深沢秋男研究室 鈴木重嶺の研究

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■鈴木重嶺の伝記研究
●鈴木重嶺・翠園、と言っても、現在では余り知られていない。日本歴史の分野では、徳川の幕臣として、最後の佐渡奉行であり、勝海舟とは親密な間柄であって、この点で知られている程度である。また、文学史の分野では、幕末・維新の和歌の世界で、佐佐木信綱と同時代に生きた歌人、その主宰雑誌が、やがて信綱の『心の華』と合併したこと位が知られている程度であろう。しかし、この重嶺・翠園は、このいずれの分野でも、再評価されなければならないものを持っている、と考え始めている。

目  次
鈴木重嶺・翠園との出会い
昭和女子大学図書館所蔵・鈴木重嶺(翠園)関係資料
鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説
ぁ[詭攴杜(翠園)の墓所に標識設置

 ⇔詭攴杜罅翠園との出会い
昭和女子大学の桜山文庫には、江戸末期の旗本の家の女性の日記『井関隆子日記』が所蔵されている。天保11年から15年までの5年間の著者自筆の、全12冊の写本である。
この写本を校訂して、固有名詞に注をつけて、上中下の3冊本で、昭和53年に勉誠社から出した。その校注作業の中で、隆子が、佐渡の歌人・蔵田茂樹と深い交流をもっていた事が判明し、その折は、佐渡の山本修之助氏の御教示で切り抜けた。
ところが、隆子は茂樹に、自分の創作『神代のいましめ』を書き贈っていた。そして、その書写本が学習院大学図書館の、佐藤硯湖の写本「▲虫居写本」全160冊の内、第145冊目に収録されていたのである。早速調査してみると、巻末に「底本鈴木氏翠園叢書」とある。翠園叢書は、鈴木重嶺の書写本である事までは判明したが、かの佐渡出身の研究者・萩野由之も伝存未詳としていた。
昭和52年、『国文学』の目録で「翠園叢書」に関する論文を松本誠氏が紀要に発表しておられる事を知り、関東短期大学に問い合わせて、松本氏にお会いする事ができた。世田谷区奥沢の300坪のお宅は、街中にありながら、緑におおわれ、車の音も聞こえず、閑静な家で、まず客間で、重嶺像の油絵を拝見、やがて「翠園叢書」を閲覧させて頂いた。
井関隆子の『神代のいましめ』が、鈴木重嶺の「翠園叢書」に収録された経緯は、隆子が知人の佐渡の歌人・蔵田茂樹に書き贈り、それが、茂樹の子の茂時によって、佐渡奉行の鈴木重嶺に献上されたものであると推測される。隆子研究にとって貴重な伝存である。

◆⊂赦遜子大学図書館所蔵・鈴木重嶺(翠園)関係資料
平成7年1月、松本誠先生は、豊橋の大学の研究室で倒れられ、急逝された。この折、私は、先生の奥様・松本栄子氏から、蔵書の処置に関して相談された。
1日、お宅へ伺い、先生の蔵書を整理した。‐硝楡萓犬慮翆書を含む国語学関係の図書。一般図書。N詭攴杜羇愀源駑繊この3つに大別して処理する事にした。 Ν△鷲要なものを残して、古書店に売却するように提案した。問題はである。これは貴重な資料であるので、1つの方法は、神田の専門の古書店に売ること。これは、この資料を最も必要とする研究者や図書館に購入されて、資料が活用されるので、有効な方法である。もう1つは、今は亡き松本先生の遺志を推測して、先生が最も望んでおられたと思われる処置をすること。この2つの方法を提案した。
奥様は、即座に、出来れば、鈴木重嶺の名を後世に伝えたい、と申され、結果、昭和女子大学に寄贈して頂く事になった。
第1次・・・平成8年、松本栄子氏より、80点寄贈。
第2次・・・平成10年、古書店より、42点購入。
第3次・・・平成11年、古書店より、170点購入。
昭和女子大学図書館では、「翠園文庫」を新設し、重嶺関係資料を永久保存することにして、現在に至っている。
参考までに、鈴木重嶺関係資料が、どうして、「松本」家に所蔵されていたか、資料の信憑性にも関わる事であるので、簡単に紹介しておく。
鈴木家、第13代・重▲(孵の右)に子が無く絶家。その四女・ふゆは松本家の養女となっていたが、その子・松本誠に鈴木家の墓地と関係資料を継承させた。重嶺の自筆草稿や、重嶺他界の折の葬儀参列者記録等、伝記研究の第一資料が含まれているのは、このような経緯の故である。


N詭攴杜(翠園)伝記研究序説

                         深沢 秋男


目  次

 一、はじめに
 二、鈴木重嶺関係資料、昭和女子大学へ
 三、鈴木重嶺略年譜稿
 四、鈴木重嶺伝記関資料
 五、最後の佐渡奉行・鈴木重嶺
 六、鈴木重嶺と勝海舟
 七、歌人・鈴木重嶺(翠園)
 八、鈴木重嶺の人物像
 九、おわりに

  
一、はじめに

『国書人名辞典』
(一九九五年五月二十五日、岩波書店発行)・
 「鈴木重嶺(すずき しげね) 幕臣・歌人 〔生没〕文化十一
 年(一八一四)六月生、明治三十一年(一八九八)十一月二十六
 日没。八十五歳。墓、東京西大久保全竜寺。〔名号〕本姓、穂積
 。初め小幡氏。名、重嶺・有定。字、子高。通称、大之進。号、
 翠園・緑堂・知足斎。法号、翠園重嶺居士。〔家系〕小幡多門の
 男。鈴木半次郎の養子。〔経歴〕江戸で生れる。養家を継いで幕
 臣となり、伊賀者・徒目付・勘定吟味役・勘定奉行・槍奉行など
 を経て、慶応元年(一八六五)佐渡奉行。諸大夫となり兵庫頭を
 称す。明治元年、職を免ぜられ田安家に身を寄せる。維新後、浜
 松県参事、相川県権知事を歴任し、明治十一年、辞職。従五位。
 村山素行・伊庭秀賢に学んで国学・和歌を能くし、退官後は東京
 で鶯蛙吟社を組織し、雑誌『詞林』を主宰した。師の年忌に『志
 能夫具佐』を出版。墨竹に長じた。
 〔著作〕伊香保前橋之記 詠史清渚集 オトと子との差別或人問
  於よづれ言 紀行 絹川花見の記 皇風大意〈文久元〉 御諡
 号概略 島曲廼古豆美〈慶応二〉 旅路記恵の露〈文久三〉 旅
 路廼日記〈文久三〉 二十二番扇合判 農諭〈慶応三〉 二荒山
 歌合 夢路の日記
 〔参考〕国学者伝記集成 東京掃苔録 和歌文学大辞典 「鈴木
 重嶺翁小伝」(『旧幕府』2ノ3)」

『和歌文学大辞典』
(昭和37年11月15日、明治書院発行)
 「鈴木重嶺(すずき しげね)文化一一(一八一四)・・明治三
 一(一八九八)。八五歳。旧幕旗本の家に生。維新前後を通じて
 官界の諸職を歴任したが、その後官を辞して東京に出、鶯蛙吟社
 を組織し、月並歌会を催し、短歌雑誌『詞林』を発行した。『詞
 林』は後に、佐佐木信綱の『心の華』(心の花)に合併した。国
 学・歌を、橘千蔭系の村山素行・伊庭秀賢に学んだ。明治一三に
 発行された『開花新題歌集』、『大八洲学会雑誌』等の作者欄に
 名を列ね、明治二四の『早稲田文学』第三号の「現在の名家」に
 作品を載せているところから見ても、明治初期歌壇の名家と見な
 されていたことが知られる。歌風は、〈をみなへし尾花とふたつ
 争はばいづれがかみに立たむとすらむ〉(男女同権)〈小松むき
 すずな摘みにし野べに来て同じ名におふ虫を聞くかな〉という歌
 にも見られるように、平淡ではあるが、やや理に陥る弊がある。
 (清崎)」

鈴木重嶺との出会い
 昭和四十八年から五十六年にかけて、近世末期の旗本女性の日記
の校注をしていた。現在、昭和女子大学図書館・桜山文庫に所蔵さ
れている『井関隆子日記』である。この日記の中に、佐渡の歌人・
蔵田茂樹との交流の様子がかなり詳しく出てくる。隆子は、天保十
四年一月晦日の条で、自分の創作『神代のいましめ』を茂樹に書写
して贈ったと記している。この書写本が佐渡に伝存しているか否か
調査したが未詳であった。しかし、学習院大学図書館の雕虫居写本
の中に『迦美世能伊末志米』が収録されている事がわかり、早速閲
覧、調査してみると、その巻末に「明治十七年十二月三十一日自薄
晩至初更写歌集底本鈴木氏翠園叢書之一也 市谷書院」とあった。
底本が鈴木氏の「翠園叢書」である事は判明したが、「翠園叢書」
は国会図書館に一冊を所蔵するのみで、これには収録されていない
。このような状態で数年が経過した。昭和五十一年十二月号『国語
と国文学』の雑誌要目の中に、松本誠氏の鈴木重嶺に関する論文を
発見、初めて松本氏にお会いすることができた。
 実は、松本誠氏は鈴木重嶺の御子孫であり、最後の佐渡奉行であ
った重嶺の旧蔵書を全て所蔵しておられた。待望の『翠園叢書』全
六十八巻六十七冊も閲覧させて頂くことができた。井関隆子の『神
代のいましめ』がこの叢書に収録されたのは、蔵田茂樹の子の茂時
が佐渡奉行の鈴木重嶺に献上したからであった。この『翠園叢書』
には、他にも隆子の作品が収録されており、以後も松本氏には大変
お世話になっていた。
 翠園・重嶺は鈴木家の第十一代である。十二代重明の子・重孚に
に継嗣が無く、重明の四女・ふゆと松本氏との間に生まれた松本誠
氏が鈴木家を継ぎ、鈴木家の菩提寺・全龍寺の墓所も管理しておら
れた訳である。

