井関隆子研究覚え書(六)
     ―『庄田家系譜(正本)』―

                     深沢 秋男


 井関隆子は庄田家四代・安僚の四女とし天明五年(一七八五)六月二十一日、江戸四谷表大番町で出生した。隆子の伝記資料として『庄田家系譜(副本)』はすでに閲覧・調査済みであったが、記述に未詳の箇所もあった。この度、庄田家第十一代・庄田安豊氏の御配慮で正本を閲覧することが出来たので紹介したい。
 『庄田家系譜(正本)』は巻子本一巻で、縦二八七ミリ。系譜原本は、縦二四六ミリの巻紙であったが、後に製本されたものと思われる。金色の題簽があるが、題簽題は書かれていない。巻頭は、庄田家本家の三代・安勝から書き始められている。各代の横の寸法は次の通りである。       (平成十一年三月三十一日調査)
  嫡 祖・安勝  約八〇〇ミリ。
         (約六〇〇ミリの余白)
  初 代・安議  約八三〇ミリ。
  二代目・安清  約九六〇ミリ。
  三代目・安信  約八二〇ミリ。
  四代目・安僚  約八四〇ミリ。
  五代目・安邦  約一三二〇ミリ。
  六代目・安玄  約四七〇ミリ。
  七代目・安明  約三三〇ミリ。
      (以下、かなりの白紙がある。)
 墨付、全長六メートル余、ということになる。余白を入れると、八メートル以上である。筆跡から判断すると、五代・安邦の途中までは一筆のように思われるので、安邦は文筆もあったと思われるので、この系譜は、安邦が整理作成し、以後は、七代・安明、八代・安栄あたりが書き継いだものと推測される。

 【注】1、直接隆子と関連のない部分は(省略)として省略した。
    2、改行は / で示した。
    3、小字の注書きは 〔 〕 で囲った。
    4、右側に書込まれた注は[ ]で囲った。
    5、判読出来ない部分は □ で字数を示した。


庄田家系譜正本(抄出)


嫡祖 三太夫 幼名 千代松
 安勝
    母 永井右近太夫直勝養女〔実者長田理助吉久女〕
     慶安二己丑六月五日死去浅草浄土宗化用山浄念寺葬
     法名 清徳院殿照誉固栄大姉
    妻 駿河大納言忠長江御附小畑勘兵衛景憲養女〔実ハ今川家浪人中村四郎兵衛秀安女〕
     寛文十庚辛年十月九日病死葬地右同断
     法名 宝成院殿静誉教心大姉

 一 元和二丙辰年[六月十五日]於駿河出生号千代松□□□台徳院様江御目見〔年月不知〕
 大猷院様御代寛永十一甲戌年十一月〔日不知〕十九歳ニ而御書院番七/番朽木民部少輔組江御番入所 仰付候
 一 明暦二丙甲年父庄田小左衛門安照 跡式三千石以下/置候
 一 同三丁酉年正月〔十八日/十九日〕両日江戸大火ニ而十九日屋鋪類焼[節金四百両拝領仕]
 厳有院様御代万治元戊戌年九月廿六日駿府在番酒井飛騨守/源重之組之節罷登候
 一 同二巳亥年〔月日不知〕病気ニ付奉願小普請瀧川長門守利貞/組江入其後病気快候ニ付帰番奉願候処寄合並/御礼日登 城可仕旨被 仰付候
 一 寛文七丁未年十月朔日牛込口御門番所/仰付候 相番堀田権右衛門 鍋嶋帯刀
 一 同八戊申年二月六日□□□□組其後〔同月六日〕牛込御門番/御免〔年月不知〕其後知行高三千石之内惣領小左衛門/安利江弐千六百石二男五郎左衛門安議江四百石分知/仕度奉願置寛文九己酉年三月廿六日五十歳/ニ而病死武州浅草浄土宗化用山浄念寺葬/法名 寂用院殿行誉悳居士

 

女子(省略)
女子(省略)


  庄田下総守 始号小左衛門
 安利
    母 水野隼人正源忠清女
    妻 菅沼摂津守源定実女
     延宝四丙辰年十一月五日廿二歳病死化用山浄念寺葬
     法名 円成院殿白誉光青大姉

