鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(5)

   ――全龍寺所蔵重嶺関係資料――

 

                            深沢 秋男

 

 昭和女子大学で鈴木重嶺・翠園に関する資料を収集する契機になったの

は、平成八年七月十六日、重嶺の御子孫の松本誠氏の奥様、松本栄子氏か

ら、貴重な関係資料が寄贈されたためである。『翠園叢書』全六十八巻、

『翠園雑録』全二十五巻をはじめ、重嶺の自筆草稿や伝記資料等八十点で

ある。本学図書館では「翠園文庫」を新設して、古書店からも資料を収集

してきた。平成十年二月四日、四十二点の関係資料を古書目録で発見、幸

い大部分を購入する事ができた。さらに、平成十一年に一七〇点という大

量の関係資料が古書店に出たが、九月二十日にこれらも一括購入する事が

できた。このような経過をたどって、本学の「翠園文庫」は、鈴木重嶺を

研究する上で、最も充実したコレクションとなったのである。

 その後、私は、佐渡に伝存する重嶺関係資料を調査したり、国会図書館

所蔵の関係資料の複写などをして、「翠園文庫」の資料補充に努めてきた

が、同時に、法政大学名誉教授・村上直氏と協力して「鈴木重嶺顕彰会」

を創設して、鈴木重嶺研究をも推進してきた。平成十六年には、佐渡市教

育委員会と共同で、重嶺の墓所に案内標示板を設置して、この墓所の史跡

指定を新宿区教育委員会に申請した。

 本年一月二十七日、重嶺の菩提寺・全龍寺の高崎宗平氏から、重嶺関係

資料が発見された旨の御連絡を頂き、早速閲覧・調査させて頂いた。以下

に、その調査結果の概略を報告しておく。

 

  一、全龍寺所蔵・鈴木重嶺関係資料

 

〔1〕『故鈴木重嶺翁 追悼歌会供薦歌』・(平成17年1月30日調査)

