鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(6)

                            深沢 秋男


  は じ め に

 私が鈴木重嶺(翠園)関係資料の調査を始めたのは、鈴木重嶺の直系の御
子孫、松本誠氏の急逝がきっかけであった。国語学者の松本誠氏は、平成
7年1月、大学の研究室で帰らぬ人となってしまわれた。私は、以前から、
井関隆子の研究に関連して、松本氏に多くの御配慮を頂いていた。そのよ
うな関係もあり、松本氏の奥様・松本栄子氏の要請もあって、氏の蔵書の
整理を引き受け、それが発展して、松本家所蔵の鈴木重嶺関係資料が昭和
女子大学へ寄贈された。 
 このような経緯があり、鈴木重嶺(翠園)関係資料の整理・調査・報告を
してきた。それを列挙すると以下の通りである。
◎鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介 (昭和女子大学『学苑』第694号、平
成10年1月)
◎鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(2)――付、飯田龍一氏旧蔵・江戸図関係
資料紹介―― (昭和女子大学『学苑』第705号、平成11年1月)
◎鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(3) (昭和女子大学『学苑』第716号、
平成12年1月)
◎鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(4) (昭和女子大学『学苑』第738号、
平成14年1月)
◎鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(5) ――全龍寺所蔵重嶺関係資料―― 
(昭和女子大学『学苑』第773号、平成17年3月)
 以上であるが、今回は、その後発見されたり、諸方面から教えて頂いた
資料を紹介したいと思う。

一、 雑誌『太陽』掲載、鈴木重嶺の和歌等 

 雑誌『太陽』は、明治27年(1894)、博文館から発行開始された。
この雑誌には「文苑」(「各種の詩歌美文を収む、風雲に寄懐し、時事に蒿
目す、忽にして流麗閑雅、忽にして幽咽悲壮、読者此に至りて衆香の圃に遊
び積玉の園に入るが如し。」)の欄があり、高崎正風・勝安房・小中村清矩
・本居豊頴・近衛忠煕・井上頼圀・佐々木信綱等の和歌が掲載されている。
ここでは、鈴木重嶺の歌等を紹介する。なお、この掲載の事は菊池真一氏の
御教示によって知る事ができた。原物の確認には、昭和女子大学図書館・近
代文庫のお世話になった。ここに記して感謝申し上げます。なお、調査し得
ない部分も残っているが、更に補ってゆきたいと思う。              

