深沢秋男研究室 穏愼親盛(如儡子)の研究

HOME
.廛蹈侫ール&研究分野
担当科目&時間割
主要編著書&雑誌論文
こ設ホームページの紹介
ゾ赦遜子大学図書館所蔵(桜山文庫)
昭和女子大学図書館所蔵(翠園文庫)
鈴木重嶺関係資料
南部新一児童図書コレクション
上海交通大学「日本文化資料センター」
百人一首の研究
井関隆子の研究
−2井関隆子の研究2
仮名草子研究
-2仮名草子研究2
-3仮名草子研究3
-4仮名草子研究4
-5仮名草子研究5
鹿島則孝の研究
上田秋成の研究
鈴木重嶺の研究
案本古典文学作品・画像公開
厩掌与泙犯單栂彊貉瓩竜貘⊇
穏愼親盛(如儡子)の研究
該愼親盛(如儡子)の研究・2
●新刊紹介
●学界ニュース
日録
◆自著を語る 1
◆自著を語る 2
◆自著を語る 3
◎篆刻・遊印

●斎藤親盛(如儡子)の研究

●は じ め に
■仮名草子(かなぞうし)
■仮名草子の範囲と分類

1、卒業論文のテーマ
2、作品本文の書写
3、諸本の調査
4、作品研究
5、如儡子という人物
6、如儡子の伝記研究
7、伝記研究の方法
8、酒田の調査(如儡子出生の地)
9、二本松の調査(如儡子終焉の地)
●おわりに(今後の課題と計画)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●は じ め に

■仮名草子 (かなぞうし) 
近世初期、慶長(1596〜1615)から天和(1681〜84)にかけての、約八十年間に作られた、小説を中心とする散文文芸の総称。この近世初期は、日本歴史の中でも代表的な啓蒙期であり、この時期に、漢字(振り仮名付き)交じり仮名書きの通俗平易な読み物が次々と作られた。これら一群の文学的著作に与えられたのが「仮名草子」という名称で、その数は三百点にも達する。原本は、写本または版本(古活字本・整版本)として伝存するが、出版の黎明期にふさわしく、全体に版式もおおらかで、大きな本が多い。仮名草子は次の如く分類し得る。(1)啓蒙教訓的なもの(教義問答的なもの、随筆的なもの、女性教訓的なもの、翻訳物)、(2)娯楽的なもの(中世風な物語、説話集的なもの、翻訳物、擬物語)、(3)実用本位のもの(見聞記的なもの、名所記的なもの、評判記的なもの)(野田寿雄説)。この分類からもわかる通り、仮名草子は複合ジャンルの如き性質をもっている。文学史的には、お伽草子→仮名草子→浮世草子と接続するが、これを小説の系列として考えるならば、小説以外の作品をどう扱うべきか、という問題が今後の課題として残されている。
【参考文献】坪内逍遥・水谷不倒『近世列伝体小説史』春陽堂、明治30年。水谷弓彦『仮名草子』水谷文庫、大正8年。水谷不倒『新撰列伝体小説史 前編』、春陽堂、昭和7年。野田寿雄『日本近世小説史 仮名草子篇』勉誠社、昭和61年。近世文学資料類従・仮名草子編・古板地誌編全61冊、勉誠社、昭和47〜56年。仮名草子集成1〜21、東京堂出版、昭和55〜平成10年。野田寿雄校注『仮名草子集』上・下、日本古典全書、朝日新聞社、昭和35・37年。前田金五郎・森田武校注『仮名草子集』日本古典文学大系90、岩波書店、昭和40年。青山忠一・岸得蔵・神保五弥・谷脇理史校注『仮名草子集 浮世草子集』日本古典文学全集37、小学館、昭和46年。渡辺守邦・渡辺憲司校注『仮名草子集』新日本古典文学大系74、岩波書店、平成3年。深沢秋男・小川武彦・菊池真一「仮名草子研究文献目録(明治〜平成)」菊池真一『恨の介 薄雪物語』和泉書院、平成4年。(深沢秋男)
(『日本古典籍書誌学辞典』1999年3月10日、岩波書店)

