『井関隆子日記』解説
 
 
    一、書 誌
 
所蔵者  桜山文庫(鹿島則幸氏)。
装 訂  袋綴。大本。縦262mm×横190mm(第一冊)。
表 紙  第一冊〜第三冊は白茶色布目表紙。第四冊〜第十二冊は幹色(薄黄茶色)布目表紙。
匡 郭  なし。一行の字の高さは215mm前後。
題 簽  第一冊〜第三冊は縹色、第十一冊・第十二冊は濃縹色の書題簽(縦191mmX横32mm、第一冊)に、他は直接表紙に次の如くある。
    第一冊…「天保十一年   壱」
    第二冊…「天保十一年   弐」
    第三冊…「天保十一年   参」
    第四冊…「天保十一年   肆」
    第五冊…「天保十二年   伍」
    第六冊…「天保十二年   陸」
    第七冊…「天保十三年   漆」
    第八冊…「天保十三年   捌」
    第九冊…「天保十四年   玖」
    第十冊…「天保十四年   拾」
    第十一冊…「天保十五年  一」
    第十二冊…「天保十五年  二」
冊 数  十二冊。
墨 付  合計 九六六葉。
    第一冊…88葉。
    第二冊…99葉。
    第三冊…77葉。
    第四冊…76葉。
    第五冊…100葉。
    第六冊…94葉。
    第七冊…105葉。
    第八冊…66葉。
    第九冊…75葉。
    第十冊…71葉。
    第十一冊…84葉。
    第十二冊…31葉。
    外に、第一冊巻頭に遊紙一葉を切り取った痕跡がある。また第十二冊の九月と十月の間(28葉と29葉の間)に白紙一葉、巻末に遊紙一葉がある。
行 数  毎半葉11行。
字 数  一行約29字。
句読点  「、」
挿 絵  合計一八図。
    第一冊…2図(11葉表・11葉裏、24葉表)。
    第二冊…5図(14葉表、31葉表、34葉裏、59葉表、69葉表)。
    第三冊…3図(13葉裏、19葉裏・20葉表、53葉表)。
    第四冊…5図(5葉表、7葉裏、22葉裏、26葉表、38葉表)。
    第九冊…2図(59葉表、62菓表)。
    第十冊…1図 (6葉表)。
蔵書印・識語  第三冊を除く各冊第1葉に「桜山文庫」の朱印。第一冊前表紙右上に、白紙を貼付「丙十八 十二」と墨書、表紙に直接「五十八号 共十二本」と朱書。
   縦262mm×横174mmの白紙が添付されており、墨書(一部朱書)にて鹿島則文氏の次の識語がある。
 
   「距天保十五年絶筆三十八年距明治維新斯書散逸十四年(朱書)/この書は明治十あまり五とせ神道事務局の幹事てふ職にてしはし都にかり住せしころ/十一月十四日に神田淡路町壱番地斎藤兼吉といへる書商より七円にてあかなひしを家に帰/りて後つはらに読たるにかく心して書記せし人の名のおほろけになんあなれはいとゝ残りおしく其/子孫の公に仕へしさまをもて天保の武鑑に正し又其家屋敷の飯田町なるをたよりに東京(朱書にて「東京」を「江戸」と正す)切絵図を考/へとかくして井関氏なることはあかし得たれともなほたと/\しきこゝちせらるゝに今年都にまう上りついてに/小石川戸崎町喜運寺にたつねゆきて井関氏かおくつき又その寺の過去帳をさへみるに井関前総州守親経/は安政五年五月同前総州守親賢は元治二(朱書にて「元治二」を「慶応元」と正す)年十二月にみまかりしよし記せりその親経の父弥右衛門といへるは文政/九年にみまかりぬさてはこの日記かきし人のまたいふかしくうたかはるゝふしおほきに喜運寺の主のつ/まにはかりとふにその親族戸張氏神田かち町卅七番地にわひ住せれはそをとひて尋ねはしるよしあらめと言/にやかて車はしらせてそのあり所をさくりおとつれてきくにやう/\記せし人をさたかにしえたりそは弥右衛門と/言人の妻庄田氏の娘にて隆子となのれる人にそありける弥右衛門うせし後古学を専らにして歌よみ文かき/古事記伝を手にうつし朝夕にいたつき学ひて十年はかりのほとにおさ/\世にゆるさるゝ学者とはなりしとそ/かくて天保の十五年冬(朱書にて「弘化元年ナリ」と注)病こと三日ほとにてうせしかその書遺せしものは箱に納めてかりそめならすものせしも明治/の初めの世の中さはかしく親族も駿河にうつりぬれはそのころ何人か盗みいたして売ひさきけんとむかししのひてしめり/かちに物語りぬけにこの日記は十一年より十五年十月まて一日もおこたらす物せられしをやかて病ころまてかゝれし/とおほし誠に男もかく長き月日をたゆみなく美はしく書いてんはいかにとおもはるにまして女子の筆のあとには/古しへ人の清少納言紫式部にも立おとるましう思はるゝになほその人のしたはるゝ心地そせらる然はあれといたつ/らに紙反古の中に入て見る人もなくなりたらんには口おしかるへきにおのかこと書好む人の手にいりてかくまて調へたつ/ねて書庫の中におさめられたらんは書し人もいかにうれしとこそおもふならめとそのゆへよしをかいつけおくになむ/明治十五年冬十月廿九日相模大祭事の日雨ふる□との下に 桜宇主人鹿島則文/桜宇(朱印陰刻)」
 
 第一冊後見返しに、縦217mm×横169mmの白紙が貼付されており、墨書にて鹿島則文氏の次の識語がある。
 
「(右上に切絵図の写しがあり、その下に)第二ノ巻 天保十一年六月九日/ひんがしの隣は榊原ノ某/とふ人すめり此ノ中垣/いと間近きに其垣に添/ていみじう大きなる/胡桃ノ木あり云々」
「寺ハ小石川戸崎町禅宗/喜運寺」「井関弥右衛門菅原親経――下総守/天保十二年六月ヨリ御広敷御用人/此人ノ妻ハ戸田氏栄ノ姉/後浦賀奉行伊豆守ナリ――親賢次郎右衛門/御小納戸 紋丸ノ内二劔梅鉢」
更にその上に、縦158mm×横89mmの白紙が貼付されており、墨書にて鹿島則文氏の次の識語がある。
「天保十二年丑四月以前ノ大成武鑑所載//井関縫殿頭/父弥右衛門 二百五十表/いゝだ丁/天保八年八月ヨリ二丸御留守居//井関貞之丞/父縫殿頭 三百表/いゝだ丁/天保十年正月ヨリ御小納戸衆//右之通相見エ候」
 
