井関隆子作『神代のいましめ』
                                                                        深沢 秋男
 
 井関隆子は,天保10年(1839)前後に『神代のいましめ』という雅文小説を創っている。55歳の頃である。この作品の原本は,最後の佐渡奉行であった,翠園・鈴木重嶺の「翠園叢書」の中に収録されている。
 「翠園叢書」は重嶺の御子孫の松本誠氏が所蔵しておられたが,現在は松本氏から寄贈されて,昭和女子大学図書館・翠園文庫に所蔵されている。「翠園叢書」は写本,半紙本,全68巻・67冊(巻之30・巻之63は欠),袋綴。『神代のいましめ』は,その中の巻26に収録されているが,その末尾に,佐渡の歌人・蔵田茂樹の次の識語がある。
   「此一巻は井関親経朝臣の御母君にお/はしゝ隆子の君の筆すさみ也茂樹/いむさき江門に在し時御もとにまゐて/けるに見せ給ひしかいと珍らかにおほえ/つれと何くれと事しけかれはうつし/あへさりしを後に消息の序其よし/ねき侍つるにやかて御みつから書て給/へるになむ君今はなき員に入給へは/(28オ)わすれ形見とかくは物し置ぬ/弘化四年文月 松隠所」
 
 ●『神代のいましめ』の内容
 
 この一編の冒頭に「武蔵野の原」とあり,「ならぶ国なくなん栄えたり」とあることから解るように,江戸がその舞台となっている。
 主人公は公事に従事する某の少将で,経済的にも地位の上でも,また家庭の中も全て満ち足りた生活をしている。ところが,この少将は,ある時,平公誠の歌「隠れ蓑隠れ笠をも得てしがな……」を見てから,隠れ蓑笠が無性に欲しくなる。近習に相談しても効果がないので,屋敷の内の大国神に祈願したところ,その甲斐があって,これを入手する事が出来る。この隠れ蓑笠に身をかくした少将は,無二の友や,少将の所へ出入りしている歌人や,家中の全てを任せておく家長や,深い契りを交わしている女性などの所へ行き,自分に対する様々の批評や批判,また世間の人々の予想外の行動に接し,驚き,怒り,悔しがる。そんな事を続けているうちに,長男に,隠れ蓑のみを着ているところ(首のみ見える状態)を見られてしまい,それを知った少将は,変な噂の立つのを恐れて,隠れ蓑笠を神に返す,というのが,この物語の荒筋である。
 この主人公は,領地を広く持ち,将軍の覚えも第一で,世間の人々も少将に従い,全てが思いのままである。妻もしかるべき人の娘を迎え,子供も皆それぞれに立派に成人している。使用人も目やすい者を選び,遊びも雅びを好んで,歌合わせ・絵合わせなどが絶えない。住まいも立派で見所が多く,調度品も日本の物は勿論,唐の物まで集め,何不足ない生活ぶりで,少将自身「大方あかぬ事なき身」と言って,この生活に満足している。
 このように現実生活で,全ての面で満ち足りた日々を送っている人間が,次に望むことは,自分の身を隠すという如き,超現実的な望みしか残っていない。主人公は,隠れ蓑笠を入手したいと願うようになり,もしその願いが実現出来たなら,自分の思う所へ行き,知らない人の側に立ち、世間の人々の有様を見て、「公の御ため後ろめだきことをも聞出」す事が出来るであろう,もしそれが実現できたなら,さらに満足であると思う。
 つまり,隠れ蓑笠に身を隠して,世の中を見て歩く理由として,幕府に対する陰での批判を聞き出す事をあげている。これは,政治を司っている老中クラスの人物としてみれば当然の事と言えるのであり,好色的な目的が第一であったであろうと推測される,平安朝の『隠れ蓑』とは大きな違いである。
 
