深沢秋男研究室 仮名草子研究

HOME
.廛蹈侫ール&研究分野
担当科目&時間割
主要編著書&雑誌論文
こ設ホームページの紹介
ゾ赦遜子大学図書館所蔵(桜山文庫)
昭和女子大学図書館所蔵(翠園文庫)
鈴木重嶺関係資料
南部新一児童図書コレクション
上海交通大学「日本文化資料センター」
百人一首の研究
井関隆子の研究
−2井関隆子の研究2
仮名草子研究
-2仮名草子研究2
-3仮名草子研究3
-4仮名草子研究4
-5仮名草子研究5
鹿島則孝の研究
上田秋成の研究
鈴木重嶺の研究
案本古典文学作品・画像公開
厩掌与泙犯單栂彊貉瓩竜貘⊇
穏愼親盛(如儡子)の研究
該愼親盛(如儡子)の研究・2
●新刊紹介
●学界ニュース
日録
◆自著を語る 1
◆自著を語る 2
◆自著を語る 3
◎篆刻・遊印

仮名草子研究 目 次

_礁樵雹
仮名草子の範囲と分類
『可笑記』と儒教思想
ぁ慍談全書』の諸本
ァ愆嫣陝戮僚本
斎藤親盛(如儡子)の俳諧(上)
Ш愼親盛(如儡子)の俳諧(中)
┷愼親盛(如儡子)の俳諧(下)ー晩年、二本松時代の如儡子ー


_礁樵雹辧(かなぞうし) <分類>
近世初期、慶長(1596〜1615)から天和(1681〜84)にかけての、約八十年間に作られた、小説を中心とする散文文芸の総称。この近世初期は、日本歴史の中でも代表的な啓蒙期であり、この時期に、漢字(振り仮名付き)交じり仮名書きの通俗平易な読み物が次々と作られた。これら一群の文学的著作に与えられたのが「仮名草子」という名称で、その数は三百点にも達する。原本は、写本または版本(古活字本・整版本)として伝存するが、出版の黎明期にふさわしく、全体に版式もおおらかで、大きな本が多い。仮名草子は次の如く分類し得る。(1)啓蒙教訓的なもの(教義問答的なもの、随筆的なもの、女性教訓的なもの、翻訳物)、(2)娯楽的なもの(中世風な物語、説話集的なもの、翻訳物、擬物語)、(3)実用本位のもの(見聞記的なもの、名所記的なもの、評判記的なもの)(野田寿雄説)。この分類からもわかる通り、仮名草子は複合ジャンルの如き性質をもっている。文学史的には、お伽草子→仮名草子→浮世草子と接続するが、これを小説の系列として考えるならば、小説以外の作品をどう扱うべきか、という問題が今後の課題として残されている。(深沢秋男)
【参考文献】坪内逍遥・水谷不倒『近世列伝体小説史』春陽堂、明治30年。水谷弓彦『仮名草子』水谷文庫、大正8年。水谷不倒『新撰列伝体小説史 前編』、春陽堂、昭和7年。野田寿雄『日本近世小説史 仮名草子篇』勉誠社、昭和61年。近世文学資料類従・仮名草子編・古板地誌編全61冊、勉誠社、昭和47〜56年。仮名草子集成1〜21、東京堂出版、昭和55〜平成10年。野田寿雄校注『仮名草子集』上・下、日本古典全書、朝日新聞社、昭和35・37年。前田金五郎・森田武校注『仮名草子集』日本古典文学大系90、岩波書店、昭和40年。青山忠一・岸得蔵・神保五弥・谷脇理史校注『仮名草子集 浮世草子集』日本古典文学全集37、小学館、昭和46年。渡辺守邦・渡辺憲司校注『仮名草子集』新日本古典文学大系74、岩波書店、平成3年。深沢秋男・小川武彦・菊池真一「仮名草子研究文献目録(明治〜平成)」菊池真一『恨の介 薄雪物語』和泉書院、平成4年。
(『日本古典籍書誌学辞典』1999年3月10日、岩波書店)

仮名草子の範囲と分類
 水谷不倒氏が「仮名草子」と命名してから既に百年が経過しようとしている。研究の進展と共に作品の数も次第に増加して、現在では三百点に達する勢いであるが、これには、昭和47年完結の『国書総目録』が大いに与って力があったものと思われる。
 この間、「仮名草子」という名称に対する検討や批判もあり、作品群の分類に関しても様々な意見が提出されて今日に及んでいる。
 これは、現在、仮名草子として扱われる作品が、当時の書籍目録(寛文10年版)を見ると、「仮名仏書」「軍書」「仮名和書」「歌書 並 物語」「女書」「名所尽 道之記」「狂歌」「噺之本」「舞 並 草紙」等の各条に散在している事からも解るように、この名称が、いわゆる文学ジャンルとしての命名でなかった事と関連している。強いて言えば、複合ジャンルの如き性質をもっており、この事が、仮名草子の範囲や分類を複雑にしているように思う。
 仮名草子の範囲を考える場合、留意すべき事項について、今、思いつくままに、列挙してみると以下の如くである。
 仝羃請雹劼箸隆慙◆
 浮世草子との関連。
 I照週(遊女・役者)との関連。
 し浬顱軍学書との関連。
 ト庫椶箸隆慙◆
 随筆的著作との関連。
 名所記、地誌、紀行との関連。
 ╋儀噂顱⊇性教訓書との関連。
 仮名仏書、仮名儒書との関連。
 注釈書(・・・抄)との関連。
 翻訳物、翻案物との関連。
 これらの、各項を具体的に検討してゆく時、各項相互の間に、出入りがあったり、この他に加えるべき項目があるかも知れない。
 ,慮羃請雹劼箸隆慙△蓮△い錣罎訃絽造量簑蠅任△襪、時期は、徳川開幕以後とし、それに、中世との過渡期としての、安土・桃山時代を含めて、一応考えておきたい。この項で注意したいのは、寛文頃の刊と推測される、渋川版の御伽草子を仮名草子に入れるという説のあることである。確かにこの一群の御伽草子は、近世初期に出版されることによって、より多くの読者に仮名草子と同時的に享受されたものであろう。また、写本→版本の過程で、異同も生じているであろう。しかし、文学作品の史的定着は、あくまで、その内容と成立時期によって評価し、位置づけるべきものと思う。これらの御伽草子は、中世的世界観の下で創られたものであり、これを近世の作品とするのは妥当と思われない。なお、写本を除外するが如き考えが一部にみられることであるが、これも、写本であると刊本であるとに関わりなく、この近世初期に創られた作品全てを対象とすべきものと思う。
 △良眄ち雹劼箸隆慙△蓮下限の問題で、天和2年の西鶴の『一代男』の刊行を一つの目安にする事に異論はないようである。その場合も、仮名草子と一線を画する、浮世草子の新しい特色、傾向についても検討して、いずれに属するかを判断すべきものと思う。
 からは、中世の御伽草子系統の、小説的な作品(草紙)とは、やや異なる、娯楽的、教訓的、実用的な作品群との関連である。これらの諸作品を仮名草子に入れるか否か判断する場合、まず、その文芸性が問われなければならないだろう。これについては、今後、一作一作、具体的に分析して、それぞれの作品の評価を判定する必要がある。
また、仮名草子は、小説的作品に限定すべきであるとしたり、さらに、小説に限定して、「近世初期小説」の用語を採用する、という意見も出されてい。御伽草子→仮名草子→浮世草子と、これらを小説の系列として考える時、一応もっともな意見であると思う。しかし、そのように仮名草子を狭義に解し、他の作品を除くことは、研究史的観点から見て、時期尚早であると考える。現在、仮名草子とされている諸作品の具体的な調査、分析、評価等が十分になされているとは思えないからである。かつて、価値の低い作品は採り上げず、その事によって一つの評価を示す、という風潮があった。しかし、文学研究が科学である以上、そのような態度は、もはや、許されないであろう。一つ一つの作品の諸本調査と本文批評を行い、信頼すべき本文を確定し、それに基づいて、作品分析を行い、その属すべきジャンルを定め、文学的評価を出して、妥当な位置づけを行うべきである。
 「仮名草子」という名称も、いずれは、その内容を整理し、物語、説話、随筆、紀行、評論等々に分離して、後続作品への展開をも視野に入れながら、改められる事になるかも知れない。ただ、今は、まだその時機ではないと思う。
 仮名草子の分類に関しても、すでに多くの説が出されている。「いたずらに博捜を事として、書目の多きを誇り、分類・解説に憂き身をやつ」す、と厳しい批判もあったが、先学の諸説は、仮名草子の実態を知る上で、非常に有益であった。
 3種、3種13類、3種16類、5種9類、5種16類、6種、7種11類、8種、10種と、実に様々であるが、それだけ仮名草子の内容が種々雑多で複雑あることを示している。私には、先学の諸説に対して、別の分類を提出する準備も力量も、現在のところは無い。ただ、分類の第一の基準は、やはり、ジャンルによるべきものと考える。
 『分類の発想』の著者、中尾佐助氏は、分類の精神を示すキーワードは、枚挙・網羅・水平思考であると言っている。現時点での仮名草子の研究は、依然として、未だ研究されていない作品を俎上に載せることであり、より多くの作品を見渡して、これらに通用する基準で分類することにあると思う。
 「仮名草子」に該当する作品は、これをことごとく集成し、一作一作、研究を進めることが当面の目標であり、これらを分解、再編する作業は、次の世代の研究者に委ねることになるかも知れない。
(早稲田大学蔵資料影印叢書 国書篇 第39巻『仮名草子集』同刊行委員会、平成6年9月15日発行、月報43)
 
 

『可笑記』と儒教思想

 この作品が主として儒教的教義に立脚して書かれているということは,水谷不倒氏以来諸家の指摘するところであり,あえてここで取り上げる必要もないのであるが,しかしそれらの大部分は概説の域を出るものではなかった。このような中にあって,昭和二十九年三月号の『国語国文』誌上における寺谷隆氏の「仮名草紙に於ける庶民教化の一断面」と題する一文は,作品に即して具体的に論を進めているという点において,またそこに示されたものが,従来のそれとかなり異なる意見の提示である,というこの二つの点においてこれを避けることはできない。そこで私はこの論文との係わりにおいてこの作品と儒教思想との関連について考えてみたいと思う。
 寺谷氏はまず,巻三の37を取り上げて「『可笑記』は仁義を規定して「仁とは慈悲ある事、義とは義理をたつる事」であると言う。(巻六の十二)然し作者が此処で戒めて居るのは吝嗇と無情な態度に過ぎず、敢へて儒教道徳の強調とは言ひ難い。」といっている。このことはこの段に限るならば妥当であるとも思えるのであり,そしてさらに「仁義の勇者血気の勇者」についての一段(五の76)における仁義が,戦国時代から受け継がれた主従関係を中核とする生活の道義性としての仁義であることも明らかであるが,問題なのは,このような段のみをとらえて『可笑記』の仁義規定を評価してしまっていることである。この作品において仁義は単にこのような面からのみとらえられてはいない。
 たとえば巻二の36では,大名が鷹の餌のために多くの犬を殺す現実を見て「しかるをめたところさん事何かよからん、人はたゞかりそめにも、じひありたき事也。」と批判し,さらに巻五の75では「むかしさる人の云るはそれ万の物を、かはゆく思ひ、てうあいせんにも段々次第あるべし。先父母をはじめ、主君妻子兄弟親類他人畜類鳥類虫のたぐひ、草木まてをも、のこす事あるへからず。先父母をいとおしく愛して、其あまりをもつて、主君をいとおしく愛し」といっているが,このように博く人物を慈愛するという意見は,この他にも作中かなり色濃く反映しているのであり,さらにここで見のがしてならないのは,その愛にも段々次第があるとして,まず父母を愛し,その余りをもって主君を愛すべきだといっていることである。ここでは明らかに,主君よりも父母,つまり忠よりも孝が優先しているのであり,これはあくまで忠優先を主張する日本特有の思想と対立するものであり,そしてこれが,儒教的思想であることはこれまたいうに及ばないと思われる。また巻五の56では慈悲を施すにも時と場と相手によるという相対的な考えを提出し「おそれながら、此こゝろを、おしひろめて、じひの御がつてんまいり候はゞ、天下国家を、おさめ給はん、大慈大悲も、御あやまり、有べからず。」と結んでいるのであるが,この作品において慈悲は常に治める者に対して説かれているのであり,これは仁が常に君子に対して説かれることの強い儒教と決して無関係ではないと思う。
 また作者は「義理をたつる」とは,主君において,まず無欲であり,善き臣下を用い,似合い似合いの役を与え,直なる法度を定めることである(三の41)としているが,ここで注意されることは,仁義をいう場合「(主君が)よくしんふかく、仁義をしり給はねば、又下々もよくふかく、仁義をしらず」(三の8)のように常にそれと並列して無欲でなければならぬことを説いている(二の34・三の4・39・四の16・五の51・89)ことである。これは「子◇言利。与命与仁」(『論語』子◇篇)あるいは「孟子対曰。王何必曰利。亦有仁義而已矣。」(『孟子』梁恵王・上)などの孔孟のことばでも解るように,儒教においてもかなり一貫したものであり,この両者の共通性は「されば孟子にも、仁者は富まずと見えたり」(一の35)のように儒教典籍に拠ったところのことば(二の43・三の8・12・四の10・16・五の53など)が,単に語句の引用や故事の紹介の域にとどまらないことの証左になるものと思われる。このようにみてくると『可笑記』における仁義は,「敢へて儒教道徳の強調とは言ひ難い。」一面があるにしても,かなり儒教的要素を含んだものといわなければならない。
 さらに寺谷氏は続けて「又『可笑記』は度々天道を論じて居るが(巻一の二十)その天道観は夙に武士階級に存して居た絶対者としての天道信仰と余り距って居らぬ。」といっているのであるが,このこともまた作品全体に散見する作者の天道についての意見を合わせみるとき,そういい去ることはできない。
 巻一の20において作者は「不行儀沙汰のかぎり」をした者は「御家めつばうあやう」いのであるという。これは無道の行いをした者は必ず天罰を蒙る時がくる,そしてそれは天道の働きである,とみる戦国武士間にみられる天道観と同じ発想をもつものといえる。しかし『可笑記』はさらに続けては,その不道の主君をそのまま是認することなく,臣は君をして善に赴かせるように分別すべきだと力説するのである。これは栄枯盛衰を以て天道のならわしとし,したがって世に栄えているものは天道にかなったものであるとしたところの戦国武士の天道観とはかなりずれてきており,それを道徳的なものとしてみている点において儒教の影響が認められる。また大将が国を攻め取ることについての段(二の19)においては「無理なるかせんをくはだて給ふべからず」ではあるが,ただ相手が天命に背く場合は別であるといい,国を攻め取るのは「其国郡の万民うれへかなしみめいはくするところを、やすんぜんがため」でなければならないという。この意見は敵を打ち破るに手段を選ばず,自分の領地を拡大し,自らの欲望のみを遂げようとした戦国武士のそれから大きく展開したものであり,そしてこれが『孟子』の「文王一怒而安天下之民。」(梁恵王・下),「其子之賢不肖、皆天也。非人之所能為也。莫之為而為者天也。莫之致而至者命也。」(万章・上),「王曰、無畏。寧爾也。非敵百姓也。若崩厥角稽首。征之為言正也。」(尽心・下)などの思想に裏付けられていることは「周の文王殷の紂王をせめほろぼし給ふためしあるをや。」といっているのでも解ることである。巻四の1は学問についての一段であるが,物を知ることは,人の道を行うためであり,その根本は天道である。故に聖人はその天道を解明してそれを万民に教えなければならない,といっている。これは「天道に恵まれ奉る」ことは聖人の道に通ずるものである,といっている(一の27)のとともに天の道,人の道は共通のものであるとする立場からの発言であり,天人合一を説く儒教思想(朱子,孟子など)に通じるものといえる。
 さらに『礼記』のことばに拠っているもの(四の10),仁義礼智信の五常と天道は通じるものであるという考え(四の27)などを考え合わせるとき,儒仏並列の場から天道をとらえている(一の12・27など)というすっきりしない面があるにせよ,その他にみられる天道(一の3・8・41・43・三の5・21・22・35・四の16・47・五の13など)も儒教思想と無関係であるとは思われないのである。『可笑記』における天道説は決して「夙に武士階級に存して居た絶対者としての天道信仰」のみではなく,むしろその立場はいずれかというならば儒教的であると断じてよいと思われる。
 しかし寺谷氏はさらに主従観と項を改めてこの作品が反儒教的であることを強調するのである。巻二の18における作者の主従観をまず指摘し,さらに続けて「如儡子によれば、主従関係とは「君のきみたらざる時は臣のしんたるものなし」(巻三)「重賞の家には死夫あ」り(同上)であって武士の奉公とは所詮「家名と老後のたのしみ」の為に帰着する。…中略…『可笑記』の主従観は例へ著者がどれ程儒教的扮飾を施しても、恩賞を主従関係の基礎に置く事によって、近世封建社会の下にあっては、甚だ反社会的な性質を有して居たと言はねばならぬ。」と結論づけている。そしてこれに関しては松田修氏も『文学』昭和三十八年五月号において言及し「『可笑記』を支える基本的理念は、さまざまの留保条件をつけても、やはり儒教ないし儒教的、最小限漢学的性格を示している。その主従観を以て、反儒教的と全巻を決することには、にわかに従いがたい。」といってはいるが結局は寺谷氏の見解の域を出ていない。
 さて巻二の18であるが,ここで説く家臣の心境は確かに主君に対する態度についての作者の発言ではあろう。しかしそれは「主君おほくはみ内の者共に、蚊のまなこほどの恩賞もあたへ給はず、あはのさね程のなさけをもかけ給はず、やゝもすれば、無理ひがごとのみしげくいひかけてめいはくさせ給ふ」という事実を前提としてのそれであり、決して家臣は主君に対してこのような心得で仕えてよいといっているのではない。いわば不道の主君に対する家臣の態度の一つをあげているにすぎない。また『可笑記』の主従観において「君のきみたらざる時は、臣のしんたるもなし」(三の41)は常に一貫したものであり(一の28・32・二の43など),そして「重賞の家には死夫あり」(三の2)もその一端を補うものであることは間違いない。しかしだからといって、これらをただちに戦国時代的主従観であると断定し,故に反儒教的なのだと結論づけることは妥当と思われない。
 「君のきみたらざる時は臣のしんたるもなし」ということばにかける作者の意図は「君が君なら臣も臣でよいのだ」にあるのではなく,あくまでも「臣が臣であるためにはまず君が君たらねばならない」というところにこそあったのである。だからこそ主君に対して徹底的にその道徳的責任を求めているのである。このように主君は常に正しくなければならないとし,あるいは主君を善に導かなければならないとする態度は作中一貫するものであり,我欲をとげるためには、いかなる手段も選ばず争い合った戦国武士の間にこのような見解が見出し得るであろうか。私はここに治められる者よりも治める者に対して説くことの強い,そして仁政思想の影響をみてとるのである。因みにこの「君のきみたらざる時は臣のしんたるもなし」は「孟子曰、君仁莫不仁、君義莫不義。」(『孟子』離婁・下)をはじめとして『孟子』あるいは『論語』中に散見するこの種のことばに拠っていることはいうまでもない。また「香餌のもとには懸魚あり、重賞の家には死夫ありと、申つたへぬ」は「香餌之下有死魚、似重禄之下有死士也」という『六韜』の文韜第一にその典拠を求め得るが,これをとらえて寺谷氏は「恩の反対給付に依存して居た」戦国武士の主従観と断定するのであるが,この解釈は作品全体からみるとき,適切なものではないと思われる。巻五の51で「おんよりも情の主と云事は、仁義にたつせし侍の事、但情は、質にをかれぬとして、恩賞を望む、侍こそおほけれ」といって,その無欲でなければならぬを説いていることを,さらに仁義を重んじ無欲でなければならないと力説するのがこの作品の基調であること等を考え合わせる時「重賞の家には死夫あり」の用語例を以て戦国時代の武士の主従観に直結することはやや無理なものとなってくる。また作者は恩賞を適度に与えるようにと説いてはいるが,決してそれを主従関係の基礎に置いてはいない(二の18・五の1など)。『可笑記』の主従観は,よしそこに戦国的な要素が介在するにしても,それは現実の主従関係そのものが戦国時代的なものを少なからず踏襲していたことを考えるとき,あるいは当然のことといえるのであり,概していうならば,禄を与える者と受ける者との関係にある現実の主従関係を肯定し,さらにそれを儒教的立場から説こうとした(一の28・二の34・42・三の8・30・41・四の14・五の7・30・35・41・43など)ものであるということができる。また儒教的主従観と武士本来の主従観は本質的には決して同じものではないが,初期三代,家康・秀忠・家光と徳川政権安定を目ざす,改易,転封などの大名統制が頻繁に行われ,反面その所産として生まれる多くの浪人に苦しまなければならなかったところの歴史的現実においては,かかる儒教的主従観がそれほど抵抗なく受け入れられたものと思われる。
 以上二,三の項目を中心にみてきたのであるが,その他にも儒教思想と関連のあるものは少なくないのであり(一の15・二の40・三の24・四の25・五の67など多数),要するに作品全体に流れる思想は単に戦国武士のそれからでもなければ,まして反儒教的でないことはいうまでもない。そしてそれは,主君は常に百姓町人を保護しなければならないと主張しはするが,所詮「侍がとみさかへぬれば、百姓かならずゆたかにさかへ」る(三の1)というように,あくまで武士を最上段に置くという,当時の武士の現実から把握されたところの儒教であったのであり,そこには当然武士と儒教を結びつけようとする一面もあったのである(四の16)。そしてこの間の事情は作品みずからが説明している。すなわち「四書七書、かながきの養生論、つれつれ甲陽軍鑑、すゞりれうしの類置たるもよし」(三の23)「家にありたき物はよまずとも四書七書、法語、和漢の集」(五の63)といい,巻四の43・五の79では『太平記』を読むようにとすすめている。これらのことばからも解るように,儒教および儒教的典籍は作中『史記』『十八史略』『礼記』『春秋』『毛詩』『周易』『戦国策』,それに「七書」等かなり広範囲にわたるようではあるが,やはり「四書」それも『孟子』『論語』がその主たるものと思われる。また『太平記』『甲陽軍鑑』の世界をよきものとして肯定していることは,戦国時代からの武士気質を多少なりとも体験として受けとめていたと思われる作者であってみれば,自然のものと思えるが,さらにこの二書のいずれもが単に軍記物や軍学の書ではなく,そこに少なからず儒教的要素が介在していたという点において一層納得のゆくものとなるのである。
 しかしさらにここで注意すべきことは,これらの儒教あるいは儒教的な書物とともに「法語」をそこに連ねていることである。この作品において仏教思想は一見ことごとく難じ去られているかの感があるが,しかしそれらを子細にながめてゆくと,実利的,物質的意識がたかまり,仏教本来の意味からすれば著しく堕落したところの現実の仏教は激烈な批判を加えられながらも(一の29・四の11・36・五の10,特に五の4・8・24など)なお釈尊はその尊さを作者に対して維持していたのであり(三の16など),さらに儒仏双方が互に難じ合うのを指摘して無用な論争だとし,各々自分の道を究明すべきだと批判するのである(四の5,他に一の35・四の40・五の17)。また「儒者仏者」「儒道仏道」等のように儒仏を並列的にあつかった語句はなかば慣習的かとさえ思えるくらい作中一貫して使われており(一の35・二の44・三の4・四の40・五の37など多数),さらに儒教を現世的なものとし、仏教を来世的なものとみる傾向もあったのであり(五の17)これらのことごとを考え合わせるとき,後年に『百八町記』を著し仏教に帰依したと思われる作者の心的推移も決して不自然なものでなかったことに気づくのである。そして頴原退蔵氏が古く指摘した(『国語国文』昭和七年十二月号)ように『百八町記』の三教一致の思想は,すでに『可笑記』の中に芽ばえていたということができよう。なお『百八町記』の儒釈道の三教一致思想は,一名『儒仏二教/水波問答』と題したものがあるのをみても解るように,その中心は儒仏二教にあるとされているが,このことは『可笑記』においても同様であり,老荘思想はきわめて希薄である(三の17・四の15・五の8)。
 要するにこの作品には,作者自身の体験から得たであろうところの当時の武士の思想と,そして勿論それと無関係ではなかろうが,もう一つこの仏教的要素が包含されているのである。しかしその中心となるものはあくまでも,新しい知識としての儒教思想であったということができる。また作者は儒教をかなり知識的,学問的に受けとめていたのであり,したがってこれに決して盲従してはいない。このことは近世初頭の儒者,羅山などが時として狂信的態度を示していたのと対照的であり,このいってみれば科学的,それだけに自由な態度,これこそこの作品の一つの重要な特色になっていると思われる。
                 (『文学研究』第19号,昭和39年5月)

ぁ慍談全書』の諸本 ―付、『恠談』・『怪談録』・『奇異怪談抄』・『怪談録前集』―

(HTML版注記。JISコードにない漢字は●で代用。図表は省略。その他、角書・割書を表現できず〔 〕に包んで示したり、文字の大小もうまく表現できていないので、是非『近世初期文芸』第十号を参観されたい。菊池)

 『怪談全書』及びその類書の諸本については『仮名草子集成』第十二巻(平成3年9月25日)、第十三巻(平成4年8月20日)の解題で報告したことがある。ただ、そこでは紙幅の関係から、調査結果の全てを述べることが出来なかった。その後の調査をも加えて、改めて報告したいと思う。

 

  一、『怪談全書』の諸本

 

 『怪談全書』の調査済み諸本は、いずれも同一版木によるものであるが、それらは、次の如く分類し得ると思われる。

 〔一〕、元禄十一年版・

   大阪府中之島図書館本

  ◆都立中央図書館・加賀文庫本

    学習院大学日本語日本文学科研究室・B本

  、京都大学附属図書館本

    東洋大学附属図書館・哲学堂文庫本

 〔二〕、元禄十一年版・

  学習院大学日本語日本文学科研究室・A本

  国立国会図書館本

  長澤孝三氏(長澤規矩也氏旧蔵)本

  早稲田大学図書館本

  東北大学附属図書館・狩野文庫本(未見)(注1)

 〔三〕、享保六年版『異朝怪談故事』(改題、求版本)

  都立中央図書館・諸家買上文庫本

  香川大学附属図書館・神原文庫本

 〔四〕、寛保二年版『怪談全書』(改題、求版本)

  宮内庁書陵部本

 〔五〕、無刊記本

  国文学研究資料館本

  龍谷大学大宮図書館本

 

以下、諸本の書誌を記し、考察を加えたいと思うが、同一版木であるので、一本についてのみ版式を詳しく記し、他は、これと異なる点を記する止めたい。

 

 〔一〕、元禄十一年版・I

 

 ‖膾緝槊中之島図書館蔵255・6/76(平成2年9月4日調査)。

体裁大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 薄藍色原表紙、縦二七〇ミリ×横一六六ミリ(巻一)。暗い緑味青色の後補保護表紙を付す。

題簽 左肩に子持枠原題簽の部分を存す。

  巻一…後補題簽「〔有絵〕怪談全書」と墨書。下部に原題簽の部分を存す。

  巻二…無し。

  巻三…後補題簽「〔有絵〕怪(欠損)」と墨書。

  巻四…子持枠原題簽「〔有絵〕怪談全(欠損)」横は三八ミリ。

  巻五…子持枠原題簽「〔有絵〕怪談全書五(欠損)」横は三八ミリ。

  後補保護表紙には左肩に、子持枠のみ木版刷りで「怪談全書 一(〜五)」と墨書。

目録題 巻一巻頭に「怪談全書巻目録」とある。

目録尾題 巻一巻頭の目録の終りに「怪談全書目録終」とある。

  目録の内容は次の通り。

  一之巻/〇望帝〇詰汾/〇王● 〇伍子胥/〇淳干● 〇呂球/○偃王 ○韋叔堅/〇馬頭娘 〇韓朋/〇元緒 〇欧陽●

  二之巻/○李● 〇●客/〇張守一 〇姚生/〇潤玉 〇中山狼/○魚服

  三之巻/〇袁氏 〇●蜉/○●隠娘 ○張遵言

  四之巻/〇郭元振 〇侯元/〇頼省幹 〇王真娘子/〇陰摩羅鬼〇金鳳釵

  五之巻/〇三娘子〇薛/○巴西侯

内題 「怪談全書巻之一」。その下に「林道春」とあり。

   「怪談全書巻之二(〜五)」

尾題 「怪談全書巻之一(〜五)終」

匡郭 四周単辺、縦二〇一ミリ×横一四二ミリ(巻一本文一丁オ)

   縦は一行目と二行目の間、横は一字目と二字目の間で計測。

柱刻 版心は上部白口、下部黒口。上部に書名・巻数、下部に丁付があり、挿絵の丁は又丁となっている。丁付を黒魚尾で囲み、下の黒魚尾には花紋がある。また、上の黒魚尾は(原図省略。元本参照のこと)とあるが、次の二十四の各丁は(原図省略。元本参照のこと)と、上部の横の線が無い。(巻一の八、十八、十九、廿、廿一。巻二の一、三、四、五、六、七、八、九、十九、廿二、廿三。巻三の一、三、四。巻四の十七、十八。巻五の四、又十一、十二)。また、巻四の九丁は(原図省略。元本参照のこと)と、下の線が無い。

  巻一…「怪談目録 甲(乙)」「怪談一 一(〜四)、又四、五(〜九)、又九、十、十一、十二ノ十七、十八、十九、又十九、廿(虫損)、廿一、廿」。「十二ノ十七」の内「ノ十七」は墨書。「廿(虫損)、廿一、廿」の内の「廿」は「廿二」とあるべきところ。ただし、本文は正しく接続しているので、単なる乱丁ではない。

  巻二…「怪談二 一(〜四)、又四、五(〜九)、又九、十、十一、十二、十三ノ十八、十九、又十九、廿(〜廿三)」。「十三ノ十八」の内「ノ十八」は墨書。

  巻三…「怪談三 一(〜五)、又五、六(〜十一)、又十一、十二ノ十六、十七(〜十九)」。「十二ノ十六」の内「ノ十六」は入木。

  巻四…「怪談四 一(〜五)、又五、六(〜十二)、又十二、十三ノ六、十七(〜廿)」。「十三ノ六」の内「ノ六」は入木であるが「ノ十六」とあるべきところ。また、原本は「又十二、十九、十八、十七、十三ノ六、廿」の如く乱丁となっている。

  巻五…「怪談五 一(〜四)、又四、五、六、七ノ十、十一、又十一、十二(〜十四)」。「七ノ十」の内「ノ十」は入木。

丁数 巻一…二十二丁(内、目録二丁)。

   巻二…二十一丁。

   巻三…十七丁。

   巻四…十九丁。

   巻五…十三丁。  合計…九十二丁。

行数 目録は毎半葉七行、本文は毎半葉九行。

字数 一行二十二字。注などに二行割書きが少しある。

話数 巻一…十二、巻二…七、巻三…四、巻四…六、巻五…三。

   合計…三十二話。

挿絵 巻一…片面六図、又四オ「伍子胥」、又四ウ「呂球」、又九オ「馬頭娘」、又九ウ「韓朋」、又十九オ「欧陽●」、又十九ウ「欧陽●」。

   巻二…片面六図、又四オ「張守一」、又四ウ「●生」、又九オ「潤玉」、又九ウ「潤玉」、又十九オ「中山狼」、又十九ウ「中山狼」。

   巻三…片面四図、又五オ「●蜉蜂」、又五ウ「隠娘」、又十一オ「張遵言」、又十一ウ「張遵言」。

   巻四…片面四図、又五オ「郭元振」、又五ウ「郭元振」、又十二オ「金鳳釼(ママ)」、又十二ウ「金鳳釼(ママ)」。

   巻五…片面四図、又四オ「三娘子」、又四ウ「薛昭」、又十一オ「巴西侯」、又十一ウ「巴西侯」。

   合計…片面二十四図。

本文 漢字交り片仮名。振り仮名・濁点を施し、句点は「。」を使用し、まれに「.」を混用する。

序・跋 無し。

刊記 巻五、十三丁オに、

  「右怪談全部羅山子作之

    元禄十一年

           跡ヨリ又平仮名出シ申候

     〔戊寅〕八月吉日

            江戸上野仁王門筋中町

              中 野 孫 三 郎

            京五条橋通

              福 森 兵 左 衛 門

                        板行」

  「跡ヨリ又平仮名出シ申候」は行書体、他は楷書体。

蔵書印等 「牘庫」(内藤風虎)陽刻朱印(縦三六ミリ・横三三ミリ)。「子孫永保/雲煙家蔵書記/共五巻」(鹿島清兵衛)陽刻長方形朱印(縦七二ミリ×横五〇ミリ)。「大阪府立図書館蔵書之印」陽刻方形朱印(四二・五ミリ×四二・五ミリ)。「大阪府立図書館蔵書」陽刻長方形未印(縦二五ミリ×横一一ミリ)。「大阪府立図書館/大正九年九月四日/58999」陽刻長円形朱印(横四一ミリ×縦二七ミリ)数字は青色スタンプ。「255・5/76」の黒ラベル。その他朱印一穎。

その他 巻四の又十二丁以下乱丁。

 

 ◆都立中央図書館・加賀文庫蔵 12196(平成2年3月15日調査)。

体裁 大本、五巻、合一冊、袋綴じ。

表紙 赤墨色表紙、縦二六四ミリ×横一六四ミリ。

題簽 左肩に子持枠後補題簽で文字は墨書。縦一八〇ミリ×横三九ミリ。「怪談全書 林   道春 全」

匡郭 四周単辺、縦二〇一ミリ×横一四二ミリ(巻一本文一丁オ)。

柱刻 大阪府立中之島図書館蔵本とほぼ同じであるが、次の傍線の部分が異なる。

  巻一…「怪談目録 甲(乙)」「怪談一 一(〜四)、又四、五(〜九)、又九、十、十一ノ十六、十七、十八、十九、又十九、廿二、廿一、廿」。「十一ノ十六」の内「ノ十六」は墨書。「廿二、廿一、廿」は「廿、廿一、廿二」とあるべきところ。ただし、本文は正しく接続している。

  巻二…「怪談二 一(〜四)、又四、五(〜九)、又九、十、十一、十二ノ十七、十八、十九、又十九、廿(〜廿三)」。「十二ノ十七」の内「ノ十七」は墨書。

蔵書印等 「中井氏之記」陽刻長方形朱印(縦五三ミリ×横十三・五ミリ)。「束京都立日比谷図書館/091486/昭和28・1・10」長円形黒スタンプ。「加賀文庫/12196」の茶色ラベル。

 

   学習院大学日本語日本文学科研究室蔵・B本 913・61/5018(平成2年8月28日調査)

体裁 大本、五巻、合一冊、袋綴じ。

表紙 濃縹色後補表紙、縦二六〇ミリ×横二六一ミリ。

題簽 左肩に子持枠後補題簽で文字は墨書。縦一七四ミリ×横三八ミリ。「怪談全書 上」

匡郭 四周単辺、縦二〇一ミリ×横一四二ミリ(巻一本文一丁オ)。

柱刻 都立中央図書館・加賀文庫本と同じであるが、十三丁目(刊記の丁)が落丁。

蔵書印等 「大嶋屋」陽刻長方形黒印(縦三〇ミリ×横一一ミリ)「学習院図書」陽刻方形朱印(縦一四ミリ×横八・五ミリ)「学習院図書」約四七ミリの桜花の中に刻す、陽刻朱印。前見返しに次の墨書あり「巻五合綴之于時文久二歳□孟春/吉日再綴之者也/引田浦南/佐野姓蔵/清直改」。「158598」の青色スタンプ。「913・61/5018」の赤ラベル。

その他 巻五の十三丁目(刊記)落丁。巻四の「又十二」と「十三ノ六」が入れ変わっている。

 

 、京都大学附属図書舘蔵 4−47/6/9(平成2年9月3日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 灰味茶色原表紙、縦二六三ミリ×横一六七ミリ(巻一)。

題簽 巻五のみ、子持枠原題簽、

   「(欠損)怪談全書 五」縦一八三ミリ×横三七ミリ。

   巻一〜巻四は原題斉の上に、子持枠後補題長が貼ってある。文字は墨書。「〔有絵〕怪談全書 壱(弐・三・四)」

匡郭 四周単辺、縦二〇〇・五ミリ×横一四一・五ミリ(巻一本文一丁オ)。

柱刻 大阪府立中之島図書館蔵本とほぼ同じであるが、次の傍線の部分が異なる。

   巻一…「怪談目録 甲(乙)」「怪談一 一(〜四)、又四、五(〜九)、又九、十、十一ノ十六、十七、十八、十九、又十九、廿、廿一、廿二」。「十一ノ十六」の内「ノ十六」は入木。「廿、廿一、廿二」は入木によって正されている。

   巻二…「怪談二 一(〜四)、又四、五(〜九)、又九、十、十一、十二ノ十七、十八、十九、又十九、廿(〜廿三)」。「十二ノ十七」の内「ノ十七」は入木。

蔵書印等 巻一前表紙の右下に白紙(縦八〇ミリ×横二〇ミリ)貼付「全部五冊」と墨書し、その下に、丸の中に「大」の陽刻墨印あり(大惣本)。「京都帝国大学図書之印」陽刻方形朱印(五一ミリ×五一ミリ)。「京大図/明治三二・四・二一購入」陽刻円形朱印(二五ミリ)。「33661」の紫スタンプ。「47/力/9」の赤ラベル。

 

   東洋大学附属図書館・哲学堂文庫蔵 わ/3/左/39〜43(平成2年8月9日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 黒色表紙、縦二六七ミリ×横一六八ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽、巻三欠、全体に部分的欠損あり。

   「(欠損)怪談全書一」「〔有絵〕怪談全書 二(四・五)」

匡郭 四周単辺、縦二〇一ミリ×横一四二ミリ(巻一本文一丁オ)

柱刻 京都大学附属図書館蔵本と同じ。

蔵書印等 「紫塵堂」陰刻方形朱印(縦二八ミリ×横三〇ミリ)。「●」陽刻黒印(横三五ミリ)。「甫水井上氏蔵」陽刻方形朱印(二五ミリ×二五ミリ)。花模様の中に「円了文庫」陽刻朱印(四〇ミリ)。「甫水井上円了蔵書/書名 /全五冊/第一(〜五)冊/わ凾/第三架/左班/第卅九(〜四三)/禁庫外帯出」のラベル(数字等は墨書)。「御大典/記念/図書/哲学堂/甫水/円了」陽刻・陰刻混合長円形朱印、(縦四〇ミリ×横一九ミリ)。「昭和51年2月/7346(〜7350)/東洋大学図書館」の紫スタンプ。

 

   〔二〕、元禄十一年版・

 

   学習院大学日本語日本文学科研究室蔵・A本 913・61/5017(平成2年8月28日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 濃縹色原表紙、縦二五四ミリ×横一六六ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽、

   「〔有絵〕怪談全書 一(〜五)」縦一八三ミリ×横三七ミリ、(巻一)。

匡郭 四周単辺、縦二〇一ミリ×横一四ニミリ(巻一本文一丁オ)。

柱刻 元禄十一年版・気劉5都大学附属図書館蔵本と同じ。

刊記 巻五、十三丁オに、

   「右怪談全部羅山子作之

     元禄十一年

      〔戊寅〕八月吉日

               江戸上野仁王門筋中町

                 中 野 孫 三 郎

               京五条橋通

                 福 森 兵 左 衛 門

                           板行」

蔵書印等 「山積蔵書」陽刻方形朱印(三四ミリ×三四ミリ)。「学習院図書記」陽刻方形朱印(五二ミリ×五二ミリ)。「学習院」陽刻長円形朱印(縦三〇ミリ×横一八ミリ)。「学習院図書」陽刻長方形朱印(縦一四ミリ×横八・五ミリ)。「157337(〜157341)」の青色スタンプ。「918・61/5017」の赤ラベル。その他朱印一顆。

 

   国立国会図書館蔵 142/5/1O6(平成2年3月13日調査)

体裁 大本、五巻、合二冊、袋綴じ。巻一、巻二を巻二の表紙で合冊。巻三〜巻五を巻五の表紙で合冊。

表紙 巻二、巻五の前表紙のみ、薄黄茶色原表紙、(縦二六二ミリ×横一六二ミリ(巻二)。各、後表紙は似た色の後補表紙。

題簽 左肩に子持枠原題簽、

   「〔有絵〕怪談全書 二(五)」 縦一八一ミリ×横三八ミリ。「二」を消して左に「一〜二」と墨書、「五」を消して左に「三〜五」と墨書。

匡郭 四周単辺、縦二〇〇ミリ×横一四〇ミリ(巻一本文一丁オ)。

柱刻・刊記 学習院大学日本語日本文学科研究室蔵・A本と同じ。

蔵書印等 「越国文庫」陽刻方形朱印(四〇ミリ×四〇ミリ)。「図書寮」陽刻長方形朱印(縦四六ミリ×横二〇ミリ)。「明治九年文部省交付」陽刻長方形朱印(縦五九ミリ×横一五ミリ)。「束京書籍館/文部省創立/明治五年/MONBUSHO」陽刻円形朱印(四九ミリ)。「束京図書館/和書門/小説類/二五凾/八架/八号/五冊」の黒ラベル。

その他 巻四の「十九」落丁。次の三カ所が乱丁。巻三の「又五」と「五」、巻四の「又五」と「五」を入れかえる。巻三の「又十一」は巻四に入っている。

 

   長澤孝三氏蔵(長澤規矩也氏旧蔵) (平成2年8月20日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 薄黄茶色原表紙、縦二五六ミリ×横一六五ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽、縦一八四ミリ×横三八ミリ(巻一)。巻五の上部に欠損あり。

   「〔有絵〕怪談全書 一(〜五)」

匡郭 四周単辺、縦二〇〇ミリ×横一四二ミリ(巻一本文一丁オ)。

柱刻・刊記 学習院大学日本語日本文学科研究室蔵・A本と同じ。

蔵書印等 「阿(陰刻)範(陽刻)」陰陽混合長方形朱印(縦一八ミリ×横一三ミリ)。「¥380 1951.6.23」鉛筆書き。

 

   早稲田大学図書館蔵 へ13/3198/1(〜5) (平成2年9月14日調査)

 

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 薄黄茶色表紙、縦二五四ミリ×横一六六ミリ(巻一)。

題簽 左肩に剥落の跡があり、その部分に、墨書にて、

   「怪談全書 一(〜五)」

匡郭 四周単辺、縦二〇〇・五ミリ×横一四二ミリ(巻一本文一丁オ)。

柱刻・刊記 学習院大学日本語日本文学科研究室蔵・A本と同じ。

蔵書印等 「早稲田文庫」陽刻長方形朱印(縦四〇ミリ×横一一・五ミリ)。「早稲田大学図書」陽刻長方形朱印(縦三八ミリ×横九ミリ)。「昭和九年/十月三日/購求」陽刻長方形朱印、数字はペン書(縦四二ミリ×横一四ミリ)。「特/へ13/3198/1(〜5)」朱印、数字は黒印。「へ13/3198/1(〜5)」青色ラベル。

その他 巻二の「又十九」落丁。

 

   〔三〕、享保六年版『異朝怪談故事』(改題、求版本)

 

   都立中央図書館・特別買上文庫 421/1(〜5)(平成2年8月11日調査)

 

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 濃縹色表紙、縦二七五ミリ×横一八〇ミリ(巻一)。

題簽 巻四は左肩に子持枠原題簽、

   「〔絵入〕異朝怪談故事 四」(縦一九〇ミリ×横三八ミリ)

   巻三は子持枠原題簽で、上部に破損あり。

   「(破損)朝怪談故事 三」

   巻一は子持枠後補題簽、文字は墨書。

   「異朝怪談故事 一」

   巻二、巻五は無し。

目録題 巻一巻頭に「異朝怪談故事巻目録」と入木。

目録尾題 巻一巻頭目録の終りに「異朝怪談故●目録終」と入木。

内題 各巻本文の始めに入木にて、

   「異朝怪談故●巻之一 林道春選」

   「異朝怪談故事巻之二(〜五)」

尾題 各巻本文の終りに入木にて、

   「異朝怪談故事巻之一終」

   「異朝怪談故●巻之二(〜五)終」

匡郭 四周単辺、縦一九九ミリ×横一四二ミリ(巻一本文一丁オ)。

柱刻 元禄十一年版・兇汎韻検

奥書 巻五終丁オに、

   「異朝怪談故●也者羅山子之所以選也普摘/百家之書籍遠紀千載之奇●矣好●者●巻/則鴻耳嵬目免朽木糞檣之責云爾」

刊記 奥書に続けて、

   「享保六辛丑年五月吉辰

       大阪高麗橋壱丁目

            浅野弥兵衛 板行」

 

 

蔵書印等 「縁山/慧照院常住物」陽刻子持枠長方形朱印(縦六四ミリ×横三二ミリ)。「宍戸昌蔵書記」陰刻方形朱印(四一ミリ×四一ミリ)。「宍戸氏文庫/第3168号/共5冊」陽刻横長円形朱印(横三五ミリ)。「佐多蔵書」陽刻方形朱印(二四ミリ×二四ミリ)。「反町文庫」陽刻長方形朱印(縦四五ミリ×横一〇ミリ)。「日比谷図書館」陽刻長方形朱印(縦二一ミリ×横七ミリ)。「東京都立日比谷図書館蔵」陽刻方形朱印(三九ミリ×三九ミリ)。「東京都立日比谷図書館/0147926(〜0147930)/昭和34・9・15和」陽刻横長円形スタンプ(横五三ミリ)。「特別買上文庫/421/1〜5」のラベル。「Q38822/1/1(〜5)」のラベル。

 

   香川大学附属図書館・神原文庫蔵 九一三・五一(平成3年3月11日調査)

 

体裁 大本、五巻、二冊、一冊目==巻一・巻二、二冊目=巻三〜巻五、袋綴じ。

表紙 藍色表紙、縦二六〇ミリ×横一七八ミリ二冊目)。

題簽 無し。

匡郭 四周単辺、縦一九九ミリ×横一四一ミリ(巻一本文一丁オ)。

柱刻・奥書・刊記 都立中央図書館・特別買上文庫本と同じ。

蔵書印等 「小波選/日本口碑大全用書」陽刻子持枠長方形朱印(縦五〇ミリ×横二七ミリ)。「神原家図書記」陽刻長方形黒印(縦四六ミリ×横一二ミリ)。「寄贈図書/神原文庫/香川大学設立準備委員会」横長円形紫スタンプ。「香川大学附属図書館」陽刻方形朱印(縦四五ミリ×横四四ミリ)。「香川大学附属図書館/乙/125436/昭31・3・30和」横長円形紫スタンプ。年月日は「42・3・31」を朱で消し「31・3・30」と改めている。他に朱印一顆。

 

   〔四〕、寛保二年版『怪談全書』(改題、求版本)

 

   宮内庁書陵部蔵 12172/4/206・861(平成2年9月28日調査)

体裁 大本、五巻、四冊、巻四・巻五を合冊、袋綴じ。

表紙 薄縹色原表紙、縦二五八ミリ×横一八〇ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽、縦一六二ミリ×横三四ミリ(巻一)。

  「〔有図〕怪談全書 一(〜四)」

目録題 巻一巻頭に「怪談全書巻目録」と入木。

目録尾題 巻一巻頭の目録の終りに「怪談全書目録終」と入木。

内題 各巻本文の始めに入木にて、

   「怪談全書巻之一 林道春選」

   「怪談全書巻之二(〜五)」

尾題 各巻本文の終りに入木にて、

   「怪談全書巻之一(〜四)終」

   「怪談全書巻之五  終」

匡郭 四周単辺、縦一九九・五ミリ×横一四四ミリ(巻一本文一丁オ)。

柱刻 元禄十一年版・兇汎韻検

刊記 巻五終丁オに、寄木にて、

   「寛保二年壬戌九月穀旦求版

            南久宝寺町心斎橋筋

             丹波屋理兵衛

     浪 速 書 林

         順慶町壱丁目筋

             田原屋平兵衛」

蔵書印等 「帝室図書」陽刻方形朱印(縦二一ミリ×横二二ミリ)。「松岡本/雑/四冊/第二号」のラベル。「図書寮/番号・12172/冊数・4/凾号・206 861」のラべル。

 

   〔五〕、無刊記本『怪談全書』

 

   国文学研究資料館蔵 ナ4/235/1(〜4)(平成2年9月11日調査)

 

体裁 大本、五巻、四冊、巻四・巻五を合冊、袋綴じ。

表紙 濃藍原表紙、縦二五七ミリ×横一八一ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽、巻一の上部・下部に欠損あり。縦一七一ミリ×横四〇ミリ(巻二)。巻一は楷書風、巻二はやや草書風、巻三は篆書風、巻四五は最も草書風と、各巻の書風が異なっている。

   「(欠損)怪談全書 道春選 (欠損)」

   「〔絵入〕怪談全書 道春選 二(三・四五)」

目録題・目録尾題・内題・尾題 寛保二年版と同じ。

匡郭 四周単辺、縦二〇〇ミリ×横一四三ミリ(巻一本文一丁オ)。

柱刻 元禄十一年版・兇汎韻検

刊記 無し。刊記の丁を欠く。

蔵書印等 「称好塾図書印」陽刻子持枠方形朱印(三〇ミリ×三〇ミリ)。「第六号/四冊ノ内/箱・丙/架・一」のラベル。「雑 五十九号 四冊ノ内」と朱筆の書き入れ。「国文学研究資料館」陽刻長方形朱印(縦三八ミリ×横二四ミリ)。「国文学研究資料館/43694(〜43697)/昭和54年6月19日」陽刻横長円形朱印、数字は墨書。「ナ4/235/1(〜4)」のラベル。

その他 巻五の十四丁(刊記の丁)が削除されている。巻五の末尾に「浪花書林赤松閣蔵   板目録」二丁分がある。以下にその目録を掲げるが、割書きは〔 〕で囲んだ。

「浪花書林赤松閣蔵板目録〔大坂船町千種屋新右衛門〕

山海名物図会〔金銀銅鉄其外海陸諸国より出る品々仕こしらへを委く絵図にして全部五冊〕/同後篇 近刻/絵本古実鑑 全部二冊/同御伽姿名鑑〔油煙斎貞柳狂歌長谷川光信図全三冊〕/同家賀御伽〔栗可亭木賜狂歌長谷川光信図全三冊〕/同異国鑑 全二冊/同国見山〔異国人の遊興を図示寺井重房図全三冊〕/同大和詞〔世間かたことばを正しくあらため近刻出来〕/女鑑秘伝書 全三冊/同絵入改成〔婚礼式法しつけかた女の調法品々あつむ〕/新式目必用〔士農工商内外の式法委くあらはす家々是を必用〕/茶湯古織伝〔古田織部作全部一冊〕/摂州式内神社巡〔赤川村久保重宣撰折本一冊〕/年代記 折本一冊/畳算合儀的〔うせものかけをち男女の心いきを知るうらなひ其外色々重宝を委くあつむ折本一冊〕/諸方道中記折本一冊〔常に懐中して重宝なる事を集〕(1オ)名所方角抄〔諸国名所旧跡委く乗る宗祇法師の作全一冊小本〕/住吉名所志〔神社名所旧跡社人の事委く集る全二冊〕/天王寺伽藍記絵図入 全一冊/大坂近国年中行事扇〔あふきうらおもてに諸方角の祭礼法会其外見物所委集る〕/売買出世車〔相物の高下をかんかへ諸商売の利にたよりある事をあらはす〕/大和詞大全 小本全一冊/骨継重宝記全三冊/算図真筆庭訓 手本/〔英一蝶流遊□絵本〕九十九年〔全部一冊近刻〕/滝本今川 全一冊/御家流今川 全一冊/女鹿筆〔女手本全一冊〕/算学初心抄 全五冊/同大成〔掛て割算位見の法其外秘術を集全一冊〕/出世ぢんかう記全一冊/好色助六拙 全五冊/〔絵入実録〕頼光勲功記全六冊/順礼独案内 全一冊(1ウ)異称日本伝〔松下見林撰十五冊〕/国朝佳節録 同作一冊/潜夫論 漢王符撰近刻/秦少遊待帖 正面摺一冊/帰去来〔子昂行書石刻〕一冊/八分字千字文〔文徴明同〕一冊/絵本戯功能艸〔赤松閣妙薬絵図ニあらはし〕全一冊/同弘法秘密艸 同断/須广筧 同断/英一蝶軽書絵本〔全部三冊近刻〕/〔方角参考〕名所袖枕〔寸珍近刻〕全一冊/和漢文会 全一冊/朝鮮人来朝記〔横本〕全一冊/大子撰集抄 全部六冊/灸艸考 全一冊/誹諧橋柱 全一冊/懐中潮時計〔折本〕一冊/和歌題林抄〔能因法師撰〕全部二冊(2オ)同雛遊ひ〔小本〕一冊/同続国見山〔近刻〕全部二冊/住吉図 近刻/八木宝の市〔米商ひの奥義并ニやりくり両替犬切手先納切手の訳委記す 全一冊〕/童蒙須知〔朱文公撰〕全一冊/同頭書〔宇都宮由的撰〕全一冊/宇津山小蝶物語 全部八冊/新鑑艸 全部九冊/たとへかるた〔いにしへよりのたとへをうたかるたのことくゑ入にしてとりやすく児女のなぐさみとす〕箱入/薬湯重宝記 近刻/笛頭附 近刻/実語経 全一冊/万用小謡大成 全一冊/絵本玉千鳥〔横本近刻〕全部三冊/八卦虎之巻〔安倍晴明〕全部四冊/怪談全書〔林道春〕全部五冊/渡世伝授車 全部五冊/螢火丸所〔其外妙薬品々色のしろなる薬有(2ウ)」

 

   龍谷大学大宮図書館蔵 578/14/1(平成3年9月11日調査)

体裁 大本、五巻、合一冊、袋綴じ。

表紙 枯色後補表紙、縦二五六ミリ×横一八〇ミリ。

題簽 左肩に子持枠後補題簽、文字は墨書。縦一七一ミリ×横三五ミリ。「怪談全書」

目録題・目録尾題・内題・尾題 寛保二年版と同じ。

匡郭 四周単辺、縦二〇〇ミリ×横一四二ミリ(巻一本文一丁オ)。

柱刻 元禄十一年版・兇汎韻検

蔵書印等 「書字堂之蔵書」陽刻長円形朱印(縦三九ミリ×横二三ミリ)。「慧/18架/5号/第 冊/共 冊」のラベル。「仏教大学/ウ90/85/1」のラベル。

その他 巻五の十四丁(刊記の丁)が除かれている。巻五の末尾に「浪花書林赤松閣蔵板目録」二丁分がある。内容は国文学研究資料館のものと同じ。

 

 以上、『怪談全書』の調査済み諸本の略書誌を記した。未調査本に関しては、さらに今後調査を重ね補訂することとし、次に、各版の関連について考察したいと思う。

 

   〔一〕、元禄十一年版・

 

 『怪談全書』の現存諸本は、いずれも同一版木によるものであり、元禄十一年八月の刊記を持つものが、最も早いと判断されるが、この版も、刊記の「元禄十一年」の下に「跡ヨリ又平仮名出シ申候」と有るもの(機⊆命拭↓癸院帖帖牒癸供砲函△海諒犬無いもの(供⊆命拭↓11・12・13)の二つに分けられる。この十一文字は、奥付の丁全体が楷書体であるのに、この部分のみ行書体となっている、という点で、入木の可能性が無い訳ではない。しかし、桔椶鉢極椶鯣羈咾垢襪法¬世蕕に桔椶諒が刷りは早く、従って兇この部分を削除したもの、という事になる。

 さて、桔椶任△襪、これも、刷時によって三つに分ける事ができる。文字・匡郭の欠損等の調査によっても、 Ν◆Νの順で刷られたものと思われるが、その丁付に明らかな相違が見られる。

 

  大阪府立中之島図書館本

巻一の丁付が「十二ノ十七」とあり「ノ十七」が墨書。

巻二の丁付が「十三ノ十八」とあり「ノ十八」が墨書。

巻一の丁付が「廿(虫損)、廿一、廿」とあり、「廿」は「廿二」とあるべきところ。ただし、本文は正しく接続しているので、単なる乱丁ではない。

 

 ◆都立中央図書館・加賀文庫本、学習院大学日本語日本文学科研究室・B本

巻一の丁付が「十一ノ十六」とあり「ノ十六」が墨書。

巻二の丁付が「十二ノ十七」とあり「ノ十七」が墨書。

巻一の丁付が「廿二、廿一、廿」とあり、「廿、廿一、廿二」とあるべきところ。ただし、本文は正しく接続している。

 

 、京都大学附属図書館本、東洋大学附属図書館・哲学堂文庫本

巻一の丁付が「十一ノ十六」とあり「ノ十六」が入木。

巻二の丁付が「十二ノ十七」とあり「ノ十七」が入木。

巻一の丁付が「廿、廿一、廿二」と入木によって訂正されている。

 

 『怪談全書』の各巻には、いずれも飛丁かある。‖膾緝槊本では、巻一が十二丁目、巻二が十三丁目で飛丁となっており、「ノ十七」「ノ十八」が、それぞれ墨書である。これに対し、都立中央本は、巻一が十一丁目、巻二が十二丁目と、飛丁部分が変更され、「ノ十六」「ノ十七」は墨書である。さらに、5大本は、巻一が十一丁目、巻二が十二丁目と、都立中央本と同じであるが「ノ十六」「ノ十七」が墨書ではなく入木になっている。また、巻一の巻末の丁付が、‖膾緝槊本と、都立中央本は「廿二、廿一、廿」と誤刻になっているが、5大本は「廿、廿一、廿二」と入木で訂正されている。このように、 ↓◆↓の順序で、変更され、訂正され(写真、癸掘切8・癸后法以後の各版はを踏襲している。

 また、巻二の九丁ウ七行目で、‖膾緝槊本は「一人の女」としているが、都立中央本・5大本は、共に「 人の女」と「一」を削って空白にしている。(写真、10)。これは、後に「女二人」と出てくるので、△早合点して省いたらしく、それを0焚爾脇Ы韻靴討い襦なお、極椶料畭臻椶蓮崙鵝廚鯔呂琶簓し、〔四〕の書陵部本は「一」を補筆している。

 

当時の書籍目録(注2)を見ると、元禄九年、河内屋利兵衛から刊行された『増益書籍目録大全』に『怪談全書』は著録されていないが、その版木を使用して、元禄十一年中冬に丸屋源兵衛から出された『増益書籍目録大全』(増補改訂版)には、

 「〔五福森〕怪談全書(クハイタンゼンシヨ) 道春 三匁五分」

と記載されている。これは、丸屋源兵衛の宝永三年の増修本にも、正徳五年の増修本にも、同様に記載されている。『怪談全書』は元禄十一年八月の刊行である。それが十一月刊の目録から著録された訳で、これは納得のゆくものと考えられる。

 この「福森」は刊記の福森兵左衛門で、京都五条通に住し、万治から元禄にかけて活動した書肆。『弁才天本地』(万治3年)、『子孫鑑』(寛文13年)、『下学集』(刊年未詳)、『日用宝鑑』(貞享2年)、『浄土見聞集』(貞享4年)等を刊行している。(注3)

 中野孫三郎は、寛文〜元禄期に活動した江戸の書肆で、神田鍛冶町、後に神田通乗物町に移り、さらに上野仁王門筋中町に店を構えていた。この『怪談全書』は、京都・福森と江戸・中野の相版であるが、福森兵左衛門が責任版元で、中野は、京都の出店ではないかと推測される。

 