◎第1巻第2号(明治28年2月5日)
    一月一日によめる  従五位 鈴木重嶺
 年たちてひもとく花もあるものを氷は何にむすほゝるらん
◎第1巻第5号(明治28年5月5日)
              従五位 鈴木重嶺
 二つなき身はすてぬ共国のため大和たましひ忘なよゆめ
◎第1巻第7号(明治28年7月5日)
    同(郭公)          鈴木重嶺
 都にはいてしばかりを時鳥だみたるこゑはましらさりけり
◎第1巻第9号(明治28年9月5日)
    同(夕立)      従五位 鈴木重嶺
  雲かゝるひえの山風吹きおろしにほの海つらゆふ立のふる
◎第1巻第10号(明治28年10月5日)
    松間月       従五位 鈴木重嶺
 ときはなる松の色こそたゞならね月の光のそへはなるらん
◎第1巻第11号(明治28年11月5日)
    同(里擣衣)    従五位 鈴木重嶺
 さやけくもきこえけるかな夕月夜小倉の里に衣うつなり
◎第1巻第12号(明治28年12月5日)
    浦千鳥          鈴木重嶺
 まかね路のおと絶はてゝ竹芝の浦へにしはし千鳥なくなり
◎第2巻第1号(明治29年1月5日)
    新年待鶯     従五位 鈴木重嶺
 年たてとまた鶯そせぬ春を待てやなかんとすらん
◎第2巻第4号(明治29年2月20日)
    新年山      従五位 鈴木重嶺
 長閑にも富士の高嶺そ霞なる年立けふの見物にやせん
◎第2巻第5号(明治29年3月5日)
    雨後鶯      従五位 鈴木重嶺
 雨霽れてなく鶯の羽ふるひ梅のしつくもちる朝け哉
◎第2巻第11号(明治29年5月20日)
    嶺松年久     従五位 鈴木重嶺
 五十猛の神のまきけん種ならし松そ老ける櫛古の峯に
◎第2巻第13号(明治29年6月20日)
    首夏鶯      従五位 鈴木重嶺
 梅原や青葉と成し枝に来てちなみ忘れすうくひすの鳴
◎第2巻第17号(明治29年8月20日)
    扇            鈴木重嶺
 さはかりの扇の中に限りなき風をはいかて閉止けん
◎第2巻第18号(明治29年9月5日)
    夕納涼          鈴木重嶺
 夕まくれ友ひき連て川の辺に涼む程こそ夏なかりけれ
◎第2巻第20号(明治29年10月5日)
    仲秋翫月     従五位 鈴木重嶺
 皆人のめつらむ心くみしりて月も今宵は影みかくらむ
◎第2巻第23号(明治29年11月20日)
    閑庭菊      従五位 鈴木重嶺
 五本の門の柳は招かねどまがきの菊をひとぞとひくる
◎第3巻第1号(明治30年1月5日)
    同(新年梅)        鈴木重嶺
 新玉の年たつのみか待々し梅さへけさはほゝゑみに鳬
◎第3巻第3号(明治30年2月20日)
    冬川           鈴木重嶺
 うなゐらか水遊ひせし川もはや汀いつしか氷り初たる
◎第3巻第7号(明治30年4月5日)
    岡梅       従五位 鈴木重嶺
 人なみのゆきゝの岡の梅の花下枝大方たをされにけり
◎第3巻第8号(明治30年4月20日)
    友            鈴木重嶺
 世の中の難波の事もよしあしを争ふ友の頼母しきかな
◎ 第3巻第12号(明治30年6月15日) 
                博文館十周年記念臨時増刊
    寄松竹祝   鈴木重嶺君 (書)
「寄松竹祝謌 并 反哥  従五位穂積重嶺
 松こそは万代ふときけ竹こそは 
 千よふときけよろつ代と限り 
 ありけり千世となほかきり
 ありけりかきりなききみか
 御代にはたくふへくもの
 こそなけれ君か御代には
    反哥
 神代よりかはらぬ天と地もあるを
   たくへむものゝなしとおもひき」
◎第3巻第16号(明治30年8月5日) 
    八十四翁 従五位 鈴木重嶺
 夏虫の影写れはそ音もせぬいさゝ小川の有としらるゝ
◎第4巻第1号(明治30年1月1日) 
    新年祝   八十五翁 従五位 鈴木重嶺
 としたちて高きいやしきひくしめは御代長かれといはふなりけり
◎第4巻第11号(明治31年5月20日) 
    同(古戦場)         鈴木重嶺
 涙こそそゞろ流るれ衣河みづくかばねは神となれども
◎第4巻第14号(明治31年7月5日) 
    同(深山滝)         鈴木重嶺
 うき時の泪なにせむ君が代の数によまばやみ山べのたき
◎第4巻第20号(明治31年10月20日) 
    仲秋翫月          鈴木重嶺
 皆人のめづらん心くみしりて月もこよひは影みがくらん
◎第4巻第24号(明治31年12月5日) 
 ○鈴木重嶺翁の逝去
  不慮の怪我にて老体を痛められたる歌学界の泰斗鈴木重嶺翁
  養生叶はず去月廿六日逝去せられぬ。氏の詳伝は肖像と共に次
  号に載すべし。
◎第4巻第25号(明治31年12月20日) 
 ○物故四名士  写真銅版
 〔○四条隆謌侯 ○鈴木重嶺翁 ○青山貞男 ○佐久間貞一君〕
 「○故鈴木重嶺翁去月二十六日物故せられたる鈴木重嶺翁の伝記
 の『読売』に載せられたるに拠れば、翁は江戸の人にて卑賤より
 身を興し、一とたび相川県の参事を勤めしが、引退の後専ら敷嶋
 の道に心を潜めて種々の流派の競へる中に泰然本居の流を汲み居
 たり、翁初めの名は大之進、翠園と号す、躯幹大にして性質温雅、
 「恥を知れ」てふ一語を己の守として八十余年の久しき未だ一度
 も瞋れる色を顕はさゞりしとぞ、初め翁の三枝何某に仕へて未だ
 武士たらざりし頃、剣道柔道抔好みてひそひそ修業しけるに、友
 の内歌よむ人ありて己もいつか嗜なむ事となり、子供ながらに詠
 み連ねし事もあり、其後翁が主と共に出でける時或る武家屋敷に
 人々稽古しつるを見て、
   劒太刀鞘にをさまる世になれて
     みかゝぬわさの恥かしき哉
 と朗詠しける、這は翁が齢二十ばかりの時の事なりしが、偶々閣
 朗老水野越前守此歌を聞きて下郎に稀なる志、末頼母しゝとて、
 深くも望を属し、軈て召し出して御徒士の列に加へらる、斯れば
 翁も奮励して役向に出精し、読書習字は独修にて歌をば村山素行
 に学びしが、程なく御徒士目付に進み、後佐渡奉行を命ぜられて
 兵庫頭に任ぜられ、維新の際にも任所に在りしが、将軍大政を奉
 還せりと聞きて帰府するにも佐渡奉行の格を乱さず、槍押立てゝ
 官兵の中を通りければ、心憎き豪傑よとて鈴木兵庫頭の名は早く
 も薩長の間に知られぬ、廃藩の折佐渡は難治の国とて、政府の人々
 逡巡しければ、西郷吉之助は勝安房に適任の人ありやと問ふ、安
 房は翁が奉行中の治績を挙れるを知りて之を進め、吉之助も扨は
 音に聞く兵庫頭よとて、終に相川県の参事に挙げたり、されど翁
 は引退の時まで何人の推薦なりしやを知らざりしと、翁又健筆に
 て幼少より日記を怠らず、細大筆に随て録するもの積で五十余巻
 に及ぶ、名けて翠園叢書と云ふ、翁は功成り名遂げて悠々己の道
 を楽みしが、去月十二日日本倶楽部の歌会に臨み、帰途誤りて車
 より墜ち肩を傷けて病床に在り、一旦快方に赴きたれども、更に
 気管支加太児を起し、同月廿六日午前三時八十五歳を一期として
 溘焉簀を易へられたり。」

