『井関隆子日記』原本の古書価

                      深沢 秋男

 桐箱入り全12冊の『井関隆子日記』に初めて出会ったのは、昭和47年11月、恩師重友毅先生の使いとして、桜山文庫御所蔵の『春雨物語』等を御返却するため、鹿島則幸様のお宅へお伺いした折の事である。
 鹿島様の御厚意で拝借して帰り、初めからゆっくり読み進めるうちに、私はこの『日記』に強くひかれていき、離れられなくなってしまった。
 桜山文庫の蒐集者で国学者の鹿島則文は、この『日記』入手の経緯を次の如く記している。 
 「この書は明治十あまり五とせ神道事務局の幹事てふ職にてしばし都にかり住せしころ十一月の十四日に神田淡路町壱番地斎藤兼吉といへる書商より七円にてあがなひしを……」
 明治15年11月14日に神田淡路町壱番地の古書籍商(斎藤兼吉)から7円で求めたという。この斎藤兼吉について古書籍商に関する記録などを調べたが見当たらない。また現在の淡路町の斎藤姓の家々、町内の古老の家などにもお伺いして調べたが、確認する事は出来なかった。
 ただ、琳琅閣・斎藤兼蔵氏の「先代琳琅閣とその周囲」(『紙魚の昔がたり』所収)によると、先代琳琅閣は斎藤兼蔵といい、福井県から東京へ出て古書店を始めた。最初浅草の蔵前で床店を出していたが、その後神田の淡路町に移り、更に池の端へ移ったという。「浅草から淡路町へ移つたのは明治七、八年の頃の様です。」「其処(淡路町)には、十余年も居りまして相当の成績を挙げて……」 初代琳琅閣が神田淡路町で古書籍商を営んだのは、明治七、八年から十余年間であるという。その店の位置も「今(昭和九年)の位置で申しますなら昌平橋を渡つて突き当りの少し手前で西側です。」「今の佐柄木町の停留場の西側位の処に当ります。」と、明治11年の『実測東京全図』の「同(淡路)丁一」とほぼ一致する。また、琳琅閣の淡路町時代の華客の中に、狩野亨吉・幸田露伴・徳富蘇峯・松井簡治・大野洒竹・伊藤松宇等と共に「鹿島則文」の名がみえる。
 則文は、明治15年に琳琅閣・斎藤兼蔵からこの『日記』を7円で求めたのではなかろうか。ただ、その名を「兼吉」と誤記したのではなかろうか。 
 横山重先生は『書物捜索』において、幸田成友氏の明治16年の古書価の記録「東海道名所記六冊一円、好色一代男八冊一円」を引かれ、昭和17年の推定時価を『東海道名所記』4、5百円、『好色一代男』初版3千円としておられる。昭和49年1月の反町弘文荘主宰・古書逸品展示大即売会では、天和2年荒砥屋版、初版初刷の『一代男』が550万円であった。『一代男』とこの『日記』を比較するのは無謀と思われるので、『東海道名所記」と比べてみると、明治16年に『東海道名所記』が6冊で1円、『日記』が15年に12冊で7円、昭和17年に『東海道名所記』が4百円であるから『日記』は7倍の2千8百円という事になる。昭和49年の『一代男』は約千8百倍であるので、『日記』は5百万円強という事になる。『一代男』と同率で換算するのも問題があるし、版本と無名に近い著者の自筆本とを比較するのも問題がない訳ではない。また、明治14年に河竹黙阿弥が作った『島鵆月白浪』には上級酒1合が3銭とあるので、当時の7円が直ちに現在の5百万円に相当するという事にもならない。それだけ古書価が暴騰しているという事であろう。
 ただ、則文は明治15、6年に『東海道名所記』『好色一代男』の7倍の価格でこの『日記』を求めたという事は紛れもない事実であり、それは、                
 「男もかく長き月日をたゆみなく美はしく書いでんはいかにとおもはるに、まして女子の筆のあとには、古しへ人の清少納言紫式部にも立おとるまじう思はるゝ」
という、則文のこの『日記』に対する評価と関係があるものと思われる。

 明治15年に桜山文庫の所蔵するところとなった『日記』であるが、その後、同文庫と深い関係にある諸先学にさえ、ほとんど着目される事がなかった。この間、公的記述としては『国書総目録』の
「天保日記 てんぽうにっき 一二冊 〔著〕井筒隆女 〔写〕桜山」
「井筒隆 天保日記 D八七七 2」(同目録著者別索引)
にとどまっていた。               
 隆子の著作・短冊・絵などは御子孫の井関家に伝えられたが、昭和20年3月9日の東京大空襲で全て灰燼に帰してしまった。この『日記』も、
「古事記伝をみな写し、その外随筆せるもの凡三箱ほどありしと言、瓦解後みな反古に成したるべしと言へり」(則文の調査)
とある如く幕末動乱の析、何人かによって井関家から持ち出され、古書店に陳列されたのであろう。
 昭和61年9月、桜山文庫は、昭和女子大学図書館に一括譲渡された。この時の評価者は、神田の一誠堂書店の酒井宇吉氏である。酒井氏は、この『日記』をどのように評価されたのであろうか。それは、記さないことにする。しかし、全9百余点、6千余冊についての、酒井氏の評価は、誠に誠実なものであった、と鹿島則幸氏も、私も思っている。

付記 これは、『勉誠社だより』第6号(1981年8月)に掲載した「『井関隆子日記』との出会い」の一部を改めたものである。
             平成27年5月28日