  慶安三庚寅年四月十一日於江戸出生
  宝永二乙酉年九月五日卒
  法名 量性院殿前総州刺吏顕誉統真大居士

 

清和天皇六代孫式部太輔義国末流丹波国住人荘田肥後守安弘九代之後胤/荘田三太夫安勝二男
 初代 庄田五郎左衛門 始号三之丞
  安議
    母 駿河大納言忠長卿御附小畑勘兵衛景憲養女〔実ハ今川家浪人中村四郎兵衛秀安娘〕
    妻 新御番横田甚右衛門組三浦庄右衛門直忠女〔実ハ□□□行小宮山□四郎女〕
     宝永四乙亥年九月十九日病死本郷昌清寺ニ葬〔五十三才〕
     法名 享寿院殿曜誉恵舜大姉

 一 慶安四辛卯年十一月十五日於江戸出生〔元鷹匠町〕三之丞ト号ス/十七歳ニ而元服五郎左衛門ト改
 厳有院様御代寛文九己酉年七月十日父荘田三太夫安勝/奉頼置候通知行高三千石之内四百石分知/拝領被 仰付江州滋賀
  郡北比良村ヲ配分仕/小普請瀧川長門守組ニ罷成候
 一 同十一辛亥年九月十三日〔二十一才ニ而〕大御番江御番入所/仰付酒井伊予守組ニ罷成候
 一 延宝五丁巳年三月十七日於四谷表大番町屋敷/六百六拾坪余納領仕候〔同五[八]庚甲年四月廿日大番町屋敷江/移ル〕
 一 貞享元甲子年〔月日不知〕諸御番方勤御改之節/二条在番之節為御座褒黄金弐枚拝領仕候〔但勤候内在番何度登候哉不知〕
 常憲院様御代元禄十一戊寅年十月廿六日本多肥後守組之節/四十八歳ニ而病死本郷元町浄土宗嶺松山昌清寺葬
  法名 寂光院殿通誉理徹居士


  女子(省略)
  利貞(省略)

 

 庄田万吉
  某  早世(省略)

 二代目 庄田主税
  安清
     始安要 安英ト改又安清
    母 新御番横田甚右衛門組三浦庄右衛門直忠女
    妻 小普請組大嶋肥前守組三浦庄太夫直栄女
     享保十四己酉年二月二日病死江戸四谷禅宗全勝寺葬
     法名 陽春院殿梅岳知香大姉

