『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』書評・新刊紹介等    【1】


は じ め に

 私は、現役の間は、啓蒙的な原稿は書かないことにしてきた。『井関隆子日記』に限ってみても、それまで、ある新聞社から、日記の現代語訳出版の依頼があったが、研究書も出していないのに、現代語訳は早すぎるし、そのような時間的余裕も無いとお断りした。また、勉誠社版の『井関隆子日記』が絶版状態になったので、日記全文を文庫版で出しませんか、とある老舗の出版社に打診したところ、検討の結果、全冊では出せないが、1冊のダイジェスト版なら出すと言われた。しかし、ダイジェスト版では、学問的に何の意味もないので、これはお断りした。
 平成17年(2005)3月、昭和女子大学を定年退職したが、その5月に、編集者の安田氏から、文春新書に『井関隆子日記』を素材にした1冊を執筆しないかという依頼を受けた。その前年に、月刊誌『歴史読本』から「旗本夫人 井関隆子がみた幕末の江戸城」の執筆を依頼され、これを引き受けたのが機縁となったようである。この雑誌の件も、何年か前に依頼された時には、お断りしたが、もう定年近いので執筆してもいいだろうと、これは執筆した。
 文春新書の書名は、安田さんから指定された。私は、その意向に沿って原稿執筆にかかった。250枚くらいと言われたが、この種の易しい文章は未経験ゆえ、難行苦行の連続であった。安田さんや文春新書の和賀さんのアドバイス、友人・知人にいろいろ教えてもらいながら、何回も書き直した。
 文春新書は、お蔭さまで、6刷まで増刷され、その後、いくつかの出版社から原稿依頼もあったが、私に残された時間も少ないので、それらは、お断りしている。
 このように、バタバタして書き上げた本で、大したものではないが、井関隆子を広く知って頂けたのは、大変ありがたいことであった。新刊紹介など、多くの新聞や雑誌、ネット上で取り上げて下さり、好意的なものや辛口のものも多く、恐縮もし、また、反省もしている。ここでは、多くの関係者に御礼の意味で、それらの一部を紹介したいと思う。順序は、早いものから掲げたが、余り厳密ではない。
 紹介の労をとって下さった、皆様に対して、心から感謝申し上げます。
                        2010年6月 深沢秋男

 
『旗本夫人が見た江戸のたそがれ 井関隆子のエスプリ日記』
         文春新書 606 定価 730円+税
         2007年(平成19年)11月20日 第1刷発行
         2008年(平成20年) 4月25日 第6刷発行


〔1〕  旗本夫人が見た江戸のたそがれ     深沢 秋男著

世界日報  2007年11月17日   中山雅樹氏

日記に窺われる希有の批評精神
 江戸時代末期の旗本夫人・井関隆子が見聞した同時代を等身大の目で批評し、記録した希有(けう)の日記がある。
 本書は、それを基にいかに井関隆子が幕府の衰退を冷静な目で見て批評していたかを知ることができる。
 それは心中事件や祭りの見物など世相の些事(さじ)だけではなく、江戸城大奥の事情、老中の水野忠邦が推し進めた天保の改革やその強引な施策、三方所替や印旛沼干拓などの政治的な話にまで及び、その的確な批評と批判は女性とは思われぬほど冷静であり、客観的で知的である。
 例えば、水野忠邦の人物像に対しても、同じ改革を推し進めた松平定信と比較対照し、定信が倹約令においては自ら質素な生活をして模範を示したのに対し、忠邦は下に苦難を強いながら自分は賄賂(わいろ)をもらっていたという面を指摘し、忠邦の矛盾を衝き痛烈に批判する。
 その忠邦が失脚し、世間がすべてを批判する情勢になると、隆子は忠邦の施策がすべて悪いのではなく、その中にも良かったものがあると、その事例を挙げて、全面批判には反対する意見を述べる。
 この辺りは、現代の政治評論家も顔負けである。
 隆子が幕政の秘事や大奥の事情に通じていたのも、井関家の当主の親経(ちかつね)が、家慶(いえよし)の小納戸などを務め、天保十二年から広敷用人となり、家斉(いえなり)の正妻・広大院の掛かりとなっていたからだった。自然に大奥や政治の中枢の秘事などが漏れ伝わってくるわけである。
 その上、孫の親賢も、文久三年(一八六三年)から広敷用人となり、家定正妻の篤姫・天璋院などの掛かりに任じられている。
 隆子は一度離婚し、再婚して井関家に嫁いだ。その離婚も、知性と教養のある隆子が婚家の家風と合わなかったせいらしい。
 いずれにしても、江戸末期にこのような近代的知性を持つ希有な女性が存在したことは、驚きであり、かつ愉快でもある。
 (本紙掲載:11月18日)


〔2〕自我持つ幕末女性の日記  「旗本夫人が見た江戸のたそがれ」 など

        埼玉新聞 2007年12月2日  瀬川千秋氏(翻訳家)


来年のNHK大河ドラマの主人公は十三代将軍徳川家定の正室天璋院(篤姫)とか。書店の店頭を関連書籍がにぎわしている。深沢秋男著「旗本夫人が見た江戸のたそがれ」(文春新書・七六七円)は、同じく幕末に生きたが、歴史の表舞台とは無縁の生涯を送った主婦・井関隆子の日記だ。
彼女は旗本の家に生まれ、離婚を経て九段坂下の裕福な旗本・井関親興に再嫁。夫亡き後も、血縁はないが子や孫に囲まれ、酒や庭の草花を楽しみながら何不自由ない晩年を過ごしたという。そんな日々の慰みに天保十一(一八四〇)年から始めたのが日記だった。
これがめっぽうおもしろい。武家の暮らしや町の風俗を生きいきと描き、自分の知らない大奥や城内の事柄まで要職にある息子と孫から聞きだして、克明に書きとめている。心中事件だの僧侶のゴシップには興味津々。不合理な慣習や迷信は無意味と断じ、水野忠邦の天保の改革を歯に衣(きぬ)着せず批判している。
老いてなお旺盛な好奇心と批評精神を持ち、自分の頭で考え、意見を述べる。かくも近代的自我の確立した女性が幕末にいたとは!
 著者は三十五年前、鹿島神宮の大宮司家に秘蔵されていた隆子の膨大な日記に出あって魅了され、以来、日記の史料的価値や記録者、観察者としての彼女の素晴らしさを世に知らしめてきた。本書にはその研究成果のエッセンスが平明に紹介されている。
 悪妻と呼ばれた夏目漱石の妻鏡子もまた、明治には珍しく現代的な女性だった。松岡陽子マックレイン著「漱石夫妻 愛のかたち」(朝日新書・七三五円)は、孫娘の著者が、母(漱石長女・筆子)、祖母(鏡子)らの思い出話をもとに、文豪の素顔や余人にはうかがい知れぬ夫婦愛の姿を描き出している。


