新田孝子氏の「文章千古事」

●新田孝子氏は、東北大学を定年退官するにあたって、次のような文章を書いておられる。井関隆子に関する文献として、極めて貴重な内容であると思われるので、ここに収録させて頂くことにした。新田氏の御研究は、井関隆子研究の上で、重要な位置を占めている。改めて感謝申し上げます。
2018年8月21日   深沢秋男
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定年退官にあたって
調査研究室研究員・文博   新田孝子

『さくら雄が物かたり』との遭遇

学部・院生時代は、研究室備え付け図書で充分だったので、あまり図書館を利用しなかったのだが、『東北大学所蔵和漢書古典分類目録』編纂事業のスタッフとして、東北大学附属図書館に勤務するようになると、本館の蔵書構成の素晴らしさは、古典研究者としての新田を魅了してやまなかった。どこに行っても、これほど研究上高度な蔵書を有する大学はない。それは火を見るよりも明らかだった。
研究者の常として、蔵書を利用するにしても、とかく自分の守備範囲に限られがちである。しかし、蔵書目録を編纂するという仕事は、蔵書全般に立ち入って、広く博捜する手続きを踏まなければならない。平安朝文芸を専攻した新田が、江戸期の作品に親炙するようになったのは「狩野文庫」の大部分が、江戸期の作品によって占められていたからである。
「狩野文庫」に「さくら雄が物かたり」という写本があった。一丁十三行の擬古物語である。仮名垣魯文の蔵書印が捺され、「此たはれふミハある人文会とて月毎にかれ是つどひておのが心々の文出しける時に物しはべりし也/天保とふとしの九とせ/ 鹿屋園のいほぬし源隆子しるす」という奥書が附されている。新田には、この「鹿屋園」をどう読むべきか、少しも見当がつかなかったので、目録の編纂者としては、作者名を「源隆子ミナモトノリュウシ」と記入して済ませたのだが、長い間、後味の悪い思いに苛まれた。

『井関隆子日記』の出現

数年が過ぎた。ある日、参考コーナーで勉誠社の出版目録を見て、『井関隆子日記』という図書が出版されたことを知り、ゆくりなくも〈鹿屋園の源隆子〉を思い出した。早速、取り寄せてみたところ、「源隆子」はまさに、「井関隆子」その人であることが判明するに至ったのである。おのずから、どうにも読めなかった「鹿屋園」が、「カヤソノ」であることも明らかになった。「かや」はすなわち「薄ススキ」であり、隆子は、群草の中に一きわ高々と抜きん出てさく薄を、「草の司クサノツカサ」として鍾愛し、その薄のいっぱい生えている自宅の庭を「かやその」と自称し、記紀の野の神「鹿屋野比売神カヤノヒメノカミ」の名に因んで、「鹿屋園」と表記したのである。この明快なる解答を得た瞬間の、天にも昇る嬉しさは、まさに譬えようもなかった。さしづめ『更級日記』の著者の、「后のくらゐも何にかはせむ」というところであった。
 改めて、『国書総目録』を繰ると、第三巻に「さくら雄か物かたり 六巻一冊 源隆子編 写 東北大狩野」とあり、第五巻に「天保日記 一二冊 井筒隆女 写 桜山」と見えている。誰であれ、この両者の著者が同一人であることに、どうして気付き得るだろうか。『国書総目録著者別索引』では。前者を「ミナモトノリュウシ」とし、後者を「ヰツツタカ」として、別々に配列させざるを得なかったのも無理はないと思う。正しくは「ヰセキタカコ」である。

