松浦詮編『蓬園月次歌集 完』の紹介

  ――鈴木重嶺所収歌を中心に――

                          

                        深沢 秋男

                        菅野 貴子

                       

 

 

 一、はじめに

 

 松浦詮は、天保11年(1840)に生まれ、明治41年(1908)に没している。肥前の国平戸藩主で、安政5年(1858)に藩主となる。尊王攘夷を表明し、明治元年7月、奥羽征伐に出陣し、長崎浦上キリシタン弾圧を主張する。明治17年伯爵となり、貴族院議員になる。和歌・茶道に通じ、歌会始奉行を勤める。明治41年4月13日に没する。墓は豊島区の染井墓地にある。

 松浦詮は、明治11年、宮中歌会始の賛者となり、19年には歌掛参候に就任している。このような関係から、東京の屋敷・蓬莱園に歌人を招き、歌会を催した。明治12年3月18日に月次会を初めて開き、以後10年間、継続されたという。この歌会で披露された歌の中から千首を選び、収録したのが、明治23年10月28日発行の『蓬園月次歌集 完』である。

 鈴木重嶺もこの歌会に参加しており、この『蓬園月次歌集 完』にも跋文を寄せ、52首が収録されている。以下、この歌集の概要を記し、鈴木重嶺と松浦詮との関係を報告し、考察したい。

 

 二、『蓬園月次歌集 完』 書誌

 

調査年月日 平成20年8月16日調査

所蔵者 深沢秋男 

体 裁 半紙本、版本、1冊、袋綴じ。

表 紙 水浅葱色原表紙、縦237ミリ×横159ミリ。彩色の梅

    花、紅葉、水流等の模様を配す。

題 簽 左肩に黄色用紙(縦158ミリ×横30ミリ)の原題簽、

    四周双辺「蓬園月次歌集 完」。

扉   本文用紙と共紙で四周双辺の中央に「蓬園月次歌集」。

序 題 第一序(黒川真頼)の第1行目に「蓬園月次歌集序」とあ

    り、第二序(三田葆光)には無い。

内 題 本文1丁オに「蓬園月次歌集」とある。

尾 題 無し。

匡 郭 四周単辺。計測は、本文1丁オ、縦は1行目と2行目の間、

    横は1字目と2字目の間とし、線の外側から外側で測った。

    縦184ミリ×横126ミリ。

柱 刻 序  「○ 序一(〜四)」

    本文 「○ 一(〜六十六)」

    跋  「○ 跋一(〜二)」

    収録作者 「○ 一、(二、三、四)」 

丁 数 序      4丁

    本文   66丁

    跋      2丁

    収録作者   4丁

    合計   76丁

行 数 第一序 毎半葉10行

    第二序 毎半葉9行

    本文 毎半葉10行

    跋  毎半葉7行

    収録作者 毎半葉9行

字 数 第一序  1行約18字  

    第二序  1行約19字

    本文   和歌は1行書き。

    跋    1行約20字

本 文 漢字交じり平仮名。句読点・振仮名・濁点無し。歌は一行

    書き。

序   巻頭に2つの序がある。各2丁。

    第一序 の末尾に「明治廿三年八月 黒川真頼」とある。

    第二序 の末尾に「明治廿三年九月 三田葆光」とある。

跋   巻末に1丁半の跋がある。末尾に「明治二十三年十月 穂

    積重嶺誌」とある。

    なお、穂積重嶺の跋の前の丁(本文末尾)に橘道守の識語

    がある。

刊 記 (奥付、後表紙に貼付)

    「明治廿三年十月廿五日印刷/同年同月廿八日出板/編輯

    兼発行人 東京府華族 松浦詮 東京市浅草区向柳原町二

    丁目一番地/印刷人 東京府士族 橘道守 東京市本所区

    松倉町二丁目七十一番地/発行所 東京市本所区松倉町二

    丁目七十一番地 橘守部著書発行所 椎本?社」

蔵書印等 扉の上部ノドに「園庫」の陽刻円形朱印、径18ミリ。

    扉の下部ノドに「熊谷蔵本」の陽刻縦長方形朱印、縦25

    ミリ×横9ミリ。前見返右上に「3874」の墨書。

その他 巻末の橘道守の識語に「殿みてつから下書せさせ玉ひて

    」とあるので、この版下の文字は、松浦詮の筆と推測され

    る。巻末「蓬園月次歌集作者」の末尾に「人名録正誤」の

    紙片1枚が貼付されている。

 

 三、黒川真頼・三田葆光の序、穂積重嶺の跋、橘道守の識語

 

 @、黒川真頼 序 (注 句読点を付加した。以下同様)