 一 延宝五丁巳年五月廿九日於江戸出生
常憲院様御代貞享四丁卯年七月四日〔十三才ニ而〕御目見仕候
 一 元禄六癸酉年十二月九日〔十九才ニ而〕部屋住0大御番江御番入所/仰付御切米弐百俵被下置酒井右京亮組ニ罷成
 一 同八乙亥年大坂在番罷登
 一 同十一戊寅年二条在番罷登
 一 同年十二月十八日父五郎左衛門安議跡式拝領仕候〔但部屋住御切米者上リ申候〕
 一 同十二己卯年二条在番為代人罷登〔但何之誰組願不相知〕
 一 同年九月十二日御籠成之面々江御救金被下置候旨/本多弾正大〔少〕弼殿被仰渡酒井右京亮宅ニ而金五十両/拝領仕候
 一 同十三庚辰年二条在番高木主水正組江為代人罷登候
 一 同十四辛巳年大坂在番罷登道中宿割相勤
 一 同十六癸未年十一月〔日不知〕大地震ニ付十二月四日新規増廻被/仰付同十七甲申年正月晦日増廻 御免
 一 同年二条在番罷登米払役相勤申候〔在番数□□伍度内代人二度〕
 一 宝永三丙戌年五月廿三日小普請方被 仰付御役扶持/同役並三拾人扶持被下置候旨稲葉丹後守殿被/仰渡永井伊豆守殿御出座
 一 同四丁亥年三月十日駿府御破損奉行被 仰付/御殿奉行御材木奉行兼役被 仰付候之段/御老中御列座大久保加賀守殿被仰渡被来リ候/御役扶持三十人扶持被下置候同年四月四日〔廿八日〕右駿府江/為御暇時服二金壱枚拝領仕同五月三日出□於駿河/横内御門脇屋鋪八百坪被下置普請料金弐百両/樽木弐千本拝領仕候於江戸拝借七拾両被 仰付/同六丑年九月拝借被下置候旨青山信濃守宅ニ而被申渡候
文昭院様御代就病気奉願宝永七庚寅年三月十六日御役/御免同年四月六日小普請入 被仰付米津周防守組江入有徳院様御代享保四己亥年八月二日小普請組伊丹覚左衛門支配ニ成
 一 享保九甲辰年十月九日大御番江帰番被仰 付酒井/下総守組ニ罷成〔但帰番以来在番数付知〕
 一 同十二丁未年閏正月廿九日堀淡路守組之節知行所悪所/ニ付御蔵米ニ御引替被下置候様奉願候処同年/二月十九日願之通知行御蔵米ニ御引替被下置候旨水野和泉守殿被仰渡候段堀淡路守被申渡候
 一 同年十一月五日小普請本多大学支配三浦庄左衛門直輝/次男内蔵助安信従弟通之続を以養子仕度奉/願候通養子被 仰付候旨水野和泉守殿被仰渡/候段酒井日向守被申渡候
 一 元文元丙辰年十月十二日新御番江御番替被 仰付小笠原平兵衛組江入
 一 寛保元辛酉年十一月朔日仙石治兵衛組ニ成相勤候処/老衰仕御奉公難相勤候ニ付小普請入奉願候処延享/元甲子年五月廿九日願之通御番御免小普請入/被 仰付候旨板倉佐渡守殿被仰渡候段仙石/治兵衛申渡之小普請組北条新蔵支配罷成候
 一 延享二乙丑年四月十二日内藤十次郎支配之節七拾一歳ニ而/病死本郷元町浄土宗嶺松山昌清寺葬
   法名 究竟院殿一誉乗心居士
   安致(省略)

 

  某 (省略)
  数馬(省略)


 三代目 庄田内蔵助 隠居名岩水
  安信
    養母 無御座候
    実父 小普請組本多大学支配三浦庄右衛門直輝二男
    実母 家女
    妻  無御座候

 一 正徳元辛卯年 月 日於武州江戸有徳院様御代庄田主税安清大御番酒井日向守組相勤候節/男子無御座候ニ付内蔵助安信従弟違之続を以/養子仕度奉願候処享保十二丁未年十一月五日/願之通養子被 仰付候旨水野和泉守殿被仰渡候段酒井日向守申渡候
 一 延享二乙丑年四月十二日〔養〕父庄田主税安清病死仕同年七月/二日内蔵助安信江跡式無相違被下置候旨於菊之間/御老中御列座松平左近将監殿被仰渡小普請/組内藤十次郎支配ニ入申候
 一 同年八月十七日一橋御屋鋪勤番被 仰付候旨内藤/十次郎申渡其後金田采女支配之節同三丙寅年/四月廿八日病気ニ付一橋勤番/御免之儀奉願候処同年五月七日願之通勤番/御免之旨金田采女申渡候
惇信院様御代寛延三庚午年十二月十四日大御番酒井大和守組江/御番入被 仰付候
 一 同四辛未年酒井大和守組之節二条在番礼残
 一 宝暦四甲戌年大岡越前守組之節病気ニ付小普請入/奉願候処同年四月八日願之通小普請入被 仰付候旨大岡越前守申渡小普請組太田美濃守 支配ニ入同八戊寅年四月十五日設楽善左衛門支配ニ罷成候
 一 宝暦十三癸未年二月六日屋鋪類焼〔一町組合本多源二郎方ヨリ出火〕浚明院様御代男子無御座候ニ付養方妹を養女ニ仕御書院番/仁木周防守組小栗仁右衛門信倚四男隼人安僚続き無御座候得者聟養子ニ奉願候処明和元甲申年/十二月十九日願之通聟養子被 仰付候旨松平周防守殿被仰渡候段設楽善左衛門申渡候
 一 明和二乙酉年五月十九日病気ニ付御奉公難相勤候ニ付/隠居奉願候処同年八月四日願之通隠居被 仰付養子主税安僚江家督無相違被下置候旨/於菊之間御老中御列座阿部伊予守殿被仰渡候
 一 安永六丁酉年六月九日〔実ハ八日〕五十九歳ニ而病死江戸本郷/元町浄土宗嶺松山昌清寺ニ葬
   法名 直形院殿光誉岩水居士