 二、『読売新聞』の記事

◎明治11年1月24日(木) 九〇三号、朝刊、1面
 ○鈴木重嶺大人が牛込橋の寿亭を借て毎月一度づゝ歌の会を開高
 貴の方々も出席されるといふ
◎明治24年8月24日、五一〇一号、朝刊、2面
 ○老壮 国学大家見立表左に記るす所は大八洲生の投寄に係るも
 のなり、其の当否は知らざれど其の儘茲に記すことゝなしぬ
 老壮 国学大家見立表  大八洲生
   国を思ふ心しなくは千々の書を読むともかひなからまし
 老大家
 国文家 久米幹文 大人
 国語家 文学博士 黒川真頼 大人
 国歌家 鈴木重嶺 大人
 国法家 文学博士 小中村清矩 大人
 国史家 本居豊頴 大人
 壮大家
 同(国文家) 落合直文君
 同(国語家) 関根正直君
 同(国歌家) 井上通泰君
 同(国法家) 小中村義象君
 同(国史家) 萩野由之君
◎明治25年10月24日、朝刊、2面
 ○鈴木翁の和歌会 歌人鈴木重嶺翁は来月十五日を期して門下を
 自邸に集め盛なる和歌会を催す由なるが其題は「初冬雪」なりと
 云ふ
◎明治31年11月25日、七六七六号、朝刊、4面
 ○名士の車より落るもの多し (馬車人力車の不祥歳)
 本年は如何なる不吉の年柄なるか畏くも先に伊勢大廟の炎上あり
 又内閣の変動三回に及びたるが馬車人力車にも不祥の事多し先頃
 は大岡硯海氏新調の一頭立馬車を山下町附近の堀に乗り入れ馬は
 速死し馬車は毀れ馬丁亦重傷を負へり続ひて此頃は鈴木重嶺翁腕
 車より落ちて病を発し危篤に瀕するを伝ふ而して堤内匠頭また落
 車して股を切断するに至り柏田文部次官は脳を痛めて第一医院に
 入院し佐藤病院副院長も落車して腕を挫折し谷山京橋警察署長も
 また落車して面部及腕を痛め朝比奈知泉氏も面部及左腕に負傷し
 たり
 (『読売新聞』の記事に関しても、菊池真一氏の御教示を頂いた。
 記して感謝申し上げます。)

三、 故鈴木重嶺翁逸話

●故鈴木重嶺翁逸話(1)
 『読売新聞』明治31年(一八九八)11月30日、朝刊、4面
翁ハ幕臣小幡多門の子にて後に鈴木半次郎の養子となれり。鈴木氏遠祖ハ
駿河守重家にて昔ハ名家と称せられしが子孫久しく振はず、翁に及びて再
び栄へ佐渡奉行中の治績ハ殊に著しく、恩威並行はれて百姓町人の翁を見
ること父母の如く、さながら甲斐に於ける信玄にも似たりしとぞ。
幕府の習慣に諸臣任官せんとする時ハ、予め各自好める所の名を撰びて伺
ひ済の上其官を拝する事なるが、勝麟太郎補任せられんとするに当りて翁
に問ふ所あり、翁の曰ふ『日本にて最も小さきハ安房の国なり。里見八犬
伝にも安房ハ鯉を産せずと見え、秋収も亦極めて少しとなり。安房守抔ハ
如何』とありけるにぞ、麟太郎実にも迚、翁を命名親と頼みて安房守を拝
したり。
幕府の竹内下野守を洋行せしむる時、当時の名士学者も多く随ひしが、皇
国の学に通ぜる者其内に洩れたるハ遺憾なりとて、翁ハ『皇国大意』てふ
一書を贈りけれバ使臣も大に便益を受けたりといふ。後世の人翁を目して
一図に歌人の如く思へるハ能く其人物を知らざるが為めなり。
滝和亭ハ元幕府の小吏なり画才あり。師なくして画けるもの少からず、一
日翁其画を見て曰ふ『足下の才をもて小吏に畢らんハ惜むべし。今より力
を画に致さバ必らず大名を成さん』と。和亭其言に従ひしが果して今日の
名声を博したり。

