『井関隆子日記』新刊紹介


〔1〕『井関隆子日記』(上巻)新刊紹介
昭和54年4月、『史学雑誌』第88編4号、藤田覚

深沢秋男校注
『井関隆子日記』(上巻)
      勉誠社  一九七八・十一刊
      B6 四六〇頁 四五〇〇円

 本書は、旗本井関親興の妻井関隆子(いせきたかこ)の天保十一〜十五年の日記である。日記とはいえ、毎日の出来事を書き留めた記録としての日記という性格ではなく、それを素材としつつ雅文調の日記文学の作品とする意図のもとに叙述され、基本的性格は、日記文学の作品であり、近世文学研究の対象である。しかし、以下で紹介するように、文学研究の素材にとどまらない内容を、本書はもっている。
 原本は、水戸の桜山文庫(鹿島則幸氏)の所蔵で、天保十一年が四冊、同十二〜十五年が各二冊の合計十二冊からなる。この十二冊を上・中・下の三巻に分冊し、今回、天保十一年の四冊が上巻として刊行されたわけである。中巻には十二・十三年、下巻には十四・十五年が収められ、続刊の予定という。
著者の井関隆子(天明五年〜天保十五年)は、旗本庄田安僚(高四〇〇石)の子として生まれ、同じく旗本井関親興(俸禄二五〇俵)の後妻として稼し、その晩年の五年間にこの日記を著わしたのである。若い時から古典に親しんでいたが、夫の親興没後に学問を始め、しかも、特定の師にはつかず、国学者の著作を読み、また何人かの文化人との交流のなかで古典の理解、文筆の才を磨いたとされている。
 日記には、政治・経済・社会の各方面にわたる現実の社会におこる出来事や巷説、過去の出来事に対する感想と批判、学芸上の批評、正月・年越し・流鏑馬・川開き・山王・神田祭り、四万六千日等の江戸市中・自家の祭事、年中行事、風俗、習慣等の日常生活が生き生きと描写されている。天保期の江戸市中の様相や旗本の日常生活をうかがい知りうる史料ともなっている。
 しかし、いまひとつ重要な点は、将軍の奥向きや幕政にかかわる叙述が散見される点である。上巻では、将軍家慶室有栖川宮王女の死去、大御所斉昭の病状、法華宗の大奥への浸透、三方領知替についての各種の噂などかある。夫の親興が新見家からきた関係で、将軍の御側御用取次となる新見正路と親類であり、子の親経が広敷御用人(斉昭夫人の掛り)、孫の親賢は家慶の小納戸、親経の妻戸田氏は、天保十四年に老中水野忠邦によって登用され目付となり、印旛沼工事を担当し、その後駿府町奉行を経て、嘉永期の浦賀奉行となる戸田氏栄(伊豆守、寛十郎)の妹であるという家族、親類関係が意味をもってくる。校注者深沢秋男氏の巻末の解説には、戸田氏栄が語る印旛沼工事の話と、それに対する隆子の批判が、下巻の箇所で出てくることが紹介されている。中・下巻は、ちょうど幕府の天保改革の時期にあたるので、その記述は、政治史的にも興味あるものであろう。  (藤田 覚)


