アラビヤ夜話

                 法政大学教授 森田草平 訳



     例言(れいげん)

一、本書(ほんしよ)は『日本児童文庫(にほんじどうぶんこ)』のために、私(わたくし)が新(あら)たに書(か)き下(お)ろしたものでございます。
一、私(わたくし)は前(まへ)にウイリヤム・レーン訳(やく)の『千一夜物語(せんいちやものがたり)』を邦語(ほうご)に訳(やく)しましたが、その中(なか)から児童(じどう)の読(よ)み物(もの)として適当(てきとう)だと思(おも)はれる話(はなし)を八(やつ)つ選(えら)んで、それをなるたけわかり易(やす)い文体(ぶんたい)に書(か)き直(なほ)して見(み)たのでございます。たゞ一(ひと)つ最後(さいご)の『アリ・ババと四十人(しじゆうにん)の盗賊(とうぞく)』の話(はなし)だけは、アレキサンドリー版(ばん)の原書(げんしよ)に拠(よ)つたレーンの訳(やく)には載(の)つてゐません。で、これはバアトンの訳(やく)に拠(よ)つて、カイロー版(ばん)の原書(げんしよ)から補充(ほじゆう)したものを採用(さいよう)しました。
一、御承知(ごしようち)の通(とほ)り、この『アラビヤ夜話(やわ)』なるものは、元来(がんらい)児童(じどう)のために作(つく)られたものではないので、いろ/\な点(てん)で児童(じどう)の読(よ)み物(もの)に適(てき)しないのが多(おほ)い。で、あれだけ数(かづ)ある話(はなし)の中(なか)でも、本当(ほんとう)に児童(じどう)に読(よ)ませて差(さ)し支(つか)へないと思(おも)はれるのは、まづこの書(しよ)に収録(しゆうろく)した九(こゝの)つの話(はなし)ぐらゐなものだらうと思(おも)ひます。なほこゝに採用(さいよう)したものゝうちでも、いかゞはしいと思(おも)はれるところは多少(たしよう)改作(かいさく)した点(てん)もありますから、あらかじめ御承知(ごしようち)置(お)きを願(ねが)ひます。
一、世(よ)に行(おこな)はれてゐる類書(るいしよ)の中(なか)で、この書(しよ)の特徴(とくちよう)として挙(あ)げ得(え)られるものがあるとすれば、在来(ざいらい)の『アラビヤ夜話(やわ)』は、多(おほ)くは西洋人(せいようじん)が選択(せんたく)して、西洋人(せいようじん)が西洋(せいよう)の児童(じどう)のために書(か)き直(なほ)したものをそのまゝ翻訳(ほんやく)もしくは抄訳(しようやく)したものが多(おほ)いように思(おも)はれるのに対(たい)して、この書(しよ)は最初(さいしよ)から私(わたくし)が選(えら)んで、私(わたくし)が書(か)き直(なほ)したといふ一事(いちじ)にあります。従(したが)つて、よくもわるくも、本書(ほんしよ)の責任(せきにん)は一(いつ)に私(わたくし)にあるのでございます。以上(いじよう)。
  昭和(しようわ)二年(にねん)八月(はちがつ)一日(いちにち)
                    森田草平(もりたそうへい)しるす

目次(もくじ)
ユーナン王(おう)と学者(がくしや)ヅーバンの話(はなし)
ハサンと馬丁(ばてい)の話(はなし)
若(わか)い獅子(しし)と大工(だいく)の話(はなし)
アラ・エ・デイーンの話(はなし)
ひようきん者(もの)ハサンの話(はなし)
賢婦(けんぷ)ヅムルツドの話(はなし)
馬(うま)どろぼう
エス・シンヂバードの航海譚(こうかいだん)
 動(うご)く島(しま)の話(はなし)
 金剛石(こんごうせき)の谷(たに)の話(はなし)
 人食(ひとく)ひ猿(さる)の話(はなし)
 食人種(しよくじんしゆ)の話(はなし)
アリ・ババと四十人(しじゆうにん)の盗賊(とうぞく)




アラビヤ夜話




装  幀・恩地孝四郎
口絵挿絵・深沢省三




   ユーナン王(おう)と学者(がくしや)ヅーバンの話(はなし)

 昔(むかし)、ぺルシヤの国(くに)に、ユーナン王(おう)といふ王様(おうさま)がありました。この王様(おうさま)は数多(あまた)の宝物(たからもの)と強(つよ)い軍隊(ぐんたい)とを持(も)つてゐて、何(なに)一(ひと)つ不自由(ふじゆう)のない身(み)の上(うへ)でございました。が、気(き)の毒(どく)なことには、恐(おそ)ろしい癩病(らいびよう)を病(や)んで、国中(くにじゆう)の医者(いしや)も学者(がくしや)も、それを直(なほ)して差(さ)し上(あ)げることが出来(でき)ませんでした。又(また)、ありとあらゆる医薬(いやく)も、療治(りようじ)も、なんのきゝめもありませんでした。
 ところが、ある日(ひ)この王様(おうさま)の都(みやこ)へ、ヅーバンといふ年(とし)をとつた学者(がくしや)がやつてまゐりました。この学者(がくしや)は、古代(こだい)と近代(きんだい)とを問(と)はず、諸国(しよこく)の学問(がくもん)に通(つう)じてゐるばかりか、いろんな病(やまひ)を直(なほ)す上(うへ)にも優(すぐ)れたうでまへを持(も)つてゐました。
 ところで、ヅーハンは、二三日(にさんにち)この都(みやこ)に滞在(たいざい)してゐる間(あひだ)に、ふと王様(おうさま)の病(やまひ)と、誰(たれ)にもそれを直(なほ)すことが出来(でき)ないといふ噂(うはさ)とを耳(みゝ)にしました。その夜(よ)、彼(かれ)は自分(じぶん)の室(へや)に閉(と)じ籠(こも)つたまゝ、一人(ひとり)で考(かんが)へあかしました。で、何(なに)やら思(おも)ひついたことがあると見(み)え、明(あ)くる朝(あさ)になると、一番(いちばん)立派(りつぱ)な服(ふく)に着代(きか)へて、王様(おうさま)の御前(ごぜん)にまかり出(い)でました。そして、王様(おうさま)の前(まへ)に平伏(へいふく)しながら、
「陛下(へいか)よ、畏(おそ)れ多(おほ)いことではありますが、私(わたくし)は陛下(へいか)のご病気(びようき)と、どんな医者(いしや)もそれを直(なほ)すことが出来(でき)ないといふ噂(うはさ)を蔭(かげ)ながら承(うけたまは)りました。で、私(わたくし)は飲(の)み薬(ぐすり)にも塗(ぬ)り薬(ぐすり)にも薬(くすり)といふものは一切(いつさい)用(もち)ひないで、陛下(へいか)のご病気(びようき)をそのまゝ直(なほ)して差(さ)し上(あ)げたいと存(ぞん)じまして、かうしてまかり出(い)でた次第(しだい)でございます」と、申(まを)し上(あ)げました。
「なに、薬(くすり)を用(もち)ひないでわしの病気(びようき)を直(なほ)してくれる。どうしてそんなことが出来(でき)るのぢや」
と、王様(おうさま)はびつくりして云(い)はれました。
「もしお前(まへ)がわしの病気(びようき)を直(なほ)してしてくれたら、お前(まへ)自身(じしん)は申(まを)すに及(およ)ばず、子々孫々(しゝそん/\)に至(いた)るまで何(なに)不自由(ふじゆう)なく暮(くら)すことの出来(でき)るようにしてあげるよ。だが、そんなことがほんとうに出来(でき)るのかね」
「何(なに)しに嘘(うそ)を申(まを)し上(あ)げませう。もしもそれが出来(でき)なかつたら、即座(そくざ)に命(いのち)を召(め)し上(あ)げられても厭(いと)ひませぬ」と、学者(がくしや)はきつぱり申(まを)し上(あ)げました。
「さうか、では、ほんとうに飲(の)み薬(ぐすり)も塗(ぬ)り薬(ぐすり)も用(もち)ひないで、わしの病気(びようき)を直(なほ)してくれると云(い)ふのだな」
と王様(おうさま)は、改(あらた)めておたづねになりました。
「いかにもさようでございます。私(わたくし)は玉体(ぎよくたい)に少(すこ)しも気味(きみ)のわるい思(おも)ひをおさせ申(まを)さないで、そのまゝ御病気(ごびようき)を直(なほ)して差(さ)し上(あ)げます」と、学者(がくしや)は再(ふたゝ)び答(こた)へました。
 王様(おうさま)はすつかりあきれ返(かへ)つてしまはれたが、急(きゆう)に勇(いさ)み立(た)つて、一日(いちにち)も早(はや)く治療(ちりよう)を加(くは)へてくれるように御依頼(ごいらい)になりました。