 奥付の刊年の下に「跡ヨリ又平仮名出シ申候」とあるが、『怪談全書』の版本で平仮名本は、現在までに見る事が出来なかった。天理図書館には『漢考怪談録前集』五巻五冊が所蔵されていて、内容は『怪談全書』とほぼ同じで、本文は漢字交り平仮名である。ただ、全三十二話を収録しているのにもかかわらず、「前集」としており、また、収録順序も、かなり異なり、むしろ写本系統に近い。おそらく、元禄十一年に福森・中野が、今後、平仮名本を刊行する、と予告したものとは別に、写本『恠談』または『怪談録』に拠ったものではないかと思われる。これに関しては後述する。

 

 長澤規矩也氏は、元禄十一年版『怪談全書』を、原刊本ではなく、外題換の書としておられる。

 「私の眼で見ると、怪談全書の各巻の書名は改刻であり、版心には「怪談」とのみあつて、しかも、その上には魚尾もないわりにその位置が下り過ぎてゐて、奥附の「板行」の二字が他と遊離してゐる。私は、現行の怪談全書はいはゆる外題換の書で、もと、奥附には「板行」の二字の上に発行書店名があつたものかと考へた。」(『文学論叢』特輯号、昭和32年3月)

 「奥付においては最後の「板行」の二字のみが原刊らしくみえ、詳しくみると、「怪談全部」の「全部」が入れ木、巻首の「林道春」も加刻、各巻の書名は改刻であり、版心には「怪談」とのみあつて、しかもその上には魚尾もないわりに文字の位置が下がりすぎている」(『国語と国文学』38巻4号、昭和36年4月)(注4)

 長澤氏は、その刊記の記し方から推測すると、極椶鮖藩僂靴討られたように思われる。現在までの調査し得た中では、前述の如く‖膾緝槊本が最も早い刷りと判断されるので、改刻か否かの吟味は、この本ですべきものと思う。見たところ、目録題には違和感がないようであるが、内題・尾題には、刷色が部分的に薄いもの、逆に濃いものがあったり、文字が部分的に大きかったり、また、文字の字間に不揃いがあったりする。刊記の丁は、現状では、いずれとも判断しかねるが、「元禄」の「元」、「戊寅」の「寅」、「江戸上野仁王門」の「上野仁」「門」、「中野」の「野」などに欠損が見られ、これらの点から考えて、長澤氏の指摘される如く、この元禄十一年版が後印本であるという事に異論はない。この版が外題換であるか否か、という点をも含めて、さらに未見本の調査を重ね、判断したいと思う。

 

 次に飛丁の事について考察しておきたい。すでに書誌の項で記したが、各巻には、次の如く飛丁がある。

 巻一…「十二ノ十七」として、13・14・15・16・17の5丁分を飛ばしている。

 巻二…「十三ノ十八」として、14・15・17・18・の5丁分を飛ばしている。

 巻三…「十二ノ十六」として、13・14・15・16の4丁分を飛ばしている。

 巻四…「十三ノ六(十六とあるべきところ)」として、14・15・16の3丁分を飛ぱして    いる。

 巻五…「七ノ十」として、8・9・10の3丁分を飛ばしている。

 この飛丁に関して、太刀川清氏の見解がある。(注5)太刀川氏は、元禄十一年版・極椶鮖藩僂靴討られるようであるが、やはり、桔椶傍鬚辰胴佑┐討罎ことにする。

 「この各巻の削除部分を明かにするために『怪談全書』とこれに先行すると考えられている写本『怪談』及び写本『怪談録』を比較しても削除部分は見当らない。いずれも『怪談全書』の内容と一致し、行文にもちがいというほどのものもないところから、あるいは見せかけの丁数をふやそうとする書肆の作為かと疑ってはみたが、そうでもなさそうで、やはりこの部分には別の内容があって、きわめて巧妙な扱いで削除されたものであろう。

  その内容は原刊本をみてはじめて明かになるものであるが、奥付の「右怪談全部羅山子作之」と敢て「全部」といっているところに注目したい。書肆のはからいから一度は『怪談』、『怪談録』に見られない内容の条を加えて刊行を企てたものの、事情あってやはり世間で「羅山作」と考えられている「怪談」にかぎることにして他は削除することにした。そうすればその内容は「全部」羅山作のものとなる。奥付はそんなことを暗示しているようにとれる。かくして書肆は削った本文にかえて挿絵を入れて刊行に及んだ。おそらくこれがはじめての刊行であったであろう。原刊本といったのもいわぱ幻の刊本であったのではなかったか。」

 やや長い引用となったが、要するに、太刀川氏は、これらは単なる飛丁ではなく、この飛丁の部分に、羅山以外の者の作が入っており、これを「巧妙な扱いで削除」したものであろうとされている。

 さて、丁のオ・ウ、丁移りで削除可能な部分を整理すると次の通りである。

 巻一…4丁オと4丁ウ、11丁オ(「元緒」を入木)と11丁ウ。

 巻二…4丁ウと5丁オ、9丁オ(「潤玉」を入木)と9丁ウ。

 巻三…6丁オと6丁ウ、10丁ウと11丁オ。

 巻四…無し。

 巻五…7ノ10丁オと7ノ10丁ウ。

 羅山以外の者の作を削除して、その分を飛丁にしたのであれぱ、同じ丁を飛丁にした方が手数がかからない。右の如く、削除可能な丁と飛丁をみると、巻五が合致しているのみであり、殊に巻四は可能と思われない。

 長澤規矩也氏も、奥付の「怪談全部」の「全部」は入木であるとされており、‖膾緝槊本を見ても、やや違和感があるようにも思える。その意味で、太刀川氏の指摘は興味深いものではあるが、巻四の事をも含めて考えると、ここは、やはり、他の諸作品に見られる如く、丁数を多く見せるための飛丁とするのが妥当と思われる。

 

 本書には、巻一…六図、巻二…六図、巻三…四図、巻四…四図、巻五…四図、合計二十四図(いずれも片面)の挿絵が入っており、全て又丁となっている。飛丁で二十丁水増しし、又丁で挿絵十二丁を追加し、差し引き八丁の水増しという結果になっている。

 長澤規矩也氏は「(本書が外題換ではないかと話したところ)朝倉治彦氏は、同書の挿絵の丁附がずべて「又幾」となつてゐて、後印の際の増入であることを指摘され、吉田幸一氏は、挿絵の丁の版心の「怪談」の二字が楷書である本文と違って、行書風であること)を指摘された。」(『文学論叢』特輯号、昭和32年3月)(注6)と記しておられる。

 挿絵の丁付が全て又丁であるので、挿絵は後から追加したものと考えられるが、絵の無い本文だけの本は、現在までに発見できなかった。本文の版が出来上がってから、挿絵入りと変更になり、急ぎ加えたのではないかと思われる。ただ、太刀川氏の言われる如く、この又丁が飛丁と密接に関連しているとは即断できない。

 この挿絵の絵師・画風等については、現在、未調査の状態であるが、これらの漢画風挿絵について、近時、花田富二夫氏の「仮名草子漢画風挿絵考」が発表されている。(注7)示唆に富む御論考であり、これを参照して、本書の挿絵に関しても、今後、考察したいと思っている。

 

   〔二〕、元禄十一年版・

 

 太刀川清氏は、前掲論文(注8)の中で、

「通行の『怪談全書』は

  元禄十一年戊寅八月吉日

   江戸上野仁王門筋中町 中野孫二(ママ)郎

   京 五条橋通     福森兵左衛門

の刊記をもつもの、たとえば『日本名著全集、怪談名作集』に所収されるようなものが一般であるが、ほかに、同一刊記の刊行年月の下に「後(ママ)より又平仮名出し申候」と入木した版がある。日比谷図書館加賀文庫、及び哲学堂本文庫所蔵の『怪談全書』がそれである。」

 としておられるが、これは前述(84ページ)の如く、刷時は桔椶諒が早く、従って、刊年の下の十一文字は、桔椶入木したのではなく、極椶削除したものである。極椶蓮右以外に次の如く、振り仮名を改めた箇所がある(上が桔棔下が極棔法

 淳于●(シユンカンフン)→淳于●(シユンウフン)(目録甲丁オ)

 金鳳釵(キンホウケン)→金鳳釵(キンホウサ)(目録乙丁オ)

 淳于●(シユンカンフン)→淳于●(しゆんうふん)(巻一4丁オ1行目)

 淳于●(シユンカンフン)→淳于●(シユンウフン)(巻一4丁オ2行目)

 金鳳釵(キンホウケン)→金鳳釵(キンホウサ)(巻四12丁オ5行目)

 金鳳釵(キンハウケン)→金鳳釵(キンハウサ)(巻四12丁オ9行目)

 このように、極椶蓮↓桔椶琉貮瑤鯆正している訳であるが「金鳳釵(キンホウケン)」を改めていない所もあり(2個所)、これらは目録で気付いたものを改めた程度のものであり、全体的に意識的に校訂したものではないと思われる。

 

   〔三〕、享保六年版『異朝怪談故事』(改題、求版本)

 

 この版は、〔二〕元禄十一年版・極椶魑疊任靴董岼枋怪談故事』と改題したものである。従って、題簽、目録題、目録尾題、内題、尾題の全てを入木で改めている。ただ、版心及び柱刻は、元禄十一年版・極椶汎韻犬任△襦兵命拭↓14、15、16、17)。

 当時の書籍目録に「異朝怪談故事」の書名は見当たらないが、この後、〔四〕寛保二年版、〔五〕無刊記本では再び「怪談全書」の書名に改めているので、書籍目録には入らなかったものと思われる。版元の浅野弥兵衛は、屋号は藤屋、浅野氏、星文堂のことで、元禄から天保にかけて、大坂高麗橋一丁目角で活動した書肆。藤屋弥兵衛は『怪談全書』の版木を京都の福森兵左衛門から求め、「異朝怪談故事」と改題、出版したのであろう。

 

   〔四〕、寛保二年版『怪談全書』(改題、求版本)

 

 この版は、〔三〕享保六年版『異朝怪談故事』の版木を求めて、再び「怪談全書」と改題したものである。従って、題簽、目録題、目録尾題、内題、尾題の全てを入木で改めている。ただし、版心及び柱刻は、元禄十一年版・極椶汎韻犬任△襦また、第四冊目に巻四と巻五が合冊されており、これは、この書陵部本のみの製本時の合冊か否か、伝本が一本のみのため未詳である。この点は、〔五〕無刊記本(五巻四冊)と関連するようにも思える(写真、18・19・20)。

 版元の田原屋平兵衛は、抱玉軒、大坂順慶町一丁目、後に心斎橋筋塩町に移転した大坂の書肆で、元禄二年に『梁塵愚案抄』を出版している。丹波屋理兵衛は大坂久宝寺町心斎橋筋の書肆であるが、宝暦十一年頃江戸に下り、文林堂と号した。洒落本刊行上知られた本屋で、淡々系の俳人でもあった。人見姓。寛保二年八月には『大日本廿二社道中記』を出版している。前年には月行事を努めている。その蔵版目録(例えぱ、延享四年刊『時学鍼 』巻末)を見ると、

 「怪談全書 〔林道春作全五冊〕」

と記載されている。田原屋・丹波屋が『異朝怪談故事』の版木を浅野弥兵衛から求め、再び「怪談全書」の書名に復して、田原屋責任で刊行したものと思われる。

 

   〔五〕、無刊記本

 

 この版は、〔四〕寛保二年版の版木を利用しているため、ほとんど寛保二年版と同じで、五巻四冊(巻四、巻五合冊)というのも同じである。ただ、題簽は新たに彫られたもので、四冊目は、

 「〔絵入〕怪談全書 道春選 四五」

とあり、明確に四冊本となっている。

 巻五巻末の刊記の丁は削除されているが、そこに「浪花書林赤松閣蔵板目録」二丁が付されている。版元は大坂の千種屋新右衛門であると推測される(写真、21・22・23)。千種屋新右衛門について、井上和雄氏は「平瀬氏 赤松閣 宝暦―安永/大坂江戸堀三丁目 又船町とす 草野 鬼望 輔世などの号を以て自家刊本の序文を書けり」と記しておられる。(注9)

 次に、この版の刊行年について考えてみたい。ここに付された、赤松閣の蔵版目録の全文は書誌の項に掲げたが、この目録には七十点の書名がある。その内の何点かを『国書総目録』等で調べ、刊年順に掲げると次の如くである。

 

〇和歌題林抄 能因法師 二冊 宝暦七年版

〇国朝佳節録 松下見林 一冊 貞享五年版・刊年不明版

〇異称日本伝 松下見林 十五冊 元禄六年版

〇童蒙須知頭書 宇都宮由的 一冊 元禄十六年版

〇宇津山小蝶物語 (森田吟夕) 八冊 宝永三年版

〇算学初心抄 (脇野光正) 五冊 正徳五年版

〇住吉名所志 (田寺如柳) 二冊 享保二十年序

〇朝鮮人来朝記 横本 一冊 延享五年版

○絵本家賀御伽 栗可亭木端 三冊 宝暦二年版

〇山海名物図会 (平瀬徹斎) 五冊 宝暦四年版・寛政九年版・寛政十年版・寛政年間版・文政十二年版・天保十一年版・刊年不明版

〇絵本国見山 寺井重房 三冊 宝暦七年版

〇新鑑艸 (光風子) 九冊 宝暦九年版・寛政四年版・刊年不明版

〇絵本古実鑑 二冊 宝暦十三年成

〇絵本大和詞 (一冊) 明和四年成

〇出世ぢんかう記一冊 天保五年成

 

 前述の如く、井上氏は、千種屋新右衛門の活動した期間を、宝暦―安永の頃と記述しておられるが、『絵本家賀御伽』から『絵本大和詞』までが、その期間内となる。元来、求版の多い千種屋であるから、それ以外は求版という事であろうか。

 最後の『出世ぢんかう記』が『大阪出版書籍目録』に記す『出世塵功記』と同一書とすると、天保五年の成立で、やや時代が下り過ぎると思われるが、現物の所在も明らかでないので、今は保留事項としておく。

 この蔵版目録の『絵本大和詞』には「近刻出来」とあり、「怪談全書 林道春 全部五冊」は、六十八番目という、目録の終りに出されている。これらの点を考えると、この千種屋新右衛門の蔵版目録を付した、無刊記本『怪談全書』は、明和頃の刊行ではないかと推測されるが、宝暦十一年正月刊『絵本勇名草』(大本、一冊)巻末の蔵版目録三丁中にも見えるので、後考を待ちたい。千種屋への版木譲渡は、丹波屋が東下に際し、出版事務上関係深かったことによるのであろうか。

 

 以上、『怪談全書』の調査済み諸本について述べたが、未調査本については、今後、調査を重ね、さらに補訂したいと思う。

 

 

  二、『恠談』の諸本

 

 

 写本『恠談』の諸本では、現在までに三本を調査し得た。〔一〕島原市立図書館・松平文庫所蔵本、〔二〕長澤孝三氏(長澤規矩也氏旧蔵)所蔵本、〔三〕東洋大学附属図書館・哲学堂文庫所蔵本である。以下、これらの諸本の書誌を記し、考察を加えたいと思う。

 

  〔一〕島原市立図書館・松平文庫本(片仮名本)

 

所在 島原市立図書館・松平文庫 松・115/19(平成2年9月18日調査)

体裁 大本、一巻一冊、写本、袋綴じ。

表紙 極薄青色原表紙、縦二九〇ミリ×横二〇三ミリ。

題簽 左肩に書題簽「怪談」、縦一二一ミリ×横三一・五ミリ。

内題 一丁オ、本文のはじめに「恠談」。

目録題・目録尾題・尾題 無し。

匡郭 無し。一行の字の高さは、二一〇ミリ前後。

丁付 無し。

丁数 五十九丁(他に、巻頭に一丁、巻末に一丁の遊紙あり)。

行数 毎半葉十一行。

字数 一行二十二字〜二十三字。

話数 三十二話。

本文 漢字交り片仮名。振り仮名・濁点は極わずか有り。句読点無し。

挿絵 無し。

序・跋 無し。

蔵書印等 「文庫」陰刻横長方形(角丸)朱印(縦一九ミリ×横二五・五ミリ)。「尚舎源忠房」陽刻長方形子持枠灰味緑色印(縦三九ミリ×横一四ミリ)。「島原図書館/松平文庫/第4646号/昭和36年8月14日」陽刻方形朱印、数字は黒ペン(三六ミリ×三六ミリ)。「松・115/19」のラベル。

その他 乱丁・落丁無し。部分的に、同筆による補筆がある。これらは、書写の折の誤脱を、再度対校して補ったもの。

 

  〔二〕、長澤孝三氏所蔵本(平仮名本)

 

所在 長澤孝三氏(長澤規矩也氏旧蔵)(平成2年8月20日調査)

体裁 大本、二巻、一冊、写本、袋綴じ。

表紙 薄青味灰色原表紙、縦二六四ミリ×横一九八ミリ。

題簽 左肩に書題簽「恠談 上下」縦一六〇ミリ×横二七ミリ。

内題 上巻一丁オの左肩に「恠談 上下」

   上巻三丁オ一行目に「恠談上」

   下巻一丁オ一行目に「恠談下」

尾題 無し。

目録題 上巻二丁オに「恠談上之目録」「恠談下之目録」

    目録は上巻二丁目に、上下一括して次の如く記す。

   「恠談上之目録/一 詰● 天女と契りし事  二 王●人を葬て陰徳有事/三 淳于● 蟻化する事  四 呂球獺の化したる事/五 偃王 徐王の后卵を産み世継と成たる事 六 韋叔堅 犬の恠を不罹る事/七 馬頭娘 女化して蚕成たる事 八 韓朋 夫婦死して鴛鴦となりし事/九 元緒 亀の化したる事 十 欧陽● 猿化して数女并珍物奪取し事/十一 巴西侯 数多獣変化する事 十二 李● 々々蛇に訛取るゝ事/十三 ●客 薬を与て病人消事 十四 張守一 幽霊恩を報する事/十五 ●生 星の精人と契たる事 十六 潤玉 幽霊と契る事/十七 中山狼 狼の変化人に殺さるゝ事 十八 魚服 死て魚と成蘇事/恠談下之目録/一 三娘子 人化て驢馬と成たる事 二 袁氏 猿女に化たると契たる事/三 ●蜉 蟻の化たる事 四 ●陰娘 変化のもの女盗術を教事/五 張遵言犬を飼て死を免るゝ事 六 薛昭 仙女と契し事/七 郭元振 悪神を殺して生贄を止し事 八 侯元 得仙術軍を発し負ぬる事/九 頼省幹 心経の徳にて命助る事 十 玉真娘子 小女福を与へし事/十一 陰魔羅鬼 人死して化鳥に成たる事 十二 金鳳劔 死たる妻と二度契事」

目録尾題 無し。

匡郭 無し。一行の字の高さは、二〇五ミリ前後。

丁付 無し。

丁数 上巻…二十八丁(内、内題一丁、目録一丁)。

   下巻…二十七丁。   合計…五十五丁。

行数 毎半葉十三行。

字数 一行二十二字〜二十三字。

話数 三十話。「望帝」「伍子胥」の二話を収録していない。

本文 漢字交り平仮名。振り仮名を片仮名で付す。濁点・句読点は無いが、朱引、朱によ   る句読点・振り仮名がある。

挿絵 無し。

序・跋 無し。

蔵書印・識語等 「静●」陽刻方形朱印(一六ミリ×一六ミリ)。罫紙一葉に、旧蔵者・   長澤規矩也氏の次の識語がある。

「恠談 二巻一冊/撰者ヲ題セズ 通行スル所ノ怪談全書ノ内/容ニ似テ異同アルニ似、書本雅潤ナルニヨリテ収/ム、寓々返リテ怪談全書卜較ブルニ彼ニアル/望帝伍子胥ノ二条此ニナク、此ノ巴西侯三娘子薛/昭ノ三条彼ハ巻五ニ収メラレタル外、彼此大差ナシ。/怪談全書ハ元禄十一年ノ印行に係リ、此ハソノ/以前の伝抄本ナルベク、此ニハ羅山ノ作ナルヲ云ハズ/予年来考フル所全書が羅山ニ仮託/シタルモノナルコト愈然ルヲ覚ユ 昭和廿三年四月十日。(陽刻朱印「静●」)/  此本文行堂二獲タリ、     」

その他、長澤規矩也氏の『怪談全書』『恠談』『怪談録』『怪談録前集』等に関するメモ五枚が添付されている。

その他 落丁・乱丁は無いが、「望帝」「伍子胥」の二話を省略している。

 

  〔三〕東洋大学附属図書館・哲学堂文庫本(平仮名本)

 

所在 東洋大学附属図書館・哲学堂文庫 わ/8/中/22(平成2年8月9日調査)

体裁 大本、二巻、一冊、写本、袋綴じ。

表紙 原表紙は桃色に唐草模様を印刷したものであったと思われるが、大部分が剥落している。縦二六七ミリ×横一八二ミリ。

題簽 左肩に剥落の跡があり、そこに直接「恠談 壱冊」と墨書。

内題 一丁オ一行目に「恠談上」。

   三十九丁オ一行目に「恠談下」。

尾題・目録題・目録尾題 無し。(目録全体収録せず)

匡郭 四周子持枠(縦二一五ミリ×横一五五ミリ)印刷の本文用紙を使用。用紙は、毎半葉十行で罫あり。版心は最上部に黒魚尾があり、さらに、その下の丁付の部分を黒魚尾(花紋)で囲み、その下に「好古堂蔵」とある。下部は白口。

丁付 「一〜二十四、二十六〜八十」とあり、「二十五」が欠けているが、本文は正しく接続している。

丁数 上巻…三十七丁。

   下巻…四十二丁。   合計…七十九丁。

行数 毎半葉十行。

字数 一行十八字〜十九字前後。

話数 三十話。「望帝」「伍子胥」の二話を収録していない。

本文 漢字交り平仮名。振り仮名を施し、濁点はあるが、句読点は無い。

挿絵 無し。

序・跋 無し。

蔵書印等 「□藤」陽刻長方形鼠色印(縦一四ミリ×横八ミリ)。「多計廼舎所蔵」陽刻長方形朱印(縦四二ミリ×横二三ミリ)。「甫水井上氏蔵」陽刻方形朱印(二五ミリ×二五ミリ)。「円了文庫」(花紋の中に)陽刻朱印(約三八ミリ)。「御大典/記念/図書/甫水/円了/哲学堂」陽刻・陰刻混合長円形朱印(縦四〇ミリ×横二〇ミリ)。「山本氏所蔵」の墨書。「甫水井上円了蔵書/書名  /全一冊/第 冊/わ凾/第八架/中班/第廿二位/禁庫外帯出」のラベル。数字等は墨書。「東洋大学図書館/7729/昭和51年2月」のスタンプ。

その他 「望帝」「伍子胥」の二話を省略している。

 

 諸本の書誌は以上であるが、以下、三本について検討する。

 

  〔一〕、島原市立図書館・松平文庫本

 

 島原市立図書館・松平文庫は、島原藩主・松平忠房の「尚舎源忠房文庫」を核とするもので、昭和三十五年、田中道雄氏が着目した事から始まり、昭和三十六年、中村幸彦氏、今井源衛氏、島津忠夫氏、野口元大氏、松田修氏等によって『肥前島原 松平文庫目録』が作成・刊行され、世に知られるようになった。

 中村幸彦氏は、松平文庫本『恠談』に関しても、他の諸作品と共に、その概略は紹介されているが、(注10)その後、次の如く、やや詳しく述べておられる。

 「……それに先立ち、新出松平文庫の『恠談』一冊を紹介する。実は『文学』誌における紹介では、粗雑なノートを記憶によって補い、早早に書いた為に、とんでもない間違いを書いてしまったので、ここで訂正しておく必要もあっての故である。

  大本墨付一冊五十九丁。外題内題共に「恠談」とある。片仮名交り毎半葉十一行。又「尚舎源忠房」「文庫」の二印があって、寛文頃の写である。所収とその順序は次の如くである。

  望帝(「前書已有之不及再書」と注あり)、詰●、王帳(●の誤り)、伍子胥(「此亦在前書不可再書也」と注あり)、淳于●、呂球、偃王、韋叔堅、馬頭娘、韓朋、元緒、欧陽●、巴西侯、李●、●客、張守一、●生、潤玉、中山娘、魚服、三娘子、袁氏、●蜉、●隠娘、張遵言、薛昭、郭元振、侯元、頼省幹、玉真娘子、陰摩羅鬼、金鳳釵

 である。長沢先生御所蔵の写本『恠談録』と同じ所収順序で、「巴西侯」「三娘子」「薛昭」の三つが、『怪談全書』とその位置を異にしている。「望帝」「伍子胥」二条に注記があって、本文の存することは『怪談全書』に等しいが、この書と相違して、林羅山の署名はどこにも見出されない。」

 さらに、「望帝」「伍子胥」に見られる「前書」云々の注記について考察された後、「松平文庫本の如きは、最も初稿の姿を忠実に伝えるものと言える。」と記しておられる。

 

 中村氏が指摘される如く、この松平文庫本『恠談』(写真、24・25)は貴重な存在であり、この本文の位置付けを考える一つの手順として、まず、刊本『怪談全書』と比較検討してみる。

 松平文庫本『恠談』と元禄十一年版『怪談全書』とを比較してみると、項目の所収順序に一部相違があり、これに関しては、他の諸本と共に後述したいと思うが、本文の異同は以下の如くである。なお、対校の範囲は『怪談全書』の巻一とし、必要に応じて、巻二以下も加えたい。また『怪談全書』は、大阪府立中之島図書館所蔵本を使用し、従って丁付も同本に拠って示す。

1、『怪談全書』が漢字のもの……24

  クタ―下(クダ) ナリ―也(ナリ)(5) アル―或(アル) ソクハク―若干 カへ―帰(カヘ) コレ―是 ツヰ―終 ムコ―婿(ムコ)(2) スミヤカ―急 ウキクサ―浮萍(ウキクサ) フルキ―古(フルキ) ハケ―化(バケ) イタタキ―戴(イタヾキ) チカ―誓 フキ―吹 ウタヽネ―仮寐(カリネ) コト―如(2) ワカキ―若(ワカキ)

2、『怪談全書』が仮名のもの……78

時―トキ(3) 皆―ミナ(5) 是―コレ(4) 来―キタ ●―コト(4) 問―トヒ 彼―カノ 赤―アカ 出―イテ・イダ(3) 生―ウメ(2) 同―オナシ 明―アケ 故―ユへ(2) 衣―キ 去―サ 前―マへ 其―ソノ(2) 此―コノ(5) ●―カホ 奇特―キトク 今―イマ 処―トコロ 昔―ムカ 憂―ウレヒ 聞―キヽ(3) 語―力夕(2) 救―スク 甚―ハナハ 又―マタ 飛―トピ 留―卜ヾ 上―ノボ 織―ヲル 顧―カヘリミ 弥―イヨ/\ 落―ヲチ 怒―イカリ 及―ヲヨ(2) 物―モノ 見―ミ 等―ラ 若―モシ 所―トコロ 斗―ハカリ 殺―コロ 知―シラ 殊―コト 洗―アラ 長―ナガ 食―クラ 必―カナラ 者―モノ 養―ヤシナヒ

24対78と『怪談全書』が仮名のものが多い。これは、出版するにあたって、漢字には振り仮名を付け、漢字を仮名に改めて、より読みやすい本文にしたものと考えられる。

3.『恠談』に無いもの……5

 冠キタル―冠ヲキタル人 上ル―天ニノボル 時―時ニ 煮ニハ―亀ヲ煮ルニハ 往来―往来(ユキキ)スルコト

 これらは、『恠談』のやや説明不足の文章を、『怪談全書』が理解しやすく補足したものと思われる。

4.『怪談全書』に無いもの

 この項に関しては、巻一から巻五までの範囲とし、その中で、10字以上のものを掲げると次の如くである。〔 〕の中が『怪談全書』に無い部分。

ヾ二の1丁ウ・7行目

 一人ノ女門ヲ出テコレヲ招(マネ)ク。〔李●馬ヨリ下テ入ル香キ風ノ吹ヲ聞ク尋常ノニホヒニアラス〕李●已(ママ)が人馬ヲ安邑里ニ遣テ宿(シユク)セシム。

巻二の5丁ウ・3行目

 襟(モスソ)スデニタルレバ〔引アクシハラクアテ(ママ)又〕引(ヒク)者アリ。

4二の12丁ウ・8行目

 狼コレヲ〔オフ半日余リオヒマハレトモ先生足早ク力強クコレヲ〕禦(フセ)ク

ご三の2丁ウ・1行目

 是〔ヲ見レハ〕必ズ滅(ホロボ)スソノ験(シルシ)イチジルシ。〔是ヲ借スヘシヒソカニ〕是ヲ以テ示(シメサ)バ彼(カノ)邪鬼(シヤキ)カナラズ滅(メツ)セント云フ。

ゴ三の7丁オ・9行目

 其刃(ヤイバ)ノ鋭(トキ)コト毛(ケ)ヲ吹カケテモ斬(キル)ベシ。〔先ノ二人ノ女ヲシテ我ニ木ニ上ルコトヲ教シム身ノ軽キコト風ノ如クナルコトヲ覚フ一年過テ猿ヲサス百ニ一モ違ハス後ニ虎豹ヲ剌(ママ)其頭ヲトリテ帰ル三年後ニ鷹ヲ剌(ママ)シ隼ヲ剌(ママ)ニアタラスト云フコトナシ 数年過テ〕二人ノ女ヲトヾメテ

Υ五の2丁ウ・6行目

 此日〔佗ノ旅客ナシ三娘子夜深ニ至ルマテ懇ニシテ所望ハ何●ソト問フ〕季和答(コタヘ)テ

Т五の23丁ウ・8行目

 コレヨリ〔先此所ヲトホル旅人ノ金玉絹帛多ク紛失スルコトアリ皆巴西侯カ奪取タルナリ是ヨリ後〕ソノ憂(ウレイ)ナシ

 ,27字であるが、『恠談』の17丁ウを見ると、4行目の行末に「李●」とあり、6行目の行の頭に「李●」とある。このような関係から『怪談全書』は、4行目より6行目に目移りして、その間の5行目を脱落させてしまったのではあるまいか。

 △10字で、「引」の字が三か所、連続して使用されているため、『怪談全書』は『恠談』の「引アク」から「引モノ」に目移りしたものと思われる。

 は24字。『恠談』26丁オの6行目と7行目に隣り合わせで、「コレヲ」があるところから、目移りによって1行分を脱落させたものと思われる。

 い11字であるが、これも『恠談』33丁ウ11行目で「是ヲ」が重ねて使われているところから、目移りによって生じた脱落と思われる。

 イ94字、約4行分の脱落である。『恠談』37丁ウ11行目から38丁オの4行目にかけてのもの。おそらく、「二人ノ女」が重出するために生じた大量脱落と思われるが、『怪談全書』の本文作りが、かなり機械的である事を裏付けている。

 Δ29字で、『恠談』31丁ウの3行目であるが、特に目移りするような状態ではない。しかし、『怪談全書』の文章が不自然なものであることは、他の諸例と同様で、やはり脱落であろう。

 Г39字で、『恠談』16丁ウの9行目〜11行目である。「コレヨリ先」「是ヨリ後」が、脱落部分の前と後にあるところから生じたものと思われる。ただ、『怪談全書』では、巻五の12丁(丁付は「十三」)ウと、本文の最終丁であり、この2行弱が加わると1丁増になってしまう。そのような関係から、意識的に省略した可能性もある。

 以上、『怪談全書』に無いものを掲出して検討したが、この他にも、『恠談』13丁ウ1行目「アツキヲモ知ス」、27丁ウ9行目「縛リ」、28丁ウ11行目「衣ヲヌイテ」、29丁オ1行目「魚ノ頭アリテ」、29丁ウ2行目「人ノ」、39丁ウ6行目「一ツノ紅色」等のものがあり、これらは、いずれも『怪談全書』の脱落と思われる。また、これらの脱落が『恠談』において、隣り合わせの行による目移りや、各丁の1行目、11行目など、つまり、その丁の両端に多く生じている点などを考えると、『怪談全書』の本文は『恠談』から得たという可能性もあると思われる。

 以上、『恠談』と『怪談全書』の本文を比較してみたが、『怪談全書』は全体的に仮名書きが多く、漢字表記の場合も振り仮名を付している。これらは、出版するに際して、より読みやすい本文にするという配慮からであると思われる。また『怪談全書』は『恠談』の文章のやや説明不足と思われる部分を補ったものも、わずかに見られるが、反面、『怪談全書』の脱落は非常に多く、その大部分が、機械的な誤脱と思われ、本文としては劣ったものになっている。また、これらの異同関係を総合して考えると、前述の如く、『怪談全書』は、『恠談』を使用して本文を作った可能性がある。ただ、この点に関しては、他の諸写本との関連も含めて考えたいと思う。

 

 次に『恠談』本文中の補筆、補訂部分について整理しておく。

 〔 〕の中が補筆部分で、その内「・」を付したものが補訂を示す。

(HTML版注。今は網目をかける)

5丁オ6行目 数ヲ〔シ〕ラス

5丁オ9行目 一ツノ穴ワタカマリ〔マカリ〕テ

10丁オ2行目 亀ヲ煮ル〔トキヤカテタヾレテ烹殺サル是ニヨツテ煮〕ニハ

11丁ウ11行目 約束〔シ速ニ(ママ)〕ニカヘラシム

12丁オ8行目 ●ニ〔云〕聞ス

12丁ウ7行目 諸女〔其〕手を引テ

12丁ウ10行目 其〔四〕足床ニツナカレタリ

13丁ウ5行目 常に果ヲ食ヒ〔尤〕犬を食フコトヲ好ム

15丁オ6行目 白額位〔侯〕ハ

15丁オ7行目 〔マ〕タラナル衣ヲ着ル

19丁オ4行目 春緒紀(ママ)〔聞〕ニ見ヘタリ

20丁ウ2行目 書ヲヨ〔ム〕時

21丁オ5行目 シハラ〔ク〕アテ

21丁オ7行目 ムシロヤ〔カ〕ヽヤクハカリ

22丁ウ1行目 急キ三子〔ヲヨフ三子〕ユカントスル時

22丁ウ1行目 イフ●ナヤ〔カ〕レ

22丁ウ3行目 三子到ル〔●生其サカシクナリタルヲ見テ汝等山ニアリテ物ノケ〕ニツキタルナラン

22丁ウ4行目 三子不〔答〕又卜へトモ

22丁ウ11行目 何故ソヤ〔卜〕問フ時ニ

23丁ウ2行目 今此〔天〕機ヲモラセリ

23丁オ6行目 我〔言ヲ用ヒスシテ〕人ニカタリモラセルヤ

23丁オ11行目 ツヰニ三〔世〕将相タリ

24丁オ3行目 張女郎ヲトフラ〔フ〕

25丁ウ2行目 ●〔嚢(フクロ)〕

26丁ウ8行目 我ヲキリソ〔コ〕ナフ

28丁オ10行目 慈悲ナリト云ヘトモ大ナル〔愚ナリ〕卜云テ

29丁ウ1行目 来テ申サ〔ク〕

29丁ウ2行目 攜行〔ク門〕二入レハ

29丁ウ8行目 ト云ヘトモ〔士〕良敢テ聞ス

30丁オ7行目 板橋〔店〕卜云所

33丁オ7行目 〔マ〕見ユ

35丁オ7行目 此猿ヲ養〔フ〕

36丁オ6行目 学〔テ〕白髪ニ至レトモ

36丁ウ6行目 位〔ヲ〕贈リ

39丁オ8行目 疑フコトナカレト〔イフ〕

43丁ウ2行目 〔酒〕宴ニアツカルヘキモノ

45丁ウ1行目 詩ツナ〔ク〕リテ

45丁ウ3行目 時〔々〕玄宗

46丁ウ4行目 雲容〔出〕テ

47丁ウ10行目 タノモシケニ云〔フ〕

49丁オ5行目 公卜女子トノイ〔キ〕テアルヲ見テ

49丁ウ2行目 患アル〔モ〕ノヲハスクフ

54丁オ8行目 西城〔ノ〕沙門

54丁ウ1行目 沙門〔忽〕倒伏テオキアカラス

 以上の通りであるが、これらの補筆・補訂は本文と同筆と判断される。この本文の書写者は、一度書写し終った後、再度、原本と対校し、誤りを正したものと思われる。なお、書写段階での誤写と思えるものも、かなりあるが、

 例 ●円→●国、王帳→王●、クワシキク→クワシク、彼フクロ→皮フクロ、彼→波、多リ→多ク、日ヲ強テ→日ヲ経テ……

前述の異同等を考え合わせる場合、『怪談全書』よりも早い本文である事は、十分認めてよいと思われる。また、中村幸彦氏の述べられる如く、初稿の姿を伝える本文である事も、一応納得のゆくものと思う。

 

  〔二〕、長澤孝三氏所蔵本

 

 長澤孝三氏所蔵本(長澤規矩也氏旧蔵)は平仮名本である(写真、26・27・28・29)。

 本書の旧蔵者、長澤規矩也氏は次の如く述べておられる。

「恠 談

林羅山の著述として怪談というものがあるといわれている。羅山の著述目録の中に見えるのであるが、戦後予が入手した同名の写本は寛永ごろの書写にかかり、平がなまじり、全二巻、大一冊、私が見た怪談の訳本中では最古のものであり、通行の怪談全書とほぼ同じ内容を有する。詳しく比較すると、怪談全書巻一にある望帝・伍子胥の二条がこの本になく、また巻五の三娘子・薛昭・巴西侯がこの本では巻下一・下六・上十一に分散している以外は、巻一・二がこの本の巻上、巻三・四がこの本の巻下に順序をおつて収録され、片かな平かなの差、かな漢字の差(どちらかに一定しない)、動詞の活用語尾の表示の有無の差以外これという差がない。

さて、この恠談にない二項は、刊本怪談全書では各題下に注があつて、 

 望帝 わり注に 前書已有之不及再書

 伍子胥 同右 此亦有前書不可再書也

としるされている。すると、前書とはなにかということになる。すなわち、通行本怪談全書はなにか同類の書物の後篇であり、家蔵の写本は重複を削つた定稿本系統であることになる。しかるに、この写本の恠談には、羅山の羅の字もなく、全くの無署名で、この本の著者は、直ちに羅山ということはできない。」

 

長澤氏は、本書を寛永頃の書写とされ、刊本『怪談全書』との本文異同に言及され、片仮名・平仮名の差、漢字・仮名の差、動詞の活用語尾の表示の有無の差以外、特に差はないとしておられる。

 ここでは、寛文頃の写本とされている、松平文庫本『恠談』(片仮名本)と本書・長澤本『恠談』(平仮名本)の本文を比較して、両者の関連を考えてみたい。(範囲は『怪談全書』巻一とし、必要に応じ、巻二以下も加える。)

1、松平本が漢字のもの……357

  也―なり(2) 云―いひ(2) 云―いふ(3) 云―いへ(2) 云―い(33) 我―われ(4) 我―わか(2) 我―わ(2) 相―あひ 別―わかれ 別―わけ 是―これ(10) 其―その(13) 方―かた(3) 伝―つた(2) 間―あいた 甚―はなハた(3) 甚―はなハ(2) 与―あた 思―おも 思―おもひ 彼―かの(10) 彼―か 残―のこ 到―いた(2) 宿―屋と 井―ならひ 帰―かへ 夢―ゆめ 車―くるま 本―もと(3) 者―もの(6)……以下省略

2、長澤本が漢字のもの……71

カリ―狩 ナル―成 ナリ―成(5) トリ―取 アリ―有(6) アル―有 コレ―是(9) タチマチ―忽(チ) ノリ―乗(3) キヽ―聞(2) ナリ―也(9) ミ―見 夕テマツ―奉 コト―事 コト―● シカ―然 ホト―程 ユキ―行 クサ―草 ハナ―放 チキリ―契 卜キ―時(6) コロ―殺(2) トコロ―所(3) カナ―悲 キリ―切 コヽ―爰(4) ツネ―常 スナハチ―則 トル―取 スキ―過 カへ―帰

 1、2、の漢字・仮名の異同をみると、357対71と、長澤本の方が仮名表記が五倍強である。中には、●―かたち、発―おこし、如何―いかん、弥―いよ/\(2)、攜―たつさへ、●―とさし、の如く、ややむずかしいものも含まれており、長澤本には、より読み易い本文にしようとする態度が見られる。

3、松平本に無いもの……5(傍線部分)

 となりて 何の所へ 見えたり 久しき これによつて亀を烹

4、長澤本に無いもの……17(傍線部分)

 北朝ノハシメハ北魏ナリ北 代々魏中ニ入ル 行儀ヲ 引キ申ス(2) 生メル トコロノ 東平卜云フ 一人ノ老女 老女ヲ射ル 一人ノ老母 云フ 父怒テ 彼女ヲ巻テ 薪ヲ 者アルニハ

 3、4、いずれも、誤脱に近いものであるが、5対17で、長澤本の方が多い。なお、長澤本には、巻三「張遵言」中に約1行の脱落がある(長澤本、下巻11丁オ・8行目)。松平本では41丁ウになるが、その3・4行目は次の如くなっている。

   是捷飛也君今災難ニカヽリテ死スヘシ我ステニ君

   ノ恩ヲウケタル●四ケ年其情フカシ君ヲスクハンタ

 この字詰の状態からすると、3行目の「今」から4行目の「四ケ年」に目移りしたとも考えられ、従って、長澤本は松平本を写した可能性もあるが、他の異同と共に総合的に考える必要がある。

5、その他のもの(上が松平本)

  ●―事(5) 即―則(10) 坐―座 処―所 薪―焼木 歓―悦 ヲホシクテ―おほしくて 見ヘタリ―見えたり ハヒデ―はいて

  これらは、字体や仮名遣いの異同であるが、長澤本の方が、やや一般的な用字と言えるかも知れない。

6、松平本『恠談』の項で示した、『怪談全書』の誤脱部分(96ページ以下の 銑А砲砲弔い董長澤本を見ると、松平本と同様の文章になっていて、脱落は『怪談全書』のみである。

 

 次に、長澤本『恠談』の補筆・補訂について掲げる。〔 〕の中が補筆部分で、補訂のものには「・」を付した。

(HTML版注。今は網目をかける)

  上巻

  6丁ウ3行目 菱を〔取〕女あり

  7丁オ3行目 偃王となつて〔く〕

  8丁ウ2行目 父母〔を〕顧て

  8丁ウ9行目 康王を〔朱で「を」を消す〕これを奪とる

  12丁オ11行目 引具してい〔つ〕る

  14丁ウ9行目 巴西侯と〔も〕また

  16丁ウ11行目 此にすまい〔ゐ〕す

  17丁ウ4行目 其衾をかけて〔ミれハ〕水たまりて

  23丁ウ7行目 指環(シクハン)を小女〔に〕をくる

  24丁オ13行目 先生に向て〔曰〕

  27丁オ4行目 しきり〔ニ〕呼とも答す

  28丁オ6行目 我〔を〕まな板のうへにおく

  下巻

  1丁オ13行目 已〔亥ィ〕の刻はかり

  1丁ウ12行目 客〔ニ〕食しむ

  2丁オ1行目 同時に地〔ニ〕たふれて

  2丁オ3行目 諸客〔の〕財宝を

  3丁ウ9行目 また人に嫁せすと答〔い〕ふ

  8丁オ8行目 羊角の匕頸〔左に「劔の名」と注す〕をさつく

  9丁オ12行目 白黒の衛二枚ある〔を〕見る

  10丁ウ1行目 往来する〔を見し〕人あり

  11丁ウ6行目 夜刃〔「刃」を下の余白に「叉」と正す〕

  11丁ウ10行目 遵言をにし〔ら〕む

  12丁ウ13行目 王いひ〔はく〕

  13丁オ4行目 戯けれ〔ハ〕其女怒て

  16丁オ12行目 若しから〔され〕ハ

  18丁オ5行目 但懸〔「懸」を下の余白に「県」と正す〕吏に

  20丁オ11行目 皷を〔打〕行列をとゝのへ

  23丁ウ4行目 廊下へ〔しィ〕のひて

  25丁オ8行目 我〔ハ〕深閨にすむ

  26丁ウ6行目 人を惑(マトハス)〔「感」を下の余白に「惑」と正す〕

  これらの補筆・補訂は、本文と同筆と思われ、本文の書写者は、一度書写し終った後、再び原本と対校して誤りを正したものと思われる。ただ、下巻、1丁オ13行目、23丁ウ4行目の補訂は、異本と対校したことを思わせる。

  下巻、1丁オ13行目は、

   已(亥イ)の刻はかり皆つかれて臥り

  とあり、この部分の諸本は次の如くなっている。

  長澤本『恠談』……………已の刻

  松平本『恠談』……………已ノ刻

  東洋大本『恠談』…………已ノ刻

  長澤本『怪談録』…………已ノ刻

  東洋大本『怪談録』………已ノ刻

  天理本『奇異怪談抄』……亥(ゐ)の刻(コク)

  刊本『怪談全書』…………亥ノ刻(コク)

  刊本『怪談録前集』………丑(ウシ)の刻(コク)

 下巻、23丁オ4行目は、

  崔恐て廊下へ(しイ)のひてうかゝへハ

とあり、この部分の諸本は次の如くなっている。

 長澤本『恠談』……………廊下へ(しイ)のひて

 松平本『恠談』……………廊下ヘノイテ

 東洋大本『恠談』…………廊下(らうか)へのいて

 長澤本『怪談録』…………廊下ヘノイテ

 東洋大本『怪談録』………廊下ニノイテ

 天理本『奇異怪談抄』…(落丁)

 刊本『怪談全書』…………廊下(ラウカ)へ。ノイテ

 刊本『怪談録前集』………廊下(ラウカ)へ退(シリゾキ)て

この二か所の異同から考えると、長澤本『恠談』は原本を書写した後、再度対校し、誤脱を正し、補訂を加え、さらに異本と対校しているものと推測される。1丁オ13行目は、夜の就寝の時間であるので、巳の刻では不自然である。23丁オ4行目は、廊下に退いて、か、忍びて、かの違いである。長澤本『恠談』が対校した異本とは、天理本『奇異怪談抄』か、その系統の本文であると思われるが、データが少ないので、今後、さらに調査・検討したいと思う。

 なお、この他、朱筆の加筆があるが、後人のものと思うので省略した。

 以上の諸点を考え合わせると、長澤本は松平本と同系統の本文という事が出来る。長澤本には脱落がやや多いが、書写の後、再度対校して誤脱を正したり、わずかではあるが、異本との校合も行っており、校訂的態度が認められる。巻頭の目録には、題目の下に「天女と契りし事」「人を葬て陰徳有事」等、内容が解る副題も付している。おそらく、松平本も長澤本も同じ原本から書写したものであろう。ただ、その書写の際、一方は原本と同様に片仮名交じりとし、一方は平仮名交じりに改め、漢字を仮名に改めて、読み易くしたのではないかと思われる。

 

 次に、本書が「望帝」「伍子胥」の二話を収録していない点について考える。

 この二話について、諸本を整理すると次の如くである。

  望帝

  長澤本『恠談』……………(題名・本文ナシ)

  松平本『恠談』……………望帝 前書已有之不及再書

  東洋大本『恠談』…………(題名・本文ナシ)

  長澤本『怪談録』…………(題名ナシ)

  東洋大本『怪談録』………●霊

  天理本『奇異怪談抄』……望帝(ぼうてい)

  刊本『怪談全書』…………望帝(バウテイ) 前書已有之/不及再書

  刊本『怪談録前集』………望帝

  伍子胥

  長澤本『恠談』……………(題名・本文ナシ)

  松平本『恠談』……………伍子胥 此亦在前書不可再書也

  東洋大本『恠談』…………(題名・本文ナシ)

  長澤本『怪談録』…………伍子胥

  東洋大本『怪談録』………伍子胥

  天理本『奇異怪談抄』……伍子胥(ゴシシヨ)

  刊本『怪談全書』…………伍子胥(コシシヨ) 此亦有前香/不可再書也

  刊本『怪談録前集』………伍子胥

 長澤規矩也氏は、早くから『怪談全書』『恠談』の編著者が林羅山であるという点に疑問を持たれ、諸論を発表してこられた。これに対し、中村幸彦氏は、昭和三十八年「林羅山の翻訳文学―『化女集』『狐媚鈔』を主として―」(注13)を発表、松平文庫の二作品に関して論じられた後、『恠談』『怪談全書』は羅山の編著である可能性が大きい事を主張された。その論文の中で、中村氏は次の如く述べておられる。やや長文であるが引用させて頂く。

 「さて著者の問題に「望帝」ら二条に見える、「前書」云々の注記から入ってゆこう。松平文庫本及び『怪談全書』は、再書するなと注しながら、本文はある。長沢先生御所蔵の『恠談』にはこの二条は欠けている。この二条を持つ天理図書館蔵の『奇異怪談抄』と名づける一異本は注記がない。これらをもって考えて見るに、この注記は、一旦原稿を作成して、浄書再書させる時のものであることは明らかである。よって、編著者は、初めこの二条を書いた。そして「前書」なるものに、同じものを収めたことに気づいたので自ら注記した。従って、その後に写本をしたものは、一に注記をもそのままに本文を存して写すものがある。松平文庫本や『怪談全書』の姿である。二に注記に従って本文を略すものがある。長沢先生の『恠談』の如き姿をとるものである。三に『奇異怪談抄』の場合は、注記以前の姿と一応思われるが、そうではなかろう。本文を写しさえすれぱ何の用もない注記を削ったものと考えておこう。とすれば松平文庫本の如きは、最も初稿の姿を忠実に伝えるものと言える。実は「前書」云々の注記は『狐媚鈔』にも存するのである。同書の「上官翼」の見出しの下に「前書有之不及再書」、「李令緒」の見出しの下にも「不及清書之」と注記する。忠実な松平文庫本の筆者達は、全く同文庫の『恠談』の場合同様、注記をしたままに本文を写したのである。『狐媚鈔』が羅山の著で、かかる現象があるとすれぱ、同じような注記を認める『恠談』も、羅山の著たる可能性が濃くなってくる。しからば、それらの「前書」とは、如何なる書であろうか。筆者は長沢先生の論文中に(『文学論叢』)紹介された、『幽霊之事』なる一書を、それに相当させようと思う。地遠隔であって、拝見の機を得ずに本稿を執筆するのであるが、寛永に近いその写本は、同じく怪奇の説話二十条の集で、中に「鼈令(『太平広記』)」「伍子胥(東坡詩注、『方輿勝覧』)の二条がある。鼈令は、『怪談全書』や『恠談』の「望帝」の条にも冒頭にその名の見える人物である。この条は望帝と同内容と考えてよい。「伍子胥」は『怪談全書』でも『方輿勝覧』を引用書にしている。ただし長沢先生は「題材には怪談全書や後述の奇異雑談集と同一典拠のものが見えるが、その内容は同一文章ではない」と断って居られる。しかし、見来ったような徳川時代初期の内容本位の翻訳態度の下においては、話の内容さえ同じならば、それを「前書已有之」と称したとしても支障ないであろう。」

 長澤本『恠談』が「望帝」「伍子胥」の二話を省略した経緯についての、右の中村氏の推測は、現時点では一応納得のゆく説であり、これに対して特に異論は無い。太刀川清氏は、『恠談』各話の翻訳態度が必ずしも一様でない事を指摘され、訳者と編者を別人と推測、門下生が訳したものを羅山が編集したのではないか、という説を提出しておられる。(注14)また、『幽霊之事』に関しては冨土昭雄氏によって、その翻刻と詳細な出典考証がなされている。これらの研究成果を踏まえて、さらに調査を重ね考察を深めてゆきたい。

 

  〔三〕、東洋大学所蔵本

 

 東洋大学附属図書館・哲学堂文庫本の『恠談』(写真、30、31)は、平仮名本であり、「望帝」「伍子胥」の二話を省略しているので、長澤本『恠談』と近い関係にある本文であると言うことが出来る。この写本は、近世後期の書写と思われる(「好古堂蔵」の本文用紙を使用)が、長澤本『恠談』の写しではないと思う。長澤本『恠談』には、前述(100ページ)の如く、下巻11丁オ・8行目に約1行分の脱落が見られるが、東洋大本『恠談』53丁(「五十四」とある)ウ・6行目に、

 「災難(さいなん)にかゝりて死(しす)へし我すでに君の恩をうける事」

と有るからである。以上の諸点から、東洋大本『恠談』の位置付けは可能であるが、念のため、長澤本の本文と比較した結果を示すと次の如くである。(範囲は『怪談全書』巻一)

1、長澤本が漢字のもの……71

  約束―約そく 時―とき(2) 見―ミ(16) 是―これ(6) 其―その(6) 也―なり(2) 有―あり(4) 云―いふ(6) 間―あひた 夢―ゆめ 内―うち 程―ほと 方―かた 船―ふね 又―また 取―とる 契―ちきり 皮―かは 桑―くハ(2) 葉―は 付―つけ 相―あひ 墳―つか 亀―かめ(3) 共―とも 烹―にる(2) 今―いま 此―この 絹―きぬ 遇―あひ 尤―もつとも 懇―ねんころ

2、東洋大本が漠字のもの……25

  かへ―帰(2) なる―成 あり―有 その―其(4) しかれ―然 かならす―必 たき―焼 とき―時 いひ―云(2) へ―経 ほか―外 たか―高 ころ―殺(2) さき―前 まね―招 これ―是 こと―事(3)

3、長澤本に無いもの……10(傍線部分)

  北朝のはしめハ北魏なり北魏代々 東平といふ所の 徐国の王の宮女 一人の老母 尋ねて かの女を巻て 一所に埋れん事をねがふ その久しきものは 血の出る事 血を吸て

4、東洋大本に無いもの……11(傍線部分)

  かの槐樹 故に 年わかき時 馳ていつ うたがはしきながらも 木をあミつらねて 女数十人 女たがひに相見て 盗ミ取 色おとろふる時は 武帝兵をもつて

5、その他のもの……15(上が長澤本)

  座―坐 体―躰 ●―事 焼木―薪 赴―趣 下におき―下にをき さしおく―さしをく おのれが―をのれが うはおそひ―うはをそひ いふ事―ゆふ事 ゑらひ―えらひ よりて―よつて 歎く―歎て この鳥は―これ鳥は うつぷせたる故―うつぶせる故

 以上であるが、これらの異同について、特に述べる必要はないと思う。要するに、東洋大本『恠談』は、仮名表記が多く、また、全体に平仮名の振り仮名が多い(長澤本は片仮名)本文である。

 ただ、この東洋大本『恠談』によって、重要な事が一つ明らかになった。右の異同を総合的に考える時、「望帝」「伍子胥」を省略する本文は、長澤本『恠談』以前に、原写本の如きものが存在し、それから、長澤本、東洋大本が別々に書写した可能性がある事である。この点に関しても、今後、さらに調査を重ね、考えを深めたい。

 

 

  三、『怪談録』の諸本

 

 

 長澤孝三氏(長澤規矩也氏旧蔵)所蔵本(平成2年8月20日調査)

 

体裁 大本、上下、二巻二冊、写本、袋綴じ。

表紙 藍色原表紙、縦二六六ミリ×横一九三ミリ(上巻)。

題簽 左肩に書題簽、「怪談録 上」、縦一六五ミリ×横三七ミリ。

   下巻は、左肩に剥落の跡のみ。

内題 上巻一丁オ、本文のはじめに「怪談録上」とあり、次の行の下に「林民部卿道春編」とある。

   下巻一丁オ、本文のはじめに「怪談録下」とある。

目録題・目録尾題・尾題 無し。

匡郭 無し。一行の字の高さは、二〇八ミリ前後。

丁付 無し。

丁数 上巻 一〇四丁(他に巻頭、巻末に各一丁の遊紙あり)。

   下巻  六九丁(他に巻頭、巻末に各一丁の遊紙あり)。

   合計一七三丁。

行数 毎半葉八行。

字数 上巻、一行十八字。下巻、一行十九字。

話数 上巻 三十二話。(第一話は題名なし)

  (●霊)、詰● 柘音蔗跋音撥詰音吉、王●、伍子胥、淳于●、呂球、偃王、韋叔堅、馬頭娘、韓朋、元緒、欧陽●、巴西侯、李●、●客、張守一、●生、潤玉、中山娘、魚服、三娘子、袁氏、●蜉 蟻ノコト也、●隠娘、張遵言、薛昭、郭元振、侯元、頼省幹、玉真娘子、陰摩羅鬼、金鳳釵

   下巻 二十五話。

   王度、章乙、張彦、呂生、何文、盧処、崔玄微、素娥、韋滂、李楚●、許彦、偃師、真々、安陽書生、●正彦、陳才輔、七星橋、趙善弌、呉甲、王翁、張四、安氏女、王良肱、関西老婆、葉司法妻

   合計 五十七話。

本文 漢字交り片仮名。振り仮名・濁点は極わずか有り。句読点無し。

挿絵 無し。

序  無し。上巻一丁オに「林民部卿道春編」とあり。

奥書 下巻、六九丁(最終丁)ウに、

   「右一冊者堀田加賀守正盛承 台命使余抄出焉

     慶安二巳丑(ママ)季二月日 林道春作之」

蔵書印等 下巻1丁オ、内題の右上に白紙貼付(縦五〇ミリ×横九ミリ)、「六十九合百六十五」と墨書。

 

 長澤本『怪談録』(写真、32、33、34、35)の旧蔵者、長澤規矩也氏は、次の如く記しておられる。

 「 写本怪談録

 家蔵の写本怪談録は大二冊、上下二巻に分かれ、題簽も怪談録(下冊は近ごろ佚した)とある。序文はなく、本文は片かなまじり、巻頭に「怪談録上」の一行があり、次行に「林民部卿道春編」とあり、下冊の末に、

   右一冊者堀田加賀守正盛承 台命使余抄

   出焉慶安二巳丑(ママ)季二月日 林道春作之

 の奥書がある。

 本書の内容についていえぱ、上冊は刊本怪談全書の巻五の三篇が怪談全書の巻一至三の各巻末に当たるところに分散されているほかは、すべて全書と同じ順序となつている。下冊の内容はつぎのごとくである。(中略)

 この奥書には疑問がある。羅山が民部卿法印に叙せられたのは早いことであるが、羅山みずから「林民部卿道春」と署名するとは考えられない。しかも羅山は、明暦三年春に七十五歳の高齢で没し、慶安二年は六十七歳の老病の時代にあたり、堀田正盛が将軍徳川家光に殉死した前前年にあたる。奥書をそのまま信ずれば、本書は道春が慶安二年に作つたことになるが、それでは、上述の寛永ごろの写本の恠談がありうるはずがなくなる。「作之」を書写したとは説けまい。「抄出」とあれぱ、もつと内容が多い原稿の中から本書の内容だけを抄出した、抜萃したことになるが、本書以前の写本である恠談などは本書よりも内容がかえつて少ない。「抄出」を「抄書」の誤写であるとも説けないことはないが、そうすると、なおさら慶安二年の著作となつて、恠談が現存することと矛盾する。よつて、わたくしは、巻首第二行の署名および奥書は後人のしわざであろうと推定する。

 出典についていえぱ、玉堂閑話・北夢瑣言・酉陽雑俎などはともかく、宣室志などは太平広記所収のもので、別に太平広記としるしてあるものと矛盾し、学者のしわざらしくない。」

 「この家蔵写本怪談録は、筆跡から見て羅山の自筆ではないが、紙質から見ても、片仮名交りの書体からいつても、かなり早いもので、寛文(一六六一―七三)までには降らず、吉田幸一氏は慶安を去ること遠くなからうといはれる。(注17)」

 

 長澤本『怪談録』は上下二巻に分かれ、上巻に松平本『恠談』と同様の内容の三十二話を収め、下巻には別内容の二十五話を収めている。長澤氏は、巻頭の署名や奥書の記述に関して疑問であるとされ、これらは羅山自身が書いたものではなく、後人のものであろうと推定しておられる。なお、太刀川清氏は、