〔3〕旗本夫人が見た江戸のたそがれ 井関隆子のエスプリ日記

             東京新聞 2007年12月13日 今週の本棚

 江戸時代、バツイチ30歳で再婚した武家の妻。さぞや肩身の狭い思いをしただろうと思いきや、夫の先妻の子も含む家族みなに慕われ、酒を愛し、書物をよく読み、創作もする。そして真骨頂は彼女が書き残した5年分の膨大な日記。巷(ちまた)の出来事を分析し自らの見解を示し、将軍のひざ元に仕える家の者がもたらす新鮮で確かな情報をもとに天保の改革にも冷静な批評を加えるあっぱれ! 茨城の鹿島神宮大宮司家に秘蔵され、今は昭和女子大学図書館に保存される資料から、九段坂下の角に暮らした一女性の思考、ちゃめっ気、矜持(きょうじ)、知性を発掘。深沢秋男著(文春新書・767円)


〔4〕旗本夫人が見た江戸のたそがれ―井関隆子のエスプリ日記   深沢秋男

     朝日新聞 2007年12月16日    野口武彦氏(文芸評論家)

書評

■風俗から政治の裏面までリアルに

 女性の日記文学は必ずしも平安時代の特産ではない。江戸幕府が改革か衰退かの選択を迫られた天保年間、女ざかりの日々の出来事を日記に綴(つづ)った旗本の妻がいた。
 その名は井関隆子。江戸城で納戸組頭(なんどぐみがしら)を勤めていた井関親興(ちかおき)の後妻である。天保11年(1840)から同15年(1844)までの膨大な日記は、長らく桜山文庫に秘蔵されていたが、著者の35年にわたる努力で翻刻・研究され、『井関隆子日記』と名付けて世に知られるところとなった。そのサワリを紹介したのが本書である。
 夫との間に子は生まれなかったが、隆子は旗本家の刀自(とじ)として一家をてきぱき取り仕切る。九段下の屋敷は庭が広く、種々の草木が植えられて四季折々の自然が楽しめる。田安御門も程近く、江戸城とは手頃な距離にあった。
 義理の息子の親経(ちかつね)は広敷用人に出世した。広敷は大奥の受付にあたる部署であり、将軍家斉(いえなり)の公私の接点をなしている。孫の親賢(ちかかた)は世子家慶(いえよし)の小納戸(こなんど)(雑務係)を勤め、ここからも城内の情報が入ってくる。隆子日記の豊富なトピックはあちこちに張りめぐらされたアンテナ網から提供されていたのである。
 本書の構成は、前半が江戸の花鳥風月、年中行事、社会風俗の絵巻である。心中事件や破戒僧に向けられるオバサン的好奇心も旺盛だ。後半それが一転して天保改革の話題に切り替わる呼吸がいい。
 権力の座に就いた水野忠邦は、家斉の死を待ちかねたように荒療治に取りかかる。追放された旧政権の佞人(ねいじん)に殿中で誰も声を掛けなくなる雰囲気がリアルだ。果断な倹約政治に対してくすぶる不満の声もじわじわと伝わってくる。
 忠邦の命運を賭けた上知令(あげちれい)が、それで不利益を蒙(こうむ)る大名・旗本のひそかな結束で葬られてゆく政治の裏面がよくわかる。隆子日記は、家斉薨去(こうきょ)の日付など幕府の公式発表と隠された真相との隙間(すきま)を埋める一級史料でもあるのだ。
 隆子の文章にはしっかりした芯(論理性)が通っている。欲をいうなら、原文の達者な和文をもっと大胆に生かしてもよかったと思う。

 ふかさわ・あきお 35年生まれ。元昭和女子大教授。著書に『井関隆子日記』など。
旗本夫人が見た江戸のたそがれ―井関隆子のエスプリ日記 (文春新書 606) 
著者:深沢 秋男 
出版社:文藝春秋 価格:¥ 767 


〔5〕「旗本夫人が見た江戸のたそがれ」    深沢 秋男著

               日本経済新聞 2008年1月20日 書評

知性・好奇心でつづる天保の世

 良書との出合いは時に読者の人生を変える。それが日記だと人物そのものにほれ込んでしまう。著者は江戸時代の天保期に日記を残した一人の女性の魅力にとりつかれ研究書まで書いた。そして一般向けに改めて紹介したのが本書である。 
 日記の筆者は旗本夫人の井関隆子。老中、水野忠邦による天保の改革が行われた天保十一(一八四〇)年から十五(一八四四)年までの約五年間の記述で、全十二冊、二千ページ近くからなる。内容は改革への大胆で公平な批判から猫の習性観察まで政治、経済、生活、文化の多岐にわたる。 
 著者がほれたのは、豊富な読書量に支えられた知性と何事にも興味を持つ旺盛な好奇心、そして正確な情報に基づく善悪や美醜に対する合理的な判断力だ。倹約令などで民衆の悪評を買った水野へは、人を動かすのは金銀ではなく思いやる心だと諭す一方、火の取り締まりが厳しくなり火事が減ったと功績もたたえる。法要などで形式だけに陥り信心を失った宗教への批判は辛らつだ。迷信など信じない。 
 嫌な話題でも延々と書き続けながら、下品に流れない。秋の草花の中では白い穂をなびかせて人々を野原に招く薄(すすき)を第一に掲げるなど美的センスもいい。人物や力量に優れ尊敬できる女性は昔からいたと改めて納得させてくれる良書である。(文春新書・七三七円) 


〔6〕旗本夫人が見た江戸のたそがれ―井関隆子のエスプリ日記
       会って、一杯やりたくなる、幕末の女性。

         BOOK JAPAN 書評
         著 深沢秋男 
         文藝春秋 /文春新書 [歴史] [ノンフィクション]  国内
         2007.11  版型:新書
         レビュワー/小玉節郎氏