■仮名草子の範囲と分類(深沢秋男)
 水谷不倒氏が「仮名草子」と命名してから既に百年が経過しようとしている。研究の進展と共に作品の数も次第に増加して、現在では三百点に達する勢いであるが、これには、昭和47年完結の『国書総目録』が大いに与って力があったものと思われる。
 この間、「仮名草子」という名称に対する検討や批判もあり、作品群の分類に関しても様々な意見が提出されて今日に及んでいる。
 これは、現在、仮名草子として扱われる作品が、当時の書籍目録(寛文10年版)を見ると、「仮名仏書」「軍書」「仮名和書」「歌書 并 物語」「女書」「名所尽 道之記」「狂歌」「咄之本」「舞 并 草紙」等の各条に散在している事からも解るように、この名称が、いわゆる文学ジャンルとしての命名でなかった事と関連している。強いて言えば、複合ジャンルの如き性質をもっており、この事が、仮名草子の範囲や分類を複雑にしているように思う。
 仮名草子の範囲を考える場合、留意すべき事項について、今、思いつくままに、列挙してみると以下の如くである。
 仝羃請雹劼箸隆慙◆
 浮世草子との関連。
 I照週(遊女・役者)との関連。
 し浬顱軍学書との関連。
 ヒ本との関連。
 随筆的著作との関連。
 名所記、地誌、紀行との関連。
 ╋儀噂顱⊇性教訓書との関連。
 仮名仏書、仮名儒書との関連。
 注釈書(・・・抄)との関連。
 翻訳物、翻案物との関連。
 これらの、各項を具体的に検討してゆく時、各項相互の間に、出入りがあったり、この他に加えるべき項目があるかも知れない。
 ,慮羃請雹劼箸隆慙△蓮△い錣罎訃絽造量簑蠅任△襪、時期は、徳川開幕以後とし、それに、中世との過渡期としての、安土・桃山時代を含めて、一応考えておきたい。この項で注意したいのは、寛文頃の刊と推測される、渋川版の御伽草子を仮名草子に入れるという説のあることである。確かにこの一群の御伽草子は、近世初期に出版されることによって、より多くの読者に仮名草子と同時的に享受されたものであろう。また、写本→版本の過程で、異同も生じているであろう。しかし、文学作品の史的定着は、あくまで、その内容と成立時期によって評価し、位置づけるべきものと思う。これらの御伽草子は、中世的世界観の下で創られたものであり、これを近世の作品とするのは妥当と思われない。なお、写本を除外するが如き考えが一部にみられることであるが、これも、写本であると刊本であるとに関わりなく、この近世初期に創られた作品全てを対象とすべきものと思う。
 △良眄ち雹劼箸隆慙△蓮下限の問題で、天和2年の西鶴の『一代男』の刊行を一つの目安にする事に異論はないようである。その場合も、仮名草子と一線を画する、浮世草子の新しい特色、傾向についても検討して、いずれに属するかを判断すべきものと思う。
 からは、中世の御伽草子系統の、小説的な作品(草紙)とは、やや異なる、娯楽的、教訓的、実用的な作品群との関連である。これらの諸作品を仮名草子に入れるか否か判断する場合、まず、その文芸性が問われなければならないだろう。これについては、今後、一作一作、具体的に分析して、それぞれの作品の評価を判定する必要がある。
また、仮名草子は、小説的作品に限定すべきであるとしたり、さらに、小説に限定して、「近世初期小説」の用語を採用する、という意見も出されている。御伽草子→仮名草子→浮世草子と、これらを小説の系列として考える時、一応もっともな意見であると思う。しかし、そのように仮名草子を狭義に解し、他の作品を除くことは、研究史的観点から見て、時期尚早であると考える。現在、仮名草子とされている諸作品の具体的な調査、分析、評価等が十分になされているとは思えないからである。かつて、価値の低い作品は採り上げず、その事によって一つの評価を示す、という風潮があった。しかし、文学研究が科学である以上、そのような態度は、もはや、許されないであろう。一つ一つの作品の諸本調査と本文批評を行い、信頼すべき本文を確定し、それに基づいて、作品分析を行い、その属すべきジャンルを定め、文学的評価を出して、妥当な位置づけを行うべきである。
 「仮名草子」という名称も、いずれは、その内容を整理し、物語、説話、随筆、紀行、評論等々に分離して、後続作品への展開をも視野に入れながら、改められる事になるかも知れない。ただ、今は、まだその時機ではないと思う。
 仮名草子の分類に関しても、すでに多くの説が出されている。「いたずらに博捜を事として、書目の多きを誇り、分類・解説に憂き身をやつ」す、と厳しい批判もあったが、先学の諸説は、仮名草子の実態を知る上で、非常に有益であった。
 3種、3種13類、3種16類、5種9類、5種16類、6種、7種11類、8種、10種と、実に様々であるが、それだけ仮名草子の内容が種々雑多で複雑あることを示している。私には、先学の諸説に対して、別の分類を提出する準備も力量も、現在のところは無い。ただ、分類の第一の基準は、やはり、ジャンルによるべきものと考える。
 『分類の発想』の著者、中尾佐助氏は、分類の精神を示すキーワードは、枚挙・網羅・水平思考であると言っている。現時点での仮名草子の研究は、依然として、未だ研究されていない作品を俎上に載せることであり、より多くの作品を見渡して、これらに通用する基準で分類することにあると思う。
 「仮名草子」に該当する作品は、これをことごとく集成し、一作一作、研究を進めることが当面の目標であり、これらを分解、再編する作業は、次の世代の研究者に委ねることになるかも知れない。
(早稲田大学蔵資料影印叢書 国書篇 第39巻『仮名草子集』同刊行委員会、平成6年9月15日発行、月報43)


1、卒業論文のテーマの選択

●私の卒論は、まず、大学2年の頃、自然主義文学の中村星湖に興味をもって、資料収集を始めた。早稲田大学に世話になったりしたが、うまく集められず、中止。次に、中世の西尾実先生について、世阿弥か道元をやろうと思い、少々かじったが、これは難しく、撤退した。で、中世に最も近い、近世初期の仮名草子に決定。
●何にしようかと思って、読んでみたのが『可笑記』であった。こんなに激しい批評精神にみちみちた、作品を書くのは、どんな人物であろうか?  以来40年、この作品と作者の解明にこだわってきた。こんな、非生産的な人生は、許されるのであろうか、そんな自責の念が強い。

■大きい作品だから、呑まれないように
●指導教授は重友毅先生。最初の個人的な指導の時、先生は、この作品は大きいので、呑まれないように、そう申された。この、お言葉は、以後、大変なエネルギーとなった。そう言えば、先生に指導して頂いたのは、この時と、あと目次を見て頂いた時と、2回のみであった。


2、作品本文の書写

●この作品は、『徳川文芸類聚』と『近代日本文学大系』に収録されていたが、これらの叢書をセットで買うには、学生の私には古書価が高すぎる。かと言って、端本など待っていても、いつ出るかわからない。で、毎日、大学の図書館や上野図書館で書写した。大学ノート全8冊に書写完了したのは、確か2年生の終わりの頃だったと思う。

■キミ、版本があるよ!!!
●上野図書館に日参して書写している時、出納台の掛の方が、この作品の版本もあるよ、と声を掛けてくれた。ハンポンて何ですか? 版本て、この作品が初めて出版された時の和本の事ですよ、江戸時代の・・・。その本を見せて頂けるのですか? そこのカードを引きなさい。オソルオソル、請求カードを出して待っていると、出てきました。これがハンポンか!! 
●それからは、貴重書室で、版本を広げながら、活字本を写した。ああ、これがこの字か、やがて、活字本を広げながら、版本から書写した。従って、私の卒論に使用した『可笑記』のテキストは、活字本と版本の混合テキストであった。今、思えば、まことに杜撰なものと言う事になる。杜撰なものではあったが、近世初期から伝存している、和本を手にして、1つ1つのシミや虫食いの痕を見る度ごとに、作品の世界に近づいていったように思う。上野図書館の司書の方に、今も感謝している。
●しかし、その後の私の調査で、翻刻本の『徳川文芸類聚』も『近代日本文学大系』も、校訂者が使用した底本が、いずれも、寛永19年版と無刊記本の取合本である事を思えば、五十歩百歩という事にはなる。


3、諸本の調査

■280段か400段か???
●『可笑記』は『徒然草』に倣った随筆風の作品であり、幾つかの短文の集まりである。文学辞典や論文を調べていると、その章段数についてマチマチの説がある。275、279、280、400。諸説の中では、400段と言うのが最も多く、これが通説かと推測された。
●しかし、私が書写している版本は、どう数えても282の短文の集まりである。さて、どうするか。100段も多いテキストがあるのに、少ない段数のテキストで研究していては、作品の実態は解明できないだろう。略本と広本の関係であろうか???
●私は、400説を主張しておられる、大家の所へお邪魔して、その説の拠り所を質問した。しかし、ラチはあかなかった。結論は、ある有名な研究者が、適当に400と記した(私にはテキトウに、としか判断できない)、それを、以後の研究者は長い長い間、孫引きし続けた、というのが真相のようである。仮名草子は、これほどまでに軽く見られていたジャンルでもあった。

■『可笑記』の諸本
●私が『可笑記』の原本調査を始める前は、どのような種類の版本や写本があるか、明らかではなかった。学生の頃は、上野図書館、日比谷図書館、早稲田大学図書館など、東京の各図書館で閲覧・調査させて頂いたにすぎなかった。卒業後、関西や全国の図書館、そして個人所蔵の原本の調査へと広げていった。その結果、次のように分類するのが妥当と考えるようになった。