   女子(省略)
   安久(省略)

 

 四代目 庄田主税 始名隼人
  安僚
    養母 無之候
    実父 御書院番仁木周防守組小栗仁右衛門信倚四男
       安永三甲午年九月廿三日七十五歳ニ而病死武州足立郡大成村普音院ニ葬
       法名 安寿院殿沢永久残居士
    実母 小普請組曲淵下野守支配松平助四郎忠豊養女
       〔実ハ小普請組酒井小平次支配松平孫太郎高久女〕
       明和九壬辰年四月四日六十五歳病死葬地右同所同寺
       法名 新掩粧清輪院殿浄妙照大姉
    妻  庄田内蔵助安信養女〔実ハ庄田主税安清女〕
       明和六丑年三月廿七日三十二歳ニ而病死武州江戸本郷元町嶺松山昌清寺/葬
       法名 寂性院殿観誉妙静大姉

 一 元文元丙辰年 月 日於武州江戸出生
 一 明和元甲申年十二月十九日養父庄田内蔵助安信願候通/聟養子被 仰付候
 一 同二乙酉年八月四日養父庄田内蔵助安信奉願之通隠居被/仰付□□庄田主税安僚江家督無相違被下置候旨於/菊之間御老中御列座阿部伊予守殿被仰渡小普請組/設楽善左衛門支配ニ罷成候
 一 同三丙戌年五月四日御番入被 仰付候旨於菊之間御老中/御列座松平右京太夫殿被仰渡大御番大岡越前守 組ニ罷成候
 一 同年八月四日石川阿波守組ニ罷成大阪在番罷登候
 一 同六己丑年二条在番右同組之節罷登候
 一 安永元壬辰年大坂在番右同組之節罷登候
 一 同三甲午年二条在番森川紀伊守組ニ為代人罷登候
 一 同四丁未年二条在番石川阿波守組之節罷登候
 一 同五丙申年大坂在番小堀備中守組ニ為代人罷登候
 一 同六丁酉年大阪在番森川紀伊守組ヘ為代人罷登候
 一 同七戊戌年大阪在番石川阿波守組之節罷登候
   同八己亥年正月罷下リ跡残役相勤候
 一 同十辛丑年正月十五日本堂伊豆守組ニ罷成候
 一 同年二月二〔於吹上御庭〕大的 上覧相勤候 拝領物無之
 一 天明元辛丑年二条在番本堂伊豆守組之節罷登候
 一 同二壬寅六月□十月迄助昼夜廻右同組之節相勤候
 一 同年十月廿六日永井美濃守組ニ罷成候
 一 同四甲辰年大坂在番右同組□□□□□
 一 同六丙午年閏十月廿六日酒井隠岐守組ニ罷成候
 一 同七丁未年二条在番右同組之節罷登候
 一 同年十一月朔日夜九半時過類焼〔火元一町組合大御番柳原□□□地面借地御書院番今松宇兵衛也〕
 一 寛政元己酉年二条在番白須甲斐守組江為代人罷登候
 一 同年閏六月廿八日岡部出羽守組ニ罷成候〔都合在番数十一度/内本番七度/代人五度〕
 一 同二庚戌年大阪在番右同組之節病気ニ付礼残〔□□□〕当御代寛政四壬子年十月三日〔実ハ九月廿五日〕五十七歳ニ而病死江戸本郷/元町浄土宗嶺松山昌清寺ニ葬
   法名 顕明院殿清誉白融居士