 ●現実社会への批判
 
 隠れ蓑笠に身を隠した少将の行動や見聞した事を整理してみると次の如くである。
1,「二つなき友」と思っている某殿の家へ第一に行ってみると,主人と共に二,三人が杯を傾けている。この
 人々はいずれも,少将の所へ出入りしている者で,楽しそうに語り合っている。
 (a),主人―「あの少将の所へはよく行っているかい? 最近,美しい妾を引き入れたそうだが,私には何の心隔てもないようであるが,少しも見せてくれないのは妬ましいことだ。」
 (b),話し相手―「見苦しいほど睦れ合っているそうだ。女性の世話は何でも叶えてくれるというので,私は長い間,それを期待して,折にふれ贈り物などしているが,未だに何の効果もない。」
 (c),別の相手―「公の人事についても,少将の気に入った者は,それ程の人物でなくでも出世しているが不公平な事だ。それに最近は,負けじ魂だけがまさって付き合いづらい。この間も碁を打っていて,私が少しでもいい手を打つと機嫌が悪いので,わざと負けたら,髭をなでながら誇らし気に笑っていたが,憎らしいものだ。」
 少将は,これらの親友と思っている人々の会話を立ち聞きして「味気なう腹だゝしう」思いながら立ち帰る。
2,その後,風邪のために公の勤めも休んだが,ようやく回復したので,今度は自分の知っている人々の家を見て歩く。
 (a),日頃,真面目で恥じらいのある者も,内々の様子を見ると,みだりで,はしたなく,まるで別人のようである。
 (b),仏の再来かとまで尊ばれている僧侶も,陰ではあだあだしき女と戯れ,酒を飲んでいる。
 (c),少将は少将で,生まれながらの色好みの性格から,他人の娘や,人妻の所へ勝手にに忍び込み,心をときめかしている。
 (d),路上で,いろいろ噂話をしている者もいるが,この少将の事を良く言う人はほとんどいない。
 (e),物を背負った行商人らしい者は「全く世知辛い世の中だ。税金は年々増えて,利益が少なく,暮らしも楽ではない」と嘆く。
 (f),旗本の身分の低い者が連れ立って歩きながら「今年の禄はもっと良いと思っていたが,悪い年よりも更にに少ない。これは政治を司る老中たちが,自分達だけ奢って,下の者を労らないからである」と批判する。
3,少将は,これらの噂や批判を聞いて,自分独りの過ちの如く受け止め,心地を悪くして,家に引き籠もってしまう。すると,次々と見舞いの人々が訪れ、見舞いの品は山のように積み上げられる。これらの品々を眺め,大した病でもないのに,心配そうに毎日様子を伺う者が居るのに接すると,少将は,意を強くして「世間は憎い者のみではない」と思い返す。
4,一日,多くの歌人達を呼び集めて歌会を催したが,席上,自分の歌が皆から賞賛された少将は機嫌をよくして,それぞれに物を与える。翌日,隠れ蓑笠に姿を隠した少将は,歌会の判者の家を窺うと,ちょうど皆で少将の歌について話し合っている。少将はそっと近づいて,会話に耳を傾けると,その批評たるや,歌会の席上の評価とはまるで反対で,ことごとに貶し,「初の五文字よ,中の句のいひかけよ,むすびの七文字よ,文のはし,いさゝかも見給はむには,かゝるつたなきこと有なんや。いかめしき御身の程には似もつかず」と少将の文才の無さを弄じている。これらを聞いた少将は「打も殺しつべく思ほせど,せめて念じて」帰る。
5,帰る途中に,若者に講義をしている学者の家がある。少将は,猶もこりずに覗くと「利によりて行へば恨み多し」という『論語』の一節を講じている。それを聞いた少将は「ただ我事」と思って,このまま聞いていたら,何を言われるかわからないと,早々に逃げ帰る。
6,このように,世間の人の心が信用できないので,自分の家の中まで不安になって,家中の様子を見て廻ると,自分の決めた掟は全く守られていず,厳禁されているはずの博奕さえ堂々と行われている。
7,そこで,家中の事は公私共に全て任せている,家老の家へ行って見ると,ちょうど,奉行をはじめ,使いの者が大勢来ている。家の中には進物が所狭しと積み上げられている。家老は妻と向かい合って何事か話し合っ
 ているので,近づいて聞いてみると,「この五百両は某殿から少将殿へ差し上げて,今度の雑役をのがれようとのものである。しかし,これは少将殿へは差し上げないで,次にまた持って来るだろうから,それを差し上げることにしよう。」と言う。妻も相槌をうって「そうそう,それがよい。これで私の望みも叶います。」と微笑む。万事がこの有様なので,少将は,人間の両面にあきれ果てて,家に帰る。
8,北の方へ行こうと思い,途中のある局に立ち寄り,日頃から深く契っている女房の所をのぞくと,女は他の男から来た手紙への返事を書いている。胸がつぶれる思いで,その書きさしの返事を盗み読みした少将は,妬ましく,また立腹する。
 