●故鈴木重嶺翁逸話(2) 
 『読売新聞』明治31年(一八九八)12月1日、朝刊、4面
翁ハ維新の際、田安家の家老となりしが折柄甲州に百姓一揆起り騒擾二ケ
月に垂んとす。然るに何人も之れを鎮定する者なかりしかバ、翁ハ主命に
依り鎮撫に向ひしに一揆の百姓等ハ翁の徳風を望みて出迎へたり。翁ハ之
れを陣屋に招きて懇々諭すに利害得失を以てし、且つ告げて曰く、往時甲
州の地ハ信義に厚しと聞えたる武田信玄の領地なれバ、自然此地の百姓ハ
義を重んずべき筈なり。然るに斯く騒擾を極めて、上の手数を煩はするハ、
義に欠け理に悖るにあらずやと縷々説く処あり。抑も此騒動の原因ハ旧領
主に叛して朝廷に帰せんとするにありしを以て、翁も亦世の趨勢を看破と
たれバ、早晩廃藩置県の制度となるべし、と述べけるに皆々、其罪を謝し
一揆鎮定したりとぞ。
翁桂冠後ハ日々の如く諸家の歌会に臨み、二十年来一回だも欠席すること
なかりしハ畢竟其無病強健なるが故なりとハいへ、之に依つて見るも幕府
五代の君に仕へて永年忠勤の程も思ひやらるゝなり。
翁ハ常に仏法嫌ひなりしを以て予て其遺言にも死後僧侶の引導ハ無用なり。
又、読経ハ成るべく短くして、会葬者に長く時間を費さしめざるやうなし
くれよと告げたりといふ。

●故鈴木重嶺翁逸話(3) 
 『読売新聞』明治31年(一八九八)12月3日、朝刊、4面
翁が歌の師の村上素行なるよしハ前にも記せしが、素行ハ田安家に仕へて
加茂真淵の学統を引く。又、伊庭秀堅にも従ひたり。
翁の門人数百人全国に散在すれども、歌道不振の時節とて歌にて門戸を張
る程のものハ少く、多くハ斯道に遊べる老人抔なれども、中に就て名を知
られたるハ屋代柳漁、小■景徳の二人なり。然れども皆翁に先ちて逝けり。
重嶺社中にて名を知らるゝ者にハ先光清風あり。又、歌の門人に富みたる
者としてハ篠田謙治あり。幹事にして最も古きを山田謙益とす。
翁にハ実子なく嗣子重明氏ハ襁褓より養はるゝ処と云ふ。
翁ハ画を好みて最も竹を描くに長ず。其翠園の号を附して人に贈れるもの
亦甚だ少からず。清節霜を凌で卓然雲に聳るの気自ら丹青の間に透る。
以上ハ翁が逸話の一斑のみ。若し夫れ除に翠園叢書を繙いて八十余年の事
歴を覗へバ、数千万言尚ほ且つ足らざるものあるを知らん。
……………………………………………………………………
 この『読売新聞』に掲載の「故鈴木重嶺翁逸話(1・2・3) 」に関し
ては、足立匡敏氏の御示教によって知る事を得た。記して感謝申し上げま
す。