 「……つまり長沢本『怪談録』の上下二冊は内容から別々の成立過程をもつものであって、上冊は写本『怪談』を内容とする既存のものであり、これに新しく二四(ママ)条を内容とする下冊を加えたものである。この所為が慶安二年二月ということになり、それが果たしていうように羅山の作にかかわるものであったかどうか、散佚した下冊を見なければならないが、自らを「林民部卿道春」と署名する不自然さもあって多分後人のさかしらかと思われる。」

と記しておられるが(注18)、収録話数は、二十五話が正しく、また、下冊が散佚したとされるのも、長澤氏の文章を誤読したところから生じたもので、事実と異なる。佚したのは下巻の題簽のみである。

 本書の成立過程に関して、右の如く様々な推測が可能であるが、ここでは、まず、長澤本『怪談録』の本文を、どう位置付けるかという点から、他の本文と比較してみる。長澤本『恠談』は、前述の如く、「望帝」「伍子胥」の二話を省略しているので、松平本『恠談』と比較する。(範囲は『怪談全書』巻一)

1、長澤本『怪談録』が漢字のもの……57

  モノ―老(2) ウカ―浮(2) マミ―見 ムカ―昔 ミ―見 ホトヽキス―杜鵑 ウケ―受 コト―如(3) アタ―与(2) ツヰ―遂 フクロ―袋 ワケ―分 ワ―分 オサ―納 コレ―是(2) カタ―語 ナリ―也(5) タメ―為(2) カ―掛 ヨツ―夜 トキ―時 イタ―到 ハナツ―放 コロ―殺(2) モノ―物 ヨヒ―呼 フキ―吹 シツ―真(ママ) 力へ―復(2) ツネ―常 スナハ―即 コト―真 卜モ―●(8) コト―●(4)

2、松平本『恠談』が漢字のもの……14

  也―ナリ(3) 〆―シテ(5) 見―ミ 殺―コロ 時―トキ 是―コレ(2) 過―スキ

  漢字・仮名の異同では、57対14と、長澤本『怪談録』の方が漢字表記が圧倒的に多いが、用字としては、特別なものは見当たらない。仮名表記の多い松平本『恠談』の方が、より原初的な本文と言えるかも知れない。

3、長澤本『怪談録』に無いもの……17(傍線部分)

  望帯 前書已有之不及再書 去ル 入ル 伍子胥 此亦在前書不可再書也 曰ク イマシメテ 引キツクロヒ 童子 榻ニ坐セリ ワタカマリマカリテ 云フ(2) オノツカラ止卜云リケニサモアルヘシ 我カ 飲● ヨミオハリテ コレヲカヘシアタフ

  望帝、伍子胥の注が無い事に関しては、すでに指摘した(102ページ)が、長澤本『怪談録』は第一話の題名も無い。第一話の題名は、諸本「望帝」であるが、東洋大本『怪談録』のみ「●霊」となっている。本文の用字も、長澤本『怪談録』と東洋大本『怪談録』は「●霊」となっており、松平本『恠談』をはじめ諸本は「●令」となっている。これは、長澤本『怪談録』と松平本『恠談』の二本が、別々の原本からの書写であることを推測させるものとして注意すべきである。次に「ケニサモアルヘシ」の八字の欠文であるが、これは「韋叔堅」の条の文末であり、諸本いずれもこの文が有るので、長澤本『怪談録』の誤脱であろう。

4、松平『恠談』に無いもの……12(傍線部分)

  タヽ人 詰● 柘音蔗跋音撥詰音吉 酔タルカ 見ルモノ 云フ 云ヒ ●夢サメテ 埋メヲサム 見ヘタリ 博学大才ニシテ 嘆テ曰ク 日々ニ

 ほとんどが、松平本『恠談』の誤脱と思われるが、「詰●」の注は、長澤本『怪談録』が追加したものであろう。長澤本は「●蜉」の題名の下にも「蟻ノ●也」と注を付している。

5、その他のもの(上が松平本『恠談』)

  ●令―●霊 王帳(ママ)―王●(6) 彼(ママ)フクロ―皮袋 其君(ママ)―其霊 アタヘン―アタハン 智慮―智恵 徳陽―徳● 後ノ世ノ(ママ)―後ノ世ニ 日ヲ強テ(ママ)―日ヲ経テ 軍兵ヲトヽメ―軍兵ヲトヽノへ 険ヲ―険阻 間ヲ―間サ(ママ) 若美酒―君美酒 相待ツ―相待カ 戈―剣 木札―本(ママ)札 難ニマヌカル―難ヲマヌカル 時−●(17) ●―事 ●―● ●―事 所―処(17) 処―所 帰―●(3) 斗―計 許―計 過―● 裏―裡

  力へリ―カヱリ ミヘタリ―ミヱ(エ)タリ ソヘテ―ソヱテ カヘス―カヱス エラヒ―ヱラミ ヒラヒテ―ヒライテ ツヰニ―ツイニ(2) ヲホシクテ―オホシクテ ヤハラカ―ヤワラカ ヲト―オト ヲソフルヽ―ヲソワルヽ イツワリ―イツハリ ヲホヒカクス―オホヒカクス

  これらの異同を見ると、「鼈令―●霊」は前述のように、注意すべきであるが、その他では、松平本『恠談』に誤写がやや多いこと、長澤本『怪談録』は異体字が多いことが目に付く程度である。

  以上、両者を対校してみたが、長澤本『怪談録』は漢字表記が多いが、それらは、ごく一般的な用字であり、仮名表記の多い松平本『恠談』の方が、むしろ初稿本に近い本文と言えるかも知れない。また、両者の拠った原写本は、それぞれ別のものであった可能性が大きいと思われる。

 前述の如く、長澤本『怪談録』は上下二巻で、上巻が『恠談』と同内容になっている。上下巻とも、その筆跡から判断して同一人の書写と思われるが、上巻が十八字、下巻が十九字という字詰から考えても、別々の原本を書写して、上下二巻にまとめた可能性がある。下巻、第一丁オの内題の右上に、白紙を貼付して「六十九合百六十五」と墨書しているが、「六十九」は上巻の丁数であり、これは、「恠談」に下冊を合した折の記録とも考えられる。ただし、合計は一七三丁が現状であり、奥書は下巻の末に記されている。

 

 ◆東洋大学附属図書館・哲学堂文庫所蔵本 か/1/右/26〜27(平成2年8月9   日調査)

 

体裁 半紙本、乾坤、二巻二冊、写本、袋綴じ。

表紙 薄茶色原表紙、縦二三五ミリ×横一六〇ミリ(乾巻)。

題簽 左肩に子持枠題簽、文字は墨書「怪談録一名怪談全書乾」、「怪談録 坤」、縦一五五ミリ×横二九ミリ(乾・坤巻)。

内題 乾巻一丁オ、本文のはじめに「怪談録」とあり、次の行の下に「林民部卿道春編」とある。坤巻には無し。

目録題・目録尾題・尾題 無し。

匡郭無し。一行の字の高さは、二〇〇ミリ前後。

丁付 無し。

丁数 乾巻 二十二丁。

坤巻 三十四丁。

合計 五十六丁。

行数 毎半葉九行。

字数 一行二十六字前後。

話数 乾巻 十七話。

   坤巻 十五話。

   合計 三十二話。

本文 漢字交り片仮名。振り仮名は少しあり、濁点あり。句読点は無いが、乾巻のみ朱点あり。

挿絵 無し。

序  無し。乾巻一丁オに「林民部郷道春編」とあり。

奥書 坤巻、三十四丁オ(最終丁)ウに、

  「右冊者

   堀田加賀守正盛承  台命使余抄出焉

   慶安二己丑季二月 日  林道春作之」

その後に、別筆にて、

  「不侫為漢学生之明写之于時

   明治八年秋八月 九万居士」

蔵書印等 「円了文庫」(花紋の中に)陽刻朱印(約三八ミリ)。「甫水井上氏蔵」陽刻方形朱印(二五ミリ×二五ミリ)。「御大典/記念/図書/甫水/円了/哲学堂」陽刻・陰刻混合長円形朱印(縦四〇ミリ×横二〇ミリ)。「井上氏蔵書」の墨書。「甫水井上円了蔵書/書名  /全二冊/第一(〜二)冊/か函/第一架/右班/第廿六位/禁庫外帯出」のラベル。「東洋大学図書館/7801/昭和51年2月」のスタンプ。

 

 東洋大学・哲学堂文庫本『怪談録』(写真、36、37)は、二巻二冊で長澤本『怪談録』と同様の奥書を持つが、収録内容は長澤本の上巻に相当する三十二話のみである。東洋大本と長澤本の関係を明らかにする手掛りとして、両者の本文を比較する。(範囲は『怪談全書』の巻一)

1、長澤本が漢字のもの……8

  也―ナリ(2) 此―コノ 埋―ウヅ 余―アマ(2) 類―ルイ ●―トモ

2、東洋大本が漢字のもの……438

  ナリ―成 ナ―成 ユ―行(2) 夕ヽ―只 ユツ―譲 ノカ―遁 ウ―生 ウヤマ―敬 アハレ―憐 カハ―蓄(以下略)

8対438と東洋大本の漢字表記が圧倒的に多い。しかし、これらの用字によって、何か特別な事が明らかになる、というものではない。スペースを少なくするためや、読み易くするために、書写者が改めたものと思われる。

3、長澤本に無いもの……74(傍線部分)

 ●霊 ●霊ニユツリ 云フ(9) 云ヘ(2) 其ノ(3) 遁レテ 此ノ(4) 是レ(2) 云テ 去ル 知レズ 知ラス(3) 甚タ(3) 入ル 彼ノ(6) 諌ムレ 大ヒ 大キ 即チ(6) 着タル者一人 我国ノ南ニ南柯郡アリ 安カルへシ 暮レズ 乗テ 生メリ 偃卜名〔●ハ偃ノ字ト同シ〕 珍シカラス 実ニ左モアルベシ 国ニ 物ヲ 救フノ 俄カニ 奪ヒ 若シ(2) 深ク 能ク 負セ 編ミ 待ツ 飲ム● 四ツ足 歎ヒテ 必ス 振フ

 右の異同の大部分が送り仮名や助詞であり、内容的に特に問題になるようなものではないが、次の四か所の異同は注意すべきものと思う。

  ●霊……これは第一話の題名である。他の諸本は「望帝」となっているが、東洋大本は「●霊」としている。まず、東洋大本は原本通りに書写し、長澤本が誤脱させたと考える事が出来る。次に、原本に題名がなく、長澤本はそのまま題名を加えず、東洋大本は、書写者が判断して付加した。その時、冒頭に出る人名を採用し、用字も本文に従って「●霊」とした。この二つの推測が可能であるが、いずれにしても、この用字は、この二本の本文が、諸本の中では、近い関係にある事を示している、という点で注意しておきたい。

 ●霊ニユツリ……この部分の両本は、

長澤本……望帝位ヲユツリテ●霊ヲ宰相トシテヤカテ

東洋大本……望帝位ヲ●霊ニ譲リ頓而

となっており、他の諸本は、用字が「鼈令」とある他は長澤本と同様になっている。原本は長澤本の如くなっていたが、東洋大本が、このように改めて書写したものと思われる。これは、東洋大本の書写態度を知る上で参考になる。

 ●と名〔●ハ偃ノ字ト同シ〕……これは「●」の字についての補注であるが、東洋大本の原本は「●」の字を使っていたものと思われる。

 実ニ左モアルベシ……これは「韋叔堅」の条の文末であり、諸本いずれも、この八字があるので、これは長澤本の誤脱と思われる。なお、東洋大本は、この直前の文・27字を脱落させている。

4、東洋大本に無いもの……48(傍線部分)

  怪談録上 ユツリテ●霊ヲ宰相トシテ 詰● 柘音蔗(シヤ)跋音撥(ヘツ)詰音吉 分ケテ 一人病臥セルモノ 王●後ニ亭ノ長トナリテ行●ニタチマチ馬一疋ハセ来テ亭ノ中ニ マヨヒテ 岸ノ上 其木ノ本ニテ 我カ 契リ 治レリ 威勢 其処ノ人 知ル 行ハシム 桂陽ノ 皆オトロキ 古人ノ詞ニ恠ヲ見テアヤシマサレハ其恠オノツカラ止ト云リ 当リテ 其父ヲ 馳テ 乗リテ 馬ノ皮 蜀ノ図経 飛入リ 見ヘタリ 云フ(5) 問フ 我レ(2) 殺ス●(2) 博学大才ニシテ 苦シムル 烹レ 大同ノ年ノ末ニ 入ル 其夜事ナシ 女ノ履 来ルト云 花ノ下ニ置キ犬ヲハ林中ノ処々ニ置ヘシ時分ヲ待テ 寒ヲモ知スアツキヲモ知ス身ニ 午ノ時

  詰● 柘音蔗跋音撥詰音吉……これは長澤本の書写者の注であると思われる。

  王●後ニ亭ノ長トナリテ(下略)……この27字脱落の部分の長澤本は、6丁ウ3行目、4行目であり、次の如くなっている。

  是ヲシル人ナシ王●後ニ亭ノ長トナリテ

  行●ニタチマチ午一疋ハセ来テ亭ノ中ニ

 両者の拠った原本の字詰は未詳であるが、東洋大本は、3行目の「亭ノ」から4行目の「亭ノ」に目移りして、その間の約1行分を誤脱させてしまったものと思われる。

  古人ノ詞ニ(下略)……27字という大量の脱落であるが、諸本、いずれも、この文があるので、東洋大本の誤脱と思われる。参考のため、松平本『恠談』のこの部分を示すと、

  高位ニノホル 風俗通ト云文ニミヘタリ 古人ノ詞

  ニ恠ヲ見テアヤシマサレハ其恠オノツカラ止ト云リケ

  ニサモアルヘシ

 となっている。出典を示した後一字アキになっている。原本がそのような状態であったために生じた誤脱のように思う。

  花ノ下ニ置キ犬ヲハ(下略)……この脱落も、前の「置キ」から、後出の「置へシ」に目移りして生じたものであろう。

  東洋大本の脱落は、74対48と、数は長澤本よりも少ないが、右に見てきた如く、重要な、大量脱落が多く、その書写態度は、あまり忠実とは言えない。

  その他、用字、仮名遣いの異同等もあるが、特に取り上げる必要はないと思う。

 右の異同を全体的にながめると、東洋大本は、仮名を漢字に改め、紙数を節約しているが、それだけ初稿本から離れたものとなり、脱落も多い。巻末の識語から、明治に入ってからの写本と思われ、近代的な姿勢が伺えるようにも思える。しかし、長澤本と東洋大本の本文は、諸本の中では、かなり近い関係にあると言い得る。書名が共に「怪談録」であり、羅山の署名、奥書も同様である点から、この両本は同系統の原本に拠って書写されたものと推測される。ただ、長澤本の下巻には別内容の二十五話が収録されているのに対し、東洋大本には、それが収録されていない。三十二話収録の「怪談録」が存し、これを両者が書写し、長澤本の書写者は、その後に別本より二十五話を書写し、追加して、慶安二年の奥書を、下巻末に移したのであろうか。東洋大本は収録順序も少し異なる。長澤本で、25番目の張遵言が、20番目の魚服の次に入れられている。『怪談録』に関しては、足利学校遺蹟図書館にも一本が所蔵されており、朝倉治彦氏の調査によれぱ、五十七話を収録しているとの事であるので、長澤本と同系統の本文という事になる。今後、調査して捕訂を行いたい。

 

 

  四、『奇異怪談抄』の諸本

 

 

 『奇異怪談抄』の諸本といっても、現在、天理図書館に一本を所蔵するのみである。以下、その書誌を記し、他の類害との関連を考察したい。

 

所在 天理図書館 923/イ53(平成元年9月5日調査)

体裁 大本、四巻、一冊、写本、袋綴じ。

表紙 明るい青味灰色原表紙、縦二七九ミリ×横二〇五ミリ。

題簽 左肩に書題簽(薄代赭色)「奇異怪談上下全」縦二一九ミリ×横三八ミリ。

内題 各巻一丁オ、本文のはじめに、

   「奇異怪談抄上之上(上之下、下之上、下之下)」

目録題・目録尾題・尾題 無し。

匡郭 無し。一行の字の高さは、二一八ミリ前後。

丁付 無し。

丁数 上之上 二十七丁。

   上之下 十九丁。

   下之上 二十一丁。

   下之下 三十一丁(二十四丁落丁)。

   合計  九十八丁(実質、九十七丁)。

行数 毎半葉九行。

字数 一行十八字〜十九字。

話数 上之上 十三話。

   望帝、詰●、王●、伍子胥、淳于●、呂球、偃王、韋叔堅、馬頭娘、韓朋、元緒、欧陽●、巴西侯。

   上之下  六話。

   李●、●客、張守一、●生、潤玉、中山娘。

   下之上  五話。

   魚服、三娘子、袁氏、●蜉、●隠娘。

   下之下  八話。

   張遵言、薛昭、郭元振、侯元、頼省幹、玉真娘子、(「陰摩羅鬼」は前半欠落のため題名なし)、金鳳釵。

   合計 三十二話。

本文 漢字交り平仮名。振り仮名・濁点を施す。句読点なし。

挿絵 無し。

序  無し。

奥書 下之下、三十一丁(最終丁)ウに、

   「 右一冊故有而書之

   于時寛永廿年発未 羅山子」

蔵書印等 「天理図書館印」陽刻方形朱印(四五ミリ×四五ミり)。「寄贈/中山正善氏/昭和八年十二月十二日」陽刻長方形朱印、氏名は紫印、年月日はペン書(縦五一ミリ×横一九ミリ)。「天理図書館/昭和十年六月廿九日/83303」陽刻長円形朱印、洋数字は青印(縦二九ミリ・横四一ミリ)。「923/イ53」のラベル。

その他 下之下、二十四丁目(「玉真娘子」の後半と「陰摩羅鬼」の前半)落丁。

 

 天理図書館所蔵の『奇異怪談抄』(写真、38、39、)は四巻一冊であるが、内容は『恠談』と同様のものである。下之下の「玉真娘子」の後半と「陰摩羅鬼」の前半が欠落しているが、この部分は、松平本『恠談』で約十四行分(約三一五字)、長澤本『怪談録』で約十七行分(約三〇六字)となる。『奇異怪談抄』の一丁の字詰は、約三四〇字であるので、丁付は無いが二十四丁目にあたる丁が落丁したものと思われる。おそらく、書写段階では存したものが、綴じの段階あたりで紛失したのではないかと推測される。

 本書について、長澤規矩也氏は次の如く述べておられる。(注19)

 「  奇異怪談抄

 中村幸彦氏がかつて寛文ごろの写本であろうといわれたが、平がなまじりで、かな書き部分が比較的多く、怪談全書と順序だけ多少異なる、一冊本がある。末に奥書があつて、  右一冊故有而書之

  于時寛永廿年癸未羅山子

とある。この奥書もあやしい。「有故而」でなくて「故有而」もおかしいが、ほぽ同一内容の怪談録が慶安二年の作というのと寛永二十年の書とでは矛盾する。

 奇異怪談抄と奇異雑談集との間の書名の類似もふしぎである。

 なお「近世怪異小説」巻末の解題に、本書に玉真娘子・陰摩羅鬼の二編がないとあるのは誤りで、前者の末と後者の初とが欠けている。」

 

 『奇異怪談抄』の本文について考える場合、これまで、類書の本文を調査してきたので、いくつかの前提を設けることは可能であるが、ここでは、まず、松平文庫本『恠談』との本文の異同を示すことにする。(範囲は『怪談全書』巻一とし、必要に応じて巻二以下も加える。)

1、松平本『恠談』が漢字のもの……547

  云―いふ(11) 云―い(34) 云―いひ(11) 云―いへ(3) 云―いへり 云―いハ 時―とき(17) 是―これ(11) 一―ひと(8) 所―ところ(7) 又―また(7) 如―ごと(6) 多―おほ(7) 上―うへ(7) 其―その(7) 本―もと(6) 大―おほき(7) 者―もの(7) 即―すなハち(8) 知―し(6) 知―しら(4) 知―しれ 必―かなら(7) 復―かへ 餞―はなむけ 叢―くさむら 菌―しとね 電―いなぴかり 羅―うすもの 諌―いさむ 攜―たづさへ……(以下略)

2、『奇異怪談抄』が漢字のもの……61

  ユク―行 ユキ―行 カフ―蓄 ミ―見(4) カリ―狩(2) クルマ―車 ツヰ―終(2) シフト―舅 ソクハク―許多 タマ―給 コレ―是(6) クワ―委 キヽ―聞(2)フクロ―袋 ヤフ―破 フル―古 キ―着 ムコ―聟 コト―事(4) トキ―時(3) トコロ―所 ワカキ―若 クサ―草 ムスフ―結 コロ―殺 カマト―竈 ハリ―張 ナキ―啼 モノ―物 キリ―伐 コヽ―愛(8) マモ―守 フキ―吹 トヒラ―扉 カヘ―帰(2) トケ―解 ヲホ―覆 ヒキ―引 カホ―● スキ―過 ヨミ―読 カキ―書

 漢字・仮名の異同は、547対61と圧倒的に松平本『恠談』の方が漢字表記が多い。例示した終りのものなどは、ややむずかしい読みかと思うが、他は大部分、一般的な漢字である。『奇異怪談抄』は数少ないが、竈・●など、むずかしいものがある。しかし、この異同では省略しているが、『奇異怪談抄』の漢字には、大部分のものに振り仮名が施されているので、これも、特に問題にならないと思う。要するに、松平本『恠談』は片仮名で漢字を多用しており、漢籍の翻訳という点を考えると、やはり初稿本に近いものと思われる。

3、松平本『恠談』に無いもの……57(傍線部分、なお、振り仮名は省略した。)

  只人 よく/\ 来りて(3) 呉王きかずしていかつて 扨火をとほし いたるに 名づく(3) 名つけて ●が政のよきに なりて かたちもうるハし ゆくことあたハずそれゆへに舟を 弓をひきて 是又則ふるき獺なり 女ありて つかハしたまひ ほろぼすとなり 叔堅おもふは此犬あづらし さらに凶事にあらず また殺さんといへり いふに彼馬 いづれの所へ のりて 奪ひとる 見えたり さて又韓朋名ハ 帰るにこたえて曰 桑の日 煮れども梁の武帝 しづまるに たちまちに 尋ね 負て 広く ●がちかづきて 麻布十斤 ゆくに 鬼神ハ ゆひつけしむかならずも一たび おきて 申の刻 四足ハ 白猿を見るがごとし 兵共 さけんで ことにまたあやしき 古き文 よむなり 財物珍物さて諸女 梁の世のほろぶる あらハすとなり

  大部分のものは、送り仮名や助詞などであり、これらは、増補とも脱落ともとれるが、「呉王きかずしていかつて、ゆくことあたハずそれゆへに舟を、つかハしたまひ、叔堅おもふは此犬めづらし、白猿を見るがごとし」などは、やや別系統の本文かという事を推測させる。

4、『奇異怪談抄』に無いもの……33(傍線部分)

  望帝 前書已有之不及再書 あふてカタル いふやうハ 伍子胥 此亦在前書不可再書也 ツヰニ呉をほろぼす 男女ハ 童子 榻ニ座せり 龍蛇の形ノことし 皆荷葉を 舟ハ皆うき草 火をたくナリ おもひて悲テ ひききり馳て 皮又とびきて きぬを織●の 二つの墳ノうへに しばりテ 孫権ニ進上ス孫権 たてまつるもの先ニ亀と 入ル ごとくニして 渓を伝ひ険ヲ凌テ是ヲモトム月ヲ経テ百里許ノ外ニテくさむらの上にて かなしひてイヨ/\ ●ツフサニその故を 一月ニ過たり 他行せり其かへらざるまへに 手足を床ニゆひつけ 時分をまちて 五六寸あまり 菓を食ヒ尤犬ヲくらふ ●其財物珍物 其形猿に似たり

  以上が、巻一のものであるが、巻二以下の主なものを示す。

  ⊂綰群璽襭加オ2行目

  一人の女門を出てコレヲ招ク李●馬ヨリ下テ入ル香キ風ノ吹ヲ聞クよのつねの匂ひにあらず

 ◆下之上、4丁ウ5行目

  壁を隔て三娘子カ物ヲウコカス声ヲ聞テすきまよりのそくに

 、下之上、6丁オ4行目

  夜深にいたるまで懇にす所望ハ何●ソト問フ李和がいハく

 ぁ下之上、9丁ウ1行目

  人ハ陰陽をうけ魂魄ヲ納ム陰陽哀ヘ魂魄たゝかふときハ

 ァ下之上、16丁オ4行目

  疑てしきりにとふ陰娘申サク真実ヲ云フトモ其疑ンコトヲ恐ル鋒又真実ニ語レト云フ即云ヒケルハ陰娘はじめ尼にミちひかれ

  これらの内の大部分は『奇異怪談抄』の脱落と思われるが、この大量脱落の部分について、長澤本『怪談録』を確認すると、松平本『恠談』と同様の文が入っている。そして、この逆に『怪談録』『恠談』の大量脱落は見当たらない。これらは『奇異怪談抄』の本文の優劣に関わる異同と思われる。

5、その他のもの……113(上が松平本『恠談』)

  ヤカテ王トシテ望帝ノカレユク―やかて王ハ望帝になしてのがれゆく 王帳―王●(6) 大ナル潮ノサス―おほきに潮のさす 見モノ皆―見る人ミな 白馬素車―白鳥素車 方輿勝覧―与地勝覧 ムカヘタテマツルタメニ来ルト云フ―むかえたてまつり来れといふ 主人ノ王トヲホシクテ白キ衣―主人の王とおぼしきがしろきころも 治レリ―おさまりぬ 老女ヲ射ル―老女を射ころしぬ 云フ―いへり クワへ来テ―くハへて来りて 卵ヒラヒテ―卵ひらけて ウツブセル故ニ―侍るゆへに 慈悲ノ心アリ―慈悲のこゝろもあれぱ 人イヨ/\アヤシム―人々見てあやしむ 耕作ス―耕作するゆヘ トラヘラル―とらへられけり 妻トセシメン―妻にせん ケニサモアルヘシ―まことにさもあるべし 馬甚タアカキクルフ―馬そのゆふべあがきくるふ ミメヨシ―ミめよく侍れは 申スベシ―いふべし 韓朋又ハ韓憑トモ号ス―さて又韓朋名ハ韓憑とも号す トラヘラルト云フ―とらへられ侍るといへり、如クニシテ―がごとし 番トス―番をさせける 既ニ―即時ニ トヽメ―とゝのへ 我家ノ外二百里斗―わが家に百里ばかり 高クシケレリ―たかくして 犬ヲハ林中ノ所々ニ置ヘシ―犬をぱ林中に置べし 天ノ我ヲ殺セルナリ―天のわれをころせり 今麻ノ中へ絹ヲ入レ―今練の中に麻を入 身ニ白毛長サ五六寸余アリ―身しろくして毛のながさ六寸あまり 木札―本 トリテカヘル―とりて帰て後

是―此 代々―代● 重々―重● 人々―人● ●−事(12) ●−事(22) 坐―座 体―躰 船―舟(4) 群聚―群集 即―則(2) 本―下 履―沓 歌―哥 鬚−髭

  見へ―見え(7) オハリ―をハり 口ツサメリ―くちすさめり ムクイズ―むくひず トモシ―とほし ヲコル―おこる クワヘ―くハヘ ヲサム―おさむ ヌイテ―ぬひて 苦ミ―くるしひ ヨツテ―よりて オソフル―おそハる 力ヽツテ―かゝりて ウハヲソヒ―うはおそひ

 これらの異同について、具体的に述べることはしないが、全体を見渡して、やはり、『恠談』と『奇異怪談抄』は別系統の本文である事が解ると思う。ただ「馬甚タアカキクルフ―馬そのゆふべあがきくるふ」の異同は『奇異怪談抄』が片仮名本の原本を書写している事を思わせる。「甚タ」を「其夕(ゆうべ)」と誤読したところから生じたものと思わせるからである。

 

 以上、『奇異怪談抄』の本文について述べてきたが、その他の条件も総合して考えると、次の如く言い得ると思う。

『奇異怪談抄』の各話の収録順序は、松平本『恠談』、長澤本『恠談』、長澤本『怪談録』と同じであり、長澤本『恠談』は、下巻、1丁オ13行目で「己の刻」の「己」に「亥イ」と注を付しているが、『奇異怪談抄』は「亥の刻」となっている。本文対校の結果『奇異怪談抄』の本文は、松平本『恠談』とは別系統のものと思われ、長澤本『恠談』と『奇異怪談抄』は、仮名表記が非常に多い点も共通しており、この二本は同系統の本文と判断される。ただし、『奇異怪談抄』が長澤本『恠談』を書写したものでない事は、長澤本には「望帝」「伍子胥」が収録されていないし、下巻、11丁オ8行目の1行脱落の部分が『奇異怪談抄』は出ているのでも明らかな事である。拠ったところの原写本は、長澤本『恠談』と同系統の片仮名本ではなかったか、と推測される。

 『奇異怪談抄』には、右に見てきた如く、多くの脱落があり、

 白馬→白鳥、幽冥録→曲冥録、夫人→大人、羊車→半車、決山寺→沢山寺、魏愽→魏博、布嚢→市嚢、五十余人→五十四人、烏将軍→鳥将軍、此地→此池、五斗米→五斗末、浙中→術中、掲諦→楊諦

 このような誤写も多い。奥書には「于時寛永廿年癸未」とあるが、中村幸彦氏の指摘の如く、松平本『恠談』よりも後の書写と思われ、また、本文としても問題点を含むものと思われる。長澤規矩也氏の指摘される、書名についての疑問と共に、今後、さらに、調査を重ねてゆきたい。

 

 

  五、『怪談録前集』の諸本

 

 

 『漢考怪談録前集』の版本は、その所在が明らかになっているのは、現在のところ、天理図書館所蔵本のみである。以下、その書誌を記し、考察を加えたい。

 

所在 天理図書館 913・61/イ5/1(〜5)(平成2年9月5日調査)

体裁 半紙本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 濃藍色原表紙、縦二三一ミリ×横一六〇ミリ(巻一)。

題簽 左肩に四周単辺原題簽。巻一・巻三は楷書体、巻二・巻四・巻五は草書体で、「〔漢考〕怪談録前集絵入一(〜五)」(縦一七〇ミリ×横三八ミリ(巻一)。

目録題 巻一、二丁オに「漢考怪談 前集/目録并引用書目」とあり、続いて、次の如く一括掲出している。巻一の「韓朋」の題名は脱落している。

  一之巻/望帝 蜀王本記/詰● 後魏書/王● 後漢書/伍子胥 呉越春秋/李●説淵/呂球 幽冥録/馬頭娘 蜀図経/陰摩羅記 清尊録/韋叔堅 風俗通/淳干(ママ)● 大槐 宮記/偃王 事文類聚/元緒 異苑

  二之巻/欧陽● 白猿伝/巳西侯 説淵/●客 春渚紀聞/張守一 異聞録/●生 説淵

  三之巻/閏(ママ)玉 説淵/中山狼 説海/魚服 同/三娘子 同/袁氏 大(ママ)平広記

  四之巻/●蜉 説海/●隠娘 大(ママ)平広記/張導(ママ)言 説淵/薛昭 同

  五之巻/郭元振 同/侯元 説淵/頼省幹 唐史/王(ママ)真娘子 説略/金鳳釵 剪灯新話

目録尾題無し。

内題 巻一、四丁オに「怪談 巻之一 前集」。以下、各巻一丁オに「怪談録 巻之二(〜五) 前集」。

尾題 巻一、二十八丁ウに「漢考怪談一之終」。巻二以下は無し。

匡郭 四周単辺、ただし、挿絵の丁を除いて版心の界線なし。序は匡郭なし。

  序(1丁オ) 一行の字の高さ、一六三ミリ前後。

  目録(2丁オ) 縦一八〇ミリ×横一三二ミリ(柱刻の字の右まで)。

本文(4丁オ) 縦一八〇ミリ×横一三二ミリ(柱刻の字の右まで)。

挿絵(5丁オ) 縦一七七ミリ×横一三〇ミリ。

柱刻 版心は白口。挿絵の丁を除いて界線なし。

   巻一…「怪談録一之巻 一」「怪談 一巻 二(〜二十八)」。三丁目の丁付は「二」   とある。

   巻二…「怪談二巻 一(〜二十六)」。

   巻三…「怪談三巻 一(〜廿六)」。

   巻四…「怪談四巻 一(〜廿四)」。

   巻五…「怪談五巻 一(〜廿七)」。

丁数 巻一…二十八丁(内、序一丁、目録二丁)。

   巻二…二十六丁。

   巻三…二十六丁。

   巻四…二十四丁。

   巻五…二十七丁。 合計一三一丁

行数 序は毎半葉六行、目録・本文は毎半葉十行。

字数 序は一行約十字、本文は一行約十五字。

話数 巻一…十三、巻二…五、巻三…五、巻四…四、巻五…五話。

   合計 三十二話。

挿絵 巻一…片面二図(五オ、九オ)。見聞き五図(十ウ・十一オ、十三ウ・十四オ、十六ウ・十七オ、二十ウ・二十一オ、二十三ウ・二十四オ)。

   巻二…見開き五図(三ウ・四オ、十一ウ・十二オ、十五ウ・十六オ、十七ウ・十八オ、二十二ウ・二十三オ)。

   巻三…見開き五図(二ウ・三オ、七ウ・八オ、十一ウ・十二オ、十六ウ・十七オ、二十二ウ・二十三オ)。

   巻四…見開き四図(一ウ・二オ、七ウ・八オ、十四ウ・十五オ、二十一ウ・二十二オ)。

   巻五…見開き五図(二ウ・三オ、十ウ・十一オ、十四ウ・十五オ、十七ウ・十八オ、二十三ウ・二十四オ)。

   合計 片面二図、見開き二十四図。

本文 漢字交り平仮名。振り仮名(片仮名)・濁点を施す。句読点なし。

序  巻一、一丁に、松月堂不角の序あり。

   「凡薯蕷の●蛤の雀すべて/変化のことハり是天地/自然成ものを愚かに/あやしめは水にうつれる/我影に我を呑る心は/万境にしたかつて転す/徳の流行してハ妖/をのつからなす/一円水の中に/指さすかことし/松月堂不角序/松月堂(印)水□目□(印)」

跋・刊記 無し。

蔵書印等 「岡田真之蔵書」子持枠陽刻長方形朱印(縦三二ミリ×横一五ミリ)。「天理図書館蔵」陽刻長方形朱印(縦二六・五ミリ×横一八ミリ)。「寄贈/天理教教会本部/昭和卅年五月三十日」陽刻長方形朱印、年月日は墨書、「天理教…」は紫スタンプ(縦四五ミリ×横一五ミリ)。「天理図書館/昭和卅一年弐月壱日/48658(〜486562)」陽刻長方形朱印、洋数字は青印(縦二六・五ミリ×横四五ミリ)。「913・61/イ5/1(〜5)」のラベル。

 

天理図書館蔵『怪談録前集』(写真、40、41、42、)について、長澤規矩也氏は次の如く述べておられる。

「  刊本怪談録前集

 天理図書館所蔵。後集があつて佚したものか、未刊か。巻頭は怪談、巻二から五までの巻首は怪談録。平かなまじり、絵入り。題簽は「〔漢考〕怪談録前集」、版心は怪談、刊記はないが、巻首に無年号の松月堂不角の漢考怪談の序があり、不角が宝暦三年に九十二歳で死んだ俳人で、元禄二年に江戸惣鹿子を著した人なので、版式からみて、元禄以後の刊行らしい。

 本書の内容は刊本怪談全書の巻五の三篇が各巻中に分散され、順序に多少の差があり、文字にも多少の異同があるが、

  巻一 望帝 から 元緒   巻四 ●蜉 から 薛昭

  巻二 欧陽● から ●生  巻五 郭元振 から 金鳳釵

  巻三 閏玉 から 袁氏

 羅山の名が全く見えない。

 この書は後印本で、外題換えかもしれない。」

 長澤氏の指摘される如く、本書の刊行が元禄以後とすると、松月堂不角は、その刊行に当って、どの本文を底本に使用したのであろうか。現在、伝存する諸本を整理すると、次の如くである。

 〇長澤本『恠談』(写本、平仮名、寛永頃?)

 〇長澤本『怪談録』(写本、片仮名、慶安〜寛文頃?)

 〇松平本『恠談』(写本、平仮名、寛文頃?)

 〇天理本『奇異怪談抄』(写本、平仮名、寛文頃?)

 〇『怪談全書』(刊本、片仮名、元禄十一年刊)

 この他、東洋大本『恠談』(写本、平仮名)、東洋大本『怪談録』(写本、片仮名)が存するが、共に、長澤本『恠談』、長澤本『怪談録』と、その本文が、概ね同様であり、書写年代も後のものと思われるので省略する。

 さて、右に掲出した内の、長澤本『恠談』は「望帝」「伍子胥」の二話が収録されていない。また、天理本『奇異怪談抄』は「玉真娘子」の後半と「陰摩羅鬼」の前半が欠けている。これらの点から、この二本を使った可能性は無いものと思う。

 次に、元禄十一年刊の『怪談全書』であるが、この本文と松平本『恠談』(以下『恠談』と略す)の本文とを比較すると、『怪談全書』に少なからず欠文かあり、10字以上の欠文は七か所ある(96ページ以下参照)。この部分の『怪談録前集』(以下『前集』と略す)を見ると、長澤本『怪談録』(以下『怪談録』と略す)・『恠談』と同様の本文になっている。従って、本書が『怪談全書』を底本に使用した可能性も少ない。

 また、両者とも挿絵か入っており、『怪談全書』は二十四図、計十二丁、『前集』は二土六図、内、見開き二十四図、計二十五丁であるが、その絵柄など、特に影響関係があるとは思えない。

 以上の諸点を考えると、本書が底本として使用した可能性のあるものは、『怪談録』と『恠談』という事になる。この三本の本文を比較すると、『前集』に、かなりの欠文がある。5字以上のものを『前集』の丁付に従って掲げると、次の如くである。〔 〕の中が欠文であり、『怪談録』で示した。(振り仮名は省略)

 巻一の26丁ウ・9行目

  偃と名付〔徐国ノ君是ヲ聞テコレヲ呼テソタテ養フ成人シテ智恵アリ慈悲ノ心アリ徐国ノ君位ヲ譲テ政ヲ行ハシム即偃王卜名ク〕鵠倉病死せんとする時

 巻一の28丁オ・9行目

  亀本のことし〔諸葛●ヲ呼テ是ヲ問フ〕諸葛●是ハ年久敷キ

 巻二の5丁オ・3行目

  昼より後いたる〔へシ早クイタル〕事なかれ

 巻二の7丁ウ・8行目

  古文のことく成〔字書キタル〕木札をよむ

 巻二の14丁オ・2行目

  大熊其前に臥す〔コレ六雄将ナリ又其前ニ白キ頂ノ虎酔テ伏ス〕是白額侯也

 巻二の25丁ウ・3行目

  須女の三星〔皆光ナシ是三ノ星〕人間に下つて

 巻三の15丁オ・1行目

  聞者〔皆是ヲアヤシム〕是より

 巻三の19丁ウ・7行目

  路次にて一人の〔老人ニ逢フ〕老人手を打て

 巻四の11丁ウ・10行目

  見たる人なし〔イヅクヘカ行ケン〕大平広記に載たり

 巻五の9丁ウ・10行目

  家ニ帰れハ〔父兄驚キ悦テ既ニ〕一旬になり

 巻五の11丁ウ・2行目

  賢聖なりと称す〔官ヲ立テ左右ノ大将トシ軍兵ヲ名ヲ称ス〕毎月朔日

 巻五の19丁ウ・10行目

  音信なし〔興娘ステニ年十九ニナリヌ母コレヲ他人ニヤラント云フ父キカス〕興娘待かねて

 これらの欠文の条は、『恠談』も『怪談録』と同様の文となっており、いずれも『前集』の誤脱と思われる。この中の、巻一の26丁ウ・9行目のものは、52字で『怪談録』で、約3行分であり、5行目の「偃卜名ク」から、8行目の「偃王卜名ク」に目移りしたものであろうか。さらに、巻五の11丁ウ・2行目のものは、18字で『怪談録』で、ちょうど1行分であり、「称ス」が2行目と3行目に並んでいる。これも、次行の文字に目移りしたところから生じた可能性がある。なお、この部分の『恠談』は、1行22〜23字という字詰の関係から、隣り合わせにはなっていない。

 次に、その他の本文異同について整理すると以下の如くである。

 (範囲は『前集』巻一)

1、『前集』が漢字のもの……238

  ナリ→也(20) コレ→是(19) アリ→有(10) ナリ→成(5) カリ→狩(2) カフ→飼ふ アハレ→憐 カヒコ→卵 ミメ→眉目 ヱヒス→夷 クタル→降 サキ→嚮 タチマチ→忽 ソクハク→若干 オトロカス→驚す(以下略)

2、『前集』が仮名のもの……78

  云フ→いふ(15) 云→いふ(5) 果シテ→はたして(2) 甚→はなハた(2) 故→ゆへ(2) 驚テ→おどろきて(2) 者→もの 皆→ミな 即→すてハち 従フ→したかふ(以下略)

 238対78と『前集』が約三倍の漢字を使っており、中には「サキ→嚮・オコタリ→懈・イマシメテ→禁て・ヨリ/\→時/\・イナヽヒテ→嘶て・アハテ→周障」など、やや難しいものも含まれているが、これらの漢字には、大部分振り仮名が施されており、本文が必ずしも難解になっている訳ではない。

3、『怪談録』・『恠談』が同じで『前集』と異なっているもの……150

 これらを、いくつかに分けてみると、

 ◆愾綾検戮北気い發痢帖44

 「云フ→云(7)・己レ→己・申ス→申」等の、送り仮名の無いものが26。「酒ヲ→酒・蜀ノ王→蜀王」等の助詞の無いものが6と、その大部分を占めている。その他のものは「毎年八月→毎年・大亀→亀・桑ノ木ノ→木の・書付タリ→書たり・此鳥ハ→是ハ・槐安国王→槐安国・其夫婦→其婦・皆→〔ナシ〕(2)・シタカヒ→〔ナシ〕」等であり、いずれも『前集』の誤脱と思われるが、意味不通という程のものではない。

◆◆愾綾検戮僕るもの……34

 「来テ→来りて(5)・名ク→名つく(2)・笑テ→笑ひて」等の、送り仮名の有るものが26。「行方→行方を・父→父を」等の助詞の有るものが4と、これも、その大部分を占めている。その他のものは「救フ→すくふ事・亀対テ→亀聞て答て」等であり、『前集』が補ったものと思う。

、字体等の異同……28

 「 →事(12)・ →事(5)・即→則(8)・故郷→古郷・船→舟・食ヒ→喰ひ・群聚→群集・曰ク→云・烹→煮・処→所・重々→重/\」写本から版本へという事で、『前集』にやや一般的な文字遣いの傾向がみられる。

ぁ△修梁召里發痢帖44

  銑0奮阿里發里魄豎腓靴燭、「見へ→見え(7)・ウヤマイ→うやまひ」等の仮名遣いの異同が11あり、「アガツテ→あかりて・カサツテ→飾て・アツテ→ありて」等、文語的に改めたものが目につく。他には「口ツサメリ→口すさミけり・耕作す→耕す・シテ閑ニ→閑にして」等があるが、特に内容を改変するような異同は無い。

4、『怪談録』と『前集』とが同じもの……36(上が『恠談』)

  ●→事(4) ●凶→凶事(2) 豆文類聚→事文類聚 ●→事 所→処(2) 処→所 許→計

  也→ナリ・なり(2) 〆→シテ・して(2)

  モノ→者 モノ→物 ワケ→分 コレ→是(2) カタリ→語リ・語り コロサン→殺サン・殺さん(2) ウカヒ→浮ヒ・浮ひ キク→聞ク・聞く トモ→●

  去ル→去 入ル→入 引キ→引

  見→見ル・見る

  ヲホシク→オホシク・おほしく ヒラヒテ→ヒライテ・ひらいて

  人→タヽ人・唯人 間→間ニ・間に

  ワタカマリマカリテ→ワタカマリテ・わだかまりて

5、『恠談』と『前集』とが同じもの……54(上が『怪談録』)

  処→所(6) 皈→帰(5) ●→時(4) ●霊→鼈令(2) 計→斗 徳●→徳陽 ●→過

  為→タメ・ため(2) ●→トモ・とも(2) 如→コト・こと(2) 也→ナリ・なり(2) 受→ウケ・うけ 与フ→アタフ・あたふ 袋→フクロ・ふくろ 到リ→イタリ・いたり

  依テ→ヨツテ・よつて 杜鵑→ホ卜ヽキス・ほとゝきす

  ミ→見 コロス→殺ス・殺す コレ→是(2)

  云→云フ・云ふ 乞シテ→乞テ・乞て

  浮ミ→ウカヒ・うかひ ツイニ→ツヰニ・つゐに ヤワラカ→ヤハラカ・やハらか ミエタリ→ミヘタリ・ミへたり

  国→国ニ・国に 我力→我等カ・我等か

  榻→榻ニ・榻に 〔ナシ〕→ケニサモアルヘシ・実さも有へし 夢サメテ→夢サメテ・夢さめて 材帚→帚 博学大才→博学

  形→● 童→童子 内ニ→内ヘ・内へ

 4・5 は『前集』が『怪談録』と『恠談』のいずれに近い本文か、という点で注意すべき異同である。36対54と『恠談』と共通のものが多く、「●霊→鼈令 〔ナシ〕→ケニサモアルヘシ・実さも有へし」等の異同から考えると、『前集』の本文は『恠談』に近い関係にある、と一応言い得る。

6、その他のもの……26(上から『怪談録』『恠談』『前集』)

  ●→●→事 ●→トキ→時(2) 昔シ→ムカシ→昔 分ケテ→ワケテ→分て 納メ→オサメ→納 云フ→云→いふ 云→云フ→いふ ノ曰→ノ曰ク→のたまハく 見ユ→マミユ→ま見ゆ 放テ→ハナツテ→放して 見ヘタリ→見タリ→見えたり オト→ヲト→昔 カヱリ→カヘリ→帰(カヘリ) ミヱ→ミへ→見え カヱス→カヘス→返す ユクトキ→ユク時→行時 然●→然トモ→しかれとも 煮レ●→煮トモ→煮れども 申シ→申シキ→申き 遂イニ→ツヰニ→終ニ 掛ケリ→カケリ→書けり 也→ナリ→成 顔ヨシ→カホヨシ→娟(カホヨシ) 大●→大蛇→大蛇(ヲロチ) 到ル→イタル→至る

 これらの異同を見ると「ノ曰→曰ク→のたまハく、申シ→申シキ→申き」など、『前集』は『恠談』にやや近い本文であるようにも思われる。

 以上、本文異同の関連から、『前集』が使用した底本について考えてみたが、『前集』の本文は、いずれかと言うならぱ『怪談録』よりも『恠談』に近い事がわかった。しかし、この調査は『前集』巻一の範囲内であること、『前集』の大量脱落の部分は『怪談録』の字詰めと関連性があること、さらに、書名を「怪談録前集」としており、『怪談録』は上下二巻に分かれ、その上巻が『前集』の内容と一致していること、これらの事を考え合わせると、『前集』が『恠談』を底本に使用したとは速断できず、むしろ、『怪談録』との関係が深いように思える。この点は、今後、さらに検討したいと思う。

 

 本書に序を付す松月堂不角は、立羽氏、通祢定之助、遠山・千翁・虚無斎・松月堂・南々舎と号した。岡村不卜に学んだ俳人で、調和と共に点取俳諧の宗匠として栄え、宝暦三年(一七五三)に九十二歳で没している。江戸平松町南側に住し、出版を営んでいた。文才があり、俳書以外、浮世草子など編著も多数あるが、それらは自筆版下の私家版が多い。その編書中に、『一騎討後集』『百人一句後集』『松蘿前集』『矢の根鍛冶前集』『同後集』『双子山前集』『米の守後集』などがあり、「怪談録前集」と、その書名に相通じるものがある。

 なお、山崎麓氏の『日本小説書目年表』の「読本」の部に、

  「○怪談録後集 六 箭角 同(宝暦七年)」

とあるが、その原物を見る事が出来なかった。今後も調査を続け、本書との関連を考察したいと思う。

 

 

  六、収録順序一覧と諸本系統図

 

 

 『恠談』『怪談録』『奇異怪談抄』の収録順序は、ほぼ一致している。東洋大本『怪談録』の、25魚服の次に移されて、以下四話が順次繰り下げられている以外は、写本の全てが同じである。つまり、初稿本の収録順序は、これらの写本の順序と同じであったと推測し得る。

 次に版本『怪談全書』であるが、これは、写本系統の本文(松平本『恠談』など)を、五巻に分割したものと思われるが、13巴西侯・21三娘子・26薛昭の三話を末尾に移して、これを巻五としている。各巻の行数は、巻一…303行、巻二…307行、巻三…266行、巻四…290行、巻五…179行、となっており、巻五が特に少ない。各話を行数の多い順に並べると、12欧陽●…94行、32金鳳釵…89行、25張遵言…87行、27郭元振…84行、24●隠娘…81行、17●生…80行、19中山狼…75行、22袁氏…64行、13巴西侯…63行、28侯元…60行、21三娘子…59行、26薛昭…57行、となっており、特に長い話を移動させた訳でもないようである。原典との関連かとも思ったが、特に関連はないようである。このように分けた理由が判然としない。

 『怪談録前集』は、31陰魔羅鬼→8、14李●→5、9馬頭娘→7、5淳于●→11、7偃王→12、13巴西侯→15、と順序を改めているが、これも、その移動の基準など判然としない。諸本の収録順序を整理したのが137ページの一覧表である。

 諸本間の系統を、現在までの調査結果に基づいて図示すると次の如くである。これは、文字通り、試案の試案である。

 

(図省略。元本参照のこと)

 

 

 

注1 東北大学附属図書館・狩野文庫本は未見であるが、この蔵本に関しては、高橋清隆氏の詳細な調査報告(『日本文芸論叢』第6号別冊、昭和63年3月)によって、ここに入れてよいものと思われるが、改めて調査確認したいと思う。

注2 慶応義塾大学附属研究所・斯道文庫編『江戸時代書林出版書籍目録集成』(昭和37年12月25日〜昭和39年4月15日)に拠る。以下同じ。

注3 井上和雄氏『慶長以来書賈集覧』(大正5年9月25日)等に拠る。

注4 二論文ともに『長澤規矩也著作集』第五巻(昭和60年2月15日)に収録されている。引用は同著作集に拠る。

注5 「『怪談全書』考」。『野田教授退官記念 日本文学新見―研究と資料―』(昭和51年3月31日)

注6 注4に同じ。

注7 『大妻女子大学紀要―文系―』第二十五号(平成5年3月)

注8 注5に同じ。

注9 注3に同じ。

注10 「肥前島原 松平文庫紹介」。『文学』第二十九巻十一号(昭和36年11月)、第三十巻一号(昭和37年1月)。『中村幸彦著述集』第十四巻(昭和58年3月30日)に収録。

注11 「林羅山の翻訳文学―『化女集』『狐媚鈔』を主として―」。『文学研究』第六十一輯(昭和38年3月)。『中村幸彦著述集』第六巻(昭和57年9月10日)に加筆収録。引用は、同著述集に拠る。

注12 「江戸文学に及ぼした支那文学の影響」。『国語と国文学』第三十八巻四号(昭和36年4月)。『長澤規矩也著作集』第五巻(昭和60年2月15日)に収録。引用は、同著作集に拠る。

注13 注11に同じ。

注14 注5に同じ。

注15 「林羅山編著『幽霊之事』」。水野稔編『近世文学論叢』(平成4年3月30日)所収。

注16 注12に同じ。

注17 「怪談全書・奇異雑談集についての疑問」。『文学論叢』特輯号、(昭和32年3月)『長澤規矩也著作集』第五巻(昭和60年2月15日)に収録。

注18 注5に同じ。

注19 注12に同じ。

注20 注12に同じ。

 

 付  記

 この度の調査に際し、大阪府立中之島図書館、香川大学附属図書館、学習院大学日本語日本文学科研究室、京都大学附属図香館、宮内庁書陵部、国文学研究資料館、国立国会図書館、島原市立図書館、天理図書館、東洋大学附属図書館、都立中央図書館、長澤孝三氏、龍谷大学大宮図書館、早稲田大学図書館の御高配を賜りました。

 長澤規矩也、中村幸彦両博士の御論文は多く引用させて頂きましたが、なお、不十分な引用になっているのではないかと心配です。是非、両博士の著作集・著述集を参看して頂きたく、お願い致します。太刀川清氏の御論考にも教えられる点が少なくありませんでした。

 朝倉治彦、長澤孝三両氏には、調査過程で具体的な御指導を賜りました。

 以上の諸機関、諸先生に対し、心からの感謝と御礼を申し上げます。

 なお、未調査本も何点か残っておりますので、今後、それらの調査を続け、さらに考えを深めてゆきたいと念じております。

(平成5年8月20日)

(『近世初期文芸』第10号 平成5年12月20日発行 に掲載)

ァ愆嫣陝戮僚本
 『鑑草』の諸本については『仮名草子集成』第十四巻(平成5年11月20日発行)の解題で報告したことがある。ただ、そこでは紙幅の関係から、調査結果の全てを述べることか出来なかった。その後の調査をも加えて、改めて報告し、考察を加えたいと思う。

 『鑑草』を初めて翻刻刊行したのは『武家時代女学叢書・第一編』(梅沢精一校注・編纂、明治39年1月1日、有楽社発行)であるが、梅沢氏は、その解題中で、

 「本書は正保四年の初版(寛文九年再刻)なるが、世誤りて寛文本を初版と為す。家綱公の時古列女伝(承応三年)仮名列女伝(明暦元年)和訳女四書(同二年)女訓抄(万治元年)女郎花物語、本朝列女伝(寛文八年)等続々刊行せられたるが多くは伝記物なりき。本書の再刻は如上の諸書に後れしかども、其の創作の時日は、かへりて諸書の出版に先き立つ。……」

 と述べておられる。

 大正三年一月発行の『中江藤樹文集』(有朋堂文庫、三浦理編、武笠三校訂)、大正三年四月発行の『婦人文庫・教訓』(婦人文庫刊行会、芳賀矢一他編)には、いずれも原本に関する解説は無い。

 昭和三年、藤樹書院発行の『藤樹先生全集』第三冊・倭文心学成書二、の高橋俊乗氏の解説に、最初の詳細な報告を見る事ができる。この全集は、その後、昭和十五年二月二十五日、増訂版として岩波書店から発行されている。今、その増訂版に拠って紹介する。

 高橋氏は、『藤樹先生全集』刊行以前に出版された、右の三翻刻について次の如く述べておられる。

 「明治以後活版本の翻刻は凡て三種あり。一つは有朋堂文庫の「中江藤樹文集」中にあるものにして、大正三年一月の発行にかゝる。その底本は何版によりしか不明なれど、原本の振仮名を保存し、新に句読点を施して印刷せり。誤植は稀なり。頭註を加へたり。

 第二は婦人文庫の「教訓」の篇に、「女大学」「女四書」「夜の訓抄」と共に採取せるものにして、大正三年四月の発行にかゝる。誤植多し。又頭註を加えたれども、それにも誤と認めらるゝもの多きやうなるは惜しむべし。

 第三は「武家時代女学叢書」第一巻中にあるものにして、梅沢精一氏の編する所なり。振仮名を存し、句読点を加へ、頭註を施したり。明治三十八年発行。正保四年版に依れるものゝ如し。誤植多く、註の誤も間々存せり。」

 古典翻刻の場合の先後関係と、ミスの有無、多少に関わることで、考えさせられる記述である。高橋氏は、続いて諸本に関し、次の如く記しておられる。

 

 「次に鑑草の版本について述べんとす。江戸時代の整版印刷に少くとも次の六回あり。

  第一は翁問答の条に既述せる如く、正保四年版にして、それ以前翁問答を私に出版せんとせしを、先生が中止せしめし為、出版元の失費の償として、鐘草を発行せしめられし際のものなり。六巻六冊に分たる。各頁十一行。一行の字数不定。句読点は極めて稀に、全巻中に三四ヶ所だけ、●《破線による句点》のみを句点として、読みにくき所に附したる外、すべて之を施さず。振仮名あり。

  第六冊の終りに次の奥書あり。

   正保丁亥暦仲秋

   風月宗知刊行

  次に万治二年己亥の出版あり。正保版に後るゝ事、実に十二年なり。印刷の体裁は正保版と全く同一なり。板木も同一のものを用ひたるかと思はるゝほどなり。その発行所について、第六冊の終に次の如き奥書あり。

   万治二年(ママ)

    戌九月吉日(ママ)

       伊吹権兵衛開版(ママ)

  此の他に発行年及び発行所について、奥書を記さゞれど、右二版と全く同一の出版を見ることあり。之を仮りに第三に数ふ。

  第四は更に下つて天明元年発行のものあり。正保より百三十一年後に当る。これは巻之一と二を第一冊に、巻之三と四を第二冊に、巻之五と六を第三冊に綴りたる合計三冊の本なり。前記六冊本は表紙題簽には書名の下に「巻之一孝逆之報」といふ如く、巻数と巻名を併せ記したれども、天明版は只書名のみを記す。印刷は正保版と同じ頁と、全く新しく刻しかへたる頁と混在せり。磨滅せる部分を新しく改刻せしものなるべし。改刻せる頁も行数は同じけれども、文字の配置を異にし書風をも異にせり。奥書は次の如し。

  天明元辛丑歳十一月求板   尾張屋勘兵衛

          二条通柳馬場西エ入町

              八文字屋庄兵衛

     書 林  麩屋町姉小路上ル町

              近江屋治郎吉

     弘 所  松原通柳馬場東エ入町

              炭屋勘兵衛

          堀川通高辻下ル町

              炭 屋 文 蔵

  求板とあるは、古き板木を購入したることなるべし。尚右売捌店の地名は凡べて京都市内なり。

  以上四種は多少の差ありとするも、要するに同一系統の板木を用ひたるものなり。然るに先生死後二十七年、正保版に後るゝ二十八年、延宝三年に出版されたるは全く別種の板木を用ひたり。本文の周囲に一枚通して単線の枠を施し、一頁十二行、一行の字数も正保版よりやゝ多し。振仮名を施せども、句読点なきことは正保版に同じ。殊に著しき差異は、評の部分を、一頁十八行とし、一行の字数は十二行に書ける本文の一行の字数の約一倍半となせり。かくして節約し得たる紙面を利用して、一頁大の挿絵を殆ど凡ての例話ごとに、加へたり。……中略……

  尚この外に寛文九年即ち先生没後二十一年に発行せるものある由にて、佐村氏国書解題その他にも寛文版の記事見えたれども、余は不幸にして、未だ実物を見ず。よつて詳記を避く。

  以上少くとも、江戸時代に、右六度発行されたるを以て見ても、本書の大いに普及したるを知るに足るべし。」

 

 昭和十四年発行の、岩波文庫『鑑草』(昭和14年4月17日初版発行、平成2年第4刷)の校注者・加藤盛一氏は、右の高橋俊乗氏と共に『藤樹先生全集』の編纂に携わっており、したがって、諸本についての記述も、ほぽ高橋氏のものと同様である。

 

 「鑑草の古版本で筆者の知り得たものに数種ある。

   正保四年本………六冊

   万治二年本………六冊

   寛文九年絵入本…六冊〔京大図書館にあるもの、書名カードに寛文九年刊巻六欠本としてある。他の五冊について見るも寛文九年本といふ刊記は見えぬ。何によつて刊記を定めたかは不明である。〕

   延宝三年絵入本…六冊〔第六冊の末尾に延宝三乙卯年の刊記が見えてゐる。〕

   年紀不明本………六冊〔筆者蔵有のものは後に二冊に改装したものである。従つて表紙題簽にも上冊は巻之一孝逆報とのみ見え、二三と墨書して巻数を追記し、下冊も巻之四教子報とのみ見え、五六と墨書して巻数の辻棲を併せてゐる。〕