第十二冊本文最終葉裏及び巻末の遊紙に墨書にて、鹿島敏夫氏の次の識語がある。
 
「井関氏 菅原姓 紋丸ノ内劔梅鉢 屋敷飯田町 菩提所小石川戸崎町喜運寺//弥右衛門/禄二百五十俵/文政九年二月廿九日卒/妻隆子 庄田氏女 天保十五年冬死 智清院(天保日記筆者)//親経/縫殿頭 後下総守 妻戸田伊豆守妹栄子 号八捲斎 安政五年五月廿/五日死 天保八年八月より二丸御留守居 同十二年六月より御広敷御/用人 後浦賀奉行となり伊豆守//親賢/養子戸張氏子 貞之丞 後ニ次郎右エ門 後ニ下総守 妻養父親経女/天保十年正月より御小納戸 部屋住料三百俵 元治元年丑年十二月/廿六日死 年六十余」
「此天保日記は父君の明治十四年上京なされたる時書やにて見出られて目つらし/きものとて購れ同しく十五年十月上京せられし時其菩提所小石川なる喜運寺を/尋ね墓碑過去帳を見られ猶親賢の実家なる神田の戸張氏を訪はれ其外武鑑江戸/絵図なとを調られて此日記の筆者又其家からなと知られしものなり御日記の一/部を左に抄出す/十月七日くもる〔中略〕さてかね/\心にかゝれる井関の日記一条につき記者をさため/んと戸崎町喜運寺をとふて井関の墓をとふ草あれはてゝ薮蚊おほしさて墓碑は/前井関下総守親経号八捲斎と云安政五年五月廿五日ニ死去すと言同前下総守親賢/は元治元年丑年十二月廿六日死ス年は六十余なり妻は親経の女とあり日記にはう/まこ親賢とあり其祖父は文政九年二月廿九日井関弥右衛門とありさては天保の日記有/へくもなし寺僧をとふて過去帳をさかせるにさたかならす其子孫は静岡にあり/てさらに音信もなし只かち丁に戸張と言る人をり/\とひおとつるゝと言にさら/はそれをたつねんとて別る墓の草かり料十銭まいらす〔中略〕ひるけしたゝめ神田か/ち町卅七番地戸張某の古道具みせを出せるをたつねて井関氏の事をとふ主人の/妻忰そか娘□なよく昔話すこは親賢の実家なり井関氏は静岡にあり親賢の妻は/七十斗りにて今なほありと言その子はおさなきによりとひおとつれも久しうせ/すといへりさて天保日記のかきては文政九年にみまかれる井関氏の妻にて親経/の母刀自のよし名は隆子とて庄田氏の女にて智清院と諡せり卒中にて三日ほと/病て死せり御本丸の焼しころゆへ天保十五年頃なるべし初めはさまでよみかき/をなさねと夫死して後学問をはしめ千蔭の書をまなべりとそ古事記伝をみな写/しその外随筆せるもの凡三箱ほとありしと言瓦解後みな反古に成したるべしと/言へり日記の内の事をとふにみなあへりやう/\に作者判然せり誠に作者もおの/れかことき蔵書家にあひて心いかにうれしからんと思はるしかしなから婦人の/日記とはかけておもはさりしまことに清女にもおとらぬ人なるべし男子にて/もはつかしきこゝちそせらる〔下略〕 〔右明治十五年御上京日記抄出〕」
 
その他  角切は第一冊〜第三冊、第四冊〜第十二冊の二種類となっている。保存状態は非常に良く、虫損は極めて少ない。また、書題簽の記述、第一冊巻頭の文章、著者の没日等から判断して、本書はこの十二冊で完全本であると考えられる。
 
著 者  井関隆子(いせきたかこ)。
   原本には著者の序跋・署名等は無い。第一冊巻頭の遊紙一葉を切り取った痕跡があり、もしこれが伝わっていたなら、ここに著者に関する記述が在ったかも知れない。しかし、日記の内容を総合すると著者が何人であるかを知る事はそれ程むずかしくない。自らの歌に「源ノたか子」と記しているし、広敷用人・井関親経は子であり、家慶小納戸・親賢は孫であるという。父は大番衆・庄田安僚であり、兄は安邦であるという。著者の家・井関家は九段坂下にあり、菩提寺は小石川戸崎町の喜運寺、実家・庄田家は四谷にあり、菩提寺は本郷元町の昌清寺であるという。また、著者は巳年の生まれであり、子供の頃は五十年余り前であるという。これらの日記の内容は『庄田家系譜』『昌清寺過去帳』『井関家過去帳』及び『徳川実紀』『柳営補任』等の記述とも一致する。次に名前の「たか子」であるが、『井関隆子長短歌』 の詞書に「隆子」とあり、著者の書写本『宇津保物語考』の末尾には「天保のととせとふ年の秋なが月 隆子」と記しており、さらに蔵田茂樹の紀行文『野山の夢』に跋文を付した著者は「天保とふ歳のとゝせ冬の中ら源隆子しるす」と結んでいる。また著者の創作『神代のいましめ』について蔵田茂樹は「此一巻は井関親経朝臣の御母君におはしゝ隆子の君の筆ずさみ也」と記している。以上の点から、この日記の著者は「井関(旧姓・庄田)隆子」と断定してよいと思う。
 
書写者  井関隆子。
   原本の書写は極めて整然となされており、天保十一年二月十日の部分に重複がみられる点などから推測すると、草稿をもとにして清書したものと思われる。さらに、追加補筆の部分が同筆であり、著者自身でなけれは補い得ないような内容もあること、一字二字の誤りが生じた場合、その部分のみ紙を張替えて補修し訂正していること、この日記と同筆の写本『宇津保物語考』に「此ふみは臼井房輝ぬしのもたるをかりてうつせる也/天保のとゝせとふ年の秋なが月 隆子」とあり、同じく『恵美草』に「天保十三年三月写之 みなもとのたか子」とあること、これらの点から判断して、この日記は著者・井関隆子の自筆本と断定してよいと思われる。
 
