時代劇を読む 二十二時間・二十三日間・三年間
                          藤田 覚

 小渕恵三前首相が脳梗塞の病に倒れ、森喜朗氏が新首相に就任した。一寸先は闇、まことに予期せぬ展開に驚きを覚える。そのなかで、人々を憂慮させ批判を受けたのが二十二という時間で、政治家としては官房長官とその他の数人が、小渕氏の入院と病状を把握し、外部には隠していた時間である。国家の最高指導者、指揮官である首相が、病気により判断不能に陥っているにもかかわらず公表せず、代理も置かなかったことに批判と憂慮が生まれた。さらには、新首相の正統性さえ国会で質問されるという事態も起こった。
 小渕氏の場合は、重体に陥ったという事実が隠されたので、それと一緒にするのは不見識の誹りを受けるかもしれないが、二十二時間の空白、あるいは秘匿のことを聞いてすぐに思い起こしたのが、江戸幕府十一代将軍徳川家斉と、甲斐の戦国大名武田信玄の名で、二十三日間とは、家斉の死が隠された日数であり、三年間とは、信玄の秘喪の年数である。
 武田信玄の三年の秘喪は、黒澤明監督作品『影武者』でも知られる。信玄は、上洛作戦を展開して織田・徳川連合軍と対決、徳川家康の領国三河に攻め入り野田城を包囲したが、天正元(一五七三年)四月に発病、甲府へ引き返す途中の十二日に五十三歳で死去した。あとを嗣いだ武田勝頼は、信玄の死を隠し、三年後の天正四年に葬儀をおこなった。さまざまな憶測と懐疑を生みつつ、信玄は死後なお三年のあいだ生き続けた。三年の秘喪とは、戦国期の情報のレベルを象徴するものでもある。
 家斉の病状と死の公表までの動静を、老中水野忠邦の日記から抜き出してみよう。
 天保十二(一八四一)年閏正月八日、大御所(家斉)は先日から病気だったところ、昨日(七日)から病状が重くなったと側衆から伝えられた水野忠邦らは、家斉の住む西丸へゆき側衆に病状を伺っている。十日に忠邦らがまた側衆に家斉の容態を伺うと、病状に変化なしと伝えられる。十三日、将軍徳川家慶(家斉の子)が忠邦に、毎日西丸に詰め、詳細を報告するよう命じ、同じ日に幕府は家斉の全快を、東照宮、日枝神社、寛永寺、増上寺、箱根伊豆権現、三島大明神、鹿取・鹿島神宮、駿河浅間社に祈祷させ、十四日には御匙(将軍の侍医)楽多院が、家斉に実脾散を調合している。十五日に御三家、二十日に溜詰め諸大名以下諸役人、さらに二十八日には、溜詰め大名、国持大名、外様大名以下諸役人が、家斉のお見舞いに西丸へ登城している。二十九日には、家斉の容態は「御くつろぎ」(落ち着いたという意味)ということで、将軍家慶と大納言家定(家斉の孫)が家斉に対顔(面会)し、老中以下も家斉にお目見えしている。しかし晦日には危篤となり、午前八時過ぎに亡くなったと公表された。
 水野忠邦の日記だけ読んでいると、家斉は閏正月七日に病状が重くなったが、二十九日までは生きていて、晦日に亡くなったと読める。しかし、まったくウソの記事だった。井関隆子という旗本の奥様(子が広敷用人、孫が将軍家慶の小納戸という奥勤め)の日記には、家斉は去年の冬から病んでいたが、
  たちし七日の夕日のくだち、光りかくれさせ給えへりとほの聞ゆ、後の御おきてども
  大方ならぬ御事なめれば、世に秘させたまひて未だおはしますに変らず。上もたびた
  びわたらせ給ひて何くれの御沙汰どもあめり
     (深沢秋男『井関隆子日記』中巻、二四頁、勉誠社、一九八〇年)
とあるように、家斉は病が重くなったという七日には死去していた。そののち晦日まで生きていることにして、周囲の者はそれらしく振る舞っていたにすぎなかった。つまり二十三日間、その死は隠されていた。
 水野忠邦は、七日に死去したことを知らなかったかもしれない。実権を握る家斉の側近たちが、忠邦らに隠した可能性かおるからだ。しかし、忠邦を二十三日間も騙すことはできなかったろう。忠邦にしても側近勢力と同様、家斉の死を隠し、生きているかのように行動し、日記にもおくびにも家斉の死の影は見えない。ここには、おそらく家斉の側近勢力と忠邦らとの対抗、権力抗争が想像される。
 将軍の死が隠された事例に、十代将軍家治がいる。家治は、天明六(一七八六)年九月八日に五十歳で亡くなったとされる。しかし、旗本の森山孝盛の日記(内閣文庫影印叢刊『自家年譜』上、国立公文書館、一九九四年)によると、家治は八月に入って「御不例」(病気)となり、十五日の諸大名出仕の場にも出なかったが、十八日には「順快」(快方)に向かったと伝えられた。ところが、二十五日に御医師衆が総登城し、将軍の後継者である家斉や、田安家、一橋家も駆けつけるなど、江戸城内は大騒動になった。この時は、病状は「御快然」になったと披露されたが、森山孝盛が「今暁御他界之由」と記しているように、家治はその二十五日に亡くなったらしい。森山が九月八日に、「公方様 薨御之旨御広メ有之」と書くように、九月八日とは、家治の死が公表された日にすぎない。権勢を誇った田沼意次は、病気を理由に老中辞任を願い出ていたところ、八月二十七日に認められた。家治の死、死の公表の日時と微妙な関係にある。
 歴代将軍の死亡の日にちは、ほとんどが怪しいのではないか。歴史辞典に載せられている将軍の死亡年月日は、江戸幕府が公表した日にちに従っているようだが、再検討が必要だろう。江戸幕府の有力者の権勢は、多く将軍との個人的、人格的な諸関係のなかで生まれ、かつ保たれるのが実態なので、将軍の死は有力者だちにとってその権勢を失わせかねない。前将軍のもとで冷飯をくっていた人々は、新将軍のもとでの権勢を虎視耽々と狙っているわけだから、そこに厳しい政治的暗闘が繰び広げられただろう。だから、将軍の死とその公表の時間的なズレは、きわめて政治的な操作なのである。
 しかし、その時間的なズレは将軍だけでのことではない。天皇も同じだった。一九八九年の天皇の代替わりのように、近代では間髪を入れず新天皇が践祚する。だが、江戸時代の明和七(一七七○)年に即位した後桃園天皇は、安永八(一七七九)年の七月頃から病気がちとなり、十月二十九日には二十二歳で急逝した。しかし、この天皇には男の子がなく皇嗣を決めていなかったため、いそぎ次の天皇をたてなければならなくなり、閑院宮典仁親王の第六王子祐宮(後の光格天皇)に白羽の矢が立てられた。朝廷では後桃園天皇を生きていることにして、十一月八日に、祐宮を養子とし践祚させるという天皇の意思が伝えられた。そして、その翌日の九日午前四時に後桃園天皇が亡くなった、と公表された。これは、政治的暗闘ではなく、天皇の空位、空白をつくらないための操作だった。
                         (ふじた さとる・日本近世史)

■『本郷』第28号、2000年7月
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