大型本、一冊、縦三八〇ミリ×横二八〇ミリ、渋引表紙(横縞に縦の太い

縞を重ねる)、朱の綴糸が擦切れ、表紙は本体と離れている。中央上寄り

に書題簽、縦二七三ミリ×横六〇ミリ(白紙)「故鈴木/重嶺翁 追悼歌

会供薦歌」とある。本文紙は袋綴じ、厚手の白紙で全四九葉。他に本文紙

と共紙の見返しが前のみに付いている。内容は以下の通り。

○1オ〜2オ 「祝詞」毎半葉一〇行。

 「   祝   詞

 東京尓名所波志毛多在礼抒桜乃花乃九重乃雲乃/上野乃山乎良地美処刀

 撰定米此楼袁祓清米弖招/奉利令坐奉留従五位鈴木重嶺命乃御霊乃御前

 尓/今日乃斎主仕奉留神宮教権大教正村田清昌謹天告奉/久波汝命伊徳

 川将軍尓仕辺給比御広敷斗云□所乃/職与里進美弖佐渡奉行止成里給比

 明治乃新世乃/初米相川県権令尓任良礼県乎美久治米給比御功/績毛著

 明加里之尓年経弖後仕途乎退伎給飛奴/抑汝命八夙与里歌乃道尓志深久

 之弖村山素行(1オ)大人尓就弖学比年遍久怠事無久修米給比夥多/乃

 教子乃教尓暇无伎中尓毛許多乃書乎左辺著/波之花濃晨月乃夕ハ言毛更

 奈利物尓触連事尓当里/弖尽久歌奈良邪留波無加里伎汝命也神代乃昔男

 女二柱/神乃此豊葦原乃中津国乎修理固成之給布勅宣給/之応答尓事始

 米弖世々尓伝来之奇久妙奈留詞乃林乃/蘊奥尓分入里給比之乎以天芳名

 波世仁薫里弖遠近尓聞衣/日尓月尓人乃交良比母広久教乎請比奉留者毛

 多加里介里如此/奇久妙奈流道尓志有礼婆人乃心乎種斗之弖物乃憐乎知

 留辺伎/惟神乃真道乎教辺給布乎以天百年乃齢乎経給比世乃長久遠(1

 ウ)人乃称辺奉良万久人皆掛弖望多里之乎顕身波術無伎者加不意母/今

 年霜月乃廿六日斗云布日尓百足良受八十五歳乎此世乃限里刀志天/身罷

 坐奴留八可惜斗母遺憾止母争加詞上尓尽左留倍伎然ハ□有汝命波/顕世

 乃間惟神乃真道尓神習比給辺婆既尓天神乃御許尓召上良連普通奈良奴/

 御陰乎蒙里給比嬉久楽久坐左牟事必然支物加良朋友教子等波顕世尓座在

 里之事/乃蹟乎深久毛忍夫忍賀岡乃此乃斎場尓打集比弖御心慰乃御祭仕

 奉斗為天御食御酒乎/始米海川山野乃種々乃珍物乎□代尓置足波志弖献

 久乎美良尓聞食弖許多乃朋友/教子等賀今奉留玉串乃真榊乃栄行倍久恵

 給比斯道乃行末掛天/彌広尓彌遠尓成増留倍久守給比幸給辺斗謹弖告奉

 久斗/白須          明治三十一年十二月十八日(2オ)」

○2ウ〜6オ 短冊二四枚貼付

○6ウ〜7オ 本居豊穎の歌(懐紙)

○7ウ〜28オ 短冊一二六枚貼付

28ウ〜29オ 岡野いせ子の歌(懐紙)

29ウ〜34オ 短冊二八枚貼付 (30ウは短冊1枚で、二枚分は空白)

34ウ     「当座通題 松上雪」として短冊二枚貼付

35オ〜42オ 短冊四四枚貼付

 42オは短冊二枚で、その後に

 「追悼歌/懐紙弐枚/短冊百七拾七枚 当座短冊四拾六枚」とある。

42ウ〜46オ 詠者氏名一覧

 「    詠者氏名 (貼附順)