書 名  井関隆子日記。
   原本には、書題簽に「天保十一年 壱」「天保十五年 二」等とあるのみで書名はない。したがって、この日記の書名としては、著者の名を冠して「井関隆子日記」「源隆子日記」「隆女の記」等とするか、あるいは、この日記の記された年号を冠して「天保日記」等とするのが妥当と思われる。
   鹿島則文氏はその識語の中で「天保日記」「天保の日記」とされており、私も最初これに従って「天保日記」としたのであるが、この場合類似した書名が他に多いためこの日記の独自性が失われるように思う。その後の調査で著者についても大体の事が明らかになってきたし、内容的に考えても、この時代の記録というよりも、この女性の記者の作物という点に注目すべきだと思われるので、現所蔵者・鹿島則幸氏の御承諾も得て「井関隆子日記」とすることにした。鹿島則文氏の識語は著者に関する調査の過程でのものであり、この書名変更の事はお許し下さるものと思う。
 
 
    二、『井関隆子日記』について
 
 『井関隆子日記』(以下『日記』と略称)の記者・井関隆子は、江戸九段坂下に屋敷のあった旗本の主婦で、年齢は五十六歳から六十歳までの日記である。期間は、天保十一年一月一日から十五年十月十一日までの約五年間。日記であるが毎日記されている訳ではなく、例えば十一年は三五五日間の内、一八五日について記されており、一日の分量も小は二行程度のものから大は十二葉に及ぷものもあり、必ずしも一定はしていない。各年の分量は最初の十一年が最も多く四冊、以後は各二冊と半分になっている。これは十二年以後、年中行事などの記述を省いたためである。
 内容は、その日の天候、地震、四季折々の変化、その日その日の出来事、行事、種々の見聞、随感、幼い頃・若い頃の追憶、人物・社会・政治・学問・文学等に対する批評、折々に詠じた和歌等々が、著者の意のおもむくままに記されている。
  むね/\しきことは公に記され、はたさらぬ事どもゝ、世の人の賢き筆におのがじゝ記すべかめれば、とりたてゝ何ごとかはいはれむ。然れどもつれ/゛\なるものゝすさびには、はかなき事をも記しつゝ、心をやるよりほかの慰めなむなき。今年は天保てふ歳の十年あまり、一年になんなれりける。いでやこの大江戸にて、天の下の大政事、しろしめしはじめさせたまひし、其かみより引つゞき、御代/\の平らに治まり、いや年のはの御栄、いへばさらなる中にも、今のおほん上(家慶)太政大臣(家斉)の御譲りうけさせ給ひて、若君(家定)はた去年初冠らせたまひ、三所の御前並びたゝせ給へるためしなき御有様、新しき春の光りさへ加りて、天の下ゆすり、祝ひことほぎ奉れる年のはじめの、いみじう愛度御事は、賢き筆にもえつくすまじきを、ましておれ/\しき心にかたはし記さんもおよびなく、中/\に畏くてなむ。かくたぐひなき御世に生れあひて、子(親経)も孫(親賢)も立ならひ仕うまつりて、此家にはいまだためしなき、あつく広き御恵みかうぷりぬれば、いふかひなき老の身も、あけの袂みどりの抽におほはれて、おもふことなく心やすきに、今朝あさ日のさしのぼる空を見て、
    玉くしげあくるけさしも君が代の千世にかぞふる日のはじめ哉
 『日記』はこのように書き始められている。夫・親興に先立たれて十三年、家庭の中は、子・親経(二丸留守居)も孫・親賢(家慶小納戸)も健在で、特にこれといって為す事もない、そんな著者は、古典の世界に遊び、歌を詠み、そして、この『日記』を記すことが生活の全てであったようである。
  今己がみじかき心、つたなき筆して書くことは、世に散すべき物ならず。こゝの幼き人の、其子どもなどの末の世に、此家の今の有かた、世の中のことなどもいさゝかしらむためにとて記しおけど、かゝる反故どもは紙魚の住かはさるものにて、鼠のうぶ屋にやひかれん。よしさばれ、せん方なさのすさびになむ。(11年2月12日)
といって、この『日記』は自分の子孫のために記しているのであり、世間の人の目にさらすべきものではないとしているが、これはその前の、
  いにしへの哥に詠みたる事なしとて、名のいやし気なき物は、哥に詠み板にも彫りおかまほしきことになむ。
以下の文章に照応して生まれた、著者の自省の言であるといえる。『日記』全体をながめても、殊に自分の子孫にのみ語りかけ、伝えるという点はみられない。むしろここから、著者は初めから人に読まれる事を想定して記している事が知られるのである。
  古き世の物語文どもを見るに、其かみは世のならはし人の有様など、ありのまに/\おもしろうもをかしうもとりなし、書出せる物になんあるらし。さるを世のいたう移りもてゆくまゝに、人の心こそさのみは変らざるらめ、世の掟よりはじめ、人のたゝずまひも、古とは異なる事あまたにて、大方のさま違へることなん多かるべき。然るを今文書物語など作らむにも、たゞ古のおもむきにのみならひて、今の愛度御世の有様ども記さゞらんは、あかず口惜しきわざになんあるべき。(11年3月3日)
 