「蓬園月次歌集序

松浦の殿の庭はよもきか嶋といひて、世に名たかうきこへし里。その殿に月ことに哥の会あり。この四とせ五とせはかりは、おのれもまりて、そのむかしそのかたはしにつらなることそなりぬる。さてもこの会は、あるしの君の明治の十一年のしはすはかりに、御歌会の賛者にめされしかは、あくるとしの三月十八日に、そのことにあつかれる人々をつとへて、哥よみけるかはしめにて、それよりこなた今にいたるまてたゆることなし。あるしの君おもほさく、年々の月ことのうたを、たゝにひめおきたらむはいとあたらし。すりかた木にものして、世の中にひろめてむ。さてはまつ三田葆光、つきにはおのれにも見せさせたまひて、これか中より千首をえらひてよ、とのたまはせしかは、かれこれよみ、かうかへしに、のたまはせしかことくそのかすにみちぬ。さてこのしふの名をはいかに、とゝはせたまへは、庭の名のよもきかしまのゆかりによりて、園の名をもよもきかそのとつきたれは、それによりて蓬園月次歌集とせはいかにとまうししかは、それよけむとてさたまりぬ。かくてはよもきかしまの月日のなかきかことく、この歌の香しも、なかくひさしく世につたはりなんものそ、といとよろこはしきまゝに、ことほきつゝかきしるしぬ。

  明治廿三年八月               黒川真頼

 

 A、三田葆光 序

「白河少将のいひけらく、人のみやひは草木の花のかをりのことし。さるは花と実とあらは、たれるかことくなれと、かをりのありてこそ梅は桃にまさりたれ、といはれたるはいとよきたとへになむ。松浦三位の君のやまとたましひはさるものにて、からさへもかしこう、心おきてもいみしうおはするかうへに、歌よみ詩つくり茶の湯なと、なにくれとなくみやひのわさをたしなみ給ふは、いはゆる花もあり、実もあるかうへに、かをりさへあるたくひとやいはまし。さるまゝに月ことに哥のむしろをひらかれて、高きみしかきへたてなくつとへらるゝこと、年ひさしうなむなりにける。ことにその殿の嶋山は、むかし小堀宗甫君の心をふかめてつくられしにて、池のこゝろひろういはほのたゝすまひなみ??ならす、木立ものふりたる中に花紅葉はさらなり、四つの時、をり??の草木ともかすしらす、たちさかへて時しゝにあかぬなかめなれは、これを蓬莱園とそいふなる。されはこゝにつとへる哥人たちも、まのあたりそのけしきを見る??、やかて当座の題にもとりなして、よみいてつゝきようするなと、すへて世にたくひすくなき哥のまとになんありける。その哥とも年久しうつもり??て、いく百千にかなりぬらむを、いたつらに箱のそこにひめおかむよりは、こゝろさしあらむ人々にも見せまほしとて、あるか中よりまつ千首はかりをとりいてて、かくすりまきにものせられたるも、またみやひ心のいたりなるへし。さてもこの君のみやひは、詩哥茶の湯なとのみならす、くさ??多かれと、さのみはとてもらしつ。また白河少将のこと葉をしもとりいてたるは、かの少将は三位君のおほちの君にむすほゝれたる中なりけれは、この蓬莱園にもしは??訪ひ来まして、筆の跡なと今ものこれゝは、それによりてふとおもひ出るまゝに、此巻のはしに、ゆくりなくしるしいてたるになむ。

   明治廿三年九月               三田葆光」

 

 B、穂積重嶺 跋

「今の世のうたは、延喜天暦の頃の哥にくらへては、見るにたらすといふ人あれと、そはふかく思はぬなるへし。今の哥とても真こゝろをもとゝし、いにしへを師としてよみいてむには、古人に恥さるも出らさらむやは。蓬園のあるし色かへぬ松浦の君は、ことの葉の道にはやくよりいりたち月ことに、うたのむしろを開かれ、みやひの友をつとへたまふこと、明治といふとしの十とせよりいまに絶すそ有ける。こたひ其十とせはかりの哥ともの中より、ひときさみよろしとおほしたまふをえらひ出られて、さくら木にらせられたり見もてゆくに、いにしへに恥さること少からす。願はくは今より後、十とせことにかくものせられて、百とせののちまてもかゝらましかはとそおほゆる。此書のおくに一ことかきそへてよとのたまふまに??かくなむ。

   明治二十三年十月             穂積重嶺誌

 

 C、橘道守 識語

「此一巻は松浦三位殿の月々のまとに、人々のよみ出られしを、こたひ板にらせんとて、殿みてつから下書せさせ玉ひて、これかけとのたまはせられしに、いなみかねて。      橘道守書」

 

 四、収録歌人一覧

 

