井関隆子作『桜雄が物語』
                               深 沢 秋 男
 
 井関隆子は,天保9年(1838)『桜雄が物語』という雅文小説を創っている。54歳の時である。この原本は,現在,東北大学附属図書館・狩野文庫に所蔵されている。写本・大本,6巻1冊,隆子の自筆本である。「魯文」の蔵書印があるので,幕末の頃,井関家から古書店に流出し,幕末の戯作者・仮名垣魯文の所有するところとなり,さらに,狩野亨吉の手に渡り,東北大学に所蔵され,今日に伝えられたものと推測される。
 
 ●『桜雄が物語』のあらすじ
 
  花のあるじ  一ノ巻
 武蔵の国、荏原の郡に,立派な構えの家に一人の男が住んでいた。親は幕府に仕えて,かなりの地位にあったが,ある事件に巻き込まれて,それが原因で浪人し,この地に住み着いたが,やがて他界した。
 この男は,世間の目を避けて,家の仕事にも身を入れない。若いのに,非常に賢く,歌を詠み,書も上手で,容姿も美しいので,人々は〃荏原の君〃と呼んでいた。
 愛宕山一帯は,西はなだらかな山に続き,東は海が広く見渡される所で,春には桜の名所として,近在の人々で賑わった。そんな,のどかな春の一日,男は,特に友がいる訳でもなかったので,一人で,あちこち桜の花を見て歩いていた。やがて,入相の鐘が聞こえ,人影もなくなったので,家に帰ろうとしたが,一本の古木の桜があまりにも美しく,花の香も身にしむ心地がして,しばらく陶然として眺めていた。すると,花の蔭の小暗い方
に,扇をかざして花を愛でる人がいる。怪しいと思って近づいてみると,それは,
 「いとわかう,なまめきたる女房の,白きあやの下重ねに,さくら色のきぬ着たるが,あからめもせで,花を見ゐたる,やうだいおもやう,ほのかなれど,いとうつくしげに,たゞうどならず気高う見ゆ。」
 男は,つい心が動いて,近づいて声をかけると,女は,さるお屋敷に奉公しているが,昼間の人込みをさけて,夜桜の情趣を楽しんでいるとのこと。一人では心細いので,一緒に花を見ながら話し相手になって下さい,と言うので,男もその気になる。二人は,苔のむしろに添い伏して,美しい花のことなど,一晩中語り明かす。やがて,男が色に迷い,女を抱こうとすると,彼女は忽然と姿を消してしまう。あたりを見回すと,芝生の上に花文字で一首書かれていた。
  「身にかへてあやなく花を惜むかないけらば後の花も社あれ」
 男は、泣く泣く家に帰った。
 
  神あそび   二ノ巻
 男は,その夜の女の香りが身に染みついて,忘れられず,何も手に付かない。家はますます貧しくなってゆく。やがて秋になり,嵐が吹き荒れて,あちこちの大木が折れた,などと聞くと,例の桜の古木が気にかかる。せめて,その桜の種でも庭に植えて形見にしたいと思い,その場所へ行ってみたが,種も葉もことごとく木枯しに吹き飛ばされて何もない。仕方なく引き返そうとすると,突然,桜の古木はドドと音をたてて倒れる。裂けた洞のの中から赤子の泣き声がして,花のような芳香が漂う。覗い玉のように美しい男の子であったが,その容貌は例の女の面影を写していた。
 男は,喜んで,赤ん坊を懐に入れて家に帰った。近所の人々は,この子は,この世のものとは思えない,きっと,天人が誤って落としたのではないか,などと噂した。子供を育てるには妻が必要だろうという事になって,古老が海士の娘を世話してくれて結婚する。
 新年を迎え,子供はすくすくと成長し,光源氏よりも美しく,薫大将よりも芳しく,〃紀のさくら雄〃と名付けた。桜雄は琴も笛も上手で,太刀打ち・弓なども,教えると出来ない事はない。こんな桜雄の美しさに,男も女も,思いを寄せる人々が多くなってゆく。
 九月には,神田祭があり,桜雄は稚児としてその祭に出た。たちまち評判となり,見物人が,競って品物を与えたので,まるで大江の玉渕の娘のようであった。この事が知れ渡り,桜雄に心を寄せる人々が荏原の家に次々と訪れ,家は次第に豊かになってゆく。
 
