斎藤親盛(如儡子)の研究

目次
① 仮名草子研究の思い出――今後の課題と計画――(昭和女子大学 最終講義資料)
②『可笑記』と儒教思想
③斎藤親盛(如儡子)の俳諧(上)
④斎藤親盛(如儡子)の俳諧(中)
⑤斎藤親盛(如儡子)の俳諧(下)
⑥『可笑記』の諸本
⑦斎藤親盛(如儡子)の著作
⑧川北奉行齋藤筑後守広盛の事績
⑨如儡子(斎藤親盛)の父、斎藤筑後守は「盛広」か「広盛」か
⑩平成22年度香川県公立高校入学者選抜学力検査に、仮名草子『可笑記』出題
⑪平成23年度京都府公立高校入学者選抜学力検査に、仮名草子『可笑記』出題
⑫「齋藤筑後守記念碑」建立
⑬一條八幡神社にあった筑後文書
⑭可笑記の著者について
⑮『如儡子百人一首注釈の研究』 刊行
⑯斎藤家の墓所、第3次改葬
⑰酒田古町名物語り(一)
⑱『東京都道徳教育教材集』に『可笑記』採録される
⑲武士道の系譜(講演)  笠谷和比古
⑳仮名草子研究の思い出(昭和女子大学 最終講義)
21平成26年度京都府公立高校入試に『可笑記』出題




21平成26年度京都府公立高校入試に『可笑記』出題

■平成26年度京都府公立高等学校入学者選抜のための学力検査に『可笑記』が出題された。平成23年に続いて、平成26年度も出題された。

●私は、大学2年の終りの頃、『徳川文芸類聚』でこの作品を初めて読んで、私自身、大変勉強になると思ったし、殊に、その批判的要素には感激した。それで、卒論に選び、以後、ずっとこの作品と作者について研究してきた。この作品やこの作者・如儡子、斎藤親盛は、決して軽く見るべきではなく、日本文学史の上でも、それなりの位置を占めるものと思う。その意味でも、平成23年に続いて、今回も出題されたことに感謝する。今回の出題は、巻3の25段から出題された。
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『可笑記』巻3の25段は、寛永19年版11行本では、次の如くである。
振り仮名は省略した。

▲むかし、弘法大師、諸国を修行有しに、江州すりはりとうげにて、
一人の老翁が、斧を石にあてゝひた物すりまはるあり。
弘法、御覧じて、
 いかに翁殿、其斧をすりて、何にし給ふ。
翁答て、
 針に仕る。
弘法、からからと、わらひて、
 扨、いつの世にか、其をのをすりほそめて、針にし給ふべき。其をのよりは、 
 そなたの命こそ、はやく、すりへるべけれ。
翁、かしらをあげて、弘法の御かほを、つやつやと、まもり、
 なふ御坊、其心中にては、学文成がたし。それ、世間の無常老若、さだめが
 たし。其上、事をつとめんに、命期しられざるとて、むなしく、やむべけん
 や。さあらば、さいふ法師の修行も、無益成へし。
と云に、弘法、あつと心付給へば、この翁、
 我は、是、此山の神。
とて、光をはなちて、飛給ふ。すりはりの大明神、是也、と。


20 仮名草子研究の思い出(昭和女子大学 最終講義)
          
                        深沢 秋男

 平成17年(2005)3月、私は昭和女子大学を定年退職した。昭和女子大学には、学部の日本文学科と短大の国語国文学科に所属する教員で組織する「日本文学研究会」があり、所属する教員が定年退職する場合、この研究会で「最終講義」として発表することになっていた。私も、この慣例に従ってお話させて頂いた。当日は雨天の上に、緊急の教授会が開催され、出席者は10名以下ではないかと予想して、参考資料を準備した。ところが、司会者が開催時間を調整して下さり、その上、既に退職された、名誉教授の先生方、前図書館長など、わざわざ来学して下さり、日本文学科・国語国文学科・図書館の方々、大学院生など、30名以上の方々が出席して下さった。
 昭和女子大学の日本文学研究会は、長い伝統をもっていて、毎年、前期・後期の2回開催されていた。私は、この研究会で2回研究発表させて頂いた。1回目は、上田秋成の「桜山文庫本、春雨物語」であり、2回目は「桜山文庫蔵、水滸後画伝」であった。いずれも、私のメインの研究対象ではない。これらの研究は、桜山文庫の旧蔵者・鹿島則幸氏の要請によるものであった。しかし、今回は、最後でもあるので、私が生涯をかけて研究してきたテーマに関するものでなければ失礼であろうと、仮名草子、特に如儡子・斎藤親盛を取り上げることにした。


 仮名草子研究の思い出――経過報告と今後の計画――

            (昭和女子大学 日本文学研究会 最終講義)
             平成17年2月16日 午前10時より
             大学1号館、第1会議室


 ▲本日は、日本文学研究会の例会で、お話するようにとのことですので、喜んでお引き受け致しました。このような機会を与えて下さいましたことに対して、厚く御礼申し上げます。
 本日は緊急の教授会もありますので、参加されるのは、ごく少人数と思い、参考資料も少なく準備しましたが、このように多くの皆様にお出で頂き、大変恐縮致しております。
 私は、この日本文学研究会で2回、研究発表致しました。1回目は「桜山文庫本・春雨物語について」で、これは、その後、昭和61年に『桜山本 春雨物語』として、勉誠社から刊行しました。2回目は、滝沢馬琴の草稿かとも思われる「写本『水滸後画伝』について」報告しました。これに関しては、かなり時間をかけて調査しましたが、私の能力では処理できませんでした。結果的には、千葉大学の高木元氏にお願いして、検討して頂きました。
 高木氏は、本学図書館にも何回かお出で下さり、詳細に調査分析され、その結果を、「『水滸後画伝』攷――草稿本をめぐって」と題して、『読本研究新集』第5集(平成16十六年10月、翰林書房発行)に発表して下さいました。
 実は、私のメインの研究は、近世初期の仮名草子で、特に如儡子・斎藤親盛の研究です。従って、本日は、最後のことでもありますので、これを採り上げたいと思います。内容的には、研究発表でもなく、講義・講演でもありませんので、この点は御了承願いたいと思います。

 さて、お手許に参考資料を配付致しました。B4判で16枚と、少し多いものです。実は、これは、「深沢秋男研究室」のホームページに書き込んだ内容をプリントしたものです。ついでに申し上げますと、昭和女子大学の教員のホームページでは、芦川智研究室、佐野武仁研究室、深沢秋男研究室などが容量的には大きいものです。先日、これらの研究室のコンテンツの容量を調べてみたところ、芦川研究室が19万バイト、佐野研究室が8万バイト、これに対して深沢研究室は412万バイトでした。私は写真等をアップしないで、文字情報のみに限定していますが、実状はこの通りです。私は3月で退職ですから、昭和女子大学における、これらの情報は間もなく消滅します。ただ、この情報は、すでに、私のホームページ「近世初期文芸研究会」にコピーして保存済みです。退職後は、こちらのサイトで更新してゆく予定です。

   【1 図版 深沢秋男研究室HP】 
   
 深沢秋男研究室HP(昭和女子大学)内容
① プロフィール&研究分野
② 担当科目&時間割
◎ 〔出版編集〕(水3)関連ニュース
◎ 〔古典文学17(近世出版事情)〕(水2)関連ニュース
③ 主要編著書&雑誌論文
④ 開設ホームページの紹介
⑤ 昭和女子大学図書館所蔵(桜山文庫)
⑥ 昭和女子大学図書館所蔵(翠園文庫)
⑦ 鈴木重嶺関係資料
⑧ 南部新一児童図書コレクション
⑨ 上海交通大学「日本文化資料センター」
⑩ 百人一首の研究
⑪―1 井関隆子の研究・1
⑪―2 井関隆子の研究・2
⑫―1 仮名草子研究・1
⑫―2 仮名草子研究・2
⑫―3 仮名草子研究・3
⑫―4 仮名草子研究・4
⑬ 鹿島則孝の研究
⑭ 上田秋成の研究
⑮ 鈴木重嶺の研究
⑯ 日本古典文学作品・画像公開
⑰ 江戸図と飯田龍一氏の旧蔵書
⑱ 斎藤親盛(如儡子)の研究
⑲ 斎藤親盛(如儡子)の研究・2
●新刊紹介
●学界ニュース
●日録
◆自著を語る・1
◆自著を語る・2
◆自著を語る・3
◆篆刻・遊印

 ▲前置きが長くなって恐縮です。さて、本日、お話しする内容は、参考資料の通り、次のようなものです。

●はじめに
 ■仮名草子(かなぞうし)〔『日本古典籍書誌学辞典』〕
 ■仮名草子の範囲と分類〔早稲田大学影印叢書『仮名草子』月報〕
1、卒業論文のテーマ
2、作品本文の書写
3、作品の諸本調査
4、作品研究
5、如儡子という人物
6、如儡子の伝記研究
7、伝記研究の方法
8、酒田の調査(如儡子出生の地)
9、二本松の調査(如儡子終焉の地)
●おわりに(今後の課題と計画)
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●は じ め に

■仮名草子 (かなぞうし) 
近世初期、慶長(一五九六~一六一五)から天和(一六八一~八四)にかけての、約八十年間に作られた、小説を中心とする散文文芸の総称。この近世初期は、日本歴史の中でも代表的な啓蒙期であり、この時期に、漢字(振り仮名付き)交じり仮名書きの通俗平易な読み物が次々と作られた。これら一群の文学的著作に与えられたのが「仮名草子」という名称で、その数は三百点にも達する。原本は、写本または版本(古活字本・整版本)として伝存するが、出版の黎明期にふさわしく、全体に版式もおおらかで、大きな本が多い。仮名草子は次の如く分類し得る。(1)啓蒙教訓的なもの(教義問答的なもの、随筆的なもの、女性教訓的なもの、翻訳物)、(2)娯楽的なもの(中世風な物語、説話集的なもの、翻訳物、擬物語)、(3)実用本位のもの(見聞記的なもの、名所記的なもの、評判記的なもの)(野田寿雄説)。この分類からもわかる通り、仮名草子は複合ジャンルの如き性質をもっている。文学史的には、お伽草子→仮名草子→浮世草子と接続するが、これを小説の系列として考えるならば、小説以外の作品をどう扱うべきか、という問題が今後の課題として残されている。
【参考文献】坪内逍遥・水谷不倒『近世列伝体小説史』春陽堂、明治三〇年。水谷弓彦『仮名草子』水谷文庫、大正八年。水谷不倒『新撰列伝体小説史 前編』、春陽堂、昭和七年。野田寿雄『日本近世小説史 仮名草子篇』勉誠社、昭和六一年。近世文学資料類従・仮名草子編・古板地誌編全六一冊、勉誠社、昭和四七~五六年。仮名草子集成一~二一、東京堂出版、昭和五五~平成一〇年。野田寿雄校注『仮名草子集』上・下、日本古典全書、朝日新聞社、昭和三五・三七年。前田金五郎・森田武校注『仮名草子集』日本古典文学大系九〇、岩波書店、昭和四〇年。青山忠一・岸得蔵・神保五弥・谷脇理史校注『仮名草子集 浮世草子集』日本古典文学全集三七、小学館、昭和四六年。渡辺守邦・渡辺憲司校注『仮名草子集』新日本古典文学大系七四、岩波書店、平成三年。深沢秋男・小川武彦・菊池真一「仮名草子研究文献目録(明治~平成)」菊池真一『恨の介 薄雪物語』和泉書院、平成四年。(深沢秋男)
(『日本古典籍書誌学辞典』一九九九年三月一〇日、岩波書店)

■仮名草子の範囲と分類              深沢秋男
 水谷不倒氏が「仮名草子」と命名してから既に百年が経過しようとしている。研究の進展と共に作品の数も次第に増加して、現在では三百点に達する勢いであるが、これには、昭和四七年完結の『国書総目録』が大いに与って力があったものと思われる。
 この間、「仮名草子」という名称に対する検討や批判もあり、作品群の分類に関しても様々な意見が提出されて今日に及んでいる。
 これは、現在、仮名草子として扱われる作品が、当時の書籍目録(寛文一〇年版)を見ると、「仮名仏書」「軍書」「仮名和書」「歌書 并 物語」「女書」「名所尽 道之記」「狂歌」「咄之本」「舞 并 草紙」等の各条に散在している事からも解るように、この名称が、いわゆる文学ジャンルとしての命名でなかった事と関連している。強いて言えば、複合ジャンルの如き性質をもっており、この事が、仮名草子の範囲や分類を複雑にしているように思う。
 仮名草子の範囲を考える場合、留意すべき事項について、今、思いつくままに、列挙してみると以下の如くである。
 ①御伽草子との関連。
 ②浮世草子との関連。
 ③評判記(遊女・役者)との関連。
 ④軍書、軍学書との関連。
 ⑤咄本との関連。
 ⑥随筆的著作との関連。
 ⑦名所記、地誌、紀行との関連。
 ⑧教訓書、女性教訓書との関連。
 ⑨仮名仏書、仮名儒書との関連。
 ⑩注釈書(……抄)との関連。
 ⑪翻訳物、翻案物との関連。
 これらの、各項を具体的に検討してゆく時、各項相互の間に、出入りがあったり、この他に加えるべき項目があるかも知れない。
 ①の御伽草子との関連は、いわゆる上限の問題であるが、時期は、徳川開幕以後とし、それに、中世との過渡期としての、安土・桃山時代を含めて、一応考えておきたい。この項で注意したいのは、寛文頃の刊と推測される、渋川版の御伽草子を仮名草子に入れるという説のあることである。確かにこの一群の御伽草子は、近世初期に出版されることによって、より多くの読者に仮名草子と同時的に享受されたものであろう。また、写本→版本の過程で、異同も生じているであろう。しかし、文学作品の史的定着は、あくまで、その内容と成立時期によって評価し、位置づけるべきものと思う。これらの御伽草子は、中世的世界観の下で創られたものであり、これを近世の作品とするのは妥当と思われない。なお、写本を除外するが如き考えが一部にみられることであるが、これも、写本であると刊本であるとに関わりなく、この近世初期に創られた作品全てを対象とすべきものと思う。
 ②の浮世草子との関連は、下限の問題で、天和二年の西鶴の『一代男』の刊行を一つの目安にする事に異論はないようである。その場合も、仮名草子と一線を画する、浮世草子の新しい特色、傾向についても検討して、いずれに属するかを判断すべきものと思う。
 ③から⑪は、中世の御伽草子系統の、小説的な作品(草紙)とは、やや異なる、娯楽的、教訓的、実用的な作品群との関連である。これらの諸作品を仮名草子に入れるか否か判断する場合、まず、その文芸性が問われなければならないだろう。これについては、今後、一作一作、具体的に分析して、それぞれの作品の評価を判定する必要がある。
また、仮名草子は、小説的作品に限定すべきであるとしたり、さらに、小説に限定して、「近世初期小説」の用語を採用する、という意見も出されている。御伽草子→仮名草子→浮世草子と、これらを小説の系列として考える時、一応もっともな意見であると思う。しかし、そのように仮名草子を狭義に解し、他の作品を除くことは、研究史的観点から見て、時期尚早であると考える。現在、仮名草子とされている諸作品の具体的な調査、分析、評価等が十分になされているとは思えないからである。かつて、価値の低い作品は採り上げず、その事によって一つの評価を示す、という風潮があった。しかし、文学研究が科学である以上、そのような態度は、もはや、許されないであろう。一つ一つの作品の諸本調査と本文批評を行い、信頼すべき本文を確定し、それに基づいて、作品分析を行い、その属すべきジャンルを定め、文学的評価を出して、妥当な位置づけを行うべきである。
 「仮名草子」という名称も、いずれは、その内容を整理し、物語、説話、随筆、紀行、評論等々に分離して、後続作品への展開をも視野に入れながら、改められる事になるかも知れない。ただ、今は、まだその時機ではないと思う。
 仮名草子の分類に関しても、すでに多くの説が出されている。「いたずらに博捜を事として、書目の多きを誇り、分類・解説に憂き身をやつ」す、と厳しい批判もあったが、先学の諸説は、仮名草子の実態を知る上で、非常に有益であった。
 三種、三種一三類、三種一六類、五種九類、五種一六類、六種、七種一一類、八種、一〇種と、実に様々であるが、それだけ仮名草子の内容が種々雑多で複雑であることを示している。私には、先学の諸説に対して、別の分類を提出する準備も力量も、現在のところは無い。ただ、分類の第一の基準は、やはり、ジャンルによるべきものと考える。
 『分類の発想』の著者、中尾佐助氏は、分類の精神を示すキーワードは、枚挙・網羅・水平思考であると言っている。現時点での仮名草子の研究は、依然として、未だ研究されていない作品を俎上に載せることであり、より多くの作品を見渡して、これらに通用する基準で分類することにあると思う。
 「仮名草子」に該当する作品は、これをことごとく集成し、一作一作、研究を進めることが当面の目標であり、これらを分解、再編する作業は、次の世代の研究者に委ねることになるかも知れない。
(早稲田大学蔵資料影印叢書 国書篇 第三九巻『仮名草子集』同刊行委員会、平成六年九月一五日発行、月報四三)

 ▲これらは、辞典の項目執筆であったり、影印叢書の月報に掲載された研究随想の如きものであったりするものですが、仮名草子全体についての私の意見であり、私の立場だと受取って下さって結構です。

1、卒業論文のテーマの選択

●私の卒論は、まず、大学2年の頃、自然主義文学の中村星湖に興味をもって、資料収集を始めた。早稲田大学図書館にお世話になったりして調査したが、関係資料が思うように集められず、中止。次に、中世の西尾実先生について、世阿弥か道元を対象に選びたいと思い、少々調べたが、これは、仏教思想が難解で、撤退した。近藤忠義先生の説教節にも興味を持って作品をいくつか読んでみたが、作品としての魅力に少々欠けるように思った。次に、中世に最も近い、近世初期の仮名草子に焦点を絞り、いくつかの作品を読んだ。
●その時、出会ったのが『可笑記』であった。こんなに激しい批評精神にみちみちた、作品を書くのは、どんな人物であろうか?  以来40年、この作品と作者の解明にこだわってきた。このような、非生産的な人生は、許されるのであろうか、そんな自責の念もある。

■大きい作品だから、呑まれないように

●指導教授は重友毅先生。最初の個人的な指導の時、先生は、「この作品は大きいので、呑まれないように」、そう申された。この、お言葉は、以後、大変なエネルギーとなった。そう言えば、先生に指導して頂いたのは、この時と、あと目次の案を見て頂いた時と、2回のみであった。ただ、3年の夏休みに、大学図書館から『徳川文芸類聚』を借り出し、ゆっくり読むことができたのは、重友先生の特別の御配慮を賜ったからである。
 〔「重友毅先生と私」(『芸文稿』第6号、平成25年4月)〕

2、作品本文の書写

●この作品は、『徳川文芸類聚』と『近代日本文学大系』に収録されていたが、これらの叢書をセットで買うには、学生の私には古書価が高すぎる。かと言って、端本など待っていても、いつ出るかわからない。何しろ、複写機の無い時代である。毎日、大学の図書館や上野図書館で書写した。大学ノート全8冊に書写完了したのは、確か4年生の4月だった。

 ▲これは余談ですが、当時、目黒駅前に、歴史学者・久米邦武の御子孫の屋敷があり、久米邦武のお孫さん、久米晴子さんの御厚意で邦武の書庫に入れてもらったことがあります。蔵書の中に『徳川文芸類聚』か『近代日本文学大系』があれば、貸して下さると申されたからです。結果的には、両叢書とも所蔵されておらず、拝借することは出来ませんでした。しかし、その後、日本史の分野で、津田左右吉や久米邦武の著作に出会って、多くの事を学びましたが、 その久米邦武の書庫に入れて頂き、5時間以上も、自由に蔵書を閲覧させて頂いたことは、学生時代の貴重な体験でした。現在は、JR目黒駅前の、その場所に、久米美術館が建てられていて、邦武の蔵書や、子息・桂一郎の絵画が所蔵され、展示されています。

■キミ、版本があるよ

●上野図書館に日参して書写している時、出納台の掛の方が、この作品の版本もありますよ、と声を掛けて下さった。ハンポンて何ですか? 版本と言うのは、この作品が初めて出版された時の和本の事ですよ、江戸時代の……。請求カードを出して待っていると、出てきました。これがハンポンか! 
●それからは、和本閲覧室で、版本を広げながら、活字本を写した。ああ、これがこの字か、やがて、活字本を広げながら、版本から書写した。従って、私の卒論に使用した『可笑記』のテキストは、活字本と版本の混合テキストであった。今、思えば、まことに杜撰なものと言う事になる。杜撰なものではあったが、近世初期から伝存している、和本を手にして、一つ一つのシミや虫食いの痕を見る度ごとに、作品の世界に近づいていったように思う。上野図書館の司書の方に、今も感謝している。
●しかし、その後の私の調査で、翻刻本の『徳川文芸類聚』も『近代日本文学大系』も、校訂者が使用した底本が、いずれも、寛永19年版と無刊記本の取合本であった事を思えば、五十歩百歩という事にはなる。

3、作品の諸本調査

■280段か400段か???

●『可笑記』は『徒然草』に倣った随筆風の作品であり、幾つかの短文の集まりである。文学辞典や諸論文を調べていると、その章段数についてマチマチの説があった。275、279、280、400。諸説の中では、400段と言うのが最も多く、これが通説かと推測された。
●しかし、私が書写している国会本の版本は、どう数えても282の短文の集まりである。さて、どうするか。100段も多いテキストがあるのに、少ない段数のテキストで研究していては、作品の実態は解明できないだろう。
●私は、400段説を主張しておられる、研究者の大学の研究室へお邪魔して、その説の拠り所を質問した。しかし、ラチはあかなかった。結果的には、ある研究者が、適当に400と記した、それを、以後の研究者は長い間、孫引きし続けた、というのが真相のようである。仮名草子は、これほどまでに軽く見られていたジャンルでもあった。

■『可笑記』の諸本

●私が『可笑記』の原本調査を始める前は、どのような種類の版本や写本があるか、明らかではなかった。学生の頃は、上野図書館、日比谷図書館、早稲田大学図書館など、東京の各図書館で閲覧・調査させて頂いたに過ぎなかった。卒業後、関西や全国の図書館、そして個人所蔵の原本の調査へと広げていった。その結果、次のように分類するのが妥当と考えるようになった。

① 寛永十九年版十一行本
② 寛永十九年版十二行本
③ 無刊記本
④ 万治二年版絵入本
⑤ その他(取合本・写本)

これらの、全国の諸本を調査して、80点以上のデータを収集することができたが、これを公に発表したのは、昭和43年6月の、日本近世文学会の春季大会においてであった。発表後の質疑応答で、寛永十九年版、十一行本・十二行本の先後関係ついて、田中伸氏の反論が出され、長時間に亙って論争したのも、今は楽しい思い出である。

 ▲実は、『可笑記』の諸本調査は、私以外に田中伸先生も進めておられたことをこの時知りました。田中先生は十二行本が先、私は十一行本が先、という説で対立しました。何故、十一行本が先に印刷されたか、その理由について、発表の壇上から説明したのですが、田中先生には、なかなか理解してもらえず、長時間の討論になってしまいました。司会は神保五弥先生でしたが、「もう時間がありませんので、あとは、お二人で話し合って下さい」と打ち切られてしまいました。昼食の時、田中先生が私の席に来て下さいましたので、版本の複写を示して、説明申し上げたところ、ようやく、納得して、私の説に賛成して下さいました。田中先生には、これがきっかけとなって、『可笑記大成――影印・校異・研究――』を共編著で出版するチャンスを頂きました。田中先生の御厚情には、心から感謝申し上げています。

■『可笑記』原本・3点の伝来

【A】 寛永十九年版十一行本(鹿島則幸氏、桜山文庫本)

●〔桜山文庫〕は、鹿島神宮大宮司・鹿島則文のコレクションである。この文庫は、則文のお孫さんの鹿島則幸氏が管理しておられた。公共図書館等の調査が終わった昭和40年、閲覧願を郵送したところ、則幸氏は、鹿島の書庫から水戸へ取り寄せて、調査させて下さった。当時、鹿島則幸氏は、水戸の常磐神社の宮司だった。社務所に通され、鹿島氏の使用される文机で、2時間ほどかけて、閲覧・調査させて頂いた。終了後、この本の調査結果を御説明申し上げ、辞去しようとすると、「どうぞ、お持ち下さい」と申される。初め、私は、鹿島氏のお言葉の意味がよく理解できなかった。「伯楽にお持ち頂ければ、祖父も喜ぶと思います」ようやく、鹿島氏の真意が理解は出来た。理解することは出来たが、ハイ、そうですか、とはお答え出来なかった。一度、帰宅して、改めて御返事致します、と申し上げて辞去した。水戸駅から帰りの電車に乗った。このような事が現実に有り得るのか。「桜山文庫」の円形朱印を持つ本であり、岩波の『国書総目録』にも搭載されている原本である。私は世の中の不思議な事実に出会い、感激と感動の数時間を、電車の中で過ごした。
●早速、この件を重友先生に御相談申し上げた。先生は、鹿島氏の御厚意は大変なものである。そうそう、ある事では無い。しかし、ここは鹿島氏の御厚意を有難くお受けして、今後、『可笑記』の研究に真剣に取り組み、その成果を上げて、鹿島氏への返礼としなさい、と申された。
●日を改めて、水戸へお伺いし、有難く拝受した。手土産のお菓子は持参したが、金品は一切差し上げなかった。以後、この十一行本は、私の手元にあり、諸本調査に活用させて頂いている。因みに、神田の池上文化財補修工房に依頼して帙を作って頂いた。
 〔「鹿島則幸氏と桜山文庫――鹿島氏追悼――」(『近世初期文芸』第11号、平成6年12月)〕

【B】 無刊記本(長澤規矩也氏所蔵本)

●昭和43年度の春、日本近世文学会の大会で、『可笑記』の諸本の調査結果を発表した。会場は名古屋の熱田神宮であった。発表の直前、法政大学大学院の先輩から、長澤先生がお呼びだという伝言があり、長澤研究室へ伺った。『可笑記』の調査済みリストを提出し、結論を申し上げたところ、先生は大変宜しい、と褒めて下さった。先生は、実は私も一本持っている、と申され、御所蔵の丹表紙・原題簽の無刊記本をお見せ下さり、拝借することができた。無刊記本は、20点以上伝存しているが、原題簽を存するのは、長澤先生蔵本のみであり、誠に貴重な存在であった。
昭和45年4月、私は結婚したが、長澤先生は、その記念にと、この御所蔵本を御恵与下さった。

 「深澤仁弟御内/昭和四十五年/成婚記念/長澤規矩也/所蔵一部書より」

先生は、中国の紅紙にこのように墨書して下さった。これも、池上氏に帙を作ってもらい、その題簽に長澤先生に書名を書いて頂いた。
  〔「長澤先生の思い出――『可笑記』のことなど――」(『書誌学』復刊新第28号、昭和56年7月)〕

【C】 万治二年版絵入本(横山重氏、赤木文庫本)

●昭和49年4月30日、文部省の科学研究費補助金(研究成果刊行費)を受けて『可笑記大成――影印・校異・研究――』を笠間書院から出版した。田中伸氏・小川武彦氏との共編著である。この研究に際して、横山重先生の絵入本を使用させて頂いた。
●昭和45年、横山先生から、以下の如き葉書を頂いた。

「この葉書、御手許へ届いた日から、万治刊/の「可笑記」は、貴兄の所有にして下さい。/贈呈します。/私はこの二三年、数氏の方々に、私の本を贈呈して/ゐます。昨二十二日、古典文庫の吉田幸一氏来訪。その/時、宛名だけ書いたこの葉書を吉田氏に示し、可笑記貴兄に贈呈の事を吉/田さんへ話した。で、その日に決定。御本できた時、二、三/部、私へ下さい。それで十分です。/四十五年十二月廿三日/横山重」

絵入本は30点程伝存しているが、どの本も、虫損が多い。その中で、本書は虫食いが少なく、原題簽も完備している。巻2に7丁の落丁があるものの、貴重な存在である。帙の題簽の書名は横山先生の筆である。
 〔「横山重先生の思い出」(『芸文稿』第5号、平成24年4月)〕

●桜山文庫本・寛永十九年版十一行本、長澤規矩也氏本・無刊記本、横山重氏本・万治二年版絵入本、この3点は、現在、私の所蔵となっている。有難い研究の経過である。

▲鹿島則幸、長澤規矩也、横山重の三先生が、私が一生懸命に『可笑記』の研究をしているので、頑張って研究をまとめなさい、というお考えで、御恵与下さったのだと思います。有り難い事だと、心から感謝しております。
 桜山文庫本・寛永十九年版十一行本には、「不覊斎図書記」(秋山不覊斎)・「斎藤文庫」(斎藤幸成)・「西荘文庫(小津桂窓)」など、錚々たる旧蔵者の蔵書印があります。その意味でも貴重だと思います。
 長澤規矩也先生の無刊記本は、原題簽が完全に揃った貴重な本です。巻一の前見返しに「此本初印本には 寛永壬午季秋吉旦刊行 大坂心斎橋通り西へ入南久宝寺町南側 平野屋九兵衛」という、長澤先生の書込みがあります。これは、早稲田大学図書館所蔵の、取合本の張込みの写しだと思いますが、 漢籍研究者としての長澤先生が、仮名草子にまで興味を示されたものとして感激しております。
 横山重先生の赤木文庫本、万治二年版絵入本は、巻2に落丁はありますが、原題簽も揃い、虫損も少ない本です。横山先生は、もともと、「アララギ」の歌人、島木赤彦の門下で、短歌の世界で活躍しておられました。その後、中世文学の研究に進まれ、一時、慶應大学で教えられました。私が、御指導を賜ったのは、先生が犬山市にお住まいの頃からです。時々、お伺いして、長時間に亙って、近世版本の研究等に関して御指導を頂きました。横山先生は、長野県松本市の御出身で、近くに「赤木山」という小高い丘があり、また、恩師、歌人・島木赤彦の「赤」のことも考えて、御蔵書に「赤木文庫」と命名されたと教えて下さいました。この絵入本は、そのような、横山重先生の旧蔵書です。
 ところで、失礼ですが、前図書館長の青柳先生、いらっしゃるでしょうか? あっ、いらっしゃいました。ただ今、御紹介致しました、『可笑記』の、寛永十九年版十一行本・無刊記本・万治二年版絵入本、この3点ですが、私の『可笑記』研究がまとまりましたならば、これを、昭和女子大学図書館へ御寄贈申し上げたいと思います。また、私が万一、急に亡くなった時は、そのように処置するように、妻に伝えてあります。どうぞ、その時は、宜しくお願い申し上げます。
【注 この『可笑記』3本は、平成26年11月26日、昭和女子大学図書館へ寄贈済みである】

  【2~17 写真 桜山文庫本・長澤本・赤木文庫本 16枚】
 

■甲南女子大学図書館所蔵、写本『可笑記』

●『可笑記』の写本は、東大文学部研究室に一本を所蔵するのみであったが、平成16年7月の調査で、新たに甲南女子大学に所蔵されている事が判明した。甲南女子大本は、平仮名書き主体の、極めて特異な本文である。この写本の位置づけは、平成16年12月の『近世初期文芸』第21号で詳述しておいた。

4、作品の研究

■『可笑記』の読み方、「カショウキ」か「オカシキ」か

●『可笑記』巻5の90段に「これぞ可笑記(をかしき=振仮名)のをはりなりけり。」とあるところから、この作品の書名は「おかしき」と読むべきである、という説があるが、これでは、書名にならない。当然「かしょうき」と読むべきものと考える。
▲ この点に関しては、『文学研究』第62号(昭和60年1月)で反論修正済みです。

■『可笑記』の本文批評

●『可笑記』の諸本調査もほぼ完了し、次に、行わなければならない作業は、これらの五種の版本・写本の中で、どのテキストが、最も優れたものであるか、という判断である。これについても、私は、昭和44年11月『近世初期文芸』第1号の「『可笑記』の本文批評」で明らかにしている。①の寛永十九年版十一行本が最も優れたテキストであると判断し得る。従って、この作品の研究はこの、①に拠って行われなければならない。卒論の頃の、混合本文を思い出すと、誠に恥ずかしい。
 ▲ところで、このテキストクリティークということですが、近世文学研究の現状を見渡すと、余り実施されていないように思います。これは、どうしてでしょうか。私は、文学研究の大前提は、最も優れたテキストを確定して、このテキストに拠って行なわれるべきだと考えています。このことは、近代文学研究においても同様だと思います。

■『可笑記』と『徒然草』

●仮名草子研究において、その作品の典拠を解明することは、極めて重要なテーマである。『可笑記』の作者にとって最も重要な情報源は、中世の名随筆『徒然草』であった。『可笑記』の特色を解明するには、兼好の『徒然草』との関連を明らかにする必要があった。私は、大学の卒論の頃から『徒然草』の文庫本を持ち歩き、『可笑記』と関連ある条々を書き込んでいた。
●昭和女子大学に勤務し、『日本文学紀要』に最初に発表したのは「『可笑記』に及ぼす『徒然草』の影響」という論文であった。私が最も重要な主題と考えているものを投稿した訳である。『学苑』昭和59年1月、第529号である。ここで、私は、従来の諸説を整理し、自説を加えて、関連のある段々を指摘した。それは全体で60段に及んでいる。
●次の年の『日本文学紀要』では、「『可笑記』と『徒然草』―― 一の2、一の4――」と題して、この2段の関連を具体的に比較、分析して、その影響の深さを論じた。実は、この方法で、全段の影響関係を分析考察する予定であった。しかし、何故か、続稿を執筆していない。と同時に、『学苑』への投稿も一切していない。後年、鈴木重嶺の資料が昭和女子大へ寄贈され、その紹介記録までは『学苑』には執筆しなかった。これは、私の研究方法に関する事である。この種の論考は、一挙に単行本で発表するのが適当であると考えている。いよいよ、その時機が迫ってきたとも言える。

■『可笑記』と『甲陽軍鑑』

●『甲陽軍鑑』は武田信玄の軍学についての書で、全20巻。武田家家臣・小幡景憲の編纂したものである。近世初期の軍書のバイブルの如き存在で、大ベストセラーでもあった。戦国武将の気風を残す斎藤親盛は、極めて武士としての誇りを尊ぶ人物であり、それに、『甲陽軍鑑』は中国軍書をはじめ、儒教的色彩の強いものであった。この点が『可笑記』の作者をも惹き付けていたものと思われ、両者の影響関係は実に大きい。
●私は、当初、古川哲史氏校訂の岩波文庫所収本(1巻のみ収録)や、磯貝正義氏・服部治則氏校注、人物往来社の注釈付きの3巻本を利用していた。これには大変教えられる点が多く感謝している。同時に『甲陽軍鑑』の原本も求めて両者の比較検討をしていた。
●その後、酒井憲二氏の研究が次々と発表され、勉誠社版の複製、汲古書院の『甲陽軍鑑大成』全7巻など、酒井氏によって『甲陽軍鑑』の基礎的研究は、ほぼ整ったことになる。このような諸先学の研究の成果を利用させて頂き、本格的な研究に着手した。この点、心から感謝している。
●このテーマに関する研究は、『文学研究』『近世初期文芸』に随時発表して、これらを総合的にまとめて、文部省の科研費による共同研究(平成11年~14年)の報告書に「近世初期文芸と軍書――『可笑記』と『甲陽軍鑑』――」として90頁の総括をした。私としては、ほぼ全貌をつかんだと思っている。

■如儡子の「百人一首」注釈

●如儡子に「百人一首」の注釈書がある事を発見、発表されたのは、田中伸氏・野間光辰氏が殆ど同時であった。これは、大きな発見で、私も大いに感謝した。感謝はしたが、お二人とも、研究の入り口で他界されてしまい、後は私が引き継がざるを得ない状況となってしまった。

●如儡子の「百人一首」注釈には次の諸本がある。
 ① 『百人一首鈔』 水戸徳川家彰考館所蔵
 ② 『酔玉集』 国立国会図書館所蔵
 ③ 『百人一首註解』 京都大学附属図書館所蔵
 ④ 『砕玉抄』 武蔵野美術大学美術資料図書館所蔵

このうち、注目すべきものは、④の『砕玉抄』である。実は、この本の所在は、御茶ノ水女子大学の浅田徹氏から教えて頂いたものである。この本は列丁装の写本で、本文も特異な部分をもっている。この写本は、私の感覚的な予想であるが、もしかすると、如儡子の自筆本の可能性があると思われる。万一、そうだとするならば、誠に僥倖、研究生活の最終段階で作者の筆跡に出会えた事になる。しかし、それは、今後の調査考証にまたなくてはならない。
 ▲この如儡子の百人一首注釈書に関しては、興味深いことがありました。京都大学附属図書館所蔵の『百人一首註解』について、島津忠夫氏は、『新版 百人一首』(角川文庫、平成11年発行)で、「この注釈書には、特色のある鑑賞が見られる」とされ、本文中でも、必要に応じて、この注釈書の説を紹介しておられます。実は、この京都大学附属図書館の所蔵本は、如儡子の注釈書の転写本であることが判明しました。
 【補注】 私は、平成24年に『如儡子百人一首注釈の研究』を和泉書院から出版しましたが、島津忠夫氏はじめ、関係者の御配慮によって、「百人一首注釈書叢刊」の別巻に加えて頂くことが出来ました。深く感謝申し上げます。

■如儡子の大名批評『堪忍記』

●『堪忍記』と言えば、浅井了意の作品が有名であった。上坂平次郎・三休子の『梅花軒随筆』が如儡子の著作に『堪忍記』がある、としているが、この記述は誤りである、と長い間考えられてきた。しかし、野間光辰氏は、了意の『堪忍記』とは別に如儡子の『堪忍記』がある事を指摘された。これは画期的な発言であった。私は、これも、野間氏の指摘を引き継ぎ、研究を進めてきた。
●野間氏は、この著作の内部徴証からみて、如儡子の著作と推定されたが、私は、さらに、最上藩に対する著者の姿勢からみても、如儡子の著作である可能性が大きいと思っている。ただ、諸藩の藩主・知行高・物成・年貢率・国役・家中の風儀等々、一浪人の調査し得るものではない。如儡子は、そのような基本的な資料を何らかの手段で入手し、それに批評を加えたものであろう。その意味では、この著作は、如儡子の編著というべきものかと思う。
●如儡子は、この著作で、各大名の石高等をかなり正確に記し、しかも、諸大名に対して様々な批評を加えている。この大名は人となりが良くないとか、家臣の使い方がひどいとか、下の下、下下の下、上の中、とかランク付けまでしている。それにしても、このような諸大名の石高や藩主の性格などの情報を、どこから入手したのであろうか。興味深い著作である。

■斎藤親盛の俳諧――晩年の如儡子――

●斎藤親盛・如儡子には、晩年に残した俳諧作品がある。万治3年、息子の秋盛が、二本松藩主丹羽光重に召抱えられ、一家は二本松に移住した。当時の二本松は、内藤風虎が藩主であった、岩城平藩と共に、東北では特に俳諧が活発な所であった。ここで、晩年の親盛は15年間を過ごした。
●親盛の俳諧作品は、内藤風虎撰の『桜川』に多数収録されており、斎藤友我との両吟百韻もあり、これには、松江重頼の批点が加えられている。貞門俳諧の第一人者・松江重頼の俳諧指導を受けたのである。俳諧作品を通して伺われる親盛・如儡子は、平穏な幸せな晩年であったものと推測される。酒田の奉行の子として成長し、主家の没落で浪人して、苦しい半生を江戸で過ごした作者も、その晩年は幸せな日々を送ったものと思われる。

■三教一致を論じた『百八町記』

●5巻5冊の『百八町記』は、寛文4年に京都の書肆中野道判から出版された。儒教・仏教・道教の三教一致を主張した著作である。1里36町、3里で108町という書名の付け方である。内容的には仏教に重点がおかれていて、晩年は仏道(臨済宗)に帰依した著者をみる事ができる。この著書に関しては、私は未だ論を発表していない。これまでの研究を踏まえて、今後考察を加える予定である。

5、如儡子という人物

■如儡子(にょらいし)とは何人か

●私がこの作品を読み始めた頃は、「如儡子」がペンネームであることは分かっていたが、ニョライシかジョライシか、読み方もまちまちで多くの文学史などは、ジョライシが通例であった。しかし、この作者が自著の『百八町記』の奥書で「にょらいし」と振り仮名を付けているので、現在では、ニョライシと読むべきものと考える。

■生国東者なれば高才利発にもあらず

●如儡子は『可笑記』の中で、自分の事を「生国東者」であると書いている。そこから、あずま、つまり関東の出身であろうと思っていた。また、『甲陽軍鑑』を多く利用しているので、あるいは、甲州、山梨と関係があるのか、とも思っていた。ところが、実際は山形県酒田市の出身であった。

■如儡子は、尾羽打ち枯らした浪人か?

●如儡子は、もと武士であったが、正保・万治の頃相続く転封改易のあおりを受けた浪人らしいという事は、早くから分かっていた。尾羽打ち枯らした浪人で、書物もろくに買えず、乏しい知識で聞きかじって著作を続けていた、という論調が支配的であった。しかし、私は、卒論に選んだ頃から、この批判精神に富んだ作者を尊敬していた。

6、如儡子の伝記研究

■野間光辰氏の画期的な研究

●田中伸氏の如儡子伝記研究と相前後して発表された野間光辰氏の研究は画期的なものであった。
○ 「如儡子系伝攷(上)」野間光辰氏 『文学』46巻8号 昭和53年8月
○ 「如儡子系伝攷(中)」野間光辰氏 『文学』46巻12号 昭和53年12月
この野間氏の二論文は、如儡子の伝記研究の上で特筆すべきものである。ただ、この伝記研究は、完結することはなかった。野間氏の御他界によるものである。我々は、(下)を拝読したかった。しかし、それは叶えられないことである。後学は、その完結に努める義務を負う事になった。

■如儡子の伝記研究開始

●野間氏から、上記2論文の抜刷を頂いた私は、氏がその論文の中で、如儡子のおおよその伝記を知りたいと思う読者は「略伝」を読めば十分である。ただし、如儡子に関する、より詳細な伝記に興味を抱く読者は、以下に掲げる諸資料を熟読吟味する事を懇請する、と述べておられた。これは、私に対するメッセージと〔私は〕受け止めた。早速、返信を認め、私は、如儡子に関して非常な興味を抱く1人である。従って、野間先生の提出された、貴重な伝記関係資料を、今後、熟読し、徹底的な吟味を加えさせて頂きたい、と申し上げた。野間先生からはすぐ御返事を賜り、そのようにするように、と御許可を頂いた。ここから、私の如儡子伝記研究は始まった。
私は、文学研究の手順は、作品研究が第一、次が作者研究、そしてまた作品研究、という計画を立てていた。期は熟したのである。

■私の如儡子伝記研究

①如儡子(斎藤親盛)調査報告(1) (『文学研究』67号 昭和63年6月)
②如儡子(斎藤親盛)調査報告(2) ――父・斎藤筑後と如儡子出生の地―― (『近世初期文芸』5号 昭和63年12月)
③ 如儡子(斎藤親盛)調査報告(3)――『世臣伝』『相生集』――(『文学研究』68号 昭和63年12月)
④ 如儡子(斎藤親盛)調査報告(4)――二本松藩諸資料―― (『文学研』70号 平成元年12月)
⑤如儡子(斎藤親盛)調査報告(5) ――如儡子の墓所―― (『文学研究』78号 平成5年12月)
 【注記】その後、次のような論文等を発表している。
① 斎藤親盛(如儡子)伝記資料 (平成22年10月25日、近世初期文芸研究会発行)
② 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題(1)――父、斎藤筑後守は「盛広」か「広盛」か――(『近世初期文芸』27号 平成22年12月)
③ 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題(2)――「如儡子」は「にょらいし」か「じょらいし」か――(『近世初期文芸』28号 平成23年12月)
④ 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題(3)――十五里ケ原合戦と斎藤広盛――(『近世初期文芸』29号 平成24年12月)
⑤ 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題(4)――斎藤広盛と藤島城――(『近世初期文芸』30号 平成25年12月)

7、伝記研究の方法

●前掲の私の、如儡子伝記研究を見ても分かるように、全て〔調査報告〕となっている。これには、一つの理由がある。従来の伝記研究は、伝記関係資料を研究者が収集した範囲で、伝記として纏め上げていた。その収集は徹底したものもあるが、やや中途半端なものもある。勿論、調査・収集は徹底することが理想である。私も、かつて、井関隆子や鹿島則文・鈴木重嶺などの略伝を纏める時、同様の方法を採用していた。しかし、これでは、科学として見た時、適切ではない事に気付いた。その反省の上に立って進めたのが、如儡子の伝記研究であり、〔調査報告〕とした所以である。

■明日不所求

●当然の事ながら、人間には寿命がある。これは、作者も研究者も同様である。故に、歴史上の人物の伝記研究を志しながら、業半ばにして世を去った人々の何と多い事か。私の伝記研究の方法は、この人間存在のアヤウサにも着目して打ち出されたものである。出来得る限り、客観的な事実を把捉したい。しかる後に、その人物の伝記の執筆に取り掛かりたい。しかし、我が命は、明日までかも知れない。それならば、まず、命のある限り、事実の収集をしておこう。そうすれば、その事実の記録を後人が利用してくれるかも知れない。まかりまちがえば、調査も自分の思った通りに進み、自分で伝記の執筆が出来るかも知れない。

■伝記資料のランク付け

我々が過去の歴史上の人物の伝記を作成する場合、さまざまな資料を使う。その場合、重要なことは、伝記資料のランク付けをして、資料批判を加えて、その上で利用すべきであるということである。私はこれまで、井関隆子・鹿島則文・鹿島則孝・飯田龍一・鈴木重嶺など、歴史上の人物の伝記研究をしてきたが、その間に多くの先学の御指導を賜った。その経験と反省から、仮名草子作者、如儡子・斎藤親盛の伝記研究の方法を模索してきたのである。
私は、かねがね、伝記資料を次のように区分すべきではないか、と考えている。

 第一資料 過去帳・位牌・墓石
 第二資料 本人の作品・著作・自筆の記録類
 第三資料 公的記録(幕府の史料、藩の史料、市町村の記録、棟札、地図等)
 第四資料 父・子・先祖・子孫・親族・友人・知人等の関連資料
 第五資料 軍記・軍書・物語
 第六資料 その他

このように区分して、出来るだけ、各々を混合せずに活用するように努力してきた。また、伝記資料は、原資料を出来る限り、手を加えず、資料全体を写真や翻刻で定着するように努力してきた。「如儡子(斎藤親盛)調査報告」として公表してきたのは、そのためである。出来得る限り信頼できる資料に基づき、これらの資料に資料批判を加えて、これらに基づいて骨格を組み上げ、その他の資料で肉付けしたいと願っている。しかし、これは、言うは易く、実行するは誠に大変な事で、未だに思うような水準までたどりついてはいない。

■雪朝庵士峯・武心士峯居士

●これは、斎藤親盛・如儡子の号・法名である。如儡子は、酒田筑後町で、川北奉行・斎藤筑後守広盛の嫡男として生まれた。延宝2年(1674)3月8日に没したが、歳は72歳位であったか。父・広盛は、山形藩主・最上家親に仕えた。親盛も幼少から、主君・家親に側近く仕え、元服の時は、主君の名の一字「親」を賜って「親盛」と名乗ったのである。
●従来、言われてきた如く、尾羽打ち枯らした、みすぼらしい浪人ではない。その心底には、57万石の大大名に近侍した武士としての誇りがあったのである。
●雪深い東北の、酒田の地に生まれ、育った親盛。厳しい寒さの朝、雪は深々と積もる。しかし、武士の子として成長した如儡子は、気高い武士の誇りを身につけ、その頂を目指し、生きていた。

【18~20 図版 雪朝庵士峯・武心士峯・雪朝庵士峯】

■最上57万石、取り潰し

●最上57万石は、お家騒動にかこつけた徳川幕府の取り潰しに合って、1万石に減らされる。大量の浪人が発生した。後に酒井氏が入ったが、広盛・親盛父子は何故か酒井氏に仕えず、浪人の道を選ぶ。私は、奉行時代の処遇に原因があるのではないかと、1つの資料をつかんでいる。しかし、ここから、如儡子の苦しい浪人生活が始まったのである。

■酒田・筑後町

●酒田の古地図を見ると、現在の相生町と幸町の辺りに筑後町がある。この町名は筑後守に縁がある。如儡子は若い頃、諸国を修行して歩き、書写するところの典籍は数百巻に及んだと言われる。また、母方の叔父は羽黒山の警備を担当する掛の責任者でもあった。幼い清三郎(親盛の幼名)の教育には、奉行の父よりも、母の影響が大きかったのではないかとも推測され、おそらく、羽黒山の蔵書も閲覧のチャンスがあったものと思われる。
●如儡子は、成人するまでは、歴とした武家の子として酒田の地に過ごし、学問もきちんと身に付けていたのである。決して聞きかじりの、耳学問ではなかった。

 【21 図版 昭和酒田市街図】

■父・斎藤筑後守

●如儡子の父・斎藤筑後守広盛は越後の出身。祖父・光盛と共に出羽庄内に移り、最上氏に仕えた。義光・家親・義俊の三代に仕え、川北奉行をつとめた。酒田・遊佐・飽海地方には、斎藤筑後の年貢皆済状がかなり多く伝存している。私はこれらを出来得る限り写真に収めて報告した。また、神社などの棟札も貴重な記録である。これも、全て元の形で報告した。これらには、慶長頃の年月日と場所が明瞭に記されている。中には、斎藤筑後守の自筆と推測される文書も閲覧する事ができた。如儡子の父は、この日、この地に居た、という証拠である。如儡子は、その広盛の子である。これが、伝記を執筆する時、いかに多くの事を我々に教えてくれることか。

■本貫・越後の調査

●如儡子の祖父・光盛は越後の出であった。戦国の世に、故あって出羽に移った。藤島城代を任ぜられてもいるので、越後でもそれなりの武将であったものと推測される。おそらく、一族郎党を引き連れて、鼠ケ関の難所をこえたものと思われる。新発田あたりかと、見当をつけて調べたり、集落全て「斎藤」姓の所にも行って、調べてみたが、現在のところ確たる出身地に出会っていない。

8、酒田の調査(如儡子出生の地)

■酒田・鶴岡の調査

●如儡子は酒田の筑後町で、酒田城代・斎藤筑後守広盛の嫡男として、慶長8年(1603)の頃生まれた。父・広盛は川北奉行を務めてもいるので、最上川以北の地、飽海・八幡・吹浦・遊佐……は調査すべきである。年貢皆済状の所有者、棟札の所在を確認して、バス路線をチェックして、酒田へ行った。
●酒田へ着くと、市で車を出して下さった。酒田市に関連する作者の調査に協力しましょう、という。涙が出そうな配慮である。この折は酒田の研究者・田村寛三先生の御教示があった。
●酒田は昭和51年大火災に見舞われ、貴重な歴史上の資料の多くは焼失してしまった。しかし、近隣に伝存する諸資料は徐々に収集され、酒田市立図書館や市立資料館、本間美術館等々に保存されている。これらの諸資料を調査させて頂いた。しかし、私の基準では、まだまだ、十分とは思っていない。調査は、これからも続く。

■雪の酒田

●酒田・鶴岡・藤島・羽黒、と何度も何度も調査に伺っている。ただ、私としては、大学の夏季休暇を利用しての出張調査であるため、当然、8月・9月が大部分であった。これでは、十分とは言えない。
●色川大吉氏は、その名著『歴史の方法』で、旅行者の目、滞在者の目、定住者の目、という事を指摘しておられる。外来者の目では、外形的把握になる事が多い、とも述べておられる。
●雪深い酒田の地で生まれ、成長した如儡子を知るために、夏の暑い盛りにのみ、調査していては、作者の思いを実感し得ないだろう。しかし、雪の降る時期は大学も卒業行事、入試行事等で、なかなか時間が取れない。忸怩たるものがあったが、平成12年2月23日、ようやく夢が実現した。
●酒田光丘文庫の調査に伺った。勿論、この文庫には、既に何度もお世話になっていたが、この時期は初めてである。閲覧室で調査している時は、掛の方が暖房を入れて下さり、至れり尽くせりである。途中、トイレに立った。流石に、この時期の外気は身にしみる。数日前に降った雪が、屋根や木々の梢には残っている。初めて、如儡子の味わった自然の厳しさに接した思いがして、嬉しかった。さらに、作者に少し近づけたと感じた。その日は駅前の東急インに泊り、翌朝、目がさめると、何と外には雪が降っていた。いそいそと文庫に向かい、文庫の先生と、雪と如儡子の事を話して喜びを伝えた。自然現象も地球温暖化のため、変わってはいるだろうが、それでも、この厳寒の酒田に立って、作者の幼年少年時代を思いやった。

■羽黒山の調査

●平成4年9月、斎藤豪盛 (輝利)氏・斎藤弘雄氏・庄司浩士氏等と赤湯で落ち合い、長井市で全員合流、後は車で鶴岡まで走り、羽黒町手向の羽黒山門前の小林坊に5日間宿泊、ここを拠点に羽黒山一帯の調査をした。
●宿坊の朝は、祈祷から始まる。宿泊客全員が本堂に集合して、坊の主、三山神社祝部・小林庸高氏の主導で祈る。毎朝、祈祷の中に、本日の深沢秋男の調査に実りをもたらし給え、と織り込んで下さり、一層、気を引き締めて調査する毎日であった。
●小林庸高氏の御配慮で、最長老にもお会いする事が出来、調査は順調に進んだ。ただし、羽黒山は、明治維新の神仏分離のあおりを受けて、山内にあった300とも言われる寺々はことごとく破棄され、石碑が至る所に転がっていた。焚書坑儒を思い起こし、誠に文化の破壊が残念であった。
●羽黒山の資料は、ごくわずか残存し、多くは、寺の移転と共に、四散した。それらの資料を調査しなければならない。

■戸川安章氏との出会い

●羽黒山の研究では、戸川安章氏の右に出る者は、まず無い、と言ってよいだろう。『羽黒山伏と民間信仰』『修験道と民族』などの名著があり、一部の著作は国会図書館では貴重書になっている。戦前の研究者であろう、と私は決めていた。
●平成4年9月4日、酒田調査の折、鶴岡市立図書館で調査中、司書の秋保良氏に尋ねると、戸川安章氏は鶴岡市内に御健在で執筆活動をしておられるとのこと。私は驚愕と感動で、しばらく頭の整理がつかなかった。暫くして、突然のことで、大変失礼だとは思ったが、御著書の中の羽黒山の記述の根拠についてお教え頂きたく、お電話させて頂いた。
●当時、戸川氏は山形新聞の論説委員をしておられ、現在、急ぎの原稿執筆中で、大多忙ゆえ会う余裕はない、と断られてしまった。明日はいかがでしょうか? 明日もだめです。では、明後日はいかがでしょうか? いや、無理です。5日間までお待ち致します。先生は、とうとう、では、今から来て下さい、と許可して下さった。早速、住所を調べて伺った。同行の斎藤弘雄氏が手土産を用意してくれた。

■戸川安章氏の御研究と羽黒山関係資料

●戸川家に伺うと、書斎で原稿執筆中の氏は、ペンを置いて、応対して下さった。私の希望する資料は、膨大な資料の書庫にあり、今、すぐには出せない、とのこと。それにしても、戸川氏の所蔵する、羽黒山関連の資料は実に貴重である。
●資料の集成に関して、お尋ねすると、地元の出版社が出すと言うので、前の方の原稿を書き、ゲラも出たが頓挫した、と申される。私は、この貴重な資料は何としても出版して、後世に伝えなければならない、と申し上げ、東京の出版社に企画を出す事を提案し、戸川先生も、これをお許し下さった。
●膨大な資料ゆえ、出版も簡単とは思えなかった。斎藤氏とも相談して、山形県の補助も検討することにして、5日間の調査を終え帰宅した。早速、全巻の構成などを検討して、知り合いの出版社に交渉する準備を進めた。3日後、戸川氏から速達が届き、この度の計画は中止して欲しい、地元の出版社で進めたい、という事になったとのこと。私としては、どの出版社でも、資料が集成されて後世に伝えられれば、それで良い訳である。その後の状況がどうなったか、確認はしていない。

9、二本松の調査(如儡子終焉の地)

■菩提寺・松岡寺(二本松)

●如儡子・斎藤親盛は、福島の二本松の松岡寺に眠っている。昭和63年8月、この菩提寺で斎藤家の御子孫の斎藤豪盛 (輝利)氏と初めてお会いした。斎藤氏と友人の渋谷信雄氏の3人で、二本松→米沢→長井→山形→寒河江→鶴岡→酒田、と白のセルシオで日本列島を横断、出羽三山の山脈を走破した。斎藤氏は長井市で金型の会社を経営していて、先祖が酒田の奉行であった事を誇りとしておられる。その奉行の子の親盛を研究している私に、大変な協力をして下さっている。斎藤氏は白のセルシオを、武将・広盛のまたがる白馬に見立てておられる。

 【22・23 写真、松岡寺・斎藤家の献灯】

■松岡寺の過去帳

●如儡子は、酒田に生まれ、18歳頃までは奉行の子として成長したが、この青年期に主君最上家が取り潰しに会い、浪人となる。一時、祖父の出身地の越後に行くが、やがて江戸へ出て、苦しい生活を続けた。晩年、子の秋盛が二本松の丹羽家に召抱えられ、一家は二本松へ移住する。
●従って、如儡子の伝記の根本は、酒田・鶴岡・藤島等の山形と、晩年の15年間程を過ごし、没して葬られた、松岡寺のある福島の二本松にある。
●松岡寺には、第二世湛宗祖海禅師の編した『松岡寺過去帳』が現存する。誠に貴重な存在である。如儡子の項には、次の如く記されている。

「八日/武心士峯居士/延宝二甲寅三月/俗名斎藤以伝」

形式は、やはり祀堂帳形式である。松岡寺には、この他に、第四世震宗水編のものと、満願寺第十六世大隈正光氏編の3点があり、現在は、松岡寺は平素無住で、福島市満願寺の大隈正光氏が保管されている。

 【24 写真、過去帳、斎藤以伝の部分】
 【25・26 写真、位牌、全体と斎藤以伝の部分】

■松岡寺の斎藤家墓所(第一次改葬)

●松岡寺の墓所は、本堂に向かって左手にある。墓地へ登って行くと、入ってすぐ右手に花沢家のお墓があり、その奥に斎藤家の墓地がある。お墓に向かって右手に観音堂があり、左隣には、手前に高橋家、その奥に阿部家の墓がある。つまり、斎藤家は二軒分に近い、広い墓地である。何故、このように広いのであろうか。
●斎藤家の墓地は、昭和44年、第12代・源覇(興盛)が没した時、先祖代々の墓石44基を整理して改葬したという。その時、44基の墓石は白布に包み、墓の中に埋めたと、現在の当主・豪盛 (輝利)氏は仰る。如儡子の伝記を研究する私は、その埋められた墓石を是非とも見て調査したいと切望した。間口は、4m55cm、奥行きは8m22cmである。墓石はどのように埋められているのであろうか。

 【27・28 写真、最初の墓所、第一次改葬後の墓】

■墓石の位置の疑問点

●斎藤家の墓石は、第一次改葬以前は44基あり、当然のことながら、墓石は周囲に並んでいた。しかし、墓所の左右中央で、奥行きは中央よりやや奥に、一段と大きな墓石があり、これが最も古いもので、斎藤家では、「お姫様のお墓」と言い伝えてきたとの事である。現在の当主・豪盛(輝利)氏は、これが如儡子の母(東禅寺氏)の墓ではないかと推測しておられる。
●それにしても、お墓の中央で、やや奥に建てられている、この墓石の位置は、いかにも不自然である。推測するに、斎藤家の墓は、最初の奥行きはこの母の墓石の所までであり、その後、その奥の山を切り拓いて拡張したため、母の墓石がこの位置に残されたのではないか、と思われる。
●おそらく、二本松に移住した如儡子は、妻あるいは娘の他界に直面し、創建間もない松岡寺を菩提寺に定め、すでに江戸在住中に他界していた、母を供養し、大きな自然石の墓石を、左右中央の一番奥に建てたのではないかと思われる。

 【29・30 図版、墓所略図、墓所推測図】

■墓所の大改葬(第二次)

●平成4年、斎藤豪盛氏から、墓所を全面的に掘り起こすので、立ち会ってもらいたい、という連絡をもらった。私は涙が出るほど感激した。3月27日、長井市から大勢の人が来て、墓所の全面的な発掘作業が開始された。私も同じホテルに泊まって立ち会い、逐一写真に記録した。改葬は5月10日にほぼ完了した。
●発掘されたお骨は、新しい骨壷に納め本堂に安置して供養した。墓石は、全て水で洗い清め、石の種類別に分類して調査したが、軟質の墓石は表面が削りとられ、硬質の墓石は細かく破砕されていた。残された刻字から推測できたのは、3名に過ぎなかった。墓石全体を見ても、44基を埋葬したとはとても思えない。昭和44年に改葬した業者に連絡しても、来てはくれなかった。昭和44年の改葬の時、私も立ち会っていたら、こんな結果にはならなかったであろう。悔やまれてならない。
●先祖代々の骨壷は本堂で供養され、墓石は洗い清められ、斎藤家一族の方々の写した写経と共に、再び墓域内に埋葬された。
●私は一部始終の作業に立会い、記録し写真を撮った。密かに、墓石の破片の一つをもらい、如儡子の伝記研究をしている机の上に置きたい、と思った。しかし、それは、伝記研究を志す者の態度としては不遜であると反省し、思い止まった。

 【31・32・33 写真、墓所第二次改葬の様子 3枚】

■改葬完了と法要

●平成4年の墓所改葬は7月30日、松岡寺住職、満願寺第十六世・大隈正光氏を招いて大法要が行われた。
●完成した墓所は、正面奥に大きな供養塔があり、その右に先祖代々の墓石、左には小さな供養塔と、12代・源覇(興盛)の墓石がある。また、向かって左側には、奥に「墓誌」があり、初代・斎藤玄蕃助藤原光盛之霊位から12代・長光院本源道徹居士までの各代々の法名・没日等が刻されている。その手前には、2枚の大きな江持石に「斎藤家伝略」と「それからの斎藤家」が刻まれている。

 【34 写真、墓所第二次改葬後の墓所】

■「斎藤家略伝」「それからの斎藤家」

●松岡寺の斎藤家の墓所は、前述の如く、昭和44年と、平成4年の2回改葬されている。第2回目の時、斎藤家墓誌が建てられた。須賀川産出の江持石に刻まれている。撰文は、13代当主・豪盛 (輝利)氏によるものである。

■ 「斎藤家略伝」

「斎藤家伝略
平成四年七月山形県長井市ままの上一四八四に十三代輝利在し、墓地改装する。京都大学野間光辰氏及び昭和女子大深沢秋男氏/の調査により先祖の活躍が明らかにされた。先祖の供養と御活躍を子孫に伝えるべくこの碑を造った。家伝によれば我が家は斎藤別当実盛公/の子孫で平重盛公と大変仲が良かったと言う。奈良原春作氏作斎藤別当実盛伝「さきたま出版会」の中で、前九年の役で阿部頼時が反乱した/際に祖先の実遠公が源頼義公八幡太郎義家公親子に従臣して活躍した文章がある。奥羽平定の際食糧を確保する為、山形県長井市の河/井地区に三年在して食糧を溜めて戦勝に導いたという。現在その長井に住しているのは、祖先の遺徳か。その後康平五年(一〇六二年)実遠公以/来武蔵長井庄に住するのである。当家は源平の乱に父と共に戦に破れ負傷して越後に落ちのびた実盛公の長男の子孫と伝えられている。
  出羽国、庄内地方での祖先
遠祖玄蕃助光盛は越後の国より二十六騎を従えて庄内に来たと言う。大宝寺義氏の縁者を娶って藤島の城をまかされていたのだろう。/しかし、光盛は年三十三才で戦死している。その子盛広は前森筑前守東禅寺右馬助勝正兄弟一族に育てられている。おそらく年令的にも近く兄/弟の付き合いをしていたと察せられる。前森筑前守は羽黒山の別当だったという。東禅寺正勝は大山「鶴岡」城主でその二人に妹がいた。その妹が盛広の/妻であり親盛の母である。詳細は二本松藩で編集した「世臣伝」の巻八下に記してあり野間光辰氏深沢秋男氏の研究で明らかにされている。庄内時代/盛広は最上家に仕え、亀ケ崎城の城代家老を務めた。慶長年間(一五六一年)頃である。現在の酒田の上日枝神社は城内に祭ってあったという。その縁で現在の酒田祭の毎年五月二十日には招待され、当家も斎藤家の守り神として深く信仰している。尚、酒田の町に筑後町として残っているが、祖先が住んだ屋敷跡を呼んだという。
  斎藤家と東禅寺家
後年親盛が儒教、仏教、老子の三教を解説した本が、「百八町記」である。母は親盛に教育熱心だった。伯父の羽黒山別当前森筑前守により/神、仏にいたる資料が身近にあり、又、母が体得した教養が親盛に流れている。天正十六年((マ マ)一五八九年)最上家に属した前森筑前守、東/禅寺右馬頭勝正兄弟とその一門は今の鶴岡にある十五里原合戦で、上杉勢と戦って戦死した大山の古戦場には戦死せし人千八百余柱/とある。血筋が続いているのは我が一族だけである。大山の古戦場を東禅寺塚と名付けて祖先、盟友の供養を代々せねばならない。
  二本松の祖先
親盛が二本松に来たのはその子秋盛が丹羽家に仕えたからである。その子富盛は傑出して禄増され二百石、二本松時代の礎を築いた。/その後、代々御用人、郡山代官、金銀払出奉行等の要職を務め、明治維新後は三春に移り住んだ。長井に移住するまでの本籍は三春町/荒町十番となっていた。毎年初午に当家でお祭りしている初午祭は、二本松時代、祖先が夢に竹駒神社のお使いが、伏見稲荷の帰り産気づき/姉の方を置いて行くので祀って呉れとのお告げを受け、河原に行くとその通りだったので、屋敷(現在の安達高校の裏の竹林)に飼っていたが、い/つの間にか居なくなったと言う。その後代々初午祭をしている。」

 【35 写真、墓誌① 斎藤家略伝】

■「それからの斎藤家」

「父源覇(十二代)、東京に住む。戦後の混乱を避けて、当時五反田に在った金型製造の大崎製作所の長井工場に工場長として赴/任して定住した。その後工場は閉鎖され家族は長井に残り苦労の末に南陽市の川崎電気の外注となり本業に戻る。
昭和三十八年、長井市本町の黒沢和助氏の援助で、ままの上に金型工場を作り、昭和四十四年病にて没した。その子輝利、父の意志を/継ぎ、黒沢和助氏の長子和男氏の協力を得て、成田工場を開設現在に至った。
輝利、父源覇亡き後、妻と共に母みさを中心に家族の団結を計る。次弟の弘雄は家業を手伝い、三弟の惣逸は須賀川に/て同商売のフジ精工を起し、妹敬子は南陽市の竹田家に嫁ぎ、末妹恵美子は長井市の工藤家に嫁ぐ。本来三男になるべく/生まれた俊洋は三才で夭折し、長女に生まれた千代子は生後間もなく世を辞した。世の常ならざることを知りつつもむべなるかな。
二本松の墓地は昭和四十五年に最初の工事を完了したが、その後縁あって須賀川に移り住んだ弟惣逸の紹介で庄司浩士師のご指導/を仰ぎ今回の完成をみるに至った。また、完成に当っては、石は須賀川東部の江持石をふんだんに使用することが出来、墓石の製造建/立には叔父高橋清氏が誠心誠意当ってくださるなど、縁ある方々の温い後援を頂戴いたし、心よりの供養が出来ることを感謝するも/のである。

  斎藤家にまつわる出版物
奥羽軍記ー山形県史 庄内時代
斎藤別当実盛伝 さきたま出版会 奈良原春作氏
世臣伝 二本松図書館
二本松寺院物語 平島郡三郎著
可笑記大成 田中伸 深沢秋男 小川武彦 笠間書院 昭和四十九
 年四月発行
如儡子系伝攷 野間光辰 文学 岩波書店 上中 昭和五十三年八
 月 同十二月発行
如儡子(斎藤親盛)調査報告 深沢秋男 文学研究 第六十七号 昭
 和六十三年六月
続酒田ききあるき 田村寛三著」

 【36 写真、墓誌② それからの斎藤家】

■三百年大法要

●松岡寺開山・太嶽祖清禅師は、元禄7年の没で、その三百年遠忌が平成5年6月6日、県内外の僧侶38名を拝請し、檀家の人々も多数参列して執り行われた。斎藤家の当主豪盛氏ご夫妻と共に私も招待されて参列させて頂いた。
●また、この折、二本松歴史研究会の要請で、斎藤親盛・如儡子について講演をした。会場には50名以上の方々が集まり、熱心に質問もして下さった。

【37 写真、松岡寺三百年大法要に拝請された僧侶】
 
■二本松歴史研究会

●二本松には歴史研究会があり、古地図の復元や貴重な資料を入手できたり、漆間瑞雄氏、紺野庫治氏をはじめ、多くの方々のアドバイスを頂いた。丹羽藩主に関しては『世臣伝』という貴重な史料があり、大鐘義鳴の労作『相生集』が斎藤家及び如儡子に関して重要な事を教えてくれた。漆間瑞雄氏の研究など、地方史研究の成果は、謙虚に活用させて頂く必要がある。
●大鐘義鳴は、『可笑記』の写本(おそらく如儡子の自筆本であろう)を閲覧しているらしい。斎藤家12代興盛(源覇)は、斎藤家に代々伝えられていた関連資料を二本松のある方に預けた、とも伝えられている。これらの資料が、今後出てくる可能性は、決して低いものではない。このような、状況では、伝記は書けないだろう。

■『二本松藩新規召抱帳』『二本松寺院物語』

●『二本松藩新規召抱帳』は、郷土史家・紺野庫治氏所蔵の貴重なものである。これによって、如儡子が江戸から二本松へ移住した年が確定できる。他の二次史料では誤りを生じている。資料批判なしに記録を使うと、誤りの伝記を後世に伝えてしまうだろう。
●伝記研究には、お墓が大変に役立つ。その点、平島郡三郎氏の名著『二本松寺院物語』は実に有難い研究である。後学の我々は、その労苦に感謝せずに使用することは許されない。

 ▲時間もありませんので、以下、資料の簡単な御説明を申し上げます。
  №8 『可笑記』の寛永十九年版十一行本、無刊記本、万治二年版絵入本、
    の各巻頭・巻末です。
  №9 二本松、斎藤家菩提寺の松岡寺。墓地の略図。斎藤家奉納の献灯な
    どです。
  №10 松岡寺の過去帳。①第二世湛宗祖海編(元禄13年)。②第四世震宗
    水編(元文5年)。③満願寺第十六世大隈正光氏編(昭和55年) です。
  №11 斎藤家の墓所。①改葬以前の墓所。②昭和44年、第一次改葬後
    の墓所 です。
  №12~№15 平成4年3月~7月、第二次改葬を行ないました。その折
    の様子です。墓石は全て洗って、石の種類別に分類し、判読できるも
    のを整理した。斎藤家の墓石から得られる情報は、これが限界であっ
    た。
  №16 第二次改葬後の斎藤家の墓所です。
 
■おわりに(今後の課題と計画)

●藤島・鶴岡の調査
●佐倉の調査
●二本松、漆間家の調査
●江戸在住の頃の如儡子(作品から)
●『如儡子・斎藤親盛の研究』の出版

 ▲差し上げた資料が多過ぎて、説明が駆け足になってしまいました。分かりづらい内容で誠に申し訳ありませんでした。定年後は、この研究の仕上げに取り組みたいと思います。これで、本日の私のお話を終りに致します。
皆様方には、御多忙のところ、わざわざ、お出で下さり、誠に有難うございます。心から御礼申し上げます。

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 当日の夜、東京大学名誉教授のSR先生からメールが届いた。

 「……それから、先生の最終講義を聴いて、KTさんがいち早く感想をくれましたので、貼り付けてみます。

先ほど深沢先生の最終講義がおわりました。30人以上の聴衆で、資料が足りなくなったほどでした。深沢先生のご研究は本当に素晴らしいと改めて感銘を受けました。SR先生のような優れた研究者しか深沢先生のようなダイヤモンドのような輝きは評価できないと思います。本当に感動的な最終講義でした。」

KTさんは、研究助手であった。また、KTさんは後日、次のような歌を贈ってくれた。
  日を重ね月を重ねて二十四年君が業績(いさをし)今ぞ花咲く
  妻と子を愛するごとく教へ子を導き給ふわが師薫れり
  厳しさの棘気づくまで許されし甘えの上にわが道の在り

私にとって、分に過ぎた教え子である。

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追加参考資料

① 仮名草子関係研究

【編著書】
【1】可笑記評判 昭和45年12月25日、近世初期文芸研究会発行、非売品。東京大学図書館蔵本を底本として翻刻したもの。
【2】浮世ばなし 付・明心宝鑑 昭和47年8月20日、勉誠社発行。(近世文学書誌研究会編、近世文学資料類従・仮名草子編・12)。『浮世ばなし』(横山重氏蔵本)・『明心宝鑑』(長澤規矩也氏蔵本)を写真複製して収録し、解説を付したもの。
【3】可笑記大成――影印・校異・研究―― 昭和49年4月30日、笠間書院発行。(田中伸・深沢秋男・小川武彦 編著)。第一編 本文・校異、第二編 万治二年版挿絵について、第三編 『可笑記』の研究。文部省助成出版。
【4】江戸雀 昭和50年11月23日、勉誠社発行。(横山重監修、近世文学書誌研究会編、近世文学資料類従・古板地誌編・9)『江戸雀』の初印本(横山重氏蔵本)を写真複製して収録し、解説を付したもの。
【5】可笑記評判(上) 昭和52年1月25日、勉誠社発行。(近世文学書誌研究会編、近世文学資料類従・仮名草子編・21)『可笑記評判』(名古屋大学図書館蔵本)巻一~巻三を写真複製して収録。
【6】可笑記評判(中) 昭和52年2月25日、勉誠社発行。(近世文学書誌研究会編、近世文学資料類従・仮名草子編・22)『可笑記評判』(名古屋大学図書館蔵本)巻四~巻七を写真複製して収録。
【7】可笑記評判(下) 昭和52年3月25日、勉誠社発行。(近世文学書誌研究会編、近世文学資料類従・仮名草子編・23)『可笑記評判』(名古屋大学図書館蔵本)巻八~巻十を写真複製して収録し、解説を付したもの。
【8】仮名草子集成・10巻  平成元年9月30日、東京堂出版発行。(朝倉治彦・深沢秋男 編)『をむなかゝみ』『女五経』『をんな仁義物語』『女みだれかミけうくん物語』『有馬山名所記』の本文を翻刻収録し,解説と参考写真を付したもの。
【9】仮名草子集成・11巻  平成2年8月25日、東京堂出版発行。(朝倉治彦・深沢秋男 編)『芦分船』『大坂物語』(古活字版第二種、菊池真一校訂解題)『大坂物語』(写本、青木晃校訂解題)『女式目 并 儒仏物語』『女式目』の本文を翻刻収録し,解説と参考写真を付したもの。
【10】仮名草子集成・12巻  平成3年9月25日、東京堂出版発行。(朝倉治彦・深沢秋男 編)『怪談全書』『恠談』(写本・片仮名本)『恠談』(写本・平仮名本)『怪談録』『幽霊之事』の本文を翻刻収録し,解説と参考写真を付したもの。
【11】仮名草子集成・13巻  平成4年8月20日、東京堂出版発行。(朝倉治彦・深沢秋男 編)『海上物語』『戒殺放生物語』『怪談録前集』『奇異怪談抄』の本文を翻刻収録し、解説と参考写真を付したもの。
【12】仮名草子集成・14巻  平成5年11月20日、東京堂出版発行。(朝倉治彦・深沢秋男 編)『鑑草』『可笑記』『戒殺放生文』(影印)の本文を翻刻収録し、解説と参考写真を付したもの。小川武彦氏「浅井了意『戒殺物語・放生物語』と袾宏『戒殺放生文』」を収める。
【13】仮名草子集成・15巻  平成6年12月10日、東京堂出版発行。(朝倉治彦・深沢秋男 編)『可笑記評判』(巻1~巻7)の本文を翻刻収録。
【14】仮名草子集成・16巻  平成7年9月5日、東京堂出版発行。(朝倉治彦・深沢秋男 編)『可笑記評判』(巻8~巻10)の本文を翻刻収録し、解説と参考写真を付したもの。
【15】仮名草子集成・17巻  平成8年3月20日、東京堂出版発行。(朝倉治彦・深沢秋男 編)『花山物語』『堅田物語』『仮名列女伝』の本文を翻刻収録し、解説と参考写真を付したもの。
【16】仮名草子集成・18巻  平成8年9月20日、東京堂出版発行。(朝倉治彦・深沢秋男 編)『かさぬ草紙』『枯杭集』『かなめいし』『鎌倉物語』の本文を翻刻収録し、解説と参考写真を付したもの。
【17】仮名草子集成・19巻  平成9年3月20日、東京堂出版発行(朝倉治彦・深沢秋男 編)『葛城物語』『河内鑑名所記』『堪忍弁義抄』の本文を翻刻収録し、解説と参考写真を付したもの。
【18】仮名草子集成・20巻  平成9年8月30日、東京堂出版発行。(朝倉治彦・深沢秋男 編)『勧孝記』『堪忍記』の本文を翻刻収録し、解説と参考写真を付したもの。
【19】仮名草子集成・21巻  平成10年3月20日、東京堂出版発行。(朝倉治彦・深沢秋男 編)『仮枕』『奇異雑談』(写本)『奇異雑談集』(刊本)の本文を翻刻収録し、解説と参考写真を付したもの。
【20】仮名草子集成・22巻  平成10年6月25日、東京堂出版発行。(朝倉治彦・深沢秋男・柳沢昌紀 編)『祇園物語』『京童』『京童跡追』『清水物語』(各版本)の本文を翻刻収録し、解説と参考写真を付したもの。
【21】仮名草子研究文献目録 平成16年12月1日、和泉書院発行。(菊池真一・深沢秋男 編)
【22】仮名草子研究叢書・1巻~8巻 平成18年2月25日、クレス出版発行。(菊池真一・深沢秋男 編)
【23】仮名草子集成・41巻  平成19年2月28日、東京堂出版発行。(花田富二夫・入口敦志・菊池真一・中島次郎・深沢秋男 編)『新語園』『十二関』『衆道物語』『親鸞上人記』の本文を翻刻収録し、解説と参考写真を付したもの。
【24】仮名草子集成・42巻  平成19年7月25日、東京堂出版発行。(深沢秋男・伊藤慎吾・入口敦志・花田富二夫 編)『四しやうのうた合』『四十二のみめあらそひ』『水鳥記(寛文七年版)』『水鳥記(松会版)』『杉楊枝』の本文を翻刻収録し、解説と参考写真を付したもの。
【25】浅井了意全集・仮名草子編・1巻 平成19年8月、岩田書院発行。(岡雅彦・小川武彦・湯浅佳子・深沢秋男 編)『堪忍記』『孝行物語』『浮世物語』『浮世ばなし』の本文を翻刻収録し、解説と参考写真を付したもの。
【26】斎藤親盛(如儡子)伝記資料 平成22年10月25日、近世初期文芸研究会発行、非売品。
【27】浅井了意全集・仮名草子編・3巻 平成23年5月、岩田書院発行。(花田富二夫・土屋順子・深沢秋男 編)『可笑記評判』の本文を翻刻収録し、解説と参考写真を付したもの。
【28】仮名草子集成・47巻  平成23年6月30日、東京堂出版発行。(深沢秋男・伊藤慎吾・入口敦志・花田富二夫・安原真琴・和田恭幸 編)『醍醐随筆』『大仏物語』『沢庵和尚鎌倉記』『糺物語』『たにのむもれ木』『竹斎東下(写本)』の本文を翻刻収録し、解説と参考写真を付したもの。
【29】如儡子百人一首注釈の研究 平成24年3月20日、和泉書院発行。
【30】仮名草子集成・49巻  平成25年3月30日、東京堂出版発行。(深沢秋男・伊藤慎吾・入口敦志・中島次郎 柳沢昌紀 編)『智恵鑑(承前)』『竹斎(寛永整版本)』寛文版『竹斎』全挿絵『竹斎(奈良絵本)』『長斎記(写本)』『長者教(古活字版)』『長生のみかど物語』の本文を翻刻収録し、解説と参考写真を付したもの。

② 齋藤筑後守記念碑

 平成23年10月23日、山形県酒田市の上日枝神社境内に「齋藤筑後守記念碑」が建立された。             

 「齋藤筑後守記念碑」碑文
「齋藤筑後守記念碑
 近世初期の戦乱の時代、越後(新潟)から出羽(山形)庄内に移住して活躍した齋藤一族があった。初代光盛、二代広盛、三代親盛と庄内・酒田を中心に活躍した。
 齋藤家初代光盛  越後の出身。出羽の国に移り、庄内の守護、武藤義氏に仕える。天正元年(一五七三)以後、藤島城代となり、多くの戦功をあげた。天正十年頃に三十二歳で没する。
 二代広盛  又十郎、助左衛門、筑後守。最上義光の武将で、亀ケ崎城代の志村光安・光惟父子に仕え、三奉行の一人として活躍した。光惟が没した後、川北代官として志村氏の領地である川北地方の行政にあたった。齋藤助左衛門、齋藤筑後守の名で、年貢皆済状、棟札が多く伝えられている。酒田の筑後町は、齋藤筑後守の屋敷があった場所であるとも伝えられている。妻は東禅寺筑前守の弟、東禅寺右馬守の娘であると思われる。最上家は、元和三年(一六一七)に最上家親が急死し、家中の内紛もあって、同八年に最上五十七万石は近江一万石に転封となる。この時、広盛は最上家を辞して酒田を去る。長年住み慣れた筑後町を後に、妻子を連れて、鼠ケ関を越えて越後へ向かったものと推測される。しかし、広盛は、にわかに病んで、五十五年の生涯を閉じた。
 三代親盛  仮名草子作者。清三郎、号は以伝、筆名・如儡子、法名・武心士峯居士。慶長八年(一六〇三)頃、酒田筑後町にて、広盛の長男として生まれる。幼少から最上家親に側近く仕え、主君から「親」の一字を賜り、「親盛」の名を許された。元和八年、最上家の改易と同時に、父広盛に従って主家を辞し、先祖の出身地・越後に赴くが、やがて江戸へ出て仮名草子作品などの執筆に励んだ。著作に『可笑記』(仮名草子)・『砕玉鈔』(百人一首注釈書)・『堪忍記』(諸大名の批評書)・『百八町記』(三教一致を説いたもの)などがあり、晩年、二本松で詠んだ俳諧も多く残されている。延宝二年(一六七四)三月八日没、享年七十二歳。二本松の松岡寺に葬られた。
 その後の齋藤家  四代秋盛が二本松藩主丹羽光重に召抱えられたため、万治三年(一六六〇)、一家は江戸から福島の二本松に移住した。以後、五代富盛、六代常盛、七代親盛、八代邦盛、九代英盛、十代徳盛と、代々二本松藩に仕えた。齋藤家の子孫は、第十三代豪盛氏、第十四代康盛氏まで絶える事なく続き、現在、齋藤家は山形県長井市に居住し、墓所は、二本松の松岡寺にある。