   天明元年本………三冊

 等である。是を大別すると(一)正保四年本と其の系統を引いた万治二年本と年紀不明本と天明元年本 (二)寛文九年絵入本と延宝三年絵入本との二種である。正保四年本は初版本である。翁問答の如く後に藤樹の改訂がないから又定稿本と見て差支ない。〔本書は此の本を底本にとつた。………〕」

 

 その後、『家政学文献集成・続編・江戸期・后戞陛鎮罎舛浸辧ε鎮羹乕彿圈⊂赦44年3月15日、渡辺書店発行)に、正保四年版の複製が収録されたが、諸本に関する新しい見解は示されていない。青山忠一氏は、『仮名草子女訓文芸の研究』(昭和57年2月1日、桜楓社発行)において、正保四年版(東大本)、天明元年版(東大本)、寛文九年版(国会本)の三本の書誌を記されている。

 

 

 以上の報告をふまえ、実地に調査した結果、この作品の諸本は、現在のところ、正保四年版系統と延宝三年版絵入本系統の二つは大別され、それらは、さらに版次・刷次によって次の如く分けることができる。

 

   【一】 正保四年版系統

〔1〕正保四年風月宗知版

  |羚焼樹記念館・A

  謙堂文庫(石川謙氏旧蔵・石川松太郎氏蔵)

  C淒搬膤愎渊餞

  づ豕大学図書館・A

  ヅ豕大学図書館・B

  γ羚焼樹記念館・B

   ▲初智艸堂文庫(田中初夫氏蔵、未見)

〔2〕万治二年伊吹権兵衛求版

  |羚焼樹記念館・A

  中江藤樹記念館・B

  C羚焼樹記念館・C

〔3〕 寛文九年西沢太兵衛求版

  々餡饋渊餞

   ▲岐阜市立図書館(未見)

〔4〕 天明元年尾張屋勘兵衛求版

  ‥豕大学図書館

  ∩甍霤賃膤愎渊餞

〔5〕 無刊記版

  |羚焼樹記念館

  京都大学図書館

  9餡饋渊餞

  ず寛貘膤愎渊餞曄小城鍋島文庫

  ヅ堽中央図書館・井上文庫

  ε堽中央図書館・東京誌料

  福島県立図書館

〔6〕 寛政元年松村九兵衛等求版

   々餡饋渊餞

 

 【二】 延宝三年版絵入本系統

〔1〕 延宝三年福森・村田版

  ゝ都大学図書館

  △茶の水図書館・成簣堂文庫

  9駟験惴Φ羯駑全

  っ羚焼樹記念館

〔2〕 無刊年記福森・村田版

  ‖膾綵子大学図書館

  香川大学図書館・神原文庫

〔3〕 無刊記植村求版

  ゞ眤大学図書館

〔4〕 無刊記版

  ヽ惱院大学図書館

   ▲岐阜市立図書館(未見)

〔5〕 その他

  ゝ都大学文学部

  中江藤樹記念館・A

  C羚焼樹記念館・B

  っ羚焼樹記念館・C

 ◎  写本

 \轍兎科幻

 

 

 以下、諸本の書誌を記し、考察を加えたいと思うが、同一版木の場合、一本についてのみ版式を詳しく記し、他は、これと異なる点を記すに止めたい。

 

 

【一】 正保四年版系統

 

〔1〕 正保四年風月宗知版

 

 |羚焼樹記念館蔵・A 癸后■坑隠院腺坑隠供癖神4年3月19日調査)。

体裁 大本、六巻六冊、袋綴じ。

表紙 麻の葉地紋、牡丹模様藍色原表紙、縦二七四ミリ×横一八五ミリ(巻一)。

題簽 左肩に枠なしの原題簽。縦一七五ミリ×横三五ミリ(巻二)。

  巻一の上部、下部に破損あり。

  「(破損)草 巻之一/孝逆報」

  「鑑草 巻之二/守節背夫報」

  「鑑草 巻之三/不嫉妬毒報」

  「鑑草 巻之四/教子報」

  「鑑草 巻之五/慈残仁虐報」

  「鑑草 巻之六/淑睦廉貪報」

目録題・目録尾題 なし。

内題 各巻本文の前に次の如くあるが、巻五のみ草書体。

  「鑑草巻之一」

  「鑑草巻之二(〜六)」

序題・尾題 なし。

匡郭 なし。一行の字の高さは、序…二二四ミリ(巻一、1丁オ1行目)。本文…二一九ミリ(巻一、6丁オ3行目)。例話の文頭の「〇」印は、それより上に付す。批評の部分は一字下げ。

柱刻 版心は白口で界線なし。上部に書名・巻数、下部に丁付。

  「鑑草巻之一 一(〜三十七)」。

  「鑑草巻之二 一(〜三十)」。

  「鑑草巻之三 一(〜二十四)」。

  「鑑草巻之四 一(〜十五)」。

  「鑑草巻之五 一(〜三十四)」。

  「鑑草巻之六 一(〜十七)」。

丁数 巻一…三十七丁(内、序五丁)。

   巻二…三十丁。

   巻三…二十四丁。

   巻四…十五丁。

   巻五…三十四丁

   巻六…十七丁(2丁目落丁)。

   合計…一五七丁(実丁数は、六の2丁落丁故、一五六丁)。

行数 序・本文とも、毎半葉十一行。

字数 一行、序は約二十二字、本文は約二十三字で、批評の部分は一字下げ。例話の文頭に「〇」印を付す。

例話 巻一… 十話。

   巻二…十三話。

   巻三… 九話。

   巻四… 七話。

   巻五…十五話。

   巻六… 六話

本文 漢字交り平仮名。振り仮名・濁点を施す。句読点は、まれに「。」を施す(巻四の3丁ウ2行目、10丁ウ8行目、10行目、巻六の10丁オ7行目、15丁ウ10行目など)。

挿絵 なし。

序  巻一の一丁〜五丁に藤樹の自序があるが、年記はない。

跋  なし。

刊記 巻六の十七丁ウに、

  「正保丁亥暦仲秋

   風月宗知刊行」

蔵書印等 「藤樹書院」陽刻方形朱印(三〇ミリ×三〇ミリ)。「中江文庫」陽刻長方形朱印(縦四一ミリ×横一一ミリ)。「高島郡教育会藤蔭文庫/分類号=記(乙藤樹研究)/図書番号=盒紂進篏芝月日= 年 月 日/備考=九一一(〜六)」の青ラベル。「藤樹展出品物/第24号/品名=鑑草/種別=本/所有者/住所=  氏名=藤樹書院」のガリ版青ラベル。各巻前見返しに「江見氏」と墨書。巻三の一丁〜七丁オまで、匡郭の如く、卦を書き入れている。

その他 巻六の二丁目落丁。

 

 ◆仝堂文庫蔵(石川謙氏旧蔵・石川松太郎氏蔵) シ・1/1・22a(〜f)/2554(〜2559) (平成5年2月14日調査)

体裁 大本、六巻六冊、袋綴じ。

表紙 藍色原表紙、縦二七二ミリ×横一八二ミリ(巻一)。

題簽 左肩に枠なしの原題簽。縦一七〇ミリ×横三五ミリ(巻一)。

  この題簽は、中江藤樹記念館・A本と異なる。

  「鑑草 巻之一/孝逆報」

  「鑑草 巻之二/守節背夫報」

  「鑑草 巻之三/不嫉妬毒報」

  「鑑草 巻之四/教子報」

  「鑑草 巻之五/慈残報仁虐報」

  「鑑草 巻之六/淑睦報廉貪報」

匡郭 なし。一行の字の高さは、序…二二二ミリ(巻一、1丁オ1行目)。本文…二一八ミリ(巻一、6丁オ3行目)。

柱刻 中江藤樹記念館・A本と同様であるが、次の点が異なる。

  巻一の五丁目…なし。

  巻二の三十丁目…なし。

蔵書印等 「石川謙蔵書」陽刻方形朱印(二二ミリ×二二ミリ)。

  「部類= /番号= /石川蔵」の黒ラベル。「シ・1/1・22a(〜f)/2554(〜2559)」の赤ラベル。白紙添付、次の如くペン書あり。「Title:Kagamigusa./Text book for moral showing the second steps of Chinese influence. /Contents are the biographics of famous Chinese women. /Present edition printet 1647.」

 

  筑波大学附属図書館蔵 ロ580/63(平成4年2月18日調査)

体裁 大本、六巻三冊、袋綴じ。

  第一冊目…巻一、巻二。

  第二冊目…巻三、巻四。

  第三冊目…巻五、巻六。

  六巻六冊のものを、後に三冊に合冊したものと思われる。

表紙 市松模様水浅葱色原表紙、縦二七五ミリ×横一七五ミリ(1冊目)。

題簽 左肩に枠なしの原題簽。縦一八一ミリ×横三四ミリ(1冊目)。

  「鑑草 上 一二」

  「鑑草 中 三四」

  「鑑草 下 五六」

  「鑑草」以外は墨書。中江藤樹記念館蔵、万治二年版・A本と同様の題簽である。

匡郭 なし。一行の字の高さは、序…二二〇ミリ(巻一、1丁オ1行目)。本文…二一八ミリ(巻一、6丁オ3行目)。

柱刻 中江藤樹記念館・A本と同様であるが、次の点が異なる。

  巻一の五丁目…入木のようである。

  巻二の三十丁目…なし。

  巻四の十五丁目…なし。

蔵書印等 一冊目、前見返しに次の墨書あり。「○此書ハ熊沢了芥先生/之師匠中江藤樹先生/之作にして江戸の□朴/翁が雑長持といふ物に/も称美しおける書なり」一冊目前表紙に白紙を貼付、墨書にて「教古千弐百三十七」「や弐百五拾七」とあり。また、白紙に「経」と朱書。「第五二六三号/三冊」の黒ラベル。「ロ580/63」の黒ラベル。

 

 ぁ‥豕大学総合図書館蔵・A B40/1551(平成4年1月17日調査)

体裁 大本、六巻一冊、袋綴じ。

  六巻六冊のものを一冊に合冊したものと思われる。

表紙 薄黄橙色後補表紙、縦二七三ミリ×横一八〇ミリ。

題簽 なし。左肩に墨書にて、次の如くあり。

  「鑑草 全」

匡郭 なし。一行の字の高さは、序…二二三ミリ(巻一、1丁オ1行目)。本文…二二〇ミリ(巻一、6丁オ3行目)。

柱刻 中江藤樹記念館・A本と同様であるが、次の点が異なる。

  巻一の五丁目…なし。

蔵書印等 巻六の刊記の前に「慶安二暦/雲梯子」と墨書、その下に「雲梯」陽刻陰刻混合方形黒印(三四・五ミリ×三四・五ミリ)。「東京帝国大学図書印」陽刻方形朱印(縦五九ミリ×横五八ミリ)。前見返しの左上に「鏡草善悪書」と墨書。上小口に「自一到六鑑草」「鑑草自一到六」と墨書。背に「鑑草自一到六」と墨書。「B15119」の青スタンプ。「B40/1551」と鉛筆書き。「B40/1551」の赤ラベル。

その他 巻一の一丁〜四丁、巻六の十七丁は総裏打ちしてある。

刊記の部分の下に欠損あり。

 

ァ‥豕大学総合図書館蔵・B B40/448(平成4年1月17日調査)

体裁 大本、六巻六冊、袋綴じ。保護表紙にて一冊に合綴。

表紙 水色表紙、縦二七四ミリ×横一七七ミリ。

題簽 なし。左肩の題簽剥落の跡に墨書にて、「鑑草 」「鑑草 二」「かゝミ草 三」「かゝミ艸 四(〜六)」とあり。

柱刻 中江藤樹記念館・A本と同様であるが、次の点が異なる。

  巻一の五丁目…なし。

  巻二の三十丁目…なし。

  巻四の十五丁目…なし。

蔵書印等 「伊地知峻蔵書」陽刻方形朱印(縦三二ミリ×横三二・五ミリ)。「公鑑/預托南洲祠堂/大正丁巳之歳/伊地知峻」陽刻長方形朱印(縦六一ミリ×横三九ミリ)。「寄贈/大正拾参年弐月九日/伊地知峻氏」紫スタンプ。「東京帝国大学図書印」陽刻方形朱印(縦五九ミリ×横五八ミリ)。「第六百五十四番/全六冊/第一(〜六)」の黒ラベル。「B5690」の青スタンプ。「B40/448」の赤ラベル。巻一の前見返しに「中江藤樹先生著述/全部六冊」と墨書。

その他 巻五の三十三丁目が重複している。一冊に合綴する時「一、三、四、二、五、六」と順序を誤っている。

 

 Α|羚焼樹記念館蔵・B 112/14/1(〜3)(平成4年3月19日調査)

体裁 大本、六巻三冊、袋綴じ。

  第一冊目…天(巻一、巻二)。

  第二冊目…地(巻三、巻四)。

  第三冊目…人(巻五、巻六)。

表紙 万字つなぎ牡丹唐草模様水浅葱色表紙、縦二八四ミリ×横一七七ミリ(1冊目)。

題簽 なし。左肩に書題簽、縦二〇三ミリ×横三六ミリ(1冊目)。

  「鑑草 /孝逆報/守節背夫報/ 天」

  「鑑草 /不嫉妬毒報/教子報/ 地」

  「鑑草 /慈残報/仁虐報/淑睦報 廉貪報/ 人」

尾題 各巻の末に墨書にて、

  「鑑草巻之一(二、三、五)終」

  「鑑草巻之六大尾」

  巻四は、柱刻「鑑草巻之四」に「終」を墨にて加筆している。

匡郭 なし。一行の字の高さは、序…二二一ミリ(巻一、1丁オ1行目)。本文…二一七ミリ(巻一、6丁オ3行目)。

柱刻 中江藤樹記念館・A本と同様であるが、次の点が異なる。

  巻一の五丁目…なし。

  巻二の三十丁目…なし。

蔵害印等 「志村譲印」陽刻方形朱印(一七ミリ×一七ミリ)。「藤樹書院教授」陰刻方形朱印(一七ミリ×一七ミリ)。「滋賀県高島郡安曇川町木村光徳文庫之印」陽刻方形朱印(三〇ミリ×三〇ミリ)。一冊目巻頭に遊紙三枚あり、その一枚目表に墨書にて次の如くある。「此鑑草三巻壱部ハ藤樹先生の/著述にして友人高島郡小川村志村/倹蔵兄乃愛蔵自注にかゝるものな/れとも予にこれを恵贈せられたり/時ハ明治九年十月上浣也□□識」巻六の末尾に遊紙一枚あり、その表に墨書にて「鑑草六巻ハ藤樹中江先生の著し給へる也すへて仮名文の書には其著せる人の名氏を挙ざるか古来/よりの定例也世継栄花大鏡小鏡増鏡徒然草其他かす/\の書とも皆然り」とあり、次の紙に「明治元年戊辰二月 志村倹蔵譲しるす/時六十五歳」とある。「志村蔵書」と朱書。本文中に朱引き、朱点を付し、上欄に朱の注を加えている。「112/14/1(2、3)」の赤ラベル。

 

▲  初智艸堂文庫蔵(田中直日氏蔵) 未見。

  『家政学文献集成・続編・江戸期・后戞陛鎮罎舛浸辧ε鎮羹乕彿圈⊂赦44年3月15日、渡辺書店発行)に全冊複製されている。底本に使用した原本は、現在、田中直日氏が所蔵されており、諸種の事情から閲覧し得なかった。

 

〔2〕万治二年伊吹権兵衛求版

 

 |羚焼樹記念館蔵・A 藤樹書院陳列本(平成4年3月19日調査)

体裁 大本、六巻六冊、袋綴じ。

表紙 万字つなぎ牡丹唐草模様丹色原表紙、縦二七一ミリ×横一七八ミリ(巻一)。

題簽 左肩に枠なしの原題簽。縦一八三ミリ×横三六ミリ(巻一。用紙が非常に簿く、表紙の丹色が透けて見える。

  「鑑草 巻之一/孝逆報」

  「鑑草 巻之二/守節背夫報」

  「鑑草 巻之三/不嫉妬毒報」

  「鑑草 巻之四/教子報」

  「鑑草 巻之五/慈残報仁虐報」

  「鑑草 巻之六/淑睦報廉貪報」

匡郭 なし。一行の字の高さは、序…二二一ミリ(巻一、1丁オ1行目)。本文…二一六ミリ(巻一、6丁オ3行目)。

柱刻 正保四年版、中江藤樹記念館・A本と同様であるが、次の点が異なる。

  巻一の五丁目…なし。

  巻二の三十丁目…なし。

  巻五の三十三丁目…「三十二」と「三」が欠けている。

刊記 巻六の十七丁ウに、次の如く入木されている。

  「万治弐年

   戊九月吉日

      伊吹権兵衛開板」

蔵書印等 「井岡邑渡辺蔵」陽刻長方形朱印(縦三三ミリ×横二一・五ミリ)。「藤樹書院」陽刻方形朱印(三一ミリ×三一ミリ)。巻二〜巻六の前表紙に白紙を貼付し「騰」と墨書。各巻題簽の右に次の如く墨書。

  巻一…「藤樹先生全集原稿/第三冊ノ六」

  巻二…「藤樹先生全集原稿/第三冊ノ七」

  巻三…「藤樹先生全集原稿/第三冊ノ八」

  巻四…「藤樹先生全集原稿/第三冊ノ九」

  巻五…「藤樹先生全集原稿/第三冊ノ十」

  巻六…「藤樹先生全集原稿/第三冊ノ十一」

  各巻前見返し(巻六のみ1丁オ)に、次の如く朱筆の書き入れがあり、印刷のポイント指定がある。

  巻一…「藤樹先生全集 巻之二十七」

  巻二…「藤樹先生全集 巻之二十八」

  巻三…「藤樹先生全集 巻之二十九」

  巻四…「藤樹先生全集 巻之三十」

  巻五…「藤樹先生全集 巻之三十L

  巻六…「藤樹先生全集 巻之三十二」

  本文には、朱筆にて、濁点、句読点を付加している。また、内題等に印刷のポイント指定を施し、語注と思われる紙片を付す。

 

 ◆|羚焼樹記念館蔵・B 収蔵庫本(平成4年3月19日調査)

体裁 大本、六巻二冊、袋綴じ。

  第一冊目…巻一、巻二、巻三。

  第二冊目…巻四、巻五、巻六。

  六巻六冊のものを、後に二冊に合冊したものと思われる。

表紙 万字つなぎ壮丹唐草模様黒色原表紙、縦二七〇ミリ×横一七九ミリ(1冊目)。

題簽 左肩に枠なし原題簽。縦一八二ミリ×横三七ミリ(1冊目)。

  「鑑草 巻之一二三」(一二三」は墨書)

  「鑑草 巻之四五六」(「五六」は墨書)

  二冊目は巻四のものを使い、一冊目は他のいずれかの巻の題簽を使用したものと思われる。

匡郭 なし。一行の字の高さは、序…二二〇ミリ(巻一、1丁オ1行目)。本文…二一六ミリ(巻一、6丁オ3行目)。

柱刻 正保四年版、中江藤樹記念館・A本と同様であるが、次の点が異なる。

  巻一の五丁目…「鑑草巻之一」のみが極めて薄く出ている。

  巻二の三十丁目…極めて薄く出ている。

  巻四の十五丁目…極めて薄く出ている。これらは入木か。

  巻五の三十三丁目……「三十二」と「三」が欠けている。

刊記 中江藤樹記念館・A本と同様に入木されている。

蔵書印等 「藤樹書院」陽刻方形朱印(三一ミリ×三一ミリ)。「中江文庫」陽刻長方形朱印(縦三一ミリ×横一一ミリ)。「高島郡教育会藤蔭文庫/分類号=記(乙藤樹研究)/図書番号=盻宗進篏芝月日= 年 月 日/備考=十〜一(二)」の青ラベル。

その他 巻五の二十九丁が落丁。

 

  中江藤樹記念館蔵・C 収蔵庫本(平成4年3月20日調査)

体裁 大本、六巻六冊、袋綴じ。

表紙 茶白色格子縞表紙、縦二六三ミリ×横一七五ミリ(巻一)。

題簽 巻三のみ、左肩に後補題簽。子持枠のみ刷りで、文字は墨書。縦一八三ミリ×横三五ミリ。(他の巻は剥落の跡のみ。)

  「かゝ美くさ 三」

匡郭 なし。一行の字の高さは、序…二二〇ミリ(巻一、1丁オ1行目)。本文…二一七ミリ(巻一、6丁オ3行目)。

柱刻 正保四年版、中江藤樹記念館・A本と同様であるが、次の点が異なる。

  巻一の五丁目…なし。

  巻二の三十丁目…なし。

  巻五の三十三丁目…「三十二」と「三」が欠けている。

刊記 中江藤樹記念館・A本と同様に入木されている。

蔵書印等 「徳本堂」陽刻長方形朱印(縦三九ミリ×横一五ミリ)。「アノヤ」陽刻長円形黒印(縦二八ミリ×横一六ミリ)。「藤樹図書館」陽刻方形朱印(四五ミリ×四五ミリ)。「藤樹書印」陽刻方形朱印(三〇ミリ×三〇ミリ)。

その他 巻三の二十四丁落丁。巻五の十七丁の下部裏打ち補修。

 

〔3〕 寛文九年西沢太兵衛求版

 

  々餡饋渊餞杪◆。隠械供殖隠沓掘癖神4年1月24日調査)

体裁 大本、六巻六冊、袋綴じ。

表紙 万字つなぎ牡丹唐草模様灰墨色原表紙、ただし、巻一の前表のみ濃藍色、縦二六四ミリ×横一七六ミリ(巻一)。さらに二冊ずつ合綴し、三分冊として、国会図書館の保護表紙(薄黄橙色)を付す。

題簽 左肩に子持枠原題簽。縦一七二ミリ×横三五ミリ(巻一)。

  「鑑草一/孝逆報」

  「鑑草 二/守節背夫報」

  「鑑草 三/不嫉妬毒報」

  「鑑草 四/教子報」

  「鑑草 五/慈残報仁虐報」

  「鑑草 六/淑睦報廉貪報」

  保護表紙には、左肩に子持枠題簽で文字は墨書、

  「鑑草一/(二、三止)」

序題 巻一、一丁オに「鑑草之序」とある。

内題 正保四年版、中江藤樹記念館・A本と同様であるが、巻二のみ、なし。

匡郭 なし。一行の字の高さは、序…二一八ミリ(巻一、1丁オ1行目)。本文…二一九ミリ(巻一、6丁オ3行目)。

柱刻 正保四年版、中江藤樹記念館・A本と同様であるが、次の点が異なる。

巻一…「鑑草一 一(二、三、四ノ五)」

   「鑑草巻之一 六(〜三十七)」

   これは、巻一の一丁〜五丁までを改刻したためである。

丁数 巻一…三十六丁(内、序四丁)。

      他は、正保四年版、中江藤樹記念館・A本と同じ。

刊記 巻六の十七丁オに、次の如く入木されている。

  「寛文九巳酉稔孟春吉日(ママ)

     西沢太兵衛板行」

蔵書印等 「東京書籍館/明治五年/文部省創立/TOKYO LIBRARY/FOUNDED BY MOMBUSHO 1872」陽刻円形朱印(径四九ミリ)。「明治九年文部省交付」陽刻長方形朱印(縦五〇ミリ×横一五・五ミリ)。「東京図書館/和書門/教訓類/一四函/一〇架/二八号/六冊」の黒ラベル。上記ラベルを「東京図書館/和書門/一三六函/四架/一七七号/六冊」と朱で訂正。「136/6177」の青ラベル。

その他 巻一の一丁〜五丁を改刻している。巻五の三十二丁重複。巻二の一丁に朱の罫紙が間紙のように入っている。

 

 ▲ 岐阜市立図書館・取合本 15/91/1(3、4A)(国文学研究資料館、マイクロフィルムに拠る。未見)

  延宝三年版絵入本との取合本である。巻二、巻五、巻六の三巻を存し、刊記は、国会本と同様である。

 

〔4〕 天明元年尾張屋勘兵衛求版

 

 ‥豕大学総合図書館蔵・青洲文庫 B40/55(平成4年1月17日調査)

体裁 大本、六巻三冊、袋綴じ。

  巻之上…巻一、巻二。

  巻之中…巻三、巻四。

  巻之下…巻五、巻六。

表紙 薄浅葱色原表紙、縦二五五ミリ×横一八〇ミリ(巻上)。

題簽 左肩に子持枠原題簽、縦一六二ミリ×横三七ミリ(巻上)。

  「鑑艸 巻之上(中、下)」

序題 巻一、一丁表に「鑑草之序」とある。

内題 正保四年版、中江藤樹記念館・A本と同様であるが、巻二のみ、なし。

匡郭 なし。

柱刻 正保四年版、中江藤樹記念館・A本と同様であるが、次の点が異なる。

  巻一…「鑑草一 一(二、三、四ノ五)」

     「鑑草巻ノ一 六(三十七)」

  巻五…「鑑草巻之五 一(〜二十四、二十五六、二十七〜三十四、二十六)」

     25丁ウ11行目(最後の行)の傍線部分の15字を削除。

       (HTML版では太字で示す)

     26丁を34丁の後に移している。

  巻六…「鑑草巻之六 一(〜四、五ノ六、七〜十七)」

     5丁ウ11行目の傍線部分の8字を削除。

       (HTML版では太字で示す)

     「行にあらすと云ことなし夫は妻の云なしに」

     6丁目を削除している。

丁数 巻一…三十六丁(内、序四丁)。

   巻六…十六丁(6丁目を削除)。

      他は、正保四年版、中江藤樹記念館・A本と同じ。

刊記 巻六の十七丁(実は十六丁)ウに、

  「天明元年丑歳十一月求板   尾張屋勘兵衛

          二条通柳馬場西江入町

                 八文字屋庄兵衛

     書 林  麩屋町姉小路上ル町

                 近江屋治郎吉

     弘 所  松原通柳馬場東エ入町

                 炭屋勘兵衛

          堀川通高辻下ル町

                 炭 屋 文 蔵」

蔵書印等 「青洲文庫」子持枠陽刻長方形朱印(縦五三ミリ×横一八ミリ)。「東京帝国大学図書館印」陽刻方形朱印(五八ミリ×五八ミリ)。「B7874」の青スタンプ。「B40/55」の赤ラベル。

その他 巻一の六丁〜八丁を改刻している。

 

 ◆〜甍霤賃膤愧羆図書館蔵 ロ9/617/1(〜3)(平成4年8月3日調査)

体裁 大本、六巻三冊、袋綴じ。

  第一冊目…巻一、巻二。

  第二冊目…巻三、巻四。

  第三冊目…巻五、巻六。

表紙 松皮菱模様海老茶色原表紙、縦二六〇ミリ×横一八三ミリ(1冊目)。

題簽 左肩に子持枠原題簽、縦一七七ミリ×横三七ミリ(2冊目)。

  一冊目の上部に補修あり。

  「鑑草 一二(三四、五)」「一二、三四、五」は墨書。同版の題簽に巻数のみを書いたものと思われる。「五」は「五六」とあるべきところ。

序題・内題 天明元年版、東大本と同様。

匡郭 なし。一行の字の高さは、序…二一三ミリ(巻一、1丁オ1行目)。本文…二〇五ミリ(巻一、6丁オ1行目)。

柱刻 天明元年版、東大本と同様であるが、次の点が異なる。

  巻五…丁付が「一(〜二十四、二十五六、二十六、二十七〜三十四」とあり、26丁を「二十五六」の後に入れている。

  巻六…丁付が「一(〜四、五ノ六、□、七〜十七)」とあり、6丁目を丁付なしで「五ノ六」の後に入れている。

丁数 巻一…三十六丁(内、序四丁)。

      他は、正保四年版、中江藤樹記念館・A本と同じ。

刊記 天明元年版、東大本と同様。

蔵書印等 「上州/イセサキ/小暮」陽刻長方形黒印(縦一八ミリ×横一三ミリ)。「上州《刀が三つの異体字》/伊勢崎/新町店/久小暮」陽刻円形黒印(径三三ミリ)。「明治三十八年/六月一九日/購求」陽刻長方形朱印(数字はペン書き、縦三八ミリ×横一四ミリ)。「早稲田大学図書」陽刻方形朱印(三〇ミリ×三〇ミリ)。「ロ9/617/1(〜3止)」の水色ラベル。

その他 巻一の三十二丁と三十三丁が乱丁。巻一の七丁ウ、巻二の一丁オ、巻四の三丁ウ、巻五の九丁ウ、巻六の十五丁ウに欠字がある。

 

〔5〕無刊記版

 

  |羚焼樹記念館蔵 11/11〜1(〜6)(平成4年3月19日調査)

体裁 大本、六巻六冊、袋綴じ。

表紙 万字つなぎ牡丹唐草模様丹色原表紙、縦二七八ミリ×横一八〇ミリ(巻一)。

題簽 左肩に枠なしの原題簽。縦一八六ミリ×横三五ミリ(巻二)。各巻、部分的に摩損している。

  「鑑草 巻之一/孝逆報」

  「鑑草 巻之二/守節背夫報」

  「鑑草 巻之三/不嫉妬毒報」

  「鑑草 巻之四/教子報」

  「鑑草 巻之五/慈残報仁虐報」

  「鑑草 巻之六/淑睦報廉貪報」

内題 正保四年版、中江藤樹記念館・A本と同様。

匡郭 なし。一行の字の高さは、序…二二二ミリ(巻一、1丁オ1行目)。本文…二一六ミリ(巻一、6丁オ3行目)。

柱刻 正保四年版、中江藤樹記念館・A本と同様であるが、次の点が異なる。

  巻一の五丁目…なし。

  巻六の六丁目…なし。

刊記なし。

蔵書印等 「藤蔭」陽刻方形朱印(二五ミリ×二五ミリ)。「藤樹書院」陽刻方形朱印(三〇ミリ×三〇ミリ)。「藤樹□□」陰刻長方形朱印(縦二四ミリ×横一八ミリ)。「高島郡教育会藤蔭文庫/分類号=記(乙藤樹研究)/図書番号=盻衆譟進篏芝月日= 年 月 日/備考=十一〜一(〜六)」の青ラベル。

その他 巻六は総裏打ちされている。

 

 ◆ゝ都大学附属図書館蔵 185/カ1(平成4年3月18日調査)

体裁 大本、六巻二冊、袋綴じ。

  第一冊目…巻一、老二、巻三。

  第二冊目…巻四、巻五、巻六。

表紙 万字つなぎ牡丹唐草模様丹色原表紙、縦二七〇ミリ×横一七二ミリ(1冊目)。

題簽 中央よりやや左寄り上部に後補書題簽。縦一七〇ミリ×横三五ミリ(1冊目)。

  「中江藤樹先生著/鑑草/孝逆報」

  「中江藤樹先生著 /鑑草/二/守節背夫報」

  一冊目は巻一のものを、二冊目は巻二のものを墨書して合綴したものと思われる。

匡郭 なし。一行の字の高さは、序…二二〇ミリ(巻一、1丁オ1行目)。本文…二一四ミリ(巻一、6丁オ1行目)。

柱刻 正保四年版、中江藤樹記念館・A本と同様であるが、次の点が異なる。

  巻一の五丁目…なし。

  巻二の三十丁目…なし。

  巻四の十五丁目…入木か。

  巻五の六丁目…「鑑草巻之六」は入木か。丁付はなし。

刊記 なし。

蔵書印等 「京都帝国大学図書之印」陽刻方形朱印(五〇ミリ×五〇ミリ)。「明治三三・一二・一九・購入/京大図」陽刻円形朱印(径二五ミリ)。「14597」の青スタンプ。「85/カ/1」の黒ラベル。一冊目の前見返しに次の墨書あり。「鑑草は明の顔茂猷之迪吉録八巻より我国の/女子教導に必要なる所を抜書して藤樹先/生の説を雑へ之を和文に書きたるものなり/大正七年六月下旬狂斎謹識」

 

  国会図書館蔵 857/2(平成6年8月11日調査)

体裁 大本、六巻六冊、袋綴じ。

表紙 万字つなぎ牡丹唐草模様藍色原表紙、縦二七八ミリ×横一八二ミリ(巻一)。

題簽 巻三、巻四は、左肩に枠なし原題簽を存す。縦一六八ミリ×横三九ミリ(巻三)。巻五、巻六は、原題簽の部分(上部)を存す。巻一、巻二は剥落の跡のみ。

  「鑑草 巻之三/不嫉妬毒報」(摩損あり)

  「鑑草 巻之四/教子報」

匡郭 なし。一行の字の高さは、序…二二三ミリ(巻一、1丁オ1行目)。本文…二一七ミリ(巻一、6丁オ3行目)。

柱刻 正保四年版、中江藤樹記念館・A本と同様に見える。

刊記 なし。

蔵書印等 「帝国図書館」陽刻長方形朱印(縦七五ミリ×横一八ミリ)。「帝国/昭和二〇・一一・十四・購入」陽刻円形朱印径二五ミリ)。「帝国」陽刻長円形朱印(縦九ミリ×横四ミリ)。「取扱/注意/帙入」白紙に陽刻朱印。「857/2」のオレンジラベル。各巻の題簽の下に「巻一(〜六)」と朱書。

 

 ぁ〆寛貘膤愽軋或渊餞杪◆小城鍋島文庫 093/5/(1)(〜(6))(平成6年3月22日調査)

体裁 大本、六巻六冊、袋綴じ。

表紙 雷文つなぎ牡丹唐草模様藍色表紙、縦二七七ミリ×横一七九ミリ(巻一)。

題簽 左肩に後補書題簽。二種あり、縦一七四ミリ×横三八ミリ(巻一)。縦一七五ミリ×横三三ミリ(巻二)。

  「鑑草 一(三、六)」

  「鑑草 巻之二/守節背夫報」

  「鑑草 巻之四/教子報」

  「鑑草 巻之五/慈残報」

匡郭 なし。一行の字の高さは、序…二二一ミリ(巻一、1丁オ1行目)。本文…二一六ミリ(巻一、6丁オ3行目)。

柱刻 正保四年版、中江藤樹記念館・A本と同様であるが、次の点が異なる。

  巻一の五丁目…なし。

  巻二の三十丁目…なし。

  巻四の十五丁目…なし。

  巻六の六丁目…「巻之六」の部分のみ少し出ている。

刊記 なし。

蔵書印等 「曲肘亭」陽刻長方形朱印(縦四二ミリ×横二四ミリ)。「佐賀大学図書館之印」陽刻方形朱印(二五ミリ×二五ミリ)。「佐賀大学附属図書館/昭和/36・3・31/ア第52120(〜52125)番/図書館」陽刻横長円形赤スタンプ、番号は青色(縦三九ミリ×横五三ミリ)。「093/5/(1)(〜(6)/佐賀大学」の茶色ラベル。

その他 巻五の三十四丁が落丁。

 

 ァ‥堽中央図書館蔵・井上文庫 井上文庫/163/1(2)(平成6年8月18日調査)

体裁 大本、六巻二冊、袋綴じ。

  第一冊目…巻一、巻二。

  第二冊目…巻三、巻四、巻五、巻六。

表紙 水色布目表紙、縦二六〇ミリ×横一七七ミリ(1冊目)。

題簽 左肩に、子持枠後補題簽。文字は墨書。縦一八三ミリ×横三八ミリ(1冊目)。

  「鑑草 一(二)」

匡郭 なし。一行の字の高さは、序…二二一ミリ(巻一、1丁オ1行目)。本文…二一八ミリ(巻一、6丁オ3行目)。

柱刻 正保四年版、中江藤樹記念館・A本と同様であるが、次の点が異なる。

  巻一の五丁目…なし。

  巻二の三十丁目……「三十」がなし。

刊記 なし。

蔵書印等 「□然亭子幹蔵書」陽刻長方形朱印(縦四五ミリ×横二七ミリ)。「井上巽軒蔵書之印」陽刻長方形朱印(縦四三ミリ×横二九ミリ)。「井上文庫」四周無界陽刻朱印(縦二三ミリ×横七ミリ)。「井上巽軒蔵之印」陽刻方形朱印(五一ミリ×五一ミリ)。「東京都立図書館蔵書」陽刻方形朱印(五〇ミリ×五〇ミリ)。「日比谷図書館」陽刻長方形朱印(縦二一ミリ×横八ミリ)。下小口に「鑑草 上(下)」と墨書。各表紙右上に「共二」と墨書。巻一の十八丁ウ、二十二丁オに、朱の書き入れあり。「東京都立日比谷図書館/昭和28・7・23/114234(〜5)」横長円形黒スタンプ。「W1215/N286/K1−1(2)」の緑ラベル。「井上文庫/163/1(2)」の青ラベル。

その他 巻一の一丁の左上、右上に欠損あり、墨書で補筆。巻一の三十一丁〜三十七丁の版心上部欠損補修。

 

 Α‥堽中央図書館蔵・東京誌料 377/15(平成6年8月18日調査)

体裁 大本、六巻合一冊、袋綴じ。

表紙 薄縹色後補表紙、縦二六九ミリ×横一七九ミリ。

題簽 左肩に四周単辺後補題簽、文字は墨書。縦一五一ミリ×横三一ミリ。「鑑草 」

匡郭 なし。一行の字の高さ、序…二二一ミリ(巻一、1丁オ1行目)。本文…二一六ミリ(巻一、6丁オ3行目)。

柱刻 正保四年版、中江藤樹記念館・A本と同様であるが、次の点が異なる。

  巻一の五丁目…なし。

  巻二の三十丁目…入木か。

刊記 なし。

蔵書印等 「●《「山」の下に「松」》□堂印」陽刻方形朱印(一三ミリ×一三ミリ)。「合□書堂」陽刻方形朱印(縦二〇ミリ×横一九ミリ)。「大礼記念図書」陽刻円形朱印(径五二ミリ)。「日比谷図書館」陽刻長方形朱印(縦三三ミリ×横九ミリ)。「日比谷図書館購求/6−6−2」陽刻円形朱印(径三〇ミリ)。「1964」の青スタンプ。「東京都立日比谷図書館/東京誌料/昭和・42・2・17/33404」横長円形黒スタンプ。「東京誌料/377/15」の緑ラベル。背に「鑑草 全」と、下小口に「加々美久左」とそれぞれ墨書。

 

 А(‥膰立図書館蔵 159・6/N/1(〜3)(平成4年3月27日調査)

体裁 大本、六巻三冊、袋綴じ。

  第一冊目・上…巻一、巻二。

  第二冊目・中…巻三、巻四。

  第三冊目・下…巻五、巻六。

表紙 薄藍色表紙、縦二七七ミリ×横一八四ミリ。(1冊目)。

題簽 左肩に、子持枠後補題簽、文字は墨書。縦一八二ミリ×横三六ミリ(1冊目)。

  「鑑草 上」

  「賀々見草 中」

  「加々見草 下」

匡郭 なし。一行の字の高さ、序…二二〇・五ミリ(巻一、1丁オ1行目)。本文…二一七ミリ(巻一、6丁オ3行目)。

柱刻 正保四年版、中江藤樹記念館・A本と同様であるが、次の点が異なる。

  巻一の五丁目…薄く出ている。丁付は欠字。

刊記 なし。

蔵書印等 「蕉園図書之記」陽刻長方形朱印(縦四二ミリ×横二七ミリ)。「福島市立図書館之印」陽刻方形朱印(三〇ミリ×三〇ミリ)。「登記番号/大正元年十月一日/第五七二五号/購」黒印(数字は墨書)。第一冊前見返しに「寛文九年ノ出版」。「FUKUSHIMA/PUBLIC LIBRARY/昭和 /8946(〜8948)」の紫スタンプ。「240/165」の青ラベル。「154/154」の黒ラベル。「159・6/N/1(〜3)」の赤ラベル。

その他 巻五に虫損あり、補修済み。

 

〔6〕 寛政元年松村九兵衛等求版

 

 々餡饋渊餞杪◆,錚隠毅后47/1(〜5止メ)(平成4年1月31日調査)

体裁 大本、六巻五冊(巻六欠)、袋綴じ。

表紙 白緑色表紙、縦二五五ミリ×横一八四ミリ(巻一)。巻五の後表紙は白緑色の表面紙が剥落している。

題簽 左肩に、後補書題簽、縦一九八ミリ×横四〇ミリ(巻一)。

  「貞女教訓鑑草 中江藤樹 一」

  「貞女教訓鑑草 中江藤樹先生著 二(〜五)」

匡郭 なし。一行の字の高さ、序…二一八ミリ(巻一、1丁オ1行目)。本文…二一五ミリ(巻一、6丁オ3行目)。

柱刻 正保四年版、中江藤樹記念館・A本と同様であるが、部分的に欠字などがある。

刊記 巻五の後見返しに次の如くある。

  「寛政改元巳酉歳四月

          通本町三丁目

     東都書肆  西 村 源 六

          順慶町五丁目

           渋川与左術門

     摂陽書肆 心斎橋南一丁目

           松村九兵衛」

蔵書印等 「幸住」陰刻方形朱印(一三ミリ×一三ミリ)。「宮田文庫」陽刻長方形朱印(縦六〇ミリ×横一三ミリ)。「帝国図書館蔵」陽刻方形朱印(四五ミリ×四五ミリ)。「帝国/昭和二〇・三・二四購入」陽刻円形朱印(径二四ミリ)。「わ159/47/1(〜5)」の緑ラベル。その他朱印一顆。

その他 巻六欠。巻二の十八丁は落丁であるが、書写で補っている。

 

 

   【二】延宝三年版絵入本系統

 

 

 〔1〕 延宝三年福森・村田版

 

  ゝ都大学附属図書館蔵 185/カ3(平成4年3月18日調査)

体裁 大本、六巻六冊、袋綴じ。

表紙 濃藍色原表紙(金泥にて草花の模様を描く)、縦二六六ミリ×横一九〇ミリ(巻一)。

題簽 左肩に枠なし原題簽(巻一、巻二は縦の右のみ単線あり)、

 縦一六九ミリ×横三六ミリ(巻一)。

  「鑑草巻之一/孝逆報」

  「鑑草巻之二/守節背夫報」

  「鑑草巻之三/不嫉妬毒報」

  「鑑草巻之四/教子報」

  「鑑草巻之五/慈残報仁虐報」

  「鑑草巻之六/淑睦報廉貪報」

目録題・目録尾題なし。

内題 各巻本文の前に次の如くあるが、巻五のみ草書体。

  「鑑草巻之一 孝逆之報」

  「鑑草巻之二 守節背夫報」

  「鑑草巻之三 不嫉妬毒報」

  「鑑草巻之四 教子報」

  「鑑草巻之五 慈残報」

  「錘草巻之六 淑睦報」

序題・尾題 なし。

匡郭 四周単辺、ただし、版心の界線なし。序…縦二一七ミリ×横一六七ミリ(巻一、1丁オ)。本文…縦二一七ミリ×横一六六ミリ(巻一、5丁オ)。縦は一行目と二行目の間、横は一字目と二字目の間で、ノドの界線の外側から柱題の「鑑」の右端で計測した。以下同じ。

柱刻 版心は白口で界線なし(挿絵の丁を除く)。上部に書名・巻数、下部に丁付。

  「鑑草巻之一 一(〜卅三終)」

  「鑑草巻二 一(〜廿九終)」

  「鑑草巻三 一(〜廿二終)」

  「鑑草巻四 一(〜十四終)」

  「鑑草巻之五 一(〜卅四終)」

  「鑑草巻之六 一(〜十六終)」

丁数 巻一…三十三丁(内、序四丁)。

   巻二…二十九丁。

   巻三…二十二丁。

   巻四…十四丁。

   巻五…三十四丁。

   巻六…十六丁。

   合計…一四八丁。

行数 毎半葉、序・本文は十二行、批評の部分は一字下げで十八行。

字数 一行、序・本文は約二十二字、批評の部分は一字下げで約二十九字。

例話 正保四年版、中江藤樹記念館・A本と同じ。

本文 漢字交り平仮名。振り仮名・濁点を施す。句読点は、まれに「.」「。」を施す。(巻三の15丁オ10行目、巻四の10丁オ1行目・2行目、14丁ウ9行目、巻六の8丁ウ2行目など)。

挿絵 巻一…片面十図(12丁オ、13丁ウ、17丁オ、19丁オ、20丁ウ、22丁ウ、24丁オ、26丁ウ、28丁ウ、33丁ウ)。

   巻二…片面十三図(5丁オ、7丁オ、9丁オ、11丁オ、13丁ウ、15丁ウ、17丁ウ、19丁オ、21丁ウ、23丁ウ、26丁オ、28丁オ、29丁ウ)。

   巻三…片面八図(4丁ウ、6丁ウ、7丁ウ、9丁オ、11丁ウ、14丁オ、16丁オ、18丁ウ)。

   巻四…片面五図(5丁ウ、7丁ウ、9丁ウ、11丁オ、12丁ウ)。

   巻五…片面十五図(6丁ウ、9丁オ、10丁ウ、13丁オ、15丁オ、17丁ウ、19丁ウ、21丁オ、23丁オ、25丁ウ、28丁オ、29丁ウ、31丁オ、33丁オ、34丁ウ)。

   巻六…片面六図(3丁ウ、5丁ウ、10丁オ、12丁オ、14丁オ、16丁オ)。

   合計…片面五十七図。

序  巻一の一丁〜四丁に藤樹の自序があるが、年記はない。

跋  なし。

刊記 巻六の十六丁ウに、

  「延宝三乙卯年

     村田庄五郎

           板行

     福森兵左衛門  」

蔵書印等 「八田所蔵」陽刻長円形朱印(縦三一ミリ×横一九ミリ)。「サトウ」陽刻長方形朱印(縦二五ミリ×横一三ミリ)。「京都帝国大学図書之印」陽刻方形朱印(四八ミリ×四八ミリ)。「京大/218535/大正10、8、30」黒印。「85/カ/3」の黒ラベル。

 

 ◆,茶の水図書館蔵・成簣堂文庫(平成4年8月5日調査)

体裁 大本、六巻六冊、袋綴じ。

表紙 水浅葱色原表紙、縦二六三ミリ×横一八九ミリ(巻一)。この上に、厚手和紙を二つ折りにした渋引き保護表紙を付す。

題簽 左肩に四周単辺(部分的に線を欠く)原題簽。延宝三年版、京大本と同様であるが、巻一、巻二の上部に欠損あり。保護表紙には直接墨書で「中江藤樹著/鑑草 一」「鑑草 二(〜六)」とあり。

匡郭 四周単辺、ただし、版心の界線なし。序…縦二一八・五ミリ×横一六六ミリ(巻一、1丁オ)。本文…縦二一八ミリ×横一六六ミリ(巻一、5丁オ)。

蔵書印等 「徳富猪一郎印」陰刻方形朱印(縦三六・五ミリ×横三六ミリ)。「徳富文庫」子持枠陽刻長方形朱印(縦五三ミリ×横一九ミリ)。「徳富猪一郎」陰刻方形朱印(三四ミリ×三四ミリ)。「須愛護/蘇峰嘱」陽刻変円形朱印(縦三三ミリ×横二七ミリ)。巻一前表紙に「延宝板/中江藤樹作/婦女教訓書」と墨書。巻一の保護表紙に「延宝板」と朱書、「共六」と墨書。巻一に白の付箋あり「延宝板 中江藤樹著/鑑草 共六」と墨書。巻一前見返しに「38、1、9 六冊 65 名古屋□中堂」と鉛筆書。

 

  国文学研究資料館蔵 ヤ9/28/1(〜6)(平成4年2月14日調査)

体裁 大本、六巻六冊、袋綴じ。

表紙 藍色原表紙、縦二七四ミリ×横一九五ミリ(巻一)。巻一の前、後、巻二の前、後、巻五の前、巻六の後は、藍色の表面紙が、全部または部分的に剥落している。

題簽 巻一、巻三、巻五、巻六は、延宝三年版、京大本と同様の、枠なし原題簽の部分を存す。巻二は芯紙に直接「鑑草 巻之弐」と墨書。巻四は剥落の跡のみ。

匡郭 四周単辺、ただし、版心の界線なし。序…縦二一七ミリ×横一六四ミリ(巻一、1丁オ)。本文…縦二一七ミリ×横一六四ミリ(巻一、5丁オ)。

蔵書印等 「国文学研究資料館」陽刻長方形朱印(縦三九ミリ×横二四ミリ)。「国文学研究資料館/22153(〜22157)/昭和51年1月28日」陽刻横長円形朱印(数字は黒スタンプ、なお、巻六には押されていない)。「ヤ9/28/1(〜6)」の黒ラベル。

 

 ぁ|羚焼樹記念館蔵・図書室本 112/13/1(2)(平成4年3月20日調査)

体裁 大本、六巻二冊、袋綴じ。

  第一冊目…巻一、巻二、巻三。

  第二冊目…巻四、巻五、巻六。

表紙 万字つなぎ牡丹唐草模様黒色表紙、縦二五五ミリ×横一八三ミリ(1冊目)。

題簽 なし。

匡郭 四周単辺、ただし、版心の界線なし。序…縦二一七ミリ×横一六六ミリ(巻一、1丁オ)。本文…縦二一七ミリ×横一六五ミリ(巻一、5丁オ)。

蔵書印等 「松本蔵書」陽刻方形朱印(二七ミリ×二七ミリ)。「112/13/1(2)」の赤ラベル。

 

 

  〔2〕 無刊年記福森・村田版

 

  ‖膾綵子大学附属図書館蔵 150・2/N3/1(〜6)(平成4年3月17日調査)

体栽 大本、六巻六冊、袋綴じ。

表紙 藍色原表紙、縦二六〇ミリ×横一八八ミリ(巻一)。

題簽 左肩に枠なし原題簽(右側のみ単線あり)。延宝三年版、京大本と同様であるが、巻五など摩損がある。

匡郭 四周単辺、ただし、版心の界線なし。序…縦二一八・五ミリ×横一六七ミリ(巻一、1丁オ)。本文…縦二一八・五ミリ×横一六六・五ミリ(巻一、5丁オ)。

柱刻 延宝三年版、京大本と同様であるが、巻六の十六丁は無し。

丁数 延宝三年版、京大本と同様であるが、巻六の十六丁は無し。

挿絵 延宝三年版、京大本と同様であるが、巻六の十六丁オの絵は無し。

刊記 巻六の後見返しに、

  「 村田庄五郎

          板行

    福森兵左衛門  」

蔵書印等 「書肆●《○の中に「利」》/大垣/俵町/平流軒利兵衛」陽刻長方形黒印(縦四一ミリ×横二九ミリ)。巻一前表紙に白紙貼付、「百五十二/全 六巻/(摩損)/書肆/平流軒」とある。「寄贈/平林秋子/35年7月4日」の黒スタンプ。「大阪女子大学附属図書館/寄贈/8558(〜8563)」の黒スタンプ。「150・2/N3/1(〜6)」の黒ラベル。

その他 巻六の十六丁オの挿絵を削除して、十六丁ウの刊記の「延宝三乙卯年」を省き、書肆名のみ後見返しに入れている。

 

 ◆々畧鄲膤愽軋或渊餞杪◆神原文庫 K159/6(平成4年3月16日調査)

体裁 大本、六巻六冊、袋綴じ。

表紙 水色原表紙、縦二六五ミリ×横一七七ミリ(巻一)。巻一の前の下部、後の全体、巻二の後の下部、巻三の前の下部、巻四の前の下部、巻五の前の下部、巻六の前の下部は、それぞれ、水色の表面の紙が剥落している。巻一〜巻三は新しい糸で綴じ直されている。

題簽 剥落の跡のみ。

匡郭 四周単辺、ただし、版心の界線なし。序…縦二一七ミリ×横一六四ミリ(巻一、1丁オ)。本文…縦二一七ミリ×横一六三ミリ(巻一、5丁オ)。

柱刻 延宝三年版、京大本と同様であるが、巻六の十六丁は無し。

丁数 延宝三年版、京大本と同様であるが、巻六の十六丁は無し。

挿絵 延宝三年版、京大本と同様であるが、巻六の十六丁オの絵は無し。

刊記 巻六の後見返しに、

  「  村田庄五郎

           板行

     福森兵左衛門  」

蔵書印等 「神原家図書記」陽刻長方形黒印(縦四五ミリ×横一二ミリ)。「香川大学附属図書館」陽刻方形朱印(四五ミリ×四五ミリ)。「寄贈図書/神原文庫/香川大学設立準備委員会」横長円形赤色スタンプ。「昭和(乙)/31・3・30/受入118213(〜118218)号」横長円形紫スタンプ。「K159・6/2/1(〜6)/C」の紫スタンプ。

その他 巻六の十六丁オの挿絵を削除して、十六丁ウの刊記の「延宝三乙卯年」を省き、書肆名のみ後見返しに入れている。巻三の十九丁に破損あり。

 

  〔3〕 無刊記植村求版

 

  ゞ眤大学附属図書館蔵 2/43/7(平成5年3月17日調査)

体裁 大本、六巻六冊、袋綴じ。

表紙 青色原表紙、縦二六八ミリ×横一八九ミリ(巻一)。

題簽 左肩に枠なし原題簽(右側の縦線が部分的に存す)、縦一六九ミリ×横三五ミリ(巻一)。題簽題等、延宝三年版、京大本と同様。

匡郭 四周単辺、ただし、版心の界線なし。序…縦二一七ミリ×横一六六ミリ(巻一、1丁オ)。本文…縦二一六・五ミリ×横一六六ミリ(巻一、5丁オ)。

柱刻・丁数・挿絵 延宝三年版、京大本と同様。

刊記 巻六の十六丁ウに、

  「堀川通高辻上ル町

       植村藤右衛門

   通本石町十軒店角  板行

       植村藤三郎   」

右の内、「板行」のみ、延宝三年版と同じで、他は書体も明朝体に改めている。「植村藤三郎」と「板行」の墨が濃い。

蔵書印等 「第四高等学校図書」陽刻方形朱印(縦六一ミリ×横六〇ミリ)。「第四高等学校/図書室/明治卅八年三月廿三日」陽刻横長円形朱印(年月日など墨書を混合)。「2門/43類/7号」の白ラベル。

その他 金沢大学附属図書館のカードは「寛文9年版」としているが、現物はこの蔵本である。『国書総目録』はこのカードに拠ったものと思われる。

 

  〔4〕 無刊記版

 

  ヽ惱院大学附属図書館蔵 1O5/80(平成4年8月11日調査)

体裁 大本、六巻六冊、袋綴じ。

表紙 水浅葱色原表紙、縦二五八ミリ×横一八〇ミリ(巻一)。

題簽 巻一、巻五は、左肩に四周単辺の原題簽、縦一六九ミリ×横三四ミリ(巻一)。題簽題等、延宝三年版、京大本と同様。他の巻は剥落の跡に次の如く墨書。巻二「嘉賀美具佐」、巻三「加賀見久左」、巻四「鑑艸」、巻六「嘉賀美具佐」。

匡郭 四周単辺、ただし、版心の界線なし。序…縦二一六・五ミリ×横一六五ミリ(巻一、1丁オ)。本文…縦二一七ミリx横一六四ミリ(巻一、5丁オ)。

柱刻 延宝三年版、京大本と同様であるが、巻六の十六丁目は無し。

丁数 延宝三年版、京大本と同様であるが、巻二の二十八丁が落丁、巻三の八丁が重複している。

挿絵 延宝三年版、京大本と同様であるが、巻二の二十八丁オの絵は落丁のため欠。

刊記 なし。巻六の十六丁ウは空白となっている。

蔵書印等 「学習院図書記」陽刻方形朱印(五二ミリ×五二ミリ)。「学習院図書館/105/80/38278」(巻一)の肌色ラベル。通し番号、巻二「38283」、巻六「38279」と逆になっている。「105/80」の黒ラベル。

その他 巻二の二十八丁落丁。巻三の八丁重複。巻六の十六丁ウが空白となっている。

 

 ▲ 岐阜市立図書館・取合本 15/91/2(4B)(国文学研究資料館、マイクロフィルムに拠る。未見)

  寛文九年、西沢版との取合本である。巻四、巻六の二巻を存し、巻六の刊記は、学習院大本と同様に空白であるが、柱刻は丁数も入っている。

 

  〔5〕 その他

 

 ゝ都大学文学部蔵 国文学/Pb/9(平成4年3月18日調査)

体裁 大本、五巻五冊(巻六欠)、袋綴じ。

表紙 白茶色原表紙、縦二六二ミリ×横一八〇ミリ(巻一)。

題簽 左肩に枠なし原題簽を存するが、巻四はほぽ完全、巻五は部分欠損、巻二、巻三は摩損多く、墨筆・朱筆で補筆、巻一は欠。

匡郭 四周単辺、ただし、版心の界線なし。序…縦二一六ミリ×横一六四ミリ(巻一、1丁オ)。本文…縦二一八ミリ×横一六四ミリ(巻一、5丁オ)。

刊記 巻六欠のためなし。

蔵書印等 「京都帝国大学図書」陽刻方形朱印(三五ミリ×三五ミリ。「495308/昭和、7、7」の黒印。

その他 巻六欠。

 

 ◆|羚焼樹記念館蔵・A 収蔵庫本(平成4年3月20日調査)

体裁 大本、六巻二冊、袋綴じ。

  第一冊目(上)…巻一、巻二、巻三。

  第二冊目(下)…巻四、巻五、巻六。

表紙 薄水色表紙、縦二四八ミリ×横一七八ミリ(1冊目)。題簽から推測すると、一冊目は巻五、二冊目は巻三の表紙を利用した可能性がある。

題簽 左肩に四周単辺の原題簽、縦一七〇ミリ×横三五ミリ(1冊目)。書名の下に白紙(上=縦七七ミリ×横三一ミリ、下=縦七六ミリ×横二九ミリ)を貼付し、巻数等を墨書する。

 「鑑草 巻一 孝逆報/巻二 守節背夫報/巻三 不疾妬毒報/上」

 「鑑草 巻四 教子報/巻五 慈残報仁虐報/巻六 淑睦報廉貪報/下」

 一冊目は巻五のもの、二冊目は巻三のものを利用しているものと思われる。

匡郭 四周単辺、ただし、版心の界線なし。序…縦二一八ミリ×横一六四ミリ(巻一、1丁オ)。本文…縦二一七・五ミリ×横一六四ミリ(巻一、5丁オ)。

柱刻・丁数・挿絵 巻六の十六丁が落丁のため、この一丁欠。

刊記 なし。ただし、十六丁オに挿絵、十六丁ウに刊記を書写で補っている。刊記は、

  「延宝三乙卯年

     村田庄五郎

           板行

     福森兵左衛門  」

とあり、その後に、朱の識語が次の如くある。

  「大正十一年四月京都帝国大学蔵書本ニツキ比較研究スルニ延/宝三年版卜全ク同一ナルヲ認メ茲ニ其落丁ヲ補フ/紫水識」

  右の書写は、この識語から京大本に拠っている事がわかるが、書写は、かなり忠実である。書写者は、小川喜代蔵氏である。

蔵書印等 「□頭氏蔵書印」陽刻長方形朱印(縦二二ミリ×横二〇ミリ)。「藤樹書院」陽刻方形朱印(三〇ミリ×三〇ミリ)。

 「分類=第一門第一類/台帳順号=第四一四号/書目順号=第四〇号/函架号=架第七号/大小ノ別=大/装釘区別=和/排列番号=第二七号/蔵書委託ノ別=蔵書」の黒ラベル。

その他 巻六の十六落丁。これを書写で補う。

 

  中江藤樹記念館蔵・B 収蔵庫本 12(平成4年3月20日調査)