 学者(がくしや)はそこで王様(おうさま)の御前(ごぜん)を退(しりぞ)いて、別(べつ)に一軒(いつけん)の家(いへ)を借(か)り入(い)れた上(うへ)、その内(うち)に書籍(しよせき)を始(はじ)めいろ/\な薬剤(やくざい)を搬(はこ)び入(い)れました。そして、柄(え)の中(なか)が空(から)になつてゐるごるふ杖(づゑ)をつくつて、その柄(え)の中(なか)へ一種(いつしゆ)の薬(くすり)を填(つ)めました。別(べつ)に又(また)うまくそれに合(あ)うような球(たま)も造(つく)りました。で、それがすつかり出来(でき)上(あが)つた時(とき)、再(ふた)び王様(おうさま)の御前(ごぜん)へ出(で)て、「すぐさま競馬場(けいばじよう)へお出(で)ましになつて、ごるふをお遊(あそ)びなさいませ」と、申(まを)し上(あ)げました。王様(おうさま)は、大勢(おほぜい)の侍従(じじゆう)どもを随(したが)へて、早速(さつそく)競馬場(けいばじよう)へお出(で)ましになりました。すると、学者(がくしや)のヅーバンは、かねて用意(ようい)した球(たま)とごるふ杖(づゑ)とを王様(おうさま)にお渡(わた)しゝて、次(つ)ぎのように申(まを)し上(あ)げました。
「この杖(つゑ)をかう握(にぎ)つて、馬(うま)を駈(か)けさせながら、これで力一杯(ちからいつぱい)球(たま)をお打(う)ち下(くだ)さいませ。それも、あなたの全身(ぜんしん)が汗(あせ)でしつとりなるまで、打(う)つて/\打(う)ち据(す)ゑるのでございます。さうしますと、この杖(つゑ)の中(なか)に仕込(しこ)んである薬(くすり)が自然(しぜん)に手(て)に浸(し)み込(こ)んで、だん/\体中(からだじゆう)に廻(まは)ります。で、一(ひと)わたりお遊(あそ)びが済(す)んで、薬(くすり)が体中(からだじゆう)へ廻(まは)つた時分(じぶん)に御殿(ごてん)へお帰(かへ)りになつて、一風呂(ひとふろ)浴(あ)びてぐつすりお寝(やす)みなさいませ。お目覚(めざ)めになつた時(とき)は、もう御病気(ごびようき)はすつかり直(なほ)つてゐることでございませう」
 で、王様(おうさま)は学者(がくしや)からごるふ杖(づゑ)をお受(う)け取(と)りになると、それを手(て)に握(にぎ)つたまゝ、とつとつとと、馬(うま)を競馬場(けいばじよう)の真中(まんなか)へ進(すゝ)められました。すると、お相手(あひて)がほどよく球(たま)を王様(おうさま)の前(まへ)へ投(な)げました。王様(おうさま)は馬(うま)を駆(か)つてそれを追(お)ひかけながら、ありたけの力(ちから)を出(だ)してお打(う)ちになりました。かうして、何回(なんかい)となくこの遊戯(ゆうぎ)を繰(く)り返(かへ)した後(のち)、御殿(ごてん)へお帰(かへ)りになりましたが、入浴(にゆうよく)しておやすみになるまで、一々(いち/\)学者(がくしや)の言葉通(ことばどほ)りになさいました。で、目(め)を覚(さ)ましてから、そこら中(じゆう)を撫(な)でて御覧(らん)になると、不思議(ふしぎ)なことには、あのしつこい癩病(らいびよう)の跡形(あとかた)さへ残(のこ)つてゐません。まるで白銀(しろがね)のように皮膚(ひふ)がすべ/\してゐるんですね。王様(おうさま)はもう夢(ゆめ)かとばかり、有頂天(うちようてん)になつて喜(よろこ)ばれました。
 次(つ)ぎの朝(あさ)ヅーバンがまゐりますと、王様(おうさま)は御自分(ごじぶん)で階(きざはし)の下(した)までお出迎(でむか)へになつて、お側(そば)に並(なら)んで坐(すわ)らせながら、宮廷(きゆうてい)の賓客(ひんかく)としておもてなしになりました。そして、さま/゛\な御馳走(ごちそう)を下(くだ)すつた上(うへ)、高価(こうか)な衣装(いしよう)や珍(めづら)しい財宝(ざいほう)に添(そ)へて、一千片(いつせんひら)の黄金(おうごん)までたまはりました。で、ヅーバンも面目(めんもく)を施(ほどこ)して退出(たいしゆつ)しましたが、その後(ご)御殿(ごてん)へ上(あが)るたびに、王様(おうさま)はいよいよ彼(かれ)を大切(たいせつ)に扱(あつか)はれました。
 ところが、大臣達(だいじんたち)のうちに、一人(ひとり)強欲(ごうよく)で大(たい)そう嫉(ねた)み深(ぶか)い男(をとこ)がありました。彼(かれ)は王様(おうさま)がヅーバンをお友達(ともだち)のようにして、後(あと)から/\といろ/\な御褒美(ごほうび)を賜(たま)はるのを見(み)て、やけてやけてたまらなくなりました。そして、ひそかによくない考(かんが)へを懐(いだ)くようになりました。ある日(ひ)のこと、彼(かれ)は王様(おうさま)の前(まへ)に近(ちか)づいて、
「陛下(へいか)、私(わたくし)はどうしても陛下(へいか)に申(まを)し上(あ)げなければならないことがあるのですがね、それは容易(ようい)ならぬことでございます。しかも、ことは他人(たにん)の身(み)の上(うへ)に関(かん)したものではありますが、私(わたくし)がなまじ隠(かく)し立(だ)てをして申(まを)し上(あ)げずに置(お)いたら、到底(とうてい)不忠不臣(ふちゆうふしん)の罪(つみ)を免(まぬか)れませぬ。で、陛下(へいか)のお許(ゆる)しさへあれば、私(わたくし)は直(たゞ)ちに申(まを)し上(あ)げる覚悟(かくご)でございます」と、いかにも様子(ようす)ありげに申(まを)し立(た)てました。
 大臣(だいじん)が突然(とつぜん)こんなことを云(い)ひ出(だ)したので、王様(おうさま)も大(たい)そう御心配(ごしんぱい)になつて、
「一体(いつたい)それは何事(なにごと)ぢや」と、せき込(こ)んでおたづねになりました。そこで、大臣(だいじん)は一(いつ)そう真顔(まがほ)になつて、次(つ)ぎのように申(まを)し上(あ)げました。──
「まことに畏(おそ)れ多(おほ)いことではありますが、今(いま)や陛下(へいか)はあやまつた道(みち)を取(と)つていらせられます。陛下(へいか)は陛下(へいか)の敵(てき)に、陛下(へいか)の不幸(ふこう)を望(のぞ)んでゐる者(もの)に、さま/゛\な恩寵(おんちよう)を加(くは)へられました。前例(ぜんれい)のない程(ほど)その者(もの)を厚遇(こうぐう)されました。そして、その者(もの)を無二(むに)の親友(しんゆう)のように信頼(しんらい)していらせられます。ですから、私(わたくし)はこの先(さき)どんなことが持(も)ち上(あが)らうかと陛下(へいか)のためにひそかに心(こゝろ)を痛(いた)めてゐるのでございます」
これを聞(き)くと、王様(おうさま)はさつと顔色(かほいろ)をお変(か)へになつて、
「お前(まへ)は何(なに)を云(い)つてるのだ。わしの敵(てき)といふのは何者(なにもの)ぢや。誰(たれ)をわしは無二(むに)の親友(しんゆう)のように信頼(しんらい)してゐるか」と、言葉(ことば)鋭(するど)くおたづねになりました。大臣(だいじん)はいよ/\真面目(まじめ)くさつて、
「あゝ陛下(へいか)よ、あなたはまだ夢(ゆめ)を見(み)ていらつしやる。どうぞお目(め)を覚(さ)まして下(くだ)さいませ。私(わたくし)は、学者(がくしや)のヅーバンのことを云(い)つてゐるのでございます」と、答(こた)へました。
「いや/\」と、王様(おうさま)は頭(かしら)を左右(さゆう)に振(ふ)りながら仰(おほ)せられました。「あの学者(がくしや)は、わしのためには大事(だいじ)な命(いのち)の親(おや)ぢや。あれはたゞあの杖(つゑ)をわしの手(て)に握(にぎ)らせただけで、わしの病(やまひ)を直(なほ)してくれた。医者(いしや)といふ医者(いしや)がみんな匙(さじ)を投(な)げたわしの病(やまひ)を、たゞそれだけのことで直(なほ)してくれた。たとひ世界中(せかいじゆう)を西(にし)から東(ひがし)まで捜(さが)して廻(まは)つても、あんな偉(えら)い男(をとこ)がまたと一人(ひとり)見出(みいだ)されるものではない。それだのに、お前(まへ)は又(また)どうしてそんなことを云(い)ひ出(だ)したのぢや。わしはあの男(をとこ)に生涯(しようがい)年金(ねんきん)を黄金(おうごん)一千片(いつせんひら)づゝ下(さ)げてやる積(つも)りぢやが、それだけではまだ少(すく)な過(す)ぎるくらゐに思(おも)つてゐるのぢや。たとひこの王国(おうこく)の一部(いちぶ)を割(さ)いてやつたとしても、まだあの男(をとこ)に酬(むく)いるには足(た)りまい。それだのに、一体(いつたい)なんと思(おも)つてそんなことを云(い)ふのか。わしには、どうもお前(まへ)があの男(をとこ)のことを妬(ねた)んでゐるとしか思(おも)はれないがね」