寛永19年版11行本
寛永19年版12行本
無刊記本
万治2年版絵入本
その他(取合本・写本)

これらの、全国の諸本を調査して、80点以上のデータを収集することができたが、これを公に発表したのは、昭和43年6月の、日本近世文学会の全国大会においてであった。席上、11行本・12行本の先後関係ついて、田中伸氏と長時間に亙って論争したのも、今は楽しい思い出である。

■『可笑記』原本・3点の伝来

A 寛永19年版11行本(桜山文庫本)
●〔桜山文庫〕は、鹿島神宮大宮司・鹿島則文のコレクションである。この文庫は、則文のお孫さんの鹿島則幸氏が管理しておられた。公共図書館等の調査が終わった昭和40年、閲覧願を郵送したところ、則幸氏は、鹿島の書庫から水戸へ取り寄せて、調査させて下さった。水戸の常磐神社の社務所に通され、鹿島氏の使用される文机で、2時間ほどかけて、閲覧・調査を終了し、辞去しようとすると、「どうぞ、お持ち下さい」と申される。初め、私は、お言葉の意味がよく理解できなかった。「伯楽にお持ち頂ければ、祖父も喜ぶと思います」ようやく、鹿島氏の真意が理解は出来たが、ハイ、そうですか、とはお答え出来なかった。一度、帰宅して、改めて御返事申し上げます。と申し上げて電車に乗った。このような事が現実に有り得るのか。「桜山文庫」の円形朱印を持つ本で、岩波の『国書総目録』にも搭載されている原本である。私は世の中の不思議な事実に出会い、感激と感動の数時間を過ごした。
●この件を重友先生に御相談した。先生は、鹿島氏の御厚意をお受けして、今後、『可笑記』の研究に真剣に取り組み、その成果を上げて、鹿島氏への返礼としなさい、と申された。
●日を改めて、水戸へお伺いし、有難く拝受した。手土産のお菓子は持参したが、金品は一切差し上げなかった。以後、この十一行本は、私の手元にあり、諸本調査に活用させて頂いている。因みに、神田の池上文化財補修工房に依頼して帙を作って頂いた。

B 無 刊 記 本(長澤規矩也氏)
●昭和43年度の春、日本近世文学会の大会で、『可笑記』の諸本の調査結果を発表した。会場は名古屋の熱田神宮であった。発表の直前、法政大学の長澤研究室を訪ね、調査済みリストを提出、結論を申し上げたところ、先生は大変宜しい、と褒めて下さり、御所蔵の丹表紙・原題簽の無刊記本をお貸し下さった。無刊記本は、20点以上伝存しているが、原題簽を存するのは、長澤先生蔵本のみであり、誠に貴重な存在であった。
●昭和45年4月、私は結婚したが、その記念にと、この蔵本を御恵与下さった。「深澤仁弟御内/昭和四十五年/成婚記念/長澤規矩也/所蔵一部書より」と中国の紅紙に墨書して下さった。これも、池上氏に帙を作ってもらい、長澤先生に書名を書いて頂いた。

C 万治2年版絵入本(横山重氏赤木文庫本)
●昭和49年4月30日、文部省の科学研究費補助金(研究成果刊行費)を受けて『可笑記大成ーー影印・校異・研究ーー』を笠間書院から出版した。田中伸氏・小川武彦氏との共編著である。この研究に際して、横山重先生の絵入本を使用させて頂いた。
●昭和四十五年、横山先生から、以下の如き葉書を頂いた。
「この葉書、御手許へ届いた日から、万治刊/の「可笑記」は、貴兄の所有にして下さい。/贈呈します。/私はこの二三年、数氏の方々に、私の本を贈呈して/ゐます。昨二十二日、古典文庫の吉田幸一氏来訪。その/時、宛名だけ書いたこの葉書を吉田氏に示し、可笑記貴兄に贈呈の事を吉/田さんへ話した。で、その日に決定。御本できた時、二、三/部、私へ下さい。それで十分です。/四十五年十二月廿三日/横山重」
絵入本は30点程伝存しているが、どの本も、虫
損が多い。その中で、本書は虫食いが少なく、原題簽も完備している。巻2に落丁があるが、貴重な存在である。帙の題簽の書名は横山先生の筆である。

●桜山文庫本・寛永19年版11行本、長澤規矩也氏本・無刊記本、横山重氏本・万治2年版絵入本、この3点は、現在、私の所蔵となっている。有難い研究の経過である。

■甲南女子大学図書館所蔵、写本『可笑記』
●『可笑記』の写本は、東大文学部研究室に1本を所蔵するのみであったが、平成16年7月の調査で、新たに甲南女子大学に所蔵されている事が判明した。
●甲南女子大本は、平仮名書き主体の、極めて特異な本文である。この写本の位置づけは、平成16年12月の『近世初期文芸』第21号で詳述しておいた。


4、作品の研究

■『可笑記』の読み方、「カショウキ」か「オカシキ」か
●『可笑記』巻5の90段に「これぞ可笑記(をかしき=振仮名)のをはりなりけり。」とあるところから、この作品の書名は「おかしき」と読むべきだ、という説があるが、これでは、書名にならない。当然「かしょうき」と読むべきものと考える。

■『可笑記』の本文批評
●『可笑記』の諸本調査もほぼ完了し、次に、行わなければならない作業は、これらの5種の版本・写本の中で、どのテキストが、最も優れたものであるか、という判断である。これについても、私は、昭和44年11月『近世初期文芸』第1号の「『可笑記』の本文批評」で明らかにしている。,隆憶複隠糠版11行本が最も優れたテキストであると判断し得る。従って、この作品の研究はこの、,傍鬚辰胴圓錣譴覆韻譴个覆蕕覆ぁB艦世虜△痢∈合本文を思い出すと、誠に恥ずかしい。


■『可笑記』と『徒然草』
●『可笑記』の作者にとって最も重要な情報源は、中世の名随筆『徒然草』であった。仮名草子において、一般的に典拠の問題は、重要なテーマである。『可笑記』の特色を解明するには、兼好の『徒然草』との関連を明らかにする必要があった。私は、大学の卒論の頃から『徒然草』の文庫を持ち歩き、『可笑記』と関連ある条々を書き込んでいた。
●昭和女子大学に移り、日本文学紀要に最初に書いたのは「『可笑記』に及ぼす『徒然草』の影響」という論文であった。私が最も重要な主題と考えているものを投稿した訳である。『学苑』昭和59年1月、第529号である。ここで、私は、従来の諸説を整理し、自説を加えて、関連のある段々を指摘した。それは全体で60段に及んでいる。
●次の年の日本文学紀要では、「『可笑記』と『徒然草』−一の2、一の4−」と題して、この2段の関連を具体的に比較、分析して、その影響の深さを論じた。実は、この方法で、全段の影響関係を分析考察する予定であった。しかし、何故か、続稿を執筆していない。と同時に、『学苑』への投稿も一切していない。後年、鈴木重嶺の資料が昭和女子大へ寄贈され、その紹介記録までは『学苑』には執筆しなかった。これは、私の研究方法に関する事である。この種の論考は、一挙に単行本で発表するのが適当であると考えている。いよいよ、その時機が迫ってきたとも言える。