「蓬園月次歌集作者

   正二位勲二等公爵  毛利元徳卿

   従一位勲一等    近衛忠熈卿

   従一位大勲位侯爵  中山忠能卿

   従一位勲一等    徳川慶勝卿

   従一位勲二等    久我建通卿

   従一位勲一等    嵯峨実愛卿

   従一位勲一等    松平慶永卿

   正二位勲二等    西三条季知卿

   正二位勲一等    伊達宗城卿

   従二位勲三等侯爵  久我通久卿

   正二位       藤波教忠卿

   正二位勲三等子爵  長谷信篤卿

   従二位勲二等伯爵  東久世通禧卿

   正三位   伯爵  園 基祥卿 

   従三位勲三等伯爵  津軽承昭卿

   従三位勲四等伯爵  松浦 詮卿

   従三位   伯爵  藤堂高潔卿

   従二位   子爵  藤井行道卿

   従二位勲三等    池田茂政卿

   従二位勲三等    亀井茲監卿

   正三位勲五等子爵  堀河康隆卿

   正三位勲三等子爵  壬生基脩卿

   従三位勲二等子爵  福羽美静卿

   従三位   子爵  千種有任卿

   正四位   子爵  前田利鬯朝臣

   正四位   子爵  稲葉正邦朝臣

   正五位   子爵  脇坂安斐朝臣

   正五位   子爵  水野忠敬朝臣

   従三位       松平確堂卿

   従三位       島津忠寛卿

   従三位   男爵  千家尊福卿

   従四位勲三等男爵  高崎正風朝臣

   正五位   男爵  藤枝雅之朝臣

   正四位       石山基正朝臣

   従五位       松平親貴朝臣

   従四位勲三等    籠手田安定朝臣

   大教正       本居豊頴

   従(正)五位    林 信立

   従五位       鈴木重嶺

   正五位松浦厚妻     益子

   正六位       三田葆光

   文学博士従七位   黒川真頼

   従六位       横山由清

   宮内省御用掛従六位 近藤芳樹

   宮内省御用掛    松平忠敏

   宮内省御用掛    力石重遠

   宮内属       伊東祐命

   御歌所属      植松有経

   御歌所属      小出 粲

   御歌所属正七位   谷 勤

   御歌所属      坂 正臣

   皇太后宮職属    松波資之

   東京府士族     小俣景徳

      士族     加藤安彦

   京都府平民     清水蓮成

   東京府士族     橘 道守

   橘 道守母     東 世子

             小石浜子」

 

 人名録正誤(紙片)縦138ミリ×横126ミリ

「人名録 正誤

 正二位 綾小路有長  正四位子爵 風早公紀

 従三位 長谷信成   従五位   間島冬道

 士族  久野宗熈」

     右五名ヲ脱ス

 御歌所勤務宮内属 伊東祐経

 仝        植松有経

 仝    正七位 谷 勤

 仝        坂 正臣

     右職名脱誤ス           」

 

 五、収録されている鈴木重嶺の歌 五十二首

 

