鈴木重嶺(翠園)略伝


                                    深沢秋男

鈴木重嶺〔すずき しげね〕 徳川幕府に仕え,最後の佐渡奉行となる。明治11年,職を辞し,東京で鶯蛙吟社を組織し,月並歌会を催し,短歌雑誌『詞林』を主宰した。佐佐木信綱とともに,明治初期歌壇の名家とみなされていた。『詞林』は後に,佐佐木信綱の『心の華』に合併した。

 翠園・鈴木重嶺は,明治31年(1898)11月26日,東京市牛込区神楽町2丁目17番地において,85歳の,その生涯を閉じた。文化11年(1814)6月,幕臣,小幡多門有則の次男として,江戸駿河台で生まれたが,鈴木家10代・重親の養子となり11代を継いだ。
 鈴木重嶺の伝記に関しては,御子孫の松本誠氏が,長年調査研究を重ねられ,部分的には公表もされているが,残念ながら,集成の域に達しないまま,他界されてしまった。いずれは,松本氏の調査を継承して,重嶺の詳細な伝記を纏めたいと念じているが,今は,その概略を述べるにとどめる。

初代
 鈴木家の祖,鈴木但馬守重経は,相模の国小田原城主・北条氏康に仕え,駿河の国蒲原城に居住。永禄12年(1569)12月6日,甲斐の国,武田信玄・勝頼父子の蒲原城攻めの折,主君・北条新三郎時之と共に討ち死にした。葬地,駿州蒲原在,善福寺村,善福寺。法名,英俊院殿雄山良貞居士。
2代
 重元。天正18年(1590),小田原攻めの折,徳川家に召し出され,鉄砲玉薬奉行・榊原小兵衛政元組配下となる。武州豊島郡大久保村に采地を給う。寛永12年(1635)病によって致仕し,同13年10月8日没。葬地,武州豊島郡大久保村全龍寺(新宿区大久保1−16−15 に現存),以後,代々葬地とする。法名,海穏院殿甚浪清平居士。
3代
 重道。寛永12年12月22日,家を継ぎ,鉄砲玉薬奉行・夏目杢左衛門嶌次右衛門組配下となる。寛文12年(1672),病によって致仕し,延宝4年(1676)6月10日没。葬地,全龍寺。法名,賢梁院殿石室道鉄居士。
4代
 重清。寛文12年(1672)8月26日,家を継ぎ,鉄砲玉薬奉行・勝部五兵衛恒岡左太夫組配下となる。貞享元年(1684)病によって致仕し,元禄10年(1697)11月8日没。葬地,全龍寺。法名,超道院殿真翁浄西居士。
5代
 重利。貞享元年5月18日,家を継ぎ,鉄砲玉薬奉行・柘植三之丞恒岡左太夫組配 下となる。正徳3年(1713)病によって致仕し,同年6月29日没。葬地,全龍寺。法名,利貞院殿了安元随居士。
6代
 重秀。正徳3年3月22日,家を継ぎ,鉄砲玉薬奉行・守能吉兵衛田沢久左衛門組配下となる。享保16年(1731)12月22日組頭。寛延3年(1750)12月14日没。葬地,全龍寺。法名,秀雲院殿乾峯良坤居士。
7代
 重高。寛延3年12月29日,家を継ぎ,鉄砲玉薬奉行・遠山三太夫渡辺源左衛門組配下となる。宝暦4年(1754)3月,千駄ヶ谷焔硝蔵定番。同13年(1763)正月18日没。葬地,全龍寺。法名,慶松院殿梅岳道林居士。
8代
 重晃。宝暦13年5月4日,家を継ぎ,鉄砲玉薬奉行・鈴木九太夫酒井半三郎組配下となる。天明7年(1787)11月22日,病により職を辞し,小普請水野大膳組配下となる。寛政3年(1791)12月4日没。葬地,全龍寺。法名,峯月院殿雪岩道光居士。
9代
 義道(重高三男)寛政4年7月3日,兄重晃の養子となり,家を継ぎ,小普請浅野隼人組配下となる。同6年8月鉄砲玉薬同心入り,玉薬奉行。享和元年(1801)7月22日,病により職を辞し,小普請戸田中務組配下。文化5年(1808)8月14日致仕し,弘化3年(1846)正月21日没。葬地,全龍寺。法名,賢性院殿寿山良光居士。
10代
 重親。文化2年(1805)6月18日,吹上織殿出役。同5年8月14日家を 継ぎ,小普請酒井但馬守組配下となる。同12年10月9日吹上織殿者。文政11年(1828)5月20日,病により職を辞し,小普請太田内蔵頭組配下。天保2年(1831)5月28日没。葬地,全龍寺。法名,義岳院殿華山道栄居士。
11代
 重嶺。初め有定,大之進,幼名亀太郎。兵庫頭。実は,中川飛騨守家臣,小幡多門有則の次男。重親嗣子無く,乞われて後嗣となる。天保2年(1831)8月6日家を継ぎ,小普請高井左京組配下となる。同4年8月19日,広敷伊賀者となる。同12年8月25日,広敷取締掛となる。同年10月徒目付となる。同14年4月,日光社参に供奉する。同年11月5日,植溜において諸士の武術の撰に入り,白銀7枚を賜る。
 同月20日勘定吟味役となる。同日評定所留役当分助力。同12月15日,徒目付在任 中昌平坂学問所修復の事により,白銀10枚を賜る。同月28日,従前の勤労に対し, 黄金1枚時服1襲を賜り,年始その他の拝謁を許され,小普請大岡兵庫配下となる。同 15年7月4日,再び勘定吟味役となる。元治元年(1864)7月2日勘定奉行とな る。同月23日鎗奉行へ転じ,慶応元年(1865)9月13日,佐渡奉行となる。明 治元年(1868)閏4月16日,御役御免となる。同4年12月8日,相川県参事となる。同8年7月19日,相川県権令兼六等判事となる。同9年4月29日,願いによ って免職となり,東京駿河台の家へ帰る。