  なみだの玉  三ノ巻
 神田祭も過ぎ,世間は静かになったが,それに引き替え,桜雄を一目見た人は心をさわがせた。さるべき国の守・某の僧正・くれがしの阿闍梨・世間にこの上なく尊ばれている修験者・いう甲斐なき老法師など,これらの人々で荏原の里は賑わう。しかし,桜雄は,これらの事を味気なく思い,一向に靡く気配はない。
 やごとなき山の座主は,桜雄に思いを寄せ,朝夕お修行も怠りがちで,衣に様々の宝玉を包んで与え,望みを遂げようとする。また,近所の某寺の僧正は,
  「山ざくら霞のまよりほのかにも見てし人社恋しかりけれ」
と,独り言して,本尊に向かえば,弥陀の顔が,桜雄の顔に見えてしまう。この熱い心の内を認めた手紙を何度も出すが,桜雄からの返事はない。
 その他,別当・僧都・律師など,男といわず女といわず,絶えることなく恋の手紙が届けられる。ある山伏は,白い扇に,
  「吾のみやもえてきえなんよとゝもにおもひもならぬ不二の根の如」
と,歌を記して,返事がなければ,この門前で死ぬ,と言う。仕方なく,親が代わりに返事を出す。また,老法師は,
  「あまた見し神の祭りのもろ人の君しも物を思はするかな」
と,その心の内を一首に託した。
 さて,何年が経って,桜雄を育てるためにと娶った妻にも,子供が二三人出来たが,並べて見ると比較にならない有様である。そんな中で,桜雄は,もう子供も出来たので,自分は桜の花のように散り果てたいものだ,と思うようになる。
  「いさ桜われもちりなんひとさかりありなば人にうきめみえなん」
 
  旅のやどり  四ノ巻
 桜雄は,自分を思いわびて身を滅ぼす人が多いのを耳にして,打ち沈む。浜辺へでも行って,気分を晴らすように,という親のすすめで,友を連れて浜辺へ出る。
 そんな折,京都へ行こうとする門主が,ものものしい共を連れて,この品川の宿を通りかかる。輿の中から桜雄を見て,心を奪われ,是非,京へ連れて行きたいと思い込み,何日も逗留する。
 また,ちょうど上総へ向けて船出しようとする船に乗っていた若い女は,桜雄の姿を一目見て,ものに憑かれたように打ちわななく。この様を見た親は,気に入ったのなら,聟にとってやろう,と言う。すると,これを聞いた船頭の答えには,この君を得たいと,身分の高い人々が,世にある宝の限りを運んでも,事は叶わない,とのこと。
 さて,例の門主は,是非,桜雄に会いたいものと,この宿に泊まり込み,使いを出して掛け合ったが埒はあか
ない。共の老僧も早い出立をすすめるので,一夜,思い切って門主自身が出掛けて,交渉したが,やはり,望み
は叶えられない。
 
  こがねの山  五ノ巻
 上総の船は国に着いたが,例の娘は,桜雄を恋してしまい物も食わず,次第に衰弱してゆく。親は何とか娘の願いを叶えてやろうと考える。この親は,多くの船を持って,手広く諸国と交易して,宝の蔵をたくさん持っている。親は桜雄に千両箱を贈って,娘の気持ちを伝えたが,桜雄は心を動かさない。そこで,日毎に千両箱を運んだので,黄金は軒と同じ高さにまでなった。
 今,江戸幕府の中枢にあって政治を執行している,某の少将(首席老中)の娘は,神田祭の折,桜雄を一目見て,恋してしまう。少将は、桜雄の祖父が,以前,罪を犯している事を突き止め,これを許してやる,という条件を持ち出す。これは,自分の親に関わる事なので,桜雄は非常に苦しむ。
 この噂を聞いた,京の門主も,上総の親も大変慌てる。上総の男は,もとは海賊であった。一か月にわたって,千両箱を運んだこともあり,家来に言いつけて,桜雄をさらって来るよう命じる。また,門前に押しかけていた法師たちの中には,堂塔建立の資金を使い果たした者も少なくない。
 