 久我建通 蜂須賀茂韶 前田利嗣/勝安芳 松浦詮 弐 高崎正風/福

 羽美静 前田利鬯 黒田清綱/小笠原貞孚 太田原一清 諏訪忠元/井

 上正直 林忠崇 前田朗子/南部銓子 諏訪晴子 南部麻子/太田原千

 秋子 津軽理喜子 松浦益子/綾小路八十子 日野西広子 本居豊穎

 懐紙/足立正声 弐 木村正辞 三田葆光 弐(42ウ) 平尾八束 佐

 々木千尋 二 中村秋香/坂正臣 小出粲 荻原厳雄/小杉榲邨 浅田

 栄次 加茂水穂/松波遊山 有賀長隣 井上頼圀/橘道守 前田夏繁

 三輪義方/加藤安彦 大口鯛二 千葉胤明/遠山英一 大畑弘国 先光

 清風/税所敦子 小川直子 鶴久子/中島歌子 松の門三艸子 服部磯

 子/田中ミの子 河合象子 林甕臣(43オ) 亀谷行 岡麓 木庭芳香

 /矢掛弓雄 土子豊治 石槫千亦/菅谷政勝 井原義矩 荒山徳隣/武

 石恭義 川島宗端 塙忠雄/時枝誠道 相沢朮 申橋隆美/又原保行

 横山碩 長谷川貞雄/大林親賢 青木修 斎藤忠貞/岡田咬菜 武田信

 賢 田中稲彦/▲稲綺道秀 海老原秀之 鶴田誠吾/渡辺玄包 品田守

 信 新開直泰(43ウ) 土田道一 長谷川美材 牛山寛/牛山晴▲ 犬

 甘政敏 近藤寅郎/河島章豊 出口正秀 西尾正秋/中村尚友 前田利

 器 鶴岡定之/石倉重継 高柳政憲 秦冨穀/岡野良哉 松井玉身 加

 藤里路/宇高正郎 根岸武香 井上喜復/石川季遠 荒波直方 伊藤景

 孝 二/永盛文言 二 小山田虎 二 中里千族/村上正雄 山下安詳

  進藤泰世(44オ) 渡辺正尚 飯村雄八郎 西村雪台/児島高智 吉

 田政基 後藤紋邇/安東菊子 南摩牧子 原三幸子/奈良慶子 二 用

 瀬喜代子 酒井恭子/森田未知子 大久保梅子 石川豊子/箕作光子

 中村礼子 中村敬子/天野瀧子 坪内銑子 田中寿尾子/藤井里き子

 太田きむ子 石原米子/喜谷もと子 岡野せい子 懐紙 玉塚豊子/

 木原とき子 向井筆子 生駒峯子(44ウ) 木越貞子 戸田艶子 桜井

 初子/松田多恵子 松田章子 金原玉城子/金原勝美子 深見愛子 二

  久米文子/佐久間都留子 鈴木梅子 吉原達子/深沢高子 小野静枝

 子 ○/楳村宣雄 佐々木信綱 金子元臣/水原史郎 鶴光美 加藤義

 清/水原慶夫 篠田謙治 水原未瑳子/

    当座之部

 福羽美静 本居豊穎 木村正辞(45オ) 平尾八束 坂正臣 橘道守/

 前田夏繁 三輪義方 小川直子/鶴久子 大口鯛二 千葉胤明/佐々木

 千尋 浅田栄次 長谷川美材/犬甘政敏 河島章豊 田中稲彦/品田守

 信 鶴田誠吾 矢掛弓雄/新開直泰 牛山寛 松井玉身/岡野良哉 ▲

 稲綺道秀 鶴岡定之/斎藤忠貞 武石恭義 木庭芳香/西尾正秋 天野

 瀧子 日野西広子(45ウ) 太田きむ子 近藤寅郎 用瀬喜代子/相沢

 朮 又原保行 中村尚友/大林親賢 海老原秀之 時枝誠道/石原米子

  荒山徳隣 土田道一/篠塚兼当

    以  上

 秋田義種 西尾義伍 比留間政同/桑田良隆 平田俊芳

    以 上 追 加                 (46オ)」

46ウ〜47ウ 短冊九枚貼付

48オ〜48ウ 金子元臣の後記

 「白波の浜ならぬみとりの園のまつの/下根の手向草をかいあつむれは

 よみあへぬ/まてになりにけるかなそか中に品のいと高かるも/あらむ

 又いと卑敷もあらむ歌のよきもあらむ/またあしきもあらむさはれ翁を

 しのふ真心に至/りては皆これひとつそやいかてかくまこゝろこめし/

 こゝらの水茎のあとをいたつらにはなさしとて/おのれらとち相議らひ

 て一とちの草子めくものに(48オ)仕立てゝ翁かおくつきところなる全

 龍寺/に寄せて永く秘蔵のたからとなさしむ/これそ歳代まてとかいひ

 けむはかり/年月経行きなむ後も翁かこのみちに/いたつかれしいさを

 をしのひいてむ/こよなきくさはひなるへしかし/元臣しるす(48ウ)

49オ

 「明治三十二年一月

   故鈴木重嶺翁追悼歌会

    会務担当者     楳村 宣雄

              佐々木信綱

              金子 元臣

              加藤 義清

              水原 慶夫」

49ウ  白紙

 この短冊帳の内容は以上の通りである。42オに

 「追悼歌/懐紙弐枚/短冊百七拾七枚 当座短冊四拾六枚」とあるが、

 実際は一七八枚と当座四六枚の計二二四枚が収録されている。

 鈴木重嶺は明治三十一年十一月二十六日に八十五歳で没した。「翠園文

庫」には、重嶺追悼の歌会の開催をめぐる経緯の記録、半紙三枚が所蔵さ

れている。

「◎十二月十四日報知新聞雑報欄内ニ

 故人鈴木重嶺翁ノ追悼歌会事ハ上野山王公梅川楼ニ於テ催スニ付神田区

 今川小路玉川堂ニ事務を設ケ賛成員及幹事数十名ヲ列記シタル印刷物ヲ

 配リ来会ヲ促セリ然ニ御令息重明氏ハ葬送ヨリ日未タ幾許ヲ経ズ諸事取

 込中ニ付本年内ハ是非見合セ度旨該歌会へ別シ辞退セシニモ拘ハラズ開

 会スル由ナルガ重明氏ヲ始メ親戚ノモノ門人等ハ非常ニ迷惑シ居ルトカ

 ◎十二月十六日報知新聞

 取消十二月十四日報知新聞雑報都下雑纂ニ於キテ故鈴木重嶺翁追悼歌会

 ノ件ニ付令息重明氏等非常ニ迷惑シ居ラルヽ旨御掲記ニ候処該会ハ有志

 者ノ行為ニ成ルモノニテ固ヨリ重明氏等ニ於テ迷惑ナル理由モ無之ノミ

 ナラス既ニ同氏ヨリ拙者ヘ宛叮寧ナル礼状被遣候次第ニテ決テ彼是可有

 事ハ無之候全ク貴社ノ誤聞カ若クハ拙者同志ノ名誉ヲ毀損セントスル者

 ノ中傷策カトモ被存候記事ハ却テ重明氏始メ迷惑ニナルモノニ付速ニ此

 全文御掲載御取消相成度此段申候也/三十一年十二月十四日麹町一丁目

 井上頼国

 ◎明治三十一年十二月廿一日報知新聞ニ広告セリ

 明日相催候故鈴木重嶺翁追悼会ハ全ク有志ノ発起ニシテ鈴木家及翠園幹

 事等ハ一切関係無之義ニ付此段広告仕候也 十二月十七日 井上頼国」

 これらの記録によって、この短冊帳に収録された歌は、明治三十一年十

二月二十二日に、上野梅川楼において井上頼国等が中心になって、重嶺の

歌の門下が行った追悼歌会の折のものであることが推測される。また、こ

の歌会開催にかかわるいざこざは、当時の重嶺を取り巻く歌壇の状況を推

測する上でも興味深いものがある。

 