体裁 大本、四巻三冊(巻五、巻六欠)、袋綴じ。

  第一冊目…巻一。

  第二冊目…巻二。

  第三冊目…巻三、巻四。

表紙 水色後補表紙(空押模様あり)、縦二五五ミリ×横一八一ミリ(1冊目)。

題簽 左肩に後補書題簽、縦一八六ミリ×横四三ミリ(3冊目)。

  「鑑草 一」「鑑草 二」「かゝ見草 三四」

匡郭 四周単辺、ただし、版心の界線なし。序…縦二一六ミリ×横一六四ミリ(巻一、1丁オ)。本文…縦二一六ミリ×横一六四ミリ(巻一、5丁オ)。

蔵書印等 「藤蔭」陽刻方形朱印(一四ミリ×一四ミリ)。「藤樹□□」陰刻長方形朱印(縦二四ミリ×横一八ミリ)。「藤樹書院」陽刻方形朱印(三〇ミリ×三〇ミリ)。

その他 巻五、巻六欠。

 

 ぁ|羚焼樹記念館蔵・C 図書室本 112/12(平成4年3月20日調査)

体裁 大本、一巻一冊(巻五のみ存)、袋綴じ。

表紙 雷文つなぎ牡丹唐草模様焦茶色原表紙、縦二六三ミリ×横一八六ミリ。

題簽 左肩に、右側のみ単線のある原題簽、縦一六六ミリ×横三四ミリ。

  「鑑草 巻之五/慈残報仁虐報」

匡郭 四周単辺、ただし、版心の界線なし。本文…縦二一五ミリ×横一六五ミリ(巻五、1丁オ)。

蔵書印等 「平塚蔵書」陽刻長方形朱印(縦四一ミリ×横一三ミリ)。「松平蔵書」陽刻方形朱印(二七ミリ×二七ミリ)。

その他 巻五のみの端本。

 

 

  写  本

 

  \轍兎科幻紡◆松井文庫 25190/2/538・24(平成4年8月26日調査)

体裁 大本、天地二冊、写本、袋綴じ。

  第一冊目・天…巻一、巻三。

  第二冊目・地…巻四、巻五。

表紙 鴇色表紙に花模様(柿茶色と鼠色)を配す。縦二七三ミリ×横一九〇ミリ(天)。

題簽 左肩に書題簽、縦一九九ミリ×横四五ミリ(天)。

 「中江藤樹先生著/かゝ見久さ 天」

 「かゝ見久さ 地」

序題 なし。

内題 一冊目(天)

 「鑑草巻之一」

 「不嫉妬毒報」

  二冊目(地)

 「仁虐報」

 「教子報 四」

 「鑑草巻之五」

匡郭 なし。一行の字の高さは、二二〇ミリ前後。

丁付なし。

丁数一冊目(天)

  巻一…三十七葉(内、序五葉)。

  巻三…二十四葉。

  二冊目(地)

  巻五…八葉。

  巻四…十四葉(6丁ウ・7丁オが欠)。

  巻五…二十五葉(21丁オが欠)。

行数・字数等 正保四年版と同様。

蔵書印等 「硯湖秘蔵寄書之壱」陽刻長方形朱印(縦四八ミリ×横二八ミリ)。「山崎家蔵」陽刻方形朱印(縦二五・五ミリ×横二四・五ミリ)。「誠」陰刻方形朱印(一〇ミリ×一〇ミリ)。「松井氏蔵書章」陽刻長方形朱印(縦三五ミリ×横二六ミリ)。「静嘉堂蔵書」子持枠陽刻長方形朱印(縦五〇ミリ×横一五ミリ)。「改写」陽刻長方形黒印(縦一三ミリ×横七ミリ)。一冊目後見返しに「天保元寅年十二月写之畢/源長松(印)」と墨書。印は「封」陰刻長方形朱印(縦一三ミリ×横一一ミリ)。

その他 この写本は、正保四年版の写しと思われる。巻一、巻三、巻四、巻五を収めているが、巻四の一丁分、巻五の半丁分が欠けている。

 現在までに調査し得た『鑑草』の諸本は以上の通りである。未調本も若干あるが、これについては、改めて調査することとし、右の諸本に関して考察を加えることにする。

 

 

 

   【一】 正保四年版系統

 

  〔1〕 正保四年風月宗知版

 

 『鑑草』の初版は、正保四年八月、京都の書肆・風月堂宗知から刊行されたものであろうと推測されるが、風月堂が本書を出版するについては、『翁問答』に関連して、中江藤樹との間に、ちょっとしたいざこざがあったらしい。それは、藤樹の、池田与兵衛等に宛てた、慶安元年三月十九日付書簡によって知ることが出来る。

 「あまり久布申絶御床敷存候条大坂平久迄頼候て捧愚翰候。如何御息災ニ御座候哉。拙夫無恙罷在候可御心易候(略)

 一、当代世間のまよひをわきまへたる議論をあつめ翁問答と題し、同志の提撕に仕候を京にてぬすみいだし、板にほりかけ申を見つけ、いろ/\ことはり仕板をやぶり申候。其故ハまへかど書申候ものニ候ヘバ、われら気ニ不入処あまた御座候。かきなをし可申覚悟御座候故に候。此故其元へも不遣候中やぶり申板やそんまいり候て迷惑仕旨ことわり申候ニ付、女中方ノ勧戒にと、迪吉録のぬき書に評判をかきたる書を鑑草と題し前かどより御ざ候を、かのそんのつぐのひに板行仕せ申候。いまだ京にてはひろくうり不申候。御なぐさにと一部おくり進候。御覧可被成候。故事は迪吉録・三綱行実などのぬき書、評は鄙夫の愚案にて御座候。(中略)

  三月十九日         中江与右衛門

                       花押

   池田与兵様

       人々御中               」

                         (『藤樹先生全集』巻之十八)

 つまり、中江藤樹は、寛永十七、八年の頃、『翁問答』を執筆したが、同二十年、京都の書肆某が、門人の転写本を使用して、無断でこれを出版した。藤樹は、意に充たない内容であるという理由から、その中止を申し入れ、版木を破却させた。その後、版元が、その失費を嘆いてきたので、その埋め合わせに、前々(寛永十三、四年の頃か?)から執筆していた『鑑草』を与え出版させた、という事である。したがって、『翁問答』を無断で出版したのは、京都の風月宗知であったことも判明する。

 藤樹は、正保四年八月刊行の本書が、翌慶安元年三月に、同じ京都で、未だ広く販売されていない、と書いている。あるいは、刊記と実際の刊行年月の間に、何等かの事情で、ずれが生じたのかも知れない。

 本書についての、当時の書籍目録の記録は次の通りである。(注1)

 愎携捗饑厂槝拭拏緬棔碧治2年10月11日書写、東寺観智院蔵)

 「平家物語 保元平治(物語) 伊曽保物語 緊楽物語 祇園物語 宝物集 可笑記 曽我物語 西行物語 鵜鷺物語 信長記 善悪集 栄華物語 翁問答 義経記 撰集鈔 大坂物語 清水物語 秋夜長物語 化物語 鑑草」55丁ウ

◆慙卒曾饑厂槝拭戞粉科牽暁頃刊)

 「六冊/かゝみ草」

『増補書籍目録/作者付・大意』(寛文10年刊、西村版)

 「六冊/かゝみ草 同断(古事をしるし女のをしへ也)孝行 逆報 守節背夫報 不嫉妬毒報 教子報 慈残報 仁虐報 淑睦報 廉貪報」

ぁ愎携珍補書籍目録/作者付大意』(寛文11年刊、山田版)

 「かゝみ草 同断(古事をしるし女のをしへ也)/六/孝行 逆報 守節背夫報 不嫉妬毒報 教子報 慈残報 仁虐報 淑睦報 廉貪報」

ァ愾続古今本朝彫刻書籍題林大全/作者付・大意入』(延宝3年4月刊、京・毛利版)

 「六/かゝミ草 同断(古事をしるし女のおしへ也)/孝行 逆報 守節背夫報 不嫉妬毒報 教子報 慈残報 仁虐報 淑睦報 廉貪報」

Α愎形書籍目録』(延宝3年5月刊、江戸・書林版)

 「六/鑑草」

 「六/同絵入」

А愎契饅饑厂槝紳臍粥芯消壁嫗膂奸戞文杵存鞠刊、山田版)

 「六/鑑草  四匁五分

  六/同絵入 六匁  」

─惺益書籍目録』(貞享2年刊、西村他版)

 「六/かゝミ草 同断(古事をしるし女のおしへ也)/孝行 逆報 守節背夫報 不嫉妬毒報 教子報 慈残報 仁虐報 淑睦報 廉貪報」

『本朝彫刻広益書籍目録大全/作者付大意』(元禄5年刊、永田・西村・坂上・八尾版)

 「六/かゝ見草 同断(古事をしるし女のおしへとなす)/孝行 逆報 守節背夫報 不嫉妬毒報 教子報 慈残報 仁虐報 淑睦報 廉貪報

  六/同新板ゑ入」

『増益書籍目録大全』(元禄9年刊、河内屋版)

 「六/村勘左/鑑草 三匁

  六/福 森/同絵入 三匁三分」

『新板増補書籍目録/作者付大意』(元禄12年刊、永田他版)

 「六/かゝミ草 同断(古事をしるし女のおしへとす)」

『増益書籍目録大全(増修本)』(宝永6年刊、丸屋源兵衛版)

 「六/村勘左/鑑草 三匁

  六/福 森/同絵入 四匁三分」

『増益書籍目録大全』(正徳5年刊、丸屋源兵衛版)

 「六/村勘左/鑑草 四匁

  六/福 森/同絵入 五匁三分」

『鑑草』は、万治二年の写本『新板書籍目録』に『伊曽保物語』『聚楽物語』『祇園物語』『可笑記』『信長記』『翁問答』『大坂物語』『清水物語』などと共に記載されているが、初版が十二年前であるので、当然とも言える。おそらく、この「鑑草」は初版のもので、万治二年九月刊の伊吹権兵衛版ではなかろうと思う。

 ここに一括掲出した、書籍目録の記録については、以下の各版の項で随時参照してゆきたい。

 

版元の「風月宗知」は、書肆・風月堂の初代・風月庄左衛門宗智(生没未詳)、沢田氏、寛永中創業。京都二条通観音町居住。儒書、医書などを多く刊行した。

 寛永四年刊行『長恨歌・琵琶行・野馬台詩』が今のところ古いようで、『医法明鑑』(同五年)、『本草綱目』(同九年)、『孔子家語』(同十五年)、『丙辰紀行』(同年)、『新蒙求』(同二十年)、『真字伊勢物語』(同年)、『三千句』(同二十一年)、『古事記』(同年)などがあり、正保四年には『仮名貞観政要』を刊行している。(注2)

 『鑑草』は、現在のところ、中江藤樹記念館にも藤樹の自筆本はもとより、書写本も伝存していない。この正保四年版は、最も早い本文であり、藤樹自身、刊行の翌年三月、京都では未だ広く販売していないからと、池田与兵衛に直接贈呈している。しかも、作者はその八月二十五日に没しているのである。これらの諸条件を考え合わせる時、この正保四年版は、最も重視すべき本文であると言うことが出来る。

 正保四年版の諸本について、その刷時の先後を考えるため、全体の文字の欠損、版面の状態等を比較した結果、中江藤樹記念館・A本(写真、癸院Ν癸押Ν癸魁法東大・A本が早印本で、以下、謙堂文庫本(写真、癸粥Ν癸機法中江藤樹記念館・B本(写真、癸供法東大・B本、筑波大本(写真、癸掘砲僚腓砲覆襪隼廚錣譴襦なお、『藤樹先生全集』第三冊に「鑑草古版本」(正保本)として、序、本文(巻一)、刊記の三枚の写真を掲出しているが、これは、現在、中江藤樹記念館に所蔵されている正保四年版とは別の本である事が、蔵書印等からわかる。

〈HTML版注=ここでは写真は省略する〉

 

  〔2〕 万冶二年伊吹権兵衛求版

 

 この版は、正保四年版の版木を使った後印本である。刊記に「万治弐年/戊九月吉日」とあるが、万治二年の干支は「己亥」で、万治元年が「戊戌」である。万治は七月二十三日に改元しており「万治弐年」が「万治元年」であれぱ問題はないが、刊記はどう見ても「弐」と「戊」である。あるいは「戊戌」の万治元年刊行予定であったが、何らかの事情で万治二年に延引したのかも知れない。

 刊記の書肆「伊吹権兵衛」については、詳細は現在、未詳であるが、正保三年に『書言故事大全』、承応元年に『先天図』を刊行している。(注3)

 諸本は、中江藤樹記念館に三本が所蔵されている。この三本の文字の欠損の状態等を比較してみた結果、この中では、A本(写真、癸検Ν癸后Ν10・11)が刷りが早く、B本(写真・12)、C本(写真、13)は、さらに後の刷りと思われる。A本には、書誌の項(46ページ)で記した如く、各表紙、題簽の右側に「藤樹先生全集原稿/第三冊ノ六」(巻一)等と墨書され、各巻前見返しに「藤樹先生全集 巻之二十七」(巻一)等と朱書され、各内題には直接、印刷用のボイン卜指定が施されている。これを『藤樹先生全集』第三冊と比較すると、いずれも符合するので、この、A本を全集の原稿に使用したものと推定される。解題には、正保版を初版としながら、何故、万治二年の後印本を原稿に使用したか、理解できない。明治・大正期には、原本を直接原稿に使用している例が時折見られるが、現在では考えられない事である。

 

  〔3〕 寛文九年西沢太兵衛求版

 

 この版でみることが出来たのは、国会図書蔵本(写真、14・15・16・17・18)のみである。この寛文九年版は、万治二年版の版木を使った後印本であるが、巻一の一丁〜五丁の序の部分を改刻して、一丁分を縮めている。

 改刻部分の両版の異同は次の如くである。

 1.寛文九年版が漢字を仮名に改めたもの………36

   例 報→むくひ 行ひ→おこなひ 受→うく 皆→みな 栄→さかふ

 2.寛文九年版が仮名を漢字に改めたもの………6

   とも→共(2) すて→捨 なり→也(2)

 3.寛文九年版が振り仮名を省いたもの…………53

 4.寛文九年版が振り仮名を付加したもの………5

 5.寛文九年版は「鑑草之序」を付加している。

 これらの異同を見ると、寛文九年版は、漢字を仮名に改め、振り仮名を省き、冒頭に序題を付加しているが、その他には特別に改変意図は認められない。万治二年版は一行約二十二字であるが、寛文九年版は一行約二十四字と字数を多くし、万治版五丁オの五行分を四丁までに収めて、一丁分を節約したものであろう。従って、丁付も「四ノ五」と改めている。

 刊記の「西沢太兵衛」は、正本屋太兵衛。西沢氏、名は貞陣。元禄十六年七月十二日没。万治中に正本屋として開業し、大阪上久宝寺町三丁目に居住した。出版物には『仁たんの四郎』(大和掾正本、万治二年)、『花物狂』(寛文二年)、『いしやまもんだう』(同年)、『古今象戯鏡』(寛文三年)、『をときぱうこ』(寛文六年)、『鉄槌』(寛文十二年)などがある。(注4)

 

  〔4〕 天明元年尾張屋勘兵衛求版

 

 この版は、寛文九年版の版木を使った後印本であると思われるが、さらに、六丁から八丁までを改刻している。現在までに調査し得たのは、東大本(写真、19・20・21・22・23)と、早大本(写真、24・25・26奸砲任△襦

 六丁から八丁までの改刻部分の異同は次の如くである。

 1.天明元年版が仮名を漢字に改めたもの………83

   例 なり→也(11) こゝろ→心(6) これ→是(5)

     もの→物(5) よめ→婦(4)  きやくしん→隔心

 2.天明元年版が漢字を仮名に改めたもの………6

   思ふ→おもふ 理り→ことハり 取→とり 事→こと

   道→みち   本心→ほんしん

 3.天明元年版が振り仮名を付加したもの………38

 4.天明元年版が振り仮名を省いたもの…………1

 5.仮名遣いの異同(天明版が下)………………22

   例 福(さいわひ)→福(さいわい) をしく→おしく

     おこなひ→をこなひ 天道(てんたう)→天道(てんとう)

 6.その他の異同(天明版が下)…………………5

   父母(ふぼ)→父母(ちゝはゝ)誠→実(まこと)

   人もこれを→人これを 容儀(ようぎ)→容義(ようぎ)

   かと有ふりのつかへ→かと有物つかへ

 右の異同からも解るように、天明元年版に、特別の意図をもって、内容を改めようという態度は見られない。九丁以下の本文の刷の状態からも察せられるように、正保四年の初版刊行より、この天明元年まで一三〇年以上の年月を経過しており、この間に、版元も何度か変えながら、かなりの部数印刷されたものと思われ、版木の欠損も相当見られる。この様な事情から、巻一の六丁から八丁までを、新たに彫り直して売り出したものと推測される。

 版元の尾張屋勘兵衛は、京都四条柳馬場東入、また四条通富小路西入に、住し、寛文九年に『和論語』を刊行し、明治期まで、代々存続した書肆である。

 以下、書林弘所として記す書肆について、井上和雄氏、矢島玄亮氏、井上隆明氏の著書に拠って整理すると、次の如くである。

八文字屋庄兵衛 天明〜、京都二条通堺町東入ル。『絵本雨やどり』(天明)、『雨の晴間』(天明六年)、『籠かき』(天明二年序)など。

近江屋治郎吉 安永〜寛政、京都麩屋町通御池下ル。『和歌職原捷径』(天明三年)、『伊州東条孝子留松伝』(天明四年)など。

炭屋勘兵衛 安永〜寛政、京都烏丸通松原下ル、天明頃、松原通柳馬場東入町に移転。『京大町かがみ』(正徳五年)など。

炭屋文蔵 安永〜天明、京都西堀川松原上ル。『朝倉新話』(安永九年序)、『明徳和賛』など。

 伝本、二本の内では、版の欠損状態から推測すると、東大本の方が早印であると思われる(写真、27・28)。

 

 無 刊 記 版

 

 書誌の項で、無刊記版として、七点を掲げたが、その後の調査で、これらの諸本には二種のものがある事が判明した。正保四年版の後印本と覆刻版とである。したがって、

 〔5〕 無刊記後印本

 〔6〕 無刊記覆刻版

の如く分類したいと思う。

 

  〔5〕 無刊記後印本

 

 無刊記版の内、後印本と思われのは、次の三点である。

  (‥膰立図書館蔵(六巻、三冊に合綴)。

 ◆‥堽中央図書館蔵・東京誌料(巻三〜巻六の四巻、一冊に合綴。写真、29・30・31・32・33)。

  都立中央図書館蔵・井上文庫(巻一・巻二の二巻、一冊に合綴)。

 これは、正保四年風月堂版の後印本で、刊記の無い本であり、刷りは、万治二年版より早いものと思われる。したがって、正保四年の風月堂版と万治二年伊吹版の間に、刊記・書肆名のないものが刷られた事になる。ただ、この中で、の都立中央図書館・井上文庫本は、正保四年の刊記を持つものの端本という可能性もある。この都立中央図書館蔵の二本は、次の無刊記覆刻版との取合本である。次項で、やや詳しく述べたい。

 

  〔6〕 無刊記覆刻版

 

 無刊記版の内、覆刻版(かぶせ版)と思われるのは、次の六点である。

  |羚焼樹記念館蔵(六巻、六冊)。

 ◆ゝ都大学附属図書館蔵(六巻、二冊に合綴)。

  国会図書館蔵(六巻、六冊)。

 ぁ〆寛貘膤愽軋或渊餞杪◆箆惨、六冊)。

 ァ‥堽中央図書館蔵・東京誌料(巻一・巻二、一冊に合綴)。

 Α‥堽中央図書館蔵・井上文庫(巻三〜巻六、一冊に合綴)。

 この版は、正保四年版の覆刻版(かぶせ版)であると思われるが、各蔵本の文字の欠損等を比較した結果、この中では、中江藤樹記念館本(写真、34・35・36・37・38)と国会本が、やや早い刷りで、佐賀大学本(写真、39・40)と都立中央の二本は、後の刷りと思われる。

 正保四年版と比較すると、かなり忠実な覆刻である。巻三の二丁ウ四行目の行間の補刻、巻四の二丁ウ九行目の「災ひ」、巻五の十三ウ十一行目の「秦潤夫」など、原版に誤りがあっても、そのまま踏襲している所もある。その他、主なものを掲げると、次の通りである。

 ヾ一の4丁オ11行目=地獄→地獄(こく)

 巻五の7丁ウ1行目=国王(くわう)→国王(こくわう)

 4五の29丁ウ8行目=出ぬ→出(いて)ぬ

 ご六の8丁オ7行目=婦人(ふじん)→婦(ふじん)

 ゴ六の9丁オ4行目=諺(ことハざ)に(「に」の字形が全く異なる)

 Υ六の13丁オ3行目=北山下(ほくさんか)→北山下(ほくさんト)

 Т六の15丁オ7行目=貪(むさぶ)る→貪(むさべ)る

  ↓◆↓は振り仮名を付加したもの。イ蓮屬法廚琉曚覆訌霆饌里鮖箸辰燭發痢Δ蓮峅次廚凌兇蟆礁勝屬」を誤読したものか。Г論喫殀任凌兇蟆礁勝屬屐廚了形が「べ」に似ているのを、そのまま「べ」に改めてしまったもの。注意したいのはい如∪喫殀任療貘臻棔Γ舛任蓮嵒愎諭覆佞犬鵝法廚箸覆辰討い襪、東大本・Bでは「婦ノ(ふじん)」と「人」が欠損している。その他の異同関係をも含めて考えると、この無刊記覆刻版は、正保版の、やや後の刷りのもの(例えば、東大本・B)を利用して覆刻したものと推測される。参考のため、両版の異同の部分の写真を掲げておく(写真、41)。

 次に両版の寸法であるが、匡郭がないため判然としない点もあるが、各巻、一丁オ一行目の寸法を整理して示すと次の如くである。各蔵本によって、補修の有無や様々な条件が異なると思うが、やはり、覆刻版の方が、全体的に短いという事は言えると思う。

 

〈HTML版注=寸法表は省略。「均整初期文芸」11号を参照されたい〉

 

 都立中央図書館蔵の二本についてであるが、この二本は、いずれも、後印本と覆刻本の取合本である。東京誌料本は巻一・巻二が覆刻本、巻三〜巻六が後印本、井上文庫本は逆に、巻一・巻二が後印本、巻三〜巻六が覆刻本である。しかし、日比谷図書館では、この二つのコレクションを別々に購入したものであり、購入以前の段階で、それぞれが取合本であったという可能性が大きい。なお、井上文庫は、一冊目が巻一・巻二、二冊目が巻三〜巻六となっているが、あるいは、旧蔵者または古書店は、取合本である事を承知していたのかも知れない。

 

  〔7〕 寛政元年松村九兵衛等求版

 

 この版は、無刊記覆刻版の後印本であり、巻六を欠いているが、巻五の後見返しに刊記を付しているので、巻六なしで刊行したものと思われる。版木の破損などもかなり目立つものとなっている。現在、国会図書館(写真、42・43)に一本を蔵するのみである。

 刊記の松村九兵衛は、敦賀屋九兵衛、文海堂、松村氏、大坂順慶町五丁目、また、心斎橋筋南一丁目、錺屋町等に住し、『連歌至宝抄』(寛永四年)、『紅梅千句』(承応二年)等を刊行している(井上隆明氏『近世書林板元総覧』)。

 西村源六は、西村氏、文刻堂。享保から天保にかけて、江戸通本町三丁目に住した書肆。天保の頃、浅草黒船町に移転。『百人一句』(享保十二年)、『紫芝園稿』(宝暦二年)、『絵本浅紫』(明和六年)、『宋三家妙絶』(文化四年)等を刊行しており(井上和雄氏『慶長以来書賈集覧』)、矢島玄亮氏の『徳川時代出版者出版物集覧』には、一六九点の刊行書が掲示されている。

 渋川与左衛門は、矢島氏『徳川時代出版者出版物集覧』によれぱ、大坂で『忠義水滸伝抄訳』(天明四年)、『予之也安志夜』(寛政五年)などを刊行しているが、詳細は未詳である。

 

 

    【二】 延宝三年版絵入本系統

 

  〔1〕 延宝三年福森・村田版

 

 この版は、正保四年版系統のいずれかの版木を使用して、別に本文を作り、新たに挿絵五十七図を加添したものと解される。どの版本に近い本文であるかを判断するために、正保四年版の本文と比較した結果を、次に掲げる(範囲は、延宝三年福森・村田版の一丁〜十一丁である)。

1.延宝三年版が振り仮名を付加したもの………228

 例 明徳仏性(めいとくぶつしやう) 修行(しゆぎやう)

   誠(まこと) 福分(ふくぶん) 又(また) 子孫(しそん)

2.延宝三年版が振り仮名を省いたもの…………15

 例 其 然るに 思ひ 所 日 三十

3.延宝三年版が仮名を漢字に改めたもの………345

 例 とも→共 まて→迄 よく→能 わさハひ→禍 これ→是

4.延宝三年版が漢字を仮名に改めたもの………69

 例 明か→あきらか 虫→むし 事→こと 迷ひ→まよひ

5.仮名遣いの異同(下が延宝三年版)…………16

 愛(あひ)→愛(あい)(4) 福(さいはひ)→福(さいはい)

 愛敬(あひきやう)→愛敬(あいきよう) 互(たかひ)→互(たがい)

 あひしらひ→あいしらひ とひ→問(とい) 報(むくい)→報(むくひ)

 おもむき→をもむき おこなひ→をこなひ 夫(おつと)→夫(をつと)

 いとをしく→いとおしく 家(いへ)→家(いゑ)

 毛頭(もうとう)→毛頭(もうたう)

6.送り仮名を振り仮名に変えたもの……………5

 行(をこな)ひ→行(をこなひ) 理(ことハ)り→理(ことハリ)

 禍(わさハ)ひ→禍(わさハひ) 迷ひ→迷(まよひ)

 慰(なぐさ)ミ→慰(なくさミ)

7.用字の異同………………………………………6

 誠→実(まこと) 誠(まこと)→実(まこと) 我→吾(わが)

 在(あり)→有(あり) 容儀(ようぎ)→容義(ようぎ)

 難儀(なんぎ)→難義(なんぎ)

8.助詞を補ったもの………………………………3

 ところ有(あり)→所に有(あり) 男(おとこ)→男(おとこの)

 おとこ→男(おとこの)

9.その他の異同……………………………………2

 ヾ嫣雋之一

        → 鑑草巻之一 孝逆之報

  孝逆之報

 △とあるふりのつかへなれハ→かと有物のつかへなれバ

 右の異同を見るに、延宝三年版は、仮名を漢字に改め、振り仮名を付加し、送り仮名を振り仮名に改めるなど、いずれも、内容の改変というよりも、丁数の節減が目的であったものと思われる。仮名遣い、用字の異同も、この際、特に問題にする必要はないと思う。その他、全巻の中で目につく異同を掲げると以下の如くである。

 丁数行数は正保四年版で示した。

 巻二の20丁オ2行目=つぶさかに→つぶさに

 巻三の2丁ウ4行目=(行間に補刻)これ妬毒の報その三なり→

            是妬毒の損其三也(と本文に挿入)

 巻三の10丁ウ3行目=晋国(しこく)→晋国(しんこく)

 巻三の13丁オ11行目=すなハぢ→すなハち

 巻三の20丁オ9行目=●《「霊」の異体字》氏(れし)→●氏(れいし)

 巻四の2丁ウ9行目=災ひ(わさわひ)→災(わさは)ひ

 巻五の6丁ウ1行目=国王(くわう)→国王(こくわう)

 巻五の13丁ウ9行目=もとむき→もとむへき

 巻五の13丁ウ11行目=秦潤夫(んしゆんふ)→秦潤夫(しんしゆんふ)

 巻五の20丁ウ3行目=甲生(しんせい)→申生(しんせい)

 巻六の11丁オ4行目=奉(たてまつら)らん→ 奉(たてまつ)らん

 これらの異同は、正保四年版の版木の欠損などによる誤りを、延宝三年版が正しているが、いずれも常識的なもので、この時、すでに藤樹は他界しているのであるから、書肆が正したものであろう。

 ただ、前述の異同の中の「9.その他の異同」は注意すべきである。

  内題と項目名を、正保四年版、万治二年版、寛文九年版、寛政元年版、無刊記覆刻版は、いずれも二行書きにしているが、延宝三年版は一行書きに改めている。一行書きのスタイルは、天明元年版の巻一のみに見られる。延宝三年版は、各巻、内題と項目名を一行書きにしているが、これは、巻一は天明元年版に従い、巻二以後は巻一のスタイルに準じて改めたものと思われる。

 ◆∪喫飮庸版、巻一の八丁オ八行目であるが、各版は次の如くなっている。

正保四年版 =ましてかとあるふりのつかへなれハ

無刊記覆刻版=ましてかとあるふりのつかへなれハ

寛文九年版 =ましてかとあるふりのつかへなれハ

天明元年版 =ましてかど有物(あるもの)つかへなれバ

延宝三年版 =ましてかど有(ある)物つかへなれバ

 前述の如く、寛文九年版は、巻一の一丁〜五丁を改刻し、天明元年版は、さらに、巻一の六丁〜八丁を改刻している。この改刻の折に、天明元年版が、このように改めたらしく、それを、絵入本の延宝三年版は踏襲したものと思われる。

 これらの異同を考え合わせると、その数こそ少ないが、天明元年版と延宝三年版の本文が近い関係にある事は明らかであり、従って、延宝三年版は、天明元年版を使った可能性が高いという事になる。しかし、延宝三年は天明元年より百年余も前であり、これは、あり得ない事である。つまり、天明元年版には、さらに早い頃に刷られた版が在ったものと推測される。その印刷年代は、寛文九年以後、延宝三年以前という事になるが、おそらく、延宝三年から、あまり遡らない頃、延宝元年の頃ではないかと思われる。その版の本文を使って、挿絵を新加したのが、延宝三年福森・村田版ではないかと、現時点ではこのように推定しておく。

 書肆の目録(66ページ)では、延宝三年四月、京都の毛利文八刊の『古今書籍題林』には絵入本は出ていないが、同じ三年の五月刊の江戸版『新増書籍目録』には記載されている。江戸で出された目録だが、前者より後の発行であるため記載されたのかも知れない。

 版元の一人である「福森兵左衛門」は、万治頃からの書肆で、京都五条通高倉西入ルに住した。『おもかけ物語』(万治三年)、『子孫鑑』(寛文十三年)、『怪談全書』(元禄十一年)などを発行している。なお、元禄九年、宝永六年、正徳五年の目録には絵入本の版元として「福森」と出ている。もう一人の「村田庄五郎」は、『原人論発微録』(万治四年)、『仏説仁王護国般若波羅蜜多経疎補宝記』(延宝九年)、等を出版している(井上隆明氏『近世書林板元総覧』)。

 伝存諸本の中で、京都大学附属図書館本(写真、44・45・46・47・48・49・50)と、中江藤樹記念館本(写真、51・52)の表紙等の写真を掲げた。なお、この京都大学本の原題簽と、正保四年風月宗知版の中の、謙堂文庫本のものが同じ版木に拠るものであることを注意しておきたい。

 この延宝三年版の大きな特色は、全五十七図の挿絵を追加したことである。この作品の主たる原典が『迪吉録』であることから、その挿絵は、当然のことながら漢画風である。ただ、この挿絵について、現在のところ未調査である。花田富二夫氏の「仮名草子漢画風挿絵考」(注5)という、示唆に富む論文が発表されているので、今後、本書の挿絵についても、調査・考察を加えたいと念じている。なお、この五十七図の挿絵は掲出しないが、『仮名草子集成』第十四巻にが収録されているので参照願いたい。

 

  〔2〕 無刊年記福森・村田後印本

 

 この版は、延宝三年福森・村田版の後印本であるが、巻六の十六丁オの挿絵を削除し、十六丁ウに入っていた刊記を後見返しに貼付している。また、刊記の「延宝三乙卯年」を削除している。伝本は大阪女子大学附属図書館本(写真、53・54)と香川大学附属図書館本(写真、55)の二点である。

 以下の版と共に、絵入でない天明元年尾張屋版までの間に刊行されたものであろう。

 

  〔3〕 無刊記植村求版

 

 この版は、福森・村田版の求版で、刊記の部分は「板行」の二字のみ、元のものを残し、書犀名は入木している。また、その書体も明朝体に改めている。伝本は、金沢大学附属図書本(写真、56・57・58)の一本を見たのみである。

 刊記の「植村藤右衛門」は、天和から文政にかけての書肆で伏見屋玉枝軒と号した。「藤三郎」は江戸店で享保以後宝暦頃まで出版に従事している、錦山房とも号した。金沢大学附属図書館のカードは「寛文9年版」としているが、現物はこの本である。

 

  〔4〕 無刊記版

 

 この版は、延宝三年福森・村田版の後印本であるが、巻六の十六丁ウの刊記は全て削除されている。従って、〔3〕の無刊記植村求版よりも後の出版と推測される。伝本は、学習院大学附属図書館本を調査し得たが、他に、岐阜市立図書館に、巻四、巻六の二冊を所蔵する事を、国文学研究資料館のマイクロフィルムで知り得た。

 

  〔5〕 その他

 

 ここには、絵入本ではあるが、様々な条件で、前述の〔1〕から〔4〕までの、いずれとも断定し得ないものを一括した。

  京都大学文学部本は、巻六を欠くため、断定は出来ないが、文字の破損状態等の比較によれば、〔2〕の大阪女子大学本よりも早い刷りと思われる。

 ◆中江藤樹記念館・A本(写真、59・60・61・62)は巻六の十六丁が落丁のため刊記が無い。この刊記の部分を、大正十一年に小川喜代蔵氏が書写で補っている。小川氏は、京都大学附属図書館本(〔1〕の 砲傍鬚辰特藜造暴饉未靴討い襪、この本の刷りの状態は、〔2〕の大阪女子大学本に近いものとなっている。

 、中江藤樹記念館・B本は、巻一〜巻四を存し、巻五、巻六を欠くが、刷りは、〔2〕の大阪女子大学本に近い後印本と思われる。

 ぁ中江藤樹記念館・C本は、巻五のみの端本である。

 

 

  写  本

 

 中江藤樹記念館にも、藤樹の自筆草稿、写本は所蔵されていない。写本では、静嘉堂文庫の一本のみであるが、これは、正保四年版の写しと思われる。この写本の第一冊目は、天保元年十二月に源長松なる人物によって書写されたものである事が、その書写奥書から推定される。おそらく、第二冊目も引き続き同人によって書写されたものであろう。本文は正保四年版と同様であり、振り仮名を省略したものもあり、漢字・仮名の異同も少しはあるが、行数・字詰も同じで、かなり忠実な書写本である。ただ、巻二、巻六等が省かれている。

 以上、『鑑草』の諸本を実地に調査して、分類を試みた。未調査本も数点残っているが、今後、折をみて調査を重ね補訂したいと思う。以上の調査結果に基づいて、諸本の系統図(95ぺージ)を作ってみたが、勿論、試案である。

 

〈諸本系統図(試案)はHTML版では省略〉

 

 

 

『鑑草』の翻刻・影印

1.武家時代女学叢書・第一編 梅沢精一編校注(明治39年1月1日、有楽社発行)

2.中江藤樹文集(有朋堂文庫)三浦理編、武笠三校訂(大正3年1月10日、有朋堂書店発行)

3.婦人文庫・教訓 芳賀矢一他編(大正3年4月30日、婦人文庫刊行会発行)

4.藤樹先生全集・第三冊 高橋俊乗解題校訂(昭和3年、藤樹書院発行。昭和15年2月25日増訂版、岩波書店発行)

5.大日本思想全集・2(巻一のみ収録)中江藤樹集・熊沢蕃山集、上村勝弥編(昭和9年7月18日、大日本思想全集刊行会発行)

6.鑑草(岩波文庫)加藤盛一校註(昭和14年4月17日、岩波書店発行)

7.家政学文献集成・続編・江戸期・后癖製)田中ちた子・田中初夫編(昭和44年3月15日、渡辺書店発行)

8.仮名草子集成・第十四巻 朝倉治彦・深沢秋男編(平成5年11月20日、東京堂出版発行)

 

 



1.慶応義塾大学附属研究所・斯道文庫編『江戸時代書林出版書籍目録集成』(昭和37年12月25日〜昭和39年4月25日、井上書房発行)に拠った。また、万治写本については、禰吉光長氏の『未刊史料による日本出版文化』第四巻(平成元年7月20日、ゆまに書房発行)に拠る。

2.井上和雄氏『慶長以来書賈集覧』(大正5年9月25日、彙文堂書店発行)。

3.矢島玄亮氏『徳川時代出版者出版物集覧』(昭和51年8月30日、同刊行会〈東北大学〉発行)。

  井上隆明氏『近世書林板元総覧』(昭和56年1月31日、青裳堂書店発行)。

4.前記、井上和雄氏、矢島玄亮氏、井上隆明氏の各著書に拠る。以下、書肆、及び出版物に関しては、三氏の著書に拠った。

5.花田富二夫氏「仮名草子漢画風挿絵考」(『大妻女子大学紀要―文系―』第二十五号(平成5年3月)。

 

 

  付、  記

 この度の調査に際し、大阪女子大学附属図書館、お茶の水図書館、香川大学附属図書館、金沢大学附属図書館、学習院大学附属図書館、京都大学附属図書館、京都大学文学部図書室、謙堂文庫、国文学研究資料館、国立国会図書館、佐賀大学附属図書館、静嘉堂文庫、筑波大学附属図書館、東京大学総合図書館、都立中央図書館、中江藤樹記念館、福島県立図書館、早稲田大学中央図書館の御高配を腸りました。

 高橋俊乗氏、加藤盛一氏、青山忠一氏の研究に教えられるところが多大でありました。

 朝倉治彦氏には、調査過程で具体的な御指導を腸りました。近江聖人中江藤樹記念館館長の萬木甚一良氏には、格別の御配慮と御教示を腸りました。田中直日氏は、御所蔵本に関し、御多忙の中、時間を割いて下さいました。

 以上の諸機関、諸先生に対し、心からの感謝と御礼を申し上げます。

 慶安元年八月二十五日、四十一歳という若さでこの世を去った著者・中江藤樹の偉大さに、改めて感動を覚え、『鑑草』の内容研究に対する意欲をかきたてられました。未調査本の補訂と共に、今後の課題にしたいと思います。      (平成6年8月29日)

(『近世初期文芸』第11号 平成6年12月10日発行 に掲載)


斎藤親盛(如儡子)の俳諧(上)



   一,は じ め に

 斎藤親盛(如儡子)の俳諧について最初に言及したのは,田中伸氏である。田中氏は,「如儡子の注釈とその意義」の末尾に補注として,次の如く記しておられる。
 「斎藤親盛は寛文始め頃から延宝の初めまで俳人として活躍をしている。さきの『桜川』(四十句)を始め、同じ風虎編の『夜の錦』(七句)、松江重頼編の『佐夜中山集』(二句)、松江維舟(重頼)編の『時勢粧』(五句)、北村季吟編の『続連珠』(一句)などに入句が見られる。特に『時勢粧』には、同じ二本松の斎藤友我と両吟百韻を寛文五年の十一月に興行し、折から松島まで赴き帰洛の途にあった維舟の点を付して掲載されている。それらの句を見ると、『可笑記』に見られた激しい世相批判とは変って、俳諧に楽しんでいる平穏な晩年がしのばれるのである。そしてその俳諧の師は松江維舟であった。当時の俳人としては古典の教養を必要とし、本論にとり上げた『百人一首鈔』などもその一翼をになうものであったと見ることが出来るのである。」
 これを受けて,野間光辰氏が少し具体的に整理しておられる。
 「……俳諧は、二本松に在住するようになってから、同藩の松江維舟門の好子江口塵言・水野林元・斎藤友我・同如酔・小沢衆下・長岡道高等に誘われて入ったようで、晩学にしては出精の甲斐あって、相当の成績を挙げている。前にも記したことであるが、これは田中伸氏の指摘によって気づいたことで、田中氏は前引「百人一首鈔と酔玉集」なる論文の補注として要点だけを挙げて居られる。今ここには、入集俳書の年代に従ってその句数を示し、若干の作例を挙げる。
  寛文四年
   重頼撰『佐夜中山集』  発句二
  寛文六年
   風虎撰『夜の錦』(『詞林金玉集』ニ抄出)  発句七
  寛文十二年
   風虎撰『桜川』  発句三七(句引四〇)
   維舟撰『今様姿』  発句五/両吟百韻一(句引四)
  延宝三年
   重安撰『糸屑集』  発句一
  延宝四年
   季吟撰『続連珠』  発句一(句引四)
  ○花の兄やこれも接木のだいがはり
  ○田舎にて花の都や和哥の友
  右の二句、『佐夜中山集』巻一追加に入集、二本松住斎藤親盛の作の俳書に見える最初である。「田舎にて」の発句は、これは、東北の田舎にあって恰も花の都にある如き思いをする、偏に塵言・林元・友我等の風雅の友を得たるためである、という意を寓したものであろう。『中山集』の巻一より巻五までは、寛文四年九月二十六日付重頼奥書を添えて板行せられているが、翌五年重頼は維舟と号を改め、同年四月三日東行の途に着いている。その行程は、寛文十二年三月の跋ある『今様姿』所収の発句詞書に詳しい。まず京より木曽路を経て一旦江戸に出で、それより奥へと志して日光に参詣し、白河の関を越えて、二本松城下に入ったのはその七月であった。二本松には前後十数日滞在して、塵言・林元等の独吟百韻に引点し、また彼等の外に、道高・友我等を加えた四吟・五吟の百韻をも興行している。如儡子が維舟に師事したのはこの時であって、後年板行せられた『今様姿』に入集の発句も、またこの頃の作であったに相違ない。そして維舟が末松山・松島の名所一見に旅立った後、十一月十日に同姓友我と「何霜百韻」一巻を両吟して、師走上旬江戸を経由帰京した師の許に送って点を乞うている。
     寛文五年霜月十日
      何 □
   出立は足もとよりぞ鷹の鳥        親 盛
    是は夜の間か雪の道筋         友 我
   遠山も花咲たりと聞付て           〃
    永/\し日もあかぬ野心          盛
   ひたぶるに猫は妻をし呼廻          〃
    やねも戸びらも春めきにけり        我
   朧げの月を見廻す庭の景           〃
    酒のむしろにしくは御座らぬ        盛
                             (下略)
      付墨 五十句
       此内 長十五
     斎藤親盛  点廿四 内長八
     斎藤友我  点廿六 内長七       (第四下)
 百韻はこの一巻の外は見当らぬ。発句は諸書の句引合計六十九句、内重複分を差引けば五十八句となるが、『桜川』の如く入集句の実数と誤差あり、また『続連珠』の如く伝本いずれも零本なるため、入集句の全部を確かめ得なかったものもあり、結局において、今日判明しているのは五十四句である。例によって、維舟流の、古歌・詩文・諷・小歌・舞・狂言等の詞を裁ち入れた句が殆どであるが、只句の作にむしろ作者の生活を窺い得るものがある。
  ○老人や子に伏寅に置火燵 」

 田中伸氏・野間光辰氏の研究は以上の如くである。両先学の調査を参照し,さらに,今栄蔵氏の『貞門談林俳人大観』を利用させて頂いて調査した結果を整理すると以下の通りである。


   二,斎藤親盛の俳諧作品

 1,松江重頼撰『佐夜中山集』  寛文四年

 佐夜中山集巻之一
 追加春
1 花の兄やこれも接木のたいかはり     斎藤親盛
2 田舎にて花の都や和哥の友        斎藤親盛

 2,内藤風虎撰『夜の錦』(『詞林金玉集』抄出)寛文六年

  巻一 春一
1 夜錦 万代をかけて祝ふやおめて鯛    親盛/奥州二
                      本松/斎藤氏
  巻二 春二
2 中山 花の兄や是も接木のたいかはり   親盛/奥州二
                      本松/斎藤氏
  巻三 春三
3 同集 あけぬるや雲のいつこにいかのほり 親盛/奥州二
  (夜錦)                本松/斎藤氏
  巻四 春四
4 中山 田舎にて花の都や和歌の友     親盛/奥州二
                      本松/斎藤氏
  巻八 夏二
5 夜錦 夏引の手挽にするは麦粉かな    親盛/奥州二
                      本松/斎藤氏
  巻十一 秋二
6 夜錦 虚空より鉄花をふらす花火哉    親盛/奥州二
                      本松/斎藤氏
  巻十二 秋三
7 夜錦 塩くみやふりさけ見れは桶の月   親盛/奥州二
                      本松/斎藤氏
  巻十三 秋四
8 同集 金柑やけに色にそみ皮にめて    親盛/奥州二
  (夜錦)                本松/斎藤氏
  巻十四 冬一
9 夜錦 風ふけはをきつしらかに綿帽子   親盛/奥州二
                      本松/斎藤氏
  巻十五 冬二
10 時世 出立は足もとよりそ鷹の鳥     親盛/奥州二


                      本松/斎藤氏
  巻十五 冬二
11 時世 たかや又生るを放つぬくめ鳥    親盛/奥州二
                      本松/斎藤氏
   作者句引
  二本松之住
江口氏/塵言  春九句 夏三句 秋十句 冬四句 〆二十六句
水野氏/林元  春九句 夏四句 秋五句 冬六句 〆二十四句
日野氏/好元  春七句 夏五句 秋六句 冬三句 〆二十一句
長岡氏/道高  春七句 夏六句 秋三句 冬三句 〆十九句
斎藤氏/親盛  春四句 夏一句 秋三句 冬三句 〆十一句
同 氏/友我      夏二句 秋四句 冬一句 〆七句
小沢氏/衆下  春二句 夏二句     冬二句 〆六句
不破氏/一興  春三句         冬二句 〆五句
中井氏/正成  春一句 夏二句 秋二句     〆五句
奥田氏/方格  春二句 夏一句 秋一句     〆四句
斎藤氏/如酔  春二句 夏一句         〆三句
小川氏/可著  春一句 夏一句 秋一句 冬一句 〆四句
須藤氏/之也  春一句 夏一句 秋一句     〆三句
寺田氏/寒松      夏二句 秋一句     〆三句
今村氏/林昌  春一句     秋一句     〆二句
    正秀  春一句    古市氏/正信   夏一句
    古硯  春一句    小池氏/又笑   夏一句
佐藤氏/幸之  夏一句        秀伝   秋一句
白岩氏/人任  夏一句    伴 氏/人似   冬一句
安保氏/一実  夏一句    土屋氏/有房   夏一句
豊田氏/政氏  冬一句    下河辺氏/□□  春一句
釈 氏/知蔵司 秋一句    釈 氏/随言   秋一句

 3,内藤風虎撰『桜川』 寛文十二年

 春 一
1 お流れや二つ瓶子に三つの春       斎藤親盛
2 松の戸やたえ/\ならぬ春の礼      斎藤親盛
    卯杖
3 いはふとて朝に杖つく卯の日哉      斎藤親盛
4 はま弓やひかりさしそふいはひ月     斎藤親盛
5 笠鉾やかけ奉るひたち帯         斎藤親盛
6 札押やみな身の祈祷二月堂        斎藤親盛
7 をく露や声にちほく・いもかへる     斎藤親盛
8 栢の木に巣こもりやする碁石鳥      斎藤親盛

 春 二
9 秋もあれと松の海辺菊池の里       斎藤親盛
10 うとの朱うはふ防風や膾のこ       斎藤親盛
    菫
11 武さし野は本むらさきの菫かな      斎藤親盛
12 けかれぬや蒜慈悲の高野山        斎藤親盛
13 わらはへもあしたをまつやとり合せ    斎藤親盛

 夏 一
    灌 仏
14 あかなくにまたき生湯や如来肌      斎藤親盛
15 いちこもやまいたるつるはいはら垣    斎藤親盛
16 月の夜はうをのたなゝし鵜舟哉      斎藤親盛
17 宇治丸のなれ押そおもふ桶のすし     斎藤親盛

 夏 二
18 山復山みねより出てや雲の岑       斎藤親盛
19 扇あれはいつも夏かと御影堂       斎藤親盛
20 三春迄着るや岩城のちゝみ布       斎藤親盛
21 一瓢も千金なれや水あそひ        斎藤親盛

 秋 一
22 鼠火は尻に立ゝ大路かな         斎藤親盛

 秋 二
23 口紅粉のあけをうはふやめはうつき    斎藤親盛
    菽
24 是は畑のつくりもの也碁いしまめ     斎藤親盛
    粟田口祭
25 祭見やいそしの栄花あはた口       斎藤親盛
26 鴫は鴨の羽ねかきまかふ文字哉      斎藤親盛
27 手折てやまた見ぬ人にこい紅葉      斎藤親盛

 冬 一
28 炭櫃もや一家ひらけて四方の冬      斎藤親盛
29 かけはこそ菩提樹となれ木葉経      斎藤親盛
30 菅笠や憂世の民のしもおほひ       斎藤親盛
31 二季まてみきとこたへん帰花       斎藤親盛
32 出雲にや雪垣つくる軒の妻        斎藤親盛
33 降雪やこしのしら山馬のくら       斎藤親盛
34 つく餅や手水のこりて薄氷        斎藤親盛

 冬 二
35 追鳥やせこにもれたる草かくれ      斎藤親盛
36 渋柿もしゆくしにけりな色紙子      斎藤親盛
37 ひゝきらす神や手なつちあしなつち    斎藤親盛
38 笛太鼓おもしろひそよ小夜かくら     斎藤親盛
39 今日斗あすはかすみの節季0       斎藤親盛
40 海やあるまくらのしたにたから船     斎藤親盛

 二本松住
水野林元  春五十六句 夏二十一句 秋四十一句 冬四十三句
      〆二百一句
日野好元  春五十一句 夏五十二句 秋四十五句 冬三十七句
      〆百八十二句
小沢衆下  春二十七句 夏三十五句 秋三十二句 冬二十四句
      〆百十八句
江口塵言  春三十六句 夏二十四句 秋二十六句 冬二十二句
      〆百八句
内藤未及  春二十六句 夏二十九句 秋十三句  冬十二句
      〆八十句
中井正成  春十四句  夏二十二句 秋十八句  冬十六句
      〆七十句
斎藤如酔  春十五句  夏二十句  秋十八句  冬十三句
      〆六十六句
後藤之也  春十七句  夏八句   秋十二句  冬十四句
      〆五十一句
下河部□□ 春十四句  夏十一句  秋十句   冬八句
      〆四十三句
斎藤親盛  春十三句 夏八句 秋六句 冬十三句 〆四十句
小池又笑  春十一句 夏八句 秋六句 冬十四句 〆三十九句
奥田方格  春五句  夏九句 秋五句 冬七句  〆二十六句
釈 随言  春八句  夏四句 秋五句 冬六句  〆二十三句
白岩人任  春三句  夏二句 秋五句 冬六句  〆十六句
斎藤友我  春四句  夏四句 秋一句 冬五句  〆十句
長岡道高  春五句      秋一句 冬二句  〆八句
座頭城益  春二句  夏三句          〆五句
佐野相興  春一句  夏一句 秋二句 冬一句  〆五句
伴 人似

  春三句      秋二句      〆五句
安田未元  春二句      秋三句      〆五句
0山子   春二句  夏一句     冬二句  〆五句
日野好久       夏一句 秋二句 冬一句  〆四句
大崎口友  春三句      秋一句      〆四句
佐藤幸之  春三句  夏一句          〆四句
滝川寸志  春二句          冬一句  〆三句
寺田万之助          秋二句 冬一句  〆三句
安積治水子 春二句      秋一句      〆三句
藤村守幸       夏二句     冬一句  〆三句
青戸未入  春二句          冬一句  〆三句
小松崎破衣 春一句    貝山友志  冬一句
佐藤萍心  春一句    清水直治  冬一句
寺田守昌  春一句    壱田政氏  冬一句
松下是一  春一句    石橋0同  冬一句
土屋有次  春一句    三崎如雲  冬一句
金田古硯  春一句    今村林昌  冬一句
津田正吉  秋一句    横山笑甫  冬一句
山田相知  秋一句    鈴木友言  冬一句

 4,松江維舟撰『時勢粧』 寛文十二年

 第一
 夏 部
    蓮
1 はすを御池糸もかしこし花の色      斎藤親盛
 秋 部
    鹿
2 よきてけふ萩のあたりを鹿の笛      斎藤親盛
 冬 部
    霜
3 霜八たび置てや鐘の七つ六つ       斎藤親盛
 第二
 冬 部
4 老人や子に伏寅に置火燵         斎藤親盛
    鷹
5 鷹や又生るを放つぬくめ鳥        斎藤親盛

 句数之事
 二本松之住
塵言    四十一      水野林元 三十九
日野氏好元 四十       長岡道高   七
中井正成   十一      小沢衆下  十五
丹羽捨拾    一      佐野相興   一
野沢似言    一      毛利以由   一
今村林昌    一      奥田方格   一
河村惣広    一      小池又笑   四
斎藤親盛    四      下河部□□  三
白岩人任    三      内藤未及   二
土屋有房    二      日野好久   二
伴人似     二      不破一興   四
須藤之也    八      斎藤友我   五
斎藤如酔   十四      釈随言    五
釈永雲     一

 時勢粧小鏡

 夏部
   祓
1 猶おかし水無月祓虫払         斎藤親盛

 第四下
  寛文五年霜月十日     《注》 □=長点  ◇=点
   何 0
1 □出立は足もとよりぞ鷹の鳥         親盛
2  ◇是は夜の間か雪の道筋          友我
3 □遠山も花咲たりと聞付て           々
4   永/\し日もあかぬ野心          盛
5 ◇ひたぶるに猫は妻をし呼廻          々
6   やねも戸びらも春めきにけり        我
7  朧げの月を見晴す庭の景           々
8   酒のむしろにしくは御ざらぬ        盛
9 ◇鼻歌のふし立中も和ぎて           我
10   あるまひ物よ恋の関もり          盛
11  我罪はよもや色には伊豆箱根         我
12  □多くはとらぬひとふたみかん        盛
13 ◇花車にもる膾も栗もいさぎよし        我
14  ◇月になる迄数奇の伴ひ           盛
15 ◇蹴鞠は幾日もあらじ秋の暮          我
16   そぼ/\雨はふるかふらぬか        盛
17 ◇乗物の簾はあけようつとうし         我
18   野がけあそびは遠がけの道         盛
19  世をうしとしらぬ人々たはぶれて       我
20   此方ばかり岩のかくれ家          盛
21 ◇鬼有といふは真か大江山           我
22   分て生野に女ちらめく           盛
23 □若草をやくたいもなき物思          我
24   えんをも結ぶ春の夜の夢          盛
25 ◇佐保姫もしろしめされん文のうち       我
26  ◇いざやとく/\居て朝鷹          盛
27  寒空を忘な樽の底ごゝろ           我
28   北国道はいまおもひたつ          盛
29  我君のあたかの事はいかゞせん        我
30   只ならぬ身となるやお手かけ        盛
31  とはぬ夜は秋もたんぽを肌にそへ       我
32  ◇露涙にぞ寝巻ひぢぬる           盛
33  恋病に月の形を見まくほし          我
34   大宮人はとかくやさがた          盛
35 □けやけきも臥猪の床と云なして        我
36   むさくさ茂る木陰山陰           盛
37 ◇住捨て一両年を古屋敷            我
38   我身ばかりは泣のなみだよ         盛
39 ◇心なき影法師さへ面やせて          我
40  □鴫立沢の水は道ばた            盛
41  秋風にはや汗入て岑の月           我
42  □かけ出にけり野にも山伏          盛
43 ◇狼をとらんとするも穴賢           我
44   狐を見ればどれも顔白           盛
45  朝清め雪かきのくる墓原に          我
46   此春ばかり仏とふらん           盛
47 ◇老が目は霞て三輪の山遠み          我
48  ◇日もあたゝかな有馬の出湯         盛
49 ◇花の陰小篠のさゝの酔機嫌          我
50  ◇鶯袖もひいつひかれつ           盛
51 ◇三線のいとゞ心もうかれ女に         々
52   うそ恥かしの我が口笛           我
53 ◇飛蜂を払へどく・まのあたり         盛
54   みなみの日請しづかなる山         我
55  若の浦吹上浜は扨もく・           盛
56  ◇波ではないかや菊の花           我
57 ◇紅葉さへうかべる月の舟遊び         盛
58  ◇露を悲しぶ一首の詠歌           我
59  急雨の雨もはらく・霧も立          盛
60   涙こゝろは只しほく・と          我
61 □しばらくは別の顔をまもり合         盛
62  □夜討を思ふ続松の影            我
63 ◇弓も矢も堀川筋を前に向           盛
64  □安山子も作る里の新田           我
65  さし柳苦竹の葉も散交り           盛
66   月までをどる雀色時            我
67  宮めぐりめぐりく・て下向して        盛
68  ◇なふ思ひだす御幸の車           我
69 ◇とつと其昔も今も小塩山           盛
70   けぶりくらべや松陰の茶屋         我
71  莨□にも名残ハ尽ぬ習にて          盛
72   別し方はあちと見かへる          我
73  横雲の空泣又は恨なき            盛
74   つれなき様は郭公かの           我
75  金衣鳥銀薄付しゑりもがな          盛
76   まづ/\祝へ若ゑびす殿          我
77 ◇書初の紙は中にも花ぐ・し          盛
78  ◇掟を触る御入部の春            我
79 ◇上下もさゞめきわたる勝軍          盛
80   あれかは竹の螢乱るゝ           我
81  秋すでに昨日今日迄水心           盛
82  □朝げの風に団扇さへ置           我
83  月見しつ酒あたゝめつ寝つ起つ        盛
84   やもめのくせや長夜はうし         我
85 ◇いつも/\烏がなけば暇乞          盛
86  ◇涙に袖はぬれぬ鷺の如           我
87 ◇冬までも残るは無か形見草          盛
88   氷れるは閼伽も弥陀の一体         我
89  極楽ををしへのお文忝な           盛
90   玉のをばかり逢たや見たや         我
91 ◇恋死も今や/\と心ぼそ           盛
92  ◇おもゆすゝり又すゝりなき         我
93 □みなし子をだいつかゝへつ膝の上       盛
94  □木幡の里に前後白雪            我
95 □馬はをはで焼火のそばに一眠         盛
96   尻たれ帯の下女にもほるゝ         我
97  たすきがけこなたかなたへ口説寄       盛
98   など世の中のからいぞく・         我
99 □竹に入こがしも花の香に匂ひ         盛
100   ◇事かり初に出しつゝしみ          我
       付墨 五十句
        此内 長十五
      斎藤親盛  点廿四 内長八
      斎藤友我  点廿六 内長七

 5,宗善庵重安撰『糸屑集』 延宝三年

 糸屑集巻三秋部
    穂 蓼
1 味はひもから紅の穂蓼哉         奥州/親盛

 糸屑集句引
  陸奥
 岩城/風鈴軒 五  同/如白 一
    道高  三    久経 一
    笑草  一    嘉□ 二
    親盛  一    正利 一
    久隆  一    師□ 一
    清後  一    林元 二

 6,北村季吟撰『続連珠』 延宝四年

 続連珠誹諧集巻第十一
  春発句上
1 はや乙矢順のこふしや弓始       二本松/親盛

 続連珠作者 并 句数
  陸奥国/卅九人
風鈴軒 付句二/発句二百四十五  岩城松賀氏/紫塵 六
二本松/林元 一         二本松/親盛 四
同(二本松)日野氏/好元 五   岩城吉田氏/俊貞 四
岩城塩川氏/如白 四       南部盛岡平井氏/順□ 一
岩城浅香氏/英総 七       岩城亀室 三
南部小館氏/長意 四       合津津川住/重房 二
合津津川住/由房 一       仙台/不及 六
岩城長沢氏/寺常 十四      白川/柳雪 二
南部北川氏/秀将 七       二本松小沢氏/衆下 七
合津津川住/宣房 三       白川梯雲軒/霞鵆 十三
南部盛岡氏/勝重 四       二本松/正成 二
岩城次田氏/東竹 二       奥田氏/蜘紫 六
岩城江名口氏/季堅 一      同(岩城)山井氏/重元 一
白川大宮氏/玄長 一       合津津川住/次政 一
二本松/秀伝 二         南部盛岡村井氏/正尹 一
磯江氏/勝盛 一         二本松/塵言 一
南部隣松軒/正焉 三       合津津川三村氏/吉重 一
岩城/塩川氏女 一        白川勾坂氏/一曲 二
南部/政俊 一          二本松小□住/如酔 一
岩城山井氏/水吟 一