■『可笑記』と『甲陽軍鑑』
●『甲陽軍鑑』は武田信玄の軍学についての書で、全20巻。武田家家臣・小幡景憲の編纂したもの。近世初期の軍書のバイブルの如き存在で、大ベストセラーでもあった。戦国武将の気風を残す斎藤親盛は、極めて武士としての誇りを尊ぶ人物であり、それに、『甲陽軍鑑』には中国軍書をはじめ、儒教的色彩の強いものであった。この点が『可笑記』の作者をも引き付けていたものと思われ、両者の影響関係は実に大きい。
●私は、当初、古川哲史氏校訂の岩波文庫所収本(1巻のみの未完)や、磯貝正義氏・服部治則氏校注の人物往来社の注釈付きの3巻本を利用していた。これには大変教えられる点が多く感謝している。同時に『甲陽軍鑑』の原本も求めて両者の比較検討をしていた。
●その後、酒井憲二氏の研究が次々と発表され、勉誠社版の複製、汲古書院の大成など、氏によって『甲陽軍鑑』の基礎的研究は、ほぼ整ったことになる。このような諸先学の研究の成果を利用させて頂き、本格的な研究に着手した。この点、心から感謝している。
●このテーマに関しては、冨士昭雄氏の記念論集に序説を書き、以後5本の論文を発表し、これらを総合的にまとめて、文部省の科研費による共同研究(平成11年〜14年)の報告書に「近世初期文芸と軍書−−『可笑記』と『甲陽軍鑑』−−」として90ページの総括をした。私としては、ほぼ全貌をつかんだと思っている。


■如儡子の「百人一首」注釈
●如儡子に「百人一首」の注釈書がある事を発見、発表されたのは、田中伸氏・野間光辰氏が殆ど同時であった。これは、大きな発見で、私も大いに感謝した。感謝はしたが、お二人とも、研究の入り口で他界されてしまい、後は私が引き継がざるを得ない状況となってしまった。
●如儡子の「百人一首」注釈には次の諸本がある。
  愽歓涌貅齊筺戞/絽容狙邁半換祐杤蠡
◆ 愎豢冥検戞々駑国会図書館所蔵
 『百人一首註解』 京都大学図書館所蔵
ぁ 愃婉名供戞”霏¬酥術大学美術資料図書館所蔵

このうち、注目すべきものは、い痢愃婉名供戮任△襦実は、この本の所在は、御茶ノ水女子大学の浅田徹氏から教えて頂いたものである。この本は列丁装の写本で、本文も特異な部分をもっている。この写本は、私の感覚的な予想であるが、もしかすると、如儡子の自筆本の可能性があると思われる。万一、そうだとするならば、誠に僥倖、研究生活の最終段階で作者の筆跡に出会えた事になる。しかし、それは、今後の調査考証にまたなくてはならない。


■如儡子の大名批評『堪忍記』
●『堪忍記』と言えば、浅井了意の作品が有名であり、『梅花軒随筆』が如儡子の著作に『堪忍記』がある、としている記述は誤りである、と長い間考えられてきた。しかし、野間光辰氏は、了意の『堪忍記』の他に如儡子の『堪忍記』がある事を指摘された。これは画期的な発言であった。私は、これも、野間氏の指摘を引き継ぎ、研究を進めてきた。
●野間氏は、この著作の内部徴証からみて、如儡子の著作と推定されたが、私は、さらに、最上藩に対する著者の姿勢からみても、如儡子の著作である可能性が大きいと思っている。
●如儡子は、この著作で、各大名の石高等をかなり正確に記し、しかも、諸大名に対して様々な論評を加えている。この大名は人となりが良くないとか、家臣の使い方がひどいとか、下の下、下下の下、上の中、とかランク付けまでしている。それにしても、このような諸大名の石高や藩主の性格などの情報を、どこから入手したのであろうか。興味深い著作である。


■斎藤親盛の俳諧−−晩年の如儡子−−
●斎藤親盛・如儡子には、晩年に残した俳諧作品がある。万治3年、息子の秋盛(ときもり)が、二本松藩主丹羽光重に召抱えられ、一家は二本松に移住した。当時の二本松は、内藤風虎が藩主であった、岩城平藩と共に、東北では特に俳諧が活発な所であった。ここで、晩年の親盛は15年間を過ごした。
●親盛の俳諧作品は、内藤風虎撰の『桜川』に多数収録されており、斎藤友我との両吟百韻もあり、これには、松江重頼の批点が加えられている。貞門俳諧の第一人者・重頼の俳諧指導を受けたのである。俳諧作品を通して伺われる親盛・如儡子は、平穏な幸せな晩年であったものと推測される。酒田の奉行の子として成長し、主家の没落で浪人して、苦しい半生を江戸で過ごした作者も、その晩年は幸せな日々を送ったものと思われる。

■三教一致を論じた『百八町記』
●5巻5冊の『百八町記』は、寛文4年に京都の書肆中野道判から出版された。儒教・仏教・道教の三教一致を主張した著作である。一里三十六町、三里で百八町という書名の付け方である。内容的には仏教に重点がおかれていて、晩年は仏道(臨済宗)に帰依した著者をみる事ができる。この著書に関しては、私は未だ論を発表していない。これまでの研究を踏まえて、今後考察を加える予定である。


5、如儡子という人物

■如儡子(にょらいし)とは何人か
●私がこの作品を読み始めた頃は、「如儡子」がペンネームであることは分かっていたが、ニョライシかジョライシか、読み方もまちまちで多くの文学史などは、ジョライシが通例であった。しかし、この作者が自著の『百八町記』の奥書で「にょらいし」と振り仮名を付けているので、現在では、ニョライシと読むべきものと考える。

■生国東者なれば高才利発にもあらず
●如儡子は『可笑記』の中で、自分の事を「生国東者」であると書いている。そこから、あずま、つまり関東の出身であろうと思っていた。また、『甲陽軍鑑』を多く利用しているので、あるいは、甲州、山梨と関係があるのか、とも思っていた。ところが、実際は山形酒田の出身であった。

■如儡子は、正保〜万治期の、尾羽打ち枯らした浪人か?
●如儡子は、もと武士であったが、正保・万治の頃相続く転封改易のあおりをくった浪人らしいという事は、早くから分かっていた。尾羽打ち枯らした浪人で、書物もろくに買えず、乏しい知識で聞きかじって著作を続けていた、という論調が支配的であった。しかし、私は、卒論に選んだ頃から、この批判精神に富んだ作者を尊敬していた。