〔2〕『鈴木翠園社中献哥』・(一周忌)

箱入り短冊。杉の箱。縦三七六ミリ×横七四ミリ×高さ三六ミリ。蓋の表

に「鈴木翠園社中献哥」と墨書。蓋の裏に「明治三十二年十一月廿五日/

納主/桜井敬長」と墨書。その下に「53枚」とペン書き。

 これは、重嶺一回忌の折に献納した短冊で、現在は、山田謙益・和田義

比・瓜生保子・小宮山桂介・鈴木重明・桜井敬長・鈴木重▲・桜井啓長等

の三十八枚がある。「53枚」と書かれた時が何時かは断定できないが、そ

の時以後に十五枚失われた事になる。あるいは、〔3〕の『故鈴木重嶺先

生三回忌追善霊前献詠哥』の枚数が、箱の記録よりもかなり多くなってい

るので、〔2〕から〔3〕へ移された可能性もある。

 

〔3〕『故鈴木重嶺先生三回忌追善霊前献詠哥』・(三回忌)

箱入り短冊。桐の箱。縦三九二ミリ×横八八ミリ×高さ三八ミリ。蓋の表

に「故鈴木重嶺先生三回忌追善/霊前献詠哥短冊 弍拾八枚」と墨書。蓋

の裏に「明治三十三年十一月 日/牛込区東五軒丁卅五番地/納人 社中

 桜井敬長」と墨書。箱の表には「弍拾八枚」とあるが、現在は、四十一

枚伝存する。井上敬長・和田義比・尾台静子・香取大作・香取島子・山田

謙益・相馬長能・本居豊穎・大野泰・小宮山挂介・桜井鈴子等の短冊を収

めている。

 

〔4〕『鈴木翠園先生十年祭献詠哥』・(十年祭)

和紙の袋入り。袋の表に「明治四十年五月八日/於麹町区三番町万源/鈴

木翠園先生十年祭/兼題/当坐」とあり、右下にペン書きにて「計五拾七

枚」とある。井上頼圀・水野忠敬・青木脩・本居豊穎・鈴木重▲・榎本多

子・諏訪忠元・松浦詮・大口鯛二等の五十七枚の短冊を収めている。

 

〔5〕短冊四枚・

「夕落葉」の題で詠じた、森倉子・桜井鈴子・香取大作・香取島子の短冊

四枚。

 

〔6〕全龍寺宛、金子元臣・水原慶夫書簡・

和紙、縦一六七ミリ×横約九四〇ミリ。二六行。

「先般有志者相謀/り故鈴木重嶺翁追悼/歌会相催其際霊前/へ備候歌取

纏め/当山へ相収め永く御宝/蔵有之度旨一同之決議/に依り本日小生等

総代/として持参委□有罷/か此御積之処御不在/ニ付不□□□置引取/

の間御受納候上御領/収証拙者共へ□□郵/送御成候い度候重ねて/参上

可致とは存候へ共/遠方且多忙ニ候故/□間□略此旨以書中/申置候此歌

状は/散乱御為不被様永く/御納置相成候様一同/之希望ニ御坐候間此如

/御了□有□□□□□/相成候度願候□甚軽/微ニ候へ共0000/の御

廻向料相添置/罷間御節々御廻向願上候/先は右の如し已上/六月六日/

金子元臣/水原慶夫/麹町区三番町十一番地/全龍寺 御中」

 明治三十二年六月六日に金子元臣・水原慶夫は『故鈴木重嶺翁 追悼歌

会供薦歌』を持参したが、全龍寺の御住職が不在であったため、この置手

紙を認めたものと思われる。なお、この書状と共に、有常の色紙一枚(縦

一九三ミリ×横一七九ミリ)が保存されている。

 