 『日記』は、当時の国学者が多く用いた、いわゆる雅文で記されているが、この文章でもわかるように、内容は現実社会の種々の出来事を積極的に、そして自由自在にとり入れている。それはこの熟達した文章力があってはじめて可能であったと思われる。
 『日記』には、元旦、年越し、鏡開き、十四日年越し、初午、雛祭り、出替り、更衣、灌仏会、流鏑馬、端午の節句、両国の川開き、山王祭り、七夕、四万六千日、草市、廿六夜待、十五夜、重陽、十三夜、神田祭り、玄猪の祝、子祭り、宮参り、事始め、煤払い等。また、桜の花見頃の上野・隅田河・牛が淵・牛嶋・早稲田等の様、牡丹の谷中・北沢村、巣鴨の菊、浅草の見せ物、吉原の乾店、両国・佃島の釣り舟の様等々この期の江戸の様子が所々に活写されている。
 この天保十一年から十五年までの五年間は、歴史の上からみても問題の多い時期であるが、『日記』には政治の中枢としての江戸城中の動静がしばしば記されている。これらは主として、親経・親賢父子よりの聞き書きであると思われるが、『徳川実紀』『柳営補任』『徳川幕府家譜』その他の記録類と比較してみると、この『日記』の記述はかなり正確であると言い得る。
 記す内容は、将軍及びその一族の行動、幕府の諸政策、大名の転封、旗本の任免、城中での事件等々であり、これらの中には従来の公の記録にみられない他の一面が伝えられている。十二年閏一月に家斉が没すると首席老中水野忠邦は天保の改革に着手し、家斉時代の政策を次々と改めてゆくが、十四年七月の上知令の失敗から閏九月その職を解かれている。『日記』にはこの間の様子が詳細に記され、忠邦への厳しい批評も加えられている。
 今、一例として、この時期に他界した徳川家の主要人物の没日について記すと別表の通りである。(HTML版では別表省略)具体的には『日記』本文を参照して頂けば解る事であるが、家斉に関する部分のみ引用してみたい。家斉の没日は現在のところ、どの歴史書も辞典類も十二年閏一月晦日というのが通説である。これは『徳川幕府家譜』の「同(天保)十二辛丑年閏正月晦日薨御」や『徳川実紀』閏一月三十日の条の「大御所御危篤の御ありさまなるとて。群臣総出仕ありて御けしきうかゞふ。辰刻ばかりに遂に 大御所かくれさせ給ふ」等の記録に従ったためであろうと思われるが、『日記』には次の如くある。
  此ほどいみじき御気色におはしますとて御薬師かたぶき申、御方の人々はいかに/\と打歎くなど聞えしが、たちし七日の夕日のくだち、ひかりかくれさせ給へりとほの聞ゆ。後の御おきてども大方ならぬ御事なめれば、世に秘させたまひて未だおはしますに変らず。上もたび/\わたらせ給ひて何くれの御沙汰どもあめり。はた御祈よりはじめ日毎の御使、例に変らずといへども、大方世にもれ聞ゆめれは、ゆゝしう畏さにおのづから打しめり、物の音たつる人もあらざるべし。(閏1月10日)
  かの西の大殿の上の御なやみの事、昨日あまねく世にしらしめたまふ。今日なべての人々御気色うかゞふとて参上れり。(閏1月20日)
  廿八日打つゞき空の気色さへはれ/゛\しからず、をり/\雨ふりぬ。今日も御気色うかゞふとて、西の大城に人々参上れり。此ごろ梅のはな盛也ときけど、かの御ことに憚られて心をさへにやりかねたり。(閏1月28日)
  晦日すこし曇りぬ。かの御ンこと世にしられむは今日なめりといひさわぎて、此ほどより軒の板間垣のくづれといはず、そこねたるわたりは急ぎつくろはせ、はた食物よりはじめさりがたき物はみな求めあへり。さるは商人もなべて、しばし生業をやめ、打ひそみをるめればとて、さるまうけをなすなめり。西の大城には昨日より御病急におはしますとて、上俄にわたらせ給ひ、さらに御薬の御事よりはじめ、さるべきかぎりの御おきてども仰せおこなはせ給ふなど聞えしが、今日辰のくだちかくれさせ給ふ御こと、あまねく天の下にしらしめ給ふ。都への御使は御遠侍に仕うまつれる某くれがし二人、いそぎ旅だちぬとぞ。其外国々へつげ給ふ御使、公私といはず、四方八方にはせちがふ様あわたゞしう、誠に天の下ゆすりて、いみじとはおろか也とぞ。紀の殿も一日おはし付ぬとか、尾張ノ大納言殿水戸の中納言殿、其外の君だち御族の御方々みな参上らせ給ひ、司々の人々も、井伊の中将よりはじめ、残るなう所せきまで侍らひ給ふ。御子たち中ら過て失させ給へれど、猶多かる君だち、さらぬ御わかれにくれまどひ給ふめるに、はたあらたまりたる今日のいみじさに、さらに御秋もぬれそはり給ふめり。(閏1月晦日)
  今日は例のよろこび申にことかはり、御気色うかゞひ奉るとて大城に集ふ人多しとぞ。あるじも参上りぬ。…(中略)…御喪にこもり給ふ御かた/゛\多かめるに、天のした高きみじかき仕うまつれるかぎり、月代そらず髭だにはらはず、日数はそれ/゛\の御おきてあり。こゝにも御ン三七日のほどは、やつれたるまゝにて仕うまつりぬめり。御墓は芝の御寺なりと聞えしが、俄に上野に定りぬとぞ。さるは大御台所の御ねがひによりて然りとなむ。後の御わざ御墓のいはがまへなどすべていみじき御事共なれば、御葬は日数経ぬべしと聞ゆ。(2月1日)
  廿日昨日いみじう風吹おそろしかりしが、今日はやみぬれど、空の気色はれ/゛\しからず、おもひなしにかあはれ気なり。きのふけふ大路に人おと聞えず、家々に煙たゝず、たゞむら鳥の声のみ聞えて、しらぬ御山に入けむもかゝるらむ。午のくだち御葬也と聞ゆ。古き御あとによらせ給ふめれど、いにしへよりも猶こと加りて、いみじき御事まねばむは中/\浅かるべし。けさ上、右大将の君にも西の大城へ渡らせ給ふ。…(中略)…御内通りは、山里吹上より、矢来の御門まで二十町斗のほどたゝみ敷わたし、空に雨おほひし、皆白栲にかざりまつりて、御柩の御事引奉ることゝぞ。夫より御輿にすゑ奉り御読経有て、竹橋一ツ橋筋違などいへる御門々、ちまたはさら也、御山の内までかため、さるべき人々うけ給りぬとぞ。…(中略)…御霊屋は数の限りあればか建られず、先つ御祖のと、一つ殿に座さしめ給へりと聞ゆ。(2月20日)
 廿一日天気静也。きのふいさゝか雨降りしが夕付てやみぬ。今朝御気色うかゞひあり。御定によりてこゝの人々も月代そりぬ。かの御葬、けさの卯のはじめまでに、事無ふはてさせ給へりとぞ。(2月21日)
 