    平成二十三年十月吉日
          昭和女子大学名誉教授  深沢秋男 撰文
          昭和女子大学講師    承 春先 謹書
          齋藤家 第十三代   齋藤豪盛 建立」

【38 写真、斎藤筑後守記念碑】

③ 斎藤家墓誌 追加

 二本松、松岡寺の斎藤家墓所の墓誌「それからの斎藤家」の裏面に、平成二十7年6月、次の文章が追加された。文章は、斎藤家第13代斎藤豪盛氏、清書は、昭和女子大学講師、承 春先先生である。

「平成二十三年十月二十三日に 酒田市 上日枝神社神領地に 齋
 藤筑後守記念碑 を建立した。
 撰文は昭和女子大学名誉教授 深沢秋男先生 謹書は昭和女子大
 学講師 承春先 先生 従兄弟の高橋宗明氏が制作、工事に心を
 込めて当たって下さった。
平成二十四年三月 三代親盛注釈の 百人一首注釈の研究書を深沢
 先生が刊行した。
平成二十四年五月十七日 湯沢の佐藤商事より祖霊舎を購入した。
平成二十四年五月十八日 須賀川の妙林寺より齋藤一葉墓を松岡寺
 に移転し供養した。
 最初の墓地改葬に伴い墓石を確認したのは昭和四十四年の事。右
 奥に邦盛と華盛の墓石が並んで建っていた。華盛は系図に無く疑
 問に思っていた。
 漆間氏が制作して下さった位牌に一葉氏は須賀川で没との記録が
 あり、長年探していたが場所が分からなかった。満願寺に過去帳
 の調査に行き、第十六世大隈正光様から、松岡寺には明治まで齋
 藤姓は当家以外に無かったと知らされ、七代親盛の長男が華盛で
 あると知った。以下一葉と娘のタケで絶家した事が分かった。そ
 れらの系譜を須賀川齋藤として下段に供養祭祀した。
 一葉氏の墓石の発見には平成二十三年九月、須賀川市江持石の東
 北石材の社長を通じて取引先の各石材店に探索を依頼した。わず
 か六日目に発見の連絡が来た。
 依頼を受けた須賀川の深谷石材店の社長が共同墓地で作業をして
 いて、夕刻に厠に行く為にお寺に向かっていた際、後から肩を叩
 かれた感じがして後を振り向いた所に一葉墓があった、と知らさ
 れた。妙林寺は大正時代に火事にあい過去帳は焼失しており、見
 付かる要素は全然なく、まさに奇跡である。只一軒、歴史と由緒
 ある分家なので、分家の子孫が須賀川齋藤を再興してくれること
 を願うものである。

伝記の二代 盛廣 は深沢先生が調査検討の結果 廣盛 が正しい。
当家の苗字の字体は 齋藤 が正しい。
                  
        平成二十六年 月吉日  第十三代齋藤豪盛」

 ④ 高校入試に『可笑記』出題される

■ 平成22年度香川県公立高等学校入学者選抜のための学
 力検査に『可笑記』が出題された。
………………………………………………………………………
平成二十二年度 国語問題

問題 1 小説  村山由佳 「約束」
問題 2 古文  如儡子  「可笑記」
問題 3 論説文 渓内謙  「現代史を学ぶ」
問題 4 課題作文
………………………………………………………………………
問題 二 次の文章を読んで、あとの(一)~(五)の問い
     に答えなさい。

昔もろこし漢の文帝の御代に、一日千里をかくる名馬を進上しける時、公卿大臣、めでたき御重宝かなと申しあへりければ、文帝あざ笑ひ給ひて仰せけるは、我此の馬を重宝とは思はず、其の仔細は、我たまたま遊山なぐさみにありく時は、一日にやうやう三十里、また合戦などの時も、多くて五十里に過ぎず。かやうにそろりそろりとありきてこそ、数万の人馬も疲れず、我に続いて忠功をなす。もしまた時によつていそぐ事ありといへども、かねて疲れぬ人馬なれば、我によく続いて忠功をはげます。されば我一人千里をかくる馬に乗りたりとも、数万の人馬、千里をかけずんばあへて益なしとて、主のもとへ返し給ふ。

(注1)もろこし=昔、日本で中国を指して呼んだ名称。
(注2)漢の文帝=漢の第五代皇帝。
(注3)千里をかくる=非常に長い距離を走る。里は距離の
    単位。
(注4)公卿=朝廷に仕える高官。
(注5)仔細=事の詳しい事情。詳細。
(注6)遊山なぐさみにありく=遊びや気晴らしに出歩く。

(一)①に めでたき御重宝かな とあるが、この言葉には
  公卿大臣のどのような気持ちが表れているか。次の1~
  4から最も適当なものを一つ選んで、その番号を書け。
  1 おめでたい宝物になりますようにと祈願する気持ち
  2 すばらしい宝物でございますなあと感嘆する気持ち
  3 役に立つ宝物になるのでしょうかと困惑する気持ち
  4 ぜいたく過ぎる宝物でございますと忠告する気持ち

(二)②に 文帝あざ笑ひ給ひて仰せける とあるが、文帝
  が言った言葉はどこからどこまでか。初めと終わりの三
  字をそれぞれ抜き出して書け。

(三)③に 合戦などの時も、多くて五十里に過ぎず とあ
  るが、これはどういう意味か。それを説明しようとした、
  次の文の □□□□□ 内にあてはまる言葉を、五字以
  内で書け。
   合戦などの時であっても、自分の乗る馬が一日に□□
   □□□は、多くても五十里に過ぎない

(四)④の かやうに は、現代かなづかいでは、どう書く
  か。ひらがなを用いて書きなおせ。

(五)⑤に 主のもとへ返し給ふ とあるが、なぜ文帝は
  名馬を持ち主のもとへ返したのか。次の1~4から最も
  適当なものを一つ選んで、その番号を書け。

  1 非凡な能力を持つ珍しい馬ではあるが、持久力に劣
   るという欠点を持っているため、平凡な馬に比べ使い
   にくいから
 2 この馬は合戦の時には役立つが、平常時にはその能
  力をいかせず、平和なこの時代にはあまり必要のない
  ものだから
 3 自分ひとりが名馬に乗っても、それに家臣たちがつ
  いて来られないのでは意味がなく、価値があるとは言
  えないから
 4 自分だけが名馬を持つと、家臣の中にはそれをねた
  む心を持つ者が生まれ、自分への忠誠心が弱くなって
  しまうから
……………………………………………………………………
● この段は、『可笑記』巻4の30段である。出題にあたって、漢字仮名、送り仮名など、一部改められている。

■ 平成23年度京都府公立高等学校入学者選抜のための
  学力検査に『可笑記』が出題された。

〈各教科の特色と傾向〉の【国語】では、次のようにある。

「1 古文では、近世の文章を題材とし、内容を読み取る力
  をみるとともに、歴史的仮名遣いなどについて問い、古
  典を理解する基礎が身に付いているかどうかをみた。
 〔出典〕 「可笑記(かしょうき)」(「近代日本文学大系 第
  一巻」国民図書株式会社 より)
  如儡子(にょらいし)による、江戸時代初期の仮名草子。
  随筆風の形式をとっている。
  問題文は、人の口を出入りする「よきもの」「いたづら
  もの」と、それらの出入りに際しての態度について述べ
  た文章である。自分自身の言動にも結びつく内容を読み
  取る中で、考えを深め、古典に親しむ態度が養われてい
  くことを期待する。

 2 現代文では、(省略)」
…………………………………………………………………
一 次の文章は、「可笑記」の一節である。注を参考にして
 これを読み、問い⑴~⑸に答えよ。(12点)

  人の口は、一切善悪の出で入りする門戸なり。かるがゆゑによき番衆をすゑおきて、出入りするものどもをあらためらるべし。其のいはれは、いふまじき人のうはさをあざけり、表裏などをいひて身命をあやまつ。是れは口のうちより、外へ出づるいたづらものどもなり。又くふまじき物をくひ、のむまじき物をのみ過して、病を生じ身命をあやまつ、是れは口の外よりうちへ入るいたづらものどもなり。又金言妙句をいひ、詩歌文章のおもしろきを作りなどは、口のうちより外へ出づるよきものどもなり。又もろもろの病にくるしむ時、それぞれの薬をのみて平愈し、あるひはきかつにおよんで、水をのみ食をくらひ本復するなとは、外より口のうちへ入るよきものどもなり。かの番衆と申すは、をのれおのれが心に御座候間、よくよくこの善悪をわきまへ分別して、善をば出入り自由自在に、悪をば、出入りかたくきんぜいすべし。少しも此の番衆ゆだんしては、大事出来すべし。
             (「近代日本文学大系」による)

 注
① かるがゆゑに=だから
② 番衆=番人
③ いはれ=理由
④ 表裏=作りごと
⑤ 身命をあやまつ=身を危険にさらす
⑥ 金言妙句=立派な格言や優れた言葉
⑦ きかつ=飢えと渇き
⑧ 御座候間=ございますので
⑨ きんぜい=禁止

⑴ 本文中の 人の口は、一切善悪の出で入りする門戸なり
 は、「口」を「門戸」にたとえた比喩表現である。このように、
 比喩表現が用いられているものとして最も適当なものを、
 次の(ア)~(エ)から一つを選べ。……答の番号【1】
(ア) 今は昔、竹取の翁といふものありけり
(イ) 雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、い
  とをかし
(ウ) 沖には平家、舟をいちめんに並べて見物す
(エ) 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人
  なり

⑵ 本文中の すゑをきて・いひて は歴史的仮名遣いで書
 かれている。これらをすべて現代仮名遣いに直して、それ
 ぞれ平仮名で書け。…………………………答の番号【2】
⑶ 本文中の 出入りするものどもをあらためらるべし の
 解釈として最も適当なものを、下段の(ア)~(エ)から
 一つ選べ。………………………………………答の番号【3】
(ア) 出入りするものを改善することで新しくなさるのが
  よい
(イ) 出入りするものを吟味して善か悪か見分けなさるの
  がよい
(ウ) 出入りするものの善悪をわかりやすく説明なさるの
  がよい
(エ) 出入りするもののうち悪を善に置き換えなさるのが
  よい

⑷ 次の会話は、本文をもとに行われた、花子さんと太郎さ
 んの話し合いの一部である。これを読み、後の問い㊀・㊁
 に答えよ。
―――――――――――――――――――――――――――
 花子さん 人の口を門やとびらに見立てるという発想は
      おもしろいね。                         
 太郎さん 確かにいろいろなものが口を出入りするから
      ね。口の「番衆」として、「□□□」が果たす役
      割は重要だよ。
 花子さん そう。この「番衆」の役割は、少しの「ゆだん」
      もなく「□□□」をすることだね。
 太郎さん うん。ことわざの「口はわざわいの門」という
      のは、「番衆」が「□□□」を通してしまうこと
      を戒めたものだろう。
 花子さん でも、口に出したことが「わざわい」をもたら
      すばかりではないよ。この前の体育大会の
      「大縄跳び」を思い出してみて。
 太郎さん あのときはみんなが大声で応援してくれて、
      どんどん記録がよくなっていったね。跳んで
      いて楽しかったよ。
 花子さん 跳ぶ回数が増えるにつれて、私も大きな声を
      出して応援していたよ。あの声援は、まさし
      く「□□□」だったと思うな。
―――――――――――――――――――――――――――
㊀□□□・□□□に入る最も適当な語を、本文中から□□□
 は漢字一字で、□□□は漢字二字て、それぞれ抜き出して
 書け。……………………………………………答の番号【4】

㊁本文中の二重傍線部(  )のうち、□□□・□□□に入
 る最も適当なものを、それぞれ次の(ア)~(エ)から一
 つずつ選べ。……………………………………答の番号【5】
(ア) 口のうちより、外へ出づるいたづらものども
(イ) 口の外よりうちへ入るいたづらものども
(ウ) 口のうちより外へ出づるよきものども
(エ) 外より口のうちへ入るよきものども

⑸ 本文に述べられていることとして最も適当なものを、次
 の(ア)~(エ)から一つ選べ。………………答の番号【6】
(ア) 口にするものの善悪をよく判断して、その出入りを
  厳しく取り締まるべきだということ。
(イ) 口には善だけを選んで入れることと悪だけを選んで
  出すことの二つの役割があるということ。
(ウ) 口にするものには善悪ともに含まれているので、適
  度な量の出入りにとどめておくべきだということ。
(エ) 口はすべての善悪を生み出すもとであるから、言葉
  や食べ物には気をつけなければならないということ。
…………………………………………………………………
● 出題されたのは、『可笑記』巻二の二十六段である。近世
 初期の仮名草子作品は、仮名遣いなど、混乱しているが、
 その点は、問題作成の時に修正されている。

 ⑤ 昭和女子大学・深沢秋男 日録

■ 2005年2月10日 (木)
最終講義
●この季節になると、いずこの大学も、今年度で定年退職する教員の最終講義の案内で賑わう。中にはノーベル賞候補のような世界的な研究者もいるし、そうでない、地方の大学の、全く存じ上げない方もいる。分野も、自然科学、環境、社会、歴史、哲学、文学等々、様々である。しかし、その人が生涯をかけて研究してきた事に関してのお話である事はほぼ共通しているようだ。
●かつて『最終講義』なる本で、矢内原忠雄・大内兵衛・石田英一郎・桑原武夫・中村元等々の最終講義を読んだ事がある。一人の人間の足跡として、スゴイなと感動したものである。
●本学でも、長谷川強先生の、確か京都の歴史地理と文学というお話や、岡村浩先生の皮革に関するお話を伺った事がある。いずれも、長い御研究の蓄積が感動を呼んだ。
●本学・日本文学研究会は、私の定年退職に際して、例会でお話する機会をつくってくれた。有難い事である。タイトルは「仮名草子研究の思い出」であるが、あいにく、当日、同時間に教授会が急に入り、聴講者は少人数になる模様。何か、私にふさわしいようにも思い、すがすがしい気分でもある。(深沢)

■2005年2月17日 (木)
最終講義終了
●私のマンダンのような、昭和女子大学で最後のお話が終わりました。昨日はあいにくの雨、さらに緊急教授会とも重なり、話を聞いてくれるのは、助手さん位かと予想していたが、運営委員の先生の御配慮で、時間を少しずらしたため、多くの方々が出席して下さった。現役の日文・人文の先生方、図書館の方々、それに院生も掛け付けてくれた。
●さらに驚いたのは、私が昭和にお世話になった時の学科長、教務委員、元図書館長の諸先生、皆さん現在は名誉教授になられているが、これらの皆様が雨の中、お出で下さった。全体では、40名位はおられたのかと思う。何と幸せな事か。感謝、感激である。
●40年間に亙る仮名草子研究の思い出ばなしであったが、このように、錚々たる先生方の前で、取りとめも無い事をお話ししていて、我が身の小ささを、否という程、思い知らされた。これが客観化であり、現実である。余生は多くはないが、反省すべき点は反省して、今後に努める以外に方法は無いだろう。それにしても、有難いイベントではあった。(深沢)

■平成17年2月23日(水)
最終講義と送別会など・・・
●大学教員生活もあと1ヶ月となったが、年度末採点もほぼ終わり、卒業査定と在学年次の査定が終われば、卒業式・終業式で、春休みに入るので、大学へ来るのも、あとわずかである。22年間の教員生活の終りであり、40年間の労働生活の終りでもあるので、ある種の感慨はわく。
●本年度から、本学の日本文学研究会は、会員が定年になった場合、その例会を、研究発表ではなく「最終講義」のような、お話の会にして、会員に退職を知らせるという方式になった。たまたま、私が本年度で退職なので、お引き受けした。
●2月16日(水)の午前中であったが、教授会と重なったので、余り多くの方々は出席できないと、資料も少なめに作って係りの方に渡した。ところが、担当の先生方が配慮して、時間を調節してくれたお陰で、日文・人文・図書館の方々が、多数参加して下さった。
●びっくりした事に、名誉教授の高橋先生・甲斐先生、大塚先生や前図書館長の青柳先生もお出で下さった。院生も駆けつけてくれた。
●「仮名草子研究の思い出」と題して、このサイトにヒマヒマに書き込んでおいた、思い出話をプリントして配布、短時間ゆえ、要点を掻い摘んで、お話した。貴重な時間を割いて来て下さった方々には、カルイ内容で済まないと思ったが、私としては心から感謝している。
●退職者に対しては、所属の学科で送別会を開く。私自身、22年前に歓迎会を開いて頂いてから、多くの方々の歓送迎会に参加してきた。今度は、私が開いて頂ける事になる。送別会には最後に綺麗なお花を差し上げる。そして拍手。私は、花を持ち歩くのが大嫌いである。で、先日、お花と同額のボールペンにしてくれないか、と助手さんに、コッソリお願いしておいた。願いが実現するかどうかは、分からない。
所属学科の送別会以外に、幾つかのグループが開いて下さる。昨夜も、ビックリするようなメンバーで開いて下さった。今後も日程に空きはない。こんなにして頂いてよいのか、と少し疑問もあるが、これも心から感謝している。

  付 記

私が仮名草子の『可笑記』を卒業論文のテーマに選択したのは、大学2年から3年にかけての頃であった。それから50年以上の歳月が経っている。もちろん、この間、『可笑記』や如儡子・斎藤親盛だけを研究してきた訳ではない。仮名草子の他作品、井関隆子、鹿島則文、鹿島則孝、鈴木重嶺、上田秋成、滝沢馬琴などにも研究の時間は割いた。しかし、何と言っても、私のライフワークは、仮名草子の『可笑記』であり、その作者・斎藤親盛の研究である。
恩師、重友毅先生も、長澤規矩也先生も、78歳で御他界なされた。私もその年齢になったが、『如儡子・斎藤親盛の研究』は、未だまとまっていない。実現するか否か、不安であるが今後はここに集中したいと思う。
                      平成25年12月15日
 
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
これは、『芸文稿』第7号、平成26年6月1日発行、に掲載されたものである。一部追加補筆した部分がある。
                         平成27年7月10日




19 武士道の系譜(講演)  笠谷和比古

武士道協会発会記念講演会

■日 時■ 平成20年1月31日(木)
■会 場■ PHP研究所東京本部 多目的ホール


【講演資料】
武士道の系譜

国際日本文化研究センター研究部教授
笠谷和比古

はじめに

★武士道をめぐる誤解の言説
 新渡戸稲造『武士道』の武士道論は近代明治ナショナリズムの産物。
「伝統の発明」の典型という言説

一、 武士道の成立―中世の弓矢の習いから近世の武士道へ

★中世社会で「弓矢取る(身の)習い」「弓矢の道」と称せられていたものは、  戦国時代をへて近世・徳川時代に入るとともに「武士道」という新しい表現に。
★中世においては「もののふ」「つわもの」など様々な呼称が、「武士」という表現に定着。戦闘方法が中世の騎馬弓射による一騎打ちを主体とした様式から次第に集団戦に重心移動することから、武器として槍が戦場における主要な武器。「槍ひとすじの者」
鉄砲が大量に導入されることよって「弓矢」という言葉が必ずしも彼らの存在を特徴づけるシンボルではなくなってきたことによる。

「武士道」の語の出現

★「武士道」という言葉がいつごろから登場してきたかは明確でない。十七世紀前半頃。
★キリシタン宣教師たちの手で一六世紀末から一七世紀初めにかけて編纂された『日葡辞書』には「武士道」という言葉はいまだ見られぬ反面、「Buto ブタゥ(武道)」という見出し語、それには「Buxino michi(武士の道)」という説明。「Qiubaキュウバ(弓馬)」もあり。これの説明にもやはり「Buxino michi(武士の道)」という表現。
★これらからして十七世紀初頭の頃には「武士道」という言葉は未形成。
「武道」ないし「武士の道」という表現はすでに定着。
この頃から遠からずして「武士道」という近世的表現が形成。
★武田流軍学の経典『甲陽軍鑑』は徳川時代の初期、元和年間(1615~23年)に編纂。同書において「武士道」という言葉が三十数回出現。
『甲陽軍鑑』の普及度の高さ
近世兵学の聖典武士社会への広まり


二、 徳川時代の武士道論

小幡景憲と『甲陽軍鑑』

★『甲陽軍鑑』は武田信玄の事跡とその軍法、そして甲州武士の心構えを記した全二十五巻からなる大部の書であり、武田流(甲州流)軍学の根本経典。
★小幡勘兵衛景憲は江戸前期の軍学者(寛文3・1663年没)、幕臣。甲州流軍学の祖。武田家家臣小幡昌盛の三男。武田家滅亡後に十一歳で徳川秀忠の小姓に召し出されるが、のち修行のため流浪。大坂の陣の功により帰参を許され、寛永9(1632)年、幕府使番を務め、のち知行千五百石。

「人つかひ給ふ様あしく御座候と先日も大形申上るごとく(中略)武士道の役にたつ者をば、米銭の奉行・材木奉行或は山林の奉行などに被成」

「親兄弟の敵討たる者(中略)敵をとらねば武士道はすたりたり、武士道をすてたれば、あたまをはられて堪忍仕べし、あたまをはられて堪忍致す者が、何とて主の役に立つべき」

小笠原昨雲『諸家評定』

★『諸家評定』は兵学者小笠原昨雲が元和7(1621)年に編纂した二十巻の兵学書。
明暦4(1658)年に二十冊で刊行されている。小笠原昨雲は小笠原氏隆流の兵学者で、武田家に関係の深い軍師の一人。
★「武士道」の意義変質  武士道は勇猛一辺倒にあらず

「それ武士としては、意地なからんは弱兵なるべし。其意地つよき人は、かならず以てたしなみふかきもの也。意地なからん人は、忠功をも仕る事これ有るべからず(中略)意地なき人は、なびくまじき子細なれども、時の褒美にまよはされ、あるひは時のけん[権]におそれて、今日味方に来るかと思へば、明日は敵となり、世俗にうちまたかうやくといふごとくなる事は、意地なき故なり。これ武士道には大きにいむべき事なるべし」

「武士道は、はげみつよく、かたちをすねしく、力をつくしたるをのみ、本意なりとはすべからず。ただ不実なき働きを以つて、善なりと云つべし。まことに和漢の軍書あまねくおほしといへ共、みな実儀あるを以つて、善なりとする也(中略)
されば忠をもつぱらとして、勇をもつぱらとせざるは、善なる者也」

如儡子『可笑記』

近世前期に登場した書物において、武士道概念の歴史に重要な足跡を残しているのが寛永年間に出版された『可笑記』である。『可笑記』は五巻からなる武士教訓書、寛永19(1642)年の板行。同書のスタイルは『徒然草』を擬した随筆体で、時世を風刺し、当世武士の不覚悟を訓戒する教訓書。
作者は斎藤親盛saito tikamoriという名の浪人武士(旧山形藩最上家家臣)。

★同書が世にでるや人々の間で好評を博し、寛永19年版ののち万治3(1660)年にも新たな版本が出版され、さらに刷りを重ねながら元禄時代に至ってもなお流布。

「当世のわかき侍に武士道を吟味し、剛なる心がけをたしなむべしといへば、はうばいづきあらく、少の事にも小ひじをはり、眼をみはりうでだてをし、詞をちらし、いはれまじき悪口して、けんくわずきとなり、犬、猫、庭鳥のよりあひのごとし」

「武士道のぎんみと云は、うそをつかず、けいはくをせず、ねいじんならず、へうりをいはず、どうよくならず、不礼ならず、物毎じまんせず、おごらず、人をそしらず、ぶ奉公ならず、はうばいの中よく、大かたの事をば気にかけず、たがひに念比にして人を取たて、じひふかく、義理つよきをかんようと心得べし、命をしまぬ計をよき侍とはいはず」

★ 徳義論的な武士道論の成立
★『可笑記』の普及度の高さ。近世小説の祖型として井原西鶴ら後代の作者たちからも尊重、敬慕
★武士道説は武士社会の限定を超えて、一般庶民の社会の中へ普及
ex.菱川師宣の武者絵本『古今武士道絵づくし』
(貞享2=1685年 江戸で出版)

山本常朝『葉隠』

★佐賀藩士の山本常朝が隠退後の一時に、同藩の若い武士の求めに応じて佐賀藩鍋島家の武士の心得の数々を口述して成った書物である。

「武士道とは死ぬことと見つけたり」

★没我的献身と諫争の精神との二面性

「御無理の仰付、又は不運にして牢人・切腹被仰付候とも少も不奉恨、一の御奉公と存、生々世々御家を奉歎心入、是御当家(佐賀藩鍋島家)の侍の本意、覚悟の初門にて候」

★それは没主体的な奴隷の服従を意味するものではない。

「仰付にさへあれば理非に構わず畏り」

「さて気に不叶事はいつ迄もいつ迄も訴訟すべし」

「主君の御心入を直し」「御国家を固め申すが大忠節」


★自我意識が強烈で容易に支配に服さない者たちこそ、御家のためには真に役に立つものとする逆説的な関係

「曲者は頼もしき者、頼もしき者は曲者」

室鳩巣 『明君家訓』

★ 室鳩巣は近世中期を代表する朱子学者の一人。名は直清で、新助。
万治元(1658)年に医師室玄樸の子として江戸の谷中に生まれ、十五歳で加賀藩前田家に仕えたのち、藩主前田綱紀の命で京都に遊学して木下順庵の門に入って朱子学を学んだ。同門に新井白石があり、相並んで秀才をうたわれた。正徳元(1711)年に白石の推薦で幕府儒者に取り立てられて幕臣に列し、禄米二百俵を給されている。

★正徳五年 刊行『明君家訓』 武士の自立性と節義の精神理想の武士像

「君たる道にたがひ、各々の心にそむかん事を朝夕おそれ候、某身の行、領国の政、諸事大小によらず少もよろしからぬ儀、又は各々の存寄たる儀、遠慮なくそのまま申し聞けらるべく候」

「節義の嗜と申は口に偽りをいはず、身に私をかまへず、心すなをにして外にかざりなく、作法不乱、礼義正しく、上に不諂、下を不慢、をのれが約諾をたがへず、人の患難を見捨ず(中略)さて恥を知て首を刎らるとも、おのれがすまじき事はせず、死すべき場をば一足も不引、常に義理をおもんじて其心鉄石のごとく成ものから、又温和慈愛にして物のあはれをしり、人に情有を節義の士とは申候」

★主命と、家臣たる武士の自己の信念との二律背反問題

「惣じて某が心底、各々のたてらるる義理(正義の道理、信念)をもまげ候ても某一人に忠節をいたされ候へとは努々不存候、某に背かれ候ても、各々の義
理さへたがへられず候へば於某珍重存候」


★『諸家評定』『可笑記』の提唱する徳義論的武士道論の確立

★『明君家訓』のたどった運命  机上の議論から徳川社会の“生ける武士道”へ

徳川吉宗による推奨  徳川幕臣たちの標準的武士道に


むすびに



⑱ 『東京都道徳教育教材集』に『可笑記』採録される

▲『心しなやかに 東京都道徳教育教材集 小学校三・四年生版 平成24年度』(編集 東京都教育庁指導部義務教育特別支援教育指導課、発行 東京都教育委員会)は、「先人のことばに学ぶ」として、仮名草子『可笑記』の一節を採録している。
 (振り仮名は( )の中に示した。)
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
第一章先人のことばに学ぶ

●主(しゅ)として他(た)の人とのかかわりに関(かん)すること

礼儀(れいぎ)と云(いう)は、
むかいの人によっておこない、
時にしたがっておこなう、
万事(ばんじ)一ぺんに心得(こころう)べからず。

           如儡子(にょらいし) 『可笑記(かしょうき)』
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

これは、如儡子・斎藤親盛の『可笑記』巻2の47段からの引用である。『可笑記』寛永19年版11行本には、次の如くある。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
▲むかしさる人の云るは、人間におゐて礼義を肝要(かんよう)と心得べし。礼儀と云は、むかひの人によつておこなひ、時にしたがつておこなふ。万事一へんに心得べからず。
されば、男たる者は女のてわたしに物をとらず。女は男の手わたしに物をとらぬなどをも礼義といふ。さりながら、主君の御台(みだい)所か、おやの目をかくる女か、あによめなどが、若もふちせにながれて死なんとする時には、とりつきいだき付てなりともたすくべし。
しかるに、よのつねの女にてさへも、手を取いだきつきてはぶ礼なるべきに、いはんや主君のみだい所、おやのめかくる女、あによめなるをや、と礼義をたてて引あげずんば、かならず、其女房のしん命(みやう)をうしなひ、かへつて礼にそむくべし。…
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。




〔17〕酒田古町名物語り(一)

  筑後町(相生町)
                    田村 寛三

 数年前、元酒田工業高校校長の我妻氏が一人の巨漢をつれて私の家を訪ねてきた。巨漢は我妻氏が米沢工業高校時代の教え子で、長井市で斎藤金型製作所の社長をしている斎藤輝利(豪盛)氏である。年は40才位でもあろうか。1m90cm、100キロ以上の堂々たる体躯の持主である。
 きくと、斎藤輝利氏の先祖は最上氏時代、酒田(亀ケ崎城)城代だった斎藤筑後守広盛で、社運が安定してきたので、先祖の地である酒田を訪れたという。私は内心「なるほど、これはまさしく戦国武将の子孫であるわい」と舌を巻いた。そして斎藤筑後がすんでおったといわれる筑後町に案内し、ゆかりの上日枝神社に参拝したのだった。斎藤筑後は川北三奉行時代、同町の現斎藤英男医院のところへ屋敷を持っており、そこから筑後町という名前が起ったのである。
 それから数年が過ぎて、私はこのことを忘れるともなく忘れていた。ことしの5月の初め頃、輝利氏から電話があり、「7月頃長井市北工業団地へ金型、成形両部門の工場が完成するので、その御礼に、上日枝神社へ拾万円を寄附かたがた5月19日参上したい。ついては宮司さんへよろしくとりなしていただきたい」とのことである。
 感激した私は早速、この旨を宮司さんに伝えた。こうして山王祭りの宵祭りでにぎわう19日の午前10時頃、輝利氏といっしょに上日枝神社へゆき、無事拾万円を奉納し、正式に神社参拝をしてめでたく念願を果したのである。その夜、会食しながらの話では、億以上の金をかけて大工場を建設したことは、ちょうど、小なりとはいえ一国一城のあるじになったようなものであるから、これを機会に参拝にきたのだとのことだった。
 斎藤筑後守広盛の父は斎藤玄蕃光盛といい、越後の出身。戦国時代出羽庄内にきて武藤義氏へつかえ、藤島の城代となった。16才から戦陣にのぞみ、一生の戦功かぞえるにいとまあらずという豪傑で、中でも土佐林中務少輔を討取り、武名を天下にあげた。さきがけ、しんがりとして、首を切ること32、今1つ討取って首塚を築こうとしたとき、1人の敵と引組んで互いに刺違えて戦死した。時に32才である。
 その子広盛(筑後守)も父におとらぬ豪勇の士で、16才の初陣から幾度かの戦いに従軍し、数々の武勲をたてた。
 慶長5年には、志田修理の介添として酒田城(亀ケ崎城)におり、最上義光の嫡男家親の軍勢をむかえ討って一ヶ月も戦い、旧友の下対馬の仲裁で城を明け渡し、最上家につかえた。一時、酒田城代となり、さらに高橋伊賀、寺内近江とともに最上氏の川北三奉行となった。おそらくこの頃筑後町へ屋敷を持っていたのであろう。
 この広盛の子親盛は、慶長8年に、東禅寺勝正の妹を母として酒田に生まれ、幼年から主君家親の側近に侍し、主君の一字を賜って親盛とした。主君家親の急死、家中の内紛で、元和8年、最上家は改易となり、広盛・親盛父子は主家を辞して酒田を立退き、越後におもむいた。
 まもなく父の急死にあい、若干20才で最大の悲劇に直面した。やむを得ず、家族の糊口は母の手にゆだね、単身、江戸に上り、奉公先を求めた。しかし、色が黒く、背の低い、東北なまりの武士のこととて仕官の口もなく、浪々の身となった。
 寛永9年頃に一家けん族をむかえ、江戸品川裏河岸の鍋町に、刀、脇差を捨てて兀僧頭、十徳姿に身をやつし、医を業とした。この筑後町生れの親盛は母の血をうけて文学の才能があり、以伝または如儡子の号で、わが国、仮名草子の傑作とされる『可笑記』『百八町記』等を発表し、日本文学史上不朽の光芒を放っている。
 輝利氏は如儡子からかぞえて11代に当っている。
      (『季刊珈琲街』第6号、昭和57年11月28日発行)




⑯ 斎藤家の墓所、第3次改葬
    ――須賀川斎藤家墓石の発見――

1、斎藤家の墓所


 斎藤親盛、如儡子の墓は、二本松市の松岡寺にある。

 神龍山松岡寺

 万治3年(1600)斎藤親盛は、一家全員で江戸から福島の二本松へ移住した。子の秋盛が二本松藩主・丹羽光重に召抱えられたためである。
 斎藤家の菩提寺は、二本松市松岡77番地に現存する、臨済宗妙心寺派、神龍山松岡寺である。寛文4年(1664)に、太嶽祖清禅師開山。現在は、福島市黒岩字上の町43番地、満願寺第16世・大隈正光氏が管理しておられる。

 斎藤家の墓所

 斎藤家は、3代・親盛の娘や妻なども松岡寺に葬られており、創建の頃から、この松岡寺を菩提寺としていたものと推測される。斎藤家の現在の墓地は、松岡寺本堂から山内に入って、すぐ右手の花沢家の上にあり、この位置は、当初から変わっていないものと思われるが、墓所の広さが現在と同じであったか否かについては、少し疑問がある。
 墓所は、横が4m55cm、奥行が8m22cmと大きく、斎藤家代々の墓石は44基存したとの事であるが、墓所の中央よりやや奥の所に一段と大きな墓石があり、これが最も古いもので、斎藤家では「お姫様のお墓」と言い伝えてきたとの事である。現在の当主・豪盛氏は、これが親盛(如儡子)の母(東禅寺氏)の墓ではないかと推測しておられる。

 斎藤家が二本松に移住して、最初に行われた葬儀は、おそらく、親盛の娘(法名、一竿宗?禅定尼。万治4年2月以後、宝永元年7月以前の2日没)か、親盛の妻(法名、玄光妙宗大姉。寛文3年7月以後、元禄10年6月以前の6日没)のいずれかであろうと思われる。松岡寺過去帳は祀堂帳の形式であるため、その記載から両者の没年を特定する事は出来ないが、松岡寺創建の寛文4年以後の間もない頃であろうと推測される。
 親盛は、妻、または娘の他界に直面して、子の秋盛と相談の上、創建間もない松岡寺を菩提寺に定め、そこに葬ったものと思われる。そして、その折、既に江戸在住中に没していたであろうところの母親(在世であれば、寛文4年には、90歳の高齢に達していたものと推測される)を供養するために、一段と大きな墓石を墓の奥の中央に建てたのではなかろうか。斎藤家の墓所の奥行きは、当初、この母親の墓石の所までであったが、その後、奥の山を切り拓いて拡大したのではないかと思われる。隣接する高橋家、阿部家等の墓所と比較しても、斎藤家の墓所は広く、丹羽家に仕えて間もない事でもあり、最初からこのように広かったとは考えられない。丹羽家の家臣として、代々、功を積み、また墓石も多くなったため、このように広くしたと考えた方が自然である。その拡張の折、母親の墓石は、元の場所にそのまま残されたものであろう。豪盛氏は、この拡張を行ったのは、9代・英盛の頃ではなかったか、と推測しておられる。英盛の代に他界した人が比較的多い(6名)のが、その理由であるとされる。
『神龍山松岡寺過去帳』に記載された、斎藤家関係の物故者は、未詳のものを除いて46名である。9代・英盛が、その30番目であるので、数の上から考えても、この推測は妥当のように思う。
 豪盛氏によれば、墓所に入って、すぐ左側の2番目の墓石は自然石で、その刻字は「雄嶽紹英居士」であったと、はっきり記憶しておられるとのことである。とすると、これは、親盛の子、秋盛の墓石という事になる。そして、その手前には、やや小振りの墓石があったが、これは刻字が読み取れなかった由である。4代・秋盛の墓石の手前の、やや小振りの刻字の磨滅した墓石、これが、3代・親盛(如儡子)の墓石という可能性もある。昭和44年の改葬以前の、斎藤家の墓所に関して推測し得るのは、現在のところ、以上である。

 第一次改葬

 昭和44年(1969)6月15日、12代・興盛(法名 長光院本源道徹居士)が61歳で没した。この折、スペースの関係で、墓全体が改葬された。44基の代々の墓石は、全て表面の刻字を削り去り、白布に包み、墓域の土中に埋められたとの事である。そして、先祖代々の供養塔と12代・興盛の墓石が建てられた。

 第二次改葬

 平成4年(1992)3月27日、再度改葬する事となり、唯一神道奉神会館長・庄司浩士氏の指導の下に、墓全体の発掘作業を開始し、同年5月9日、10日にほぼ完了。発掘されたお骨は本堂に安置して供養を行った。墓石は、全て水で洗い清め、石の種類別に分類して調査したが、軟質の墓石は表面の刻字が削られ、硬質のものは細かく破砕されていた。
 調査の結果、6代・常盛の「自得院譲巌道謙居士」、8代・邦盛の「真源院法性常円居士」、慶応4年7月27日に戊辰の役で没した、斎藤又十郎のものと思われる墓石の一部を確認し得たに過ぎなかった。また、豪盛氏によれば、自然石の墓石は一基のみで、それは入ってすぐ左の所に在った「雄嶽紹介英居士」であると明瞭に記憶しておられる由であるの
で、発掘された自然石の墓石は、親盛の長男・秋盛のものであるかも知れない。
 発掘された、お骨、墓石は全て、供養の後に、斎藤家一族の方々による写経と共に再び埋葬された。同年7月30日、墓所完成、松岡寺住職、満願寺第16世・大隈正光氏を招き、斎藤家第13代、現当主・豪盛氏以下、一族の方々によって法要が営まれた。

 完成した墓所は、正面奥に大きな供養塔があり、その右に、先祖代々の墓石、左には、小さな供養塔と、12代・興盛の墓石がある。また、向って左側には、奥に「墓誌」があり、「斎藤家先祖代々之霊位/斎藤家一門眷族之霊位」として、「初代/斎藤玄蕃助藤原光盛之霊位 天正十年/妻之霊位」から「十二代/長光院本源道徹居士 昭和四十四年六月十五日六十一才」までの法名、没年等が刻されている。また、その手前には、二枚の大きな江持石(須賀川産出)に「斎藤家伝略」として「出羽国、庄内地方での祖先・斎藤家と東禅寺家・二本松の祖先・それからの斎藤家・斎藤家にまつわる出版物」が刻まれている。なお、この撰文は、第13代当主・豪盛氏によるものであり、墓石の製造建立は、高橋石材工業(社長・高橋清氏は豪盛氏の叔父)によるものである。

 第三次改葬

 平成24年5月16日、第3次改葬が完了した。これは、須賀川斎藤家の墓石が発見され、これを須賀川の妙林寺から二本松の松岡寺、斎藤家の墓所に移して埋葬したためである。これで、斎藤家の墓所は、ほぼ、歴史的事実に基づいたものとして、後世へ伝えられる事になった。


2、須賀川斎藤家の発見

 平成22年10月17日、須賀川斎藤家の墓石が発見された。須賀川市諏訪町88の、天台宗・妙林寺の墓所に無縁仏として保存されていたのである。
 自然石の墓石には「斎藤一葉墓/明治十一年九月三十日死/行年七拾六歳」とあり、斎藤家第7代・親盛の曾孫に当ると推定される。
 第13代・豪盛氏は、位牌なども参照し、須賀川斎藤家の系譜を次の如く推定された。

 斎藤家第7代・親盛→華盛→徳右衛門→一葉→娘 以下絶家
 
  付 記

 以上の報告は、斎藤豪盛氏の調査によるものであるが、今後、機会をみて、調査して、詳細な報告をする予定である。

             2012年6月9日
                     深沢秋男




⑮ 『如儡子百人一首注釈の研究』
  百人一首注釈書叢刊 別巻2
      深沢 秋男著
          平成24年3月20日、和泉書院発行
          A5判、362頁、定価12000円+税
                        
口絵写真
 『砕玉抄』・『百人一首鈔』・『酔玉集』・『百人一首註解』
 『神龍山松岡寺過去帳』・斎藤家位牌

目次
  
はじめに ……………………………………………………………   ⅰ

  研究篇

第一章 研究史 ……………………………………………………   3
  第一節 田中宗作氏の研究 …………………………………   3
  第二節 田中伸氏の研究 ……………………………………   8
  第三節 野間光辰氏の研究 …………………………………  14
  第四節 島津忠夫氏・乾安代氏の研究 ……………………  17
 
第二章 諸本の書誌 ………………………………………………  29
  第一節 『砕玉抄』 …………………………………………  29 
  第二節 『百人一首鈔』 ……………………………………  33
  第三節 『酔玉集』 …………………………………………  37
  第四節 『百人一首註解』 …………………………………  41

第三章 諸本関係の分析 …………………………………………  45
  第一節 序説 ………………………………………………  45
   一、はじめに ……………………………………………  45
   二、著者・成立年・書写者 ……………………………  46
   三、配列順序・使用古注釈 ……………………………  52
   四、執筆意図とその特色 ………………………………… 56

  第二節 『百人一首鈔』と『酔玉集』 …………………… 62
   一、はじめに …………………………………………… 62
   二、『百人一首鈔』・『酔玉集』歌人配列対照表 …… 63
   三、『百人一首鈔』と『酔玉集』の本文異同 ……… 66
    〔一〕省略・脱落関係 …………………………… 66
    〔二〕漢字・仮名の異同 ………………………… 77
    〔三〕用字の異同 ………………………………… 82
    〔四〕仮名遣いの異同 …………………………… 84
    〔五〕その他の異同 ……………………………… 87
    〔六〕和歌の異同 …………………………………101
    〔七〕まとめ ………………………………………114
 
 第三節 『百人一首鈔』・『酔玉集』と『百人一首註解』………119
  一、はじめに ……………………………………………119
  二、京大本『百人一首註解』の書誌的問題点 ………120
   〔一〕十七番歌・在原業平朝臣の脱文について …120
   〔二〕配列について …………………………………122
  三、乾安代氏の『百人一首註解』解説 …………………124
  四、異同からみた『百人一首註解』の位置 ……………127
   〔一〕序説について …………………………………127
   〔二〕その他の異同について ………………………130
  五、まとめ …………………………………………………127

 第四節 『砕玉抄』と『百人一首鈔』 ………………………140
  一、はじめに ………………………………………………140
  二、武蔵野美術大学美術館・図書館金原文庫所蔵本概要
         ………………………………………………140
  三、書名「砕玉抄」について …………………………141
  四、『砕玉抄』の歌人配列順序(折丁明細一覧)……141
  五、第七番歌、参議篁の歌 ……………………………146
  六、『砕玉抄』と『百人一首鈔』の関係 ……………149
  七、『砕玉抄』と『百人一首鈔』の異同 ……………150
  〔一〕『百人一首鈔』の脱落・省略 ……………150
  〔二〕『砕玉抄』の脱落・省略 …………………152
  〔三〕その他の異同関係 …………………………152
  八、『砕玉抄』の位置 …………………………………156
       
 第五節 まとめ ………………………………………………158
       
第四章 如儡子・百人一首注釈書の意義 …………………………161
 第一節 百人一首研究の現状 ………………………………161
 第二節 如儡子の百人一首注釈書 …………………………163
 第三節 如儡子の百人一首注釈書の特徴 …………………165
  一、歌人配列の特異性 ………………………………165
  二、啓蒙的執筆姿勢 ……………………………………166
  三、如儡子的表現 ………………………………………171
  四、儒教的立脚地 ………………………………………174
 第四節 百人一首注釈書としての意義 ……………………176
       

  翻刻篇
                        
 『砕玉抄』(武蔵野美術大学美術館・図書館金原文庫所蔵)

  凡例 …………………………………………………………182
  序説 …………………………………………………………183
1 天智天皇御製 ………………………………………………186
2 持続天皇 ……………………………………………………189
3 柿本人丸 ……………………………………………………191
4 山辺赤人 ……………………………………………………194
5 中納言家持 …………………………………………………197
6 安倍仲麿 ……………………………………………………199
7 参議篁 ………………………………………………………201
8 猿丸太夫 ……………………………………………………205
9 中納言行平 …………………………………………………206
10 在原業平朝臣 ………………………………………………208
11 藤原敏行 ……………………………………………………210
12 陽成院御製 …………………………………………………211
13 小野小町 ……………………………………………………212
14 喜撰法師 ……………………………………………………218
15 僧正遍昭 ……………………………………………………219
16 蝉丸 …………………………………………………………223
17 河原左太臣 …………………………………………………225
18 光孝天皇御製 ………………………………………………227
19 伊勢 …………………………………………………………229
20 元良親王 ……………………………………………………230
21 源宗于 ………………………………………………………232
22 素性法師 ……………………………………………………233
23 菅家 …………………………………………………………235
24 壬生忠岑 ……………………………………………………237
25 凡河内躬恒 …………………………………………………239
26 紀友則 ………………………………………………………240
27 文屋康秀 ……………………………………………………241
28 紀貫之 ………………………………………………………242
29 坂上是則 ……………………………………………………244
30 大江千里 ……………………………………………………245
31 藤原興風 ……………………………………………………247
32 春道列樹 ……………………………………………………250
33 清原深養父 …………………………………………………251
34 貞信公 ………………………………………………………252
35 三条右太臣 …………………………………………………254
36 中納言兼輔 …………………………………………………256
37 参議等 ………………………………………………………257
38 文屋朝康 ……………………………………………………259
39 右近 …………………………………………………………260
40 中納言敦忠 …………………………………………………261
41 平兼盛 ………………………………………………………262
42 壬生忠見 ……………………………………………………263
43 謙徳公…………………………………………………………266
44 中納言朝忠 …………………………………………………268
45 清原元輔 ……………………………………………………269
46 源重之 ………………………………………………………271
47 曽祢好忠 ……………………………………………………272
48 大中臣能宣朝臣 ……………………………………………273
49 藤原義孝 ……………………………………………………274
50 藤原実方朝臣 ………………………………………………275
51 藤原道信 ……………………………………………………276
52 恵慶法師 ……………………………………………………277
53 三条院御製 …………………………………………………279
54 儀同三司母 …………………………………………………280
55 右大将道綱母 ………………………………………………282
56 能因法師 ……………………………………………………283
57 良■法師 ……………………………………………………284
58 西行法師 ……………………………………………………286
59 大納言公任 …………………………………………………288
60 清少納言 ……………………………………………………289
61 和泉式部 ……………………………………………………292
62 大弐三位 ……………………………………………………292
63 赤染衛門 ……………………………………………………294
64 紫式部 ………………………………………………………298
65 伊勢太輔 ……………………………………………………299
66 小式部内侍 …………………………………………………300
67 中納言定頼 …………………………………………………302
68 周防内侍 ……………………………………………………304
69 左京太夫道雅 ………………………………………………305
70 大納言経信 …………………………………………………306
71 大僧正行尊 …………………………………………………307
72 中納言匡房 …………………………………………………309
73 祐子内親王家紀伊 …………………………………………311
74 相模 …………………………………………………………312
75 源俊頼朝臣 …………………………………………………313
76 崇徳院 ………………………………………………………314
77 待賢門院堀川 ………………………………………………315
78 法性寺入道前関白大政太臣 ………………………………316
79 左京太夫顕輔 ………………………………………………317
80 源兼昌 ………………………………………………………318
81 藤原基俊 ……………………………………………………320
82 道因法師 ……………………………………………………322
83 藤原清輔 ……………………………………………………322
84 俊恵法師 ……………………………………………………324
85 後徳大寺左太臣 ……………………………………………325
86 皇太后宮太夫俊成 …………………………………………326
87 皇嘉門院別当 ………………………………………………328
88 殷冨門院太輔 ………………………………………………329
89 式子内親王 …………………………………………………330
90 寂蓮法師 ……………………………………………………331
91 二条院讃岐 …………………………………………………332
92 後京極摂政前大政太臣 ……………………………………333
93 前大僧正慈円 ………………………………………………334
94 参議雅経 ……………………………………………………335
95 鎌倉右太臣 …………………………………………………336
96 正三位家隆 …………………………………………………338
97 権中納言定家 ………………………………………………339
98 入道前大政太臣 ……………………………………………340
99 後鳥羽院御製 ………………………………………………341
100 順徳院御製 …………………………………………………342
奥書 ………………………………………………………………343

あとがき …………………………………………………………347 

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  はじめに

仮名草子作者、如儡子・斎藤親盛は、『可笑記』『百八町記』『堪忍記』の他に「百人一首」の注釈書も著していた。如儡子は注釈書『砕玉抄』の奥書で次のように述べている。
                          〔注 振り仮名は省略した〕

「つれづれと、ながき日くらし、おしまづきによつて、墨頭の手中よりおつるに、夢うちおどろかし、おろか心の、うつり行にまかせて、此和哥集の、そのおもむきを綴、しかうして、短き筆に、書けがらはし留り。寔、せいゑい、海をうめんとするにことならずや。されば、かの三神のみとがめをつゝしみ、おもむげず、かつまた、衆人之ほゝえみ、嘲をもかへりみ、わきまへざるに似りといゑども、さるひな人の、せめをうけ、辞するにことばたえ、退に道なくして、鈍き刃に、樗櫪を削り。人、是をあはれみ給へや。
    時寛永巳之仲冬下幹江城之旅泊身
               雪朝庵士峯ノ禿筆作         如儡子居士」

 『砕玉抄』は、雪朝庵士峯、如儡子居士が、寛永巳の年11月、江戸に仮寓の身で著述したものであった。ある鄙人から求められて、断りきれず書き始めたが、精衛海を填む、という中国故事と同様に、大変な事に手を出して、このような結果になってしまった。
 しかし、この如儡子の「百人一首」注釈の労作も、長い年月の間、広く世間に知られる事はなかった。昭和41年に水戸彰考館文庫(現徳川ミュージアム)所蔵の『百人一首鈔』が公表され、続いて国会図書館所蔵の『酔玉集』の所在が明らかとなり、平成10年には京都大学附属図書館所蔵の『百人一首註解』が公刊され、さらに平成13年には武蔵野美術大学美術館・図書館金原文庫所蔵の『砕玉抄』が発見されるに至った。
百人一首の研究者及び仮名草子研究者の諸先学の調査・研究の成果によって、ようやく如儡子の「百人一首」注釈の全貌が明らかになった。今、その研究を纏める段階になったことを、まず感謝申し上げる。
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 あとがき

如儡子斎藤親盛は、仮名草子『可笑記』の著者である。慶長8年(1603)の頃、酒田筑後町において、最上家家臣、斎藤筑後守広盛の長男として生まれた。幼少から最上家親に近侍し、主君から「親」の一字を賜り、「親盛」の名を許された。しかし、元和3年(1617)、最上57万石は取り潰され、広盛・親盛父子は浪人となる。如儡子は、そのような浪々の身にありながら、著作の執筆に励んだ。
寛永6年(1629)の秋、『可笑記』の執筆を始め、同13年には全5巻が一応まとまった。初版の11行本の刊行は寛永19年であるが、如儡子は『可笑記』脱稿以後、百人一首の注釈の執筆に着手したものと思われる。
そして『砕玉抄』を書き上げたのが、寛永18年11月であったと推測される。この時、如儡子斎藤親盛は39歳位であったと思われる。
如儡子の百人一首注釈書を最初に学界に紹介されたのは、和歌研究者の田中宗作氏である。田中氏は、昭和41年に水戸彰考館(現徳川ミュージアム)の『百人一首鈔』を紹介された。続いて、仮名草子研究者側から、田中伸氏・野間光辰氏が、国会図書館の『酔王集』を紹介され、分析を進められた。平成10年には、島津忠夫氏・乾安代氏によって、京都大学附属図書館の『百人一首註解』が「百人一首注釈書叢刊 15」として公刊された。さらに、平成13年に、武蔵野美術大学美術館・図書館に如儡子の『砕玉抄』が所蔵されていることが、浅田徹氏によって明らかにされた。
そのような状況の中で、私も、如儡子の百人一首注釈の研究を進めてきた。そうは言っても、私にとって、和歌の研究は専攻以外の分野であり、全て一から学び始めた。昭和女子大学の斎藤彰氏や、同志社女子大学の吉海直人氏、国文学研究資料館の岡雅彦氏の温かい御指導で、少しずつ研究を進めることが出来た。
 このたび、如儡子の百人一首注釈の研究を、一応まとめることが出来たが、それは、田中宗作氏、田中伸氏、野間光辰氏、吉海直人氏、島津忠夫氏、乾安代氏の研究に導かれるところが大きい。これらの研究がなければ、到底為し得なかったものと思う。
 さらに、浅田徹氏は、武蔵野美術大学美術館・図書館の所蔵本調査の折、如儡子の『砕玉抄』に気付かれ、その情報を如儡子研究を進めている私に教えて下さった。浅田氏の御厚意が無ければ、私は如儡子の、百人一首注釈の中で最も優れたテキストに出合う事は出来なかったものと思う。
 このように、多くの方々の御厚意によって、百人の和歌の注釈という、如儡子の膨大な著作の全貌をほぼ明らかにする事が出来たことに対して、心から感謝申し上げる。
 本研究を進めるにあたり、原本所蔵の各機関には格別の御配慮を賜った。国立国会図書館には『酔玉集』の閲覧・複写をお願いし、雑誌『近世初期文芸』への全冊翻刻の許可を賜った。水戸彰考館(現徳川ミュージアム)には、『百人一首鈔』の閲覧・調査をお願いし、本文の複写は各巻の前半部分をお願いし、後半部分は国文学研究資料館のマイクロフィルムを閲覧させて頂いた。また、同館所蔵の、他の百人一首関係のフィルムも閲覧させて頂いた。京都大学附属図書館には『百人一首註解』の閲覧・調査・複写をお願いした。武蔵野美術大学美術館・図書館には、『砕玉抄』の閲覧・調査・複写をお願いし、本書への全冊翻刻の許可も頂いた。さらに、本書への写真掲載に関しても、各機関の御配慮を賜った。ここに記して厚く御礼申し上げます。
本書の出版に関しては、平成16年刊行の『井関隆子の研究』と同様に、和泉書院の社長廣橋研三氏に格別の御配慮を賜った。また、原稿の整理、校正段階では、同社専務廣橋和美氏の御助言にあずかった。両氏の御温情に対して、深甚の謝意を表する。
                                            平成24年2月14日




⑭可笑記の著者について       
                           伊藤 芳夫 氏

可笑記といふ本は寛永十年出版同十三年の発行になつて居り、此の著者の研究に就ては饗庭篁村などは如儡子の作として説いて居るが、抑も如儡子とは如何なる人であるか、私の考ふる処によれば此の人は今日の山形県人、即ち最上家臣の湯村讃岐の一族湯村式部であると思ふ。先に上杉藩に仕へたが最上家に転禄し、後志を得ずして関西に行つた人であると述べ、五巻より成る図書を提示し、其の内容数箇所を挙げて一時間以上に亘り之を考証する処あつた。(『羽陽文化』第24号、昭和29年10月)

【注】これは、山形県文化財保護協会の主催する「文化研究発表会」での発表要旨であるが、参考のために掲載する(深沢秋男)




⑬ 一條八幡神社にあった筑後文書

                          田村 寛三

 去年の八月十六日から二十日までの五日間、国文学者の深沢秋男先生が来酒され、斎藤筑後関係の史料調査を綿密にされていった。先生は酒田出身のかな草子文学者斎藤親盛如儡子をこれから生涯をかけて研究されようと志ざされ、その手始めに父筑後の研究をしようというのであった。
 筑後の子孫はいま長井市で斎藤金型製作所の社長をしておられる。この人は先祖が戦国時代、筑後町にすんでおられた関係から上日枝神社への崇敬があつく、山王祭りには毎年のように正式参拝され、数年前の社殿改造には多額の寄付をされている。一昨年、この社長と深沢先生が私を訪ねてこられ、面識があったので、昨年は前もって知らせがあり、私は五日間、先生と行動を共にした。
 先生の調査は誠に徹底したもので、およそ筑後のものは一点といえどもゆるがせにしなかった。私は学問の研究はこういうものかと頭のさがる思いをした。幸い五日間とも天気に恵まれ、本当に楽しい日々を過ごさせてもらった。
 この中で今まで斎藤筑後は、筑後町に果してすんでいたのかどうかあやふやであったのが本間美術館所蔵の「永田文書」に「筑後は酒田町筑後町ニ居候」とはっきり書いてあり、従って高名な文学者の如儡子は筑後町で生まれたことが確認されたことは大きな収穫だった。
 それともう一つ、これはむしろ私にとって忘れられなかったことは十七日、一條八幡神社を訪れたときのことだった。ここでは主君志村伊豆守の命により筑後が一條八幡神社の樹木の伐採を禁じた文書が所蔵されているのでそれを見せてもらうのが目的だった。来意をつげると若い神主さんが「それではどうぞ」と社殿へ案内された。しかし、「古文書は破損がひどいのでおみせすることは禁じられておりますので、これを見て下さい」と明治期に同社社家の小野好信が書写した「一條県社八幡宮御宝物之調」を出してくれた。これには筑後の文書も虫損にいたるまで克明に模写されていたが、靴の下からかゆい所をかくようなうらみを禁じえなかった。それでもやむをえないのでしげしげと眺めたり、写真をとったりしていた。
 そのうち神主さんが、どうした風の吹き廻しか、白い手袋をはめられ、おもむろに小さい箱を持ってこられ「これをどうぞ」という。そこには筑後の本物の文書が入っていた。思いがけないことに私たちは大喜び、ありがたく拝見することにした。写真もとってよいという。所々に虫損があって読みかねるところもあったがかろうじてつぎのように読んでみた。

  一條八幡之杉並木ハ何木成共
  返々ほりとるまじく候(ことことく)
   きらいに侯らへてさへ
  しんセられ候ニたゝいまとり候
  事ハかたく□□被仰出候者也 仍如件
  慶十五
      壬月廿三日
        斎藤筑後 黒印
     一條八幡社人衆

 ところが小野好信の写書したものには慶長九となっている。そこであとで『海郡誌』をみると、著者の斎藤美澄もやはり「慶九」と読んでいて、いささか疑問だったとみえ、その下へ「慶九ハ慶十九ノ剥落ナラン」と記している。
 深沢先生はこんどの調査で計三十三点も史料の写真をとられたが、その中で圧倒的に多いのは年頁皆済状である。
 この皆済状によると、慶長十三年までは斎藤助左衛門となっており、翌十四年からはじめて斎藤筑後と名乗っている。
 それに慶長十六年八月七日には志村伊豆守が病没しており、慶長十九年かとの推測は明らかに誤まりである。こう考えてみると筆者が最初読んだように慶長十五年(一六一〇)が正しいようであるが、どうだろうか。このことは飽海にとって大切なことと思われるので写真をのせ、みなさんの判断を乞いたい。深沢先生も「如儡子(斎藤親盛)調査報告(2)―父・斎藤筑後と如儡子出生の地―」を「近世初期文芸」第五号(昭和六三年十二月刊)の中で「こ文書の読み方は、虫損の部分も含めて未解決の点がある」とし、その解決を求められいる。
 (酒田市本町一丁目一の五)
        『荘内日報』平成元年(1989)5月16日(火曜日)




⑫「齋藤筑後守記念碑」建立

 平成二十三年十月二十三日、山形県酒田市の上日枝神社境内に「齋藤筑後守記念碑」が建立された。詳細は『近世初期文芸』第二十八号に報告する予定である。(平成23年10月26日、深沢)

 齋藤筑後守記念碑碑文

「齋藤筑後守記念碑
 近世初期の戦乱の時代、越後(新潟)から出羽(山形)庄内に移住して活躍した齋藤一族があった。初代光盛、二代広盛、三代親盛と庄内・酒田を中心に活躍した。
 齋藤家初代光盛  越後の出身。出羽の国に移り、庄内の守護、武藤義氏に仕える。天正元年(一五七三)以後、藤島城代となり、多くの戦功をあげた。天正十年頃に三十二歳で没する。
 二代広盛  又十郎、助左衛門、筑後守。最上義光の武将で、亀ケ崎城代の志村光安・光惟父子に仕え、三奉行の一人として活躍した。光惟が没した後、川北代官として志村氏の領地である川北地方の行政にあたった。齋藤助左衛門、齋藤筑後守の名で、年貢皆済状、棟札が多く伝えられている。酒田の筑後町は、齋藤筑後守の屋敷があった場所であるとも伝えられている。妻は東禅寺筑前守の弟、東禅寺右馬守の娘であると思われる。最上家は、元和三年(一六一七)に最上家親が急死し、家中の内紛もあって、同八年に最上五十七万石は近江一万石に転封となる。この時、広盛は最上家を辞して酒田を去る。長年住み慣れた筑後町を後に、妻子を連れて、鼠ケ関を越えて越後へ向かったものと推測される。しかし、広盛は、にわかに病んで、五十五年の生涯を閉じた。
 三代親盛  仮名草子作者。清三郎、号は以伝、筆名・如儡子、法名・武心士峯居士。慶長八年(一六〇三)頃、酒田筑後町にて、広盛の長男として生まれる。幼少から最上家親に側近く仕え、主君から「親」の一字を賜り、「親盛」の名を許された。元和八年、最上家の改易と同時に、父広盛に従って主家を辞し、先祖の出身地・越後に赴くが、やがて江戸へ出て仮名草子作品などの執筆に励んだ。著作に『可笑記』(仮名草子)・『砕玉鈔』(百人一首注釈書)・『堪忍記』(諸大名の批評書)・『百八町記』(三教一致を説いたもの)などがあり、晩年、二本松で詠んだ俳諧も多く残されている。延宝二年(一六七四)三月八日没、享年七十二歳。二本松の松岡寺に葬られた。
 その後の齋藤家  四代秋盛が二本松藩主丹羽光重に召抱えられたため、万治三年(一六六〇)、一家は江戸から福島の二本松に移住した。以後、五代富盛、六代常盛、七代親盛、八代邦盛、九代英盛、十代徳盛と、代々二本松藩に仕えた。齋藤家の子孫は、第十三代豪盛氏、第十四代康盛氏まで絶える事なく続き、現在、齋藤家は山形県長井市に居住し、墓所は、二本松の松岡寺にある。

平成二十三年十月吉日
           昭和女子大学名誉教授 深沢秋男 撰文
           昭和女子大学講師   承 春先 謹書
         齋藤家 第十三代   齋藤豪盛 建立」



⑪平成23年度京都府公立高校入学者選抜学力検査に、仮名草子『可笑記』出題


■平成23年度京都府公立高等学校入学者選抜のための学力検査に『可笑記』が出題された。
■<各教科の特色と傾向>の【国語】では、次のようにある。

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1 古文では、近世の文章を題材とし、内容を読み取る力をみるとともに、歴史的仮名遣いなどについて問い、古典を理解する基礎が身に付いているかどうかをみた。
〔出典〕 「可笑記(かしょうき)」(「近代日本文学大系 第一巻」国民図書株式会社 より)
 如儡子(にょらいし)による、江戸時代初期の仮名草子。随筆風の形式をとっている。
 問題文は、人の口を出入りする「よきもの」「いたづらもの」と、それらの出入りに際しての態度について述べた文章である。自分自身の言動にも結びつく内容を読み取る中で、考えを深め、古典に親しむ態度が養われていくことを期待する。
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出題されたのは、『可笑記』巻2の26段である。近世初期の仮名草子作品は、仮名遣いなど、混乱期であり、その辺りは、問題作成の時に修正されている。
テキストに、昭和3年発行の『近代日本文学大系・第1巻・仮名草子集』を使用している点は、少々、気になったが、高校入試に、仮名草子作品を取り上げて下さったことに感謝する。
私は、大学2年の終りの頃、『徳川文芸類聚』でこの作品を初めて読んで、私自身、大変勉強になると思ったし、殊に、その批判的要素には感激した。それで、卒論に選び、以後、ずっとこの作品と作者について研究してきた。この作品やこの作者・如儡子、斎藤親盛は、決して軽く見るべきではなく、日本文学史の上でも、それなりの位置を占めるものと思う。その意味でも、今回、京都府の問題作成を担当した先生に感謝する。
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『可笑記』巻2の26段は、寛永19年版11行本では、次の如くである。
振り仮名は省略した。

▲むかしさる人の云るはされば人の口は一切善悪のいで入
する門戸也かるがゆへによき番衆をすゑをきて出
入するもの共をあらためらるべし其いはれは云まじき
人のうはさをあざけりへうりなどを云て身命をあ
やまつ是は口のうちより外へいづるいたづらものども也
又くうまじき物をくゐのむまじき物をのみ過して
病を生じ身命をあやまつ是は口の外より内へいる
いたづらもの共也又金言妙句を云詩歌文章のおも
しろきをつくるなとは口のうちより外へいづるよきもの
共也又もろ/\の病にくるしむ時それ/\の薬をのみ
て平兪し或はうへかつゑにおよんで水をのみ食を
くらひ本復するなとは外より口のうちへ入よき物共也
かの番衆と申はをのれ/\か心にて候間よく/\この
善悪をわきまへ分別して善をは出入自由自在
にあしきをは出入かたくきんせいすべし少も此番衆
ゆだんしては大事出来すべし惣して大事といふ
物は少の所より出るもの也たとヘば堤をつきて水を
ふせくに蟻といふ虫がとをりたるあなより次第/\
に水がうるほひそろり/\と流出て後々には
広大なる穴となりて其堤をおしやふるとかや



⑩平成22年度香川県公立高校入学者選抜学力検査に、仮名草子『可笑記』出題

■平成22年度香川県公立高等学校入学者選抜のための学力検査に『可笑記』が出題された。
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平成22年 国語問題

問題 1 小説  村山由佳 「約束」
問題 2 古文  如儡子  「可笑記」
問題 3 論説文 渓内謙  「現代史を学ぶ」
問題 4 課題作文
………………………………………………………………………………
問題 二 次の文章を読んで、あとの(一)~(五)の問いに答えなさい。

昔(注1)もろこし(注2)漢の文帝の御代に、一日(注3)千里をかくる名馬を進上しける時、(注4)公卿大臣、①めでたき御重宝かなと申しあへりければ、②文帝あざ笑ひ給ひて仰せけるは、我此の馬を重宝とは思はず、其の(注5)仔細は、我たまたま(注6)遊山なぐさみにありく時は、一日にやうやう三十里、また③合戦などの時も、多くて五十里に過ぎず。④かやうにそろりそろりとありきてこそ、数万の人馬も疲れず、我に続いて忠功をなす。もしまた時によつていそぐ事ありといへども、かねて疲れぬ人馬なれば、我によく続いて忠功をはげます。されば我一人千里をかくる馬に乗りたりとも、数万の人馬、千里をかけずんばあへて益なしとて、⑤主のもとへ返し給ふ。

(注1)もろこし=昔、日本で中国を指して呼んだ名称。
(注2)漢の文帝=漢の第五代皇帝。
(注3)千里をかくる=非常に長い距離を走る。里は距離の単位。
(注4)公卿=朝廷に仕える高官。
(注5)仔細=事の詳しい事情。詳細。
(注6)遊山なぐさみにありく=遊びや気晴らしに出歩く。

(一)①に めでたき御重宝かな とあるが、この言葉には公卿大臣のどのような気持ちが表れているか。次の1~4から最も適当なものを一つ選んで、その番号を書け。
 1 おめでたい宝物になりますようにと祈願する気持ち
 2 すばらしい宝物でございますなあと感嘆する気持ち
 3 役に立つ宝物になるのでしょうかと困惑する気持ち
 4 ぜいたく過ぎる宝物でございますと忠告する気持ち

(二)②に 文帝あざ笑ひ給ひて仰せける とあるが、文帝が言った言葉はどこからどこまでか。初めと終わりの三字をそれぞれ抜き出して書け。

(三)③に 合戦などの時も、多くて五十里に過ぎず とあるが、これはどういう意味か。それを説明しようとした、次の文の □□□□□ 内にあてはまる言葉を、五字以内で書け。
      合戦などの時であっても、自分の乗る馬が一日に□□□□□は、
      多くても五十里に過ぎない

(四)④の かやうに は、現代かなづかいでは、どう書くか。ひらがなを
    用いて書きなおせ。

(五)⑤に 主のもとへ返し給ふ とあるが、なぜ文帝は名馬を持ち主のも
    とへ返したのか。次の1~4から最も適当なものを一つ選んで、その
    番号を書け。
 1 非凡な能力を持つ珍しい馬ではあるが、持久力に劣るという欠点を持っ
   ているため、平凡な馬に比べ使いにくいから
 2 この馬は合戦の時には役立つが、平常時にはその能力をいかせず、平和
   なこの時代にはあまり必要のないものだから
 3 自分ひとりが名馬に乗っても、それに家臣たちがついて来られないので
   は意味がなく、価値があるとは言えないから
 4 自分だけが名馬を持つと、家臣の中にはそれをねたむ心を持つ者が生ま
   れ、自分への忠誠心が弱くなってしまうから
………………………………………………………………………………
【注】掲出に当って、傍線・振り仮名を省略したり、(注1)~(注6)の入れ方などを変更している。

●この段は、『可笑記』巻4の30段である。出題にあたって、漢字仮名、送り仮名など、一部改められている。




⑨如儡子(斎藤親盛)の父、斎藤筑後守は「盛広」か「広盛」か

                    深 沢 秋 男

 一、はじめに

 仮名草子『可笑記』の作者、如儡子・斎藤親盛の父、斎藤筑後守は、近世初期、慶長・元和期に庄内・酒田の地を中心に活躍している。慶長六年(一六〇一)、山形城主最上義光の重臣・志村光安に仕え、川北地方(最上川以北)の政務を担当する。慶長八年(一六〇三)から元和八年(一六二二)にかけて、斎藤筑後に関する資料、年貢皆済状や棟札等が三四点伝存する。署名は、慶長十三年までは「助左エ門」、慶長十四年からは「筑後」または「筑後守」となっている。ただ、慶長十七年十月十八日の吹浦大物忌神社の棟札には、「小行使 斎藤筑後守盛広」とあったと記録されている。従って、斎藤筑後は、はじめ「助左エ門」といい、後に「盛広」に改めた、と理解されてきた。ところが、斎藤家に代々伝えられていたという記録には、斎藤家第二代は「広盛」とあったらしい。このような状況をふまえて、
ここでは、斎藤家第二代筑後守は「盛広」か「広盛」か、という点を検討したいと思う。

 二、「盛広」とする資料

1、慶長十七年十月十八日 吹浦大物忌神社棟札

 吹浦大物忌神社(山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字布倉一番地)の、慶長十七年十月十八日作成の棟札は焼失して伝存しない(昭和63年8月5日調査確認済み)。『飽海郡誌』(大正12年発行)巻十、大物忌神社の条に、
「慶長十七年最上義光社領トシテ高五十三石九斗五升壱合ノ寄附アリ同年亀ケ崎城主志村光惟社殿ヲ改造セラル寛文九年之レニ修繕ヲ加フ」
とあり、「棟札写」として、慶長十七年の棟札の内容を掲げ、
「此棟札ハ火災ニ亡ナヒ謄本ノミ社頭ニ伝フ但小行事相田靭衛ハ元和八年最上家改易ノ際浪士トナリ儀右衛門ニ至リ酒井家ニ仕ヘ子孫鶴岡ニ住ス家ニ亦棟札謄本ヲ伝ヘ?背ヲ施シ一幅トナシ現ニ之レヲ所蔵セラル」
と記している。
 つまり、『飽海郡誌』によると、吹浦大物忌神社の慶長十七年の棟札の原物は焼失し、その謄本(写本)が社頭(社殿・神前)に伝えられていた。また、その時の小行事だった相田靭衛の家にも棟札の写本が伝えられ、表装されて、それを現在も所蔵している、ということになる。
 これまで、確認することが出来た、吹浦大物忌神社棟札の記録を整理すると次の如くである。
 ①『飽海郡誌』巻十(大正12年発行、昭和48年1月22日、
  名著出版発行の複製に拠る)
 ②『山形市史 史料編1、最上氏関係史料』(昭和48年3月31日発行)もこの棟札を掲げ、「飽海郡遊佐町吹浦大物忌神社旧蔵」とし、「焼失して現存せず。写しのみ」と記している。
 ③『山形県史 資料篇 十五下 古代中世史料 2』(昭和54年3月31日発行)は「一〇九 大物忌神社棟札(遊佐町吹浦 大物忌神社)」として、この棟札を掲げているが、「『山形県金石文集』郷土研究叢書第(ママ)七輯による。」と注記している。
 ④『山形県金石文集』山形県郷土研究叢書 8(昭和12年5月
  30日発行、昭和57年11月30日、国書刊行会発行の複製に
  よる)
 ⑤鶴岡市立図書館・郷土資料館蔵、相田家史料 五六
 鶴岡市郷土資料館には、惣奉行相田靭衛広次の、慶長十七年の「羽州一宮両所山神宮寺棟札コピー」を所蔵する。これは、相田家所蔵の軸装の写しで、平成二十年に同館でコピーしたものであるという。
 右に掲げた記録の内、①・④・⑤を以下に掲げる。②は①と同様であり、③は④に拠るというので、省略した。
 ここで、再度確認すると、慶長十七年の吹浦大物忌神社の棟札の原物は焼失した。焼失する前に棟札を書写したものが吹浦大物忌神社に伝えられていた。この写本に拠ったものが①・④であると思われる。なお、吹浦大物忌神社の写本は現在所蔵されていないという。次に、⑤は慶長十七年棟札作製の時に関与した、相田靱衛広次が棟札の原物を書写し、相田家に現在まで伝えられたもの、ということになる。

 ①『飽海郡誌』巻十(大正12年発行)
   【棟札の内容は省略】
 ④『山形県金石文集』山形県郷土研究叢書 8(昭和12年5月
  30日発行)
   【棟札の内容は省略】
 ⑤鶴岡市立図書館郷土資料館蔵 相田家史料 五六
   【棟札の内容は省略】

 2、『飽海郡誌』巻七の記述

 「斎藤筑後 名ハ盛広〔慶長十七年吹浦大物忌神社棟札〕 初メ助左衛門ト称ス〔上福山渡辺氏ニ慶長八年ヨリ十五年マテノ同村年貢皆済状ヲ伝フ共ニ斎藤ノ出ス所ナリ就中慶長九年マテハ斎藤助左衛門ト署シ十年以後ノモノハ斎藤筑後ト見エ華押印章前後悉ク同一ナリサレバ慶長九年マテハ助左衛門ト称セシコト自ラ明カナリ尚日向村福山ノ下参照スヘシ〕 志村光安入部以来元和八年最上家改易ノ際マテ在勤シ川北三奉行中最モ古参ニシテ酒田筑後町ハ其与力ノ宅址アリシヨリ名ケラレタル名称ナリ〔酒田町ノ下ニ詳カナリ〕 酒井家入国後モ尚酒田ニ住シ内町組斎藤氏ハ其子孫ナリト称シ系譜ヲ伝ヘタリト聞ケルモ今退転シ之レヲ亡ヘリ〔斎藤筑後署名ノ文書頗ル多カルモ悉ク関係事項ノ下ニ掲載シタレバコヽニ其目録ヲ略ス〕」
 この『飽海郡誌』は、慶長十七年の吹浦大物忌神社棟札の記録に拠って「盛広」としている。また、「慶長九年マテハ斎藤助左衛門ト署シ十年以後ノモノハ斎藤筑後ト見エ」としているが、正しくは、慶長十三年まで「助左エ門」であり、慶長十四年以後が「筑後・筑後守」となっている。さらに、「酒井家入国後モ尚酒田ニ住シ」としているが、元和八年に、山形藩五十七万石が、近江の大森藩一万石へ転封となった時、斎藤筑後は最上家を辞し、酒田を去っている。

 三、「広盛」とする資料

 1、『世臣伝』の記述

 斎藤家・第四代の秋盛は、万治三年(一六六〇)に、二本松の丹羽家に仕えることになったが、以後、代々二本松藩士として幕末まで仕えた。
 『世臣伝』は二本松藩・丹羽家一族と家臣の家譜の集成である。全八巻十冊。第八代藩主・丹羽長祥の命によって、佐野武保・成田頼直・黒田則恭等が編纂した。成立は享和三年(一八〇三)五月である。享和三年というと、斎藤家では、五年前の寛政十年に、第八代の邦盛が没し、第九代の英盛(二十一歳)が当主であった。おそらく、『世臣伝』の編纂者は、斎藤家の邦盛または英盛から資料の提供を受けて記述したものと推測される。従って、『世臣伝』の成立は、かなり後代のものではあるが、斎藤家代々に伝えられていた記録に基づいているものと思われる。
 『世臣伝』の原本は、現在までに、次の三点を確認できた。
一、鈴木マス氏所蔵本
二、安井家所蔵本(福島県立文化センター歴史資料館寄託)
三、国立公文書館・内閣文庫所蔵本
 また、『二本松市史 第五巻 近世Ⅱ 資料編3』(昭和54年2月20日、二本松市発行)にも翻刻が収録されている。
 ここに掲げたのは、鈴木マス氏所蔵本に拠っているが、掲出に当たって、二行割書きは〔 〕で囲み、適宜、句読点を加え、改行した。

 「 斎  藤
喜兵衛藤原秋盛は清三郎親盛が嫡男也。親盛が祖父玄蕃助光盛は、越後国の人なりしが出羽国に移り、庄内の守護大宝寺義氏〔一に光安、世に云悪屋形なり〕家に仕へ、同国藤島の城代として一生の戦功算ふるに遑あらず。中にも土佐林中務少輔を討捕りて其名当時に高く、生年十六歳初めて軍に従ひしより、爰彼所の戦ひに先魁後殿して、みづから首を切る事三十二、今一つ討捕て首塚築かんと思ひ、何れの戦なりしや一人の敵を引組て互ひに刺違ひ死てけり。年三十二歳にぞ成りにける。
其子玄蕃助広盛、初めは又十郎と申し、父に劣らぬ勇子にて、是も生年十六歳を初めの陣として、戦忠尤多ふかりしに、主なる義氏、讒姦を信用して暴虚日に加りしかば、其家の乱れん事遠からずとて、広盛密に前森〔筑前、四家合考、中山玄蕃と有る〕東禅寺〔右馬頭〕兄弟等と相謀り、軍勢数多引具し、主の屋形〔時に義氏、大浦の城に住す〕におし寄せ、無難義氏に腹切らせ、其弟義興とて、いまだ幼なかりしを主となし、国の事をば前森東禅寺等が沙汰と極めける。然るに其政道や悪しかりけん、国人等悉く背きて越後の上杉に内通し、景勝の士大将本庄重長〔出羽守〕といひるを引入れて、前森東禅寺等に腹切らせんと結構す。彼等も安からぬ事に思ひ、最上の義光に加勢を乞ふて戦ひしが利を失ひし、前森東禅寺を初め、土卒多ふく討れぬ。玄蕃助広盛も此軍に在りけるが、引返して己が居城に楯籠る。重長続ておしよする。然れ共、城内は思ひ切たる究竟の兵籠りしかば、攻あぐんで、遂に扱を入れしかば、頓て広盛景勝が幕下に候したり〔藤嶋の城に住する事元の如し。時に庄内先方衆と呼れたり〕。
其後、豊臣家東国に御下向まし??し時、景勝も仙北に出馬有べきにて、先宗徒の士大将に軍勢附て赴かせ、庄内等の城??に籠め置。広盛が領したる藤島へも、栗田・小田切・朝以奈等〔信州衆也〕の人々守りしに、其手の軍兵恣なる振廻多かりしかば、広盛はいふに不及、農工商買に至る迄、悉く疎とみ果、今は詮方つきければ、広盛、一族郎等に示し合せ、或夜城中に押懸り、一人も不残討取て、其侭城に籠りしを、景勝大に怒られて、討手余多指向け攻めしかど、又攻あぐみ、終に扱を懸て城をば請取ぬ。
広盛は藤嶋の城を去り、越後に赴きぬ。幾程なく豊臣家一揆誅戮せさせ給ひ、景勝も本国に帰城有りし時、庄内の酒田大浦の両城は、下対馬・志田修理〔倶に上杉が家の士大将なり〕に賜りし。玄蕃助広盛は弓矢の道堪能なる而已ならず、地理にも暗からずとて両将の介添に附られて、再び眉目を開きけり〔是よりして酒田の城に住す〕。
慶長五年、主の景勝 徳川家に背き参らせし時、直江兼続〔山城守〕最上表の先陣打て馳せ向ふと聞しかば、広盛も手勢三百余人にて古口・庭月〔最上方の取手也〕の両城に馳向ひ、不日に攻てせめ落し、庄内の通路も自由なりければ、直江も安??と討ち入りて、戦ふ毎に不利といふ事なし。
既に長谷堂山まで取り敷しに、伊達の政宗、最上家の後詰して、防ぎ戦ひし程に、直江も散??に打なされ、米沢さして引退きぬ。此由斯と聞しかば、味方の人々忽心後れ、城避渡して退くもあり、或は敵の先陣に馳加りて後、矢射けるもあり。其中に酒田の城只一つ、城主修理を初として、玄蕃助広盛はちつとも動く気色なく、寄手の大将修理大夫家親〔義光の嫡男也〕、里見越後の入道、下対馬〔上杉が家の子にて、大浦の城主也。此時は最上方に降参す〕等の人々を引受て、一月余りも戦ひしに、勝敗更に見へざりけり。然るに下対馬といへるは旧友の親しき中なれば、理を尽して扱ひしにぞ、志田も是に領掌し、やがて城をば避け渡しぬ。此時広盛も対馬が許に迎られ、大浦に住せしに、最上家の老志村伊豆、酒田の城賜りし時、広盛が人となりをも知りければ、頻りに請しにぞ、志村が許に止りて、其地の事をば沙汰しける。程なく伊豆病死して、其子九郎兵衛家を継ぎ、一栗兵部といへるが為に殺され、所帯没収せられし時、広盛直に最上家に出仕し、酒田の城代を奉り、此頃よりして筑後とは改め名乗りてけり。
其後、里見刑部が〔最上家の侍大将、二万五千石を領す。〕叛きし時、討手の事命ぜられ、馳せ向ひ、思ふ侭に討取て褒美を蒙りけり。
元和八年、最上家が争論の事起りて、国除かれし時、広盛越後に赴きしに、土井大炊頭利勝、懇に招れて、佐倉の城留守の事頼れしに、俄に病て空敷なる。年五十五歳とぞ聞へける。
其子、清三郎親盛〔初めは、父と倶に最上家に在り。修理大夫家親に眤近して、諱の字賜ふて、親盛とは申せしよし也。〕
其子は秋盛にて、万治二年 慈明公に仕へ奉り〔月俸十五口賜ふ。○親盛及秋盛も、倶に孫呉の学に志し深く、就中親盛年若かりしより笈を負て、四方に遊学し、みづから抄録する処の書、数百巻、今に子孫に伝へける。〕、寛文三年八月新に所領を賜ひ〔二百石〕、延宝二年金銀の奉行となり、同七年三月郡山の令に補せられ、貞享元年九月職を奪はる〔如何なる事にや、其ゆゑ不詳]。同四年九月 公子〔重昌朝臣〕初めて 将軍家へ御見参せさせ給ふ時、 老公〔慈明公〕其事を拝させ給ふの御使を奉り、元禄六年普請の奉行になされ、其後職を免され、同十二年正月二十一日死しぬ。
其子新六郎富盛、家を継て〔二百石〕後金払の職となり、其後請に依て御許しを蒙り、享保九年十月致仕し、可垂と号し、老養料賜り、寛延元年六月二十日死しぬ。年七十九歳とぞ聞へける。
其子玄蕃常盛、享保八年三月、月俸賜ふて召仕れ、家を継て〔二百石〕、金払の職を経て御膳の司になされ、其後請に依て職を許され、御帳着の職より宝暦二年五月 老公〔天嶽公〕の御用人の職に補せられ、同八年十一月先鋒の隊将に移され、明和八年十月致仕し、正山と号し、老養料賜り、安永元年七月二十九日、六十九歳にて死しぬ。
嫡男要人親盛、寛延二年六月御小姓に召仕れしに、宝暦十三年十二月罪有て職奪はれ、引き籠て居るべきよしの 仰を蒙りければ、藤田正教〔八郎兵衛〕が二男を養ひ、親盛が女に合せて嗣とし、弥次兵衛邦盛と申し、明和五年二月月俸賜ふて召仕れ、家を継ひで〔二百石〕御帳着の職より御膳の司を経て、寛政七年七月御用人の職となる〔秩加へられ、二百五十石の高となる〕。」(巻八之下、斎藤家の条)

