●故鈴木重嶺翁逸話() 

     『読売新聞』明治31年(1898)11月30日、朝刊、4面

 

翁ハ幕臣小幡多門の子にて後に鈴木半次郎の養子となれり。鈴木氏遠祖ハ駿河守重家にて昔ハ名家と称せられしが子孫久しく振はず、翁に及びて再び栄へ佐渡奉行中の治績ハ殊に著しく、恩威並行はれて百姓町人の翁を見ること父母の如く、さながら甲斐に於ける信玄にも似たりしとぞ。

幕府の習慣に諸臣任官せんとする時ハ、予め各自好める所の名を撰びて伺ひ済の上其官を拝する事なるが、勝麟太郎補任せられんとするに当りて翁に問ふ所あり、翁の曰ふ『日本にて最も小さきハ安房の国なり。里見八犬伝にも安房ハ鯉を産せずと見え、秋収も亦極めて少しとなり。安房守抔ハ如何』とありけるにぞ、麟太郎実にも迚、翁を命名親と頼みて安房守を拝したり。

幕府の竹内下野守を洋行せしむる時、当時の名士学者も多く随ひしが、皇国の学に通ぜる者其内に洩れたるハ遺憾なりとて、翁ハ『皇国大意』てふ一書を贈りけれバ使臣も大に便益を受けたりといふ。後世の人翁を目して一図に歌人の如く思へるハ能く其人物を知らざるが為めなり。

滝和亭ハ元幕府の小吏なり画才あり。師なくして画けるもの少からず、一日翁其画を見て曰ふ『足下の才をもて小吏に畢らんハ惜むべし。今より力を画に致さバ必らず大名を成さん』と。和亭其言に従ひしが果して今日の名声を博したり。

 

 

●故鈴木重嶺翁逸話() 

     『読売新聞』明治31年(1898)12月1日、朝刊、4面

 

翁ハ維新の際、田安家の家老となりしが折柄甲州に百姓一揆起り騒擾二ケ月に垂んとす。然るに何人も之れを鎮定する者なかりしかバ、翁ハ主命に依り鎮撫に向ひしに一揆の百姓等ハ翁の徳風を望みて出迎へたり。翁ハ之れを陣屋に招きて懇々諭すに利害得失を以てし、且つ告げて曰く、往時甲州の地ハ信義に厚しと聞えたる武田信玄の領地なれバ、自然此地の百姓ハ義を重んずべき筈なり。然るに斯く騒擾を極めて、上の手数を煩はするハ、義に欠け理に悖るにあらずやと縷々説く処あり。抑も此騒動の原因ハ旧領主に叛して朝廷に帰せんとするにありしを以て、翁も亦世の趨勢を看破とたれバ、早晩廃藩置県の制度となるべし、と述べけるに皆々、其罪を謝し一揆鎮定したりとぞ。

翁桂冠後ハ日々の如く諸家の歌会に臨み、二十年来一回だも欠席することなかりしハ畢竟其無病強健なるが故なりとハいへ、之に依つて見るも幕府五代の君に仕へて永年忠勤の程も思ひやらるなり。

翁ハ常に仏法嫌ひなりしを以て予て其遺言にも死後僧侶の引導ハ無用なり。又、読経ハ成るべく短くして、会葬者に長く時間を費さしめざるやうなしくれよと告げたりといふ。

 

 

●故鈴木重嶺翁逸話() 

     『読売新聞』明治31年(1898)12月3日、朝刊、4面

 

翁が歌の師の村上素行なるよしハ前にも記せしが、素行ハ田安家に仕へて加茂真淵の学統を引く。又、伊庭秀堅にも従ひたり。

翁の門人数百人全国に散在すれども、歌道不振の時節とて歌にて門戸を張る程のものハ少く、多くハ斯道に遊べる老人抔なれども、中に就て名を知られたるハ屋代柳漁、小●(月+俣の右)景徳の二人なり。然れども皆翁に先ちて逝けり。

重嶺社中にて名を知らる者にハ先光清風あり。又、歌の門人に富みたる者としてハ篠田謙治あり。幹事にして最も古きを山田謙益とす。

翁にハ実子なく嗣子重明氏ハ襁褓より養はる処と云ふ。

翁ハ画を好みて最も竹を描くに長ず。其翠園の号を附して人に贈れるもの亦甚だ少からず。清節霜を凌で卓然雲に聳るの気自ら丹青の間に透る。

以上ハ翁が逸話の一斑のみ。若し夫れ除に翠園叢書を繙いて八十余年の事歴

を覗へバ、数千万言尚ほ且つ足らざるものあるを知らん。

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この『読売新聞』に掲載の「故鈴木重嶺翁逸話(1・2・3) 」に関しては、足立匡敏氏の御示教によって知る事を得た。記して感謝申し上げます。