もう幕末といっていい時期を生きた、旗本の妻であり、息子・孫である旗本の母・祖母であった「井関隆子」という女性が残した日記を紹介する新書である。
古い時代に生きた人の日記を読むというのは、その時代の公的歴史に出てこない「思いもかけない事実」と、それを書いた人のその時代の政府や事件に対しての本音が読めるということである。

井関隆子は、一度離婚したあと旗本に嫁いだ。夫は納戸組頭(将軍の手許にある金銀や衣服・調度のなどを管理する仕事の責任者)で、身分は非常に高い。政府高官である。その仕事柄もあって、江戸城のすぐ近くの九段下に屋敷を与えられていた。現在でいえば「東京のここである」と地図が載っている。
夫には先立たれてしまうのだが、息子が御広敷御用人(大奥との連絡、事務処理にあたる役職の責任者)になり、十一代将軍徳川家斉の正室・広大院の掛りを長く勤めることになる。この息子が親孝行で、日々帰宅すると母親にその日の出来事を聞かせてくれるので、江戸城大奥の新しい情報が隆子の耳に入る。この親子関係が温かく知的であって、日常的に会話が盛んで、その興味深いところを日記に書き残したというわけだ。
隆子の孫も同じように幕府に重く用いられ、やはり祖母に江戸城内の様々な様子を話してくれる。そうした日常から、「将軍、正室」の側近というのは、こういう生活をしているものなのか、と納得するかなりの贅沢さもわかる。何かというと、将軍や側室からの贈り物がドーンと与えられる。ははぁ、こういうものかとよくわかる。

彼女の「身分と情況」は上記したようなものだが、二度目の結婚をする以前、本人が育った環境もあって学問と洗練された教養を身につけ、漢籍・漢詩に通じ、日本や中国の古典の素養も豊富に持っていた。また日記のみならず創作をものし、詩歌にも巧みであった。
そんなに頭が良くて、高い身分となると「お高くとまっている」賢夫人と思ってしまいがちだが、「賢く」はあっても、物事に対する理解度が深く、また非常に話のわかる女性だったのである。

今日的な感覚で徳川の政治を眺め、天保の改革を批判し、あるいは当時の学者の不勉強をなじり、科学的知識にも興味をもって言い及んでいる。
私が何より喜んだのは、それほど知的レベルが高く、身分的にも非常に高い女性が「なんともお酒が好きで、一杯やりながら人と話す、軽く飲みながら息子から江戸城の様子を聞くのが」大好きだった、というところ。自分の寝室に入ってみると何か置いてあることに気づいて、一瞬機嫌を損ねたが、それが孝行息子が用意してくれた酒だとわかって、たっぷり寝酒をやったというような人なのだ。
お客を迎え、親しい人を迎えると「さぁさぁ、座って、まぁ一杯やりましょう」というような人であったらしい。そういう洒脱な部分も日記に残っている。
日記は、天保11年(1840)の1月から15年(1844)10月までなのだが、将軍が亡くなり、水野忠邦による天保の改革があり、その水野が失脚する。そうしたことについて評論があり、息子や孫たちとの日常が詳しくわかる。幕末の、旗本暮らしぶり、それも上澄みといっていいだろう上級旗本の生活が理解できる。

物事を論理的に考える習慣を身につけていることは、驚嘆すべきであり「封建時代の武家の奥方」といった、ただかしずいているばかりと思われがちなその時代の女性たちとは全く違っている。こういう人ばかりではなかっただろうが、この新書で紹介する内容を読むと会って取材したくなるような、ステキな人物に思えた。

天保の改革をすすめる、水野忠邦などを冷徹な目で見ていて、倹約しろと人には言うけれど、自分自身は「賄賂の山、贈り物の山」を築いてはばかることなく暮らしているではないか、と書く。けっこう「舌鋒鋭く」書いているので、女性評論家といった趣満点。

また、もう「地球は丸い」という知識は入ってきていて、そのことは本で読んでいるのだが、こういうことはきちんと実証してもらわないまま信じるわけにはいかないと書き、上空遙かに浮かんでこの地上を見下ろすということでもして「この目で見ない限り」信じられない、と書いている。地球が丸いなんてはずはない、というのではなく、西欧の「科学」のありようを理解してはいるが、自分は鵜呑みにできないと、明言している。「地球は丸い」が当時の日本では常識ではないと思うけれど、そういう情報に対して自分が信ずるに足りる実証がないとにわかに受け入れるわけにはいかないというのが、冷静で素晴らしい。

天保12年閏1月7日、十一代将軍家斉が死んだと井関隆子は聞かされる。
しかし、徳川家の公式記録ではその月の末日に逝去したことになっている。歴史書では月末の死といういことで歴史になっているが、どうも事実はこの日記の中に書かれている日が正しいらしい。息子と孫が江戸城の奥深いところに勤めているということでこうしたことが彼女には伝わり、日記に書き残されているというわけだ。
家斉の死のあとに、いよいよ水野が権勢を振るい天保の改革を始めるが、この改革の最中の旗本の生活の様子、水野が罷免されたあと「いい気味だ」という気分あふれる文章、さらに、江戸の庶民が罷免と決まった水野の屋敷を囲んで石を投げつけて大騒ぎになったという街の様子など、大きく時代が動いた時期の、その中心に近いところで見聞した「事実」がとても面白く、歴史は「こういう風に面白いぞ」というのに格好な例とも言える。

この本は、日記の面白いところを紹介しているが、日記その物が全三冊としてまとめて出版されているので、この本を読んで全部読みたくなったらそちらをどうぞ。 ああ、こういう女性が江戸時代にいたのだ、いてくれたのだと感心し、感動してしまった。

しかし(ブックレビューでこういうことは書かないものかもしれないけれど)、「旗本夫人」だの「エスプリ日記」だの、江戸に関した本を興味深く読んできた人間には「がっくり来る」「絶望的に」ダサイ書名、副題をつけなくてもいいでしょう。
編集者のセンス、というのはこのあたりなのか。 書店で本を手に取り、中を見たから買ったけれど、書名だけしか知らなかったら私はこの本は買わなかった。持っているのが恥ずかしい書名です。
それは、言っておきたい。