  四、佐渡の思ひ出 ―西郷南洲…勝海舟…鈴木重嶺―
                      主筆  石倉翠葉
 遠き昔を申さず、蕉翁の「銀河の序」暁台の「佐渡日記」近くは紅葉の
「煙霞療養」われわれをして如何に印象を深からしむることぞ。佐渡は四
十九里浪の上敢て俳諧上許りではない。一篇の恋愛史として、余程のペー
ジを満たすに足りる。其佐渡ケ島には私は非常に縁故がある。縁故とは何
か? 勿論師紅葉対佐渡ケ島に就いても其一ではあるが、夫より一層古い
ことで、未だ世に顕れぬ事、否、佐渡人士も恐らくは其事蹟を御存じの方
はあるまいと思ふ一種の美談を今日迄記憶に存じて、常に常に云ひ知れぬ
感慨に耽つて居る。私が、佐渡ケ島と云ふ印象を与へられたのは、小学校
の地理教科書からではない。全くこの美談から、懐しくゆかしく感じ始め
たので、夫を茲にお咄したいと思ふ縁故呼はりも畢竟是あるが為めなので
ある。
 六十七、乃至四五十年輩のお方は、明治維新の当時、佐渡相川県の知事
 として、治績大いにあがれりと讃せられた故従五位鈴木重嶺と云ふお方
 を御存じの筈である。否、相川県知事としての鈴木重嶺と云ふよりは、
 歌人としての翠園鈴木重嶺と云つた方がわかりが早い。顔丸やかに眉長
 く、何時も莞爾かとして八十余歳に至る迄頑健壮者も蹴落される程の勢
 で、てくてくと何処の歌会にも選者として出席される。前の大納言久我
 建通翁同正親町実徳翁、加賀の太守前田利嗣侯、殊には伯海舟翁とは極
 めて親密の間柄で、海舟翁が戯画を書き、重嶺翁が歌を書いて「すごろ
 く」などそへこしらふ程の仲なのであるから、其間の消息を知るに難く
 はあるまい。呶いやうだが這麼実例がある。
 私が翁の門下となつてから間もない事、風俗画報の編輯をして居たので、
 今のサツポロビール会社のある処に養浩園といふ有名な庭園があつた。
 其歴史を探る必要があつて、早速翁の門を敲いて意見を聞いた処が一向
 に御存じがない。「それでは海舟先生は御存じでせう。」と云ふと「何
 のお前、勝が那麼ことを知るものか。」と一言にして退けられる。「否
 慥に御存じといふことです。」「何の知るものか。」と遂には押問答の
 喜劇を演じて、さて海舟先生のお宅へ伺つて斯様斯様とお尋ねすると
 「ハヽハヽ鈴木奴、酷いことを云ひ居るワイ。」「御存じですか。」
 「ナーニ知らんよ。」と又呵々大笑されたが、勝がと云ひ鈴木奴と云ふ、
 交情の温さはこの一事でも察せられるであらう。これからが佐渡に関係
 の美談である。
 かう申しては失礼であるが、維新の当時に於ける佐渡人士は、極めて偏
屈で御し難い風があつたさうで、何人が知事として赴任しても治め兼ねる
程で、蓋世の英雄西郷隆盛も、遉に頭を悩まされた。所謂人選に苦んで居
られたのである。されば平常人に逢ふ毎に此事を口にせられて、遂に日頃
心服されつゝあつた海舟翁に相談せられた。すると翁は即座に「それは適
当な人物がある。未だ世間に名は知られぬ男であるが、鈴木と云ふものが
ある。渠なれば慥に適任であるから、直ぐ今から辞令を出さつしやい。」
「左様か、それは有難い。」とばかり、素より海舟翁の推薦であるから、
一も二もなく南洲翁も信頼せられて、速座に辞令が認められた。微賤の重
嶺翁は一躍して佐渡守となつたのである。驚いたは重嶺翁である。「私は
あの時、余りの不思議さに夢かと思つた位で、誰が私を推薦したのか何う
しても見当がつかぬ、何時か逢つて礼を述べたいと思ふけれども、たゞ思
ふばかりで誰に聞いても分らない。夫れからこの事が絶えず気懸りでなら
ぬが、月日の立つのは早いもので、二十年も過てから、不斗とした処で勝
の推薦と云ふことが分つた。私はその時つくづく思つた。詰らぬ小役人を
世話してさへ、何のかのと、吹聴したがるのが世間一般の慣しなのを、お
前も知つての通り、勝とは恁うして毎日往来してゐるのに、遂ぞ一言も口
に出さぬではないか、私は感伏して早速礼に行くと、「ウム、那麼ことが
あつたよ。彼の時は西郷も大分弱つて居てネ、」と只だ是つ切り、直ぐ話
頭を転じて了うた」………。
 諸君、私が学者めかして細論はせぬ。只だ単に海舟翁の断言された如く、
 果して在任数年間、大に治績をあげられたと云ふ事丈を申上げて置く。
 西郷南洲…勝海舟…佐渡奉行の鈴木重嶺…何と面白い対照ではないか?。
………………………………
 師鈴木重嶺翁逝きて後、少し感ずる処あり、全然和歌の修業をなげうち
て俳諧に入る
  師の逝きて蛙の寂をきく身かな         翠  葉
         『旅行倶楽部』 大正5年(1916)より

 五、『明治 現存 三十六歌撰』所収歌

  左 釈弁玉
    筆
  おそろしきけものにおひしはてなれと
    ふてはをとめの手にもなれけり

  右 鈴木重嶺
    千鳥
  もしほくむあまのまてかたまてしはし
    おりたちかねて千鳥なくなり
 この『明治 現存 三十六歌撰』の前見返しには「山田謙益編集/竹本
石亭画/明治/現存 三十六歌撰 完/雪吹屋蔵版」とあり、奥付には
「明治十年六月廿八日出板/編集兼出版人/東京第三大区五小区/牛込二
十騎町三十四番地/東京府士族/山田謙益/蔵版主 東京本郷区/本郷春
木町二丁目五十九番地/東京府士族/豊島有常」とある。

 六、『近世三百人一首 初編』所収歌

     菊盛久        東京 従五位 鈴木重嶺
  大かたのさかりはやかてうつろふを世に菊はかり久しきはなし
 この『近世三百人一首 初編』の見返しには「中邨良顕大人校閲/弾舜
平琴緒編輯/近世三百人一首 初編/桐園蔵梓」とあり、奥付には「同年
同月(明治二十一年十二月二十日)発行 定価金弐拾銭/編集兼発行者/大
阪府東区高麗橋通三丁目廿六番地/弾舜平/発売所 大阪高麗橋通中橋筋
西入南側/弾舜平邸内 桐園出版舎/当舎蔵版書類ハ何方ノ書林ヘモ一切
販売致サセ不申候間御望ノ諸君ハ直々当舎ヘ御申込被下度候」