  イク
  養母 庄田主税安僚妻
   実ハ庄田主税安清女也庄田内蔵助安信養女ニ致候
   明和六丑年三月廿七日死去葬地法号前ニ記
   実母 家女 丁

  マス
  女子 早世
   宝暦十辰年十月廿八日四歳ニ而死去本郷嶺松山昌清寺葬
   法名 玉峯院殿法輪寿栄大童女
   母 家女

  女子 大御番白須甲斐守組與頭三浦藤左衛門直喬妻
   母 家女

 

 五代目 庄田五郎左衛門 始友吉
  安邦
    母 庄田内蔵助安信養女
    妻 小普請組川勝権之助支配小長谷権九郎時雄女

 一 明和四丁亥年三月三日於武州於江戸出生
 一 天明七丁未年二月十五日父庄田主税安僚二条在番/御暇之節 御目見仕候
 一 寛政四壬子年十二月廿五日父庄田主税安僚奉願置候通/跡式無相違被下置候旨於菊之間御老中御列座/戸田采女正殿被仰渡小普請組近藤左京支配罷成候
 一 同六甲寅年二月十七日御番入被 仰付候段於菊之間/御老中御列座太田備中守殿被仰渡大御番藤堂/肥後守組ニ罷成三月廿九日為二条在番罷登候
 一 同七乙卯年十一月廿七日武州八貫野為鹿狩罷出/騎馬相勤申候〔十一月廿六日夕七時出立翌廿七日夜半帰宅□□無之〕
 一 同八丙辰年正月廿二日□同二月十三日迄相番定昼夜廻/川勝頼母祖母死去老中ニ付右忌明迄代廻相勤申候
 一 同年二月十六日武州笹目村鹿狩遠藤備前守殿堀田/豊前守殿両組人数百人罷出候内不足ニ付為助罷出/歩行勢子相勤申候〔十六日暁八半時出之翌十六日夜半帰宅□□□疋〕
 一 同年二月廿二日□同九丁巳年六月廿四日迄定昼夜廻/相番佐々六之助為代相勤申候
 一 同九丁巳年三月廿五日於吹上御庭大的/上覧相勤申候拝領物無之
 一 同年五月十八日久留嶋出雲守組ニ罷成候
 一 同年七月廿六日右同組之節為大坂在番罷登候
 一 同十戊午年〈九月十一日前田安房守組〉ニ罷成候(〈 〉内は副本に拠る)
 一 同年九月廿五日於吹上御庭大的/上覧相勤申候 拝領物無之
 一 同十戊午年十月十六日□定昼夜廻相勤申候
 一 同十二申二条在番前田安房守組之節罷登申候
 一 享和三亥年二月三日於武州八貫野鹿狩松平/丹後守組之節罷出申候
 一 同年大坂在番松平丹後守組之節罷登申候
 一 文化元子年十月□同上寅年迄定昼夜廻リ相勤申候
 一 同三寅年二条在番松平丹後守組之節罷登申候
 一 同四卯年二条在番片勢日向守組ニ為代人罷登候
 一 同六巳年大坂在番高木伊勢守組之節罷登候
 一 同八未年閏二月五日於武州徳丸原鹿狩高木/伊勢守組之節相勤申候
 一 同九申年二条在番高木伊勢守組之節先残/役相勤申候
 一 同十酉年二条在番小笠原若狭守組江為代人/罷登リ申候
 一 同十二亥年大坂在番松平長門守組之節御破損/奉行相勤申候
 一 同十三子年大坂在番松平□□□江為代人/罷登申候
 一 文政元寅年二条在番戸田土佐守組之節罷登候
 一 同三辰年正月廿七日〔実ハ文政二卯年九月廿八日〕〔五十四歳ニ而〕病死仕候
   法名 崇義院殿弁誉従信居士
   本郷元町浄土宗嶺松山昌清寺葬


  女子 大御番建部内匠頭組与頭/鈴木清左門泰光惣領/鈴木左兵衛泰通妻
    母
   明和八辛卯年二月十九日出生


   庄田熊蔵
  安固
    母
   安永三年六月廿三日出生寛政十二申年六月十七日□□□□□/古田志摩守組山中源之丞願之通養子仰付同年九月六日父跡式被下置/享和元辛酉年五月廿三日〔廿七才ニ而〕〔実ハ廿八才也〕病死仕候

