鈴木重嶺顕彰会

 

●昭和女子大学図書館には、鈴木重嶺(翠園)に関するコレクション「翠園文庫」が所蔵されている。これは重嶺の御子孫の松本栄子氏から寄贈された資料が中核になっている。重嶺の伝記資料や歌人としての自筆草稿が多くある。

●鈴木重嶺は、勝海舟とも親交のあった幕臣で、最後の佐渡奉行をつとめた。また、幕末・明治初期の歌人としても、佐佐木信綱等と共に活躍している。

歴史・文学の両面で歴史に名を留めて良い人物だと思う。そこで、法政大学名誉教授の村上直先生と相談して、「鈴木重嶺顕彰会」を創設した。重嶺の研究を進め、幕末・明治維新に生を享けた重嶺の業績を明らかにし、その功績があれば、これを顕彰したいと思う。これ等の資料の研究を進めて、鈴木重嶺を再評価したいと願っている。

平成16年6月26日 深沢秋男

 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

以下、鈴木重嶺に関する、折々の出来事や、所感を、思いのままに記してゆきたい。

 

[33] 重嶺の消息を伝える『読売新聞』

●甲南女子大学の菊池先生から貴重な資料を頂いた。明治期の『読売新聞』に4箇所報じられている。
@明治11年1月24日(木)朝刊、1面
「○鈴木重嶺大人が牛込橋の寿亭を借て毎月一度づつ歌の会を開き高貴の方々も出席されるといふ」
A明治25年10月24日、朝刊、2面
「○鈴木翁の和歌会 歌人鈴木重嶺翁は来月十五日を期して門下を自邸に集め盛なる和歌会を催す由なるが其題は「初冬雪」なりと云ふ」
●他の項は長文故、別に報告したい。

[32] 鈴木重嶺の訃報 

●今日、授業の後、図書館の近代文庫で明治の雑誌『太陽』を調査した。明治31年12月5日発行の第4巻第24号に重嶺の訃報が掲載されていた。
●「○鈴木重嶺翁の逝去 不慮の怪我にて老体を痛められたる歌学界の泰斗鈴木重嶺翁は養生叶はず去月廿六日逝去せられぬ。氏の詳伝は肖像と共に次号に載すべし。」
●第4巻第25号には、貴族院議員青山貞男、陸軍中将四条隆謌、佐久間貞一と共に重嶺の写真が掲載され、詳細な伝記が載っている。いずれ、まとめて、HPの「鈴木重嶺」の項にアップしたいと思う。

[31] 雑誌『太陽』の重嶺の歌

●昨日、17日には、日文の講義2コマ済ませて図書館へ回り、近代文庫所蔵の、雑誌『太陽THE SUN』(明治28年2月5日、1巻1号)収録の鈴木重嶺の短歌を調査した。
●菊池真一先生のお知らせによれば、1巻から4巻までの号に重嶺は歌を寄稿しているらしいが、今日は、第1巻しか調べられなかった。この種の調査は時間がかかる。久し振りに学生時代を思い出した。それにしても、このように貴重な明治の雑誌が所蔵されている、昭和女子大学の図書館はすばらしい。収集に努められた方々に感謝する。
●2巻以後も、今後調べて、重嶺の歌を一首一首、定着してゆきたい。菊池氏に感謝する。

[30] 国立国会図書館の鈴木重嶺

●菊池真一先生に教えられて、国会図書館のデジタルアーカイブを検索したら、鈴木重嶺関係のデータが28項目確認できた。
●『越路之日記』『雅言解』『旅路のすさび』『声のなごり』『清風集』『声ノ余波』『二荒山歌合』等々。それに、佐渡奉行や相川県知事に関する文書、私の発表した『学苑』の文献もはいっている。
●鈴木重嶺が少しずつ世間に知られていっている事が確認できて有難い。