 家斉は閏一月七日に没したが、幕府は十九日に病気である事を公にし、晦日にその死を公表したというのが事実のようである。また『日記』は家斉の墓所も最初芝増上寺の予定であったが、御台所の願いによって、急遽上野寛永寺に変更になったと記している。さらに、西丸奥医師筆頭の吉田成方院が後日咎めを受けるが、その原因について、
  吉田成方院と聞ゆるは、西の大殿の一の御薬師にて、又ならぶ者なかりしが、御病おもらせ給ひては、御枕のほとりをさらで常にさぶらひしに、いかなるおこたりならむ、いまはの御とぢめをえ知で、いつかきえいらせ給ひて後、人の見付奉りしに驚きけるなど、其頃沙汰しけるが、同じう御咎あり。(5月15日)
としている。以上が家斉死亡に関する『日記』の記述であるが、『徳川実紀』『徳川幕府家譜』の記録との間には、かなりの相違がある。別表からも解る如く、『徳川実紀』に記す没日は、泰姫・若姫を除けば、実際に死亡した日ではなく、その死を公に発表した日であると言えそうである。暉姫は五月四日に没していると思われるのにもかかわらず、『徳川実紀』では七日の条に「この日暉姫君御けしきすぐれさせたまはざるにより。鴈間詰。奏者番まうのばり御けしきうかゞふ。」としているし、家斉は閏一月七日には、すでに他界していると思われるのに、『徳川実紀』は十三日の条に「大御所御不予により高家大沢修理大夫御使して。日光准后に御祈祷科銀五百枚。純子十巻をおくらせらる。」とし、さらに十九日には「大御所御不予によて使番川勝舎人上使として。増上寺方丈に御祈祷料として銀百枚を遣はさる。」としている。また池田斉訓は『日記』によれば、天保十二年六月九日に没しているが、『徳川実紀』では七月三日と九日に、二度も見舞いの使者を遣わし、然る後、七月十三日に没したと記している。とかく信じられがちな公の記録にこのような虚構があり、一女性の日記に真実が伝えられている訳である。
 
 著者は、真淵・宣長・千蔭等の著書について学んだため、その、ものの考え方には国学的思想が大きな影響を与えているように思われる。したがって、仏者・儒者には概して好感を示さず、それらに対する批判には厳しいものがみられるが、さらに、それは「かいなで」の国学者・歌人にまで及んでいる。(11年2月26日の条など参照)具体的な一例として、国学者・林国雄への批判(11年11月6日)を引用したい。
  今の世の人さま/゛\物の考へなどもし、あるは哥の上てにをはなど、詳しきがうへにも、猶みづから思ふすぢなど考へそへ、はた物の註釈など次々出来つれば、初学のともがらには、いとたよりなむよかめる。然れどもかゝる物識人の中にも、其本性により、己が思ふすぢをたてゝ、ひたぶるに傾きたるは、中/\に僻事も出くるに歟。かの玉河の水上たづねたりといひし、林の何がしは、五十韻に詳しとて其ことにつのり、阿伊宇於の文字は、古言にはかならず省く事とかたよりおもひ、…(中略)…吾だけう世の人をいひおとして、詞の緒環といへる書を著したりき。
この『詞緒環』を読んだ著者は、不審の点が多いので手紙で問合せると、その返事に「えもいはぬしれ/゛\しき事ども」を書いてきたので、再度問うことはしなかったという。そして、
  (この林国雄は)昔こゝにも度々来て哥よみ文講じなどせさせしが、ともすれば例のかたよりたるくせのみ常に言ひたりしを、此者一とせ身まかりぬと聞つ。世に長からましかば、はたいかなる僻事共をか物せましを、とく失たるなむ、いさゝかはうしろやすかめる。
と評している。内容は天保九年刊行の林国雄の『詞緒環』を、宣長の『玉霰』との関連において批判したものであるが、前年二月に没した国雄への批評としては、極めて厳しいものと言わなければならない。その他、『扶桑国号考』の著者・平田篤胤に対する批判(13年3月18日)、市川匡麿の 『末賀能比連』・宣長の『葛花』・沼田順義の『級長戸風』・林文康の『ますみの鏡』による論争への評(15年9月18日)、荒木田久老の『万葉集槻の落葉』への感想(13年3月18日)等々が記されている。
 また、著者は歌を能くし、『日記』には長歌をも含めて八百余首が収められている。『万葉集』『古今集』を好んだようであるが、収める歌は、この時代の一般的傾向であるが、観念的で、美意識も型にはまっており、伝統的な歌語をとり入れて一首にまとめたものが目立つ。ただ、その中にも新しい言葉によって詠もうとする努力はみられ、清新な詩情を素直に歌ったものもある。
 十四年十一月五日、著者は杉嶋勾当に短編物語を創って与えている。前田夏蔭の文会に出すものを杉嶋に依頼されたからである。分量は四十四行、内容は幕府の印旛沼開鑿を暗に批判したもので、これは杉嶋の発案であるが、この内容に著者が賛同していた事はいうまでもない。「今めかしき事を雅かにとりなさむとするに、みじかき筆のあさき心には、はかなうひとひらの文といへどもあやしう手づゝにこそあらめ、されど其つみ己が身におはぬなむうしろやすき。」と言っている。この工事は、水野越前守を筆頭に、町奉行鳥居甲斐守、勘定奉行梶野土佐守、目付榊原主計守、同戸田寛十郎、勘定組頭五味与三郎等が中心となって進められたが、この中の戸田寛十郎は家刀自(親経の妻)の兄であり、しばしば著者の家を訪れ、工事の様子を伝えている。この年の九月水野忠邦は罷免され、工事も中止された。この「今めかしき」出来事を著者は物語の中にとり入れたのであろう。その他、落語『品川心中』の原話かと思われる、品川の遊女と武士の心中(11年2月21日)や、旗本・春日左門と同・赤井某の妹との心中(11年11月17日)等は、当時の事件の顛末を詳細に記したものであるが、六葉半、五葉半という十分のスペースをとり、会話を入れ、男女の心理をも描いているのであり、これらも一種の創作と言えない事はない。さらに、十四年一月晦日の条に、
  (佐渡の蔵田茂樹が)一年こゝへまでこし頃見せつる文の中に、神代のいましめと名おふせたる、かくれ蓑かくれ笠の物語、あるが中にこゝろにそみたりとてこひおこせたれば書てつかはしぬ。
と記しているが、この『神代のいましめ』は、平安朝散逸物語の一『隠れ蓑の物語』に想を得て成った創作で、最後の佐渡奉行・鈴木重嶺の「翠園叢書」(松本誠氏所蔵)巻二六に収められている。
 また、『日記』には古典等に対する、短い批評や感想は所々に記されているが、今は『花月草紙』についての批評を紹介したいと思う。著者は、これより前、十五年三月二十一日に人から借りて書写し、同様の感想を記しているが、次に掲げるのは、十五年八月二十九日、子の親経の求めに応じて認めたものである。
  花月と名おふせつる此文は、己が幼かりつる頃大政事ことゝり申され松平越中守と聞えて世の人今も其おきてを仰ぎぬる、従四位ノ少将定信主の物せられし文也。此父君は田安中納言宗武ノ卿と南聞えつる、其三郎にあたり給ふめり。人の家を継て公に仕うまつられ、さがなき人をも教へさとし普く憐れみ深かりしかば、天の下押並て打靡きつゝ其うつくしみを慕はぬ人社なかりしが、程なく致仕せられて後も、白河殿とたゝへつゝ人皆心よせたりき。いでや此文のさますゞろごとのやうなれどはかなきこと或はあやしきこと、世の中にあらゆることを物に譬へ事によせ人の教へともなりぬべきふし/゛\こゝのも唐のもあまた書まぜられたるに、をかしう目とまる南多かりける。本より唐ざえありて手などよくかゝれ、かつやまと心もなべてにはあらざりけむ。こをすぎ/\見もてゆくに、さはいへおのづから韓心になづみたる事もまじれゝど、なほ一ふし有て近き世にいにしへ学びとて物する人の文に似ず、はた雲の上人の筆のすさびにもたがひて一つの丈高き姿なむ有ける。そも/\いにしへの文ども誰がすさびとも其人え知ざるなむ多かるは、己が名を求めざる雅たる人のしわざにこそありけめ。此花月もそれにならひて咲花の匂ひをつゝみ照月の光りを覆ひ誰がわざとも知れぬさまに物せられけむかし。然るにあかぬことには言の葉のとゝのはざるあるは自他のまぎらはしき処々まじれる南玉に疵ありとやいふべからむ。
 