〔7〕江戸のたそがれ―天保期のスーパー才女―

            YAGIKEN WEB SITE  八木 健吉氏

<江戸時代>
江戸期は260年余り続いた。この時代は鎖国体制を敷き、朱子学を中心とした儒教の教えが日本人の行動を律し、およそ科学的、合理的な思考は発達しなかったように思いがちであるが、それは認識不足であり天文学の麻田剛立や数学の関孝和のような優れた人材が出たことは、伊能忠敬を主題にした以前のウェブログでも触れた。

伊能忠敬の墓所−浅草源空寺−

中村士氏の「江戸の天文学者 星空を翔ける」(技術評論社刊)を拝読すると、律令時代の陰陽道(占い術)としてスタートした日本の天文学が、江戸時代になって科学に脱皮していく過程がよく分かる。京都西陣に陰陽師、安倍晴明を祀る晴明神社があるが、その子孫が土御門家を名乗り江戸時代まで暦編纂の家柄として続いた。

日本の暦は9世紀に中国の宣明暦を輸入して以来、800年以上使い続けられた。本家の中国ではその後も改暦が繰り返されたが、日本では菅原道真が遣唐使の派遣を中止したため新たな暦法が入ってこなかったからという。このため江戸期の太平の世に入ると日食や月食の予報の誤りがたびたび指摘されるようになった。

1684(貞享1)年になって渋川春海が科学的観測と中国の最新の暦法に基く貞享暦を作って初代天文方になり、徳川幕府が編暦の実権を京都朝廷から奪った。関孝和もこの時期に中国暦の理論を研究し、渋川春海でさえ理解できない理論を孝和のみは理解していたという。

江戸時代には享保、寛政、天保の3大改革があったと学校の歴史で習う。これらの改革は財政改革だけではなく、改暦を伴うこともあった。つまり当時の先端科学を取り入れて日食や月食をよく予測する新しい暦を公布することは、天下に号令することであり威信を示すことに繋がるという、古来からの為政者の権限行使である。

1716(享保1)年に徳川8代将軍になった徳川吉宗は、享保の改革で目安箱を設けて民の声を聞いたり、あまり身分の上下や家柄を気にしなかった将軍として人気があり、「暴れん坊将軍」のドラマのタネにもなっている一方で、天文学にいたく傾倒して自ら観測装置を工夫したり天文観測を行い、当時では屈指の光学研究者といっても良いレベルだったらしい。

吉宗は西洋天文学による改暦を熱望したらしいが、幕府天文方の御用学者の実力が不足し、伝統的な編暦の家柄であった京都の土御門家との確執の壁もあって存命中には達成できなかった。吉宗の孫にあたる松平定信の寛政の改革の時、1795(寛政7)年に西洋天文学を研究していた大阪の麻田剛立一門の、高橋至時が幕府天文方に任命され寛政の改暦にあたることになる。

この流れが伊能忠敬の日本地図作成の大業を生み、1804(文化1)年に天文方になった高橋景保(至時の長男)が、伊能忠敬死後の 1821(文政4)年に大日本沿海與地全図として完成させた。高橋景保はシーボルト事件で獄死したが、その弟、影佑は渋川天文方を継ぎ、水野忠邦の天保の改革時、1844(天保14)年に天保の改暦を行った。

水野忠邦は1834(天保5)年に老中となって天保の改革を断行したが、施政が厳格に過ぎて人望を失い、1843(天保13)年に免職となるが、翌年再び老中に復した人であると、学校の歴史では習った。

しかしこのような財政改革や改暦を実施して一時的には幕府の威信回復になったとしても、米本位経済から商品経済への時代の流れに幕藩体制ではいかんともし難く、次第に幕府の力は衰えて、幕末まであと30年ほどの天保期(1830-1844)は、いわば江戸のたそがれともいうべき時期であった。

<江戸のたそがれ期に日記をつけた井関隆子>
 井関隆子のエスプリ日記
このたそがれ期の1840(天保11)年から1844(天保14)年の5年間、一人の女性が詳細な日記をつけていたことが近年判明した。昭和女子大学の深沢秋男教授は、35年ほど前に鹿島神宮大宮司家に秘蔵されていた日記を見せられ、その史料的価値の高さや、それまで全く知られていなかった井関隆子というその著者の魅力に魅入られてしまったと仰る。

深沢教授は近世初期の仮名草子がご専門であるが、専門研究の合間に井関隆子の研究を進められ、一般向けには、2007年末に左の写真に掲げた「旗本夫人が見た江戸のたそがれ 井関隆子のエスプリ日記」(文春新書)を発刊された。日経書評を見て購入していたので、前編で触れた天璋院篤姫との関連がどうだったのかと思い再読してみた。

天璋院篤姫雑感

井関隆子は1844(天保14)年の日記を絶筆として60歳で他界しており、1856(安政3)年の篤姫江戸城輿入れはその12年後であるから、残念ながらこの日記には天璋院や和宮の描写はない。しかし隆子の孫が1863(文久3)年に大奥の用人となって天璋院と和宮のお世話役をしたというから、もし隆子がその時まで存命し日記を続けていたらと思うが、歴史にたら話はない。

<井関隆子の日記執筆の動機>
井関隆子は56歳の1840(天保11)年1月1日に、「重要なことは公的記録に記されているし、私的なことも優れた人達によって記されているから、私がとりたてて言うこともないが、これといって為すこともない老いの身としては、とりとめもないことでも書き記して慰めとしたい。」として日記を書き始めた。

隆子は最初の結婚に失敗し、30歳のときに再婚して井関家へ入った。しかし42歳の時に夫が死に、以後は血の繋がりのない息子夫婦と孫夫婦と一緒に井関家を切り盛りした。兄の影響で早くから日中の古典に親しんだ教養ある女性だったらしく、井関家でも夫の死後は一家の主婦としての役目も終わり、学問や歌に磨きをかけたらしい。

日記を書き出した頃は既に隆子の晩年に入っており、井関家の最年長者の母・祖母として家族の皆から尊敬され、離れに住んで鹿屋園(かやぞの)の庵主と称して気ままに毎日を送れる恵まれた境遇であった。江戸時代は女大学に代表されるように女性には忍従を強いる男尊女卑の社会であったように思うが、井関家は礼を守る絆の強かった家庭のようである。