 かう云(い)つて王様(おうさま)は一向(いつこう)大臣(だいじん)の言葉(ことば)を取(と)り上(あ)げようとせられませんでした。が、大臣(だいじん)もさるもの、なか/\悪智慧(わるじえ)にはたけてゐましたので、そのまゝ引込(ひつこ)むようなことはいたしません。つべこべともつともらしい嘘(うそ)を並(なら)べ立(た)てた末(すゑ)、
「陛下(へいか)よ、あなたがあの学者(がくしや)を信頼(しんらい)していらつしやるのも、まつたく無理(むり)のないことだとは存(ぞん)じます」と、改(あらた)めて云(い)ひ出(だ)しました。
「実際(じつさい)あの男(をとこ)は不思議(ふしぎな)な力(ちから)をもつてゐます。ですが、そこを考(かんが)へて下(くだ)さいませ。その不思議(ふしぎ)な力(ちから)を持(も)つてゐることが、また実(じつ)に油断(ゆだん)のならぬところでございますからね。なぜかと申(まを)しますと、あの男(をとこ)はたゞあなたのお手(て)に何(なに)かしら握(にぎ)らせただけで、たゞそれだけで永々(なが/\)の御病気(ごびようき)を直(なほ)したではございませんか。して見(み)れば、あなたは同(おな)じようにたゞ手(て)に何(なに)かしら握(にぎ)らせられるだけで、いつ、あの男(をとこ)に殺(ころ)されるか知(し)れない。それも覚悟(かくご)していらつやらなければいけませんよ。さう考(かんが)へると、実際(じつさい)少(すこ)しの油断(ゆだん)もあつたものではございません。私(わたくし)は心(こゝろ)の底(そこ)からそれを心配(しんぱい)してゐるのでございますよ」
「なるほど、それもさうじやな」と、王様(おうさま)はとう/\大臣(だいじん)の言葉(ことば)に惑(まど)はされてしまひました。
「お前(まへ)の云(い)ふことはもつともぢや、云(い)はれて見(み)れば、どうもあの男(をとこ)はわしを殺(ころ)すために入(い)り込(こ)んだまはしもののように思(おも)はれる。そして、いつわしの手(て)に怪(あや)しいものを握(にぎ)らせて、わしを殺(ころ)すか知(し)れたものぢやない。それを思(おも)ふと、ほんとうに一時(いつとき)も油断(ゆだん)はならんな。お前(まへ)はなか/\忠義(ちゆうぎ)ものぢや。で、わしはあの男(をとこ)をどうすればいゝだらうな」
 大臣(だいじん)は「しめた」と、思(おも)ひましたが、色(いろ)にも見(み)せないで、又(また)次(つ)ぎのように申(まを)し上(あ)げました。
「すぐに、あいつをよび出(だ)して、首(くび)を刎(は)ねておしまひなさいませ。つまり、こちらが先廻(さきまは)りをして、あいつの命(いのち)を取(と)つてしまふのですよ。それが何(なに)より安心(あんしん)でございますからね」
 その言葉(ことば)に従(したが)つて、王様(おうさま)はすぐに学者(がくしや)をよび寄(よ)せました。そんなことゝは夢(ゆめ)にも知(し)らない学者(がくしや)は、喜(よろこ)び勇(いさ)んで、王様(おうさま)の前(まへ)に参(まゐ)りました。すると、驚(おどろ)くではありませんか。自分(じぶん)の命(いのち)は今日(けふ)限(かぎ)りだと云(い)ふ仰(おほ)せでございます。彼(かれ)には、最初(さいしよ)は何(なに)が何(なに)やらわかりませんでした。が、やがて真青(まつさを)な顔(かほ)を上(あ)げて申(まを)しました。──
「あゝ陛下(へいか)よ、あなたはどうして私(わたくし)を殺(ころ)さうとなさるのですか。一体(いつたい)私(わたくし)は、殺(ころ)されねばならないような、どんな悪(わる)いことをいたしましたでせう。」
「わしはお前(まへ)がまはしもので、わしを殺(ころ)すために入(い)り込(こ)んだものだと云(い)ふことを聞(き)き知(し)つたのぢや。そこで、わしは先(ま)ずお前(まへ)を殺(ころ)して、世(よ)の見(み)せしめにしようと思(おも)ふのだよ」と、王様(おうさま)は平然(へいぜん)として仰(おほ)せられました。それから役人(やくにん)どもに向(むか)つて、
「さあ、すぐにこの反逆者(はんぎやくしや)の首(くび)を刎(は)ねろ」と、申(まを)し渡(わた)されました。
「それはあまりに御無体(ごむたい)な」と、学者(がくしや)はあわてゝ申(まを)しました。「私(わたくし)はあなたの御病気(ごびようき)を直(なほ)した外(ほか)に、何(なに)一(ひと)つ悪(わる)いことをした覚(おぼ)えはございませぬ。それを無理無体(むりむたい)に殺(ころ)そうとなさるのは、まるで私(わたくし)に鰐(わに)の酬(むく)いを返(かへ)されるのではありませんか。どうぞもう一度(いちど)思(おも)ひ返(かへ)して下(くだ)さいませ」
「その鰐(わに)の酬(むく)いといふのは、どんなことか」と、王様(おうさま)は珍(めづら)しそうに聞(き)き返(かへ)されました。
「それはかようでございます」と、学者(がくしや)はその話(はなし)を始(はじ)めました。
「昔(むかし)、一匹(いつぴき)の鰐(わに)がナイル川(がは)から匐(は)ひ上(あが)つて、だん/\砂漠(さばく)の方(ほう)へ行(ゆ)くうちに、へと/\に疲(つか)れて、喉(のど)は渇(かわ)くが水(みづ)はなし、もう少(すこ)しで死(し)にそうになりました。そこへ一人(ひとり)の旅人(たびびと)が駱駝(らくだ)をつれて通(とほ)りかゝつたので、鰐(わに)は言葉(ことば)ひくゝしながら、『どうか自分(じぶん)を駱駝(らくだ)の背(せ)に載(の)せて、ナイル川(がは)の岸(きし)まで連(つ)れて行(い)つて下(くだ)さい。さうすりや、わたしもあなた方(がた)を自分(じぶん)の背中(せなか)に載(の)つけて、あの河(かは)を渡(わた)して上(あ)げますよ』と、一(いつ)しよう懸命(けんめい)に頼(たの)みました。しかし、相手(あひて)が恐(おそ)ろしい鰐(わに)のことですから、旅人(たびびと)も用心(ようじん)して、『そりやあいゝが、河岸(かはぎし)へ着(つ)いてから、さかさまに取(と)つて食(く)はれても大変(たいへん)だからね』と云(い)つて断(ことわ)りました。ところが、鰐(わに)の方(ほう)でも絶体絶命(ぜつたいぜつめい)の場合(ばあひ)とて、『いゝえ、そんなことは断(だん)じていたしませぬ。どこ迄(まで)もご恩(おん)は忘(わす)れませぬから』と、ぼろ/\涙(なみだ)をこぼして頼(たの)みますので、旅人(たびびと)も可愛(かわい)そうになつて、鰐(わに)の云(い)ふなりに、ナイル河(がは)の岸(きし)まで連(つ)れて来(き)てやりました。ところが、水際(みづぎは)に着(つ)いて、駱駝(らくだ)の背(せ)からおろしてやるや否(いな)や、鰐(わに)は前(まへ)の約束(やくそく)を破(やぶ)つて、大(おほ)きな顎(あご)をあんぐり開(あ)きながら、一口(ひとくち)に旅人(たびびと)を噛(か)み殺(ころ)そうとしました。旅人(たびびと)は駱駝(らくだ)を捨(す)てゝ置(お)いたまゝ、命(いのち)から/゛\逃(に)げのびました。そこへ狐(きつね)が飛(と)んで来(き)たので、旅人(たびびと)はくやしそうにありし次第(しだい)を話(はな)して聞(き)かせました。後(あと)から追(お)つかけて来(き)た鰐(わに)がそれを引(ひ)つ取(と)つて、『なに、この旅人(たびびと)が俺(おれ)に恨(うら)みを持(も)つて、息(いき)が絶(た)えるかと思(おも)う程(ほど)固(かた)く駱駝(らくだ)の背(せ)に結(ゆは)ひつけたからだよ』と、云(い)ひ張(は)りました。狐(きつね)はそれを聞(き)いて、『なるほど、さういふわけなら、あなたが旅人(たびびと)を殺(ころ)そうとするのも無理(むり)はないが、私(わたし)も間(あひだ)に立(た)つたからには裁判(さいばん)は公平(こうへい)にしたいから、ともかく一件(いつけん)を始(はじ)めから終(しま)ひまで私(わたし)の目(め)の前(まへ)で繰(く)り返(かへ)して見(み)せて貰(もら)ひたいものだね』と、申(まを)しました。鰐(わに)もそれを承知(しようち)して、自分(じぶん)から進(すゝ)んで駱駝(らくだ)の背(せ)に結(ゆは)ひつけられたまゝ、再(ふたゝ)びもとの沙漠(さばく)の中(なか)へ連(つ)れて行(ゆ)かれました。が、そこへ着(つ)くや否(いな)や、旅人(たびびと)は狐(きつね)の指(さ)し図(ず)で、いきなり鰐(わに)を砂(すな)の上(うへ)へ放(はふ)り下(お)ろして置(お)いて、どん/\逃(に)げて来(き)てしまひました。まあ、かう云(い)つた話(はなし)もあるのでございますから、陛下(へいか)に於(お)かせられても、どうかもう一度(いちど)お考(かんが)へ直(なほ)しの上(うへ)、命(いのち)ばかりはお助(たす)けなされて下(くだ)さいませ」