〔7〕短冊帳・

大型本、一冊、縦三八二ミリ×横二八三ミリ、渋引表紙(横縞)。題簽な

し。綴糸は水色。袋綴じの厚い白紙三三葉。中には何も書かれていない。

〔1〕『故鈴木重嶺翁 追悼歌会供薦歌』と共に保存されているので、こ

れも短冊帳として使用する予定であったものと思われる。この短冊帳の中

に、藤原粲の色紙と二枚の書簡が挟まれている。

 1、藤原粲の色紙(縦三二一ミリ×横四五七ミリ)

「翠園鈴木翁の/十年祭ニ郭公といふことを/藤原粲/ことの葉のはなみ

しはるは/春なれや/みとりのそのに/なれほとゝきす」

 2、山田謙益の書(縦三三六ミリ×横四七五ミリ)

「我友桜井敬長ぬしこその九月のなかは/相しれるひとたち三たり四たり

とゝもに紀の/国の高野山□□はしめかのくにの名所見む/とて旅たれし

かつゝみなく帰りこしを祝ひ/またみてこし事ともをかたらはんと月なみ

の哥/会をかねて十月の廿六日に増山み□□子君/をはしめ十人あまりを

まねかれ兼題当/座は先師かこの月のにとて定め置れしを/其儘におのか

しゝうたよみかつものかたり/して先師か在し世の事ともかたみに/いと

いてゝ誰もかへるをわする斗になん有ける/はからすも此日は先師か帰幽

せられし日にておの/つからひとゝせのみまつりつかへまつられし心地せ

ら/るれは此日来つとひし人々□たにさくを御墓の/前にし備へて後御て

らに納め給はゝいか斗か神霊も/よろこひますらんと敬長ぬしをそゝのか

しけれはぬし/もしか思ふとてやかて其ことくにものせられ/たる心さし

の深きをめつる余り其よしいさゝか/しるすになむ

          明治三十二年十月  山田謙益/尾台静子/書す」

 これは、一周忌の歌会〔2〕『鈴木翠園社中献哥』の折のものでろう。

 

 3、山田謙益の書(縦三一七ミリ×横四四七ミリ)

「先師翠園翁のをしへ子たちのうちにて志厚きひとく・/せん師の遺志を

つかんとの心にて翠園会といふを設け/月々哥会のむしろをひらきたるは

きのふけふとおもふまに/はやふたとせあまりになんなりにけることしの

十一月は/桜井敬長ぬしかあるしにて過る十日その宿にてそもよほ/され

ける兼題は先師か月並の題をもちい当座各評/なとありて時ならす言の葉

の花をさかせたるもありき/又此月は先師の帰幽せられし時にて三とせに

さへ/なりぬれはましゝ世の事ともおのく・かたりいてゝ/かたみに袖を

そしほりける会はてゝ後ねもころなる/もてなしあり日くるゝ頃おのも

く・まかりいてけるか/跡にてきけはこは先師の三とせの御祭りつかへま

つらるゝ/為のもよほしなりしとそそもく・桜井ぬしは茶の/道の奥儀を

きはめられてをしへ子あまたありまた/敷島の道にもあそひてみやひ心の

深きかうへ慈善の/志厚くかうやうなる隠徳を是まてもあまたせられしと

そきく/かゝるぬしかもよほされてゆゑある哥会の歌なれはおのれか/す

ゝむるまにく・去年のためしにならひ先師のおくつき所に/そなへ御霊を

なくさめ奉りて後みてらにをさめ法の事を/さへいとなまれけるとなんか

へすく・もぬしか志の厚きにかまけ/侍りて其あらましをかくはしるしつ

  明治の三そとせあまり/三とせといふとしの/十一月下つかた

                       翠園社中/山田謙益」

 これは、〔3〕『故鈴木重嶺先生三回忌追善霊前献詠哥』の折のもので

あろうと思われる。

 

  二、「鈴木重嶺顕彰会」と全龍寺・鈴木重嶺墓所の案内標示板

 

 平成十六年四月「鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説」(『文学研究』第九

十二号)を発表したのが機縁となって「鈴木重嶺顕彰会」を創設した。法

政大学名誉教授・村上直氏の御指導を頂き、また佐渡市相川の諸氏とも相

談して進めたものである。現在の会員は少数であるが、今後は「翠園文庫

」を所蔵する昭和女子大学の方々にも参加して頂き、継続的に鈴木重嶺の

研究を続けてゆきたいと思っている。

 また、平成十六年六月には、鈴木重嶺の御子孫・松本栄子氏、全龍寺・

高崎宗矩氏・高崎宗平氏、佐渡市教育委員会等、多くの方々の御理解と御

協力によって、鈴木重嶺の墓所に案内標示板を設置することができた。標

示板の内容は次の通りである。

 