〔2〕新刊紹介 『井関隆子日記』    田中伸

              【『週刊読書人』第1402号、昭和56年10月12日】

 昭和五十年頃から深沢秋男氏は、この『井関隆子日記』(一名「天保日記」)全十二冊についての研究を次々と発表し、遂に今年六月その校注本をB6判三巻として完成した。この日記は近世女流日記文学の代表作として位置すべきものと私は思っているが、これをこうして適切な脚汪までそえて発表された事は、近世文学研究に携わる立場からしても誠に有難いことである。それは第一にこの日記が女性の筆になるものでありながら、実に広い視野をもち、流麗な雅文でそれを叙しているからである。
 作者隆子は、九段下四辻の東南角に屋敷を持つ旗本井関縫殿頭親経の義母に当り、文政九年(一八二六)に没した弥右衛門親興の未亡人である。日記は作者五十六才の天保十一年(一八四○)一月一日に始まり、十一年は四冊、十二〜十五年は各二冊宛からなり、日々の生活・年中行事・四季の変化・折々の見聞・感想・思い出咄・社会の出来事・風俗・政治の動き・文学学問のこと・和歌等々が、実に多岐に亘った内容である。天保十一の記事が他に比して多いのは、作者が意識して社会的風俗的記事を盛り込んだためと見られ、親経は二丸御留守居(二百五十俵)という閑職にあり、孫親賢は御小納戸衆(三百俵)で、家庭的にも平穏でまた後年のような政変も少ないための叙述の意図と見られる。その社会風俗には婦人の服装・髪形には絵までそえ、花見の様子、料理仕出しの事、町家のさま、下肥えのこと、眼力太夫の見せ物、煙草のことと多彩で、作者がどうして知ったかと思われるような吉原の遊女のことから地獄宿にまで至っている。品川の岡場所にもふれ、落語の『品川心中』の原話かと思われる咄も長々と語られる。特に現在「とんびに油げさらわれる」の俗諺を地で行く天気の良い日、野原で飛び集ってくる鳶に油揚を投げ上げて、これをとらせるという遊びの様が描かれてもいるのは面白い。
 しかも、これらはすべて擬古文ともいうべき雅文で綴られ、折々の四季の風物の描写と共に仲々の作と見られる和歌を折り込み、如何にも飾らない作者の感情が流れ、読む者を飽かせないのである。
 政治の動き、将軍家の様子などにもくわしく、天保十二年閏一月晦日の薨去と一般に伝えられる将軍家斉は、実はその閏一月七日の夕刻であったことなども判る。更に水野越前守の政策で林肥後・水野美濃・美濃部筑前の失脚や、矢部駿河が司召放しに逢い、伊勢桑名に連行せられ、四ケ月後には絶食して果てたことなど、坦々とした叙述の中に作者の批判の眼がしのばれる。特に印旛沼干拓事業に対し「水鳥」という怪異物語を創作して暗に強い批判を示している。更には遂に水野越前の失脚の際、水野の屋敷に町人下衆どもが集って石を打ちつけ門など打ちこわすなどの騒ぎなども描かれている。
 家族のことも、親経が御広敷用人(七百俵)になった喜び、広大院の使いで京都へ旅するを案じ、親賢が堅物射の競いで見事な腕を見せたことなど誠に楽しげに伝えている。
 僅かの枚数でその内容を伝えるのはむずかしいのであるが、隆子は真に近世末のインテリ女性というにふさわしく、いたずらに花鳥風月にのみ遊ぶという日記ではなく、この天保末の息吹きを脈々と伝える日記というべきで、これをあえて世に知らしめた深沢氏の努力は、今後の研究によって一層大きな成果を示すであろう。

(各B6、〔上〕四五九頁・〔中〕四五六頁・〔下〕三九六頁・各四五〇〇円・勉誠社)

(たなか・しん氏=二松学舎大学教授・日本近世文専攻)