  さくら河   六ノ巻
 幕府から,今日明日にも召し出される,ということで,家の者は皆喜んでいる。しかし,桜雄は,親のためとはいえ,少将の所へ行かなければならないと思うと,悲しく憂鬱であった。
  「今までにちらずはあれど桜花なき物とのみおもほゆるかな」
 これに対して,親は,
  「桜花けふのかざしにさしながらかくて千とせの春をこそへめ」
 と慰める。
 いよいよ,登城の日となる。荏原からお城まではかなりの道程なので,前日の夕方出発し,その夜は叔父の某殿の家に泊まることになり,父親は衣服も整えて出発するが,桜雄はその勇ましい出で立ちを見送りながらも,ふと涙を落とす。廻りの人々は,その様子を不審に思う。
 折しも,家に盗賊が押し入り,桜雄は太刀を抜き放って,賊を追い払ったが,母親は非常に恐ろしがる。その様を見た桜雄は,自分がこの家に居るから,このような災いがかかるのだ,と意を決して家を出る。やがて愛宕山の麓を流れる川に身を投じて果てる。
 家をあげて,川の辺りをくまなく捜したが,桜雄を見つける事は出来なかった。人々は,誰かがさらって行ったのではないか,と沙汰し合った。
 この川岸に一本の桜の木が立っており,その花の散った枝に,桜雄が,いつも肌身離さず持っていた小刀が掛かっていて,その小刀の緒に結び付けられた短冊には,
  「のこりなくちるぞめでたき桜花ありて世の中はてのうければ」
の歌が書かれていた。
 今も,この川を桜川と言っている。
 