松本誠氏の重嶺研究
 松本氏は鈴木重嶺の御子孫という事もあり、御専門の国語学の研
究の傍ら、御所蔵の資料の紹介を続けながら、重嶺の研究をしてお
られた。松本氏の重嶺関係の論考を列挙すると次の通りである。
 ○翠園鈴木重嶺旧蔵「穂積姓氏考」「蒲原記」について(一)(
  『関東短期大学紀要』第16集、昭和45年12月)
 ○翠園鈴木重嶺旧蔵「穂積姓氏考」「蒲原記」について(二)(
  『関東短期大学紀要』第17集、昭和46年12月)
 ○翠園鈴木重嶺編「志能夫具佐」(『関東短期大学紀要』第18集
  、昭和47年12月)
 ○鈴木重嶺編「翠園叢書」及び「翠園雑録」について・・目録解
  題 その一・・(『関東学園開学五十周年記念論文集』、昭和
  49年3月)
 ○鈴木重嶺編「翠園叢書」及び「翠園雑録」について・・目録解
  題 その二・・(『関東短期大学紀要』第20集、昭和50年3月
 ○鈴木重嶺編「翠園叢書」及び「翠園雑録」について・・目録解
  題 その三・・(『関東短期大学紀要』第20集、昭和51年3月
 ○翠園・鈴木重嶺年譜資料覚書(『近世の学芸・・史伝と考証
  ・・』(昭和51年3月、八木書店)

  二、鈴木重嶺関係資料、昭和女子大学へ

 平成七年一月、松本誠先生は大学の研究室で急逝されてしまった
。祖先・鈴木重嶺の伝記を目指して研究を続けておられたが、道半
ばにして他界されたのである。後日の事であるが、奥様の松本栄子
氏から蔵書の整理に関して相談された。松本先生には、長い間、御
厚情を賜った関係もあり、私は所蔵本の整理を引き受けることにし
た。一日、御自宅に伺い、先生の所蔵本を、次の三種に分類した。
一、一般書。二、松本先生の著書をはじめ国語学関係書。三、鈴木
重嶺関係資料。これらの処置に関しては、奥様とも十分に御相談の
上、松本誠先生が最も望まれると推測される方法をとる事になり、
特に鈴木重嶺関係資料については慎重に検討した結果、私の勤務先
である昭和女子大学図書館に寄贈して頂く事になった。
 私は、昭和女子大学図書館とも相談して、鈴木重嶺関係資料を御
寄贈頂く事にして、その作業を進めた。資料の中には、『翠園叢書
』全六十八巻・六十七冊、『翠園雑録』全二十五巻・二十三冊をは
じめ、重嶺の自筆本が多数含まれていた。さらに『故重嶺翁供物扣
帳』『訃音啓送』『会葬人名簿』『吊客名簿』『持参帳控』『配付
扣』『(葬儀記録)』等々、重嶺他界の折の記録など、伝記研究上
極めて貴重な資料全てが含まれていた。重嶺の葬儀参列者名簿には
合計一〇六八名の氏名が記録されていて、参列者の住所も記されて
いるので、当時の東京の文化史的な史料としても貴重である。その
他、鈴木家の表札、鈴木重嶺の名刺、重嶺愛用の桐製文机、写真二
十七枚(重嶺、重明、重孚、本居豊穎、佐佐木信綱、榎本武揚、井
上頼国、与謝野晶子等が写っている)、鈴木家墓石の拓本等々も含
まれていて、やがて、鈴木重嶺伝記研究の基本的資料になるものと
思われる。
 これらの鈴木重嶺関係資料、全八〇点は、平成八年七月十六日、
昭和女子大学に寄贈され、同図書館では「翠園文庫」を新設して、
貴重書として管理保存している。
 なお、その後、古書店に鈴木重嶺関係資料が出て、これらも大部
分昭和女子大学で購入する事ができた。第一次購入は、平成十年二
月四日、全四二点、第二次購入は、平成十一年十月一日、全一七〇
点である。いずれも自筆草稿等が多数含まれ、鈴木重嶺研究の基本
的資料が昭和女子大学図書館に収集出来た事になる。なお、昭和女
子大学図書館では、国会図書館等に所蔵されている、鈴木重嶺関係
資料の複写を収集して、その充実に努めている。
 これらの鈴木重嶺関係資料の具体的な内容に関しては、全て報告
済みである。それを列挙しておく。
 ○鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介 深沢秋男(『学苑』第六九四
  号、平成10年1月)
 ○鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(2)・・付、飯田龍一氏旧蔵
  ・江戸図関係資料紹介・・ 深沢秋男(『学苑』第七〇五号、
  平成11年1月)
 ○鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(3) 深沢秋男(『学苑』第
  七一六号、平成12年1月)
 ○鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(4) 深沢秋男(『学苑』第
  七三八号、平成14年1月)


  三、鈴木重嶺略年譜稿

〔注〕■=重嶺関係  □=鈴木家関係  
●=主要人物没日  ◎=参考事項
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://gwaikotsu.com/→「近世文学研究所」→「鈴木重嶺関係資料」→「鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説」
◎私の力では、表組の表示がうまく出来ません。近々エクセルを習います。



四、鈴木重嶺伝記関係資料

  1、鈴木家菩提寺 海亀山・全龍寺

 鈴木家の菩提寺は、東京都新宿区大久保一−一六−一五に現存す
る、曹洞宗の海亀山・全龍寺である。ただし、二代・重元からであ
る。初代・重経は、北条氏康に仕え、永禄十二年(一五六九)十二
月六日、甲斐の国、武田信玄・勝頼父子の蒲原城攻めの折、主君・
北条新三郎時之と共に戦死、駿州蒲原在善福寺村の善福寺に葬られ
た。二代・重元は、天正十八年(一五九〇)小田原合戦の折、徳川
家に召し出され、武州豊島郡多摩郡六箇村の内、大久保村に采地四
千坪余を賜った。寛永十二年(一六三五)病により致仕し、十三年
十月八日没、武州豊島郡大久保村全龍寺に葬られた。以後、鈴木家
は代々全龍寺を葬地として現在に及んでいる。
 海亀山・全龍寺は、寛永四年(一六二七)成願寺(東京中野区)
の第六世住職によって開山された。鈴木家の墓所には、二代・重元
以下歴代の墓石九基が現存する。入口から入ってすぐ左手前に松本
家の墓石二基がある。鈴木家第十三代の重孚に子が無かったので重
孚の妹、十二代重明の四女ふゆと松本氏の子・誠氏が鈴木家を継い
で、全龍寺の墓所も管理している。昭和五十三年墓所を改葬して、
松本家の菩提寺、浅草の大音寺から二基を移管したのである。詳細
については、いずれ報告する予定であるが、二代から現代まで、ほ
ぼ元のままで伝存しているのは、伝記資料として貴重な存在である
。今後は、この墓所・墓石の保存に留意して、後世へ伝えなければ
ならない。

  2、鈴木家過去帳(祀堂帳、松本栄子氏蔵)

 鈴木家の菩提寺・全龍寺の過去帳は焼失して伝存しない。しかし
、松本家には先祖代々の祀堂帳形式の過去帳が保存されている。折
本形式で朔日から晦日まで(最後に三十一日あり)、縦一六九ミリ
×横七〇ミリ、厚さ一二三ミリ。金の模様の布表紙、中央上部に金
色の題簽があり、題簽題は記入されていない。明治末頃に書写され
、以後補筆されたようにおもわれる。(平成十六年二月十九日最終
調査)


『鈴木重嶺家過去帳』(祀堂帳)
                       松本栄子氏所蔵
  穂積臣苗裔 鈴木荘司重国十一代孫

 1、重 経
 六日/英俊院殿雄山良貞居士/永禄十二己巳年十二月於蒲原城戦
   死/駿州蒲原在善福寺村/葬地 善福寺
 2、重 元
 八日/海穏院殿甚浪清平居士/寛永十三子年十月/甚平重元君
  (葬地 武州豊嶋郡大久保村 全龍寺)
 3、重 道
 十日/賢梁院殿石室道鉄居士/延宝四辰年六月/源吾左衛門君
  (葬地 全龍寺)
 4、重 清
 八日/超道院殿真翁浄西居士/元禄十丑年十一月/七郎右衛門君
  (葬地 全龍寺)
 5、重 利
 廿九日/利貞院殿了安元随居士/正徳三巳年六月/六左衛門君
  (葬地 全龍寺)
 6、重 秀
 十四 /秀雲院殿乾峯良坤居士/寛延三午年十二月/鈴木六左衛
   門君(葬地 全龍寺)
 7、重 高
 十八 /慶松院殿梅岳道林居士/宝暦十三未年正月/鈴木新助君
  (葬地 全龍寺)
 8、重 晃
 四日/峯月院殿雪岩道光居士/寛政三辛亥十二月/文蔵君(葬地
   全龍寺)
 9、義 道(重高三男)・
 廿一日/賢性院殿寿山良光居士/弘化三丙午年正月/定八郎好道
   君(葬地 全龍寺)
 10、重 親
 十九日/義岳院殿華山道栄居士/文政十亥年九月/半次郎重親君
  (葬地 全龍寺)
    〔没年は『翠園鈴木重嶺系図』の「天保二年辛卯五月廿八
     日死」が正しい〕
 11、重 嶺
 廿六日/十代目/従五位鈴木重嶺/号翠園/不受法名/明治三十
   一年十一月廿六日/享年八拾五歳/半次郎重親養子/小幡多
   門有則次男/実母堀江貞通妻/葬地大久保村全龍寺
 12、重 明
  (大正二年に満州撫順で客死)
 13、重 孚
 三日/清閑院慈徳重孚居士/昭和五年一月/鈴木重孚/西大久保
   全龍寺