 明治9年(1876),63歳で役職を辞した後,晩年の約20年間を歌人として活動しているが,その間の閲歴については,未調査であるので,『和歌文学大辞典』の清崎敏郎氏の記述を掲げる。
 「……その後官を辞して東京に出,鶯蛙吟社を組織し,月並歌会を催し,短歌雑誌『詞林』を発行した。『詞林』は後に佐佐木信綱の『心の華』(心の花)に合併した。国学・歌を,橘千蔭系の村山素行・伊庭秀賢に学んだ。明治13年に発行された『開化新題歌集』,『大八洲学会雑誌』等の作者欄に名を列ね,明治24年の『早稲田文学』第3号の「現在の名家」に作品を載せているところから見ても,明治初期歌壇の名家とみなされていたことが知られる。……」
 鈴木重嶺は,没する前年の84歳の時,若い頃の思い出として,次のような事を語っている。
 重嶺は,20歳の頃,免許以上の武術見分(試験)を受ける機会があったが,その見分の済んだ後で,鼻紙に一首認めて,知人の窪田源太夫に見せた。
   つるぎだち鞘にをさめし世になれてみがかぬわざのはづかしきかな
 源太夫が,その歌を松平内匠頭に見せたところ,短冊に書いて差し出すようにとの命があったので,翌朝,出勤のついでに届けた。すると,内匠頭は,武術見分帳を水野忠邦に差し出す時,この短冊を添えて,重嶺を徒目付に取り立てて欲しいと依頼してくれた。水野越前もその才を認めて,早速承諾して,重嶺は徒目付の職に付くことが出来た。18歳の頃から,村山素行について歌を学んでいたが,この事があってから,一層熱心に歌の道に励むようになった。
 重嶺は,佐渡奉行時代も,勤務のかたわら,和歌を奨励し,晩年の20余年間も和歌に打ち込んでいるが,それは,20歳の頃の,この一つの出来事が核になっているように思われる。翠園・鈴木重嶺の歌の門人は200余人に及ぶと言われ,その葬儀に参列し,志を寄せた人は,日本全国に及び,その数は1068名であった。
 重嶺は,遺志によって法名を受けなかった。鈴木家の過去帳には「従五位鈴木重嶺君/号翠園/付受法名」とあり,全龍寺の墓石には「鈴木重嶺之墓(正面)」「紀元二千五百五十八年十一月廿六日逝(裏面)」とある。

 

 ●鈴木重嶺(翠園)の著作

 鈴木重嶺の著書・編書を,現在知り得る範囲で列記すると以下の通りである。
◎伊香保前橋之記 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・41)学習院図書館。
◎詠史清渚集 1冊,写本。昭和女子大学図書館。
◎オト子との差別或人問 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・68)。
◎於よづれ言 1冊,写本。静嘉堂文庫。
◎紀行 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・41)。
◎絹川花見の記 1冊,写本。国会図書館(二荒廼山裹の内)。
◎御諡号概略 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・11)。
◎夢路の日記 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・41),無窮会・神習文庫。
◎二荒山歌会 1冊,写本。内閣文庫。
◎皇風大意 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・15),無窮会・神習文庫。
◎旅路記恵の露 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・41),無窮会・神習文庫。
◎島曲廼古豆美 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・1)。
◎旅路廼日記 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・41)。
◎翠園兼当歌 1冊,写本。昭和女子大学図書館。
◎翠園詠草二 1冊,写本。昭和女子大学図書館。
◎雅言解 4巻4冊,版本。昭和女子大学図書館,他。
 この他,明治以後出版された単行本や,雑誌等に発表された歌論,歌集等に収録された重嶺の歌は,かなりの量になるものと思われるが,現在,未調査の状態である。

           (昭和女子大学『学苑』第694号・平成10年1月 を改訂)

 

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