 四百字詰め原稿用紙で約八十枚の作品を短く縮めた荒筋なので,漏れた部分は多いが,概略は紹介できたかと思う。
 
 
 ●『さくら雄が物かたり』の創作意図
 
  花のあるじ (一)   なみだの玉 (三)  こがねの山 (五)
  神あそび  (二)   旅のやどり (四)  さくら河  (六)
 このような構成の『さくら雄』を通して、隆子は何を描き,何を訴えようとしているのであろうか。新田孝子氏の説く如く,桜花の美と,それに陶酔する人間の在り方を描き,桜花に対する無限の愛着を物語化したものであろうか。
 確かに,桜雄はその出生において,桜花と関連深い。かぐや姫が竹の中から発見されたように,その古木は,以前,荏原の君と女が花を愛でた桜の木である。その意味で,荏原の君と桜の精との間に生まれた子と言い得ない事もない。さらに,多くの求婚者を拒んで入水して果てる川は,美しい桜が立ち並ぶ桜川であった。出生から他界まで,この物語が桜花と深い関連をもつ構成になっている事もまた言うまでもない。問題は,その主人公・桜雄が,この物語の中で,具体的にどのような体験をさせられているか,という事である。
 桜の古木の中から発見された赤児は,やがて才色備えた美少年として成長し,江戸の二大祭の神田祭に稚児として出たのをきっかけに,桜雄の噂は江戸中に広まってゆく。
 「今もむかしも人の心同しからず。おもひおもひなる中に,世にしたがふとては,こゝろにもあらぬついそうしはた,おのれさかしうみせんとては,ことよくいつはりなんどいふ人のおほかれば,なべての人の心のおくぞしられざりける。しかはあれども,かしこきもおろかなるも,天地のおのづからなるしるしにやあらん,恋てふ物によりて人の心のまことなむ見えける。かの神ンわざも過もてゆき,世の中しづかなるに引かへ,桜雄がありさま見聞せし人々は,いたう心さわぎせられて,……」(三ノ巻)
 隆子は,人間は,表面をつくろって,なかなか本心は解らないものであるが,恋する時ほど,その心の奥底がよく見える事はないという。そして,このように美しい桜雄に心を寄せる人々の様子を長々と具体的に描いてみせている。それらの人々を整理すると以下の如くである。
 ○さるべき国の守。             ○世にいみじく尊ばれている修験者。
 ○某の僧正。                ○いう甲斐なき老法師。
 ○くれがしの阿闍梨。            ○やんごとなき山の座主。
 ○近きわたりの某寺の僧正(竹芝の大徳)。  ○京へのぼる門主。
 ○それより下ざまの弁当,僧都,律師。    ○海上の翁の娘。
 ○いう甲斐なききわの法師ばら。       ○某の少将の姫君。
 ○見ぐるしき山伏。
 「をとこ女といはずひまなく」桜雄に言い寄るこれらの人々を見て,まず注目されるのは,僧侶が多いという事である。これは,この物語の場所の設定とも関わっていると思われる。
 桜雄の家は,武蔵国荏原郡で,桜川の流れる愛宕山の近くである。これは,現在の港区虎ノ門,愛宕,芝公園,西新橋,新橋,芝大門,東新橋,浜松町に相当する地域であろうと推測される。隆子がこの物語を書いた頃,桜川は,新シ橋(現,西新橋交差点辺)→愛宕山下→御成門→増上寺学寮の外側→大門→将監橋(現,都営三田線,芝公園駅辺)を流れていたが,大正の頃に暗渠となった。この辺一帯は増上寺をはじめ寺院が多い。寛永8年(一六三一),幕府は寺院新造の禁止令を出しているが,この地域は,新造や移建が盛んに行われている。これは、浄土宗鎮西派大本山である増上寺が,徳川家の菩提寺である事と関連しているのかも知れない。とにかく,この辺一帯 は,江戸において,浅草・下谷に次いで寺社地が多い地域である。
 また,桜川とほぼ平行して東側には旧東海道(現、第一京浜)が通っていて,北から,芝口,源助町,露月町,柴井町,宇田川町,神明町,浜松町と並んで,品川宿へと連なってゆく。この街道は,桜雄が浜辺へ出た折,通りかかった,京の門主に目を止められる場所である。さらに,上総辺で手広く交易を営んでいる富豪の翁の娘が,桜雄に一目惚れする場所は,源助町内から浜御殿へかけて下水があり,この辺りが,当時船着場になっていたが,これを利用したものと思われる。
 隆子は,このように,自分が生きている天保期の,この辺一帯を物語の舞台に利用し,その江戸に,桜雄を登場させ,この美少年を取り巻く人々の様子を描いて,人の心の奥を示そうとしたものと考えられる。
 桜雄に言い寄る人物の中で,より具体的に描かれている,やごとなき山の座主とは,天台宗,比叡山延暦寺あたりの座主を想定していたのであろうか。また,京の門主とは,真宗本願寺派,西本願寺の門主を想においていたのであろうか。近き所の某寺の僧正をも含めて,僧侶の中でも最高位の高僧が,その宗教的地位と権威を利用して,桜雄を我がものにしようとしている。
 一方,上総辺で手広く海運事業を行い,財をなした富豪は,自分の娘のために,大量の黄金を積んで桜雄を獲得しようとする。
 最後に登場するのが,某の少将である。幕政を司る首席老中クラスの人物と言ってよい。少将は,自分の娘の願いを叶えてやろうと,様々画策して,桜雄の祖父の罪を許し,父に元の領地と屋敷を与えると言ってくる。
 これまで,全ての申し出でを拒み続けてきた桜雄であるが,長年の願いが叶ったと喜んで,太刀を研ぎ,馬を求めて仕官の準備を進める父の姿を見ると,これは拒む事が出来ない。
 桜雄が少将の娘の許へ行く,という噂を聞いた,やごとなき山の座主も,京の門主も,上総辺の翁(実は,もとは海賊であった)も,それぞれに手を尽くして抵抗するが,所詮,政治の力にはかなわない。
 このような状況の中で,桜雄は苦渋の選択をせまられ,入水して果てる。
 隆子は『日記』を記すにも,創作をするにも,現実社会の出来事を積極的に書き止めるべきであると主張している(『日記』天保11年3月3日)。そして,創作は「今めかしき事を雅かにとりな」すものであると考えていた(『日記』天保14年11月5日)。前述の如く,新田氏もこの事は指摘しておられるが,ただ,氏は,この作品に描かれた天保の世相の描写として,神田祭と子宝の形象化という二点を指摘するに止めておられる。
 隆子の筆は,一ノ巻の出生の経緯と,六ノ巻の桜川入水の様子を除いて,その大部分が,桜雄に思いを寄せる人々の諸相の描写に費やされている。作者の描こうとしたものが,この部分にある事は明らかであろう。
 