[29] 西郷南洲・勝海舟・鈴木重嶺

●石倉翠葉という歌人・俳人がいた。鈴木重嶺の歌の弟子である。その御子息の石倉重辰氏が、平成12年4月27日に昭和女子大学に来られた。昭和に重嶺の資料が寄贈されたのを知り、その閲覧を申し出た訳である。
●その折、石倉氏は重嶺関係の資料を持参して、私に下さった。その中に、翠葉が大正5年(1916)に雑誌『旅行倶楽部』に発表した「佐渡の思ひ出―西郷南洲・勝海舟・鈴木重嶺」というエッセイがある。これは、この3者の関係を知る上で誠に興味深い内容である。
●この度、全文を「近世初期文芸研究会」の「鈴木重嶺関係資料」に紹介した。興味のある方は是非アクセスしてみて欲しい。→http://www.ksskbg.com/

[28] 私の書斎 

●私の書斎には部屋の両端に、原稿執筆用の机があります。1つは従来の机、ここでは、手紙や様々な書き物をしたり、本を読んだりします。もう1つはパソコンで原稿執筆するデスクです。最近の原稿は殆どパソコンです。このデスクの前の壁に、恩師の写真や書を掛けて、気を引き締めていますが、鈴木重嶺の色紙も掛けてあります。
●重嶺の色紙は、重嶺関係の資料を昭和女子大学に寄贈して頂いた時、御子孫の松本誠先生の奥様から頂いたもの。笹竹の見事な墨絵と「翠園散人」の陽刻方形朱印が押してあります。重嶺が没する2年前の83歳の時のもの。自分の生涯を振り返って、私は竹の笹の緑のように、一貫した信念に従って生きてきた事だ、と詠じる重嶺に親近感と尊敬の思いさえわいてきます。彼は、右往左往しない人生だったのかも知れません。故に、海舟も一目おいたように思えてきました。

[27] 佐渡の天領ゼミナール 

●8月5日(土)、佐渡の全国天領ゼミナールで、鈴木重嶺についてお話しました。能楽の大成者・世阿弥配流の縁の金井能楽堂が会場でした。参加者は、全体で100名位でした。佐渡以外からも1割ほど参加しておられるそうです。
●私の記念講演は、5日のトップでした。自分としては、準備はして行ったのですが、十分だったとは思えず、イマイチというところでした。
●今後は、昭和女子大の重嶺関係の資料を、雑誌等に翻刻して紹介してゆきたいと、切に思いました。本学に、このように貴重な資料がある事を、佐渡の多くの方々に伝えられたのは、良かったと思います。

[26] 鈴木重嶺の肖像画 

●昭和女子大学の重嶺の関係資料は、平成8年7月16日、御子孫の松本栄子氏から、全て本学へ寄贈された。ただ1点、重嶺の油絵の肖像画は、仏壇のある部屋に掛けてあり、これは毎日お線香を上げながら拝むと申され、寄贈リストから除外された。
●しかし、平成16年2月19日、この肖像画も寄贈された。この肖像画も頂く事になったので、私は画家の「川久保正名」について調査した。小杉放庵記念日光美術館の田中正史氏や東京文化財研究所の山梨絵美子氏の御教示によって、この画家の概略は判明し、この肖像画は重嶺70歳頃のものと推測された。
●山梨絵美子氏の助言もあり、貴重な存在であることが判ったので、図書館では、特別予算を計上して、この油彩画を文化財補修の専門家に依頼して補修を済ませ、大切に保管している。

[25] 重嶺のお墓にお参り 

●今日は、午前10時ころ大学に着いたら、キャンパスガイダンスを実施していた。今回も高校生の来学は多く、キャンパスは活気付いていた。来年度の受験生は、本年度と同様に、多い様に思った。
●前期の採点簿を日本文学科の教務の先生に提出して、帰途に新大久保で下車して、全龍寺へ伺い、御住職様に御挨拶して、重嶺の墓にお参りして、来週は佐渡へ伺い、「鈴木重嶺と佐渡」と題し、お話しする旨を報告した。
●松本誠先生のお墓にも、お花と香を手向け、現在ここまで進みました、と報告した。国語学者の先生は、私のした事に満足していてくれるであろうか・・・。