 2、『相生集』の記述

 『相生集』全二十巻は、二本松藩士・大鐘義鳴の編纂したもので、二本松の地理沿革、人物事蹟等を詳細に記録しており、二本松の歴史を知る上で貴重な資料となっている。成立は天保十二年(一八四一)三月である。これは、斎藤家では、九代英盛(弥次兵衛)、十代徳盛に当たるが、大鐘義鳴は、英盛に懇請して斎藤家の資料を閲覧させてもらったと記している。。
 『相生集』は、大正三年(一九一四)四月発行の『岩磐史料叢書』中巻に収録されているが、原本は、長泉寺・東大史料編纂所(四点)・国立公文書館内閣文庫(二点)・福島県立図書館等に所蔵されている。また、『相生集』上下二冊が、二本松市によって翻刻されている(平成17年2月発行)。ここでは、大鐘義鳴の菩提寺・長泉寺所蔵本を底本として紹介する。
 『相生集』巻十六「人物」「文学」の冒頭に、次の如く記している。原本の二行割書きは〔 〕で囲み、適宜、句読点を加え、改行した。

「  文学
親盛
斎藤氏、清三郎と号す。最上の家にありて、修理太夫家親に眤近して、諱の字給はりて、親盛とは称せしといへり。
其子秋盛〔喜兵衛〕は、万治二年慈明公に仕奉る。或書にいはく、親盛及び秋盛も倶に孫呉の学に志深く、親盛年若かりしより笈を負て四方に遊学し、みづから抄録する所の書、数百巻、今に子孫に伝けるとなり。(底本、「義鳴此頃」ト行間ニ朱書)其後葉某〔弥治兵衛〕に懇請して、可笑記と題する書を閲する事を得たり〔其他未見〕。其書のおもむき、子孫の訓誨を旨とし、神にまれ儒にまれ仏にまれ、人に益ある言行をあげて、自己の見解を交て、おもしろく書たるもの也。後世生学者の臆見僻案を論ひて、人を教ふるものと、日を同じうして語るべきにあらず。
さて其序に、
 寛永十二年孟陽中幹東海旅泊身如儡子綴筆
とあり。されども、本文には、正保以来の事もまじりたれば、寛永十二年に筆を起して、やう??巻をなしたるならん。〔ある書に見えたる如く、四方遊学の折、見聞に随て書たるものなるべし。
但跋には、
寛永六年の秋の頃に思ひ初て、拙き詞をつゞり初め、かな書の五巻十冊となりたるも其志ありがほ也云々、万治庚子孟陽中幹武心士峯居士跋書とあり。是は、名は異なれども、全自跋と見ゆれば、寛永六年より筆を起して、同じき十二年の頃には、少く巻成たるより、漸々に書きたるが拾巻とはなりたるらん。〕
○親盛の父広盛も、最上家にありしが、其家諍論の事起りて、国除かれし時、越後に赴き、土井利勝に招れ、其家にありて死し、親盛は秋盛とゝもに本藩に来り、後病を以死す。其墓、今当、神龍寺にありといふ。」

 四、研究書・辞典類の記述

1、野間光辰氏「如儡子系伝攷(上)」〔『文学』46巻8号、昭和53年(一九七八)8月。後、『近世作家伝攷』(昭和60年(一九八五)11月30日、中央公論社発行)に収録。〕
「(2)『世臣伝』には如儡子の父を広盛とするが、これは盛広の誤である。その事は加藤正従の『鶏肋編』(『山形県史』資料篇所収)乃至『飽海郡誌』等に所収もしくは引用の古記録類によって明かであるから、ここには攷証を略する。」
2、菊池真一氏「如儡子」〔『研究資料日本古典文学』第4巻、近世小説。昭和58年(一九八三)10月20日、明治書院発行。〕
「祖父光盛は越後の出身。父盛広は、上杉景勝、最上義光・家親・義俊に仕える。盛広は慶長十九(一六一四)年奉行に任ぜられた。この年、如儡子は一二歳頃であったが、やがて最上家親の近習衆として召され、元服にあたって主君の名を一字与えられ、親盛と名乗る。」
 3、野間光辰氏「如儡子」〔『日本古典文学大辞典』第4巻。一九八四年7月20日、岩波書店発行。〕
「出羽山形藩主最上家親の臣酒田城代斎藤筑後守盛広の嫡子として、慶長八年(一六〇三)ごろ生まれる。」
 4、『新編 庄内人名辞典』「斎藤筑後」〔昭和61年(一九八六)11月27日、庄内人名辞典刊行会発行。〕
「斎藤 筑後(さいとうちくご) 助左衛門・盛広 生没不詳 奉行。亀ケ崎城将志村九郎兵衛(光惟)の三奉行の1人。主君九郎兵衛が慶長19年(1614)6月鶴ケ岡城で横死してその家が断絶ののち、筑後は知行390石を与えられ、安倍越中(のちに寺内近江がこれに代る)、高橋伊賀とともに川北代官として、蔵入地となった志村氏遺領の行政に当った。後年川北の農民から非政を訴えられたが、勝訴しかえって加増となり、訴えた農民は処罰されたという。酒田の筑後町は、筑後あるいはその与力の居宅跡と伝えられる。※参考 29 E」……『?肋編』(『山形県史資料編』5・6)・その他の資料。
5、深沢秋男「如儡子」〔『日本古典文学大事典』平成10年(一九九八)6月10日、明治書院発行。〕
「父盛広は最上家親に仕え、川北三奉行の職にあった。清三郎も家親に仕え、一字を許されて親盛の名を与えられている。」
6、小川武彦氏「如儡子」〔『近世文学研究事典』平成18年(二〇〇六)2月20日、おうふう発行。〕
「如儡子は、出羽山形藩主最上家親の臣、酒田城代斎藤筑後守盛広の嫡子として慶長八年ごろ生まれる。」

 五、資料批判

 以上、みてきた通り、「盛広」と記す資料は、一見、諸資料に記されているように思われるが、実は、慶長十七年十月十八日に造られたと言う、吹浦大物忌神社の棟札のみであり、他はこの記録の引用である。また、「広盛」と記す資料も、二本松藩の丹羽家一族と家臣の家譜の集成である『世臣伝』と、同藩の地理沿革、人物事跡などを集成した『相生集』で、いずれも、斎藤家に代々伝えられた資料に基づいたものと思われる。
 これらの記録は、斎藤筑後守の伝記資料として、どの程度信頼し得るものであるのか、その点を検討したいと思う。

 1、慶長十七年十月十八日 吹浦大物忌神社棟札 の記述

 ①『飽海郡誌』巻十所収。
 まず、『飽海郡誌』の誤字を指摘すると、次の通りである。下が正しい。
 2行目 大工藤原未孫 → 大工藤原末孫
 3行目 迦陵頻加声  → 迦陵頻伽声
 7行目 衰憐衆生   → 哀憐衆生
 7行目 済藤筑後守  → 斎藤筑後守
これらは、翻字または印刷の時に発生したミスの可能性もある。因みに、②『山形市史 史料編1、最上氏関係史料』は、これらを訂正している。
 ④『山形県金石文集』山形県郷土研究叢書 8 所収。
 誤字と思われるのは、次の通りである。
 3行目 迦陵頻加声  → 迦陵頻伽声
 7行目 衰憐衆生   → 哀憐衆生
 裏6行目 迂述    → ●述
 ⑤鶴岡市立図書館郷土資料館蔵 相田家史料 五六。
 誤字と思われるのは、
 1行目 聖主天仲天  → 聖主天中天
 6行目 済藤筑後守  → 斎藤筑後守
 9行目 我等令敬礼  → 我等今敬礼
 さて、①・④は、いずれも、吹浦大物忌神社に伝えられていたという棟札からの写しに拠っていると思われるので、内容的には近い関係にある。ところが、⑤は、同じ棟札を写したと推測されるのに、①・④とは、かなりの異同がある。主なものを掲げると次の如くである。
  一、⑤にあって、①・④に無いもの。
 三行目   「本山奉行」
 五行目   「末浦喜助」
 六行目   「曽野辺平左衛門」
 七行目   「惣奉行」
 七行目   「村井源右衛門」
 九行目   「飯台」
 裏二行目  「番匠人足」
 裏八行目  「安野二左衛門」
  二、漢字の字体が異なるもの。 上が⑤、下が①・④。
 三行目   「祐晟」    「祐盛」
 四行目   「近藤但馬」  「進藤但馬」
 七行目   「村山采女」  「村山番」
 八行目   「相田靱衛」  「相田●衛」
 十行目   「外山」    「秋山」
 裏一行目  「出之」    「出也」
 裏三行目  「建立之」   「建立也」
 裏四行目  「釿立」    「創立」
 裏四行目  「遷述」    ④「●述」
 裏五行目  「祐晟」    「祐盛」
 裏五行目  「末浦」    「天浦」
 裏七行目  「吹浦村」   「吹浦之邑也」
 裏十行目  「茂左衛門」  「小右エ門」
 裏十四行目 「次右衛門」  「治左エ門」
  三、『法華経』の引用部分の誤り。×印が誤り。
①聖主天中天  迦陵頻×加声  ×衰憐衆生×□  我等今敬礼
 ④ 聖主天中天  迦陵頻×加声  ×衰憐衆生×□  我等今敬礼
 ⑤ 聖主天×仲天  迦陵頻伽声  哀憐衆生者  我等×令敬礼

 これらの、誤字・異同から、いくつかの事が推測される。
 1、①も⑤も「済藤筑後守盛広」としているので、棟札の原物も「済藤筑後守盛広」と誤って書かれていたものと推測される。④は翻刻する時に訂正したものと思われる。
 2、⑤に有るのに①・④に無いものが、かなりある。特に人名が五名も①・④には無い。これらは、⑤が補ったとするよりも、原物にあったものを、①・④が欠落させたものと思われる。それは、①・④の拠った、吹浦大物忌神社の写本が欠落していたものと推測するのが妥当であろう。
 3、⑤は、表裏ともに「大僧都法印祐晟」としているが、①・④は「大僧都法印祐盛」としている。これは、棟札の原物には「祐晟」とあったが、吹浦大物忌神社の写本、または、①・④が、一般的な「祐盛」に改めた可能性がある。
 4、『法華経』の本文は、巻第三・化城喩品第七に拠っているが、引用部分を見ると、①・④は三字誤字、一字欠字、⑤は二字誤字となっている。
 5、『棟札の基礎的研究』(二〇一〇年2月、岩田書院発行)の著者、秋山敬氏の御教示によれば、①・④の「対大行使」は「封大行事」が正しく、①・④・⑤の「小行使」は「小行事」を意味するのではないかと言うことである。
 6、①・④と⑤では、その他に、人名や表現に違いがある。これらの点に関しては、詳細な調査はしていない。
 以上、三点の写本について比較検討してみたが、これらを総合的に考えると、棟札の原物に近い形で伝えられているのは、⑤の「相田家史料 五六」であると判断される。それにしても、これらの棟札の写本を調査した結果から考えると、棟札の記載内容には、少なからず誤記もあり、その書写状況も、特に厳密であったとは言い難いという事になる。

 さて、神社仏閣などの棟札は、どのように作られるものであろうか。棟札に記された内容は、歴史の資料として、どの程度信頼し得るものであるのか。この疑問に関して、まず検討する必要がある。
 歴史の分野では、棟札の研究も行われているが、それらの研究書の中で画期的なものは、前掲の秋山敬氏著『棟札の基礎的研究』だと思われる。門外漢の、文学畑の私の判断ではあるが、本書は、徹底的に実地に調査した経験や調査結果に立脚した研究である、という点に信頼性がある。著者の秋山敬氏は、長年に亙って、山梨県内の神社仏閣の調査に従事され、その結果を、山梨県史編纂室で編集し、山梨県史資料叢書・全五冊として刊行しておられる。
 1、『山梨県棟札調査報告書 郡内Ⅰ』
                 (平成7年3月31日発行)
 2、『山梨県棟札調査報告書 国中Ⅰ』
                 (平成8年3月31日発行)
 3、『山梨県棟札調査報告書 河内Ⅰ』
                 (平成9年3月31日発行)
 4、『山梨県棟札調査報告書 国中Ⅱ』
                 (平成16年2月12日発行)
 5、『山梨県棟札調査報告書 郡内Ⅱ・河内Ⅱ・補遺』
                 (平成17年2月1日発行)
 全五冊の中で、調査・定着された棟札は、総合計三二八八点。甲斐国を対象にしたものではあるが、詳細な調査基準を設定して悉皆調査を目指した、この成果は十分な説得力を持つものと考える。全国的な調査では、国立歴史民俗学博物館の『社寺の国宝・重文等 棟札銘文集』全六冊(一九九三~九八年発行)があり、地域ごとのものとして、近時『可児市の神社 棟札集成』(平成22年3月18日発行)の成果もある。棟札研究は科学的に研究され始めていると言い得ると思われる。
 秋山敬氏は、右に掲げた長年にわたる、棟札の実地調査を基礎にして『棟札の基礎的研究』を公刊された。「第一章 棟札の作り方」では、「文献からみる棟札の書式・筆者・作製時期・作製枚数・設置方法・旧札の利用・「棟札」の呼び方」と、各項を述べられ、棟札の筆者に関しては、「神官・僧侶・大工・檀那・願主・施主・氏子・村役人・世話人・個人・修験・武士・教祖」を、それぞれ、実例に即して述べておられる。
 私は、水藤真氏の『棟札の研究』(二〇〇五年7月1日、思文閣出版発行)などをはじめ、棟札の研究書を読んでみたが、残念ながら、棟札に記された内容の信頼性や、人名等の誤記の発生の可能性に関して、自分で判断することができなかった。そこで、失礼とは思いながら、『棟札の基礎的研究』の著者・秋山敬氏宛に、慶長十七年十月十八日作製の吹浦大物忌神社棟札に関する資料を同封して、人名等の誤記の可能性について質問した。秋山氏は御研究に御多忙のところ、貴重な時間を割いて、御教示下さった。私宛の私信であるが、秋山氏の御了承を得て、以下に記させて頂く。

 「棟札は、神に捧げる願文と解される人もおりますが、私は願文というよりも、造営の事実を後世に伝え、建物造営が未来永劫継続できることを願って(この意味では願文ということになりますが、自分たちが造営に籠めた願意を引き継ぐよう求めているものはほとんどありません)、記録として納めたものと考えております。したがって、本来内容は正確であるべきはずでありますが、後世の偽作は論外としても、姓名等についてはっきりと間違いとわかるものも少なからず見かけられます。その理由は判然としませんが、一応次のように考えることができるように思っております。
 造営をめぐって集まる集団、即ち、職人(大工等)・工事発注者(個人・氏子・神主・僧侶等)・経費負担者(施主・檀那及びその代理人)等の間には必ずしも日常的に交流があるわけではないと思われる。ところが、棟札は一人で書いたとみられるものがほとんどだから、日頃交流のない集団の情報を正しく掌握できにくかったと考えられる。中には、棟札を書くことだけを依頼されるケースもある(『棟札の基礎的研究』35頁)。そのため、棟札筆者が情報のチェックができずに、誤報をそのまま記録したり、誤記するケースが発生したのではなかろうか。」
 秋山敬氏は、さらに、実例に即して、次のように説明して下さった。
「慶長十四年十二月十六日付けの玉諸神社社殿建立棟札(甲府市国玉町)には「……信心之大檀越天下大将軍右大臣源朝臣康泰公様武運御長久、……」とある。この大檀越は、その肩書から判断して徳川将軍のことと思われる。家康は慶長十年に将軍職を秀忠に譲っていたが、その後も「大御所」として実権を握っている一方、秀忠が右大臣になるのは同十九年だから、「康泰公様」は家康を指すとみられる。棟札筆者ははっきりしないが、神主に「殿」を付けているところからすると、大工かと思われる。将軍は天下に一人しかいないので、通常実名で読み書きすることはなかったところから生じた誤記かと推測される。
 富士川町天神中条の天神社には寛永十三年九月吉日付けの棟札と同年九月二十五日付けの勧進札が残るが、前者に載る「青山善四郎重政」、家臣「林十三郎重長」は、後者では「青山善四郎重長」、「林十三郎重成」と記されて実名が異なる。青山氏は旗本で天神中条村の領主、棟札は「筆者当村住顕応坊日慶」の手になる。ちなみに、『寛政重修諸家譜』では善四郎の実名は重長である。
 また、甲斐市富竹新田の神明神社の場合は、安永九年十一月吉祥日の上棟の際大工が作って納めた棟札の大工名は「松木定右衛門大江重興」と「進藤栄助勝為」だが、翌十年二月二十八日の遷宮式の際神主が納めた棟札では「松木定右衛門大江重與」「加藤栄助某」となっている。と、棟札表記の人名が明らかに誤っている事例がある。」
 最後に、秋山氏は、慶長十七年十月十八日の吹浦大物忌神社棟札に関して、
「さて、問題の棟札はいかがでしょうか。この棟札の筆者は「当山建立也」とあるところからすると、両所山神宮寺の別当祐盛なのでしょうか。そうすると、檀那や大工の名前が誤記される可能性は、山梨県の例をもってすれば少なくないとはいえましょう。」 
と結んでおられる。
 秋山敬氏の御教示によって、吹浦大物忌神社棟札の記載「斎藤筑後守盛広」の実態に近づくことが出来た。また、棟札の作製時期についても、秋山氏は、この著書の中で、「上棟時、遷宮時、成就時、地鎮祭、地形鑰建(地曳式)、亀腹、手斧(釿)始、立柱、屋堅、補作」の各項を掲げ説明しておられる。たとえ、斎藤筑後守が吹浦大物忌神社の上棟式に参列していたとしても、その儀式に掲げられた棟札の人名表記等の確認を厳密にはしていなかった可能性の方が大きいと思う。その点では、自ら署名・花押を書き、認印を押している年貢皆済状等と比較して、その信頼度は劣るものと思われる。伝存する年貢皆済状の署名は、慶長十三年までは「斎藤助左衛門」とあり、翌年の慶長十四年から「斎藤筑後」または「斎藤筑後守」となっている。従って、斎藤家第二代の助左衛門が、父光盛同様に「盛広」または「広盛」と改名したのは、慶長十四年であったと推測することができるだろう。この時、四十二歳くらいであったと思われる。その三年後に、吹浦大物忌神社の棟札は書かれた事になる。右に見た如く、棟札の筆者と思われる別当学頭法印祐盛は、手許に報告されたた関係者の役職・氏名などの原稿に基づいて棟札を書いたのであろうが
、その原稿自体に誤記があったり、棟札清書の段階で誤記が生じたりする可能性が無いとは言えない、と判断される。つまり、この棟札の「斎藤筑後守盛広」は、斎藤家第二代の当主の名前として、必ずしも信頼し得るものとは言い得ない、という事になる。

 2、『世臣伝』・『相生集』 の記述

 二本松藩・丹羽家の記録、『世臣伝』は、前述の如く、藩主の命によって編纂されたもので、成立は享和三年(一八〇三)である。編纂者は、当時の斎藤家の第八代邦盛、または第九代英盛に、斎藤家に代々伝わる記録を見せてもらって斎藤家の条の原稿を作成したものと推測される。『世臣伝』には、「玄蕃助広盛」が四ヶ所、「広盛」が十ヶ所出てくる。
 二本松藩には、藩の地理沿革、人物事跡等を集成した『相生集』二十巻がある。二本松藩士・大鐘義鳴の編纂であり、天保十二年(一八四一)の成立である。この大鐘義鳴も斎藤家に伝えられていた文書を閲覧して、斎藤親盛の条を執筆したと記している。第九代英盛か第十代徳盛に見せてもらったのであろう。その中には、写本『可笑記』もあったと伝えている。
 これらの、斎藤家に代々伝えられていたと思われる、記録・文書類は、一つの行李に入れられていて、第十二代源覇の頃までは存在していたという。第二次世界大戦の頃、斎藤家は東京五反田に住んでいたが、戦争が激しくなり、代々伝わる貴重な資料の焼失を避けるため、源覇の叔母・きみの嫁ぎ先、二本松の漆間家に保管を依頼したという。この資料の所在は、現在未詳であるが、いずれ発見される可能性は十分に考えられる。
 斎藤家に伝存していた原資料は果たして誰が作成したものであろうか。二本松藩に仕えた、第四代秋盛であろうか。或いは、二本松へ移住して、十五年間は、俳諧を楽しむゆとりのあった、第三代親盛(如儡子)その人であったかも知れない。そして、以後、代々書き継いできたのかも知れない。これらは原資料の筆跡を比較すれば、それは明らかになるだろう。
 『世臣伝』の伝える斎藤家の内容は、野間光辰氏が詳細に考証を加えておられる点からも明らかなように、そこには、自分の先祖を良く表現したいという、身贔屓な要素もあるかも知れない。また、遠い過去の事ゆえの記憶違いもあるかも知れない。しかし、自分の先祖の第二代当主の名前を、「盛広」であるのに、「広盛」と故意に改める必要は、全く無いと思われるし、そのように誤って十四箇所も使用した可能性も少ないと思われる。それらの諸点を批判した後に活用するならば、この『世臣伝』・『相生集』の記録は、斎藤家の歴史を考える上で、貴重な資料であると判断される。

 六、まとめ

 以上、斎藤家第二代筑後守は、「盛広」か「広盛」か、という疑問に対して、伝えられている記録を、やや具体的に検討してきた。
 斎藤家は、初代光盛→【二代□□】→三代親盛→四代秋盛→五代富盛→六代常盛→七代親盛→八代邦盛→九代英盛→十代徳盛 と江戸時代は「□盛」と「盛」が下に付いている。また、第三代・清三郎(如儡子)が、主君・最上家親から「親」の一字を賜った時、「広親」とせず、「親盛」としている。これらの条件をも併せ考慮する時、第二代目は、「広盛」とするのが妥当なものと思われる。
 結論的には、斎藤家第二代筑後守は「又十郎、玄蕃助、助左衛門、広盛」と認識すべきものと判断される。

 我々が過去の歴史上の人物の伝記を作成する場合、さまざまな資料を使う。その場合、重要なことは、伝記資料のランク付けをして、資料批判を加えて、その上で利用すべきであるということである。私はこれまで、井関隆子・鹿島則文・鹿島則孝・鈴木重嶺・飯田龍一など、歴史上の人物の伝記研究をしてきたが、その間に多くの先学の御指導を賜った。その経験と反省から、仮名草子作者・如儡子(斎藤親盛)の伝記研究の方法を模索してきた。
 私はかねがね、伝記資料を次のように区分すべきではないかと考えている。
 第一資料 過去帳・位牌・墓石
 第二資料 本人の作品・著作、自筆の記録類
 第三資料 公的記録(幕府の史料、藩の史料、市町村の記録、棟札、地図等)
 第四資料 父・子・先祖・子孫・親族・友人・知人等の関連資料
 第五資料 軍記・軍書・物語
 第六資料 その他
このように区分して、出来るだけ、各々を混合せずに活用するように努力してきた。また、伝記資料は、原資料を出来得る限り、手を加えず、資料全体を写真や翻刻で定着するように努力してきた。「如儡子(斎藤親盛)調査報告」として公表してきたのは、そのためである。出来得る限り、信頼できる資料に基づいて骨格を組み上げ、その他の資料で肉付けしたいと願っている。しかし、これは、言うは易く、実行するは、誠に大変な事で、未だに思うような水準までたどりついてはいない。

 [注1] 現在までに確認できた、斎藤筑後守関係の資料は、次の三四点である。
1、慶長八年 「山口村年貢皆済状」 斎藤助左エ門
2、慶長九年 「山口村年貢皆済状」 斎藤助左エ門(花押)
3、慶長十年 「山口村年貢皆済状」 斎藤助左エ門(花押)
4、慶長十一年 「山口村年貢皆済状」 斎藤助左エ門(花押)
5、慶長十二年 「山口村年貢皆済状」 斎藤助左エ門(花押)
6、慶長十三年 「山口村年貢皆済状」 斎藤助左エ門(花押)
7、慶長十四年 「山口村年貢皆済状」 斎藤筑後(花押)
8、同     「横代村年貢皆済状」 斎藤筑後(花押
9、同     「山屋村年貢皆済状」 斎藤筑後(印)
10、慶長十五年 「横代村荒地開作之事」 斎藤筑後(印)。高橋
        伊賀・湯村信濃・進藤但馬の四名連名
11、同     「一条八幡神社文書」 斎藤筑後(花押)
12、同     「山口村年貢皆済状」 斎藤筑後(花押)
13、慶長十六年 「荒田目村年貢皆済状」 斎藤筑後(印)
14、慶長十七年 「南神田村年貢皆済状」 斎藤筑後(花押)
15、同     「吹浦大物忌神社棟札」 小行使 斎藤筑後守盛
        広
16、慶長十九年 「沖口御役銀之覚」 斎藤筑後(印判 書判)。高
        橋伊賀の二名連名
17、同     「山屋村年貢皆済状」 斎藤筑後(印)
18、元和元年  「古之板扱之事」 斎藤筑後(花押)。安部越中・
        高橋伊賀の三名連名
19、同     「杉小羽之事」 斎藤筑後(花押)。安部越中・高
        橋伊賀の三名連名
20、元和二年  「山屋村年貢皆済状」 斎藤筑後(印)。中山次郎
        右衛門の二名連名
21、同     「本河村興目検地帳」、斎藤筑後守
22、同     「斎藤筑後外連署書状」 斎藤筑後守。高橋伊賀
        守、寺内近江守の三名連名
23、元和三年  「町内元造料銀子之事」 斎藤筑後(印)。高橋
        伊賀、寺内近江の三名連名
24、元和四年  「蕨岡大物忌神社棟札」 川北代官斎藤筑後守
25、同     「亀ケ崎八幡神社棟札」 斎藤筑後守。寺内近江
        守、高橋伊賀守の三名連名
26、同     「山屋村年貢皆済状」 斎藤筑後(印)。中山次郎
        右衛門の二名連名
27、元和五年  「斎藤筑後外連署請取状」 斎藤筑後守(印)。高
        橋伊賀守、寺内近江守、三名連名
28、元和六年  「熊野田村・熊野田興野村興地検地帳」 斎藤筑
        後守
29、同     「斎藤筑後外連署書状」 斎藤筑後守(花押)。高
        橋伊賀守、寺内近江守の三名連名
30、同     「一条八幡神社棟札」 川北代官 斎藤筑後守。
        寺内近江守、高橋伊賀守の三名連名
31、元和七年  「吉出村山手年貢皆済状」 斎藤筑後守(印)。中
        山次郎右エ門の二名連名
32、元和八年  「山屋村荒地開作申事」 斎藤筑後守(印)。高橋
        伊賀守、寺内近江守の三名連名
33、同     「山屋村荒地開作之事」 斎藤筑後守(印)。高橋
        伊賀守、寺内近江守の三名連名
34、同     「酒田町へ防火用具配備の命」 斎藤筑後守(花
        押)。高橋伊賀守、寺内近江守の三名連名
[注2]「斎藤親盛(如儡子)調査報告(3)――『世臣伝』・
 『相生集』――」(『文学研究』第68号、昭和63年12月)
 [注3] これまで、次の報告をしている。
1、「如儡子(斎藤親盛)調査報告(1)――研究史・二本松(作
 者晩年)関係資料・斎藤家系図――」(『文学研究』第67号、昭
 和63年6月)
2、「如儡子(斎藤親盛)調査報告(2)――父・斎藤筑後と如儡
 子出生の地――」(『近世初期文芸』第5号、昭和63年12月)
3、「如儡子(斎藤親盛)調査報告(3)――『世臣伝』・『相生集』
 ――」(『文学研究』第68号、昭和63年12月)
4、「如儡子(斎藤親盛)調査報告(4)――二本松藩諸資料、『二
 本松寺院物語』――」(『文学研究』第70号、平成元年年12月)
5、「如儡子(斎藤親盛)調査報告(5)――如儡子の墓所――」(『文
 学研究』第78号、平成5年年12月)


  付 記 
 この度の調査・考察にあたって、多くの方々に御指導を賜り、諸機関には御配慮を賜った。殊に、鶴岡市立図書館・鶴岡市郷土資料館には、格別の御配慮を賜った。また、同館の秋保良氏には、長年に亙って、如儡子・斎藤親盛に関して御指導を頂いたが、この度も貴重な御指導を賜った。
 次に、今回は、特に棟札が考察の対象になったが、この点に関しては、『棟札の基礎的研究』の著者、秋山敬氏に、具体的な御指導を賜った。秋山氏のお導きがなければ、この結論を得ることは不可能であった。
 以上の諸機関と諸氏の御厚情に対して、心から感謝し、厚く御礼申し上げます。            平成二十二年九月十九日
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
本稿は、平成22年12月発行の『近世初期文芸』第27号に掲載されたものである。ここでは「棟札」の資料などを省略している。正式の論文としては、『近世初期文芸』第27号のものを利用して頂きたい。




⑧、川北奉行齋藤筑後守広盛の事績
            田村 寛三
              (『荘内日報』2010年12月3日)

 広盛の父親、齋藤家初代・光盛は越後の人であったが出羽の国に移り、庄内の守護大宝寺義氏に仕え、藤島の城代となった。光盛は16歳の初陣より、ここかしこの軍に従事し、自ら敵の首を切ること32、中でも土佐林中務少輔を討ち捕り、勇名をとどろかせた。戦国乱世の子にふさわしく、武将として活躍した。33の首を捕って首塚を築くことを念願としていた。ある戦いで、一人の敵とむんずと組み合い、もみ合い、ついに刺し違えて死んだ。時に1582(天正10)年、32歳だった。
 広盛は1568(永禄11)年、光盛の長男として出生した。天正10年、父光盛の戦死により家督を相続し2代当主となる。15歳である。
 1583(天正11)年3月、広盛、16歳で初陣。東禅寺筑前守、東禅寺右馬守とともに大浦城(大山)を襲い、主君・武藤義氏を自害させる。1588(天正16)年8月、本庄繁長は東禅寺筑前守、東禅寺右馬守兄弟と十五里ケ原で戦い、これを破る。この戦いに広盛も参戦し、敗戦ののち、居城・藤島城へ立て籠もった。繁長は押し寄せて攻めたが落城せず、和議が成立した。広盛は以後、上杉景勝に仕え、元通り藤島城に住した。
 1600(慶長5)年、主君の上杉景勝が徳川家康にそむき、直江兼続が出陣したという情報を入手した広盛は、手勢300余人を率いて出陣し、最上方の砦・古ロ城(戸沢村)、庭月城(鮭川村)を攻略して、直江山城守が庄内へ入りやすくした。
 この時、関ケ原では石田三成の西軍が破れた。これを知った直江兼続は米沢へ撤退し、味方も散り散りになった。しかし、酒田城のみ城主志田修理義秀をはじめ、広盛も動じることなく、寄手の大将・最上家親と1カ月余りも攻防を続けた。しかし、元上杉方の臣下で今は最上方に従っている下対馬守秀実の説得に応じて、志田も城を明け渡すことになった。
 広盛は最上家の重臣・酒田城代志村伊豆守光惟に請われて仕えることになった。1614(慶長19)年、光惟が暗殺されたので、広盛は直接、最上家に直接仕えることになり、やがて酒田城代となり、知行390石、筑後守を名乗った。これは東禅寺筑前守の跡を継ぐという心持ちの表れだと推測される。広盛の妻は筑前守の弟、東禅寺右馬守の娘である。       「
 1603(慶長8)年、川北奉行として年貢皆済状に齋藤助左衛門と署名する。30歳である。この年を境に、広盛は今までの武将としての活躍から、行政家としての面目を発揮してゆく。1622(元和8)年、山形藩没収に伴って最上家を辞し、酒田を離れるまでの19年間にわたって広盛は飽海、特に酒田の戦後復興に力を尽くしている。いわば広盛は初期酒田町を形成した大恩人と言える。
 最も信頼される史料としては、現在に残されている川北三奉行として発した年貢皆済状や棟札である。
 昭和女子大学名誉教授の深沢秋男先生は、広盛の長男親盛・如儡子(『可笑記』『砕玉抄』『堪忍記』『百八町記』『百人一首鈔』の著者、文学者)の研究を長く続けられている篤学者である。深沢先生は如儡子研究のため、父広盛をはじめ齋藤家全体を調べられ、酒田にも何遍か、調査においでになっている。
 1988(昭和63)年8月17日の一条八幡神社文書の調査には私も同行した。この時のことは、今でもきのうのことのように、鮮やかに懐かしく思い出される。次の一覧表は深沢先生作成のものである。【「斎藤筑後関係文書一覧」は省略】
 父広盛は下総佐倉城主・土井利勝の懇請によって佐倉城の留守居に就くことになったようであるが、この直後に56歳で急逝したらしい。    
   ◇  ◇
 広盛筑後守は、いつごろからか今の筑後町に屋敷を構えた。同時に彼の与力(戦国時代、侍大将などに付属する騎士、寄騎とも書く)たちも住んでいた。現在の筑後町は当初、鶴田口浜町と称していたが、1686(貞享3)年2月、筑後町と命名した。これは齋藤筑後及びその与力が住んでいたことに由来する。文学者の親盛・如儡子はここで生まれた。ちなみに近江町は同じく川北三奉行の寺内近江が住んでいたことによる。同じく三奉行の高橋伊賀の屋敷があった所は、町奉行所(上内町)になっている。戦国時代、齋藤筑後、寺内近江が庄んでいたとすれば、馬場があったとしても不思議ではない。馬場小路はその名残と思われる。なお、現在の八軒町は筑後の与力その他8軒があったところから付けられた名前である。
 筑後町と称する以前、ここは西からの風砂の害に悩まされていたので、1783(天明3)年、その西方に延長100間(180メートル)の土手を築いた。その土手が今の妙法寺山である。
 齋藤家12代当主輝利(豪盛)氏は長井市で事業を経営されておられるが、先祖崇拝の念が厚く、以前には上日枝神社に大灯篭を寄贈され、その後、毎年、山王祭礼に参列されている。今回、輝利氏は上日枝神社境内に、特に現宮司藤井氏の了承のもと、「川北奉行齋藤筑後守記念碑」を建立することになった。碑文の執筆者は深沢秋男先生である。そして、明年10月ごろ、竣工予定と聞く。
 ちなみに上日枝神社は875(貞観17)年、近江国坂本の山王宮より勧請された。初め袖之浦に御旅所があったところから、袖之浦が宮之浦になったと伝えられる。間もなく東禅寺城(のち亀ケ崎城)内にまつられた。1612(慶長17)年、近くの住民の願いにより、山王堂町に移建された。ここが度々洪水に襲われるので1636(寛永13)年4月、今の近江町へ移建された。
 筑後守広盛と東禅寺城(のち亀ケ崎城)との関係は深い。城主志村九郎兵衛光惟が一栗兵部から殺された後は広盛が城代となっている。また、関ケ原合戦の際には、東禅寺城主志村修理義秀を助けて寵城し、寄手の大将最上家親と1ヵ月余りも攻防を続けた。その後、下対馬守の説得に応じて城を明け渡した。東禅寺城には城内鎮守として日吉社(のちの上日枝神社)がまつられており、これを守ったことになる。
 それから411年後の明年、上日枝神社境内に「齋藤筑後守記念碑」が建てられることは、因縁というか、人智を超えた不思議な神仏の意思を惑じるのである。
 広盛の子、親盛・如儡子は文学者として知られる。代表作の『可笑記』は中世の随筆、古田兼好の『徒然草』の形式にならった随筆集である。『徒然草』のように来世思想に基づくむのでなく、明るい現世肯定・人間重視の立場から述べられており、高く評価されている。
 『百八町記』は儒教・仏教・道教の三教一致を説いた仮名草子である。書名は三教の一理を一里として三十六町を合わすという心からつけ5れた。如儡子の号は如来子をもじったものと推測され、のちには仏教へ帰依している。『砕玉集』は百人一首の注釈書である。
 親盛は儒、仏、道に通じた学者であり、一時、医者を営んでおり、優れた教養人であることが分かる。
 1660(万治3)年、子の4代秋盛が福島の二本松藩主・丹羽光重に召し抱えられたため、一家は江戸から二本松に移住した。齋藤家の菩提寺は二本松市松岡にある臨済宗妙心寺派・神龍山松岡寺であり、ここに墓所がある。
 この墓所も13代輝利氏が2度にわたって改葬しておられる。
                (郷土史家、酒田市本町一丁目)


⑦、斎藤親盛(如儡子)の著作

 【1】 『可笑記』(かしょうき)

随筆的仮名草子。版本、5巻5冊。

作者
版本の奥書には「于時寛永十三/孟陽中韓江城之旅泊身筆作之」とあり、「如儡子」の署名はない。しかし、当時の書籍目録にも「五冊 可笑記 大小 如儡子作」(寛文10年刊『増補書籍目録 作者付大意』)とあり、二本松藩の『相生集』にも『可笑記』及び作者に関して、詳細に記されているので、この「江城之旅泊身」が如儡子・斎藤親盛であることは明白である。

成立
寛永6年(1629)執筆開始か。二本松藩の『相生集』の編者は、斎藤家の子孫から『可笑記』の写本を見せてもらい、その跋に「寛永六年の秋の頃に思ひ初て、拙き詞をつゞり初め、……」とあったと記しているので、執筆開始は、親盛27歳の寛永6年としてよいだろう。最上家を辞し、浪人となって7年後のことである。その写本の序には「寛永十二年孟陽中幹……」とあったというが、初版の寛永19年版11行本の奥書には「于時寛永十三孟陽中韓……」とあるので、寛永12年か13年には、一応全体が整い、「寛永壬午季秋吉旦刊行」と刊記にある、寛永19年(1642)に刊行されたと推定される。

内容
中世の随筆、吉田兼好の『徒然草』の形式にならった随筆風の形式をとっている。巻1=48段、巻2=48段、 巻3=42段、巻4=52段、巻5=90段、これに、序と跋を加えて、全282の長短の文章から成る。各段の配列は、相互に深い関連はなく、内容別に分類すると、一般人の心得に関するもの105段、侍の心得に関するもの51段、主君の道に関するもの39段、身辺雑記的なもの25段、儒教・仏教に関するもの22段、説話的なもの13段、その他25段となっている。

特色
この作品は、中世の『徒然草』の影響を受けているが、『徒然草』のように来世思想に基づくものではなく、近世初期の作品にふさわしく、明るい現世肯定・人間重視の立場から述べられている。第一の特色は、鋭い批評精神にあり、その批判の対象は、主として、無能な大名や、大名を補佐する、家老・出頭人に向けられている。「如儡子」というペンネームを使い、各段「昔さる人のいへるは」と書き出して、現実の話ではないような形式をとっているのは、この厳しい批判をカムフラージュするための手段であったと思われる。
次に注目すべき特色は、作品の文体である。当時の他の仮名草子作品の多くは、中世的な雅文体であったのに対して、この作品は、漢語や俗語など、現実に使われている言葉を自由に取り入れた、一種の俗文体で書かれている。この簡潔明快な文体は、神や仏に救いを求めることなく、人間の力を信じ、来世よりも現世を重視する、近世初期の新しい社会を表現するのに適したものであった。
次に指摘すべき点は、作者が、一段一段を作る時、実に多くの先行著作を摂取しているということである。長い戦乱で文化が中断していたこともあり、近世初期の人々は、自分たちの作品を創る前に、まず、古代・中世の文化の吸収・理解から着手した。仮名草子において、典拠の問題は、全体の作品にわたって言えることである。『可笑記』が多く利用した先行作品は、『徒然草』と『甲陽軍鑑』である。『徒然草』では、その注釈書の『野槌』や『寿命院抄』も利用している。そのほか、『沙石集』『十訓抄』『清水物語』『童観抄』『巵言抄』『論語』『孟子』などをはじめ、日本や中国の広範囲の著作に及んでいる。親盛は、若い頃、諸国を遊学して、書写するところの写本は数百巻に及んだと言うが、その素養が活かされているものと思われる。そして、これらの先行著作の利用にあたって、作者はそれらを充分に消化して、自由自在に取り入れている。その力量は高く評価してよいものと思われ、これも、この作品の重要な特色となっている。

諸本
1、写本、大本、5巻10冊、寛永12年成立。 二本松藩士・大鐘義鳴は、天保12年(1841)に、『相生集』の「文学」の項を執筆するに当たって、斎藤親盛の子孫、9代・英盛から、斎藤家に代々伝わる資料を閲覧している。その中に『可笑記』の写本があったという。その序には「寛永十二年孟陽中幹東海旅泊身如儡子綴筆」とあり、跋には、「寛永六年の秋の頃思ひ初めて、拙き詞をつゞり初め、……万治庚子孟陽中幹武心士峯居士跋書」とあったという。この斎藤家の資料は、現在、所在が未詳であるが、今後、発見される可能性は十分にある。
2、寛永19年版11行本、大本、5巻5冊。この作品の初版本であり、写本に次ぐ原初的な形態を伝えている、最も優れた本文である。奥書には「于時寛永十三孟陽中韓江城之旅泊身筆作之」(1636)とあり、刊記は「寛永壬午季秋吉旦刊行」(寛永19年、1642)とある。
3、寛永19年版12行本、大本、5巻5冊。この12行本は、11行本の準かぶせ版であり、11行本をかなり忠実に伝えている。句読点を付加し、振り仮名を多くして、その普及に役立った点に意義がある。11行本を利用して1行増やしたもので、奥書も刊記も11行本と同じである。刊行年は断定できないが、慶安元年(1648)頃の刊行かと推測している。
4、無刊記本、大本、5巻5冊。この版は、12行本を底本にしたものと思われるが、特殊な表現を一般的に改め、回りくどい文章を簡略化し、話し言葉を書き言葉に改め、仮名を漢字に改め、字体も小さくしており、12行本以上に普及版としての性格を持っている。後続の絵入本や可笑記評判が、共にこの無刊記本を底本にしたものと推測され、その意味では、この本文は流布本的存在であると言い得る。
5、万治2年版絵入本、半紙本、5巻5冊。無刊記本を底本に使用し、底本に対して忠実であるが、むしろ盲従的である。機械的な誤読・誤刻が多く、劣った本文と言える。しかし、この版は師宣風の挿絵・41図を付加し、半紙本という軽装版にして読者に応えたという点で意義があったと思われる。
6、万治3年刊、可笑記評判、大本、10巻10冊。著者は浅井了意。厳密には『可笑記』の諸本には入らないが、『可笑記』の本文の大部分を収録しているので、参考として加えた。本書は、まず、可笑記の本文を掲げ、1字下げて、批評を加えるという体裁をとっている。可笑記本文の底本は無刊記本を使用したものと推測される。無刊記本の誤りを正す事も多いが、誤脱は多く、可笑記本文としては最も劣ったものと言い得る。全280段の内、批評を付加したのが231段、批評を省略したのが46段、可笑記本文・批評共に省略したのが3段となっている。

複製
1、仮名草子選集・国立台湾大学図書館本影印(1972年1月、台北・大新書局発行)。寛永19年版11行本の複製で、巻頭に、巻1・巻3・巻5の原表紙の写真を掲げ、略書誌を付す。複製は、原本を解体して、1丁開いた形で収めている。所蔵番号・蔵書印・柱刻などを消しているが、金子和正氏から頂いた写真と比較してみると、台湾大学図書館所蔵本が底本であると推定できる。
2、可笑記大成―影印・校異・研究―(田中伸・深沢秋男・小川武彦共編著、昭和49年4月30日、笠間書院発行)。寛永19年版11行本を複製し、脚注の形式で、寛永19年版12行本・無刊記本・万治2年版絵入本との校異を掲げる。

翻刻
1、徳川文芸類聚・第二・教訓小説(朝倉無声例言、山田安栄・伊藤千可良・岩橋小弥太校、大正3年6月25日、国書刊行会発行)。振り仮名は省略。巻1は無刊記本、巻2~巻5は寛永19年版11行本を底本に使用しているものと推定される。
2、近代日本文学大系・第一・仮名草子集(笹川種郎解題、昭和3年12月18日、国民図書株式会社発行)。送り仮名・振り仮名など、原本とはかなり離れており、異同関係から推測すると、『徳川文芸類聚・第二・教訓小説』を参照して本文作成をした可能性がある。なお、『可笑記』の挿絵として掲げるものは、古浄瑠璃『公平天狗問答』の挿絵である。
3、仮名草子集成・第14巻(朝倉治彦・深沢秋男共編、1993年11月20日、東京堂出版発行)。寛永19年版11行本を底本として、無刊記本との異同を行間に示した。ただし、全面的な異同ではない。
4、教育社新書・原本現代訳51(渡辺守邦訳、1993年11月20日、教育社発行)。寛永19年版11行本を底本にした現代語訳(抄訳)。

 【2】 『砕玉抄』(さいぎょくしょう)

百人一首注釈書。写本、列帖装、15帖。

著者
奥書に「時寛永巳之仲冬下幹江城之旅泊身/雪朝庵士峯ノ禿筆作/如儡子居士」とあるので、如儡子・斎藤親盛の著作として誤りはないだろう。

書名
如儡子・斎藤親盛の「百人一首」の注釈書には、『砕玉抄』の他に、『百人一首鈔』『酔玉集』『百人一首註解』が伝存している。武蔵野美術大学美術資料図書館・金沢文庫所蔵の『砕玉抄』には、前表紙の中央上部に「砕玉抄」と直接墨で書かれている。1丁裏の内題は「百人一首」とある。国会図書館所蔵の『酔玉集』には、3冊とも題簽に「酔玉集」とある。「酔玉集」ならば、「玉に酔う」「珠玉の和歌に陶酔する」ということで、書名となる。「砕玉抄」の場合、原典の内容をかみ砕いて、分りやすく読み解く、という意味に解釈すれば、これも書名として不自然ではない。また、「抄」は、近世初期の古典注釈書に多く使用されていて、「注釈」の意味である。

成立
奥書に、「時寛永巳之仲冬下幹江城之旅泊身/雪朝庵士峯ノ禿筆作/如儡子居士」とある。寛永の年号の中で巳年は、6年と18年である。6年に如儡子は27歳、18年には39歳である。また、寛永6年には『可笑記』の執筆を開始している。このような諸条件を考慮して推測すると、この『砕玉抄』の成立は、寛永18年(1641)、著者39歳の頃とするのが妥当と思われる。

内容
「百人一首」の注釈書。巻頭に序説がある。第1・天智天皇から、第100・順徳天皇まで収録。各項は、歌人名、歌人略伝、和歌、注釈となっており、略伝・注釈に対して、小字の頭注を付す。『砕玉抄』の歌人の配列順序は、一般的な百人一首の配列とは異なり、異本百人一首系統の配列となっている。

特色
著者は本書の奥書で、ある鄙人(田舎の人)の依頼によって、自らの非才をも省みず、この百人一首の注釈書を執筆したと言っている。それまでの百人一首の注釈書は、秘伝的・口伝的で貴族趣味に傾倒していたが、本書は、それらとは異なり、非常に易しい内容で、一般庶民に普及しようとする意図が推測される。本文は言うまでもなく・小さい文字の頭注にも、大部分の漢字に振り仮名が付けられている。ここにも、仮名草子作者と共通した啓蒙的態度をみることができる。

諸本
1、砕玉抄、武蔵野美術大学美術資料図書館・金原文庫蔵、半紙本、列帖装、写本1冊、15帖・209丁。奥書「時寛永巳之仲冬下幹江城之旅泊身/雪朝庵士峯ノ禿筆作/如儡子居士」。歌人の配列順序は異本百人一首系統の配列に近い。本書は、列帖装であり、摩損等の状態から判断して、かなり年数が経過しているものと思われ、近世初期の書写本の可能性があり、その上、第7番歌、参議篂の歌の関係から、この写本は、著者・如儡子の自筆本の可能性さえ考えられる。極めて貴重な存在である。もちろん、本文も最も優れたものと判断される。
2、百人一首鈔、水戸彰考館文庫蔵、大本、写本4冊、342丁、奥書は『砕玉抄』と同様であるが、その後に「寛文二壬寅歳晩夏中旬/重賢書之」とある。従って、この写本は、寛文2年(1662)に「重賢」によって書写されたものということになる。『砕玉抄』を写したものと推測されるが、非常に忠実に書写されている。歌人の配列順序は異本百人一首系統の配列に近い。「重賢」の詳細は未詳であるが、二本松藩の人物の可能性がたかい。
3、酔玉集、国立国会図書館蔵、大本、写本10巻10冊、251丁、内容は『砕玉抄』と同様であるが、歌人略伝の後に、系図を掲げている歌人もある。奥書は「時寛永巳仲冬下幹江城之旅泊身雪朝庵士/峯一禿筆作也」とあり、1行あけて、次の年記「于時延宝庚申秋涼」がある。歌人の配列順序は、一般的な百人一首の配列と同様になっている。
4、百人一首註解、京都大学附属図書館蔵、半紙本、写本2冊、139丁、奥書は無い。歌人の配列順序は、一般的な百人一首の配列と同様であるが、88番歌以下が異なる配列になっている。また、17番歌・在原業平の注釈は、3行と7字で、以後は空白になっている。

翻刻
1、砕玉抄、序説・第1天智天皇~第60清少納言(深沢秋男校訂、『文学研究』第93号・第94号、『近世初期文芸』第22号・第23号、平成17年~平成18年)。以後は全巻を単行本として出版する予定。
2、酔玉集(深沢秋男校訂、『近世初期文芸』第13号・第14号、平成8年~平成9年)。
3、百人一首註解・百人一首注釈書叢刊・15(島津忠夫・乾安代編、1998年2月28日、和泉書院発行)。

 【3】 堪忍記(かんにんき)

諸大名の藩主・石高・内情等を記し、批評したもの。写本、1冊。

著者・編者
この著書には、著者名・編者名は記されていない。棚倉藩士・上坂平次郎(三休子)の『梅花軒随筆』に「……儒者斎藤意伝浪人して後、可笑記、百八丁記……、堪忍記抔を作りけるゆへ、かへつて用ひられざりしとなり。」とあり、本書の序・記述内容・批評態度・文体等を考慮すると、藩主名・石高などの基本的な資料を入手した著者が、批評などを付加したものと推測される。如儡子・斎藤親盛は、浪人中に、短期間ではあるが、さる西国大名の祐筆を勤めたことがあるという。そんな関係もあって、このような諸大名を鳥瞰する如き基礎資料に接する事もあり、これを利用して、本書を作ったのではないか。その意味では、如儡子は編著者くらいが妥当のように思う。

成立
松平文庫本(松平宗紀氏蔵、福井県立図書館保管)の内題の下に「私ニ云正保ノ比出来歟」とある。収録主要藩主の着任・離任の年を検討した結果、正保元年前後の4年間の歴史的事実を基にして作られたと推定される。松平文庫本(A)は、正保2年(1645)、内閣文庫本(B)は、正保4年(1647)の成立と思われる。

内容
松平文庫本(A)は、110の藩について、知行高・藩主・藩名・知行・物也・家臣の勤務条件・藩主に対する評価などが記され、内閣本(B)には、106の藩について、さらに、序・室・子息・家紋・旗印・江戸屋敷・家老の名等が記されている。

特色
江戸時代、諸大名の国名・知行高・物成・江戸屋敷などを記し、その主君の人となり、家臣の使い方などを批評したものに、『武家諫忍記』『武家勧懲記』『土芥寇讎記』などの類書がある。如儡子の『堪忍記』は、それらの中では、最も早い時期のものであり、また、諸大名に対する批評も厳しいものがある。『可笑記』の作者にふさわしい、批判精神旺盛な著者の特色が出ている。

諸本
1、松平文庫所蔵本(松平宗紀氏蔵、福井県立図書館保管)。写本、半紙本、1冊。26丁。表紙は本文紙と共紙で、中央上部に「堪忍記 全 百十人」とある。内題は「堪忍記」とあり、その下に「私ニ云正保ノ比出来歟」とある。記述体裁は、110の大名について、知行高・姓名・藩名・物成・米払いの良否・年貢率・国役・江戸詰の良否・家中の風儀・主人の善悪等について簡略に記す。
2、国立公文書館蔵、内閣文庫・和学講談所本。写本、大本、1冊。38丁。薄茶色刷毛目表紙の左肩に子持枠題簽で「堪忍記 全」と墨書。巻頭に序がある。記述体裁は、106の大名について、知行高・姓名・官位・御前・子息・家紋・旗印・領国・居城・物成・米払いの良否・年貢率・国役・江戸詰の良否・家中の跡目取立ての有無・家中の風儀・主君の善悪・江戸屋敷・家老の姓名等について記す。
3、国立公文書館蔵、内閣文庫・昌平坂学問所本。写本、大本、1冊。38丁。薄茶色原表紙の左肩に四周単辺題簽で「堪忍記 完」と墨書。序・記述体裁など、和学講談所本と同様である。本書は、内閣文庫の蔵書目録に、昌平坂学問所本とされているが、「秘閣図書之章」の蔵書印があること、その他の点から、紅葉山文庫の旧蔵という可能性もある。

翻刻
1、松平文庫本 堪忍記(深沢秋男校訂、『近世初期文芸』第6号、平成元年10月)。
2、内閣文庫本 和学講談所本・昌平坂学問所本(深沢秋男校訂、『近世初期文芸』第7号、平成2年12月)。

 【4】 『百八町記』(ひゃくはっちょうき)

儒教・仏教・道教の三教一致を説いた仮名草子。版本、5巻5冊。

著者
5巻巻末の「愚序」に、「承応四年秋始下日/如儡子これを躙にす」とあり、その後に「物故 武心士峯居士老後加筆」とあるので、承応4年(1655)に如儡子が書き、老後出家した身で加筆したものと解釈される。「物故」は、一般に死者・死後の意味で使用されるが、ここでは、仏門に帰依したという意味で使われているものと思われる。この「物故」の解釈に関しては、僧籍にあった漆間瑞雄氏の示教を得た。斎藤親盛は、万治3年(1660)に、江戸から二本松へ一家そろって移住した。次の年に娘(一竿宗筠禅定尼)が他界し、松岡寺に葬った。さらに2年後の、寛文3年(1663)に妻(玄光妙宗大姉)を失う。次の年に『百八町記』は刊行されている。如儡子・62歳の時である。そのような状況の中で、この「物故」は使用されている。如儡子は、長年連れ添ってきた妻の他界の前後に仏門に帰依したのであろう。宗派は、菩提寺・松岡寺の、臨済宗であったと思われる。
寛文10年(1670)刊『増補 書籍目録 作者付/大意』に「五冊 百八町記 如儡子作浅井松雲加筆 三教一理之書」とあり、同時代の仮名草子作者・浅井了意が加筆したと記している。これに関しては、諸氏の調査・考察があるが、浅井了意加筆という説には否定的である。今後、検討を加えたいと思う。

書名
棚倉藩士・上坂平次朗の『梅花軒随筆』に「……儒者斎藤意伝浪人して後、可笑記、百八丁記〔三教一理ヲ壱里ニシテ三十六丁ヲ合スト云心ナリト〕、堪忍記抔を作りけるゆへ、かへつて用ひられざりしとなり。」とあるように、儒教・仏教・道教に、それぞれ一理があるという意味で、1里が36町、3里で合計108町として、書名にしたという。

成立
「愚序」に、「承応四年秋始下日/如儡子これを躙にす」とあり、その後に「物故 武心士峯居士老後加筆」とあるので、承応4年(1655)秋に一応成立した。この年は4月に改元され明暦と年号が変わっているので明暦元年の成立という事になる。著者は、その後も加筆したというので、最終的には、刊行の寛文4年(1664)に如儡子の手を離れたという事だろう。刊記は「寛文四 甲辰 五月吉日/中野道伴板行」とある。如儡子、62歳の時である。

内容
儒教・仏教・道教の三教一致を説くことを中心にした教訓書。巻1の巻頭で「夫、所謂三教は儒釈道の三法なり。儒といふは三皇よりもつておこなはるといへとも、時聖の孔子を本となす。釈といふは七仏よりもつておこなはるといへとも、大聖世尊を本となす。道といふは至哲よりもつておこなはるといへとも、金仙老子を本となす。……漢より以来の賢人君子明徹の人〳〵、いつれも三教一致の詞あれは、釈迦老子孔子の三法は、一言一句も去へきにあらす。……」このように述べている。形式は「儒学者曰く」「ある人問ひて曰く」と問答体をとり、「私に曰く」と1字下げて、著者の意見を述べている。主たる典拠は、中国の延慶一元木禅師の『帰元直指』で、寛永20年(1643)に出版された和刻本を使用している可能性がある。

特色
三教一致思想は、中国では、儒教・仏教・道教の一致を指す。日本では、神道・儒教・仏教の一致も説かれた。近世初期の仮名草子の時代には、儒教と仏教の儒仏論争が盛んに行われ、その結果として、三教一致論が説かれた。本書もその1つである。如儡子は『可笑記』では、儒教的立場からの発言が多いが、『百八町記』では、仏教的立場に移っている。

諸本
1、寛文4年版 大本、5巻5冊、全169丁。奥書、5巻の末尾に「愚序」として、「承応四年秋始下日/如儡子これを躙にす」とあり、その後に「物故 武心士峯居士老後加筆」とある。さらに、その後に、「武藤氏西察書之」とあるが、これは筆耕の名。刊記は、巻5最終丁に「寛文四 甲辰 五月吉日/中野道伴板行」とある。
2、寛文4年銭屋三良兵衛版 水波問答、大本、5巻5冊、改題後印本。

複製
1、仮名草子選集・国立台湾大学図書館本影印(1972年1月、台北・大新書局発行)。寛文4年、中野道伴版の複製で、巻頭に、巻1・巻2の原表紙の写真を掲げ、略書誌を付す。複製は、原本を解体して、1丁開いた形で収めている。底本は、台湾大学図書館の寛文4年版と思われる。

翻刻
1、日本思想闘諍史料・第5巻(昭和5年、東方書院発行)寛文4年、中野道伴版を底本にしているものと思われるが、振り仮名は省略している。

 【5】 俳諧作品

1、松江重頼撰『佐夜中山集』寛文4年(1664)刊
 2句入集
2、内藤風虎撰『夜の錦』寛文6年(1666)刊
 7句入集
3、内藤風虎撰『桜川』寛文12年(1672)刊
 40句入集
4、松江維舟撰『時勢粧』寛文12年(1672)刊
 5句入集
 『親盛・友我両吟百韻』(松江維舟批点)入集
5、松江維舟撰『時勢粧小鏡』寛文12年(1672)刊
 1句入集
6、宗善庵重安撰『糸屑集』延宝3年(1675)刊
 1句入集
7、 北村季吟撰『続連珠』延宝4年(1676)刊
 1句入集



①、仮名草子研究の思い出――今後の課題と計画――(昭和女子大学 最終講義資料)

●は じ め に
■仮名草子(かなぞうし)
■仮名草子の範囲と分類

1、卒業論文のテーマ
2、作品本文の書写
3、諸本の調査
4、作品研究
5、如儡子という人物
6、如儡子の伝記研究
7、伝記研究の方法
8、酒田の調査(如儡子出生の地)
9、二本松の調査(如儡子終焉の地)
●おわりに(今後の課題と計画)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●は じ め に

■仮名草子 (かなぞうし) 
近世初期、慶長(1596~1615)から天和(1681~84)にかけての、約八十年間に作られた、小説を中心とする散文文芸の総称。この近世初期は、日本歴史の中でも代表的な啓蒙期であり、この時期に、漢字(振り仮名付き)交じり仮名書きの通俗平易な読み物が次々と作られた。これら一群の文学的著作に与えられたのが「仮名草子」という名称で、その数は三百点にも達する。原本は、写本または版本(古活字本・整版本)として伝存するが、出版の黎明期にふさわしく、全体に版式もおおらかで、大きな本が多い。仮名草子は次の如く分類し得る。(1)啓蒙教訓的なもの(教義問答的なもの、随筆的なもの、女性教訓的なもの、翻訳物)、(2)娯楽的なもの(中世風な物語、説話集的なもの、翻訳物、擬物語)、(3)実用本位のもの(見聞記的なもの、名所記的なもの、評判記的なもの)(野田寿雄説)。この分類からもわかる通り、仮名草子は複合ジャンルの如き性質をもっている。文学史的には、お伽草子→仮名草子→浮世草子と接続するが、これを小説の系列として考えるならば、小説以外の作品をどう扱うべきか、という問題が今後の課題として残されている。
【参考文献】坪内逍遥・水谷不倒『近世列伝体小説史』春陽堂、明治30年。水谷弓彦『仮名草子』水谷文庫、大正8年。水谷不倒『新撰列伝体小説史 前編』、春陽堂、昭和7年。野田寿雄『日本近世小説史 仮名草子篇』勉誠社、昭和61年。近世文学資料類従・仮名草子編・古板地誌編全61冊、勉誠社、昭和47~56年。仮名草子集成1~21、東京堂出版、昭和55~平成10年。野田寿雄校注『仮名草子集』上・下、日本古典全書、朝日新聞社、昭和35・37年。前田金五郎・森田武校注『仮名草子集』日本古典文学大系90、岩波書店、昭和40年。青山忠一・岸得蔵・神保五弥・谷脇理史校注『仮名草子集 浮世草子集』日本古典文学全集37、小学館、昭和46年。渡辺守邦・渡辺憲司校注『仮名草子集』新日本古典文学大系74、岩波書店、平成3年。深沢秋男・小川武彦・菊池真一「仮名草子研究文献目録(明治~平成)」菊池真一『恨の介 薄雪物語』和泉書院、平成4年。(深沢秋男)
(『日本古典籍書誌学辞典』1999年3月10日、岩波書店)


■仮名草子の範囲と分類                      (深沢秋男)
 水谷不倒氏が「仮名草子」と命名してから既に百年が経過しようとしている。研究の進展と共に作品の数も次第に増加して、現在では三百点に達する勢いであるが、これには、昭和47年完結の『国書総目録』が大いに与って力があったものと思われる。
 この間、「仮名草子」という名称に対する検討や批判もあり、作品群の分類に関しても様々な意見が提出されて今日に及んでいる。
 これは、現在、仮名草子として扱われる作品が、当時の書籍目録(寛文10年版)を見ると、「仮名仏書」「軍書」「仮名和書」「歌書 并 物語」「女書」「名所尽 道之記」「狂歌」「咄之本」「舞 并 草紙」等の各条に散在している事からも解るように、この名称が、いわゆる文学ジャンルとしての命名でなかった事と関連している。強いて言えば、複合ジャンルの如き性質をもっており、この事が、仮名草子の範囲や分類を複雑にしているように思う。
 仮名草子の範囲を考える場合、留意すべき事項について、今、思いつくままに、列挙してみると以下の如くである。
 ①御伽草子との関連。
 ②浮世草子との関連。
 ③評判記(遊女・役者)との関連。
 ④軍書、軍学書との関連。
 ⑤咄本との関連。
 ⑥随筆的著作との関連。
 ⑦名所記、地誌、紀行との関連。
 ⑧教訓書、女性教訓書との関連。
 ⑨仮名仏書、仮名儒書との関連。
 ⑩注釈書(・・・抄)との関連。
 ⑪翻訳物、翻案物との関連。
 これらの、各項を具体的に検討してゆく時、各項相互の間に、出入りがあったり、この他に加えるべき項目があるかも知れない。
 ①の御伽草子との関連は、いわゆる上限の問題であるが、時期は、徳川開幕以後とし、それに、中世との過渡期としての、安土・桃山時代を含めて、一応考えておきたい。この項で注意したいのは、寛文頃の刊と推測される、渋川版の御伽草子を仮名草子に入れるという説のあることである。確かにこの一群の御伽草子は、近世初期に出版されることによって、より多くの読者に仮名草子と同時的に享受されたものであろう。また、写本→版本の過程で、異同も生じているであろう。しかし、文学作品の史的定着は、あくまで、その内容と成立時期によって評価し、位置づけるべきものと思う。これらの御伽草子は、中世的世界観の下で創られたものであり、これを近世の作品とするのは妥当と思われない。なお、写本を除外するが如き考えが一部にみられることであるが、これも、写本であると刊本であるとに関わりなく、この近世初期に創られた作品全てを対象とすべきものと思う。
 ②の浮世草子との関連は、下限の問題で、天和2年の西鶴の『一代男』の刊行を一つの目安にする事に異論はないようである。その場合も、仮名草子と一線を画する、浮世草子の新しい特色、傾向についても検討して、いずれに属するかを判断すべきものと思う。
 ③から⑪は、中世の御伽草子系統の、小説的な作品(草紙)とは、やや異なる、娯楽的、教訓的、実用的な作品群との関連である。これらの諸作品を仮名草子に入れるか否か判断する場合、まず、その文芸性が問われなければならないだろう。これについては、今後、一作一作、具体的に分析して、それぞれの作品の評価を判定する必要がある。
また、仮名草子は、小説的作品に限定すべきであるとしたり、さらに、小説に限定して、「近世初期小説」の用語を採用する、という意見も出されている。御伽草子→仮名草子→浮世草子と、これらを小説の系列として考える時、一応もっともな意見であると思う。しかし、そのように仮名草子を狭義に解し、他の作品を除くことは、研究史的観点から見て、時期尚早であると考える。現在、仮名草子とされている諸作品の具体的な調査、分析、評価等が十分になされているとは思えないからである。かつて、価値の低い作品は採り上げず、その事によって一つの評価を示す、という風潮があった。しかし、文学研究が科学である以上、そのような態度は、もはや、許されないであろう。一つ一つの作品の諸本調査と本文批評を行い、信頼すべき本文を確定し、それに基づいて、作品分析を行い、その属すべきジャンルを定め、文学的評価を出して、妥当な位置づけを行うべきである。
 「仮名草子」という名称も、いずれは、その内容を整理し、物語、説話、随筆、紀行、評論等々に分離して、後続作品への展開をも視野に入れながら、改められる事になるかも知れない。ただ、今は、まだその時機ではないと思う。
 仮名草子の分類に関しても、すでに多くの説が出されている。「いたずらに博捜を事として、書目の多きを誇り、分類・解説に憂き身をやつ」す、と厳しい批判もあったが、先学の諸説は、仮名草子の実態を知る上で、非常に有益であった。
 3種、3種13類、3種16類、5種9類、5種16類、6種、7種11類、8種、10種と、実に様々であるが、それだけ仮名草子の内容が種々雑多で複雑あることを示している。私には、先学の諸説に対して、別の分類を提出する準備も力量も、現在のところは無い。ただ、分類の第一の基準は、やはり、ジャンルによるべきものと考える。
 『分類の発想』の著者、中尾佐助氏は、分類の精神を示すキーワードは、枚挙・網羅・水平思考であると言っている。現時点での仮名草子の研究は、依然として、未だ研究されていない作品を俎上に載せることであり、より多くの作品を見渡して、これらに通用する基準で分類することにあると思う。
 「仮名草子」に該当する作品は、これをことごとく集成し、一作一作、研究を進めることが当面の目標であり、これらを分解、再編する作業は、次の世代の研究者に委ねることになるかも知れない。
(早稲田大学蔵資料影印叢書 国書篇 第39巻『仮名草子集』同刊行委員会、平成6年9月15日発行、月報43)


1、卒業論文のテーマの選択

●私の卒論は、まず、大学2年の頃、自然主義文学の中村星湖に興味をもって、資料収集を始めた。早稲田大学に世話になったりしたが、うまく集められず、中止。次に、中世の西尾実先生について、世阿弥か道元をやろうと思い、少々かじったが、これは難しく、撤退した。で、中世に最も近い、近世初期の仮名草子に決定。
●何にしようかと思って、読んでみたのが『可笑記』であった。こんなに激しい批評精神にみちみちた、作品を書くのは、どんな人物であろうか?  以来40年、この作品と作者の解明にこだわってきた。こんな、非生産的な人生は、許されるのであろうか、そんな自責の念が強い。

■大きい作品だから、呑まれないように
●指導教授は重友毅先生。最初の個人的な指導の時、先生は、この作品は大きいので、呑まれないように、そう申された。この、お言葉は、以後、大変なエネルギーとなった。そう言えば、先生に指導して頂いたのは、この時と、あと目次を見て頂いた時と、2回のみであった。


2、作品本文の書写

●この作品は、『徳川文芸類聚』と『近代日本文学大系』に収録されていたが、これらの叢書をセットで買うには、学生の私には古書価が高すぎる。かと言って、端本など待っていても、いつ出るかわからない。で、毎日、大学の図書館や上野図書館で書写した。大学ノート全8冊に書写完了したのは、確か2年生の終わりの頃だったと思う。

■キミ、版本があるよ!!!
●上野図書館に日参して書写している時、出納台の掛の方が、この作品の版本もあるよ、と声を掛けてくれた。ハンポンて何ですか? 版本て、この作品が初めて出版された時の和本の事ですよ、江戸時代の・・・。その本を見せて頂けるのですか? そこのカードを引きなさい。オソルオソル、請求カードを出して待っていると、出てきました。これがハンポンか!! 
●それからは、貴重書室で、版本を広げながら、活字本を写した。ああ、これがこの字か、やがて、活字本を広げながら、版本から書写した。従って、私の卒論に使用した『可笑記』のテキストは、活字本と版本の混合テキストであった。今、思えば、まことに杜撰なものと言う事になる。杜撰なものではあったが、近世初期から伝存している、和本を手にして、1つ1つのシミや虫食いの痕を見る度ごとに、作品の世界に近づいていったように思う。上野図書館の司書の方に、今も感謝している。
●しかし、その後の私の調査で、翻刻本の『徳川文芸類聚』も『近代日本文学大系』も、校訂者が使用した底本が、いずれも、寛永19年版と無刊記本の取合本である事を思えば、五十歩百歩という事にはなる。


3、諸本の調査

■280段か400段か???
●『可笑記』は『徒然草』に倣った随筆風の作品であり、幾つかの短文の集まりである。文学辞典や論文を調べていると、その章段数についてマチマチの説がある。275、279、280、400。諸説の中では、400段と言うのが最も多く、これが通説かと推測された。
●しかし、私が書写している版本は、どう数えても282の短文の集まりである。さて、どうするか。100段も多いテキストがあるのに、少ない段数のテキストで研究していては、作品の実態は解明できないだろう。略本と広本の関係であろうか???
●私は、400説を主張しておられる、大家の所へお邪魔して、その説の拠り所を質問した。しかし、ラチはあかなかった。結論は、ある有名な研究者が、適当に400と記した(私にはテキトウに、としか判断できない)、それを、以後の研究者は長い長い間、孫引きし続けた、というのが真相のようである。仮名草子は、これほどまでに軽く見られていたジャンルでもあった。


■『可笑記』の諸本
●私が『可笑記』の原本調査を始める前は、どのような種類の版本や写本があるか、明らかではなかった。学生の頃は、上野図書館、日比谷図書館、早稲田大学図書館など、東京の各図書館で閲覧・調査させて頂いたにすぎなかった。卒業後、関西や全国の図書館、そして個人所蔵の原本の調査へと広げていった。その結果、次のように分類するのが妥当と考えるようになった。

① 寛永19年版11行本
② 寛永19年版12行本
③ 無刊記本
④ 万治2年版絵入本
⑤ その他(取合本・写本)

これらの、全国の諸本を調査して、80点以上のデータを収集することができたが、これを公に発表したのは、昭和43年6月の、日本近世文学会の全国大会においてであった。席上、11行本・12行本の先後関係ついて、田中伸氏と長時間に亙って論争したのも、今は楽しい思い出である。


■『可笑記』原本・3点の伝来

【A】、 寛永19年版11行本(桜山文庫本)
●〔桜山文庫〕は、鹿島神宮大宮司・鹿島則文のコレクションである。この文庫は、則文のお孫さんの鹿島則幸氏が管理しておられた。公共図書館等の調査が終わった昭和40年、閲覧願を郵送したところ、則幸氏は、鹿島の書庫から水戸へ取り寄せて、調査させて下さった。水戸の常磐神社の社務所に通され、鹿島氏の使用される文机で、2時間ほどかけて、閲覧・調査を終了し、辞去しようとすると、「どうぞ、お持ち下さい」と申される。初め、私は、お言葉の意味がよく理解できなかった。「伯楽にお持ち頂ければ、祖父も喜ぶと思います」ようやく、鹿島氏の真意が理解は出来たが、ハイ、そうですか、とはお答え出来なかった。一度、帰宅して、改めて御返事申し上げます。と申し上げて電車に乗った。このような事が現実に有り得るのか。「桜山文庫」の円形朱印を持つ本で、岩波の『国書総目録』にも搭載されている原本である。私は世の中の不思議な事実に出会い、感激と感動の数時間を過ごした。
●この件を重友先生に御相談した。先生は、鹿島氏の御厚意をお受けして、今後、『可笑記』の研究に真剣に取り組み、その成果を上げて、鹿島氏への返礼としなさい、と申された。
●日を改めて、水戸へお伺いし、有難く拝受した。手土産のお菓子は持参したが、金品は一切差し上げなかった。以後、この十一行本は、私の手元にあり、諸本調査に活用させて頂いている。因みに、神田の池上文化財補修工房に依頼して帙を作って頂いた。

【B】、 無 刊 記 本(長澤規矩也氏)
●昭和43年度の春、日本近世文学会の大会で、『可笑記』の諸本の調査結果を発表した。会場は名古屋の熱田神宮であった。発表の直前、法政大学の長澤研究室を訪ね、調査済みリストを提出、結論を申し上げたところ、先生は大変宜しい、と褒めて下さり、御所蔵の丹表紙・原題簽の無刊記本をお貸し下さった。無刊記本は、20点以上伝存しているが、原題簽を存するのは、長澤先生蔵本のみであり、誠に貴重な存在であった。
●昭和45年4月、私は結婚したが、その記念にと、この蔵本を御恵与下さった。「深澤仁弟御内/昭和四十五年/成婚記念/長澤規矩也/所蔵一部書より」と中国の紅紙に墨書して下さった。これも、池上氏に帙を作ってもらい、長澤先生に書名を書いて頂いた。

【C】、 万治2年版絵入本(横山重氏赤木文庫本)
●昭和49年4月30日、文部省の科学研究費補助金(研究成果刊行費)を受けて『可笑記大成ーー影印・校異・研究ーー』を笠間書院から出版した。田中伸氏・小川武彦氏との共編著である。この研究に際して、横山重先生の絵入本を使用させて頂いた。
●昭和四十五年、横山先生から、以下の如き葉書を頂いた。
「この葉書、御手許へ届いた日から、万治刊/の「可笑記」は、貴兄の所有にして下さい。/贈呈します。/私はこの二三年、数氏の方々に、私の本を贈呈して/ゐます。昨二十二日、古典文庫の吉田幸一氏来訪。その/時、宛名だけ書いたこの葉書を吉田氏に示し、可笑記貴兄に贈呈の事を吉/田さんへ話した。で、その日に決定。御本できた時、二、三/部、私へ下さい。それで十分です。/四十五年十二月廿三日/横山重」
絵入本は30点程伝存しているが、どの本も、虫
損が多い。その中で、本書は虫食いが少なく、原題簽も完備している。巻2に落丁があるが、貴重な存在である。帙の題簽の書名は横山先生の筆である。

●桜山文庫本・寛永19年版11行本、長澤規矩也氏本・無刊記本、横山重氏本・万治2年版絵入本、この3点は、現在、私の所蔵となっている。有難い研究の経過である。

■甲南女子大学図書館所蔵、写本『可笑記』
●『可笑記』の写本は、東大文学部研究室に1本を所蔵するのみであったが、平成16年7月の調査で、新たに甲南女子大学に所蔵されている事が判明した。
●甲南女子大本は、平仮名書き主体の、極めて特異な本文である。この写本の位置づけは、平成16年12月の『近世初期文芸』第21号で詳述しておいた。


4、作品の研究

■『可笑記』の読み方、「カショウキ」か「オカシキ」か
●『可笑記』巻5の90段に「これぞ可笑記(をかしき=振仮名)のをはりなりけり。」とあるところから、この作品の書名は「おかしき」と読むべきだ、という説があるが、これでは、書名にならない。当然「かしょうき」と読むべきものと考える。

■『可笑記』の本文批評
●『可笑記』の諸本調査もほぼ完了し、次に、行わなければならない作業は、これらの5種の版本・写本の中で、どのテキストが、最も優れたものであるか、という判断である。これについても、私は、昭和44年11月『近世初期文芸』第1号の「『可笑記』の本文批評」で明らかにしている。①の寛永19年版11行本が最も優れたテキストであると判断し得る。従って、この作品の研究はこの、①に拠って行われなければならない。卒論の頃の、混合本文を思い出すと、誠に恥ずかしい。


■『可笑記』と『徒然草』
●『可笑記』の作者にとって最も重要な情報源は、中世の名随筆『徒然草』であった。仮名草子において、一般的に典拠の問題は、重要なテーマである。『可笑記』の特色を解明するには、兼好の『徒然草』との関連を明らかにする必要があった。私は、大学の卒論の頃から『徒然草』の文庫を持ち歩き、『可笑記』と関連ある条々を書き込んでいた。
●昭和女子大学に移り、日本文学紀要に最初に書いたのは「『可笑記』に及ぼす『徒然草』の影響」という論文であった。私が最も重要な主題と考えているものを投稿した訳である。『学苑』昭和59年1月、第529号である。ここで、私は、従来の諸説を整理し、自説を加えて、関連のある段々を指摘した。それは全体で60段に及んでいる。
●次の年の日本文学紀要では、「『可笑記』と『徒然草』-一の2、一の4-」と題して、この2段の関連を具体的に比較、分析して、その影響の深さを論じた。実は、この方法で、全段の影響関係を分析考察する予定であった。しかし、何故か、続稿を執筆していない。と同時に、『学苑』への投稿も一切していない。後年、鈴木重嶺の資料が昭和女子大へ寄贈され、その紹介記録までは『学苑』には執筆しなかった。これは、私の研究方法に関する事である。この種の論考は、一挙に単行本で発表するのが適当であると考えている。いよいよ、その時機が迫ってきたとも言える。


■『可笑記』と『甲陽軍鑑』
●『甲陽軍鑑』は武田信玄の軍学についての書で、全20巻。武田家家臣・小幡景憲の編纂したもの。近世初期の軍書のバイブルの如き存在で、大ベストセラーでもあった。戦国武将の気風を残す斎藤親盛は、極めて武士としての誇りを尊ぶ人物であり、それに、『甲陽軍鑑』には中国軍書をはじめ、儒教的色彩の強いものであった。この点が『可笑記』の作者をも引き付けていたものと思われ、両者の影響関係は実に大きい。
●私は、当初、古川哲史氏校訂の岩波文庫所収本(1巻のみの未完)や、磯貝正義氏・服部治則氏校注の人物往来社の注釈付きの3巻本を利用していた。これには大変教えられる点が多く感謝している。同時に『甲陽軍鑑』の原本も求めて両者の比較検討をしていた。
●その後、酒井憲二氏の研究が次々と発表され、勉誠社版の複製、汲古書院の大成など、氏によって『甲陽軍鑑』の基礎的研究は、ほぼ整ったことになる。このような諸先学の研究の成果を利用させて頂き、本格的な研究に着手した。この点、心から感謝している。
●このテーマに関しては、冨士昭雄氏の記念論集に序説を書き、以後5本の論文を発表し、これらを総合的にまとめて、文部省の科研費による共同研究(平成11年~14年)の報告書に「近世初期文芸と軍書--『可笑記』と『甲陽軍鑑』--」として90ページの総括をした。私としては、ほぼ全貌をつかんだと思っている。