 〔参 考〕
 7,那賀盛之予撰『境海草』 万治三年

    夏
1 五月雨は船ながしたる酒屋哉         親盛

     大 坂
   休甫  二   井蛙  二
   悦春  二   清次  二
   正風  壱   雅氏  二
   伯貞  一   親盛  一
   常直  四

 以上,親盛の発句と両吟百韻を,現在確認し得たものを整理して掲げたが,その結果,『佐夜中山集』二句,『夜の錦』十一句,『桜川』四十句,『時勢粧』五句,『時勢粧小鏡』一句,『糸屑集』一句,『続連珠』一句,『境海集』一句,合計六十二句となり,これに,『時勢粧』収録の斎藤友我との両吟「何0百韻」一巻が加わる。発句を整理して一覧すると以下に掲げる通りである。全六十二句中,4・6は『佐夜中山集』と重複し,13は『時勢粧』と重複する。また,12は『時勢粧』収録の友我との両吟「何□百韻」の発句である。『続連珠』は「作者 并 句数」の項に「二本松/親盛四」とあるが,発句一句しか確認できなかった。62は『境海集』の句であるが,この集には、京・江戸・大坂・天満・奈良・長崎・讃岐・伊勢・紀州・平野・三宅・八木・布忍・堺住の俳人が収録され
ていて,陸奥・二本松は入っていない。そして「大坂」の条に「親盛 一」とある。これを斎藤親盛と同一人とは断定出来ないが,参考のため掲げた。従って、以上の結果を差引きすると,現在確認しえた親盛の発句は五十七句ということになる。

 斎藤親盛の発句一覧

1 花の兄やこれも接木のたいかはり  
2 田舎にて花の都や和哥の友     
3 万代をかけて祝ふやおめて鯛    (夜の錦)
4 花の兄や是も接木のたいかはり   (佐夜中山集)
5 あけぬるや雲のいつこにいかのほり (夜の錦)
6 田舎にて花の都や和歌の友     (佐夜中山集)
7 夏引の手挽にするは麦粉かな    (夜の錦)
8 虚空より鉄花をふらす花火哉    (夜の錦)
9 塩くみやふりさけ見れは桶の月   (夜の錦)
10 金柑やけに色にそみ皮にめて    (夜の錦)
11 風ふけはをきつしらかに綿帽子   (夜の錦)
12 出立は足もとよりそ鷹の鳥     (時勢粧百韻発句)
13 たかや又生るを放つぬくめ鳥    (時勢粧)
14 お流れや二つ瓶子に三つの春    
15 松の戸やたえ/\ならぬ春の礼   
16 いはふとて朝に杖つく卯の日哉   
17 はま弓やひかりさしそふいはひ月  
18 笠鉾やかけ奉るひたち帯      
19 札押やみな身の祈祷二月堂     
20 をく露や声にちほ/\いもかへる  
21 栢の木に巣こもりやする碁石鳥   
22 秋もあれと松の海辺菊池の里    
23 うとの朱うはふ防風や膾のこ    
24 武さし野は本むらさきの菫かな   
25 けかれぬや蒜慈悲の高野山     
26 わらはへもあしたをまつやとり合せ 
27 あかなくにまたき生湯や如来肌   
28 いちこもやまいたるつるはいはら垣 
29 月の夜はうをのたなゝし鵜舟哉   
30 宇治丸のなれ押そおもふ桶のすし  
31 山復山みねより出てや雲の岑    
32 扇あれはいつも夏かと御影堂    
33 三春迄着るや岩城のちゝみ布    
34 一瓢も千金なれや水あそひ     
35 鼠火は尻に立ゝ大路かな      
36 口紅粉のあけをうはふやめはうつき 
37 是は畑のつくりもの也碁いしまめ  
38 祭見やいそしの栄花あはた口    
39 鴫は鴨の羽ねかきまかふ文字哉   
40 手折てやまた見ぬ人にこい紅葉   
41 炭櫃もや一家ひらけて四方の冬   
42 かけはこそ菩提樹となれ木葉経   
43 菅笠や憂世の民のしもおほひ    
44 二季まてみきとこたへん帰花    
45 出雲にや雪垣つくる軒の妻     
47 降雪やこしのしら山馬のくら    
47 つく餅や手水のこりて薄氷     
48 追鳥やせこにもれたる草かくれ   
49 渋柿もしゆくしにけりな色紙子   
50 ひゝきらす神や手なつちあしなつち 
51 笛太鼓おもしろひそよ小夜かくら  
52 今日斗あすはかすみの節季0    
53 海やあるまくらのしたにたから船  
54 はすを御池糸もかしこし花の色   
55 よきてけふ萩のあたりを鹿の笛   
56 霜八たび置てや鐘の七つ六つ    
57 老人や子に伏寅に置火燵      
58 鷹や又生るを放つぬくめ鳥     
59 猶おかし水無月祓虫払       
60 味はひもから紅の穂蓼哉      
61 はや乙矢順のこふしや弓始     
62 五月雨は船ながしたる酒屋哉    (参考)


  三,斎藤親盛と二本松の俳諧

 近世初期の二本松の俳諧について、田中正能氏が『二本松市史』第九巻で次の如く整理しておられる。
 「  二 奥州二本松の俳諧
  二本松丹羽家中の俳諧は、寛文期より元禄期には奥羽地方においては全国的に有名であった内藤風虎、その子内藤露沾の岩城平藩の平地方と等しく多数の俳人をもち、双璧をなすと称せられていた。藩政約二四〇年間で最高の文芸の花を咲かせた時代であった。以後は再びこの時代を超越する時代が現われない程の盛況であり、藩政の実証でもあったのである。
  二本松の俳人として最初の人に、江口塵言=江口三郎右衛門正倫と、水野林元=水野九郎右衛門林元の名が現われる。寛文五年(一六六五)四月、松江重頼(維舟)が岩城平藩主内藤風虎に招かれて京都を発し、近江路―木曽路―江戸着、さらに日光―宇都宮―白河―二本松に泊り、江口塵言・水野林元を尋ねたことが紀行中に見られ、当時第一級の俳人をして訪ねさせ得た程の俳人が当二本松藩に存在していたことが判る。重頼は松島一見後仙台・・・岩城平に永らく滞在して、冬になり平を出て江戸へ、東海道を経て師走上旬京都に帰っている。江口・水野の両氏の外に、二本松藩における俳人は、寛文十二年(一六七二)〜延宝二年(一六七四)間に岩城平藩主内藤風虎・その子露沾の命により、松山玖也によって編纂された「桜川」に 見出せる。」
 とされ,収録俳人を掲げておられる。親盛の句が入っている撰集に採録された二本松の俳人を,その句数と共に整理すると次の如くである。

寛文四年,重頼撰『佐夜中山集』(二〇名)
 水野氏/林元 二四   寺田氏/寒松  二
     塵言 二〇   伴 氏/人似  二
 日野氏/好元 一四       古硯  二
 長岡氏/道高 一三   不破氏/一与  二
 小沢氏/衆下 一一   小原氏/幸益  二
 中井氏/正成 一〇   斎藤氏/親盛  二
 小河氏/可著  八       元知  一
 斎藤氏/友我  七   釈 氏/智蔵主 一
 奥田氏/方格  四   根村氏/吉元  一
 古市氏/正信  二   槙 氏/陳旧  一
寛文六年,風虎撰『夜の錦』(二九名)
 江口氏/塵言 二六   今村氏/林昌  二
 水野氏/林元 二四   佐藤氏/幸之  一
 日野氏/好元 二一       正秀  一
 長岡氏/道高 一九   白岩氏/人任  一
 斎藤氏/親盛 一一   安保氏/一実  一
 同 氏/友我  七   豊田氏/政氏  一
 小沢氏/衆下  六   釈 氏/知蔵司 一
 不破氏/一与  五   古市氏/正信  一
 中井氏/正成  五   小池氏/又笑  一
 奥田氏/方格  四       秀伝  一
 小川氏/可著  四   伴 氏/人似  一
 斎藤氏/如酔  三   土屋氏/有房  一
 須藤氏/之也  三   下河辺氏/00 一
 寺田氏/寒松  三   釈 氏/随言  一
     古硯  一
寛文十二年,風虎撰『桜川』(四五名)
 水野林元 二〇一   長岡道高   八   佐藤萍心  一
 日野好元 一八二   座頭城益   五   寺田守昌  一
 小沢衆下 一一八   佐野相興   五   松下是一  一
 江口塵言 一〇八   伴 人似   五   土屋有次  一
 内藤未及  八〇   安田未元   五   金田古硯  一
 中井正成  七〇   0山子    五   津田正吉  一
 斎藤如酔  六六   日野好久   四   山田相知  一
 須藤之也  五一   大崎口友   四   貝山友志  一
 下河辺□□ 四三   佐藤幸之   四   清水直治  一
 斎藤親盛  四〇   藤村守幸   三   豊田政氏  一
 小池又笑  三九   青戸未入   三   石橋0同  一
 奥田方格  二六   滝川寸志   三   三崎如雲  一
 釈 随言  二三   寺田万之助  三   今村林昌  一
 白岩人任  一六   安積治水子  三   横山笑甫  一
 斎藤友我  一〇   小松崎破衣  一   鈴木友言  一
寛文十二年,維舟撰『時勢粧』(二七名)
   塵言  四一   釈 随言  五   伴 人似 二
 日野氏好元 四〇   斎藤親盛  四   丹羽捨拾 一
 水野林元  三九   不破一与  四   佐野相興 一
 小沢衆下  一五   小池又笑  四   野沢似言 一
 斎藤如酔  一四   下河辺□□ 三   毛利以由 一
 中井正成  一一   白岩人任  三   今村林昌 一
 須藤之也   八   内藤未及  二   奥田方格 一
 長岡道高   七   土屋有房  二   河村惣広 一
 斎藤友我   五   日野好久  二   釈 永雲 一
延宝三年,重安撰『糸屑集』(三名)
   道高 三   林元 二   親盛 一
延宝四年,季吟撰『続連珠』(八名)
 小沢氏/衆下 七  正成 二  親盛 一  塵言 一
 日野氏/好元 五  秀伝 二  林元 一  如酔 一

 また,各集の国別の俳人の数を整理すると次の如くである(『夜の錦』は除いた)。

寛文四年,重頼撰『佐夜中山集』(二本松・二〇名)
 京之住       一三五   同(勢州)松坂之住   八
 摂津大坂之住     五九   備中之住        八
 金沢之住       四三   信州飯田之住      七
 備前岡山之住     二一   奥州岩城        七
 和州郡山之住     二〇   南都之住        五
 同(勢州)山田之住  二〇   近州大津之住      五
 二本松之住      二〇   美濃岐阜之住      五
 武州江戸       一九   加賀大正寺之住     五
 尾州名古屋之住    一八   長門萩之住       五
 肥後熊本之住     一八   同(和州)国箸尾之住  四
 因幡鳥取之住     一六   平野之住        四
 和泉境之住      一五   阿波之住        四
 羽州山形之住     一三   同(伊予)国松山之住  四
 下野宇都宮之住    一一   同(肥前)国平戸之住  四
 越前福井之住     一〇   同(和州)国田原本之住 三
 伊賀上野之住      九   河内波瀲之住      三
 会津之住        九   同(伊予)国小松之住  三
 兵庫之住        八   伏見之住        二
 勢州津之住       二   常陸水戸        一
 参河吉田之住      二   同(近州)柳川之住   一
 同(参河)御油之住   二   同(近州)河並之住   一
 相模鎌倉之住      二   同(下野)皆川之住   一
 同(相模)小田原之住  二   仙台之住        一
 伯耆之住        二   若狭之住        一
 淡路之住        二   越中高岡之住      一
 伊予今治之住      二   越後村上之住      一
 土佐之住        二   播磨明石之住      一
 豊後臼杵之住      二   同(播磨)完粟之住   一
 山崎之住        一   安芸広嶋之住      一
 同(和州)国長楽村之住 一   周防岩国之住      一
 同(和州)国今井之住  一   出雲之住        一
 同(和州)国宇多之住  一   同(伊予)国宇和嶋之住 一
 摂津柱本之住      一   豊前仲津之住      一
 同(摂津)国勝尾山   一
寛文十二年,風虎撰『桜川』(二本松・四五名)
 武蔵国江戸住  一三二    肥前国大村住    二
 山城国京住   一〇八    山城国山崎住    一
 摂津国大坂住   八五    大和国多武嶺住   一
 陸奥国岩城住   七二    大和国下市住    一
 陸奥国二本松住  四五    大和国新庄住    一
 伊勢国山田住   二八    河内国松原住    一
 下野国宇都宮住  二一    摂津国西宮住    一
 和泉国堺     二〇    摂津国榎並住    一
 尾張国名古屋住  一八    伊勢国津住     一
 近江国彦根住   一二    伊勢国桑名住    一
 参河国吉田住   一一    伊勢国一之瀬住   一
 参河国岡崎住   一〇    伊勢国鳥羽住    一
 加賀国金沢住   一〇    参河国藤川住    一
 陸奥国仙台住    八    参河国竹広住    一
 大和国郡山住    七    参河国牛久保住   一
 美濃国大垣住    七    遠江国中村住    一
 陸奥国会津住    七    甲斐国       一
 因幡国鳥取住    七    相模国鎌倉住    一
 摂津国尼ケ崎住   六    相模国小田原住   一
 伊賀国上野住    六    武蔵国岩村住    一
 尾張国熱田住    六    安房国歩行山住   一
 美濃国竹ケ鼻住   六    下総国横曽根住   一
 肥前国佐賀住    六    常陸国下妻住    一
 備前国岡山住    五    阿波国涓津住    一
 肥前国平戸住    五    伊予国今治住    一
 肥後国熊本住    五    土佐国大高坂住   一
 山城国伏見住    四    筑前国飯塚住    一
 下野国壬生住    四    近江国膳所住    一
 丹波国柏原住    四    美濃国岐阜住    一
 備中国福山住    四    信濃国飯田住    一
 長門国萩住     四    信濃国松本住    一
 尾張国津嶋住    三    上野国厩橋住    一
 参河国新城住    三    下野国結城住    一
 伯耆国米子住    三    陸奥国棚倉住    一
 伊勢国松坂住    三    陸奥国津軽住    一
 伊予国宇和嶋住   三    出羽国山形住    一
 肥前国長崎住    三    出羽国秋田住    一
 摂津国茨木住    二    出羽国野代住    一
 摂津国平野住    二    加賀国大聖寺住   一
 伊勢国朝熊岳住   二    丹波国鴨庄住    一
 参河国小坂井住   二    伯耆国倉吉住    一
 陸奥国白河住    二    播磨国明石住    一
 陸奥国三春住    二    安芸国広嶋住    一
 出羽国大石田住   二    安芸国宮嶋住    一
 越前国福井住    二    紀伊国和歌山住   一
 丹波国福知山住   二    紀伊国長嶋山住   一
 丹波国神池寺住   二    紀伊国日高住    一
 因幡国岩井住    二    紀伊国高野山住   一
 出雲国松江住    二    周防国       一
 淡路国       二    豊前国小倉住    一
 讃岐国高松住    二    肥前国深堀住    一
 伊予国松山住    二    日向国県住     一
 筑前国博多住    二
寛文十二年,維舟撰『時勢粧』(二本松・二七名)
 京之住    七四  豊前小倉  一〇  葛城之住   二
 摂津大坂之住 三四  越前福居之住 九  河内之国   二
 肥後熊本   二八  出雲松江   九  摂津柱本之住 二
 二本松之住  二七  美濃岐阜   九  桑名之住   二
 加賀金沢之住 二三  長門萩之住  六  宮腰之住   二
 肥前佐賀   二一  筑前博多   六  讃岐     二
 因幡鳥取   一九  坂田郡之住  五  大村之住   二
 和泉境之住  一七  下野宇都宮  五  伏見之住   一
 備前岡山   一七  会津若松之住 五  今井之住   一
 彦根之住   一五  米子之住   五  朝熊之住   一
 仙台之住   一五  平戸之住   五  下総結城之住 一
 大和郡山之住 一四  信濃飯田之住 四  近江大津之住 一
 伊賀上野之住 一四  出羽庄内   四  八幡之住   一
 長崎之住   一四  阿波     四  水口之住   一
 伊勢山田之住 一三  若狭之住   三  河並之住   一
 尾張名古屋  一三  宮嶋之住   三  竹鼻之住   一
 陸奥岩城   一三  山崎之住   二  伯耆倉吉   一
 美作之住 一  備中 一  安芸広嶋 一  豊後臼杵 一
延宝三年,重安撰『糸屑集』(二本松・三名)
 摂津大坂      一三八   同(摂津)平野 二
 加賀         一五   同(摂津)池田 二
 同(摂津)尼崎    一三   同(摂津)伊勢 二
 陸奥         一三   紀伊      二
 同(大和)宇陀    一二   淡路      二
 同(大和)今井    一一   同(山城)伏見 一
 武蔵江戸       一一   同(大和)奈良 一
 山城京        一〇   同(大和)道穂 一
 同(山城)宇治田原   九   同(大和)下市 一
 筑前          九   河内久宝寺   一
 同(摂津)伊丹     八   同(河内)柏原 一
 尾張          七   和泉      一
 同(和泉)堺      六   同(摂津)富松 一
 同(陸奥)南部     六   出羽      一
 同(摂津)塚口     四   越前      一
 大和          三   丹波      一
 同(大和)吉野     三   出雲      一
 同(大和)多武峯    三   播磨      一
 備後          三   安芸      一
 土佐          三   日向      一
 肥前長崎        三
延宝四年,季吟撰『続連珠』(二本松・八名)
 山城国 一一〇    伊予国 一九    肥前国 三
 出羽国  六九    伊賀国 一五    豊後国 三
 尾張国  五七    大和国 一四    河内国 二
 越前国  五六    薩摩国 一四    美作国 二
 摂津国  四六    安芸国 一一    筑後国 二
 陸奥国  三九    上野国  九    日向国 二
 加賀国  三八    参河国  八    飛騨国 一
 武蔵国  三三    能登国  八    信濃国 一
 丹波国  三三    和泉国  七    丹後国 一
 豊前国  三一    越中国  七    因幡国 一
 美濃国  三〇    阿波国  七    伯耆国 一
 伊勢国  二九    讃岐国  七    石見国 一
 肥後国  二八    大隅国  六    備中国 一
 紀伊国  二六    遠江国  五    備後国 一
 近江国  二四    伊豆国  五    土佐国 一
 越後国  二三    若狭国  五    筑前国 一
 但馬国  二二    周防国  四

 次に,当時の俳諧撰集の収録状況を推測するため,親盛の句が収録されていない,主要な撰集の国別の俳人の数を整理してみると,以下の如くである(発句のみ)。

寛永十年,重頼撰『犬子集』
 伊勢山田之住  一〇〇    江戸之住      五
 京之住      五一    因幡之住      二
 堺之住      一九    大坂之住      一
寛永十年,親重撰『誹諧発句帳』
 京之住     一二八    紀伊国之住     二
 伊勢山田之住   九九    因幡之住      二
 堺之住      一九    大坂之住      一
 江戸之住      五
正保二年? 重頼撰『毛吹草』
 京之住      七六    郡山之住      二
 勢州山田之住   七六    大津之住      二
 堺之住      四五    同(勢州)松坂之住 二
 大坂之住     一三    越前之住      二
 江戸之住     一一    伊賀之住      一
 紀州若山之住    八    因幡之住      一
 播州姫路之住    八    安芸之住      一
 同(勢州)津之住  五    加賀之住      一
 膳所之住      三
正保四年,重頼撰『毛吹草追加』
 京之住       四九   因幡之住      二
 摂州大坂之住    四二   和州南都之住    一
 武州江戸之住    二一   勢州津之住     一
 泉州堺之住     一二   同(勢州)山田之住 一
 土佐之住       五   遠州之住      一
 同(丹波)柏原之住  四   播州姫路之住    一
 尾州名古屋之住    三   同(播州)龍野之住 一
 丹波之住       三   出雲之住      一
 同(播州)明石之住  三   加賀之住      一
 紀伊之住       三   肥前長崎之住    一
 同(和州)郡山之住  二
明暦二年,蔭山休安撰『夢見草』
 大坂之住 一三五   河内之住 八   讃岐之住 二
 堺之住   七九   紀伊   八   筑後之住 二
 天満之住  六〇   南都之住 七   薩摩   二
 伊勢之住  五六   備中之住 五   和泉之住 一
 江戸之住  四二   長崎之住 三   参河之住 一
 摂津之住  三五   山城   三   駿河之住 一
 播磨    一七   陸奥   三   信濃之住 一
 越後    一二   近江之住 二   但馬之住 一
 備前    一〇   美濃   二   阿波   一
 京之住    八   尾張   二   伊予   一
 土佐之住 一  安芸 一  筑前之住 一  日向 一
明暦二年,令徳撰『崑山土塵集』
 京之住    一一二   唐崎村住   五
 伊勢桑名    四四   丹波笹山住  五
 摂津      四三   播磨姫路住  四
 尾張名古屋住  四二   土佐中村住  四
 熱田住     二五   伊賀     三
 富田住     一五   備中     三
 竹ケ鼻     一五   阿波撫養住  三
 美濃横曽根住  一〇   津住     二
 備後三原住   一〇   備前     二
 和泉       九   紀伊和哥山住 二
 薩摩鹿児嶋住   九   飛騨     一
 出羽       八   武蔵     一
 淡路福良住    七   越前     一
 伊予       六
明暦二年,貞室撰『玉海集』
 山城国 一五三   但馬国 一一  備中国 二
 摂津国  九九   越後国 一〇  阿波国 二
 播磨国  四三   薩摩国 一〇  肥前国 二
 丹波国  三八   河内国  六  遠江国 一
 伊勢国  二六   加賀国  五  駿河国 一
 和泉国  二五   美濃国  四  出羽国 一
 武蔵国  二三   伊賀国  三  越中国 一
 紀伊国  二三   丹後国  三  伯耆国 一
 大和国  二一   周防国  三  備後国 一
 近江国  二一   参河国  二  讃岐国 一
 尾張国  二〇   相模国  二  土佐国 一
 越前国  一五   因幡国  二  豊後国 一
 備前国  一五
明暦二年,梅盛撰『口真似草』
 山城国    一五五    肥前        三
 摂州大坂之住  四一    八幡住       二
 泉州堺之住   二六    山崎住       二
 播州姫路之住  二二    同(摂州)上牧之住 二
 伏見住     一六    伊賀国       二
 大和国     一六    同(勢州)山田之住 二
 江州膳所之住  一〇    尾張国       二
 江戸之住     九    同(江州)草津之住 二
 備前国      八    美濃国       二
 河内国      七    越後国       二
 勢州津之住    六    丹波国       二
 加賀国      四    丹後国       二
 因幡国      四    紀伊国       二
 備中国      三    信濃国       一
 伊予       三
明暦四年,梅盛撰『鸚鵡集』
 山城国 二七〇   伊予  一〇   伊賀   二
 摂津  一三九   鈴鹿住  九   上野   二
 播磨  一〇五   草津住  九   筑前   二
 和泉   八九   加賀   九   讃岐   二
 河内国  七六   餝磨住  九   下鳥羽住 二
 備前   六〇   出羽   八   山科住  二
 伏見住  五五   池田住  七   上牧住  二
 大和国  五〇   有馬住  五   遠江   一
 紀伊   四三   茨木住  五   甲斐   一
 尾張   三四   因幡   五   相模   一
 武蔵   三一   尼崎住  四   常陸   一
 美濃   二一   山崎住  四   越前   一
 兵庫住  一九   山田住  四   佐渡   一
 曽祢村住 一六   坂本住  四   但馬   一
 越後   一六   信濃   四   土佐   一
 西宮住  一三   三河   三   宇治住  一
 肥後   一三   丹波   三   淀住   一
 桑名住  一一   高砂住  三   八幡住  一
 近江   一一   明石住  三   花山住  一
 平野住  一〇   備中   三
万治二年,梅盛撰『捨子集』
 山城 京 一三七    伏見 一四    飛騨 四
 大坂    五六    備前 一四    讃岐 三
 播州    五二    伊予 一二    因幡 二
 江戸    四六    加賀 一〇    伊豆 一
 伊勢    二九    陸奥  八    信濃 一
 大和    二五    紀伊  八    下野 一
 摂津    二三    河内  八    丹波 一
 肥後    二二    嵯峨  七    但馬 一
 近江    二一    三河  七    石見 一
 和泉    一六    備後  六    安芸 一
 尾張    一六    遠江  五    長州 一
 美濃    一六    駿河  五    阿波 一
 肥前    一五    伊賀  五
万治三年,季吟撰『新続犬筑波集』
 山城 一八〇  武蔵 一八  肥前 三  飛騨 一
 摂津 一五三  丹波 一七  信濃 二  能登 一
 播磨  四九  肥後 一三  陸奥 二  伯耆 一
 河内  三三  出羽  八  加賀 二  石見 一
 尾張  二六  安芸  七  越後 二  備前 一
 伊勢  二四  伊賀  六  丹後 二  備中 一
 越前  二四  三河  六  伊予 二  備後 一
 紀伊  二三  讃岐  六  豊前 二  周防 一
 近江  二一  和泉  五  駿河 一  土佐 一
 大和  二〇  薩摩  五  伊豆 一  筑前 一
 但馬  二〇  阿波  四  常陸 一  日向 一
 美濃  一九  因幡  三
万治三年,重頼撰『懐子』(巻1〜巻8)
 京之住    六八  備前岡山  四  南都之住   一
 大坂之住   五四  肥前佐賀  四  河内松原之住 一
 境之住    四六  美濃竹ケ鼻 三  有馬之住   一
 山田之住   二二  伏見之住  二  尾張名古屋  一
 江戸之住   二〇  近江    二  陸奥     一
 岸和田    一五  越前    二  丹波柏原之住 一
 肥後熊本    七  播磨    二  出雲松江   一
 平野之住    六  高砂之住  二  片上之住   一
 伊勢松坂之住  五  紀伊    二  備中     一
 兵庫      四  豊後臼杵  二  長門     一
 加賀      四  山崎之住  一  長崎之住   一
 因幡酉酉    四
寛文三年,梅盛撰『木玉集』
 洛陽 九九   近江 一〇   伊予 四   駿河 一
 摂津 六六   肥後 一〇   遠江 三   伊豆 一
 伊勢 三二   備前  九   常陸 三   佐渡 一
 播磨 三二   美濃  七   三河 二   因幡 一
 洛外 二一   河内  六   陸奥 二   土佐 一
 和泉 一四   紀伊  六   肥前 二   讃岐 一
 大和 一三   加賀  五   備後 二
寛文四年,梅盛撰『落穂集』
 山城洛陽住 一五二   肥前    一六   飛騨 三
 摂津     八三   美濃    一五   美作 三
 播磨     八〇   陸奥    一五   伊賀 二
 大和     五三   山城伏見住 一四   甲斐 二
 武蔵     五一   尾張    一三   丹波 二
 近江     三一   備前    一三   但馬 二
 肥後     二九   伊予    一一   伊豆 二
 出雲     二八   因幡     九   安芸 二
 山城洛外住  二七   河内     六   讃岐 二
 三河     二四   駿河     六   若狭 二
 紀伊     二三   出羽     五   相模 一
 高野山住   二二   遠江     四   常陸 一
 加賀     二〇   長門     四   下野 一
 信濃     一八   佐渡     三   越前 一
 和泉     一七   備後     三   伯耆 一
 伊勢     一六
寛文六年,椋梨一雪撰『俳諧洗濯物』
 武蔵 一〇九  紀伊 四  伊予 二  丹波 一
 尾張  九五  土佐 四  備中 二  播磨 一
 山城  四六  近江 三  肥後 二  因幡 一
 大和  一一  阿波 三  和泉 一  讃岐 一
 摂津  一一  肥前 三  三河 一  筑前 一
 美濃  一〇  下野 二  相模 一  豊前 一
 伊勢  一〇  下総 二  安房 一  豊後 一
 陸奥   六  常陸 二  飛騨 一  日向 一
 甲斐   五  出羽 二  若狭 一  対馬 一
 信濃   五
寛文七年,貞室撰『玉海集追加』
 摂州   八五   丹波 二二   河州 六   肥前 二
 山城・京 七四   羽州 二〇   若州 四   薩州 二
 濃州   四二   但州 一九   泉州 四   常陸 一
 江州   四一   播州 一九   備前 四   駿河 一
 勢州   二六   武州 一七   奥州 三   能登 一
 尾州   二五   加州 一三   相模 三   飛騨 一
 越前   二四   豊前 一〇   伊予 三   丹後 一
 肥後   二四   越後  七   筑後 三   作州 一
 和州   二二   伊賀  七   下野 二   備中 一
 紀州   二二   三河  六   筑前 二   防州 一
寛文七年,湖春撰『続山井』
 山城国 一八九  陸奥国 二五  越後国 八  備中国 二
 摂津国 一一四  大和国 二三  和泉国 七  備後国 二
 出羽国  七二  豊前国 二三  筑前国 七  豊後国 二
 丹波国  六二  美濃国 二二  安芸国 五  志摩国 一
 越前国  四七  肥後国 一九  因幡国 四  相模国 一
 但馬国  四四  播磨国 一八  備前国 四  常陸国 一
 伊賀国  三六  伊勢国 一三  薩摩国 四  伯嗜国 一
 三河国  三五  河内国 一一  肥前国 三  出雲国 一
 近江国  二九  紀伊国 一一  飛騨国 二  阿波国 一
 加賀国  二六  伊予国 一一  若狭国 二  讃岐国 一
 尾張国  二六  遠江国 一〇  越中国 二  土佐国 一
 武蔵国  二五  信濃国 一〇  石見国 二  日向国 一
寛文八年,加友撰『伊勢踊』
 伊勢山田 一一一    田丸池辺  五    下総 二
 武州江戸  九六    相哥射和       常州 二
 松坂    七八    同(伊勢)      信州 二
 山城京   四二       内宮 四    能登 二
 津     三一    四日市   四    越後 二
 加賀    二二    尾州    四    伊賀 二
 筑前    二〇    備前    四    山崎 二
 下野    一七    川崎    三    備後 二
 奥州    一二    三州    三    安芸 二
 近江    一一    遠州    三    肥前 二
 丹生    一〇    駿河    三    薩摩 二
 摂津     九    越前    三    雲州 二
 紀州     九    河内    三    丹波 二
 因州     九    讃州    三    上総 一
 豊前     八    伊予    三    甲州 一
 鳥羽     七    周防    三    飛騨 一
 白子     七    豊後    三    若狭 一
 出羽     七    朝熊岳   二    播磨 一
 備中     七    一之瀬   二    長門 一
 美濃     六    豆州    二    伯州 一
 泉州     六    相州    二
寛文八年,梅盛編『細少石』
 山城住 一一三  美濃  一三  信濃 七  阿波 二
 播磨   八六  出雲  一二  但馬 七  伊豆 一
 摂津   八一  洛外住 一一  肥前 六  相模 一
 三河   三八  和泉  一一  出羽 五  下野 一
 武蔵   三八  因幡  一一  丹波 五  常陸 一
 近江   三七  伊予  一一  伯耆 五  越後 一
 加賀   三〇  陸奥  一〇  河内 四  佐州 一
 大和   二六  美作  一〇  筑前 四  安芸 一
 肥後   二二  伏見住  九  備後 三  長門 一
 備前   二〇  伊賀   九  遠江 二  淡路 一
 紀伊   一七  甲斐   九  駿河 二  薩摩 一
 尾張   一六  伊勢   八  周防 二
寛文九年,未琢撰『一本草』
 武蔵国 二五一  摂津国 八  大和国 二  相模国 二
 加賀国  二七  甲斐国 八  美濃国 二  近江国 一
 山城国  二三  遠江国 七  信濃国 二  上野国 一
 伊勢国  一七  丹後国 六  越前国 二  越中国 一
 陸奥国  一六  下総国 六  紀伊国 二  越後国 一
 下野国  一三  三河国 五  讃岐国 二  播磨国 一
 伊豆国  一三  常陸国 五  豊後国 二  肥前国 一
 出羽国   九  駿河国 三
寛文十二年,桑折宗臣撰『大海集』
 伊予国     一八一     沖之嶋住     一
  松山住      八     近家浦住     一
  大洲住      五    摂津国     一〇三
  替地村      一     大坂住     八〇
  内ノ子村住    一     天満住      二
  吉田住     一〇     古妻住      一
  宇和島住   一四九     今津村住     二
  八幡浜浦住    一     尼崎住      三
  雨井浦住     一     山崎住      二
  下灘浦住     二     平野住      一
  三机浦住     一     池田住      六
  日振嶋住     一     有馬湯之山住   六
  山材村住     一    武蔵国      九三
  江戸住     九三    阿波国      二五
 山城国      六一     渭津住     二四
  京住      五一     才田村住     一
  伏見住      二    安芸国      二三
  宇治住      八     広島住     一四
 和泉国      四七     瀬戸田住     五
  境住      四四     倉橋住      四
  万代村住     二    播磨国      一七
  高師住      一     姫路住     一一
 尾張国      四七     粟賀住      三
  名護屋住    三五     高砂住      一
  熱田住     一二     荒井住      二
 近江国      四五    紀伊国      一五
  大津住     一三     和歌山住     七
  草津住      一     吹上住      一
  長浜住      一     広瀬住      一
  坂田郡箕浦          熊野長嶋住    五
  庄内住      二     熊野那智住    一
  彦根住     二八    淡路国      一三
 豊後国      二九     福良住     一〇
  府内住     二五     府中住      二
  佐伯住      四     湊浦住      一
 陸奥国      一二     新賀村住    六
  岩城住      七     小田村住    三
  二本松住     三    讃岐国      八
  仙台住      二     金毘羅住    五
 豊前国      一二     子松住     一
  中津住     一二     観音寺村住   二
 伊勢国      一〇    大和国      七
  津住       一     奈良住     二
  鈴鹿郡関住    一     高田住     一
  山田住      七     今井住     一
  長嶋住      一     長谷住     一
 越前国      一〇     池田村住    一
  福井住     一〇     多武峰住    一
 土佐国      一〇    備前国      七
  高知住      一     岡山住     七
  中村住      一    周防国      七
  宿毛村住     七     岩国住     七
  下田住      一    美濃国      四
 三河国       九     岐阜住     二
  寺部住      八     竹ケ鼻住    二
  舞木住      一    丹波国      四
 備中国       九     氷上郡柏原住  二
  山家住      二     秋田野代住   二
 河内国       三    加賀国      二
  壺井村住     二     金沢住     二
  大ケ塚住     一    遠江国      一
 但馬国       三     気賀住     一
  竹田住      二    安房国      一
  出田住      一     歩行山住    一
 備後国       三    筑前国      一
  三吉住      一     福岡住     一
  尾之道住     二    肥前国      一
 筑後国       三     平戸住     一
  久留米住     三    肥後国      一
 常陸国       二     熊本住     一
  水戸住      二    薩摩国      一
 出羽国       二
寛文十二年,阿知子顕成撰『続境海草』
 堺  一五〇   尼崎  四   伊豆 一
 大坂  四九   姫路  四   鎌倉 一
 京   二二   参河  三   常陸 一
 平野  一三   紀伊  三   出羽 一
 和泉  一二   天満  二   会津 一
 江戸  一一   伊勢  二   住吉 一
 大和  一〇   尾張  二   讃岐 一
 河内  一〇   広嶋  二   備前 一
 長崎   七   豊前  二   備中 一
 陸奥   六   宇治  一   筑前 一
 伏見   五   榎並  一   肥前 一
 薩摩   五   天王寺 一   肥後 一
寛文十二年,阿知子顕成撰『手繰舟』
 堺   一一七   河内 九   播磨 二   丹波 一
 大坂   六二   武蔵 九   備前 二   備中 一
 堺ノ外  二〇   肥前 九   尾張 一   安芸 一
 陸奥   二〇   薩摩 四   三河 一   阿波 一
 大坂ノ外 一八   大和 三   駿河 一   伊予 一
 山城   一七   紀伊 三   伊豆 一   豊前 一
延宝二年,荻野安静撰『如意宝珠』
 山城国 一七〇  和泉国 六  若狭国 三  飛騨国 一
 摂津国  四五  伊賀国 六  丹後国 三  信濃国 一
 安芸国  三七  丹波国 六  備後国 三  越後国 一
 武蔵国  二二  備前国 六  長門国 三  但馬国 一
 加賀国  二〇  紀伊国 六  河内国 二  石見国 一
 近江国  一五  伊勢国 五  遠江国 二  美作国 一
 尾張国  一四  肥前国 五  上野国 二  周防国 一
 大和国  一三  播磨国 四  伯耆国 二  讃岐国 一
 陸奥国  一三  阿波国 四  備中国 二  筑前国 一
 伊予国  一三  伊豆国 三  筑後国 二  豊前国 一
 三河国  一〇  美濃国 三  日向国 二  豊後国 一
 越前国   八  出羽国 三  下総国 一  薩摩国 一
 肥後国   八
延宝二年,維舟撰『大井川集』
 京之住     七一   仙台      二
 尼崎      二六   越後柏崎    二
 同(近江)彦根 一六   備前岡山    二
 伊丹之住    一四   出雲松江    二
 加賀金沢    一四   石見吉長    二
 大坂之住    一二   紀伊高野    二
 肥後熊本    一一   淡路      二
 江戸      一〇   伊予宇和嶋   二
 二本松      九   筑前博多    二
 伊勢山田之住   八   大村之住    二
 尾張名古屋    七   同(大和)新庄 一
 若狭小浜     七   朝熊之住    一
 長門萩      六   美濃岐阜    一
 肥前平戸     五   奥州白川    一
 佐賀之住     四   会津津川    一
 大和郡山     三   南部守岡    一
 境之住      三   越中高岡    一
 土佐       三   播磨明石    一
 同(大和)桜井  二   同(播磨)龍野 一
 同(大和)多武峯 二   周防山口    一
 今津之住     二   豊後臼杵    一
 近江守山     二   長崎之住    一
 岩城       二   南郷之住    一
延宝四年,維舟撰『武蔵野集』
 京之住  六五   肥後熊本  六   塚口   一
 伊丹   二六   名古屋   五   美濃岐阜 一
 加賀金沢 一七   土佐    五   南部守岡 一
 尼崎   一六   遠江    四   越中高岡 一
 長門萩  一五   平戸    四   出雲松江 一
 伊勢山田 一二   播磨明石  三   備前岡山 一
 江戸   一一   周防山口  三   備後三原 一
 若狭小浜 一一   岩城    二   安芸広嶋 一
 郡山    九   能登七尾  二   紀伊   一
 近江彦根  九   伊予宇和嶋 二   淡路   一
 境     八   伏見    一   讃岐   一
 二本松   八   法隆寺   一   筑前博多 一
 阿波    六   池田    一   豊後臼杵 一
 肥前佐賀  六

 以上,貞門俳諧の初期から,斎藤親盛の没した延宝初年までの俳諧撰集の主なものを採り上げて,国別の入集俳人の数を掲げたが,これらを整理すると次の如くである。

寛永十年,重頼撰『犬子集』
 伊勢・京都・堺が中心で,陸奥は収録されていない。
寛永十年,親重撰『誹諧発句帳』
 京都・伊勢・堺が中心で,陸奥は収録されていない。
正保二年? 重頼撰『毛吹草』
 京都・伊勢・堺・大坂・江戸が多く,陸奥は収録されていない。
正保四年,重頼撰『毛吹草追加』
 京都・大坂・江戸・堺の順に多く、陸奥は収録されていない。
明暦二年,蔭山休安撰『夢見草』
 大坂・堺・天満・伊勢・江戸・摂津の順に多く,陸奥は3名で,会津2名,仙台1名,二本松は収録されていない。
明暦二年,令徳撰『崑山土塵集』
 京都・伊勢・摂津・名古屋・熱田の順に多く,陸奥は未収録。
明暦二年,貞室撰『玉海集』
 山城・摂津・播磨・丹波・伊勢・和泉・武蔵・紀伊・大和・近江の順に多く,陸奥は収録されていない。
明暦二年,梅盛撰『口真似草』
 山城・大坂・堺・姫路・伏見・大和・膳所・江戸の順に多く,陸奥は収録されていない。
明暦四年,梅盛撰『鸚鵡集』
 山城・摂津・播磨・和泉・河内・備前・伏見・大和・紀伊・尾張・武蔵の順に多く,陸奥は収録されていない。
万治二年,梅盛撰『捨子集』
 山城・大坂・播州・江戸・伊勢・大和・摂津・肥後・近江の順に多く,陸奥は8名で,会津3名,山形・米沢各2名,白川1名。
万治三年,季吟撰『新続犬筑波集』
 山城・摂津・播磨・河内・尾張・伊勢・越前・紀伊・近江・大和・但馬・美濃・武蔵の順に多く,陸奥は2名で,二本松の水野林元と寺田寒松である。
万治三年,重頼撰『懐子』(巻1〜巻8)
 京・大坂・境・山田・江戸の順に多く,陸奥は岩城の風虎が1名。
寛文三年,梅盛撰『木玉集』
 洛陽・摂津・伊勢・播磨・洛外・和泉・和泉・大和の順に多く,陸奥は,会津が2名。
寛文四年,重頼撰『佐夜中山集』
 京・大坂・金沢・岡山・大和郡山・伊勢山田・二本松・江戸の順で,二本松20名、会津9名、岩城7名。●親盛2句入集。
寛文四年,梅盛撰『落穂集』
 洛陽・摂津・播磨・大和・武蔵・近江・肥後・出雲・洛外・三河・紀伊の順に多く,陸奥は15名で,二本松では斎藤友我入集。
寛文六年,椋梨一雪撰『俳諧洗濯物』
 武蔵・尾張・山城・大和・摂津・美濃・伊勢・陸奥の順に多く,陸奥は6名で,風鈴軒以下5名が岩城,白河が1名である。
寛文六年,風虎撰『夜の錦』
 『詞林金玉集』全十五巻に収録する『夜錦』の句数は,一〇五一句。二本松では29名が収録されている。親盛は11句入集。
寛文七年,貞室撰『玉海集追加』
 摂州・山城・濃州・江州・勢州・尾州・越前・肥後・和州・紀州・丹波の順に多く,奥州は3名でいずれも会津俳人。
寛文七年,湖春撰『続山井』
 山城・摂津・出羽・丹波・越前・但馬・伊賀・三河・近江・加賀・尾張・武蔵・陸奥・大和・豊前・美濃の順に多く,陸奥は25名で,二本松は11名。
寛文八年,加友撰『伊勢踊』
 伊勢山田・江戸・松坂・京・津・加賀・筑前の順に多く,奥州は12名であるが,岩城が多く,二本松は入っていない。
寛文八年,梅盛編『細少石』
 山城・播磨・摂津・三河・武蔵・近江・加賀・大和・肥後・備前の順に多く,陸奥は10名であるが,岩城・仙台が多く,二本松は収録されていない。
寛文九年,未琢撰『一本草』
 武蔵・加賀・山城・伊勢・陸奥・下野・伊豆の順に多く,陸奥では,岩城・会津が多く,二本松は収録されていない。
寛文十二年,維舟撰『時勢粧』
 京・大坂・熊本・二本松・金沢・佐賀の順に多く,二本松は27名収録。因みに,岩城は13名,会津は5名である。●親盛6句(小鏡を含む)入集。斎藤友我との「何0百韻」1巻収録。
寛文十二年,桑折宗臣撰『大海集』
 伊予・摂津・武蔵・山城・和泉・尾張・近江・豊後・阿波・安芸の順に多く,陸奥は12名で,岩城7名,仙台2名,二本松は,正成・塵言・好元の3名である。
寛文十二年,阿知子顕成撰『続境海草』
 堺・大坂・京・平野・和泉・江戸・大和・河内の順に多く,陸奥は6名で,二本松では,林元・好元・道高の3名が入っている。
寛文十二年,阿知子顕成撰『手繰舟』
 堺・大坂・堺ノ外・陸奥・大坂ノ外・山城・河内・武蔵・肥前の順に多く,陸奥は20名で,岩城11名,二本松6名,津軽2名,白川1名となっている。
寛文十二年,風虎撰『桜川』
 江戸・京・大坂・岩城・二本松・伊勢山田・宇都宮・堺の順に多く,岩城72名,二本松45名となっている。●親盛40句入集。
延宝二年,荻野安静撰『如意宝珠』
 山城・摂津・安芸・武蔵・加賀の順に多く,陸奥は13名で,岩城・白川・ツガル・会津・仙台の俳人で,二本松は入っていない。
延宝二年,維舟撰『大井川集』
 京・尼崎・彦根・伊丹・金沢・大坂・熊本・江戸・二本松の順に多く,二本松は9名,岩城・仙台各2名,白川・会津各1名。
延宝三年,重安撰『糸屑集』
 大坂・加賀・尼崎・陸奥・宇陀・今井・江戸・京の順に多く,陸奥は13名。二本松は,道高・親盛・林元の3名。●親盛1句入集。
延宝四年,維舟撰『武蔵野集』
 京・伊丹・金沢・尼崎・萩・伊勢山田・江戸・小浜の順に多く,二本松は8名,岩城1名。
延宝四年,季吟撰『続連珠』
 山城・出羽・尾張・越前・摂津・陸奥・加賀・武蔵の順に多く、陸奥は39名で,岩城12名、二本松8名,会津5名、白川4名,盛岡3名等となっている。●親盛1句入集。

 以上,斎藤親盛と二本松の俳諧との関連を明らかにするため,貞門俳諧の主要撰集における,親盛及び二本松俳人の発句の入集関係を掲出した。これらの集計結果から,当時の日本の俳壇の状況が,ほぼ見えてきて,二本松の俳諧や親盛の俳諧活動に関しても,様々な推測が可能と思われる。ただ,ここでは,具体的な推測はしばらく差し控え,二本松の俳諧と殊に関係が深かったと思われる,松江重頼・維舟との関係を整理する事にしたい。

  四,斎藤親盛と松江重頼

 貞門俳諧の指導的立場の一人であった松江重頼は,寛文五年七月,二本松を訪れている。この時,親盛は六十三歳,江戸から二本松へ移住して五年目であった。おそらく,この機会に親盛は重頼に俳諧の指導を受けたものと推測される。
 松江重頼の伝記については,中村俊定氏の労作「松江重頼年譜」がある。関連する部分を紹介すると以下の如くである。

「慶長 七(壬寅)      一歳
  ○出生(維舟真蹟「延宝六年八月上旬参宮奉納連歌」の奥書より逆算)。
 寛永十六(己卯)    三十八歳
  ○末吉道節、松江重頼江戸に下る(『洒竹俳諧年表』による。)
 正保 三(丙戌)    四十五歳
  ○武蔵野ゝ末広いはふ年始哉(『歳旦発句集』(『毛吹草追加』には「武州江戸にて」と詞書す。)
 慶安 三(庚寅)    四十九歳
  ○江戸に滞在せしか。
 寛文 二(壬寅)    六十一歳
  ○「寛文の初めより、洛陽銅駝坊の南御所八幡宮の東に形斗なる居をしめ」とあり、点者生活をしたるか。(『時勢粧』序)
  ○正月上旬、橋本氏富長「何刀百韻」に点をなす。付墨五十/長 十五(『時勢粧』)
  ○三月十五日、橋本氏富長「何枕百韻」に点をなす。付墨五十/長 十五(同)
  ○三月廿日、林氏宗甫「猫何百韻」に点をなす。付墨五十/長十五(同)
  ○卯月十日、土田氏重信「何簾百韻」に点をなす。付墨五十/長 十五(同)
 寛文 三(癸卯)    六十二歳
  ○五月廿日、冷泉氏友知「何狐百韻(諷之詞)」に点をなす。スミ五十/長 十五
   六月十日、中井氏宗隆「何舞百韻」に点をなす。付墨五十/長 十五
   十月十日、玖也・重安・西翁・春倫の四吟「何魚百韻」に点をなす。付墨五十 内長十五、廿五玖也 点十三内長四、廿五重安 点十一内長三、廿五西翁点十五内長五、廿五春倫点
   十一内長三(以上『時勢粧』)
 寛文 四(甲辰)    六十三歳
  ○三月十日、鱸氏催笑「男何百韻」に点をなす。付墨五十/長十五(『時勢粧』)
 寛文 五(乙巳)    六十四歳
  ○維舟と号を改む。
  ○寛文五年卯月三日東行粟田山にて
    暇乞余花をもかへり都哉   松江維舟
   右の他二句あり。『時勢粧』巻三の句及び詞書によれば、醒ケ井の清水、木曽路、寝覚、諏訪、浅間、筑摩川、碓水、軽イ沢、熊谷、武蔵江戸に出、高井立志、河合水之等の興行あり。木母寺、日光参拝、宇都宮常用由可亭を訪ね、白河関、二本松江口塵言・水野林元亭・中井正成亭、斎藤友我亭、末松山、松島、仙台瀬奈田不及亭、高館相馬領岩城、中村之城下に入り、再び江戸に戻り箱根を経て師走上旬京に帰る。
   五月廿日 江口塵言「何鰹百韻」に点をなす。(付墨五十/長 十五)
   七月五日 水野氏林元「何石百韻」に加点。(墨五十/長十五)
   七月五日 江口氏塵言「何茶百韻」に加点。(墨五十/内長十五)
   七月十七日 「矢何百韻」維舟(21)林元(20)塵言(20)道高(20)友我(19)五吟あり。
    発句 風の手や枕をはつすけさの秋 維舟
   七月十八日 「膝何百韻」維舟(25)塵言(25)道高(25)林元(20)四吟あり。
    発句 一節に千々のそは切や花鰹 維舟
   十月上旬 「何糸百韻」維舟(12)長好(12)重方(12)三吟あり。
    発句 亭もめてむ北面たつかた時雨 維舟
   霜月十日 斎藤氏親盛・斎藤氏友我両吟「何□百韻」に点をなす。(親盛点廿四内長八/友我点廿六内長七)
   師走上旬京に入日、着ならし衣雪のふりかくすを、
    降雪の見のしろ衣や恥かくし
                  (以上『時勢粧』による)
 寛文十二(壬子)    七十一歳
  ○三月上旬、『時勢粧』附「時勢粧小鏡」の奥書をなす。
 延宝 八(庚申)    七十九歳
  ○『誹諧大系図』六月廿九日没?京都東山大谷に葬る、と記す。
  ○「延宝八年六月廿九日没東山大谷ニ葬る」とあり(『花見車』)  ○「維舟 俗名大文字屋治右衛門 松江重頼ト号 初貞徳門后里邑門人也 延宝八年六月廿九日 七十四才 宗因・鬼貫も此門学 俳諧毛吹草之作者也」 (『はいかい袋』) 」

 また,中村氏は寛文初年頃の重頼・維舟の活動状況について,次の如く記しておられる。
 「寛文元年(一六六一)耳順の年を迎えて京都銅駝坊の南御所八幡宮の東に草庵を結んで専ら点者生活に入った。寛文五年(一六六五)六十四歳の正月松江に因んで維舟と改号。卯月の初、岩城侯内藤風虎の招きによったものか近江路から木曽を経て諏訪・浅間・碓氷を越えて江戸へ出て、高井立志らと俳諧興行、さらに日光・宇都宮・白河の関をすぎて二本松の俳人江口塵言・水野林元らを訪ね、松島一見、仙台から岩城へ入って暫く滞在、冬再び江戸入り、師走初め京へ帰った。
  こえて寛文八年には六十八歳の老齢を以て筑紫紀行を企てている。卯月一日京を出発、十日九州小倉着、佐賀・長崎・八代・久留米・宰府などをめぐり、初冬の頃豊前に立ちかえり、長門・安芸・備後・備中・備前と中国筋の諸俳士と風交をかさね、極月二十二日大阪着の便船で帰京。
  この東西両度の大旅行は、多くの地方知名の士に彼の庶幾する新風を鼓吹することが出来た。これらの収穫は、寛文十一年の彦根紀行によって得た諸家の発句と共に『時勢粧』に収められている。」

 右の中村俊定氏の年譜・論考からも明らかな如く,寛文五年に,重頼が二本松を訪れた経緯は,寛文十二年三月上旬刊行の『時勢粧』巻三に収録された,発句四十六句とその詞書によって推測する事が出来る。全文を掲出し,若干の注を付すと以下の通りである。

 「    寛文五年卯月三日東行粟田山にて   〔注1〕
                  松 江 維 舟

 1 暇乞余花をもかへり都哉     
 2 手向山や駒のふり髪夏祓          〔注2〕
      清水の辺  
 3 寝ぬ目さへ醒井の水は夏もなし       〔注3〕
 4 短夜や明て木曽路は長あくび   
 5 山は新樹是や寝覚の床柱          〔注4〕
 6 諏訪の海や夏も氷の下心     
      浅間にて 
 7 穴嬉し里問兼ぬ卯木墻      
 8 筑摩川夏ゆくや波の雪こかし   
 9 夏衣碓氷をよしや軽イ沢          〔注5〕
      熊谷蓮生寺に詣て          〔注6〕
 10 蓮生や涼しき寺の旗かしら    
      武蔵野  
 11 うたひ茂れ野なる草木ぞ若い馬子 
      江戸さる御方にて
 12 山もゝも動出たるお前かな    
 13 五尺ある菖蒲刀も寸志哉     
      学寮へ申侍
 14 螢さへ尻たむる窓の学び哉    
 15 心根や麻竹椙を日に三度     
      高井立志所望            〔注7〕
 16 うれしさや会尺にあまる袖扇   
      河合水元興行            〔注8〕
 17 手に結び足を溜池の清水哉    
      木母寺               〔注9〕
 18 懐子はありや夏草角田川     
 19 武蔵野の外も山なし富士詣    
 20 日に三度水かへり見よ湯殿行   


      日光御社を拝申て          〔注10〕
 21 暮がたき夏の日光る社壇哉    
      宇都宮常用由可亭          〔注11〕
 22 小扇や螢を宇都のみやげ物    
      白河関               〔注12〕
 23 夏やせに秋風もがな二所の関   
      二本松江口塵言           〔注13〕
 24 一樹の陰頼むも涼し二本松    
      水野林元亭             〔注14〕
 25 阿武隈川かはゆくおぼせ飛螢   
      中井正成亭             〔注15〕
 26 河筋へ螢も風の手引かな     
      斎藤友我亭             〔注16〕
 27 茂る木の胯も逢見ん二本松    
      末松山               〔注17〕
 28 夏中はさゞら波こせ末の松    
 29 今住や安達が原の鬼野馬     
 30 宮城野の景やあひもち萩と露   
 31 薄霧のまがきの島や景に景    
 32 松島の秋やかたらば百分一         〔注18〕
 33 松島や思ひ寝言も月の秋     
      仙台瀬奈田不及興行         〔注19〕
 34 松島やおそらく極楽月の秋    
 35 高館の露やなみだの衣川          〔注20〕
 36 水精や先月をうる南部山     
      相馬領中村之城下          〔注21〕
 37 馬鞭草の花や我等をつなぎ馬   
      岩城の城下に暫有て         〔注22〕
 38 千とせをもへんは何遍菊の酒   
 39 旅雁もや南を・に長あくび    
      同所天神御社
 40 つぼ袖や拾ふ紅葉の幣袋     
 41 玉河や越塩風も千鳥がけ          〔注23〕
 42 岩なみもかへり花かの桜川         〔注24〕
      江戸にて富長興行          〔注25〕
 43 味も身につくやこのわた生鼠綿  
      箱根を過るとて
 44 山は屏風張やかたびら雪の松   
 45 一見も百物がたりや富士の雪   
      師走上旬京に入日、着ならし衣雪   〔注26〕
      のふりかくすを
 46 降雪のみのしろ衣や恥かくし       」


 〔注1〕 寛文五年四月三日,京都出発。重頼六十四歳。
 〔注2〕 手向山は山城と近江の国境にある逢坂山のこと。
 〔注3〕 醒ケ井は滋賀県米原町の地名。中山道の宿駅で京から十九里二十四丁の所。日本武尊が病を癒したと伝える居寤の清水がある。
 〔注4〕 寝覚の床。長野県木曽郡上松町にある木曽路の名勝地。京から六十四里十二丁。
 〔注5〕 碓氷峠は長野県と群馬県の堺にあり,中山道第一の難所であった。軽井沢は京都からは手前に当たる宿場。京から九十八里二十六丁。
 〔注6〕 熊谷は埼玉県熊谷市で,中山道の宿場。蓮生山熊谷寺には熊谷直実の墓がある。京から百十九里二十四丁,江戸へ十五里三十五丁。
 〔注7〕 高井立志は紀伊和歌山藩の畳職を管理する高井氏の子。浪人して江戸に出て,本町四丁目に住す。休圃の紹介で立圃の門に入った。
 〔注8〕 河合水元は江戸の俳人。
 〔注9〕 木母寺は墨田区堤通にある天台宗の寺。初め梅若寺と言ったが,慶長十二年(一六〇七)木母寺と改めた。梅若伝説がある。
 〔注10〕 日光御社。徳川家康を祀った東照宮。
 〔注11〕 宇都宮,奥州道の宿場で,ここから日光道が分かれる。常用由可は宇都宮の俳人,大塚氏。
 〔注12〕 白河関、奥州道の宿場・白河にある関所で、江戸から四十八里。二所の関という。
 〔注13〕 二本松は奥州街道の宿駅で,相馬街道,磐城街道と交わる所で商業活動の中心地であった。江口塵言は二本松丹羽家の家臣で,代々家老の職を務める家柄。
 〔注14〕 水野林元は二本松藩家臣。藩主・長次の傅役・目付・旗奉行等を務めた。
 〔注15〕 中井正成も二本松藩家臣。
 〔注16〕 斎藤友我も二本松藩家臣。
 〔注17〕 末松山。宮城県多賀城市にあったという山。歌枕。
 〔注18〕 松島。宮城県松島湾に散在する大小の島。日本三景の一つ。
 〔注19〕 瀬奈田不及。仙台の俳人。
 〔注20〕 高館。藤原秀衡が源義経のために築いたと言われる館。
 〔注21〕 相馬領。中村藩。相馬忠胤(三代)の治世。江戸より七十八里。
 〔注22〕 岩城の城下。岩城平藩。内藤忠興(二代)の治世。寛文十年,三代・頼長(風虎)襲封。江戸より五十五里。
 〔注23〕 玉河。江戸,調布の玉川。多賀城市の野田の玉川かとも考えられるが,岩城から再び北上するのは不自然と思う。
 〔注24〕 桜川。江戸愛宕山下付近を流れていた川。桜の名所。
 〔注25〕 富長。橋本氏,江戸の俳人。
 〔注26〕 京都帰着。

 簡略な注を付したが,これを整理すると,1から10までが,京都を出て,中山道を経て江戸までの旅。11から18までは江戸滞在。19〜23では,江戸を出て,日光等に詣でて奥州道の旅。24から27まで二本松に滞在。28以後,さらに奥へ進み,松島・仙台・平泉・中村を経て,38で風虎の居る岩城に着く。40まで滞在して,41〜43は江戸滞在。以後,箱根・富士を眺めて,東海道を通って京都に帰着したという事になる。季節は28までが夏,40まで秋,以後冬。
 右に掲げた,中村俊定氏の研究や,この四十六句とその詞書を参考にすると,寛文五年の重頼の行動について,そのおおよそは,推測する事が可能である。ただ,本稿の目的は,その重頼と二本松の俳諧との関係,ひいては親盛との関係を明らかにする点にある。そのためには,これだけの資料では十分とは言い得ない。二本松関係の調査は現在進行中であり,その結果をも含めて,続稿で考察を加える事にしたい。


