井関隆子の批評精神
     ―幕末旗本夫人の日記から―
 
                             深 沢 秋 男
 
 井関隆子(いせきたかこ)と言っても,御存知ない方が多いと思う。江戸文学の中で,最近,少し知られてきた女性である。それは,平成11年度の大学入試センター試験の,国語T・Uの古文に『井関隆子日記』が採り上げられたことも関連している。
 しかし,私と隆子との出会いは,もう25年も前になる。鹿島神宮宮司家・67代の鹿島則文のコレクション・桜山文庫の中に,桐箱入り・全12冊の自筆の『日記』を発見した時から彼女との付き合いが始まった。
 この全く無名の著者の『日記』を初めて読んだ時,大変驚いた。『日記』は幕末の天保11年(1840)から5年間に亙って書かれていたが,そこには,徳川11代将軍・家斉,12代・家慶,13代・家定の名が所々に出てきて,しかも将軍家の動静がかなり詳しく書かれていたからである。
 隆子は江戸城に近い九段坂下に住んでいた。夫は,この時すでに他界していたが,子の親経は御広敷御用人を勤め,家斉の正妻の広大院の掛りをしていた。孫の親賢も家慶の御小納戸を勤め,後には御広敷御用人となり,和宮の掛りとなっている。
 井関家は,代々,初めは将軍の身の回りの世話をする掛りであり,だんだん出世して,晩年には,江戸城の表(政治を行う所)と大奥(将軍の私生活の場)との接点である御広敷の責任者になる,そんな家柄であった。隆子は将軍家へ仕える子や孫から,毎日,江戸城中での出来事を聞き,それを『日記』に書さ残していたものと推測される。
 一例を紹介すると,将軍・家斉は天保12年閏1月30日に他界した,というのが,現在でも定説になっている。しかし,隆子は,閏1月7日に家斉が没した事を記している。徳川家の正史ともいうべき『徳川実紀』には虚構があり,一女牲の日記に真実が伝えられているのである。隆子は,当時の女性としては珍しく,広い視野の持ち主で,その興味は、歴史・文芸・文化・政治・社会と多方面に亙っている。国学者の鹿島則文は,最初,男性の日記かと間違えた程である。そして、単に興味を示すに止まらず,それらに,ことごとく論評を加えているが,その批評は極めて厳しく,しかも的確なものが多い。
 隆子が的確な批判をする事が出来たのは,彼女自身,広く古典を渉猟し,豊かな学識を備えていて,人間を歴史の流れの中でとらえるという,視点を持っていたからである。その上,前にも述べたように,親経・親賢,父子から,江戸城内の様子や幕政等に関する正確な情報を得ていた事も関係しているように思われる。
 首席老中・水野忠邦は,家斉没後,天保の改革に着手し,強引な政策を実行しているが、隆子はこれらを手厳しく批判している。そこに、彼女の老いてますます衰えることのない批評精神を見る事ができる。
 隆子は草花の中ではススキが大好きで,自分の庭を鹿屋園(かやぞの)と称して,四季折々の自然の変化を楽しんでいたが,また,大変な酒好きでもあった。子の親経は,時には、彼女の部屋へ,銘酒を樽のまま届ける程であった。だが,彼女の酒は,大勢でワイワイ飲むのではなく,一人静かに嗜む飲み方であった。
 彼女の晩年の1,2年は,両親は言うまでもなく,8人の兄弟姉妹にもことごとく先立たれ,寂しい日々であり,人の世の哀れを感じることも度々ではあったが,それは,決してみすぼらしいものではなかった。
 天保15年11月1日,60歳の生涯を閉じているが,彼女の生き方を『日記』その他の著作を通して見ると,それは,自分の意思や感性に,どこまでも忠実に生きた一生であったと言ってよい。その故に,子供や孫や・その他の家族,使用人にも尊敬され,権威をもってこの世を去ることができたものと推測される。
 私は,近世初期の仮名草子を研究していたので,この近世末期の女性の日記にめぐり合ったからといって,即座にこれに手を付ける訳にはゆかなかった。海のものとも山のものとも判らない,全く無名の女性の作物を手掛けるという事は,常識では考えられない事である。昭和37年から仮名草子研究をはじめ,この日記に出会った時には,仮名草子関係の本も5点程出してもいたので,普通ではこういう事はしない。しかし,鹿島氏からこの『日記』の原本を拝借して読み進めるうちに,私はこの女性の日記に,グングン惹きつけられていった。それは,隆子の老いてますます衰えることのない批評精神であり,モノをみる目の確かさであり,毅然と生きる女性の姿であった。そして,それらを伝える文章も見事であった。自筆写本・全12冊,日記とは言いながら,これらは全て浄書されている。誤写の部分は,切り抜き,裏から紙を貼り,訂正している。全体では64万字程になるが,誤字は,私の校訂した結果では,10数箇所に過ぎなかった。研究生活の中で,私は8年間の寄り道をしてしまったが,これは,これでよかった,と今思っている。
 江戸末期に、このように、自己の意思の通りに生きた、いわば近代的な生き方をした女性にめぐり会えた事は、江戸文学の研究者として、幸せであったと、つくづく思う。
                               (Hll,7,11)
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