 以上が『日記』の内容の概略であるが、前にも述べた如く、著者は初めから人に読まれる事を想定して筆を執ったものと思われ、著者にとって、日記を記すという事は、身辺の雑事や、社会的諸事象をそのまま記録する事ではなく、それらの「今めかしき事を雅かにとりな」す、つまり、雅文によって著者らしく表現する一種の創作であったとも言える。しかし、その文章は、美文を成すことに決してとらわれてはいない。意図することを思いのままに表現し得ている。その意味でこれは、単なる記録・日記の域にとどまるものではなく、日記文学として、今後検討されるべき価値を十分もっていると思われる。
 近世の日記文学に関する研究は、決して進んでいるとは言えない。檀上正孝氏は「近世の日記文学」(『文学語学』第49号、昭和43年9月)で、
  近世の日記文学についての研究は、現段階においては、なお概論的考察の範囲にとどまっているもののようで、個々の作品に対する精緻な研究は、まだほとんど見られない状態である。
と述べておられる。それは、この時代が秀れた日記文学に恵まれなかったという事とも関連しているものと思う。
 真下三郎氏は「近世の日記文学」(『日本文学の全貌』昭和25年刊)において、近世の日記全般について考察を加えられたが、その論考を次の如く結んでおられる。
  結局近世には日記は多く残された、にも拘らず、文学には乏しい。日記を文学とするのは無理には違いないが少いのは事実である。むしろ印刷蒐集せられない他の日記、陽の目を見ないで埋れている日記の中に、もしや自照性のすぐれた文学作品が残っているのではないか。…(中略)…こういう事を思わしめるのが、近世の日記文学というテーマにおける一つの結論になるであろう。
そして、女性の日記としては、井上通女の 『東海紀行』『婦家日記』、頼静の『遊洛記』『梅●日記』、武女の『庚子道の記』等を掲げられ、
  多感なるべき彼女たちの作品は読んでみても、いかにも味の薄さ、見方感じ方の浅さを思わせるのは淋しいことである。才女には違いないが冷たさが先立って、暖かい愛情が見られない。記録は正確で眼光は人の気づかぬ細かい所にも及んでいるかも知れないが、それだけに想像も情緒も、又思想も与えられていないのが多い。いわば人間としての作者が浮かんで来ないのである。生活や環境がそうならしめたというより、やはり文芸的資質の貧困によるのであろう。井上通女の紀行も梅●夫人の日記もリズムに乏しく乾燥平板の語につきているであろう。
と評しておられる。
 井関隆子の残したこの『日記』が、近世日記文学の上で、どれ程の位置を与えられるか、それは今後の課題である。ここに収められた長歌を含む八百余首の歌と共に、多くの研究者によって分析研究される事を切に念じている。
 
