年二月 有栖川宮御参拝記

*『桜斎随筆』の絵図

●絵図の閲覧は→http://www.ksskbg.com/「鹿島則文と桜山文庫」→「桜斎随筆の絵図」

1 『桜斎随筆』全60冊(配本毎)
2 『桜斎随筆』表紙(巻1〜巻6,巻45〜巻54)
3 巻1  鹿島則孝「はしかき」
4 巻1  鹿島則孝「はしかき」
5 巻12  文政〜明治維新の男子の髪形
6 巻12  文政〜明治維新の男子の髪形
7 巻12  文政〜明治維新の婦人の髪形
8 巻12  文政〜明治維新の婦人の髪形
9 巻12  諸侯供連の様子
10 巻12  諸侯供連の様子
11 巻12  諸侯供連の様子
12 巻12  諸侯供連の様子
13 巻12  諸侯供連の様子
14 巻12  諸侯供連の様子
15 巻12  諸侯供連の様子
16 巻23  元治元年7月19日,京師焼失略図
17 巻23  元治元年7月19日,京師焼失略図
18 巻24  長防攻口并国図
19 巻26  長防并隣国接界図
20 巻26  長防并隣国接界図
21 巻34  宮川東の桜図
22 巻34  宮川東堤の桜図
23 巻34  宮川東堤の桜図
24 巻34  斎藤拙堂著月瀬記之中抜粋写
25 巻34  尾山村一目万本
26 巻34  尾山村一目万本 其二
27 巻34  尾山村一目万本 其三
28 巻34  尾山村一目万本 其三
29 巻34  尾山村一目万本 其三
30 巻34  摂州桜の宮 花盛
31 巻34  洛西嵐山 桜花
32 巻34  洛西嵐山 桜花
33 巻34  紫辰殿階下 左近の桜
34 巻34  御苑の桜・知恩院の八重桜,吉野山一目千本桜
35 巻34  吉野山一日干本桜
36 巻34  同奥 千本桜
37 巻34  同奥 千本桜
38 巻34  蜻螟滝,宮滝
39 巻34  宮滝,吉野山の桜
40 巻34  高滝
41 巻34  早川の筏




TOP