[24] 近代文庫の『開化新題歌集』

●昨日は、昭和女子大学の図書館の、大久保忠保編の『開化新題歌集』を閲覧・調査しました。昭和女子大学図書館の近代文庫は、人見円吉先生が、戦後収集されたコレクションで、貴重な資料が沢山所蔵されています。
●『開化新題歌集』は全3冊で、第一冊目は明治11年に出版された木版本です。126名の歌人の和歌が収録されていますが、その内、52名が、佐渡の歌人です。これは、鈴木重嶺が、幕末の佐渡奉行時代と、幕府瓦解後、県知事として再び佐渡に赴任した、約10年間に佐渡の地役人や文化人に和歌の指導をして、佐渡の歌壇が隆盛した故だと思います。これらの、明治期の和歌史の研究も、若い研究者には心掛けて欲しいものです。

[23] 鈴木重嶺の葬儀記録

●昭和女子大学図書館・翠園文庫には、重嶺の御子孫・松本誠氏(栄子氏)から寄贈された貴重な資料が所蔵されています。本日は、佐渡市での講演に備えて、関係資料の複写をしました。
●『葬儀記録』(翠K/92)は重嶺の葬儀の際の記録として実に貴重なものです。墨付37枚、1帖。1号〜15号まであり、鈴木重嶺の葬儀の参列者と思われる人々の氏名が記録されています。
●1号には、毛利元徳・近衛忠熈・正親町実徳・勝海舟など貴族・政治家28名が記録され、全体で1072名となります。黒川真頼・小中村清矩・井上頼国・佐佐木信綱・中嶋歌子などの文化人も多く、地域は東京を中心にして全国に及んでいます。特に佐渡奉行時代に、短歌の指導をした事も関係して、佐渡の人々が多く参列しています。

[22] 鈴木重嶺の色紙 

●伊勢崎市の福地書店から鈴木重嶺の色紙を購入した。
「  初 秋 風
 あきたつと おもふゆえにや きのふにも
      かはらぬかせそ  けさは身にしむ
                  八十三叟 重嶺」
●重嶺は2年後の明治31年11月26日に没している。

[21] 全国天領ゼミナール 

●佐渡市では長年「全国天領ゼミナール」が開催されています。今年の夏に、その第22回目が開催されます。第1日目の記念講演に「鈴木重嶺と佐渡」と題してお話するようにと、依頼がありました。
●重嶺は余り知られていない、幕末維新の人物で、日本歴史の上から見ても重要な意味を持っていると思います。この点を、少しでも多くの方々に知って頂きたいと、喜んでお引き受けする事にしました。佐渡研究では第一人者の田中圭一先生の主宰されるセミナーですので、恥ずかしくないような内容を伝えたいと思います。

[20] 鈴木重嶺 を易しく紹介したい 

●鈴木重嶺(すずき しげね)と言っても、御存知ない方が大部分だと思います。そこで、研究論文という、固苦しいものではなく、もっと読み易いものを書きたいと思っています。
●私も昭和女子大学を定年退職しましたので、これからは、自由に、易しい文章を書いて、世間一般の方々にも読んでもらえるような本を出したいと思います。実現した時には、御報告申し上げます。

[19] 高崎宗倫氏より来信 

●鈴木重嶺の菩提寺・全龍寺の高崎宗倫氏から、私のウェブ日記読みました、というメールが届きました。全龍寺の御住職は高崎宗矩氏、副住職は高崎宗平氏、宗倫氏は第3代目です。
●平成17年1月、鈴木重嶺の関係資料が大量に発見されたと、宗平氏から御連絡を頂き、早速調査させてもらいました。その折、宗倫氏は、1日間、私の調査に協力してくれました。
●この調査結果は、『学苑』の平成17年3月号に報告してあります。興味のある方は、是非、御覧下さい。
●また、そのうちに、全龍寺へ伺って、重嶺のお墓参りをしたいと思います。