 
    三、井関隆子について
 
 鹿島則文氏は『日記』の著者についての調査を、明治十五年にしておられる。幸いその貴重な記録は原本の識語として伝えられた(四二三頁参照)。これによって井関隆子についての大略は解る訳であるが、その後、私の調査し得た事を簡単に述べてみたい。
 著者の実家の庄田家は、代々徳川家に仕えた旗本であり、庄田本家三代・安勝の二男・安議を祖とする。父・安勝は采地三千石の内、二千六百石を長男・安利に、四百石を二男・安議に分知してこれを分家とした。
 著者・隆子は四代・安僚の四女として、天明五年六月二十一日に生まれた。幼名を「キチ」という。『日記』の中で、子供の頃は五十年余り前であるといい(11年1月30日、5月26日)、自分は巳の年の生まれであるといっている(11年6月23日)が、天保十一年から五十年前は寛政二年で著者は六歳、また天明五年の干支は乙巳でいずれも符合する。父・安僚は小栗信倚の四男として元文元年に生まれ、三代・安信の養女(二代・安清の娘)と結婚し庄田家を継いだ。明和二年に小普請入り、同三年に大番に列して大坂城・二条城に在番、寛政四年九月二十五日、五十七歳で没した。母は後妻で、文政九年六月一日、七十八歳で没している。隆子は父・五十歳母・三十七歳の時の子で、兄妹には、安邦・安固・利安の三人の兄と三人の姉、一人の妹があった。
 屋敷は『庄田家系譜』安議の条に「延宝五丁巳年三月十七日於四谷表大番町屋敷六百六拾坪余納領仕候」とあり、天保四年の江戸切絵図の大番町に「庄田」とあり、嘉永二年の切絵図には「庄田金之助」(今の新宿区大京町二六・二七番地辺)とあるので、代々移転はなかったものと思われる。ただ、五代・安邦が文政二年に没した後、六代安玄は身持が悪く、弟・安明と共に築地の庄田本家に預けられ、四谷の屋敷は空家同様になっていたらしい。その様は十一年五月二十六日の条によく描写されている。
 また、庄田家は初代・安議より代々、本郷元町の浄土宗・昌清寺(今、文京区本郷一の八の三に現存)を菩提寺としており、この昌清寺には過去帳も現存し、『日記』の内容とほとんど合致する。多数存した庄田家代々の墓石はその後整理され、現在は初代・安議の一基のみを残している。
 六代・安玄は天保七年に没し、弟・安明がその養子となり七代目を継いだ。安明(金之助)は天保七年小普請入り、同十一年御目見、同十四年に西丸腰物方となり、同じ十四年の六月には四谷の家を新築して本家から引き移っている。この事は当然著者の所へも知らされ、安堵の様が『日記』に記されている。
 さて、『庄田家系譜』の著者の条には次の如くある。「女子キチ 天明五乙巳年六月廿一日出生/大御番山口周防守組 松波源右衛門妻 不嫁ニ付/西丸御納戸組 井関弥右衛門」つまり、著者は、大番衆・松波源右衛門と婚約したが(あるいは結婚したが)、何かの事情で嫁がなかった(あるいは離婚した)。そして、その後、井関弥右衛門の後妻となったらしい。代々大番に列し、源右衛門を称した家に、重貞を祖とする松波家があるが、ここにいう源右衛門がその家の人物か否かは未詳である。ただ、山口周防守弘致が大番組頭であったのは、文化四年から文政元年までの十二年間であるので、この間に大番衆であった松波源右衝門と婚約または結婚したものと思われる。そして、これが破談となり、寛政九年より西丸納戸組頭を勤めていた井関弥右衛門・親興の後妻として井関家へ嫁いだものと思われるが、親興の先妻が文化九年八月一日に没しているので、それは文化十年以後ではなかろうか。仮に文化十一年とすると、隆子は三十歳、親興は四十九歳である。この最初の縁談(結婚)の破談(離婚)という出来事は、女性の著者にとって、人生の大きなつまずきであったと思われる。五年間に亙る『日記』には多くの思い出が語られているが、この間の事情に関しては一切記されていない。その傷手の深さを物語っているように思われる。
 著者の嫁ぎ先の井関家は、実家・庄田家と同様、代々徳川氏に仕えた旗本である。始祖は近江の国の住人次郎右衛門・親秀である。その嫡男・親正は下総国葛飾郡に采地二百二十石を与えられ、大坂冬夏の陣に参戦し、尾州熱田において深手を負って没している。以後、三代・親信は細工頭、四代・親房、五代・親倫は大坂の金奉行、六代・貞経は裏門切手番頭をそれぞれ勤めている。
 七代・親興(乙三郎・弥右衛門)は新見正峰の三男であるが、六代・貞経の娘と結婚して寛政二年に井関家を継いだ。この時二十五歳、持高は二百五十俵であった。天明四年将軍・家治に拝謁、寛政六年納戸番に列し、同九年より西丸(家慶)納戸組頭となり、文政九年二月二十九日没、六十一歳。隆子との間に子は無かったようである。八代・親経(富之助・次郎右衛門。縫殿頭・下総守)は文化二年十月家慶小納戸、同年十一月西丸小納戸、文政八年二丸留守居、天保十二年広敷用人、嘉永七年職を辞す。広敷用人在職中七百俵を与えられた。安政五年五月二十五日没。九代・親賢(貞之丞、次郎右衛門。下総守・肥後守)は戸張氏の男で八代・親経の娘と結婚して井関家を継いだ。天保十年家慶小納戸、嘉永四年家定小納戸、安政五年家茂小納戸、文久三年広敷用人、元治元年御役御免となる。慶応元年十二月二十六日没。
 菩提寺は三代・親信以後、小石川戸崎町の曹洞宗・喜運寺(今、文京区白山二の一〇の三に現存)である。もとは代々の墓石二十数基があったが、数度の移転の折に整理されて、現在は、嘉永五年に親経・親賢父子が再建したと思われる一基のみを存している。その墓石には初代・親秀、二代・親正に関する墓誌が刻されている。なお、喜運寺の過去帳は戦災によって焼失してしまった由であるが、幸い昭和九年に、これより転写した『井関家過去帳』が井閑家に現存している。屋敷は九段坂下の飯田町(今の千代田区九段南一目五番地辺)にあり、嘉永二年の江戸切絵図には「井関縫殿正」とある。
 『日記』の書き始められた、天保十一年の井関家の家族構成をみると、五十六歳になる著者・隆子、二丸留守居を勤める当主の親経、親経の妻(後に日光奉行・浦賀奉行・大坂町奉行となった戸田氏栄の妹)、家慶の小納戸を勤める親賢、親賢の妻(親経の長女)、親経の三女(二十三、四歳になるが縁がなく未婚)、十一歳になる親賢の長男、以上の七名であるが、この年の四月親賢の妻が女子を出産している。これに二十年来井関家に仕えている河野某をはじめとする男女の奉公人が加わる。