 ●井関隆子の仏教批判
 
 井関隆子は鋭く厳しい批評意識の持主であったが,彼女の目に映る現実の仏教界では,眉を顰める事件がしばしば発生していた。『日記』天保11年6月8日の条に,
 「すべて世の中の物,人はいへばさら也,何物も時世に従ひ,用ひらるゝ折は,さしもえあらぬ者もいみじく時めき,捨らるゝにいたりては,さるべき物といへども,なきにひとしき事,昔の人の物にたとへていへる,ことわりなりかし。近き年頃はあるが中に日蓮宗殊更に時めきぬ。さるはやごとなき上に,此宗をとりわき尊ばせ給へれば、御かたがた皆それにならはせ給ひ,はた上臈女房達是にいみじく傾きぬれば,下様の人々もそれにへつらひて,大かたかの宗旨に変ぬとぞ。……」
 この頃,日蓮宗の羽振りがいいのは,将軍家(家慶)がこの宗を尊ぶので,皆,これに従うのだという。さらに続けて,それらの中でも,中山の法華寺の祖師は,度々,江戸城へ召されて祈祷しており,上からの使いも毎日絶えた事がない。清水の君(五男・慶昌)の病気の時も,ものものしい加持祈祷を行ったが効果はなかった。それでも,まだ尊ばれているとは愚かな事である。また,家慶の六女・暉姫の病気の時には,薬の事まで指図して,医師の思い通りにゆかなかった。結局姫は空しくなってしまったが,それでも祖師は疎まれなかった。どうしたことか知らないが「いといとあやしきこと」である,という。
 大奥に仕える井上某は,本心は仏など信じない人物であるが,女房達が皆日蓮宗を信心しているのを察して,大奥へ勤める時は、わずかの暇をみつけて法華経を書写していた。これが女房達の噂となり,やがて将軍の耳に入り,異例の出世をした。これに対し,隆子は「是もとよりはかりごとゝはいひながら,またく此御経の徳とかいはまし,いかゞいはまし,しらずかし。」と評している。
 隆子は,この後に,幼い頃の思い出として,四谷・長安寺(浄土宗)の僧が,堂塔建立のためと托鉢して歩いていたが,実は女を二人も囲って,その生活費に当てていた,という出来事を記している。
 天保十三年一月七日の「ふる年あやしきことの聞えしは」と書き始められたこの条は,天保12年11月に起きた,伏見宮幾佐姫と勧修寺宮済範親王の出奔事件について記しているが,
 「かゝるすぢの事はかしこき愚かといはず,昔より過つならひなれど,出家といひ今はいむべき近しき御中といひ,えあるまじきことに人いひさわぐなむ浅ましき。いにしへも何がしの聖,くれがしの阿闍梨など,朽木のやうなるあやしき様してだに,恋の山路にはふみまどひぬるためしあり……。すべていづくにも法師どもの戒やぶり罪にあたるは,好たる道によれるなむいと多かる。」
と評している。さらに,ある人の話として,
 昔,親鸞が一向宗を弘めたが,ただ念仏を唱えよとのみ教えたので,この安易な宗教が世間に普及した。比叡山の大覚禅師は,これを仏法の正道の衰亡と心配して,日蓮に命じて新宗をひらかせた。日蓮は北条時頼・時宗に取り入って,様々な計略で一向宗の勢いを食い止めた。
 この話を聞いて,隆子は次の如く批評している。
 「……己れ是をつらつら思ふに,若此ことまことならば,仏法の方にとりては,日蓮がはたらきにあらめど,鎌倉の執権北条がはかりごとは何事ぞや。こはたとへば,きたなき物をにくみて,くさき物を愛すとかいはむ。かくあらたなる宗をたてゝ争はせむより,かの親鸞がともがらのはびこらぬほどに,とくとらへていましめたらましかば、今此二つの宗はなからましを、其頃の政事さらにゆきとゞかず,天の下ともすれば,かゝるあやしき者共も時を得たるにぞ。」
 天保11年10月26日の条には,男色について次の如く記されている。
 「今の世陰間てふものは,大方法師ばらの遊び物となれり。湯島,はた,よし町のわたりに,是を集へ置て,生業とせる家どもあり。男色とふ事もろこしには国王よりはじめ,是を愛して世をみだりしためしありとか。されば頑童を近づくるをいましめたる文ありとぞ。こゝは中昔よりくだりてのころ,是によりいさゝけきいさかひなどあなれど,さばかり世のわづらひとなるべきばかりの事はあらざりしかし。西の大殿御盛りの頃此たはれ好ませ給へりしなど聞えしが,たゞいまは此すさびすたれたるにか、おほよそ人の是にまどへるなどいふことを聞ず。」
 この後に,深川の富岡八幡の別当寺・永代寺の法師の蔭間ぐるいの様を描き(絵入り),この法師は,この遊びだけでなく,他に悪事を働き,寺社奉行・脇坂安菫に召し取られた,と記している。
 この他,『日記』には,谷中・延命院(12年3月24日),谷中・法華寺(12年8月18日),感応寺(12年10月10日)などをはじめ,法師の不行跡を記している。しかし,隆子は決して感情的な非難に走ることなく,冷静な目で批評している。彼女の批評が,深く徹底してしいるのは,このためである。
 