    最後の佐渡奉行・歌人

       鈴木重嶺・翠園の墓

  鈴木家の祖・重経は北条氏康に仕えていましたが、二代・重元は徳川

 家康に召し出され、武州豊島郡大久保村に四千坪の領地を拝領し、以後

 、代々徳川家に仕えました。重元は寛永十三年(一六三六)十月八日に

 没し大久保の全龍寺に葬られ、鈴木家は代々全龍寺を菩提寺としていま

 す。

  鈴木重嶺は、文化十一年(一八一四)、幕臣、小幡有則の次男として

 江戸駿河台で生まれましたが、鈴木家十代・重親の養子となって十一代

 を継ぎました。

  二十歳で広敷伊賀者となり、以後、広敷取締掛、勘定吟味役、勘定奉

 行、鎗奉行を勤め、慶応元年(一八六五)佐渡奉行となりました。明治

 維新後、佐渡相川県知事等を歴任しましたが、明治九年(一八七六)官

 職を辞し、以後は和歌の道に励みました。

  鈴木重嶺は若い頃から、和歌や国学を村山素行・伊庭秀賢に学び、佐

 渡奉行在任中も相川を中心とする佐渡の人々の和歌の指導にあたり、多

 くの門弟を育てました。東京に戻ってからは、鶯蛙吟社を組織し、短歌

 雑誌『詞林』を主宰しました。明治歌壇旧派の代表歌人として活躍し、

 当時としては若い歌人、佐佐木信綱とともに活動し、『詞林』は佐佐木

 信綱の『心の華』と合併しています。また、当時の歌会には、樋口一葉

 も同席して、鈴木重嶺の指導を受けています。

  鈴木重嶺は勝海舟とも深い交流があり、『海舟日記』には、その様子

 が記されています。明治三十一年(一八九八)十一月二十六日、八十五

 歳の生涯を閉じましたが、『葬儀記録』には、毛利元徳・近衛忠熈・正

 親町実徳・久我建通・蜂須賀茂韶・前田利嗣・勝安房等々、錚々たる人

 々をはじめ、萩野由之・黒川真頼・井上頼圀・中島歌子・佐佐木信綱等

 々、全国の歌人など一〇六八名の氏名が記載されています。

         参考 「鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説」深沢秋男

               (『文学研究』92号、平成16年4月)

       平成十六年六月二十六日

                        鈴木重嶺 顕彰会

                        佐渡市教育委員会

 

(注)

  1、・「鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介」(『学宛』六九四号、平成

     10年1月)

    ・「鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(2)――付、飯田龍一氏

     旧蔵・江戸図関係資料紹介――」(『学宛』七〇五号、平成

     11年1月)

    ・「鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(3)」(『学宛』七一六号

     、平成12年1月)

    ・「鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(4)」(『学宛』七三八号

     、平成14年1月)

  2、拙稿「鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説」(『文学研究』92号、平

    成16年4月)は、故松本誠氏の御研究を参照し、さらに、佐渡市

    相川町の佐渡奉行所における講演(平成15年3月15日)、昭和女

    子大学図書館に於ける講演(平成15年10月18日)を踏まえて纏め

    たものであるが、これを契機として、重嶺の墓所に標示板を設置

    することとなり、並行して鈴木重嶺顕彰会を発足させる事になっ

    た。「鈴木重嶺顕彰会」の住所は、とりあえず、

     ・359−1104 所沢市榎町三−二〇 深沢秋男方

                    04−2924−7293

                 Eメール kinbun@dream.jp

    とした。鈴木重嶺の生涯や明治期の近代短歌の研究に興味を持た

    れた方は連絡して下さい。

 

  付  記

 この度の全龍寺御所蔵の鈴木重嶺関係資料の閲覧・調査は緊急の事でも

あり、資料の判読等も十分ではなく、紹介も部分的な域に留まってしまっ

た。いずれ詳細な報告と分析をしたいと思っている。

 なお、この度の、資料の閲覧・調査に際しては、全龍寺の住職・高崎宗

矩氏、副住職・高崎宗平氏には、格別の御配慮を賜った。また、高崎宗倫

氏は、長時間に亙って種々お手伝い下さった。ここに記して深甚の謝意を

表します。

 

  〔巻末に、関係写真を付す。〕

 

〔本稿は、昭和女子大学『学苑』第七七三号、二〇〇五年三月に掲載されたものを改訂したものである。〕