■如儡子の「百人一首」注釈
●如儡子に「百人一首」の注釈書がある事を発見、発表されたのは、田中伸氏・野間光辰氏が殆ど同時であった。これは、大きな発見で、私も大いに感謝した。感謝はしたが、お二人とも、研究の入り口で他界されてしまい、後は私が引き継がざるを得ない状況となってしまった。
●如儡子の「百人一首」注釈には次の諸本がある。
① 『百人一首鈔』 水戸徳川家彰考館所蔵
② 『酔玉集』 国立国会図書館所蔵
③ 『百人一首註解』 京都大学図書館所蔵
④ 『砕玉抄』 武蔵野美術大学美術資料図書館所蔵

このうち、注目すべきものは、④の『砕玉抄』である。実は、この本の所在は、御茶ノ水女子大学の浅田徹氏から教えて頂いたものである。この本は列丁装の写本で、本文も特異な部分をもっている。この写本は、私の感覚的な予想であるが、もしかすると、如儡子の自筆本の可能性があると思われる。万一、そうだとするならば、誠に僥倖、研究生活の最終段階で作者の筆跡に出会えた事になる。しかし、それは、今後の調査考証にまたなくてはならない。


■如儡子の大名批評『堪忍記』
●『堪忍記』と言えば、浅井了意の作品が有名であり、『梅花軒随筆』が如儡子の著作に『堪忍記』がある、としている記述は誤りである、と長い間考えられてきた。しかし、野間光辰氏は、了意の『堪忍記』の他に如儡子の『堪忍記』がある事を指摘された。これは画期的な発言であった。私は、これも、野間氏の指摘を引き継ぎ、研究を進めてきた。
●野間氏は、この著作の内部徴証からみて、如儡子の著作と推定されたが、私は、さらに、最上藩に対する著者の姿勢からみても、如儡子の著作である可能性が大きいと思っている。
●如儡子は、この著作で、各大名の石高等をかなり正確に記し、しかも、諸大名に対して様々な論評を加えている。この大名は人となりが良くないとか、家臣の使い方がひどいとか、下の下、下下の下、上の中、とかランク付けまでしている。それにしても、このような諸大名の石高や藩主の性格などの情報を、どこから入手したのであろうか。興味深い著作である。


■斎藤親盛の俳諧--晩年の如儡子--
●斎藤親盛・如儡子には、晩年に残した俳諧作品がある。万治3年、息子の秋盛(ときもり)が、二本松藩主丹羽光重に召抱えられ、一家は二本松に移住した。当時の二本松は、内藤風虎が藩主であった、岩城平藩と共に、東北では特に俳諧が活発な所であった。ここで、晩年の親盛は15年間を過ごした。
●親盛の俳諧作品は、内藤風虎撰の『桜川』に多数収録されており、斎藤友我との両吟百韻もあり、これには、松江重頼の批点が加えられている。貞門俳諧の第一人者・重頼の俳諧指導を受けたのである。俳諧作品を通して伺われる親盛・如儡子は、平穏な幸せな晩年であったものと推測される。酒田の奉行の子として成長し、主家の没落で浪人して、苦しい半生を江戸で過ごした作者も、その晩年は幸せな日々を送ったものと思われる。

■三教一致を論じた『百八町記』
●5巻5冊の『百八町記』は、寛文4年に京都の書肆中野道判から出版された。儒教・仏教・道教の三教一致を主張した著作である。一里三十六町、三里で百八町という書名の付け方である。内容的には仏教に重点がおかれていて、晩年は仏道(臨済宗)に帰依した著者をみる事ができる。この著書に関しては、私は未だ論を発表していない。これまでの研究を踏まえて、今後考察を加える予定である。


5、如儡子という人物

■如儡子(にょらいし)とは何人か
●私がこの作品を読み始めた頃は、「如儡子」がペンネームであることは分かっていたが、ニョライシかジョライシか、読み方もまちまちで多くの文学史などは、ジョライシが通例であった。しかし、この作者が自著の『百八町記』の奥書で「にょらいし」と振り仮名を付けているので、現在では、ニョライシと読むべきものと考える。

■生国東者なれば高才利発にもあらず
●如儡子は『可笑記』の中で、自分の事を「生国東者」であると書いている。そこから、あずま、つまり関東の出身であろうと思っていた。また、『甲陽軍鑑』を多く利用しているので、あるいは、甲州、山梨と関係があるのか、とも思っていた。ところが、実際は山形酒田の出身であった。

■如儡子は、正保~万治期の、尾羽打ち枯らした浪人か?
●如儡子は、もと武士であったが、正保・万治の頃相続く転封改易のあおりをくった浪人らしいという事は、早くから分かっていた。尾羽打ち枯らした浪人で、書物もろくに買えず、乏しい知識で聞きかじって著作を続けていた、という論調が支配的であった。しかし、私は、卒論に選んだ頃から、この批判精神に富んだ作者を尊敬していた。


6、如儡子の伝記研究

■野間光辰氏の画期的な研究
●田中伸氏の如儡子伝記研究と相前後して発表された野間光辰氏の研究は画期的なものであった。
○「如儡子系伝攷(上)」 野間光辰  『文学』46巻8号 昭和53年8月
○「如儡子系伝攷(中)」 野間光辰  『文学』46巻12号 昭和53年12月
この野間氏の2論文は、如儡子の伝記研究の上で特筆すべきものである。ただ、この伝記研究は、完結することはなかった。野間氏の御他界によるものである。我々は、(下)を拝読したかった。しかし、それは叶えられないことである。後学は、その完結に努める義務を負う事になった。

■如儡子の伝記研究開始
●野間氏から、上記2論文の抜刷を頂いた私は、氏がその論文の中で、如儡子のおおよその伝記を知りたいと思う読者は「略伝」を読めば十分である。ただし、如儡子に関する、より詳細な伝記に興味を抱く読者は、以下に掲げる諸資料を熟読吟味する事を懇請する、と述べておられた。これは、私に対するメッセージと〔私は〕受け止めた。早速、返信を認め、私は、如儡子に関して非常な興味を抱く一人である。従って、野間先生の提出された、貴重な伝記関係資料を、今後、熟読し、徹底的な吟味を加えたい、と申し上げた。野間先生からはすぐご返事を賜り、そのようにするように、と御許可を頂いた。ここから、私の如儡子伝記研究は始まった。

■私の如儡子伝記研究
①如儡子(斎藤親盛)調査報告(1)  『文学研究』67 号 昭和63年6月
②如儡子(斎藤親盛)調査報告(2) --父・斎藤筑後と 如儡子出生の地--  『近世初期文芸』5号 昭和 63年12月
③如儡子(斎藤親盛)調査報告(3)--『世臣伝』『相生集』-- 『文学研究』68 号 昭和63年12月
④如儡子(斎藤親盛)調査報告(4)--二本松藩諸資料--  『文学研究』70 号 平成元年12月
⑤如儡子(斎藤親盛)調査報告(5) --如儡子の墓所--  『文学研究』78号 平成5年12月


7、伝記研究の方法

●前掲の私の、如儡子伝記研究を見ても分かるように、全て〔調査報告〕となっている。これには、1つの理由がある。従来の伝記研究は、伝記関係資料を研究者が収集した範囲で、伝記として纏め上げていた。その収集は徹底したものもあるが、やや中途半端なものものもある。勿論、調査・収集は徹底することが理想である。私も、かつて、井関隆子や鹿島則孝や鹿島則文などの略伝を纏める時、同様の方法を採用していた。しかし、これでは、科学として見た時、適切ではない事に気付いた。その反省の上に立って進めたのが、如儡子の伝記研究であり、〔調査報告〕とした所以である。

■明日不所求
●当然の事ながら、人間には寿命がある。これは、作者も研究者も同様である。故に、歴史上の人物の伝記を志しながら、業半ばにして世を去った人々の何と多い事か。私の伝記研究の方法は、この人間存在のアヤウサにも着目して打ち出されたものである。出来得る限り、客観的な事実を把捉したい。しかる後に、1人の人物の伝記の執筆に取り掛かりたい。しかし、我が命は、明日までかも知れない。ならば、まず、命のある限り、事実の収集をしておこう。さすれば、その事実の記録を後人が利用してくれるかも知れない。まかりまちがえば、調査も自分の思った通りに進み、自分で伝記の執筆が出来るかも知れない。

■雪朝庵士峯・武心士峯居士
●これは、斎藤親盛・如儡子の号である。如儡子は、酒田筑後町で、川北奉行・斎藤筑後守盛広の嫡男として生まれた。延宝2年(1674)3月8日に没したが、歳は72歳位であったか。父・盛広は、山形藩主・最上家親に仕えた。親盛も幼少から、主君・家親に側近く仕え、元服の時は、主君の名の一字「親」を賜った程である。
●従来、言われてきた如く、尾羽打ち枯らした、みすぼらしい浪人ではない。その心底には、57万石の大大名に近侍した武士としての誇りがあったのである。
●雪深い東北の、酒田の地に生まれ、育った親盛。厳しい寒さの朝、雪は深々と積もる。しかし、武士の子として成長した如儡子は、気高い武士の誇りを身につけ、その頂を目指し、生きていた。

■最上57万石、取り潰し
●最上57万石は、お家騒動にかこつけた徳川幕府の取り潰しに合って、1万石に減らされる。大量の浪人が発生した。後に酒井氏が入ったが、盛広・親盛父子は何故か酒井氏に仕えず、浪人の道を選ぶ。私は、奉行時代の処遇に原因があるのではないかと、1つの資料をつかんでいる。しかし、ここから、如儡子の苦しい浪人生活が始まる。

■酒田・筑後町
●酒田の古地図を見ると、現在の相生町と幸町の辺りにに筑後町がある。この町名は筑後守に縁がある。如儡子は若い頃、諸国を修行して歩き、書写するところの典籍は数百巻に及んだと言われる。また、母方の叔父は羽黒山の警備を担当する掛の責任者でもあった。幼い清三郎(親盛の幼名)の教育には、奉行の父よりも、母の影響が大きかったのではないかとも推測され、おそらく、羽黒山の蔵書も閲覧のチャンスがあったものと思われる。
●如儡子は、成人するまでは、歴とした武家の子として酒田の地に過ごし、学問もきちんと身に付けていたのである。決して聞きかじりの、耳学問ではなかった。

■父・斎藤筑後守
●如儡子の父・斎藤筑後守盛広は越後の出身。祖父・光盛と共に出羽庄内に移り、最上氏に仕えた。義光・家親・義俊の3代に仕え、川北奉行をつとめた。酒田・遊佐・飽海地方には、斎藤筑後の年貢皆済状がかなり多く伝存している。私はこれらを出来得る限り写真に収めて報告した。また、神社などの棟札も貴重な記録である。これも、全て元の形で報告した。これらには、慶長頃の年月日と場所が明瞭に記されている。中には、斎藤筑後の自筆と推測される文書も閲覧する事ができた。如儡子の父は、この日、ここに居た、という証拠である。如儡子は、その盛広の子である。これが、伝記を執筆する時、いかに多くの事を我々に教えてくれることか。

■本貫・越後の調査
●如儡子の祖父・光盛は越後の出であった。戦国の世に、故あって出羽に移った。藤島城代を任せられてもいるので、越後でもそれなりの武将であったものと推測される。おそらく、一族郎党を引き連れて、鼠ケ崎の難所をこえたものと思われる。新発田あたりかと、見当をつけて調べたり、集落全て「斎藤」姓の所にも行って、調べてみたが、現在のところ確たるものに出会っていない。


8、酒田の調査(如儡子出生の地)

■酒田・鶴岡の調査
●如儡子は酒田の筑後町で、酒田城代・斎藤筑後守盛広の嫡男として、慶長8年(1603)の頃生まれた。父・盛広は川北奉行を務めてもいるので、最上川以北の地、飽海・八幡・吹浦・遊佐・・・は調査すべきである。年貢皆済状の所有者、棟札の所在を確認して、バス路線をチェックして、酒田へ行った。
●酒田へ着くと、市で車を出して下さった。酒田市に関連する作者の調査に協力しましょう、という。涙が出そうな配慮である。この折は酒田の研究者田村寛三氏の御教示があった。
●酒田は昭和51年大火災に見舞われ、貴重な歴史上の資料の多くは消失してしまった。しかし、近隣に伝存する諸資料は徐々に収集され、酒田市立図書館や市立資料館、本間美術館等々に保存され、これらの諸資料を調査させて頂いた。しかし、私の基準では、まだまだ、十分とは思っていない。調査は、これからも続く。

■雪の酒田
●酒田・鶴岡・藤島・羽黒、と何度も何度も調査に伺っている。ただ、私としては、大学の夏季休暇を利用しての出張調査であるため、当然、8月・9月が大部分であった。これでは、十分とは言えない。
●色川大吉氏は、その名著『歴史の方法』で、旅行者の目、滞在者の目、定住者の目、という事を指摘しておられる。外来者の目では、外形的把握になる事が多い、とも述べておられる。
●雪深い酒田の地で生まれ、成長した如儡子を知るために、夏の暑い盛りにのみ、調査していては、作者の思いを実感し得ないだろう。しかし、雪の降る時期は大学も卒業行事、入試行事等で、なかなか時間が取れない。忸怩たるものがあったが、平成12年2月23日、ようやく夢が実現した。
●酒田光丘文庫の調査に伺った。勿論、この文庫には、既に何度もお世話になっていたが、この時期は初めてである。閲覧室で調査している時は、掛の方が暖房を入れて下さり、至れり尽くせりである。途中、トイレに立った。流石に、この時期の外気は身にしみる。数日前に降った雪が、屋根や木々の梢には残っている。初めて、如儡子の味わった自然の厳しさに接した思いがして、嬉しかった。さらに、作者に少し近づけたと感じた。その日は駅前の東急インに泊り、翌朝、目がさめると、何と外には雪が降っていた。いそいそと文庫に向かい、文庫の先生と、雪と如儡子の事を話して喜びを伝えた。自然現象も地球温暖化のため、変わってはいるだろうが、それでも、この厳寒の酒田に立って、作者の幼年少年時代を思いやった。

■羽黒山の調査
●平成4年9月、斎藤輝利氏・斎藤弘雄氏・庄司浩士氏等と赤湯で落ち合い、長井市で全員合流、後は車で鶴岡まで走り、羽黒町手向の羽黒山門前の小林坊に5日間宿泊、ここを拠点に羽黒山一帯の調査をした。
●宿坊の朝は、祈祷から始まる。宿泊客全員が本堂に集合して、坊の主、三山神社祝部・小林庸高氏の主導で祈る。毎朝、祈祷の中に、本日の深沢秋男の調査に実りをもたらし給え、と織り込んで下さり、一層、気を引き締めて調査する毎日であった。
●小林庸高氏の御配慮で、最長老にもお会いする事が出来、調査は順調に進んだ。ただし、羽黒山は、明治維新の神仏分離のあおりを受けて、山内にあった300とも言われる寺々はことごとく破棄され、石碑が至る所に転がっていた。焚書坑儒を思い起こし、誠に文化の破壊が残念であった。
●羽黒山の資料は、ごくわずか残存し、多くは、転写などによって、四散した。それらの資料を調査しなければならない。

■戸川安章氏との出会い
●羽黒山の研究では、戸川安章氏の右に出る者は、まず無い、と言ってよいだろう。『羽黒山伏と民間信仰』『修験道と民族』などの名著があり、一部の著作は国会図書館では貴重書になっている。戦前の研究者であろう、と私は決めていた。
●平成4年9月4日、酒田調査の折、鶴岡市立図書館で調査中、司書の秋保良氏に尋ねると、戸川安章氏は鶴岡市内に御健在で執筆活動をしておられるとのこと。私は驚愕と感動で、しばらく頭の整理がつかなかった。暫しして、突然のことで、大変失礼だとは思ったが、御著書の中の羽黒山の記述の根拠についてお教え頂きたく、お電話させて頂いた。
●当時、戸川氏は山形新聞の論説委員をしておられ、現在、急ぎの原稿執筆中で、大多忙ゆえ会う余裕はない、と断られてしまった。明日はいかがでしょうか? 明日もだめです。では、明後日はいかがでしょうか? いや、無理です。5日間までお待ち致します。先生は、とうとう、では、今から来て下さい、と許可して下さった。早速、住所を調べて伺った。同行の斎藤弘雄氏が手土産を用意してくれた。

■戸川安章氏の御研究と羽黒山関係資料
●戸川家に伺うと、書斎で原稿執筆中の氏は、ペンを置いて、応対して下さった。私の希望する資料は、膨大な資料の書庫にあり、今、すぐには出せない、とのこと。それにしても、戸川氏の所蔵する、羽黒山関連の資料は実に貴重である。
●資料の集成に関して、お尋ねすると、地元の出版社が出すと言うので、前の方の原稿を書き、ゲラも出たが頓挫した、と申される。私は、この貴重な資料は何としても出版して、後世に伝えなければならない、と申し上げ、東京の出版社に企画を出す事を提案し、戸川先生も、これをお許し下さった。
●膨大な資料ゆえ、出版も簡単とは思えなかった。斎藤氏とも相談して、山形県の補助も検討することにして、5日間の調査を終え帰宅。早速、全巻の構成などを検討して、知り合いの出版社に交渉する準備を進めた。3日後、戸川氏から速達が届き、この度の計画は中止して欲しい、地元の出版社で進めたい、という事になったとのこと。私としては、どの出版社でも、資料が集成して後世に伝えられれば、それで良い訳である。その後の状況がどうなったか、確認はしていない。


9、二本松の調査(如儡子終焉の地)

■菩提寺・松岡寺(二本松)
●如儡子・斎藤親盛は、福島の二本松の松岡寺に眠っている。昭和63年8月、この菩提寺で斎藤家の御子孫の斎藤輝利氏と初めてお会いした。斎藤氏と友人の渋谷信雄氏の3人で、二本松→米沢→長井→山形→寒河江→鶴岡→酒田、と白のセルシオで日本列島を横断した。出羽三山の山脈を走破した。斎藤氏は長井市で金型の会社を経営していて、先祖が酒田の奉行であった事を誇りとしておられる。その奉行の子の親盛を研究している私に、大変な協力をして下さっている。白のセルシオを、武将・盛広のまたがる白馬に見立てておられる。

■松岡寺の過去帳
●如儡子は、酒田に生まれ、18歳頃までは奉行の子として、成長したが、この青年期に主君最上家が取り潰しに会い、浪人となる。一時、祖父の出身地の越後に行くが、やがて江戸へ出て、苦しい生活を続けた。晩年、子の秋盛が二本松の丹羽家に召抱えられ、一家は二本松へ移住する。
●従って、如儡子の伝記の根本は、酒田・鶴岡・藤島等の山形と、晩年の15年間程を過ごして没して葬られた、松岡寺のある福島の二本松にある。
●松岡寺には、第2世湛宗祖海禅師の編した『松岡寺過去帳』が現存する。誠に貴重な存在である。如儡子の項には、次の如く記されている。
「八日/武心士峯居士/延宝二甲寅三月/俗名斎藤以伝」
形式は、やはり祀堂帳形式である。松岡寺には、この他に、第4世震宗水編のものと、満願寺第16世大隈正光氏編の3点があり、現在は、松岡寺は平素無住で、福島市満願寺の大隈氏が保管されている。

■松岡寺の斎藤家墓所(第1次改葬)
●松岡寺の墓所は、本堂に向かって左手にある。墓地に登って行くと、入ってすぐ右手の花沢家のお墓があり、その奥に斎藤家の墓地がある。お墓に向かって右手に観音堂があり、左隣には、手前に高橋家、その奥に阿部家がある。つまり、斎藤家は2軒分に近い、広い墓地である。何故、このように広いのであろうか。
●斎藤家の墓地は、昭和44年、12代・源覇が没した時、先祖代々の墓石44基を整理して改葬したという。その時、44基の墓石は白布に包み、墓の中に埋めたと、現在の当主・輝利氏は仰る。如儡子の伝記を研究する私は、その埋められた墓石を是非とも見てみたいと切望した。間口は、4メートル55センチ、奥行きは8メートル22センチである。墓石はどのように埋められているのであろうか。

■墓石の位置の疑問点
●斎藤家の墓石は、第1次改葬以前は44基あり、当然のことながら、墓石は周囲に並んでいた。しかし、墓所の左右中央で、奥行きは中央よりやや奥に、一段と大きな墓石があり、これが最も古いもので、斎藤家では、「お姫様のお墓」と言い伝えてきたとの事である。現在の当主・輝利氏は、これが如儡子の母(東禅寺氏)の墓ではないかと推測しておられる。
●それにしても、お墓の中央で、やや奥に建てられている、この墓石の位置は、いかにも不自然である。推測するに、斎藤家の墓は、最初の奥行きはこの母の墓石の所までであり、その後、その奥の山を切り拓いて拡張したため、母の墓石がこの位置に残されたのではないか、と思われる。
●おそらく、二本松に移住した如儡子は、妻あるいは娘の他界に直面し、創建間もない松岡寺を菩提寺に定め、すでに江戸在住中に他界していた、母を供養し、大きな墓石を、左右中央の一番奥に建てたのではないかと思われる。

■墓所の大改葬(第2次)
●平成4年、斎藤輝利氏から、墓所を全面的に掘り起こすので、立ち会ってもらいたい、という連絡をもらった。私は涙が出るほど感激した。3月27日、長井市から大勢の人が来て、墓所の全面的な発掘作業が開始された。私も同じホテルに泊まって立ち会い、逐一写真に記録した。改葬は5月10日にほぼ完了した。
●発掘されたお骨は、新しい骨壷に納め本堂に安置して供養した。墓石は、全て水で洗い清め、石の種類別に分類して調査したが、軟質の墓石は表面が削りとられ、硬質の墓石は細かく破砕されていた。残された刻字から推測できたのは、3名に過ぎなかった。墓石全体を見ても、44基を埋葬したとはとても思えない。昭和44年に改葬した業者に連絡しても、来てはくれなかった。昭和44年の改葬の時、私も立ち会っていたら、こんな結果にはならなかったであろう。悔やまれてならない。
●先祖代々の骨壷は本堂で供養され、墓石は洗い清められ、斎藤家一族の方々の写した写経と共に、再び墓域内に埋葬された。
●私は一部始終の作業に立会い、記録し写真を撮った。密かに、墓石の破片の1つをもらい、如儡子の伝記研究をしている机の上に置きたい、と思った。しかし、それは、伝記研究を志す者の態度としては不遜であると反省し、思い止まった。

■改葬完了と法要
●平成4年の墓所改葬は7月30日、松岡寺住職、満願寺第16世・大隈正光氏を招いて大法要が行われた。
●完成した墓所は、正面奥に大きな供養塔があり、その右に先祖代々の墓石、左には小さな供養塔と、12代・源覇の墓石がある。また、向かって左側には、奥に「墓誌」があり、初代・斎藤玄蕃助藤原光盛之霊位から十二代・長光院本源道徹居士までの各代々の法名・没日等が刻されている。その手前には、2枚の大きな江持石に斎藤家の略伝が刻まれている。
●奥の方には「斎藤家伝略」として、
「平成四年七月山形県長井市ままの上一四八四に十三代輝利在し、墓地改装する。京都大学野間光辰氏及び昭和女子大学深沢秋男氏の調査により祖先の活躍が明らかにされた。祖先の供養と御活躍を子孫に伝えるべくこの碑を造った。・・・」
とあり、手前の碑には「それからの斎藤家」として、近代の経過と参考文献が列記されている。改葬後の斎藤家の墓は実に立派な墓となった。今は、松岡寺の中でも、一段と目立ち、見学に訪れる人もあると聞く。

■三百年大法要
●松岡寺開山・太嶽祖清禅師は、元禄7年の没で、その300年遠忌が平成5年6月6日、県内外の僧侶38名を拝請し、檀家の人々も多数参列して執り行われた。斎藤家の当主輝利氏ご夫妻と共に私も招待されて参列させて頂いた。
●また、この折、二本松歴史研究会の要請で、斎藤親盛・如儡子について講演をした。会場には50名以上の方々が集まり、熱心に質問もして下さった。

■二本松歴史研究会
●二本松には歴史研究会があり、古地図の復元や貴重な資料を入手できたり、漆間氏、紺野氏をはじめ、多くの方々のアドバイスを頂いた。丹羽藩主に関しては『世臣伝』という貴重な史料があり、大鐘義鳴の労作『相生集』が大変な事を教えてくれた。漆間瑞雄氏の研究など、地方史研究の成果は、謙虚に活用させて頂く必要がある。
●大鐘義鳴は、『可笑記』の写本(おそらく如儡子の自筆であろう)を閲覧しているらしいし、斎藤玄覇は、関連資料をある方に預けた、とも伝えられている。これらの資料が、今後出てくる可能性は、決して低いものではない。このような、状況では、伝記は書けないだろう。

■『二本松藩新規召抱帳』『二本松寺院物語』
●前者は、史家・紺野庫治氏所蔵の貴重なもの。これによって、如儡子が江戸から二本松へ移住した年が確定できる。他の2次史料では誤りを生じる。資料批判なしに記録を使うと、誤りの伝記を後世に伝えてしまう。
●伝記研究には、お墓が大変に役立つ。その点、平島郡三郎氏の名著『二本松寺院物語』は実に有難い研究である。後学の我々は、その労苦に感謝せずに使用することは許されない。


■「斎藤家略伝」「それからの斎藤家」
●松岡寺の斎藤家の墓所は、前述の如く、昭和44年と、平成4年の2回改葬されている。第2回目の時、斎藤家墓誌が建てられた。須賀川産出の江持石に刻まれている。撰文は、13代当主・輝利氏によるものである。

■「斎藤家略伝」
「斎藤家伝略
平成四年七月山形県長井市ままの上一四八四に十三代輝利在し、墓地改装する。京都大学野間光辰氏及び昭和女子大深沢秋男氏/の調査により先祖の活躍が明らかにされた。先祖の供養と御活躍を子孫に伝えるべくこの碑を造った。家伝によれば我が家は斎藤別当実盛公/の子孫で平重盛公と大変仲が良かったと言う。奈良原春作氏作斎藤別当実盛伝「さきたま出版会」の中で、前九年の役で阿部頼時が反乱した/際に祖先の実遠公が源頼義公八幡太郎義家公親子に従臣して活躍した文章がある。奥羽平定の際食糧を確保する為、山形県長井市の河/井地区に三年在して食糧を溜めて戦勝に導いたという。現在その長井に住しているのは、祖先の遺徳か。その後康平五年(一〇六二年)実遠公以/来武蔵長井庄に住するのである。当家は源平の乱に父と共に戦に破れ負傷して越後に落ちのびた実盛公の長男の子孫と伝えられている。
  出羽国、庄内地方での祖先
遠祖玄蕃助光盛は越後の国より二十六騎を従えて庄内に来たと言う。大宝寺義氏の縁者を娶って藤島の城をまかされていたのだろう。/しかし、光盛は年三十三才で戦死している。その子盛広は前森筑前守東禅寺右馬助勝正兄弟一族に育てられている。おそらく年令的にも近く兄/弟の付き合いをしていたと察せられる。前森筑前守は羽黒山の別当だったという。東禅寺正勝は大山「鶴岡」城主でその二人に妹がいた。その妹が盛広の/妻であり親盛の母である。詳細は二本松藩で編集した「世臣伝」の巻八下に記してあり野間光辰氏深沢秋男氏の研究で明らかにされている。庄内時代/盛広は最上家に仕え、亀ケ崎城の城代家老を務めた。慶長年間(一五六一年)頃である。現在の酒田の上日枝神社は城内に祭ってあったという。/その縁で現在の酒田祭の毎年五月二十日には招待され、当家も斎藤家の守り神として深く信仰している。尚、酒田の町に筑後町として残っているが、祖先が住んだ屋敷跡を呼んだという。
斎藤家と東禅寺家
後年親盛が儒教、仏教、老子の三教を解説した本が、「百八町記」である。母は親盛に教育熱心だった。伯父の羽黒山別当前森筑前守により/神、仏にいたる資料が身近にあり、又、母が体得した教養が親盛に流れている。天正十六年(一五八九年)最上家に属した前森筑前守、東/禅寺右馬頭勝正兄弟とその一門は今の鶴岡にある十五里原合戦で、上杉勢と戦って戦死した大山の古戦場には戦死せし人千八百余柱/とある。血筋が続いているのは我が一族だけである。大山の古戦場を東禅寺塚と名付けて祖先、盟友の供養を代々せねばならない。
 二本松の祖先
親盛が二本松に来たのはその子秋盛が丹羽家に仕えたからである。その子富盛は傑出して禄増され二百石、二本松時代の礎を築いた。/その後、代々御用人、郡山代官、金銀払出奉行等の要職を務め、明治維新後は三春に移り住んだ。長井に移住するまでの本籍は三春町/荒町十番となっていた。毎年初午に当家でお祭りしている初午祭は、二本松時代、祖先が夢に竹駒神社のお使いが、伏見稲荷の帰り産気づき/姉の方を置いて行くので祀って呉れとのお告げを受け、河原に行くとその通りだったので、屋敷(現在の安達高校の裏の竹林)に飼っていたが、い/つの間にか居なくなったと言う。その後代々初午祭をしている。」

■「それからの斎藤家」
「父源覇(十二代)、東京に住む。戦後の混乱を避けて、当時五反田に在った金型製造の大崎製作所の長井工場に工場長として赴/任して定住した。その後工場は閉鎖され家族は長井に残り苦労の末に南陽市の川崎電気の外注となり本業に戻る。
昭和三十八年、長井市本町の黒沢和助氏の援助で、ままの上に金型工場を作り、昭和四十四年病にて没した。その子輝利、父の意志を/継ぎ、黒沢和助氏の長子和男氏の協力を得て、成田工場を開設現在に至った。
輝利、父源覇亡き後、妻と共に母みさを中心に家族の団結を計る。次弟の弘雄は家業を手伝い、三弟の惣逸は須賀川に/て同商売のフジ精工を起し、妹敬子は南陽市の竹田家に嫁ぎ、末妹恵美子は長井市の工藤家に嫁ぐ。本来三男になるべく/生まれた俊洋は三才で夭折し、長女に生まれた千代子は生後間もなく世を辞した。世の常ならざることを知りつつもむべなるかな。
二本松の墓地は昭和四十五年に最初の工事を完了したが、その後縁あって須賀川に移り住んだ弟惣逸の紹介で庄司浩士師のご指導/を仰ぎ今回の完成をみるに至った。また、完成に当っては、石は須賀川東部の江持石をふんだんに使用することが出来、墓石の製造建/立には叔父高橋清氏が誠心誠意当ってくださるなど、縁ある方々の温い後援を頂戴いたし、心よりの供養が出来ることを感謝するも/のである。

  斎藤家にまつわる出版物
奥羽軍記ー山形県史 庄内時代
斎藤別当実盛伝 さきたま出版会 奈良原春作氏
世臣伝 二本松図書館
二本松寺院物語 平島郡三郎著
可笑記大成 田中伸 深沢秋男 小川武彦 笠間書院 昭和四十九年四月発行
如儡子系伝▲ 野間光辰 文学 岩波書店 上中 昭和五十三年八月 同十二月発行
如儡子(斎藤親盛)調査報告 深沢秋男 文学研究 第六十七号 昭和六十三年六月
続酒田ききあるき 田村寛三著」


■おわりに(今後の課題と計画)

●藤島・鶴岡の調査
●佐倉の調査
●二本松、漆間家の調査
●江戸在住の頃の如儡子(作品から)

◎『百人一首』注釈の研究
◎『百八町記』の研究
◎『可笑記』の総合的研究

● 『斎藤親盛(如儡子)の研究』の出版





②、 『可笑記』と儒教思想

                                 深沢 秋男

 この作品が主として儒教的教義に立脚して書かれているということは,水谷不倒氏以来諸家の指摘するところであり,あえてここで取り上げる必要もないのであるが,しかしそれらの大部分は概説の域を出るものではなかった。このような中にあって,昭和二十九年三月号の『国語国文』誌上における寺谷隆氏の「仮名草紙に於ける庶民教化の一断面」と題する一文は,作品に即して具体的に論を進めているという点において,またそこに示されたものが,従来のそれとかなり異なる意見の提示である,というこの二つの点においてこれを避けることはできない。そこで私はこの論文との係わりにおいてこの作品と儒教思想との関連について考えてみたいと思う。
 寺谷氏はまず,巻三の37を取り上げて「『可笑記』は仁義を規定して「仁とは慈悲ある事、義とは義理をたつる事」であると言う。(巻六の十二)然し作者が此処で戒めて居るのは吝嗇と無情な態度に過ぎず、敢へて儒教道徳の強調とは言ひ難い。」といっている。このことはこの段に限るならば妥当であるとも思えるのであり,そしてさらに「仁義の勇者血気の勇者」についての一段(五の76)における仁義が,戦国時代から受け継がれた主従関係を中核とする生活の道義性としての仁義であることも明らかであるが,問題なのは,このような段のみをとらえて『可笑記』の仁義規定を評価してしまっていることである。この作品において仁義は単にこのような面からのみとらえられてはいない。
 たとえば巻二の36では,大名が鷹の餌のために多くの犬を殺す現実を見て「しかるをめたところさん事何かよからん、人はたゞかりそめにも、じひありたき事也。」と批判し,さらに巻五の75では「むかしさる人の云るはそれ万の物を、かはゆく思ひ、てうあいせんにも段々次第あるべし。先父母をはじめ、主君妻子兄弟親類他人畜類鳥類虫のたぐひ、草木まてをも、のこす事あるへからず。先父母をいとおしく愛して、其あまりをもつて、主君をいとおしく愛し」といっているが,このように博く人物を慈愛するという意見は,この他にも作中かなり色濃く反映しているのであり,さらにここで見のがしてならないのは,その愛にも段々次第があるとして,まず父母を愛し,その余りをもって主君を愛すべきだといっていることである。ここでは明らかに,主君よりも父母,つまり忠よりも孝が優先しているのであり,これはあくまで忠優先を主張する日本特有の思想と対立するものであり,そしてこれが,儒教的思想であることはこれまたいうに及ばないと思われる。また巻五の56では慈悲を施すにも時と場と相手によるという相対的な考えを提出し「おそれながら、此こゝろを、おしひろめて、じひの御がつてんまいり候はゞ、天下国家を、おさめ給はん、大慈大悲も、御あやまり、有べからず。」と結んでいるのであるが,この作品において慈悲は常に治める者に対して説かれているのであり,これは仁が常に君子に対して説かれることの強い儒教と決して無関係ではないと思う。
 また作者は「義理をたつる」とは,主君において,まず無欲であり,善き臣下を用い,似合い似合いの役を与え,直なる法度を定めることである(三の41)としているが,ここで注意されることは,仁義をいう場合「(主君が)よくしんふかく、仁義をしり給はねば、又下々もよくふかく、仁義をしらず」(三の8)のように常にそれと並列して無欲でなければならぬことを説いている(二の34・三の4・39・四の16・五の51・89)ことである。これは「子◇言利。与命与仁」(『論語』子◇篇)あるいは「孟子対曰。王何必曰利。亦有仁義而已矣。」(『孟子』梁恵王・上)などの孔孟のことばでも解るように,儒教においてもかなり一貫したものであり,この両者の共通性は「されば孟子にも、仁者は富まずと見えたり」(一の35)のように儒教典籍に拠ったところのことば(二の43・三の8・12・四の10・16・五の53など)が,単に語句の引用や故事の紹介の域にとどまらないことの証左になるものと思われる。このようにみてくると『可笑記』における仁義は,「敢へて儒教道徳の強調とは言ひ難い。」一面があるにしても,かなり儒教的要素を含んだものといわなければならない。
 さらに寺谷氏は続けて「又『可笑記』は度々天道を論じて居るが(巻一の二十)その天道観は夙に武士階級に存して居た絶対者としての天道信仰と余り距って居らぬ。」といっているのであるが,このこともまた作品全体に散見する作者の天道についての意見を合わせみるとき,そういい去ることはできない。
 巻一の20において作者は「不行儀沙汰のかぎり」をした者は「御家めつばうあやう」いのであるという。これは無道の行いをした者は必ず天罰を蒙る時がくる,そしてそれは天道の働きである,とみる戦国武士間にみられる天道観と同じ発想をもつものといえる。しかし『可笑記』はさらに続けては,その不道の主君をそのまま是認することなく,臣は君をして善に赴かせるように分別すべきだと力説するのである。これは栄枯盛衰を以て天道のならわしとし,したがって世に栄えているものは天道にかなったものであるとしたところの戦国武士の天道観とはかなりずれてきており,それを道徳的なものとしてみている点において儒教の影響が認められる。また大将が国を攻め取ることについての段(二の19)においては「無理なるかせんをくはだて給ふべからず」ではあるが,ただ相手が天命に背く場合は別であるといい,国を攻め取るのは「其国郡の万民うれへかなしみめいはくするところを、やすんぜんがため」でなければならないという。この意見は敵を打ち破るに手段を選ばず,自分の領地を拡大し,自らの欲望のみを遂げようとした戦国武士のそれから大きく展開したものであり,そしてこれが『孟子』の「文王一怒而安天下之民。」(梁恵王・下),「其子之賢不肖、皆天也。非人之所能為也。莫之為而為者天也。莫之致而至者命也。」(万章・上),「王曰、無畏。寧爾也。非敵百姓也。若崩厥角稽首。征之為言正也。」(尽心・下)などの思想に裏付けられていることは「周の文王殷の紂王をせめほろぼし給ふためしあるをや。」といっているのでも解ることである。巻四の1は学問についての一段であるが,物を知ることは,人の道を行うためであり,その根本は天道である。故に聖人はその天道を解明してそれを万民に教えなければならない,といっている。これは「天道に恵まれ奉る」ことは聖人の道に通ずるものである,といっている(一の27)のとともに天の道,人の道は共通のものであるとする立場からの発言であり,天人合一を説く儒教思想(朱子,孟子など)に通じるものといえる。
 さらに『礼記』のことばに拠っているもの(四の10),仁義礼智信の五常と天道は通じるものであるという考え(四の27)などを考え合わせるとき,儒仏並列の場から天道をとらえている(一の12・27など)というすっきりしない面があるにせよ,その他にみられる天道(一の3・8・41・43・三の5・21・22・35・四の16・47・五の13など)も儒教思想と無関係であるとは思われないのである。『可笑記』における天道説は決して「夙に武士階級に存して居た絶対者としての天道信仰」のみではなく,むしろその立場はいずれかというならば儒教的であると断じてよいと思われる。
 しかし寺谷氏はさらに主従観と項を改めてこの作品が反儒教的であることを強調するのである。巻二の18における作者の主従観をまず指摘し,さらに続けて「如儡子によれば、主従関係とは「君のきみたらざる時は臣のしんたるものなし」(巻三)「重賞の家には死夫あ」り(同上)であって武士の奉公とは所詮「家名と老後のたのしみ」の為に帰着する。…中略…『可笑記』の主従観は例へ著者がどれ程儒教的扮飾を施しても、恩賞を主従関係の基礎に置く事によって、近世封建社会の下にあっては、甚だ反社会的な性質を有して居たと言はねばならぬ。」と結論づけている。そしてこれに関しては松田修氏も『文学』昭和三十八年五月号において言及し「『可笑記』を支える基本的理念は、さまざまの留保条件をつけても、やはり儒教ないし儒教的、最小限漢学的性格を示している。その主従観を以て、反儒教的と全巻を決することには、にわかに従いがたい。」といってはいるが結局は寺谷氏の見解の域を出ていない。
 さて巻二の18であるが,ここで説く家臣の心境は確かに主君に対する態度についての作者の発言ではあろう。しかしそれは「主君おほくはみ内の者共に、蚊のまなこほどの恩賞もあたへ給はず、あはのさね程のなさけをもかけ給はず、やゝもすれば、無理ひがごとのみしげくいひかけてめいはくさせ給ふ」という事実を前提としてのそれであり、決して家臣は主君に対してこのような心得で仕えてよいといっているのではない。いわば不道の主君に対する家臣の態度の一つをあげているにすぎない。また『可笑記』の主従観において「君のきみたらざる時は、臣のしんたるもなし」(三の41)は常に一貫したものであり(一の28・32・二の43など),そして「重賞の家には死夫あり」(三の2)もその一端を補うものであることは間違いない。しかしだからといって、これらをただちに戦国時代的主従観であると断定し,故に反儒教的なのだと結論づけることは妥当と思われない。
 「君のきみたらざる時は臣のしんたるもなし」ということばにかける作者の意図は「君が君なら臣も臣でよいのだ」にあるのではなく,あくまでも「臣が臣であるためにはまず君が君たらねばならない」というところにこそあったのである。だからこそ主君に対して徹底的にその道徳的責任を求めているのである。このように主君は常に正しくなければならないとし,あるいは主君を善に導かなければならないとする態度は作中一貫するものであり,我欲をとげるためには、いかなる手段も選ばず争い合った戦国武士の間にこのような見解が見出し得るであろうか。私はここに治められる者よりも治める者に対して説くことの強い,そして仁政思想の影響をみてとるのである。因みにこの「君のきみたらざる時は臣のしんたるもなし」は「孟子曰、君仁莫不仁、君義莫不義。」(『孟子』離婁・下)をはじめとして『孟子』あるいは『論語』中に散見するこの種のことばに拠っていることはいうまでもない。また「香餌のもとには懸魚あり、重賞の家には死夫ありと、申つたへぬ」は「香餌之下有死魚、似重禄之下有死士也」という『六韜』の文韜第一にその典拠を求め得るが,これをとらえて寺谷氏は「恩の反対給付に依存して居た」戦国武士の主従観と断定するのであるが,この解釈は作品全体からみるとき,適切なものではないと思われる。巻五の51で「おんよりも情の主と云事は、仁義にたつせし侍の事、但情は、質にをかれぬとして、恩賞を望む、侍こそおほけれ」といって,その無欲でなければならぬを説いていることを,さらに仁義を重んじ無欲でなければならないと力説するのがこの作品の基調であること等を考え合わせる時「重賞の家には死夫あり」の用語例を以て戦国時代の武士の主従観に直結することはやや無理なものとなってくる。また作者は恩賞を適度に与えるようにと説いてはいるが,決してそれを主従関係の基礎に置いてはいない(二の18・五の1など)。『可笑記』の主従観は,よしそこに戦国的な要素が介在するにしても,それは現実の主従関係そのものが戦国時代的なものを少なからず踏襲していたことを考えるとき,あるいは当然のことといえるのであり,概していうならば,禄を与える者と受ける者との関係にある現実の主従関係を肯定し,さらにそれを儒教的立場から説こうとした(一の28・二の34・42・三の8・30・41・四の14・五の7・30・35・41・43など)ものであるということができる。また儒教的主従観と武士本来の主従観は本質的には決して同じものではないが,初期三代,家康・秀忠・家光と徳川政権安定を目ざす,改易,転封などの大名統制が頻繁に行われ,反面その所産として生まれる多くの浪人に苦しまなければならなかったところの歴史的現実においては,かかる儒教的主従観がそれほど抵抗なく受け入れられたものと思われる。
 以上二,三の項目を中心にみてきたのであるが,その他にも儒教思想と関連のあるものは少なくないのであり(一の15・二の40・三の24・四の25・五の67など多数),要するに作品全体に流れる思想は単に戦国武士のそれからでもなければ,まして反儒教的でないことはいうまでもない。そしてそれは,主君は常に百姓町人を保護しなければならないと主張しはするが,所詮「侍がとみさかへぬれば、百姓かならずゆたかにさかへ」る(三の1)というように,あくまで武士を最上段に置くという,当時の武士の現実から把握されたところの儒教であったのであり,そこには当然武士と儒教を結びつけようとする一面もあったのである(四の16)。そしてこの間の事情は作品みずからが説明している。すなわち「四書七書、かながきの養生論、つれつれ甲陽軍鑑、すゞりれうしの類置たるもよし」(三の23)「家にありたき物はよまずとも四書七書、法語、和漢の集」(五の63)といい,巻四の43・五の79では『太平記』を読むようにとすすめている。これらのことばからも解るように,儒教および儒教的典籍は作中『史記』『十八史略』『礼記』『春秋』『毛詩』『周易』『戦国策』,それに「七書」等かなり広範囲にわたるようではあるが,やはり「四書」それも『孟子』『論語』がその主たるものと思われる。また『太平記』『甲陽軍鑑』の世界をよきものとして肯定していることは,戦国時代からの武士気質を多少なりとも体験として受けとめていたと思われる作者であってみれば,自然のものと思えるが,さらにこの二書のいずれもが単に軍記物や軍学の書ではなく,そこに少なからず儒教的要素が介在していたという点において一層納得のゆくものとなるのである。
 しかしさらにここで注意すべきことは,これらの儒教あるいは儒教的な書物とともに「法語」をそこに連ねていることである。この作品において仏教思想は一見ことごとく難じ去られているかの感があるが,しかしそれらを子細にながめてゆくと,実利的,物質的意識がたかまり,仏教本来の意味からすれば著しく堕落したところの現実の仏教は激烈な批判を加えられながらも(一の29・四の11・36・五の10,特に五の4・8・24など)なお釈尊はその尊さを作者に対して維持していたのであり(三の16など),さらに儒仏双方が互に難じ合うのを指摘して無用な論争だとし,各々自分の道を究明すべきだと批判するのである(四の5,他に一の35・四の40・五の17)。また「儒者仏者」「儒道仏道」等のように儒仏を並列的にあつかった語句はなかば慣習的かとさえ思えるくらい作中一貫して使われており(一の35・二の44・三の4・四の40・五の37など多数),さらに儒教を現世的なものとし、仏教を来世的なものとみる傾向もあったのであり(五の17)これらのことごとを考え合わせるとき,後年に『百八町記』を著し仏教に帰依したと思われる作者の心的推移も決して不自然なものでなかったことに気づくのである。そして頴原退蔵氏が古く指摘した(『国語国文』昭和七年十二月号)ように『百八町記』の三教一致の思想は,すでに『可笑記』の中に芽ばえていたということができよう。なお『百八町記』の儒釈道の三教一致思想は,一名『儒仏二教/水波問答』と題したものがあるのをみても解るように,その中心は儒仏二教にあるとされているが,このことは『可笑記』においても同様であり,老荘思想はきわめて希薄である(三の17・四の15・五の8)。
 要するにこの作品には,作者自身の体験から得たであろうところの当時の武士の思想と,そして勿論それと無関係ではなかろうが,もう一つこの仏教的要素が包含されているのである。しかしその中心となるものはあくまでも,新しい知識としての儒教思想であったということができる。また作者は儒教をかなり知識的,学問的に受けとめていたのであり,したがってこれに決して盲従してはいない。このことは近世初頭の儒者,羅山などが時として狂信的態度を示していたのと対照的であり,このいってみれば科学的,それだけに自由な態度,これこそこの作品の一つの重要な特色になっていると思われる。
                 (『文学研究』第19号,昭和39年5月)





③ 、斎藤親盛(如儡子)の俳諧(上)

                                 深沢 秋男

   一,は じ め に

 斎藤親盛(如儡子)の俳諧について最初に言及したのは,田中伸氏である。田中氏は,「如儡子の注釈とその意義」の末尾に補注として,次の如く記しておられる。
 「斎藤親盛は寛文始め頃から延宝の初めまで俳人として活躍をしている。さきの『桜川』(四十句)を始め、同じ風虎編の『夜の錦』(七句)、松江重頼編の『佐夜中山集』(二句)、松江維舟(重頼)編の『時勢粧』(五句)、北村季吟編の『続連珠』(一句)などに入句が見られる。特に『時勢粧』には、同じ二本松の斎藤友我と両吟百韻を寛文五年の十一月に興行し、折から松島まで赴き帰洛の途にあった維舟の点を付して掲載されている。それらの句を見ると、『可笑記』に見られた激しい世相批判とは変って、俳諧に楽しんでいる平穏な晩年がしのばれるのである。そしてその俳諧の師は松江維舟であった。当時の俳人としては古典の教養を必要とし、本論にとり上げた『百人一首鈔』などもその一翼をになうものであったと見ることが出来るのである。」
 これを受けて,野間光辰氏が少し具体的に整理しておられる。
 「……俳諧は、二本松に在住するようになってから、同藩の松江維舟門の好子江口塵言・水野林元・斎藤友我・同如酔・小沢衆下・長岡道高等に誘われて入ったようで、晩学にしては出精の甲斐あって、相当の成績を挙げている。前にも記したことであるが、これは田中伸氏の指摘によって気づいたことで、田中氏は前引「百人一首鈔と酔玉集」なる論文の補注として要点だけを挙げて居られる。今ここには、入集俳書の年代に従ってその句数を示し、若干の作例を挙げる。
  寛文四年
   重頼撰『佐夜中山集』  発句二
  寛文六年
   風虎撰『夜の錦』(『詞林金玉集』ニ抄出)  発句七
  寛文十二年
   風虎撰『桜川』  発句三七(句引四〇)
   維舟撰『今様姿』  発句五/両吟百韻一(句引四)
  延宝三年
   重安撰『糸屑集』  発句一
  延宝四年
   季吟撰『続連珠』  発句一(句引四)
  ○花の兄やこれも接木のだいがはり
  ○田舎にて花の都や和哥の友
  右の二句、『佐夜中山集』巻一追加に入集、二本松住斎藤親盛の作の俳書に見える最初である。「田舎にて」の発句は、これは、東北の田舎にあって恰も花の都にある如き思いをする、偏に塵言・林元・友我等の風雅の友を得たるためである、という意を寓したものであろう。『中山集』の巻一より巻五までは、寛文四年九月二十六日付重頼奥書を添えて板行せられているが、翌五年重頼は維舟と号を改め、同年四月三日東行の途に着いている。その行程は、寛文十二年三月の跋ある『今様姿』所収の発句詞書に詳しい。まず京より木曽路を経て一旦江戸に出で、それより奥へと志して日光に参詣し、白河の関を越えて、二本松城下に入ったのはその七月であった。二本松には前後十数日滞在して、塵言・林元等の独吟百韻に引点し、また彼等の外に、道高・友我等を加えた四吟・五吟の百韻をも興行している。如儡子が維舟に師事したのはこの時であって、後年板行せられた『今様姿』に入集の発句も、またこの頃の作であったに相違ない。そして維舟が末松山・松島の名所一見に旅立った後、十一月十日に同姓友我と「何霜百韻」一巻を両吟して、師走上旬江戸を経由帰京した師の許に送って点を乞うている。
     寛文五年霜月十日
      何 □
   出立は足もとよりぞ鷹の鳥        親 盛
    是は夜の間か雪の道筋         友 我
   遠山も花咲たりと聞付て           〃
    永/\し日もあかぬ野心          盛
   ひたぶるに猫は妻をし呼廻          〃
    やねも戸びらも春めきにけり        我
   朧げの月を見廻す庭の景           〃
    酒のむしろにしくは御座らぬ        盛
                             (下略)
      付墨 五十句
       此内 長十五
     斎藤親盛  点廿四 内長八
     斎藤友我  点廿六 内長七       (第四下)
 百韻はこの一巻の外は見当らぬ。発句は諸書の句引合計六十九句、内重複分を差引けば五十八句となるが、『桜川』の如く入集句の実数と誤差あり、また『続連珠』の如く伝本いずれも零本なるため、入集句の全部を確かめ得なかったものもあり、結局において、今日判明しているのは五十四句である。例によって、維舟流の、古歌・詩文・諷・小歌・舞・狂言等の詞を裁ち入れた句が殆どであるが、只句の作にむしろ作者の生活を窺い得るものがある。
  ○老人や子に伏寅に置火燵 」

 田中伸氏・野間光辰氏の研究は以上の如くである。両先学の調査を参照し,さらに,今栄蔵氏の『貞門談林俳人大観』を利用させて頂いて調査した結果を整理すると以下の通りである。


   二,斎藤親盛の俳諧作品

 1,松江重頼撰『佐夜中山集』  寛文四年

 佐夜中山集巻之一
 追加春
1 花の兄やこれも接木のたいかはり     斎藤親盛
2 田舎にて花の都や和哥の友        斎藤親盛

 2,内藤風虎撰『夜の錦』(『詞林金玉集』抄出)寛文六年

  巻一 春一
1 夜錦 万代をかけて祝ふやおめて鯛    親盛/奥州二
                      本松/斎藤氏
  巻二 春二
2 中山 花の兄や是も接木のたいかはり   親盛/奥州二
                      本松/斎藤氏
  巻三 春三
3 同集 あけぬるや雲のいつこにいかのほり 親盛/奥州二
  (夜錦)                本松/斎藤氏
  巻四 春四
4 中山 田舎にて花の都や和歌の友     親盛/奥州二
                      本松/斎藤氏
  巻八 夏二
5 夜錦 夏引の手挽にするは麦粉かな    親盛/奥州二
                      本松/斎藤氏
  巻十一 秋二
6 夜錦 虚空より鉄花をふらす花火哉    親盛/奥州二
                      本松/斎藤氏
  巻十二 秋三
7 夜錦 塩くみやふりさけ見れは桶の月   親盛/奥州二
                      本松/斎藤氏
  巻十三 秋四
8 同集 金柑やけに色にそみ皮にめて    親盛/奥州二
  (夜錦)                本松/斎藤氏
  巻十四 冬一
9 夜錦 風ふけはをきつしらかに綿帽子   親盛/奥州二
                      本松/斎藤氏
  巻十五 冬二
10 時世 出立は足もとよりそ鷹の鳥     親盛/奥州二


                      本松/斎藤氏
  巻十五 冬二
11 時世 たかや又生るを放つぬくめ鳥    親盛/奥州二
                      本松/斎藤氏
   作者句引
  二本松之住
江口氏/塵言  春九句 夏三句 秋十句 冬四句 〆二十六句
水野氏/林元  春九句 夏四句 秋五句 冬六句 〆二十四句
日野氏/好元  春七句 夏五句 秋六句 冬三句 〆二十一句
長岡氏/道高  春七句 夏六句 秋三句 冬三句 〆十九句
斎藤氏/親盛  春四句 夏一句 秋三句 冬三句 〆十一句
同 氏/友我      夏二句 秋四句 冬一句 〆七句
小沢氏/衆下  春二句 夏二句     冬二句 〆六句
不破氏/一興  春三句         冬二句 〆五句
中井氏/正成  春一句 夏二句 秋二句     〆五句
奥田氏/方格  春二句 夏一句 秋一句     〆四句
斎藤氏/如酔  春二句 夏一句         〆三句
小川氏/可著  春一句 夏一句 秋一句 冬一句 〆四句
須藤氏/之也  春一句 夏一句 秋一句     〆三句
寺田氏/寒松      夏二句 秋一句     〆三句
今村氏/林昌  春一句     秋一句     〆二句
    正秀  春一句    古市氏/正信   夏一句
    古硯  春一句    小池氏/又笑   夏一句
佐藤氏/幸之  夏一句        秀伝   秋一句
白岩氏/人任  夏一句    伴 氏/人似   冬一句
安保氏/一実  夏一句    土屋氏/有房   夏一句
豊田氏/政氏  冬一句    下河辺氏/□□  春一句
釈 氏/知蔵司 秋一句    釈 氏/随言   秋一句

 3,内藤風虎撰『桜川』 寛文十二年

 春 一
1 お流れや二つ瓶子に三つの春       斎藤親盛
2 松の戸やたえ/\ならぬ春の礼      斎藤親盛
    卯杖
3 いはふとて朝に杖つく卯の日哉      斎藤親盛
4 はま弓やひかりさしそふいはひ月     斎藤親盛
5 笠鉾やかけ奉るひたち帯         斎藤親盛
6 札押やみな身の祈祷二月堂        斎藤親盛
7 をく露や声にちほく・いもかへる     斎藤親盛
8 栢の木に巣こもりやする碁石鳥      斎藤親盛

 春 二
9 秋もあれと松の海辺菊池の里       斎藤親盛
10 うとの朱うはふ防風や膾のこ       斎藤親盛
    菫
11 武さし野は本むらさきの菫かな      斎藤親盛
12 けかれぬや蒜慈悲の高野山        斎藤親盛
13 わらはへもあしたをまつやとり合せ    斎藤親盛

 夏 一
    灌 仏
14 あかなくにまたき生湯や如来肌      斎藤親盛
15 いちこもやまいたるつるはいはら垣    斎藤親盛
16 月の夜はうをのたなゝし鵜舟哉      斎藤親盛
17 宇治丸のなれ押そおもふ桶のすし     斎藤親盛

 夏 二
18 山復山みねより出てや雲の岑       斎藤親盛
19 扇あれはいつも夏かと御影堂       斎藤親盛
20 三春迄着るや岩城のちゝみ布       斎藤親盛
21 一瓢も千金なれや水あそひ        斎藤親盛

 秋 一
22 鼠火は尻に立ゝ大路かな         斎藤親盛

 秋 二
23 口紅粉のあけをうはふやめはうつき    斎藤親盛
    菽
24 是は畑のつくりもの也碁いしまめ     斎藤親盛
    粟田口祭
25 祭見やいそしの栄花あはた口       斎藤親盛
26 鴫は鴨の羽ねかきまかふ文字哉      斎藤親盛
27 手折てやまた見ぬ人にこい紅葉      斎藤親盛

 冬 一
28 炭櫃もや一家ひらけて四方の冬      斎藤親盛
29 かけはこそ菩提樹となれ木葉経      斎藤親盛
30 菅笠や憂世の民のしもおほひ       斎藤親盛
31 二季まてみきとこたへん帰花       斎藤親盛
32 出雲にや雪垣つくる軒の妻        斎藤親盛
33 降雪やこしのしら山馬のくら       斎藤親盛
34 つく餅や手水のこりて薄氷        斎藤親盛

 冬 二
35 追鳥やせこにもれたる草かくれ      斎藤親盛
36 渋柿もしゆくしにけりな色紙子      斎藤親盛
37 ひゝきらす神や手なつちあしなつち    斎藤親盛
38 笛太鼓おもしろひそよ小夜かくら     斎藤親盛
39 今日斗あすはかすみの節季0       斎藤親盛
40 海やあるまくらのしたにたから船     斎藤親盛

 二本松住
水野林元  春五十六句 夏二十一句 秋四十一句 冬四十三句
      〆二百一句
日野好元  春五十一句 夏五十二句 秋四十五句 冬三十七句
      〆百八十二句
小沢衆下  春二十七句 夏三十五句 秋三十二句 冬二十四句
      〆百十八句
江口塵言  春三十六句 夏二十四句 秋二十六句 冬二十二句
      〆百八句
内藤未及  春二十六句 夏二十九句 秋十三句  冬十二句
      〆八十句
中井正成  春十四句  夏二十二句 秋十八句  冬十六句
      〆七十句
斎藤如酔  春十五句  夏二十句  秋十八句  冬十三句
      〆六十六句
後藤之也  春十七句  夏八句   秋十二句  冬十四句
      〆五十一句
下河部□□ 春十四句  夏十一句  秋十句   冬八句
      〆四十三句
斎藤親盛  春十三句 夏八句 秋六句 冬十三句 〆四十句
小池又笑  春十一句 夏八句 秋六句 冬十四句 〆三十九句
奥田方格  春五句  夏九句 秋五句 冬七句  〆二十六句
釈 随言  春八句  夏四句 秋五句 冬六句  〆二十三句
白岩人任  春三句  夏二句 秋五句 冬六句  〆十六句
斎藤友我  春四句  夏四句 秋一句 冬五句  〆十句
長岡道高  春五句      秋一句 冬二句  〆八句
座頭城益  春二句  夏三句          〆五句
佐野相興  春一句  夏一句 秋二句 冬一句  〆五句
伴 人似

  春三句      秋二句      〆五句
安田未元  春二句      秋三句      〆五句
0山子   春二句  夏一句     冬二句  〆五句
日野好久       夏一句 秋二句 冬一句  〆四句
大崎口友  春三句      秋一句      〆四句
佐藤幸之  春三句  夏一句          〆四句
滝川寸志  春二句          冬一句  〆三句
寺田万之助          秋二句 冬一句  〆三句
安積治水子 春二句      秋一句      〆三句
藤村守幸       夏二句     冬一句  〆三句
青戸未入  春二句          冬一句  〆三句
小松崎破衣 春一句    貝山友志  冬一句
佐藤萍心  春一句    清水直治  冬一句
寺田守昌  春一句    壱田政氏  冬一句
松下是一  春一句    石橋0同  冬一句
土屋有次  春一句    三崎如雲  冬一句
金田古硯  春一句    今村林昌  冬一句
津田正吉  秋一句    横山笑甫  冬一句
山田相知  秋一句    鈴木友言  冬一句

 4,松江維舟撰『時勢粧』 寛文十二年

 第一
 夏 部
    蓮
1 はすを御池糸もかしこし花の色      斎藤親盛
 秋 部
    鹿
2 よきてけふ萩のあたりを鹿の笛      斎藤親盛
 冬 部
    霜
3 霜八たび置てや鐘の七つ六つ       斎藤親盛
 第二
 冬 部
4 老人や子に伏寅に置火燵         斎藤親盛
    鷹
5 鷹や又生るを放つぬくめ鳥        斎藤親盛

 句数之事
 二本松之住
塵言    四十一      水野林元 三十九
日野氏好元 四十       長岡道高   七
中井正成   十一      小沢衆下  十五
丹羽捨拾    一      佐野相興   一
野沢似言    一      毛利以由   一
今村林昌    一      奥田方格   一
河村惣広    一      小池又笑   四
斎藤親盛    四      下河部□□  三
白岩人任    三      内藤未及   二
土屋有房    二      日野好久   二
伴人似     二      不破一興   四
須藤之也    八      斎藤友我   五
斎藤如酔   十四      釈随言    五
釈永雲     一

 時勢粧小鏡

 夏部
   祓
1 猶おかし水無月祓虫払         斎藤親盛

 第四下
  寛文五年霜月十日     《注》 □=長点  ◇=点
   何 0
1 □出立は足もとよりぞ鷹の鳥         親盛
2  ◇是は夜の間か雪の道筋          友我
3 □遠山も花咲たりと聞付て           々
4   永/\し日もあかぬ野心          盛
5 ◇ひたぶるに猫は妻をし呼廻          々
6   やねも戸びらも春めきにけり        我
7  朧げの月を見晴す庭の景           々
8   酒のむしろにしくは御ざらぬ        盛
9 ◇鼻歌のふし立中も和ぎて           我
10   あるまひ物よ恋の関もり          盛
11  我罪はよもや色には伊豆箱根         我
12  □多くはとらぬひとふたみかん        盛
13 ◇花車にもる膾も栗もいさぎよし        我
14  ◇月になる迄数奇の伴ひ           盛
15 ◇蹴鞠は幾日もあらじ秋の暮          我
16   そぼ/\雨はふるかふらぬか        盛
17 ◇乗物の簾はあけようつとうし         我
18   野がけあそびは遠がけの道         盛
19  世をうしとしらぬ人々たはぶれて       我
20   此方ばかり岩のかくれ家          盛
21 ◇鬼有といふは真か大江山           我
22   分て生野に女ちらめく           盛
23 □若草をやくたいもなき物思          我
24   えんをも結ぶ春の夜の夢          盛
25 ◇佐保姫もしろしめされん文のうち       我
26  ◇いざやとく/\居て朝鷹          盛
27  寒空を忘な樽の底ごゝろ           我
28   北国道はいまおもひたつ          盛
29  我君のあたかの事はいかゞせん        我
30   只ならぬ身となるやお手かけ        盛
31  とはぬ夜は秋もたんぽを肌にそへ       我
32  ◇露涙にぞ寝巻ひぢぬる           盛
33  恋病に月の形を見まくほし          我
34   大宮人はとかくやさがた          盛
35 □けやけきも臥猪の床と云なして        我
36   むさくさ茂る木陰山陰           盛
37 ◇住捨て一両年を古屋敷            我
38   我身ばかりは泣のなみだよ         盛
39 ◇心なき影法師さへ面やせて          我
40  □鴫立沢の水は道ばた            盛
41  秋風にはや汗入て岑の月           我
42  □かけ出にけり野にも山伏          盛
43 ◇狼をとらんとするも穴賢           我
44   狐を見ればどれも顔白           盛
45  朝清め雪かきのくる墓原に          我
46   此春ばかり仏とふらん           盛
47 ◇老が目は霞て三輪の山遠み          我
48  ◇日もあたゝかな有馬の出湯         盛
49 ◇花の陰小篠のさゝの酔機嫌          我
50  ◇鶯袖もひいつひかれつ           盛
51 ◇三線のいとゞ心もうかれ女に         々
52   うそ恥かしの我が口笛           我
53 ◇飛蜂を払へどく・まのあたり         盛
54   みなみの日請しづかなる山         我
55  若の浦吹上浜は扨もく・           盛
56  ◇波ではないかや菊の花           我
57 ◇紅葉さへうかべる月の舟遊び         盛
58  ◇露を悲しぶ一首の詠歌           我
59  急雨の雨もはらく・霧も立          盛
60   涙こゝろは只しほく・と          我
61 □しばらくは別の顔をまもり合         盛
62  □夜討を思ふ続松の影            我
63 ◇弓も矢も堀川筋を前に向           盛
64  □安山子も作る里の新田           我
65  さし柳苦竹の葉も散交り           盛
66   月までをどる雀色時            我
67  宮めぐりめぐりく・て下向して        盛
68  ◇なふ思ひだす御幸の車           我
69 ◇とつと其昔も今も小塩山           盛
70   けぶりくらべや松陰の茶屋         我
71  莨□にも名残ハ尽ぬ習にて          盛
72   別し方はあちと見かへる          我
73  横雲の空泣又は恨なき            盛
74   つれなき様は郭公かの           我
75  金衣鳥銀薄付しゑりもがな          盛
76   まづ/\祝へ若ゑびす殿          我
77 ◇書初の紙は中にも花ぐ・し          盛
78  ◇掟を触る御入部の春            我
79 ◇上下もさゞめきわたる勝軍          盛
80   あれかは竹の螢乱るゝ           我
81  秋すでに昨日今日迄水心           盛
82  □朝げの風に団扇さへ置           我
83  月見しつ酒あたゝめつ寝つ起つ        盛
84   やもめのくせや長夜はうし         我
85 ◇いつも/\烏がなけば暇乞          盛
86  ◇涙に袖はぬれぬ鷺の如           我
87 ◇冬までも残るは無か形見草          盛
88   氷れるは閼伽も弥陀の一体         我
89  極楽ををしへのお文忝な           盛
90   玉のをばかり逢たや見たや         我
91 ◇恋死も今や/\と心ぼそ           盛
92  ◇おもゆすゝり又すゝりなき         我
93 □みなし子をだいつかゝへつ膝の上       盛
94  □木幡の里に前後白雪            我
95 □馬はをはで焼火のそばに一眠         盛
96   尻たれ帯の下女にもほるゝ         我
97  たすきがけこなたかなたへ口説寄       盛
98   など世の中のからいぞく・         我
99 □竹に入こがしも花の香に匂ひ         盛
100   ◇事かり初に出しつゝしみ          我
       付墨 五十句
        此内 長十五
      斎藤親盛  点廿四 内長八
      斎藤友我  点廿六 内長七

 5,宗善庵重安撰『糸屑集』 延宝三年

 糸屑集巻三秋部
    穂 蓼
1 味はひもから紅の穂蓼哉         奥州/親盛

 糸屑集句引
  陸奥
 岩城/風鈴軒 五  同/如白 一
    道高  三    久経 一
    笑草  一    嘉□ 二
    親盛  一    正利 一
    久隆  一    師□ 一
    清後  一    林元 二

 6,北村季吟撰『続連珠』 延宝四年

 続連珠誹諧集巻第十一
  春発句上
1 はや乙矢順のこふしや弓始       二本松/親盛

 続連珠作者 并 句数
  陸奥国/卅九人
風鈴軒 付句二/発句二百四十五  岩城松賀氏/紫塵 六
二本松/林元 一         二本松/親盛 四
同(二本松)日野氏/好元 五   岩城吉田氏/俊貞 四
岩城塩川氏/如白 四       南部盛岡平井氏/順□ 一
岩城浅香氏/英総 七       岩城亀室 三
南部小館氏/長意 四       合津津川住/重房 二
合津津川住/由房 一       仙台/不及 六
岩城長沢氏/寺常 十四      白川/柳雪 二
南部北川氏/秀将 七       二本松小沢氏/衆下 七
合津津川住/宣房 三       白川梯雲軒/霞鵆 十三
南部盛岡氏/勝重 四       二本松/正成 二
岩城次田氏/東竹 二       奥田氏/蜘紫 六
岩城江名口氏/季堅 一      同(岩城)山井氏/重元 一
白川大宮氏/玄長 一       合津津川住/次政 一
二本松/秀伝 二         南部盛岡村井氏/正尹 一
磯江氏/勝盛 一         二本松/塵言 一
南部隣松軒/正焉 三       合津津川三村氏/吉重 一
岩城/塩川氏女 一        白川勾坂氏/一曲 二
南部/政俊 一          二本松小□住/如酔 一
岩城山井氏/水吟 一

 〔参 考〕
 7,那賀盛之予撰『境海草』 万治三年

    夏
1 五月雨は船ながしたる酒屋哉         親盛

     大 坂
   休甫  二   井蛙  二
   悦春  二   清次  二
   正風  壱   雅氏  二
   伯貞  一   親盛  一
   常直  四

 以上,親盛の発句と両吟百韻を,現在確認し得たものを整理して掲げたが,その結果,『佐夜中山集』二句,『夜の錦』十一句,『桜川』四十句,『時勢粧』五句,『時勢粧小鏡』一句,『糸屑集』一句,『続連珠』一句,『境海集』一句,合計六十二句となり,これに,『時勢粧』収録の斎藤友我との両吟「何0百韻」一巻が加わる。発句を整理して一覧すると以下に掲げる通りである。全六十二句中,4・6は『佐夜中山集』と重複し,13は『時勢粧』と重複する。また,12は『時勢粧』収録の友我との両吟「何□百韻」の発句である。『続連珠』は「作者 并 句数」の項に「二本松/親盛四」とあるが,発句一句しか確認できなかった。62は『境海集』の句であるが,この集には、京・江戸・大坂・天満・奈良・長崎・讃岐・伊勢・紀州・平野・三宅・八木・布忍・堺住の俳人が収録され
ていて,陸奥・二本松は入っていない。そして「大坂」の条に「親盛 一」とある。これを斎藤親盛と同一人とは断定出来ないが,参考のため掲げた。従って、以上の結果を差引きすると,現在確認しえた親盛の発句は五十七句ということになる。

 斎藤親盛の発句一覧

1 花の兄やこれも接木のたいかはり  
2 田舎にて花の都や和哥の友     
3 万代をかけて祝ふやおめて鯛    (夜の錦)
4 花の兄や是も接木のたいかはり   (佐夜中山集)
5 あけぬるや雲のいつこにいかのほり (夜の錦)
6 田舎にて花の都や和歌の友     (佐夜中山集)
7 夏引の手挽にするは麦粉かな    (夜の錦)
8 虚空より鉄花をふらす花火哉    (夜の錦)
9 塩くみやふりさけ見れは桶の月   (夜の錦)
10 金柑やけに色にそみ皮にめて    (夜の錦)
11 風ふけはをきつしらかに綿帽子   (夜の錦)
12 出立は足もとよりそ鷹の鳥     (時勢粧百韻発句)
13 たかや又生るを放つぬくめ鳥    (時勢粧)
14 お流れや二つ瓶子に三つの春    
15 松の戸やたえ/\ならぬ春の礼   
16 いはふとて朝に杖つく卯の日哉   
17 はま弓やひかりさしそふいはひ月  
18 笠鉾やかけ奉るひたち帯      
19 札押やみな身の祈祷二月堂     
20 をく露や声にちほ/\いもかへる  
21 栢の木に巣こもりやする碁石鳥   
22 秋もあれと松の海辺菊池の里    
23 うとの朱うはふ防風や膾のこ    
24 武さし野は本むらさきの菫かな   
25 けかれぬや蒜慈悲の高野山     
26 わらはへもあしたをまつやとり合せ 
27 あかなくにまたき生湯や如来肌   
28 いちこもやまいたるつるはいはら垣 
29 月の夜はうをのたなゝし鵜舟哉   
30 宇治丸のなれ押そおもふ桶のすし  
31 山復山みねより出てや雲の岑    
32 扇あれはいつも夏かと御影堂    
33 三春迄着るや岩城のちゝみ布    
34 一瓢も千金なれや水あそひ     
35 鼠火は尻に立ゝ大路かな      
36 口紅粉のあけをうはふやめはうつき 
37 是は畑のつくりもの也碁いしまめ  
38 祭見やいそしの栄花あはた口    
39 鴫は鴨の羽ねかきまかふ文字哉   
40 手折てやまた見ぬ人にこい紅葉   
41 炭櫃もや一家ひらけて四方の冬   
42 かけはこそ菩提樹となれ木葉経   
43 菅笠や憂世の民のしもおほひ    
44 二季まてみきとこたへん帰花    
45 出雲にや雪垣つくる軒の妻     
47 降雪やこしのしら山馬のくら    
47 つく餅や手水のこりて薄氷     
48 追鳥やせこにもれたる草かくれ   
49 渋柿もしゆくしにけりな色紙子   
50 ひゝきらす神や手なつちあしなつち 
51 笛太鼓おもしろひそよ小夜かくら  
52 今日斗あすはかすみの節季0    
53 海やあるまくらのしたにたから船  
54 はすを御池糸もかしこし花の色   
55 よきてけふ萩のあたりを鹿の笛   
56 霜八たび置てや鐘の七つ六つ    
57 老人や子に伏寅に置火燵      
58 鷹や又生るを放つぬくめ鳥     
59 猶おかし水無月祓虫払       
60 味はひもから紅の穂蓼哉      
61 はや乙矢順のこふしや弓始     
62 五月雨は船ながしたる酒屋哉    (参考)


  三,斎藤親盛と二本松の俳諧

 近世初期の二本松の俳諧について、田中正能氏が『二本松市史』第九巻で次の如く整理しておられる。
 「  二 奥州二本松の俳諧
  二本松丹羽家中の俳諧は、寛文期より元禄期には奥羽地方においては全国的に有名であった内藤風虎、その子内藤露沾の岩城平藩の平地方と等しく多数の俳人をもち、双璧をなすと称せられていた。藩政約二四〇年間で最高の文芸の花を咲かせた時代であった。以後は再びこの時代を超越する時代が現われない程の盛況であり、藩政の実証でもあったのである。
  二本松の俳人として最初の人に、江口塵言=江口三郎右衛門正倫と、水野林元=水野九郎右衛門林元の名が現われる。寛文五年(一六六五)四月、松江重頼(維舟)が岩城平藩主内藤風虎に招かれて京都を発し、近江路―木曽路―江戸着、さらに日光―宇都宮―白河―二本松に泊り、江口塵言・水野林元を尋ねたことが紀行中に見られ、当時第一級の俳人をして訪ねさせ得た程の俳人が当二本松藩に存在していたことが判る。重頼は松島一見後仙台・・・岩城平に永らく滞在して、冬になり平を出て江戸へ、東海道を経て師走上旬京都に帰っている。江口・水野の両氏の外に、二本松藩における俳人は、寛文十二年(一六七二)~延宝二年(一六七四)間に岩城平藩主内藤風虎・その子露沾の命により、松山玖也によって編纂された「桜川」に 見出せる。」
 とされ,収録俳人を掲げておられる。親盛の句が入っている撰集に採録された二本松の俳人を,その句数と共に整理すると次の如くである。

寛文四年,重頼撰『佐夜中山集』(二〇名)
 水野氏/林元 二四   寺田氏/寒松  二
     塵言 二〇   伴 氏/人似  二
 日野氏/好元 一四       古硯  二
 長岡氏/道高 一三   不破氏/一与  二
 小沢氏/衆下 一一   小原氏/幸益  二
 中井氏/正成 一〇   斎藤氏/親盛  二
 小河氏/可著  八       元知  一
 斎藤氏/友我  七   釈 氏/智蔵主 一
 奥田氏/方格  四   根村氏/吉元  一
 古市氏/正信  二   槙 氏/陳旧  一
寛文六年,風虎撰『夜の錦』(二九名)
 江口氏/塵言 二六   今村氏/林昌  二
 水野氏/林元 二四   佐藤氏/幸之  一
 日野氏/好元 二一       正秀  一
 長岡氏/道高 一九   白岩氏/人任  一
 斎藤氏/親盛 一一   安保氏/一実  一
 同 氏/友我  七   豊田氏/政氏  一
 小沢氏/衆下  六   釈 氏/知蔵司 一
 不破氏/一与  五   古市氏/正信  一
 中井氏/正成  五   小池氏/又笑  一
 奥田氏/方格  四       秀伝  一
 小川氏/可著  四   伴 氏/人似  一
 斎藤氏/如酔  三   土屋氏/有房  一
 須藤氏/之也  三   下河辺氏/00 一
 寺田氏/寒松  三   釈 氏/随言  一
     古硯  一
寛文十二年,風虎撰『桜川』(四五名)
 水野林元 二〇一   長岡道高   八   佐藤萍心  一
 日野好元 一八二   座頭城益   五   寺田守昌  一
 小沢衆下 一一八   佐野相興   五   松下是一  一
 江口塵言 一〇八   伴 人似   五   土屋有次  一
 内藤未及  八〇   安田未元   五   金田古硯  一
 中井正成  七〇   0山子    五   津田正吉  一
 斎藤如酔  六六   日野好久   四   山田相知  一
 須藤之也  五一   大崎口友   四   貝山友志  一
 下河辺□□ 四三   佐藤幸之   四   清水直治  一
 斎藤親盛  四〇   藤村守幸   三   豊田政氏  一
 小池又笑  三九   青戸未入   三   石橋0同  一
 奥田方格  二六   滝川寸志   三   三崎如雲  一
 釈 随言  二三   寺田万之助  三   今村林昌  一
 白岩人任  一六   安積治水子  三   横山笑甫  一
 斎藤友我  一〇   小松崎破衣  一   鈴木友言  一
寛文十二年,維舟撰『時勢粧』(二七名)
   塵言  四一   釈 随言  五   伴 人似 二
 日野氏好元 四〇   斎藤親盛  四   丹羽捨拾 一
 水野林元  三九   不破一与  四   佐野相興 一
 小沢衆下  一五   小池又笑  四   野沢似言 一
 斎藤如酔  一四   下河辺□□ 三   毛利以由 一
 中井正成  一一   白岩人任  三   今村林昌 一
 須藤之也   八   内藤未及  二   奥田方格 一
 長岡道高   七   土屋有房  二   河村惣広 一
 斎藤友我   五   日野好久  二   釈 永雲 一
延宝三年,重安撰『糸屑集』(三名)
   道高 三   林元 二   親盛 一
延宝四年,季吟撰『続連珠』(八名)
 小沢氏/衆下 七  正成 二  親盛 一  塵言 一
 日野氏/好元 五  秀伝 二  林元 一  如酔 一

