井関隆子の人と文学――近世後期・一旗本女性の生涯――

                              報告者 国語国文学科教授  深沢秋男氏

昭和女子大学女性文化研究所、第5回研究会(通算49回)
日時=1994年12月6日(火) 15:00−16:30
会場=光葉庵

 近世初期の仮名草子がご専門の深沢氏は、あるきっかけから、個人蔵書に眠っていた、近世後期の一旗本女性の書いた日記を発見した。以来、氏はこの日記に取り組み、綿密な校訂を行うとともに、著者の名前にちなんで『井関隆子日記』と命名し、全三巻本として公刊した。この仕事に費やした歳月を、氏は「十年間の寄り道」と表現しておられる。
 こうして世に送り出された『日記』は、ドナルド・キーン氏によって、朝日新聞紙上で高く評価され、文学作品として、また最近では女性史の史料としても注目を浴びている。 隆子に関する研究が盛んになる中、資料の発見者である深沢氏は、これまで『日記』の内容や評価についての発言は控えてこられたのであるが、このたび、当研究所の研究会において、発見者自らが初めて語るというかたちでお話しいただいた。テーマは「井関隆子の人と文学」。『日記』だけにとどまらず、他の作品をも含めた著者の全体像を探る意味で設定されている。
 氏のご報告は、@「井関隆子の生涯」A「井関隆子の文学」B「作品に見る隆子像」の3部で構成され、@では一度縁談が壊れた後、裕福な旗本井関親興の後妻となり、夫の死後は義子や孫夫婦にかしずかれ、晩年5年間に『日記』を書いて60歳で没した生涯を、史料を基に実証的に説明し、Aでは『日記』以外の作品、『さくら雄が物語』『神代のいましめ』という隆子作の2つの物語が紹介された。
 Bは、いよいよ中核部分の『日記』についてである。当日は、本学図書館に所蔵されている『日記』の原本全12冊を借用し、出席者一同に回覧された。雅文体の見事な筆跡は、ほとんど書き間違いがなく、ミスは、全61万字中わずか10数カ所にとどまるという。また細密画を思わせるその挿し絵からは、洗練の極に達したという、化政期江戸文化の名残が感じられた。『日記』の内容は、身辺の雑事ではなく、当時の社会情勢や風俗が記されて史料価値が高いとともに、これらに対する隆子の見解がはっきりと示されて、全体が著者の思想の披瀝となっている。女性には、稀な日記である。
 深沢氏は、本文を抜粋して実際に読み上げながら、部分毎に他の研究者の解釈を紹介した後、氏ご自身の見解を提出した。中でも印象的だったのは、「天保十一年二月十二日」の項である。氏はここで、隆子は日記がいずれ公開されるだろうことを予測し、読者を意識して書いていると明言された。著者の秘めた願いを見抜いたればこそ、深沢氏は十年の歳月をこの仕事にかけたのである。事実、『日記』は隆子の言う500年を待つことなく、140年後に公刊された。
 最後に氏は、井関隆子像を次の5点に纏めた。@批評精神のある女性であること。これは隆子の資質であり、拠り所となっているのは、豊かな学識と鋭い感性である。古典に暁通していたその学識は、一説には夫の死後勉強を始めたというが、そんな一朝一タに出てきたものではなく、若い頃からの蓄積があったはずである。Aしっかりした歴史観、人間観を持っている。従って、生きた人間が把握されている。B『日記』は感傷を排除して書かれており、隆子は理知的な性格であったと思われるが、その底流には激しいものを秘めていたであろう。C自分の考えを素直に表現している。D『日記』の話題の広さから見て、旺盛な好奇心を持っていた。以上、井関隆子を知る事、発見者が一番深いと思われる結びであった。 
 質疑応答では,女は無知文盲なるが好しとされていた時代、隆子が政治や社会に関心をを持ち、自分の意見を表明出来たのは何故かという質問がなされた。深沢氏は、後妻とはいえ「母」の地位の高さであるとして、井関家の当主である子や孫が、江戸城から帰宅すると、母上にその日の出来事を報告する様を描写して見せた。隆子の学識は尊敬されていたのである。また、酒好きだったことや、妙な探求心を発揮する、隆子のユーモラスな一面も紹介された。
隆子はその晩年の日々を、『日記』を書く事に没頭した。『日記』の最後の日付けから20日後、隆子はこの世を去った。いかに死ぬかは、人がいかに生きたかを問われる最後の機会という。後世に残る作品に費やした隆子の豊かな晩年は、われわれに生きる勇気を与えてくれる。実り多い研究会であった。 (文責・塩谷千恵子)
(『昭和女子大学女性文化研究所 ニューズレター』bQ0。1995年6月25日発行)

【深沢追記】
 このレポートをまとめて下さったのは、当時、女性文化研究所の研究員だった、塩谷千恵子氏である。塩谷氏は、『近世初期文芸』第15号(平成10年12月)に「家族物語としての『山椒太夫』(一)――説経正本間の推移――」などを発表されていた研究者で、時々、私の研究室に見えられていた。
そんな折に、『井関隆子日記』が話題になり、井関隆子とは、どんな女性ですか、この日記は、どの程度の価値があるのですか、そんな質問をされた。そう言われてみると、私は、この女性の特色や、この日記の価値について、余り発言してこなかった。発見者の私が、自分から、このくらいの価値の日記だとか、優れた内容の日記だとか発言するのは、自重すべきだと考えて慎んでいたからである。
10年間、この日記に時間を消費した、その行動で判断して欲しいとも思ったし、私の小さな才能で、この日記の価値を限定すべきではない、そう考えたからである。
塩谷氏は、是非、女性文化研究所の研究会で、本音を話して欲しい、そう依頼されて、腹をくくったのである。当日は、大学院の長谷川強先生や、日本文学科の杉本邦子先生、大塚豊子先生もお出で下さり、恐縮しながら、発表させて頂いた。
これは余談であるが、後に、文春新書から、『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』を出した時は、余りに褒めすぎて、読者からきついコメントを頂いた。
今日、屋根裏の物置を整理していて、この冊子が出てきたので、紹介することにした。
                             (平成27年3月)