◇ 写真は天保11年2月1日分にそえられた婦人の服装・髪形の絵――上巻から

見出し=天保の息吹きを脈々と伝える
    近世女流日記文学として位置すべき作品


〔3〕新刊紹介 『井関隆子日記』      江本 裕

 『井関隆子日記』、桜山文庫蔵。大本十二冊にも及ぶ長大な、そして近世女流文学で高い位置を与えねばならぬこの日記がおおやけにされたのは、ひとえに校注者深沢秋男氏の十年にわたる努力の結果である。既に「近世の清少納言か」(サンデー毎日56・9・13)、「近世女流日記の代表作」(週刊読書人56・10・12)など高い評価を得ており、いまさら贅言不要かもしれぬが、以下に率直な読後感を記して責めをはたしたい。
 まず、筆者が通読して感じた驚きは、やわらかな雅文体にかかわらず、ともすればその文体からはみだそうとする内容のある意味でのすごさと、その事を浮彫させようとする深沢氏のていねいな仕事ぶりだった。日記は、天保十一年(一八四〇)から十五年までの五年間、作者五十六歳から六十歳までの日録であるが(ただし毎日記されているわけではない。例えば天保十一年は三五五日中一八五日)、B6判に翻字して上中下三巻一一九六頁、十一年四月九日を例にとると、この日だけで十五頁に及ぶ。天候に始まり、万物の中での人間に思い到ると、奥平某家の嬌慢な検校の話に移り、宮廷への憧れと賛美、在家法体への批判、かと思うと堀某家のスキャンダル、蘭学・渡辺崋山への批評と、記事は雅俗さまざまな事象にいきわたっている。この一事を以てしでも、本日記が単なる日録ではないことは、容易に察せられよう。
 作者井関隆子についても多くは深沢氏により明らかにされたのだが、隆子は幕府旗本大番衆庄田安僚の四女、若くして縁あれど不嫁(又は離縁)を体験して、文化十一年(とすれば三十歳)頃、九段下に屋敷を持つ旗本、西丸納戸組頭井関弥五右衛門親興(井関家七代)に後妻として嫁した。夫との年の隔たりは十九、十三年の生活で死別。しかし義理の子の八代親経は二丸留守居(文政八年)から広敷用人(天保十二年)を務め、九代親賢も家慶小納戸(天保+年)、広敷用人(文久三年)となって家庭は安泰。親経の後妻の兄戸田氏栄は大坂町奉行を、親類の新見正路は大坂町奉行から御側衆を務めるなど一族にも恵まれ、かつ彼女は江戸城の情報を得やすい立場にもあった。その後半生は殆ど学芸を中心としたおのれの時間に充でられたらしく、日記には、古典への感想や親賢ぞの他教養人士との和歌の贈答、また井関家で催される将棋の会などの様子が、楽しげに記されている。
 隆子は学問上特定の師に就く事なく、真渕・宣長・千蔭等の著書を熟読して身を修めた由であるが、彼女の学問また思想上の根幹が国学にあった事は疑いなく(天保十三年二月二十一日の条でまことの心を強調)、それは儒家・仏家への強い批判にもかなりあらわに示されている。しかし同時に隆子は、同じ国学者にしても、林国雄(天保11・11・6)、八代弘賢(同12・2・9)、平田篤胤(同13・3・18)、橘守部(同15・9・13)等は激しく難じて峻拒した。好悪のはっきりした潔癖な人柄だったといえよう。記紀や続日本紀等、また源氏・伊勢、万葉・古今等、おびただしい数にのぼる史書・古典類の引用紹介は、この作者の読書量の広さを示すと同時に、それが単なる引用に終らず随意自在に行文化されている巧みさの中に、その身につけた深さをも示しているのである。
  月かはりぬ。今日も雲たち、日影ほのぼのとにほひたる如月の空のどかに
 霞みわたり、打わたす垣根の梅、時しりがほに咲かりたるに、ひとひ初音も
 らししより、朝さらず来鳴く鴬も、おのづから此花のしるべにかあらむ(天
 保12・2・1)
 任意に出したが、女性らしいみずみずしい季節感である。典雅な文体といえよう。日記は概ねかく始まり、和歌が詠まれ、古典が語られたりする。そして、これに終始すればこの日記も、江戸後期教養婦人の典型的たしなみ、と言い切ってしまってもよいだろうが、しかしこの日記の最大の特徴は、前条と殆ど変らぬ文体で、生々しい政治の動きや俗臭紛々たる世話事、つまりは天保の改革を中軸とした江戸の状況を、上は城中将軍の動向から下は私娼窟の噂まで、実に克明に記している処にあるのである。作者が城中の情報に接しやすい立場にいた事は前述したが、日記はほぼ全篇通してその模様を詳細に伝える。なかでも、書評子の共通して取りあげる天保十一年閏一月に死去する十一代将軍家斉関係の記事(日記は七日死、晦日公表とする)、深沢氏は徳川実紀等多くの資料によって、日記の日時の正確な事を証明された。他の将軍一族また大名等の死の公表がほぼすべて遅れて出る事、日記の作者がいちはやくその事実を知っている事をも、我々は知るのである。しかして作者の眼は、ただ城中にのみ注がれているのではなかった。江戸中喪に服するため魚屋は商い叶わず青菜が時めき、糸竹等遊芸に従事する者の困惑等、作者は市民生活を見る事も忘れていない。