 また,各集の国別の俳人の数を整理すると次の如くである(『夜の錦』は除いた)。

寛文四年,重頼撰『佐夜中山集』(二本松・二〇名)
 京之住       一三五   同(勢州)松坂之住   八
 摂津大坂之住     五九   備中之住        八
 金沢之住       四三   信州飯田之住      七
 備前岡山之住     二一   奥州岩城        七
 和州郡山之住     二〇   南都之住        五
 同(勢州)山田之住  二〇   近州大津之住      五
 二本松之住      二〇   美濃岐阜之住      五
 武州江戸       一九   加賀大正寺之住     五
 尾州名古屋之住    一八   長門萩之住       五
 肥後熊本之住     一八   同(和州)国箸尾之住  四
 因幡鳥取之住     一六   平野之住        四
 和泉境之住      一五   阿波之住        四
 羽州山形之住     一三   同(伊予)国松山之住  四
 下野宇都宮之住    一一   同(肥前)国平戸之住  四
 越前福井之住     一〇   同(和州)国田原本之住 三
 伊賀上野之住      九   河内波瀲之住      三
 会津之住        九   同(伊予)国小松之住  三
 兵庫之住        八   伏見之住        二
 勢州津之住       二   常陸水戸        一
 参河吉田之住      二   同(近州)柳川之住   一
 同(参河)御油之住   二   同(近州)河並之住   一
 相模鎌倉之住      二   同(下野)皆川之住   一
 同(相模)小田原之住  二   仙台之住        一
 伯耆之住        二   若狭之住        一
 淡路之住        二   越中高岡之住      一
 伊予今治之住      二   越後村上之住      一
 土佐之住        二   播磨明石之住      一
 豊後臼杵之住      二   同(播磨)完粟之住   一
 山崎之住        一   安芸広嶋之住      一
 同(和州)国長楽村之住 一   周防岩国之住      一
 同(和州)国今井之住  一   出雲之住        一
 同(和州)国宇多之住  一   同(伊予)国宇和嶋之住 一
 摂津柱本之住      一   豊前仲津之住      一
 同(摂津)国勝尾山   一
寛文十二年,風虎撰『桜川』(二本松・四五名)
 武蔵国江戸住  一三二    肥前国大村住    二
 山城国京住   一〇八    山城国山崎住    一
 摂津国大坂住   八五    大和国多武嶺住   一
 陸奥国岩城住   七二    大和国下市住    一
 陸奥国二本松住  四五    大和国新庄住    一
 伊勢国山田住   二八    河内国松原住    一
 下野国宇都宮住  二一    摂津国西宮住    一
 和泉国堺     二〇    摂津国榎並住    一
 尾張国名古屋住  一八    伊勢国津住     一
 近江国彦根住   一二    伊勢国桑名住    一
 参河国吉田住   一一    伊勢国一之瀬住   一
 参河国岡崎住   一〇    伊勢国鳥羽住    一
 加賀国金沢住   一〇    参河国藤川住    一
 陸奥国仙台住    八    参河国竹広住    一
 大和国郡山住    七    参河国牛久保住   一
 美濃国大垣住    七    遠江国中村住    一
 陸奥国会津住    七    甲斐国       一
 因幡国鳥取住    七    相模国鎌倉住    一
 摂津国尼ケ崎住   六    相模国小田原住   一
 伊賀国上野住    六    武蔵国岩村住    一
 尾張国熱田住    六    安房国歩行山住   一
 美濃国竹ケ鼻住   六    下総国横曽根住   一
 肥前国佐賀住    六    常陸国下妻住    一
 備前国岡山住    五    阿波国涓津住    一
 肥前国平戸住    五    伊予国今治住    一
 肥後国熊本住    五    土佐国大高坂住   一
 山城国伏見住    四    筑前国飯塚住    一
 下野国壬生住    四    近江国膳所住    一
 丹波国柏原住    四    美濃国岐阜住    一
 備中国福山住    四    信濃国飯田住    一
 長門国萩住     四    信濃国松本住    一
 尾張国津嶋住    三    上野国厩橋住    一
 参河国新城住    三    下野国結城住    一
 伯耆国米子住    三    陸奥国棚倉住    一
 伊勢国松坂住    三    陸奥国津軽住    一
 伊予国宇和嶋住   三    出羽国山形住    一
 肥前国長崎住    三    出羽国秋田住    一
 摂津国茨木住    二    出羽国野代住    一
 摂津国平野住    二    加賀国大聖寺住   一
 伊勢国朝熊岳住   二    丹波国鴨庄住    一
 参河国小坂井住   二    伯耆国倉吉住    一
 陸奥国白河住    二    播磨国明石住    一
 陸奥国三春住    二    安芸国広嶋住    一
 出羽国大石田住   二    安芸国宮嶋住    一
 越前国福井住    二    紀伊国和歌山住   一
 丹波国福知山住   二    紀伊国長嶋山住   一
 丹波国神池寺住   二    紀伊国日高住    一
 因幡国岩井住    二    紀伊国高野山住   一
 出雲国松江住    二    周防国       一
 淡路国       二    豊前国小倉住    一
 讃岐国高松住    二    肥前国深堀住    一
 伊予国松山住    二    日向国県住     一
 筑前国博多住    二
寛文十二年,維舟撰『時勢粧』(二本松・二七名)
 京之住    七四  豊前小倉  一〇  葛城之住   二
 摂津大坂之住 三四  越前福居之住 九  河内之国   二
 肥後熊本   二八  出雲松江   九  摂津柱本之住 二
 二本松之住  二七  美濃岐阜   九  桑名之住   二
 加賀金沢之住 二三  長門萩之住  六  宮腰之住   二
 肥前佐賀   二一  筑前博多   六  讃岐     二
 因幡鳥取   一九  坂田郡之住  五  大村之住   二
 和泉境之住  一七  下野宇都宮  五  伏見之住   一
 備前岡山   一七  会津若松之住 五  今井之住   一
 彦根之住   一五  米子之住   五  朝熊之住   一
 仙台之住   一五  平戸之住   五  下総結城之住 一
 大和郡山之住 一四  信濃飯田之住 四  近江大津之住 一
 伊賀上野之住 一四  出羽庄内   四  八幡之住   一
 長崎之住   一四  阿波     四  水口之住   一
 伊勢山田之住 一三  若狭之住   三  河並之住   一
 尾張名古屋  一三  宮嶋之住   三  竹鼻之住   一
 陸奥岩城   一三  山崎之住   二  伯耆倉吉   一
 美作之住 一  備中 一  安芸広嶋 一  豊後臼杵 一
延宝三年,重安撰『糸屑集』(二本松・三名)
 摂津大坂      一三八   同(摂津)平野 二
 加賀         一五   同(摂津)池田 二
 同(摂津)尼崎    一三   同(摂津)伊勢 二
 陸奥         一三   紀伊      二
 同(大和)宇陀    一二   淡路      二
 同(大和)今井    一一   同(山城)伏見 一
 武蔵江戸       一一   同(大和)奈良 一
 山城京        一〇   同(大和)道穂 一
 同(山城)宇治田原   九   同(大和)下市 一
 筑前          九   河内久宝寺   一
 同(摂津)伊丹     八   同(河内)柏原 一
 尾張          七   和泉      一
 同(和泉)堺      六   同(摂津)富松 一
 同(陸奥)南部     六   出羽      一
 同(摂津)塚口     四   越前      一
 大和          三   丹波      一
 同(大和)吉野     三   出雲      一
 同(大和)多武峯    三   播磨      一
 備後          三   安芸      一
 土佐          三   日向      一
 肥前長崎        三
延宝四年,季吟撰『続連珠』(二本松・八名)
 山城国 一一〇    伊予国 一九    肥前国 三
 出羽国  六九    伊賀国 一五    豊後国 三
 尾張国  五七    大和国 一四    河内国 二
 越前国  五六    薩摩国 一四    美作国 二
 摂津国  四六    安芸国 一一    筑後国 二
 陸奥国  三九    上野国  九    日向国 二
 加賀国  三八    参河国  八    飛騨国 一
 武蔵国  三三    能登国  八    信濃国 一
 丹波国  三三    和泉国  七    丹後国 一
 豊前国  三一    越中国  七    因幡国 一
 美濃国  三〇    阿波国  七    伯耆国 一
 伊勢国  二九    讃岐国  七    石見国 一
 肥後国  二八    大隅国  六    備中国 一
 紀伊国  二六    遠江国  五    備後国 一
 近江国  二四    伊豆国  五    土佐国 一
 越後国  二三    若狭国  五    筑前国 一
 但馬国  二二    周防国  四

 次に,当時の俳諧撰集の収録状況を推測するため,親盛の句が収録されていない,主要な撰集の国別の俳人の数を整理してみると,以下の如くである(発句のみ)。

寛永十年,重頼撰『犬子集』
 伊勢山田之住  一〇〇    江戸之住      五
 京之住      五一    因幡之住      二
 堺之住      一九    大坂之住      一
寛永十年,親重撰『誹諧発句帳』
 京之住     一二八    紀伊国之住     二
 伊勢山田之住   九九    因幡之住      二
 堺之住      一九    大坂之住      一
 江戸之住      五
正保二年? 重頼撰『毛吹草』
 京之住      七六    郡山之住      二
 勢州山田之住   七六    大津之住      二
 堺之住      四五    同(勢州)松坂之住 二
 大坂之住     一三    越前之住      二
 江戸之住     一一    伊賀之住      一
 紀州若山之住    八    因幡之住      一
 播州姫路之住    八    安芸之住      一
 同(勢州)津之住  五    加賀之住      一
 膳所之住      三
正保四年,重頼撰『毛吹草追加』
 京之住       四九   因幡之住      二
 摂州大坂之住    四二   和州南都之住    一
 武州江戸之住    二一   勢州津之住     一
 泉州堺之住     一二   同(勢州)山田之住 一
 土佐之住       五   遠州之住      一
 同(丹波)柏原之住  四   播州姫路之住    一
 尾州名古屋之住    三   同(播州)龍野之住 一
 丹波之住       三   出雲之住      一
 同(播州)明石之住  三   加賀之住      一
 紀伊之住       三   肥前長崎之住    一
 同(和州)郡山之住  二
明暦二年,蔭山休安撰『夢見草』
 大坂之住 一三五   河内之住 八   讃岐之住 二
 堺之住   七九   紀伊   八   筑後之住 二
 天満之住  六〇   南都之住 七   薩摩   二
 伊勢之住  五六   備中之住 五   和泉之住 一
 江戸之住  四二   長崎之住 三   参河之住 一
 摂津之住  三五   山城   三   駿河之住 一
 播磨    一七   陸奥   三   信濃之住 一
 越後    一二   近江之住 二   但馬之住 一
 備前    一〇   美濃   二   阿波   一
 京之住    八   尾張   二   伊予   一
 土佐之住 一  安芸 一  筑前之住 一  日向 一
明暦二年,令徳撰『崑山土塵集』
 京之住    一一二   唐崎村住   五
 伊勢桑名    四四   丹波笹山住  五
 摂津      四三   播磨姫路住  四
 尾張名古屋住  四二   土佐中村住  四
 熱田住     二五   伊賀     三
 富田住     一五   備中     三
 竹ケ鼻     一五   阿波撫養住  三
 美濃横曽根住  一〇   津住     二
 備後三原住   一〇   備前     二
 和泉       九   紀伊和哥山住 二
 薩摩鹿児嶋住   九   飛騨     一
 出羽       八   武蔵     一
 淡路福良住    七   越前     一
 伊予       六
明暦二年,貞室撰『玉海集』
 山城国 一五三   但馬国 一一  備中国 二
 摂津国  九九   越後国 一〇  阿波国 二
 播磨国  四三   薩摩国 一〇  肥前国 二
 丹波国  三八   河内国  六  遠江国 一
 伊勢国  二六   加賀国  五  駿河国 一
 和泉国  二五   美濃国  四  出羽国 一
 武蔵国  二三   伊賀国  三  越中国 一
 紀伊国  二三   丹後国  三  伯耆国 一
 大和国  二一   周防国  三  備後国 一
 近江国  二一   参河国  二  讃岐国 一
 尾張国  二〇   相模国  二  土佐国 一
 越前国  一五   因幡国  二  豊後国 一
 備前国  一五
明暦二年,梅盛撰『口真似草』
 山城国    一五五    肥前        三
 摂州大坂之住  四一    八幡住       二
 泉州堺之住   二六    山崎住       二
 播州姫路之住  二二    同(摂州)上牧之住 二
 伏見住     一六    伊賀国       二
 大和国     一六    同(勢州)山田之住 二
 江州膳所之住  一〇    尾張国       二
 江戸之住     九    同(江州)草津之住 二
 備前国      八    美濃国       二
 河内国      七    越後国       二
 勢州津之住    六    丹波国       二
 加賀国      四    丹後国       二
 因幡国      四    紀伊国       二
 備中国      三    信濃国       一
 伊予       三
明暦四年,梅盛撰『鸚鵡集』
 山城国 二七〇   伊予  一〇   伊賀   二
 摂津  一三九   鈴鹿住  九   上野   二
 播磨  一〇五   草津住  九   筑前   二
 和泉   八九   加賀   九   讃岐   二
 河内国  七六   餝磨住  九   下鳥羽住 二
 備前   六〇   出羽   八   山科住  二
 伏見住  五五   池田住  七   上牧住  二
 大和国  五〇   有馬住  五   遠江   一
 紀伊   四三   茨木住  五   甲斐   一
 尾張   三四   因幡   五   相模   一
 武蔵   三一   尼崎住  四   常陸   一
 美濃   二一   山崎住  四   越前   一
 兵庫住  一九   山田住  四   佐渡   一
 曽祢村住 一六   坂本住  四   但馬   一
 越後   一六   信濃   四   土佐   一
 西宮住  一三   三河   三   宇治住  一
 肥後   一三   丹波   三   淀住   一
 桑名住  一一   高砂住  三   八幡住  一
 近江   一一   明石住  三   花山住  一
 平野住  一〇   備中   三
万治二年,梅盛撰『捨子集』
 山城 京 一三七    伏見 一四    飛騨 四
 大坂    五六    備前 一四    讃岐 三
 播州    五二    伊予 一二    因幡 二
 江戸    四六    加賀 一〇    伊豆 一
 伊勢    二九    陸奥  八    信濃 一
 大和    二五    紀伊  八    下野 一
 摂津    二三    河内  八    丹波 一
 肥後    二二    嵯峨  七    但馬 一
 近江    二一    三河  七    石見 一
 和泉    一六    備後  六    安芸 一
 尾張    一六    遠江  五    長州 一
 美濃    一六    駿河  五    阿波 一
 肥前    一五    伊賀  五
万治三年,季吟撰『新続犬筑波集』
 山城 一八〇  武蔵 一八  肥前 三  飛騨 一
 摂津 一五三  丹波 一七  信濃 二  能登 一
 播磨  四九  肥後 一三  陸奥 二  伯耆 一
 河内  三三  出羽  八  加賀 二  石見 一
 尾張  二六  安芸  七  越後 二  備前 一
 伊勢  二四  伊賀  六  丹後 二  備中 一
 越前  二四  三河  六  伊予 二  備後 一
 紀伊  二三  讃岐  六  豊前 二  周防 一
 近江  二一  和泉  五  駿河 一  土佐 一
 大和  二〇  薩摩  五  伊豆 一  筑前 一
 但馬  二〇  阿波  四  常陸 一  日向 一
 美濃  一九  因幡  三
万治三年,重頼撰『懐子』(巻1~巻8)
 京之住    六八  備前岡山  四  南都之住   一
 大坂之住   五四  肥前佐賀  四  河内松原之住 一
 境之住    四六  美濃竹ケ鼻 三  有馬之住   一
 山田之住   二二  伏見之住  二  尾張名古屋  一
 江戸之住   二〇  近江    二  陸奥     一
 岸和田    一五  越前    二  丹波柏原之住 一
 肥後熊本    七  播磨    二  出雲松江   一
 平野之住    六  高砂之住  二  片上之住   一
 伊勢松坂之住  五  紀伊    二  備中     一
 兵庫      四  豊後臼杵  二  長門     一
 加賀      四  山崎之住  一  長崎之住   一
 因幡酉酉    四
寛文三年,梅盛撰『木玉集』
 洛陽 九九   近江 一〇   伊予 四   駿河 一
 摂津 六六   肥後 一〇   遠江 三   伊豆 一
 伊勢 三二   備前  九   常陸 三   佐渡 一
 播磨 三二   美濃  七   三河 二   因幡 一
 洛外 二一   河内  六   陸奥 二   土佐 一
 和泉 一四   紀伊  六   肥前 二   讃岐 一
 大和 一三   加賀  五   備後 二
寛文四年,梅盛撰『落穂集』
 山城洛陽住 一五二   肥前    一六   飛騨 三
 摂津     八三   美濃    一五   美作 三
 播磨     八〇   陸奥    一五   伊賀 二
 大和     五三   山城伏見住 一四   甲斐 二
 武蔵     五一   尾張    一三   丹波 二
 近江     三一   備前    一三   但馬 二
 肥後     二九   伊予    一一   伊豆 二
 出雲     二八   因幡     九   安芸 二
 山城洛外住  二七   河内     六   讃岐 二
 三河     二四   駿河     六   若狭 二
 紀伊     二三   出羽     五   相模 一
 高野山住   二二   遠江     四   常陸 一
 加賀     二〇   長門     四   下野 一
 信濃     一八   佐渡     三   越前 一
 和泉     一七   備後     三   伯耆 一
 伊勢     一六
寛文六年,椋梨一雪撰『俳諧洗濯物』
 武蔵 一〇九  紀伊 四  伊予 二  丹波 一
 尾張  九五  土佐 四  備中 二  播磨 一
 山城  四六  近江 三  肥後 二  因幡 一
 大和  一一  阿波 三  和泉 一  讃岐 一
 摂津  一一  肥前 三  三河 一  筑前 一
 美濃  一〇  下野 二  相模 一  豊前 一
 伊勢  一〇  下総 二  安房 一  豊後 一
 陸奥   六  常陸 二  飛騨 一  日向 一
 甲斐   五  出羽 二  若狭 一  対馬 一
 信濃   五
寛文七年,貞室撰『玉海集追加』
 摂州   八五   丹波 二二   河州 六   肥前 二
 山城・京 七四   羽州 二〇   若州 四   薩州 二
 濃州   四二   但州 一九   泉州 四   常陸 一
 江州   四一   播州 一九   備前 四   駿河 一
 勢州   二六   武州 一七   奥州 三   能登 一
 尾州   二五   加州 一三   相模 三   飛騨 一
 越前   二四   豊前 一〇   伊予 三   丹後 一
 肥後   二四   越後  七   筑後 三   作州 一
 和州   二二   伊賀  七   下野 二   備中 一
 紀州   二二   三河  六   筑前 二   防州 一
寛文七年,湖春撰『続山井』
 山城国 一八九  陸奥国 二五  越後国 八  備中国 二
 摂津国 一一四  大和国 二三  和泉国 七  備後国 二
 出羽国  七二  豊前国 二三  筑前国 七  豊後国 二
 丹波国  六二  美濃国 二二  安芸国 五  志摩国 一
 越前国  四七  肥後国 一九  因幡国 四  相模国 一
 但馬国  四四  播磨国 一八  備前国 四  常陸国 一
 伊賀国  三六  伊勢国 一三  薩摩国 四  伯嗜国 一
 三河国  三五  河内国 一一  肥前国 三  出雲国 一
 近江国  二九  紀伊国 一一  飛騨国 二  阿波国 一
 加賀国  二六  伊予国 一一  若狭国 二  讃岐国 一
 尾張国  二六  遠江国 一〇  越中国 二  土佐国 一
 武蔵国  二五  信濃国 一〇  石見国 二  日向国 一
寛文八年,加友撰『伊勢踊』
 伊勢山田 一一一    田丸池辺  五    下総 二
 武州江戸  九六    相哥射和       常州 二
 松坂    七八    同(伊勢)      信州 二
 山城京   四二       内宮 四    能登 二
 津     三一    四日市   四    越後 二
 加賀    二二    尾州    四    伊賀 二
 筑前    二〇    備前    四    山崎 二
 下野    一七    川崎    三    備後 二
 奥州    一二    三州    三    安芸 二
 近江    一一    遠州    三    肥前 二
 丹生    一〇    駿河    三    薩摩 二
 摂津     九    越前    三    雲州 二
 紀州     九    河内    三    丹波 二
 因州     九    讃州    三    上総 一
 豊前     八    伊予    三    甲州 一
 鳥羽     七    周防    三    飛騨 一
 白子     七    豊後    三    若狭 一
 出羽     七    朝熊岳   二    播磨 一
 備中     七    一之瀬   二    長門 一
 美濃     六    豆州    二    伯州 一
 泉州     六    相州    二
寛文八年,梅盛編『細少石』
 山城住 一一三  美濃  一三  信濃 七  阿波 二
 播磨   八六  出雲  一二  但馬 七  伊豆 一
 摂津   八一  洛外住 一一  肥前 六  相模 一
 三河   三八  和泉  一一  出羽 五  下野 一
 武蔵   三八  因幡  一一  丹波 五  常陸 一
 近江   三七  伊予  一一  伯耆 五  越後 一
 加賀   三〇  陸奥  一〇  河内 四  佐州 一
 大和   二六  美作  一〇  筑前 四  安芸 一
 肥後   二二  伏見住  九  備後 三  長門 一
 備前   二〇  伊賀   九  遠江 二  淡路 一
 紀伊   一七  甲斐   九  駿河 二  薩摩 一
 尾張   一六  伊勢   八  周防 二
寛文九年,未琢撰『一本草』
 武蔵国 二五一  摂津国 八  大和国 二  相模国 二
 加賀国  二七  甲斐国 八  美濃国 二  近江国 一
 山城国  二三  遠江国 七  信濃国 二  上野国 一
 伊勢国  一七  丹後国 六  越前国 二  越中国 一
 陸奥国  一六  下総国 六  紀伊国 二  越後国 一
 下野国  一三  三河国 五  讃岐国 二  播磨国 一
 伊豆国  一三  常陸国 五  豊後国 二  肥前国 一
 出羽国   九  駿河国 三
寛文十二年,桑折宗臣撰『大海集』
 伊予国     一八一     沖之嶋住     一
  松山住      八     近家浦住     一
  大洲住      五    摂津国     一〇三
  替地村      一     大坂住     八〇
  内ノ子村住    一     天満住      二
  吉田住     一〇     古妻住      一
  宇和島住   一四九     今津村住     二
  八幡浜浦住    一     尼崎住      三
  雨井浦住     一     山崎住      二
  下灘浦住     二     平野住      一
  三机浦住     一     池田住      六
  日振嶋住     一     有馬湯之山住   六
  山材村住     一    武蔵国      九三
  江戸住     九三    阿波国      二五
 山城国      六一     渭津住     二四
  京住      五一     才田村住     一
  伏見住      二    安芸国      二三
  宇治住      八     広島住     一四
 和泉国      四七     瀬戸田住     五
  境住      四四     倉橋住      四
  万代村住     二    播磨国      一七
  高師住      一     姫路住     一一
 尾張国      四七     粟賀住      三
  名護屋住    三五     高砂住      一
  熱田住     一二     荒井住      二
 近江国      四五    紀伊国      一五
  大津住     一三     和歌山住     七
  草津住      一     吹上住      一
  長浜住      一     広瀬住      一
  坂田郡箕浦          熊野長嶋住    五
  庄内住      二     熊野那智住    一
  彦根住     二八    淡路国      一三
 豊後国      二九     福良住     一〇
  府内住     二五     府中住      二
  佐伯住      四     湊浦住      一
 陸奥国      一二     新賀村住    六
  岩城住      七     小田村住    三
  二本松住     三    讃岐国      八
  仙台住      二     金毘羅住    五
 豊前国      一二     子松住     一
  中津住     一二     観音寺村住   二
 伊勢国      一〇    大和国      七
  津住       一     奈良住     二
  鈴鹿郡関住    一     高田住     一
  山田住      七     今井住     一
  長嶋住      一     長谷住     一
 越前国      一〇     池田村住    一
  福井住     一〇     多武峰住    一
 土佐国      一〇    備前国      七
  高知住      一     岡山住     七
  中村住      一    周防国      七
  宿毛村住     七     岩国住     七
  下田住      一    美濃国      四
 三河国       九     岐阜住     二
  寺部住      八     竹ケ鼻住    二
  舞木住      一    丹波国      四
 備中国       九     氷上郡柏原住  二
  山家住      二     秋田野代住   二
 河内国       三    加賀国      二
  壺井村住     二     金沢住     二
  大ケ塚住     一    遠江国      一
 但馬国       三     気賀住     一
  竹田住      二    安房国      一
  出田住      一     歩行山住    一
 備後国       三    筑前国      一
  三吉住      一     福岡住     一
  尾之道住     二    肥前国      一
 筑後国       三     平戸住     一
  久留米住     三    肥後国      一
 常陸国       二     熊本住     一
  水戸住      二    薩摩国      一
 出羽国       二
寛文十二年,阿知子顕成撰『続境海草』
 堺  一五〇   尼崎  四   伊豆 一
 大坂  四九   姫路  四   鎌倉 一
 京   二二   参河  三   常陸 一
 平野  一三   紀伊  三   出羽 一
 和泉  一二   天満  二   会津 一
 江戸  一一   伊勢  二   住吉 一
 大和  一〇   尾張  二   讃岐 一
 河内  一〇   広嶋  二   備前 一
 長崎   七   豊前  二   備中 一
 陸奥   六   宇治  一   筑前 一
 伏見   五   榎並  一   肥前 一
 薩摩   五   天王寺 一   肥後 一
寛文十二年,阿知子顕成撰『手繰舟』
 堺   一一七   河内 九   播磨 二   丹波 一
 大坂   六二   武蔵 九   備前 二   備中 一
 堺ノ外  二〇   肥前 九   尾張 一   安芸 一
 陸奥   二〇   薩摩 四   三河 一   阿波 一
 大坂ノ外 一八   大和 三   駿河 一   伊予 一
 山城   一七   紀伊 三   伊豆 一   豊前 一
延宝二年,荻野安静撰『如意宝珠』
 山城国 一七〇  和泉国 六  若狭国 三  飛騨国 一
 摂津国  四五  伊賀国 六  丹後国 三  信濃国 一
 安芸国  三七  丹波国 六  備後国 三  越後国 一
 武蔵国  二二  備前国 六  長門国 三  但馬国 一
 加賀国  二〇  紀伊国 六  河内国 二  石見国 一
 近江国  一五  伊勢国 五  遠江国 二  美作国 一
 尾張国  一四  肥前国 五  上野国 二  周防国 一
 大和国  一三  播磨国 四  伯耆国 二  讃岐国 一
 陸奥国  一三  阿波国 四  備中国 二  筑前国 一
 伊予国  一三  伊豆国 三  筑後国 二  豊前国 一
 三河国  一〇  美濃国 三  日向国 二  豊後国 一
 越前国   八  出羽国 三  下総国 一  薩摩国 一
 肥後国   八
延宝二年,維舟撰『大井川集』
 京之住     七一   仙台      二
 尼崎      二六   越後柏崎    二
 同(近江)彦根 一六   備前岡山    二
 伊丹之住    一四   出雲松江    二
 加賀金沢    一四   石見吉長    二
 大坂之住    一二   紀伊高野    二
 肥後熊本    一一   淡路      二
 江戸      一〇   伊予宇和嶋   二
 二本松      九   筑前博多    二
 伊勢山田之住   八   大村之住    二
 尾張名古屋    七   同(大和)新庄 一
 若狭小浜     七   朝熊之住    一
 長門萩      六   美濃岐阜    一
 肥前平戸     五   奥州白川    一
 佐賀之住     四   会津津川    一
 大和郡山     三   南部守岡    一
 境之住      三   越中高岡    一
 土佐       三   播磨明石    一
 同(大和)桜井  二   同(播磨)龍野 一
 同(大和)多武峯 二   周防山口    一
 今津之住     二   豊後臼杵    一
 近江守山     二   長崎之住    一
 岩城       二   南郷之住    一
延宝四年,維舟撰『武蔵野集』
 京之住  六五   肥後熊本  六   塚口   一
 伊丹   二六   名古屋   五   美濃岐阜 一
 加賀金沢 一七   土佐    五   南部守岡 一
 尼崎   一六   遠江    四   越中高岡 一
 長門萩  一五   平戸    四   出雲松江 一
 伊勢山田 一二   播磨明石  三   備前岡山 一
 江戸   一一   周防山口  三   備後三原 一
 若狭小浜 一一   岩城    二   安芸広嶋 一
 郡山    九   能登七尾  二   紀伊   一
 近江彦根  九   伊予宇和嶋 二   淡路   一
 境     八   伏見    一   讃岐   一
 二本松   八   法隆寺   一   筑前博多 一
 阿波    六   池田    一   豊後臼杵 一
 肥前佐賀  六

 以上,貞門俳諧の初期から,斎藤親盛の没した延宝初年までの俳諧撰集の主なものを採り上げて,国別の入集俳人の数を掲げたが,これらを整理すると次の如くである。

寛永十年,重頼撰『犬子集』
 伊勢・京都・堺が中心で,陸奥は収録されていない。
寛永十年,親重撰『誹諧発句帳』
 京都・伊勢・堺が中心で,陸奥は収録されていない。
正保二年? 重頼撰『毛吹草』
 京都・伊勢・堺・大坂・江戸が多く,陸奥は収録されていない。
正保四年,重頼撰『毛吹草追加』
 京都・大坂・江戸・堺の順に多く、陸奥は収録されていない。
明暦二年,蔭山休安撰『夢見草』
 大坂・堺・天満・伊勢・江戸・摂津の順に多く,陸奥は3名で,会津2名,仙台1名,二本松は収録されていない。
明暦二年,令徳撰『崑山土塵集』
 京都・伊勢・摂津・名古屋・熱田の順に多く,陸奥は未収録。
明暦二年,貞室撰『玉海集』
 山城・摂津・播磨・丹波・伊勢・和泉・武蔵・紀伊・大和・近江の順に多く,陸奥は収録されていない。
明暦二年,梅盛撰『口真似草』
 山城・大坂・堺・姫路・伏見・大和・膳所・江戸の順に多く,陸奥は収録されていない。
明暦四年,梅盛撰『鸚鵡集』
 山城・摂津・播磨・和泉・河内・備前・伏見・大和・紀伊・尾張・武蔵の順に多く,陸奥は収録されていない。
万治二年,梅盛撰『捨子集』
 山城・大坂・播州・江戸・伊勢・大和・摂津・肥後・近江の順に多く,陸奥は8名で,会津3名,山形・米沢各2名,白川1名。
万治三年,季吟撰『新続犬筑波集』
 山城・摂津・播磨・河内・尾張・伊勢・越前・紀伊・近江・大和・但馬・美濃・武蔵の順に多く,陸奥は2名で,二本松の水野林元と寺田寒松である。
万治三年,重頼撰『懐子』(巻1~巻8)
 京・大坂・境・山田・江戸の順に多く,陸奥は岩城の風虎が1名。
寛文三年,梅盛撰『木玉集』
 洛陽・摂津・伊勢・播磨・洛外・和泉・和泉・大和の順に多く,陸奥は,会津が2名。
寛文四年,重頼撰『佐夜中山集』
 京・大坂・金沢・岡山・大和郡山・伊勢山田・二本松・江戸の順で,二本松20名、会津9名、岩城7名。●親盛2句入集。
寛文四年,梅盛撰『落穂集』
 洛陽・摂津・播磨・大和・武蔵・近江・肥後・出雲・洛外・三河・紀伊の順に多く,陸奥は15名で,二本松では斎藤友我入集。
寛文六年,椋梨一雪撰『俳諧洗濯物』
 武蔵・尾張・山城・大和・摂津・美濃・伊勢・陸奥の順に多く,陸奥は6名で,風鈴軒以下5名が岩城,白河が1名である。
寛文六年,風虎撰『夜の錦』
 『詞林金玉集』全十五巻に収録する『夜錦』の句数は,一〇五一句。二本松では29名が収録されている。親盛は11句入集。
寛文七年,貞室撰『玉海集追加』
 摂州・山城・濃州・江州・勢州・尾州・越前・肥後・和州・紀州・丹波の順に多く,奥州は3名でいずれも会津俳人。
寛文七年,湖春撰『続山井』
 山城・摂津・出羽・丹波・越前・但馬・伊賀・三河・近江・加賀・尾張・武蔵・陸奥・大和・豊前・美濃の順に多く,陸奥は25名で,二本松は11名。
寛文八年,加友撰『伊勢踊』
 伊勢山田・江戸・松坂・京・津・加賀・筑前の順に多く,奥州は12名であるが,岩城が多く,二本松は入っていない。
寛文八年,梅盛編『細少石』
 山城・播磨・摂津・三河・武蔵・近江・加賀・大和・肥後・備前の順に多く,陸奥は10名であるが,岩城・仙台が多く,二本松は収録されていない。
寛文九年,未琢撰『一本草』
 武蔵・加賀・山城・伊勢・陸奥・下野・伊豆の順に多く,陸奥では,岩城・会津が多く,二本松は収録されていない。
寛文十二年,維舟撰『時勢粧』
 京・大坂・熊本・二本松・金沢・佐賀の順に多く,二本松は27名収録。因みに,岩城は13名,会津は5名である。●親盛6句(小鏡を含む)入集。斎藤友我との「何0百韻」1巻収録。
寛文十二年,桑折宗臣撰『大海集』
 伊予・摂津・武蔵・山城・和泉・尾張・近江・豊後・阿波・安芸の順に多く,陸奥は12名で,岩城7名,仙台2名,二本松は,正成・塵言・好元の3名である。
寛文十二年,阿知子顕成撰『続境海草』
 堺・大坂・京・平野・和泉・江戸・大和・河内の順に多く,陸奥は6名で,二本松では,林元・好元・道高の3名が入っている。
寛文十二年,阿知子顕成撰『手繰舟』
 堺・大坂・堺ノ外・陸奥・大坂ノ外・山城・河内・武蔵・肥前の順に多く,陸奥は20名で,岩城11名,二本松6名,津軽2名,白川1名となっている。
寛文十二年,風虎撰『桜川』
 江戸・京・大坂・岩城・二本松・伊勢山田・宇都宮・堺の順に多く,岩城72名,二本松45名となっている。●親盛40句入集。
延宝二年,荻野安静撰『如意宝珠』
 山城・摂津・安芸・武蔵・加賀の順に多く,陸奥は13名で,岩城・白川・ツガル・会津・仙台の俳人で,二本松は入っていない。
延宝二年,維舟撰『大井川集』
 京・尼崎・彦根・伊丹・金沢・大坂・熊本・江戸・二本松の順に多く,二本松は9名,岩城・仙台各2名,白川・会津各1名。
延宝三年,重安撰『糸屑集』
 大坂・加賀・尼崎・陸奥・宇陀・今井・江戸・京の順に多く,陸奥は13名。二本松は,道高・親盛・林元の3名。●親盛1句入集。
延宝四年,維舟撰『武蔵野集』
 京・伊丹・金沢・尼崎・萩・伊勢山田・江戸・小浜の順に多く,二本松は8名,岩城1名。
延宝四年,季吟撰『続連珠』
 山城・出羽・尾張・越前・摂津・陸奥・加賀・武蔵の順に多く、陸奥は39名で,岩城12名、二本松8名,会津5名、白川4名,盛岡3名等となっている。●親盛1句入集。

 以上,斎藤親盛と二本松の俳諧との関連を明らかにするため,貞門俳諧の主要撰集における,親盛及び二本松俳人の発句の入集関係を掲出した。これらの集計結果から,当時の日本の俳壇の状況が,ほぼ見えてきて,二本松の俳諧や親盛の俳諧活動に関しても,様々な推測が可能と思われる。ただ,ここでは,具体的な推測はしばらく差し控え,二本松の俳諧と殊に関係が深かったと思われる,松江重頼・維舟との関係を整理する事にしたい。

  四,斎藤親盛と松江重頼

 貞門俳諧の指導的立場の一人であった松江重頼は,寛文五年七月,二本松を訪れている。この時,親盛は六十三歳,江戸から二本松へ移住して五年目であった。おそらく,この機会に親盛は重頼に俳諧の指導を受けたものと推測される。
 松江重頼の伝記については,中村俊定氏の労作「松江重頼年譜」がある。関連する部分を紹介すると以下の如くである。

「慶長 七(壬寅)      一歳
  ○出生(維舟真蹟「延宝六年八月上旬参宮奉納連歌」の奥書より逆算)。
 寛永十六(己卯)    三十八歳
  ○末吉道節、松江重頼江戸に下る(『洒竹俳諧年表』による。)
 正保 三(丙戌)    四十五歳
  ○武蔵野ゝ末広いはふ年始哉(『歳旦発句集』(『毛吹草追加』には「武州江戸にて」と詞書す。)
 慶安 三(庚寅)    四十九歳
  ○江戸に滞在せしか。
 寛文 二(壬寅)    六十一歳
  ○「寛文の初めより、洛陽銅駝坊の南御所八幡宮の東に形斗なる居をしめ」とあり、点者生活をしたるか。(『時勢粧』序)
  ○正月上旬、橋本氏富長「何刀百韻」に点をなす。付墨五十/長 十五(『時勢粧』)
  ○三月十五日、橋本氏富長「何枕百韻」に点をなす。付墨五十/長 十五(同)
  ○三月廿日、林氏宗甫「猫何百韻」に点をなす。付墨五十/長十五(同)
  ○卯月十日、土田氏重信「何簾百韻」に点をなす。付墨五十/長 十五(同)
 寛文 三(癸卯)    六十二歳
  ○五月廿日、冷泉氏友知「何狐百韻(諷之詞)」に点をなす。スミ五十/長 十五
   六月十日、中井氏宗隆「何舞百韻」に点をなす。付墨五十/長 十五
   十月十日、玖也・重安・西翁・春倫の四吟「何魚百韻」に点をなす。付墨五十 内長十五、廿五玖也 点十三内長四、廿五重安 点十一内長三、廿五西翁点十五内長五、廿五春倫点
   十一内長三(以上『時勢粧』)
 寛文 四(甲辰)    六十三歳
  ○三月十日、鱸氏催笑「男何百韻」に点をなす。付墨五十/長十五(『時勢粧』)
 寛文 五(乙巳)    六十四歳
  ○維舟と号を改む。
  ○寛文五年卯月三日東行粟田山にて
    暇乞余花をもかへり都哉   松江維舟
   右の他二句あり。『時勢粧』巻三の句及び詞書によれば、醒ケ井の清水、木曽路、寝覚、諏訪、浅間、筑摩川、碓水、軽イ沢、熊谷、武蔵江戸に出、高井立志、河合水之等の興行あり。木母寺、日光参拝、宇都宮常用由可亭を訪ね、白河関、二本松江口塵言・水野林元亭・中井正成亭、斎藤友我亭、末松山、松島、仙台瀬奈田不及亭、高館相馬領岩城、中村之城下に入り、再び江戸に戻り箱根を経て師走上旬京に帰る。
   五月廿日 江口塵言「何鰹百韻」に点をなす。(付墨五十/長 十五)
   七月五日 水野氏林元「何石百韻」に加点。(墨五十/長十五)
   七月五日 江口氏塵言「何茶百韻」に加点。(墨五十/内長十五)
   七月十七日 「矢何百韻」維舟(21)林元(20)塵言(20)道高(20)友我(19)五吟あり。
    発句 風の手や枕をはつすけさの秋 維舟
   七月十八日 「膝何百韻」維舟(25)塵言(25)道高(25)林元(20)四吟あり。
    発句 一節に千々のそは切や花鰹 維舟
   十月上旬 「何糸百韻」維舟(12)長好(12)重方(12)三吟あり。
    発句 亭もめてむ北面たつかた時雨 維舟
   霜月十日 斎藤氏親盛・斎藤氏友我両吟「何□百韻」に点をなす。(親盛点廿四内長八/友我点廿六内長七)
   師走上旬京に入日、着ならし衣雪のふりかくすを、
    降雪の見のしろ衣や恥かくし
                  (以上『時勢粧』による)
 寛文十二(壬子)    七十一歳
  ○三月上旬、『時勢粧』附「時勢粧小鏡」の奥書をなす。
 延宝 八(庚申)    七十九歳
  ○『誹諧大系図』六月廿九日没?京都東山大谷に葬る、と記す。
  ○「延宝八年六月廿九日没東山大谷ニ葬る」とあり(『花見車』)  ○「維舟 俗名大文字屋治右衛門 松江重頼ト号 初貞徳門后里邑門人也 延宝八年六月廿九日 七十四才 宗因・鬼貫も此門学 俳諧毛吹草之作者也」 (『はいかい袋』) 」

 また,中村氏は寛文初年頃の重頼・維舟の活動状況について,次の如く記しておられる。
 「寛文元年(一六六一)耳順の年を迎えて京都銅駝坊の南御所八幡宮の東に草庵を結んで専ら点者生活に入った。寛文五年(一六六五)六十四歳の正月松江に因んで維舟と改号。卯月の初、岩城侯内藤風虎の招きによったものか近江路から木曽を経て諏訪・浅間・碓氷を越えて江戸へ出て、高井立志らと俳諧興行、さらに日光・宇都宮・白河の関をすぎて二本松の俳人江口塵言・水野林元らを訪ね、松島一見、仙台から岩城へ入って暫く滞在、冬再び江戸入り、師走初め京へ帰った。
  こえて寛文八年には六十八歳の老齢を以て筑紫紀行を企てている。卯月一日京を出発、十日九州小倉着、佐賀・長崎・八代・久留米・宰府などをめぐり、初冬の頃豊前に立ちかえり、長門・安芸・備後・備中・備前と中国筋の諸俳士と風交をかさね、極月二十二日大阪着の便船で帰京。
  この東西両度の大旅行は、多くの地方知名の士に彼の庶幾する新風を鼓吹することが出来た。これらの収穫は、寛文十一年の彦根紀行によって得た諸家の発句と共に『時勢粧』に収められている。」

 右の中村俊定氏の年譜・論考からも明らかな如く,寛文五年に,重頼が二本松を訪れた経緯は,寛文十二年三月上旬刊行の『時勢粧』巻三に収録された,発句四十六句とその詞書によって推測する事が出来る。全文を掲出し,若干の注を付すと以下の通りである。

 「    寛文五年卯月三日東行粟田山にて   〔注1〕
                  松 江 維 舟

 1 暇乞余花をもかへり都哉     
 2 手向山や駒のふり髪夏祓          〔注2〕
      清水の辺  
 3 寝ぬ目さへ醒井の水は夏もなし       〔注3〕
 4 短夜や明て木曽路は長あくび   
 5 山は新樹是や寝覚の床柱          〔注4〕
 6 諏訪の海や夏も氷の下心     
      浅間にて 
 7 穴嬉し里問兼ぬ卯木墻      
 8 筑摩川夏ゆくや波の雪こかし   
 9 夏衣碓氷をよしや軽イ沢          〔注5〕
      熊谷蓮生寺に詣て          〔注6〕
 10 蓮生や涼しき寺の旗かしら    
      武蔵野  
 11 うたひ茂れ野なる草木ぞ若い馬子 
      江戸さる御方にて
 12 山もゝも動出たるお前かな    
 13 五尺ある菖蒲刀も寸志哉     
      学寮へ申侍
 14 螢さへ尻たむる窓の学び哉    
 15 心根や麻竹椙を日に三度     
      高井立志所望            〔注7〕
 16 うれしさや会尺にあまる袖扇   
      河合水元興行            〔注8〕
 17 手に結び足を溜池の清水哉    
      木母寺               〔注9〕
 18 懐子はありや夏草角田川     
 19 武蔵野の外も山なし富士詣    
 20 日に三度水かへり見よ湯殿行   


      日光御社を拝申て          〔注10〕
 21 暮がたき夏の日光る社壇哉    
      宇都宮常用由可亭          〔注11〕
 22 小扇や螢を宇都のみやげ物    
      白河関               〔注12〕
 23 夏やせに秋風もがな二所の関   
      二本松江口塵言           〔注13〕
 24 一樹の陰頼むも涼し二本松    
      水野林元亭             〔注14〕
 25 阿武隈川かはゆくおぼせ飛螢   
      中井正成亭             〔注15〕
 26 河筋へ螢も風の手引かな     
      斎藤友我亭             〔注16〕
 27 茂る木の胯も逢見ん二本松    
      末松山               〔注17〕
 28 夏中はさゞら波こせ末の松    
 29 今住や安達が原の鬼野馬     
 30 宮城野の景やあひもち萩と露   
 31 薄霧のまがきの島や景に景    
 32 松島の秋やかたらば百分一         〔注18〕
 33 松島や思ひ寝言も月の秋     
      仙台瀬奈田不及興行         〔注19〕
 34 松島やおそらく極楽月の秋    
 35 高館の露やなみだの衣川          〔注20〕
 36 水精や先月をうる南部山     
      相馬領中村之城下          〔注21〕
 37 馬鞭草の花や我等をつなぎ馬   
      岩城の城下に暫有て         〔注22〕
 38 千とせをもへんは何遍菊の酒   
 39 旅雁もや南を・に長あくび    
      同所天神御社
 40 つぼ袖や拾ふ紅葉の幣袋     
 41 玉河や越塩風も千鳥がけ          〔注23〕
 42 岩なみもかへり花かの桜川         〔注24〕
      江戸にて富長興行          〔注25〕
 43 味も身につくやこのわた生鼠綿  
      箱根を過るとて
 44 山は屏風張やかたびら雪の松   
 45 一見も百物がたりや富士の雪   
      師走上旬京に入日、着ならし衣雪   〔注26〕
      のふりかくすを
 46 降雪のみのしろ衣や恥かくし       」


 〔注1〕 寛文五年四月三日,京都出発。重頼六十四歳。
 〔注2〕 手向山は山城と近江の国境にある逢坂山のこと。
 〔注3〕 醒ケ井は滋賀県米原町の地名。中山道の宿駅で京から十九里二十四丁の所。日本武尊が病を癒したと伝える居寤の清水がある。
 〔注4〕 寝覚の床。長野県木曽郡上松町にある木曽路の名勝地。京から六十四里十二丁。
 〔注5〕 碓氷峠は長野県と群馬県の堺にあり,中山道第一の難所であった。軽井沢は京都からは手前に当たる宿場。京から九十八里二十六丁。
 〔注6〕 熊谷は埼玉県熊谷市で,中山道の宿場。蓮生山熊谷寺には熊谷直実の墓がある。京から百十九里二十四丁,江戸へ十五里三十五丁。
 〔注7〕 高井立志は紀伊和歌山藩の畳職を管理する高井氏の子。浪人して江戸に出て,本町四丁目に住す。休圃の紹介で立圃の門に入った。
 〔注8〕 河合水元は江戸の俳人。
 〔注9〕 木母寺は墨田区堤通にある天台宗の寺。初め梅若寺と言ったが,慶長十二年(一六〇七)木母寺と改めた。梅若伝説がある。
 〔注10〕 日光御社。徳川家康を祀った東照宮。
 〔注11〕 宇都宮,奥州道の宿場で,ここから日光道が分かれる。常用由可は宇都宮の俳人,大塚氏。
 〔注12〕 白河関、奥州道の宿場・白河にある関所で、江戸から四十八里。二所の関という。
 〔注13〕 二本松は奥州街道の宿駅で,相馬街道,磐城街道と交わる所で商業活動の中心地であった。江口塵言は二本松丹羽家の家臣で,代々家老の職を務める家柄。
 〔注14〕 水野林元は二本松藩家臣。藩主・長次の傅役・目付・旗奉行等を務めた。
 〔注15〕 中井正成も二本松藩家臣。
 〔注16〕 斎藤友我も二本松藩家臣。
 〔注17〕 末松山。宮城県多賀城市にあったという山。歌枕。
 〔注18〕 松島。宮城県松島湾に散在する大小の島。日本三景の一つ。
 〔注19〕 瀬奈田不及。仙台の俳人。
 〔注20〕 高館。藤原秀衡が源義経のために築いたと言われる館。
 〔注21〕 相馬領。中村藩。相馬忠胤(三代)の治世。江戸より七十八里。
 〔注22〕 岩城の城下。岩城平藩。内藤忠興(二代)の治世。寛文十年,三代・頼長(風虎)襲封。江戸より五十五里。
 〔注23〕 玉河。江戸,調布の玉川。多賀城市の野田の玉川かとも考えられるが,岩城から再び北上するのは不自然と思う。
 〔注24〕 桜川。江戸愛宕山下付近を流れていた川。桜の名所。
 〔注25〕 富長。橋本氏,江戸の俳人。
 〔注26〕 京都帰着。

 簡略な注を付したが,これを整理すると,1から10までが,京都を出て,中山道を経て江戸までの旅。11から18までは江戸滞在。19~23では,江戸を出て,日光等に詣でて奥州道の旅。24から27まで二本松に滞在。28以後,さらに奥へ進み,松島・仙台・平泉・中村を経て,38で風虎の居る岩城に着く。40まで滞在して,41~43は江戸滞在。以後,箱根・富士を眺めて,東海道を通って京都に帰着したという事になる。季節は28までが夏,40まで秋,以後冬。
 右に掲げた,中村俊定氏の研究や,この四十六句とその詞書を参考にすると,寛文五年の重頼の行動について,そのおおよそは,推測する事が可能である。ただ,本稿の目的は,その重頼と二本松の俳諧との関係,ひいては親盛との関係を明らかにする点にある。そのためには,これだけの資料では十分とは言い得ない。二本松関係の調査は現在進行中であり,その結果をも含めて,続稿で考察を加える事にしたい。


 (注1) 田中伸氏「如儡子の注釈とその意義―『百人一首鈔』と『酔玉集』―」(『二松学舎大学論集』百周年記念号,昭和52年10月,後,『近世小説論攷』昭和60年6月10日,桜楓社発行 に収録)。
 (注2) 野間光辰氏「如儡子系伝攷(中)」(『文学』46巻12号,昭和53年12月,後『近世作家伝攷』昭和60年12月30日,中央公論社発行 に収録)。
 (注3) 今栄蔵氏『貞門談林俳人大観』(平成元年2月28日,中央大学出版部発行)。
 (注4) 『佐夜中山集』は「近世文学資料類従・古俳諧編,7・8」(荻野秀峰解説,昭和48年8月20日,10月5日,勉誠社発行)を使用した。
 (注5) 『夜の錦』は内藤風虎撰,寛文六年(一六六六)成立とされるが,現在,伝存未詳である。延宝七年(一六七九)序,桑折宗臣編の『詞林金玉集』にその一部が抄録されている。『詞林金玉集』は,宮内庁書陵部編,図書寮叢刊として明治書院から,上巻=昭和47年10月14日,中巻=昭和48年10月8日,下巻=昭和50年1月20日にそれぞれ発行されているものを使用した。
 (注6) 『桜川』原本は大東急記念文庫蔵。複製本が上下二冊で昭和60年4月25日に発行されているものを使用した。解説・加藤定彦氏,発行・大東急記念文庫,制作・勉誠社。
 (注7) 『時勢粧』は,古典俳文学大系2『貞門誹諧集二』,小高敏郎・森川昭・乾裕幸校注,昭和46年3月10日,集英社発行,を使用した。『時勢粧』は森川昭氏担当。
 (注8) 『糸屑集』は東京大学図書館洒竹文庫所蔵本のマイクロフイッシュによった。
 (注9) 『続連珠』は東京大学図書館竹冷文庫所蔵本のマイクロフイッシュによった。
 (注10) 『境海草』は,古典俳文学大系3『談林俳諧集一』,飯田正一・榎坂浩尚・乾裕幸校注,昭和46年9月10日,集英社発行,を使用した。『境海草』は榎坂浩尚氏担当。
 (注11) 『二本松市史』第9巻「自然・文化・人物,各論編2」平成元年5月1日発行。


 (注12) 中村俊定氏著『俳諧史の諸問題』昭和45年9月20日,笠間書院発行。
 (注13) (注12)に同じ。
 (注14) (注7)に同じ。


  【付 記】
 斎藤親盛(如儡子)の俳諧について,従来の研究を踏まえて,調査考察する予定であったが,予想外に時間を要し,中間報告の如き結果となってしまった。今後,さらに調査を続け,次号で纏めたいと思う。この点を御了承願いたい。
 今回,貞門俳諧の撰集の調査に関しては,今栄蔵氏の労著『貞門談林俳人大観』を主として活用させて頂いた。撰集の採り上げ方でなお,不十分の点があるかも知れない。また,俳人の数の数え方に誤りがあるかも知れない。今氏の血のにじむような作業の結晶を活用させて頂くにあたって,身の引き締まる思いがした。集計ミスなど無いように努力はしたが,もし有るとすれば,それは,全て私の責任である。
 本稿は未完であるが,調査にあたって,関係諸機関のお世話になった。また,この間,島本昌一氏・笠間愛子氏から様々な御指導を頂いた。記して,心から御礼申し上げます。

  ―『近世初期文芸』第16号(平成11年12月)所収)―





④、斎藤親盛(如儡子)の俳諧(中)
 
                         深沢 秋男


 五、近世初期の陸奥の俳諧状況

 如儡子の俳諧活動を考えるために、本誌前号の「斎藤親盛(如儡
子)の俳諧(上)」では、現在までに確認し得た、親盛の作品とそ
の数を吟味推定し、また、近世初期の俳諧状況を知る意味で、当時
の俳書に収録された、俳人の国別の数等を掲げた。ここでは、それ
らの結果に対して検討を加えたいと思う。

 寛永から延宝にかけての、各国の俳人の俳諧撰集への入集状況に
関する資料は前号で掲げたが、その結果を簡略に整理すると以下の
如くである。 〔注〕○=陸奥を収録しないもの。
          ◎=陸奥を収録しているもの。
          ●=親盛の句を収録するもの。
 ○寛永10年  重頼 『犬子集』 陸奥は収録せず。
 ○寛永10年  親重 『誹諧発句帳』 陸奥は収録せず。
 ○正保2年? 重頼 『毛吹草』 陸奥は収録せず。
 ○正保4年  重頼 『毛吹草追加』 陸奥は収録せず。
 ◎明暦2年  休安 『夢見草』 陸奥3名、会津2名、仙台1
                 名。
 ○明暦2年  令徳 『崑山土塵集』 陸奥は収録せず。
 ○明暦2年  貞室 『玉海集』 陸奥は収録せず。
 ○明暦2年  梅盛 『口真似草』 陸奥は収録せず。
 ○明暦4年  梅盛 『鸚鵡集』 陸奥は収録せず。
 ◎万治2年  梅盛 『捨子集』 陸奥8名、会津3名、山形2
                 名、米沢2名、白川1名。
 ◎万治3年  季吟 『新続犬筑波集』 陸奥2名、二本松の水
                 野林元、寺田寒松。
 ◎万治3年  重頼 『懐子』  陸奥1名、磐城の内藤風虎。
 ◎寛文3年  梅盛 『木玉集』 陸奥2名、会津2名。
 ●寛文4年  重頼 『佐夜中山集』 二本松20名、会津9名、
                 磐城7名。●親盛2句。
 ◎寛文4年  梅盛 『落穂集』 陸奥15名、二本松は斎藤友我
                 1名。
 ◎寛文6年  一雪 『俳諧洗濯物』 陸奥6名、磐城5名、白
                 河1名。
 ●寛文6年  風虎 『夜の錦』 二本松29名、●親盛11句。
 ◎寛文7年  貞室 『玉海集追加』 陸奥3名、会津3名。
 ◎寛文7年  湖春 『続山井』 陸奥25名、二本松11名。
 ◎寛文8年  加友 『伊勢踊』 陸奥12名、磐城多し。
 ◎寛文8年  梅盛 『細少石』 陸奥10名、磐城・仙台多し。
 ◎寛文9年  未琢 『一本草』 陸奥16名、磐城・会津多し。
 ●寛文12年  維舟 『時勢粧』 二本松27名、磐城13名、会津
                 5名、●親盛6句、両吟百韻
 ◎寛文12年  宗臣 『大海集』 陸奥12名、磐城7名、二本松
                 3名、仙台2名。
 ◎寛文12年  顕成 『続境海草』 陸奥6名、二本松3名。
 ◎寛文12年  顕成 『手繰舟』 陸奥20名、磐城11名、二本松
                 6名、津軽2名、白川1名。
 ●寛文12年  風虎 『桜川』  磐城72名、二本松45名。●親
                 盛40句。
 ◎延宝2年  安静 『如意宝珠』 陸奥13名、磐城・白川・津
                 軽・会津・仙台。
 ◎延宝2年  維舟 『大井川集』 二本松9名、磐城2名、仙
                 台2名、白川1名、会津1名
 ●延宝3年  重安 『糸屑集』 陸奥13名、二本松3名。●親
                 盛1句。
 ◎延宝4年  維舟 『武蔵野集』 二本松8名、磐城1名。
 ●延宝4年  季吟 『続連珠』 陸奥39名、磐城12名、二本松
                 8名、会津5名、白川1名、
                 盛岡3名等、●親盛1句。

 これらの入集の数量関係から、機械的に言い得ることは、まず、
陸奥の俳人が俳諧撰集に入集するようになるのは、明暦・万治頃か
らであり、陸奥の中では、磐城・二本松が俳諧活動が盛んである、
と言うことである。次に二本松との関係をみると、松江重頼が非常
に関係が深い事がわかり、重頼が二本松と関係深くなるのは万治・
寛文頃からであると言える。また、重頼は磐城よりも二本松との関
係の方が深いと言える。次に二本松と非常に深い関係にあるのは内
藤風虎であり、北村季吟も関係が深い。北村湖春・桑折宗臣・阿知
子顕成・宗善庵重安も二本松と関係があった。
 いっぽう、高瀬梅盛は二本松とあまり関係が無く、また、安原貞
室・野々口親重・蔭山休安・鶏冠井令徳・荻野安静も二本松とは関
係が無かった。椋梨一雪・荒木加友・石田未琢は磐城とは関係深い
が二本松とは関係無かったようである。
 このように整理出来ると思われるが、これらは、『滑稽太平記』
等に伝えられている、各俳人間の確執・親疎の面がら見ても頷かれ
るものと思われる。
 陸奥における俳諧活動は、おそらく寛永中頃から行われていたも
のと思われるが、その成果が、京都を中心として出版された俳書に
入集され出すのは、右に見た如く、明暦・万治頃からであった。
 また、陸奥の中では磐城と二本松が特に盛んであった事も、右の
データから明らかである。磐城は、知られている如く、磐城平藩主
・内藤頼長が俳号・風虎をもつ貞門俳人であった。そのような関係
もあって、家臣も俳諧を嗜む者が多かったようである。おそらく八
十名位は居たものと推測される。
 二本松も、各俳書への入集状況から推測するに、六十名前後の俳
人が居たものと思われるが、何故このように俳諧活動が活発だった
のであろうか。
 二本松藩十万七百石に、寛永二十年(一六四三)七月、丹羽光重
が白河藩から入封している。光重は藩主に就任すると、築城と城下
町の整備を行い、二本松藩の基礎を確立した。光重は熊沢蕃山・山
鹿素行とも交流があり、素行の『配所残筆』慶安三年(一六五〇)
の条には、光重は素行に兵学の講義を聞き、歌舞伎をしばしば、共
に見ている事が指摘されている。また、和算家の礒村吉徳を召し抱
え、二本松算学の基礎を作っている。光重は黄檗宗に帰依し、寛文
四年(一六六四)には大岳和尚を招いて松岡寺を創建している。こ
の松岡寺は斎藤親盛の菩提寺でもある。さらに『仏祖図賛』をも編
纂している。『二本松市史』第九巻で、田中正能氏は、
 「丹羽光重は、石州流の茶人として有名な大名であり、当時の君
 主として詩歌、和漢の学問、仏典をはじめ諸芸にくわしく、とり
 わけ蘭・竹の絵をよくしたと伝わる」
 と記しておられる。現在、延宝六年(一六七八)の和歌集『光重
公自筆集』も丹羽家に伝存する。
 寛文三年の「公制」の冒頭で、
 「一、忠孝をはけまし礼法をたゝし常に文道武芸を心かけ義理を
    専にし風俗みたるへからさる事」
 と布達しているが、これは武家諸法度を単に書き替えたもという
よりも、光重の政治姿勢を表したものと言ってよいと思われる。つ
まり、丹羽光重は自らも文芸に親しみ、臣下にも文道武芸を奨励す
る大名であったと推測される。その点では、磐城平藩主・内藤頼長
と相通じるものがある。二本松藩の俳人の筆頭にあげられる江口塵
言は、丹羽家の家臣で代々家老の職を務める家柄であり、水野林元
は光重の長子・長次の傅役・目付等を務めている。このような状況
の中で二本松藩の俳諧は、光重の家臣を中心として、隆盛を極めた
ものと推測される。あるいは、磐城平藩と二本松藩と藩主間、俳人
間に交流の記録があるのではないか、と推測し、内藤風虎関係の資
料も調査したが、現在のところ確認することは出来なかった。
 関根林吉氏は、昭和四十一年『福島県俳諧年表』を作成しておら
れる。『俳諧年表』(望東・麦人)・『新選俳諧年表』(鳳二・一
外)・『俳諧年表』(洒竹)・『俳書体系』(春秋社)・『福島県
史』(第廿巻)等を利用して作成したものであるが、俳諧選集のみ


年表省略


でなく、俳諧合や諸記録も参照しているので、風虎と季吟・宗因・
玖也との関係、玖也と宗因・重頼との関係を知る上で参考になる。
年表は、全時代に亙った労作であるが、ここでは、関連する年代の
部分を紹介する。

 六、二本松の俳人

『佐夜中山集』『夜の錦』『桜川』『時勢粧』等に収録の俳人
  1、江口塵言   12、小川可著    23、古市正信
  2、水野林元   13、須藤之也    24、小池又笑
  3、日野好元   14、寺田寒松    25、  秀伝
  4、長岡道高   15、今村林昌    26、伴 人似
  5、斎藤親盛   16、  正秀    27、土屋有房
  6、斎藤友我   17、金田古硯    28、下河辺哂◆
  7、小沢衆下   18、佐藤幸之    29、釈 随言
  8、不破一興   19、白岩人任    30、内藤未及
  9、中井正成   20、安保一実    31、釈 永雲
  10、奥田方格   21、豊田政氏    32、根村吉元
  11、斎藤如酔   22、釈智蔵主    33、槙 陳旧
  34、小原幸益    44、安積治水子   54、貝山友志
  35、  元知    45、藤村守幸    55、清水直治
  36、座頭城益    46、青戸未入    56、石橋虫同
  37、佐野相興    47、小松崎破衣   57、三崎如雲
  38、安田未元    48、佐藤萍心    58、横山笑甫
  39、◆山子     49、寺田守昌    59、鈴木友言
  40、日野好久    50、松下是一    60、丹羽捨拾
  41、大崎口友    51、土屋有次    61、野沢似言
  42、滝川寸志    52、津田正吉    62、毛利以由
  43、寺田万之助   53、山田相知    63、河村惣広

 配列の順序は『佐夜中山集』の句数の多い順にして、以下各集の
俳人を追加した。これらの俳人の伝記の関しては、殆どわかってい
ない、というのが現状である。昭和三十年の矢部榾郎氏の『福島県
俳人事典』(『事典』と略称)と関根林吉氏の『福島県俳諧年表』
を参照し、二本松藩関係の諸資料を利用して調査した結果を以下に
報告する。

1、江口塵言 「塵言 二本松。江口三郎右衛門。維舟門。「桜川」
 に百句以上入集(四句引用)」(『事典』)。丹羽家家臣、江口
 正倫。父・正信は『寛永十一戌年御上洛/丹羽宰相長重公御供之
 侍』では「御番頭 江口三郎右衛門」とあり、寛永十三の『白川
 城主丹羽五郎左衛門尉長重様御領地之時之支配帳』では「御家老
 千石 江口三郎右衛門」とあり、万治三年没している。正信の嫡
 男・正倫は「……承応二年十月処領を賜ふ〔二百五十石〕。万治
 三年二月父死して家を継ぎ〔千五百石父是迄支配せし組子しばし
 預らる〕、同十月組頭に被成、寛文七年世子〔興国公〕の執政に
 被成組頭は元の如し。延享七年四月興国公御世継せられし時、将
 軍家へ拝謁し奉る。今年処領加ひ賜ふ〔二百石〕。天和三年閏五
 月日光山神廟の経営を助けさせ給ふ時、其事を奉行し事成し後、
 将軍家に召して時服白銀を賜ふ。貞享三年正月処領加へ賜ふ〔三
 百石合二千石〕。元禄十年十二月請に依て職免さる。然し重き御
 政事あらんには登城有べし、尋常の事は執政等正倫が宅に就て議
 すべしとの仰を蒙る。同十三年三月致仕し惺石と号し老養料〔月
 七十口〕賜る。今茲八月十日六十一歳にて空しくなりぬ。」(『
 世臣伝』巻之五)。寛文五年、松江重頼は二本松に立ち寄った際、
 江口塵言の家で句を作っている。「二本松江口塵言/一樹の陰頼
 むも涼し二本松」。『佐夜中山集』『夜の錦』『桜川』『時勢粧』
 『続連珠』『六百番誹諧発句合』『花0』等に入集。江口塵言は
 二本松藩の重臣であり、俳諧は重頼の指導を受けていたものと思
 われる。
2、水野林元 「林元 二本松。近習。水野九右衛門。(五句引用
 」(『事典』)。丹羽家家臣、水野林元。父は水野新左衛門。元
 和六年所領百五十石を賜り、御用人となり〔三百石〕、寛永九年
 没。「其子太郎八、未幼稚なりけるの新左衛門が勤労格別なるを
 以て遺領を賜り〔二百五十石〕、成人して九右衛門林元と召れ、
 御小姓に被成、慶安二年十月地加られ〔五十石合三百石〕御小納
 戸より御用人の職に被成、寛文元年八月、世子〔興国公〕の御伝
 に補られ、同二年御許を蒙り、其後目付衆に被成再世子の御伝を
 経て御代治しめされし始郡代の職を奉り、元禄三年三月御旗の奉
 行に進み、年老いぬれば致仕入道して□山と号し老養料〔月俸六
 口〕、宝永四年十月六日年七十七歳にて終りぬ。」(『世臣伝』
 巻一之下)。松江重頼は二本松に立ち寄った際、水野林元の家で
 句を作っている。「水野林元亭/阿武隈川かはゆくおぼせ飛螢」。
 『佐夜中山集』『夜の錦』『桜川』『時勢粧』『糸屑集』『続連
 珠』『六百番誹諧発句合』『花0』等に入集。水野林元は二本松
 藩の家臣で、御小姓、御小納戸、御用人、藩主の長子・長次の傅
 役、目付、旗奉行等を歴任しており、俳諧は重頼の指導を受けて
 いたものと思われる。
3、日野好元 「好元 二本松。日野氏。維舟門。文車の前号かと
 思われるが判然としない。(五句引用)」(『事典』)。二本松
 藩家臣の日野氏は、『世臣伝』巻二によれば、正家・・重尚・・
 尚茂 と続き、重尚の弟に好辰がある。この好辰が日野好元と推
 測される。田中正能氏は「日野重尚の弟、日野孫右衛門好辰、致
 仕後は湯水と称した。」としておられる。『世臣伝』日野氏の系
 図には「好辰〔孫右衛門 致仕号湯水〕」とあり、『二本松藩新
 規召抱帳』の寛永十五年の条に「日野孫右衛門〔小姓正保二年百
 石後五十石加増金ニ而百石両度遣ス〕」とある。日野好元は二本
 松藩の家臣で、日野家の分家ながら小姓などを勤めていたものと
 推測され、俳諧は重頼の門下であったと思われる。『佐夜中山集』
 『夜の錦』『桜川』『時勢粧』『続連珠』『六百番誹諧発句合』
 等に入集。なお、『事典』は『花□』の編者・文車の前号かと推
 測しているが、文車は重尚の子・尚茂の号である。また、田中正
 能氏は「二本松に残る説には、貞享四年(一六八七)に俳人とし
 て名を知られた日野好元・好久の父子が所行不埒の故にて所領召
 上げ改易を命ぜられ、また本家である日野尚茂は千石知行の重臣
 として番頭兼金銀出納の奉行をつとめていたが、元禄二年(一六
 八九)には出納勘定不都合の事ありとして謹慎中であったために、
 芭蕉は立寄ることを遠慮したものとされている。」と記しておら
 れる。40、日野好久は、日野家系図の好辰の子の条に「某〔万太
 郎 孫右衛門/母樽井弥五左衛門重次女/有罪改易家断絶〕」と
 ある人物と思われる。
4、長岡道高 「好元 二本松。長岡氏。「桜川」に入集」(『事
 典』)。『世臣伝』巻八之上の長岡道明か。「元は丹後国に住し、
 京極修理大夫高三が家に在り。明暦元年六月慈明公に仕奉り〔四
 百石を賜ふ〕、万治二年六月先鋒の隊将奉り、天和元年職を許さ
 れ、同年三月十五日、七十三歳にして死しぬ。」寛永十三の丹羽
 長重の『御領地之時之支配帳』では、小目付の条に「長岡平左衛
 門」とある。『佐夜中山集』『夜の錦』『桜川』『時勢粧』『糸
 屑集』等に入集。
5、斎藤親盛 「親盛 二本松。斎藤氏。「桜川」に入集」(『事
 典』)。如儡子。万治三年、子の秋盛が丹羽光重に召抱えられ、
 二本松に移住した。『佐夜中山集』『夜の錦』『桜川』『時勢粧』
 『糸屑集』『続連珠』等に入集、『時勢粧』には斎藤友我との両
 吟百韻が収録されている。
6、斎藤友我 『事典』は採録せず。『世臣伝』には、斎藤喜兵衛
 秋盛(如儡子の子)以外には、巻之五に斎藤直一がある。田中正
 能氏はこの斎藤直一を斎藤如酔としておられるが、私の調査した
 結果、現段階では、友我・如酔いずれとも断定し得ない。「……
 其子直一未童にて長五郎と名乗り、田島の郷に在りし時、桀俊公
 御鷹狩に出させられ此辺通らせ給ひ、直一が幼きを御覧じて、其
 ありさま尋常の子ならずと知し召し、やがて御家人に加えられ、
 御身近く召仕る。元より才智人に勝れ、又さる者の子にもありけ
 れば、君の御寵恩尤厚く、実に頼母敷思召れ後々は御取立有べし
 との仰にて自分御筆を染させられ処領の高記されて直一に下し賜
 ふ〔今に此家の重宝とて〕例しすくなき事なりき。寛永十一年御
 上洛の御供に従ひ参らせ、同十四年御右筆の事を奉り、同十七年
 九月新に所領を賜ひ〔百五十石〕同二十年会津の戍にも御供し、
 正保二年九月所領加られ〔五十石〕寛文元年其職の司となり、同
 五年十月再処領加へ賜ひ〔五十石合二百五十石〕延宝七年五月七
 日六十四歳にて死す。」この斎藤直一が友我を称したか否か未詳
 であるが、寛文五年、重頼が二本松を訪れた時、「斎藤友我亭/
 茂る木の股も逢見ん二本松」と友我の家で句を詠んでいる。元禄
 頃の状況を伝えると言われる『二本松城下図』には城近くの大通
 りに面した位置に「斎藤半助」の屋敷がある。直一の子の直達が
 半助である。寛文五年、友我は親盛と両吟百韻を作っているが、
 この時五十歳、親盛は六十三歳であった。寛永十三年の『御支配
 帳』には「百石 斎藤九兵衛」があり、『二本松新規召抱帳』の
 棚倉召抱分の条に「斎藤八郎右衛門」、寛文元年の条に「斎藤左
 太夫」がある。如酔との関係も含めて今後調査を重ねたい。『佐
 夜中山集』『夜の錦』『桜川』『時勢粧』等に入集。
7、小沢衆下 「衆下 二本松。小沢氏。「桜川」に多数入集」(
 一句引用)」(『事典』)。丹羽家家臣、小沢正房。左内、左衛
 門、七郎左衛門。「其(小沢正吉)子七郎左衛門正房父に継き〔
 百七十五石〕寛文三年八月糠沢の令に被成、其後本宮の令となり、
 天和二年三月職を許され同十一月街道の奉行となり同三年十一月、
 大夫人〔見性院殿〕の老職に補せられて処領を加られ〔五十石〕
 大夫人隠させ給ふ後目付衆に被成〔二百五十石の高となる〕兼て
 宗門の事を司り元禄四年出羽国置賜郡検地の事、仰蒙らせて給ふ
 時正房と其役に侍り功畢て後、将軍家に召れ時服白銀を賜ふ。同
 五年二月郡奉行の職に移り所領再加られ〔合二百五十石〕同十一
 年十二月八日六十二歳にして死す」(『世臣伝』巻之六)。『佐
 夜中山集』『夜の錦』『桜川』『時勢粧』『六百番誹諧発句合』
 等に入集。
8、不破一与 『事典』は採録せず。『世臣伝』にも収載されてい
 ない。『二本松藩新規召抱帳』の天正十一年の長秀家臣として、
 「一 四百石 不破与右衛門」「一三百石 不破杢兵衛」の二人
 が記載されているが、この内のいずれかであろう。『佐夜中山集』
 『夜の錦』『時勢粧』等に入集。
9、中井正成 「正成 二本松。(一句引用)」(『事典』)。丹
 羽家家臣、中井重時(正成)。新之丞、小右衛門、致仕して無現
 と号す。代々丹家に仕える家柄で、父重政は寛文八年没。「(重
 政の)嫡男小右衛門重時寛文二年正月月俸賜て召仕れ同八年十二
 月家を継ぎ〔三百五十石〕其後御帳着の事を司り徒士衆の頭を経
 て御用人の職を奉りしに延宝八年正月家事困乏せしに依て職并居
 宅等返し参らせ在郷仕るべしと訴しに御許を蒙り塩沢へ引籠り、
 貞享四年九月再御用人の職を奉り徒士衆の頭を兼ぬ。元禄四年九
 月先鋒の隊将に転じ同八年十月備前の国岡山への御使を奉り〔伊
 予守綱政朝臣卒去に依て也〕同十六年六月御旗の奉行に進み宝永
 六年四月致仕して無現と号し享保八年八月十一日死す」(『世臣
 伝』巻之二)。寛文五年、松江重頼が二本松を訪れた時、「中井
 正成亭/河筋へ螢も風の手引かな」と詠んでいる。『佐夜中山集』
 『夜の錦』『桜川』『時勢粧』『続連珠』『六百番誹諧発句合』
 等に入集。
10、奥田方格 「方格 二本松。奥田氏。「桜川」に多数入集。」
 (『事典』)。丹羽家家臣、奥田方格。才之助、半左衛門、仁右
 衛門、無角と号す。父は青山権之助、後、奥田半兵衛を称す。長
 男は貞格で貞享三年家を継ぐ。方格は二男で寛文元年分家。『世
 臣伝』巻之三に「仁右衛門多々良方格ハ半兵衛某が二男。正保三
 年世子〔興国公〕の御身近く召仕れ〔月俸二口半給金六両〕後御
 膳の司に被成寛文元年十月新に所帯を賜ふ〔百石〕。其後江戸金
 払の職を経て杉田の令となり過有て職を奪はれ、元禄六年御伽の
 衆に被成薙髪して無角と号し常に御側に伺候しける。同八年六月
 致仕し老養料賜り同十一年五月十九日七十三歳にして身終りぬ」
 とある。『佐夜中山集』『夜の錦』『桜川』『時勢粧』『六百番
 誹諧発句合』等に入集。
11、斎藤如酔 「如酔 二本松。(一句引用)」(『事典』)。」
 田中正能氏は「如酔を号する斎藤直一は二五〇石知行侍である。
 寛文七年(一六六七)十月、岩城飯野八幡祭礼に平に滞在中の松
 山玖也の句集に付句を行なっている。」としておられる。斎藤友
 我の条でも記したが、友我・如酔の関係を、現在までに明らかに
 し得なかった。今後さらに調査を重ねたい。『夜の錦』『桜川』
 『時勢粧』『続連珠』等に入集。
12、小川可著 「可著 二本松。(一句引用)」(『事典』)。丹
 羽家家臣と思われるが、『世臣伝』に小川は見当たらない。寛永
 十三年の『御支配帳』に「二百五十石 小川藤次郎」「五十石
 小川伝右衛門」が見え、『二本松新規召抱帳』の白川召抱候分に
 「小川九兵衛 二百石取次数馬」、「小川友次 二百五十石鉄砲
 同心二十人預」「小川伝左衛門 五十石取次数馬」が、寛永十六
 年の条に「小川一之丞」「小川三之丞」、慶安二年の条に「小川
 勘兵衛」、万治元年の条に「小川隼之進」等が見えるが、現在の
 ところ、いずれとも決められない。『夜の錦』『続山井』等に入
 集。
13、須藤之也 「之也 二本松。須藤氏。「桜川」に多数入集。」
 (『事典』)。『世臣伝』に見当たらず、『二本松新規召抱帳』
 の寛文三年の条に「須藤三右衛門」が見えるのみ。『夜の錦』『
 桜川』『時勢粧』等に入集。
14、寺田寒松 『事典』は採録せず。『世臣伝』に寺田貞成が見え
 る。藩に仕えて右筆を勤め、万治二年に二百石を与えられたが、
 翌三年三十六歳で没している。その子・安成はまだ六歳位であっ
 た。寺田寒松では年齢が合わない。要再調査。『佐夜中山集』『
 夜の錦』等に入集。
15、今村林昌 「林昌 二本松。「桜川」に入集」(『事典』)。
 『世臣伝』に今村は見当たらない。『二本松新規召抱帳』の慶安
 二年の条に「今村三左衛門 五人扶持ニ十五石肝煎上田主殿殿」
 とある。『夜の錦』『桜川』『時勢粧』等に入集。
16、  正秀 「正秀 二本松。(二句引用)」(『事典』)。『
 夜の錦』『続山井』『花0』等に入集。
17、金田古硯 「古硯 二本松。金田氏。(一句引用)」(『事典
 』)。金田氏は『世臣伝』にも二本松藩関係の資料にも見当たら
 ない。『佐夜中山集』『夜の錦』『桜川』『続山井』等に入集。
18、佐藤幸之 「幸元 二本松。佐藤氏。「桜川」に入集。」(『
 事典』)。(幸元は幸之のミスであろう。索引は幸之)。『世臣
 伝』には見当たらず、寛永十一年の長重上洛の「御供之侍」の中
 に「佐藤八郎左衛門」とあり、寛永十三年の「御支配帳」の中に
 「三百石 佐藤八郎左衛門」とあり、『二本松新規召抱帳』に「
 同(歩行之者) 佐藤六右衛門」とあり、同じく寛永九年の条に
 「佐藤覚兵衛 三百石肝煎大島茂兵衛取次数馬」とあり、同じく
 寛永十年の条に「佐藤弥五兵衛 右同断(二百石取次同)」とあ
 り、明暦元年の条に「佐藤与兵衛 歩行之後度々加増」とあり、
 明暦二年の条に「佐藤彦作 十石四人扶持 馬乗」とあり、寛文
 二年の条に「佐藤一夫 金一枚ニ弍人半扶持小姓」とあり、寛文
 六年の条に「佐藤宗作 三百五十石 肝煎島田金州」とそれぞれ
 ある。これは、48、佐藤萍心とも関係するが、現在では、いずれ
 とも確定出来ない。『夜の錦』『桜川』等に入集。
19、白岩人任 「人任 二本松。白岩氏。「桜川」に入集。」(『
 事典』)。丹羽家家臣、白岩守広か。『世臣伝』巻之五によれば
 白岩守広は、主水、伊右衛門。「伊右衛門守広ハ光広の二男にて
 始ハ主水と名乗寛永五年十月傑俊公に仕へ奉り〔百五十石嫡流家
 子孫ハ伊予の伊達の家に仕ふと云ふ〕其後普請の奉行となり、慶
 安二年三月職を許され、寛文八年二月五日死しぬ。」『桜川』『
 時勢粧』等に入集。
20、安保一実 『事典』は採録せず。丹羽家家臣、安保重実か。『
 世臣伝』巻之五に、安保重実、造酒、一郎兵衛、忠左衛門、致仕
 後是迄と号す。「嫡男忠左衛門重実、寛永六年月俸賜て召仕れ〔
 〔三口〕同十一年十月新に所領を賜ひ〔百石〕中軍の炮将を奉り
 万治二年八月再所領加へられ〔五十石〕町奉行の職に補せられ…
 …此人夙夜奉公の労を積しのみならず当時才略の人と呼れしかハ
 寛文元年三月懇の仰有りて処領余多加へ賜ひ〔百石合四百石〕大
 目付を命ぜられ……同年十一月宗門の事を兼其後職御許を蒙り〔
 宗門の事をハ奉る〕同十一年十一月致仕し是迄と号し老養料賜り
 〔月俸六口〕年七十七歳にて貞享二年六月廿八日死てけり」。『
 夜の錦』等に入集。
21、豊田政氏 「政氏 二本松。豊田氏。「桜川」に入集。」(『
 事典』)。『世臣伝』に見当たらず、『二本松新規召抱帳』の棚
 倉召抱候分の条に「豊田弥五右衛門 知行百石ノ約束取次左兵衛
 数馬」とあり、寛文二年の条に「豊田小一郎 右同断(十両ニ三
 人扶持 若狭守小姓)」とある。豊田弥五右衛門であろうか。『
 夜の錦』『桜川』等に入集。
22、釈智蔵主(知蔵司) 『事典』は採録せず。二本松の僧侶であ
 ろうか。『佐夜中山集』『夜の錦』等に入集。
23、古市正信 『事典』は採録せず。『世臣伝』に見当たらず、二
 本松関係資料の中にも見当たらない。『佐夜中山集』『夜の錦』
 等に入集。
24、小池又笑 『事典』は採録せず。丹羽家家臣、小池次好か。『
 世臣伝』巻之六の系図に、小池次好、太郎左衛門、武右衛門とあ
 る。「武右衛門藤原某ハ堀尾山城守忠晴の家人也。寛永十二年傑
 俊公に仕へ奉り〔百五十石〕其後再処領を加へ賜り〔二百五十石〕
 延宝三年四月三十日死しぬ」また、『二本松新規召抱帳』の寛永
 十二年の条に「小池惣左衛門 百五十石肝煎堀尾但馬守殿」とも
 ある。『夜の錦』『桜川』『時勢粧』等に入集。
25、  秀伝 『事典』は採録せず。現在のところ手掛かり無し。
 『夜の錦』『続連珠』等に入集。
26、伴 人似 「人似 二本松。伴氏。「桜川」に入集。」(『事
  典』)。『世臣伝』巻之六の伴正秀か。「伴 角兵衛大友正秀
 ハ信濃守正興が子にて松平中務大輔忠知朝臣の家人なり。彼家亡
 て後寛永十三年傑俊公に仕へ奉り〔二百石……〕其後作事の奉行
 となり慶安二年三月職許され宝暦元年七月致仕し同七年八月十八
 日八十一歳にして死しぬ」(この「宝暦」は寛文または延宝の誤
 りか)。『桜川』『時勢粧』等に入集。
27、土屋有房 『事典』は採録せず。丹羽家家臣。『世臣伝』巻之
 二の系図に、土屋有房、源之丞、弥兵衛、甚右衛門、致仕して遊
 外と号す。「甚右衛門有房ハ辻某〔久左衛門青山播磨守に仕ふ〕
 が二男也。明暦元年世子の御近習に召仕れ〔月俸二口半給金五両〕
 寛文元年十月所領を賜ひ〔百石〕御膳の司を奉り兼て刀剣及金銀
 の奉行等を司り家を継て〔三百石〕職許され目付衆より御用人の
 職に進み徒士衆の頭を兼ぬ。天和三年六月日光山神廟の経営を助
 けさせ給ふ時登山して其事を奉り功なりし後将軍家に召され物多
 く下し賜ふ。其後職を許され、元禄三年先鋒の隊将となり同年老
 公〔慈明公〕煩せ給ふ事有て興国公松府に御下向有りしかバ其事
 を拝させ給ハんが為、老公より御使を被遣、同十一年同国仙台城
 への御使を奉り〔其故不詳〕同十五年四月致仕して遊外と号し老
 養料賜り〔月俸六口〕享保六年九月十日八十四歳にて死しぬ。」
 『夜の錦』『時勢粧』等に入集。
28、下河辺哂0 「哂0 二本松。下河辺氏。「桜川」に多数入集。
  (一句引用)」(『事典』)。丹羽家家臣の下河辺氏は『世臣
 伝』巻之二に出ている。二代行秀は寛文三年に没している。三代
 行高(丹羽重時の三男)は享保元年(一七一六)に七十歳で没し
 ている。寛文五年(一六六五)には二十歳である。二代行秀の弟
 に行渡がある。元禄六年(一六九三)に六十一歳で没している。
 寛文五年(一六六五)には三十三歳である。行渡は幼少より二代
 藩主長次に仕え、致仕後の号は休閑。これらの条件を考慮すると
 哂0は下河辺行渡とするのが妥当ではないかと思われる。「少右
 衛門藤原行渡ハ故庄右衛門行武が二男也。童の時より世子〔興国
 公〕に仕奉り寛文六年五月別に所帯を賜ひ〔百石〕天和三年致仕
 し休閑と号し老養ふ料賜り、元禄六年正月十六日六十一歳にて死
 しぬ。」『桜川』『時勢粧』『花0』等に入集。
29、釈 随言 『事典』は採録せず。二本松の僧侶であろうか。二
 本松は寺が非常に多い。『夜の錦』『時勢粧』等に入集。
30、内藤未及 「未及 二本松。内藤氏。「桜川」に多数入集。」
 (『事典』)。丹羽家家臣、内藤正行、刑部左衛門、四郎兵衛。
 『世臣伝』巻之八上に「(正次の)嫡男四郎兵衛正行、承応二年
 五月新に処領を賜ひ〔五百石〕明暦元年六月大横目の職を奉り…
 …万治二年五月御旗の奉行に被成……同(延宝)八年三月番頭に
 進み天和元年帰国を拝させ給ふの御使を奉り貞享元年三月職を辞
 し八月致仕し端石と号し老養ふ料賜り〔二百石〕元禄八年六月老
 養料辞せしに依て改賜ふ〔七十石〕同十五年正月十日九十一歳に
 て身まかりぬ。」『桜川』『時勢粧』等に入集。
31、釈 永雲 『事典』は採録せず。二本松の僧侶か。『時勢粧』
 等に入集。
32、根村吉元 『事典』は採録せず。『世臣伝』には見当たらない
 が、『二本松新規召抱帳』の万治二年の条に「根村角右衛門 二
 百石取次少兵衛新左衛門鉄砲ニ而召抱」とある。また『松藩廃家
 録 乾』に「百三十石 根村市太郎/市太郎父市左衛門ハ承応元
 年本藩に仕ひ采邑百五十石賜ひ寛文六年九月十一日五十石の加恩
 賜り慈明公の右史となり其項双なき能筆たり天和元年其子市太郎
 に継ぎ百三十石賜ひ貞享四年奥村市郎右衛門が事に座し父市左衛
 門共に改易せらる」とある。このいずれかの人物が根村吉元であ
 ろうか。『佐夜中山集』に入集。
33、槙 陳旧 『事典』は採録せず。丹羽家家臣・槙四郎兵衛か。
 『世臣伝』巻之三に「槙(藤原)某 新左衛門 角兵衛 四郎兵
 衛」「槙四郎兵衛藤原某ハ其出る処を詳にせず。元和八年始て傑
 俊公の御家人に成て御中小姓に召仕れ寛永十八年新に所領を賜ひ
 〔百石〕同二十年会津の戍に御供し承応二年四月地加へられ〔三
 十石〕明暦二年三月地再加へられ〔二十石合百五十石〕其後江戸
 普請寛文元年四月職を免され延宝元年十一月司米の職に補せられ
 同六年致仕し今茲五月二十五日死しぬ。」『佐夜中山集』に入集。
34、小原幸益 『事典』は採録せず。二本松関係の資料にも見当た
 らない。『佐夜中山集』に入集。
35、  元知 『事典』は採録せず。『佐夜中山集』に入集。
36、座頭城益 「城益 二本松。座頭。「桜川」に入集。」(『事
 典』)。二本松関係の資料にも見当たらず。『桜川』に入集。
37、佐野相興 「相興 二本松。佐野氏。「桜川」に入集。」(『
 事典』)。『世臣伝』巻之五に佐野新之丞がある。「佐野 作左
 衛門藤原某ハ出る処を詳にせず。寛永五年十月傑俊公に仕奉り〔
 二百石賜ふ〕承応三年十二月知加へられ〔合二百五十石〕明暦二
 年四月二十五日死す。其子新之丞某父に継ぎ〔百五十石〕後木幡
 の令となり延宝七年六月十四日死す。」初代作左衛門は明暦二年
 に没しているので、二代新之丞か。『二本松新規召抱帳』の寛永
 十年の条に「佐野忠太夫 二百石取次右同」、寛永十一年の条に
 「佐野善兵衛 百五十石右同」と見えるが、いずれとも判断でき
 ない。『桜川』『時勢粧』等に入集。
38、安田未元 「未元 二本松。安田氏。「桜川」に入集。」(『
 事典』)。『世臣伝』巻之四に安田庄次郎があるが、庄次郎は寛
 文十年に没しているので、子の惣右衛門ではないか。「其子惣右
 衛門某承応二年六月公の御身近く召仕れ同三年十二月武庫を司る
 〔武具大奉行と称す〕万治□年十一月所領を賜ひ〔百石〕同三年
 六月御膳の司に転じ寛文五年十月地加へられ〔合百五十石〕父死
 して家を継ぎ〔四百石〕其後歩行衆の頭より御用人の職を経て延
 宝八年〔閏〕八月江戸本占の職を奉り元禄五年五月地加へらる〔
 合四百五十石〕同十一年八月郡代の職に移され同十四年三月二十
 四日死す。」『桜川』に入集。
39、□山子  『事典』は採録せず。諸資料で確認出来ず。『桜川』
 に入集。2水野林元は入道後「□山」と号した。関係あるか。
40、日野好久 「好久 二本松。日野氏。「桜川」に入集。」(『
 事典』)。 「3、日野好元」の子。日野好元の条参照。『桜川』
 『時勢粧』等に入集。
41、大崎口友 「口友 二本松。大崎氏。「桜川」に入集。」(『
 事典』)。『世臣伝』には見当たらない。寛永十一年の長重上洛
 の時の「御供之侍」の中に「大崎七右衛門」とあり、寛永十三年
 の「御支配帳」の中に「二百石 大崎七右衛門」とあり、『二本
 松新規召抱帳』の寛永七年の条に「大崎七左衛門 二百石肝煎加
 々爪民部殿取次伊豆数馬」とある。右衛門と左衛門の違いがある
 が同人物と思われる。口友は丹羽家家臣の大崎七右衛門か。『桜
 川』に入集。
42、滝川寸志 「寸志 二本松。滝川氏。「桜川」に入集。」(『
 事典』)。『世臣伝』巻之七に、滝川正暦がいる。「滝川 正暦
 藤原の某ハ加藤左馬介嘉明が家人也。其家亡びて正保元年医業を
 以て慈明公に仕へ奉り〔月俸二十口〕慶安二年十一月新に所領を
 賜ひ〔百五十石此外に月俸五口下し賜ふ〕寛文七年十月所領加へ
 られ〔五十石合二百石〕延宝八年四月七日致仕し天和三年六月二
 十四日死しぬ」。『桜川』に入集。
43、寺田万之助 「万之助 二本松。吉田氏。「桜川」に入集。」
 (『事典』)。「寺田」は14、寒松、43、万之助、49、守昌の三
 人いるが、寒松の項記した如く未詳部分が多い。『世臣伝』巻八
 之上によれば、寺田貞成の子・安成は「万介 儀兵衛」と言い、
 致仕して顧身と号した。ただし、享保九年に六十九歳で没してい
 るので寛文五年には十歳位で適合しない。『事典』は「吉田氏」
 としていて、誤りと思われるが、この点も含めて再調査したい。
 『桜川』に入集。
44、安積治水子 『事典』は採録せず。諸資料で確認出来ず。『桜
 川』に入集。
45、藤村守幸 「守幸 二本松。藤村氏。「桜川」に入集。」(『
 事典』)。二本松関係の諸資料には見当たらない。『桜川』に入
 集。
46、青戸未入 「未入 二本松。青戸氏。「桜川」に入集。」(『
 事典』)。『世臣伝』巻之五に青戸慈久がいる。「青戸 市郎右
 衛門慈久ハ信濃景親が男也。寛永九年傑俊公の御家人と成て歩行
 に被成〔月俸二口米七斛〕万治三年新に処領を賜ひ〔七十石此頃
 ハ買役と申職を奉るといふ〕寛文七年二月職を許され延宝四年七
 月十六日七十歳にして死しぬ」。『桜川』に入集。
47、小松崎破衣 「破衣 二本松。小松崎氏。「桜川」に入集。」
 (『事典』)。二本松藩関係資料には見当たらない。『桜川』に
 入集。
48、佐藤萍心 「萍心 二本松。佐藤氏。「桜川」「花0」に入集。
 」(『事典』)。二本松藩関係の資料との関係は、18、佐藤幸之
 の項で記した通りで、今後調査を重ねて明らかにしたい。『桜川』
 『花0』等に入集。
49、寺田守昌 「守昌 二本松。寺田氏。「桜川」に入集」(『事
 典』)。14、寒松、43、万之助、とも関連していて、現在、確定
 出来ない。さらに調査したいと思う。『桜川』に入集。
50、松下是一 「是一 二本松。松下氏。「桜川」に入集」(『事
 典』)。『世臣伝』には見当たらない。また『二本松新規召抱帳』
 にも寛文七年の条に「松下五左衛門 右同断(百石 弥左衛門与
 力)」とあるのみ。『桜川』に入集。
51、土屋有次 『事典』は採録せず。『世臣伝』巻之二の土屋有定
 か。有定は土屋有清の三男。「甚右衛門有定家を継て〔百五十石
 〕寛永十年御用人の職に補せられ御納戸の会計の事を司り正保二
 年所領を加へられ〔百石〕其後世子〔興国公〕の御傅と成て夙夜
 御側に伺公し……承応二年四月所領を加へられ〔五十石合三百石〕
 寛文元年七月職御許を蒙り偏に年来の倦労を慰め給ふ処なり。此
 人才略の聞へ有しのみならず其心仁愛にしていみじき寛厚の人な
 り……延宝元年六月所領を嫡子有房に譲り入道して存悦と号し…
 …かくて入道年積て八十四歳元禄元年十月八日死してけり」27、
 土屋有房の父。『桜川』に入集。
52、津田正吉 「正吉 二本松。津田氏。「桜川」に入集」(『事
 典』)。『世臣伝』には見当たらない。寛永十三年の長重の「御
 支配帳」の中に「二百石 津田太郎兵衛」とあり、『二本松新規
 召抱帳』の寛永二年の条に「津田太郎兵衛 百五十石取次伊豆」
 とあり、寛永十一年の条に「津田久兵衛 四人扶持ニ十石取次数
 馬」とあり、寛文二年の条に「津田新六 十両ニ三人扶持 若狭
 守小姓」とあり、寛文六年の条に「津田権六 六両ニ弍人半扶持
 若狭守小姓」とある。また、『松藩続廃家録 単』に「八十石
 津田濃右衛門/濃右衛門が曾祖父我平内〔初弥五兵衛〕慈明公に
 仕れ〔中小姓たりといふ〕寛文六年五月新知百石賜ひ延宝三年死
 し」とある。現在、いずれの津田とも決めかねる。『桜川』に入
 集。
53、山田相知 「相知 二本松。山田氏。「桜川」に入集」(『事
 典』)。『世臣伝』には山田重明と山田仁兵衛の二名がある。巻
 之二に出る山田氏は正次を祖とする。正次・・正吉・・重明とな
 り、時代的には重明が該当する。「嫡男庄兵衛重明正保四年五月
 所領を賜ひ〔二百五十石〕御諱の字る。慶安四年十一月家を継て
 〔二千石〕執政に進み寛文五年十月地加へ賜ひ〔千石合三千石内
 六百石ハ与力知行〕同七年十月地加へ賜り〔六百石合三千六百石
 内千二百石ハ与力知行〕延宝七年四月興国公御代継せられし時将
 軍家に拝謁し奉り御太刀馬代に御時服添て献る……貞享元年二月
 請に依て職許さる去れど大議あらん時にハ登城すべし尋常の事ハ
 執政等に就て議すべしとの仰を蒙り元禄八年六月致仕し老養ふ料
 〔月俸百口〕賜り同年十一月二十九日七十六歳にて身まかりぬ」
 巻之三には山田仁兵衛がある「(山田兵太夫の)嫡男仁兵衛某父
 に継き〔百石〕万治二年八月勘定の奉行となり寛文七年十月地加
 へられ〔合百五十石〕其時侍賓の職となり天和元年九月職を免さ
 れ明る二年二月二十三日死ぬ」。このいずれが相知か即断できな
 いがさらに調査したい。『桜川』に入集。
54、貝山友志 『事典』は採録せず。二本松藩関係資料には見当た
 らない。『桜川』に入集。
55、清水直治 「直治 二本松。清水氏。「桜川」に入集」(『事
 典』)。『世臣伝』には見当たらない。寛永十三年の「御支配帳」
 の中に「百石 清水善右衛門」とあり、『二本松新規召抱帳』の
 寛永九年の条に「清水善左衛門 百石取次同(数馬)」とある。
 右と左の異同はあるが同一人であろうか。『桜川』に入集。
56、石橋虫同 「虫同 二本松。石橋氏。「桜川」に入集」(『事
 典』)。『世臣伝』巻之五に、石橋貞輝の子貞包がある。平八、
 杢左衛門、致仕して宗林と号す。「其(貞輝)子平八未いとけな
 かりしかバ所領をバ収公せられ俸米僅に賜りて養ハれ〔二十斛〕
 人となりて後杢左衛門貞包と名乗り寛文五年宿衛の士に加へられ
 延宝四年二月新に所領を賜〔百石〕元禄二年九月地加られ〔合百
 五十石〕同十五年三月郡山の令となり、其後職を許され宝永元年
 十月致仕し宗林と号し。老養領賜り年五十七歳にして同二年八月
 三日死しぬ」『桜川』の寛文十二年に二十三歳位であるので、こ
 の貞包の可能性はある。『桜川』に入集。
57、三崎如雲 「如雲 二本松。三崎氏。「桜川」に入集」(『事
 典』)。『世臣伝』には見当たらない。寛永十一年長重上洛「御
 供之侍」の中に「三崎七右衛門」があり、寛永十三年「御支配帳」
 の中に「二百三十石 三崎甚左衛門」があり、『二本松新規召抱
 帳』の万治三年の条に「三崎才右衛門 七両弍分ニ弍人扶持小姓
 後加増禅方ニ而召抱」とある。また、『松藩廃家録 坤』に「百
 五十石 三崎才右衛門/才右衛門が祖父初ハ甚左衛門と云寛永十
 二年傑公に仕ひ采地二百五十石賜ひ慶安三年七十石加恩賜りて慈
 明公の御伽衆となり髪剃りて忠岸と号す……」とある。この才右
 衛門であろうか。『桜川』に入集。
58、横山笑甫 「笑甫 二本松。横山氏。「桜川」に入集」(『事
 典』)。『世臣伝』には見当たらない。『二本松新規召抱帳』の
 寛永四年の白川召抱候分の条に「横山甚五兵衛 右同断(百五十
 石取次伊豆)」とある。『桜川』に入集。
59、鈴木友信 『事典』は採録せず。『世臣伝』巻之三に、鈴木重
 庸の子・重吉がある。丑之介、七郎兵衛、致仕して暁山と号す。
 「其(重庸)子七郎兵衛重吉実ハ西尾某〔牛右衛門越後少将上総
 介忠輝朝臣の家人なり〕が二男也。公に拝謁し寛永元年七月棚倉
 の城経営の事を奉行し同四年八月所領を賜ふ〔五十石〕此年白川
 に移らせ給ふ城郭を築かせ賜ふ時重吉等に仰て修めさせ給ふ。同
 六年九月作事の奉行となり同十二年八月所領加へられ〔五十石〕
 父死して家を継ぎ〔二百石〕同二十年会津の戍に御供し其御郡山
 の令を経て町奉行の職を奉り年老ぬれバ其子則政に所領を譲り入
 道して暁山と号し老養料賜り延宝八年三月十日死しぬ」『桜川』
 に入集。
60、丹羽捨拾 『事典』は採録せず。『世臣伝』巻之一上に、丹羽
 長年がある。系図は五郎助、五郎兵衛、致仕して了水と号す、と
 する。伝では所領六百石、元禄九年七月十七日没としている。ま
 た『世臣伝』巻之三にも、丹羽重次を祖とする丹羽家があるが、
 丹羽捨拾との関係は現在明らかに出来ない。『時勢粧』に入集。
61、野沢似言 『事典』は採録せず。二本松藩関係資料には見当た
 らない。『時勢粧』に入集。
62、毛利以由 『事典』は採録せず。『世臣伝』巻之六に、毛利末
 治がある。甚三郎、兵左衛門、致仕して永久と号す。「其子兵左
 衛門実ハ小形重次〔勘介〕が二男也。家を継て〔二百石〕後宗門
 の奉行より長柄の奉行となり、享保八年四月致仕して永久と号し
 老養料賜り同九年五月十日死しぬ」。『時勢粧』に入集。
63、河村惣広 『事典』は採録せず。『世臣伝』には見当たらない。
 『二本松新規召抱帳』の万治三年の条に「河村順庵 五人扶持十
 両肝煎酒井下総守殿5とある。『時勢粧』に入集。