 以上が,隠れ蓑笠に身をかくして歩き廻った少将が知り得た,人間社会の裏面・実相であり,それは,少将の予想をはるかに越える事々であった。ここには,人前では,礼儀正しく,恥じらいの有る者が,自分独りになると,何の遠慮もなく,猥りがわしい行動をとる様子。この上なく尊ばれている僧侶の,陰での酒色にふける様子。課役をのがれる為に賄賂を贈る大名,また,出世のために幣をおくる旗本たちなど,社会の腐敗・頽廃ぶりが描かれており,さらに,友人や,歌人や,家老や,女房等の表裏の二面性も自ずから批判されている訳であるが,しかし,それらを通して,最終的に向けられている批判の対象は、主人公・少将自身であると言ってよい。少将への批判は,色好みで,負けじ魂のみ募り,その身分に似合わず文才もない,という個人的な面と,税金の増額からくる庶民生活の窮乏,公の人事の不公平,少ない禄に対する旗本たちの不平不満など,政治家としての公的
な面の両面からなされている。
 主人公は,すでにみた如く,将軍が第一に重用している人物であり,種々の政策批判を自分一人の過ちと受けとめる程の人物であれば,その地位は首席老中とみてよいと思われる。この幕閣第一の人物に対する批判,これがこの一編の主題であると言い得る。
 
 この『神代』は,まさに「今めかしき事を雅かにとりな」した一編と言う事が出来る。井関隆子の特色の一つは、厳しい批評精神にあると思うが,その点、この一編は注意すべき作品であると思う。
 滑稽本『人間万事虚誕計』は,前編は式亭三馬の作で文化10年に刊行され,後編は滝亭鯉丈の作で天保四年の出版であるが,これは人間の表裏の二面性を笑いの種にした作品である。隆子は同じ主題を,隠れ蓑笠という超現実的な道具を利用する事によって,現実の首席老中批判という形で一編にまとめた訳である。
 主人公・某の少将は,現実生活において,何の不足もない幸せな日々を送っている。それ以上の望みといえば,人間業では不可能な超現実的なものとなる。主人公はその望みさえも叶えられた。しかし,その瞬間から,驚き,怒り,妬み,苦しまなければならなかった。それが人間社会の真実なのだ,と作者は言いたかったのではなかろうか。
 「神代のいましめ」という題が示す如く,この作品は国学者的立場から創られている。文章も雅文体である。古典を尊重し,それらを巧みに作中に採り入れている。しかし,それは宣長の『手枕』の如く,王朝文学の補完としての筆ずさみではない。王朝文学に想を借り,超現実的な構想の上に成ってはいるが,その内容は,あまりに現実的なものである。ここに,とかく現実と遊離しがちな,いわゆる国学者流の作物と異なる,この一編の特色があり,作者・井関隆子の特色もあるものと思われる。
 
 ●主人公・某の少将のモデル―松平定信か水野忠邦か―
 
 作品の主人公は,将軍が第一に重用する人物であるから,幕府の政策を担当する,老中の中で最も地位の高い首席老中とみることが出来る。この時期の首席老中で,この作品のモデルに相応しい人物として,松平定信と水野忠邦という,2つの意見が出されている。
 松平定信説を出されたのは,新田孝子氏である。新田氏の説を要約すると,次の通りである。
 
1,『神代』の書かれた時期は,蔵田茂樹が江戸を出発した天保11年5月20余日以前であったことは確実である。
2,水野忠邦は,文政11年西丸老中,天保5年本丸老中,同10年12月老中首座となり,11年12月に、3ケ年の倹約令が公布され,天保の改革が宣言されたのは同12年5月であった。したがって,『神代』が忠邦の人物や政策を諷刺していたとすれば,それは西丸老中であった忠邦のそれであったことになる。
3,忠邦は,天保十二年に新見正路(井関家と親戚関係にある)を御側御用取次に起用し,井関親経(隆子の子)もこの年広敷用人になって七百俵を与えられている。天保14年9月に目付・戸田氏栄(新経の妻の兄)が印旛沼開鑿に関連して左遷されるまでは,隆子が特に忠邦を憎む理由はなかった。
4,「烏滸の者として描出されるその人間像には,敬愛する人物を擬するのは憚られるのだが,それも最終的には反省され,修正されるていのものであれば,あながち冒涜的であるとも言へないであらう。したがって,主人公某の少将は「たそがれの少将」のニックネームを持つ為政者松平定信と考へた方がよい。」
5、蔵田茂樹が,この物語を気に入ったというが,それは,老中水野忠邦批判のゆえとは考え難く,むしろ,歌人として名声が抜群であった松平定信を想い,そこに惹かれたものと思われる。
 以上,論拠を要約したが,長い文章故,十分でない点があるにしても,氏の論旨は,ほぼ,これで尽くしていると思う。
 
