国立国会図書館所蔵『恵美草』の書写者について
                                深沢秋男

近世後期の歌人・蔵田茂樹著『恵美草』(別名『ひなのてぷり』)は、佐渡の年中行事等を記したものである。文政十三年三月の自序と賀茂季鷹の跋をもつが、刊行されることなく、写本として伝えられたようである。      
国会図書館所蔵本は、大本一冊、本文紙の巻頭・巻末の各三葉にやや厚目の紙を使い、第一葉目(前表紙)の左上に「恵美草」と墨書、全二十五葉の内、自序一葉「文政十三年春三月/藤原茂樹識」、跋一葉「八十三翁/季鷹」、毎半葉十三行、一行約二十八字、挿絵五図、「不覊斎図書記」(秋山不覊斎)の蔵書印を存す。
 ここで注意したいのは、本文の終りに「天保十三年三月写之 みなもとのたか子」とあることである。つまり、この国会本は天保十三年三月に「みなもとのたか子」なる人物によって書写されたものであることがわかる。         
 桜山文庫(鹿島則幸氏)には『天保日記』写本十二冊が所蔵されている。これは天保十一年から十五年までの、五年間の女性の日記である。当時の社会・風俗を知る上で貴重な史料であると同時に、文学史の上でも、今後検討されなければならないものと思われる。
この『天保日記』の天保十一年三月十五日の条に、

「今日佐渡国なる人ここに来れり。さるは去年の秋貢の黄金奉れるにそひて来れる、倉多の某てふ男なり。……(中略)……佐渡なゐは藤原ノ茂樹となんいへる。其国の珍かなることを問んと、かれ是物すれど、殊にとり出て書べきこともあらず。然れどもかの国の一年のうちの事ども、所の様、はた人のうへ祭りなどよりはじめ、くさぐさ書て絵など物したる一ト巻をもてきつ。ここといと異なることも見ゆれば、それ写さむとすれば是にはもらしつ。」

とあり、八日後の二十三日の条には「かの国の事共書集めたる書はゑみ草と名づけたり。」とある。        
日記の記述から推測すると、佐渡の蔵田茂樹は、天保十年の秋から職務のために出府していたが、日記の著書は、ある歌会の席上で茂樹と知り会い、十一年三月十五日に『恵美草』を借り受け、書写したものと思われる。国会本『恵美草』と『天保日記』を比較してみると、この両者が同筆であるごとは明瞭である。さらに『天保日記』が著者の自筆本であると判断されるので、この国会本の書写者は『天保日記』の著者であると断定してよいと思われる。
日記の著者は井関(源)隆子という。桜山文庫の蒐集者・鹿島則文氏は、明治十五年に調査した結果を次の如く記しておられる。

さて天保日記のかきては、文政九年にみまかれる井関(弥右衛門)氏の妻にて、親経の母刀自のよし。名は隆子とて庄田氏の女にて、智清院と謚せり。卒中にて三日ほど病て死せり。御本丸の焼しころゆへ天保十五年頃なるべし。初めはさまでよみかきをなさねど、夫死して後学問をはじめ、千蔭の書をまなべりとぞ。古事記伝をみな写し、その外随筆せるもの凡三箱ほどありしと言。瓦解後みな反古に成したるべしと言へり。日記の内の事をとふにみなあへり。やうやうに作者判然せり……。

 この井関氏は、代々徳川家に仕えた旗本で、親経は天保八年より二丸留守居、同十二年より嘉永七年まで広敷用人を勤めている。持高は二百五十俵、嘉永四年に役高七百俵となる。また親経の子・親賢は天保十年より小納戸衆となり、家慶に仕えている。日記にはしばしば城中の動静が記されているが、ぞれらは主として、親経・親賢父子からの聞き書きである。住居は九段坂下(今の千代田区九段南一丁目五番地辺)にあり、当時の江戸切絵図には「井関縫殿正」とある。 
さて、国会本『恵美草』の書写者が、井関隆子であることは右の通りであるが、『天保日記』三月二十三日の条には、続けて次の如く書かれている。 

(『恵美草』を)見もてゆくに、その国の海辺に千畳敷とふ嶋、名の如いと広う気色あなれば、国人酒肴まうけて遊び所にすなる、と記せる所に書てそへける。
  菅むしろ千重しくいそにうたげせる
    佐渡の嶋人ともしきろかも