   佐々木栄三郎
  利安
    母

   安永八己亥年十二月七日出生
   寛政八丙辰年六月廿九日大御番中坊近江守組佐々木金右衛門/秀利江願之通養子被 仰付候

   クニ
  女子 早世
    母
   天明三癸卯年二月晦日三歳病死本郷昌清寺葬法名観応院春講/妙智童女

   ツジ
  女子 早世 当歳死去
    母
   天明四丙辰年十一月朔日当歳死去本郷昌清寺葬法名冬幻院晃雲/童女

   キチ
  女子 天明五乙巳年六月廿一日出生
         大御番
          山口周防守組松波源右衛門妻不縁ニ付
         西丸御納戸組頭
          井関弥右衛門

   トメ
  女子 寛政元酉年

 

   庄田友吉
  某  寛政十二年 出生 文化二丑年十一月七日病死/昌清寺葬六歳也
    母 小長谷権九郎〔時雄〕娘


 六代目 庄田谷次郎
  安玄
    母 同断
    妻 安藤亀之助娘
  文化二丑年七月廿八日武州於江戸出生〔文化二丑年十一月八日[実ハ七日也]兄友吉病死仕候ニ付/私儀次男惣領仕度段父五郎左衛門奉願候処同年十二月願之通被 仰付候旨御老中牧野備前守殿被仰渡〕
  文政三辰年四月四日父跡式被下置小普請入/米津小太夫支配罷成候〔同三辰年六月十八日永見伊予守支配罷成同五午年二月八日岩本内膳正支配罷成同七申年六月十三日〕
  文政七申年六月十三日/御目見被 仰付候
  同九戌年五月廿一日浅野隼人組ニ罷成候/〔天保四巳年九月十四日斎藤若狭守支配罷成同五午年八月九日後藤/佐渡守支配罷成同人支配之節[文恭院様御代]同七申年九月廿六日病気差重候処/男子無御座候ニ付弟之続ヲ以金之助[安明]儀急養子仕度段奉願置翌廿七日[実ハ五月廿八日死]/三拾三歳ニ而病死仕候本郷元町浄土宗嶺松山昌清寺ニ葬申候号/至徳院殿謙誉実心居士

   庄田金之助
  安明 庄田谷次郎安玄養子 譜末ニ有之
    母 田安大納言殿頭役 森宗兵衛可林女

   早世
  女子 文化六巳年五月二日出生同日死去四ツ谷禅宗/全勝寺葬法名
    母 家女 氏不知

   キヌ 早世
  女子 文化九申年正月四日出生同年五月十二日死去四ツ谷禅宗/全勝寺葬法名微顔□笑禅童女
    母 田安大納言殿/頭役 森宗兵衛

   ヨキ後ソメ
  女子 文化十二亥年十二月四日出生
   尾張 御簾中様江御奉公仕天保五午年十二月十一日廿歳ニ而病死/浄土宗本郷元町嶺松山昌清寺ニ葬
   号智暁院雲誉貞嶂大姉
    母 田安大納言殿/頭役 森宗兵衛

 

 七代目 庄田金之助
  安明
    養母  百人組之頭      酒井大内記忠求女
    実父  大御番新庄越前守組  庄田五郎左衛門安邦
                   三男
    実母  田安大納言殿/頭役/後ニ補佐之匠松平越中
        守付 森宗兵衛可林女
    妻   御使番  隠居養□/木原兵三郎白敏女