 以上、寛永から寛文・延宝期にかけての、二本松の俳人について、
『福島県俳人事典』『福島県俳諧年表』を参考にして、二本松藩の
資料を中心に調査した結果を掲げた。二本松・須賀川・三春・郡山
・福島等の現地調査も行い、また内藤風虎関係・いわき史料、棚倉
関係資料等も調査したが、近世初期の二本松の俳人に関して補強す
る資料には出合う事が出来なかった。右の調査も未詳の点があり、
その俳号が実在のどの人物か断定し得ないものも少なくない。これ
らに関しては、折をみて再調査をする、ということにして、ここで
の当面の目的は、斎藤親盛・如儡子と二本松の俳諧との関係を明ら
かにする事にあるので、とりあえず右の調査結果で整理して前に進
みたい。
 まず、これら六十三名の俳人の多くは、二本松藩の丹羽家の家臣
であるという事が判明した。
 1江口塵言・2水野林元・3日野好元・4長岡道高・6斎藤友我
 ・7小沢衆下・9中井正成・10奥田方格・11斎藤如酔・19白岩人
 任・20安保一実・27土屋有房・30内藤未及・32根村吉元・40日野
 好久・51土屋有次
 これらの十六名は、丹羽家の家臣と言ってよい。また、
 8不破一興・12小川可著・14寺田寒松・21豊田政氏・24小池又笑
 ・26伴人似・28下河辺哂◆・33槙陳旧・37佐野相興・38安田未元
 ・41大崎口友・42滝川寸志・43寺田万之助・46青戸未入・48佐藤
 萍心・49寺田守昌・52津田正吉・53山田相知・55清水直治・56石
 橋虫同・57三崎如雲・59鈴木友言・60丹羽捨拾・62毛利以由・63
 河村惣広
 これらの二十五名も、ほぼ丹羽家の家臣であったと言い得ると思
われる。5斎藤親盛も長子秋盛が丹羽家の家臣である。
 22釈智蔵主・29釈随言・31釈永雲の三名はいずれも僧侶であり、
二本松は寺が非常に多い事もあり、僧侶にも俳諧を嗜む人が多かっ
たものと思われる。残る、十八名、
 13須藤之也・15今村林昌・16正秀・17金田古硯・18佐藤幸之・23
 古市正信・25秀伝・34小原幸益・35元知・36座頭城益・39◆山子
 ・44安積治水子・45藤村守幸・47小松崎破衣・50松下是一・54貝
 山友志・58横山笑甫・61野沢似言
 これらの俳人も、おそらく武士階級で、丹羽家の家臣か、それに
関連する人々であったものと推測される。やはり近世初期の二本松
の俳諧で、この期に出版された俳書に入集されたのは武士が中心で
あり、いまだ、町人の参加はなかったものと推測する事が出来る。

 七、松江重頼と二本松俳諧

 松江重頼は寛文五年維舟と改名した。この重頼と二本松の関係に
ついては、前号で、中村俊定氏の「松江重頼年譜」「松江重頼の研
究」を引用して紹介したが、重頼は晩年の六十歳頃から点者生活に
入ったとされている。中村俊定氏の研究、関根林吉氏の年表、菊池
康雄氏の解説等を参照して、この時期の重頼の活動を整理すると次
の通りである。

◎寛文二年  六十一歳
 ○「時に寛文の始つかた洛陽銅駝坊の南、御所八幡宮の東に、形
   斗なる居をしめて、誹諧の連歌を見る暇、おしまづきに向ひ
   ては、かいて見、是を推量とて、今年もいまは末の松山、そ
   こはかとなく思ひやる境はるけき国里迄も、此道満々て、神
   変の諺、或は百韵或は千句・発句合・前句付迄、誰も思ひを
   こせてしれものゝ爪印を乞給ひけるは不思議の事ぞ。」(『
   時勢粧』序)。この頃、点者生活を始めたか。
 ○正月上旬、橋本氏富長「何刀百韻」に点をなす。〔付墨 五十
  句 此内 長十五〕(『時勢粧』)。
 ○二月中旬、「何漆千句」興行(『時勢粧』)。
 ○三月十五日、橋本氏富長「何枕百韻」に点をなす。〔付墨 五
  十句 此内 長十五〕(『時勢粧』)。
 ○三月廿日、林氏宗甫「猫何百韻」に点をなす。〔付墨 五十句
  此内 長十五〕(『時勢粧』)。
 ○四月十日、土田氏重信「簾何百韻」に点をなす。〔付墨 五十
  句 此内 長十五〕(『時勢粧』)。
◎寛文三年  六十二歳
 ○三月上旬、「千句独吟」興行(『時勢粧』)。
 ○五月二十日、冷泉氏友知「何狐百韻(諷之詞)」に点をなす。
  〔付墨 五十句 此内 長十五〕(『時勢粧』)。
 ○六月十日、中井氏宗隆「何舞百韻(諷之詞)」に点をなす。
  〔付墨 五十句 此内 長十五〕(『時勢粧』)。
 ○十月十日、玖也・重安・西翁・春倫の四吟「何魚百韻」に点を
  なす。〔付墨 五十句 此内 長十五/廿五 玖也 点十三
  内長四/廿五 重安 点十一 内長三/廿五 西翁 点十五
  内長五/廿五 春倫 点十一 内長三〕(『時勢粧』)。
◎寛文四年  六十三歳
 ○三月上旬、千句興行(『時勢粧』)。
 ○三月十日、鱸氏催笑「男何百韻」に点をなす。〔付墨 五十句
  此内 長十五〕(『時勢粧』)。
 ○九月二十六日跋、『佐夜中山集』刊行。
◎寛文五年  六十四歳
 ○維舟と号を改める。「重頼事/維舟」(『歳旦帖』)。
 ○陸奥への旅。四月三日、京都出発、中山道を経て江戸着。しば
  し滞在の後、江戸を出て、日光を通り奥州道の旅をして二本松
  着。二本松にしばらく滞在して、江口塵言・水野林元・中井正
  成・斎藤友我の各屋敷で句を詠み、さらに奥へ進み、松島・仙
  台・平泉・中村を経て、内藤風虎の居る磐城に到着。ここにし
  ばらく滞在して、江戸へ向けて出発。江戸滞在の後、東海道を
  通って、十二月京都に帰着している。(『時勢粧』)。
 ○四月中旬、「何馬百韻」富長との両吟。〔五十句 維舟/五十
  句富長〕(『時勢粧』)。
 ○四月十六日、「何鶴百韻」維舟・風虎・紫塵・富長の四吟。〔
  維舟 廿六/風虎 廿六/紫塵 廿四/富長 廿四〕(『時勢
  粧』)。
 ○七月五日、江口塵言「何茶百韻」に点をなす。〔付墨 五十句
  此内 長十五〕(『時勢粧』)。
 ○七月五日、水野氏林元「何石百韻」に点をなす。〔付墨 五十
  句 此内 長十五〕(『時勢粧』)。
 ○七月十七日、「矢何百韻」維舟・林元・塵言・道高・友我の五
  吟。〔二十一 維舟/二十 林元/二十 塵言/二十 道高/
   十九 友我〕(『時勢粧』)。
 ○十月上旬、「何糸歌仙」維舟・長好・重方の三吟。〔維舟 十
  二/長好 十二/重方 十二〕(『時勢粧』)。
 ○十一月十日、斎藤氏親盛・斎藤氏友我両吟「何0百韻」に点を
  なす。〔付墨 五十句/此内 長十五/斎藤親盛 点廿四 内
  長八/斎藤友我 点廿六 内長七〕(『時勢粧』)。
 ○十一月三日、維舟編『誹諧四十番発句合』成る。左は風虎・玖
  也・宗岷・勝盛、右は維舟・紫塵・如白・武純、判定は維舟か。
 ○十一月『俳諧大坂雪千句』所収の百韻に加点及び判をなす。
◎寛文六年  六十五歳
 ○二月下旬、西村氏良庵「漢和百韻」に宇都宮由的と共に点をな
  す。〔漢付墨廿句 此内長五 宇都宮由的/和付墨廿五句 此
  内長五 松江氏維舟〕(『時勢粧』)。
 ○五月廿日、江口氏塵言「何鰹百韻」に点をなす。〔付墨 五十
  句 此内 長十五〕(『時勢粧』)。
 ○九月上旬、林宗甫「金柑百韻」に点をなす。〔付墨 五十句
  此内 長十五〕(『時勢粧』)。
 ○『歌仙ぞろへ』(元隣編)に「奥州岩城飯野八幡宮奉納」の歌
  仙入集。

 寛文七年以後は省略するが、中村俊定氏の年表に拠って見るに、
以後も点者としての活動は持続され、寛文八年には筑紫紀行を、寛
文十一年には彦根紀行を実行し、多くの俳人との交流を図っている。
 松江重頼・維舟の俳諧活動を通覧する時、六十歳の還暦を迎えた
寛文元年に一つの転機があったように思われる。それが、翌寛文二
年の点者生活への移行となって、具体的に現れたのではなかろうか。
 寛文二年に百韻に評点を加えたのは、京都や大和郡山などの人々
であった。まず、身近から始めたのであろう。寛文四年の『佐夜中
山集』では、京都、大坂、金沢、岡山に次いで、二本松は、郡山・
山田と共に、二十名という多くの俳人を入集されている。因みに、
磐城は七名と非常に少ない。重頼の両者への姿勢を伺う参考になる。
 そして、寛文五年の陸奥の旅である。この旅は、磐城平の内藤風
虎の招きによるものか、と推測されていて、これは、おそらく、そ
うであったろうと思うが、この旅の様子を、残された発句とその詞
書から推測すると、磐城よりも二本松に重きが置かれているように
思われる。詠まれた句も二本松は四句、磐城は三句である。しかも
二本松では、江口塵言・水野林元・中井正成・斎藤友我と、それぞ
れの名前を出している。後に編集された『時勢粧』によれば、この
七月五日には、江口塵言・水野林元の百韻に評点を加えており、十
七日には、維舟・林元・塵言・道高・友我と五吟の百韻を巻いてい
る。これらは、重頼が二本松に立ち寄った時のものとするのが妥当
であろう。重頼は二本松に十日間位は滞在したのではないか。前年
の『佐夜中山集』で二十名という多くの二本松俳人を入集させた重
頼は、丹羽家家臣達に総出の形で迎えられたのではなかったか。
 寛文五年の二本松の武士達は、このような状況であったと推測さ
れる。その中に、斎藤親盛は、丹羽家に仕える長子・秋盛と一家共
々いたのである。
 五年前の万治三年に、子の秋盛が丹羽家に召抱えられ、一家で江
戸から移住してきた。斎藤親盛・如儡子は『可笑記』の作者であり、
恐らく、誰からともなく伝えられ、皆に知られていたものと思われ
る。後年ではあるが、二本松藩の記録『相生集』の「文学」の項に
は筆頭に親盛が記載されている。また、親盛は『百人一首』の詳細
な注釈書も書いている。おそらく、二本松藩の武士達を相手に、折
々講釈をしていたものと思われる。この注釈書の書写本が残されて
いるが、その巻末には、「寛文二壬寅歳晩夏中旬 重賢書之」とあ
る。この書写者は二本松藩士の一人ではないかと推測している。
 このように学殖もあり、著作もある親盛が、俳諧の盛んな二本松
に来た訳である。誘われるままに俳諧に手を染めたことも、極めて
自然の成り行きと言ってよい。恐らく重頼を囲む俳席に連なり、そ
の指導も受けたものと思われる。そして、周囲の藩士達の配慮もあ
って、斎藤友我との両吟百韻も実現し、さらに重頼に点を加えても
らうという栄誉も得たのであろう。

 (注1) 『滑稽太平記』は、古典俳文学大系2『貞門俳諧集二』
    (昭和46年3月10日、集英社発行、校注者・乾裕幸氏)に
    拠る。松江重頼と野々口親重、安原正章と松江重頼、北村
    季吟と安原正章、等の確執に関して記されている。
 (注2) 渡辺憲司氏『近世大名文芸圏研究』(平成9年2月28
    日、八木書店発行)。
 (注3) 『光重年譜 三』寛文四年、四十四歳の条(『二本松
    市史』第5巻 昭和54年2月20日、二本松市発行)。
 (注4) 田中正能氏の研究は『二本松市史』第九巻(平成元年
    5月1日、二本松市発行)に拠る。以下同じ。
 (注5) 丹羽長聡氏蔵(『・・・旧二本松藩主・・・丹羽家資
    料展』二本松歴史資料館、開館5周年特別企画展、昭和58
    年11月~12月25日 に拠る。未見)。
 (注6) 『光重年譜 三』「三之附録」(『二本松市史』第5
    巻 昭和54年2月20日、二本松市発行)。
 (注7) 明治大学刑事博物館所蔵、内藤家文書、『いわき史料
    集成』第五冊等を調べたが、現在のところ、両者に関連す
    る記録を見ることは出来なかった。さらに調査を続けたい。
 (注8) 『福島県俳諧年表』関根林吉編(昭和41年3月10日、
    かんじき会発行、謄写版)。引用に当たって、下の欄外の
    注を一部省略し、「 」を『 』に改めた部分がある。
 (注9) 『福島県俳人事典』矢部榾郎編(昭和30年6月30日、
    福島県俳人事典刊行会発行)。
 (注10) 『二本松市史』第4巻(昭和55年3月31日、二本松市
    発行)。以下同じ。
 (注11) (注10)に同じ。
 (注12) 『世臣伝』(『二本松市史』第5巻、昭和54年2月20
    日、二本松市発行)。以下同じ。
 (注13) 『二本松市史』第4巻(昭和55年3月31日、二本松市
    発行)。以下同じ。
 (注14) 『二本松城下図』この図は元禄十二年(一六九九)か
    ら宝永五年(一七〇八)にかけての図と推定されている。
    (昭和55年8月10日、二本松史談会発行)
 (注15) 『松藩廃家録』『松藩続廃家録』はともに『二本松市
    史』第5巻(昭和54年2月20日、二本松市発行)。以下同
    じ。
 (注16) 『いわき史料集成』第五冊(平成4年10月30日、いわ
    き史料刊行会発行)。

 【付  記】
 斎藤親盛(如儡子)の俳諧について考察を加えてきたが、今回も
未完にせざるを得なかった。親盛の俳諧そのものの検討は次回とい
うことにしたいと思う。
 近世初期の伝記資料は、関係地域を調査すれば、資料はきっと発
見できる、というのが私の持論であるが、今回の二本松の俳人に関
しては実りがなかった。三春町歴史民俗資料館では未発表の史料リ
ストを見せて頂き、植田家文書の『世臣譜』全十三冊を閲覧させて
頂いたが、関係者を発見する事はできなかった。しかし、今回の調
査は決して十分とは言えない。今後も事情が許す限り調査は継続し
てゆきたいと思っている。
 この度の調査には、多くの関係機関と研究者から多大な御教示と
御配慮を賜った。その機関名とお名前は以下の通りである。
 二本松文化センター、福島県立歴史史料館、福島県立図書館、須
賀川市立図書館、三春町歴史民俗資料館、郡山市歴史資料館、郡山
市立図書館、明治大学刑事博物館(内藤家文書)、いわき史料集成
刊行会、棚倉町文化センター。
 田中正能氏、阿部俊夫氏、菅野俊之氏、飯田良子氏、里見庫男氏、
滝波久雄氏、片岡秀記氏、佐久間眞氏、藤井康氏、川瀬浩二氏。
 右の関係機関と関係者の皆様に対して、心から感謝申し上げます。
 今回も、俳諧関係に関して、島本昌一先生から様々な御指導を賜
りました。記して厚く御礼申し上げます。

『近世初期文芸』第17号(平成12年12月20日発行)





⑤、斎藤親盛(如儡子)の俳諧(下)
             ──晩年、二本松時代の如儡子──

                                  深沢 秋男


 斎藤親盛(如儡子)の俳諧について、これまで調査し、分析した結果は、本誌第十六号(平成11年12月)・第十七号(平成12年12月)で報告した。

  一、はじめに(研究史)

  二、斎藤親盛の俳諧作品

  三、斎藤親盛と二本松の俳諧

  四、斎藤親盛と松江重頼     (以上、十六号)

  五、近世初期の陸奥の俳諧状況

  六、二本松の俳人

  七、松江重頼と二本松      (以上、十七号)

 田中伸氏、野間光辰氏、中村俊定氏、今栄蔵氏、加藤定彦氏、関根林吉氏、田中正能氏、菊池康雄氏等の御研究に助けられながら、斎藤親盛の俳諧作品数を推定し、近世初期の俳諧状況を整理推測した。さらに、陸奥及び二本松の俳諧状況と松江重頼・内藤風虎との関連についても調査考察を加えた。以上の結果、近世初期の俳諧において、陸奥の中では、磐城と二本松の活動が最も活発であった事が分かった。

 磐城については、藩主・内藤風虎が貞門俳人である事と関連している訳であるが、二本松については、当時の藩主・丹羽光重が文武の道に通じていた人物であった事と関連しているものと推測され、丹羽光重は臣下にも文道武芸を奨励する大名であったと思われる。従って、二本松の俳人の多くは、二本松藩に仕える家臣、及びそれと関連する人々であったという事もほぼ明らかになった。

 一方、松江重頼は、寛文元年、還暦を迎えた頃から点者生活に移行したものと推測され、寛文五年には、江戸を経て陸奥を巡る旅に出ている。以前から関係の深かった二本松には十日間ほど滞在していたものと推測される。江口塵言・水野林元・中井正成・斎藤友我等々の丹羽家家臣の俳人たちは、この時、重頼から直々の指導を受けたのであろう。

 斎藤親盛は、子の秋盛が丹羽家に召し抱えられたため、一家ともども江戸から二本松へ引っ越して来たが、それは万治三年のことである。寛文五年、重頼が二本松を訪れた時、既に五年が経過していた。このような状況の中で、親盛は重頼にめぐり会ったのである。


 以上の発表経過を踏まえて、本稿では、具体的に、如儡子・斎藤親盛の俳諧作品を検討してみたいと思う。


  八、斎藤親盛の俳諧作品の吟味

 斎藤親盛の発句・百韻を収録した俳諧撰集は次の七点である。

  一、『佐夜中山集』 松江重頼  寛文4年 2句 62歳

  二、『夜の錦』   内藤風虎  寛文6年 7句 64歳

  三、『桜川』    内藤風虎  寛文12年 40句 70歳

  四、『時勢粧』   松江維舟  寛文12年 5句 70歳

  五、『時勢粧小鏡』 松江維舟  寛文12年 1句 70歳

  六、『糸屑集』   宗善庵重安 延宝3年 1句 没後

  七、『続連珠』   北村季吟  延宝4年 1句 没後

 松江維舟撰の『時勢粧』には、斎藤友我との両吟百韻も収録されている。この一覧でもわかる通り、内藤風虎撰の『桜川』には、四十句と多く収録されており、幸いなことに、この撰集には入集句の右肩に小字で到着年月が記されている。これを利用して、斎藤親盛の発句を年代順に整理して掲げると次の如くである。


  斎藤親盛の発句


『佐夜中山集』 寛文4年(一六六四)六二歳  2句

1  花の兄やこれも接木のたいかはり    巻一追加春

2  田舎にて花の都や和哥の友       巻一追加春



『夜の錦』   寛文6年(一六六六)六四歳  7句

3  万代をかけて祝ふやおめて鯛      巻一春一

4  あけぬるや雲のいつこにいかのほり   巻三春三

5  夏引の手挽にするは麦粉かな      巻八夏二

6  虚空より鉄花をふらす花火哉      巻十一秋二

7  塩くみやふりさけ見れは桶の月     巻十二秋三

8  金柑やけに色にそみ皮にめて      巻十三秋四

9  風ふけはをきつしらかに綿帽子     巻十四冬一



『桜川』    寛文12年(一六七二)七〇歳  40句

10    海苔        寛文五年巳十二月中旬

   秋もあれと松の海辺菊池のり      春二

11    破魔弓       寛文六年午正月上旬

   はま弓やひかりさしそふいはひ月    春一

12    青蒜        寛文六年午五月上旬

   けかれぬや蒜慈悲の高野山       春二

13    花火        寛文六年午五月下旬

   鼠火は尻に立つゝ大路かな       秋一

14    覆盆子       寛文六年午七月中旬

   いちこもやまいたるつるはいはら垣   夏一

15    鴫         寛文六年午九月下旬

   鴫は鴨の羽ねかきまかふ文字哉     秋二

16    菽         寛文六年午十月上旬

   是は畑のつくりもの也碁いしまめ    秋二

17    粟田口祭      寛文六年午十月上旬

   祭見やいそしの栄花あはた口      秋二

18    追鳥狩       寛文六年午十月中旬

   追鳥やせこにもれたる草かくれ     冬二

19    胼         寛文六年午十一月上旬

   ひゝきらす神や手なつちあしなつち   冬二

20    氷         寛文六年午十二月中旬

   つく餅や手水のこりて薄氷       冬一

21    節季候       寛文七年未正月中旬

   今日斗あすはかすみの節季候      冬二

22    鶏合        寛文七年未三月下旬

   わらはへもあしたをまつやとり合せ   春二

23    二月堂行      寛文七年未四月上旬

   札押やみな身の祈祷二月堂       春一

24    卯杖        寛文七年未七月上旬

   いはふとて朝に杖つく卯の日哉     春一

25    鬼灯        寛文七年未八月上旬

   口紅粉のあけをうはふやめはうつき   秋一

26    常陸帯祭      寛文七年未八月中旬

   笠鉾やかけ奉るひたち帯        春一

27    鳥巣        寛文七年未八月中旬

   栢の木に巣こもりやする碁石鳥     春一

28    神楽        寛文七年未九月上旬

   笛太鼓おもしろひそよ小夜かくら    冬二

29    春礼        寛文七年未十二月下旬

   松の戸やたえくならぬ春の礼     春一

30    散紅葉       寛文八年申正月上旬

   かけはこそ菩提樹となれ木葉経     冬一

31    灌仏        寛文八年申正月中旬

   あかなくにまたき生湯や如来肌     夏一

32    帷子        寛文八年申正月下旬

   三春迄着るや岩城のちゝみ布      夏二

33    雪         寛文八年申正月下旬

   降雪やこしのしら山馬のくら      冬一

34    節分        寛文八年申三月上旬

   海やあるまくらのしたにたから船    冬二

35    紙子        寛文八年申五月上旬

   渋柿もしゆくしにけりな色紙子     冬二

36    雑夏        寛文九年酉三月上旬

   一瓢も千金なれや水あそひ       夏二

37    雪         寛文九年酉三月上旬

   出雲にや雪垣つくる軒の妻       冬一

38    帰花        寛文九年酉閏十月下旬

   二季まてみきとこたへん帰花      冬一

39    防風        寛文十年戌八月下旬

   うとの朱うはふ防風や膾のこ      春二

40    元日        寛文十一年亥二月上旬

   お流れや二つ瓶子に三つの春      春一

41    扇 付 団     寛文十一年亥七月上旬

   扇あれはいつも夏かと御影堂      夏二

42    蛙         寛文十一年亥九月下旬

   をく露や顔にちほくいもかへる    春一

43    鮨         寛文十一年亥九月下旬

   宇治丸のなれ押そおもふ桶のすし    夏一

44    菫         寛文十一年亥十月上旬

   武さし野は本むらさきの菫かな     春二

45    鵜飼        寛文十一年亥十月上旬

   月の夜はうをのたなゝし鵜舟哉     夏一

46    雲岑        寛文十一年亥十月上旬

   山復山みねより出てや雲の岑      夏二

47    紅葉        寛文十一年亥十月上旬

   手折てやまた見ぬ人にこい紅葉     秋二

48    霜         寛文十一年亥十月上旬

   菅笠や憂世の民のしもおほひ      冬一

49    炉開        (到着年月未詳)

   炭櫃もや一家ひらけて四方の冬     冬一



『時勢粧』   寛文12年(一六七二)七〇歳  5句

50    蓮

   はすを御池糸もかしこし花の色     第一・夏部

51    鹿

   よきてふけ萩のあたりを鹿の笛     第一・秋部

52    霜

   霜八たび置てや鐘の七つ六つ      第一・冬部

53    炉

   老人や子に伏寅に置火燵        第二・冬部

54    鷹

   鷹や又生るを放つぬくめ鳥       第二・冬部



『時勢粧小鏡』 寛文12年(一六七二)七〇歳  1句

55    祓

   猶おかし水無月祓虫払         夏部



『糸屑集』   延宝3年(一六七五)没後一年 1句

56    穂蓼

   味はひもから紅の穂蓼哉        巻三・秋部



『続連珠』   延宝4年(一六七六)没後二年 1句

57    弓始

   はや乙矢順のこふしや弓始       巻十一・

                         春発句上

 〔参考〕

   五月雨は船ながしたる酒屋哉      境海草・夏



 右の入集状況を年代順に整理すると、次の如くである。

  寛文4年……2句   寛文10年……1句

  寛文5年……1句   寛文11年……9句

  寛文6年……17句   寛文12年……6句(両吟百韻)

  寛文7年……9句   延宝3年……1句

  寛文8年……6句   延宝4年……1句

  寛文9年……3句

 松江重頼は、寛文四年『佐夜中山集』の巻一追加・春部で、初めて親盛の発句二句を採録している。この『佐夜中山集』には二本松の俳人では、水野林元=二四句、江口塵言=二〇句等をはじめ、二十名が入集している。おそらく、親盛の発句は、林元、塵言等の配慮で重頼宛に送られ、追加されたものと思われる。

  1  花の兄やこれも接木のたいかはり  

 春になって先ず咲き出す梅の花だが、この木も接ぎ木で代替りをした。「それ大方の春の花、木々の盛は多けれども、花の中にも初めなれば、梅花を花の兄ともいへり。」(謡曲『難波』)「梅→異名花の兄」「代替→接木」(『類船集』、以下、付合等が『類船集』に拠る場合は表記しない。)(注1)等を踏まえたものと思われる。紅梅白梅を一株に咲かせている早春の景ともとれるが、「もとしる人なりし庵室も、程へて立ちよれば、見しらぬ沙門のすめり。ふるかりし家とおぼへて尋ぬれば、あたらしくなりてけり。」(『類船集』「代替」の項)ともあり、『桜川』には「花の兄はかゝに梅田の里子かな 高瀬昌勝(寛文五年五月)」の句もあるので、あるいは、当時の諸大名をはじめ、武家も町人も含めて、養子縁組で家系を維持していた世相も、背後には含めているかも知れない。

  2  田舎にて花の都や和哥の友     

 江戸を離れて二本松という田舎に来たが、ここは、華やかな都のように文化も活発で歌の友にもめぐり会えたことだ。

 親盛は、二十歳頃までは山形の酒田で、川北三奉行の一人・斎藤筑後守盛広の子として成長した。元服の時には、主君・最上家親から「家」の一字を賜り、清三郎を改め「親盛」を称した。しかし、元和八年(一六二二)、最上義俊は山形五十七万石から近江大森藩一万石へ転封となり、盛広・親盛父子は最上家を辞す。以後、妻子を抱えて三十余年間浪々の生活を続けた。万治三年(一六六〇)幸い、子の秋盛が二本松の丹羽家に召し抱えられ、一家共々引っ越して来た。田舎ではあるが、同じ北国の雪も降る土地柄である。しかも、ここは藩全体が和歌や俳諧の盛んな文化の香り高い所である。この一句には、六十歳になろうとする晩年の親盛の平穏な生活振りが窺える。


 『夜の錦』は内藤風虎の撰で、その成立は、『桜川』の跋に「桜川の集は、過つる寛文六のとし、夜錦をあつめ終りにし比……」とあるところから、寛文六年頃の成立と推測されている。原本は現在伝存未詳である。ただし、桑折宗臣編の『詞林金玉集』(延宝七年序)にその一部が抄出されて伝えられている。『詞林金玉集』に伝える『夜の錦』の句数は一〇五一句、この内、二本松の俳人は、塵言=二六、林元=二四、好元=二一、道高=一九、親盛=一一等、二九名である。この時点で親盛は五番目に多く入集している。『佐夜中山集』『時勢粧』との重複を除けば七句となるが、塵言・林元等と共に句作に精を出していたものと推測される。

  3  万代をかけて祝ふやおめて鯛    

  4  あけぬるや雲のいつこにいかのほり 

  5  夏引の手挽にするは麦粉かな    

  6  虚空より鉄花をふらす花火哉    

  7  塩くみやふりさけ見れは桶の月   

  8  金柑やけに色にそみ皮にめて    

  9  風ふけはをきつしらかに綿帽子   

 いずれも、素直で分かりやすい句である。「いかのぼり」は、孫の揚げている場面であろうか。「夏引の」は夏蚕の糸を手挽きの麦にとりなした。「塩くみや」「風ふけは」は共に海辺の情景で、日本海に面した酒田で青春を過ごした親盛にとっては、その懐旧の情をもこめたものであろうか。


 『桜川』も内藤風虎の撰である。「寛文十二年正月三日洛下季吟書」という北村季吟の序を付し、松山玖也の跋に「于時延宝二甲寅年五月仲旬」とあるので、成立は、寛文十二年から二年後の延宝二年である。この延宝二年三月八日、斎藤以伝・親盛は七十歳位で没している。この『桜川』について加藤定彦氏は、次の如く述べておられる。(注2)

 「風虎は、寛文六年に処女撰集『夜の錦』が成った後も、第二撰

  集編纂に向けて、維舟・季吟・宗因・玖也ら三都有力俳人と絶

  えず連絡をとり、広く諸家の新詠句を蒐集させていた。……重

  頼から相当まとまった形で諸家の新詠句が送られていたことが

  判明する。

  ……跋によると、風虎のもとに寄せられた句は一万を突破し、

  これを一々既刊の撰集や句合・草双紙等百二十七部と比較照合

  し、「等類・同意などは更にもいはず、少々面かげの似かよひ

  たる」句を除き、七千三十六句を撰んだ。右肩に到着年時を添

  書きしたのは、蒐集の間に刊行された他の俳諧撰集に入る句と

  「等類・同意」の関係があった場合、どちらが先行作か分かる

  ようにとの配慮からである。」

 『桜川』に入集する地域別の俳人の数は、武蔵国江戸住=一三二、山城国京住=一〇八、摂津国大坂住=八五、陸奥岩城住=七二、陸奥二本松住=四五、の順となっており、二本松は五番目で四五名が収録されている。二本松の中では、林元=二〇一、好元=一八二、衆下=一一八、塵言=一〇八、未及=八〇、正成=七〇、如酔=六六、之也=五一、哂■(草冠に有)=四三、親盛=四〇、となっている。

 加藤定彦氏が述べられるように、寛文六年の『夜の錦』以後、十二年までの六年間の収録であった。風虎の所へは二本松の林元・塵言らから纏めて届いていたものと推測されるし、あるいは、二本松と深く係わっていた重頼を通して送られた可能性もある。いずれにしても、この時期の、二本松の俳人たちの俳諧活動は非常に活発であったことが分かるし、その環境の中で親盛も四十句という多くの発句を残すことが出来たものと思われる。


   10    海苔        寛文五年巳十二月中旬

     秋もあれと松の海辺菊池のり    

   11    破魔弓       寛文六年午正月上旬

     はま弓やひかりさしそふいはひ月  

   12    青蒜        寛文六年午五月上旬

     けかれぬや蒜慈悲の高野山     

   13    花火        寛文六年午五月下旬

     鼠火は尻に立つゝ大路かな     

   14    覆盆子       寛文六年午七月中旬

     いちこもやまいたるつるはいはら垣 

   15    鴫         寛文六年午九月下旬

     鴫は鴨の羽ねかきまかふ文字哉   

   16    菽         寛文六年午十月上旬

     是は畑のつくりもの也碁いしまめ  

   17    粟田口祭      寛文六年午十月上旬

     祭見やいそしの栄花あはた口    

   18    追鳥狩       寛文六年午十月中旬

     追鳥やせこにもれたる草かくれ   

   19    胼         寛文六年午十一月上旬

     ひゝきらす神や手なつちあしなつち 

   20    氷         寛文六年午十二月中旬

     つく餅や手水のこりて薄氷     

 寛文五年は一句と少ないが、六年は十句である。『夜の錦』の所収句もそうであったが、ここに収められた句も、身辺を取り上げた平易な句が多い。

 「はま弓や」「鼠火は」など、孫を祝し、孫と遊んだ折のものであろうか。孫の富盛は寛文十年、継は寛文八年のそれぞれ出生と推測しているが、弟・又右衛門にも子は居たものと思われ、寛文六年の頃、親盛の家庭は、そんな平和な雰囲気に包まれていたのではないか。「いちこもや」「是は畑の」「つく餅や」も四季折々の生活の一面を詠んだものであろう。年末の餅つきの後、使い残した桶の水に薄っすら氷が張っている。雪国の厳しい寒さの中にも平穏なひと時がよくとらえている。

 「けかれぬや」高野山の僧侶は蒜を食して慈悲を施すというが、匂いのけがれは無いのだろうか。「高野→蒜、六十の恋、かふろの宿、物ぐるひ」「蒜→慈悲……蒜をふくすれは婬おこるとて道家にいむわさと」「高野六十 那智八十」(『毛吹草』誹諧恋之詞)。(注3)忍辱慈悲を蒜慈悲にとりなし、高野山や那智山は男色が盛んで六十、八十歳になっても、その相手を勤めさせられる者がいるという諺を踏まえた一句。親盛(如儡子)は、この頃すでに仏門に帰依していたものと思われるが、『可笑記』執筆当時と同様仏道修行から逸脱した売僧坊主には厳しい批判の目を持っていたものとようである。この句には、若い頃の作者の一面を彷彿とさせるものがある。

 「祭見や」京都の有名な粟田口祭をちょっとした夢の中で見たことだ。「粟田口→山城 天王 祭は九月十五日也」「五十→栄花の夢」「栄花→一炊の夢」「輿→一炊の夢」。五十路の栄華、一炊の夢、盧生の夢等で伝えられた中国の故事。盧生という若者が旅先で道士呂翁に出会い、不思議な枕を借りて眠ると、五十年間の栄華の人生を送った夢を見た。夢から覚めてみると、黄粱がまだ炊きあがっていなかった、という故事。これらを踏まえたもの。「ひゝきらす」寒さのために手や足にヒビを切らしているのは水田を耕したり、娘を手撫で足撫でして可愛がる神であろうか。『古事記』等に伝えられている脚摩乳・手摩乳の神の神話を取り入れたもの。「胼 胝→血」、ヒビは、冬、寒冷のために手足に出る湿疹である。手足にヒビを切らしている母などを見て、これも自分の娘のために働いている故かと、脚摩乳・手摩乳の神にたとえて、その感懐を述べた。


   21    節季候       寛文七年未正月中旬

     今日斗あすはかすみの節季候    

   22    鶏合        寛文七年未三月下旬

     わらはへもあしたをまつやとり合せ 

   23    二月堂行      寛文七年未四月上旬

     札押やみな身の祈祷二月堂     

   24    卯杖        寛文七年未七月上旬

     いはふとて朝に杖つく卯の日哉   

   25    鬼灯        寛文七年未八月上旬

     口紅粉のあけをうはふやめはうつき 

   26    常陸帯祭      寛文七年未八月中旬

     笠鉾やかけ奉るひたち帯      

   27    鳥巣        寛文七年未八月中旬

     栢の木に巣こもりやする碁石鳥   

   28    神楽        寛文七年未九月上旬

     笛太鼓おもしろひそよ小夜かくら  

   29    春礼        寛文七年未十二月下旬

     松の戸やたえくならぬ春の礼   

 「今日斗」めでたいめでたいと囃したてている節季候も明日は霞のように消えていなくなるだろう。「師走→節季候」、年末のあわただしさに便乗した門付けの様子をうまく詠み込んでいる。「節季候の来れば風雅も師走哉」(風羅坊)。「わらはへも」子供たちも明日の三日の鶏合せを楽しみに待っているのであろうか。「鶏合→桃の節供。上の町と下の町の子共の立合はさる事也。唐帝は鶏に甲冑をしてたゝかはせしとかや」。「押札や」東大寺の二月堂でお札を押してもらってお祈りするのは、皆自分の願いごとである。「二月堂行」とある。親盛は奈良へ行ったのであろうか。「口紅粉の」小ぶりのほおずきは口紅の朱色よりも目をひく濃い赤色である。「紅粉→鬼灯」。小さなほおずきの濃い赤色を口紅と対比させて強調している。「笠鉾や」鹿島神宮の常陸帯祭では、笠鉾に、それぞれ帯を捧げて願いが叶うように祈ることだ。「常陸帯→夫婦、縁をむすぶ」「帯→鹿嶋祭、はらみ女、笠鉾」。「常陸帯のまつりの輿やいくめくり 破扇子」(『桜川』)。「笛太鼓」夜神楽の笛太鼓の響きはたいへん趣があって楽しいものだ。「こや佐保姫の小夜神楽、時の鼓も数々に(謡曲『佐保山』)。「松の戸や」門松の新年は挨拶の客が絶えないことだ。「礼→年頭、主の前、朔日十五日廿八日は礼日也」。この句は『新古今集』巻頭三首目の式子内親王の「山ふかみ春ともしらぬ松の戸に絶々かゝる雪の玉水」と関連しているように思う。「松の戸」を、松の木で造った板戸→門松の飾ってある門、に、「絶々かゝる」→「たえくならぬ」と、それぞれとりなして、新年の挨拶まわりの句に置き換えたのではないか。親盛のこの頃の幸せな正月の様子が窺えるようである。寛文七年の句の多くは伝統的な行事等を詠み込んでいる。


   30    散紅葉       寛文八年申正月上旬

     かけはこそ菩提樹となれ木葉経   

   31    灌仏        寛文八年申正月中旬

     あかなくにまたき生湯や如来肌   

   32    帷子        寛文八年申正月下旬

     三春迄着るや岩城のちゝみ布    

   33    雪         寛文八年申正月下旬

     降雪やこしのしら山馬のくら    

   34    節分        寛文八年申三月上旬

     海やあるまくらのしたにたから船  

   35    紙子        寛文八年申五月上旬

     渋柿もしゆくしにけりな色紙子   

 「三春まて」「岩城宇尓、縮布」(『毛吹草』)。岩城名産のちぢみ布は、三春の人々まで着ていることだ。如儡子は『梅花軒随筆』の著者・三休子ゆかりの地・三春に出かけた事があったのであろう。「降雪や」「越白根→ふりつむ雪」。雪の山並みを「馬のくら」としているところに、小さい頃から雪国に育って眺め暮らしていた如儡子らしい表現が窺える。「海やある」「渋柿も」いずれも、分かりやすい素直な句である。

 「かけはこそ」落ち葉にお経を書いたからこそ、仏の木と言われる菩提樹になるのであろう。「菩提樹←珠数」「木葉→経」「経→木の葉」。「あかなくに」まだ灌仏会ではないのに、早くも、お湯をかけた肉付きのよい肌は、ほんのりと暖かみが感じられる。「閼伽→風呂」「黄金の肌とは仏菩薩也。又は如来肌といふあり。」(「肌」の項)。「灌仏」としながらも灌仏会そのものではなく、四月八日に近い頃の入浴の様にとりなしている。いかにも如儡子らしい遊び心といえるのではないか。


   36    雑夏        寛文九年酉三月上旬

     一瓢も千金なれや水あそひ     

   37    雪         寛文九年酉三月上旬

     出雲にや雪垣つくる軒の妻     

   38    帰花        寛文九年酉閏十月下旬

     二季まてみきとこたへん帰花    

   39    防風        寛文十年戌八月下旬

     うとの朱うはふ防風や膾のこ    

 「一瓢も」一つの瓢箪のようにぷかぷかと川で遊ぶのも大変趣のあるものだ。「たゝ、うき世の波にたゝよふ、一瓢のうきにういたる心にまかせ」という『可笑記』の序を思い起こさせるような一句である。「瓢箪→酒、水游」。反面、一瓢はわずかな酒、水には酒の意もあり、水遊びは遊女と遊ぶ意もあるので、わずかな酒でも遊女と遊ぶ時は大変有り難いものだ、という意味も込められているかも知れない。如儡子は、やはり酒が好きであったようである。「二季まて」かえり咲きした花を見ると二つの季節に見たと答えてしまう。「十月→かへり花」(『毛吹草』)。自然の不思議な恩恵を詠んでいる。『桜川』の「帰花」の項には多くの句が収録されているが、「うはさくら額のなみやかへりはな」「わすれすよまたかはらすよかへり花」「老てみな気もわらへにやかへりはな」等の句もある。帰花には、一度身請けされた女が再び遊女としてつとめに出るという意味もある。親盛の句にもそんな意味も重ね合わせられているのであろうか。

 寛文九年は三句、十年は一句、これはどうしたことか。前後の年に比較して、この両年は余りに少ない。老齢の身の親盛である。あるいは体調の不良の故であったかも知れない。『桜川』の到着年月の記録から、作者の晩年の健康状況を推測する手掛かりが得られたようで有り難い。


   40    元日        寛文十一年亥二月上旬

     お流れや二つ瓶子に三つの春    

   41    扇 付 団     寛文十一年亥七月上旬

     扇あれはいつも夏かと御影堂    

   42    蛙         寛文十一年亥九月下旬

     をく露や顔にちほくいもかへる  

   43    鮨         寛文十一年亥九月下旬

     宇治丸のなれ押そおもふ桶のすし  

   44    菫         寛文十一年亥十月上旬

     武さし野は本むらさきの菫かな   

   45    鵜飼        寛文十一年亥十月上旬

     月の夜はうをのたなゝし鵜舟哉   

   46    雲岑        寛文十一年亥十月上旬

     山復山みねより出てや雲の岑    

   47    紅葉        寛文十一年亥十月上旬

     手折てやまた見ぬ人にこい紅葉   

   48    霜         寛文十一年亥十月上旬

     菅笠や憂世の民のしもおほひ    

   49    炉開        (到着年月未詳)

     炭櫃もや一家ひらけて四方の冬   

 「お流れや」正月の祝い酒を二つ三つと重ねて頂くことであるよ。「扇あれは」京の新善光寺の御影堂は、いつも扇があるので夏かと思ってしまう。親盛は京都へ行ったのであろうか。「をく露や」露を置く葉の上に、体にボツボツがある蛙がとまっている。「ちほく」の表現が新鮮である。「宇治丸の」桶に並べられた鰻の鮨をみて、すし押しの味加減を想像することだ。「武さし野は」武蔵野の菫は本当の紫のように美しい。「紫のひともと故に武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」(『古今集』雑上)等を踏まえて、武蔵野の美しい紫の菫を詠んだ。「月の夜は」月の夜には魚の店ではなく、鵜舟の灯がかがやくことだ。「鵜舟←灯、篝火、夜遊」「月夜→挑灯」。「おもしろうてやかてかなしき鵜舟哉」(『曠野』)。「山復山」山が重なって連なっているが、その上に高々と雲の岑がかかっている。「手折てや」色を深めた紅葉の小枝を折り取るのは、まだ見に来ていない人のためだろうか。「折→花の枝」。「菅笠や」冬になり霜も降りるようになると菅笠は一般庶民の霜を覆うことだろう。「浮世→身すぎ、秋風」。親盛の庶民への姿勢が窺える。浮世ではなく憂世としている点も注意したい。「炭櫃や」四方八方、全体が冬に包まれ、炭箱も開けられ、炉を囲んで一家も集うことだ。厳冬の酒田に育った如儡子には実感のこもるものであったと思われる。以上、寛文十一年の句は、いずれもやさしい、分かりやすいもので、晩年の平穏な親盛の生活振りが現れているように思われる。


 寛文十二年の松江維舟の『時勢粧』には五句、同『時勢粧小鏡』には一句が入集している。

   50    蓮

     はすを御池糸もかしこし花の色   

   51    鹿

     よきてふけ萩のあたりを鹿の笛   

   52    霜

     霜八たび置てや鐘の七つ六つ    

   53    炉

     老人や子に伏寅に置火燵      

   54    鷹

     鷹や又生るを放つぬくめ鳥     

   55    祓

     猶おかし水無月祓虫払       

 「よきてふけ」鹿を誘い出す笛は、鹿のよく集まる萩の辺は避けて吹いて欲しいものだ。「鹿→花野、萩原」。親盛は『桜川』でも「追鳥狩/追鳥やせこにもれたる草かくれ」と詠んでいる。動物や鳥に対して思いやる心が窺える。「霜八たび」何度も霜が降りて、夜響く鐘にも寒さが感じられる。「霜→鐘の音」「寒→霜夜の鐘」。昔、中国の豊山の鐘が、霜の降る夜には自然に鳴ったという故事をふまえたもの。「をのつから鐘つき堂や霜柱 弘永」「釣鐘の声もふらする霜夜哉 正章」(『毛吹草』)。「老人や」老人は、寝たり伏したり、炬燵にあたることが多い。「老→ね覚、引籠る宿、埋火のもと」。子丑寅と年を重ねて老人になってゆく、詞あそび的な面もあるか。「鷹や又」鷹は、冬の夜の寒さを凌いだぬくめ鳥を生きたまま放つことだろう。冬の夜、鷹は小鳥を捉えて、自分の足を暖める。翌朝その小鳥を生きたまま放してやり、その日は小鳥の去った方角へは行かない、という鷹の習性を詠んだ。「暖鳥/上は下に助けられてやぬくめ鳥 日野好元」「暖鳥/鷹は鬼横道はなしぬくめ鳥 小池又笑」(『時勢粧』)。「猶おかし」やはり、六月の夏越の祓いや虫干の行事は、一年の中間で、趣があるものだ。「払→水無月、虫」「水無月→御祓」「土用→虫払」。この句は『時勢粧小鏡』百句の内のもの。巻末には「今やう姿の小鏡百句は、詩・歌・文章・うたひ・世話、それぐの面影を移し顕はし侍る。道にたらむ人ぐのよすが共、笑草共。/寛文十二年三月上旬/松江維舟(花押)」とある。『徒然草』十九段の「六月の比、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるもあはれなり。六月祓またをかし。」をとりなしたものであろう。『時勢粧』『時勢粧小鏡』に収録された六句は、親盛の古典的な知識が活かされた句が多い。


 『糸屑集』   延宝3年(一六七五)没後一年

   56    穂蓼

     味はひもから紅の穂蓼哉      

 『続連珠』   延宝4年(一六七六)没後二年

   57    弓始

     はや乙矢順のこふしや弓始     

 「味はひも」味は辛く唐紅の色をしている蓼の穂であるよ。「穂→蓼」「唐→くれなゐ、蓼」。「草の戸をしれや穂蓼に唐がらし芭蕉」。「はや乙矢」握りしめた二本の矢を、兄矢乙矢と順に射る弓始であることだ。武士の正月の儀式をまとめた。これが親盛の最後の句である。生涯、武士としての誇りを持ち続けた如儡子に相応しい一句である。


 以上、親盛の発句を概観したが、そこには、六十歳を前にして、江戸から二本松に移住してきた作者の平穏な生活が伝えられているように思われる。二本松に移り住んでから始めたと思われる俳諧は貞門俳諧らしく、特に深みのあるものではないが、素直で解りやすい句が多い。二本松の俳人、江口塵言・水野林元・日野好元・斎藤友我・小沢衆下等々の手ほどきも受けて俳諧の道を楽しんでいたようである。これら丹羽家家臣等の計らいで、貞門俳諧の代表的な指導者、松江重頼・維舟にも会うことが出来、指導を受けたものと推測される。『桜川』の記録から、寛文九年、十年はどうも健康が思わしくなかった事も推測される。これらの事が、各撰集に収録された発句から分かった事は有り難い事である。


  親盛・友我両吟百韻(松江維舟批点)

 松江維舟は、寛文五年四月三日、陸奥の旅に出る。江戸を経て、陸奥へ入るが、二本松には七月の頃十日間程滞在して、林元・塵言・道高・友我らと百韻を作っている。おそらく、この時、親盛と友我の両吟も批評を依頼したものと思われる。維舟は、その年の十一月十日、親盛・友我の「何■(金偏に穫の右)百韻」に加点している。


  寛文五年霜月十日       【注】□=長点  ◇=点

   何 ■(金偏に穫の右)

1 □出立は足もとよりぞ鷹の鳥         親盛

2  ◇是は夜の間か雪の道筋          友我

3 □遠山も花咲たりと聞付て           々

4   永くし日もあかぬ野心          盛

5 ◇ひたぶるに猫は妻をし呼廻          々

6   やねも戸びらも春めきにけり        我

7  朧げの月を見晴す庭の景           々

8   酒のむしろにしくは御ざらぬ        盛

9 ◇鼻歌のふし立中も和ぎて           我

10   あるまひ物よ恋の関もり          盛

11  我罪はよもや色には伊豆箱根         我

12  □多くはとらぬひとふたみかん        盛

13 ◇花車にもる膾も栗もいさぎよし        我

14  ◇月になる迄数奇の伴ひ           盛

15 ◇蹴鞠は幾日もあらじ秋の暮          我

16   そぼく雨はふるかふらぬか        盛

17 ◇乗物の簾はあけようつとうし         我

18   野がけあそびは遠がけの道         盛

19  世をうしとしらぬ人々たはぶれて       我

20   此方ばかり岩のかくれ家          盛

21 ◇鬼有といふは真か大江山           我

22   分て生野に女ちらめく           盛

23 □若草をやくたいもなき物思          我

24   えんをも結ぶ春の夜の夢          盛

25 ◇佐保姫もしろしめされん文のうち       我

26  ◇いざやとくく居て朝鷹          盛

27  寒空を忘な樽の底ごゝろ           我

28   北国道はいまおもひたつ          盛

29  我君のあたかの事はいかゞせん        我

30   只ならぬ身となるやお手かけ        盛

31  とはぬ夜は秋もたんぽを肌にそへ       我

32  ◇露涙にぞ寝巻ひぢぬる           盛

33  恋病に月の形を見まくほし          我

34   大宮人はとかくやさがた          盛

35 □けやけきも臥猪の床と云なして        我

36   むさくさ茂る木陰山陰           盛

37 ◇住捨て一両年を古屋敷            我

38   我身ばかりは泣のなみだよ         盛

39 ◇心なき影法師さへ面やせて          我

40  □鴫立沢の水は道ばた            盛

41  秋風にはや汗入て岑の月           我

42  □かけ出にけり野にも山伏          盛

43 ◇狼をとらんとするも穴賢           我

44   狐を見ればどれも顔白           盛

45  朝清め雪かきのくる墓原に          我

46   此春ばかり仏とふらん           盛

47 ◇老が目は霞て三輪の山遠み          我

48  ◇日もあたゝかな有馬の出湯         盛

49 ◇花の陰小篠のさゝの酔機嫌          我

50  ◇鶯袖もひいつひかれつ           盛

51 ◇三線のいとゞ心もうかれ女に         々

52   うそ恥かしの我が口笛           我

53 ◇飛蜂を払へどくまのあたり         盛

54   みなみの日請しづかなる山         我

55  若の浦吹上浜は扨もく           盛

56  ◇波ではないかや菊の花           我

57 ◇紅葉さへうかべる月の舟遊び         盛

58  ◇露を悲しぶ一首の詠歌           我

59  急雨の雨もはらく霧も立          盛

60   涙こゝろは只しほくと          我

61 □しばらくは別の顔をまもり合         盛

62  □夜討を思ふ続松の影            我

63 ◇弓も矢も堀川筋を前に向           盛

64  □安山子も作る里の新田           我

65  さし柳苦竹の葉も散交り           盛

66   月までをどる雀色時            我

67  宮めぐりめぐりくて下向して        盛

68  ◇なふ思ひだす御幸の車           我

69 ◇とつと其昔も今も小塩山           盛

70   けぶりくらべや松陰の茶屋         我

71  莨■(草冠に宕)にも名残は尽ぬ習にて          盛

72   別し方はあちと見かへる          我

73  横雲の空泣又は恨なき            盛

74   つれなき様は郭公かの           我

75  金衣鳥銀薄付しゑりもがな          盛

76   まづく祝へ若ゑびす殿          我

77 ◇書初の紙は中にも花ぐし          盛

78  ◇掟を触る御入部の春            我

79 ◇上下もさゞめきわたる勝軍          盛

80   あれかは竹の螢乱るゝ           我

81  秋すでに昨日今日迄水心           盛

82  □朝げの風に団扇さへ置           我

83  月見しつ酒あたゝめつ寝つ起つ        盛

84   やもめのくせや長夜はうし         我

85 ◇いつもく烏がなけば暇乞          盛

86  ◇涙に袖はぬれ鷺の如            我

87 ◇冬までも残るは無か形見草          盛

88   氷れる閼伽も弥陀の一体          我

89  極楽ををしへのお文忝な           盛

90   玉のをばかり逢たや見たや         我

91 ◇恋死も今やくと心ぼそ           盛

92  ◇おもゆもすゝり又すゝりなき        我

93 □みなし子をだいつかゝへつ膝の上       盛

94  □木幡の里に前後白雪            我

95 □馬はをはで焼火のそばに一眠         盛

96   尻たれ帯の下女にもほるゝ         我

97  たすきがけこなたかなたへ口説寄       盛

98   など世の中のからいぞく         我

99 □竹に入こがしも花の香に匂ひ         盛

100 ◇事かり初に出しつゝしみ          我

       付墨 五十句

        此内 長十五

      斎藤親盛  点廿四 内長八

      斎藤友我  点廿六 内長七


 発句「出立は」鷹の飛び立つのは意外と足元からが多いものだ。脇句「是は夜の間か」この雪の上の足跡は夜の間のものであろうか。「鷹→雪」以上二句冬。第三「遠山も」春になって遠方の山からも花の便りが届く。「道→山」。第四、永日の春も野山を慕う気持ちは尽きないものだ。「花をめつる←永日」。第五、春で盛りのついた猫は、ただ相手の雌猫を呼び廻っている。「野→猫」。「うら山ししのびもやらでのら猫の妻こひさけぶ春の夕暮」(『類船集』)。第六、屋根も扉も新しくつくり替えて春めいてきた。「妻→戸」。第七、遠くに春霞にかすんだ月を望む庭の景色だ。春→朧月。「浅みとり花もひとつにかすみつゝおほろに見ゆる春のよの月」(『類船集』「朧月夜」の項)。ここまで五句は春。第八、筵を敷いて花を見ながら飲む酒にまさるものはない。以上が表八句。

 「面八句之事/一発句 連歌同前なるべき歟。/脇 同前。てに

  はの字どまり嫌也。/第三 てどまり歟、はね字なるべし。に

  どまり・もなしどまりはまれなる義也。これまではちとさし出

  たる事もくるしからず。四句めよりはかろぐしきやうにすべ

  し。古人の名・同名字・宮殿の名・名所・神祇・尺教・恋・無

  常・述懐・同字、此分きらふなり。親子のさた述懐にもちひざ

  るゆへ八句のうちきらはず。」(『はなひ草』)(注4)

 森川昭氏の解説によれば、『はなひ草』は、寛永十三年二月廿三日の奥書をもつものが最も早い版とされ、俳諧式目書として公刊されたものの嚆矢であり、しかも、携帯に便利な小本形式であるため広く利用された式目である。本百韻も、右の規則に、ほぼ従っている。八句目の、庭での酒盛りの句は酒好きの如儡子を推測させるものとして注意しておきたい。

 9、鼻歌の節まわしも酒のためか、なめらかになってきた。二人の間もうちとけてきた。「酒→よむ哥」。10、恋を邪魔する番人などすべきではない。「哥←恋」。11、私の罪は、いくら何でも色恋沙汰ではないので、余所へは漏れないでしょう。「関所←箱根」。12、みかんも一つか二つで、あまり多くはとらない。維舟は長点を付すが、「ひとふたみかん」の表現を評価したのであろうか。13、はなやかに盛った皿は、膾や栗が新鮮でおいしそうだ。「みかん→膾」。14、御馳走はあるし、月が出るまで風流の友と楽しみましょう。俳諧仲間としての親盛と友我の関係も推測できるか。「食物←数奇」。15、けまりをする日は幾日もない秋の季節だ。16、しとしと雨は降ったりやんだりである。17、乗物の簾はうっとうしいので上げなさい。18、野遊びをしているのは、いつも遠駆けしている道である。「乗物→馬(遠がけ)」。19、世の中が物憂いものだと知らない人々は戯れている。このあたりは、武士と庶民との関係を意識しているか。20、こちらばかりは俗世間をのがれてひっそり住んでいる。21、大江山に酒呑童子がいたというのは本当か。22、踏み分けて行く野原に女たちがあちこち遊んでいる。「大江山→生野」。初折裏の十四句を概観したが、一句一句の端々から晩年の親盛の生活の様子を窺うことができる。

 以後、二折、三折では、

  28   北国道はいまおもひたつ     

  38   我身ばかりは泣のなみだよ    

  40  □鴫立沢の水は道ばた       

  48  ◇日もあたゝかな有馬の出湯    

  55  若の浦吹上浜は扨もく      

 などに地名が出てきて、これらはいずれも名所等であり、一概には言えないが、あるいは如儡子が実際にそれらの地を訪れていたのかという想像もしたくなる。次に、名残表十四句と裏の八句を簡単にみる。

 79、前句の78、新しい藩主のお国入りがあり、お触れが告げられる春である、を受けて勝利の帰国とした。勝ち戦に藩内は上も下も皆喜びにわいている。「掟→高札、帰陣の時ハ在々所々に司をつかハし寺々宮々の先例を守らしむる事専也」。80、川辺の竹の茂みに螢が乱れ飛び交っている。「軍→螢」。81、昨日今日まで泳ぎの事を気にしていたが、もう秋である。82、早朝(朝食時)の涼しい風に団扇さえ必要ない。秋→団扇を置く。83、寝たり起きたり、月を眺め酒を飲み、本当に自由気ままな身の上である。84、秋の夜長はやもめにとっては憂鬱なものだ。「月→永き夜」。85、いつも烏が鳴くと別れの挨拶をする。86、死別の悲しさに涙をふく袖は濡れ鷺のようである。87、形見草とも言われる菊は冬まで残っていないか。88、仏前に供えられた凍った水は阿弥陀様と同じである。89、西方極楽浄土の素晴らしさを教える阿弥陀経は有り難いことである。90、わずかな間でもお会いしたり見たりしたいものだ。「文→みし人恋る」。91、恋いこがれて、その命も心もとないことだ。92、病人が重湯をすすったり、またすすり泣きをするのも哀れである。

93、親の無い子を膝の上に抱きかかえて慈しむ。「をも湯→力」「孤人→愁」。94、京都宇治の木幡の里は全体が雪で真っ白である。95、街道の馬子は仕事の途中、焚き火の側で一休みしている。「旅路、昼時分、木幡の里←馬」。「山科の木幡の里に馬はあれどかちよりぞくる君を思へば」(『拾遺集』巻十九、人麿)。96、まだ幼い召使の女にも惚れる。「馬←尻」。「馬ハ尻をすへて乗とかや。世こゝろのつける姫ごせの尻のひらめになるこそはちらハしけれ」(『類船集』「尻」の項)。97、たすきがけの姿であちこちの男に言い寄っている。「下女←手すき」。98、どうしてどうして、世の中はそう甘いものではないぞ。「火ふき竹←世の中」。99、竹筒に入れた香煎が花のように良い匂いがする。「からし→山椒、胡椒」。00、慎むべき事が、ほんの一時、態度に現れてしまった。

 以上、親盛・如儡子の俳諧を簡略ではあるが分析してきた。勿論、俳諧研究専攻の私ではないので、貞門俳諧の中での親盛作品の位置づけなどは出来ない事であり、また、その事が本稿の目的でもない。これらの俳諧作品を通して、晩年の親盛・如儡子の様子を明らかにし得るなら、それで十分である。以下、俳諧作品を通して見た、晩年の二本松時代の如儡子について整理したいと思う。


  九、俳諧作品を通して見た晩年の如儡子

  1、田舎にて花の都や和哥の友

 繰り返し述べてきた如く、万治・寛文期の二本松は、陸奥の中では、岩城に次いで俳諧が活発な所であった。その二本松に親盛は万治三年に転居してきた。既に和歌に関しては『百人一首』の大部な注釈書を書いている親盛ではあるが、俳諧は初歩の域を出ない状態であったと思われる。塵言・林元・好元等の二本松藩士たちに誘われ、また指導も受けながら、俳諧の道に親しみ始めたものと思われる。もともと素養もあり、武士の出でもあるので、違和感なく俳諧仲間に加わることが出来たものと思われる。

  2、晩年の平穏な生活

 発句の中では、日常の様子を取り上げている句が多い。

  万代をかけて祝ふやおめて鯛

  夏引の手挽にするは麦粉かな

  是は畑のつくりもの也碁いしまめ

  つく餅や手水のこりて薄氷

  三春迄着るや岩城のちゝみ布

  あけぬるや雲のいつこにいかのほり

  虚空より鉄花をふらす花火哉

  はま弓やひかりさしそふいはひ月

  わらはへもあしたをまつやとり合せ

 親盛は、寛文元年に娘を失い、三年には妻にも死別したものと推測される。しかし、家には長男の秋盛夫婦がおり、次男の又右衛門も同居していたか、近所に居たものと思われる。右に掲げた句には孫と興ずる場面を思わせるものがある。親盛の孫は、富盛、継、男子、女子の四人がいた。富盛は寛文十年、継は寛文八年の出生と推測されるが、長男と次男の先後にも矛盾があり、これはあくまでも推測の域を出ない。また、親盛の次男・又右衛門にも子は居たものと思われ、とにかく、この寛文頃の親盛の家庭環境は、安定していて、孫も家庭を明るくしていたように思われる。

  塩くみやふりさけ見れは桶の月

  風ふけはをきつしらかに綿帽子

  ひゝきらす神や手なつちあしなつち

  降雪やこしのしら山馬のくら

  出雲にや雪垣つくる軒の妻

  山復山みねより出てや雲の岑

  炭櫃もや一家ひらけて四方の冬

  霜八たび置てや鐘の七つ八つ

 これらの句は、いずれも海辺や雪国の情景であり、二本松でのものもあるにしても、親盛が幼少年期に育った酒田などの体験も係わっているように思われる。

  3、酒のむしろにしくは御ざらぬ

  月見しつ酒あたゝめつ寝つ起つ

  お流れや二つ瓶子に三つの春

  あかなくにまたき生湯や如来肌

  一瓢も千金なれや水あそひ

  二季まてみきとこたへん帰花

  ひたぶるに猫は妻をし呼廻

  あるまひ物よ恋の関もり

  分て生野に女ちらめく

  只ならぬ身となるやお手かけ

  恋死も今やくと心ぼそ

 如儡子は酒が好きだったようだ。雪国の寒い冬を青年期まで過ごした如儡子にとっては、ごく普通のことであったと思われる。「如来肌」「水あそひ」「帰花」等の句に出会うと、ただ酒席が好きというだけに止まらず、遊び心も持った性格であった事が知られる。そうでなければ『可笑記』の明るさは無かったものと思われる。恋を積極的に取り上げる如儡子でもあった。

  4、追鳥狩・鹿狩

  追鳥やせこにもれたる草かくれ

  よきてふけ萩のあたりを鹿の笛

  鷹や又生るを放つぬくめ鳥

  菅笠や憂世の民のしもおほひ

  みなし子をだいつかゝへつ膝の上

  馬はをはで焼火のそばに一眠

 鳥追狩、鹿狩にしても、生物への思いやりが込められている。また、自らは武士としての自負を持ちながら、庶民への思いも忘れられない如儡子である。浪人生活の時、日本橋の釘店で世話になった豊田喜右衛門、近藤五郎左衛門を町人の英雄と讃えていた。

  5、仏教帰依と売僧坊主批判

  けかれぬや蒜慈悲の高野山

  かけはこそ菩提樹となれ木葉経

  極楽ををしへのお文忝な

 親盛は晩年仏教に帰依したものと思われる。しかし、若い頃から近世初期の仏教の堕落には厳しい批判の目を持っていた。その傾向は持続されていたようだ。

  6、二月堂行

  押札やみな身の祈祷二月堂

  祭見やいそしの栄花あはた口

  扇あれはいつも夏かと御影堂

  日もあたゝかな有馬の出湯

  若の浦吹上浜は扨もく

 「祭見や」は夢の中の事ではあるが、これらの句を見ると、如儡子は関西への旅に出ていたようである。浪人生活で苦労の連続であったという想像をしていたが、このような一面も、晩年の句から知ることができる。

  7、寛文九年、十年のブランク

 『桜川』は収録句の到着年月を記録しているので、親盛の作句の状況も知る事ができる。寛文八年は六句、寛文十一年は九句であるのに、九年は三句、十年は一句と極端に少ない。これは何故であるのか。この二年は収録に値する句が無かった、という事も考えられる。しかし、これだけの力量を備えた作者である。この時、六十七歳位と思われる。おそらく、これは健康の問題であろう。晩年のこの二年間、親盛は健康すぐれず俳諧を楽しむ事が出来なかったのであろう。我々は如儡子の晩年の健康状態を知ることが出来た。

  8、松江重頼・維舟との出会い

 親盛は斎藤友我との両吟百韻を、寛文五年十一月十日に巻いていて、これに松江維舟の評点をもらっている。維舟は寛文五年夏、陸奥の旅の折、二本松に十日間程宿泊している。これは、この旅の中でも破格の事である。それほど二本松の俳諧は活発であり、また、維舟との関係も深かったのである。そのような状況の中に、晩年の親盛が居合わせたという事は、実に幸せな事であった。当時の俳諧師匠の中でも実力第一の維舟にめぐり会えたのであり、指導を受けたのである。勿論、塵言・林元・好元・道高・友我・衆下・正成等の二本松藩士の俳人の配慮があっての事ではあるが、親盛にそれだけの実力が無ければ不可能であった。親盛・如儡子は幸せな晩年を二本松で送る事ができたものと推測される。


  十、如儡子(斎藤親盛)略年譜稿

 如儡子(斎藤親盛)の年譜はまだ未完の状況である。ただ、今回、その晩年を概観し得たので、略年譜の草案を掲げる。


 (「如儡子(斎藤親盛)年譜稿」はここをクリックしてください)

「如儡子(斎藤親盛)年譜稿」 ●=如儡子 ◎=一族 ○=その他


 (注1)『類船集』は『近世文芸叢刊』第一巻、昭和24年11月7日、般庵野間光辰先生華甲記念会発行、に拠った。

 (注2)『桜川』下巻、解説、昭和60年4月25日、勉誠社発行。

 (注3)『毛吹草』は、竹内若校訂、岩波文庫版、昭和18年12月10日、岩波書店発行、に拠った。

 (注4)『はなひ草』森川昭氏の解説。『貞門俳諧集 二』昭和46年3月10日、集英社発行、に拠った。


   付  記

 斎藤親盛・如儡子の俳諧について、三回に亙って調査・分析してきた。調査にあたっては、諸機関の御高配にあずかった。また、諸先学の御研究に負うところ大であった。今回の分析に際しては、島本昌一先生の具体的な御指導を頂いた。以上の諸機関、諸先学、島本先生に対して、心から感謝申し上げます。


   訂  正

 前回、第十七号、一七九ページ上段の「光重は黄檗宗に帰依し」とあるのは「光重は臨済宗に帰依し」の誤りでした。田中正能氏から御指摘を頂きました。慎んで訂正させて頂き、今後このような誤りのないよう注意して参ります。