   新年待鶯                      1

としたてとまた鶯の声そせぬ春を待てやなかんとすらん   重嶺

   若菜少                       2

降しきる雪につまれて春の野にあさる若なそ少なかりける  重嶺

   沢若菜                       3

あしたつのあさる野沢の跡とめて千代の若なをいさや摘まし 重嶺

   余寒風                       4

梅かをはこふを待し手枕のすきまの風の寒くも有かな   重嶺

   南枝暖待鶯                     5

うくひすはいつまて我をまたす覧南の窓の梅はかをるを   重嶺

   雨後鶯                       6

雨はれてなく鶯の羽ふるひに梅のしつくもちる朝けかな   重嶺

   月前梅                       7

梅の花さけるあたりを離るれはさのみは月もかすまさり鳧  重嶺

   水雲梅                       8

かけはかりなかるとおもひし河水を結へは梅か香に匂ひ鳧  重嶺

   遠山霞                       9

雪に社近くみえしかうら??とかすみて遠きちふかひかね 重嶺

   岡霞                       10

山鳩の雨をよふかとおもひしに霞になりぬ岡越のみち    重嶺

   江上霞                      11

行水の音はかりして遠つあふみいなさ細江は霞みこめ鳧   重嶺

   霞中帰鴈                     12

うち霞む夕をまちて帰るらしなれしみやこの立うかりとて  重嶺

   待花                       13

待遠におもふ花には杖よりもまつひかるらは心なりけり   重嶺

   竹間花                      14

立ましる竹よさくらの藪迄は吹くる風にたわまするかな   重嶺

   花交松                      15

花は妹まつは背としもおとすれて枝かはしたる色のよろしき 重嶺

   庭落花                      16

庭の面に赤裳すそ引たをやめの袖に散かふ花さくらかな   重嶺

   藤                        17

紫はみとりの上にたつものを松をは藤のなにたのむらん   重嶺

   牡丹                       18

うつしの天つをとめになすらへて見るへきものか牡丹の花 重嶺

   新樹風                      19

朝風の吹のまぶしほしは若葉ゆらきて露そこほる    重嶺

   夕卯花                      20

殊更にいろそさやけき卯の花は夕暮まちて見るへかりけり  重嶺

   梅雨欲晴                     21

山近く見ゆるまに??梅雨の空は遠くも成にける哉     重嶺

   舟中水鶏                     22

ふな人もこゝにかしふれ近よらは芦間のくひな立も社すれ  重嶺

   池友月                      23

庭の池にひれふる魚の動かしてことさら涼し水の上月    重嶺

   叢端蛍                      24

夜ひかる玉の横野の草むらに所得たりとてらす蛍か     重嶺

   樹蔭蛍                      25

松蔭の清水のもとはこと更に蛍のすたく処なりけり     重嶺

瞿麦露                     26

塵ならははらはん物を床夏の花おもけにもおける露哉    重嶺

   扇                        27

さはかりの扇の中にかきりなき風をはいかてたゝみこめけん 重嶺

   門泉                       28

よそに見て夏や過らん岩走るしみつなかるゝ門のあたりは  重嶺

   清風                       29

これなくは暑き盛をいかにせん風こそ夏の生薬なれ     重嶺

   夏夢                       30

永き日にむすひし夢もさめぬれは猶はかなさはよはにかはらぬ重嶺

   仲秋翫月                     31

皆人のめつらん心くみしりて月もこよひは影みかくらむ   重嶺

   庭月                       32

しはらくは松の木の間にやすらひてつきこそやとれ庭の池水 重嶺

   寒月祝                      33

望の夜の満たらひたる月を社御代にたくへてみるへかりけれ 重嶺

   菊初綻                      34

待こし園のむら菊咲そめぬ千代の盛や久しからまし     重嶺

   閑庭菊                      35

五本の門の柳はまねかねと籬の菊を人そとひくる      重嶺

   水辺菊                      36

白菊の咲をくりたる岩しみつ手折られて影をいさ結はまし  重嶺

   薄紅葉                      37

我やとの萩の下葉は色つきぬ野山のもみちいて頓見ん    重嶺

   残菊帯霜                     38

うつろへるいろともみえす霜おきていよいよ白ししら菊の花 重嶺

   寒月照梅花                    39

しら??と月澄る夜のうめの花雪ふみ分てみる心ちする   重嶺

   海辺千鳥                     40

墨の江に夕波千鳥よりくなり沖のひかたは汐や満らん    重嶺

   歳暮近                      41

この年もかた手のおよひ折はかり残りすくなく成にける哉  重嶺

   夏恋                       42

冨士のねの雪ならなくに夏も猶うちとけかたき人のこか  重嶺

奨待恋                     43

このくれとたのめしものを杣川の筏のいかてとゝこほる覧  重嶺

   日                        44

物といふものはみなから天津日のめくみにもるゝ物なかりけり重嶺

   滝                        45

いさましき滝の音哉老ぬとはしられて黒き筋はなけれと   重嶺

   山家橋                      46

山にても猶とはれけり世の人を渡さん為のはしならねとも  重嶺

林下幽閑                    47

我すめる松の林は吹かせの音より外に音つれもなし     重嶺

   草庵雨                      48

とふ人のたえたるのみか降雨もかやの軒端は音せさり鳧   重嶺

   松歴年                      49

かきりなく栄ゆるやとに生たちて松も年ふるかひや有らん  重嶺

   竹不改色                     50

一節はよしあらすとも呉竹の操にこそはあえまほしけれ   重嶺

   松上鶴                      51

すこもれる雛もこそあれ声たえすたつそ鳴なる山松の上に  重嶺

   かすみ 物名                   52

紫の袖ふりはへて少女子かすみれを摘もゆかりありけそ   重嶺

 

 六、『蓬園月次歌集 完』解説

 

1、『蓬園月次歌集 完』の成立

 

 『蓬園月次歌集』の編者、松浦詮は、明治7年10月8日、明治天皇に拝謁し、和歌を献じている。

  おもひきや緑も深き御園生の恵の露にたちぬれんとは

 明治11年12月には、宮中歌会始の賛者となり、12年1月18日の歌御会始に奉行として奉仕している。

 黒川真頼は序で次の如く記す。

 「松浦の殿の庭はよもきか嶋といひて、世に名たかうきこへし里。その殿に月ことに哥の会あり。……さてもこの会は、あるしの君の明治の十一年のしはすはかりに、御歌会の賛者にめされしかは、あくるとしの三月十八日に、そのことにあつかれる人々をつとへて、哥よみけるかはしめにて、それよりこなた今にいたるまてたゆることなし。あるしの君おもほさく、年々の月ことのうたを、たゝにひめおきたらむはいとあたらし。すりかた木にものして、世の中にひろめてむ。さてはまつ三田葆光、つきにはおのれにも見せさせたまひて、これか中より千首をえらひてよ、とのたまはせしかは、かれこれよみ、かうかへしに、のたまはせしかことくそのかすにみちぬ。さてこのしふの名をはいかに、とゝはせたまへは、庭の名のよもきかしまのゆかりによりて、園の名をもよもきかそのとつきたれは、それによりて蓬園月次歌集とせはいかにとまうししかは、それよけむとてさたまりぬ。

 平戸藩の江戸屋敷は蓬莱園と言った。『松浦詮伯伝』は蓬莱園の由来を次の如く記す。

 「蓬莱園は、第二十五代隆信君(宗陽公)が、幕府の賜地によりて、邸と為しものにて、茶人小堀遠州、及び大徳寺の僧江月と謀り、池を鑿ち流れを引き、樹木を植、茅舎を構へ、初め向東庵と称す。第三十五代熈君(観中公)に到り、橘守部に命じ、其の記を作らしむ。守部三十六景を択び、総称して蓬莱園と曰ふ。都下三大名園の一たり。」

 3代藩主・隆信が小堀遠州に命じて作らせた庭園で、当初向東庵と言っていたが、10代藩主熈の時、橘守部に来歴を作らせ、蓬莱園と改めたという。

 黒川真頼の序によれば、松浦詮は、明治12年1月18日に歌御会始に、初めて補助役として奉仕したが、その3月18日に、当時の歌人たちを蓬莱園に招いて、歌会を開催した。この歌会は、以後、明治23年まで絶えることなく、毎月催してきた。詠まれた歌もかなりの数になったので、三田葆光・黒川真頼に依頼して、それらの中から千首を選んで出版することにした。書名は蓬莱園に因んで「蓬園月次歌集」としたという。