  〔参考〕鈴木家・松本家関係図

            ・・・長女(早世)
  ○重嶺・・・○重明・・・○重孚(嗣無く、絶家)
            ・・・次男 巌
            ・・・次女 多
            ・・・三女 きせ
            ・・・四女 ふゆ(松本家の養女となる)
               ・    (昭和33年没)
               ・・・松本誠(平成7年没)
               ・    ・
               ・    ・
                    ・
                    栄子

  3、鈴木重嶺葬儀関係資料(昭和女子大学所蔵)

 前述の如く、平成十年二月四日、松本栄子氏から、鈴木重嶺関係
資料が昭和女子大学図書館に寄贈されたが、その中には、鈴木重嶺
の伝記を作成する上で極めて重要な資料と判断される、重嶺他界の
折の関係資料が含まれている。以下、簡略に紹介する。

  A、故重嶺翁供物扣帳
半紙二つ折(横長)16枚綴、1帖。1枚目に「明治三十一年十一月
廿六日」とある。「五円 榎本弁吉、拾円 勝安芳、壱円 中嶋歌
子、壱円 佐佐木信綱、拾円 前田利嗣、拾円 三田徳川、壱円
  荻野由之」等と記す。

  B、訃音啓送
半紙二つ折(横長)8枚綴、1帖。1枚目に「訃音啓送/東京府内
/一号/三十一年十一月廿六日」とあり、勝安芳、榎本武与、井上
頼国、久我侯爵、水野忠敬、榎本武揚、近衛公爵、佐佐木信綱、黒
川真頼、等の名を記す。

  C、会葬人名簿
一号〜四号、半紙二つ折(横長)16枚綴、1帖。第一号の1枚目に
「会葬人名簿/第一号/惣人名弐百四十七」、第二号の1枚目に「
会葬人名簿/第二号」、第三号の1枚目に「会葬人名簿/第三号」
、第四号の1枚目に「会葬人名簿/第四号」とあり、江刺恒久、田
口卯吉、佐佐木信綱、井上頼圀、文雅堂、久我侯爵、勝安芳、中島
歌子、等の名がある。

  D、吊客名簿
半紙二つ折(横長)12枚綴、1帖。1枚目に「吊客名簿/三十一年
十一月廿六日」とあり、榎本武与、黒川真頼、黒川真道、水野忠敬
、中島歌子、佐佐木信綱、正親町実正、萩野由之、江刺恒久、毎日
新聞社、佐々木古信、井上正直、等の名がある。

  E、持参帳控
半紙二つ折(横長)29枚綴、1帖。1枚目に「持参帳ひかへおぼへ
/十月十三日くはり物」とある。「小石川竹早町六十五番地 佐々
木古信、小石川水道町十四番地 中嶋歌子、牛込西五軒町四十七番
地 江刺恒久、下二番町四十七番地 水野忠敬、小川町一番地 佐
佐木信綱様(印)、今川小路まないた橋 玉川堂様(印)、東町三
丁目 博文館/大橋佐平様(印)、尾張町 毎日新聞社御中(印)
、麹町区富士見町五丁目十二番地 正親町様(印)、同富士見町弐
丁目四十二番地 四条様(印)、赤坂氷川町四番地 勝従二位様(
印)、等の氏名住所が記されている。

  F、配付扣
半紙二つ折(横長)11枚綴、1帖。1枚目に「配付扣」とあり、榎
本弁吉、榎本武与、黒川真頼、久我建通、大隈重信、水野忠敬、勝
安芳、日龍社編輯局、中島哥子、榎本武揚、佐佐木信綱、三田葆光
、鍋嶋直大、津軽伯爵、前田利嗣、田安伯、井上頼国、江刺恒久、
佐々木古信、萩野由之等の名が記録されている。

  G、〔葬儀記録〕
半紙二つ折(横長)37枚綴、1帖。朱筆にて「壱号」から「十五号
」まで人名を記す。壱号には、正二位勲一等公爵 毛利元徳、従一
位勲一等 近衛忠熈、従一位勲二等 正親町実徳、従一位勲一等
久我建通、従二位勲二等侯爵 蜂須賀茂韶、従三位侯爵 前田利嗣
、正三位勲三等伯爵 津軽承昭、正三位勲一等伯爵 勝安房、等28
名。弐号には、四条春子、木戸寿栄子、徳川操子、等25名。三号に
は131名。四号には61名。五号には94名。六号には、本居豊穎、
黒川真頼、小中村清矩、井上頼圀、三田葆光、萩野由之、江刺恒久
、佐々木古信、佐佐木信綱、等31名。七号には、中島哥子、等72名
。八号には28名。九号には104名。十号には140名。十一号に
は64名。十二号には41名。十三号には55名。十四号には37名。十五
号には157名。合計 1068名の葬儀参列者(代理も含めて)
が記録去れている。

 その他、喪主からの会葬礼状、葬儀諸費用覚、重嶺追悼歌会に関
する記録、重嶺追悼歌会に関する新聞広告、等々葬儀に関係した記
録があり、さらに、鈴木家初代の重経の墓石「穂積重経之墓」の拓
本等、いずれも伝記研究の第一級の資料が伝存している。今後、十
分な資料批判を加えて活用するならば、重嶺の伝記研究は大きく結
実するものと思われる。

  五、最後の佐渡奉行・鈴木重嶺

 鈴木重嶺は幕臣・小幡有則の次男として江戸に生まれ、鈴木重親
の養子となって鈴木家を継いだ。十八歳の時、小普請入りし、家督
を相続し、以後、広敷伊賀者、広敷取締掛、勘定吟味役、勘定組頭
、勘定奉行、鎗奉行、佐渡奉行を勤めた。『柳営補任』『徳川実紀
』の記録は次の如くである。

◎勘定組頭、安政二年六月(一八五五)      『柳営補任』
 「安政二年卯六月三日御勘定ヨリ、永々御目見以上/文久二戌七
 月廿六日御勘定吟味役/御勝手方/鈴木大之進」
◎勘定吟味役、文久二年七月(一八六二)     『柳営補任』
 「文久二戌七月廿六日御勘定組頭ヨリ、百俵高御加増被成下/同
 三亥六月七日大坂表江為御用被遣/元治元子七月二日御勘定奉行
 並/鈴木大之進/重嶺」
◎勘定奉行、元治元年七月(一八六四)      『柳営補任』
 「元治元子七月二日御勘定吟味役ヨリ、並、御勝手掛リ/同年同
 月廿三日御鑓奉行/鈴木大之進/重嶺」
◎鎗奉行、元治元年七月(一八六四)       『柳営補任』
 「元治元子七月廿三日御勘定奉行並ヨリ/同年八月十四日長州御
 征伐御供/同月十八日御役御免、勤仕並寄合/鈴木大之進/重嶺
◎佐渡奉行、慶応元年九月(一八六五)      『柳営補任』
 「慶応元丑九月十三日勤仕並寄合ヨリ、元御鑓奉行/同三卯十二
 月十四日奉書以出精相勤候ニ付諸大夫被仰付/同四辰閏四月十六
 日御役御免/鈴木大之進/兵庫頭/重嶺」

◎文久元年二月二十九日(一八六一)       『徳川実紀』
 「廿九日/一 金三枚/時服二  御勘定/鈴木大之進」
◎文久元年六月朔日(一八六一)         『徳川実紀』
 「御納戸搆/日光/御宮并/御霊屋御修復御用仕廻/罷帰候/御
 勘定組頭/鈴木大之進」
◎文久二年七月廿六日(一八六二)        『徳川実紀』
 「御勘定吟味役/百俵高ニ御加増/御勘定組頭/鈴木大之進〔重
 嶺〕/右於御前被仰付之。/但大之進ハ老中申渡。過而御前江被
 召出。」
◎文久二年十二月廿九日(一八六二)       『徳川実紀』
 「同断(仏蘭西。英吉利。其外国々江為御使被差遣。挌別骨折候
 )ニ付。右於御前被仰付之。……/巻物五/同(御勘定)組頭/
 鈴木大之進」
◎文久三年二月九日(一八六三)         『徳川実紀』
 「九日 上野御使。大坂近海御台場御取建ニ付。於江戸表御用取
 扱。……一上野 文恭院様御霊前江。……右 御献備。……御勘
 定吟味役/鈴木大之進」

 この外、幕府の記録としては『寛政重修諸家譜』等があるが、該
当する鈴木家を確定する事ができなかった。今後、さらに調査を進
めてゆきたい。
 鈴木重嶺は、元治元年(一八六四)八月十八日御役御免となり、
勤仕並寄合となるが、翌慶応元九月十三日佐渡奉行に任命される。
 この佐渡奉行拝命について、重嶺の和歌の教え子・石倉翠葉は、
大正五年(一九一六)の雑誌『旅行倶楽部』に掲載の「佐渡の思ひ
出 西郷南洲……勝海舟……鈴木重嶺」で次の如く記している。

 「……かう申しては失礼であるが、維新の当時に於ける佐渡人士
 は、極めて偏屈で御し難い風があつたさうで、何人が知事として
 赴任しても治め兼ねる程で、蓋世の英雄西郷隆盛も、遉に頭を悩
 まされた。所謂人選に苦んで居られたのである。されば平常人に
 逢ふ毎に此事を口にせられて、遂に日頃心服されつゝあつた海舟
 翁に相談せられた。すると翁は即座に「それは適当な人物がある
 。未だ世間に名は知られぬ男であるが、鈴木と云ふものがある。
 渠なれば慥に適任であるから、直ぐ今から辞令を出さつしやい。
 」「左様か、それは有難い」とばかり、素より海舟翁の推薦であ
 るから、一も二もなく南洲翁も信頼せられて、速座に辞令が認め
 られた。微賤の重嶺翁は一躍して佐渡守となつたのである。…」