<高い史料価値をもつ日記>
当主である息子の親経は12代将軍徳川家慶の側近を勤め、隆子が日記を書き出した2年目の天保12年に、大奥を担当する広敷用人に抜擢され、11代将軍家斉の正妻、広大院の掛を担当していた。因みに広大院は薩摩島津家の出身であり、この縁から後に島津家から篤姫が輿入れすることになる。孫の親賢もこの当時は将軍家慶の側近であり、後に父の後を継ぎ篤姫や和宮の掛になる。

親経、親賢父子とも役目柄色々な情報が入りやすい部署にいた上、お城から帰ると、まず隆子に城内の様子を報告していたことが日記から推察される。このため、日記を書き始めた当初は、日々の慰みとしてとりとめないことを書くという隆子の意識が、彼女を取り巻く江戸の社会が激変期に入り幕政の変革に出会ったことから、これは捨ててはおけない、このことは是非書き留めて後世に伝えたいという意識に変化していったという。

日記は全部で12冊あるらしい。最初の年(天保11年)は4冊あって、四季の変化、江戸の年中行事の見聞、幼い頃や若い頃の思い出、学問、和歌、物語など、彼女の動機に沿った自身の内面的感情を示すような内容が多いが、2年目以降はそれぞれ2冊づつとなり、人物、社会、政治やそれに対する彼女の批評のような内容が主体になってくる。

親経、親賢父子も、隆子の日記執筆に協力を惜しまなかったろうから、天保の改革の実態や江戸城内の将軍家と大奥の動きについて、隆子の得る情報はかなり正確なものであったと思われ、さらに隆子自身の優れた判断力や執筆力が加わって、史料価値の高い日記になっていると評価されている。

<水野忠邦の天保の改革>
   水野忠邦
水野忠邦は唐津藩6万石の藩主から浜松藩に転じ、上述したように1834(天保5)年に老中となった。当時は農村に商業的農業や加工業が発達して物価騰貴が起こり、百姓一揆や打ちこわしが増加し、それに天保の飢饉や大塩平八郎の乱があって社会が混乱に陥った時期である。

本丸老中首座となった水野忠邦は1841(天保12)年から天保の改革と呼ばれる一連の改革を行った。奢侈の禁止や風俗矯正、借金棒引きはいつの改革も同じであるが、特に江戸、大阪近辺を幕府直轄領とする上知(あげち)令と、株仲間の廃止を目玉にしたものの、内外の反対を招いて失敗し、 1843年に忠邦は失脚したと歴史辞典には出ている。

<水野忠邦に対する辛らつな批評>
隆子が日記をつけた時期は、まさに天保の改革の時期と合致する。彼女の日記には、1840(天保11)年から天保15年までの全てに水野忠邦が登場するが、天保の改革の推進者である水野忠邦に対する彼女の見方は辛らつである。

天保11年に水野忠邦は三方所替を発令し酒井、松平、牧野の3大名を国替させようとした。隆子は11年11月12日の日記で、「酒井氏は家康の時代に大功あって庄内藩を賜ったのに、現在の当主が驕り高ぶり女を集めて遊んでいるという理由で国替するということだが、川越藩の松平氏が富裕な庄内藩を望み、幕府にも得になるから水野忠邦が損得で推進しているのではないか。」と、忠邦を疑っている。

さらに隆子は、「水野殿は世間には節約するようにと厳しい触れを出しておきながら、自分の領地は増やして貰っているし、世には厳しく禁じている賄賂も自分自身は何事につけても受け取っている。そういう人物である。」と、まことに厳しい評価をしている。

ただし天保の改革それ自体は隆子も異存なく、発令の翌日の12年5月18日の日記に、「この度享保、寛政の頃の趣意に従って何事も節約し、驕りを省き、賄賂などによる昇進の人事も改め、武術は平和な時代にも忘れず励むよう仰せ出された。今の将軍様の御心からの掟には、御自ら費えを省き、臣下には恵みを下されているので、皆この命令に異を唱えるものはいない。」と記して期待している。

12年6月16日の日記では寛政の改革を断行した松平定信について、「その頃、世の中は贅沢に走り、服装も華美に流れたが松平定信はことごとく改めた。まず自分自身の生活を切り詰め、賄賂はいうまでもなく追従さえ嫌った。掟は厳正であり、政策に私情を挟まなかった。故に下々も命令に従い世の中もたちまち改まった。」と高い評価をしている。

しかし水野忠邦に対する見方は厳しく、12年から13年にかけての日記には、「水野殿は以前からとかくの評判がある。しかし今は権勢を誇っている。」とか、「この人については世間ではあれこれ噂が絶えないけれど何の処分もない。虎に翼が生えたように大変な勢いである。」と、隆子は忠邦のことを、改革に私情をはさんで自分に有利に進めている人物と見て批判している。

<水野忠邦の罷免>
隆子の見方は正しかった。続徳川実記は、天保14年9月13日に「宿老水野越前守忠邦、国政の事、不正の趣あるによて職とかれて、前の如く雁間席を命ぜられ、御前とどめらる」と水野忠邦の老中罷免を伝えている。隆子は同じ9月13日の日記に、「この人はそれほど愚かな人物ではないと思うが、自分から身を滅ぼしたのは多くの人々の恨みによるものであろう。」と記している。

しかし井関隆子は冷静な判断力の持ち主であった。14年10月10日の日記には、「罷免された水野の主が決めた掟にも宜しいものも多いのに、世間の噂の常として悪い点のみ言い立てるものである。近年江戸の町に火事が少ないのは火の取締りが厳しい故だが、これは水野殿の功績であろう。」と記している。平成のマスコミにも心して欲しいまともな見方である。

水野忠邦は罷免1年後の15年6月21日に再び老中に返り咲いた。この日の隆子の日記には、「あの水野殿が再び召されると聞いたが本当だろうか。・・・この水野の主の政策の大部分が改められたのは、良くないからであるのに何事であろうか。世には人も多くいるのにどうしてなのか、などと人々は呆れているということである。」と至極もっともな感想で首をかしげている。

つまり学校で習う歴史や歴史辞典を見ただけでは、天保の改革は施政が厳格過ぎ、上知令を撤回して水野忠邦が失脚したとしかわからないが、井関隆子の日記から、改革指導者が私情をはさんで施政を行ったり、賄賂を受けとったりしたという基本姿勢が人望をなくし、失敗に繋がったという実態がよくわかる。