6、如儡子の伝記研究

■野間光辰氏の画期的な研究
●田中伸氏の如儡子伝記研究と相前後して発表された野間光辰氏の研究は画期的なものであった。
○「如儡子系伝攷(上)」 野間光辰  『文学』46巻8号 昭和53年8月
○「如儡子系伝攷(中)」 野間光辰  『文学』46巻12号 昭和53年12月
この野間氏の2論文は、如儡子の伝記研究の上で特筆すべきものである。ただ、この伝記研究は、完結することはなかった。野間氏の御他界によるものである。我々は、(下)を拝読したかった。しかし、それは叶えられないことである。後学は、その完結に努める義務を負う事になった。

■如儡子の伝記研究開始
●野間氏から、上記2論文の抜刷を頂いた私は、氏がその論文の中で、如儡子のおおよその伝記を知りたいと思う読者は「略伝」を読めば十分である。ただし、如儡子に関する、より詳細な伝記に興味を抱く読者は、以下に掲げる諸資料を熟読吟味する事を懇請する、と述べておられた。これは、私に対するメッセージと〔私は〕受け止めた。早速、返信を認め、私は、如儡子に関して非常な興味を抱く一人である。従って、野間先生の提出された、貴重な伝記関係資料を、今後、熟読し、徹底的な吟味を加えたい、と申し上げた。野間先生からはすぐご返事を賜り、そのようにするように、と御許可を頂いた。ここから、私の如儡子伝記研究は始まった。

■私の如儡子伝記研究
’}柑(斎藤親盛)調査報告(1)  『文学研究』67 号 昭和63年6月
如儡子(斎藤親盛)調査報告(2) −−父・斎藤筑後と 如儡子出生の地−−  『近世初期文芸』5号 昭和 63年12月
G}柑(斎藤親盛)調査報告(3)−−『世臣伝』『相生集』−− 『文学研究』68 号 昭和63年12月
で}柑(斎藤親盛)調査報告(4)−−二本松藩諸資料−−  『文学研究』70 号 平成元年12月
デ}柑(斎藤親盛)調査報告(5) −−如儡子の墓所−−  『文学研究』78号 平成5年12月


7、伝記研究の方法

●前掲の私の、如儡子伝記研究を見ても分かるように、全て〔調査報告〕となっている。これには、1つの理由がある。従来の伝記研究は、伝記関係資料を研究者が収集した範囲で、伝記として纏め上げていた。その収集は徹底したものもあるが、やや中途半端なものものもある。勿論、調査・収集は徹底することが理想である。私も、かつて、井関隆子や鹿島則孝や鹿島則文などの略伝を纏める時、同様の方法を採用していた。しかし、これでは、科学として見た時、適切ではない事に気付いた。その反省の上に立って進めたのが、如儡子の伝記研究であり、〔調査報告〕とした所以である。

■明日不所求
●当然の事ながら、人間には寿命がある。これは、作者も研究者も同様である。故に、歴史上の人物の伝記を志しながら、業半ばにして世を去った人々の何と多い事か。私の伝記研究の方法は、この人間存在のアヤウサにも着目して打ち出されたものである。出来得る限り、客観的な事実を把捉したい。しかる後に、1人の人物の伝記の執筆に取り掛かりたい。しかし、我が命は、明日までかも知れない。ならば、まず、命のある限り、事実の収集をしておこう。さすれば、その事実の記録を後人が利用してくれるかも知れない。まかりまちがえば、調査も自分の思った通りに進み、自分で伝記の執筆が出来るかも知れない。

■雪朝庵士峯・武心士峯居士
●これは、斎藤親盛・如儡子の号である。如儡子は、酒田筑後町で、川北奉行・斎藤筑後守盛広の嫡男として生まれた。延宝2年(1674)3月8日に没したが、歳は72歳位であったか。父・盛広は、山形藩主・最上家親に仕えた。親盛も幼少から、主君・家親に側近く仕え、元服の時は、主君の名の一字「親」を賜った程である。
●従来、言われてきた如く、尾羽打ち枯らした、みすぼらしい浪人ではない。その心底には、57万石の大大名に近侍した武士としての誇りがあったのである。
●雪深い東北の、酒田の地に生まれ、育った親盛。厳しい寒さの朝、雪は深々と積もる。しかし、武士の子として成長した如儡子は、気高い武士の誇りを身につけ、その頂を目指し、生きていた。

■最上57万石、取り潰し
●最上57万石は、お家騒動にかこつけた徳川幕府の取り潰しに合って、1万石に減らされる。大量の浪人が発生した。後に酒井氏が入ったが、盛広・親盛父子は何故か酒井氏に仕えず、浪人の道を選ぶ。私は、奉行時代の処遇に原因があるのではないかと、1つの資料をつかんでいる。しかし、ここから、如儡子の苦しい浪人生活が始まる。

■酒田・筑後町
●酒田の古地図を見ると、現在の相生町と幸町の辺りにに筑後町がある。この町名は筑後守に縁がある。如儡子は若い頃、諸国を修行して歩き、書写するところの典籍は数百巻に及んだと言われる。また、母方の叔父は羽黒山の警備を担当する掛の責任者でもあった。幼い清三郎(親盛の幼名)の教育には、奉行の父よりも、母の影響が大きかったのではないかとも推測され、おそらく、羽黒山の蔵書も閲覧のチャンスがあったものと思われる。
●如儡子は、成人するまでは、歴とした武家の子として酒田の地に過ごし、学問もきちんと身に付けていたのである。決して聞きかじりの、耳学問ではなかった。

■父・斎藤筑後守
●如儡子の父・斎藤筑後守盛広は越後の出身。祖父・光盛と共に出羽庄内に移り、最上氏に仕えた。義光・家親・義俊の3代に仕え、川北奉行をつとめた。酒田・遊佐・飽海地方には、斎藤筑後の年貢皆済状がかなり多く伝存している。私はこれらを出来得る限り写真に収めて報告した。また、神社などの棟札も貴重な記録である。これも、全て元の形で報告した。これらには、慶長頃の年月日と場所が明瞭に記されている。中には、斎藤筑後の自筆と推測される文書も閲覧する事ができた。如儡子の父は、この日、ここに居た、という証拠である。如儡子は、その盛広の子である。これが、伝記を執筆する時、いかに多くの事を我々に教えてくれることか。

■本貫・越後の調査
●如儡子の祖父・光盛は越後の出であった。戦国の世に、故あって出羽に移った。藤島城代を任せられてもいるので、越後でもそれなりの武将であったものと推測される。おそらく、一族郎党を引き連れて、鼠ケ崎の難所をこえたものと思われる。新発田あたりかと、見当をつけて調べたり、集落全て「斎藤」姓の所にも行って、調べてみたが、現在のところ確たるものに出会っていない。


8、酒田の調査(如儡子出生の地)