    文化十酉年閏二月廿九日於武州江戸出生仕候
  一 天保七申年十二月七日養父実者兄庄田谷次郎[弟之続以養子]奉願置候通/跡式無相違[金之助安明江]被下置旨於菊之間御老中御列座松平/和泉守殿被仰渡小普請組後藤佐渡守支配罷成候
  一 同十一子年九月廿日/御目見仕候
  一 同年十一月廿日矢部左近将監支配罷成
  一 同十二丑年四月廿八日河内采女正支配罷成
  一 同年十月六日於吹上御庭大的/上覧被 仰付時服二拝領仕候
  一 同十三寅年七月十二日加藤靱負支配罷成
  一 同年十二月廿八日戸川因幡守支配罷成
  一 同十四卯年七月十七日西丸御腰物方被 仰付旨/於躑躅之間御老中御列座土井大炊頭殿被仰渡/〔森伝衛門/小倉十兵衛〕組ニ成同年八月五日/御本丸御腰物方可相勤旨於躑躅之間御老中御列座/真田信濃守殿被仰渡〔森伝衛門/小倉十兵衛〕組ニ成
  一 同十五辰年十月十五日御指御道具帳類取調掛リ役/被仰渡
  一 弘化二巳年七月十三日御指御道具帳類取調之儀/骨折相勤候ニ付銀五枚拝領被仰付旨於御右/筆部屋縁頬阿部伊勢守殿被仰渡

 

 初めにも記したが、『庄田家系譜』には正本と副本があり、副本はすでに調査済みであった。ただ、副本には疑問点もあり、それらの中には、書写の折の誤りもあるのではないか、と推測はしていた。私にとって、最も重要な『日記』の記者・隆子の条についても疑問点があった。副本は、
 「    キチ
     女子 天明五乙巳年六月廿一日出生
          大御番
           山口周防守組松波源右衛門妻不嫁ニ付
          西丸御納戸組
           井関弥右衛門           」
 とあり、「不嫁」をどう解釈するか迷った。「妻」でありながら「嫁がざるに付き」とはどういう事か。様々な推測をしていた。この部分の正本は、次の如くなっている。
 「    キチ
     女子 天明五乙巳年六月廿一日出生
          大御番
           山口周防守組松波源右衛門妻不縁ニ付
          西丸御納戸組頭
           井関弥右衛門           」
 これで氷解した。つまり、隆子は松波源右衛門と結婚したが、何らかの理由で離婚し、その後、井関弥右衛門・親興の許へ後妻として嫁いだのである。
 推測するに、隆子は、旗本の松波源右衛門と結婚したが、故あって離婚した。結婚の時期は、教養もあり気位も高かった彼女の事を考えると、やや晩婚の二十歳の、文化元年(一八〇四)の頃であったかも知れない。離婚の時期は、松波源右衛門が、大番組頭・山口周防守弘致の配下であった頃であるので、その在任期間、文化四年(一八〇七)〜文政元年(一八一八)の間という事になる。結婚後三年目とすれば、文化四年である。井関親興(弥右衛門)の後妻として井関家へ嫁いだのは、親興の先妻が文化九年八月に没しているので、文化十一年(一八一四)の頃ではないかと思われる。この時、隆子は三十歳であり、親興は四

十九歳であった。
 また、副本は、井関親興について「西丸御納戸組」としているが、これも、正本の「西丸御納戸組頭」が正しい。『柳営補任』巻之十六、西丸納戸組頭の条に、
 「同日(寛政九巳二月十三日)同断(御本丸御納戸)ヨリ/下田幸太郎/井関弥右衛門/佐々木次郎太郎」
とある。
 寛政九年(一七九七)四月廿一日、徳川家慶(大納言)は西丸に移徙している。『徳川実紀』寛政九年四月廿一日の条に、
 「○廿一日巳の牌 大納言殿西城御移徙あり。黒木書院より大広間通り。御車寄にして駕輿奉り。西城大手門玄関より入らせらる。西城附属の輩その他玄関前白洲塀重門前に一同並居て見えたてまつる。」
とある。井関親興はこの、家慶の西丸入りの時、本丸の納戸組から西丸の納戸組頭へ転じ、家慶に仕えたのである。三十二歳であった。
 隆子は、十二冊、全一千丁に及ぶ『日記』の中で、自分の最初の結婚と離婚の経緯に関して全く触れていない。この事を伝えるのは、現在のところ『庄田家系譜』のみである。

 付 記
 この度、長年の懸案であった、『庄田家系譜』正本を閲覧・調査することが出来た。正本は現在、トランク・ルームに預けられ、安全に保管されている。閲覧に際し、格別の御配慮を賜った、庄田安豊氏に深甚なる謝意を表します。
           (『文学研究』第88号、平成12年4月 掲載)


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