<合理的な考えをしていた井関隆子>
隆子の描いた眼力太夫
井関隆子は江戸時代の、それも女性の考え方としては驚くような合理的な考えをしていた。浅草の見世物に眼力太夫という子供が出ており、目玉の出し入れが自由で、飛び出した目の玉に縄をかけて重い物を吊るして見せるという噂を聞いて、隆子は自分も好奇心をそそられたと、左図を日記に描いている。ここまでは絵心のある当時の女性なら珍しくないであろう。

しかし彼女は、「自分が幼かった頃、舌長娘がいて長い舌に物を掛けて見世物にしていた。舌は誰でも少しは伸び縮みするので、さほど珍しいとは思わなかったが、目の玉を出し入れして物を吊るすのは怪しいことである。」と書いて信じていない。家相見、地相見、墓相見などの迷信は不用のものであるといって信じなかった。

<人工衛星を予見していた?>
また隆子は、「紅毛人は地球は円いと書物に書いてあるという。実際自分で見ていないのに断定的にいうことは納得できない。・・・証拠もないのに断定してはいけない。この天地の有様を完全に知りたいと思うならば、一度この地球から出て、遠くから観察しなければ断定できないだろう。」と、実に合理的なことを言っている。

このくだりを読んだドナルド・キーン氏は、「井関隆子が早くも人工衛星を予見していたとも思わせるではないか!」と、1984(昭和 59)年に発刊した「百代の過客」(朝日新聞社)の中で評しているとのことである。キーン氏も江戸時代における一女性の感覚としては飛びぬけていると驚かれたのであろう。

<仏教批判、法事無用論>
当時の将軍であった家斉、家慶父子は日蓮宗を信じていたので、大奥のさる役人が毎日法華経を写経したところ、女房たちの評判となって将軍の耳に届き出世したという話を聞いて、隆子は「もとより出世を目的としてとった行動であるが、本当にこの宗派にそんな徳があるのだろうか?」と、将軍の意に反して日蓮宗を批判している。

さらに隆子は年に2、3回はある法事についても、当時としては飛びぬけた考え方をしている。「他界した人の法要も古くは行わなかったが、現在は当然のように行うようになった。家計の苦しい人はその費用の為に借金をしても行う。・・・・菩提寺から法要日の案内があったら断ることもできずに執り行うが、このような法事は無用のことである。」

「今は大方の人が仏教に傾いているようであるが、法事の為に寺へお参りした人々は、お経を聞いてもわけはわからず、ただうるさいと思っている者が多い。人の代りに来た男などは座っている足も痛いので、早く読経が終わって欲しいと陰であくびをして、早く物を食べたいとそれが待ち遠しい様子である。」

「法事の料理が良ければ心を入れた法事だと誉め、質素な料理だと省略した法事だなどという。誉めるのもけなすのも料理によってである。法事を行う施主とても今日の法事は心がこもっていて尊い、これで故人も成仏するだろうなどと思う信心深い人は滅多にいない。仮にそのような人がいたとしても、それは賢明な人ともいえない。」

と、隆子は仏教や法事に対して全く徹底して合理的な考え方をもっていた。日本近代史家の渡辺京二氏は、「これを読んで私はわが眼を疑う。これは現代の法事の様子を述べた文章ではないのか。・・・・天保年間に江戸人がこれほど脱宗教化を遂げていようとは、・・」と、著書「江戸という幻景」(弦書房)の中で驚かれている。

確かに、織田信長が女に生まれ変わって、未だ信心や迷信のはびこっていたと思われる天保の世に、再び現れたような感じを受ける。しかし彼女は法名は不要とは言わなかったらしく、死後「知清院殿悟庵貞心大姉」という最高の法名を、親経、親賢や菩提寺から贈られている。

<批評精神旺盛なスーパー才女>
井関隆子を発掘された深沢教授は、隆子のことを幕末のスーパー才女、樋口一葉、与謝野晶子も仰天(したかも)!と、驚きをもって文春新書に紹介されている。豊かな学識と知性があり、旺盛な好奇心と批判精神が確かな歴史認識や人間認識に繋がっていると、最大級の賛辞を送られている。

江戸時代は男尊女卑の社会であり、女性にとっては忍従の一生を送る社会であったというイメージが強いので、隆子の場合は、本人の天賦の才能や若いときからの学問への努力、再婚先の家庭の環境に恵まれたなど、特別な例かもしれないが、天保の改革の本質を見抜く力や、物事への合理的な考え方は痛快でさえある。

天保10年に60歳で他界した国学者、林国雄の「言葉の緒環(おだまき)」を読んだら不審な点が多いので、問い合わせたところ返事が全く的外れであったという。隆子は、「このものが昨年他界したということであるが、いつまでも生きながらえて世間に迷惑するような本を書くよりも早く他界したのは宜しいことである。」として、その理由を丹念に説明しているそうである。

かといって知性と教養を身につけた近寄りがたい女性ではなかったらしく、お酒が好きで花見だ、月見だと家族で酒を酌み交わすのが楽しみだったらしい。息子の親経は下戸で飲めないので、酒好きな母の寝床に薦被りの酒樽をドンと据えるといういたずらをしたエピソードもあるという。

平成の今の世の政治家を井関隆子に批評してもらったら、早く他界した方がと日記に記される者もいるかもしれないなどと、ふと思った。


〔8〕47 将軍のいましめ(5)井関隆子
                  「鎌倉、まぼろしの風景。」 亀子氏
                  2008年11月4日


   47 将軍のいましめ(5)井関隆子
 昨年、文春新書から出版された「旗本夫人が見た江戸のたそがれ・井関隆子のエスプリ日記」深沢秋男著には、井関隆子(1785-1844)の小説「神代のいましめ」についても説明されている。1840年ごろに井筒隆というペンネームで書かれたこの小説は、鹿島神宮家の桜山文庫から発見されたのだそうだ。風刺に満ちた彼女の作品は、発禁本とまでは言わなくとも、何かとはばかられる稀覯本の一つであったらしい。
 その「神代のいましめ」は、この本の著者のHP「深沢秋男研究室」で詳しく論じられている
参照:深沢秋男研究室。