〔17〕講演「鈴木重嶺と佐渡」 平成18年8月6日

8月5日・6日、佐渡市の金井能楽堂で、第22回全国天領ゼミナール が開催された。私は第1日目のトップにお話した。約60分、酒井友二先生が紹介して下さり、私のお話に入ったが、まず、資料のミスの訂正から始まった。このような時、いつも痛感するのであるが、まだまだダナ、という事。今回も反省する事が多い。あれも確認しておくべきだった、これも調査が不十分だった、と悔やむのである。参加者は、佐渡の方々を中心にして約100名ほどが参加された。佐渡以外からも10〜15名くらいは来島される由。立派なイベントである。

会場の金井能楽堂が、また見事な舞台である。この土地は世阿弥の配所で、そこに総桧造りの能舞台がある。6メートル四方の舞台に10メートルの橋掛り、正面には老松が描かれ、三方に観客席がある。能舞台を手を触れられる距離で拝見したのは、初めてのことで、大変感動した。

このセミナーは、今回が、第22回であるから、22年目ということになる。田中圭一先生を中心に、佐渡の方々が運営されている。当日は、控室で、酒井友二先生・田中圭一先生・渡辺剛忠先生とお話するチャンスを頂いた。光栄の至りであった。

このような、事があるたびに、もっと、もっと精進しなければ、申し訳ない、と反省される。今回も反省多き1日となった。

 

 

[16] 重嶺のお墓にお参り  平成18年7月29日

 

●今日は、午前10時ころ大学に着いたら、キャンパスガイダンスを実施していた。今回も高校生の来学は多く、キャンパスは活気付いていた。来年度の受験生は、本年度と同様に、多い様に思った。

●前期の採点簿を日本文学科の教務の先生に提出して、帰途に新大久保で下車して、全龍寺へ伺い、御住職様に御挨拶して、重嶺の墓にお参りして、来週は佐渡へ伺い、「鈴木重嶺と佐渡」と題し、お話しする旨を報告した。

松本誠先生のお墓にも、お花と香を手向け、現在ここまで進みました、と報告した。国語学者の先生は、私のした事に満足していてくれるであろうか・・・。 

 

 

[15] 近代文庫の『開化新題歌集』  平成18年7月22

 

●昨日は、昭和の図書館の、大久保忠保編の『開化新題歌集』を閲覧・調査しました。昭和女子大学図書館の近代文庫は、人見円吉先生が、戦後収集されたコレクションで、貴重な資料がたくさん所蔵されています。

●『開化新題歌集』は全3冊で、第一冊目は明治11年に出版された木版本です。126名の歌人の和歌が収録されていますが、その内、52名が、佐渡の歌人です。これは、鈴木重嶺が、幕末の佐渡奉行時代と、幕府瓦解後、県知事として再び佐渡に赴任した、約10年間に佐渡の地役人や文化人に和歌の指導をして、佐渡の歌壇が隆盛した故だと思います。これらの、明治期の和歌史の研究も、若い研究者には心掛けて欲しいものです。 

 

 

[14] 鈴木重嶺の葬儀記録  平成18年7月6日

 

●昭和女子大学図書館・翠園文庫には、重嶺の御子孫・松本誠氏(栄子氏)から寄贈された貴重な資料が所蔵されています。本日は、佐渡市での講演に備えて、関係資料の複写をしました。

●『葬儀記録』(翠U/92)は重嶺の葬儀の際の記録として実に貴重なものです。墨付37枚、1帖。1号〜15号まであり、鈴木重嶺の葬儀の参列者と思われる人々の氏名が記録されています。

●1号には、毛利元徳・近衛忠熈・正親町実徳・勝海舟など貴族・政治家28名が記録され、全体で1072名となります。黒川真頼・小中村清矩・井上頼国・佐佐木信綱・中嶋歌子などの文化人も多く、地域は東京を中心にして全国に及んでいます。特に佐渡奉行時代に、短歌の指導をした事も関係して、佐渡の人々が多く参列しています。 

 

 

[13] 鈴木重嶺の色紙  平成18年5月27日

 