 おそらく、歌の弟子の翠葉に重嶺が語っていた事であろう。元治
元年の時点で、勝海舟は軍艦奉行であり、西郷隆盛は軍賦役・小納
戸頭取となり、十月に大坂で勝海舟・西郷隆盛は会談をしている。
元治元年九月十一日付、勝海舟宛の西郷隆盛書簡には、
 「弥御安泰御座成られ珍重に存じ奉り候。然れば、分けて御談合
 申し上げ度き儀これあり、今朝下坂仕り候。御都合に依り何れの
 御旅亭へ参上仕り候て宜しく候や。刻限何比御手透の訳、何卒面
 倒乍ら御指示論成し下され度く願い奉り候。この旨貴意得奉り候
 。以上/勝安房守様 御取次衆/薩藩 大島吉之助」『勝海舟全
 集』別巻一、二五五頁、一九八二年四月一五日、勁草書房発行)
このようにあり、さらに、海舟日記、元治元年九月十一日の条には


 「●十一日/豊後殿御旅館へ参上。京師にて薩藩より建議あり、
 その言は、防長二州は半国を以て禁裡の御物成とし、半ば征討の
 諸侯へ下されべし。且、京師紛擾焼失の者へは悉く御手当下され
 然るべし。さりながら今、長征如何哉、知るべからず。まず此見
 込みを以て用途は政府より御差出し成らるべきか。さりながら御
 多端中、御用途如何。その内、薩州より差出し申すべくとなり。
 (是、その大意を記す)
 ○薩人大島吉之助、吉井中〔幸〕助、越人青山小三郎、来訪。云
 う、長征の御議紛々、決せず、関東御混雑、実に策の行わるべき
 無し。邦人紛擾再生せんか。如何して可ならむやと云う。今、天
 下危急日々相迫り、一人も実意邦家に尽す者なし。上下大抵私営
 、小節、又、嫌忌を避くるのみ。かくの如くにて如何ぞ瓦解せざ
 らん哉云々。」(『勝海舟全集』十八巻、二一六頁)
とある。この西郷書簡は,おそらく、大坂での会談の打合せだろう
と推測される。これらの事も合わせ考えて、石倉翠葉の言う、重嶺
の佐渡奉行への出世は勝海舟の推薦によるもの、というのは、真相
を衝いているように思われる。

 佐渡研究の権威・山本修之助氏は『佐渡の百年』(昭和47年6月
14日発行)で、重嶺の佐渡奉行着任の様子を次の如く記している。

 「……彼は慶応元年九月十四日、佐渡奉行を命ぜられ十月二十八
 日に江戸を出発、十一月十四日に越後出雲崎に着いた。ちょうど
 海は冬のシケ続きのため一か月も船待ちをした。……鈴木兵庫頭
 はついに十二月十四日船頭に船出を命じた。もちろん天候は悪く
 、それは無謀といえるかもしれなかった。しかし彼は、この荒波
 をおかして渡ってきた奉行の熱意を、佐渡人はわかってくれるこ
 とを信じていた。北海の怒濤の中を御奉行船は進んだ。さすがの
 大船も、このさかまく波には木の葉のようにほんろうされた。奥
 方も侍女もとうに船中に倒れ伏している。この時、彼は船首に立
 った。そして美しい筆跡の奉書をひろげ、
   国のため 大君のため わたる船路ぞ 日を経ずも 追手吹
   かせよ わだつみの神
  と旋頭歌一首を朗読し「奉 海神歌」と書いた表紙に包んで海
 中に投げ入れた。……
  十六日に相川着、十七日から奉行所で執務を開始した。いらい
 二年三か月、佐渡奉行職としては百一人目。そして最後の奉行と
 して治績をあげた。慶応三年十二月十四日、諸大夫を仰せつけら
 れている。伊賀者という低い身分から、ついに諸大夫という地位
 に進んだものは、勝安房守と都築駿河守と彼の三人だけであると
 いうことからも、いかにすぐれていたかがうかがわれる。」

 重嶺は、明治元年閏四月十六日、明治維新によって御役御免とな
ったが、明治四年には相川県参事として再び佐渡へ渡り、同六年に
は相川県権知事となり、同九年四月十八日、廃県により免職となっ
て東京へ帰った。この間、約十年間、佐渡の地で活躍している。こ
れは重嶺の生涯の中でも重要な意味を持つ期間となっている。この
関連の資料は、佐渡にも大量に残されている。具体的な調査はこれ
からである。


五、最後の佐渡奉行・鈴木重嶺

 鈴木重嶺は幕臣・小幡有則の次男として江戸に生まれ、鈴木重親
の養子となって鈴木家を継いだ。十八歳の時、小普請入りし、家督
を相続し、以後、広敷伊賀者、広敷取締掛、勘定吟味役、勘定組頭
、勘定奉行、鎗奉行、佐渡奉行を勤めた。『柳営補任』『徳川実紀
』の記録は次の如くである。

◎勘定組頭、安政二年六月(一八五五)      『柳営補任』
 「安政二年卯六月三日御勘定ヨリ、永々御目見以上/文久二戌七
 月廿六日御勘定吟味役/御勝手方/鈴木大之進」
◎勘定吟味役、文久二年七月(一八六二)     『柳営補任』
 「文久二戌七月廿六日御勘定組頭ヨリ、百俵高御加増被成下/同
 三亥六月七日大坂表江為御用被遣/元治元子七月二日御勘定奉行
 並/鈴木大之進/重嶺」
◎勘定奉行、元治元年七月(一八六四)      『柳営補任』
 「元治元子七月二日御勘定吟味役ヨリ、並、御勝手掛リ/同年同
 月廿三日御鑓奉行/鈴木大之進/重嶺」
◎鎗奉行、元治元年七月(一八六四)       『柳営補任』
 「元治元子七月廿三日御勘定奉行並ヨリ/同年八月十四日長州御
 征伐御供/同月十八日御役御免、勤仕並寄合/鈴木大之進/重嶺
◎佐渡奉行、慶応元年九月(一八六五)      『柳営補任』
 「慶応元丑九月十三日勤仕並寄合ヨリ、元御鑓奉行/同三卯十二
 月十四日奉書以出精相勤候ニ付諸大夫被仰付/同四辰閏四月十六
 日御役御免/鈴木大之進/兵庫頭/重嶺」

◎文久元年二月二十九日(一八六一)       『徳川実紀』
 「廿九日/一 金三枚/時服二  御勘定/鈴木大之進」
◎文久元年六月朔日(一八六一)         『徳川実紀』
 「御納戸搆/日光/御宮并/御霊屋御修復御用仕廻/罷帰候/御
 勘定組頭/鈴木大之進」
◎文久二年七月廿六日(一八六二)        『徳川実紀』
 「御勘定吟味役/百俵高ニ御加増/御勘定組頭/鈴木大之進〔重
 嶺〕/右於御前被仰付之。/但大之進ハ老中申渡。過而御前江被
 召出。」
◎文久二年十二月廿九日(一八六二)       『徳川実紀』
 「同断(仏蘭西。英吉利。其外国々江為御使被差遣。挌別骨折候
 )ニ付。右於御前被仰付之。……/巻物五/同(御勘定)組頭/
 鈴木大之進」
◎文久三年二月九日(一八六三)         『徳川実紀』
 「九日 上野御使。大坂近海御台場御取建ニ付。於江戸表御用取
 扱。……一上野 文恭院様御霊前江。……右 御献備。……御勘
 定吟味役/鈴木大之進」

 この外、幕府の記録としては『寛政重修諸家譜』等があるが、該
当する鈴木家を確定する事ができなかった。今後、さらに調査を進
めてゆきたい。
 鈴木重嶺は、元治元年(一八六四)八月十八日御役御免となり、
勤仕並寄合となるが、翌慶応元九月十三日佐渡奉行に任命される。
 この佐渡奉行拝命について、重嶺の和歌の教え子・石倉翠葉は、
大正五年(一九一六)の雑誌『旅行倶楽部』に掲載の「佐渡の思ひ
出 西郷南洲……勝海舟……鈴木重嶺」で次の如く記している。
 「……かう申しては失礼であるが、維新の当時に於ける佐渡人士
 は、極めて偏屈で御し難い風があつたさうで、何人が知事として
 赴任しても治め兼ねる程で、蓋世の英雄西郷隆盛も、遉に頭を悩
 まされた。所謂人選に苦んで居られたのである。されば平常人に
 逢ふ毎に此事を口にせられて、遂に日頃心服されつゝあつた海舟
 翁に相談せられた。すると翁は即座に「それは適当な人物がある
 。未だ世間に名は知られぬ男であるが、鈴木と云ふものがある。
 渠なれば慥に適任であるから、直ぐ今から辞令を出さつしやい。
 」「左様か、それは有難い」とばかり、素より海舟翁の推薦であ
 るから、一も二もなく南洲翁も信頼せられて、速座に辞令が認め
 られた。微賤の重嶺翁は一躍して佐渡守となつたのである。…」
 おそらく、歌の弟子の翠葉に重嶺が語っていた事であろう。元治
元年の時点で、勝海舟は軍艦奉行であり、西郷隆盛は軍賦役・小納
戸頭取となり、十月に大坂で勝海舟・西郷隆盛は会談をしている。
石倉翠葉の言う、重嶺の佐渡奉行への出世は勝海舟の推薦によるも
の、というのは、勝海舟と鈴木重嶺の深い関係をも考える時、真相
を衝いているように思われる。
 佐渡研究の権威・山本修之助氏は『佐渡の百年』(昭和47年6月
14日発行)で、重嶺の佐渡奉行着任の様子を次の如く記している。
 「……彼は慶応元年九月十四日、佐渡奉行を命ぜられ十月二十八
 日に江戸を出発、十一月十四日に越後出雲崎に着いた。ちょうど
 海は冬のシケ続きのため一か月も船待ちをした。……鈴木兵庫頭
 はついに十二月十四日船頭に船出を命じた。もちろん天候は悪く
 、それは無謀といえるかもしれなかった。しかし彼は、この荒波
 をおかして渡ってきた奉行の熱意を、佐渡人はわかってくれるこ
 とを信じていた。北海の怒濤の中を御奉行船は進んだ。さすがの
 大船も、このさかまく波には木の葉のようにほんろうされた。奥
 方も侍女もとうに船中に倒れ伏している。この時、彼は船首に立
 った。そして美しい筆跡の奉書をひろげ、
   国のため 大君のため わたる船路ぞ 日を経ずも 追手吹
   かせよ わだつみの神
  と旋頭歌一首を朗読し「奉 海神歌」と書いた表紙に包んで海
 中に投げ入れた。……
  十六日に相川着、十七日から奉行所で執務を開始した。いらい
 二年三か月、佐渡奉行職としては百一人目。そして最後の奉行と
 して治績をあげた。慶応三年十二月十四日、諸大夫を仰せつけら
 れている。伊賀者という低い身分から、ついに諸大夫という地位
 に進んだものは、勝安房守と都築駿河守と彼の三人だけであると
 いうことからも、いかにすぐれていたかがうかがわれる。」
 重嶺は、明治元年閏四月十六日、明治維新によって御役御免とな
ったが、明治四年には相川県参事として再び佐渡へ渡り、同六年に
は相川県権知事となり、同九年四月十八日、廃県により免職となっ
て東京へ帰った。この間、約十年間、佐渡の地で活躍している。こ
れは重嶺の生涯の中でも重要な意味を持つ期間となっている。この
関連の資料は、佐渡にも大量に残されている。具体的な調査はこれ
からである。