 七、『明治五百人一首 初編』所収歌

     竹    東京 従五位 七十七翁 鈴木重嶺
  くれたけの千代もとこそは思はねとあえまほしきは操なりけり
 この『明治五百人一首 初編』の見返しには「中邨良顕大人校閲/弾舜
平琴緒編輯/明治五百人一首 初編/桐園蔵梓」とあり、奥付には「同年
同月(明治廿三年六月)廿五日出版 定価金三拾五銭/編輯兼出版者/大坂
市東区高麗橋三丁目五十九番屋敷/弾舜平」とある。なお、奥付の前に
「○出詠規則」がある。
「本輯出詠者ハ名誉会員、特別員、予約員、通常員、の三種とす
一名誉員ハ 皇族華族及有位の貴紳又世上にユルサレタル皇学歌
 学に秀たる宗匠家とす此諸君ハ編者より短冊の染筆を乞ふ者なれ
 バ本輯にハ無刻料にして撰入するのみならず時によりてハ其報酬
 品をも献呈すべし
一特別員ハ何人を論せす本輯予約者十名以上を紹介せらるゝ諸君と
 し本輯一部を無料にて送呈すべし
一予約員ハ本輯の正価郵税四拾五銭の内廿銭を予約の証として前送
 せらるへし残金廿五銭ハ製本落成前に請求して着金次第送本すへ
 し但送金者にハ受領証を送付すべし
一通常員ハ無料にて撰入すと雖共冊子の配布を為さす編者の特権を
 以て取捨し若し名誉特別予約員千名に充る時ハ都合により第二輯
 に回すことあるへし
一出詠和歌ハ諸君高詠の内殊に勝れたる四季恋雑の歌六首を可成丈
 上等の短冊に御染筆の上短冊ハ長き儘〔折形を附けず〕帯封とし
 目方三十匁迄ハ郵券二銭を貼付して御郵送を乞
  但五百人一首出詠者にして再ヒ千種の花に予約する人ハ先きに
  送られたる短冊より撰出すか更に寄送あるも妨なし
一千種の花に集めたる短冊ハ美帖に貼付して永代保存すべし
  短冊集所 大坂東区高麗橋三丁目五十九番屋敷/弾舜平」
 この記録は、明治期の、この種の類題集の状況を知ることができる。
 斎藤茂吉は、『明治大正短歌史概観』の中で、「「明治現存三十六歌撰」
は、山田謙益編集、竹本石亭画で、明治十年六月二十八日出板になつた。
これを見ると当時現存の大家の歌一首づつ載つてゐるから、明治十年ごろ、
即ち、第二期の初頭ごろの歌壇の風潮をうかがひ知る事が出来るから、煩
しきごとくであるが、左に録す。但し、歌合の形式の左とか右とかの文字
を削除した。」(『斎藤茂吉全集』第二十一巻、昭和四十八年八月十三日、
岩波書店発行)と引用紹介している。
 ここに紹介した、五、『明治 現存 三十六歌撰』・六、『近世三百人
一首 初編』・七、『明治五百人一首 初編』は、浅田徹氏の御所蔵本で
ある。浅田氏の御教示によって紹介することが出来た。記して御礼を申し
上げます。

 八、『和歌千種の花 上巻』所収歌

    新年待鶯      東京 従五位 鈴木重嶺
  梅もあれと柳もあれと年たちてことたらはぬはうくひすのこゑ
 この『和歌千種の花』は上巻・下巻合計八十丁。見返しには「中邨良顕
大人校閲/弾舜平琴緒編輯/●歌千種廼花 初編/桐園蔵梓」とあり、奥
付には「同年同月(明治廿五年十一月)十日出版 定価六拾銭/編輯兼発行
者/大阪市東区高麗橋三丁目五十九番屋敷/弾舜平」とある。深沢秋男所
蔵本。

  九、『霧積紅葉見の記』

 『霧積紅葉見の記』は、鈴木重嶺・松浦詮・三田葆光の共著であるが、
序一丁、本文六丁の小冊子ゆえ、全冊を紹介する。

霧積紅葉見記のはしがき
活字板といふものハもろこしの昔宋の代慶暦の比畢昇といひし人のつくり
始めしとかや御国にてハ応永六年に三国仏法伝通縁起といふ書をものせし
ぞ活字のはじめなるべきさて慶長元和の比よりこのかた活字の本どもくさ
ぐさいできたれどもそのわざ今の如くたくみならざりしかばさばかりハ世
に行ハれざりきさるを近き比西洋の器械にならひてよりそのわざ昔とハや
うかハりてあやしきまでたくみになりもてきつゝなか??に桜木にちりばめ
たるよりもあざやかにうるハしけれバ今ハさゝやかなる名刺かりそめの端
書をたに活字を用ゐることゝハなりにたりげに此わざの世に益あることハ
●車●船電信などにもをさ??おとるまじうなむ今此紅葉見の記などいとは
かなきくちずさみにてこと??しう摺り物にして世にひろむへき物にもあら
ず見む人もまた心とゞむべき(序1オ)ものとも覚えぬをかう板本にものせ
んはきはめて作者の本意にもあらざらめどもハら活字といふものゝ世に盛
りになりたるによりてなるべしさても鈴木翁のまめまめしう書きしるされし
此記のはしにおのれにもひと言そへよと松浦の君のそゝのかさるゝにもた
しもあへずいさゝか心におもふよしをかくなん
   明治廿二年の冬            三田葆光(序一ウ)