 主人公の某の少将は、和歌も良くする当代一の公人であって、何不自由無く暮らしている。ある日「隠れ蓑笠」を手に入れて、透明人間になった。それでこっそり知人のところに行くと、少将の悪口を言っている。すっかり気落ちしてしまった。「神代(かみよ)の頃から、蓑笠をつけて他人の家に上がりこむ事はやってはいけない事といましめられている。見えないからと言ってこっそり蓑(みの)を着て家へ上がるようなことをするからだ。」と、お話は締めくくられる、らしい。
 昭和の頃は、訪問先の玄関の前でコートを脱ぐのが礼儀であった。雨の日もレインコートを脱いでから、ごめん下さいと言う。
 それは蘇民将来の故事、蓑を着た武塔神が村人を殺戮したことから来るものらしい。
 秋田県の「なまはげ」も、出刃包丁を持って蓑を着たまま上がりこんでくる。

 それはさておき、主人公の某の少将とは、当時1840年の政界のトップ、老中の水野忠邦なのだそうだ。
 隆子は自身の日記でも、彼を厳しく批判しているのだそうだ。
 酒好きな彼女は、家の当主である義理の息子の親経と、その息子の親賢とで、よく酒宴を設けたのだそうだ。そこで老中水野忠邦のうわさ話も出たのだろう。隆子が55歳、忠邦は46歳である。江戸城勤めの息子の親経は48歳、同じく江戸城勤めで、隆子の飲み友達の親賢は31歳。後妻だった隆子は大切にされて、生活も豊かだったそうだ。

 さて、「たそがれの少将」と呼ばれた人が実際にいたそうだ。松平定信である。
 1787年に老中首座となった定信は、その後徳川家斉と対立し、1793年に辞職を命じられている。隆子が8歳の時のことだ。一世代前の人なのだ。
 万葉集を読み和歌に優れた父を持つ定信も、小説の「某の少将」と同じく歌を詠んだ。
心あてに見し夕顔の花散りて 尋ねぞ迷ふたそがれの宿  まるで自分が光源氏になったかのようなこの歌で、彼はたそがれの少将と呼ばれる。

 さて、その松平定信の娘を清昌院という。信濃高島藩主の諏訪忠恕(ただみち)の正室であるそうだ。彼女は諏訪山昌清院と関係があるのだろうか。

 鎌倉市山崎にある山崎山昌清院は、かつては諏訪山昌清院といったそうだ。拝観できないお寺である。
 近くの廃絶したお堂やお寺の御本尊がここに集まっていて、徳川幕府の庇護によって存続した円覚寺の塔頭なのだそうだ。
 参照:45.山崎の里(3)
 二代将軍徳川秀忠の三男、忠長(ただなが)は家臣や農民を斬ったとされて蟄居を命じられ、28歳で自害する。墓を作る事も許されなかったそうだ。 1634年のことだ。忠長は東京都文京区に在る昌清寺で弔われている。鎌倉市扇ガ谷の薬王寺にも奥方の松孝院が建てた供養塔があるそうだ。
 ところで、井関隆子の実家である庄田家の菩提寺が、この文京区の昌清寺なのだそうだ。隆子の時代より200年前のこの事件の事を、彼女も当然知っていたと思う。

 井関隆子の小説「神代のいましめ」は、神話の時代からの戒めという意味だ、と思う。だけど「神代」と書いて「みよしろ」と読めば、それは鎌倉市山崎の天神山周辺の地名である。新編相模国風土記稿に載っている。

 みよしろのある山崎に徳川幕府ゆかりの屋敷があって、近くに昌清院があり、小説の主人公が松平定信の別名、たそがれの少将を思わせる某の少将で、さらに題名が「みよしろの戒め」と読める、、、。小説「神代のいましめ」は内容を問う前に、それだけで憚られる図書であったのかもしれない、と思った。

追記:それにしても山崎山昌清院というお寺は、謎がいっぱいあるお寺だ、と思う。


〔9〕佐久川文明氏の ヤフーの日記 SNS
                      2008年1月15日〜


『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』
日記を残したのは、離婚・再婚した旗本夫人。お酒も大好きだけれど、読書家で絵も描き歌も詠み、創作までしていた女性。品川で起きた心中事件・好色な僧侶・同性愛にふける侍・浅草の見世物など、世俗の出来事を観察眼鋭く記す。
また、幕末の迷走する改革・水野忠邦批判・将軍家斉の素顔・家定夫人の出生の謎など、幕政と将軍家に関わる出来事を冷静に批判した才女が存在した。

『旗本夫人が見た江戸のたそがれ 井関隆子のエスプリ日記』
                  
                  深沢秋男著  文春新書

本書は、旗本夫人である井関隆子が、激動の幕末における政治や将軍・大奥の様子などを、冷静に書き留めたこの『井関隆子日記』の内容を平易に解説した教養書。

元旦から年越しまでの江戸の年中行事、花見のころの上野・牛が淵、牡丹の谷中、浅草の見世物などは自筆の絵が添えられていて、活き活きと描写されている。佃島の花火は、幕府の鉄砲隊の訓練も兼ねていたから、その迫力は両国の花火を上回ったと記している。

彼女の息子は、大奥との連絡役責任者である御広敷御用人で、11代将軍家斉の正室・広大院(松の殿)の掛を長年勤め、孫は篤姫の世話掛をした関係で、大奥の様子が詳細に伝えられた。
禄高の少ない旗本だが、四季折々の節目や幕府の行事ごとに、将軍や大奥からの賜り物を得ていた。たとえば正月には、綾織の衣装・紫檀の文机・硯箱を拝領し、大奥の姫からは銀三枚、白羽二重、袋物のほか、たくさんの魚や果物を賜っていて、以外に裕福な生活を送っていたようだ。

江戸城内に勤める息子たちから、大名の倹約令、天保の改革、問屋仲間制度の廃止、老中水野忠邦の罷免など、幕府の政治の内情が彼女にもたらされ、日記には幕政への冷静な批評を加えている。また、大奥の火災の詳細、大掛かりな日光東照宮への将軍の参拝行列の模様も詳細な記述がある。
なかでも特筆すべきは、将軍家斉の死去した日の城内の様子を詳細に記しており、その23日後が『続徳川実紀』では没日とされていて、この検証がされて歴史の記載が変更になるかもしれない。

流れてとまらない時間の中で、生きた人間をとらえ、そのはかなさを自覚して、日々の様子や、自分の心に映じた事々を書き記す日記が、後世に貴重な資料ともなり、歴史をも書き換える役割を果たすかもしれない。