六、鈴木重嶺と勝海舟

 鈴木重嶺と勝海舟の関係が深い事は、すでに見てきたところから
も明らかであるが、『海舟日記』等の記録から、これを確認してお
きたい。『勝海舟全集』(一九七二〜七三、勁草書房)第十八巻〜
二十一巻に、文久二年(一八六一)から明治三十一年(一八九八)
までの日記が収録されている。この内、重嶺との関係が記録されて
いるのは、主として明治十六年以後である。重嶺が幕府及び新政府
の役職を辞し、和歌や国学など文化的な活動を始めてからという事
になる。一読したのみであるから見落としもあるかと思うが、多く
の場合、氏名が記されるのみである。おそらく、重嶺が勝海舟の家
を訪ね、話し合った事を意味するものと推測される。まず、重嶺の
名前が出てくる年月日を列挙すると以下の如くである。

 ・明治十六年(一八八三)・
5月28日・11月11日。
 ・明治十七年(一八八四)・
3月16日・25日・5月5日・30日・6月13日・28日・9月4日・11
日・・10日・26日・27日・11月1日・12月5日・21日。
 ・明治十八年(一八八五)・
1月30日・5月4日・6月10日・13日・7月14日・9月11日・10月
4日・18日・11月9日・12月26日。
 ・明治十九年(一八八六)・
1月5日・2月25日・3月26日・5月30日・6月9日・7月1日・
9月3日・19日・10月1日・5日・9日・10日・20日・11月23日・
12月29日。。
 ・明治二十年(一八八七)・
1月15日・2月14日・3月20日・4月23日・30日・5月11日・6月
20日・25日・7月4日・18日・9月5日・10月16日・29日・11月3
日・12月21日。
 ・明治二十一年(一八八八)・
1月28日・5月1日・6月1日・8月9日・19日・9月6日・25日
・11月10日・12月25日・30日。
 ・明治二十二年(一八八九)・
2月10日・3月31日・6月26日・7月23日・8月5日・9月5日・
10月3日・12月6日・16日・23日・31日。
 ・明治二十三年(一八九〇)・
1月3日・3月20日・28日・5月14日・6月13日・7月21日・10月
13日・28日・12月23日。
 ・明治二十四年(一八九一)・
1月15日・2月21日・3月28日・4月5日・28日・5月29日・7月
16日・28日・8月14日・11月9日・12月4日・
 ・明治二十五年(一八九二)・
1月3日・4月24日・30日・5月13日・6月19日・7月20日・9月
9日・10月1日。
 ・明治二十九年(一八九六)・
1月19日。
 ・明治三十一年(一八九八)・
11月26日。

 以上、名前の出ている日を掲げたが、この中で、名前のみではな
く、要件等が書き加えられている日は次の如くである。

 ・明治十六年(一八八三)・
○11月11日「鈴木重嶺へ、象山書の代十円遣わす。」
 ・明治十七年(一八八四)・
○3月16日「鈴木重嶺、天璋院追懐の歌取り集め出来、持参。五円
 遣わす。」
○5月19日「鈴木重嶺、「大三河風土記」の代二十円。文昭院〔六
 代家宣〕様御筆二幅七円渡す。」
○6月13日「鈴木重嶺、出板代二十円渡す。神田辺行。」
○6月28日「鈴木重嶺、三十円渡す。上野行。」
○9月4日「鈴木重嶺、廿八日に越後より帰り候旨、本十冊遣わす
 。千駄ヶ谷行。」
○10月26日「鈴木重嶺、武芸館へ拙筆十枚差し出し置き候様申し聞
 け遣わす。」
○12月5日「鈴木重嶺、千駄ヶ谷へ永井の手紙持たせわす。」
 ・明治十八年(一八八五)・
○1月30日「鈴木重嶺、掛物の代二十五円渡す。」
○6月10日「鈴木重嶺、二男、保証人、忰頼み度く申し候。」
○10月4日「鈴木重嶺、隠居所建てたきと云う。金員の話。」
○10月18日「久留栄、鈴木拝借の事につき内談、整う。」
 ・明治十九年(一八八六)・
○3月26日「鈴木重嶺、掛物買揚げ、十円渡す。」
○7月1日「鈴木重嶺、小栗養子取もどしの件引受け人三枝守富と
 云う者。」
○10月1日「鈴木重嶺、庵室造り候故、百円、田安殿より拝借致し
 度き旨申し聞く。
○10月5日「鈴木重嶺へ、草稿持たせ遣わす。」
○10月9日「鈴木重嶺へ、千家の事云々。」
○10月10日「久留栄、鈴木拝借の金子百円持参。」
○10月20日「鈴木重嶺百円借金渡す。」
○12月29日「鈴木重嶺、歳暮一円。」
 ・明治二十年(一八八七)・
○2月14日「鈴木重嶺。溝口へ、小栗養子戻しの事につき、小封認
 め遣わす。」
○4月23日「鈴木重嶺、高崎へ訪問約。」
○4月30日「鈴木重嶺方行。」
○7月18日「鈴木重嶺、掛物代十五円遣わす。」
 ・明治二十一年(一八八八)・
○8月27日「鈴木重嶺忰。」
○12月30日「鈴木重嶺、刀代三円遣わす。」
 ・明治二十二年(一八八九)・
○6月2日「富田鉄之助、鈴木忰の事、談。」
○12月6日「鈴木重嶺、十五円借遣わす。」
 ・明治二十三年(一八九〇)・
○5月14日「鈴木重嶺、五円借遣わす。」
○12月23日「鈴木重嶺、歳暮五円、反物二遣わす。」
 ・明治二十四年(一八九一)・
○5月29日「鈴木重嶺、二十円借遣わす。」
○7月16日「鈴木重嶺、五円中元。」
○12月4日「鈴木重嶺、十円遣わす。」
 ・明治二十五年(一八九二)・
○4月24日「鈴木重嶺、五十円遣わす。」
○4月30日「鈴木重嶺、掛物返却。」
○9月9日「鈴木重嶺、十円返却。」
 ・明治二十九年(一八九六)・
○1月19日「此頃、旧知死する者多し。来訪中半ば逝く。高齢者は
 二十九年二月認 岡本黄石 八十四歳   吉見氏   八十八
         向山黄村   七十   久留栄   七十七
         鈴木重嶺  八十三   駒井竹所  七十三
         小栗直三  八十二   近衛公   八十九
         諏訪忠誠  七十四   竹本要斎
         佐久間鐇五郎 七十   神谷銀一郎 七十七
 ・明治三十一年(一八九八)・
○11月26日「鈴木重嶺、病死。」


七、歌人・鈴木重嶺(翠園)

 ・1、重嶺・翠園の歌の原点・
 鈴木重嶺は、十八歳の頃から和歌を村山素行に学び、後には伊庭
秀賢に就いて学んでいる。そして幕臣として勤務している間も歌や
国学に励んでいた。言わば武人派と言うよりも文人派の武士であっ
たと言ってよい。没する前年に自分の人生を振り返った文章が残さ
れている。その中で、