 収録された歌の数は、以下の通りである。

 新年   13首

 春   327首

 夏   180首

 秋   125首

 冬   129首

 恋    20首

 雑   206首

 合計 1000首

 三田葆光・黒川真頼は、松浦詮の依頼通り、10年間の月次歌会に集まって詠まれた歌の中から、千首を選んで『蓬園月次歌集』に収録したのである。

 

2、収録歌人数と各歌人の収録歌数

 

 『蓬園月次歌集』には、明治12年から10年間にわたって、松浦詮が開催した月次歌会で詠じられた千首の歌が収録されているが、この歌会に参加した歌人は次の63名である。この他に春の部(五オ)に「長知」と、雑の部(六十オ)に「有仲」の各一首を収録しているが、あるいは歌人名の誤記かも知れない。別人とすれば、65名となる。

 

1 正二位勲二等公爵  毛利元徳卿   

2 従一位勲一等    近衛忠熈卿

3 従一位大勲位侯爵  中山忠能卿

4 従一位勲一等    徳川慶勝卿

5 従一位勲二等    久我建通卿

6 従一位勲一等    嵯峨実愛卿

7 従一位勲一等    松平慶永卿

8 正二位勲二等    西三条季知卿

9 正二位勲一等    伊達宗城卿

10 従二位勲三等侯爵  久我通久卿

11 正二位       藤波教忠卿

12 正二位勲三等子爵  長谷信篤卿

13 従二位勲二等伯爵  東久世通禧卿

14 正三位   伯爵  園 基祥卿 

15 従三位勲三等伯爵  津軽承昭卿

16 従三位勲四等伯爵  松浦 詮卿

17 従三位   伯爵  藤堂高潔卿

18 従二位   子爵  藤井行道卿

19 従二位勲三等    池田茂政卿

20 従二位勲三等    亀井茲監卿

21 正三位勲五等子爵  堀河康隆卿

22 正三位勲三等子爵  壬生基脩卿

23 従三位勲二等子爵  福羽美静卿

24 従三位   子爵  千種有任卿

25 正四位   子爵  前田利鬯朝臣

26 正四位   子爵  稲葉正邦朝臣

27 正五位   子爵  脇坂安斐朝臣

28 正五位   子爵  水野忠敬朝臣

29 従三位       松平確堂卿

30 従三位       島津忠寛卿

31 従三位   男爵  千家尊福卿

32 従四位勲三等男爵  高崎正風朝臣

33 正五位   男爵  藤枝雅之朝臣

34 正四位       石山基正朝臣

35 従五位       松平親貴朝臣

36 従四位勲三等   籠手田安定朝臣

37 大教正       本居豊頴

38 従(正)五位    林 信立

39 従五位       鈴木重嶺

40 正五位松浦厚妻     益子

41 正六位       三田葆光

42 文学博士従七位   黒川真頼

43 従六位       横山由清

44 宮内省御用掛従六位 近藤芳樹

45 宮内省御用掛    松平忠敏

46 宮内省御用掛    力石重遠

47 宮内属       伊東祐命

48 御歌所属      植松有経

49 御歌所属      小出 粲

50 御歌所属正七位   谷 勤

51 御歌所属      坂 正臣

52 皇太后宮職属    松波資之

53 東京府士族     小俣景徳

54    士族     加藤安彦

55 京都府平民     清水蓮成

56 東京府士族     橘 道守

57 橘 道守母     東 世子

58           小石浜子

59 正二位      綾小路有長

60 正四位子爵     風早公紀

61 従三位       長谷信成

62 従五位       間島冬道

63 士族        久野宗熈

 

 この収録歌人63名のうち、10首以上収録されている者を収録歌数の多い順に掲げると以下の通りである。

 

1 御歌所属      小出 粲   64首

2 正六位       三田葆光   61首

3 従三位勲四等伯爵  松浦 詮卿  60首

4 従一位勲一等    近衛忠熈卿  56首

5 従五位       鈴木重嶺   52首

6 従一位勲二等    久我建通卿  48首

7    士族     加藤安彦   46首

8 東京府士族     小俣景徳   43首

9 文学博士従七位   黒川真頼   38首

10 正二位       藤波教忠卿  35首

11 宮内省御用掛    松平忠敏   34首

12 正五位松浦厚妻     益子   31首

13 東京府士族     橘 道守   30首

14 従三位勲三等伯爵  津軽承昭卿  29首

15 御歌所属      植松有経   29首

16 従二位   子爵  藤井行道卿  28首

17 正四位   子爵  稲葉正邦朝臣 28首

18 従(正)五位    林 信立   27首

19 正四位       石山基正朝臣 26首

20           小石浜子   25首

21 従一位勲一等    嵯峨実愛卿  21首

22 宮内属       伊東祐命   19首

23 正二位勲二等公爵  毛利元徳卿  13首

24 宮内省御用掛    力石重遠   12首

25 正五位   子爵  水野忠敬朝臣 11首

26 従三位       島津忠寛卿  11首

27 従一位勲一等    松平慶永卿  10首

 