●『近世初期文芸』第18号,平成13年12月。





⑥、『可笑記』の諸本
                                 深沢秋男
 
 『可笑記』の諸本については、昭和四十三年度、日本近世文学会春季大会で口頭発表し、これを『文学研究』第二十八号(昭和43年12月)で報告した。その後、同誌第三十号(昭和44年12月)、第三十八号(昭和48年12月)、第七十四号(平成3年12月)で補訂を行った。また、この間『可笑記大成』(昭和49年4月30日、笠間書院発行)、『仮名草子集成』第十四巻(平成5年11月20日、東京堂出版発行)でも、その解題で報告している。これらの経過を踏まえて、現在までの調査結果を整理報告し、考察を加えたいと思う。

 この作品の諸本調査は、早いものは、昭和三十五年頃のものもあり、調査期間は三十年以上に及んでいる。従って、調査方法や基準も、部分的に修正を加えた点もある。諸本間の考察においては、この点を考慮してゆきたいと思う。


 『可笑記』の諸本は、【一】寛永十九年版十一行本、【二】寛永十九年版十二行本、【三】無刊記本、【四】万治二年版絵入本、の四種に分けられ、その所在は、次の如くである。


  【一】 寛永十九年版十一行本


〔1〕 大阪女子大学図書館

〔2〕 小川武彦氏

〔3〕 香川大学図書館・神原文庫

〔4〕 九州大学国語学国文学研究室

〔5〕 京都大学図書館

〔6〕 京都大学文学部

〔7〕 国立公文書館・内閣文庫

〔8〕 後藤憲二氏

〔9〕 大東急記念文庫

〔10〕 東京大学教養学部第一研究室

〔11〕 東京大学図書館

〔12〕 平井隆太郎氏(平井太郎〈江戸川乱歩〉氏旧蔵)

〔13〕 横山重氏・赤木文庫

〔14〕 龍谷大学図書館

〔15〕 龍門文庫

〔16〕 早稲田大学図書館

〔17〕 渡辺守邦氏

〔18〕 鹿島則幸氏旧蔵・桜山文庫(深沢秋男現蔵)

〔19〕 深沢秋男

〔20〕 ケンブリッヂ大学図書館・アストンコレクション(未見)

〔21〕 台湾大学図書館(未見)

〔22〕 岐阜県立図書館(未見)


  【二】 寛永十九年版十二行本


〔1〕 九州大学国語学国文学研究室

〔2〕 国立国会図書館

〔3〕 神宮文庫

〔4〕 日本大学図書館・武笠文庫

〔5〕 会津若松市立図書館(未見)


  【三】 無 刊 記 本


〔1〕 お茶の水図書館・成簣堂文庫・Ⅰ

〔2〕 お茶の水図書館・成簣堂文庫・Ⅱ

〔3〕 香川大学図書館・神原文庫

〔4〕 学習院大学国語国文学研究室

〔5〕 関西大学図書館

〔6〕 京都大学図書館・潁原文庫・Ⅰ

〔7〕 京都大学図書館・潁原文庫・Ⅱ

〔8〕 慶応大学図書館

〔9〕 国学院大学図書館

〔10〕 国文学研究資料館

〔11〕 実践女子大学図書館・黒川真頼・黒川真道蔵書

〔12〕 天理図書館

〔13〕 東京国立博物館

〔14〕 東北大学図書館・狩野文庫

〔15〕 名古屋大学国文学研究室

〔16〕 西尾市立図書館・岩瀬文庫

〔17〕 山岸徳平氏

〔18〕 龍門文庫

〔19〕 早稲田大学図書館

〔20〕 長澤規矩也氏旧蔵(深沢秋男現蔵)

〔21〕 大倉精神文化研究所附属図書館(未見)

〔22〕 岐阜大学図書館(未見)


  【四】 万治二年版絵入本


〔1〕 秋田県立図書館

〔2〕 上田市立図書館・藤廬文庫

〔3〕 小川武彦氏

〔4〕 お茶の水図書館・成簣堂文庫

〔5〕 香川大学図書館・神原文庫

〔6〕 学習院大学国語国文学研究室・Ⅰ

〔7〕 学習院大学国語国文学研究室・Ⅱ

〔8〕 京都府立総合資料館

〔9〕 慶応大学図書館

〔10〕 国立国会図書館・Ⅰ

〔11〕 国立国会図書館・Ⅱ

〔12〕 佐賀大学図書館・小城鍋島文庫

〔13〕 鶴岡市立図書館

〔14〕 天理図書館

〔15〕 東京国立博物館

〔16〕 東京大学図書館・青州文庫

〔17〕 東北大学図書館・狩野文庫

〔18〕 東洋文庫・岩崎文庫

〔19〕 都立中央図書館・加賀文庫

〔20〕 中野三敏氏

〔21〕 山口大学図書館・棲息堂文庫

〔22〕 龍門文庫

〔23〕 早稲田大学図書館

〔24〕 横山重氏旧蔵・赤木文庫(深沢秋男現蔵)

〔25〕 カリフォルニア大学・東亜図書館(未見)

〔26〕 大英博物館・図書館(未見)

〔27〕 青森県立図書館(未見)


  【五】 その他(取合本、写本)


〔1〕 大阪府立中之島図書館

〔2〕 学習院大学国語国文学研究室

〔3〕 天理図書館

〔4〕 早稲田大学図書館

〔5〕 渡辺守邦氏

〔6〕 東京大学国語国文学研究室


 以下、諸本の書誌を記し、考察を加えたいと思うが、同一版木の場合、一本についてのみ版式を詳しく記し、他は、これと異なる点を記すに止めたい。


 【一】 寛永十九年版十一行本


〔1〕 京都大学文学部蔵 国文学/Pb/79(平成4年12月7日再調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 雷文つなぎ桔梗模様丹色原表紙、縦二七七ミリ×横一八四ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽。縦一六八ミリ×横三六ミリ(巻一)。

  巻一、巻三の下部に部分的欠損あり。

  「可笑記一(~五)」

序題 巻一、1丁オ1行目に「愚序」とあり。

内題 各巻1丁オ(巻一は2丁オ)1行目に、

  「可笑記巻第一(~五)」。

尾題 無し。

匡郭 四周単辺。計測は、原則として、縦は1行目と2行目の間、横は1字目と2字目の間とし、線の外側から外側で計った。

  序…縦二一九・五ミリ×横一五七ミリ(巻一、1丁オ)、本文縦二二一ミリ×横一五六・五ミリ(巻一、2丁オ)。

柱刻 上部に書名・巻数、下部に丁付がある。

  「可笑記 巻一 一(~十九、二十、廿一~廿九、三十、三十一~五十四)」。

  「可笑記 巻二 一(~十九、廿、廿一~廿九、三十、三十一~五十八)」。

  「可笑記 巻三 一(~十九、二十、二十一~二十六、廿七~廿九、三十、三十一~五十四)」。

  「可笑記 巻四 一(~十九、二十、廿一~廿九、三十、三十一~五十九)」。

  「可笑記 巻五 一(~十九、二十、廿一~廿九、三十、三十一~八十五)」。


 版心は半黒口で、上下の魚尾に花びらを配すが、次に掲げる如く、十一種のスタイルがある。

1、魚尾の花びらが各四のもの。

《図は省略》

巻一=5、7、8、10、29、30、43、44、51、53、54。巻二=1、2、3、4、6、49、50、51、52、53、54、55、56、57、58。巻三=1、2、3、4、13、14、15、16、21、22、23、24、25、26、27、33、34、35、36、49、50、51、52、53。巻四=1、2、3、4、5、6、7、17、18、19、20、21、22、23、24、37、38、39、40、49、50、51、52、58、59。巻五=1、2、3、4、13、14、15、16、17、18、19、20、29、30、31、32、33、34、36、39、40、53、56、80、81、82、83、84、85。


2、魚尾の花びらが各六のもの。

《図省略》

巻一=9、12、17、18、19、20、22、23、24、25、26、27、28、32、41、49、50。巻二=13、14、15、16、29、31、33、35、36、37、38、39、40、44。巻三=17、18、19、20、29、30、31、32、42、44。巻四=13、14、15、16、25、27、28、33、34、35、36、41、43、45、46、47、48、53、54。巻五=9、10、11、12、21、22、23、24、35、41、42、43、44、55、65、66、67、68、72、77、78、79。


3、魚尾の花びらが各六で、下魚尾と黒線の間が切れているもの。

《図省略》


巻一=33、34、35、36、37、38、39、40。巻二=9、10、11、12、17、18、19、20、21、22、23、24、25、26、27、28、30、32、42、43、45、46、47、48。巻三=9、10、11、12、41、43、45、46、47、48。巻四=9、10、11、12、26、29、30、31、32、55、56。巻五=45、46、47、48、49、50、51、57、58、59、60、61、62、63、64、69、70、71、73、74、75、76。


4、魚尾の花びらは各六で、魚尾と黒線の間に横線が入っているもの。

 

《図省略》


巻一=13、15、16。巻三=5、6、7、8、37、38、39、40。巻五=5、6、7、8、25、26、27、28。


5、魚尾の花びらは各四で、下魚尾と黒線の間が切れているもの。


《図省略》

 

巻一=1、2、3、4、45、46、48、52。巻二=5、7。巻四=8、57。巻五=37、38、54。


6、上魚尾の花びらが五で、下魚尾の花びらが四のもの。


《図省略》


 巻一=6、11、14、31、42。


7、魚尾の花びらは各六で、上下の魚尾と黒線の間が切れているもの。

 

《図省略》

 

 巻一=21、47。巻二=41。

 

8、上魚尾の花びらは六で、下魚尾の花びらが四で、下魚尾と黒線の間が切れているもの。

 

《図省略》

 

 巻二=8。巻四=42、44。

 

9、上魚尾の花びらは四、下魚尾の花びらが六のもの。

 

《図省略》

 

 巻三=28、54。

 

10、上魚尾の花びらが無いもの。

 

《図省略》

 

 巻四=34。

 

11、下魚尾の花びらが無く、黒線との間が切れているもの。

 

《図省略》

 

 巻五=52。

 

丁数 巻一…五十四丁(内、序半丁、半丁空白)。

   巻二…五十八丁。

   巻三…五十四丁。

   巻四…五十九丁。

   巻五…八十五丁(内、跋一丁、刊記半丁)。

   合計…三一〇丁。

行数 序…半葉十行、本文…毎半葉十一行、跋…毎半葉十行。

字数 一行、約二十字。

段数 巻一…序、四十八段。

   巻二…四十八段。

   巻三…四十二段。

   巻四…五十二段。

   巻五…九十段、跋。

   合計…二八〇段。序、跋。

 段移りを示す標は「▲」。巻三の6段は無し。巻二の45段は上部欠損。巻五の56段・78段は、入木による追加と思われる。

本文 漢字交り平仮名。振り仮名・濁点を施す。句読点無し。

挿絵 無し。

序 巻一、1丁オに「愚序」として自序あり。

跋 巻五、84丁ウ・85丁に自跋があり、その末尾に、次の如くある。

  「于時寛永十三

     孟陽中韓江城之旅泊身筆作之」《HTML版では振り仮名省略》

刊記 巻五、85丁ウの、中央からやや右寄りに、

  「寛永壬午季秋吉旦刊行」

蔵書印等 「京都大学/図書/1595299」の横長方形朱印。「国文学/Pb/79」のラベル。帙に「沖森書肆/35000(5冊)」と鉛筆書。巻三の15丁ウ・16丁オに墨の書入れあり。

 

 〔2〕 大阪女子大学附属図書館蔵 918・51/JO―2/1(~5)(平成3年9月12日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 雷文つなぎ牡丹唐草模様藍色原表紙、縦二七九ミリ×横一八八ミリ(巻一)。

題簽 巻三は左肩に子持枠原題簽、縦一六七ミリ×横三八ミリ「可笑記 三」。巻四は原題簽であるが、下部欠損「可笑記 (欠損)」。巻一、巻五は後補で、白紙(縦一七〇ミリ×横四二ミリ)に「可笑記 巻一(五)」と墨書。巻二は欠。

匡郭 四周単辺。序…縦二一九・五ミリ×横一五七ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二二一・五ミリ×横一五七・五ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「山田文庫」陽刻長方形朱印(縦四九ミリ×横一一ミリ)。円形(一二ミリ)の中の上部に「専」と刻す、陽刻朱印。「大阪府女子専門学校図書」陽刻長方形紫印(縦四一ミリ×横六・五ミリ)。「大阪府女子専門学校/図書課/17351(~5)」陽刻横長円形黒印(縦二四ミリ、横四〇ミリ)。「大阪女子大学図書」陽刻方形朱印(縦四三ミリ×横四四ミリ)。「大坂女子大学図書」陽刻方形朱印(四五ミリ×四五ミリ)。「大阪女子大学図書」陽刻長方形黒印(縦四〇ミリ×横七ミリ)。「913・51/JO・2/1(~5)」の黒ラベル。「319/21」の赤ラベル。

 

 〔3〕 小川武彦氏蔵(昭和47年10月11日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 雷文つなぎ蓮華模様藍色原表紙、縦二七五ミリ×横一八六ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽、縦一六八ミリ×横三五ミリ(巻一)。巻二の下部に部分的欠損あり。

  「可笑記一(~五)」

匡郭 四周単辺。序…縦二二〇ミリ×横一五七ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二二二ミリ×横一五七ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「尾州名古星/本町九町目/本屋久兵衛」縦長方形朱印。「青谿書屋」方形朱印。「赤木山」縦長方形朱印。「アカキ」縦長方形朱印。白紙が添付され、小川武彦氏の次の識語がある。「大島雅太郎旧蔵本/「青谿書屋」蔵印」。巻一、52丁ウ・5行目「もろこしにハ龍蓬比干伯夷叔斎……」の上欄に「伍ししよどふして伯夷の下に列ならんや伍ししよは大悪無道也」と墨の書き入れあり。

その他 各巻表紙の藍色の表面の紙には、漢文が印刷されている。漢籍の刷本(刷り破れ)を再利用したものと思われる。

  『可笑記大成』(田中伸・深沢秋男・小川武彦共編著、昭和49年4月30日、笠間書院発行)は本書を底本とした影印を収録している。

 

 〔4〕 香川大学附属図書館蔵・神原文庫 九一三・五一(平成3年3月11日調査)

体裁 大本、一巻一冊(巻五のみ存)、袋綴じ。

表紙 茶白色表紙、縦二六〇ミリ×横一八一ミリ(巻五)。

題簽 無し。左肩に直接「可笑記 壱」と墨書。《振り仮名省略》

内題 巻五、第1丁オに「可笑記巻第(破損)」とあり、「五」の部分が破り取られている。

匡郭 四周単辺。本文…縦二一六ミリ×横一五六ミリ(巻五、1丁オ)。

蔵書印等 「弘宣正法」陽刻円形朱印(径一六ミリ)。「秋平」陽刻長方形朱印(縦一八ミリ×横九ミリ)。「神原家図書記」陽刻長方形黒印(縦四六ミリ×横一二ミリ)。「香川大学附属図書館」陽刻方形朱印(縦四五ミリ×横四四ミリ)。「寄贈図書/神原文庫/香川大学設立準備委員会」横長円形紫スタンプ。「香川大学附属図書館/乙/125404/昭和/31・3・30(「42・3・31」を消して「31・3・30」としている)」横長円形スタンプ。前表紙右上に「波」と墨書。刊記の次に「河埜内舎人」「釜座/円重寺蔵本」と墨書。

 

 〔5〕 九州大学国語学国文学研究室蔵 国文/24A/22(昭和43年7月15日調査)

体裁 大本、一巻一冊(巻五のみ存)、袋綴じ。

表紙 縹色表紙、縦二六一ミリ×横一八五ミリ(巻五)。

題簽 無し。左肩に剥落の跡あり。

匡郭 四周単辺。本文…縦二一□ミリ×横一五□ミリ(巻五、1丁オ。欠損のため正確に測れず)。

蔵書印等 「九州大学図書」陽刻方形朱印。「九州大学/図書館/昭和40・10・26/ア307935」横長円形黒スタンプ。

 

 〔6〕 京都大学附属図書館蔵 一〇―〇五・カ・三(昭和43年5月13日調査)

体裁 大本、四巻四冊(巻五欠)、袋綴じ。

表紙 藍色表紙(雷文つなぎの空押模様)、縦二七五ミリ×横一八五ミリ(巻一)。

題簽 巻三、巻四は左肩に子持枠原題簽、縦一六七ミリ×横三七ミリ(巻三)、「可笑記 三(四)」。巻一、巻二は後補題簽で、子持枠のみ版刷で文学は墨書「可笑記 共四冊壱」(縦一八七ミリ×横三九ミリ)、「可笑記 二」(縦一七六ミリ×横四一ミリ)。

匡郭 四周単辺。序…縦二一九ミリ×横一五六ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二二一ミリ×横一五五ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「京都帝国大学図書印」陽刻方形朱印。「京大図/明治・三二・四・八・購求」陽刻円形朱印。「31468」の青スタンプ。巻四巻末に「可笑記 大尾」と墨書。巻一前表紙に白紙貼付「け 五百四拾八(欠損)部四冊」と墨書。

 

 〔7〕 国立公文書館蔵・内閣文庫 和・18940/190・190(平成7年7月28日再調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 黒茶色表紙、縦二八〇ミリ×横一八四ミリ(巻一)。

題簽 巻三は左肩に子持枠原題簽、縦一六八ミリ×横三七・五ミリ。「可笑記(欠損)三」原題簽の「三」の部分は欠損、その下に「三」と墨書で補う。巻二は原題簽の部分を存すが文字の部分は欠、下部に「二」と墨書。巻四は原題簽の部分を存し「可」の文字が残るのみ。巻五は原題簽の部分を存し「可笑記」の文字を不完全ながら残す。下部に「五」と墨書で補う。巻一は左肩に後補題簽で、子持枠のみ版刷で文字は墨書「可笑記 一」縦一七一ミリ×横三八ミリ。

匡郭 四周単辺。序…縦二一九ミリ×横一五八ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二二〇・五ミリ×横一五六・五ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「浅草文庫」子持枠陽刻長方形朱印(縦七三ミリ×横一九ミリ)。「和学講談所」子持枠陽刻長方形朱印(縦七四ミリ×横一三ミリ)。「書籍館印」陽刻方形朱印(縦三六ミリ×横三五ミリ)。「日本政府図書」陽刻方形朱印(四五ミリ×四五ミリ)。「内閣文庫」陽刻方形朱印(四七ミリ×四七ミリ)。「津宗」陽刻円形黒印(径二一・五ミリ)。各巻下小口に「可笑記 一(~五)」と墨書。「内閣文庫/和書/ 類/一八九四〇号/五冊/一九〇函/一〇架」の黒ラベル、数字は墨書。この各巻ラベルに「第一(~五)」と朱書。「内閣文庫/番号・和18940/冊数・5(1)(~5)/函号・190/190」の黒ラベル、数字は青色スタンプ。

巻一、41丁オ「▲むかし源九郎よしつね公の御哥とて…」の上に白紙(縦二二四ミリ×横五〇ミリ)を貼付、墨書にて次の如くあり。「いさゝか愚按を記す/按に義経の哥を聞て感する人をはやかつてんとそしりて軍兵を/大将一人の下知に付らるへきと云事いかゝあるへきや此哥は大将の寡を以て/衆にふるへき事は奇兵伏兵等を分たて大敵を防へき法図の哥/持たるもの十所百所にねなへを置へき事何そやすかるへき□□□/是大将の一大事たるへき故を以て示すへきものならん」

巻五の前見返しに白紙(縦二四七ミリ×横一六〇ミリ)を貼付、墨書にて次の如くあり。「□□按に本文我ために吉日良辰ならは敵も吉日良辰と/いふ事こは敵味方の□□の本命によりて互にさると/あらされとも嶮難に敵味方の利不利あり若敵山/川を頼みて怠りあらは討へしかの九郎義経の□/越を落し給ひて大川を渡給ふ是なり□に其地理を/考へ或は味方の吉方良辰ならは必す是を討へし若/敵昧方両将の身命□□たらは互に勝敗あるへからさる/もの歟扨又良辰方位を撰へきは対陣日久しく勝敗永く/決せす時日を移さす能考能謀て吉日良気を撰/て用ゆへし□に無稽に軍馬を動かすへきもの/にあらず敵また遠路を経て士卒疲労し陣営いまた/不定地理分明ならされは時日を巡らすへからずあるは対陣/日を経敵相屈し又は事あり疑惑少隙のゆへよしあらは/其虚を伺ひ急に討へし何吉日良辰方角の議論ある/へからす豈其時を失ふへけん乎論語曰学而時学之と/是其時を失はさるを云なり孟子所謂天地の和も人/の和にしかずと是なり/愚按は本書の題号に同し」

 

 〔8〕 後藤憲二氏蔵(平成3年12月27日調査)

体裁 大本、一巻一冊(巻五のみ存)、袋綴じ。

表紙 無し。本の大きさ、縦二八〇ミリ×横一八五ミリ。

題簽 無し。

匡郭 四周単辺。本文…縦二一六ミリ×横一五五ミリ(巻五、1丁オ)。

刊記 85丁落丁のため無し。

蔵書印 「木村佐有」陽刻長方形朱印(縦二八ミリ×横二一ミリ)。

その他 67丁、77丁、85丁落丁。

  この蔵本について、渡辺守邦氏の考察「寛永版の表紙裏から出てきた反古一枚」(『書誌学月報』第46号、平成3年10月)があり、それによると「本は十一行本の『可笑記』巻五の零本であって、巻末に「寛永壬午季秋吉旦刊行」の刊記(壬午は寛永十九年)がそなわる。表紙は、前後とも、本文料紙よりもやや厚手の和紙二枚を貼りあわせて芯にしている。そのうちの、まえ表紙の外側、すなわち表皮に面した一枚が反古であり、しかも表皮がほとんど剥落していて、本を解体せずに、反古の全貌を明らかにできることは、図版の写真に見るごとくであった。うしろ表紙には、それらしいものは見えない。一般に表紙の裏貼りに使われる反古は、四周の折りかえしの分だけ本体より大きいのだが、今回は、痛みがはなはだしくて、折りかえしの部分を欠落させている。……」渡辺氏は、この反古を表紙屋の大福帳と判断され、貴重な分析をしておられる。なお、所蔵者、後藤氏によれば、本書は酒田より出たとの事、如儡子出生の他である。

 

 〔9〕 大東急記念文庫蔵 44・1・3534(昭和43年6月30日再調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 雷文つなぎ牡丹唐草模様藍色表紙、縦二七二ミリ×横一八七ミリ(巻一)。

題簽 左肩に後補書題簽、縦一八五ミリ×横三一ミリ(巻一)。

  「可笑記一(~五)」。

匡郭 四周単辺。序…縦二一九ミリx横一五六ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二二一ミリ×横一五六ミリ(巻一、2丁オ)。

その他 巻二の56丁・57丁が乱丁。巻二の3丁、巻五の53丁は綴じ込みが悪い。

 

 〔10〕 東京大学教養部第一研究室蔵 913・4(昭和41年5月6日調査)

体裁 大本、三巻三冊(巻一、巻四、巻五を存す)、袋綴じ。

表紙 藍色表紙(空押模様あり)、縦二七九ミリ×横一八九ミリ(巻一)。

題簽 左肩に部分を存す。

匡郭 四周単辺。序…縦二一九ミリ×横一五六ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二二〇ミリ×横一五五ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「東大教養学部図書印」陽刻方形朱印。「東大教養学部/図書」陽刻円形朱印。巻一、1丁ウ・24丁ウに「植野村源内」、巻一、29丁オに「この書いづくへまハり候共□の源内方へおんかへし□□□」と墨書。巻一、5丁オに墨の書入れあり。

その他 巻四の42丁が重複。

 

 〔11〕 東京大学附属図書館蔵 E24・1308、B69966(昭和41年5月2日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 藍色表紙、縦二五六ミリ×横一八二ミリ(巻一)。

題簽 左肩に後補題簽、子持枠は版刷りで文字は墨書、「可笑記 一休禅師述 第一」(縦一五七ミリ×横三八ミリ)、「可笑記 第二(~四)/口半」「可笑記 第五/大尾/口半」。

匡郭 四周単辺。序…縦二一九ミリ×横一五六ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二二〇ミリ×横一五五ミリ。

蔵書印等 「前田」陽刻縦長方形朱印。「中村」陽刻縦長円形黒印。「寿」陽刻菱形黒印。「近藤」陽刻扇形黒印。「寄贈/昭和九年十二月十日/外山高一氏」陽刻縦長方形黒印。「東京帝国大学図書印」陽刻方形朱印。各巻の後見返しに「桜田/伊藤」と墨書。

その他 巻二の20丁落丁。

 

 〔12〕 平井隆太郎氏蔵(平井大郎〈江戸川乱歩〉氏旧蔵)(昭和43年5月15日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 黒色表紙(万字つなぎの空押模様あり)、縦二六九ミリ×横一八〇ミリ(巻一)。

題簽 左肩に後補題簽、子持枠は版刷りで文字は墨書、「可笑記 二(三、五)」。巻一は部分を存し、巻四は無し。

匡郭 四周単辺。序…縦二一九ミリ×横一五六ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二二〇・五ミリ×横一五五・五ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「松代藩飯島勝蔵書章」陽刻方形朱印。「養聞斎蔵書記」陽刻縦長方形朱印。「乱」陽刻方形朱印。巻五の85丁オに「二十年丁亥一月九日十日十一日十二日再読 七十三翁/源勝休」と朱書、「寛永十九壬午季秋吉旦刊行」と墨書。

その他 巻一の54丁落丁。巻五の85丁ウ(刊記の部分)欠。

 

 〔13〕 横山重氏蔵・赤木文庫(昭和42年8月3日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 雷文つなぎ桔梗模様縹色原表紙、縦二六二ミリ×横一八一ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽、縦約一六八ミリ×横約三六ミリ(巻三)、「可笑記 三(四、五)」部分的に欠損あり。巻一、巻二は  剥落の跡のみ。

匡郭 四周単辺。序…縦二二〇ミリ×横一五七ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二二一・五ミリ×横一五六ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「横山重」四周双辺陽刻縦長方形朱印。「アカキ」陽刻縦長方形朱印。他に円形朱印一顆。帙に紙箋を付し、ペン書にて、所蔵者・横山重氏の次の如き識語がある。「本書、原装、極上本。/1000/可笑記 寛永壬午(十九年)季秋吉旦刊行 十一行本(最古板)/本書、最古板なり。しかるに、此本と全く同一の刊行記を有する十二行/本あり。(焼忘) 刊年記の文字よく似たれど、寸法を見るに、十/二行本の方が、約三分位短い。/又、本書に、寛文頃(調査の時、「万治頃」に改めるよう指示あり=深沢注)の刊本あり。これに刊年記なし。反町氏、巻末の/「于時寛永十三」云々をとりて、寛永中刊とすれど然らず(焼亡)。/本書について、朝倉氏の年表に、寛永十九年板を大坂板とし、刊行者の名を「平野/屋九兵衛」とありと。その本、十一行本か、十二行本か。而して、初印か、再印か、/全く不明なり。/ひそかに思ふ。朝倉氏のいふ、大坂板といふは、十一行本か、十二行本かの、後印本に/あらざるか。尚、恐らく、十二行本の後印本にあらざるか。尚、今後の調査を/要す。」

 

 

 〔14〕 龍谷大学附属図書館蔵 913・61/5/2(平成3年9月11日調査)

体裁 大本、二巻二冊(巻二、巻四のみ存す)、袋綴じ。

表紙 濃藍色原表紙(麻の葉の地模様に龍の空押し)、縦二七八ミリ×横一八七ミリ(巻二)。

題簽 左肩に子持枠原題簽、縦約一六七ミリ×横三六ミリ(巻二)。「可笑記 二」。巻四は「可笑記」と上部のみ存す。巻二は部分的に破損、巻四は下部破損。

匡郭 本文…縦二一六・五ミリ×横一五六・五ミリ(巻二、1丁オ)。

蔵書印等 「6128/昭和12、4、22」黒印。「末/14架/21号/等 冊/共 冊」の黒ラベル。「913・61/5/2」の赤ラベル。

 

 〔15〕 龍門文庫蔵 一〇ノ三・812(昭和42年7月30日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 万字つなぎ牡丹唐草模様藍色原表紙、縦二六四ミリ×横一八一ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽、縦一六七ミリ×横三六ミリ(巻一)。「可笑記一(~五)」

匡郭 四周単辺。序…縦二一八ミリ×横一五六ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦…二二一ミリ×横一五六ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「奥文庫」陽刻方形朱印。「海老名文庫」陽刻縦長方形朱印。「龍門文庫」陽刻縦長方形朱印。巻一の1丁ウの左下に「海老名文庫/津軽」と縦長方形の枠の中に墨書。鉄に「可笑記 寛永壬午刊 原装 五冊」と墨書。

 

 〔16〕 早稲田大学図書館蔵 へ13・2064(昭和43年7月24日再調査)

体裁 大本、二巻二冊(巻四、巻五を存す)、袋綴じ。

表紙 藍色表紙(藍の上に墨を塗る、空押模様あり)、縦二三六ミリ×横一八六ミリ(巻四)。

題簽 左肩に後補書題簽、縦一五二ミリ×横五五ミリ、「可笑記 四(五)」。

匡郭 四周単辺。本文…縦二一四ミリ×横一五五ミリ(巻四、1丁オ)。

蔵書印等 「早稲田大学図書」陽刻方形朱印。各巻表紙に墨の書き込みがある。

 

 〔17〕 渡辺守邦氏蔵 (昭和55年8月30日)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 万字つなぎ牡丹唐草模様藍色原表紙、縦二七二ミリ×横一七八ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽、縦一六六ミリ×横三五ミリ(巻一)、「可笑記一(~五)」。

匡郭 四周単辺。序…縦二一八ミリ×横一五六ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二二一ミリ×横一五六ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印 「残花書屋」陽刻縦長円形朱印(縦四七ミリ、横一八ミリ)。他に陰刻方形朱印一顆、陽刻円形黒印一顆あり。

 

 〔18〕 鹿島則幸氏旧蔵・桜山文庫(深沢秋男現蔵)(平成7年8月2日再調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 万字つなぎ牡丹唐草模様藍色表紙、縦二七五ミリ×横一八〇ミリ(巻一)。

題簽 巻三、巻四、巻五は、左肩に後補書題簽、縦一九二ミリ×横三七ミリ(巻三)。「可笑記 三(四、五終)」。 巻一、巻二は剥落の跡のみ。

匡郭 四周単辺。序…縦二一八ミリ×横一五八ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一九ミリ×横一五八・五ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「不羈斎図書記」陽刻長方形朱印(縦二六ミリ×横一七ミリ)。「斎藤文庫」陽刻双辺長円形朱印(縦二二ミリ、横一六ミリ)。「西荘文庫」陽刻子持枠長方形朱印(縦七〇ミリ×横一八ミリ)。「東京師範学校図書印」陽刻方形朱印(六二ミリ×六二ミリ)。「師範学校払下之印」陽刻長方形朱印(縦二八ミリ×横一三ミリ)。「大橋」陽刻長円形朱印(縦二一ミリ、横七ミリ)。「桜山文庫」陽刻円形朱印(径三一ミリ)。巻五の9丁オ「▲むかし中納言藤房卿といへる人…」の上欄に「此一篇全篇ヲ抹殺ス可刪」と朱書。

その他 巻五の85丁ウ(刊記の部分)欠。

  本書は、鹿島則文のコレクシヨン「桜山文庫」の一本であり、昭和四十年十二月十二日、所蔵者・鹿島則幸氏より恵与されたものである。

 

 〔19〕 深沢秋男蔵(昭和49年5月10日再調査)

体裁 大本、一巻一冊(巻一のみ存)、袋綴じ。

表紙 雷文つなぎ桔梗模様藍色表紙、縦二七六ミリ×横一八八ミリ(巻一)。

題簽 左肩に剥落の跡のみ。

匡郭 四周単辺。序…縦二一八ミリ×横一五五ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二二〇ミリ×横一五八ミリ(巻一、2丁オ)。

書き込み 巻一の54丁ウに「尾州海東郡/江松邑/□化山/随縁寺/所蔵」の墨書。後見返しに「尾州海東郡江松村随縁寺/常住物也」「寛延元年酉ノ年/江州日野□蒲生□」の墨書。

その他 本書は、昭和四十一年四月二十五日、神田の大屋書房で求めたものである。巻一のみの端本であるが、刷りは非常に早いものと判断された。早稲田大学図書館所蔵の取合本(【五】の〔4〕)は、寛永十九年版十一行本に巻一のみ無刊記本が入れ本されているので、この蔵本に本書を合わせて保存する事がよいと考え、早大に寄贈したい旨を言い添えて、昭和四十九年五月十一日、田中伸氏に依頼したが、その後の処置は伺っていない。

 

 〔20〕 ケンブリッヂ大学図書館蔵・アストンヨレクション(未見、島本昌一氏の示教による)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

題簽 左肩に子持枠題簽「可笑記 一(~五)」、原題簽と思われる「一(~五)」は墨書の可能性がある。

匡郭 四周単辺。

その他 島本氏は、昭和五十五年から五十六年にかけて、海外諸本の調査をされたが、その折、複写した写真を提供、示教を頂いたものである。

 

 〔21〕 台湾大学図書館蔵(未見、金子和正氏の示教による)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 縹色行成表紙、縦二六六ミリ×横一八二ミリ。

題簽 左肩双辺、「可笑記 口(□四五)」。巻二は欠、三至五は虫損あり。

匡郭 四周単辺。

蔵書印等 「玉泉堂/貸本所/岡□橋本町北側/片上屋孫兵衛」陽刻縦長方形印。「橋片孫」陽刻縦長方形印。巻二の前見返しに「此本何方得/罷在候とも/早々御かへし□□□」と墨書。巻二の後見返しに「□□□□□/此本主片上屋/孫兵衛板/橋本丁」と墨書。「455766(~455770)」のスタンプ。他に二顆の印あり。帙に横山重氏筆にて「可笑記寛永板/古書価ノ研究247頁に、大正九/年に、十円とあり。同年、万治絵の可笑記も十円、見ぬ世の友も十円なり。寛永丹緑本の若衆物語は三十円なり」の識語がある。

その他 一九七二(昭和47)年一月、台北の大新書局より『仮名草子撰集・国立台湾大学図書館本影印』が発行された。この中に『可笑記』寛永十九年版十一行本が収録されている。金子氏より頂いた写真と比較してみると、影印本は、所蔵番号、印、柱刻(部分的)などを消してあるが、虫損の部分などが、同様に欠けているので、本書を底本に複製したものと判断される。

 

 〔22〕 岐阜県立図書館蔵(未見、国文学研究資料館蔵、マイクロ資料、221―138に依る)

体裁 大本、四巻四冊(巻五欠)、袋綴じ。

表紙 原表紙と思われる。

題簽 左肩に子持枠原題簽、「可笑記 一(~四)」。

蔵書印等 「B9/419」のラベル。
 

  【二】 寛永十九年版十二行本


 〔1〕 国立国会図書館蔵 142/112(平成7年8月4日再調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 後補国会図書館専用茶色表紙(補修によって、表面紙を新しい茶色表紙に貼ってある)、縦二七四ミリ×横一八九ミリ(巻一)。

題簽 無し。表紙左側に直接墨書で「可笑記 一(~五止)」。

序題 巻一、1丁オ1行目に「墨序」とあり。

内題 各巻1丁オ(巻一は2丁オ)1行目に、

  「可笑記巻第一(~五)」。

尾題 無し。

匡郭 四周単辺。序…縦二二一ミリ×横一六七ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一四ミリ×横一六七ミリ(巻一、2丁オ)。ただし、巻二の41丁・42丁・43丁、巻三の40丁は版心部の縦の界線が無い。

柱刻 上部に書名・巻数、下部に丁付がある。

  「可笑記巻一 一(~十九、二十、廿一~廿九、三十、三十一~四十九終)」。

  「可笑記巻二 一(~十九、廿、廿一~廿九、三十、三十一~五十三終)」。

  「可笑記巻三 一(~十九、二十、二十一~二十六、廿七~廿九、三十、三十一~四十九終)」。

  「可笑記巻四 一(~十九、二十、廿一~廿九、三十、三十一~五十四終)」。

  「可笑記巻五 一(~十九、二十、廿一~廿九、三十、三十一~七十八)」。

  版心は半黒口(巻五の一部には大黒口あり)で、上下の魚尾に花びらを配すが、次に掲げる如く、三十二種のスタイルがある。

 

1、魚尾の花びらが各四のもの。

 

《図省略》

 

巻一=3、4、7、9、10、11、29、30、31、43、44、45、47。巻二=1、2、3、4、18、21、22、29、30、31、32、49、50、51、52、53。巻三=1、2、3、4、9、13、14、15、16、21、22、24、25、26、27、28、33、34、35、36、49。巻四=1、2、4、5、6、7、8、13、18、19、20、21、23、24、28、33、34、38、43、45、46、48、50、51、52。巻五=1、2、3、4、14、15、16、18、19、20、29、30、31、33、34、36、38、39、42、48、51、53、56、67、72。

 

2、魚尾の花びらが各六のもの。

 

《図省略》

 

巻一=17、18、19、20、21、22、23、24、25、26、27、28、33、34、35、36、37、38、39、40、41。巻二=9、10、11、12、13、15、16、23、24、34、36、37、38、39、40、44、45。巻三=12、17、18、19、32、41、42、43、44、46、48。巻四=9、10、15、16、17、25、26、29、31、35、36、41、47、53、54。巻五=9、10、11、17、21、22、23、24、26、35、40、41、43、44、46、50、55、57、58、59、60、61、62、64、65、66、68、70、77、78。

 

3、魚尾の花びらは各六で、魚尾と黒線の間に横線が入っているもの。

 

《図省略》

 

巻一=13、14、15、16。巻三=5、7、8、37、38、39、45。巻五=6、7、8、25、28、73、74。

 

4、上魚尾の花びらが五で、下魚尾の花びらが四のもの。

 

《図省略》

 

巻一=5、6、8、12、32、42。巻二=33。巻三=30、31。巻四=37。巻五=76。

 

5、魚尾の花びらが各六で、下魚尾と黒線の間が切れているも

 

《図省略》

 

巻一=49。巻二=14、17、19、20、26、28。巻三=10、11。巻四=30、32。巻五=52。

 

6、魚尾の花びらは各六で、上下の魚尾と黒線の間が切れているもの。

 

《図省略》

 

巻二=35、46、47。巻四=12。巻五=13、27、63、69、71。

 

7、魚尾の花びらは各四で、下魚尾と黒線の間が切れているもの。

 

《図省略》

 

巻一=1、2。巻二=5、7。巻五=75。

 

8、上魚尾の花びらは六で、下魚尾の花びらが四のもの。

 

《図省略》

 

巻四=22、42、44。

 

9、上魚尾の花びらは四で、下魚尾の花びらが六のもの。

 

《図省略》

 

巻三=29。

 

10、上魚尾の花びらは四で、下魚尾の花びらが五のもの。

 

《図省略》

 

巻五=37。

 

11、魚尾の花びらは各四で、と下魚尾と黒線の間が切れているもの。

 

《図省略》

 

巻一=46。巻五=32。

 

12、上魚尾の花びらは六、下魚尾の花びらは五で、上下魚尾と黒線の間が切れているもの。

 

《図省略》

 

巻二=8。

 

13、上魚尾の花びらは六、下魚尾の花びらは四で、下魚尾と黒線の間が切れているもの。

 

《図省略》

 

巻二=25、48。巻五=54。

 

14、上魚尾の花ぴらは四、下魚尾の花びらは五で、下魚尾と黒線の間が切れているもの。

 

《図省略》

 

巻二=6。

 

15、上魚尾の花びらは四、下魚尾の花びらは六で、下魚尾と黒線の間が切れているもの。

 

《図省略》

 

巻21=27。

 

16、下魚尾の花びらが無く、黒線との間が切れているもの。

 

《図省略》

 

巻三=20。

 

17、下魚尾の花ぴらが無いもの。

 

《図省略》

 

巻三=23。

 

18、上魚尾の花びらか無いもの。

 

《図省略》

 

巻四=14。

 

19、魚尾の花びらは各四で、魚尾と黒線の間に横線が入っているもの。

 

《図省略》

 

巻五=5。

 

20、上魚尾の花びらは四、下魚尾の花びらは六で、上下の魚尾と黒線の間に横線が入っているもの。

 

《図省略》

 

巻一=48。巻五=12。

 

21、魚尾の花ぴらは各六で、上下の魚尾と黒線の間に横線が入り、下魚尾と黒線の間が切れているもの。

 

《図省略》

 

巻三=6。

 

22、魚尾の花びらは各六で、下魚尾と黒線の間に横線が入っているもの。

 

《図省略》

 

巻四=11。巻五=45、47。

 

23、魚尾の花びらは各四で、下魚尾と黒線の問に横線が入っているもの。

 

《図省略》

 

巻五=49。

 

24、魚尾の花びらは各六で、上魚尾と黒線の間に横線が入り、下魚尾と黒線の間が切れているもの。

 

《図省略》

 

巻三=47。

 

25、魚尾の花びらは各四で、上魚尾の下が黒三角のもの。

 

《図省略》

 

巻四=3、39。

 

26、魚尾の花びらは各六で、上魚尾の下が黒三角のもの。

 

《図省略》

 

巻四=27。

 

27、魚尾の花びらは各四で、魚尾の曲線が無いもの。

 

《図省略》

 

巻四=49。

 

28、魚尾の花びらは各四で、上魚尾の曲線が無いもの。

 

《図省略》

 

巻四=40。

 

29、魚尾の花びらは各六で、版心部の縦線が無いもの。

 

《図省略》

 

 巻二=42。

 

30、魚尾の花びらは各六で、版心部の縦線が無く、上下の魚尾と黒線の間に横線が入っているもの。

 

《図省略》

 

巻三=40。

 

31、上魚尾の花びらは六、下魚尾の花びらは五で、版心部の縦線が無く、下魚尾と黒線の間が切れているもの。

 

《図省略》

 

巻二=43。

 

32、魚尾の花びらは各六で、版心部の縦線が無く、上魚尾と黒線の間が切れているもの。

 

《図省略》

 

巻二=41。

 

丁数巻一…四十九丁(内、序半丁、半丁空白)。

  巻二…五十三丁。

  巻三…四十九丁。

  巻四…五十四丁。

  巻五…七十八丁(内、跋一丁、刊記半丁)。

  合計…二八三丁。

行数 序…半葉十一行(ただし、一行余白)、本文…毎半葉十二行、跋…毎半葉十一行。

字数 一行、約二十字。

段数 巻一…序、四十八段。

   巻二…四十八段。

   巻三…四十二段。

   巻四…五十二段。

   巻五…九十段、跋。

   合計…二八〇段。序、跋。

 段移りを示す標は「▲」。ただし、次の各段は欠。巻一の1、8、21、22、24、28、29、43。巻二の22、23、27。巻三の2、6、28。巻四の16、19、22、29、31。巻五の2、3、31、35、39、50、51、72、76、88。巻四の15は重複している。巻二の11、巻三の13、巻四の28は入木による追加と思われる。巻四の36、37は「▲」が匡郭より下になっている。

本文 漢字交り平仮名。振り仮名・濁点を施し、句読点は「.」「。」を混用している。

挿絵 無し。

序  巻一、1丁オに「愚序」として自序あり。

跋  巻五、77丁ウ・78丁オに自跋があり、その末尾に、次の如くある。

   「于時寛永十三

        孟陽中韓江城之旅泊身筆作之」《振り仮名省略》

刊記 巻五、78丁ウの、中央からやや右寄りに、

   「寛永壬午季秋吉旦刊行」

蔵書印等 「待賈堂」陽刻双辺長円形朱印(縦三七ミリ、横二五ミリ)。「東京図書館蔵」陽刻方形朱印(四六ミリ×四六ミリ)。「江戸四日市/古今珍書●《にんべんに會》/達摩屋五一」陽刻飾り子持枠長方形朱印(縦三五ミリ×横二八ミリ)。下小口に「可笑記一(~五)」と墨書。「142/特別5/112」の茶色ラベル。「142/5/112」の青ラベル。「142/112」の黄色ラベル。

その他 本文紙は、全体にわたって補修されている。

 

 〔2〕 九州大学国語学国文学研究室蔵 国文・24A16(昭和43年7月15日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 巻一、巻三、巻五は丹色原表紙、巻二、巻四は藍色原表紙、各巻空押模様あり。縦二七八ミリ×横一九一ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽、縦約一六六ミリ×横約三八ミリ(巻一)、「可笑記 一(~五)」。部分的に欠損あり。

匡郭 四周単辺。序…縦二一一・五ミリ×横一六九ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一五ミリ×横一六八ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「九州大学図書」陽刻方形朱印。「九州大学図書印」陽刻縦長方形朱印。「九州大学/図書館/昭和36・9・1/ア271664」横長円形黒スタンプ。

その他 巻四の10丁落丁。巻一、巻三、巻五が丹色表紙、巻二、巻四が藍色表紙で、共に原表紙と思われるので、本書は、二本を寄せ合わせたものと思われる。

 

 〔3〕 神宮文庫蔵 三・1903。受入番号・13341(昭和43年7月14日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 丹色原表紙(雷文つなぎの空押模様あり)、縦二七七ミリ×横一九二ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽、縦約一六七ミリ×横約三八ミリ(巻四)。「可笑記 一(~五)」。部分的に欠損があり、墨筆で補っている。巻一の書名の右に「一休」と墨書。

匡郭 四周単辺。序…縦二一一・五ミリ×横一六九ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一五ミリ×横一六八・五ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「艸間氏図書章」陽刻方形(四角を面取り)朱印。「寄附 林●《韋に華》/神苑会書籍/五百弐拾部」陽刻縦長方形朱印。「神宮文庫」陽刻方形朱印。

 

 〔4〕 日本大学附属図書館蔵・武笠文庫 913/51J74(昭和40年8月28日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 藍色原表紙、縦二六八ミリ×横一九〇ミリ(巻一)。

題簽 巻二~巻五は、左肩に子持枠原題簽、縦約一六八ミリ×横約三七ミリ(巻二)、「可笑記 二(~五)」。部分的に欠損あり。巻一は、左肩に後補書題簽、「可笑記 一」(縦一六七ミリ×横三七ミリ)、下部の左に「寛永板」と朱書。

匡郭 四周単辺。序の丁は落丁。本文…縦二一四ミリ×横一六七ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「中井文庫」陽刻方形朱印。「御堂文庫」陽刻円形朱印。「武笠文庫」陽刻縦長方形朱印。「日本大学図書館蔵書」陽刻方形朱印。

その他 巻一の1丁、巻五の55丁落丁。巻四の32丁・33丁が乱丁。

 

 〔5〕 会津若松市立会津図書館蔵 (未見、国文学研究資科館蔵、マイクロ資料、251―36に依る)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 原表紙か否か未詳であるが、各巻に墨書にて「可笑記/共五冊/壱帙之内/巻之一(~五)」とあり、題簽は欠。落丁は無いようである。

蔵書印等 「会津若松/甲賀町上/●笠石屋」の円形印。「若松市立会津図書館蔵書印」の方形印等がある。


  【三】 無 刊 記 本


 〔1〕 長澤規矩也氏旧蔵(深沢秋男現蔵)(平成7年8月7日再調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 万字つなぎ牡丹唐草丹色原表紙、縦二五七ミリ×横一八五ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽。縦一六三ミリ×横三五ミリ(巻一)。

  「可笑記一(~五)」。巻一、巻五など摩損あり。

序題 巻一、1丁オ1行目に「愚序」とあり。

内題 各巻1丁オ(巻一は2丁オ)1行目に、

  「可笑記巻第一(~五)」。

尾題 無し。

匡郭 四周単辺。序…縦二一九ミリ×横一六三・五ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一二・五ミリ×横一六二・五ミリ(巻一、2丁オ)。

柱刻 上部に書名・巻数、下部に丁付がある。

  「可笑一 一(~二十、二十一~三十、三十一~四十二終)」。

  「可笑二 一(~二十、二十一~三十、三十一~四十四終)」。

  「可笑三 一(~二十、二十一~三十、三十一~三十九終)」。

  「可笑四 一(~二十、二十一~三十、三十一~四十三終)」。

  「可笑五 一(~三十、二十一~三十、三十一~六十三)」。

   巻五の20丁は「三十」と誤刻。

  版心は白口であるが、巻三の12丁のみ黒口。版心のスタイルに次の四種がある。

 

1、白口で上部に書名、巻数、下部に丁付があるもの。

 《図省略》

 このものが、一四九丁と最も多い。

2、書名の上と丁付の下に横線が入っているもの。

 《図省略》

 巻一=2、3、4、5、18、19、20、21、30、31、32、33。巻二=5、6、7、8、24、25、26、27、28、29、30、31。巻三=4、5、6、7、11、13、14、15、16、17、18、31、32、33、34、35、36、37、38、39。巻四=17、26、27、28、29、30、31、32、41、42、43。巻五=1、2、3、4、29、30、31、32、33、34、35、36、49、50、51、52、53、54、55、56。

3、書名の上に横線が入っているもの。

 《図省略》

 巻三=8、9、30。巻四=22、23、24。

4、上下が黒口のもの。

 《図省略》

 巻三=12。

丁数 巻一…四十二丁(内、序半丁、半丁空白)。

   巻二…四十四丁。

   巻三…三十九丁。

   巻四…四十三丁。

   巻五…六十三丁(内、跋一丁、半丁空白)。

   合計…二三一丁。

行数 毎半葉十二行。

字数 一行、約二十三字。

段数 巻一…序、四十八段。

   巻二…四十八段。

   巻三…四十二段。

   巻四…五十二段。

   巻五…九十段、跋。

   合計…二八〇段。序、跋。

  段移りを示す標は「〇」。巻二の1は欠。

本文 漢字交り平仮名。振り仮名・濁点を施す。句読点は「。」であるが、わずかに「.」を混用する。

挿絵 無し。

序 巻一、1丁オに「愚序」として自序あり。

跋  巻五、62丁ウ・63丁オに自跋があり、その末尾に一行あけて、次の如くある。

  「于時寛永十三

      孟陽中韓江城之旅泊身筆作之」《振り仮名省略》

刊記 無し。

蔵書印等 「藤井文庫」陽刻子持枠長方形朱印(縦四六ミリ×横一六ミリ)。巻五後表紙の内側に「寛保二/八月十二日/於書肆/求之」と墨書。巻一前見返しに、墨書にて「此本初印本には/寛永壬午(ママ)秋吉旦刊行/大坂心斎橋通り西へ入南久宝寺町南側/平野屋九兵衛」と、旧蔵者・長澤規矩也氏の識語がある。他に、陽刻円形黒印一顆あり。帙に紅紙(縦二五二ミリ×横一一八ミリ)を貼付、長澤規矩也氏筆にて「深澤仁弟御内/昭和四十五年/成婚記念/長澤規矩也敬贈/所蔵一部書より」と墨書。

その他 本書は、恩師・長澤規矩也先生の旧蔵本であり、昭和四十三年九月二十日拝借、長期間に亙って諸本調査に使用させて頂いたが、昭和四十五年四月に恵与されたものである。

 

 〔2〕 お茶の水図書館蔵・成簣堂文庫・Ⅰ(昭和43年5月7日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 茶色表紙、縦二五四ミリ×横一八二ミリ(巻一)。

題簽 巻一、巻三~巻五は、左肩に後補書題簽、縦一七四ミリ×横三〇ミリ(巻一)、「可笑記 第壱(三~五)」。巻二は欠。

匡郭 四周単辺。序…縦二一八ミリ×横一六ニミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二〇九ミリ×横一六〇ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「蘇峰」陽刻方形朱印。「須愛護/蘇峰嘱」陽刻変形朱印。「徳富文庫」陽刻方形朱印。「徳富文庫」陽刻子持枠縦長方形朱印。「徳富猪一郎印」陰刻方形朱印。巻一前表紙に「寛永板/珍籍可愛惜/共五/徳富主」と朱書。帙に「可笑記/共五/蘇峰所有」と墨書。他に、陰刻方形朱印一顆、陽刻円形黒印一顆あり。

 

 〔3〕 お茶の水図書館蔵・成簣堂文庫・Ⅱ(昭和43年5月7日調査)

体栽 大本、三巻三冊(巻一、巻四は欠)、袋綴じ。

表紙 藍色表紙(空押模様あり)、縦二七八ミリ×横一九一ミリ(巻二)。

題簽 左肩に後補題簽、子持枠は版刷りで文字は墨書、縦一六二ミリ×横三五ミリ(巻二)、「可笑記 二(三、五)」。

匡郭 四周単辺。本文…縦…一〇ミリ×横一六三ミリ(巻三)。

蔵書印等 「須愛護/蘇峰嘱」陽刻変形朱印。「徳富文庫」陽刻子持枠縦長方形朱印。「蘇峰学人」陽刻方形中に円形朱印。「徳富猪一郎印」陰刻方形朱印。巻二の前表紙に「寛永板 零本」「共三/蘇峰蔵」と朱書。巻二の前見返しに「与別ニ完本ヲ蔵ス」と朱書。

 

 〔4〕 香川大学附属図書館蔵・神原文庫 九一三・五一(平成3年3月11日調査)

体栽 大本、一巻一冊(巻三のみ存す)、袋綴じ。

表紙 渋色原表紙(空押模様あり)、縦二六八ミリ×横一八三ミリ(巻三)。

題簽 左肩に子持枠原題簽を存すが、摩損が著しい。「(摩損)笑記 三」。

匡郭 四周単辺。本文…縦二一九ミリ×横一六三ミリ(巻三、1丁オ)。

蔵書印等 「霜松亭蔵書」陰刻方形朱印(三八ミリ×三八ミリ)。「神原家図書記」陽刻長方形黒印(縦四六ミリ×横一二ミリ)。「香川大学附属図書館」陽刻方形朱印(縦四五ミリ×横四四ミリ)。「寄贈図書/神原文庫/香川大学設立準備委員会」横長円形紫スタンプ。「香川大学附属図書館/乙/125405/昭和/31・3・30(「42・3・31」を消して「31・3・30」としている)横長円形紫スタンプ。39丁オに「正徳四年/加賀屋 伊兵衛」などの墨書。前見返しにも墨の書き入れあり。

その他 『神原文庫分類目録』は、本書について「同(可笑記)十二行大本存一巻(巻三)/同(如偶子)〔江戸初〕刊」としているが、十二行本が別にあるので、無刊記本と記すのが妥当と思う。

 

 〔5〕 学習院大学国語国文学研究室蔵 913・61/5012(昭和41年4月20日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 藍色原表紙(空押模様あり)、縦二八〇ミリ×横一八一ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽の部分を存す。

匡郭 四周単辺。序…縦二一八ミリ×横一六三ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一〇ミリ×横一六二ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「春翠文庫」陽刻方形朱印。「月明荘」陽刻縦長方形朱印。「学習院図書記」陽刻方形朱印。「学習院」陽刻双辺縦長円形朱印。

 

 〔6〕 関西大学附属図書館蔵 913・61/J1(昭和41年7月7日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 黒色表紙(空押模様あり)、縦二七九ミリ×横一八七ミリ(巻一)。

題簽 左肩に後補書題簽、縦一二三ミリ×横四二ミリ(巻一)、「可笑記 一(~五)」。

匡郭 四周単辺。序…縦二一八ミリ×横一六一ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一〇ミリ×横一六一ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「和州/万法寺什物」陽刻縦長方形朱印。「太宰氏収蔵」陽刻縦長方形朱印。「恆夢」陽刻円形黒印。「関西大学図書館蔵書」陽刻方形朱印。「関西大学/図書館蔵書/73422(73426)/25・9・13」方形青色スタンプ。

 

 〔7〕 京都大学附属図書館蔵・潁原文庫・Ⅰ 国文学・潁原文庫・pb14・879142(昭和43年5月13日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 藍色原表紙(万字つなぎの空押模様あり)、縦二七六ミリ×横一八六ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽の部分を存す。

匡郭 四周単辺。序…縦二一七・五ミリ×横一六二ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一〇ミリ×横一六ニミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「京都大学図書之印」陽刻方形朱印。「京大/879142/昭和25・10・2」横長円形青色スタンプ。巻二前見返しに「三十六 経□一部得心忠孝無□/三十九 犬卜鶏の真似スル□君ヲ救フ」、巻三前見返しに「無欲戒 二十四/鷹かりをする故 二十八」、巻四前見返しに「十七 三列牛□/六 蝿子麒尾ニツク/三十七 剣山茶椀/十九 父母=肉身ヲ養□=心を養/二十五 病者十の慎在/二十五 医家十慎」、巻五前見返しに「唐伯玉学 四十四/似合しき鳥名 四十五/天与の外□く食 五十/十二 囲碁ふけ/質=質ヲ以求ム/四十六 博奕ニハ八ツノ物そろはねハ勝てぬと云事」、巻二の30丁オ上欄に「大望ある身ハ蚤蚊も食へからすと云り」、巻二の31丁オ上欄に「尤面白し」、巻二の41丁オ上欄に「此段勝テ面白し」巻三の25丁オ上欄に「誰人も行□をとるべからす」、巻五の55丁ウ上欄に「平家蟹」等の書き入れ(朱書、墨書)がある。

その他 巻二の44丁が落丁。

 

 〔8〕 京都大学附属図書館蔵・潁原文庫・Ⅱ 国文学・潁原文庫・pb14・879142(昭和43年5月13日調査)

体裁 大本、一巻一冊(巻二のみ存す)、袋綴じ。

表紙 丹色表紙(万字つなぎの空押模様あり)、縦二七九ミリ×横一八三ミリ(巻二)。

題簽 無し。

匡郭 四周単辺。本文…縦二一八ミリ×横一六一ミリ(巻二、1丁オ)。

蔵書印等 「京都大学図書之印」陽刻方形朱印。「京大/879142/昭和25・10・2」横長円形青色スタンプ。

その他 本書は、〔6〕の潁原文庫・Ⅰ本と共に潁原退蔵氏の旧蔵本であるが、Ⅰ本には巻二の44丁の落丁があるため、このⅡ本を補ったものと推測される。従って所蔵番号も同じで、六冊一点として保存されているが、明らかに別本であるので、ここでは二点に分けて掲出した。

 

 〔9〕 慶応義塾大学附属図書館蔵 231/3/5(昭和42年5月30日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 線色表紙、縦二七八ミリ×横一八八ミリ(巻一)。

題簽 左肩に形跡はあるが不完全。

匡郭 四周単辺。序…縦二一八ミリ×横一六ニミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一一ミリ×横一六二・五ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「慶応義塾図書館蔵」陽刻縦長方形朱印。巻一、巻二、巻三の後見返しに「五冊之内 正徳三年/西海枝兵蔵/平田久馬 がしやうおき」、巻四の前見返しに「西海枝氏」、巻四、巻五の後見返しに「西海枝久蔵/西海枝兵蔵/同 隼人」と、それぞれ墨書。

 

 〔10〕 国学院大学附属図書館蔵 Ⅳ/4824/5(昭和39年12月18日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 藍色表紙、縦二七八ミリ×横一八四ミリ(巻一)。

題簽 無し。中央に「可笑記 一(~五尾)」と朱書。

匡郭 四周単辺。序…縦二一七ミリ×横一六二ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一〇ミリ×横一六一ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「北溟文庫」陽刻方形朱印。「国学院大学図書館印」陽刻方形朱印。「昭和七年十月三日受入」陽刻縦長方形朱印、数字は墨書。「北溟文庫/(蔵書)目録/(類)雑/架数 /番号・六四八/冊数・五冊」のラベル。「部門・Ⅳ/番号・4824/冊数・5」のラベル。

その他 巻五の15丁が落丁。虫損の部分などは全体に亙って補修されているが、その部分が変色している。

 

 〔11〕 国文学研究資料館蔵 ナ・4/323/1(~5)(平成3年10月14日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 雷文つなぎ牡丹唐草模様藍色原表紙、縦二七四ミリ×横一七九ミリ(巻一)。

題簽 巻三を除いて、左肩に子持枠原題簽。縦一六七ミリ×横三五ミリ(巻二)。「可笑記 一(二、四、五)」、巻一、巻四、巻五は部分的に破損あり。巻三は剥落の跡に「可笑記 三」と墨書。

匡郭 四周単辺。序…縦二一九ミリ×横一六ニミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一七ミリ×横一六ニミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「三条上ル/木屋町/大梅」陽刻円形黒印(径三〇ミリ)。「漣山人の」陽刻長円形朱印(縦三〇ミリ、横二〇ミリ)。「国文学研究資料館」陽刻長方形朱印(縦三七・五ミリ×横二三ミリ)。「国文学研究資科館/昭和58年3月31日/62680(~62684)」の朱印、数字黒印。「ナ4/323/1(~5)/国文学研究資料館」の青ラベル。巻一前見返しに「智楽坊」、巻一~巻五の後見返しに「宗因□」と墨書。

その他 巻五の50丁が小口よりはみ出している(製本時の不揃いであろうか)。

 

 〔12〕 実践女子大学附属図書館蔵・里川真頼・真道蔵書(昭和40年5月4日調査)

体裁 大本、五巻三冊、第一冊(天)→巻一、巻二。第二冊(地)→巻三、巻四。第三冊(人)→巻五。袋綴じ。

表紙 藍色表紙、縦二六九ミリ×横一八七ミリ(第一冊)。

題簽 左肩に後補書題簽、縦二〇三ミリ×横三六ミリ(第一冊)。

  「可笑記 天(地、人)」。

匡郭 四周単辺。序…縦二二〇ミリ×横一六四ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一二ミリ×横一六三ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「浅艸本法寺」陽刻子持枠縦長方形黒印。「黒川真頼蔵書」陽刻縦長方形朱印。「黒川真道蔵書」陽刻縦長方形朱印。「実践女子大学図書館印」陽刻方形朱印。他に朱印三顆あり。第三冊前見返しに墨書にて次の如き書き入れがある。「可笑記作者の舅/大井右近/此可笑記ノ作者之外祖父者/東禅寺右馬頭/出羽庄内千安合戦ノ時上杉景勝ノ軍大将本庄重長卜/ハセ合四十三歳ニシテ討死ス重長モ星甲ノカタビン二寸バカリ切/落サレワダガミヘ打コマレアヤウキ命タスカリシト也/右馬頭ガ刀ハ相州正宗二尺七寸大ハヾ物ナリ/此刀重長カ手ニワタリ景勝へ参リ秀吉ヘマハリ後/御当家ヘマハリ二尺三寸ニスリ上ラレ紀州大納言公ニ御座アルヨシ/運ハ天ニアリ鎧ハ胸ニアリト云リ一代/カスデヲモヲハズ」

その他 巻二の26丁と27丁の間に巻三の26丁が入っているが、この巻三の26丁は重複している。

 

 〔13〕 天理図書館蔵 913・61/イ・151/1(~5)(昭和41年7月7日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 線色表紙、縦二七九ミリ×横一八四ミリ(巻一)。

題簽 巻四のみ、左肩に子持枠後補題簽で文字は墨書で、「可笑記(以下破損)」。他の巻は無し。

匡郭 四周単辺。序…縦二一七ミリ×横一六二ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一〇ミリ×横一六二ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「石田文庫」陽刻子持枠方形(四角の面取り)朱印。「天理図書館/昭和卅四年五月廿日/520726(~520730)」陽刻横長円形朱印。

 

 〔14〕 東京国立博物館蔵 030/と・9909(昭和41年4月20日調査)

休裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 藍色表紙、縦二七二ミリ×横一八二ミリ(巻一)。

題簽 左肩に後補書題簽、縦一九五ミリ×横三二ミリ(巻一)。

  「可笑記 一(~五止)」。

匡郭 四周単辺。序…縦二一八ミリ×横一五九ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一〇ミリ×横一六〇ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「徳川宗敬氏寄贈」陽刻双辺縦長方形朱印。「国立博物館図書之印」陽刻方形朱印。巻三の39丁ウに「吉重(花押)」、巻五の63丁オに「紀州惣持寺御門前町」と墨書。他に陽刻円形黒印一顆、および墨の書き入れがある。

 

 〔15〕 東北大学附属図書館蔵・狩野文庫 狩/4/11604、特別・8321(昭和43年8月12日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 縹色表紙、縦二六五ミリ×横一七八ミリ(巻一)。

題簽 左肩に後補書題簽、縦一六一ミリ×横三八ミリ(巻一)。

  「可笑記巻第一(~五)」。

匡郭 四周単辺。序…二二〇ミリ×横一六三ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一一・五ミリ×横一六二ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「東北帝国大学図書印」陽刻方形朱印。「荒井泰治氏ノ寄附金ヲ/以テ購入セル文学博士/狩野亨吉氏旧蔵書」陽刻子持枠縦長方形朱印。「8321」の無印。巻五の35丁ウ9行目「どうよく邪悪におごり」の右側に「此条わからす」と墨書。

 

 〔16〕 名古屋大学国文字研究室蔵 913/乙/51(昭和42年7月7日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 黒色表紙、縦二六〇ミリ×横一八一ミリ(巻一)。

題簽 無し。

匡郭 四周単辺。序…縦二一八ミリ×横一六二ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一一ミリ×横一六二ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「奇石軒蔵書印」陽刻縦長方形朱印。「名古屋大学図書印」陽刻方形朱印。「名古屋大学・図書館/和書/309235(~309239)/1952・8・7」陽刻横長円形朱印。巻二の24丁ウ上欄に「七感□愁也/病也恨也/説文毒也/又初錦切」「惨 イカル/ウレフ/イタム/ウラム/ヤブル」「慄/ツツシミ/ウヤマフ/ヲノヽク/ヲソル/ウレへ/カ質切謹/教也性也」等の墨書。

その他 本文紙が、他の諸本に比して非常に薄い。

 

 〔17〕 西尾市立図書館蔵・岩瀬文庫 5466/77/12(昭和40年8月22日調査)

体栽 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 藍色表紙、縦二七七ミリ×横一八六ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠後補題簽、文字は墨書。縦一六六ミリ×横三四ミリ(巻一)。「可笑記 一巻(~五巻)」。

匡郭 四周単辺。序…縦二一八ミリ×横一六ニミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一〇ミリ×横一六二ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「岩瀬文庫」陽刻縦長方形朱印。巻二前表紙に「条や町笹や/七〇三□」と墨書。他に円形黒印一顆。

その他 巻二の12丁~15丁に、鋏の切り込みあり。

 

 〔18〕 山岸徳平氏蔵 (昭和44年7月4日調査)

体栽 大本、四巻四冊(巻五欠)、袋綴じ。

表紙 万字つなぎ牡丹唐草模様濃縹色原表紙、縦二五三ミリ×横一八四ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽、縦一六三ミリ×横(?)部分破損あり。

   「可笑記 一(~四)」。

匡郭 四周単辺。序…縦二一八ミリ×横一六一ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一一ミリ×横一六二ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「太本喜」陽刻縦長円形黒印。「紫香蔵」陽刻縦長方形朱印。「山岸文庫」陽刻子持枠縦長方形未印。巻一の前見返しに、山岸氏の次の識語がある。「可笑記/四冊 巻五欠本/(十二行本)/昭和廿二年黄鐘九求/於文行堂 岸廼舎/寛永一三年ノ作。江城之旅泊自筆(ママ)作之。トアリ。寛永十九年刊ハ、十一/行本ナリ。→内閣文庫。//可笑記評判 十巻 可笑記ヲ逐条論断批評セリ/。寛永十四年ノ作 浅井了意ノ作。//大笑記 一巻 三浦為春ノ作。紀州徳川家附ノ家老ナリ/慶長十五年小春ノ下旬、記之。/駿河ヨリ熊本マデノ道ノ記ナリ道中二人ノ語レル事ナド記セリ。//可笑記ハ/江戸初期ノ言葉ノ研究ニモナル/ナリ。」。巻二の26丁ウ1行目「あやまちすな用心し/ておりよ」の本文に朱点を付し、上覧に「徒然草ニモアリ」と朱書。その他、本文中の所々に朱の傍点を付す。

その他 巻五欠。

  本書は、所蔵者・山岸徳平氏より昭和44年6月11日拝借、調査させて頂いた。巻五が欠巻のため、長澤規矩也氏所蔵本(【三】の〔1〕)を、長澤氏の御許可を得て、全冊複写して補い、池上幸二郎氏に帙を依頼作製し、9月20日に御返却申し上げた。

 

 〔19〕 龍門文庫蔵 一〇ノ三/813(昭和42年7月30日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 万字つなぎ模様丹色表紙、縦二七八・五ミリ×横一九一ミリ(巻一)。

題簽 左肩に不完全なものを存す。

匡郭 四周単辺。序…縦二一八ミリ×横一六二・五ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一〇・五ミリ×横一六二・五ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印 「龍門文庫」陽刻縦長方形朱印。

 

 〔20〕 早稲田大学図書館蔵 へ/13/74(昭和42年7月24日調査)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 線色表紙、縦二七三ミリ×横一七九ミリ(巻一)。

題簽 巻四は、左肩に赤枠付後補題簽、縦一八〇ミリ×横四四ミリ。「可笑記 四」と墨書。他の巻は部分を存す。

匡郭 四周単辺。序…縦二一八ミリ×横一六二ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一〇ミリ×横一六二ミリ(巻一、2丁オ)。

その他 昭和41年2月12日調査の折は、巻一の19丁~30丁の間に乱丁があったが、再調査の折は正されていた。

 

 〔21〕 大倉精神文化研究所附属図書館蔵(未見、国文学研究資料館蔵、マイクロ資料、307―53に拠る)

体裁 大本、五巻三冊。巻一冊→巻一、巻二。第二冊→巻三、巻四。第三冊→巻五。袋綴じ。

題簽 左肩に子持枠後補題簽、文字は墨書。「可笑記 一 二 (三 四、五)」。

蔵書印等 「海雲蔵書」陽刻双辺縦長方形印。各表紙に「門外/不出/七十六(円の中)/海雲蔵書」の紙箋。「大倉精神文化研究所附属図書館蔵書」陽刻方形印。「皇紀二五九三年七月十七日/大周寺殿/寄贈」縦長方形印。「21914(~21916)/2593―7―17」陽刻横長円形印。「エ・9/1401/1(~3)」のラベル。

 

 〔22〕 岐阜大学附属図書館蔵 (未見、国文学研究資料館蔵、マイクロ資料、98―32に拠る)

体裁 大本、五巻五冊、袋綴じ。

題簽 左肩に子持枠題簽、「可笑記 一(~五)」。原題簽と思われるが、【三】の〔1〕本と字形が異なる。

蔵書印等 「岐阜大学学芸学部蔵書之印」陽刻方形印。「岐阜大学学芸学部/昭和26年7月24日購入/第18742番」陽刻縦長円形印。「九一三・51/1―1(~5)/18742」のラベル。本文中に傍線が引かれている。

 

  【四】 万治二年版絵入本

 

 〔1〕 横山重氏旧蔵、赤木文庫(深沢秋男現蔵)(平成7年8月14日再調査)

体裁 半紙本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 雷文つなぎ桐花唐草模様縹色原表紙、縦一九七ミリ×横一四九ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽。縦一三四ミリ×三一ミリ(巻一)。「〔新板〕可笑記 絵入 一(~五)」、巻五のみ「絵入」が「ゑ入」となっている。巻一の下部、巻五の左上・右下などに摩損あり。《〔 〕内は角書=HTML版注》

序題 巻一、1丁オ1行目に「可笑記 愚序」とあり。

内題 各巻、1丁オ(巻一は1丁ウ)1行目に、

  「可笑記巻第一(~五ご。

尾題 巻一、42丁ウに「可笑記一之巻終」。

   巻二、44丁オに「二之巻終」。

   巻三、41丁ウに「可笑記巻三終」。

   巻四、42丁ウに「四之巻終」。

   巻五、無し。

匡郭 四周単辺。縦一七六ミリ×横一二五ミリ(巻一、1丁オ)。

柱刻 上部に書名・巻数、下部に丁付がある。

  「可笑記巻一 一(~十九、廿卅、卅一~五十二)」。

  「可笑記巻二 一(~十九、廿卅、卅一~五十四終)」。

  「可笑記巻第三 一」。

  「可笑記巻三 二(~十九、廿卅、卅一~四十九」。

  「可笑記三 五十(五十一終)」。

  「可笑記巻四 一(~十九、廿卅、卅一~五十二終)」。

  「可笑記巻五 一(~十九、廿卅、卅一~七十一)」。

 丁付は、各巻「十九、廿卅、卅一」とあり、20丁の次が10丁分飛丁となっている。したがって、実丁数は各々10丁分少ない。版心は白口で、書名の上に「^」《実際は^の大きいもの=HTML版注》があり、丁付の上に「〇」を付すのが中心で、版心のスタイルに、次の五種がある。

 

1、上部の書名・巻数の上に「^」を付し、下部の丁付の上に「〇」を付すもの。

 《図省略》

 このスタイルが二二五丁と、大部分である。

2、丁付の上の「〇」が無いもの。

 《図省略》

 巻二=9。

3、巻数が「巻第三」とあるもの。

 《図省略》

 巻三=1。

4、巻数が、単に「三」とのみあるもの。

 《図省略》

 巻三=50、51。

5、丁付の上の「〇」の上に横線が入っているもの。

 《図省略》

 巻五=44。

 

丁数 巻一…四十二丁(内、序半丁)。

   巻二…四十四丁。

   巻三…四十一丁。

   巻四…四十二丁。

   巻五…六十一丁(内、跋・刊記約一丁)。

   合計…二三〇丁。

行数 序…愚序+九行、本文・跋…毎半葉十二行。

字数 一行、約二十五字。

段数 巻一…序、四十八段。

   巻二…四十八段。

   巻三…四十二段。

   巻四…五十二段。

   巻五…九十段、躍。

   合計…二八〇段。序、跋。

  本書は、巻二の37丁~42丁の6丁分が落丁しているが、他の諸本で推定した。

  段移りを示す標は「〇」。巻一の6、8、巻二の9・48、巻四の1・4・16・17・18、巻五の12・45は欠。

本文 漢字交り平仮名。振り仮名・濁点を施し、旬読点は「。」と「.」を混用する。

挿絵 巻一…見聞き一図(2ウ・3オ)。片面九図(7オ、11オ、15オ、19オ、23オ、27オ、32オ、37オ、42オ)。

   巻二…見開き一図(3ウ・4オ)。片面七図(9オ、14オ、19オ、24オ、29オ、35オ、41オ)。

   巻三…見開き一図(3ウ・4オ)。片面六図(10オ、16オ、22オ、28オ、34オ、40オ)。

   巻四…片面八図(3オ、8オ、13オ、18オ、23オ、28オ、34オ、40オ)。

   巻五…片面八図(4オ、11オ、18オ、25オ、32オ、39オ、47オ、55オ)。

   合計…見開き三図。片面三十八図。

序 巻一、1丁オに「可笑記 愚序」として自序あり。

跋  巻五、60丁ウから61丁オに、本文に続けてあるが年記は無い。

刊記 巻五、61丁オに、跋に続け、界線で囲む。

 

     于時万治二年正月吉日

 

   板

   本   寺町三条上ル町 山本五兵衛開《界線省略=HTML版注》

 

蔵書印等 「アカキ」陽刻縦長方形朱印(縦一八ミリ×横五ミリ)。帙に紙箋(縦二三〇ミリ×横一二六ミリ、「横山重用」の原稿用紙の裏)を貼付し、横山重氏の次の識語がある。「自分は此本を三つ買った。一つは村口。これは刊記のある巻末一丁欠。八十円。又、/一誠本も買った。八十円。これは完全であったが、虫入りが多かった。総/じて、此本の紙、虫好むか。虫入本を見し事あり。/然るに、昭和十九年、本書を得たり。極上本なり。あだ物語 村口 千二百、子易物語 弘文 千といふに比すれば、むしろ安しとすべし。//500」また、昭和四の杉本目録として、次の紙片が貼付されている。「一 絵入風俗 可笑記/如儡子 帙入/万治二年刊/チヤンバーレン旧蔵/半五/百五拾円」。

その他 巻二の37丁~42丁が落丁。なお、この落丁部分は、国会本の複写が添付されている。

    絵入本は、諸本いずれも虫損が多い。これは横山重氏の指摘(右に掲げた識語)される如く、本文紙の紙質と関係があるのかも知れない。本書は虫損も皆無に近く、原題簽もほぼ完全に存する点で貴重な存在であるが、それだけに巻二の落丁が惜しまれる。

    本書は、横山重氏の旧蔵本であり、昭和四十三年十一月六日、『可笑記大成』出版に関連して拝借、昭和四十五年十一月恵与されたものである。添付された横山氏の葉書には、以下の如く記されている。「この葉書、御手許へ届いた日から、万治刊/の「可笑記」は、貴兄の所有にして下さい。/贈呈します。/私はこの二三年、数氏の方々に、私の本を贈呈して/ゐます。昨二十二日、古典文庫の吉田幸一氏来訪。その/時、宛名だけ書いたこの葉書を吉田氏に示し、可笑記貴兄に贈呈の事を吉/田さんへ話した。で、その日に決定。御本できた時、二、三/部、私へ下さい。それで十分です。/四十五年十二月廿三日/横山重(消印、犬山)」。

 

 〔2〕 秋田県立図書館蔵 14・12/2798(昭和43年8月11日調査)

体裁 半紙本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 縹色原表紙(空押模様あり)、縦二二五ミリ×横一五七ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽。縦一三二ミリ×横三二ミリ(巻一)。「〔新板〕可笑記 絵入 壱(~五)」、巻五のみ「絵入」が「ゑ入」となっている。部分的に破損しており、「壱(~五)」は墨書で補筆されている。

匡郭 四周単辺。縦一七六・五ミリ×横一二五ミリ(巻一1丁オ)。

刊記 落丁のため、無し。

蔵書印等 「富」陽刻枠無しの朱印。「中井蔵書」陽刻方形朱印。「(鶴の絵)正」の陽刻黒印。「秋田図書館蔵書之印」陽刻方形朱印。巻一後見返しに「文化八年未八月下旬/水谷源三 龍州(黒印)」、巻五の34丁ウに「文化八年/八月廿六日」と墨書。その他黒印一顆。

その他 巻一の18丁~42丁、巻二の25丁~44丁、巻三の21丁~41丁、巻四の25丁~42丁、巻五の35丁~61丁が、それぞれ落丁。

 

 〔3〕 上田市立図書館蔵・藤廬文庫 文学/296の1~5(昭和44年3月16日調査)

体裁 半紙本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 縹色原表紙、縦一九五ミリ×横一三五ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽。縦一三四ミリ×横三二ミリ(巻一)。「〔新板〕可笑記 絵入 一(~五)」、巻五のみ「絵入」が「ゑ入」となっている。巻一、巻五は摩損。

匡郭 四周単辺。縦一七五ミリ×横一二四ミリ(巻一、1丁オ)。

蔵書印等 「藤本」陽刻方形朱印。「藤本縄葛」陽刻縦長方形朱印。「縄葛」陽刻縦長方形朱印。「柏」陽刻円形黒印。「上田図書館印」陽刻方形朱印。巻一前見返しに「矢嶋氏」、巻一の38丁ウ上欄に「吉野川/其みな/かみを/尋れば/むぐらの/しづく/はぎの/下露」、巻一の41丁オ6行目の本文「諌申されし也」《「也」の右横に○印あり》の上欄に「〇印 平家/中務/尉/政秀/ナラン/カ」、巻二前見返しに「主親の目をぬすんたる盗人もぬすみ/かたなくいろとさけとに/ヲウヨセ小ヨセノクルワノナトリワセンサンヒナツル/九重モロコシ丁山ナ々サトワカマツレンサン/一座スラリトヲナヲリナサレテヲ々ヨセ吉原/ヨイナカノ丁イロモアヤメノ小ムラサキミヌヒハ/セメテ花□□サキノタカソテカヲルハナヲ々キ/若杉シラツユ□□ノキミガスカタノミヤマジ/ヨリモフミアケマキノカヱリコトタヱヌ瀬川に/カメギクナレハ首尾スガワラノヲリヱカワヲピ/トキワギノカタライニマクラ春日野/カヨウ神」、巻四の36丁オの上欄に横書きにて「つらさをもうらみぬ/我に□□□□/うきみをしらぬ人も/こそあれ」と、それぞれ墨の書き入れがある。

その他 旧蔵者は、藤本善右衛門氏。

 

 〔4〕 小川武彦氏蔵(昭和48年9月26日調査)

体裁 半紙本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 縹色表紙、縦二二一ミリ×横一五二ミリ(巻一)。

題簽 巻五のみ、左肩に子持枠原題簽。縦約一三三ミリ×横三一ミリ(巻五)。「〔新板〕可笑記 ゑ入 五(欠損)」。巻一~巻四は無し。

匡郭 四周単辺。縦一七六ミリ×横一二五ミリ(巻一、1丁オ)。

蔵書印等 「小川蔵書」陽刻方形朱印。鉄に「慎独」陽刻方形朱印。巻一の各丁上欄に「一、二、三……」、巻三の各丁上欄に「壱、弐、参……」、巻四の各丁上欄に「い、に、さ、し、こ、ろ、ひ、む、……」と墨書。

その他 全巻総裏打ちされており、巻二は別本を補っている。また、巻一の35丁は縦一九五ミリの別本のもので、巻三の29丁は縦二〇九ミリの別本のもので、それぞれ補っている。巻二の16丁、巻五の58丁~61丁に欠損あり。巻五の刊記の欠損部は墨筆にて補筆されている。

 

 〔5〕 お茶の水図書館蔵・成簣堂文庫(昭和43年5月7日調査)

体裁 半紙本、三巻三冊(巻一、巻二欠)、袋綴じ。

表紙 藍色表紙、縦一九八ミリ×横一三九ミリ(巻三)。

題簽 左肩に後補書題簽、「可笑記零本 三」(縦一二五ミリ×横三〇ミリ)。「可笑記 四(五)」(縦一三七ミリ×横三〇ミリ)。

匡郭 四周単辺。縦一七五ミリ×横一二三ミリ(巻三、1丁オ)。

蔵書印等 「青山艸堂」陰刻方形朱印。「蘇峯」陽刻方形朱印。「蘇峰」陰刻六角形(内に円形)朱印。「トクトミ」陽刻六角形(内に円形)朱印。「善本」陽刻双辺縦長方形朱印。

その他 巻一、巻二欠。巻五の56丁落丁。

 

 〔6〕 香川大学附属図書館蔵・神原文庫 九一三/五一(平成3年3月11日調査)

体裁 半紙本、一巻一冊(巻五のみ存)、袋綴じ。

表紙 縁色原表紙、縦二二四ミリ×横一五一ミリ(巻五)。

題簽 左肩に剥落の跡のみ。

匡郭 四周単辺。縦一七二ミリ×横約一二二ミリ(巻五、1丁オ)。

蔵書印等 「神原家図書記」陽刻長方形黒印(縦四六ミリ×横一二ミリ)。「香川大学附属図書館」陽刻方形朱印(縦四五ミリ×横四四ミリ)。「寄贈図書/神原文庫/香川大学設立準備委員会」横長円形朱印。「香川大学附属図書館/乙/125406/昭和31・3・30(「42・3・31」を消して「31・3・30」としている)」横長円形紫スタンプ。