●伊勢崎市の福地書店から鈴木重嶺の色紙を購入した。

「  初 秋 風

 あきたつと おもふゆえにや きのふにも

      かはらぬかせそ  けさは身にしむ

                  八十三叟 重嶺」

●重嶺は2年後の明治31年11月26日に没している。 

 

 

[12] 鈴木重嶺 を易しく紹介したい  平成18年4月19日

 

●鈴木重嶺(すずき しげね)と言っても、御存知ない方が大部分だと思います。そこで、研究論文という、固苦しいものではなく、もっと読み易いものを書きたいと思っています。

●私も昭和女子大学を定年退職しましたので、これからは、自由に、易しい文章を書いて、世間一般の方々にも読んでもらえるような本を出したいと思います。実現した時には、御報告申し上げます。  

 

 

[11] 高崎宗倫氏より来信  平成18年3月1日

 

●鈴木重嶺の菩提寺・全龍寺の高崎宗倫氏から、私のウェブ日記読みました、というメールが届きました。全龍寺の御住職は高崎宗矩氏、副住職は高崎宗平氏、宗倫氏は第3代目です。

●平成17年1月、鈴木重嶺の関係資料が大量に発見されたと、宗平氏から御連絡を頂き、早速調査させてもらいました。その折、宗倫氏は、1日間、私の調査に協力してくれました。

●この調査結果は、『学苑』の平成17年3月号に報告してあります。興味のある方は、是非、御覧下さい。

●また、そのうちに、全龍寺へ伺って、重嶺のお墓参りをしたいと思います。 

 

 

[10] 勝海舟と西郷隆盛  平成18年2月8日

 

●元治元年(1864)9月、勝海舟は大坂で西郷隆盛と会談しています。時局打開の重要な一件が済んだ後、西郷は佐渡奉行の人選に困っている事を打ち明けます。すると、勝は、今は無名であるが、鈴木という人物がいる。これに佐渡奉行の辞令を出しなさい、と薦めました。最後の佐渡奉行・鈴木重嶺誕生の瞬間だと推測されます。

●鈴木重嶺は、慶応元年(1865)9月14日、佐渡への船の中にありました。

 「国のため 大君のため わたる船路ぞ 日を経ずも 追手吹 かせよ わだつみの神」

船の中で、荒れ狂う海の神に捧げて、海中に投じた、重嶺の旋頭歌です。  

 

 

[] 鈴木重嶺と勝海舟  平成18年2月7日

 

●勝海舟は、よく知られていますが、鈴木重嶺は余り知られていない、と言うよりも、ほとんど知られていません。しかし、この2人は、極めて親しい間柄です。それは、2人の出生に関わっています。海舟も重嶺も、空屋敷伊賀という低い身分の出だったのです。この伊賀者という低い身分の出身で、諸太夫という地位まで出世したのは、海舟と都築駿河守と重嶺の3人だけでした。

こんな事情からか、海舟は重嶺と極めて親しく、10歳ほど年下の海舟は、重嶺を慕っていたようです。 

 

 

[8] 鈴木重嶺の新資料  平成18年1月11日

 

●正月早々、甲南女子大の菊池真一氏から、重嶺に関する情報の提供があった。

◎都立中央図書館の特別買上文庫の加賀豊三郎旧蔵資料の中に、 「鈴木重嶺 詠新年山歌 懐紙」が所蔵されている。

◎伊沢修二編『小学唱歌』第4巻に、鈴木重嶺作歌の『日本三  景』が収録されている。

◎早稲田大学図書館の古典籍データベースによれば、黒川真頼啓 発・三田葆光伝述の『玉の緒変格弁』(明治16年)に、鈴木 重嶺が序文を書いている。  

 

 

[7] 鈴木重嶺の著作  平成17年12月28日

 

●鈴木重嶺(翠園)の著作

 

 鈴木重嶺の著書・編書を,現在知り得る範囲で列記すると以下の通りである。

◎伊香保前橋之記 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・41)学習院図書館。

◎詠史清渚集 1冊,写本。昭和女子大学図書館。

◎オト子との差別或人問 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・68)。

◎於よづれ言 1冊,写本。静嘉堂文庫。

◎紀行 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・41)。

◎絹川花見の記 1冊,写本。国会図書館(二荒廼山裹の内)。

◎御諡号概略 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・11)。

◎夢路の日記 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・41),無窮会・神習文庫。

◎二荒山歌会 1冊,写本。内閣文庫。

◎皇風大意 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・15),無窮会・神習文庫。

◎旅路記恵の露 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・41),無窮会・神習文庫。

◎島曲廼古豆美 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・1)。

◎旅路廼日記 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・41)。

◎翠園兼当歌 1冊,写本。昭和女子大学図書館。

◎翠園詠草二 1冊,写本。昭和女子大学図書館。

◎雅言解 4巻4冊,版本。昭和女子大学図書館,他。

 この他,明治以後出版された単行本や,雑誌等に発表された歌論,歌集等に収録された重嶺の歌は,かなりの量になるものと思われるが,現在,未調査の状態である。

 

 

[6] 久し振りの墓参  平成17年8月1日

 

●7月30日()の夕方、久し振りに、新大久保の全龍寺へ行って、重嶺のお墓にお参りしてきた。乃村氏も同行してくれた。乃村さんは、全龍寺の御住職さんとも旧知の仲で、以前から重嶺の墓参をして、案内板のチェックもしていてくれる。副住職さんにも挨拶した。

●重嶺の隣には、松本誠先生の墓石もある。重嶺と松本先生(国語学)に手を合わせて、今後、少しでも世間に知られるような活動もします、と報告して、寺を辞去した。

●帰りに、新宿の高島屋の今半で夕食をした。私は、人形町の本店に何度かいっているが、やはり伝統の味わいは、良い。

 

 

[5] 明治歌壇と鈴木翠園  平成17年5月3日

 

●幕府・新政府の公職を辞した後、重嶺・翠園は文事の道にいそしみました。佐渡奉行・相川県知事の時代は、相川を中心として歌の指導を行い、東京に戻ってからは、短歌雑誌『詞林』を発行して、全国の人々に短歌の指導をしました。

●斎藤茂吉の「明治大正短歌史概観」「明治大正和歌史」(『斎藤茂吉全集』21巻収録)は、この時期の旧派歌人、新派歌人の関係を適切に評価した力作だと思います。

●斎藤茂吉は、これらの研究の中で、鈴木翠園を、三条実美・高崎正風・小出粲・福羽美静・本居豊頴・税所敦子・中島歌子等と共に、旧派歌人の代表歌人として位置づけています。

●明治・大正期の歌壇の研究は、未開拓の分野と言ってよいと思います。昭和女子大の日本文学科の学生さんたちが、鈴木重嶺関係資料を活用して、研究して下さるよう、切に希望しています。そうすれば、資料収集に理解を示された、人見楠郎先生も、きっと喜ばれると思います。 

 

 

[4] 鈴木重嶺の墓所の案内板  平成17年5月29日

 

平成16年6月、大久保の重嶺の菩提寺・全龍寺に、次のような案内板を設置しました。

法政大学名誉教授・村上直先生、佐渡市教育委員会の御配慮を頂いた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  最後の佐渡奉行・歌人 鈴木重嶺・翠園の墓

 鈴木家の祖・重経は北条氏康に仕えていましたが、二代・重元は徳川家康に召し出され、武州豊島郡大久保村に四千坪の領地を拝領し、以後、代々徳川家に仕えました。重元寛永十三年(一六三六)十月八日に没し大久保村の全龍寺に葬られ。鈴木家は代々全龍寺を菩提寺としています。

 鈴木重嶺は、文化十一年(一八一四)、幕臣、小幡有則の次男として江戸駿河台で生まれましたが、鈴木家十代・重親の養子となって十一代を継ぎました。

 二十歳で広敷伊賀者となり、以後、広敷取締掛、勘定吟味役、勘定奉行、鎗奉行を勤め、慶応元年(一八六五)佐渡奉行となりました。明治維新後、佐渡相川県知事等を歴任しましたが、明治九年(一八七六)官を辞し、以後は和歌の道に励みました。

 鈴木重嶺は若い頃から、和歌や国学を村山素行・伊庭秀賢に学び、佐渡奉行在任中も相川を中心とする佐渡の人々の和歌の指導にあたり、多くの門弟を育てました。東京に戻ってからは、鶯蛙吟社を組織し、短歌雑誌『詞林』を主宰しました。明治歌壇旧派の代表歌人として活躍し、当時としては若い歌人、佐佐木信綱とともに活動して、『詞林』は後に佐佐木信綱の『心の華』と合併しています。また、当時の歌会には、樋口一葉も同席して、鈴木重嶺の指導を受けています。

 鈴木重嶺は勝海舟とも深い交流があり、『海舟日記』には、その様子が記されています。明治三十一年(一八九八)十一月二十六日、八十五歳の生涯を閉じましたが、『葬儀記録』には、毛利元徳・近衛忠園熈・正親町実徳・久我建通・蜂須賀茂韻・前田利嗣・勝安房等々、錚々たる人々をはじめ、萩野由之・黒川真頼・井上頼国め中島歌子・佐佐木信綱等々、全国の歌人など一〇六八名の氏名が記載されています。

  平成十六年六月二十六日

                     鈴木重嶺 顕彰会

                     佐渡市教育委員会

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●全龍寺は、JR新大久保駅下車、徒歩5分の所です。是非いちど、訪ねて下さい。

 

 

 [3] 重嶺と一葉   平成17年5月27日

 

●鈴木重嶺は、橘千蔭系の山村素行・伊庭秀賢に和歌を学び、佐渡奉行の時は、佐渡の人々に和歌を教えました。また、明治維新以後は、東京にもどり、鶯蛙吟社を組織して、短歌雑誌『詞林』を発行しました。この雑誌は、後に佐佐木信綱の『心の華』と合併しています。重嶺・翠園の歌の教え子は多くいましたが、樋口一葉も中島歌子を通して、翠園に歌の指導を受けています。

●『一葉日記』明治25年3月9日の条に、

 

「九日 晴天。早朝より支度をなして小石川へ行く。月次会なり。暫時ありて田中君まいらる。今日の来会者三十八、九名成し。島田政君も参られたり。点取題「野鶯」にて重嶺、恒久、信綱、安彦四君の点なり。恒久君の甲重嶺君、安彦君の甲恒久君、重嶺君甲安彦君成しかば、「こは誠に詮なし」などいふ。信綱君の甲はおのれ成けり。・・・」

 

このように記されています。若き日の一葉は、重嶺にも歌の指導を受けていました。 

 

 

[2] 鈴木重嶺の墓  平成17年5月15日

 

●翠園・鈴木重嶺の菩提寺は、新宿区大久保1丁目にある全龍寺です。JR山手線・新大久保駅から徒歩で5分ほどの所です。鈴木家二代・重元は徳川家康に仕え、大久保村に領地4000坪を拝領していました。重元は寛永13年(1636)に没し、全龍寺に葬られました。以後、代々の菩提寺となりました。

●全龍寺の重嶺のお墓には「最後の佐渡奉行・歌人 鈴木重嶺・翠園の墓」という案内表示板が建てられています。是非、一度足を運んでみて下さい。

 

 

[1] 鈴木重嶺研究文献の紹介  平成17年5月10日

 

●鈴木重嶺に関する研究文献はたくさんありますが、拙稿の以下のものを、まず、御覧下さい。

◎鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(『学苑』平成10年1月号、694号)

◎鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(2)(『学苑』平成11年1月号、705号)

◎鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(3)(『学苑』平成12年1月号、716号)

◎鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(4)(『学苑』平成14年1月号、738号)

◎鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説(『文学研究』平成16年4月、92号)

◎鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(5)(『学苑』平成17年1月号、773号)