■酒田・鶴岡の調査
●如儡子は酒田の筑後町で、酒田城代・斎藤筑後守盛広の嫡男として、慶長8年(1603)の頃生まれた。父・盛広は川北奉行を務めてもいるので、最上川以北の地、飽海・八幡・吹浦・遊佐・・・は調査すべきである。年貢皆済状の所有者、棟札の所在を確認して、バス路線をチェックして、酒田へ行った。
●酒田へ着くと、市で車を出して下さった。酒田市に関連する作者の調査に協力しましょう、という。涙が出そうな配慮である。この折は酒田の研究者田村寛三氏の御教示があった。
●酒田は昭和51年大火災に見舞われ、貴重な歴史上の資料の多くは消失してしまった。しかし、近隣に伝存する諸資料は徐々に収集され、酒田市立図書館や市立資料館、本間美術館等々に保存され、これらの諸資料を調査させて頂いた。しかし、私の基準では、まだまだ、十分とは思っていない。調査は、これからも続く。

■雪の酒田
●酒田・鶴岡・藤島・羽黒、と何度も何度も調査に伺っている。ただ、私としては、大学の夏季休暇を利用しての出張調査であるため、当然、8月・9月が大部分であった。これでは、十分とは言えない。
●色川大吉氏は、その名著『歴史の方法』で、旅行者の目、滞在者の目、定住者の目、という事を指摘しておられる。外来者の目では、外形的把握になる事が多い、とも述べておられる。
●雪深い酒田の地で生まれ、成長した如儡子を知るために、夏の暑い盛りにのみ、調査していては、作者の思いを実感し得ないだろう。しかし、雪の降る時期は大学も卒業行事、入試行事等で、なかなか時間が取れない。忸怩たるものがあったが、平成12年2月23日、ようやく夢が実現した。
●酒田光丘文庫の調査に伺った。勿論、この文庫には、既に何度もお世話になっていたが、この時期は初めてである。閲覧室で調査している時は、掛の方が暖房を入れて下さり、至れり尽くせりである。途中、トイレに立った。流石に、この時期の外気は身にしみる。数日前に降った雪が、屋根や木々の梢には残っている。初めて、如儡子の味わった自然の厳しさに接した思いがして、嬉しかった。さらに、作者に少し近づけたと感じた。その日は駅前の東急インに泊り、翌朝、目がさめると、何と外には雪が降っていた。いそいそと文庫に向かい、文庫の先生と、雪と如儡子の事を話して喜びを伝えた。自然現象も地球温暖化のため、変わってはいるだろうが、それでも、この厳寒の酒田に立って、作者の幼年少年時代を思いやった。

■羽黒山の調査
●平成4年9月、斎藤輝利氏・斎藤弘雄氏・庄司浩士氏等と赤湯で落ち合い、長井市で全員合流、後は車で鶴岡まで走り、羽黒町手向の羽黒山門前の小林坊に5日間宿泊、ここを拠点に羽黒山一帯の調査をした。
●宿坊の朝は、祈祷から始まる。宿泊客全員が本堂に集合して、坊の主、三山神社祝部・小林庸高氏の主導で祈る。毎朝、祈祷の中に、本日の深沢秋男の調査に実りをもたらし給え、と織り込んで下さり、一層、気を引き締めて調査する毎日であった。
●小林庸高氏の御配慮で、最長老にもお会いする事が出来、調査は順調に進んだ。ただし、羽黒山は、明治維新の神仏分離のあおりを受けて、山内にあった300とも言われる寺々はことごとく破棄され、石碑が至る所に転がっていた。焚書坑儒を思い起こし、誠に文化の破壊が残念であった。
●羽黒山の資料は、ごくわずか残存し、多くは、転写などによって、四散した。それらの資料を調査しなければならない。

■戸川安章氏との出会い
●羽黒山の研究では、戸川安章氏の右に出る者は、まず無い、と言ってよいだろう。『羽黒山伏と民間信仰』『修験道と民族』などの名著があり、一部の著作は国会図書館では貴重書になっている。戦前の研究者であろう、と私は決めていた。
●平成4年9月4日、酒田調査の折、鶴岡市立図書館で調査中、司書の秋保良氏に尋ねると、戸川安章氏は鶴岡市内に御健在で執筆活動をしておられるとのこと。私は驚愕と感動で、しばらく頭の整理がつかなかった。暫しして、突然のことで、大変失礼だとは思ったが、御著書の中の羽黒山の記述の根拠についてお教え頂きたく、お電話させて頂いた。
●当時、戸川氏は山形新聞の論説委員をしておられ、現在、急ぎの原稿執筆中で、大多忙ゆえ会う余裕はない、と断られてしまった。明日はいかがでしょうか? 明日もだめです。では、明後日はいかがでしょうか? いや、無理です。5日間までお待ち致します。先生は、とうとう、では、今から来て下さい、と許可して下さった。早速、住所を調べて伺った。同行の斎藤弘雄氏が手土産を用意してくれた。

■戸川安章氏の御研究と羽黒山関係資料
●戸川家に伺うと、書斎で原稿執筆中の氏は、ペンを置いて、応対して下さった。私の希望する資料は、膨大な資料の書庫にあり、今、すぐには出せない、とのこと。それにしても、戸川氏の所蔵する、羽黒山関連の資料は実に貴重である。
●資料の集成に関して、お尋ねすると、地元の出版社が出すと言うので、前の方の原稿を書き、ゲラも出たが頓挫した、と申される。私は、この貴重な資料は何としても出版して、後世に伝えなければならない、と申し上げ、東京の出版社に企画を出す事を提案し、戸川先生も、これをお許し下さった。
●膨大な資料ゆえ、出版も簡単とは思えなかった。斎藤氏とも相談して、山形県の補助も検討することにして、5日間の調査を終え帰宅。早速、全巻の構成などを検討して、知り合いの出版社に交渉する準備を進めた。3日後、戸川氏から速達が届き、この度の計画は中止して欲しい、地元の出版社で進めたい、という事になったとのこと。私としては、どの出版社でも、資料が集成して後世に伝えられれば、それで良い訳である。その後の状況がどうなったか、確認はしていない。

9、二本松の調査(如儡子終焉の地)

■菩提寺・松岡寺(二本松)
●如儡子・斎藤親盛は、福島の二本松の松岡寺に眠っている。昭和63年8月、この菩提寺で斎藤家の御子孫の斎藤輝利氏と初めてお会いした。斎藤氏と友人の渋谷信雄氏の3人で、二本松→米沢→長井→山形→寒河江→鶴岡→酒田、と白のセルシオで日本列島を横断した。出羽三山の山脈を走破した。斎藤氏は長井市で金型の会社を経営していて、先祖が酒田の奉行であった事を誇りとしておられる。その奉行の子の親盛を研究している私に、大変な協力をして下さっている。白のセルシオを、武将・盛広のまたがる白馬に見立てておられる。