 「私ハ小普請から二十才位でしたらうか、御広敷伊賀へ出まして
 、八、九年も勤めましたらう。其内に水野越前守殿の御改革で、
 丁度其頃留守居を勤めて、八丁堀ニ邸のこさいました松平内匠頭
 が、支配向の免許以上の武術見分をいたすといふので、私も剣術
 を受けて出ました。御広敷番の頭で窪田源太夫と云ふ人が取扱で
 有ましたか、此人ハ私の柔術の師匠の悴で、岡田真澄の門弟ニて
 歌を詠みますゆへ、武術の見分の済みました跡で、鼻紙へ一首歌
 を認めて見せました。
   つるぎだち鞘にをさめし世になれて
        みがかぬわざのはづかしきかな
 窪田氏か見まして、夫れを内匠頭へ出しましたので、私ハ其頃大
 之進と申しましたか、其歌を短冊に認めて差出すやうことの命か
 有りました故、サウ云ふつもりで詠むだのでハこさいまんでした
 が、拠ところなく宅へ戻りましたから、短冊へ認め、翌朝出勤が
 けに御留守部屋へ持参致しました。スルト武術見分帳を差出す時
 、私のヘボ歌を添へ、越前守殿へ進達になりました。内匠頭と云
 ふ人は親切な人てごさいまして、其頃、御徒土日付が五六人あき
 が有りましたので、ドウゾ大之進を御徒士目付にして戴きたいと
 云はれたそうで、越前殿も早速御承引下すつて、私は御徒土日付
 ニなりました。全体私ハ十八の年から、加藤千蔭の門人の村山素
 行と申す者ニ歌を学びましたが、此時より一層心を入れて生涯歌
 はやめまいと存じました。歌の御蔭で出世の緒を得た故ニサウ思
 つたやうこ聞へますが、左様ばかりでハこざいません。我邦ニ於
 きまして、神代より伝つて居りますものハ歌ばかりて、其前は文
 字を始め、皆他国から参つたものてございますから、何うか此歌
 の道はかりハ廃らぬやうこしたい。歌を致しますのハ、取りもな
 ほさす、此国体を知るの道でこさいまして、自国の事を知らない
 でハ、此国に居る詮のないことで、日本ニ居て日本の学問を知ら
 ないで、他国の学問をすると云ふのハ間違つた話てごさいます」
      (金井町図書棺・岩木文庫所蔵『鈴木重嶺翁小伝』)

 重嶺は、佐渡奉行時代も、勤務のかたわら、和歌を奨励し、官界
を退いてからの二十年間余も和歌を創り、その指導に打ち込んでい
るが、その原点は、二十歳の頃の、この出来事であったように思わ
れる。この若い頃の和歌への思いが、生涯持続されていた訳である

 ・2、鈴木重嶺の著作一覧・

1、伊香保前橋之記 1冊。地誌。写本=国会図書館(桜園叢書41)
 ・学習院大学図書舘。
2、詠史清渚集 1冊。写本。昭和女子大学図書館(翠園文庫)、
 竹棺園文庫。
3、オトと子との差別或人間 1冊。写本。国会図書館(桜園叢書68
 )。
4、於よづれ言 1冊。写本。静嘉堂文庫。
5、紀行 1冊。写本。国会図書舘(桜園叢書41)。
6、絹梢川花見の記 1冊。写本。国会図書館(二荒廼山裏の内)。
7、御諡号概略 有職故実。1冊。写本。国会図書館(桜園叢書11)
8、夢路の日記 1冊。写本。国会図書館(柱園叢書41)、無窮会・
 神習文庫(玉麁一九三)、昭和女子大学図書館(翠園文庫)。
9、二荒山歌合 1冊。写本。内閣文庫。
10、皇風大意 1冊。写本。国会図書舘(桜園叢書15)、無窮会・神
 文庫。
11、旅路記恵の露 1冊。写本。国会図書館(桜園叢書41)、無窮会
 ・神習文庫。
12、島曲廼古豆美 1冊。写本。国会図書館(桜園叢書1)、昭和女
 子大学図書館(翠園文庫)。
13、旅路廼日記 1冊。写本。昭和女子大学図書館(翠園文庫)、国
 会図書館(桜園叢書41)
14、翠園兼当歌 1冊。写本。昭和女子大学図書館(翠園文庫)
15、雅言解 4巻4冊。版本。昭和女子大学図書館(翠園文庫)、深
 沢秋男、等。
 ☆これらは鈴木重嶺の著作の一部であり、今後の調査で、さらに
  多くの歌集や著書が出てくるものと予想される。

・3、翠園と樋口一葉・
 中島歌子の月次会に出席の様子が、樋口一葉の日記に出る。重嶺
は、和歌の月次会には積極的に参加して、多くの人々を指導してい
る。

◎明治24年6月10日(萩の舎の年齢くらべ)
「一日師の君のもとに小集有し時、「座中の男女の年齢比らべせん
 」といふ人あり。「夫をかしからん」とて師もの給ふ。男は六人
 にて女は十四人有り。「負くべきにはあらず」とおもへば、文雅
 堂のあるじ伊豆田、一渡りみ渡して数をとる。鈴木重嶺うしは「
 七十八」との給ふ。「これ計にても女子の方の四人振は有よ」と
 て一同笑ふ。梅村のりをぬし七十、加藤安彦うし七十二、はや二
 百の数はこえたり。江刺恒久君七十、木村正養君少し下りて四十
 九、水野忠敬子四十、合て「三百七十九」との給ふ。女の方は師
 の君四十八、伊東延子ぬし五十九、みの子ぬし三十五、とよ子ぬ
 しも同じく、かとり子ぬし四十七、小川信子ぬし四十五、これら
 少しは数のうちながら、残るはいづれも/\口をしきまでに若し
 。高田不二子ぬし廿三、前田きく子ぬし廿、田辺静子ぬしも「お
 なじく」伊東の夏子ぬしも「同じく」といへば師の君、「雷同し
 給ふにはあらずや」との給ふ。小笠原のつや子ぬし十六、広子ぬ
 し十九、中む田恒子ぬしの十三などいふこと更に口をし。おのれ
 は「廿」といへば、師の君、「あまりの掛値也。まけじだましゐ
 か」と笑ひ給ふ。誠のことなるものから、いつまでも若き様に思
 ひ給ふもをかし。……」

◎明治25年3月9日(月次会)
「九日 晴天。早朝より支度をなして小石川へ行く。月次会なり。
 暫時ありて田中君まいらる。今日の来会者三十八、九名成し。島
 田政君も参られたり。点取題「野鷺」にて重嶺、恒久、信網、安
 彦四君の点なり。恒久君の甲重嶺君、安彦君の甲恒久君、重嶺君
 甲安彦君成しかば、「こは誠に詮なし」などいふ。信網君の甲は
 おのれ成けり。……」

・4、斎藤茂吉の明治大正短歌史の研究・

 幕末明治の激動の時代の中で、当然のことながら、和歌の流れも
著しく変遷している。しかし、その研究は十分に行われているとは
言い難い。中での労作は斎藤茂吉の研究と言ってもよかろう。『斎
藤茂吉全集』第二十一巻(昭和48年8月13日、岩波書店発行)に収
録された「明治大正短歌史概観」「明治大正和歌史」は旧派歌人、
新派歌人の関係を適切に伝えていると思われる。この中で、鈴木重
嶺・翠園はどのように位置づけられているか。簡単に紹介したい。

 「旧派歌人と謂つてもその数は実に多い。その一々は私は知らぬ
 。併し、「明治歌集」あたりを一寸見ても奈何にその数の多い
 かが分かる。ただ明治、大正の歌風をば新派の歌にその特色を見
 出すとせば、明治天皇の傍に昭憲皇太后様をおき、三条実美、八
 田知紀、高崎正風、小出薬、黒田清綱、福羽美静、本居豊穎、宝
 田通文、鈴木重嶺、松波資之ぐらゐを以て代表せしめ、女流に税
 所敦子、中島歌子ぐらゐをおき、海上胤平とか、愚庵和尚とかを
 ば特殊な歌人と看傲して掘ゑるに止めて、あとは新派和歌連動以
 後の時期に移つて行つていいだらうと思ふ。
  旧派の歌といつても、兎に角香川景樹あたりが当時新派のつも
 りで昧出した歌風の名残であるから数多くの中から拾へば相当の
 佳作にも逢著するに相違なく、古今集以来の長い伝統で、気の利
 いた良い技巧をも認め得るのであるが、大体からいへば、生気が
 無く納まりかへつてしまつて、どうしても堂上人、富豪の弄び物
 といふ風のものが多い。」 (58頁)

 「「明治現存三十六歌撰」は、山田兼益編集、竹本石亭画で、明
 治十年六月二十八日出板になつた。これを見ると当時現存の大家
 の歌一首づつ載つてゐるから、明治十年ごろ、即ち、第二期の初
 頭ごろの歌壇の風潮をうかがひ知る事が出来るから、煩しきごと
 くであるが、左に録する。」
として、「千鳥 もしは汲むあまのまてがたまてしばしおりたちか
ねて千鳥なくなり  鈴木重嶺」と重嶺の歌も掲出している。(93
頁)
 「明治二十四年の「早稲田文学」第三号に、「現在の名家」と題
 して歌の見本が載せてある。これは当時の歌壇全般を見るのに便
 利であるから次に抄録する。序に、『明治の大御代となりて諸般
 の学芸起りたれば、和歌も朝野共に行はれ、其の名の聞ゆる人ま
 た多し。この人々はおはかた折衷の主義を取れるが如く、その説
 を聞くに、多くはただ自然にあり、所謂見るもの聞くものにつき
 て云ひいづべしなどいふ。然れども、なほ其の実際につきてこれ
 を味へば、其の基く所もとより一様ならず。其の証を見んとおも
 はば諸名家の歌えらみてまゐらせん』といふのも興深い。」
として、十名の歌を掲出している。重嶺の歌は「小松ひきすずな摘
みにし野べに来て同じ名におふ虫を聞くかな/分けゆかば宿れる月
や乱れなむ踏ままくをしき野路の露原 鈴木重嶺」 (一一一頁)
 「大久保忠保編の「開花新題歌集」は、専ら新題の歌のみを縞韓
 したものである。第一縞は明治十一年十一月、第二編は明治十三
 年十一月、第三編は明治十七年一月に発行になつてゐる。
 第一編の序文中に、『今維新開化の御代となりて、西洋の国々
 とむつび、其国どものふりにまつりごたせたまふ時にしあれば、
 見る物聞物むかしにあらぬものぞ多かりける。かれ、おほやけよ
 りも月次の御題にてさる歌を人々によませたまひ、わたくしにも
 、其見るもの聞物を題にて歌よむもの漸くいで釆にけり』云々と
 あるにてその気勢がわかる。
  男女同権/をみなへし尾花とふたつ争はばいづれがかみに立た
 むとすらむ 鈴木重額……(藤波教忠・境涯容盛・大久保忠保・
 星野千之の歌を引く)
  かくの如き種類の歌であるから、題は新題で従来の題に比べて
 尽く目新しいものであるが、歌の実質は新しくは未だなつてゐな
 い。……」 (三〇一頁)