 隆子が井関家へ嫁いだのが文化十一年と仮定すると、この時三十歳。四十九歳の夫・親興と十三年間生活を共にした事になる。文政九年に親興が没した後学問を始めたという(鹿島則文氏調査)が、『栄花物語』などは二十年余り前から所蔵していると記している(13年5月17日)ので、すでに親興在世中から、かなりの蔵書を所有し、古典に親しんでいた事が知られる。また、親興が没する前年に子の親経は二丸留守居にまで進んでおり、家庭は安定していた。さらに親経の妻(服部氏)が文化十四年に没したため、後妻(溝口氏)を迎えたが、これも天保六年に没し、さらに戸田氏の娘を迎えている。このような家庭の中にあって、著者は文筆もあることではあり、親経の母、親賢の祖母として権威をもって、好きな道を楽しんでいたものと思われる。
 著者は歌や古学を学ぶにあたって特定の師に就いてはいない。国学者・林国雄の講釈を聴いたり、冷泉流の女性歌人に接した事もあったが、いずれも満足できなかったらしい。真淵・宣長・千蔭等の著書を熟読することによって、古典への理解を深めていったものと思われる。ただ、この間、何人かの文化人との交流はあった。家刀自の兄・戸田氏栄は勤めのかたわら、歌を木村定良に学んでおり、一度ではあるが隆子も定良と歌を交わしている。道一つ隔てた所に屋敷のある新見正路とは親類であり、交流は深かったらしい。正路は大坂町奉行から側衆となり、五千石を食み『徳川実紀』をも記しているが、その蔵書は賜蘆文庫として知られている。おそらく隆子もこの正路の蔵書は見ていたものと思われる。また正路を介して屋代弘賢と会った事もある。著者の家に出入りして浅からず交わっている歌人に杉嶋勾当かついちがいる。盲目のため隆子から『古事記伝』『万葉集』等を読んでもらっているが、この杉嶋は前田夏蔭や北村季文・湖南の父子とも交流しており、隆子も杉嶋を通じてその歌等に接していた。佐渡の歌人・蔵田茂樹とは、茂樹が職務のため天保十年に出府した折、ある歌会の席上で知り合い、以後、隆子が没するまで文通による交流は絶えなかった。
 『日記』に引かれる主な古典は、古事記、日本書紀、続日本紀、日本紀略、万葉集、古今集、後撰集、拾遺集、後拾遺集、金葉集、詞花集、新古今集、新後撰集、続千載集、風雅集、躬恒集、草庵集、六百番歌合、土佐日記、竹取物語、伊勢物語、落窪物語、枕草子、源氏物語、栄花物語、小右記、今昔物語、台記、宇治拾遺物語、平家物語、吾妻鏡、徒然草、太平記等々であり、これらが自由にとり入れられているところに、著者の力量の程がうかがえる。また『古事記伝』を書写して学んだと伝えられているが、『浜松中納言物語』の欠落した部分を補って書写したものを『万葉集略解』の書写本と共に、家斉の夫人・広大院に親経を通じて献上してもいる。現・井関家の安吉・元御夫妻のお話によれば、代々二つの行李を大切に伝えてきたが、その中には多くの短冊、冊子本、巻物、絵、墨付などが入っていた。第二次大戦当時、東京三ノ輪に居住しており、昭和二十年二月十五日の空襲は免れたが、三月九日の大空襲で全て灰燼に帰してしまったとの事である。おそらく、その中には隆子のもの、親経・親賢のもの等が入っていたと推測されるが、惜しんでも余りあるものがある。なお、この『日記』は明治維新の動乱の折、何等かの事情で井関家から持出されたものと思われる(鹿島氏調査)が、その後、隆子の書写本『宇津保物語考』(静嘉堂文庫蔵)、『恵美草』(国会図書館蔵)が現存する事を確認し得た。これらも同様の事情から他家の所蔵するところとなったのであろうか。さらに、著者が佐渡の蔵田茂樹に書き送った中編物語『神代のいましめ』及び『井関隆子長短歌』が佐渡奉行・鈴木重嶺の「翠園叢書」(松本誠氏蔵)に収められているが、これは茂樹の子・茂時が献上したためである。以上のような経緯から『日記』をはじめとする隆子の著作・書写本が今日に伝えられたのは、不幸中の幸いであったと言える。
 著者は幼い頃の思い出として次のような事を記している。ある日、四谷・長安寺の僧が堂宇再建の資金集めに托鉢して回ると、親類の嫗が目に涙をためてありがたがる。それを見た著者は「全くかの堂の出来たらばこそしかもほめ給はめ。日毎といふ斗奉らせ給ふ物をも、うまき物などにかへてや賜べ給はむかし。」という。嫗は立腹して「あなもたいな、幼きものゝさるさがなきこといふ物かな、此子は常にさくじりおよづけたる口つきこそはしたなけれ、あなにく。」と叱りつける(11年6月8日)。また、母が非常に蛇を嫌ったので著者は折々これを打ち殺した。母は「己がためにはうしろやすけれど、女子の似げなきわざなせそ、ことに巳はおことが歳なるを。」と注意するが、これに対して著者は「己が歳に侍れば、猶己が心にまかせてむに、なでうことかあらむ。」と返答している(11年6月23日)。
 この男勝りとも言うべき性格はその後も持続されたようである。『日記』にみえる著者は、年齢の関係もあると思うが、決して女々しくはない。目先の感情におぼれず、批判精神の強い、それだけに気位の高い女性であったらしい。が、このような性格であっただけに、青春のつまずきは、それなりに著者の内部に大きな衝撃を与えたものと思われる。そして、それが著者をして歌や古典の世界へ目を向けさせる動機になったのかも知れない。松波家との婚姻が不調に終わり、井関家へ嫁ぐまで約十年の年月があったものと思われる。『日記』に述べる「はかなき事をも記しつゝ、心をやるよりほかの慰めなむなき。」「つれ/゛\なるものゝ慰めには、はかなき書より外の友しなければ、」という老いの心境は、勿論次元は相違していたであろうが、すでに青春において味わった事であったかも知れない。『日記』は天保十五年十月十一日の条を、
  十一日昨日はいさゝかむら雨うちし、はた晴き。今朝はいさゝか雲たゝず風静なり。うへ大将ノ君駒ノ原にれいの御ことゝて御狩あり。御遠侍なる氏族かれ是御供にあたれり。親賢も仕うまつりて夕付てかへりぬ。
と記している。平凡な一日の記述である。隆子は二十日後の十一月一日に他界した。卒中のため三日ほど病んだのみだという。おそらく、病の床に臥すまで『日記』は記し続けたものと思われるが、清書はされなかったのであろう。亡骸は井関家代々の菩提寺・喜運寺に葬られた。法名は「知清院殿悟菴貞心大姉」という。享年六十歳であった。
 
    四、井関家・庄田家系図
 
 井関家系図(『井関家過去帳』『寛政重修諸家譜』『井関隆子日記』に拠る。試案)
 
 
(HTML版では系図省略)
 
 
 
 庄田家系図(『庄田家系譜』『寛政重修諸家譜』『井関隆子日記』に拠る。試案)
 
 
(HTML版では系図省略)
 
 
 
    五、 井関隆子関係資料
 
(これについては、最新版が別に掲げてあるので、省略する)
 
 
 
(『井関隆子日記』上巻 より。昭和53年11月30日発行。勉誠社)
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