紅葉見の記
上毛国なる。霧積といふ山間より。近き頃。温泉を見出て。あらたに。大
きなる家どもを造り。ゆあみにこん。まらうどをまつとか。そを聞しりて。
暑き頃は。涼みがてらゆく人も多かりしを。山間ゆゑ。寒さもよそよりは
早けれバ。此頃は誰もゆかずとぞ。されどかしこも紅葉多く。殊に其道筋
の。山々谷間のは。よのつねならぬよし。松浦三位の君つぶさに聞れて。
鉄道をはしりゆけバ。一日にゆかるゝよし。紅葉見にゆかバやと三田葆光。
とおのれに。すゝめられけれバ。そハめづらしき所なり。従ひまゐらせん。
いつたゝせたまふにかと。とひ侍れバ。十月三十日の。午前九時の車にて。
はしり行ん。其頃までに。忍が岡なる。停車場へゆきて。またれよと。い
はるゝまゝに。葆光もおのれと。其日の八時過。かしこにゆき。まつほど
もなく。馬車のおと聞ゆれバ。出て見るに。やがておりて。てけもよく。
ともによろこバしうなどいひ。しバらくまつほどに。召つれ(1オ)られ
し。松浦信寔。かの切符をものしつるやがて。人々車に乗らんとてとよめ
きさわげは。其あとにつき行て乗。松浦の君をおくりこし人々はこゝにて
わかれ。はしりいづ。王子の停車場を過て左右の田面稲刈はてし。のどか
なるさまを見て
                        詮
  秋の田ハとくかりはてゝひつぢさへ花さくべくも見えにける哉
赤羽根のあたりハ。いまだ刈はてず。八束穂の色づきたるを
                        葆 光
  尋ゆく山の紅葉やいかならむ田づらのをしね色づきにけり
こゝより浦和のあたりまで。畑のかたはら。田の畔などに黄菊を植たるに。
折てひさぐべきほども見えず
                        重 嶺
  黄金色の菊を植しは田に畑に得もの多きをほぐとなるらし
                          (1ウ)
ひさごの酒をのミつゝ戯れに
                        葆 光
  道のべに咲たるよりもひとつきの酒をぞきくといふべかりける
                        信 寔
  右に菊左に紅葉いくせとのながめをのせてゆくくるまかな
大宮上尾のあたり。田中の杜。林の間などに。紅葉のミゆるを
                        重 嶺
  心ある君にひかれてけふこずは車のうちに紅葉見ましや
磯部。松井田を過。横川にて。●車よりおり。何がしとかいへる家にて。
しバらくいこふ。こゝより車にのりて。坂本をはしる。碓氷の山の紅葉染
尽したるが見ゆ
                        信 寔
  もミ出し碓氷の山のから錦けさたつやがて見るぞ嬉しき(2オ)
                        重 嶺
  うすひてふ其名にも似す紅葉の色ハ深くぞ見えわたりける
碓氷の麓より右へをれて山間をゆく。五七町バかりも来つらん。左にうす
ひの山。右は名ハしらねど。芝山にて。こだちもすくなきを。所々にかへ
でならん。色よくそめたるが見ゆ。また谷川の岸に。はしはゝそをはじめ。
名もしらぬ。紅葉こゝらたてり。ゆきゆきて。滝のおつる所あり鏡が滝とい
ふよし
                        あきら
  唐錦おる紅葉の影うつすかゞみが滝の水もてる妙
                        しげね
  たゝずまぬ人こそなけれしバらくハ鏡が滝に心うつして
おのれも君の歌をのバへて今やうをうたふべしとて
                        重 嶺(2ウ)
  山路ふかくもわけいれバ紅葉の色も浅からず
    みち近からバ一枝をたをりてつとにせまほしや
蔦のもミぢしたるを見て             詮
  岩がねも紅葉するかと思ふまでかゝれる蔦のちしほなるかな
此あたり秋ハ鹿の音も聞ゆるよし。車ひくをの子がいふをきゝて
                        詮
  鳴鹿の声もとぞ思ふ霧つみの山路の紅葉分のぼり来て
  此谷のもみぢの色は山の名の朝夕霧やさめいだしけむ
                         信 寔   
  嬉しくもけふ見つるかな都にてめでたし紅葉のたぐひならめや
つゞみの淵といふ所にて
  谷川の音おもしろく聞えしはつゞミが淵のひゞなりけり
美人橋といふありそこにて              (3オ)
                         信 寔
  たちよどミ流れにうつす我影もわかやぐ計見ゆる川水
日も暮なんとする頃。霧積なる。錦楓館につきぬ。たかどのにあないす。
まづおはしまに出て見るに紅葉ハ時過たり。庭におりて打あふげバ。はらは
らと散もをかし
                         詮
  霧積の山分ごろも照妙ににほへるバかり散もミぢかな
湯あミて後。夕げたうべ酒くみかはし。葆光が道にてつくりたる今やうあ
りとて。はうし。とりつゝうたふ
                         かね光
 うすひたうげの霧つみの。山路をふかくわけいれバ谷の小川の丸
 木バし。はらはひわたるひともあり。おはれてこゆるをぢもあり。
