重嶺と海舟

          

深沢 秋男


 鈴木重嶺と勝海舟は極めて近い関係にあったが、一般にこの事は意外に知られていない。『海舟日記』によれば、明治15年から29年の15年間に百回以上、2人は合っている。これは重嶺70歳から没年まで、海舟60歳からやはり没年までである。晩年の勝海舟は10歳年長の鈴木重嶺・翠園とかなり頻繁に交流していた。
 重嶺も海舟も、明屋敷伊賀という低い身分の出であった。そんな関係からか、2人は親しく付き合っていたようである。
 重嶺の和歌の教え子・石倉翠葉は、大正5年の雑誌『旅行倶楽部』で、重嶺が佐渡奉行になったのは、その人選に苦慮していた西郷隆盛に勝海舟が推薦したからである、と記している。
 重嶺は元治元年8月に鎗奉行を御役御免になって寄合となり、佐渡奉行拝命までの1年間は非役の身であった。
 軍艦奉行・勝海舟と軍賦役・小納戸頭取の西郷隆盛が大坂で会談したのは、「西郷書簡」、『海舟日記』の記述から推測するに、元治元年10月のことであろう。重要な案件が済んだあと、西郷は佐渡奉行の適任者が見つからず、困っている事を打ち明けると、海舟は即座に、それなら適当な人材がいる。未だ世間には知られていないが、鈴木という人物がいる。彼ならば適任であるから、辞令を出すようにと薦める。西郷もこれに従った。こんな経緯の末に、佐渡奉行・鈴木重嶺は誕生したという事のようである。もちろん、勝海舟としても、重嶺にそれだけ能吏としての力量を認めていたからの事ではあろうが、お互いに同じ軽輩の身からここまで出世してきた、という連帯感もあり、非役の重嶺を強く推したのであろう。
 しかし、この2人が頻繁に合うようになるのは、前述の『海舟日記』の記録からもわかるように、重嶺が官職を辞し、文筆に専念するようになってからである。
 日記の明治15年11月1日の条に、
「鈴木重嶺、佐久間鐇五郎、零落ニつき救助の事頼み……」
とある。重嶺は明治15年に零落し、海舟はこれを救助したらしい。重嶺の身の上に何があったのか。

 『新潟新聞』は晩年の重嶺の逸話を記録している。明治3年、千葉県の山野を開墾する計画が重嶺のもとに持ち込まれた。重嶺もこれに賛同して、株金を募集して政府に出願した。しかし、許可が出ず、計画は頓挫、発起人は腹かき切って一同に謝罪した。9年、佐渡相川から東京に戻った重嶺は出資者の貧窮の状態をみて、惻隠の情に堪えず、一家の私財を悉く売却し、数千円を捻出して、これを株主に分配した。重嶺の家が裕福でなくなったのはこの故である、と伝えている。『海舟日記』の「重嶺零落」は、この一件と関係するものであろう。この時以後、重嶺と海舟は頻繁に合うが、海舟は象山の書の代金として10円、掛物の代金として25円など、しばしば金を重嶺に渡している。年長の重嶺のプライドを傷つけることなく、その窮状を助けている海舟が想像される。
 鈴木重嶺は明治31年11月26日、85歳の生涯を閉じるが、葬儀には、毛利元徳、近衛忠熈、正親町実徳、久我建通、蜂須賀義韶、前田利嗣、勝安房等々、1068名が会葬名簿に記載されている。また、貧人10数人が柩前に集まり、生前の施しに感謝し、その死を悼み泣きくずれたという。
 私は、この重嶺の生き方に惹かれて伝記研究を決意した。

 

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