 (注1) 田中伸氏「如儡子の注釈とその意義―『百人一首鈔』と『酔玉集』―」(『二松学舎大学論集』百周年記念号,昭和52年10月,後,『近世小説論攷』昭和60年6月10日,桜楓社発行 に収録)。
 (注2) 野間光辰氏「如儡子系伝攷(中)」(『文学』46巻12号,昭和53年12月,後『近世作家伝攷』昭和60年12月30日,中央公論社発行 に収録)。
 (注3) 今栄蔵氏『貞門談林俳人大観』(平成元年2月28日,中央大学出版部発行)。
 (注4) 『佐夜中山集』は「近世文学資料類従・古俳諧編,7・8」(荻野秀峰解説,昭和48年8月20日,10月5日,勉誠社発行)を使用した。
 (注5) 『夜の錦』は内藤風虎撰,寛文六年(一六六六)成立とされるが,現在,伝存未詳である。延宝七年(一六七九)序,桑折宗臣編の『詞林金玉集』にその一部が抄録されている。『詞林金玉集』は,宮内庁書陵部編,図書寮叢刊として明治書院から,上巻=昭和47年10月14日,中巻=昭和48年10月8日,下巻=昭和50年1月20日にそれぞれ発行されているものを使用した。
 (注6) 『桜川』原本は大東急記念文庫蔵。複製本が上下二冊で昭和60年4月25日に発行されているものを使用した。解説・加藤定彦氏,発行・大東急記念文庫,制作・勉誠社。
 (注7) 『時勢粧』は,古典俳文学大系2『貞門誹諧集二』,小高敏郎・森川昭・乾裕幸校注,昭和46年3月10日,集英社発行,を使用した。『時勢粧』は森川昭氏担当。
 (注8) 『糸屑集』は東京大学図書館洒竹文庫所蔵本のマイクロフイッシュによった。
 (注9) 『続連珠』は東京大学図書館竹冷文庫所蔵本のマイクロフイッシュによった。
 (注10) 『境海草』は,古典俳文学大系3『談林俳諧集一』,飯田正一・榎坂浩尚・乾裕幸校注,昭和46年9月10日,集英社発行,を使用した。『境海草』は榎坂浩尚氏担当。
 (注11) 『二本松市史』第9巻「自然・文化・人物,各論編2」平成元年5月1日発行。


 (注12) 中村俊定氏著『俳諧史の諸問題』昭和45年9月20日,笠間書院発行。
 (注13) (注12)に同じ。
 (注14) (注7)に同じ。


  【付 記】
 斎藤親盛(如儡子)の俳諧について,従来の研究を踏まえて,調査考察する予定であったが,予想外に時間を要し,中間報告の如き結果となってしまった。今後,さらに調査を続け,次号で纏めたいと思う。この点を御了承願いたい。
 今回,貞門俳諧の撰集の調査に関しては,今栄蔵氏の労著『貞門談林俳人大観』を主として活用させて頂いた。撰集の採り上げ方でなお,不十分の点があるかも知れない。また,俳人の数の数え方に誤りがあるかも知れない。今氏の血のにじむような作業の結晶を活用させて頂くにあたって,身の引き締まる思いがした。集計ミスなど無いように努力はしたが,もし有るとすれば,それは,全て私の責任である。
 本稿は未完であるが,調査にあたって,関係諸機関のお世話になった。また,この間,島本昌一氏・笠間愛子氏から様々な御指導を頂いた。記して,心から御礼申し上げます。

 ―『近世初期文芸』第16号(平成11年12月)所収)―

 
Ш愼親盛(如儡子)の俳諧(中)
五、近世初期の陸奥の俳諧状況

 如儡子の俳諧活動を考えるために、本誌前号の「斎藤親盛(如儡
子)の俳諧(上)」では、現在までに確認し得た、親盛の作品とそ
の数を吟味推定し、また、近世初期の俳諧状況を知る意味で、当時
の俳書に収録された、俳人の国別の数等を掲げた。ここでは、それ
らの結果に対して検討を加えたいと思う。

 寛永から延宝にかけての、各国の俳人の俳諧撰集への入集状況に
関する資料は前号で掲げたが、その結果を簡略に整理すると以下の
如くである。 〔注〕○=陸奥を収録しないもの。
          ◎=陸奥を収録しているもの。
          ●=親盛の句を収録するもの。
 ○寛永10年  重頼 『犬子集』 陸奥は収録せず。
 ○寛永10年  親重 『誹諧発句帳』 陸奥は収録せず。
 ○正保2年? 重頼 『毛吹草』 陸奥は収録せず。
 ○正保4年  重頼 『毛吹草追加』 陸奥は収録せず。
 ◎明暦2年  休安 『夢見草』 陸奥3名、会津2名、仙台1
                 名。
 ○明暦2年  令徳 『崑山土塵集』 陸奥は収録せず。
 ○明暦2年  貞室 『玉海集』 陸奥は収録せず。
 ○明暦2年  梅盛 『口真似草』 陸奥は収録せず。
 ○明暦4年  梅盛 『鸚鵡集』 陸奥は収録せず。
 ◎万治2年  梅盛 『捨子集』 陸奥8名、会津3名、山形2
                 名、米沢2名、白川1名。
 ◎万治3年  季吟 『新続犬筑波集』 陸奥2名、二本松の水
                 野林元、寺田寒松。
 ◎万治3年  重頼 『懐子』  陸奥1名、磐城の内藤風虎。
 ◎寛文3年  梅盛 『木玉集』 陸奥2名、会津2名。
 ●寛文4年  重頼 『佐夜中山集』 二本松20名、会津9名、
                 磐城7名。●親盛2句。
 ◎寛文4年  梅盛 『落穂集』 陸奥15名、二本松は斎藤友我
                 1名。
 ◎寛文6年  一雪 『俳諧洗濯物』 陸奥6名、磐城5名、白
                 河1名。
 ●寛文6年  風虎 『夜の錦』 二本松29名、●親盛11句。
 ◎寛文7年  貞室 『玉海集追加』 陸奥3名、会津3名。
 ◎寛文7年  湖春 『続山井』 陸奥25名、二本松11名。
 ◎寛文8年  加友 『伊勢踊』 陸奥12名、磐城多し。
 ◎寛文8年  梅盛 『細少石』 陸奥10名、磐城・仙台多し。
 ◎寛文9年  未琢 『一本草』 陸奥16名、磐城・会津多し。
 ●寛文12年  維舟 『時勢粧』 二本松27名、磐城13名、会津
                 5名、●親盛6句、両吟百韻
 ◎寛文12年  宗臣 『大海集』 陸奥12名、磐城7名、二本松
                 3名、仙台2名。
 ◎寛文12年  顕成 『続境海草』 陸奥6名、二本松3名。
 ◎寛文12年  顕成 『手繰舟』 陸奥20名、磐城11名、二本松
                 6名、津軽2名、白川1名。
 ●寛文12年  風虎 『桜川』  磐城72名、二本松45名。●親
                 盛40句。
 ◎延宝2年  安静 『如意宝珠』 陸奥13名、磐城・白川・津
                 軽・会津・仙台。
 ◎延宝2年  維舟 『大井川集』 二本松9名、磐城2名、仙
                 台2名、白川1名、会津1名
 ●延宝3年  重安 『糸屑集』 陸奥13名、二本松3名。●親
                 盛1句。
 ◎延宝4年  維舟 『武蔵野集』 二本松8名、磐城1名。
 ●延宝4年  季吟 『続連珠』 陸奥39名、磐城12名、二本松
                 8名、会津5名、白川1名、
                 盛岡3名等、●親盛1句。

 これらの入集の数量関係から、機械的に言い得ることは、まず、
陸奥の俳人が俳諧撰集に入集するようになるのは、明暦・万治頃か
らであり、陸奥の中では、磐城・二本松が俳諧活動が盛んである、
と言うことである。次に二本松との関係をみると、松江重頼が非常
に関係が深い事がわかり、重頼が二本松と関係深くなるのは万治・
寛文頃からであると言える。また、重頼は磐城よりも二本松との関
係の方が深いと言える。次に二本松と非常に深い関係にあるのは内
藤風虎であり、北村季吟も関係が深い。北村湖春・桑折宗臣・阿知
子顕成・宗善庵重安も二本松と関係があった。
 いっぽう、高瀬梅盛は二本松とあまり関係が無く、また、安原貞
室・野々口親重・蔭山休安・鶏冠井令徳・荻野安静も二本松とは関
係が無かった。椋梨一雪・荒木加友・石田未琢は磐城とは関係深い
が二本松とは関係無かったようである。
 このように整理出来ると思われるが、これらは、『滑稽太平記』
等に伝えられている、各俳人間の確執・親疎の面がら見ても頷かれ
るものと思われる。
 陸奥における俳諧活動は、おそらく寛永中頃から行われていたも
のと思われるが、その成果が、京都を中心として出版された俳書に
入集され出すのは、右に見た如く、明暦・万治頃からであった。
 また、陸奥の中では磐城と二本松が特に盛んであった事も、右の
データから明らかである。磐城は、知られている如く、磐城平藩主
・内藤頼長が俳号・風虎をもつ貞門俳人であった。そのような関係
もあって、家臣も俳諧を嗜む者が多かったようである。おそらく八
十名位は居たものと推測される。
 二本松も、各俳書への入集状況から推測するに、六十名前後の俳
人が居たものと思われるが、何故このように俳諧活動が活発だった
のであろうか。
 二本松藩十万七百石に、寛永二十年(一六四三)七月、丹羽光重
が白河藩から入封している。光重は藩主に就任すると、築城と城下
町の整備を行い、二本松藩の基礎を確立した。光重は熊沢蕃山・山
鹿素行とも交流があり、素行の『配所残筆』慶安三年(一六五〇)
の条には、光重は素行に兵学の講義を聞き、歌舞伎をしばしば、共
に見ている事が指摘されている。また、和算家の礒村吉徳を召し抱
え、二本松算学の基礎を作っている。光重は黄檗宗に帰依し、寛文
四年(一六六四)には大岳和尚を招いて松岡寺を創建している。こ
の松岡寺は斎藤親盛の菩提寺でもある。さらに『仏祖図賛』をも編
纂している。『二本松市史』第九巻で、田中正能氏は、
 「丹羽光重は、石州流の茶人として有名な大名であり、当時の君
 主として詩歌、和漢の学問、仏典をはじめ諸芸にくわしく、とり
 わけ蘭・竹の絵をよくしたと伝わる」
 と記しておられる。現在、延宝六年(一六七八)の和歌集『光重
公自筆集』も丹羽家に伝存する。
 寛文三年の「公制」の冒頭で、
 「一、忠孝をはけまし礼法をたゝし常に文道武芸を心かけ義理を
    専にし風俗みたるへからさる事」
 と布達しているが、これは武家諸法度を単に書き替えたもという
よりも、光重の政治姿勢を表したものと言ってよいと思われる。つ
まり、丹羽光重は自らも文芸に親しみ、臣下にも文道武芸を奨励す
る大名であったと推測される。その点では、磐城平藩主・内藤頼長
と相通じるものがある。二本松藩の俳人の筆頭にあげられる江口塵
言は、丹羽家の家臣で代々家老の職を務める家柄であり、水野林元
は光重の長子・長次の傅役・目付等を務めている。このような状況
の中で二本松藩の俳諧は、光重の家臣を中心として、隆盛を極めた
ものと推測される。あるいは、磐城平藩と二本松藩と藩主間、俳人
間に交流の記録があるのではないか、と推測し、内藤風虎関係の資
料も調査したが、現在のところ確認することは出来なかった。
 関根林吉氏は、昭和四十一年『福島県俳諧年表』を作成しておら
れる。『俳諧年表』(望東・麦人)・『新選俳諧年表』(鳳二・一
外)・『俳諧年表』(洒竹)・『俳書体系』(春秋社)・『福島県
史』(第廿巻)等を利用して作成したものであるが、俳諧選集のみ


年表省略


でなく、俳諧合や諸記録も参照しているので、風虎と季吟・宗因・
玖也との関係、玖也と宗因・重頼との関係を知る上で参考になる。
年表は、全時代に亙った労作であるが、ここでは、関連する年代の
部分を紹介する。

 六、二本松の俳人

『佐夜中山集』『夜の錦』『桜川』『時勢粧』等に収録の俳人
  1、江口塵言   12、小川可著    23、古市正信
  2、水野林元   13、須藤之也    24、小池又笑
  3、日野好元   14、寺田寒松    25、  秀伝
  4、長岡道高   15、今村林昌    26、伴 人似
  5、斎藤親盛   16、  正秀    27、土屋有房
  6、斎藤友我   17、金田古硯    28、下河辺哂◆
  7、小沢衆下   18、佐藤幸之    29、釈 随言
  8、不破一興   19、白岩人任    30、内藤未及
  9、中井正成   20、安保一実    31、釈 永雲
  10、奥田方格   21、豊田政氏    32、根村吉元
  11、斎藤如酔   22、釈智蔵主    33、槙 陳旧
  34、小原幸益    44、安積治水子   54、貝山友志
  35、  元知    45、藤村守幸    55、清水直治
  36、座頭城益    46、青戸未入    56、石橋虫同
  37、佐野相興    47、小松崎破衣   57、三崎如雲
  38、安田未元    48、佐藤萍心    58、横山笑甫
  39、◆山子     49、寺田守昌    59、鈴木友言
  40、日野好久    50、松下是一    60、丹羽捨拾
  41、大崎口友    51、土屋有次    61、野沢似言
  42、滝川寸志    52、津田正吉    62、毛利以由
  43、寺田万之助   53、山田相知    63、河村惣広

 配列の順序は『佐夜中山集』の句数の多い順にして、以下各集の
俳人を追加した。これらの俳人の伝記の関しては、殆どわかってい
ない、というのが現状である。昭和三十年の矢部榾郎氏の『福島県
俳人事典』(『事典』と略称)と関根林吉氏の『福島県俳諧年表』
を参照し、二本松藩関係の諸資料を利用して調査した結果を以下に
報告する。

1、江口塵言 「塵言 二本松。江口三郎右衛門。維舟門。「桜川」
 に百句以上入集(四句引用)」(『事典』)。丹羽家家臣、江口
 正倫。父・正信は『寛永十一戌年御上洛/丹羽宰相長重公御供之
 侍』では「御番頭 江口三郎右衛門」とあり、寛永十三の『白川
 城主丹羽五郎左衛門尉長重様御領地之時之支配帳』では「御家老
 千石 江口三郎右衛門」とあり、万治三年没している。正信の嫡
 男・正倫は「……承応二年十月処領を賜ふ〔二百五十石〕。万治
 三年二月父死して家を継ぎ〔千五百石父是迄支配せし組子しばし
 預らる〕、同十月組頭に被成、寛文七年世子〔興国公〕の執政に
 被成組頭は元の如し。延享七年四月興国公御世継せられし時、将
 軍家へ拝謁し奉る。今年処領加ひ賜ふ〔二百石〕。天和三年閏五
 月日光山神廟の経営を助けさせ給ふ時、其事を奉行し事成し後、
 将軍家に召して時服白銀を賜ふ。貞享三年正月処領加へ賜ふ〔三
 百石合二千石〕。元禄十年十二月請に依て職免さる。然し重き御
 政事あらんには登城有べし、尋常の事は執政等正倫が宅に就て議
 すべしとの仰を蒙る。同十三年三月致仕し惺石と号し老養料〔月
 七十口〕賜る。今茲八月十日六十一歳にて空しくなりぬ。」(『
 世臣伝』巻之五)。寛文五年、松江重頼は二本松に立ち寄った際、
 江口塵言の家で句を作っている。「二本松江口塵言/一樹の陰頼
 むも涼し二本松」。『佐夜中山集』『夜の錦』『桜川』『時勢粧』
 『続連珠』『六百番誹諧発句合』『花0』等に入集。江口塵言は
 二本松藩の重臣であり、俳諧は重頼の指導を受けていたものと思
 われる。
2、水野林元 「林元 二本松。近習。水野九右衛門。(五句引用
 」(『事典』)。丹羽家家臣、水野林元。父は水野新左衛門。元
 和六年所領百五十石を賜り、御用人となり〔三百石〕、寛永九年
 没。「其子太郎八、未幼稚なりけるの新左衛門が勤労格別なるを
 以て遺領を賜り〔二百五十石〕、成人して九右衛門林元と召れ、
 御小姓に被成、慶安二年十月地加られ〔五十石合三百石〕御小納
 戸より御用人の職に被成、寛文元年八月、世子〔興国公〕の御伝
 に補られ、同二年御許を蒙り、其後目付衆に被成再世子の御伝を
 経て御代治しめされし始郡代の職を奉り、元禄三年三月御旗の奉
 行に進み、年老いぬれば致仕入道して□山と号し老養料〔月俸六
 口〕、宝永四年十月六日年七十七歳にて終りぬ。」(『世臣伝』
 巻一之下)。松江重頼は二本松に立ち寄った際、水野林元の家で
 句を作っている。「水野林元亭/阿武隈川かはゆくおぼせ飛螢」。
 『佐夜中山集』『夜の錦』『桜川』『時勢粧』『糸屑集』『続連
 珠』『六百番誹諧発句合』『花0』等に入集。水野林元は二本松
 藩の家臣で、御小姓、御小納戸、御用人、藩主の長子・長次の傅
 役、目付、旗奉行等を歴任しており、俳諧は重頼の指導を受けて
 いたものと思われる。
3、日野好元 「好元 二本松。日野氏。維舟門。文車の前号かと
 思われるが判然としない。(五句引用)」(『事典』)。二本松
 藩家臣の日野氏は、『世臣伝』巻二によれば、正家・・重尚・・
 尚茂 と続き、重尚の弟に好辰がある。この好辰が日野好元と推
 測される。田中正能氏は「日野重尚の弟、日野孫右衛門好辰、致
 仕後は湯水と称した。」としておられる。『世臣伝』日野氏の系
 図には「好辰〔孫右衛門 致仕号湯水〕」とあり、『二本松藩新
 規召抱帳』の寛永十五年の条に「日野孫右衛門〔小姓正保二年百
 石後五十石加増金ニ而百石両度遣ス〕」とある。日野好元は二本
 松藩の家臣で、日野家の分家ながら小姓などを勤めていたものと
 推測され、俳諧は重頼の門下であったと思われる。『佐夜中山集』
 『夜の錦』『桜川』『時勢粧』『続連珠』『六百番誹諧発句合』
 等に入集。なお、『事典』は『花□』の編者・文車の前号かと推
 測しているが、文車は重尚の子・尚茂の号である。また、田中正
 能氏は「二本松に残る説には、貞享四年(一六八七)に俳人とし
 て名を知られた日野好元・好久の父子が所行不埒の故にて所領召
 上げ改易を命ぜられ、また本家である日野尚茂は千石知行の重臣
 として番頭兼金銀出納の奉行をつとめていたが、元禄二年(一六
 八九)には出納勘定不都合の事ありとして謹慎中であったために、
 芭蕉は立寄ることを遠慮したものとされている。」と記しておら
 れる。40、日野好久は、日野家系図の好辰の子の条に「某〔万太
 郎 孫右衛門/母樽井弥五左衛門重次女/有罪改易家断絶〕」と
 ある人物と思われる。
4、長岡道高 「好元 二本松。長岡氏。「桜川」に入集」(『事
 典』)。『世臣伝』巻八之上の長岡道明か。「元は丹後国に住し、
 京極修理大夫高三が家に在り。明暦元年六月慈明公に仕奉り〔四
 百石を賜ふ〕、万治二年六月先鋒の隊将奉り、天和元年職を許さ
 れ、同年三月十五日、七十三歳にして死しぬ。」寛永十三の丹羽
 長重の『御領地之時之支配帳』では、小目付の条に「長岡平左衛
 門」とある。『佐夜中山集』『夜の錦』『桜川』『時勢粧』『糸
 屑集』等に入集。
5、斎藤親盛 「親盛 二本松。斎藤氏。「桜川」に入集」(『事
 典』)。如儡子。万治三年、子の秋盛が丹羽光重に召抱えられ、
 二本松に移住した。『佐夜中山集』『夜の錦』『桜川』『時勢粧』
 『糸屑集』『続連珠』等に入集、『時勢粧』には斎藤友我との両
 吟百韻が収録されている。
6、斎藤友我 『事典』は採録せず。『世臣伝』には、斎藤喜兵衛
 秋盛(如儡子の子)以外には、巻之五に斎藤直一がある。田中正
 能氏はこの斎藤直一を斎藤如酔としておられるが、私の調査した
 結果、現段階では、友我・如酔いずれとも断定し得ない。「……
 其子直一未童にて長五郎と名乗り、田島の郷に在りし時、桀俊公
 御鷹狩に出させられ此辺通らせ給ひ、直一が幼きを御覧じて、其
 ありさま尋常の子ならずと知し召し、やがて御家人に加えられ、
 御身近く召仕る。元より才智人に勝れ、又さる者の子にもありけ
 れば、君の御寵恩尤厚く、実に頼母敷思召れ後々は御取立有べし
 との仰にて自分御筆を染させられ処領の高記されて直一に下し賜
 ふ〔今に此家の重宝とて〕例しすくなき事なりき。寛永十一年御
 上洛の御供に従ひ参らせ、同十四年御右筆の事を奉り、同十七年
 九月新に所領を賜ひ〔百五十石〕同二十年会津の戍にも御供し、
 正保二年九月所領加られ〔五十石〕寛文元年其職の司となり、同
 五年十月再処領加へ賜ひ〔五十石合二百五十石〕延宝七年五月七
 日六十四歳にて死す。」この斎藤直一が友我を称したか否か未詳
 であるが、寛文五年、重頼が二本松を訪れた時、「斎藤友我亭/
 茂る木の股も逢見ん二本松」と友我の家で句を詠んでいる。元禄
 頃の状況を伝えると言われる『二本松城下図』には城近くの大通
 りに面した位置に「斎藤半助」の屋敷がある。直一の子の直達が
 半助である。寛文五年、友我は親盛と両吟百韻を作っているが、
 この時五十歳、親盛は六十三歳であった。寛永十三年の『御支配
 帳』には「百石 斎藤九兵衛」があり、『二本松新規召抱帳』の
 棚倉召抱分の条に「斎藤八郎右衛門」、寛文元年の条に「斎藤左
 太夫」がある。如酔との関係も含めて今後調査を重ねたい。『佐
 夜中山集』『夜の錦』『桜川』『時勢粧』等に入集。
7、小沢衆下 「衆下 二本松。小沢氏。「桜川」に多数入集」(
 一句引用)」(『事典』)。丹羽家家臣、小沢正房。左内、左衛
 門、七郎左衛門。「其(小沢正吉)子七郎左衛門正房父に継き〔
 百七十五石〕寛文三年八月糠沢の令に被成、其後本宮の令となり、
 天和二年三月職を許され同十一月街道の奉行となり同三年十一月、
 大夫人〔見性院殿〕の老職に補せられて処領を加られ〔五十石〕
 大夫人隠させ給ふ後目付衆に被成〔二百五十石の高となる〕兼て
 宗門の事を司り元禄四年出羽国置賜郡検地の事、仰蒙らせて給ふ
 時正房と其役に侍り功畢て後、将軍家に召れ時服白銀を賜ふ。同
 五年二月郡奉行の職に移り所領再加られ〔合二百五十石〕同十一
 年十二月八日六十二歳にして死す」(『世臣伝』巻之六)。『佐
 夜中山集』『夜の錦』『桜川』『時勢粧』『六百番誹諧発句合』
 等に入集。
8、不破一与 『事典』は採録せず。『世臣伝』にも収載されてい
 ない。『二本松藩新規召抱帳』の天正十一年の長秀家臣として、
 「一 四百石 不破与右衛門」「一三百石 不破杢兵衛」の二人
 が記載されているが、この内のいずれかであろう。『佐夜中山集』
 『夜の錦』『時勢粧』等に入集。
9、中井正成 「正成 二本松。(一句引用)」(『事典』)。丹
 羽家家臣、中井重時(正成)。新之丞、小右衛門、致仕して無現
 と号す。代々丹家に仕える家柄で、父重政は寛文八年没。「(重
 政の)嫡男小右衛門重時寛文二年正月月俸賜て召仕れ同八年十二
 月家を継ぎ〔三百五十石〕其後御帳着の事を司り徒士衆の頭を経
 て御用人の職を奉りしに延宝八年正月家事困乏せしに依て職并居
 宅等返し参らせ在郷仕るべしと訴しに御許を蒙り塩沢へ引籠り、
 貞享四年九月再御用人の職を奉り徒士衆の頭を兼ぬ。元禄四年九
 月先鋒の隊将に転じ同八年十月備前の国岡山への御使を奉り〔伊
 予守綱政朝臣卒去に依て也〕同十六年六月御旗の奉行に進み宝永
 六年四月致仕して無現と号し享保八年八月十一日死す」(『世臣
 伝』巻之二)。寛文五年、松江重頼が二本松を訪れた時、「中井
 正成亭/河筋へ螢も風の手引かな」と詠んでいる。『佐夜中山集』
 『夜の錦』『桜川』『時勢粧』『続連珠』『六百番誹諧発句合』
 等に入集。
10、奥田方格 「方格 二本松。奥田氏。「桜川」に多数入集。」
 (『事典』)。丹羽家家臣、奥田方格。才之助、半左衛門、仁右
 衛門、無角と号す。父は青山権之助、後、奥田半兵衛を称す。長
 男は貞格で貞享三年家を継ぐ。方格は二男で寛文元年分家。『世
 臣伝』巻之三に「仁右衛門多々良方格ハ半兵衛某が二男。正保三
 年世子〔興国公〕の御身近く召仕れ〔月俸二口半給金六両〕後御
 膳の司に被成寛文元年十月新に所帯を賜ふ〔百石〕。其後江戸金
 払の職を経て杉田の令となり過有て職を奪はれ、元禄六年御伽の
 衆に被成薙髪して無角と号し常に御側に伺候しける。同八年六月
 致仕し老養料賜り同十一年五月十九日七十三歳にして身終りぬ」
 とある。『佐夜中山集』『夜の錦』『桜川』『時勢粧』『六百番
 誹諧発句合』等に入集。
11、斎藤如酔 「如酔 二本松。(一句引用)」(『事典』)。」
 田中正能氏は「如酔を号する斎藤直一は二五〇石知行侍である。
 寛文七年(一六六七)十月、岩城飯野八幡祭礼に平に滞在中の松
 山玖也の句集に付句を行なっている。」としておられる。斎藤友
 我の条でも記したが、友我・如酔の関係を、現在までに明らかに
 し得なかった。今後さらに調査を重ねたい。『夜の錦』『桜川』
 『時勢粧』『続連珠』等に入集。
12、小川可著 「可著 二本松。(一句引用)」(『事典』)。丹
 羽家家臣と思われるが、『世臣伝』に小川は見当たらない。寛永
 十三年の『御支配帳』に「二百五十石 小川藤次郎」「五十石
 小川伝右衛門」が見え、『二本松新規召抱帳』の白川召抱候分に
 「小川九兵衛 二百石取次数馬」、「小川友次 二百五十石鉄砲
 同心二十人預」「小川伝左衛門 五十石取次数馬」が、寛永十六
 年の条に「小川一之丞」「小川三之丞」、慶安二年の条に「小川
 勘兵衛」、万治元年の条に「小川隼之進」等が見えるが、現在の
 ところ、いずれとも決められない。『夜の錦』『続山井』等に入
 集。
13、須藤之也 「之也 二本松。須藤氏。「桜川」に多数入集。」
 (『事典』)。『世臣伝』に見当たらず、『二本松新規召抱帳』
 の寛文三年の条に「須藤三右衛門」が見えるのみ。『夜の錦』『
 桜川』『時勢粧』等に入集。
14、寺田寒松 『事典』は採録せず。『世臣伝』に寺田貞成が見え
 る。藩に仕えて右筆を勤め、万治二年に二百石を与えられたが、
 翌三年三十六歳で没している。その子・安成はまだ六歳位であっ
 た。寺田寒松では年齢が合わない。要再調査。『佐夜中山集』『
 夜の錦』等に入集。
15、今村林昌 「林昌 二本松。「桜川」に入集」(『事典』)。
 『世臣伝』に今村は見当たらない。『二本松新規召抱帳』の慶安
 二年の条に「今村三左衛門 五人扶持ニ十五石肝煎上田主殿殿」
 とある。『夜の錦』『桜川』『時勢粧』等に入集。
16、  正秀 「正秀 二本松。(二句引用)」(『事典』)。『
 夜の錦』『続山井』『花0』等に入集。
17、金田古硯 「古硯 二本松。金田氏。(一句引用)」(『事典
 』)。金田氏は『世臣伝』にも二本松藩関係の資料にも見当たら
 ない。『佐夜中山集』『夜の錦』『桜川』『続山井』等に入集。
18、佐藤幸之 「幸元 二本松。佐藤氏。「桜川」に入集。」(『
 事典』)。(幸元は幸之のミスであろう。索引は幸之)。『世臣
 伝』には見当たらず、寛永十一年の長重上洛の「御供之侍」の中
 に「佐藤八郎左衛門」とあり、寛永十三年の「御支配帳」の中に
 「三百石 佐藤八郎左衛門」とあり、『二本松新規召抱帳』に「
 同(歩行之者) 佐藤六右衛門」とあり、同じく寛永九年の条に
 「佐藤覚兵衛 三百石肝煎大島茂兵衛取次数馬」とあり、同じく
 寛永十年の条に「佐藤弥五兵衛 右同断(二百石取次同)」とあ
 り、明暦元年の条に「佐藤与兵衛 歩行之後度々加増」とあり、
 明暦二年の条に「佐藤彦作 十石四人扶持 馬乗」とあり、寛文
 二年の条に「佐藤一夫 金一枚ニ弍人半扶持小姓」とあり、寛文
 六年の条に「佐藤宗作 三百五十石 肝煎島田金州」とそれぞれ
 ある。これは、48、佐藤萍心とも関係するが、現在では、いずれ
 とも確定出来ない。『夜の錦』『桜川』等に入集。
19、白岩人任 「人任 二本松。白岩氏。「桜川」に入集。」(『
 事典』)。丹羽家家臣、白岩守広か。『世臣伝』巻之五によれば
 白岩守広は、主水、伊右衛門。「伊右衛門守広ハ光広の二男にて
 始ハ主水と名乗寛永五年十月傑俊公に仕へ奉り〔百五十石嫡流家
 子孫ハ伊予の伊達の家に仕ふと云ふ〕其後普請の奉行となり、慶
 安二年三月職を許され、寛文八年二月五日死しぬ。」『桜川』『
 時勢粧』等に入集。
20、安保一実 『事典』は採録せず。丹羽家家臣、安保重実か。『
 世臣伝』巻之五に、安保重実、造酒、一郎兵衛、忠左衛門、致仕
 後是迄と号す。「嫡男忠左衛門重実、寛永六年月俸賜て召仕れ〔
 〔三口〕同十一年十月新に所領を賜ひ〔百石〕中軍の炮将を奉り
 万治二年八月再所領加へられ〔五十石〕町奉行の職に補せられ…
 …此人夙夜奉公の労を積しのみならず当時才略の人と呼れしかハ
 寛文元年三月懇の仰有りて処領余多加へ賜ひ〔百石合四百石〕大
 目付を命ぜられ……同年十一月宗門の事を兼其後職御許を蒙り〔
 宗門の事をハ奉る〕同十一年十一月致仕し是迄と号し老養料賜り
 〔月俸六口〕年七十七歳にて貞享二年六月廿八日死てけり」。『
 夜の錦』等に入集。
21、豊田政氏 「政氏 二本松。豊田氏。「桜川」に入集。」(『
 事典』)。『世臣伝』に見当たらず、『二本松新規召抱帳』の棚
 倉召抱候分の条に「豊田弥五右衛門 知行百石ノ約束取次左兵衛
 数馬」とあり、寛文二年の条に「豊田小一郎 右同断(十両ニ三
 人扶持 若狭守小姓)」とある。豊田弥五右衛門であろうか。『
 夜の錦』『桜川』等に入集。
22、釈智蔵主(知蔵司) 『事典』は採録せず。二本松の僧侶であ
 ろうか。『佐夜中山集』『夜の錦』等に入集。
23、古市正信 『事典』は採録せず。『世臣伝』に見当たらず、二
 本松関係資料の中にも見当たらない。『佐夜中山集』『夜の錦』
 等に入集。
24、小池又笑 『事典』は採録せず。丹羽家家臣、小池次好か。『
 世臣伝』巻之六の系図に、小池次好、太郎左衛門、武右衛門とあ
 る。「武右衛門藤原某ハ堀尾山城守忠晴の家人也。寛永十二年傑
 俊公に仕へ奉り〔百五十石〕其後再処領を加へ賜り〔二百五十石〕
 延宝三年四月三十日死しぬ」また、『二本松新規召抱帳』の寛永
 十二年の条に「小池惣左衛門 百五十石肝煎堀尾但馬守殿」とも
 ある。『夜の錦』『桜川』『時勢粧』等に入集。
25、  秀伝 『事典』は採録せず。現在のところ手掛かり無し。
 『夜の錦』『続連珠』等に入集。
26、伴 人似 「人似 二本松。伴氏。「桜川」に入集。」(『事
  典』)。『世臣伝』巻之六の伴正秀か。「伴 角兵衛大友正秀
 ハ信濃守正興が子にて松平中務大輔忠知朝臣の家人なり。彼家亡
 て後寛永十三年傑俊公に仕へ奉り〔二百石……〕其後作事の奉行
 となり慶安二年三月職許され宝暦元年七月致仕し同七年八月十八
 日八十一歳にして死しぬ」(この「宝暦」は寛文または延宝の誤
 りか)。『桜川』『時勢粧』等に入集。
27、土屋有房 『事典』は採録せず。丹羽家家臣。『世臣伝』巻之
 二の系図に、土屋有房、源之丞、弥兵衛、甚右衛門、致仕して遊
 外と号す。「甚右衛門有房ハ辻某〔久左衛門青山播磨守に仕ふ〕
 が二男也。明暦元年世子の御近習に召仕れ〔月俸二口半給金五両〕
 寛文元年十月所領を賜ひ〔百石〕御膳の司を奉り兼て刀剣及金銀
 の奉行等を司り家を継て〔三百石〕職許され目付衆より御用人の
 職に進み徒士衆の頭を兼ぬ。天和三年六月日光山神廟の経営を助
 けさせ給ふ時登山して其事を奉り功なりし後将軍家に召され物多
 く下し賜ふ。其後職を許され、元禄三年先鋒の隊将となり同年老
 公〔慈明公〕煩せ給ふ事有て興国公松府に御下向有りしかバ其事
 を拝させ給ハんが為、老公より御使を被遣、同十一年同国仙台城
 への御使を奉り〔其故不詳〕同十五年四月致仕して遊外と号し老
 養料賜り〔月俸六口〕享保六年九月十日八十四歳にて死しぬ。」
 『夜の錦』『時勢粧』等に入集。
28、下河辺哂0 「哂0 二本松。下河辺氏。「桜川」に多数入集。
  (一句引用)」(『事典』)。丹羽家家臣の下河辺氏は『世臣
 伝』巻之二に出ている。二代行秀は寛文三年に没している。三代
 行高(丹羽重時の三男)は享保元年(一七一六)に七十歳で没し
 ている。寛文五年(一六六五)には二十歳である。二代行秀の弟
 に行渡がある。元禄六年(一六九三)に六十一歳で没している。
 寛文五年(一六六五)には三十三歳である。行渡は幼少より二代
 藩主長次に仕え、致仕後の号は休閑。これらの条件を考慮すると
 哂0は下河辺行渡とするのが妥当ではないかと思われる。「少右
 衛門藤原行渡ハ故庄右衛門行武が二男也。童の時より世子〔興国
 公〕に仕奉り寛文六年五月別に所帯を賜ひ〔百石〕天和三年致仕
 し休閑と号し老養ふ料賜り、元禄六年正月十六日六十一歳にて死
 しぬ。」『桜川』『時勢粧』『花0』等に入集。
29、釈 随言 『事典』は採録せず。二本松の僧侶であろうか。二
 本松は寺が非常に多い。『夜の錦』『時勢粧』等に入集。
30、内藤未及 「未及 二本松。内藤氏。「桜川」に多数入集。」
 (『事典』)。丹羽家家臣、内藤正行、刑部左衛門、四郎兵衛。
 『世臣伝』巻之八上に「(正次の)嫡男四郎兵衛正行、承応二年
 五月新に処領を賜ひ〔五百石〕明暦元年六月大横目の職を奉り…
 …万治二年五月御旗の奉行に被成……同(延宝)八年三月番頭に
 進み天和元年帰国を拝させ給ふの御使を奉り貞享元年三月職を辞
 し八月致仕し端石と号し老養ふ料賜り〔二百石〕元禄八年六月老
 養料辞せしに依て改賜ふ〔七十石〕同十五年正月十日九十一歳に
 て身まかりぬ。」『桜川』『時勢粧』等に入集。
31、釈 永雲 『事典』は採録せず。二本松の僧侶か。『時勢粧』
 等に入集。
32、根村吉元 『事典』は採録せず。『世臣伝』には見当たらない
 が、『二本松新規召抱帳』の万治二年の条に「根村角右衛門 二
 百石取次少兵衛新左衛門鉄砲ニ而召抱」とある。また『松藩廃家
 録 乾』に「百三十石 根村市太郎/市太郎父市左衛門ハ承応元
 年本藩に仕ひ采邑百五十石賜ひ寛文六年九月十一日五十石の加恩
 賜り慈明公の右史となり其項双なき能筆たり天和元年其子市太郎
 に継ぎ百三十石賜ひ貞享四年奥村市郎右衛門が事に座し父市左衛
 門共に改易せらる」とある。このいずれかの人物が根村吉元であ
 ろうか。『佐夜中山集』に入集。
33、槙 陳旧 『事典』は採録せず。丹羽家家臣・槙四郎兵衛か。
 『世臣伝』巻之三に「槙(藤原)某 新左衛門 角兵衛 四郎兵
 衛」「槙四郎兵衛藤原某ハ其出る処を詳にせず。元和八年始て傑
 俊公の御家人に成て御中小姓に召仕れ寛永十八年新に所領を賜ひ
 〔百石〕同二十年会津の戍に御供し承応二年四月地加へられ〔三
 十石〕明暦二年三月地再加へられ〔二十石合百五十石〕其後江戸
 普請寛文元年四月職を免され延宝元年十一月司米の職に補せられ
 同六年致仕し今茲五月二十五日死しぬ。」『佐夜中山集』に入集。
34、小原幸益 『事典』は採録せず。二本松関係の資料にも見当た
 らない。『佐夜中山集』に入集。
35、  元知 『事典』は採録せず。『佐夜中山集』に入集。
36、座頭城益 「城益 二本松。座頭。「桜川」に入集。」(『事
 典』)。二本松関係の資料にも見当たらず。『桜川』に入集。
37、佐野相興 「相興 二本松。佐野氏。「桜川」に入集。」(『
 事典』)。『世臣伝』巻之五に佐野新之丞がある。「佐野 作左
 衛門藤原某ハ出る処を詳にせず。寛永五年十月傑俊公に仕奉り〔
 二百石賜ふ〕承応三年十二月知加へられ〔合二百五十石〕明暦二
 年四月二十五日死す。其子新之丞某父に継ぎ〔百五十石〕後木幡
 の令となり延宝七年六月十四日死す。」初代作左衛門は明暦二年
 に没しているので、二代新之丞か。『二本松新規召抱帳』の寛永
 十年の条に「佐野忠太夫 二百石取次右同」、寛永十一年の条に
 「佐野善兵衛 百五十石右同」と見えるが、いずれとも判断でき
 ない。『桜川』『時勢粧』等に入集。
38、安田未元 「未元 二本松。安田氏。「桜川」に入集。」(『
 事典』)。『世臣伝』巻之四に安田庄次郎があるが、庄次郎は寛
 文十年に没しているので、子の惣右衛門ではないか。「其子惣右
 衛門某承応二年六月公の御身近く召仕れ同三年十二月武庫を司る
 〔武具大奉行と称す〕万治□年十一月所領を賜ひ〔百石〕同三年
 六月御膳の司に転じ寛文五年十月地加へられ〔合百五十石〕父死
 して家を継ぎ〔四百石〕其後歩行衆の頭より御用人の職を経て延
 宝八年〔閏〕八月江戸本占の職を奉り元禄五年五月地加へらる〔
 合四百五十石〕同十一年八月郡代の職に移され同十四年三月二十
 四日死す。」『桜川』に入集。
39、□山子  『事典』は採録せず。諸資料で確認出来ず。『桜川』
 に入集。2水野林元は入道後「□山」と号した。関係あるか。
40、日野好久 「好久 二本松。日野氏。「桜川」に入集。」(『
 事典』)。 「3、日野好元」の子。日野好元の条参照。『桜川』
 『時勢粧』等に入集。
41、大崎口友 「口友 二本松。大崎氏。「桜川」に入集。」(『
 事典』)。『世臣伝』には見当たらない。寛永十一年の長重上洛
 の時の「御供之侍」の中に「大崎七右衛門」とあり、寛永十三年
 の「御支配帳」の中に「二百石 大崎七右衛門」とあり、『二本
 松新規召抱帳』の寛永七年の条に「大崎七左衛門 二百石肝煎加
 々爪民部殿取次伊豆数馬」とある。右衛門と左衛門の違いがある
 が同人物と思われる。口友は丹羽家家臣の大崎七右衛門か。『桜
 川』に入集。
42、滝川寸志 「寸志 二本松。滝川氏。「桜川」に入集。」(『
 事典』)。『世臣伝』巻之七に、滝川正暦がいる。「滝川 正暦
 藤原の某ハ加藤左馬介嘉明が家人也。其家亡びて正保元年医業を
 以て慈明公に仕へ奉り〔月俸二十口〕慶安二年十一月新に所領を
 賜ひ〔百五十石此外に月俸五口下し賜ふ〕寛文七年十月所領加へ
 られ〔五十石合二百石〕延宝八年四月七日致仕し天和三年六月二
 十四日死しぬ」。『桜川』に入集。
43、寺田万之助 「万之助 二本松。吉田氏。「桜川」に入集。」
 (『事典』)。「寺田」は14、寒松、43、万之助、49、守昌の三
 人いるが、寒松の項記した如く未詳部分が多い。『世臣伝』巻八
 之上によれば、寺田貞成の子・安成は「万介 儀兵衛」と言い、
 致仕して顧身と号した。ただし、享保九年に六十九歳で没してい
 るので寛文五年には十歳位で適合しない。『事典』は「吉田氏」
 としていて、誤りと思われるが、この点も含めて再調査したい。
 『桜川』に入集。
44、安積治水子 『事典』は採録せず。諸資料で確認出来ず。『桜
 川』に入集。
45、藤村守幸 「守幸 二本松。藤村氏。「桜川」に入集。」(『
 事典』)。二本松関係の諸資料には見当たらない。『桜川』に入
 集。
46、青戸未入 「未入 二本松。青戸氏。「桜川」に入集。」(『
 事典』)。『世臣伝』巻之五に青戸慈久がいる。「青戸 市郎右
 衛門慈久ハ信濃景親が男也。寛永九年傑俊公の御家人と成て歩行
 に被成〔月俸二口米七斛〕万治三年新に処領を賜ひ〔七十石此頃
 ハ買役と申職を奉るといふ〕寛文七年二月職を許され延宝四年七
 月十六日七十歳にして死しぬ」。『桜川』に入集。
47、小松崎破衣 「破衣 二本松。小松崎氏。「桜川」に入集。」
 (『事典』)。二本松藩関係資料には見当たらない。『桜川』に
 入集。
48、佐藤萍心 「萍心 二本松。佐藤氏。「桜川」「花0」に入集。
 」(『事典』)。二本松藩関係の資料との関係は、18、佐藤幸之
 の項で記した通りで、今後調査を重ねて明らかにしたい。『桜川』
 『花0』等に入集。
49、寺田守昌 「守昌 二本松。寺田氏。「桜川」に入集」(『事
 典』)。14、寒松、43、万之助、とも関連していて、現在、確定
 出来ない。さらに調査したいと思う。『桜川』に入集。
50、松下是一 「是一 二本松。松下氏。「桜川」に入集」(『事
 典』)。『世臣伝』には見当たらない。また『二本松新規召抱帳』
 にも寛文七年の条に「松下五左衛門 右同断(百石 弥左衛門与
 力)」とあるのみ。『桜川』に入集。
51、土屋有次 『事典』は採録せず。『世臣伝』巻之二の土屋有定
 か。有定は土屋有清の三男。「甚右衛門有定家を継て〔百五十石
 〕寛永十年御用人の職に補せられ御納戸の会計の事を司り正保二
 年所領を加へられ〔百石〕其後世子〔興国公〕の御傅と成て夙夜
 御側に伺公し……承応二年四月所領を加へられ〔五十石合三百石〕
 寛文元年七月職御許を蒙り偏に年来の倦労を慰め給ふ処なり。此
 人才略の聞へ有しのみならず其心仁愛にしていみじき寛厚の人な
 り……延宝元年六月所領を嫡子有房に譲り入道して存悦と号し…
 …かくて入道年積て八十四歳元禄元年十月八日死してけり」27、
 土屋有房の父。『桜川』に入集。
52、津田正吉 「正吉 二本松。津田氏。「桜川」に入集」(『事
 典』)。『世臣伝』には見当たらない。寛永十三年の長重の「御
 支配帳」の中に「二百石 津田太郎兵衛」とあり、『二本松新規
 召抱帳』の寛永二年の条に「津田太郎兵衛 百五十石取次伊豆」
 とあり、寛永十一年の条に「津田久兵衛 四人扶持ニ十石取次数
 馬」とあり、寛文二年の条に「津田新六 十両ニ三人扶持 若狭
 守小姓」とあり、寛文六年の条に「津田権六 六両ニ弍人半扶持
 若狭守小姓」とある。また、『松藩続廃家録 単』に「八十石
 津田濃右衛門/濃右衛門が曾祖父我平内〔初弥五兵衛〕慈明公に
 仕れ〔中小姓たりといふ〕寛文六年五月新知百石賜ひ延宝三年死
 し」とある。現在、いずれの津田とも決めかねる。『桜川』に入
 集。
53、山田相知 「相知 二本松。山田氏。「桜川」に入集」(『事
 典』)。『世臣伝』には山田重明と山田仁兵衛の二名がある。巻
 之二に出る山田氏は正次を祖とする。正次・・正吉・・重明とな
 り、時代的には重明が該当する。「嫡男庄兵衛重明正保四年五月
 所領を賜ひ〔二百五十石〕御諱の字る。慶安四年十一月家を継て
 〔二千石〕執政に進み寛文五年十月地加へ賜ひ〔千石合三千石内
 六百石ハ与力知行〕同七年十月地加へ賜り〔六百石合三千六百石
 内千二百石ハ与力知行〕延宝七年四月興国公御代継せられし時将
 軍家に拝謁し奉り御太刀馬代に御時服添て献る……貞享元年二月
 請に依て職許さる去れど大議あらん時にハ登城すべし尋常の事ハ
 執政等に就て議すべしとの仰を蒙り元禄八年六月致仕し老養ふ料
 〔月俸百口〕賜り同年十一月二十九日七十六歳にて身まかりぬ」
 巻之三には山田仁兵衛がある「(山田兵太夫の)嫡男仁兵衛某父
 に継き〔百石〕万治二年八月勘定の奉行となり寛文七年十月地加
 へられ〔合百五十石〕其時侍賓の職となり天和元年九月職を免さ
 れ明る二年二月二十三日死ぬ」。このいずれが相知か即断できな
 いがさらに調査したい。『桜川』に入集。
54、貝山友志 『事典』は採録せず。二本松藩関係資料には見当た
 らない。『桜川』に入集。
55、清水直治 「直治 二本松。清水氏。「桜川」に入集」(『事
 典』)。『世臣伝』には見当たらない。寛永十三年の「御支配帳」
 の中に「百石 清水善右衛門」とあり、『二本松新規召抱帳』の
 寛永九年の条に「清水善左衛門 百石取次同(数馬)」とある。
 右と左の異同はあるが同一人であろうか。『桜川』に入集。
56、石橋虫同 「虫同 二本松。石橋氏。「桜川」に入集」(『事
 典』)。『世臣伝』巻之五に、石橋貞輝の子貞包がある。平八、
 杢左衛門、致仕して宗林と号す。「其(貞輝)子平八未いとけな
 かりしかバ所領をバ収公せられ俸米僅に賜りて養ハれ〔二十斛〕
 人となりて後杢左衛門貞包と名乗り寛文五年宿衛の士に加へられ
 延宝四年二月新に所領を賜〔百石〕元禄二年九月地加られ〔合百
 五十石〕同十五年三月郡山の令となり、其後職を許され宝永元年
 十月致仕し宗林と号し。老養領賜り年五十七歳にして同二年八月
 三日死しぬ」『桜川』の寛文十二年に二十三歳位であるので、こ
 の貞包の可能性はある。『桜川』に入集。
57、三崎如雲 「如雲 二本松。三崎氏。「桜川」に入集」(『事
 典』)。『世臣伝』には見当たらない。寛永十一年長重上洛「御
 供之侍」の中に「三崎七右衛門」があり、寛永十三年「御支配帳」
 の中に「二百三十石 三崎甚左衛門」があり、『二本松新規召抱
 帳』の万治三年の条に「三崎才右衛門 七両弍分ニ弍人扶持小姓
 後加増禅方ニ而召抱」とある。また、『松藩廃家録 坤』に「百
 五十石 三崎才右衛門/才右衛門が祖父初ハ甚左衛門と云寛永十
 二年傑公に仕ひ采地二百五十石賜ひ慶安三年七十石加恩賜りて慈
 明公の御伽衆となり髪剃りて忠岸と号す……」とある。この才右
 衛門であろうか。『桜川』に入集。
58、横山笑甫 「笑甫 二本松。横山氏。「桜川」に入集」(『事
 典』)。『世臣伝』には見当たらない。『二本松新規召抱帳』の
 寛永四年の白川召抱候分の条に「横山甚五兵衛 右同断(百五十
 石取次伊豆)」とある。『桜川』に入集。
59、鈴木友信 『事典』は採録せず。『世臣伝』巻之三に、鈴木重
 庸の子・重吉がある。丑之介、七郎兵衛、致仕して暁山と号す。
 「其(重庸)子七郎兵衛重吉実ハ西尾某〔牛右衛門越後少将上総
 介忠輝朝臣の家人なり〕が二男也。公に拝謁し寛永元年七月棚倉
 の城経営の事を奉行し同四年八月所領を賜ふ〔五十石〕此年白川
 に移らせ給ふ城郭を築かせ賜ふ時重吉等に仰て修めさせ給ふ。同
 六年九月作事の奉行となり同十二年八月所領加へられ〔五十石〕
 父死して家を継ぎ〔二百石〕同二十年会津の戍に御供し其御郡山
 の令を経て町奉行の職を奉り年老ぬれバ其子則政に所領を譲り入
 道して暁山と号し老養料賜り延宝八年三月十日死しぬ」『桜川』
 に入集。
60、丹羽捨拾 『事典』は採録せず。『世臣伝』巻之一上に、丹羽
 長年がある。系図は五郎助、五郎兵衛、致仕して了水と号す、と
 する。伝では所領六百石、元禄九年七月十七日没としている。ま
 た『世臣伝』巻之三にも、丹羽重次を祖とする丹羽家があるが、
 丹羽捨拾との関係は現在明らかに出来ない。『時勢粧』に入集。
61、野沢似言 『事典』は採録せず。二本松藩関係資料には見当た
 らない。『時勢粧』に入集。
62、毛利以由 『事典』は採録せず。『世臣伝』巻之六に、毛利末
 治がある。甚三郎、兵左衛門、致仕して永久と号す。「其子兵左
 衛門実ハ小形重次〔勘介〕が二男也。家を継て〔二百石〕後宗門
 の奉行より長柄の奉行となり、享保八年四月致仕して永久と号し
 老養料賜り同九年五月十日死しぬ」。『時勢粧』に入集。
63、河村惣広 『事典』は採録せず。『世臣伝』には見当たらない。
 『二本松新規召抱帳』の万治三年の条に「河村順庵 五人扶持十
 両肝煎酒井下総守殿5とある。『時勢粧』に入集。

 以上、寛永から寛文・延宝期にかけての、二本松の俳人について、
『福島県俳人事典』『福島県俳諧年表』を参考にして、二本松藩の
資料を中心に調査した結果を掲げた。二本松・須賀川・三春・郡山
・福島等の現地調査も行い、また内藤風虎関係・いわき史料、棚倉
関係資料等も調査したが、近世初期の二本松の俳人に関して補強す
る資料には出合う事が出来なかった。右の調査も未詳の点があり、
その俳号が実在のどの人物か断定し得ないものも少なくない。これ
らに関しては、折をみて再調査をする、ということにして、ここで
の当面の目的は、斎藤親盛・如儡子と二本松の俳諧との関係を明ら
かにする事にあるので、とりあえず右の調査結果で整理して前に進
みたい。
 まず、これら六十三名の俳人の多くは、二本松藩の丹羽家の家臣
であるという事が判明した。
 1江口塵言・2水野林元・3日野好元・4長岡道高・6斎藤友我
 ・7小沢衆下・9中井正成・10奥田方格・11斎藤如酔・19白岩人
 任・20安保一実・27土屋有房・30内藤未及・32根村吉元・40日野
 好久・51土屋有次
 これらの十六名は、丹羽家の家臣と言ってよい。また、
 8不破一興・12小川可著・14寺田寒松・21豊田政氏・24小池又笑
 ・26伴人似・28下河辺哂◆・33槙陳旧・37佐野相興・38安田未元
 ・41大崎口友・42滝川寸志・43寺田万之助・46青戸未入・48佐藤
 萍心・49寺田守昌・52津田正吉・53山田相知・55清水直治・56石
 橋虫同・57三崎如雲・59鈴木友言・60丹羽捨拾・62毛利以由・63
 河村惣広
 これらの二十五名も、ほぼ丹羽家の家臣であったと言い得ると思
われる。5斎藤親盛も長子秋盛が丹羽家の家臣である。
 22釈智蔵主・29釈随言・31釈永雲の三名はいずれも僧侶であり、
二本松は寺が非常に多い事もあり、僧侶にも俳諧を嗜む人が多かっ
たものと思われる。残る、十八名、
 13須藤之也・15今村林昌・16正秀・17金田古硯・18佐藤幸之・23
 古市正信・25秀伝・34小原幸益・35元知・36座頭城益・39◆山子
 ・44安積治水子・45藤村守幸・47小松崎破衣・50松下是一・54貝
 山友志・58横山笑甫・61野沢似言
 これらの俳人も、おそらく武士階級で、丹羽家の家臣か、それに
関連する人々であったものと推測される。やはり近世初期の二本松
の俳諧で、この期に出版された俳書に入集されたのは武士が中心で
あり、いまだ、町人の参加はなかったものと推測する事が出来る。

 七、松江重頼と二本松俳諧

 松江重頼は寛文五年維舟と改名した。この重頼と二本松の関係に
ついては、前号で、中村俊定氏の「松江重頼年譜」「松江重頼の研
究」を引用して紹介したが、重頼は晩年の六十歳頃から点者生活に
入ったとされている。中村俊定氏の研究、関根林吉氏の年表、菊池
康雄氏の解説等を参照して、この時期の重頼の活動を整理すると次
の通りである。

◎寛文二年  六十一歳
 ○「時に寛文の始つかた洛陽銅駝坊の南、御所八幡宮の東に、形
   斗なる居をしめて、誹諧の連歌を見る暇、おしまづきに向ひ
   ては、かいて見、是を推量とて、今年もいまは末の松山、そ
   こはかとなく思ひやる境はるけき国里迄も、此道満々て、神
   変の諺、或は百韵或は千句・発句合・前句付迄、誰も思ひを
   こせてしれものゝ爪印を乞給ひけるは不思議の事ぞ。」(『
   時勢粧』序)。この頃、点者生活を始めたか。
 ○正月上旬、橋本氏富長「何刀百韻」に点をなす。〔付墨 五十
  句 此内 長十五〕(『時勢粧』)。
 ○二月中旬、「何漆千句」興行(『時勢粧』)。
 ○三月十五日、橋本氏富長「何枕百韻」に点をなす。〔付墨 五
  十句 此内 長十五〕(『時勢粧』)。
 ○三月廿日、林氏宗甫「猫何百韻」に点をなす。〔付墨 五十句
  此内 長十五〕(『時勢粧』)。
 ○四月十日、土田氏重信「簾何百韻」に点をなす。〔付墨 五十
  句 此内 長十五〕(『時勢粧』)。
◎寛文三年  六十二歳
 ○三月上旬、「千句独吟」興行(『時勢粧』)。
 ○五月二十日、冷泉氏友知「何狐百韻(諷之詞)」に点をなす。
  〔付墨 五十句 此内 長十五〕(『時勢粧』)。
 ○六月十日、中井氏宗隆「何舞百韻(諷之詞)」に点をなす。
  〔付墨 五十句 此内 長十五〕(『時勢粧』)。
 ○十月十日、玖也・重安・西翁・春倫の四吟「何魚百韻」に点を
  なす。〔付墨 五十句 此内 長十五/廿五 玖也 点十三
  内長四/廿五 重安 点十一 内長三/廿五 西翁 点十五
  内長五/廿五 春倫 点十一 内長三〕(『時勢粧』)。
◎寛文四年  六十三歳
 ○三月上旬、千句興行(『時勢粧』)。
 ○三月十日、鱸氏催笑「男何百韻」に点をなす。〔付墨 五十句
  此内 長十五〕(『時勢粧』)。
 ○九月二十六日跋、『佐夜中山集』刊行。
◎寛文五年  六十四歳
 ○維舟と号を改める。「重頼事/維舟」(『歳旦帖』)。
 ○陸奥への旅。四月三日、京都出発、中山道を経て江戸着。しば
  し滞在の後、江戸を出て、日光を通り奥州道の旅をして二本松
  着。二本松にしばらく滞在して、江口塵言・水野林元・中井正
  成・斎藤友我の各屋敷で句を詠み、さらに奥へ進み、松島・仙
  台・平泉・中村を経て、内藤風虎の居る磐城に到着。ここにし
  ばらく滞在して、江戸へ向けて出発。江戸滞在の後、東海道を
  通って、十二月京都に帰着している。(『時勢粧』)。
 ○四月中旬、「何馬百韻」富長との両吟。〔五十句 維舟/五十
  句富長〕(『時勢粧』)。
 ○四月十六日、「何鶴百韻」維舟・風虎・紫塵・富長の四吟。〔
  維舟 廿六/風虎 廿六/紫塵 廿四/富長 廿四〕(『時勢
  粧』)。
 ○七月五日、江口塵言「何茶百韻」に点をなす。〔付墨 五十句
  此内 長十五〕(『時勢粧』)。
 ○七月五日、水野氏林元「何石百韻」に点をなす。〔付墨 五十
  句 此内 長十五〕(『時勢粧』)。
 ○七月十七日、「矢何百韻」維舟・林元・塵言・道高・友我の五
  吟。〔二十一 維舟/二十 林元/二十 塵言/二十 道高/
   十九 友我〕(『時勢粧』)。
 ○十月上旬、「何糸歌仙」維舟・長好・重方の三吟。〔維舟 十
  二/長好 十二/重方 十二〕(『時勢粧』)。
 ○十一月十日、斎藤氏親盛・斎藤氏友我両吟「何0百韻」に点を
  なす。〔付墨 五十句/此内 長十五/斎藤親盛 点廿四 内
  長八/斎藤友我 点廿六 内長七〕(『時勢粧』)。
 ○十一月三日、維舟編『誹諧四十番発句合』成る。左は風虎・玖
  也・宗岷・勝盛、右は維舟・紫塵・如白・武純、判定は維舟か。
 ○十一月『俳諧大坂雪千句』所収の百韻に加点及び判をなす。
◎寛文六年  六十五歳
 ○二月下旬、西村氏良庵「漢和百韻」に宇都宮由的と共に点をな
  す。〔漢付墨廿句 此内長五 宇都宮由的/和付墨廿五句 此
  内長五 松江氏維舟〕(『時勢粧』)。
 ○五月廿日、江口氏塵言「何鰹百韻」に点をなす。〔付墨 五十
  句 此内 長十五〕(『時勢粧』)。
 ○九月上旬、林宗甫「金柑百韻」に点をなす。〔付墨 五十句
  此内 長十五〕(『時勢粧』)。
 ○『歌仙ぞろへ』(元隣編)に「奥州岩城飯野八幡宮奉納」の歌
  仙入集。