 さやの中山ならなくに。命なりけり年を経て。こゝにこんとハ(3
 ウ)おもひきや
いづれも手をうちて。興しあへり。過し十一日の雨風。此あたりもはげし
くて。道のべの細谷川のきしくづれ。丸木もて。仮橋かけたる所もあれバ。
らうじて渡りこしたるに。重嶺はよぼろに。おハれて。越たりき。をぢも
ありハ。おのれがことをいひし。たハむれ言なり。此ことハ書もらさんと
思ひしを。葆光が今やうをのするために。あらハれたるもをかし。夜更る
まゝに。ふしどにいれど。水の音の耳をうがち。かつかゝる寒さに馴ねば。
いを●かねたり。からすの声をきゝ起いでゝ。やり戸あけ。うち見やるに。
紅葉に霜白くおきたるもめづらし
                        詮
  霧つみの山の紅葉の朝ぼらけきのふ見しより色まさりけり
  朝戸あけて見れば落葉に霜白し山の奥より冬はたつらん
朝いひいそぎものして。こゝを立いでしは。卯のなかばなるべし。きの
(4オ)ふ見し山々の紅葉。ふたゝびゆくに。高雄立田もおよぶまじうお
ぼゆ
                        重 嶺
  命あらばふたゝび君に従ひてかゝる紅葉を見まほしき哉
折たる紅葉を。小車のうしろに結ひたるが。いとうるはしけれど。人の思
ハんことも。はづかしくて
                        信 寔
  錦着てかへるとや見ん霧積の山の紅葉をかざす家づと
ふりよき松どもの。いかき岩のかたはらにたてる。あハひに色こき紅葉の
見ゆるを
                        詮
  常磐木もまじる岩根の紅葉はよその錦にたちまさりけり
横川にてをぐるまをおり。しバらくいこひ。●車のくるをまち。ほどな
(4ウ)く乗。白雲山といへるあたりの紅葉見やりて
                       詮
  分いりて見んと思ひししら雲の山の紅葉をこゝに見る哉
  しら雲ハ名のみなりけり紅葉の錦たつ田の山といハまし
山々のもみぢを見やるに絵にかくとも筆にも及ぶまじう見ゆ
                       葆 光
  かへでともはしともいはじ山々はたゞくれなゐの錦なりけり
また妙義山のかたをながめて例のたハこと
   手をうちてこれは妙義といふ外にこと葉もなき山のもミぢ葉
はしり行ほどに。何方を見ても。紅葉のあらぬかたなく。小川の岸。山の
裾などに。ぬるでの。こきくれなゐに。染たる目さむるこゝちす
                       重 嶺
  ぬるでゝふ其名にも似ず色みれバねぶたくなりし目も覚に鳧
                          (5オ)
かたみにたは言いひつゝ。いつしか磯部の停車場に車をとゞめつ。かねて
契しごとくこゝよりおりて。松浦君の親しきくすし。高松凌雲の別荘。此
あたりにあるを尋て。音づれけれは。此家を預りをる弟子武藤清いで来て。
あつくあるじす。庭の前は川にて。山々を見わたすけしきいとよし。温泉
も近き程なればそこに行て湯あみし給へとて。かの人あないしてゆく。門
にいれバ。鉱泉わき出る井あり。やがてひさごもて。くミのむ。塩気ほど
よくありてよろし。湯あみてのち其あたりを。そゝろありきして。午過る
頃もどりぬ
                        詮
  山里を織部とよぶハわき出るしほの泉や名を負せけん
四五尺バかりある紅葉のうるはしきを瓶にさしたるを見て
                        重 嶺
  色こきを瓶にさしゝは露霜に散らさじとての心なるらん
                          (5ウ)
未さがる頃こゝを出て。停車場のかたはらなる。茶店にしバしやすらひ切
符をものして後。●車に乗る烏川を見やりて
                        詮
  からす川浅瀬を見れば白鷺のむれてぞあさる魚かよるらし
大宮あたりならんたゝう紙に書て見せられける
                        仝
  錦着てかへるこゝちぞせられけるきのふもけふも紅葉分きて
戌にもなりなんとする頃うへ野なる停車場につきて。おの??おり。此とし
までかゝるおもしろき紅葉見をせしことあらずと厚くよろこびをのべ。別
れ侍りてわが家にかへりぬ。後のおもひ出ぐさにもとて。ありしことども
をしるしおくになむ
   明治二十二年十一月        須々伎信宜年(6オ)

 『霧積紅葉見の記』は、半紙本の活版印刷で、「霧積紅葉見の記」の題
簽があり、序一丁、本文六丁、計七丁。奥付はないが、末尾に明治二十二
年十一月の鈴木重嶺の年記がある。深沢秋男所蔵本。

 以上、鈴木重嶺・翠園に関する資料の六回目の紹介をしたが、今後も、
更に調査を続け、少しでも多くの資料を収集定着したいと思っている。今
回も多くの所蔵機関や研究者の御教示を賜った。改めて心から御礼申し上
げます。       二〇〇八年一月五日
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●本稿は、『芸文稿』第1号(2008年4月1日発行)に掲載したもの
である。再録するにあたって、芸文稿の会の御了承を頂いた。深く感謝申
し上げる。