 黒川真頼の序によれば、10年間にわたる月次歌会で詠まれた歌の中から、三田葆光・黒川真頼が選び出した結果であるという。三田・黒川両名の評価を経て採録されたことになるが、明治12年〜22年頃の歌壇のひとつの状況を考える材料にはなるものと思われる。

 

3、明治歌壇の状況

 

 明治歌壇の状況に関して、斎藤茂吉は「明治大正短歌史概観」(『斎藤茂吉全集』第21巻、昭和48年8月13日、岩波書店)で、明治初年から明治10年前後までを第一期として、次のように述べている。

 「この第一期の歌風は、約めていへば、徳川歌壇の続きであつて、明治と改元され、政治上御一新になつたからと云つて、和歌の内容が直ぐ改まるといふわけではない。……当時の歌壇を支配したものは、第一は、香川景樹の流にある桂園派である。これは分かりよい古今集調に、気の利いた言ひまはしをなすものであつて、当時の新歌風の一つと看做すべきもので、最も勢力があつた。第二は、江戸派の流で、真淵の拓いた万葉風の歌風が栄えず、橘千蔭、村田春海等の万葉・新古今の折衷といふやうな歌風と、本居宣長から出た一派で、これも千蔭らのものとは大差はない。加納諸平の如き稍特色のある歌人がても、さう優れたものではなく、約めていへば、此等の流にある歌人もさう優れたものはゐなかつた。第三は公卿の間に残留してゐた堂上流で、公卿は大抵和歌は作つたが、専門歌人とは看做されない。以上のこの三つの流れが相交錯して歌壇を形成してゐたものと謂つていいとおもふ。……第一期の和歌は、徳川末期そのまま続きと看做してよく、ただ、堂上歌風と民間歌風とが、接近しはじめたことを以て特色だと謂つていい。

 斎藤茂吉がこのように概観している時代に、松浦詮は宮中歌会の担当者に選ばれた訳であり、以後、自分の屋敷に当時の歌人を招いて、歌会を開催した。

 斎藤茂吉は、明治10年から20年までを第二期として、「歌風は第一期の連続で、そこに価値上の著名な変化は認められない。」とし、この時期から『詠史』の歌が盛んに作られたこと、西洋文明が入ってきた影響で、西洋的な新事物を歌に詠む『開花新題』が流行したこと、このような変化はあったが、「和歌壇の主潮流には大きな変化なく、先づ第一期の連続と看做していいと思ふ。」と述べている。さらに続けて、「この時期に於ける歌風をば便利のために、「明治現存三十六歌撰」を以て代表せしめ、雑誌の方では、「大八洲学会雑誌」を以て代表せしめる。」として、この両者を具体的に紹介している。

 『明治現存三十六歌撰』は、明治10年6月の発行で、ここに収録された鈴木重嶺の歌は、本誌(「芸文稿」)の前号で紹介した。この書には、重嶺の他に、『蓬園月次歌集』に参加している、伊東祐命・力石重遠・黒川真頼・三田葆光・松平忠敏・高崎正風・本居豊頴の歌も収録されている。

 『大八洲学会雑誌』は、明治19年6月、本居豊頴・久米幹文・小杉榲邨によって創刊された和歌の雑誌であるが、賛助者の中には、高崎正風・黒川真頼・鈴木重嶺・伊東祐命・小出粲の名が見える。斎藤茂吉は、「この雑誌は長く継続し、例へば、明治三十七年十月二十日発行が、第二百二十号になつてるのであるから、新派和歌の革新運動が起つてからも、相当の勢力を維持してゐたのである。」と述べている。

 このような、当時の歌壇の状況の中で、明治21年の御歌所長には高崎正風が就任し、参候には、松浦詮・長谷信成・黒川真頼・伊東裕命・植松有経・小出粲・谷勤・阪正臣等の名が見える。いずれも『蓬園月次歌集』に収録されている歌人である。これに、三田葆光・近衛忠熈・鈴木重嶺・久我建通・加藤安彦・松浦益子・橘道守・小石浜子等が参加した歌会であったと思われる。

 鈴木重嶺は、当時の歌の傾向について、『蓬園月次歌集』の跋で、

 「今の世のうたは、延喜天暦の頃の哥にくらへては、見るにたらすといふ人あれと、そはふかく思はぬなるへし。今の哥とても真こゝろをもとゝし、いにしへを師としてよみいてむには、古人に恥さるも出らさらむやは。

 現在の歌は古の歌に比較して、見るべきものが無いというが、現在の歌人も、いつわりのない、ありのままの気持ちを大切にして、伝統的な優れた歌を見習って詠むならば、古の歌に対しても恥ずかしくない歌を詠むことができるはずである、と、このように述べている。重嶺は20代から歌に励み、加藤千蔭系の村山素行・伊庭秀賢に学んでいるが、時代の流行にも対応して、『詠史清渚集』を編纂したり、文明開化の歌も多く遺している。『一葉日記』によれば、明治25年3月9日、中島歌子の歌会では、若い佐佐木信綱と共に同席している。この時、重嶺79歳、信綱19歳であった。