■松岡寺の過去帳
●如儡子は、酒田に生まれ、18歳頃までは奉行の子として、成長したが、この青年期に主君最上家が取り潰しに会い、浪人となる。一時、祖父の出身地の越後に行くが、やがて江戸へ出て、苦しい生活を続けた。晩年、子の秋盛が二本松の丹羽家に召抱えられ、一家は二本松へ移住する。
●従って、如儡子の伝記の根本は、酒田・鶴岡・藤島等の山形と、晩年の15年間程を過ごして没して葬られた、松岡寺のある福島の二本松にある。
●松岡寺には、第2世湛宗祖海禅師の編した『松岡寺過去帳』が現存する。誠に貴重な存在である。如儡子の項には、次の如く記されている。
「八日/武心士峯居士/延宝二甲寅三月/俗名斎藤以伝」
形式は、やはり祀堂帳形式である。松岡寺には、この他に、第4世震宗水編のものと、満願寺第16世大隈正光氏編の3点があり、現在は、松岡寺は平素無住で、福島市満願寺の大隈氏が保管されている。

■松岡寺の斎藤家墓所(第1次改葬)
●松岡寺の墓所は、本堂に向かって左手にある。墓地に登って行くと、入ってすぐ右手の花沢家のお墓があり、その奥に斎藤家の墓地がある。お墓に向かって右手に観音堂があり、左隣には、手前に高橋家、その奥に阿部家がある。つまり、斎藤家は2軒分に近い、広い墓地である。何故、このように広いのであろうか。
●斎藤家の墓地は、昭和44年、12代・源覇が没した時、先祖代々の墓石44基を整理して改葬したという。その時、44基の墓石は白布に包み、墓の中に埋めたと、現在の当主・輝利氏は仰る。如儡子の伝記を研究する私は、その埋められた墓石を是非とも見てみたいと切望した。間口は、4メートル55センチ、奥行きは8メートル22センチである。墓石はどのように埋められているのであろうか。

■墓石の位置の疑問点
●斎藤家の墓石は、第1次改葬以前は44基あり、当然のことながら、墓石は周囲に並んでいた。しかし、墓所の左右中央で、奥行きは中央よりやや奥に、一段と大きな墓石があり、これが最も古いもので、斎藤家では、「お姫様のお墓」と言い伝えてきたとの事である。現在の当主・輝利氏は、これが如儡子の母(東禅寺氏)の墓ではないかと推測しておられる。
●それにしても、お墓の中央で、やや奥に建てられている、この墓石の位置は、いかにも不自然である。推測するに、斎藤家の墓は、最初の奥行きはこの母の墓石の所までであり、その後、その奥の山を切り拓いて拡張したため、母の墓石がこの位置に残されたのではないか、と思われる。
●おそらく、二本松に移住した如儡子は、妻あるいは娘の他界に直面し、創建間もない松岡寺を菩提寺に定め、すでに江戸在住中に他界していた、母を供養し、大きな墓石を、左右中央の一番奥に建てたのではないかと思われる。

■墓所の大改葬(第2次)
●平成4年、斎藤輝利氏から、墓所を全面的に掘り起こすので、立ち会ってもらいたい、という連絡をもらった。私は涙が出るほど感激した。3月27日、長井市から大勢の人が来て、墓所の全面的な発掘作業が開始された。私も同じホテルに泊まって立ち会い、逐一写真に記録した。改葬は5月10日にほぼ完了した。
●発掘されたお骨は、新しい骨壷に納め本堂に安置して供養した。墓石は、全て水で洗い清め、石の種類別に分類して調査したが、軟質の墓石は表面が削りとられ、硬質の墓石は細かく破砕されていた。残された刻字から推測できたのは、3名に過ぎなかった。墓石全体を見ても、44基を埋葬したとはとても思えない。昭和44年に改葬した業者に連絡しても、来てはくれなかった。昭和44年の改葬の時、私も立ち会っていたら、こんな結果にはならなかったであろう。悔やまれてならない。
●先祖代々の骨壷は本堂で供養され、墓石は洗い清められ、斎藤家一族の方々の写した写経と共に、再び墓域内に埋葬された。
●私は一部始終の作業に立会い、記録し写真を撮った。密かに、墓石の破片の1つをもらい、如儡子の伝記研究をしている机の上に置きたい、と思った。しかし、それは、伝記研究を志す者の態度としては不遜であると反省し、思い止まった。

■改葬完了と法要
●平成4年の墓所改葬は7月30日、松岡寺住職、満願寺第16世・大隈正光氏を招いて大法要が行われた。
●完成した墓所は、正面奥に大きな供養塔があり、その右に先祖代々の墓石、左には小さな供養塔と、12代・源覇の墓石がある。また、向かって左側には、奥に「墓誌」があり、初代・斎藤玄蕃助藤原光盛之霊位から十二代・長光院本源道徹居士までの各代々の法名・没日等が刻されている。その手前には、2枚の大きな江持石に斎藤家の略伝が刻まれている。
●奥の方には「斎藤家伝略」として、
「平成四年七月山形県長井市ままの上一四八四に十三代輝利在し、墓地改装する。京都大学野間光辰氏及び昭和女子大学深沢秋男氏の調査により祖先の活躍が明らかにされた。祖先の供養と御活躍を子孫に伝えるべくこの碑を造った。・・・」
とあり、手前の碑には「それからの斎藤家」として、近代の経過と参考文献が列記されている。改葬後の斎藤家の墓は実に立派な墓となった。今は、松岡寺の中でも、一段と目立ち、見学に訪れる人もあると聞く。

■三百年大法要
●松岡寺開山・太嶽祖清禅師は、元禄7年の没で、その300年遠忌が平成5年6月6日、県内外の僧侶38名を拝請し、檀家の人々も多数参列して執り行われた。斎藤家の当主輝利氏ご夫妻と共に私も招待されて参列させて頂いた。
●また、この折、二本松歴史研究会の要請で、斎藤親盛・如儡子について講演をした。会場には50名以上の方々が集まり、熱心に質問もして下さった。

■二本松歴史研究会
●二本松には歴史研究会があり、古地図の復元や貴重な資料を入手できたり、漆間氏、紺野氏をはじめ、多くの方々のアドバイスを頂いた。丹羽藩主に関しては『世臣伝』という貴重な史料があり、大鐘義鳴の労作『相生集』が大変な事を教えてくれた。漆間瑞雄氏の研究など、地方史研究の成果は、謙虚に活用させて頂く必要がある。
●大鐘義鳴は、『可笑記』の写本(おそらく如儡子の自筆であろう)を閲覧しているらしいし、斎藤玄覇は、関連資料をある方に預けた、とも伝えられている。これらの資料が、今後出てくる可能性は、決して低いものではない。このような、状況では、伝記は書けないだろう。