つまり、『恵美草』三月二十三日の千畳敷の条に右の和歌一首を書き添えたとしている。国会本の右の条は、
「北さまなる浦近きわた中に、千畳敷と字せる島あり。」で始まり、「此わたりのけいそく、からの絵にいとようおぼえて、目なれぬ都人などの見ましかば、中なかに興あさからまじ。」で結ばれているが、歌は付加されていない。しかし、桜山文庫所蔵本(大本一冊、にぶ青色表紙の左肩に「恵美草 完」と書題簽、全四十六葉、毎半葉九行、一行約二十四字)には、この千畳敷の条の文末に、

  いづくはあれど。このあそびのいとうらやましくて、
    すがたたみ千重敷そにうたげせる  
       さどのしま人ともしろ鴨   隆子 

とある。桜山本の書風は、国会本とは明らかに別人のもので、『天保日記』の著者の書写本ではない。井関隆子は何か故あって二度書写した。そしてその一本に右の歌を書き添えだのではないだろうか。桜山本は、その転写本のように思われる。
『恵美草』自筆本の所在は、現在未詳である。明治二十八年、佐渡・中原の矢田求氏は『佐渡史林』に本書を翻刻しておられるが、その底本も、味方氏の所蔵本を斎藤氏が転写したもので、味方氏の見たのが、茂樹の自筆本であったらしい。『佐渡史林』所収のものは『ひなのてふり』という書名であるが、内容は同じで、挿絵五図も、国会本・桜山本と同系統のように思われる。ただ、岩瀬文庫所蔵本(大本三冊、はなだ色表紙の左肩に「恵美草 藤原茂樹著 天(地・人)と書題簽、全四十九葉、天の巻十一行、地・人の巻十行、一行約十九字)のみがやや異なった構図となっている。また、画者について国会本・岩瀬本・桜山本は「あだし国には、ききもしらぬ事共もあなれば、そは石井文海にはかり其くさぐさを絵がかしめてつばらかになしぬ。」(国会本・自序)の如く「石井文海」としているが、『佐渡史林』のみ「中川徹斎」としている。本書の写本は、このほか、日比谷図書館・加賀文庫、無窮会・神習文庫にも所蔵されている(『国書総目録』)が未見である。今後、さらに調査を重ね、疑問の点を明らかにしたいと思っている。

 以上、国会図書館所蔵の『恵美草』について簡単に述べたが、著者・蔵田茂樹と書写者・井関隆子との交流は、天保十一年から、十五年・隆子が没するまで続いており、『天保日記』には、その様が所々に記されている。最後に、日記・天保十五年七月十七日の条を紹介して筆をおく。

 十七日、はれくもり定めなし。一日涼しかりしかば、すかされたるなめり、猶わづらはしうあつかはしきに、あふぎのみ時めきて秋は名のみおくことかたし。和歌のうらの芦づつもて作れる扇ことに風すずしかればよめる。

  手ならせばすずしくもあるか千鳥なく  
    わかの浦風こめにけらしも 

たちつる水無月、かの茂樹が文に付て其嶋なる蔓藻てふめをおこせたり。そヘたるうた、      
  梓弓いそうつ波ま求めつつ
    ひきしつる藻は君にとてこそ

 かヘし   
   槻弓のつきのよろしく我ためと
     引しつる藻のまぐはしきかも

此かへりごとつかはさむとおもふあひだに、此月の望のほど、かの国よりれいの奉る貢のこがねにそひてまうで来れる人に付て、こぞ其嶋の荒磯に打よせたる朽木して広蓋てふもの作れるおこせたり。文に此木のはだつき此国の物ならず。いたく虫ばみそこねたれど、ここは放れ嶋にて遠かる戎の国々四方にあめれば、かかる木の年月経てただよひ来たるなめり。花のあした月のゆふべ、さかづぎをとらむをりをり用ひよとて歌あり。其歌、
                        
  秋の海によせし朽木の時し有て
    君に馴るややさしかる覧

よろこびねんごろに書てはしに、

みうたのかがやかしさにかへし聞えむこと葉なし。かかる朽木も所得てこそ花さく斗のさかえも侍らめ。いといふかひなき老びとの、食ものに心いれむに、此朽木おもふ心あらむかし。

  月花のをりにふれつつ中なかに
    朽木ぞ我をおもひくたさむ


 『参考書誌研究』(第11号、国立国会図書館参考書誌部、1975年6月)

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