 が、王様(おうさま)はそれを聞(き)くと、ヅーバンが自分(じぶん)の悪口(わるくち)を云(い)ふために、わざとこんな話(はなし)を始(はじ)めたのだと思(おも)つて、いよ/\腹(はら)をお立(た)てになりました。そして、役人(やくにん)どもを振(ふ)り返(かへ)つて、
「早(はや)くせんか、何(なに)をぐづ/\してゐる」と、叱(しか)りつけました。役人(やくにん)どもゝ学者(がくしや)が可愛(かわい)そうだとは思(おも)ひましたが、王命(おうめい)なれば是非(ぜひ)もないので、まづヅーバンの眼(め)を縛(しば)つて置(お)いてから、そのうしろへ廻(まは)つて、すらりと剣(けん)を抜(ぬ)きました。その音(おと)を聞(き)くと、ヅーバンはおい/\声(こゑ)を上(あ)げて泣(な)きながら、
「どうかお助(たす)け下(くだ)さいませ」と、繰(く)り返(かへ)して申(まを)しました。「すれば、神様(かみさま)もきつとあなたを助(たす)けて下(くだ)さいませう。神様(かみさま)の罰(ばつ)が恐(おそ)ろしかつたら、どうか私(わたくし)を助(たす)けて下(くだ)さいませ」
 が、王様(おうさま)はどうしても承知(しようち)して下(くだ)さいませんでした。そこでヅーハンも、最早(もはや)これまでと覚悟(かくご)をきめたと見(み)えて、
「陛下(へいか)よ、では、どうあつてもお許(ゆる)し下(くだ)さいませんのなら、せめてしばらくの御猶予(ごゆうよ)を願(ねが)はれますまいか。実(じつ)は、私(わたくし)は世(よ)にも希(まれ)な一冊(いつさつ)の書物(しよもつ)をうちに秘蔵(ひぞう)してゐるのでございます。今生(こんじよう)の思(おも)ひ出(で)に、それを陛下(へいか)に献上(けんじよう)して、永(なが)く宮中(きゆうちゆう)の書庫(しよこ)に納(おさ)めて置(お)いて頂(いただ)きたうございますから」と、思(おも)ひ込(こ)んで申(まを)し出(い)でました。
「で、その書物(しよもつ)には何(なに)が書(か)いてあるのぢや」と、王様(おうさま)はおたづねになりました。
「それはもう、一々(いち/\)挙(あ)げてゐられない程(ほど)多(おほ)くのことが書(か)いてございます」と、ヅーバンは答(こた)へました。「その中(なか)の一番(いちばん)小(ちひ)さなことを申(まを)して見(み)ましても、先(ま)づかようでございます。あなたが私(わたくし)の首(くび)をお刎(は)ねになりました時(とき)、その本(ほん)を開(ひら)いて、三枚(さんまい)ばかりはぐつてから、左側(ひだりがは)の頁(ぺいじ)を三行(さんぎよう)程(ほど)お読(よ)みになりますれば、首(くび)がものを云(い)つて、なんでもおたづねになることに御返事(ごへんじ)をいたしますよ」
「何(なん)ぢやと、お前(まへ)の首(くび)がものを言(い)ふと」
「はい、さようでございます。まつたくそれは不思議(ふしぎ)なものでございます」
 それを聞(き)いて、王様(おうさま)は何(なに)よりもその本(ほん)が欲(ほ)しくてたまらなくなりました。そこで、近衛兵(このえへい)の監視(かんし)の下(もと)に、一旦(いつたん)ヅーバンをその家(いへ)へ送(おく)り返(かへ)すことにいたしました。学者(がくしや)は自宅(じたく)へ戻(もど)つて、その日(ひ)のうちに支度(したく)をとゝのへた上(うへ)、翌日(よくじつ)再(ふたゝ)び御殿(ごてん)へ上(あが)りました。その時(とき)御殿(ごてん)の広庭(ひろば)には、王族(おうぞく)や、大臣(だいじん)や、侍従(じじゆう)や,代議員(だいぎいん)や、その他(ほか)国家(こつか)の重臣(じゆうしん)どもがまるで花(はな)でも咲(さ)いたように、ずらりと並(なら)んでゐました。その中(なか)を、学者(がくしや)は一冊(いつさつ)の古(ふる)い書物(しよもつ)と小(ちひ)さな粉薬(こなぐすり)の壺(つぼ)を捧(さゝ)げたまゝ、しづ/\と王様(おうさま)の御前(ごぜん)へ進(すゝ)みました。そして、一(ひと)つの盤(ばん)をお貸(か)し下(くだ)さるようにお願(ねが)ひいたしました。そこで、早速(さつそく)一(ひと)つの盤(ばん)をその前(まへ)へ持(も)つてまゐりました。彼(かれ)はその中(なか)へ粉薬(こなぐすり)をあけて、それを掻(か)きひろげながら、次(つ)ぎのように申(まを)しました。
「陛下(へいか)よ、どうぞこの書物(しよもつ)をお持(も)ち下(くだ)さいませ。しかし、私(わたし)の首(くび)が飛(と)ぶのを御覧(ごらん)になるまでは、何事(なにごと)もなすつてはいけません。で、私(わたし)の首(くび)が胴(どう)を離(はな)れましたら、その首(くび)を拾(ひろ)ひ上(あ)げてこの盤(ばん)の上(うへ)に載(の)せ、粉薬(こなぐすり)の中(なか)へ押(お)しつけるように命(めい)じて下(くだ)さいませ。さうすると、流(なが)れる血(ち)がとまりますから、その時(とき)この書物(しよもつ)をお開(あ)け下(くだ)さい」
 この言葉(ことば)が終(をは)るか終(をは)らぬうちに、ヅーバンの首(くび)は刎(は)ねられてしまひました。そして、学者(がくしや)の言葉(ことば)通(どほ)りに、それを盤(ばん)の上(うへ)に載(の)せました。で、いよ/\王様(おうさま)はその書(しよ)を開(ひら)かうとなさいましたが、その一枚々々(いちまい/\)がぴつたりくつついてゐるので、なか/\思(おも)ふように開(ひら)かれませんでした。王様(おうさま)は止(や)むを得(え)ず指先(ゆびさき)を舐(な)めて、それでしめしながら、やつと最初(さいしよ)の一枚(いちまい)を開(ひら)きました。が、二枚目(にまいめ)も、三枚目(さんまいめ)も、どれもこれも唾(つば)でしめさないでは開(あ)けることが出来(でき)ませんでした。かうして六枚目(ろくまいめ)まで開(ひら)くことは開(ひら)きましたが、見(み)ると、何(なに)一(ひと)つ書(か)いてありません。王様(おうさま)は不思議(ふしぎ)に思(おも)つて、
「おい、何(なに)も書(か)いてないではないか」と、首(くび)に向(むか)つてたづねられました。すると、盤(ばん)の上(うへ)の首(くび)が口(くち)を開(ひら)いて、
「もつと/\おはぐりなさい」と、答(こた)へました。
 云(い)はれるまゝに、王様(おうさま)は指先(ゆびさき)を舐(な)めてははぐり、はぐつては砥(な)めて行(ゆ)きました。ところが、書物(しよもつ)にはその一枚毎(いちまいごと)に毒(どく)が浸(し)みこませてあつたからたまりません。しばらくするうちに、王様(おうさま)の全身(ぜんしん)にはすつかり毒(どく)が廻(まは)つて、どつと仰向(あふむ)けに倒(たふ)れてしまひました。




   ハサンと馬丁(ばてい)の話(はなし)

 昔(むかし)、カイロの都(みやこ)に、それは/\器量(きりよう)のいゝ兄弟(きようだい)の男(をとこ)の子(こ)がありました。兄(あに)はその名(な)をシエムと云(い)ひ、弟(おとうと)はヌーアと申(まを)しました。二人(ふたり)ともその当時(とうじ)世(よ)に名高(なだか)い宰相(さいしよう)の子(こ)でございました。王様(おうさま)は深(ふか)くこの兄弟(きようだい)を可愛(かわい)がつてゐられたので、父(ちゝ)の宰相(さいしよう)が死(し)んだ後(のち)は、二人(ふたり)とも宰相(さいしよう)の役(やく)につけて、一週間(いつしゆうかん)づゝ代(かは)る/゛\朝廷(ちようてい)へ出(で)て勤(つと)めさせるようにいたしました。