■『二本松藩新規召抱帳』『二本松寺院物語』
●前者は、史家・紺野庫治氏所蔵の貴重なもの。これによって、如儡子が江戸から二本松へ移住した年が確定できる。他の2次史料では誤りを生じる。資料批判なしに記録を使うと、誤りの伝記を後世に伝えてしまう。
●伝記研究には、お墓が大変に役立つ。その点、平島郡三郎氏の名著『二本松寺院物語』は実に有難い研究である。後学の我々は、その労苦に感謝せずに使用することは許されない。


■「斎藤家略伝」「それからの斎藤家」
●松岡寺の斎藤家の墓所は、前述の如く、昭和44年と、平成4年の2回改葬されている。第2回目の時、斎藤家墓誌が建てられた。須賀川産出の江持石に刻まれている。撰文は、13代当主・輝利氏によるものである。

■「斎藤家略伝」
「斎藤家伝略
平成四年七月山形県長井市ままの上一四八四に十三代輝利在し、墓地改装する。京都大学野間光辰氏及び昭和女子大深沢秋男氏/の調査により先祖の活躍が明らかにされた。先祖の供養と御活躍を子孫に伝えるべくこの碑を造った。家伝によれば我が家は斎藤別当実盛公/の子孫で平重盛公と大変仲が良かったと言う。奈良原春作氏作斎藤別当実盛伝「さきたま出版会」の中で、前九年の役で阿部頼時が反乱した/際に祖先の実遠公が源頼義公八幡太郎義家公親子に従臣して活躍した文章がある。奥羽平定の際食糧を確保する為、山形県長井市の河/井地区に三年在して食糧を溜めて戦勝に導いたという。現在その長井に住しているのは、祖先の遺徳か。その後康平五年(一〇六二年)実遠公以/来武蔵長井庄に住するのである。当家は源平の乱に父と共に戦に破れ負傷して越後に落ちのびた実盛公の長男の子孫と伝えられている。
  出羽国、庄内地方での祖先
遠祖玄蕃助光盛は越後の国より二十六騎を従えて庄内に来たと言う。大宝寺義氏の縁者を娶って藤島の城をまかされていたのだろう。/しかし、光盛は年三十三才で戦死している。その子盛広は前森筑前守東禅寺右馬助勝正兄弟一族に育てられている。おそらく年令的にも近く兄/弟の付き合いをしていたと察せられる。前森筑前守は羽黒山の別当だったという。東禅寺正勝は大山「鶴岡」城主でその二人に妹がいた。その妹が盛広の/妻であり親盛の母である。詳細は二本松藩で編集した「世臣伝」の巻八下に記してあり野間光辰氏深沢秋男氏の研究で明らかにされている。庄内時代/盛広は最上家に仕え、亀ケ崎城の城代家老を務めた。慶長年間(一五六一年)頃である。現在の酒田の上日枝神社は城内に祭ってあったという。/その縁で現在の酒田祭の毎年五月二十日には招待され、当家も斎藤家の守り神として深く信仰している。尚、酒田の町に筑後町として残っているが、祖先が住んだ屋敷跡を呼んだという。
斎藤家と東禅寺家
後年親盛が儒教、仏教、老子の三教を解説した本が、「百八町記」である。母は親盛に教育熱心だった。伯父の羽黒山別当前森筑前守により/神、仏にいたる資料が身近にあり、又、母が体得した教養が親盛に流れている。天正十六年(一五八九年)最上家に属した前森筑前守、東/禅寺右馬頭勝正兄弟とその一門は今の鶴岡にある十五里原合戦で、上杉勢と戦って戦死した大山の古戦場には戦死せし人千八百余柱/とある。血筋が続いているのは我が一族だけである。大山の古戦場を東禅寺塚と名付けて祖先、盟友の供養を代々せねばならない。
 二本松の祖先
親盛が二本松に来たのはその子秋盛が丹羽家に仕えたからである。その子富盛は傑出して禄増され二百石、二本松時代の礎を築いた。/その後、代々御用人、郡山代官、金銀払出奉行等の要職を務め、明治維新後は三春に移り住んだ。長井に移住するまでの本籍は三春町/荒町十番となっていた。毎年初午に当家でお祭りしている初午祭は、二本松時代、祖先が夢に竹駒神社のお使いが、伏見稲荷の帰り産気づき/姉の方を置いて行くので祀って呉れとのお告げを受け、河原に行くとその通りだったので、屋敷(現在の安達高校の裏の竹林)に飼っていたが、い/つの間にか居なくなったと言う。その後代々初午祭をしている。」

■「それからの斎藤家」
「父源覇(十二代)、東京に住む。戦後の混乱を避けて、当時五反田に在った金型製造の大崎製作所の長井工場に工場長として赴/任して定住した。その後工場は閉鎖され家族は長井に残り苦労の末に南陽市の川崎電気の外注となり本業に戻る。
昭和三十八年、長井市本町の黒沢和助氏の援助で、ままの上に金型工場を作り、昭和四十四年病にて没した。その子輝利、父の意志を/継ぎ、黒沢和助氏の長子和男氏の協力を得て、成田工場を開設現在に至った。
輝利、父源覇亡き後、妻と共に母みさを中心に家族の団結を計る。次弟の弘雄は家業を手伝い、三弟の惣逸は須賀川に/て同商売のフジ精工を起し、妹敬子は南陽市の竹田家に嫁ぎ、末妹恵美子は長井市の工藤家に嫁ぐ。本来三男になるべく/生まれた俊洋は三才で夭折し、長女に生まれた千代子は生後間もなく世を辞した。世の常ならざることを知りつつもむべなるかな。
二本松の墓地は昭和四十五年に最初の工事を完了したが、その後縁あって須賀川に移り住んだ弟惣逸の紹介で庄司浩士師のご指導/を仰ぎ今回の完成をみるに至った。また、完成に当っては、石は須賀川東部の江持石をふんだんに使用することが出来、墓石の製造建/立には叔父高橋清氏が誠心誠意当ってくださるなど、縁ある方々の温い後援を頂戴いたし、心よりの供養が出来ることを感謝するも/のである。

  斎藤家にまつわる出版物
奥羽軍記ー山形県史 庄内時代
斎藤別当実盛伝 さきたま出版会 奈良原春作氏
世臣伝 二本松図書館
二本松寺院物語 平島郡三郎著
可笑記大成 田中伸 深沢秋男 小川武彦 笠間書院 昭和四十九年四月発行
如儡子系伝▲ 野間光辰 文学 岩波書店 上中 昭和五十三年八月 同十二月発行
如儡子(斎藤親盛)調査報告 深沢秋男 文学研究 第六十七号 昭和六十三年六月
続酒田ききあるき 田村寛三著」


●おわりに(今後の課題と計画)

●藤島・鶴岡の調査
●佐倉の調査
●二本松、漆間家の調査
●江戸在住の頃の如儡子(作品から)

◎『百人一首』注釈の研究
◎『百八町記』の研究
◎『可笑記』の総合的研究

●『斎藤親盛(如儡子)の研究』の出版













TOP