 斎藤茂吉は、明治の歌壇を概観して、膨大な歌を整理している。
「明治大正和歌史」の第八章結語を導き出すのは難事業であった事
と推察される。しかし、これはあくまでも概観である。この中で鈴
木重嶺は旧派歌人の代表的歌人の一人として位置づけられている。
今後はその具体的な研究が求められる事になる。従来の文学辞典類
の記述も、重嶺の歌に広く目を通して書かれているとは思われない
。たまたま雑誌に掲載された作品の範囲で判断しているように思わ
れる。
 今後は、重嶺の歌・歌論・著作の集成をする必要がある。そして
、幕末維新を生きた、歌人の作品を具体的に分析して、これを和歌
史の中での妥当な位置づけをしなければならないだろう。



八、鈴木重嶺の人物像

 ・一、能吏と歌人と・

 鈴木重嶺の生涯を整理した八十五年の年表を作成して気付いた事
であるが、重嶺の生涯は大きく三期に分けて考えると便利のように
思う。第一期は出生から二十年間、これは、当然のことながら修養
の時期。第二期は、天保四年八月、小普請から広敷伊賀者となり、
以後、広敷取締掛、徒目付、勘定吟味役、勘定組頭、勘定吟味役再
任、勘定奉行、鎗奉行、佐渡奉行、相川県参事、相川県権知事と、
徳川幕府の家臣及び新政府の官吏として活躍した時期、これがほぼ
四十五年間。第三期は明治九年相川県知事を辞し東京に帰ってから
没するまでの約二十年間。これは、国学者・歌人として活躍した時
期である。勿論、人の一生がこのように画然と区分できるものでな
いのは当然であり、それぞれ重複し相乗的に経過していた事ではあ
る。
 重嶺は能吏であった。詳細な検討はこれからであるが、この職歴
から見てもそう言ってよいだろう。出自は決して恵まれていたとは
言えない。明屋敷伊賀の出で、この内、小普請から出発して諸大夫
まで出世したのは、重嶺と勝安房守と都筑駿河守の三人のみだとい
う。重嶺の場合、上役・同僚にも恵まれていたと言える。徒目付へ
の登用は、広敷番頭の窪田源太夫、松平内匠守の引き立てによるも
のであり、水野越前守の承認を得てのものであった。また、佐渡奉
行拝命の折も、勝海舟が西郷隆盛に推薦して実現したものらしい。
このように、人生の要所要所で、同僚・上役に引き立ててもらって
いる。しかし、重嶺自身にその任を全うするだけの度量と能力がな
ければ、この大任を果たす事は出来なかったであろう。小幡大之進
・鈴木重嶺にはそれがあったのである。
 重嶺は武人派というよりも、文人派の幕臣であった。天保十二年
の頃、武術見分に応募した折、「つるぎだち鞘にをさめし世になれ
てみがかぬわざのはづかしきかな」の一首を詠じて上司に差し出し
ている。謙遜ではあろうが、自省でもあったと思われる。重嶺は、
この時すでに、村山素行に就いて国学や和歌を学んでいた。この文
人派的要素が、佐渡奉行等の要職をそれなりに全うし得た理由では
なかったかと密かに想像している。佐渡相川の在任中も、多くの人
々に和歌を教え、その門弟は百名に及んだと伝えられている。重嶺
の伝記を書くに当たって、これらの点を考慮しながら進めたいと思
っている。

 ・二、『新潟新聞』の記録・

 鈴木重嶺は、明治三十一年(一八九八)十一月二十六日、八十五
歳の生涯を閉じているが、その前後の様子を『新潟新聞』の記事が
よく伝えている。その人柄を考える上でも貴重な記録であるので、
ここに紹介したい。

・1、鈴木重嶺翁の重傷・新潟新聞・明治31年11月22日・
歌道の大家鈴木重嶺翁(元相川県権令)は今年八十余歳の高齢に達
して、而も矍鑠たること壮者も及ばず。常に朴歯の下駄を穿て其健
脚を誇り居りしが、去る十三日の夜さる歌筵よりの帰途、例になく
雇ひし人力車覆りて翁は右の脇より肩へかけて挫傷を負ひ、目下危
篤の容体なりといへり。

・2、故鈴木重嶺翁逸話・新潟新聞・明治31年12月2日・
翁は維新の際、田安家の家老となりしが、折柄甲州に百姓一揆起り
、騒擾二ケ月に垂んとす。然るに何人も之れを鎮定する者なかりし
かば、翁は主命に依り鎮撫に向ひしに、一揆の百姓等は翁の徳風を
望みて出迎へたり。翁は之れを陣屋に招きて懇々と諭すに、利害得
失を以てし、且つ告げて曰く、往時甲州の地は信義に厚しと聞えた
武田信玄の領地なれば、自然此地の百姓は義を重んずべき筈なり。
然るに斯く騒擾を極めて上の手数を煩はするは、義に缺け理に悖る
にあらずや。と縷々説く処あり。抑も此騒動の原因は旧主領に叛し
て、朝廷に帰せんとするにありしを以て、翁も亦世の趨勢を看破し
たれば、早晩、廃藩置県の制度となるべし、と述べけるに皆々、其
罪を謝し、一揆鎮定したりとぞ。
翁、挂冠後は日々の如く諸家の歌会に臨み、二十年来一回だも欠席
することなかりしは、畢竟無病強健なるが故なりとはいへ、之に依
つて見るも幕府五代の君に仕へて永年忠勤の程も思ひやらるゝなり
。翁は常に仏法嫌ひなりしを以て、予て其遺言にも死後僧侶の引導
は無用なり。又、読経は成るべく短くして、会葬者に長く時間を費
しめざるやうなしくれよと、告げたりしといふ。

・3、故鈴木重嶺翁逸話・新潟新聞・明治31年12月6日・
翁が歌の師の村上素行なるよしは前にも記せしが、素行は田安家に
仕へて加茂真淵の学統を引く。又、伊庭秀堅にも従ひたり。翁の門
人数百人、全国に散在すれども、歌道不振の時節とて、歌にて門戸
を張る程のものは少く、多くは斯道に遊べる老人抔なれども、中に
て名を知られたるは屋代柳魚、小俣景徳の二人なり。然れども皆翁
に先ちて逝けり。
重嶺社中にて、名を知らるゝ者には先光清風あり。又、歌の門人に
富みたる者としては篠田謙治あり。幹事にして最も古きを山田謙益
とす。
翁には実子なく嗣子重明氏は襁褓より養はるゝ処と云ふ。翁は書を
みて最も竹を描くに長ず。其翠園の号を附して人に贈れるもの亦甚
だ少からず。清節霜を凌で、卓然雲に聳るの気、自ら丹青の間に透
 以上は翁が逸話の一班のみ。若し夫れ徐に翠園叢書を繙いて、八
十余年の事歴を覗へば、数千万言尚ほ且つ足らざるものあるを知ら
ん。

○故鈴木重嶺翁誄詞
 これは旧田安藩懇親会副会頭村田直景氏故翁の柩前に
 朗読せし誄詞なり。
□明治卅一年十一月廿六日、旧田安藩懇親会々頭翠園鈴木君卒す。
越に三日西郊大窪の全龍寺に葬る。嗚呼君人材を以て夙に幕府に抜
擢せられ、累にりに佐渡奉行に遷り兵庫頭に官す。維新の後来て我
旧藩に老職たり。廃藩置県の制行はるゝに及で、君復徴されて相川
県参事と為り、で権令に任ず。抑々君の佐渡に於る既に経歴あり。
治績大に挙る。明治七年詔して順徳天皇を水無瀬宮奉祀し給ふ。其
六月真野山の御陵より京都還幸の儀あり。奉迎使式部頭橋本実梁佐
渡に至る。式部寮出仕清水正穀従ふ。君権参事磯部最信をして事に
当らしむ。最信正穀と曾つて藩に在て、事を共にしたるもの是に於
てか議能く恊ひ、還幸の大典一も遺憾なきは、君が人を知て善く任
するの致す所なり。正穀帰て後、常に之を称せり。幾ばくも無くし
て、君病で職を辞す。功を以て例して従五位に叙す。君多年思を国
史に潜め、殊に詠歌に長ず。仕を致してより後斯道を以て己が任と
為す。名望朝野に重し。我懇親会の創立するや、君推戴せられて会
頭たり。爾来此会の強固なる所以のもの、実に君が名望の重きに依
らずんばあらず。今や慮らざるの傷に罹り、臥床纔かに十余日、終
に起たざるに至る。嗚呼哀哉、然りと雖も生を待て□せず、死に隨
て亡せざるものあり。君が八旬の高齢を以て、此会に尽せるの精神
是なり。夫其精神を永遠に戴て、此会をして益々隆昌ならしめば、
君在さゞるも猶在すの年の如けん。爰に会員に代て、敢て至情を表
せんが為に、旧田安藩懇親会副会頭村田直景謹で柩前に拝告す。希
くは□けよ。