 ある時(とき)、この王様(おうさま)が国内(こくない)を旅行(りよこう)されることになりました。お供(とも)は兄(あに)の宰相(さいしよう)の番(ばん)に当(あた)つてゐました。で、兄(あに)はいよ/\旅(たび)に出(で)ようといふ前(まへ)の夜(よ)、弟(おとうと)に向(むか)つて、次(つ)ぎのように云(い)ひました。
「しばらくお前(まへ)とも別(わか)れてゐなければならないね。ところでその前(まへ)に相談(そうだん)して置(お)きたいことがあるのだが、どうだね、私達(わたしたち)二人(ふたり)はどうかして同(おな)じ晩(ばん)に結婚(けつこん)するようにしようぢやないか」
「これは又(また)変(かは)つたお話(はなし)ですね。ですが、私(わたし)は何事(なにごと)によらず兄(にい)さんの仰(おつ)しやる通(とほ)りにいたすつもりですよ」と、弟(おとうと)は答(こた)へました。
「さうか、では、さう云(い)ふことに約束(やくそく)したよ。で、もし運(うん)よくだね、二人(ふたり)の妻(つま)が同(おな)じ日(ひ)に子供(こども)を産(う)んで、お前(まへ)には男(をとこ)の子(こ)を、私(わたし)には女(をんな)の子(こ)が授(さづ)かつたら、どうだね、お互(たがひ)にその子(こ)をめあはせて夫婦(ふうふ)にしてやらうぢやないか」
「さう云(い)ふことになれば結構(けつこう)ですね」
「ところで、娘(むすめ)の支度金(したくきん)としてはどれくらゐくれるつもりだい」
「さあ、兄(にい)さんのお考(かんが)へは」
「さうさね。私(わたし)の考(かんが)へぢや、まあ黄金(おうごん)三千枚(さんぜんまい)に、果樹園(かじゆえん)が三(みつ)つ、それに畠地(はたけち)を三箇所(さんかしよ)ぐらゐ添(そ)へたところが至当(しとう)だらうと思(おも)ふがね」
これを聞(き)いて、弟(おとうと)は思(おも)はず声(こゑ)を上(あ)げました。
「めつそうな、そんなに出(だ)せるものですか。二人(ふたり)が真実(ほんたう)の兄弟(きようだい)で、しかも同(おな)じ王様(おうさま)に仕(つか)へる宰相(さいしよう)ぢやといふことを忘(わす)れたんですね。本来(ほんらい)なら支度金(したくきん)なんかどうだつていゝんですよ。それに、どうしても女(をんな)よりは男(をとこ)の方(ほう)が尊(たつと)いわけですからね」
「なんだと、男(をとこ)の方(ほう)が尊(たつと)いんだつて」と、兄(あに)はいきなり腹(はら)を立(た)てゝ、どなりました。「お前(まへ)の息(むすこ)の方(ほう)が私(わたし)の娘(むすめ)よりも尊(たつと)いなぞと、よくもそんな事(こと)が私(わたし)の前(まへ)で云(い)へたものだね。それに、聞(き)いてゐりや、なんだと、同(おな)じ王様(おうさま)に仕(つか)へる宰相(さいしよう)──宰相(さいしよう)が聞(き)いてあきれるね。私(わたし)はたゞお前(まへ)が可愛(かわい)そうだと思(おも)へばこそ、宰相(さいしよう)の仲間(なかま)へ入(い)れて、私(わたし)の手助(てだす)けをさせてやつてるんだよ。それも知(し)らずに、勝手(かつて)なことをほざきをる。だが、お前(まへ)がさう云(い)ふ心(こゝろ)でゐるからには、どんなことがあつても私(わたし)の娘(むすめ)はやるわけにいかないから、よく覚(おぼ)えてゐるがいゝ」
「えゝ、私(わたし)の方(ほう)だつて貰(もら)ひませんとも」
 こんな工合(ぐあひ)で、最初(さいしよ)は冗談(じようだん)のようなことから、仲(なか)のいゝ兄弟(きようだい)がとう/\喧嘩(けんか)をしてしまました。
 あくる朝(あさ)になると、兄(あに)の宰相(さいしよう)シエムは予定(よてい)どほり旅(たび)に出(で)ました。が、弟(おとうと)のヌーアは、前夜(ぜんや)のことを思(おも)ひ出(だ)すと腹(はら)が立(た)つてたまらないので、こんな国(くに)にゐるよりか、いつそどこかよその国(くに)へ行(い)つて身(み)を立(た)てようと決心(けつしん)しました。そして、一対(いつつい)の鞍嚢(くらぶくろ)に黄金(おうごん)を一杯(いつぱい)つめて、その馬(うま)に跨(またが)つたまゝ、ひとり広(ひろ)い野原(のはら)をさして出(で)て行(ゆ)きました。が、どつちの方角(ほうがく)をさして進(すゝ)んだものか自分(じぶん)でもわかりませんので、たゞ来(く)る日(ひ)も/\あてのない旅(たび)をつゞけてゐる間(あひだ)にとう/\エル・バスラーの都(みやこ)へ着(つ)きました。
 その日(ひ)もうす暮(く)れ方(がた)のことでした。ヌーアがとある旅館(りよかん)に着(つ)いて、そこでひと休(やす)みしてゐると、この都(みやこ)の宰相(さいしよう)がその前(まへ)を通(とほ)りかゝりました。宰相(さいしよう)は先(ま)づヌーアの馬(うま)に眼(め)をとめました。それから、その人品(じんぴん)骨柄(こつがら)をつく/゛\見(み)やりながら、これはどうもたゞ人(びと)ではないと考(かんが)へました。そこで彼(かれ)は相手(あひて)に近(ちか)づいて、いろ/\話(はな)し込(こ)んで見(み)ると、云(い)ふこともしつかりして、一器量(ひときりよう)ある人物(じんぶつ)だといふことがわかりましたので、とう/\自分(じぶん)の邸(やしき)へ連(つ)れて来(き)て立派(りつぱ)な部屋(へや)をあてがつた上(うへ)、手厚(てあつ)くもてなしました。かうして彼(かれ)が親切(しんせつ)をつくしたのは少(すこ)し考(かんが)へがあつたからで、実(じつ)はこの宰相(さいしよう)には一人(ひとり)の美(うつく)しい娘(むすめ)があつて、それの婿(むこ)にしたかつたのでございます。ヌーアも宰相(さいしよう)からこのことを打(う)ち明(あ)けられた時(とき)は、あまりの意外(いがい)に下(した)を向(む)いたまゝ、しばらく返事(へんじ)をいたしませんでした。が、自分(じぶん)も国(くに)を離(はな)れてからは、別段(べつだん)どうするあてもない身(み)でございますので、喜(よろこ)んで宰相(さいしよう)の言葉(ことば)に従(したが)ふことにいたしました。宰相(さいしよう)も大(たい)そう喜(よろこ)んで、早速(さつそく)二人(ふたり)を結婚(けつこん)させました。
 ところで、兄(あに)のシエムはどうしたかといふに、彼(かれ)はしばらくの間(あひだ)王様(おうさま)のお供(とも)をして旅行(りよこう)をつゞけてゐました。まさか弟(おとうと)が留守(るす)の間(あひだ)に家出(いへで)をしようとは思(おも)はなかつたのですね。で、家(いへ)に帰(かへ)つて、始(はじ)めてそれと知(し)つた時(とき)には、本当(ほんとう)に驚(おどろ)いてしまひました。あゝして一時(いちじ)の気(き)まぐれで喧嘩(けんか)はしたものゝ、もと/\骨肉(こつにく)をわけた兄弟(きようだい)のことですから、心(こゝろ)から憎(にく)いわけではありません。「ほんとうにあんなことを云(い)はなければよかつた」と、シエムは非常(ひじよう)に後悔(こうかい)して、四方八方(しほうはつぽう)へ使(つか)ひを出(だ)して弟(おとうと)のありかを探(さぐ)らせました。けれども、ヌーアはとうにエル・バスラーに行(い)つてゐましたからわかる筈(はず)がありません。どうにも仕方(しかた)がないので、シエムもとう/\諦(あきら)めましたが、そのうちにカイロの市(まち)のある商人(あきうど)の娘(むすめ)と結婚(けつこん)いたしました。不思議(ふしぎ)なことには、それはヌーアが宰相(さいしよう)の娘(むすめ)と結婚(けつこん)したのと、全(まつた)く同(おな)じ晩(ばん)でございました。処(ところ)で、それよりもまだ不思議(ふしぎ)なことには、まもなくシエムの妻(つま)は女(をんな)の子(こ)を産(う)み、又(また)ヌーアの妻(つま)は男(をとこ)の子(こ)を挙(あ)げました。そして、二人(ふたり)とも満月(まんげつ)のような美(うつく)しい子(こ)どもで、男(をとこ)の子(こ)はその名(な)をハサンと云(い)ひ、女(をんな)の子(こ)はシツテルとよばれました。かうしていつか兄弟(きようだい)の冗談(じようだん)に話(はな)し合(あ)つたことが、そつくりそのまゝ事実(じじつ)となつてあらはれたのでございます。
