井関隆子の女性像・2


                              深沢 秋男


●私は、2006年7月1日、江戸東京博物館で行われた「江戸の女性史フォーラム(東京)」で、「井関隆子の女性像」と題して報告した。関西大学の藪田貫氏が代表で、江戸東京博物館の畑尚子氏の依頼によるものである。フォーラム当日は、100名以上の研究者が参加し、緊張して、1時間の報告をした。内容は、以下の通りであるが、1時間の報告のあと、30分ほどの質疑応答があった。ここでは、質疑応答の内容の概略をまとめておきたい。

井関隆子の女性像

【1】 井関隆子の生涯

【2】井関隆子の著作
 1、『井関隆子日記』
 2、『さくら雄が物語』
 3、『神代のいましめ』
 4、『いなみ野』
 5、『井関隆子長短歌』

【3】井関隆子という女性
 1、確かな歴史意識と人間認識
 2、江戸・天保期の批評者
 3、豊かな学識と合理的見識 
 4、旺盛な好奇心と執筆意欲
 5、旗本夫人の誇りと気品
 6、敬愛された母・祖母

■報告の後、参加者から出された意見・質問等 

@ 天皇家と幕府の関係について
質問 
井関隆子は、批評意識が強く、それは、晩年まで衰えることが無かったといい、没する直前に、天皇家と幕府の関係について、長々と論評している、とのことであるが、その内容は、どのようなものであるか。 
深沢
天皇家と幕府の関係は、徳川時代を通して、経済的な力関係もあって、様々に影響しあってきたが、隆子は、没する直前の、天保15年9月13日に、この種の論評を長々と記している。
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そもそも、今、朝廷には、万の政事共、みな関東に任せ給へれば、……是其もとは皆朝廷の御政事にして、私に行はせ給ふにはあらず……
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と、あくまでも政権は天皇のものであり、幕府はその代理であって、勝手に行っているのではない。と委しく述べている。隆子は、宗教のことでも、また、当時、刊行された、国学者の著作に対しても、かなり詳細に論評を加えている。

A 隆子の夫の井関親興に関して
質問
私は新見正路の研究をしている。隆子の夫の親興は、新見家の出身である。この親興に関して、もう少し、説明して欲しい。
深沢
私は、この親興に関しては、『徳川実紀』『柳営補任』など、基本的な資料によって調べているのみである。親興は、幕臣として、可もなし不可も無しの人物だったと思われる。61歳で没しているが、臨終の折、病気が回復したら、今度は、公の仕事ではなく、お前と同じように、本を読んだり、歌を詠じたりしたい、と言い残したが、それが、いとおしい、と隆子は記している。新見正路に関しても、調査しようと思いながら、実施していない。先生は、新見正路日記を研究されているのであれば、その新見正路の日記の中に、隆子の事が出てくる可能性もある。是非、その点にも留意して研究して欲しい。
質問とは別のことであるが、隆子は、親興が亡くなる時のことを回想して、しみじみと夫のことを語っている。これは、人間洞察の面でも優れたものがあり、実は、この条が、大学センター入試に出題された。

B 井関隆子は、読者を意識していたか
質問
この日記には、挿絵も入っていて、絵がとても上手い。プロのような絵である。隆子は、この日記を執筆する時、公開されることを意識していたのか。
深沢
隆子は、この日記は、世間に公表するものではなく、井関家の子孫の人々に、天保時代の井関家は、こんな様子だった、と伝えるのが、目的である、と日記の中に書いている。しかし、それは、本心ではない。隆子は、いずれ、この日記は公表されるであろう、と予測して、執筆している。この日記は、1日1日、記されているが、後で、内容を推敲して清書されている。およそ64万字の分量であるが、この中で誤りは、10数箇所に過ぎない。極めて丁寧に清書されている。
また、天保11年は4冊であるが、12年以後は、各2冊になっている。これは、年中行事などの重複を避けたためである。これも、読者を意識しての処置だと思われる。
実際には、井関家・庄田家のことを、忠実に、丁寧に記しているが、それは、単に井関家や庄田家の、母子、兄弟、姉妹、日常生活、の記録に止まらない。個を描いて一般化されている。ここに、文学としての価値もある。作品として自立している、とも言える。

C  日記と創作の相違
質問
井関隆子には、『日記』の外に、『神代のいましめ』『桜雄が物語』などの作品があり、その内容、表現などに、余りにも違いがある。これは、果たして、同じ人間の作品と言い得るのか、その点、疑問に思う。
深沢
御指摘のように、『日記』の内容と、創作の諸作品とは、表現方法も、内容もかなりの違いがある。しかし、これらは、井関隆子の書いた作物として、違和感はない。平安朝の散逸物語に想を得て、『神代のいましめ』は創られている。古典から構想を得て、それを自分の作品に利用する、そういう能力が隆子にはある。隆子は、『日記』の中に、大量の古典を引用し、利用しているが、古典を引き写していない。古典が、一旦、隆子の中に吸収されると、彼女の知性と感性を通って、一味違ったものとして、表現されている。ここに、隆子の、古典吸収の質の高さが伺える。
『日記』の中にも、印旛沼開鑿批判をテーマにした条、お化け銀杏などの、空想的な創作が収められている。
〔イセキタカコ〕は、最初、存在しなかった。『日記』があり、創作があった。その作り手を手繰っていって、そこに、〔井関隆子〕が在った。という、経過をとっている。
井関隆子は、多才だなあ、こんな日記も書き、こんな作品も創り、1日100首の歌を詠じ、10日間連続して詠じた、1000首の歌を、賀茂真淵の県居神社に奉納している。大した女性だなあ、というのが実感である。

D 『井関隆子日記』の原本について
質問
この『井関隆子日記』の原本は、どこにあるのか。
深沢
この日記の、自筆原本は、現在、昭和女子大学図書館に所蔵されている。私は、この原本を利用して、『井関隆子日記』全3巻を、勉誠社から出した。しかし、全然売れなかった。出版社の倉庫にあった本を、特別価格で引き取り、昭和女子大学の講義・講読のテキストに使用した。現在は、ほとんど、在庫は無い。
勉誠社の本が絶版状態ゆえ、ある出版社に文庫として出してくれないか、と打診したが、著者が無名ゆえ、無理である、という回答だった。
ある新聞社から、現代語訳を出したいという話があったが、これは断った。
最近、この『日記』を基にした新書を出すべく、原稿をまとめている状態である(後に、文春新書の1冊として発行)。

●以上、改めて、追加しておく。
          2016年10月16日