深沢秋男氏の研究

 さて、『井関隆子日記』は「桜山文庫」に伝来された。井関隆子の〈自筆日記〉で、全十二冊におよぶ大部のものである。「桜山文庫」は鹿島神社宮司家鹿島則幸氏の蔵書を指呼する称であって、隆子の〈自筆日記〉は、先代鹿島則文氏の識語により、明治14年神田淡路町の書肆から購入されたものであることがわかる。隆子の創作である「さくら雄が物かたり」が「狩野文庫」に、〈自筆日記〉が「桜山文庫」にあるということは、明治維新により、瓦解した士族階級から流出した蔵書類が書肆の手を経て、それぞれ、狩野亨吉氏と鹿島則文氏によって購入されることになるという、当代の文庫形成の流れを如実に示す好例であろう。
 勉誠社刊『井関隆子日記』の校注者深澤秋男氏は、隆子の死後百三十年を数える昭和47年から調査を開始し、ほぼ十年の研鑚を経て、上中下三巻に編み、昭和53年〜56年に勉誠社から刊行したのであった。深澤氏の研究によれば、隆子の子孫である井関家は、戦前東京三ノ輪に居住し、昭和20年3月9日の東京大空襲により全焼したという。したがって、それより以前に、〈自筆日記〉が井関家から持ち出されていなかったとしたら、当然にそのまま灰燼に帰してしまったに相違ない。「鹿屋園」の疑問も、永遠に解けることはなかった。それを思うと、〈自筆日記〉が今日に伝来し、深澤秋男氏と出会って、学界に紹介されるに至ったという幸運を、心から感謝せずにはいられない。

井関隆子の生涯

 井関隆子の実家庄田家は、代々徳川将軍家に仕える旗本である。隆子は、本家三千石から分知した、分家四百石大番衆庄田安僚の四女として、天明5年6月21日に生まれた。幼名を「キチ」という。『庄田家系譜』の隆子の条に「大御番山口周防守組 松波源右衛門妻 不縁に付 西丸御納戸組頭 井関弥右衛門」とある。
 隆子はなぜか、所縁ととのわず、年闌けてから後妻として再婚したのである。しかも、自らの子には恵まれず、義理ある二児を育てたのみで十余年の結婚生活ののち、夫に先立たれた。嫁ぎ先の井関家もまた、代々将軍家に仕えた旗本であり、隆子は、常に将軍家の繁栄のみをひたすら祈念する生粋の旗本人種であった。〈自筆日記〉は、天保11年の元旦を始発とする。この時の井関家の家族構成をみると、五十六歳になる著者隆子、二丸留守居を勤める当主の親経、親経の妻、家慶の小納戸を勤める親賢、親賢の妻(親経の長女)、親経の三女(二十三四歳になるが未婚)、十一歳になる親賢の長男、以上の七名である。隆子は、いわば、〈旗本家の御後室様〉であり、別棟の離れに住んで、通常は食事なども、独りで摂っていた。したがって、隆子はあり余る時間を持っていたのであり、その時間を、すべて執筆に注ぎ込んだのである。〈自筆日記〉は、「日次ヒナミ」の日記ではあるが毎日ではなく、天保11年2月10日の日付が重複している一例により、草稿を清書するという手続きを経て現在の姿になったものであることが知られる。

「文章千古事」

 〈自筆日記〉は天保15年10月11日で終り、その二十日後の11月1日、かねて望んでいた通り、ただ、三日ほど寝込んだだけで隆子は没した。その二十年後には明治維新を迎え、隆子の生き甲斐であった「上様の御旗本」の世界は跡形もなく崩壊する。けだし、隆子が薄を「草の司」として鍾愛したのは、「公仕うまつる家」の誇りを抱きつつ、将軍家と共に過去から現代へ、さらに現在から未来へと連綿と繋がり栄えていく旗本階級に自然にはぐくまれるであろう、高きもの、すくよかなるもの、毅然たるもの、健全なるもの、支配者的なるものに対する傾倒に他にらなかった。  振り返れば、茫々たる来し方にただ一つ、燦として虚空にかかるのは、「文章千古事」の真実である。   (にった・たかこ)
(『東北大学附属図書館報』Vol,20,No4,1996)
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