皆さんが書いているDaysも貴重な歴史資料となる可能性もあるかもしれない?
デジタル記録がどのように保存されるのか、改ざんが可能なデジタル記録の資料性としては少々疑問ではあるけれど。
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コメント
メタルさんはいつも興味引かれる本を紹介して下さるので、これは読むぞと思うのですがなんだか今は未だ落ち着かなくて、本にまで気持ちが行かない状態です・・・。
長い間2〜3日に一冊位は読んで来ただけに自分でも何だか寂しい気分です。 
如月 幹雄 さん 
2008年1月15日 20:55 [削除]
★如月 幹雄さん

ワタシの読む本は系統もなしに濫読で、売れていない本が多いから、
こんな本があるのだ、と気に留めていただけるだけで充分です。

如月さんは、まだまだ雑事に追われる時期でしょうから、
一段落したら読書の愉しみを味わってください。

メタル さん 
2008年1月15日 21:10 [削除]
メタルさん この 『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』は書き留めました
今日も本屋さんで時間をつぶしてたのに気がつきませんでした。
おもしろそうです!! 見つけてきます。
いつの世でも時の権力者が残した歴史書よりか普通の人が普通の目でみて書きとめた文章の方が価値があると思いますね。
正直ですから〜 時の権力者は都合のよいように書き換えてますもん。

いつも興味のあるおもしろい本の紹介をありがとうございます。
Cocoちゃん さん 
2008年1月15日 21:24 [削除]
★Cocoちゃん

さすがに歴史好きのCocoちゃん、史実や歴史書というものは、
後から権力者が記したものが大半だ、ということをわかっていらっしゃるのですね。

家斉の没日が23日もズレているのは、葬儀の準備などの都合ではなく、
遅らせなければならない幕府の事情があったのでしょうね。

この井関隆子という女性は、酒豪で学問も世俗の出来事も好き、
Cocoちゃんに似ているかも?
メタル さん 
2008年1月15日 21:32 [削除]
私、江戸時代が好きなんです。杉浦さんはもとより、江戸時代について書かれた本を何冊か読みました。
面白そうな本ですよね。興味あります。
又チェックしにきます。買うかも。 
ブロンディ さん 
2008年1月15日 23:54 [削除]
★ブロンディさん

杉浦日向子さんの作品は、上品な香りがしますね。
Days友のアッサムティさんの日記で紹介された『もっとソバ屋で憩う』
新潮文庫が、江戸時代のソバの話と、現在の蕎麦屋のガイドブックになっているから、蕎麦屋で軽く呑みながら、本書を読むのもいいかも?
メタル さん 
2008年1月16日 12:22 [削除]
メタルさんの所には、
本好きの方がたくさんいらっしゃるんですね。

私も、この頃ちょっと読書が疎かになって
何とかしなければと思っているのですが、
なかなか上手くいきません。

伊関隆子という人も初めて知りました。
世の中には、じ〜っと世の中の出来事や人のことを
観察している人がいるんですね。
同時代の他の人の本も読み合わせてみると
多面的に見れて、より本当の姿に近くなる
かも知れません。

画像の樋口一葉、私の尊敬する女性の一人です。

あかり さん 
2008年1月16日 13:48 [削除]
いつの時代でも才女とやらがいらっしゃったんでしょうねぇ、
読書家で絵も描き歌を詠み、・・・(あたしにあるのは酒豪のみ;~~)
樋口一葉も真っ青のスーパー才女、旗本婦人。

昔の時代背景もまだ解明されてない事もあるようですし、貴重な物を
発掘したんですね〜 
kera さん 
2008年1月16日 17:43 [削除]
★あかりさん

いえいえ、本好きの方は、我々の年代でも少数派のようです。
本離れが続いているから、あえて無駄な抵抗で紹介しているかも?

この日記が発見されたのは三十数年前でしたが、近世文学研究の世界にとどまっていたので、一般化されていなかったようで、最近歴史家にも認知されたようです。

確かに、他の日記と照合できれば歴史上は価値がありますね。
ただ、江戸時代に文字を書ける女性は少なく、
日記として残っているのも希でしょうから、男性の日記が保存されていれば可能になりそうですね。
メタル さん 
2008年1月16日 19:13 [削除]
★keraさん

才女で酒豪というのがいいですね〜、ワタシ好みかな?

花見、花火見物、十三夜など、四季折々に自宅で宴を催して、
家族や親戚の人びとと酒盛りをしたようです。
「あるときは、隆子の部屋の布団の上に一斗樽が置いてあり、普通なら怒るところだけれど、酒好きの彼女はニンマリ。孫がイタズラ心を出して置いたよう。もちろん、孫と一緒に酒を楽しんだ」らしい。

keraさんも花を愛で、音楽を好み、酒を愉しむ
三拍子揃っているのでは?
メタル さん 
2008年1月16日 19:25 [削除]
これ、面白そうです控えました。
江戸と現代、相通じるところと相容れない変貌が興味あるところですね。 
セイ さん 
2008年1月16日 20:29 [削除]
面白そうですね。
転換期にどういう視点で捉えられているかは分かりませんが、色々な見方があっていいと思います。

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●この佐久川氏の掲示板には、まだまだ大量の書き込みがある。ネット時代の情報の伝達を痛感した。
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〔10〕 江戸研究家・安藤優一郎のオフィシャルブログ 


江戸研究家・安藤優一郎のオフィシャルブログへようこそ!ここから、江戸の最新情報を発信していきます。  

2007年11月18日(日) 

旗本夫人の日記 

江戸の女性と言うと、男性に虐げられているという印象は、今なお強いようです。しかし、そのイメージは、現在では大きく修正を迫られています。
私は、アルクさんが発行しているフリーマガジンのJLIFEで、「外国人が見た江戸」という連載をしています。そこでは、外国人の眼の映った江戸の女性のたくましさ、したたかさについて連載しています。
http://www.jpalc.com/index.php
昨日読んだ深沢秋男さんの『旗本夫人がみた江戸のたそがれ』は、まさに、そんな女性の姿が描かれています。
http://www.bunshun.co.jp/book_db/6/60/60/9784166606061.shtml
この井関隆子の日記は、幕府のウラ情報満載の日記として、研究者の間では知られていますが、一般書で広く紹介されるのは、この本が初めてです。
私も、この日記を使って文章が書ければと思っています。
作成者・管理人 : 2007年11月18日 (日) 08:27  
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