 ところでヌーアは、父(ちゝ)宰相(さいしよう)の取(と)りなしによつて、自分(じぶん)も宰相(さいしよう)の役(やく)を授(さづ)けられました、まもなく父(ちゝ)の宰相(さいしよう)はなくなりましたが、それでも親子(おやこ)三人(さんにん)、何不足(なにふそく)なく暮(くら)してゐるうちに月日(つきひ)の経(た)つのはまことに速(はや)いもので、ヌーアの子(こ)のハサンはとう/\十五(じゆうご)の春(はる)を迎(むか)へました。が、思(おも)ひがけなくも、こゝに悲(かな)しむべきことが起(おこ)りました。不幸(ふこう)にも父(ちゝ)のヌーアが重(おも)い病気(びようき)にかゝつたのですね。ヌーアはもう死期(しき)が遠(とほ)くないことをさとつたので、一日(いちじつ)わが子(こ)のハサンを枕(まくら)もとによび寄(よ)せました。そして、涙(なみだ)を流(なが)しながら、
「わしはもう長(なが)くは生(い)きられまいと思(おも)ふからな、わしの云(い)ふことをようく覚(おぼ)えて置(お)いて、忘(わす)れないようにしておくれよ」かう云(い)つて、懇(ねんご)ろにいろ/\な教訓(きようくん)を与(あた)へました。そして、最後(さいご)に、
「わしにはカイロの市(まち)に一人(ひとり)の兄(あに)があるがね、ふとしたことから仲違(なかたが)ひをして、わしは一人(ひとり)こちらの方(ほう)へ来(き)てしまつたのだ。だが、お前(まへ)に取(と)つては真実(しんじつ)の伯父(をぢ)に相違(そうい)ないのだから、これから先(さき)何(なに)か困(こま)ることでも、起(おこ)つたら、伯父(をぢ)さんの所(ところ)へ訪(たづ)ねて行(い)くがよい。こゝにその宛名(あてな)と道筋(みちすぢ)とを書(か)いた紙(かみ)きれがあるからね。で、若(も)し伯父(をぢ)さんに会(あ)つたら、わしが会(あ)ひたい、会(あ)ひたいと思(おも)ひつめながら、知(し)らぬ他国(たこく)で死(し)んで行(い)つたと告(つ)げてくれるんだよ」
と、云(い)ひながら、一枚(いちまい)の紙(かみ)きれを取(と)り出(だ)して渡(わた)しました。そして程(ほど)なく息(いき)をひき取(と)つてしまひました。
 父(ちゝ)をなくしたハサンは、もう全(まつた)くよるべない身(み)の上(うへ)になつてしまひました。彼(かれ)はよく父(ちゝ)の墓(はか)の前(まへ)に坐(すわ)つては、さめ/゛\と泣(な)きくらしました。そして、ある日(ひ)のことでしたが、まるで子供(こども)のように墓(はか)の上(うへ)に寝(ね)ころびながら、泣(な)き寝入(ねい)りに寝入(ねい)つてしまひました。かうして眠(ねむ)つてゐる間(あひだ)に、とう/\夜(よる)になつて、美(うつく)しい月(つき)の光(ひかり)がそれにもまして美(うつく)しい彼(かれ)の顔(かほ)を照(て)らし始(はじ)めました。
 ところで、この墓地(ぼち)には信心深(しんじんぶか)い火霊(ジン)どもが棲(す)んでゐましたが、一人(ひとり)の女火霊(ジンニイエ)が出(で)て来(き)て、ハサンの姿(すがた)を一目(ひとめ)見(み)ると、その美(うつく)しさにすつかり見(み)とれてしまひました。彼女(かのじよ)は間(ま)もなく一人(ひとり)の魔霊(マアリツド)をつれて来(き)ました。魔霊(マアリツド)はしばらく若者(わかもの)の顔(かほ)を見(み)てゐましたが、やがてびつくりするような大(おほ)きな声(こゑ)を挙(あ)げて叫(さけ)びました。──
「これは不思議(ふしぎ)だ。私(わたし)はたつた今(いま)エジプトで、この若者(わかもの)と瓜二(うりふた)つと云(い)ふ程(ほど)よく似(に)た娘(むすめ)を見(み)て来(き)たよ」
「では、どうぞその娘(むすめ)のことを話(はな)して下(くだ)さいな」と、女火霊(ジンニイエ)はたづねました。
そこで、魔霊(マアリツド)は次(つ)ぎのように語(かた)つて聞(き)かせました。──
「その娘(むすめ)といふのはその国(くに)の宰相(さいしよう)の娘(むすめ)ですがね、王様(おうさま)がその美(うつく)しさを耳(みゝ)にして、父(ちゝ)の宰相(さいしよう)に向(むか)つて『わしの妻(つま)にするから連(つ)れてまゐれ』と、仰(おつ)しやつたのですよ。ところが、宰相(さいしよう)はそれに答(こた)へて、『陛下(へいか)よ、どうかそればかりはおゆるし下(くだ)さいませ。私(わたし)は妻(つま)があの娘(むすめ)を生(う)んだその日(ひ)から、これは弟(おとうと)の息(むすこ)でなければ誰(だれ)にもめあはせないと、固(かた)い/\誓(ちか)ひを立(た)てました。それには深(ふか)いわけがあるのでございます』と、云(い)ひながら、十五年(じゆうごねん)以前(いぜん)、弟(おとうと)が家出(いへで)をするようになつた顛末(てんまつ)を詳(くは)しく申(まを)し上(あ)げたのです。ところが、王様(おうさま)はひどく怒(おこ)つて、『わしがお前(まへ)のような者(もの)の娘(むすめ)を望(のぞ)むのに、それを拒(こば)むばかりか、つべこべと理窟(りくつ)を云(い)つて、わしをへこますとは何事(なにごと)だ。よし、さう云(い)ふ了簡(りようけん)なら、お前(まへ)の娘(むすめ)は極(きは)めて身分(みぶん)の低(ひく)い者(もの)と結婚(けつこん)させるから、さう思(おも)つてをれ』と、云(い)ひながら、世(よ)にこれ以上(いじよう)醜(みにく)いものはあるまいと思(おも)はれるような、よく/\ひどい傴僂(せむし)の馬丁(ばてい)を、宰相(さいしよう)の娘(むすめ)の許嫁(いひなづけ)にしてしまつたんですね。何(なに)しろ国王(こくおう)の命令(めいれい)だから、どうにも仕方(しかた)がない。とう/\今夜(こんや)その婚礼(こんれい)がある筈(はず)ですよ」
 女火霊(ジンニイエ)はすつかり宰相(さいしよう)の娘(むすめ)に同情(どうじよう)してしまひました。それに、目(め)の前(まへ)の若者(わかもの)がその娘(むすめ)に似(に)てゐるところから、どうかすると二人(ふたり)は従兄妹(いとこ)同志(どうし)かも知(し)れないと思(おも)つたので、急(きゆう)に勢(いきほ)ひこんで云(い)ひ出(だ)しました。
「では、二人(ふたり)でこの若者(わかもの)を担(かつ)ぎ上(あ)げて、その娘(むすめ)のところへ連(つ)れて行(い)つてやらうではありませんか」
「それがいゝでせう」
 かう云(い)つて、魔霊(マアリツド)はすぐと若者(わかもの)を抱(だ)き上(あ)げたまゝ、大空(おほぞら)高(たか)く飛(と)び上(あが)りました。女火霊(ジンニイエ)もその後(あと)から一(いつ)しよに飛(と)んで行(い)きました。そして、カイロの都(みやこ)に着(つ)くと、宰相(さいしよう)の家(いへ)の入(い)り口(ぐち)にある腰掛(こしか)けの上(うへ)へ若者(わかもの)をおろして、それから目(め)を覚(さ)まさせました。ハサンは父親(ちゝおや)のお墓(はか)へ詣(まゐ)つてゐたつもりだのに、眼(め)を開(ひら)いて左右(さゆう)を見廻(みまは)すと、まるで様子(ようす)が変(かは)つてゐるものだから、胆(きも)をつぶして、もう少(すこ)しで泣(な)き出(だ)さうとしたくらゐでした。が、魔霊(マアリツド)はその時(とき)一基(いつき)の燭台(しよくだい)に火(ひ)を点(とも)して、それをハサンの手(て)に渡(わた)しながら、
「安心(あんしん)なさい、あなたをここへ連(つ)れて来(き)たのは私(わたし)だからね」と、云(い)ひました。「私(わたし)はこれでも神様(かみさま)のために、あなたの手助(てだす)けをしようと思(おも)つてゐるのだ。だから、この燭台(しよくだい)を持(も)つて、あの広間(ひろま)へはひつていらつしやい。誰(だれ)も恐(こは)がるには及(およ)びませんよ。それから、あなたは傴僂(せむし)の花婿(はなむこ)の右手(みぎて)に座(すは)つて、髪結(かみゆ)ひでも、歌(うた)ひ女(め)でも、腰元(こしもと)でも、召(め)し使(つか)ひでも、前(まへ)へ来(き)た者(もの)には、誰(だれ)にでも一掴(ひとつか)みづゝ黄金(おうごん)をくれてやるのだ。ぽつけつとへ手(て)を入(い)れさへすれば、いつでも黄金(おうごん)が一杯(いつぱい)はひつてゐるからね。いくら掴(つか)み出(だ)してもなくなる心配(しんぱい)はないよ。ではすぐにはひつていらつしやい」