その他 巻五の35丁~61丁が落丁。巻五後見返しに「定栄堂蔵板目録」が有る。内容は、〔9〕京都府立総合資料館蔵本と同じであるので省略する。

 

 〔7〕 学習院大学国語国文学研究室蔵・Ⅰ 913・61/5002(昭和41年4月20日調査)

体裁 半紙本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 藍色表紙(空押模様有り)、縦二一九ミリ×横一五六ミリ(巻一)。

題簽 左肩に剥落の跡のみ。

匡郭 四周単辺。縦一七三ミリ×横一二二ミリ(巻一、1丁オ)。

蔵書印 「学習院図書記」陽刻方形朱印。「学習院」陽刻双辺縦長円形朱印。

その他 巻二の9丁が破り取られている。

 

 〔8〕 学習院大学国語国文学研究室蔵・Ⅱ 913・61/5013(昭和41年4月20日調査)

体栽 半紙本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 黒色表紙(空押模様有り)、縦二一六ミリ×横一五一ミリ(巻一)。

匡郭 四周単辺。縦一七六・五ミリ×横一二四ミリ(巻一、1丁オ)。

蔵書印等 「岡田真之蔵書」陽刻双辺縦長方形朱印。「千葉文庫」陽刻縦長方形朱印。「中里」陽刻円形黒印。「学習院図書記」陽刻方形朱印。「学習院」陽刻双辺縦長円形朱印。

 

       

〔9〕 京都府立総合資料館蔵(京都府立図書館旧蔵) 特・840/41(昭和42年7月31日調査)

体裁 半紙本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 縹色原表紙、縦二二五ミリ×横一五五ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽、部分的に摩損多し。「(摩損)可笑記 絵入 四」(縦約一三二ミリ×横約三二ミリ)、各巻同様。

匡郭 四周単辺。縦一七六ミリ×横一二五ミリ(巻一、1丁オ)。

蔵書印等 「徳」陽刻円形黒印。「京都府図書館」陽刻方形朱印。他に蔵書印一穎。巻五後見返しに「定栄堂蔵板目録」が有る。「定栄堂蔵板目録 大坂書林 心斎橋南四丁目 吉文字屋市兵衛/心斎橋筋安土町 同源十郎//古今百物語 珍説ばけもの咄し/全部六冊//太平百物語 近代怪しき咄/全部五冊//御伽厚化粧 同断/全部五冊//一休杉楊枝 一休竹斎両人おどけ/はなし 全部六冊//堪忍記 男女物にかんにんして徳あくる/物語古今を集る 四冊//冥加訓 人と家を治め身を守る/教訓の書 五冊//日本歳時記 年中故実由来等/委細ニ記す 四冊//田田小学 全部四冊//軽口花相撲 当世かるくちはなし/全部五冊//弘法大師御伝記 大師誕生より終迄/委しく有り 五冊//国花諸士鑑 諸国敵打物かたり/全部六冊//西鶴織留 近古長者に成たる/人の物語 六冊//西鶴置土産 織留同断の書/全部五冊//塵塚物語 古代故実はなし/全部六冊//新平家物語 平家をくつして/今様にしたる書 八冊//楠軍物語 楠三代軍功面白く/書載す 全部十冊//風流艶軍談 義経鬼一等のもの/かたり 五冊//見聞難著 南紀安乗川/奥 豊義著 一冊」。

その他 巻一の8丁およぴ18丁~42丁、巻二の25丁~44丁、巻三の21丁~41丁、巻四の25丁~42丁、巻五の35丁~61丁が、それぞれ落丁。巻一の6丁が16丁と17丁の間に入っている。巻一の1丁~5丁は総裏打されている。

 

 〔10〕 慶応義塾大学附属図書館蔵 225/46/5(昭和43年5月20日再調査)

休裁 半紙本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 縹色表紙、縦二一九ミリ×横一六五ミリ。(巻一)。

題簽 左肩に後補書題簽、「可笑記 巻一(~五)」、縦一七〇ミリ×横二九ミリ)(巻一)。

匡郭 四周単辺。縦一七六ミリ×横一二四ミリ(巻一、1丁オ)。

蔵書印等 「北田紫水蔵図書記」陽刻縦長方形朱印。「北田文庫」陰刻双辺縦長円形朱印。「木下氏正路蔵書之印」陽刻縦長方形朱印。「源氏宣印」陽刻方形朱印。「紀州/河内浜/●《=紋省略》重与」陽刻円形黒印。「慶応義塾図書館蔵」陽刻縦長方形朱印。巻一後見返しに「宣清」と墨書。その他朱印二顆。

その他 巻四の16丁は書写である。版本との異同は、句点一箇所、振り仮名一箇所の脱落があり、その他、巻四の17段、18段を示す「〇」と、丁付の上にある「〇」を共に省いている。しかし、書写は非常に忠実になされており、絵入本を敷写ししたものと推測される。また、紙の保存状態からみて、この書写は、かなり古いものと思われる。

本書は、中一弥画伯の旧蔵本である事を確認し得た。

 

 〔11〕 国立国会図書館蔵・Ⅰ 京・295(昭和40年5月6日調査)

体裁 半紙本、四巻四冊(巻五欠)、袋綴じ。

表紙 藍色表紙、縦一九〇ミリ×横一三六ミリ。(巻一)。

題簽 巻二~巻四は、左肩に子持枠原題簽、「(破損)可笑記 絵入 二(~四)」、縦約一三四ミリ×横約三二ミリ(巻二)。

   部分的に破損多し。巻一は、左肩に後補書題簽「可笑記 壱」、縦一三四ミリ×横三〇ミリ。

匡郭 四周単辺。縦一七四ミリ×横一二五ミリ(巻一、1丁オ)。

蔵書印等 「万忠」陽刻縦長方形黒印。「大津/諸本売買/貸本江戸仙」陽刻縦長方形黒印。巻一前見返しに「可遂庵/所蔵」と墨書、「巻五闕」と朱書。

その他 巻五欠。巻三の22丁が破り取られている。

 

 〔12〕 国立国会図書館蔵・Ⅱ 190/54(昭和43年7月29日再調査)

体裁 半紙本、一巻一冊(巻五のみ存)、袋綴じ。

表紙 縹色表紙、縦二一九ミリ×横一五四・五ミリ。(巻五)。

題簽 左肩に後補題簽、子持枠のみ版刷りで文字は墨書、「風流可笑記 全」、縦一六四・五ミリ×横三二・五ミリ。

内題 「風流可笑記 全」。ただし、これは元の内題を消して墨書したもの。

匡郭 四周単辺。縦一七三・五ミリ×横一二四ミリ(巻五、1丁オ)。

刊記 巻五の61丁落丁のため、無し。

蔵書印等 「早川蔵書」陽刻縦長方形朱印(縦二五ミリ×横二一・五ミリ)。「帝国図書館蔵」陽刻双辺方形朱印(四六・五ミリ×四六・五ミリ)。「図/明治三二・三・三〇・購求」陽刻円形朱印(径二二ミリ)。前表紙に白紙貼付「二百二十号/全一冊」と墨書。「190/54」のラベル。

その他 巻五のみの端本。巻五の47丁、61丁が落丁。

 

 〔13〕 佐賀大学附属図書館蔵・小城鍋島文庫 093/7/1(3、5)(平成6年3月22日調査)

体裁 半紙本、三巻三冊(巻二、巻四欠)、袋綴じ。

表紙 紺色表紙、縦二三〇ミリ×横一六二ミリ(巻一)。巻一の下部に破損あり。

題簽 左肩に後補書題簽、「可笑記 絵入 一(三、五)」、縦一五三ミリ×横三四ミリ(巻一)。

匡郭 四周単辺。縦一七六ミリ×横一二五ミリ(巻一、1丁オ)。

蔵書印等 「叢桂館蔵」陽刻縦長円形朱印(縦五四ミリ、横二四ミリ)。「曲肘亭」陽刻縦長方形朱印(縦四二ミリ×横二四ミリ)。「佐賀大学図書館之印」陽刻方形朱印(二五ミリ×二五ミリ)。「佐賀大学附属図書館/昭和/36・3・31/ア第52128(~52130)番/図書館」陽刻横長円形赤スタンプ、番号は青色(縦三九ミリ、横五三ミリ)。「093/7/(1)((3)、(5))/佐賀大学」の茶色ラベル。

その他 巻二、巻四欠。巻一の27丁、28丁落丁。ただし、この部分に巻二の27丁、28丁が入っている。巻一の末尾に巻二の最終丁(44丁)が入っている。

 

 〔14〕 鶴岡市立図書館蔵 L21/J1/1(昭和62年8月8日再調査)

体裁 半紙本、一巻一冊(巻五のみ存)、袋綴じ。

表紙 原表紙は欠。白色厚手和紙を補う。

題簽 左肩に「可笑記 巻第五」と四周双辺でぺン書き。

匡郭 四周単辺。縦一七二ミリ×横約一二〇ミリ(巻五、1丁オ)。

蔵書印等 「●《=省略》」陽刻黒印(縦一二ミリ)。「(年月日不明瞭)/寄贈/斎藤治兵エ氏(黒ペン書き)」陽刻縦長方形朱印(縦四五ミリ×横二七ミリ)。「鶴岡市立図書館」陽刻方形朱印(三〇ミリ×三〇ミリ)。「鶴岡図書館」赤スタンプ「鶴岡市立図書館/820/昭13、8、31和」赤スタンプ、「820」は青色。前見返しに「伊藤泉」「善六」「馬宮」「八郎兵衛」などの墨書。最終丁ウに「L21、J1、1」「099」と黒ペン書き。

その他 斎藤治兵エ氏は、昭和13年8月、鶴岡より転出、その折に寄贈された由。

 

 〔15) 天理図書館蔵 913・61/3/1/(~5)(昭和41年6月6日調査)

体栽 半紙本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 藍色表紙、縦二二四ミリ×横一五五ミリ(巻一)。

題簽 左肩に剥落の跡のみ。

匡郭 四周単辺。縦一七六ミリ×横一二四ミリ(巻一、1丁オ)。

蔵書印等 「堀部所蔵」陽刻方形朱印。「天理図書館/昭和卅四年五月廿日/52721(~52725)」陽刻横長円形未印。

その他 挿絵には色付けされている。巻四の4丁、巻五の60丁、61丁に破損あり(補修済み)。

 

 〔16〕 東京国立博物館蔵 030/と9910(昭和41年4月20日調査)

体裁 半紙本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 緑色表紙、縦一九二ミリ×横一四五ミリ(巻一)。

題簽 左肩に後補書題簽、「可笑記 巻壱(~巻五/大尾)」、縦一四〇ミリ×横二八ミリ(巻一)。

匡郭 四周単辺。縦一七二ミリ×横(?)(巻一、1丁オ)。

蔵書印等 「徳川宗敬氏寄贈」陽刻双辺縦長方形朱印。他に黒印一顆。巻三の42段末「……かくのことし」の後に「なり」と墨書。四の13丁ウの上欄に「但見涙/痕ノ湿/フヲ/不知心/恨誰」と墨書。

その他 巻一の24丁、32丁、巻二の3丁、巻五の61が落丁。巻一の36丁が重複。

 

 〔17〕 東京大学附属図書舘蔵・青洲文庫 E24/659/B7847(昭和41年5月2日調査)

体裁 半紙本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 丹色表紙、縦一九三ミリ×横一三三ミリ(巻一)。

題簽 巻四のみ、後補書題簽の部分を存す。

匡郭 四周単辺。縦一七五ミリ×横約一二六ミリ(巻一、2丁オ)。

蔵書印等 「和久井」陽刻縦長円形朱印「青洲文庫」陽刻縦長方形朱印。「東京帝国大学図書印」陽刻方形朱印。巻一の1丁ウ・2丁オの上欄に横書きにて「享保九辰三月廿八日 キヲクのコ卜」、巻一の16丁ウ・17丁オの上欄に横書きにて「享保八年卯六月十九日/ツ夕や同□月十八日より九年辰/三月十三日迄カメやクゼデキ」、巻三の24丁ウ~26丁オの上欄に横書きで「享保九辰卯月七日痛病ニテ伏間/傾城芥卜□ケ共思傾恋根是ノ他界之習/キヲクのコト一日ノ条百歳ナラス/□□□卜誰カ嗜誰カ謹短也ノ夢一期」、巻四の29丁ウ・30丁オの上欄に横書きにて「享保九辰三月廿六日より病四月……」、巻五の2丁ウ・3丁オの上欄に横書きにて「享保九辰弥生廿八日病中□キヲクのコト志シンノ山」などの墨書。巻五後見返しに白紙貼付、墨書にて「万治二年ハ元禄ヨリ凡三十年ナリ明治三十三年マテ/弐百五十年ニ及フ殊ニ焼版ニシテ人間稀ニ見ル所ナリ/昨三十二年大坂府古書物商某古書展覧会ニ此書一部出品アリ」の識語あり。

その他 巻五の13丁落丁。

 

 〔18〕 東北大学附属図書館蔵・狩野文庫 狩/4/11605/15510(昭和43年8月12日調査)

体裁 半紙本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 縹色原表紙、縦一九五ミリ×横一三七ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽、縦一三二ミリ×横三二ミリ(巻一)。「〔新板〕可笑記 絵入 一(~五)」、巻五のみ「絵入」が「ゑ入」となっている。巻三と巻四が入れ替わっている。部分的に墨で補筆している。

匡郭 四周単辺。縦一七六ミリ×横一二五ミリ(巻一、1丁オ)。

蔵書印等 「林泉文庫」陽刻縦長方形未印。「東北帝国大学図書印」陽刻方形朱印。「荒井泰治氏ノ寄附金ヲ/以テ購入セル文学博士/狩野亨吉氏旧蔵書」陽刻子持枠縦長方形朱印。

その他 巻三の11丁落丁。巻四の30丁が重複。

 

 〔19〕 東洋文庫蔵・岩崎文庫 三/Faろ/23(昭和40年8月14日調査)

体裁 半紙本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 縹色表紙、縦一九六ミリ×横一三三ミリ(巻一)。

題簽 左肩に剥落の跡のみ。

匡郭 四周単辺。縦一七五ミリ×横一二五ミリ(巻一、1丁オ)。

蔵書印等 巻一~巻四の後表紙に「前田久治郎」と墨書。

 

 〔20〕 都立中央図書舘蔵・加賀文庫(旧日比谷図書館) 914/WJ/3(昭和39年12月18日調査)

体裁 半紙本、一巻一冊、(巻一のみ存)袋綴じ。

表紙 茶色原表紙、縦一九〇ミリ×横一三五ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽、縦約一三一ミリ×横約三〇ミリ。

  「〔新板〕可笑記 絵入 一」。

匡郭 四周単辺。縦一七四ミリ×横一二三ミリ(巻一、1丁オ)。

蔵書印等 「加賀文庫」陽刻縦長方形朱印。「東京都立日比谷図書館蔵書之印」陽刻方形朱印。「東京都立日比谷図書館/104353/昭和28・□・□」横長円形黒スタンプ。「914/WJ/3」のラベル。

 

 〔21〕 中野三敏氏蔵(昭和47年3月18日調査)

体裁 半紙本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 縹色表紙、縦二二四ミリ×横一五八ミリ(巻一)。

題簽 左肩に四周双辺後補題簽、双辺は版刷りで文字は墨書。

  「可笑記 一(~五)」、縦一三七・五ミリ×横三三ミリ(巻一)。巻四の原題簽が、巻四の1丁の中に入っている。下部に破損あり。

匡郭 四周単辺。縦一七七ミリ×横一二五ミリ(巻一、1丁オ)。

蔵書印等 「甘露堂蔵」陽刻方形朱印。「久弥蔵」陽刻縦長方形朱印。

 

 〔22〕 山口大学附属図書館蔵・棲息堂文庫 M913・51/N78/A1~5(平成3年9月13日調査)

体裁 半紙本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 縹色原表紙、縦一九六ミリ×横一三五ミリ(巻一)。

題簽 左肩に子持枠原題簽、「(破損)可笑記 絵入(破損)」「〔新板〕可笑記 絵入 二(~五)」。「絵入」が巻五のみ「ゑ入」とある。縦一三四ミリ×横三二ミリ(巻二)。巻一の上下に破損がある。

匡郭 四周単辺。縦一七六ミリ×横一二四ミリ(巻一、1丁オ)。

蔵書印等「徳藩蔵書」陰刻方形朱印(一五ミリ×一五ミリ)。「徳山/毛利家蔵書/明治二十九年改済/第 番/共 冊」陽刻縦長方形朱印(縦四五ミリ×横三〇ミリ)。「寄贈/毛利就挙」陽刻縦長方形朱印(縦五〇ミリ×横一七ミリ)。「山口大学図書」陽刻縦長方形朱印(縦三九ミリ×横七ミリ)。「山口大学図書之印」(陽刻朱印)と思われるものを割印としている。「山口大学附属図書館/文理学部分館/78656(~78660)」横長円形紫印(数字は青色)。「山口大学蔵書/OO81484216」(巻一)、「山口大学蔵書/0081484227」(巻二)、「山口大学蔵書/0081484238」(巻三)、「山口大学蔵書/0081484249」(巻四)、「山口大学蔵書/0081484250」(巻五)の珊瑚色ラベル。「M913・51/N78/A1(~5)」の青ラベル。

 

 〔23〕 龍門文庫 一〇ノ二/814(昭和42年7月30日調査)

体裁 半紙本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 焦茶色表紙、縦二一九ミリ×横一四九ミリ(巻一)。

題簽無し。

匡郭 四周単辺。縦一七六・五ミリ×横一二四ミリ(巻一、1丁オ)。

蔵書印等 「羽前/大泉田川郡/西小野方村/渡辺治左エ門」陽刻縦長方形朱印。「□□/西田川郡□□/三日町兼子山」陽刻縦長方形朱印。「●《=○の中に本》牛込/池清」陽刻縦長方形黒印。「池清」陽刻縦長方形黒印。「龍門文庫」陰刻双辺縦長方形朱印。巻二の22丁ウの上欄に「朱文公/勿謂今日不学而/有来日/勿謂今年不学而/有来年/日月逝矣歳与我/不延呼矣老是/誰愆乎」の墨書。その他の丁の上欄に墨の書き込みあり。

その他 巻二の44丁が巻三の巻末に入っている。巻五の47丁が46丁の中に入っている。

 

 〔24〕 早稲田大学図書館蔵 へ13/1111(昭和41年2月12日調査)

体裁 半紙本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 茶色横縞後補表紙、縦二二五ミリ×横一六〇ミリ(巻一)。

題簽 左肩に、茶色枠付後補題簽で文字は墨書、「可笑記 万治版 一(~五)」、縦一六四ミリ×横三七ミリ(巻一)。

匡郭 四周単辺。縦一七六ミリ×横一二四ミリ(巻一、1丁オ)。

蔵書印等 「早稲田大学図書」陽刻方形朱印。「へ・利・13/1111/1(~5止)」のラベル。

その他 巻二の43丁、44丁落丁。

 

 〔25〕 カリフォルニア大学図書館・東亜図書館蔵 5929・1/4210・1/1659/V.1(~V.5)、受入番号・東154698~154702。(未見、由谷英治、文字幸子両氏の示教による)

体裁 半紙本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 原表紙、(色は未詳)、縦一九四ミリ×横一三三ミリ(巻一)。

題簽 左肩に、子持枠原題簽、縦一三四ミリ×横三一ミリ(巻一)。

  「〔新板〕可笑記 絵入 一(~五)」、巻五のみ「絵入」が「ゑ入」となっている。

蔵書印等 「5929・1/421O・1/1659/V.1(~V.5)」のラベル。

その他 落丁、乱丁無し。

  右の書誌は、カリフォルニア大学図書館・東亜図書館の、由谷英治氏、文字幸子氏の示教(昭和43年8月29日付)によるものである。なお、本書は、その後(昭和62年)国文学研究資料館のマイクロ資料(225―28、バークレイ三井)に収録された。『国書総目録』記載の三井文庫本が、カリフォルニア大学図書館に移管された事は、堤精二氏の示教によって知る事を得た(昭和43年6月19日)。ただ、三井文庫の記録によれば、旧蔵本は、三井文庫の所蔵番号→2476。書名→風流絵入可笑記。著名→武藤西察。巻数→巻四、巻五。冊数→一冊。刊年→万治二年。版元→山本五兵衛。となっているとの事である。三井文庫の旧蔵本は、巻四、巻五のみの端本であるのに、カリフォルニア大学図書館のものは完本である。両者が同一書でない事は明らかである。三井文庫には、二本以上所蔵されていたのであろうか。今後、調査を重ねたい。

 

 〔26〕 大英博物館・図書館蔵 (未見、島本昌一の示教による。昭和55年)

体裁 半紙本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 原表紙、(色、寸法は未詳)。

題簽 左肩に子持枠原題簽、「〔新板〕可笑記 絵入 一(~五)」、巻五のみ「絵入」が「ゑ入」となっている。巻一、巻二、巻三の上部左側に破損あり。全体に摩損している。

蔵書印等 「蜀山人」陰刻方形印。「源淳之印」陽刻陰刻混合方形印。「大町」陽刻縦長方形印。「大町所持」「五冊之内」「考/此五札〇無貧人/負惜者作也/貧儒之心勝/手嘉永年中ニ而者/無〇シ而ハ無立所」等の墨書。「BRITISH・MUSEUM/1957/4/13/6」の円形印。「635」の丸ラベル。

 

 〔27〕 青森県立図書館蔵・工藤文庫 工913/K/1(~4)(未見、国文学研究資料蔵、マイクロ資料、208―138 に拠る)

休裁 半紙本、四巻四冊(巻五欠)、袋綴じ。

表紙 原装か改装か、色等未詳。

題簽 左肩に後補書題簽、「可笑記一(~四)」。

 

 

  【五】 そ の 他(取合本、写本)

 

 〔1〕 大阪府立中之島図書館蔵 甲和/455(昭和41年7月7日調査)

体裁 大本、五巻五冊(巻一=寛永十九年版十一行本。巻二~巻五=無刊記本)、袋綴じ。

表紙 巻一は藍色原表紙(空押模様あり)、縦二七七ミリ×横一八四ミリ。巻二~巻五は藍色表紙。

題簽 巻一は、左肩に子持枠原題簽の部分を存すが、文字は「記」が残るのみ。巻二~巻五は、左肩に子持枠後補題簽で、文字は墨書「可笑記 二(~五)」、縦一六四ミリ×横三六ミリ(巻二)。巻五の下部破損。

匡郭 四周単辺。序…縦二一九ミリ×横一五六ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二二一ミリ×横一五六ミリ(巻一、2丁オ)。巻二…縦二一九ミリ×横一六二・五ミリ(巻二、1丁オ)。

蔵書印等 「大阪府立図書館蔵書印」陽刻方形朱印。「大阪府立図書館/昭和八年二月二十日/105737」陽刻横長円形朱印。

その他 無刊記本に、巻一のみ寛永十九年版十一行本が入れ本されている。

 

 〔2〕 学習院大学国語国文学研究室蔵 913・6/5001/1(~5)(昭和41年4月20日調査)

体栽 大本、五巻五冊(巻一、巻二、巻三、巻五=無刊記本。巻四=寛永十九年版十二行本)、袋綴じ。

表紙 藍色表紙(空押模様あり)、縦二六四ミリ×横一八一ミリ(巻一)。

題簽 巻一、巻二、巻三、巻五は、左肩に子持枠原題簽、「可笑記 一(二、三、五)」、 縦一六三ミリ×横三四ミリ(巻一)。巻一の下部に破損有り。巻四は、左肩に子持枠後補題簽で、文字は墨書、「可笑記 四」、縦一六一ミリ×横三七ミリ。

匡郭 四周単辺。序…縦二一九ミリ×横一六一・五ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一一ミリ×横一六七・五ミリ(巻一、2丁オ)。巻四…縦二一〇ミリ×横一六七ミリ(巻四、1丁オ)。

蔵書印等 「青谿書屋」陽刻方形未印。「岡田真之蔵書」陽刻双辺縦長方形朱印。「興津氏」陽刻縦長方形朱印。「□□/対梅宇主/荻原乙彦/蔵于俳書/二面精舎/□」陽刻縦長方形朱印。「大島氏図書」陽刻方形朱印。「学習院図書記」陽刻方形朱印。「学習院」陽刻双辺縦長円形朱印。他に黒印一顆。巻五後見返しに墨書にて「関原軍記大成ニ湯村式部と号する者可笑記といふ草子を作とあり/右軍記ハ四十五巻あり正徳癸巳三月宮川忍斎尚古作なり/一 可笑記巻中に嶋原軍之事も見へ并大坂軍より此比まて三十年に/なるとあり寛永之末比作歟巻末ニ寛永十三とあれ共嶋原軍ハ寛永/十四年ニ始リ寛永十五年二月廿八日滅亡なり」「恵寿/求之」とあり。

その他 無刊記本に、巻五のみ寛永十九年版十二行本が入れ本されている。

 

 〔3〕 天理図書館蔵 913・61/イ9(昭和41年7月7日調査)

体裁 大本、五巻五冊(巻一、巻二、巻四、巻五=寛永十九年版十一行本。巻三=寛永十九年版十二行本)、袋綴じ。

表紙 藍色表紙、縦二六四ミリ×横一八四ミリ(巻一)。

題簽 左肩に後補題簽、子持枠のみ版刷りで文字は墨書、「可笑記一(~五)」、巻一の題簽内右側に「如儡子寛永板」と墨書。縦一八五ミリ×横三九ミリ(巻一)。各巻上部に破損有り。

匡郭 四周単辺。序…落丁。本文…縦二二〇ミリ×横一五四ミリ(巻一、2丁オ)。巻三、1丁オ…縦二一四ミリ×横一六六ミリ。

蔵書印等 「永田文庫」陽刻縦長方形朱印。「釈色受艸」陽刻方形朱印。「天理図書館印」陽刻方形朱印。「天理図書館/昭和十二年三月廿二日/96900(~96904)」陽刻横長円形朱印。以下の各丁上欄等に朱筆の書き込み有り。巻一の46丁ウ「元隣か作にも見ゆ」、巻二の6丁オ「作者理想の人」、巻三の10丁ウ「作者諷誡ノ意」、巻三の38丁オ「寛永頃江戸火事場の掟」、巻四の15丁オ「寛永頃の柳原のかたはら丁」、巻四の28丁ウ「名文」、巻四の36丁ウ「徒然草に出づ」、巻四の45丁ウ「作者の試作」、巻五の18丁ウ「作者の素性」、巻五の61丁ウ「作者の伝」。

その他 巻一の1丁、巻二の54丁、55丁落丁。寛永十九年十一行本に、巻三のみ寛永十九年版十二行が入れ本されている。

 

 〔4〕 早稲田大学図書館蔵 へ13/1700(昭和43年7月24日再調査)

体裁 大本、五巻五冊(巻一=無刊記本。巻二~巻五=寛永十九年版十一行本)、袋綴じ。

表紙 後補濃縹色表紙、縦二五八ミリ×横一七七ミリ(巻一)。題簽の状態から推測するに、原表紙は空押模様の有る藍色表紙であったと思われる。

題簽 左肩に子持枠原題簽、「可笑記 一(~四)」、縦一六八ミリ×横三七ミリ(巻一)。巻五は無し。なお、この原題簽は、藍色の原表紙から切り取って貼付したもの。

匡郭 四周単辺。序…縦二一七ミリ×横一六一ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一〇ミリ×横一六一ミリ(巻一、2丁オ)。巻二…縦二一六ミリ×横一五五ミリ(巻二、1丁オ)。

刊記 巻五の85丁ウの刊記「寛永壬午季秋吉旦刊行」の後に、

  「大坂心斎橋通リ西へ入南久宝寺町南側

        平 野 屋 九 兵 衛」

  とあるが、これは木版刷の紙を貼付したもの。

蔵書印等 「早稲田大学図書館」陽刻方形朱印。他に朱印二顆。巻一の1丁ウに、朱筆にて次の如くあり。「予端龍軒恕翁が撰せし関ケ原軍記大全を読した/恕翁が親族湯村式部か著ところの可笑記に本庄越/前守繁長が東禅寺右馬守を討て正宗ノ刀を得/し事を引たり因此ノ書の撰者の名を知し故爰に記/置く読者是を察すべし」。巻一の2丁オに「湯村式部著」と朱書。

その他 寛永十九年版十一行本に、巻一のみ無刊記本が入れ本されている。

 

 〔5〕 渡辺守邦氏蔵(昭和55年8月30日調査)

体裁 大本、五巻五冊(巻一~巻三=寛永十九年版十二行本。巻四、巻五=無刊記本)、袋綴じ。

表紙 巻一~巻三は、万字つなぎ牡丹唐草模様丹色原表紙、縦二八一ミリ×横一九三ミリ(巻一)。巻四・巻五は、前表紙は万字つなぎ牡丹唐草模様丹色表紙、後表紙は栗色表紙、縦二七八ミリ×横一八三ミリ(巻四)。

題簽 巻一~巻三は、左肩に子持枠原題簽、「(破損)笑記 一」「可笑記 二(三)」、縦一六八ミリ×横三八ミリ(巻二)。巻四・巻五は、左肩に後補書題簽「可笑記 四(五)」。

匡郭 四周単辺。序…縦二一二ミリ×横一七〇ミリ(巻一、1丁オ)、本文…縦二一五ミリ×横一六七ミリ(巻一、2丁オ)。巻四…二一五ミリ×横一六四ミリ(巻四、1丁オ)。

蔵書印等 「●《=「に中》『/江州/八日市/金□出町/中嶋茂左エ門」陽刻縦長方形黒印。「中嶋茂左エ門」陽刻縦長方形朱印。墨書による以下の如き書き込みあり。巻一前表紙に「(可)笑記本」。巻一前見返しに「天保十/明治十二年/己卯一日改/□一二三四」、「近江国/た子のうら/うち出/みれは」。巻一後見返しに「元禄二年……」。巻一後表紙に「丙明治九/子八月一日改/蒲生郡……/中嶋茂左エ門」、「一ジンコウ 一ニウコウ 一□ヤク/一モクコウ 一トシヽ各五分/一ウイキヤウ 一ハコシ七分/一タウニン四分/一右ノ八ツ也ヲ粉ニシテ水ニテコネ/タル……」。巻二前表紙に「可笑記」。巻二前見返しに「□一二三四」。巻三前表紙に「可笑記」、「記」。巻三前見返しに「可笑記」、「可笑記」、「改一二三四」。巻三後見返しに「花苗矢/名香志摩」。

その他 巻五の1丁は落丁であるが、書写で補っている。この丁の本文は、寛永十九年版に依ったものと推測される。振り仮名は全て略し、愚痴→愚知、処也→処なり、又→また、いふ共→云とも、などの異同がある。巻四の1丁ウ1行目の「…の根本ハ。まづ…」など、欠損による欠字の部分を補写している。

  巻一~巻三は、寛永十九年版十二行本、巻四・巻五は無刊記本の取合本である。

 

 〔6〕 東京大学国語国文学研究室蔵 E24/L20327(昭和41年5月2日調査)

体裁 写本、大本、五巻五冊、袋綴じ。

表紙 藍色表紙(空押模様有り)、縦二七三ミリ×横二〇〇ミリ(巻一)。

題簽 左肩に書題簽、「可笑記 一」「可笑記 巻之二(~五)」、縦一七四ミリ×横三四ミリ(巻一)。

序題 巻一、1丁オに「愚序」。

内題 各巻1丁オ(巻一は2丁オ)に「可笑記巻第一(~五)」。

尾題 無し。

丁数 巻一…五十二丁(内、序半丁、半丁空白)。

   巻二…五十七丁。

   巻三…五十一丁。

   巻四…五十六丁。

   巻五…八十五丁(内、践一丁、刊記半丁)。

   合計…三〇一丁。

行数 序…半葉十行、本文…毎半葉十一行、躍…毎半葉十一行。

字数 一行、約二十字。

段数 巻一…序、四十八段。

   巻二…四十八段。

   巻三…四十二段。

   巻四…五十二段。

   巻五…九十段、跋。

   合計…二八〇段。序、跋。

  段移りを示す標は無い。

本文 漢字交り平仮名。振り仮名・濁点を施し、句読点は「.」「。」を混用している。

挿絵 無し。

序  巻一、1丁オに「愚序」として自序あり。

跋  巻五、84丁ウ・85丁オに自跋あり、その末尾に次の如く有り。

  「于時寛永十三

      孟陽中韓江城之旅泊身筆作之」。《振り仮名省略》

刊記 巻五、85丁ウに「寛永壬午季秋吉旦刊行」。

蔵書印等 「春門雲歩」陽刻縦長方形朱印。「嘉通」陽刻方形朱印。「東京帝国大学図書印」陽刻方形朱印。「国文」陽刻横長方形朱印。

その他 寛永十九年版十二行本の写しと思われる。

 

 現在までに調査し得た『可笑記』の諸本は以上の通りである。未調査本も若干あるが、これについては、改めて調査することとし、右の諸本に関して考察を加えることにする。


  【一】 寛永十九年版十一行本


 『可笑記』は如儡子(斎藤親盛)の代表的な作品であり、その執筆開始は、寛永六年(一六二九)とも言われているが(注1)、跋文の寛永十三年に一応の形を整え、その後も加筆され、最終的には、その刊年、寛永十九年(一六四二)に成立したものと推測される。

 この『可笑記』には、前述の通り四種の版があるが、後に詳述する如く、寛永十九年版十一行本が、最も早いものであると判断される。近代になり、この作品を最初に翻刻刊行したのは、大正三年の『徳川文芸類聚』第二巻(教訓小説)である(注2)。使用した底本の明示は無いが、末尾の刊記は、次の如くである。

 「寛永壬午季秋吉旦刊行

     大阪心斎橋通西入南久宝寺町南側

              平 野 屋 九 兵 衛」

 これは、その後の調査で判明したが、【五】の〔4〕に揚げる、早稲田大学図書館所蔵の取合本のものであった。さらに、昭和三年の、近代日本文学大系・第一巻『仮名草子集』(注3)も同じ底本に拠るものと推測され、これらの本文が流布したためか、大正十五年の、朝倉亀三氏の『新修日本小説年表』も、この寛永十九年版を大坂の平野屋九兵衛刊の如く記しておられるし、長澤規矩也氏も、そのように受け取っておられたようである(【三】の〔1〕本、長澤氏の識語参照)。

 つまり、『可笑記』の初版は、寛永十九年に大坂の平野屋から出されたという事で、しばらくの間、理解されていたようである。

 『徳川文芸類聚』及び、近代日本文学大系・1『仮名草子集』が使用したと推測される、早大取合本(へ13/1700)は「寛永壬午季秋吉旦刊行」の刊年記の後に、

  「大坂心斎橋通リ西へ入南久宝寺町南側

         平 野 屋 九 兵 衛」

とあるが、実は、この部分は、木版で印刷したものの張込みである。

 横山重氏は、すでに、その版本考(【一】の〔13〕本の識語)で「本書について、朝倉氏の年表に、寛永十九年板を大坂板とし、刊行者の名を「平野屋九兵衛」とありと。その本、十一行本か、十二行本か。而して、初印か、再印か、全く不明なり。ひそかに思ふ。朝倉氏のいふ、大坂板といふは、十一行本か、十二行本かの、後印本にあらざるか。尚、恐らく、十二行本の後印本にあらざるか。尚、今後の調査を要す。」と、疑問を提出しておられた。この識語の執筆時期は未詳であるが、横山氏が原本を見る以前に、これを後印本と推測されたのは、寛永期の大坂板という点に着目されたからであろうと思われる。

 井上和雄氏の『慶長以来書賈集覧』(注4)を見ても、平野屋九兵衛は入っていない。また、大阪の書肆で最も早いのは、万治年間(一六五八~六一年)から活動した正本屋太兵衛であり、寛永期には見当たらない。やはり大阪の出版は寛永期よりかなり下った、明暦・万治頃からとするのが妥当のように思われる。しかし、この【五】の〔4〕早大取合本は、【一】の〔5〕九大本、〔7〕内閣本、〔9〕大東急本、〔12〕平井氏本、〔13〕横山氏本、〔16〕早大本、〔18〕桜山本の、いずれよりも早い刷りと判断されるのであり、これらの点を考え合わせると、この平野屋九兵衛は刊行者というよりも、販売者的性格が強かったのではないかと推察される。平野屋九兵衛がもし版元であるなら、版木を所有しているはずである。何故、自分の住所や名前を張込みにしたのだろうか。たとえ、後で追加するにしても、入木して印刷する方法があると思う。また、諸本中、この張込みがあるのは、早大取合本のみというのも疑問である。

 池上幸二郎氏は「平野屋は、版元から求めた版本に、このような自分の住所と名前を印刷した紙片を張り込んで、売り捌いていたのではないか」(口頭)と御示教下さったが、妥当のように思われる。また、鈴木敏夫氏は「江戸時代の本や」(注5)で、明暦・万治頃の出版状況を推測して「大阪にも、このころからやっと京都の出店らしきものが現われるが、おそらく京都書肆の出張販売(あるいは行商)時代。」としておられる。

 次に、この版には、刊記の左側に、刷り跡(よごれ)が見られるが、これに関して、田中伸氏は、〔9〕大東急本の刷り跡は、書肆名等の文字の削除跡ではないかと推測しておられた(注6)。田中氏は下の部分の刷り跡に「田」の字の形を認められ、それは【五】の〔4〕早大取合本の「平野屋」の「野」の一部、または「久宝寺町」の「町」の一部ではないかと推測されていた。これについては、次のように考える。

 このような刷り跡が見られる原因として、①、すでに刷り跡のある紙を使用した。②、書肆名その他の文字の削除跡。③、印刷の場合に空白部分に墨が着き、生じた跡。この三つの場合が考えられる。①については、この〔9〕大東急本の他に、〔4〕九大本、〔7〕内閣本、〔13〕横山氏本、〔16〕早大本、〔21〕台湾大本にも同様な刷り跡が出ているので、これは除く事が出来る。刷り跡の出ている位置から考えると、②ではないかとも思われるが、この刷り跡に確実に文字の痕跡と思われる箇所が無く、また書肆名などを彫り捨てる場合、意識的に深く削るのではないか、という事も推測される点で、これをただちに削除跡と断定する事は出来ない。なお【五】の〔4〕早大取合本の張込みのものと、この刷り跡とは、寸法等を比較して検討したが、深い関係は無いものと考えられる。次に、③の場合であるが、大本の版面に刊記を一行のみ印刷する場合、空白部の版木に墨が着く可能性も、その版面に紙面が接する可能性も大きいと思われる。この事は、【二】の〔3〕神宮文庫本にも、似通った刷り跡が出ている事でも納得がゆく。要するに、現時点で②、③いずれとも断定は出来ないにしても、可能性は、③の方が大であると考えられる(注7)。

 この寛永十九年版十一行本は、初版であると思われるが、原本の印刷面を見ると、文字の大小、印刷の墨の濃淡などか目につく。巻一の17丁オ2行目の字詰を見ると、

 「うちに君もろともにミもしミせばやとまつかひもなくあ」

と、二十五字詰になっている。この十一行本は、平均二十字詰であるのに、この行が、特に二十五字詰になっているのは「ミもしミせばやとまつ」の部分に主たる原因がある。この十字は約七字分のスペースの中に書き詰められており、しかも、印刷の墨も、この部分が非常に濃く出ている。つまり、この部分は入木したものと思われるのである。これは、写本から版下を作る際に「ミもし」の「ミ」から「ミせばや」の「ミ」に目移りして、「ミもし」の三字を誤脱させてしまい、そのまま版木に彫りつけてしまったものと思われる。そして、印刷の前に(または数部印刷の後に)この誤脱に気付き、入木して訂正したものと推測されるのである。〔19〕の架蔵本は、巻一のみの端本であるが、刷りは非常に早いものと思われるのであり、この本において、すでに入木されている点から考えると、この訂正は、初印本と断定できないにしても、それに近い段階で行われたのではないかと推測される。

 その他、ざっと目を通して気付いた箇所を掲げると、以下の通りである(注8)。(109ページ写真参照)《HTML版では写真省略》

 

○巻一の3丁ウ9行目、

 「し給ふべからずされバ主君も父母も御身のひはうあざけ」

○巻一の34丁オ8行目、

 「れこといりぼりなる吟味だてを小片てをして人にしたし」

〇巻三の14丁オ3行目、

 「て面白くいさめたりとて合戦を相やめたまふと也」

〇巻三の41丁オ3行目、

 「のせたり御らんあるへく候所詮万事万物に」

〇巻三の41丁オ8行目、

 「武士道もちとにかたのやうに思ひなさるゝけに/゛\」

〇巻三の52丁ウ1行目、

 「心ある侍は人もなし扨百嫁町人ばらふしん作」

〇巻四の18丁オ4行目、

 「後にハ国家破滅すべしまことに亢龍の悔ある」

〇巻四の33丁オ1行目、

 「事をや扨調合するに大ぶく小ぶくこえたる」

〇巻四の33丁オ2行目、

 「人やせたる人せい高き人ひくき人男女老少病の軽重」

〇巻四の33丁オ3行目、

 「薬の浅深四季土用方角などの心得あるべし」

〇巻五の18丁オ1行目~3行目、

 「人の恩情をもかんじしらずうときしたしきをもわきまへしらず義理じひをもおもんじしらずさあれは主親兄弟親類ちいん僧法師の物をもかすめ取おしたをさん事何の」

〇巻五の69丁ウ6行目、

「のかけ引桂馬の筋違飛香車の一向金銀のかこひ」

 

 右に掲げた中の傍線の部分が、墨の色が他よりも濃く、または薄く、文字が他より大きく、または小さかったりする。つまり、これらは入木されたものと思われるのである。巻五の18丁オ1行目~3行目は、全休に文字が小ぶりで、字数も、25・25・24字と、他の行よりも多い。さらに、17丁ウの10行・11行も、24・24字となっている。これなどは、版下段階あたりで、誤脱に気付き、その字数が多かったためか、この五行位の間で補正したものと思う。いずれにしても、初版本以前に、自筆写本があり、作者などの指示によって、版下段階、または、印刷の早い段階で訂正したものと思われる。

 次に、版心の様式に十一種ある事は書誌の項で示した通りであるが、このように多くの様式が、一作品の中で生じる原因については、現在、明らかにし得ない。1丁~4丁は、巻二~巻五ともに「1」の様式であり、巻一も「5」で、「1」に近いものである。9丁~12丁は、巻二~巻四が共通して「3」となっている。版下作成の過程は、どのような手順であったのか。あらかじめ匡郭の界線のみを書き込んだ用紙に、版下書(能書家)が本文や柱題・丁付を書き込み、これを版木に貼り、何人かの彫師によって彫られ、版心の飾りは、彫る段階で適宜装飾されたものであろうか。そのような事情から、この様な不統一が生じたとも考えられる。今後、他作品の版心も調査して考えてゆきたいと思う。

  【二】 寛永十九年版十二行本

 この版は、寛永十九年版十一行本を敷写しして作った版下を使用したものである。従来、言われている如く、覆刻版(かぶせ版)は、原本(前の版)を解体して、版木に貼り付けて彫るものである、とするなら、厳密には覆刻版(かぶせ版)と言い得ないにしても、それに近い性質のものである。

 その根拠の第一は、十一行本と十二行本であるため、それぞれ、一行ずつのずれが出来る訳であるが、このずれの箇所の行間を調べてみると、十二行本において、十一行本の丁移りの箇所の行間が、他の行間と不揃いであり、全体的に広めになっている。また、ある場合には、それを境目として、行の頭の高さに落差が見られる。そして、この反対の現象が十一行本には見られない。

 巻二56丁ウ1行目(十二行本では、51丁ウ10行目、以下、丁数表示は原則として十一行本で示す)の「銭一文」の振り仮名「ぜに」は、この行が1行目のため、版心の匡郭と接しており、「銭」の字のやや上方に窮屈な状態で寄せられて付されている。この箇所の十二行本は10行目で匡郭とは関係ないが、十二行本と同様に刻している。これと逆に、巻二55丁ウ2行目の「玄山」の振り仮名は、ゆったりと付されている。この箇所の十二行本は、51丁オ1行目であるため、ノドの匡郭と重なる。そこで十二行本は匡郭を削り取っている。これらは一例に過ぎず、全体に亙ってこの現象が見られる。(112ぺ―ジ写真参照)

 第二に、天地の寸法を比較すると、十二行本の方が短い、という事である。


《表省略》


 この表は、各巻第1丁オ第1行目の天地(巻一は2丁オ)の寸法を【一】の〔18〕桜山文庫本と【二】の〔1〕国会本に拠って計ったものである。縮小率は必ずしも一定していないが、いずれも十二行本の方が短くなっており、これは、かぶせ版は縮小する、という原則に適っている。匡郭寸法を比較してみると、十二行本は十一行本より縦が短くなっているのに横は長い。これは十一行本を敷写しして版下を作り、しかも一行増したところから生じたものと考えられる。また、縮小率が一定していないのは、印刷時の紙の湿り具合、印刷の先後、文字のしずみの出具合(殊に差の少ない巻二、巻四の行末の文字が「ツ」「折」である事は注意してよいと思う。)などの条件が関わっていると思われる。

 第三に、十一行本と十二行本の本文異同の関連から考えても、この事は実証し得るものと思われる。

 この作品の本文異同に関しては、本誌第一号で考慮した事がある(注9)。ここでは、その結果を簡略に紹介したい。使用原本は、十一行本は桜山文庫本、十二行本は国会図書館本を使用し、異同箇所の表示は十一行本に拠った。なお、異同調査の範囲は巻一とし、必要に応じて巻二以下も加えている。

 

ⅰ、十一行本・十二行本の本文異同……3   (上が11行本)

 ①、7丁ウ1行目 わたし→わたり

 ②、28丁ウ6行目 ゑいよう→ゑいかう

 ③、47丁オ7行目 あつさ→あつゝ

  ①の「し」「り」、②の「よ」「か」、③の「さ」「ゝ」は共に類似した書体であるため、敷写しの段階、または版木に彫り刻む段階で生じたものと思われる。(113ページ写真参照)

 

ⅱ、十二行本で付加した振り仮名……16

 ①、2丁ウ6行目…情(なさけ)   ②、11丁ウ3行目…男(おのこ)

 ③、12丁オ4行目…求(もとめ)   ④、12丁オ7行目…求(もとめ)

 ⑤、13丁オ2行目…百(もゝ)    ⑥、15丁オ6行目…詞(ことば)

 ⑦、15丁オ8行目…対(たい)    ⑧、15丁ウ1行目…所詮(しよせん)

 ⑨、21丁ウ10行目…真実(しんじつ) ⑩、21丁ウ10行目…剛(かう)

 ⑪、22丁オ10行目…詞(ことば)   ⑫、25丁オ6行目…槙(まき)

 ⑬、25丁ウ6行目…破損(はそん)  ⑭、28丁ウ11行目…彌字(みじ)

 ⑮、31丁オ3行目…無欲心(むよくしん)

  これらの内、②・③・④・⑤・⑨・⑩・⑪の文字は特に太めで、伸び伸びとしておらず、印刷の墨も他に比較して濃く出ている。あるいは、後刷の場合に入木したという可能性が高い。

 

ⅲ、十二行本で省略した振り仮名……3

 ①、22丁オ7行目…味(み)    ②、31丁ウ9行目…計(けい)

 ③、34丁オ1行目…同(どう)

  これらは、版下書写段階または、版木を作る過程で脱落したものと思われる。

 

ⅳ、十二行本で付加した濁点……20(振り仮名……0)

ⅴ、十二行本で省略した濁点……55(内、振り仮名……16)

  清濁の異同についての具体的な箇所は掲げないが、十二行本が濁点を多く省略している事は注意すべきである。これらは、版木に彫り刻む段階で省いたものであろうか。

 

ⅵ、十二行本は句読点を付加している。

  十一行本において句読点は皆無であるが、十二行本では、ほぼ全体に亙って「.」「。」を付加している。原本をそのまま、版木に貼る方法では生じる可能性が低い。

 

ⅶ、十二行本で簡略化した文字……6

 ①、8丁ウ2行目…愛着のおもひに

 ②、8丁ウ4行目…されは知者においてハ

 ③、17丁オ11行目…かくて古き詩

 ④、22丁ウ7行目…是に心づきて

 ⑤、29丁ウ10行目…まうねんしうぢやくによつて

 ⑥、30丁オ3行目…すでに法賊よ

  十一行本と十二行本の書形は、一見非常に類似しているが、子細にみると運筆等に相違が認められる。そして、右に掲げた箇所の傍点を付した文字「に」「詩」は、十二行本で簡略化された書形となっている。さらに、

 〇 28丁オ1行目…籠やにめしうとおほく

  この「と」は、十二行本で、かなり異なる書形となっている。

 

ⅷ、巻二以下の異同

 ①、巻二、9丁オ1行目…牢人(らうにん)→牢人(ちうにん)

 ②、巻二、24丁オ6行目…よく候→はく候

 ③、巻三、9丁ウ1行目…乱世(らんせ)→乱世(ちんせ)

 ④、巻三、13丁ウ1行目…いかりうらミ→いかりうしこ

 ⑤、巻三、18丁オ3行目…せんだく→せんざく

 ⑥、巻三、31丁オ1行目…いやとの→い□□の

 ⑦、巻三、31丁ウ1行目…一首→一しゆ

 ⑧、巻三、34丁ウ11行目…むさくきたなく→むとくきたなく

 ⑨、巻四、31丁ウ1行目…日ころ→ひころ

 ⑩、巻四、32丁オ6行目…異(い)国→異(の)国

 ⑪、巻四、38丁オ1行目…となるといへる→ことなるといへる

 ⑫、巻五、16丁ウ8行目…後生(ごしやう)→後生(ごせう)

 ⑬、巻五、18丁ウ11行目…度(たひ)→度(たゝ)

 ⑭、巻五、23丁オ2行目…一とせ出羽(でハの)→一しせ出羽(いてハの)

 ⑮、巻五、23丁オ10行目…やさしけれども→やさしけれ□も

 ⑯、巻五、32丁オ4行目…無類なるべし→無類なるべ

 ⑰、巻五、38丁ウ9行目…病(やまひ)→病(やうひ)

 ⑱、巻五、53丁ウ11行目…古人の詞にも→古人の詞に

  これらの異同のほとんどが、②の「よ」→「は」の如く類似した字形からくるものであったり、⑩の「い」→「の」の如く、十一行本が減字であるところから生じたものであったり、要するに、巻一の三箇所の異同と同様のものであると言い得る。ただ、⑦の「首」→「しゆ」、⑨の「日」→「ひ」、⑫の「生(しやう)」→「生(せう)」、⑱の「にも」→「に」は注意すべきである。十二行本は、前述の如く、十一行本の準かぶせ版であると思うが、従来説かれている如く、かぶせ版は原版をそのまま版木に貼り付けて刻むものであるとするならば、彫工は版下に忠実に刻むものであるとも言われており、この様な異同は生じないはずである。やはり、これらの異同は書写の段階で生じたものと思われ、この両版に関しては、十一行本を敷写しして版下を作ったものと推定したいと思う。さらに、これらの異同の生じている箇所が、十一行本の一行目と十一行目、つまり版面の両端に多いという事も、以上の判断を支えるものと思われる。

 

 以上の事を考え合わせると、十二行本は十一行本を原版に使用したため、同じ刊記を有するが、実際の刊行年は寛永十九年よりも、やや後とするのが妥当と考えられる。

 次に、版心の装飾の様式であるが、書誌の項で掲げた如く、三十二種という多きを数える。十一行本との関連の有無など検討してみたが、明確なものは出てこない。やはり、版下には匡郭の界線のみを書き込み、花びらの数などは、彫師が彫りの段階で適宜装飾したもののように思われる。
 

  【三】無刊記本


 この版には、刊記がないが、水谷不倒氏以来(注10)、寛文頃の刊行とされてきたものである。これに対して、前田金五郎氏の寛永十九年以前の初版本とする説(注11)もある。また、横山重氏は「本害に、万治頃の刊本あり。これに刊年記なし。反町氏、巻末の「于時寛永十三」云々をとりて、寛永中刊とすれど然らず。」と【一】の〔13〕十一行本の識語で記しておられる。私は、以上の諸説を参照して考えたが、この無刊記本は、寛永十九年以後、万治二年以前の刊行とするのが妥当と考える。そのように考える理由は以下の如くである。

 第一に、寛永十九年版と無刊記本の間には、かなり多くの本文異同がみられるが、それらは、寛永十九年版の増補とするよりも、無刊記本の脱落および省略とみる事の方が妥当と思う(注12)。

 第二に、当時の書籍目録の記録を掲げると以下の如くである(注13)。

 

 ①、万治筆写『新板書籍目録』(東寺観智院蔵)

  「可笑記」(55丁ウ)

 ②、寛文無刊記『和漢書籍目録』

  「五冊 可笑記

   五冊 同小本絵入

   十冊 同評判  」

 ③、寛文十年秋、西村又左衛門・又右衛門刊『増補書籍目録/作者付/大意』

  「五冊 可笑記 大小 如儡子作

   十冊 同評判 浅井松雲了意 」

 ④、寛文十一年夏、山田市郎兵衛刊『新板増補書籍目録/作者付大意』

  「可笑記 大小/如儡子作 五

   同評判 浅井松雲/了意 十」

 ⑤、延宝三年孟夏、毛利文八刊『増続古今本朝彫刻書籍題林/作者付/大意入』

  「五 可笑記 大本/小本 如儡子作

   十 同評判 了意      」

 ⑥、延宝三年仲夏、江城下之書林刊『新増書籍目録』

  「五 可笑記 如儡子作

   五 同大字

   五 同小本

   十 同評判 浅井松雲

   五 同跡追    」

 ⑦、天和元年春、山田喜兵衛刊『新撰書籍目録大全/直段付太意』

  「五 可笑記 如儡子  五匁五分

   五 同大字      七匁

   五 同小本      四匁

   十 同評判 浅井松雲 廿匁

   五 同跡追      五匁 」

 ⑧、貞享二年孟春、西村市郎右衛門他三肆刊『広益書籍目録』

  「五 可笑記 大本/小本 如儡子作

   十 同評判     了意 」

 ⑨、元禄五年、八尾市兵衛他三肆刊『本朝彫刻広益書籍目録大全/作者付大意』

  「五 可笑記 大本/小本 如儡子作

   十 同評判     了意作

   五 同跡追        」

 ⑩、元禄九年孟春、河内屋利兵衛刊『増益書籍目録大全』

  「五/村上  可笑記 如儡子作  五匁

   五/野田弥 同小本       二匁五分

   十/上村  同評判 了意    十五匁

   五/いせや新 同跡追      三匁 」

 ⑪、元禄十二年正月、永田調兵衛他二肆刊『新板増補書籍目録/作者付大意』

  「五 可笑記 大本/小本 如儡子作

   十 可笑記評判   了意

   五 可笑記跡追      」

 ⑫、宝永六年中夏、丸屋源兵衛刊『増益書籍目録大全』

  「五/平の佐/丸や源 可笑記 如儡子作 五匁

   五/野田弥   同小本   三匁五分

   十/上村    同評判 了意 十五匁

   五/いせや新  同跡追    三匁 」

 ⑬、正徳五年正月、丸屋源兵衛刊『増益書籍目録大全』

  「五/平の佐/丸や源 可笑記 如儡子作

   五/野田弥    同小本   五匁五分

   十/上村    同評判 了意 廿五匁

   五/いせや新   同跡追   三匁 」

 

 右に掲げた、当時の書籍目録の記載を見ると、⑥の延宝三年仲夏、江戸で刊行された『新増書籍目録』から、大字本が見え、⑦の天和元年春、山田喜兵衛刊の目録では、大本を五匁五分とし、大字本は七匁、小本は四匁となっている。この大字本は寛永十九年版十一行本・十二行本、大本は無刊記本、小本は絵入本と推測されるが、この価格の差は、出版の時期に関連しているのではないかと思われる。つまり、大字本(寛永十九年版)は、この時点において、すでに希少価値をもっていたものと推測される。

 以上、第一の無刊記本の本文には、多くの脱落・省略がある事、第二の、当時の価格差を合わせ考える時、無刊記本は、寛永十九年版より後の刊行と推測されるのである。

 第三に、本文の異同関係から考えると、無刊記本は、万治二年版の絵入本より前の刊行と思われる(注14)。

 第四に、無刊記本の書体であるが、これについて、水谷不倒氏は、大正八年刊の『仮名草子』(注15)で「又大本の挿絵なきものにて別版あり。書風原版とは異なり、年号を逸すれども、絵入本よりは遥に後の版行なるべし。」(傍点引用者)とされたが、その後、昭和四年発行の『新撰列伝体小説史前編』では「此書初版は寛永十九年、其後寛文初年複刻せられた……」と、やや表現を変えておられる。

 無刊記本の書体は、丸みを帯びて小振りとなっている。一行の字数も寛永十九年版が約二十字であるのに対し、無刊記本は約二十三字となっているが、これは、寛永版の伸び伸びとした、やや大きめの字と異なり、万治・寛文頃の版本に多く見られるものと同じように思われる。また、版心なども、寛永十九年版の半黒口魚尾に花びらを配す、という手の混んだものに対し、無刊記本・絵入本・可笑記評判は、共に簡略なものとなっている。

 これらの点で、無刊記本が寛永十九年版よりも後のものである、という事は納得できるが、「絵入本よりは遥に後の版行」という点には疑問が残る。万治二年の二年後が寛文元年であり、この短い期間の版本の刊行の先後を書体で判定する事は、非常にむずかしい事と思われる。したがって、私は書体の問題はしばらくおき、本文の異同関係から、無刊記本を絵入本以前の刊行と判断したい。

 このように考えてくると、この無刊記本は、寛永十九年以後、万治二年(または万治元年)以前の刊行という事になるが、それも、かなり明暦・万治に近い頃の出版と推測される。
 

  【四】 万治二年版絵入本


 この絵入本について、水谷不倒氏は、「こゝに掲げたるは、万治二年版の絵入本なり。此絵入本に、中本にて大小の二種あり。」と『仮名草子』に記しておられるが、私は、これまでの調査で異版を見る事が出来なかった。諸本間において、製本寸法には、かなりの差違があるにしても、匡郭寸法に大きな差は無い。なお、水谷氏が掲げられた版本と、私が調査したものとは、寸法も一致するので同版のものと思われる。

 また、朝倉亀三氏は「万治二年に絵を挿み、「絵入風流可笑記」と題し、半紙本として再版、寺町三条上ル町山本五兵衛開板。」と『新修日本小説年表』で記しておられるが、このような題簽・内題を持つ版本も見る事を得なかった。【四】の〔12〕国会図書館・Ⅱ本は、巻五のみの端本で、題簽には「風流可笑記 全」とあり、内題も「風流可笑記 全」とあるが、いずれも墨書である。また、三井文庫の記録によれば、旧蔵本の書名は「風流絵入可笑記」となっているとの事である。調査済み諸本の原題簽には、いずれも上部に「新板」とあり、これが可笑記の新版でなく、絵入本の新版を意味するとすれば、あるいは別の原題簽を持つものがあるのかも知れない。前述の水谷氏の記述と共に、今後の調査を俟ちたい。

 【四】の〔2〕秋田県立図書館本、〔6〕香川大学・神原文庫本(巻五のみ存)、〔9〕京都府立総合資料館本は、巻一の18丁~42丁、巻二の25丁~44丁、巻三の21丁~41丁、巻四の25丁~42丁、巻五の35丁~61丁が、それぞれ落丁となっている。京都府立総合資料館本、香川大学・神原文庫本の巻五後見返しには、定栄堂・吉文字屋市兵衛の蔵板目録が付されている。その内容から考えると、これらの蔵本は後刷本と判断されるが、大坂の定栄堂が刊行するまでの間に、版木の破損・紛失などの事故があったものと推測される。

 この版には、四十一図(内、見開き三図)の挿絵が入っている。この絵の画家について、水谷不倒氏は、『古版小説挿画史』(注16)において、『他我身之上』の画系に属するものとし、「この絵師は小人物主義で、一体に図柄が細いから、やや引立たぬやうではあるが、その特微は、柔かな細い線で、長身の人物を描くにある。」と記しておられる。この挿絵に関しては、さらに精査したいと念じている。

 刊記の山本五兵衛は、京都寺町通三条二丁上ル に住し、慶安から貞享にかけて活動した書肆で、『平安城東西南北町並之図』(慶安5年)、『御成敗式目』(同)、『理窟物語』(寛文七年)、『諸図案内旅雀』(貞享4年)、『五体千字文』(貞享5年)などを刊行している(注17)。

 絵入本の本文は、無刊記本を底本に使用して作られたものと判断される。(注18)


  【五】 その他(取合本・写本)


 ここには、寛永十九年版十一行本・十二行本、無刊記本の、それぞれ取合本を一括した。

 〔4〕の早稲田大学本は、刊年記の次に、

 「大坂心斎橋通リ西ヘ入南久宝寺町南側

        平 野 屋 九 兵 衛」

と、木版刷の紙片が張込んである(118ぺージ写真参照)。この件に関しては前述(93ぺージ)の通りである。

 〔6〕の東車入学国語国文学研究室蔵の写本は、毎半葉十一行となっているが、本文異同をみると寛永十九年版十二行本の写しである事は明らかである。(注19)

 

 以上、各版の書誌的考察を加えたが、本文批評の結果をも踏まえて、各版の本文について簡略に整理しておくことにする。

 寛永十九年版十一行本 この版は、書写本に次ぐ原初的な形態を伝えている初版本として、最も重要な位置を占めている。用語の不統一、特殊な表現、重複ぎみの文章など、話し言葉としての要素を多分にもっており、この事は、この作品の成立過程や文体等を考える上でも留意すべきである。初版本で、しかも、最も秀れた本文と判断される、この十一行本こそ、作品研究の第一のテキストとして選ばれなければならないと考える。ただ、版本以前の自筆写本(または、その転写本)の発見される可能性も全く無い訳ではなく、発見された場合は、改めて分析、再評価しなければならない。

 寛永十九年版十二行本 この十二行本は、十一行本の準かぶせ版であるから、十一行本をかなり忠実に伝え、句読点を付加し、振り仮名を多くして、その普及に役立った点で意義があり、この作品が次第に読者を獲得していった事の一つの証左にもなっている。

 当時の書籍目録の価格から推測すると、時を経るにしたがって、十一行本・十二行本(大字本)は貴重本的存在になったもののようである。それに比して詩者層は次第に拡大され、より多くの読者が生まれてくる、これに応えて第三版として出版されたのが無刊記本ではないかと思われる。

 無刊記本 この版は十二行本を底本に使用したと思われるが、特殊な表現を一般的に改め、廻りくどい文章を簡略化し、話し言葉を書き言葉に改め、仮名を漢字に改め、そして字体も小さくしており、十二行本以上に普及版としての性格を持っている。このように無刊記本は十一行本・十二行本に比較して、原初的な形からは著しく離れたものとなっており、その点では十一行本・十二行本よりも劣った本文という事になる。しかし、後続の絵入本や可笑記評判が、共にこの無刊記本を底本に使用したと思われる事をも含めて、この版は一層多くの読者に読まれた本文として、流布本的存在であると言い得るのであり、その意味でも、この無刊記本は決して軽視すべきではないと思うのである。

 絵入本 この版は無刊記本を底本として使用したものと思うが、底本への態度は誠に忠実であり、むしろ盲従的であるとさえ言える。無刊記本の仮名を漢字に改めるにしても、それは主として丁数を少なくしようという目的で行われている。わずかに底本の誤りを正したものもあるが、むしろ踏襲している場合の方が多く、さらに機械的な誤脱・誤刻は圧倒的に多いのであり、絵入本の本文は無刊記本よりも、さらに一層劣ったものとなっている。しかし、この版は師宣風の挿絵・四十一図(内、見開き三図)を付加する事が、その主眼であった。当代人に好評を得たこの作品を、半紙本という軽装版に改版し、親しみやすい絵を入れる事によって読者に応えたものであろう。

 これらの他、浅井了意の『可笑記評判』も『可笑記』の本文の大部分を収録しているが、これについては別に考察したい。


 次に、各版の出版の先後関係について整理しておきたい。これまでの考察も実は、各版が版木に彫られた時点を、その本文の成立時点として考えてきた。厳密に言うなら、各版の出版の時とその本文の成立の時とは、必ずしも一致しない場合もあり得ると思うが、それを判断する資料が十分に備わっていない現在、出版以前を推測する事は不可能に近いし、また、初版本以外は特別の事情でもない限り、出版の時に、すでに出版されている版本を底本として版下を作る可能性が大きいと思われるので、この事に、それほど問題はないと思うのである。各版の刊行年を推測すると、

  十一行本……寛永十九年秋(刊記による)

  十二行本……寛永十九年秋以後(二十年以後か?)

  無刊記本……寛永十九年秋以後、万治二年(または元年)以前

  絵入本………万治二年正月(刊記による)

  可笑記評判…万治三年二月(刊記による)

 この中で、十二行本と無刊記本は、いずれが早いか即断できないが、当時の書籍目録の価格、伝本の数、その他の条件から考えると十二行本の方が早いとみるのが妥当と思われる。

 これを図示すると次の如くなる。
 

諸本系統図(試案)

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 翻刻・影印本等

1、徳川文芸類聚・第二・教訓小説(朝倉無声例言、山田安栄・伊藤千可良・岩橋小弥太校、大正3年、広谷図書刊行会発行)

 徳川文芸類聚は、【五】の〔4〕早稲田大学図書館所蔵の取合本を底本に使用したものと推測され、巻一は寛永十九年版十一行本に対する無刊記本の異同を全て踏襲している。振り仮名を省略している以外は忠実な翻刻であるが、原本との異同は48箇所あり、そのほとんどが翻刻上の誤りである。また、巻二から巻五までが、十一行本に拠っている事は、その異同関係からも認められる。また、刊年記のあとの「大阪心斎橋通西入南久宝寺町南側/平野屋九兵衛」は底本の貼込みを、そのまま翻刻したものと思われる。

2、近代日本文学大系・第一・仮名草子集(笹川種郎解題、昭和3年、国民図書発行)

 近代日本文学大系は、①漢字・仮名の異同が多い。②送り仮名を多く付加している。③振り仮名を変えたり、付加したりしている。など、原本とは、かなり離れた本文となっている。巻一は徳川文芸類聚の原本に対する異同48箇所の内、25箇所をそのまま受け継ぎ、23箇所は無刊記本と同じに正している。巻二から巻五までは寛永十九年版系の本文となっている。なお、『可笑記』の挿絵として一葉を掲げるが、これは古浄瑠璃『公平天狗問答』のものである。(注20)

3、仮名草子選集・国立台湾大学図書館影印(昭和47年、台北・大新書局発行)

 寛永十九年版十一行本の複製で、巻頭に巻一、巻三、巻五の原表紙の写真を掲げ、書誌略を付す。影印本は、原本を分解して、一丁開いた形で収めている。所蔵番号、蔵書印、柱刻(部分的)などを消しているが、金子和正氏より頂いた原本の写真と比較してみると、虫損の部分などが一致するので、【一】の〔21〕台湾大学図書館蔵本が底本であると推定し得る。

4、可笑記大成―影印・校異・研究―(田中伸・深沢秋男・小川武彦共編著、昭和49年、笠間書院発行)

 第一編には、寛永十九年版十一行本(底本は小川武彦氏蔵本)を複製し、脚注の形式で、寛永十九年版十二行本・無刊記本・絵入本との校異を掲げている。第二編には、絵入本の挿絵を掲出(底本は中野三敏氏蔵本)、第三編には六点の論考を収める。

5、可笑記〈原本現代訳・51〉(渡辺守邦訳、昭和54年、教育社発行)

 全二八〇段中の約半分の諸段についての現代語訳を収録し、巻頭に詳細な解説を付す。

6、仮名草子集成・第十四巻(朝倉治彦・深沢秋男共編、平成5年、東京堂出版発行)

寛永十九年版十一行本を翻刻したもので、底本は、【一】の〔1〕京都大学文学部蔵本。無刊記本との異同を限られた範囲で、傍注の形で示している。巻末に絵入本の挿絵(底本は横山重氏旧蔵本)と、各版の表紙、刊記等の写真、解題を収録。


翻刻・複製の底本一覧

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注1、二本松藩士・大鐘義鳴は、天保十二年(一八四一)成立の著書『相生集』で、如儡子の子孫(第九代・英盛か)から、写本『可笑記』を閲覧させてもらい、その跋文には「……寛永六年の秋の頃に思ひ初めて、拙き詞をつゞり初め……」とあったと記している。

注2、『徳川文芸類聚』第二巻・教訓小説(朝倉無声例言、山田安栄・伊藤千可良・岩橋小弥太校訂、広谷雄太郎編、大正3年6月、広谷国書刊行会発行)。

注3、近代日本文学大系・第一巻『仮名草子集』(笹川種郎解題、昭和3年12月18日、国民図書発行)。

注4、井上和雄氏『慶長以来書賈集覧』(大正5年9月25日、彙文堂発行)。

注5、鈴木敏夫氏「江戸時代の本や」(『出版ニュース』昭和43年9月上旬号)。

注6、この件は、日本近世文学会で口頭発表の折、田中伸氏より御指摘があり、その後、懇切な私信(昭和43年7月6日付)をもって、氏の見解を御教示下さった。

注7、この問題に関して、昭和四十三年七月十五日、九州大学所蔵本調査の折、中村幸彦氏より、刊年記の左の刷り跡は、書肆名などの削除跡ではなく、空白部分の削り残しであろう。また、寛永期には、発売元等の事で三都の連絡はとれていなかったので、十一行本は、おそらく、京都で出版されたもので、それも専門の書肆ではないのではないか、という、御教示を頂いた。

注8、ここに掲げた中で、巻四の33丁オ2行目・3行目、巻五の69丁ウ6行目のものは、渡辺守邦氏が『書誌学月報』第46号(平成3年10月)で指摘されている。

注9、「『可笑記』の本文批評」(『近世初期文芸』第1号、昭和44年12月)。

注10、水谷不倒氏『新撰列伝体小説史前編』(昭和4年7月23日、春陽堂発行)。

注11、前田金五郎氏は「「浮世物語」雑考」(『国語国文』34巻6号、昭和40年6月)で「所で、「可笑記」の寛永版には、奥書だけと、奥書と刊記とのある二種の版本があり、その文章には多少の相違があり、(たとえば龍門文庫所蔵の二本を比較すれば明白)、「可笑記評判」に引用する「可笑記」の本文は無刊記本に一致し、無刊記本の方が刊記本以前に刊行されたと推定される事である。従って了意は、無刊記本の原稿を見せてもらって「可笑記評判」を書き(水谷不倒氏説)、奥書記載後加筆して「可笑記評判」が成立したと考えることも可能である(この点については朝倉治彦氏の詳細なる研究が発表される予定の由であるから期待したい)。」と述べておられる。しかし、その後、朝倉氏の発表はなされていない。

注12、無刊記本の本文の位置付けを考える場合、当然、他の各版との比較検討を必要とする。この事に関しては「『可笑記』の本文批評」(『近世初期文芸』1号、昭和44年12月)、および『可笑記大成』(昭和49年4月30日)で考察した事がある。ここでは、その結果を要約しておく。

 寛永十九年版十一行本に対する、無刊記本・万治二年版絵入本・可笑記評判(所収の可笑記の本文)の異同の結果は以下の如くなる(範囲は巻一。ただし、以下の七項目は省略した。1、仮名遣いの異同。2、振り仮名の異同。3、送り仮名の異同。4、漢字・仮名の異同。5、字体の異同。6、句読点の異同。7、清濁の異同。

 ①、無刊記本・絵入本・評判共通の省略・脱落……98

 ②、無刊記本・絵入本・評判共通の異同……119(内、11行本の省略・脱落……33)

 ③、無刊記本・絵入本共通の省略・脱落……6

 ④、無刊記本・絵入本共通の異同……8(内、11行本の省略・脱落……1)

 ⑤、無刊記本のみの脱落……………………1

 ⑥、無刊記本のみの異同……………………0

 ⑦、絵入本のみの省略・脱落………………3

 ⑧、絵入本のみの異同………………………1

 ⑨、評判のみの省略・脱落…………………20

 ⑩、評判のみの異同……39(内、11行本の省略・脱落。……16)

 

 これらの異同の数量関係から,以下の事が言い得ると思う。

1、無刊記本・絵入本・評判共通の省略・脱落、および異同を合計すると、二一七箇所という多数になる事から、この三つの版が非常に近い関係にあり、共に十一行本・十二行本と離れた本文である、という事が解る。

2、無刊記本・絵入本・評判の中では、無刊記本と絵入本がより近く、評判はかなり離れた本文となっている。

3、無刊記本のみの脱落・異同が一箇所であるのに対して、絵入本のみのものは四箇所である事から推測すると、無刊記本は絵入本よりも早い本文ではないかと思われる。

 

 前掲の、①、無刊記本・絵入本・評判共通の省略・脱落……九八箇所と、②、無刊記本・絵入本・評判共通の異同……一一九箇所の合計二一七箇所について、具体的に分析した結果、以下の事が言い得ると思われる。

1、無刊記本系(無刊記本・絵入本・評判をこのように略称する)には、十一行本・十二行本の省略・脱落に対して約三倍の省略・脱落があるが、それらは、十一行本が増補したというよりも、無刊記本系が省き、または誤脱させたと思われるようなものが多い。

2、十一行本の省略・脱落は、いずれかと言うならば、後で増補し得るような性質のものが多い、という点から考えると、これらは無刊記本系が衍加したという可能性が強い。

3、十一行本の誤りを訂正し、または特殊な表現を一般的に改めている点で、無刊記本系には校訂的意図を認め得る。

4、無刊記本系には、十一行本の口語的表現を文語的に改め、また、重複的な部分を簡略化する等によって、より一層、文章として定着させようという傾向がみられる。

5、両者の異同は、いずれかと言うならぱ、無刊記本系が改変したという可能性が強いが、その改変は一般常識的な基準によって行われており、それらは、作者でなくても為し得るようなものであると言い得る。

6、両者の異同関係を量的にみると、一字、二字、三字という少量のものが圧倒的に多く、また、内容的にみても、特に重要な部分を省略したり、改変しようとする意図は、十一行本・無刊記本系のいずれにも認められない。

7、無刊記本系は、十一行本の仮名を漢字に改めている箇所が多い。また、無刊記本系と十一行本・十二行本の関係であるが、下段に掲げる三箇所の異同によって、無刊記本系は十一行本と、より近い本文である事が解る。


《下段に掲げる三箇所の異同=HTML版では省略》


 右にみてきた如く、その異同関係を総合して考えるとき、十一行本と無刊記本系が、別々に刊本以前の写本から本文を得たとするよりも、無刊記本系は十一行本を底本に使用したという可能性の方が、はるかに高いと言い得ると思う。また、仮に無刊記本系が、十一行本とは別に写本から本文を得たとした場合でも、十一行本の方が、より一層写本に近い形を伝えていると思われるし、さらに、十一行本から無刊記本系への本文の改変にあたって、作者の意志が加わっていると思われない事、これらを合わせ考慮するとき、十一行本の本文が無刊記本系よりも秀れたものである事は認め得ると思われる。

注13、彌吉光長氏『未刊史料による日本出版文化』第四巻(平成元年7月20日、ゆまに書房発行)。

  慶応義塾大学附研究所・斯道文庫『江戸時代書林出版書籍目録集成』一~三(昭和37年12月25日、38年6月10日、38年10月25日、井上書房発行)に拠った。

注14、注18を参照。

注15、水谷不倒氏『仮名草子』(大正8年9月30日、水谷文庫)。

注16、水谷不倒氏『古版小説挿画史』(昭和10年4月10日、大岡山書店発行)。

注17、井上和雄氏『慶長以来書賈集覧』及び、朝倉治彦氏の御示教に拠る。

注18、万治二年版絵入本の本文の位置付けについては、前述(120ぺージ)の③、④、⑤、⑥、⑦、⑧の各項を分析する事によって可能となるが、これらの異同をみると、無刊記本と絵入本の異同が極めて少ない。これは、この両者の本文が非常に接近ものである事を示している。そして、これらの異同から、両者の相互関係を考える事も不可能ではないと思うが、やはり十分とは言えない。そこで、この無刊記本と絵入本については、巻二以後の異同をも合わせて、次に考える。

 巻二~巻五には二十八箇所の異同があるが、それらは次のように分ける事ができる。

 ①、絵入本が誤脱させたもの……………16

 ②、絵入本が誤読・誤写したもの………6

 ③、絵入本が無刊記本を正したもの……3

 ④、その他(奥付など)…………………3

その他、注意すべき点は次の三点である。

 ⅰ、絵入本は無刊記本の送り仮名を省いている。

 ⅱ、絵入本は無刊記本の仮名を漢字に改めている。

 ⅲ、絵入本は無刊記本の振り仮名を省いている。

これらの異同内容を具体的に分析した結果、以下の事が言い得ると思われる。

 1、各版の中で(十一行本と十二行本の関係は別として)無刊記本と絵入本は、最も近い本文である。

 2、無刊記本の誤脱および誤写は極めて少なく、しかも、それらは後で容易に補訂し得る性質のものである。

 3、絵入本の誤脱および誤写は非常に多く、ややもすると不用意に踏襲されがちの性質のものが多い。

 4、絵入本は無刊記本の仮名を漢字に改め、送り仮名や振り仮名を省いている箇所が多い。

 5、絵入本は無刊記本の本文にかなり忠実であるが、無刊記本の誤りをそのまま踏襲するなど、むしろ盲従しており、その校訂的態度は極めて消極的である。

 6、絵入本は無刊記本より本文を得たと思われるが、その際、十一行本・十二行本を参照していないと言い得る。

右の分析結果を要約すると、絵入本は無刊記本を底本に使用して、盲従的とも言える忠実さをもって改版しようとしたが、その改版作業の過程における誤脱・誤写などを新たに付加する結果になってしまったと言う事ができる。したがって、絵入本の本文は、無刊記本よりもさらに一層原初的な形から離れ、同時に劣ったものとなっていると判断される。

 このように考えてくると、無刊記本の項で、無刊記本系は十一行本を底本に使用した事を指摘したが、それは、無刊記本は十一行本を底本に使用した、と言いかえ得る。

注19、東大写本が、十二行本の写しである事は、前掲(121ページ下段)の異同関係からも明らかである。

注20、この件は、発表後、田中伸氏の御示教によって知る事を得た。また、この点に関しては、関場武氏も『芸文研究』第二十七号(昭和44年3月)で指摘されている。


 付   記

 『可笑記』の諸本調査は、卒業論文の延長であるため、長年月に亙っている。この調査を進めるにあたり、恩師の重友毅先生、長澤規矩也先生からは、全面的な御指導を頂き、かつ諸方面への御紹介と御配慮を賜った。鹿島則幸様、横山重先生には身に余る御高配と温かい御指導を長期間に亙って賜った。

 右の四先生は、すでに御他界、この調査結果を御覧頂く事は出来ない。改めて深甚の謝意を表します。

 金子和正先生は、昭和四十三年、この調査の第一稿が成るに際し、拙稿全部に目を通して下さり、多くの御教示を賜った。私の諸本調査の基礎となったものであり、改めて、御。礼申し上げます。

 この調査を進めるにあたり、種々御教示下さり、紹介の労をとって下さいました諸先生、図書閲覧に際し、御配慮下さいました方々、および図書館・文庫は次の通りです。お名前を記して、心から御礼申し上げます。

 青柳武氏、秋山虔氏、朝倉治彦氏、安藤武彦氏、池上幸二郎氏、石井彪氏、石川数雄氏、石川俊雄氏、石川宣俊氏、伊藤四十二氏、宇佐美誠次郎氏、岡部忠英氏、小川武彦氏、尾崎久弥氏、表彰氏、加藤龍太郎氏、川瀬一馬氏、御巫清勇氏、岸得蔵氏、金原理氏、後藤憲二氏、後藤重郎氏、酒井清氏、坂井利三郎氏、坂本千代子氏、佐々木八郎氏、佐竹昭広氏、佐藤彰氏、佐藤朔氏、柴田光彦氏、島本昌一氏、下房俊一氏、末松保和氏、鈴木義一氏、関場武氏、相馬正基氏、田中伸氏、築比地仲助氏、堤精二氏、坪内正紀氏、富永牧太氏、中一弥氏、中野三敏氏、中村幸彦氏、成田英雄氏、西村清氏、野田寿雄氏、野間光辰氏、服部●《穆からのぎへんを取ったもの》氏、原道生氏、平井隆太郎氏、堀正人氏、前田金五郎氏、三谷栄一氏、森本元一氏、文字幸子氏、八木昇氏、山岡重知氏、山岸徳平氏、由谷英治氏、渡辺守邦氏。

 秋田県立図書館、上田市立図書館、大阪女子大学附属図書館、大阪府立中之島図書館、お茶の水図書館、香川大学附属図書館、学習院大学国語国文学研究室、カリフォルニア大学図書館、関西大学附属図書館、九州大学附属図書館、京都大学附属図書館、京都大学文学部図書室、京都府立総合資科館、慶応義塾大学附属図書館、国学院大学附属図書館、国文学研究資料館、国立公文書館・内閣文庫、国立国会図書館、実践女子大学附属図書館、神宮文庫、大東急記念文庫、鶴岡市立図書館、天理図書館、東京国立博物館、東京大学教養部第一研究室、東京大学国語国文学研究室、東京大学総合図書館、東北大学附属図書館、東洋文庫、都立中央図書館、名古屋大学附属図書館、西尾市立図書館・岩瀬文庫、日本大学附属図書館、山口大学附属図書館、龍谷大学附属図書館、龍門文庫、早稲田大学図書館。(五十音順)

 右の各図書館・文庫の御所蔵本の調査に際しては、法政大学図書館、昭和女子大学図書館の紹介状を頂いた事も少なくない。両図書館の御高配に改めて御札申し上げます。

 今回、木稿をまとめるにあたり、御所蔵本の写真の掲載を御許可下さった、小川武彦氏、京都大学文学部図書室、国立公文書館・内閣文庫、国立国会図書館、後藤憲二氏、神宮文庫、大東急記念文庫、東京大学国語国文学研究室、早稲田大学図書館、に対し厚く御礼申し上げます。

 『可笑記』の諸本調査には、全力を傾注して実行してきたが、なお、未調査本が数点残ってしまった。これらについては、今後、さらに調査補訂してゆきたいと思う。

                             (平成7年9月12日)
(『近世初期文芸』第12号 平成7年12月刊 に掲載)