 水野忠邦の失脚までを逐う天保の改革関連記事はさながら緊迫した政治ドキュメントというべく、免じ罰せられる諸役人や追放される僧侶等の情報、その原因、伝聞、噂、そして作者の批判が、ほぼ連日のごとく記される。そしてここでも作者の眼は、灯が消えたように暗くなっていく、江戸の街中の世態・風俗にまで注がれていた。特筆すべきは、これらの諸事象を、作者がかなり醒めた眼で見ている事だろう。むろん、一族が全面的に頼る将軍家は絶対に近く、かつ彼女が国学に立脚している以上、大塩平八郎(天保11・2・12)、シーボルト(同12・3・24)、蘭学(同11・4・9等)などに手厳しいのばやむを得ない。がしかし、幕府から発せられる諸政策に対する批評は鋭かった。印旛沼開墾の失敗に対しては風刺的創作を試み(天保14・11・5)、酒井忠器転封の失政は天保十一年十一月十二日から批判的に記述される事七回に及ぶ。水野忠邦の登場から失脚に到る過程は文学的意図を感得できるほど細かく(索引によれば45回)、しかもそれは掟厳しすぎて沈滞した世相にまで及んでいて、もしこれだけを抽出して並べれば、一人の政治家の浮沈の歴史が成るだろう。逆に、利権に群がり一時の栄耀からはかなく散っていく人々の姿に対しては、作者は非難というよりは人間の持つ業としてその生きざまを凝視している。
 この醒めた眼はどこからくるのだろうか。さまざま考えられるだろうが隆子の語る次の三つが筆者の興味を惹いた。即ち、名利を捨て清貧に甘んずる生き方を偽りと断ずる現世主義的人生観(天保13・2・21)と掟厳しき当代をそのおおらかであった上つ代に比較して批判する処(同13・5・16)等、いま一つは、作者が変化の木(化銀杏)の話を聞いで筆録する折自らを宇治大納言隆国になぞらえる処(同11・9・23)である。前二者の内現実重視の発想は幼時への回想等随所に認められる処であるが、作者は古典の世界に身をひたしながらそれにのめりこむ事なかった。むしろ自ら学んだ上つ代で当代を相対視して、その趨勢を冷静に見つめている。これは彼女に認識者としでの眼が備っていた事を示すといえよう。平将門の叛を藤家の政治の奢りと対比させて弁護する処(天保11・9・23)等にこの作者の学問が決して趣味だけでなかった事を示すが、この曇らぬ眼が当代を鋭く批判させたといえよう。そして、内に寵る事殆どであった女性であると考えれば。右ぱ稀有の事といえそうである。
 いま一つ宇治拾遺に関すれば、天保の改革云々にかかわらず、作者の巷街に対する興味は異常に強かった。花見その他四季折々の景物への関心はむろんの事、節句等年中行事の習俗、諸職商の世態、女髪結・鳥追い、浅草の楊枝店・見世物、怪異奇事の紹介、鼠小僧、旗本と召使いのスキャンダル、僧房の乱れ、吉原の遊女、品川の飯盛女、はては最下等の地獄女まで、その取材範囲の広さはまさに驚異に値する。彼女をかくまで衝き動かしたのは何なのか。筆者は先に隆子が自らを宇治大納言隆国になぞらえたと記したが、日記は宇治拾遺(隆国と記すも含む)に七回触れる。この回数は古事記や源氏物語等に比すべくもないが、しかし我が身を隆国にたとえたのは重要である。作者はまた、浅草の見世物(眼力大夫)を紹介する折、隆国に見せたら必ず書き留めるだろうと言って自らも書き留めた(天保11・10・25)。右の事実は、隆子に、隆国に倣って天保の世相を採録する意図のあった事を示すといえよう。この説話採録者的姿勢、これこそが本日記を特異ならしめた最大の理由と筆者は考えるのである。日記は元来内省を旨とするが本日記の過半は外に向けられそこで光彩を放つ。曇らぬ眼と、叙事・批評を旨とする説話作家的精神が日記文学の枠を越えて天保の世相を写し得たと考えるのだがどうだろうか。
 いたずらに駄弁を弄しすぎ、深沢氏の仕事ぶりに触れる事少なかった。全篇に施された詳細的確な脚注は本日記を読む上に大いに役立つが、下巻末に付される索引の人名を一覧するだけで、この日記に登場する人物のいかに多くまたその考証が難事であるかを知るだろう。上巻解説には本書の書誌並びに内容の概説、庄田・井関家の家系・閲歴、関係文献一覧が収まり、中巻には桜山文庫主鹿島川文の閲歴、下巻には関係資料の補訂が付されている。現時点での隆子関係の資料は網羅されているといってよく、その関係資料を一見するだけで、深沢氏がこの日記にうちこまれてきた事も瞭然とする。近世女流文学を語るに新たな視点を与える本書が日の目を見たのは全く深沢氏の功績と言い切ってよかろう。氏はこれまでどちらかというと初期の仮名草子で緻密な論考を公表されてきた研究者であるが、本書との出あいを語られるを聞くにつけても(上巻解説)、筆者は邂逅という語を感慨をもって感ずるを禁じ得ない。
       (B6判、上中下三巻、勉誠社刊、各巻四五〇〇円)
          【『文学研究』第54号 昭和56年12月】