・4、故鈴木重嶺翁逸話・新潟新聞・明治31年12月11日・
明治三年の事とかや、千葉県の山野を開墾せんとて翁に商れる者あ
り。翁も其はよき事と賛成しけるに、愈々株金を募りて願出づれば
、政府は之を許可せずとて、発起者は腹かき切ッて一同に謝罪せり
。其後、相川県より帰りて、此よしを聞き、且つ面りに株主等の貧
困せるを見て、惻隠の心に得堪へず、一家の私産を悉く売り払ひ、
数千円の金に代へて之を株主等に分配しぬ。翁が家の裕ならざりし
は、蓋し之が為なり。
翁は涙に富み、平生道路に貧人を見る時は財を惜まずして、之に与
ふ其数幾百人と云ふを知らず。去月廿七日、翁の訃近隣に伝はるや
、貧人十数人、翁の柩前に来りて、哀悼の意を表し、今より後は誰
によりてか露命を繋がむと、泣き悲み且つ其生前に善根を積れし翁
にして終を克せず、落車の故をもて死を招かれたるは天道是乎非乎
と皆口々に嘆きたり。
翁は若き頃より痔疾を患ひて、厠に上れば必らず一二時間を費せり
。こゝもて常に書を携へて用に入れども、易賢の書は汚すに忍びず
とて、院本詩歌の如きものを撰びたり。曰く故人の詩抔に馬上何々
抔と題せるあり。余は厠上の作をなさん臭き歌も亦面白からずやと
、随分洒落なる人と云ふべし。

 この『新潟新聞』の記事は、重嶺に関して様々な事を教えてくれ
る。


九、おわりに

 鈴木重嶺の伝記に関しては、重嶺の御子孫の松本誠氏が志してお
られた。私自身、この人物の伝記を書くなど、思いもしていない事
であった。ところが、松本氏は平成七年、七十七歳で急逝されてし
まわれた。生前、大変お世話になり、多くの御指導を頂いていた事
もあり、氏の御蔵書の整理をお引受けした。そのような事情から、
貴重な鈴木重嶺関係資料を昭和女子大学に寄贈して頂く事になり、
松本氏が完成する事なしに残された重嶺の伝記の事も気にはしてい
た。しかし、歴史上の人物の伝記は、簡単に着手出来るものではな
い。何よりも、取り組む対象に対して尊敬の念が無ければ、これは
出来ないことである。
 昨年三月、佐渡の相川町の要請で「最後の佐渡奉行 鈴木重嶺」
と題してお話する機会を与えられた。相川町に復元された見事な佐
渡奉行所の御広間で、しかも、鈴木重嶺も座った奉行の席に座らせ
て頂いた。佐渡からの帰途、電車の中で、関係資料を読み返しなが
ら重嶺の晩年の写真を見ていて、次第に興味が増してきた。さらに
、十月には昭和女子大学図書館で「最後の佐渡奉行 歌人・鈴木重
嶺展」が開催され、その期間中に「鈴木重嶺と翠園叢書」と題して
お話するチャンスを頂いた。そんな事情で鈴木重嶺に関しても調査
を重ねてゆき、様々な資料に接して、重嶺・翠園への尊敬と愛着が
沸いてきた。どこまで進められるかは、予想もつかないが、とにか
く鈴木重嶺の伝記研究の緒だけでも付けてみたいと決意した訳であ
る。この人物の伝記を明らかにする事は、日本歴史の上からも、日
本文学史の上からも意義のある事であり、それは、同時に、松本氏
への御礼にもなると思われるからである。
 これまで述べてきた如く、鈴木重嶺関係資料は昭和女子大学に大
量に所蔵されている。出来る事なら、昭和女子大学の大学院生など
大学関係者に、鈴木重嶺の研究をして欲しいと切に希望している。

 この序説をまとめるに当たり、鈴木重嶺の御子孫の松本栄子氏、
佐渡相川町の関係者、菩提寺の全龍寺様、昭和女子大学図書館の皆
様には、資料の閲覧・調査をはじめ、多くの御配慮と御教示を賜っ
た。殊に昭和女子大学図書館の展示は、重嶺の歌人としての側面に
光を当てたものであり、柳秀子氏をはじめ、調査・展示に取り組ま
れた図書館の皆様の成果に、非常に多くの示唆を頂いた。
 以上の皆様に対して、心からの感謝を申し上げます。

  追  記
 平成十六年二月十九日、松本栄子氏から鈴木重嶺の肖像画が昭和
女子大学に寄贈された。縦六八センチ×横五六センチの油彩画で、
右下に「河久保正名画」と朱筆のサインがある。重嶺七十歳頃のも
のかと推測されるが、この河久保正名の出自等に関しては未詳の点
が多い。
 小杉放菴記念日光美術館には、東照宮等を描いた水彩画が十数点
所蔵されている。学芸員の田中正史氏の解説によれば、これらの水
彩画は、明治三十年代に日本を訪れた外国人向けの土産品として日
光や横浜で売られていたものと言う。河久保正名は小杉放菴の先輩
にあたり、これらの絵を描いたらしい。
 また陶芸家の板谷波山は東京美術学校に入る前、河久保正名に絵
を学んだらしい。『常陽文芸』一九九八年十二月号の「板谷波山年
譜の一八八八年、波山、十六歳の項に「洋画家 河久保正名の画塾
に通う。」とある。『板谷波山伝』によれば、波山は十六歳の頃、
本郷に下宿していて、近くの河久保正名の画塾で絵を学んだが、河
久保正名は洋画家・国沢新九郎(一八四七〜七七)の門下であった
と記している。明治二十一年(一八八八)に河久保正名は本郷辺で
洋画家として画塾を開いていた。その画家に重嶺は肖像画を描いて
もらったという事になる。
 さらに、東京文化財研究所の山梨絵美子氏の御教示によると、明
治美術会の出品目録を見ると、第四回の明治二十五年(一八九二)
の記録では、東京出身で住所は、神田区中猿楽町二丁目六番地であ
り、明治二十八年の出品目録の住所は、本郷区駒込上富士前町十三
番地と記されているとの事である。出品目録では肖像画も描いてい
るが、油絵は伝存が少なく、これから調査すべき段階にあるとの事
であった。私としては、鈴木重嶺と河久保正名の関係を、今後、さ
らに調査してゆきたいと思うが、河久保正名に関しては、絵画研究
の方面で、調査、研究して頂けるなら有り難いと思う。
 鈴木重嶺の肖像画を描いた洋画家・河久保正名に関して、小杉放
菴記念日光美術館、板谷波山記念館、出光美術館の御教示を賜った
。殊に、小杉放菴記念日光美術館の田中正史氏、東京文化財研究所
の山梨絵美子氏には、具体的な御教示を賜った。ここに記して深く
感謝申し上げます。

〔注〕巻末に次の11点の写真を掲げているが省略した。
 1、佐渡奉行所(相川町広間町)
   2、歌会で指導する重嶺
   3、鈴木重嶺肖像画「河久保正名画」
   4、鈴木重嶺写真 
   5、鈴木重嶺著『雅言解』4巻4冊
   6、鈴木重嶺色紙
   7、鈴木家2代・重元墓石
   8、鈴木家墓所。新宿区大久保、全龍寺
   9、鈴木重嶺墓石
   10、鈴木家過去帳
   11、鈴木重嶺葬儀の記録
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   『文学研究』92号,平成16年4月1日

鈴木重嶺(翠園)の墓所に標識設置

●「鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説」をまとめたのを機会に、重嶺の墓所に標識を設置する計画を立案した。法政大学名誉教授の村上直先生にお願いして、「鈴木重嶺顕彰会」を設立し、御子孫の松本栄子氏、菩提寺の全龍寺住職の高崎宗矩氏、副住職の高崎宗平氏の御許可御後援を得て進行した。さらに、佐渡市教育委員会の御許可を頂き、次のような文面で、昭和女子大学出入りのKOTOBUKI C0RPORATIONに発注した。

●縦200ミリ×横300ミリ。仕様:SUS 1.5t 下地梨地エッチング 黒 文字 凸 HL仕上げ。

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 最後の佐渡奉行・歌人  鈴木重嶺・翠園の墓

 鈴木家の祖・重経は北条氏康に仕えていましたが、二代・重元は徳川家康に召し出され、武州豊島郡大久保村に四千坪の領地を拝領し、以後、代々徳川家に仕えました。重元は寛永十三年(一六三六)十月八日に没し大久保村の全龍寺に葬られ、鈴木家は代々全龍寺を菩提寺としています。
 鈴木重嶺は、文化十一年(一八一四)、幕臣、小幡有則の次男として江戸駿河台で生まれましたが、鈴木家十代・重親の養子となって十一代を継ぎました。
 二十歳で広敷伊賀者となり、以後、広敷取締掛、勘定吟味役、勘定奉行、鑓奉行を勤め、慶応元年(一八六五)佐渡奉行となりました。明治維新後、佐渡相川県知事等を歴任しましたが、明治九年(一八七六)官職を辞し、以後は和歌の道に励みました。
 鈴木重嶺は若い頃から、和歌や国学を村山素行・伊庭秀賢に学び、佐渡奉行在任中も相川を中心とする佐渡の人々の和歌の指導にあたり、多くの門弟を育てました。東京に戻ってからは、鶯蛙吟社を組織し、短歌雑誌『詞林』を主宰しました。明治歌壇旧派の代表歌人として活躍し、当時としては若い歌人、佐佐木信綱とともに活動して、『詞林』は後に佐佐木信綱の『心の華』と合併しています。また、当時の歌会には、樋口一葉も同席して、鈴木重嶺の指導を受けています。
 鈴木重嶺は勝海舟とも深い交流があり、『海舟日記』には、その様子が記されています。明治三十一年(一八九八)十一月二十六日、八十五歳の生涯を閉じましたが、『葬儀記録』には、毛利元徳・近衛忠▲・正親町実徳・久我建通・蜂須賀茂▲・前田利嗣・勝安房等々、錚々たる人々をはじめ、萩野由之・黒川真頼・井上頼国・中島歌子・佐佐木信綱等々、全国の歌人など一〇六八名の氏名が記載されています。

   参考 「鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説」 深沢秋男 (『文学研究』92号、平成16年4月)

  平成十六年六月二十六日
            鈴木重嶺 顕彰会
            佐渡市教育委員会

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