 明治31年、佐佐木信綱が創刊した短歌雑誌「心の花」が今年(2008年)創刊110年になった。佐佐木幸綱氏は巻頭の「創刊一一〇年に思う」で、次のように述べている。

 「今日からふりかえれば、新派の隆盛は短歌史の歴史的必然として当然のなりゆきと見えるが、現在進行形としてあの時代を生きていた人たちにとっては、伝統も革新も渾然たる混沌として眼前していたにちがいなかった。そこで佐佐木信綱は「おのがじし」を言う。

 「心の花」が創刊号以来ずっと唱道してきた「おのがじし」は、こうした時代に言いはじめられたことを、私たちはあらためて深く心にとどめたい。このとき信綱は満年齢で二十五歳。若い夢と自負と自戒がこめられた言葉だったのである。」(平成20年7月、1317号)。

 明治28年、82歳の鈴木重嶺は、小出粲と共に鶯蛙吟社を立ち上げ、短歌雑誌「詞林」を創刊した。そして、この雑誌は、後に佐佐木信綱の「心の華」(「心の花」)に合併したのである。重嶺と信綱の交流は、伝統的な和歌と、新しい近代的な短歌との流れを象徴しているようにも思えてくる。

 

 七、松浦詮と鈴木重嶺

 

1、  松浦詮 略年表  (年表省略)

 

 

2、  蓬莱園の園遊会など

 

 『松浦詮伯伝』によれば、松浦詮は、明治24年4月12日、蓬莱園で園遊会を開催している。「来り会する者、華族、官吏、陸海軍将校、学者、紳商、大凡弐百名なり。」仮設のテントを張り、田楽店・蕎麦屋・汁粉店などを出し、池には船を浮かべ、管弦を演奏させたという。

 明治31年3月24日には、旧暦上巳の節句会を開催し、その様子を次の如く記している。

 「三月二十四日、始めて五節句会を催す。維新前所謂五節句に遭遇せし古老を会し、旧事を談ずるなり。永続して明治三十四年に至れり。是日、旧暦上巳に当る。来り会するもの、松井康英、立花種恭の両卿、杉浦誠、松波遊山、鈴木重嶺、三田葆光、大槻如電の諸氏なり。

  会者小伝

 松井従三位康英卿 元旗本之家、石見守、外国奉行、神奈川奉行

  より開港延期談判使節公使として、欧洲七国へ派遣せられ、帰

  朝後、勘定奉行、町奉行歴仕。後ニ本家相続、老中を勤めらる。

  本年六十九歳。

 立花従三位種恭卿 柳間詰より、大番頭、若年寄、老中格を歴仕。

  維新後ハ学習院長、爵位局主事等を勤らる。本年六十三歳。

 杉浦誠 鉦一郎 兵庫守、御目付、箱館奉行。維新後ハ公儀人、

  開拓使判官等を歴仕せり。本年七十三歳。

 鈴木重嶺 大之進 兵庫頭、御徒士目付、勘定吟味役、佐渡奉行。

  維新後ハ相川県令。本年八十五歳。

 三田葆光 喜六 函館奉行、支配組頭。維新後ハ教部省出仕より

  太政官少史、師範学校の教授なりし。本年七十三歳。

 松波資之 北面之家、左衛門尉兼讃岐守なりし。維新後、内舎人、

  近年老退せり。香川景樹之高弟之歌人也。本年六十九歳。

 大槻如電 仙台人、盤渓之子、文人也。年五十六歳。」

 松浦詮は、江戸屋敷の別邸に広大な庭園を造営し、蓬莱園と名付けた。現在の台東区浅草橋五丁目の都立忍岡高校のある一帯である。この蓬莱園に文化人を招いて、園遊会や茶会や歌会を開いて楽しんでいたようである。鈴木重嶺も歌会には参加し、歌を詠じ、また指導もしていたものと推測される。

 

3、鈴木重嶺宛 松浦詮書簡 (昭和女子大学図書館・翠園文庫蔵)

 

 昭和女子大学図書館・翠園文庫には、鈴木重嶺宛の松浦詮の書簡一葉が所蔵されている。縦186ミリ×横320ミリの半紙に、

 「  御承候ヘハ不煩貴答別紙不

    及御返却候

  

  貴書拝承廿一日会之義

  御示路之趣早々近衛殿

  へ相談申入候処別紙之通

  返答相成候仍御先役ニ候

  得共道守方ハ御断御来

  臨被下度聞望候拝答如

  此御座候也

   三月三日     詮

   翠園先生        」

 鈴木重嶺は、松浦詮の月次歌会に参加していたので、ここに掲げた松浦詮の書簡は、明治何年かは、今、即断できないが、三月の歌会に関するものであろう。両者の交流の一端を推測する資料になるものと思われる。末尾に原物の写真を掲げておいた。

 

4、『霧積紅葉見の記』について

 

 『松浦詮伯年譜』明治22年10月30日の条に、

 「○三十日、歌友を誘ひ、上毛霧積の紅葉を賞し、翌日、帰邸す。」

とある。松浦詮は、この日、三田葆光・鈴木重嶺を誘って、松浦信寔と四人で、群馬県の霧積温泉へ出かけ、紅葉を鑑賞している。

 群馬県安中市にある霧積温泉は、明治21年に温泉地として開発された。避暑地として栄え、幸田露伴や与謝野晶子なども訪れているが、松浦詮は、開発の翌年、明治22年に霧積の秋の紅葉を観賞に出かけたのである。