 ●ま と め
 
 以上,作者・井関隆子は『さくら雄』を通して,何を描き,何を訴えようとしているのか。
 私は,この作品に,より厳しい現実批判のある事を主張したいと思う。隆子は『竹取物語』を利用して『さくら雄』を創った。かぐや姫(女性)の位置に桜雄(男性)を据えている。この桜雄に恋の思いを寄せるのは,富豪の娘や某少将の姫も居たが,何と言っても,その中心は数知れぬ僧侶達であった。
 隆子が『竹取物語』をどのように解釈し,受容していたかという事は,『日記』の記述たらは判断し得なかったが,右に見てきたところからも明らかな如く,隆子は『竹取物語』に五人の貴公子への批判・風刺の様を読み取り,これにヒントを得て,しかも,主人公を男性に置き換えて,当時、作者自身が見聞きしていたと推測される,僧侶を中心に風習の伝わる男色の様を描こうとしたものと考えられる。
 作品には、桜花の美しさも,そして,それに群れ集う人々の様子も,よく描かれている。しかし,これは,隆子のいう,今めかしき事を雅びやかに表現する,一種のオブラートでもあった。
 隆子にとって,僧侶とは、仏道修行に真剣に励み,衆生済度を心掛けるような存在であって欲しいのである。修行中に弥陀の顔が桜雄に見えてしまうようでは困るのである。自分の修行はそっちのけで,桜雄に恋歌を贈り,返事がなければ自殺する,などという山伏では困るのである。延暦寺の座主の如き立場にある高僧が,信徒から奉納された浄財で,あらん限りの宝玉を贖い求めて,桜雄に贈っているようでは困るのである。西本願寺の門主のような高徳の僧が,京都へ上る途中,品川宿に何日も逗留して,美少年にうつつを抜かし,果ては,我が師の為には命も惜しまぬという弟子価値を京から荏原の里へ差し向けて,桜雄を盗み出そうとさせているようでは,これは困るのである。
 天保九年にこの『さくら雄が物かたり』を創った作者は,その後『神代のいましめ』を創って,徳川幕閣の第一の実力者・首席老中を厳しく批判している。井関隆子の資質は,鋭い感覚に支えられた厳しい批評意識と緻密で明晰な思考力にその特色があるものと考えている。『さくら雄が物かたり』は,そのような作者の作品である。
                           (H・11・7・31)
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