 これを聞(き)いて、ハサンも一時(いちじ)は狐(きつね)につまゝれたような気(き)がしたが、思(おも)ひ切(き)つて広間(ひろま)へはひつて行(い)きました。そして万事(ばんじ)魔霊(マアリツド)から、いひつけられた通(とほ)りにいたしました。ゐならぶ人達(ひとたち)は、図(はか)らずもそこへはひり込(こ)んで来(き)た若者(わかもの)を見(み)て、最初(さいしよ)はちよつと異様(いよう)に思(おも)ひましたが、ほどなくその美(うつく)しさに見(み)とれて、何事(なにごと)も忘(わす)れてしまひました。それにハサンが、みんなに一掴(ひとつか)みづゝ金貨(きんか)をくれましたので、しまひにはみんなハサンが大(だい)すきになつて、宰相(さいしよう)の婿(むこ)になるものはハサンを措(お)いて他(ほか)にない。あの綺麗(きれい)な娘(むすめ)があんな醜(みにく)い傴僂(せむし)のものになつてたまるものかと、誰(だれ)も彼(かれ)も考(かんが)へるようになりました。全(まつた)く、その夜(よ)を晴(は)れと着飾(きかざ)られた花嫁御(はなよめご)の美(うつく)しさは、まるで天女(てんによ)のように見(み)えました。それに引(ひ)き代(か)へ、婿(むこ)の傴僂(せむし)の醜(みにく)さと云(い)つたら目(め)も当(あ)てられぬくらゐでございました。およそ何(なに)がふつりあひだと云(い)つて、これほどふつりあひな縁組(えんぐ)みが他(ほか)にありませうか。ですもの、誰(だれ)でも新月(しんげつ)のように美(うつく)しいハサンと花(はな)のようにきれいな花嫁(はなよめ)とをめあはせたいと思(おも)ふのは自然(しぜん)の人情(にんじよう)でございます。
 さて、おひ/\時刻(じこく)も移(うつ)つて、お客(きやく)も帰(かへ)つて行(ゆ)きましたので、傴僂(せむし)はひとり自分(じぶん)に当(あ)てがはれた部屋(へや)へ引(ひ)き取(と)りました。それと見(み)ると、魔霊(マアリツド)はすぐさま二十日鼠(はつかねずみ)の姿(すがた)になつて、その部屋(へや)へはひつて行(い)きました。そして、傴僂(せむし)の前(まへ)に蹲(うづくま)つたまゝ「ちゆう、ちゆう」と、鳴(な)きました。傴僂(せむし)は醜(みにく)い顔(かほ)をしかめながら、
「貴様(きさま)はどこから来(き)た」と、どなりました。
 二十日鼠(はつかねずみ)は見(み)る/\大(おほ)きくなつて猫(ねこ)のようになりました。つゞいて犬(いぬ)ぐらゐの大(おほ)きさになりました。そして「うわう、うわう」と、吠(ほ)えました。傴僂(せむし)はびつくりして顔色(かほいろ)を変(か)へながら、
「あつちへ行(い)きやあがれ、この畜生(ちくしよう)」と、叫(さけ)びました。が、犬(いぬ)はそれからもめき/\ふくれて、とう/\驢馬(ろば)の姿(すがた)になりました。そして、傴僂(せむし)の鼻(はな)のさきで「へつく、へつく」と、嘶(いなゝ)きました。それを聞(き)くと、傴僂(せむし)は泣(な)き声(ごゑ)を立(た)てゝ「助(たす)けてくれいつ」と、叫(さけ)びました。が、どうでせう、だん/\大(おほ)きくなるばかりで忽(たちま)ち水牛(すいぎゆう)の姿(すがた)に変(かは)つてしまひました。傴僂(せむし)はもうべつたりと尻(しり)もちをついたまゝ、がた/\と歯(は)の根(ね)も会(あ)はずに顫(ふる)へてゐました。水牛(すいぎゆう)になつた魔霊(マアリツド)は、可笑(をか)しさをぢつとこらえて、
「こらつ、馬丁(ばてい)、貴様(きさま)はなんと思(おも)つて俺(おれ)の仲間(なかま)と結婚(けつこん)なぞする気(き)になつたのだ。貴様(きさま)が宰相(さいしよう)の娘(むすめ)だと思(おも)つてゐるのは、あれはその実(じつ)、牝(めん)の水牛(すいぎゆう)だぞ」と、ありもせぬことを云(い)つて脅(おど)かしつけました。
「私(わたし)が悪(わる)いのぢやない、みんなひとから無理(むり)にさせられたことですよ。それに、あの娘(むすめ)があなたのお仲間(なかま)とは夢(ゆめ)にも知(し)りませんでしたからね。どうかまあ御勘弁(ごかんべん)なすつて下(くだ)さい」
と、馬丁(ばてい)は平(ひら)あやまりにあやまりました。
「さうか」と、魔霊(マアリツド)は云(い)ひました。「では、かうして置(お)くから、お前(まへ)はちよつとでも動(うご)いてはならんぞ。また日(ひ)の出(で)る前(まへ)に、一言(ひとこと)でも声(こゑ)を出(だ)さうものなら、お前(まへ)の命(いのち)はないのだぞ」
 それから魔霊(マアリツド)は傴僂(せむし)の頭(あたま)を下(した)に、足(あし)を上(うへ)にして、石畳(いしだゝみ)の床(ゆか)の上(うへ)に逆立(さかだ)ちをさせました。
 かうしてゐる間(あひだ)に、一方(いつぽう)ハサンと花嫁(はなよめ)とはめでたく結婚(けつこん)してしまひました。が、夜明(よあ)け近(ちか)くなると、なんと思(おも)つたのやら魔霊(マアリツド)は女火霊(ジンニイエ)にすゝめて、まだ寝(ね)てゐるまゝのハサンを二人(ふたり)で抱(だ)き上(あ)げながら、再(ふたゝ)び空高(そらたか)く飛(と)び上(あが)つてしまひました。ずいぶん可愛(かわい)そうなことをしたものですね。で、神様(かみさま)もあんまりひどいことをすると思(おぼ)し召(め)したのでございませう。一人(ひとり)の天使(てんし)に命(めい)じて、その魔霊(マアリツド)を目(め)がけて火(ひ)の流星(りゅうせい)を投(な)げさせました。それにはさすがの魔霊(マアリツド)もたまりません。たちまち焼(や)き殺(ころ)されてしまひました。が、女火霊(ジンニイエ)は若者(わかもの)の身(み)に過(あやま)ちがあつてはならないと思(おも)つて、それを庇(かば)ふようにしながら、そつとその下(した)の都(みやこ)におろしました。ちようど、そこはダマスカスの都(みやこ)の城門(じようもん)の前(まへ)でございました。
疲(つか)れ切(き)つたハサンは、寝巻(ねまき)一枚(いちまい)身(み)につけたまゝ夜(よ)の明(あ)けたのも知(し)らずにぐつすり眠(ねむ)つてゐました、往来(おうらい)の人達(ひとたち)はこの様(さま)を見(み)て、やれ大(おほ)きな捨子(すてご)だの、酔(よ)つぱらひだのと、口々(くち/゛\)に勝手(かつて)なことを云(い)ひ合(あ)ひました。程(ほど)なくハサンも人々(ひと/゛\)の騒(さわ)ぎに眼(め)を覚(さま)ましました。が、見(み)ると、自分(じぶん)は城門(じようもん)の前(まへ)に、しかも多(おほ)くの人(ひと)に取(と)り巻(ま)かれながら、まる裸(はだか)も同様(どうよう)の姿(すがた)で寝(ね)てゐるのではありませんか。一旦(いつたん)そこへ気(き)が附(つ)いては、もう恥(はづ)かしくて坐(すわ)つても立(た)つてもゐられません。で、大急(おほいそ)ぎに市場(いちば)を駈(か)けぬけて、とある町(まち)の料理店(りようりてん)の中(なか)へ逃(に)げ込(こ)みました。
 料理店(りようりてん)の主人(しゆじん)は一目(ひとめ)ハサンの可愛(かわい)らしい顔(かほ)を見(み)ると、もう相手(あひて)がぞつこん気(き)に適(かな)つてしまひました。そして、「まあ、そんななりをして、一体(いつたい)お前(まへ)さんはどこからやつて来(き)たのだね」と、たづねました。そこでハサンは、今迄(いままで)あつた事(こと)を残(のこ)らず話(はな)してしまひました。それを聞(き)いて、料理人(りようりにん)はそのあまりに不思議(ふしぎ)な事件(じけん)なのに驚(おどろ)いてゐましたが、一(いつ)そう打(う)ちとけた調子(ちようし)で、かう云(い)ひ出(だ)しました。──
「さう云(い)ふわけなら、当分(とうぶん)このうちに遊(あそ)んでいらつしやい。幸(さいわ)ひわしも子供(こども)がないから、なんならわしの養子(ようし)になつてこの店(みせ)を引(ひ)き請(う)けてくれるといゝんだがね」
 こんなわけで、ハサンはとう/\料理屋(りようりや)の養子(ようし)になつて、それからは主人(しゆじん)の手(て)つだひをしたり、帳場(ちようば)に坐(すわ)つて勘定(かんじよう)を受(う)け取(と)つたりするようになりました。