 この折の様子が、鈴木重嶺の『霧積紅葉見の記』に記録されている。この記録は本文6丁の小冊子であり、本誌「芸文稿」第1号で紹介した。はしがきは三田葆光が書き、松浦詮・松浦信寔・三田葆光・鈴木重嶺の歌を収めている。冒頭は次の如くである。句読点は原本は「。」であるが、適宜改めた。

 

「紅葉見の記

上毛国なる霧積といふ山間より、近き頃、温泉を見出て、あらたに大きなる家どもを造り、ゆあみにこんまらうどをまつとか。そを聞しりて、暑き頃は涼みがてらゆく人も多かりしを、山間ゆ寒さもよそよりは早ければ、此頃は誰もゆかずとぞ。されどかしこも紅葉多く、殊に其道筋の山々谷間のは、よのつねならぬよし。松浦三位の君つぶさに聞れて、鉄道をはしりゆけば、一日にゆかるゝよし。紅葉見にゆかばやと、三田葆光とおのれにすゝめられければ、そはめづらしき所なり。従ひまゐらせん。いつたゝせたまふにかと、とひ侍れば、十月三十日の午前九時の車にてはしり行ん。其頃までに忍が岡なる停車場へゆきて、またれよと、いはるゝまゝに、葆光もおのれと、其日の八時過、かしこにゆき、まつほどもなく、馬車のおと聞ゆれば、出て見るに、やがておりて、てけもよく、ともによろこばしうなどいひ、しばらくまつほどに、召つれられし、松浦信寔、かの切符をものしつる。やがて、人々車に乗らんとてとよめきさわげは、其あとにつき行て乗。松浦の君をおくりこし人々はこゝにてわかれ、はしりいづ。王子の停車場を過て左右の田面稲刈はてし、のどかなるさまを見て

                        詮

  秋の田はとくかりはてゝひつぢさへ花さくべくも見えにける哉

赤羽根のあたりは、いまだ刈はてず、八束穂の色づきたるを

                        葆 光

  尋ゆく山の紅葉やいかならむ田づらのをしね色づきにけり

ゝより浦和のあたりまで、畑のかたはら、田の畔などに黄菊を植たるに、折てひさぐべきほども見えず

                        重 嶺

  黄金色の菊を植しは田に畑に得もの多きをほぐとなるらし」

 

 明治二十二年十月三十日、

松浦詮以下四名は、忍が岡の停車場から午前九時の汽車で霧積温泉へ向かった。大宮・上尾・磯部・松井田を経て横川で下車。碓氷峠の紅葉を愛でながら、霧積温泉の錦楓館に宿泊。温泉に浸かって、夕食、酒を酌み交わしている。翌日は、帰路、磯部で下車して、松浦詮の知人の医者、高松凌雲の別荘に立ち寄り、鉱泉に入る。午後二時頃出発して、上野へ八時頃到着。各自帰宅した。

「此としまで、かるおもしろき紅葉見をせしことあらずと、厚くよろこびをのべ、別れ侍りて、わが家にかへりぬ。後のおもひ出ぐさにもとて、ありしことどもをしるしおくになむ。

           明治二十二年十一月  須々伎信宜年」

 鈴木重嶺は、このように結んでいる。

 

 以上、松浦詮編の『蓬園月次歌集 完』の紹介をして、その刊行年、明治初期の歌壇の状況を整理してみたが、これは、鈴木重嶺研究の一環であり、今後も、この作業を継続してゆきたいと思う。

 明治28年、鈴木重嶺は、小出粲と共に、短歌雑誌「詞林」を創刊した。この時、重嶺は82歳であった。25歳の佐佐木信綱が「心の華」(「心の花」)を創刊したのは3年後の明治31年であった。重嶺と信綱は、中島歌子の歌会にも、よく同席していて、樋口一葉などに指導している。そして、「詞林」はやがて「心の花」に吸収合併することになる。

 明治歌壇の変遷の中で、革新的な活動を展開した一人が、佐佐木信綱であったとしたならば、伝統的な日本の和歌の流れを継承して、活発に歌を詠み、歌会にも積極的に参加していた一人が鈴木重嶺であった。

 

 付 記

 鈴木重嶺宛、松浦詮書簡の閲覧、写真掲載の御許可を賜った昭和女子大学図書館に対して感謝申し上げます。また、この書簡の判読に際しては、芸文稿の会の皆様の御指導を賜り、最終的には、江戸東京博物館の石山秀和先生の御指導を賜りました。ここに記して心からの感謝を申し上げます。

 今回、この資料の調査に関して、菅野貴子氏の参加を頂いた。鈴木重嶺の資料収集に際して、故人見楠郎先生から多大の御配慮を賜ったが、昭和女子大学の卒業生に参加してもらえたことは、今後の資料の調査・研究の上で有難いし、人見先生の御恩に少しでも報いることになるのではないかと、このことにも感謝している。

                 平成二十年十二  深沢秋男

 

【本稿は、『芸文稿』第2号(平成21年4月発行)に掲載したものを、表記などを改めたものである。参考写真・松浦詮略年譜などは省略した。】