 寛文七年以後は省略するが、中村俊定氏の年表に拠って見るに、
以後も点者としての活動は持続され、寛文八年には筑紫紀行を、寛
文十一年には彦根紀行を実行し、多くの俳人との交流を図っている。
 松江重頼・維舟の俳諧活動を通覧する時、六十歳の還暦を迎えた
寛文元年に一つの転機があったように思われる。それが、翌寛文二
年の点者生活への移行となって、具体的に現れたのではなかろうか。
 寛文二年に百韻に評点を加えたのは、京都や大和郡山などの人々
であった。まず、身近から始めたのであろう。寛文四年の『佐夜中
山集』では、京都、大坂、金沢、岡山に次いで、二本松は、郡山・
山田と共に、二十名という多くの俳人を入集されている。因みに、
磐城は七名と非常に少ない。重頼の両者への姿勢を伺う参考になる。
 そして、寛文五年の陸奥の旅である。この旅は、磐城平の内藤風
虎の招きによるものか、と推測されていて、これは、おそらく、そ
うであったろうと思うが、この旅の様子を、残された発句とその詞
書から推測すると、磐城よりも二本松に重きが置かれているように
思われる。詠まれた句も二本松は四句、磐城は三句である。しかも
二本松では、江口塵言・水野林元・中井正成・斎藤友我と、それぞ
れの名前を出している。後に編集された『時勢粧』によれば、この
七月五日には、江口塵言・水野林元の百韻に評点を加えており、十
七日には、維舟・林元・塵言・道高・友我と五吟の百韻を巻いてい
る。これらは、重頼が二本松に立ち寄った時のものとするのが妥当
であろう。重頼は二本松に十日間位は滞在したのではないか。前年
の『佐夜中山集』で二十名という多くの二本松俳人を入集させた重
頼は、丹羽家家臣達に総出の形で迎えられたのではなかったか。
 寛文五年の二本松の武士達は、このような状況であったと推測さ
れる。その中に、斎藤親盛は、丹羽家に仕える長子・秋盛と一家共
々いたのである。
 五年前の万治三年に、子の秋盛が丹羽家に召抱えられ、一家で江
戸から移住してきた。斎藤親盛・如儡子は『可笑記』の作者であり、
恐らく、誰からともなく伝えられ、皆に知られていたものと思われ
る。後年ではあるが、二本松藩の記録『相生集』の「文学」の項に
は筆頭に親盛が記載されている。また、親盛は『百人一首』の詳細
な注釈書も書いている。おそらく、二本松藩の武士達を相手に、折
々講釈をしていたものと思われる。この注釈書の書写本が残されて
いるが、その巻末には、「寛文二壬寅歳晩夏中旬 重賢書之」とあ
る。この書写者は二本松藩士の一人ではないかと推測している。
 このように学殖もあり、著作もある親盛が、俳諧の盛んな二本松
に来た訳である。誘われるままに俳諧に手を染めたことも、極めて
自然の成り行きと言ってよい。恐らく重頼を囲む俳席に連なり、そ
の指導も受けたものと思われる。そして、周囲の藩士達の配慮もあ
って、斎藤友我との両吟百韻も実現し、さらに重頼に点を加えても
らうという栄誉も得たのであろう。

 (注1) 『滑稽太平記』は、古典俳文学大系2『貞門俳諧集二』
    (昭和46年3月10日、集英社発行、校注者・乾裕幸氏)に
    拠る。松江重頼と野々口親重、安原正章と松江重頼、北村
    季吟と安原正章、等の確執に関して記されている。
 (注2) 渡辺憲司氏『近世大名文芸圏研究』(平成9年2月28
    日、八木書店発行)。
 (注3) 『光重年譜 三』寛文四年、四十四歳の条(『二本松
    市史』第5巻 昭和54年2月20日、二本松市発行)。
 (注4) 田中正能氏の研究は『二本松市史』第九巻(平成元年
    5月1日、二本松市発行)に拠る。以下同じ。
 (注5) 丹羽長聡氏蔵(『・・・旧二本松藩主・・・丹羽家資
    料展』二本松歴史資料館、開館5周年特別企画展、昭和58
    年11月〜12月25日 に拠る。未見)。
 (注6) 『光重年譜 三』「三之附録」(『二本松市史』第5
    巻 昭和54年2月20日、二本松市発行)。
 (注7) 明治大学刑事博物館所蔵、内藤家文書、『いわき史料
    集成』第五冊等を調べたが、現在のところ、両者に関連す
    る記録を見ることは出来なかった。さらに調査を続けたい。
 (注8) 『福島県俳諧年表』関根林吉編(昭和41年3月10日、
    かんじき会発行、謄写版)。引用に当たって、下の欄外の
    注を一部省略し、「 」を『 』に改めた部分がある。
 (注9) 『福島県俳人事典』矢部榾郎編(昭和30年6月30日、
    福島県俳人事典刊行会発行)。
 (注10) 『二本松市史』第4巻(昭和55年3月31日、二本松市
    発行)。以下同じ。
 (注11) (注10)に同じ。
 (注12) 『世臣伝』(『二本松市史』第5巻、昭和54年2月20
    日、二本松市発行)。以下同じ。
 (注13) 『二本松市史』第4巻(昭和55年3月31日、二本松市
    発行)。以下同じ。
 (注14) 『二本松城下図』この図は元禄十二年(一六九九)か
    ら宝永五年(一七〇八)にかけての図と推定されている。
    (昭和55年8月10日、二本松史談会発行)
 (注15) 『松藩廃家録』『松藩続廃家録』はともに『二本松市
    史』第5巻(昭和54年2月20日、二本松市発行)。以下同
    じ。
 (注16) 『いわき史料集成』第五冊(平成4年10月30日、いわ
    き史料刊行会発行)。

 【付  記】
 斎藤親盛(如儡子)の俳諧について考察を加えてきたが、今回も
未完にせざるを得なかった。親盛の俳諧そのものの検討は次回とい
うことにしたいと思う。
 近世初期の伝記資料は、関係地域を調査すれば、資料はきっと発
見できる、というのが私の持論であるが、今回の二本松の俳人に関
しては実りがなかった。三春町歴史民俗資料館では未発表の史料リ
ストを見せて頂き、植田家文書の『世臣譜』全十三冊を閲覧させて
頂いたが、関係者を発見する事はできなかった。しかし、今回の調
査は決して十分とは言えない。今後も事情が許す限り調査は継続し
てゆきたいと思っている。
 この度の調査には、多くの関係機関と研究者から多大な御教示と
御配慮を賜った。その機関名とお名前は以下の通りである。
 二本松文化センター、福島県立歴史史料館、福島県立図書館、須
賀川市立図書館、三春町歴史民俗資料館、郡山市歴史資料館、郡山
市立図書館、明治大学刑事博物館(内藤家文書)、いわき史料集成
刊行会、棚倉町文化センター。
 田中正能氏、阿部俊夫氏、菅野俊之氏、飯田良子氏、里見庫男氏、
滝波久雄氏、片岡秀記氏、佐久間眞氏、藤井康氏、川瀬浩二氏。
 右の関係機関と関係者の皆様に対して、心から感謝申し上げます。
 今回も、俳諧関係に関して、島本昌一先生から様々な御指導を賜
りました。記して厚く御礼申仕上げます。

┷愼親盛(如儡子)の俳諧(下)ー晩年、二本松時代の如儡子ー
斎藤親盛(如儡子)の俳諧について、これまで調査し、分析した結果は、本誌第十六号(平成11年12月)・第十七号(平成12年12月)で報告した。

  一、はじめに(研究史)

  二、斎藤親盛の俳諧作品

  三、斎藤親盛と二本松の俳諧

  四、斎藤親盛と松江重頼     (以上、十六号)

  五、近世初期の陸奥の俳諧状況

  六、二本松の俳人

  七、松江重頼と二本松      (以上、十七号)

 田中伸氏、野間光辰氏、中村俊定氏、今栄蔵氏、加藤定彦氏、関根林吉氏、田中正能氏、菊池康雄氏等の御研究に助けられながら、斎藤親盛の俳諧作品数を推定し、近世初期の俳諧状況を整理推測した。さらに、陸奥及び二本松の俳諧状況と松江重頼・内藤風虎との関連についても調査考察を加えた。以上の結果、近世初期の俳諧において、陸奥の中では、磐城と二本松の活動が最も活発であった事が分かった。

 磐城については、藩主・内藤風虎が貞門俳人である事と関連している訳であるが、二本松については、当時の藩主・丹羽光重が文武の道に通じていた人物であった事と関連しているものと推測され、丹羽光重は臣下にも文道武芸を奨励する大名であったと思われる。従って、二本松の俳人の多くは、二本松藩に仕える家臣、及びそれと関連する人々であったという事もほぼ明らかになった。

 一方、松江重頼は、寛文元年、還暦を迎えた頃から点者生活に移行したものと推測され、寛文五年には、江戸を経て陸奥を巡る旅に出ている。以前から関係の深かった二本松には十日間ほど滞在していたものと推測される。江口塵言・水野林元・中井正成・斎藤友我等々の丹羽家家臣の俳人たちは、この時、重頼から直々の指導を受けたのであろう。

 斎藤親盛は、子の秋盛が丹羽家に召し抱えられたため、一家ともども江戸から二本松へ引っ越して来たが、それは万治三年のことである。寛文五年、重頼が二本松を訪れた時、既に五年が経過していた。このような状況の中で、親盛は重頼にめぐり会ったのである。



 以上の発表経過を踏まえて、本稿では、具体的に、如儡子・斎藤親盛の俳諧作品を検討してみたいと思う。





  八、斎藤親盛の俳諧作品の吟味



 斎藤親盛の発句・百韻を収録した俳諧撰集は次の七点である。

  一、『佐夜中山集』 松江重頼  寛文4年 2句 62歳

  二、『夜の錦』   内藤風虎  寛文6年 7句 64歳

  三、『桜川』    内藤風虎  寛文12年 40句 70歳

  四、『時勢粧』   松江維舟  寛文12年 5句 70歳

  五、『時勢粧小鏡』 松江維舟  寛文12年 1句 70歳

  六、『糸屑集』   宗善庵重安 延宝3年 1句 没後

  七、『続連珠』   北村季吟  延宝4年 1句 没後

 松江維舟撰の『時勢粧』には、斎藤友我との両吟百韻も収録されている。この一覧でもわかる通り、内藤風虎撰の『桜川』には、四十句と多く収録されており、幸いなことに、この撰集には入集句の右肩に小字で到着年月が記されている。これを利用して、斎藤親盛の発句を年代順に整理して掲げると次の如くである。



  斎藤親盛の発句



『佐夜中山集』 寛文4年(一六六四)六二歳  2句

1  花の兄やこれも接木のたいかはり    巻一追加春

2  田舎にて花の都や和哥の友       巻一追加春



『夜の錦』   寛文6年(一六六六)六四歳  7句

3  万代をかけて祝ふやおめて鯛      巻一春一

4  あけぬるや雲のいつこにいかのほり   巻三春三

5  夏引の手挽にするは麦粉かな      巻八夏二

6  虚空より鉄花をふらす花火哉      巻十一秋二

7  塩くみやふりさけ見れは桶の月     巻十二秋三

8  金柑やけに色にそみ皮にめて      巻十三秋四

9  風ふけはをきつしらかに綿帽子     巻十四冬一



『桜川』    寛文12年(一六七二)七〇歳  40句

10    海苔        寛文五年巳十二月中旬

   秋もあれと松の海辺菊池のり      春二

11    破魔弓       寛文六年午正月上旬

   はま弓やひかりさしそふいはひ月    春一

12    青蒜        寛文六年午五月上旬

   けかれぬや蒜慈悲の高野山       春二

13    花火        寛文六年午五月下旬

   鼠火は尻に立つゝ大路かな       秋一

14    覆盆子       寛文六年午七月中旬

   いちこもやまいたるつるはいはら垣   夏一

15    鴫         寛文六年午九月下旬

   鴫は鴨の羽ねかきまかふ文字哉     秋二

16    菽         寛文六年午十月上旬

   是は畑のつくりもの也碁いしまめ    秋二

17    粟田口祭      寛文六年午十月上旬

   祭見やいそしの栄花あはた口      秋二

18    追鳥狩       寛文六年午十月中旬

   追鳥やせこにもれたる草かくれ     冬二

19    胼         寛文六年午十一月上旬

   ひゝきらす神や手なつちあしなつち   冬二

20    氷         寛文六年午十二月中旬

   つく餅や手水のこりて薄氷       冬一

21    節季候       寛文七年未正月中旬

   今日斗あすはかすみの節季候      冬二

22    鶏合        寛文七年未三月下旬

   わらはへもあしたをまつやとり合せ   春二

23    二月堂行      寛文七年未四月上旬

   札押やみな身の祈祷二月堂       春一

24    卯杖        寛文七年未七月上旬

   いはふとて朝に杖つく卯の日哉     春一

25    鬼灯        寛文七年未八月上旬

   口紅粉のあけをうはふやめはうつき   秋一

26    常陸帯祭      寛文七年未八月中旬

   笠鉾やかけ奉るひたち帯        春一

27    鳥巣        寛文七年未八月中旬

   栢の木に巣こもりやする碁石鳥     春一

28    神楽        寛文七年未九月上旬

   笛太鼓おもしろひそよ小夜かくら    冬二

29    春礼        寛文七年未十二月下旬

   松の戸やたえくならぬ春の礼     春一

30    散紅葉       寛文八年申正月上旬

   かけはこそ菩提樹となれ木葉経     冬一

31    灌仏        寛文八年申正月中旬

   あかなくにまたき生湯や如来肌     夏一

32    帷子        寛文八年申正月下旬

   三春迄着るや岩城のちゝみ布      夏二

33    雪         寛文八年申正月下旬

   降雪やこしのしら山馬のくら      冬一

34    節分        寛文八年申三月上旬

   海やあるまくらのしたにたから船    冬二

35    紙子        寛文八年申五月上旬

   渋柿もしゆくしにけりな色紙子     冬二

36    雑夏        寛文九年酉三月上旬

   一瓢も千金なれや水あそひ       夏二

37    雪         寛文九年酉三月上旬

   出雲にや雪垣つくる軒の妻       冬一

38    帰花        寛文九年酉閏十月下旬

   二季まてみきとこたへん帰花      冬一

39    防風        寛文十年戌八月下旬

   うとの朱うはふ防風や膾のこ      春二

40    元日        寛文十一年亥二月上旬

   お流れや二つ瓶子に三つの春      春一

41    扇 付 団     寛文十一年亥七月上旬

   扇あれはいつも夏かと御影堂      夏二

42    蛙         寛文十一年亥九月下旬

   をく露や顔にちほくいもかへる    春一

43    鮨         寛文十一年亥九月下旬

   宇治丸のなれ押そおもふ桶のすし    夏一

44    菫         寛文十一年亥十月上旬

   武さし野は本むらさきの菫かな     春二

45    鵜飼        寛文十一年亥十月上旬

   月の夜はうをのたなゝし鵜舟哉     夏一

46    雲岑        寛文十一年亥十月上旬

   山復山みねより出てや雲の岑      夏二

47    紅葉        寛文十一年亥十月上旬

   手折てやまた見ぬ人にこい紅葉     秋二

48    霜         寛文十一年亥十月上旬

   菅笠や憂世の民のしもおほひ      冬一

49    炉開        (到着年月未詳)

   炭櫃もや一家ひらけて四方の冬     冬一



『時勢粧』   寛文12年(一六七二)七〇歳  5句

50    蓮

   はすを御池糸もかしこし花の色     第一・夏部

51    鹿

   よきてふけ萩のあたりを鹿の笛     第一・秋部

52    霜

   霜八たび置てや鐘の七つ六つ      第一・冬部

53    炉

   老人や子に伏寅に置火燵        第二・冬部

54    鷹

   鷹や又生るを放つぬくめ鳥       第二・冬部



『時勢粧小鏡』 寛文12年(一六七二)七〇歳  1句

55    祓

   猶おかし水無月祓虫払         夏部



『糸屑集』   延宝3年(一六七五)没後一年 1句

56    穂蓼

   味はひもから紅の穂蓼哉        巻三・秋部



『続連珠』   延宝4年(一六七六)没後二年 1句

57    弓始

   はや乙矢順のこふしや弓始       巻十一・

                         春発句上

 〔参考〕

   五月雨は船ながしたる酒屋哉      境海草・夏



 右の入集状況を年代順に整理すると、次の如くである。

  寛文4年……2句   寛文10年……1句

  寛文5年……1句   寛文11年……9句

  寛文6年……17句   寛文12年……6句(両吟百韻)

  寛文7年……9句   延宝3年……1句

  寛文8年……6句   延宝4年……1句

  寛文9年……3句

 松江重頼は、寛文四年『佐夜中山集』の巻一追加・春部で、初めて親盛の発句二句を採録している。この『佐夜中山集』には二本松の俳人では、水野林元=二四句、江口塵言=二〇句等をはじめ、二十名が入集している。おそらく、親盛の発句は、林元、塵言等の配慮で重頼宛に送られ、追加されたものと思われる。

  1  花の兄やこれも接木のたいかはり  

 春になって先ず咲き出す梅の花だが、この木も接ぎ木で代替りをした。「それ大方の春の花、木々の盛は多けれども、花の中にも初めなれば、梅花を花の兄ともいへり。」(謡曲『難波』)「梅→異名花の兄」「代替→接木」(『類船集』、以下、付合等が『類船集』に拠る場合は表記しない。)(注1)等を踏まえたものと思われる。紅梅白梅を一株に咲かせている早春の景ともとれるが、「もとしる人なりし庵室も、程へて立ちよれば、見しらぬ沙門のすめり。ふるかりし家とおぼへて尋ぬれば、あたらしくなりてけり。」(『類船集』「代替」の項)ともあり、『桜川』には「花の兄はかゝに梅田の里子かな 高瀬昌勝(寛文五年五月)」の句もあるので、あるいは、当時の諸大名をはじめ、武家も町人も含めて、養子縁組で家系を維持していた世相も、背後には含めているかも知れない。

  2  田舎にて花の都や和哥の友     

 江戸を離れて二本松という田舎に来たが、ここは、華やかな都のように文化も活発で歌の友にもめぐり会えたことだ。

 親盛は、二十歳頃までは山形の酒田で、川北三奉行の一人・斎藤筑後守盛広の子として成長した。元服の時には、主君・最上家親から「家」の一字を賜り、清三郎を改め「親盛」を称した。しかし、元和八年(一六二二)、最上義俊は山形五十七万石から近江大森藩一万石へ転封となり、盛広・親盛父子は最上家を辞す。以後、妻子を抱えて三十余年間浪々の生活を続けた。万治三年(一六六〇)幸い、子の秋盛が二本松の丹羽家に召し抱えられ、一家共々引っ越して来た。田舎ではあるが、同じ北国の雪も降る土地柄である。しかも、ここは藩全体が和歌や俳諧の盛んな文化の香り高い所である。この一句には、六十歳になろうとする晩年の親盛の平穏な生活振りが窺える。



 『夜の錦』は内藤風虎の撰で、その成立は、『桜川』の跋に「桜川の集は、過つる寛文六のとし、夜錦をあつめ終りにし比……」とあるところから、寛文六年頃の成立と推測されている。原本は現在伝存未詳である。ただし、桑折宗臣編の『詞林金玉集』(延宝七年序)にその一部が抄出されて伝えられている。『詞林金玉集』に伝える『夜の錦』の句数は一〇五一句、この内、二本松の俳人は、塵言=二六、林元=二四、好元=二一、道高=一九、親盛=一一等、二九名である。この時点で親盛は五番目に多く入集している。『佐夜中山集』『時勢粧』との重複を除けば七句となるが、塵言・林元等と共に句作に精を出していたものと推測される。

  3  万代をかけて祝ふやおめて鯛    

  4  あけぬるや雲のいつこにいかのほり 

  5  夏引の手挽にするは麦粉かな    

  6  虚空より鉄花をふらす花火哉    

  7  塩くみやふりさけ見れは桶の月   

  8  金柑やけに色にそみ皮にめて    

  9  風ふけはをきつしらかに綿帽子   

 いずれも、素直で分かりやすい句である。「いかのぼり」は、孫の揚げている場面であろうか。「夏引の」は夏蚕の糸を手挽きの麦にとりなした。「塩くみや」「風ふけは」は共に海辺の情景で、日本海に面した酒田で青春を過ごした親盛にとっては、その懐旧の情をもこめたものであろうか。



 『桜川』も内藤風虎の撰である。「寛文十二年正月三日洛下季吟書」という北村季吟の序を付し、松山玖也の跋に「于時延宝二甲寅年五月仲旬」とあるので、成立は、寛文十二年から二年後の延宝二年である。この延宝二年三月八日、斎藤以伝・親盛は七十歳位で没している。この『桜川』について加藤定彦氏は、次の如く述べておられる。(注2)

 「風虎は、寛文六年に処女撰集『夜の錦』が成った後も、第二撰

  集編纂に向けて、維舟・季吟・宗因・玖也ら三都有力俳人と絶

  えず連絡をとり、広く諸家の新詠句を蒐集させていた。……重

  頼から相当まとまった形で諸家の新詠句が送られていたことが

  判明する。

  ……跋によると、風虎のもとに寄せられた句は一万を突破し、

  これを一々既刊の撰集や句合・草双紙等百二十七部と比較照合

  し、「等類・同意などは更にもいはず、少々面かげの似かよひ

  たる」句を除き、七千三十六句を撰んだ。右肩に到着年時を添

  書きしたのは、蒐集の間に刊行された他の俳諧撰集に入る句と

  「等類・同意」の関係があった場合、どちらが先行作か分かる

  ようにとの配慮からである。」

 『桜川』に入集する地域別の俳人の数は、武蔵国江戸住=一三二、山城国京住=一〇八、摂津国大坂住=八五、陸奥岩城住=七二、陸奥二本松住=四五、の順となっており、二本松は五番目で四五名が収録されている。二本松の中では、林元=二〇一、好元=一八二、衆下=一一八、塵言=一〇八、未及=八〇、正成=七〇、如酔=六六、之也=五一、哂■(草冠に有)=四三、親盛=四〇、となっている。

 加藤定彦氏が述べられるように、寛文六年の『夜の錦』以後、十二年までの六年間の収録であった。風虎の所へは二本松の林元・塵言らから纏めて届いていたものと推測されるし、あるいは、二本松と深く係わっていた重頼を通して送られた可能性もある。いずれにしても、この時期の、二本松の俳人たちの俳諧活動は非常に活発であったことが分かるし、その環境の中で親盛も四十句という多くの発句を残すことが出来たものと思われる。



   10    海苔        寛文五年巳十二月中旬

     秋もあれと松の海辺菊池のり    

   11    破魔弓       寛文六年午正月上旬

     はま弓やひかりさしそふいはひ月  

   12    青蒜        寛文六年午五月上旬

     けかれぬや蒜慈悲の高野山     

   13    花火        寛文六年午五月下旬

     鼠火は尻に立つゝ大路かな     

   14    覆盆子       寛文六年午七月中旬

     いちこもやまいたるつるはいはら垣 

   15    鴫         寛文六年午九月下旬

     鴫は鴨の羽ねかきまかふ文字哉   

   16    菽         寛文六年午十月上旬

     是は畑のつくりもの也碁いしまめ  

   17    粟田口祭      寛文六年午十月上旬

     祭見やいそしの栄花あはた口    

   18    追鳥狩       寛文六年午十月中旬

     追鳥やせこにもれたる草かくれ   

   19    胼         寛文六年午十一月上旬

     ひゝきらす神や手なつちあしなつち 

   20    氷         寛文六年午十二月中旬

     つく餅や手水のこりて薄氷     

 寛文五年は一句と少ないが、六年は十句である。『夜の錦』の所収句もそうであったが、ここに収められた句も、身辺を取り上げた平易な句が多い。

 「はま弓や」「鼠火は」など、孫を祝し、孫と遊んだ折のものであろうか。孫の富盛は寛文十年、継は寛文八年のそれぞれ出生と推測しているが、弟・又右衛門にも子は居たものと思われ、寛文六年の頃、親盛の家庭は、そんな平和な雰囲気に包まれていたのではないか。「いちこもや」「是は畑の」「つく餅や」も四季折々の生活の一面を詠んだものであろう。年末の餅つきの後、使い残した桶の水に薄っすら氷が張っている。雪国の厳しい寒さの中にも平穏なひと時がよくとらえている。

 「けかれぬや」高野山の僧侶は蒜を食して慈悲を施すというが、匂いのけがれは無いのだろうか。「高野→蒜、六十の恋、かふろの宿、物ぐるひ」「蒜→慈悲……蒜をふくすれは婬おこるとて道家にいむわさと」「高野六十 那智八十」(『毛吹草』誹諧恋之詞)。(注3)忍辱慈悲を蒜慈悲にとりなし、高野山や那智山は男色が盛んで六十、八十歳になっても、その相手を勤めさせられる者がいるという諺を踏まえた一句。親盛(如儡子)は、この頃すでに仏門に帰依していたものと思われるが、『可笑記』執筆当時と同様仏道修行から逸脱した売僧坊主には厳しい批判の目を持っていたものとようである。この句には、若い頃の作者の一面を彷彿とさせるものがある。

 「祭見や」京都の有名な粟田口祭をちょっとした夢の中で見たことだ。「粟田口→山城 天王 祭は九月十五日也」「五十→栄花の夢」「栄花→一炊の夢」「輿→一炊の夢」。五十路の栄華、一炊の夢、盧生の夢等で伝えられた中国の故事。盧生という若者が旅先で道士呂翁に出会い、不思議な枕を借りて眠ると、五十年間の栄華の人生を送った夢を見た。夢から覚めてみると、黄粱がまだ炊きあがっていなかった、という故事。これらを踏まえたもの。「ひゝきらす」寒さのために手や足にヒビを切らしているのは水田を耕したり、娘を手撫で足撫でして可愛がる神であろうか。『古事記』等に伝えられている脚摩乳・手摩乳の神の神話を取り入れたもの。「胼 胝→血」、ヒビは、冬、寒冷のために手足に出る湿疹である。手足にヒビを切らしている母などを見て、これも自分の娘のために働いている故かと、脚摩乳・手摩乳の神にたとえて、その感懐を述べた。



   21    節季候       寛文七年未正月中旬

     今日斗あすはかすみの節季候    

   22    鶏合        寛文七年未三月下旬

     わらはへもあしたをまつやとり合せ 

   23    二月堂行      寛文七年未四月上旬

     札押やみな身の祈祷二月堂     

   24    卯杖        寛文七年未七月上旬

     いはふとて朝に杖つく卯の日哉   

   25    鬼灯        寛文七年未八月上旬

     口紅粉のあけをうはふやめはうつき 

   26    常陸帯祭      寛文七年未八月中旬

     笠鉾やかけ奉るひたち帯      

   27    鳥巣        寛文七年未八月中旬

     栢の木に巣こもりやする碁石鳥   

   28    神楽        寛文七年未九月上旬

     笛太鼓おもしろひそよ小夜かくら  

   29    春礼        寛文七年未十二月下旬

     松の戸やたえくならぬ春の礼   

 「今日斗」めでたいめでたいと囃したてている節季候も明日は霞のように消えていなくなるだろう。「師走→節季候」、年末のあわただしさに便乗した門付けの様子をうまく詠み込んでいる。「節季候の来れば風雅も師走哉」(風羅坊)。「わらはへも」子供たちも明日の三日の鶏合せを楽しみに待っているのであろうか。「鶏合→桃の節供。上の町と下の町の子共の立合はさる事也。唐帝は鶏に甲冑をしてたゝかはせしとかや」。「押札や」東大寺の二月堂でお札を押してもらってお祈りするのは、皆自分の願いごとである。「二月堂行」とある。親盛は奈良へ行ったのであろうか。「口紅粉の」小ぶりのほおずきは口紅の朱色よりも目をひく濃い赤色である。「紅粉→鬼灯」。小さなほおずきの濃い赤色を口紅と対比させて強調している。「笠鉾や」鹿島神宮の常陸帯祭では、笠鉾に、それぞれ帯を捧げて願いが叶うように祈ることだ。「常陸帯→夫婦、縁をむすぶ」「帯→鹿嶋祭、はらみ女、笠鉾」。「常陸帯のまつりの輿やいくめくり 破扇子」(『桜川』)。「笛太鼓」夜神楽の笛太鼓の響きはたいへん趣があって楽しいものだ。「こや佐保姫の小夜神楽、時の鼓も数々に(謡曲『佐保山』)。「松の戸や」門松の新年は挨拶の客が絶えないことだ。「礼→年頭、主の前、朔日十五日廿八日は礼日也」。この句は『新古今集』巻頭三首目の式子内親王の「山ふかみ春ともしらぬ松の戸に絶々かゝる雪の玉水」と関連しているように思う。「松の戸」を、松の木で造った板戸→門松の飾ってある門、に、「絶々かゝる」→「たえくならぬ」と、それぞれとりなして、新年の挨拶まわりの句に置き換えたのではないか。親盛のこの頃の幸せな正月の様子が窺えるようである。寛文七年の句の多くは伝統的な行事等を詠み込んでいる。



   30    散紅葉       寛文八年申正月上旬

     かけはこそ菩提樹となれ木葉経   

   31    灌仏        寛文八年申正月中旬

     あかなくにまたき生湯や如来肌   

   32    帷子        寛文八年申正月下旬

     三春迄着るや岩城のちゝみ布    

   33    雪         寛文八年申正月下旬

     降雪やこしのしら山馬のくら    

   34    節分        寛文八年申三月上旬

     海やあるまくらのしたにたから船  

   35    紙子        寛文八年申五月上旬

     渋柿もしゆくしにけりな色紙子   

 「三春まて」「岩城宇尓、縮布」(『毛吹草』)。岩城名産のちぢみ布は、三春の人々まで着ていることだ。如儡子は『梅花軒随筆』の著者・三休子ゆかりの地・三春に出かけた事があったのであろう。「降雪や」「越白根→ふりつむ雪」。雪の山並みを「馬のくら」としているところに、小さい頃から雪国に育って眺め暮らしていた如儡子らしい表現が窺える。「海やある」「渋柿も」いずれも、分かりやすい素直な句である。

 「かけはこそ」落ち葉にお経を書いたからこそ、仏の木と言われる菩提樹になるのであろう。「菩提樹←珠数」「木葉→経」「経→木の葉」。「あかなくに」まだ灌仏会ではないのに、早くも、お湯をかけた肉付きのよい肌は、ほんのりと暖かみが感じられる。「閼伽→風呂」「黄金の肌とは仏菩薩也。又は如来肌といふあり。」(「肌」の項)。「灌仏」としながらも灌仏会そのものではなく、四月八日に近い頃の入浴の様にとりなしている。いかにも如儡子らしい遊び心といえるのではないか。



   36    雑夏        寛文九年酉三月上旬

     一瓢も千金なれや水あそひ     

   37    雪         寛文九年酉三月上旬

     出雲にや雪垣つくる軒の妻     

   38    帰花        寛文九年酉閏十月下旬

     二季まてみきとこたへん帰花    

   39    防風        寛文十年戌八月下旬

     うとの朱うはふ防風や膾のこ    

 「一瓢も」一つの瓢箪のようにぷかぷかと川で遊ぶのも大変趣のあるものだ。「たゝ、うき世の波にたゝよふ、一瓢のうきにういたる心にまかせ」という『可笑記』の序を思い起こさせるような一句である。「瓢箪→酒、水游」。反面、一瓢はわずかな酒、水には酒の意もあり、水遊びは遊女と遊ぶ意もあるので、わずかな酒でも遊女と遊ぶ時は大変有り難いものだ、という意味も込められているかも知れない。如儡子は、やはり酒が好きであったようである。「二季まて」かえり咲きした花を見ると二つの季節に見たと答えてしまう。「十月→かへり花」(『毛吹草』)。自然の不思議な恩恵を詠んでいる。『桜川』の「帰花」の項には多くの句が収録されているが、「うはさくら額のなみやかへりはな」「わすれすよまたかはらすよかへり花」「老てみな気もわらへにやかへりはな」等の句もある。帰花には、一度身請けされた女が再び遊女としてつとめに出るという意味もある。親盛の句にもそんな意味も重ね合わせられているのであろうか。

 寛文九年は三句、十年は一句、これはどうしたことか。前後の年に比較して、この両年は余りに少ない。老齢の身の親盛である。あるいは体調の不良の故であったかも知れない。『桜川』の到着年月の記録から、作者の晩年の健康状況を推測する手掛かりが得られたようで有り難い。



   40    元日        寛文十一年亥二月上旬

     お流れや二つ瓶子に三つの春    

   41    扇 付 団     寛文十一年亥七月上旬

     扇あれはいつも夏かと御影堂    

   42    蛙         寛文十一年亥九月下旬

     をく露や顔にちほくいもかへる  

   43    鮨         寛文十一年亥九月下旬

     宇治丸のなれ押そおもふ桶のすし  

   44    菫         寛文十一年亥十月上旬

     武さし野は本むらさきの菫かな   

   45    鵜飼        寛文十一年亥十月上旬

     月の夜はうをのたなゝし鵜舟哉   

   46    雲岑        寛文十一年亥十月上旬

     山復山みねより出てや雲の岑    

   47    紅葉        寛文十一年亥十月上旬

     手折てやまた見ぬ人にこい紅葉   

   48    霜         寛文十一年亥十月上旬

     菅笠や憂世の民のしもおほひ    

   49    炉開        (到着年月未詳)

     炭櫃もや一家ひらけて四方の冬   

 「お流れや」正月の祝い酒を二つ三つと重ねて頂くことであるよ。「扇あれは」京の新善光寺の御影堂は、いつも扇があるので夏かと思ってしまう。親盛は京都へ行ったのであろうか。「をく露や」露を置く葉の上に、体にボツボツがある蛙がとまっている。「ちほく」の表現が新鮮である。「宇治丸の」桶に並べられた鰻の鮨をみて、すし押しの味加減を想像することだ。「武さし野は」武蔵野の菫は本当の紫のように美しい。「紫のひともと故に武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」(『古今集』雑上)等を踏まえて、武蔵野の美しい紫の菫を詠んだ。「月の夜は」月の夜には魚の店ではなく、鵜舟の灯がかがやくことだ。「鵜舟←灯、篝火、夜遊」「月夜→挑灯」。「おもしろうてやかてかなしき鵜舟哉」(『曠野』)。「山復山」山が重なって連なっているが、その上に高々と雲の岑がかかっている。「手折てや」色を深めた紅葉の小枝を折り取るのは、まだ見に来ていない人のためだろうか。「折→花の枝」。「菅笠や」冬になり霜も降りるようになると菅笠は一般庶民の霜を覆うことだろう。「浮世→身すぎ、秋風」。親盛の庶民への姿勢が窺える。浮世ではなく憂世としている点も注意したい。「炭櫃や」四方八方、全体が冬に包まれ、炭箱も開けられ、炉を囲んで一家も集うことだ。厳冬の酒田に育った如儡子には実感のこもるものであったと思われる。以上、寛文十一年の句は、いずれもやさしい、分かりやすいもので、晩年の平穏な親盛の生活振りが現れているように思われる。



 寛文十二年の松江維舟の『時勢粧』には五句、同『時勢粧小鏡』には一句が入集している。

   50    蓮

     はすを御池糸もかしこし花の色   

   51    鹿

     よきてふけ萩のあたりを鹿の笛   

   52    霜

     霜八たび置てや鐘の七つ六つ    

   53    炉

     老人や子に伏寅に置火燵      

   54    鷹

     鷹や又生るを放つぬくめ鳥     

   55    祓

     猶おかし水無月祓虫払       

 「よきてふけ」鹿を誘い出す笛は、鹿のよく集まる萩の辺は避けて吹いて欲しいものだ。「鹿→花野、萩原」。親盛は『桜川』でも「追鳥狩/追鳥やせこにもれたる草かくれ」と詠んでいる。動物や鳥に対して思いやる心が窺える。「霜八たび」何度も霜が降りて、夜響く鐘にも寒さが感じられる。「霜→鐘の音」「寒→霜夜の鐘」。昔、中国の豊山の鐘が、霜の降る夜には自然に鳴ったという故事をふまえたもの。「をのつから鐘つき堂や霜柱 弘永」「釣鐘の声もふらする霜夜哉 正章」(『毛吹草』)。「老人や」老人は、寝たり伏したり、炬燵にあたることが多い。「老→ね覚、引籠る宿、埋火のもと」。子丑寅と年を重ねて老人になってゆく、詞あそび的な面もあるか。「鷹や又」鷹は、冬の夜の寒さを凌いだぬくめ鳥を生きたまま放つことだろう。冬の夜、鷹は小鳥を捉えて、自分の足を暖める。翌朝その小鳥を生きたまま放してやり、その日は小鳥の去った方角へは行かない、という鷹の習性を詠んだ。「暖鳥/上は下に助けられてやぬくめ鳥 日野好元」「暖鳥/鷹は鬼横道はなしぬくめ鳥 小池又笑」(『時勢粧』)。「猶おかし」やはり、六月の夏越の祓いや虫干の行事は、一年の中間で、趣があるものだ。「払→水無月、虫」「水無月→御祓」「土用→虫払」。この句は『時勢粧小鏡』百句の内のもの。巻末には「今やう姿の小鏡百句は、詩・歌・文章・うたひ・世話、それぐの面影を移し顕はし侍る。道にたらむ人ぐのよすが共、笑草共。/寛文十二年三月上旬/松江維舟(花押)」とある。『徒然草』十九段の「六月の比、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるもあはれなり。六月祓またをかし。」をとりなしたものであろう。『時勢粧』『時勢粧小鏡』に収録された六句は、親盛の古典的な知識が活かされた句が多い。



 『糸屑集』   延宝3年(一六七五)没後一年

   56    穂蓼

     味はひもから紅の穂蓼哉      

 『続連珠』   延宝4年(一六七六)没後二年

   57    弓始

     はや乙矢順のこふしや弓始     

 「味はひも」味は辛く唐紅の色をしている蓼の穂であるよ。「穂→蓼」「唐→くれなゐ、蓼」。「草の戸をしれや穂蓼に唐がらし芭蕉」。「はや乙矢」握りしめた二本の矢を、兄矢乙矢と順に射る弓始であることだ。武士の正月の儀式をまとめた。これが親盛の最後の句である。生涯、武士としての誇りを持ち続けた如儡子に相応しい一句である。



 以上、親盛の発句を概観したが、そこには、六十歳を前にして、江戸から二本松に移住してきた作者の平穏な生活が伝えられているように思われる。二本松に移り住んでから始めたと思われる俳諧は貞門俳諧らしく、特に深みのあるものではないが、素直で解りやすい句が多い。二本松の俳人、江口塵言・水野林元・日野好元・斎藤友我・小沢衆下等々の手ほどきも受けて俳諧の道を楽しんでいたようである。これら丹羽家家臣等の計らいで、貞門俳諧の代表的な指導者、松江重頼・維舟にも会うことが出来、指導を受けたものと推測される。『桜川』の記録から、寛文九年、十年はどうも健康が思わしくなかった事も推測される。これらの事が、各撰集に収録された発句から分かった事は有り難い事である。







  親盛・友我両吟百韻(松江維舟批点)



 松江維舟は、寛文五年四月三日、陸奥の旅に出る。江戸を経て、陸奥へ入るが、二本松には七月の頃十日間程滞在して、林元・塵言・道高・友我らと百韻を作っている。おそらく、この時、親盛と友我の両吟も批評を依頼したものと思われる。維舟は、その年の十一月十日、親盛・友我の「何■(金偏に穫の右)百韻」に加点している。



  寛文五年霜月十日       【注】□=長点  ◇=点

   何 ■(金偏に穫の右)

1 □出立は足もとよりぞ鷹の鳥         親盛

2  ◇是は夜の間か雪の道筋          友我

3 □遠山も花咲たりと聞付て           々

4   永くし日もあかぬ野心          盛

5 ◇ひたぶるに猫は妻をし呼廻          々

6   やねも戸びらも春めきにけり        我

7  朧げの月を見晴す庭の景           々

8   酒のむしろにしくは御ざらぬ        盛

9 ◇鼻歌のふし立中も和ぎて           我

10   あるまひ物よ恋の関もり          盛

11  我罪はよもや色には伊豆箱根         我

12  □多くはとらぬひとふたみかん        盛

13 ◇花車にもる膾も栗もいさぎよし        我

14  ◇月になる迄数奇の伴ひ           盛

15 ◇蹴鞠は幾日もあらじ秋の暮          我

16   そぼく雨はふるかふらぬか        盛

17 ◇乗物の簾はあけようつとうし         我

18   野がけあそびは遠がけの道         盛

19  世をうしとしらぬ人々たはぶれて       我

20   此方ばかり岩のかくれ家          盛

21 ◇鬼有といふは真か大江山           我

22   分て生野に女ちらめく           盛

23 □若草をやくたいもなき物思          我

24   えんをも結ぶ春の夜の夢          盛

25 ◇佐保姫もしろしめされん文のうち       我

26  ◇いざやとくく居て朝鷹          盛

27  寒空を忘な樽の底ごゝろ           我

28   北国道はいまおもひたつ          盛

29  我君のあたかの事はいかゞせん        我

30   只ならぬ身となるやお手かけ        盛

31  とはぬ夜は秋もたんぽを肌にそへ       我

32  ◇露涙にぞ寝巻ひぢぬる           盛

33  恋病に月の形を見まくほし          我

34   大宮人はとかくやさがた          盛

35 □けやけきも臥猪の床と云なして        我

36   むさくさ茂る木陰山陰           盛

37 ◇住捨て一両年を古屋敷            我

38   我身ばかりは泣のなみだよ         盛

39 ◇心なき影法師さへ面やせて          我

40  □鴫立沢の水は道ばた            盛

41  秋風にはや汗入て岑の月           我

42  □かけ出にけり野にも山伏          盛

43 ◇狼をとらんとするも穴賢           我

44   狐を見ればどれも顔白           盛

45  朝清め雪かきのくる墓原に          我

46   此春ばかり仏とふらん           盛

47 ◇老が目は霞て三輪の山遠み          我

48  ◇日もあたゝかな有馬の出湯         盛

49 ◇花の陰小篠のさゝの酔機嫌          我

50  ◇鶯袖もひいつひかれつ           盛

51 ◇三線のいとゞ心もうかれ女に         々

52   うそ恥かしの我が口笛           我

53 ◇飛蜂を払へどくまのあたり         盛

54   みなみの日請しづかなる山         我

55  若の浦吹上浜は扨もく           盛

56  ◇波ではないかや菊の花           我

57 ◇紅葉さへうかべる月の舟遊び         盛

58  ◇露を悲しぶ一首の詠歌           我

59  急雨の雨もはらく霧も立          盛

60   涙こゝろは只しほくと          我

61 □しばらくは別の顔をまもり合         盛

62  □夜討を思ふ続松の影            我

63 ◇弓も矢も堀川筋を前に向           盛

64  □安山子も作る里の新田           我

65  さし柳苦竹の葉も散交り           盛

66   月までをどる雀色時            我

67  宮めぐりめぐりくて下向して        盛

68  ◇なふ思ひだす御幸の車           我

69 ◇とつと其昔も今も小塩山           盛

70   けぶりくらべや松陰の茶屋         我

71  莨■(草冠に宕)にも名残は尽ぬ習にて          盛

72   別し方はあちと見かへる          我

73  横雲の空泣又は恨なき            盛

74   つれなき様は郭公かの           我

75  金衣鳥銀薄付しゑりもがな          盛

76   まづく祝へ若ゑびす殿          我

77 ◇書初の紙は中にも花ぐし          盛

78  ◇掟を触る御入部の春            我

79 ◇上下もさゞめきわたる勝軍          盛

80   あれかは竹の螢乱るゝ           我

81  秋すでに昨日今日迄水心           盛

82  □朝げの風に団扇さへ置           我

83  月見しつ酒あたゝめつ寝つ起つ        盛

84   やもめのくせや長夜はうし         我

85 ◇いつもく烏がなけば暇乞          盛

86  ◇涙に袖はぬれ鷺の如            我

87 ◇冬までも残るは無か形見草          盛

88   氷れる閼伽も弥陀の一体          我

89  極楽ををしへのお文忝な           盛

90   玉のをばかり逢たや見たや         我

91 ◇恋死も今やくと心ぼそ           盛

92  ◇おもゆもすゝり又すゝりなき        我

93 □みなし子をだいつかゝへつ膝の上       盛

94  □木幡の里に前後白雪            我

95 □馬はをはで焼火のそばに一眠         盛

96   尻たれ帯の下女にもほるゝ         我

97  たすきがけこなたかなたへ口説寄       盛

98   など世の中のからいぞく         我

99 □竹に入こがしも花の香に匂ひ         盛

100 ◇事かり初に出しつゝしみ          我

       付墨 五十句

        此内 長十五

      斎藤親盛  点廿四 内長八

      斎藤友我  点廿六 内長七



 発句「出立は」鷹の飛び立つのは意外と足元からが多いものだ。脇句「是は夜の間か」この雪の上の足跡は夜の間のものであろうか。「鷹→雪」以上二句冬。第三「遠山も」春になって遠方の山からも花の便りが届く。「道→山」。第四、永日の春も野山を慕う気持ちは尽きないものだ。「花をめつる←永日」。第五、春で盛りのついた猫は、ただ相手の雌猫を呼び廻っている。「野→猫」。「うら山ししのびもやらでのら猫の妻こひさけぶ春の夕暮」(『類船集』)。第六、屋根も扉も新しくつくり替えて春めいてきた。「妻→戸」。第七、遠くに春霞にかすんだ月を望む庭の景色だ。春→朧月。「浅みとり花もひとつにかすみつゝおほろに見ゆる春のよの月」(『類船集』「朧月夜」の項)。ここまで五句は春。第八、筵を敷いて花を見ながら飲む酒にまさるものはない。以上が表八句。

 「面八句之事/一発句 連歌同前なるべき歟。/脇 同前。てに

  はの字どまり嫌也。/第三 てどまり歟、はね字なるべし。に

  どまり・もなしどまりはまれなる義也。これまではちとさし出

  たる事もくるしからず。四句めよりはかろぐしきやうにすべ

  し。古人の名・同名字・宮殿の名・名所・神祇・尺教・恋・無

  常・述懐・同字、此分きらふなり。親子のさた述懐にもちひざ

  るゆへ八句のうちきらはず。」(『はなひ草』)(注4)

 森川昭氏の解説によれば、『はなひ草』は、寛永十三年二月廿三日の奥書をもつものが最も早い版とされ、俳諧式目書として公刊されたものの嚆矢であり、しかも、携帯に便利な小本形式であるため広く利用された式目である。本百韻も、右の規則に、ほぼ従っている。八句目の、庭での酒盛りの句は酒好きの如儡子を推測させるものとして注意しておきたい。



 9、鼻歌の節まわしも酒のためか、なめらかになってきた。二人の間もうちとけてきた。「酒→よむ哥」。10、恋を邪魔する番人などすべきではない。「哥←恋」。11、私の罪は、いくら何でも色恋沙汰ではないので、余所へは漏れないでしょう。「関所←箱根」。12、みかんも一つか二つで、あまり多くはとらない。維舟は長点を付すが、「ひとふたみかん」の表現を評価したのであろうか。13、はなやかに盛った皿は、膾や栗が新鮮でおいしそうだ。「みかん→膾」。14、御馳走はあるし、月が出るまで風流の友と楽しみましょう。俳諧仲間としての親盛と友我の関係も推測できるか。「食物←数奇」。15、けまりをする日は幾日もない秋の季節だ。16、しとしと雨は降ったりやんだりである。17、乗物の簾はうっとうしいので上げなさい。18、野遊びをしているのは、いつも遠駆けしている道である。「乗物→馬(遠がけ)」。19、世の中が物憂いものだと知らない人々は戯れている。このあたりは、武士と庶民との関係を意識しているか。20、こちらばかりは俗世間をのがれてひっそり住んでいる。21、大江山に酒呑童子がいたというのは本当か。22、踏み分けて行く野原に女たちがあちこち遊んでいる。「大江山→生野」。初折裏の十四句を概観したが、一句一句の端々から晩年の親盛の生活の様子を窺うことができる。



 以後、二折、三折では、

  28   北国道はいまおもひたつ     

  38   我身ばかりは泣のなみだよ    

  40  □鴫立沢の水は道ばた       

  48  ◇日もあたゝかな有馬の出湯    

  55  若の浦吹上浜は扨もく      

 などに地名が出てきて、これらはいずれも名所等であり、一概には言えないが、あるいは如儡子が実際にそれらの地を訪れていたのかという想像もしたくなる。次に、名残表十四句と裏の八句を簡単にみる。



 79、前句の78、新しい藩主のお国入りがあり、お触れが告げられる春である、を受けて勝利の帰国とした。勝ち戦に藩内は上も下も皆喜びにわいている。「掟→高札、帰陣の時ハ在々所々に司をつかハし寺々宮々の先例を守らしむる事専也」。80、川辺の竹の茂みに螢が乱れ飛び交っている。「軍→螢」。81、昨日今日まで泳ぎの事を気にしていたが、もう秋である。82、早朝(朝食時)の涼しい風に団扇さえ必要ない。秋→団扇を置く。83、寝たり起きたり、月を眺め酒を飲み、本当に自由気ままな身の上である。84、秋の夜長はやもめにとっては憂鬱なものだ。「月→永き夜」。85、いつも烏が鳴くと別れの挨拶をする。86、死別の悲しさに涙をふく袖は濡れ鷺のようである。87、形見草とも言われる菊は冬まで残っていないか。88、仏前に供えられた凍った水は阿弥陀様と同じである。89、西方極楽浄土の素晴らしさを教える阿弥陀経は有り難いことである。90、わずかな間でもお会いしたり見たりしたいものだ。「文→みし人恋る」。91、恋いこがれて、その命も心もとないことだ。92、病人が重湯をすすったり、またすすり泣きをするのも哀れである。



93、親の無い子を膝の上に抱きかかえて慈しむ。「をも湯→力」「孤人→愁」。94、京都宇治の木幡の里は全体が雪で真っ白である。95、街道の馬子は仕事の途中、焚き火の側で一休みしている。「旅路、昼時分、木幡の里←馬」。「山科の木幡の里に馬はあれどかちよりぞくる君を思へば」(『拾遺集』巻十九、人麿)。96、まだ幼い召使の女にも惚れる。「馬←尻」。「馬ハ尻をすへて乗とかや。世こゝろのつける姫ごせの尻のひらめになるこそはちらハしけれ」(『類船集』「尻」の項)。97、たすきがけの姿であちこちの男に言い寄っている。「下女←手すき」。98、どうしてどうして、世の中はそう甘いものではないぞ。「火ふき竹←世の中」。99、竹筒に入れた香煎が花のように良い匂いがする。「からし→山椒、胡椒」。00、慎むべき事が、ほんの一時、態度に現れてしまった。



 以上、親盛・如儡子の俳諧を簡略ではあるが分析してきた。勿論、俳諧研究専攻の私ではないので、貞門俳諧の中での親盛作品の位置づけなどは出来ない事であり、また、その事が本稿の目的でもない。これらの俳諧作品を通して、晩年の親盛・如儡子の様子を明らかにし得るなら、それで十分である。以下、俳諧作品を通して見た、晩年の二本松時代の如儡子について整理したいと思う。



  九、俳諧作品を通して見た晩年の如儡子



  1、田舎にて花の都や和哥の友

 繰り返し述べてきた如く、万治・寛文期の二本松は、陸奥の中では、岩城に次いで俳諧が活発な所であった。その二本松に親盛は万治三年に転居してきた。既に和歌に関しては『百人一首』の大部な注釈書を書いている親盛ではあるが、俳諧は初歩の域を出ない状態であったと思われる。塵言・林元・好元等の二本松藩士たちに誘われ、また指導も受けながら、俳諧の道に親しみ始めたものと思われる。もともと素養もあり、武士の出でもあるので、違和感なく俳諧仲間に加わることが出来たものと思われる。



  2、晩年の平穏な生活

 発句の中では、日常の様子を取り上げている句が多い。

  万代をかけて祝ふやおめて鯛

  夏引の手挽にするは麦粉かな

  是は畑のつくりもの也碁いしまめ

  つく餅や手水のこりて薄氷

  三春迄着るや岩城のちゝみ布

  あけぬるや雲のいつこにいかのほり

  虚空より鉄花をふらす花火哉

  はま弓やひかりさしそふいはひ月

  わらはへもあしたをまつやとり合せ

 親盛は、寛文元年に娘を失い、三年には妻にも死別したものと推測される。しかし、家には長男の秋盛夫婦がおり、次男の又右衛門も同居していたか、近所に居たものと思われる。右に掲げた句には孫と興ずる場面を思わせるものがある。親盛の孫は、富盛、継、男子、女子の四人がいた。富盛は寛文十年、継は寛文八年の出生と推測されるが、長男と次男の先後にも矛盾があり、これはあくまでも推測の域を出ない。また、親盛の次男・又右衛門にも子は居たものと思われ、とにかく、この寛文頃の親盛の家庭環境は、安定していて、孫も家庭を明るくしていたように思われる。

  塩くみやふりさけ見れは桶の月

  風ふけはをきつしらかに綿帽子

  ひゝきらす神や手なつちあしなつち

  降雪やこしのしら山馬のくら

  出雲にや雪垣つくる軒の妻

  山復山みねより出てや雲の岑

  炭櫃もや一家ひらけて四方の冬

  霜八たび置てや鐘の七つ八つ

 これらの句は、いずれも海辺や雪国の情景であり、二本松でのものもあるにしても、親盛が幼少年期に育った酒田などの体験も係わっているように思われる。



  3、酒のむしろにしくは御ざらぬ

  月見しつ酒あたゝめつ寝つ起つ

  お流れや二つ瓶子に三つの春

  あかなくにまたき生湯や如来肌

  一瓢も千金なれや水あそひ

  二季まてみきとこたへん帰花

  ひたぶるに猫は妻をし呼廻

  あるまひ物よ恋の関もり

  分て生野に女ちらめく

  只ならぬ身となるやお手かけ

  恋死も今やくと心ぼそ

 如儡子は酒が好きだったようだ。雪国の寒い冬を青年期まで過ごした如儡子にとっては、ごく普通のことであったと思われる。「如来肌」「水あそひ」「帰花」等の句に出会うと、ただ酒席が好きというだけに止まらず、遊び心も持った性格であった事が知られる。そうでなければ『可笑記』の明るさは無かったものと思われる。恋を積極的に取り上げる如儡子でもあった。



  4、追鳥狩・鹿狩

  追鳥やせこにもれたる草かくれ

  よきてふけ萩のあたりを鹿の笛

  鷹や又生るを放つぬくめ鳥

  菅笠や憂世の民のしもおほひ

  みなし子をだいつかゝへつ膝の上

  馬はをはで焼火のそばに一眠

 鳥追狩、鹿狩にしても、生物への思いやりが込められている。また、自らは武士としての自負を持ちながら、庶民への思いも忘れられない如儡子である。浪人生活の時、日本橋の釘店で世話になった豊田喜右衛門、近藤五郎左衛門を町人の英雄と讃えていた。



  5、仏教帰依と売僧坊主批判

  けかれぬや蒜慈悲の高野山

  かけはこそ菩提樹となれ木葉経

  極楽ををしへのお文忝な

 親盛は晩年仏教に帰依したものと思われる。しかし、若い頃から近世初期の仏教の堕落には厳しい批判の目を持っていた。その傾向は持続されていたようだ。



  6、二月堂行

  押札やみな身の祈祷二月堂

  祭見やいそしの栄花あはた口

  扇あれはいつも夏かと御影堂

  日もあたゝかな有馬の出湯

  若の浦吹上浜は扨もく

 「祭見や」は夢の中の事ではあるが、これらの句を見ると、如儡子は関西への旅に出ていたようである。浪人生活で苦労の連続であったという想像をしていたが、このような一面も、晩年の句から知ることができる。



  7、寛文九年、十年のブランク

 『桜川』は収録句の到着年月を記録しているので、親盛の作句の状況も知る事ができる。寛文八年は六句、寛文十一年は九句であるのに、九年は三句、十年は一句と極端に少ない。これは何故であるのか。この二年は収録に値する句が無かった、という事も考えられる。しかし、これだけの力量を備えた作者である。この時、六十七歳位と思われる。おそらく、これは健康の問題であろう。晩年のこの二年間、親盛は健康すぐれず俳諧を楽しむ事が出来なかったのであろう。我々は如儡子の晩年の健康状態を知ることが出来た。



  8、松江重頼・維舟との出会い

 親盛は斎藤友我との両吟百韻を、寛文五年十一月十日に巻いていて、これに松江維舟の評点をもらっている。維舟は寛文五年夏、陸奥の旅の折、二本松に十日間程宿泊している。これは、この旅の中でも破格の事である。それほど二本松の俳諧は活発であり、また、維舟との関係も深かったのである。そのような状況の中に、晩年の親盛が居合わせたという事は、実に幸せな事であった。当時の俳諧師匠の中でも実力第一の維舟にめぐり会えたのであり、指導を受けたのである。勿論、塵言・林元・好元・道高・友我・衆下・正成等の二本松藩士の俳人の配慮があっての事ではあるが、親盛にそれだけの実力が無ければ不可能であった。親盛・如儡子は幸せな晩年を二本松で送る事ができたものと推測される。



  十、如儡子(斎藤親盛)略年譜稿



 如儡子(斎藤親盛)の年譜はまだ未完の状況である。ただ、今回、その晩年を概観し得たので、略年譜の草案を掲げる。





 (「如儡子(斎藤親盛)年譜稿」はここをクリックしてください)

「如儡子(斎藤親盛)年譜稿」 ●=如儡子 ◎=一族 ○=その他









 (注1)『類船集』は『近世文芸叢刊』第一巻、昭和24年11月7日、般庵野間光辰先生華甲記念会発行、に拠った。

 (注2)『桜川』下巻、解説、昭和60年4月25日、勉誠社発行。

 (注3)『毛吹草』は、竹内若校訂、岩波文庫版、昭和18年12月10日、岩波書店発行、に拠った。

 (注4)『はなひ草』森川昭氏の解説。『貞門俳諧集 二』昭和46年3月10日、集英社発行、に拠った。



   付  記

 斎藤親盛・如儡子の俳諧について、三回に亙って調査・分析してきた。調査にあたっては、諸機関の御高配にあずかった。また、諸先学の御研究に負うところ大であった。今回の分析に際しては、島本昌一先生の具体的な御指導を頂いた。以上の諸機関、諸先学、島本先生に対して、心から感謝申し上げます。

訂  正

 前回、第十七号、一七九ページ上段の「光重は黄檗宗に帰依し」とあるのは「光重は臨済宗に帰依し」の誤りでした。田中正能氏から御指摘を頂きました。慎んで訂正させて頂き、今後このような誤りのないよう注意して参ります。

●『近世初期文芸』第18号,平成13年12月。













TOP