 これに対して,私は,水野忠邦説を主張している。以下に結論のみを掲げる。
 第一に,忠邦とした場合,西丸老中、本丸老中の間の政策が批判の対象になる,とされているが,これは,右に見てきた如く,10年12月には本丸老中首座となっているし,また,本丸老中の間を含めても差し支えないと思う。本丸老中昇進後,1,2年で,松平康任と共に幕政を動かしていたと推測されるからである。
 第二に,隆子は,縁戚関係にある戸田氏栄が左遷された天保14年9月以前は,忠邦を憎む理由がなかった,という点であるが,この『神代』は,そのような私的感情の捌け口として創られたものではないし,戸田氏栄の一件が発生する前も後も,忠邦に対する隆子の態度に大きな変化は見られない。
 第三に,松平定信の官位は少将まで進んでおり「たそがれの少将」のニックネームを持っていた,という点であるが,確かに忠邦は侍従であり,少将ではなかった。しかし,隆子自身「ゆくすゑはしらず,此ごろ殊にならぶ人なう時めき給へり。」(12年6月3日)と言っている如く,おそらく,天保9年〜11年には,忠邦は並ぶ人無き状態であり,それは,侍従の中の,〃一ノ人〃であり,〃少将〃に匹敵する存在であったと思われる。歴史的事実としても,もし,忠邦が天保の改革を為し遂げ,円満に職を辞していたならば、定信と同様,少将に昇進する,という事は十分に予測し得る事であり,隆子がそのように予測していた可能性もある。
 また,隆子が,主人公を「少将」とした点に関しては,このような,現実的社会との関連の他に,この作品の構想の上で影響の認められる『宝物集』の「少将」も合わせ考慮されなければならない。さらに言うならば,この「少将」は,目の前の現実を描く上での一種のカムフラージュであったかも知れないのである。
 さて,この場合,それよりも重要な事は,新田氏が「烏滸の者として描出されるその人間像には,敬愛する人物を擬するのは憚かられる」と述べられている如く,この主人公が極めて厳しい批判の対象になっているという事である。新田氏は最終的には,反省され,修正されているので,あながち冒涜的であるとも言えない,としておられるが,そうとは言えない。主人公・某の少将への批判は,色好みで,負けじ魂のみ募り,身分相応の文才もない,という個人的な面と,税金の増額からくる庶民生活の窮乏,公の人事の不公平,少ない禄に対する旗本たちの不平不満等、政治家としての公的な面の両面からなされており,これらには,反省・修正し得るものと,修正し得ないものがあり,そのような主人公に,自分の尊敬する人物を擬する,という事は考え難い。そして,それよりも,さらに重要な事は,創作心理に関する事である。将軍の権威を後ろ盾に,幕閣第一の実力者として,幕政を思いのままに動かそうとする主人公を描こうとした時,現に,目の前に,そのモデルに最もふさわしい人物・忠邦が居るのに,どうして,50年も前の,たとえ「少将」であろうと,自分の敬愛し尊敬してやまない定信を登場させる必要があるだろうか。このような創作者の心理から考えても,定信説は妥当と思えない。
 第四に,蔵田茂樹が,この物語を気に入ったのは,歌人として有名であった定信を想い,そこに惹かれたものである,という点であるが,この事は,一読者である茂樹がどこに惹かれようとも,それは,作品それ自体に何の関係もない事である。それにしても,この主人公は、歌会の席上で賞賛された歌を,その選者たち(北村季文等がモデルか?)から,陰では徹底的に批判,嘲笑されているのであり,そのような某の少将(定信)に,茂樹
が惹かれたという説も理解し難いものである。
    【諸説に関して注を付していない。詳しくは,研究文献の項を参照下さい。 H・11・7・26】
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