 ところで、後(あと)に残(のこ)つた花嫁(はなよめ)は、せつかく美(うつく)しい婿(むこ)が出来(でき)て、やれ嬉(うれ)しやと思(おも)ふまもなく、まだ自分(じぶん)が寝(ね)てゐるうちに、その婿君(むこぎみ)はどこかへ姿(すがた)を隠(かく)してしまつたので、悲(かな)しくなつて、しく/\泣(な)いてゐました。そこへ父(ちゝ)の宰相(さいしよう)がはひつて来(き)ましたが、昨夜(ゆうべ)からの様子(ようす)を聞(き)いて不審(ふしん)に思(おも)ひながら、婿(むこ)の部屋(へや)へ行(い)つて見(み)ると、どうでせう、そこには例(れい)の馬丁(ばてい)が昨夜(ゆうべ)のまゝ、まだ逆立(さかだ)ちをしてゐるではありませんか。
「おい、お前(まへ)はどうしたのだ」と、宰相(さいしよう)は声(こゑ)をかけて見(み)ました。が、馬丁(ばてい)は魔霊(マアリツド)がやつて来(き)たのだと思(おも)つて、一言(ひとこと)も返事(へんじ)をしませんでした。
「なぜ物(もの)を云(い)はんか。黙(だま)つてゐると、この剣(けん)で突(つ)き刺(さ)すぞ」と、宰相(さいしよう)は再(ふたゝ)び大(おほ)きな声(こゑ)をあげてどなりつけました。それを聞(き)いて、馬丁(ばてい)は思(おも)はず悲鳴(ひめい)を上(あ)げました。──
「魔霊(マアリツド)さま、どうぞ勘弁(かんべん)して下(くだ)さい。私(わたし)はあなたに云(い)はれた通(とほ)り、昨夜(ゆうべ)から一言(ひとこと)も物(もの)も云(い)はなければ、かうして身動(みうご)きもしませんでした。ですから、あなたも少(すこ)しは私(わたし)を可愛(かわい)そうだと思(おも)つて下(くだ)さい」
 それを聞(き)いて、宰相(さいしよう)はいよ/\わけがわからなくなりました。「お前(まへ)は何(なに)を云(い)つてるんだ。俺(おれ)はそんな魔物(まもの)ぢやない。花嫁(はなよめ)の父親(ちゝおや)の宰相(さいしよう)ぢやぞ。さあ立(た)て/\」と云(い)ひながら、馬丁(ばてい)に手(て)をかけて引(ひ)き起(おこ)さうといたしました。
「いゝえ、いけません/\」と、馬丁(ばてい)はやつぱり逆立(さかだ)ちになつたまゝ、あわてゝ、申(まを)しました。「そんなことをして私(わたし)の命(いのち)を取(と)らうたつて、その手(て)には乗(の)りませんよ。私(わたし)は魔霊(マアリツド)にいひつかつて、かうしてゐるんですからね。それよりも、あなた、命(いのち)が惜(を)しいと思(おも)つたら、あの恐(おそ)ろしい魔霊(マアリツド)の来(こ)ぬうちに、さつさとこゝを引(ひ)き上(あ)げなさい。今(いま)にあいつがやつて来(き)たら、旦那(だんな)だつてどんな目(め)に遭(あ)ふか知(し)れませんよ」
 宰相(さいしよう)も、こいつ変(へん)なことばかり云(い)ふなとは思(おも)ひましたが「一体(いつたい)誰(だれ)がお前(まへ)をこんな目(め)に遭(あ)はせたのだ」と、改(あらた)めてきいて見(み)ました。すると、馬丁(ばてい)は昨夜(ゆうべ)からの一部始終(いちぶしじゆう)を委(くは)しく話(はな)して聞(き)かせた上(うへ)、「旦那(だんな)もひどい方(かた)ですな、水牛(すいぎゆう)の仲間(なかま)なぞを自分(じぶん)の娘(むすめ)だと云(い)つて、私(わたし)にめあわせるなんて。本当(ほんとう)に今度(こんど)と云(い)ふ今度(こんど)は懲(こ)り懲(こ)りしましたよ。何(なに)しろ私(わたし)は、夜(よ)の明(あ)けるまではかうして逆立(さかだ)ちをつゞけてゐないと、大事(だいじ)の命(いのち)がありませんからね」
 そこで宰相(さいしよう)はもう夜(よ)が明(あ)けたと教(をし)へてやると、「さうですか、それでやつと助(たす)かつた」と云(い)ひながら、馬丁(ばてい)はほう/\の体(てい)で逃(に)げて行(い)つてしまひました。
 その後(あと)で、宰相(さいしよう)は再(ふたゝ)び娘(むすめ)の部屋(へや)へ取(と)つて返(かへ)して、そこらを捜(さが)して見(み)ると、枕頭(まくらもと)の椅子(いす)の上(うへ)に、一本(いつぽん)の頭巾(たあばん)と黄金(おうごん)の沢山(たくさん)はひつた財布(さいふ)とが残(のこ)してあるのを見(み)つけました。で、それを裏返(うらがへ)して見(み)ると、「カイロの都(みやこ)に生(うま)れたヌーアの伜(せがれ)ハサン」と、ちやんと署名(しよめい)がしてありました。宰相(さいしよう)シエムは、それを見(み)ると、思(おも)はず大(おほ)きな声(こゑ)をあげて、そのまゝそこに倒(たふ)れてしまひました。が、やがて正気(しようき)に返(かへ)ると、すぐに又(また)娘(むすめ)に向(むか)つて申(まを)しました。──
おゝ、娘(むすめ)や、お前(まへ)は誰(だれ)がお前(まへ)の婿(むこ)になつたか知(し)つてゐるかい」
「いゝえ」と、娘(むすめ)は首(くび)を振(ふ)りました。
「あれは私(わたし)の弟(おとうと)の子(こ)だよ。ね、お前(まへ)の叔父(をぢ)さまの子(こ)なんだよ」と、宰相(さいしよう)は小躍(こをど)りしながら繰(く)り返(かへ)しました。それから、なほよく検(しら)べて見(み)ると頭巾(たあばん)の縫(ぬ)ひ目(め)から一枚(いちまい)の書(か)き附(つ)けが出(で)て来(き)て、それには弟(おとうと)がエル・バスラーの宰相(さいしよう)の娘(むすめ)と結婚(けつこん)した日附(ひづ)けを始(はじ)めとして、息(むすこ)の誕生(たんじよう)の日附(ひづ)けから、自分(じぶん)が死(し)んだ時(とき)の年(とし)にいたるまで、一々(いち/\)明細(めいさい)に書(か)き留(と)めてありました。それで、いよ/\、何(なに)もかもわかつてしまつたのでございます。
 その後(のち)、宰相(さいしよう)の娘(むすめ)は満月(まんげつ)のような男(をとこ)の児(こ)を生(う)み落(おと)しました。云(い)ふまでもなく、それはハサンの子(こ)で、その美(うつく)しさは父親(ちゝおや)に優(まさ)るとも劣(おと)らぬくらゐでございました。お祖父(ぢい)さんのシエムは非常(ひじよう)に喜(よろこ)んで、その子(こ)にアジーブといふ名(な)をつけて、それは/\大切(たいせつ)に育(そだ)てました。が、こゝに一(ひと)つ困(こま)つたことには、同(おな)じ学校(がつこう)の子供達(こどもたち)がアジーブの顔(かほ)さへ見(み)れば、声(こゑ)を揃(そろ)へて「やあい、父(てゝ)なし子(ご)やあい、お父(とう)さんのない子(こ)はあつちへ行(い)け、お父(とう)さんのない子(こ)とは遊(あそ)ばないよ」なぞと囃(はや)し立(た)てるのですね。アジーブはあまりの悲(かな)しさに、泣(な)きながらお母(かあ)さんのシツテルに訴(うつた)へました。「お母(かあ)さん、僕(ぼく)のお父(とう)さまはどこにゐるの。ね、本当(ほんとう)のことを聞(き)かせてよ。でなきや、僕(ぼく)はこの短剣(たんけん)で死(し)んでしまひますよ」これを聞(き)いて、母親(はゝおや)は胸(むね)を掻(か)きむしられる思(おも)ひをしながら、これもわつと泣(な)き伏(ふ)してしまひました。かうして母子(おやこ)が抱(だ)きあつて泣(な)いてゐるところへ、お祖父(ぢい)さんの宰相(さいしよう)が何気(なにげ)なくはひつて来(き)ました。そして、二人(ふたり)の様子(ようす)に眼(め)を円(まる)くしながら、「お前方(まへがた)は一(いつ)たいなんで泣(な)いてゐるのだ」と、たづねました。が、そのわけを聞(き)くと、お祖父(ぢい)さんもまた一(いつ)しよになつて泣(な)いてしまひました。
 こんなことのあつた後(のち)、宰相(さいしよう)はとう/\決心(けつしん)をして、国王(こくおう)にお暇(いとま)を戴(いたゞ)いた上(うへ)、アジーブの父(ちゝ)の行方(ゆくへ)を捜(さが)しに出(で)ることにいたしました。そして、アジーブとその他(ほか)二三(にさん)の召(め)し使(つか)ひを連(つ)れて、カイロの都(みやこ)を出発(しゆつぱつ)しました。一行(いつこう)はやがて、ダマスカスに到着(とうちやく)しましたが、かねて美(うつく)しい都(みやこ)と聞(き)いてゐましたので、しばらく逗留(とうりゆう)してその名所(めいしよ)を見物(けんぶつ)することにしました。アジーブも召(め)し使(つか)ひに連(つ)れられて、あちこち町(まち)の中(なか)を歩(ある)き廻(まは)りました。そのうちに、はからずもハサンの店(みせ)の前(まへ)へ出(で)てまