佐渡の思ひ出  西郷南洲……勝海舟……鈴木重嶺

                      主筆  石倉翠葉

 遠き昔を申さず、蕉翁の「銀河の序」暁台の「佐渡日記」近くは紅葉の「煙霞療養」われわれをして如何に印象を深からしむることぞ。佐渡は四十九里浪の上敢て俳諧上許りではない。一篇の恋愛史として、余程のページを満たすに足りる。其佐渡ケ島には私は非常に縁故がある。縁故とは何か? 勿論師紅葉対佐渡ケ島に就いても其一ではあるが、夫より一層古いことで、未だ世に顕れぬ事、否、佐渡人士も恐らくは其事蹟を御存じの方はあるまいと思ふ一種の美談を今日迄記憶に存じて、常に常に云ひ知れぬ感慨に耽つて居る。私が、佐渡ケ島と云ふ印象を与へられたのは、小学校の地理教科書からではない。全くこの美談から、懐しくゆかしく感じ始めたので、夫を茲にお咄したいと思ふ縁故呼はりも畢竟是あるが為めなのである。

 六十七、乃至四五十年輩のお方は、明治維新の当時、佐渡相川県の知事として、治績大いにあがれりと讃せられた故従五位鈴木重嶺と云ふお方を御存じの筈である。否、相川県知事としての鈴木重嶺と云ふよりは、歌人としての翠園鈴木重嶺と云つた方がわかりが早い。顔丸やかに眉長く、何時も莞爾かとして八十余歳に至る迄頑健壮者も蹴落される程の勢で、てくてくと何処の歌会にも選者として出席される。前の大納言久我建通翁同正親町実徳翁、加賀の太守前田利嗣侯、殊には伯海舟翁とは極めて親密の間柄で、海舟翁が戯画を書き、重嶺翁が歌を書いて「すごろく」などそへこしらふ程の仲なのであるから、其間の消息を知るに難くはあるまい。呶いやうだが這麼実例がある。

 私が翁の門下となつてから間もない事、風俗画報の編輯をして居たので、今のサツポロビール会社のある処に養浩園といふ有名な庭園があつた。其歴史を探る必要があつて、早速翁の門を敲いて意見を聞いた処が一向に御存じがない。「それでは海舟先生は御存じでせう。」と云ふと「何のお前、勝が那麼ことを知るものか。」と一言にして退けられる。「否慥に御存じといふことです。」「何の知るものか。」と遂には押問答の喜劇を演じて、さて海舟先生のお宅へ伺つて斯様斯様とお尋ねすると「ハヽ鈴木奴、酷いことを云ひ居るワイ。」「御存じですか。」「ナーニ知らんよ。」と又呵々大笑されたが、勝がと云ひ鈴木奴と云ふ、交情の温さはこの一事でも察せられるであらう。これからが佐渡に関係の美談である。

かう申しては失礼であるが、維新の当時に於ける佐渡人士は、極めて偏屈で御し難い風があつたさうで、何人が知事として赴任しても治め兼ねる程で、蓋世の英雄西郷隆盛も、遉に頭を悩まされた。所謂人選に苦んで居られたのである。されば平常人に逢ふ毎に此事を口にせられて、遂に日頃心服されつあつた海舟翁に相談せられた。すると翁は即座に「それは適当な人物がある。未だ世間に名は知られぬ男であるが、鈴木と云ふものがある。渠なれば慥に適任であるから、直ぐ今から辞令を出さつしやい。」「左様か、それは有難い。」とばかり、素より海舟翁の推薦であるから、一も二もなく南洲翁も信頼せられて、速座に辞令が認められた。微賤の重嶺翁は一躍して佐渡守となつたのである。驚いたは重嶺翁である。「私はあの時、余りの不思議さに夢かと思つた位で、誰が私を推薦したのか何うしても見当がつかぬ、何時か逢つて礼を述べたいと思ふけれども、た思ふばかりで誰に聞いても分らない。夫れからこの事が絶えず気懸りでならぬが、月日の立つのは早いもので、二十年も過てから、不斗とした処で勝の推薦と云ふことが分つた。私はその時つくづく思つた。詰らぬ小役人を世話してさへ、何のかのと、吹聴したがるのが世間一般の慣しなのを、お前も知つての通り、勝とは恁うして毎日往来してるのに、遂ぞ一言も口に出さぬではないか、私は感伏して早速礼に行くと、「ウム、那麼ことがあつたよ。彼の時は西郷も大分弱つて居てネ、」と只だ是つ切り、直ぐ話頭を転じて了うた」………。

諸君、私が学者めかして細論はせぬ。只だ単に海舟翁の断言された如く、果して在任数年間、大に治績をあげられたと云ふ事丈を申上げて置く。

西郷南洲…勝海舟…佐渡奉行の鈴木重嶺…何と面白い対照ではないか?。

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師鈴木重嶺翁逝きて後、少し感ずる処あり、全然和歌の修業をなげうちて俳諧に入る

  師の逝きて蛙の寂をきく身かな   翠  葉

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               『旅行倶楽部』 大正5年(1916)より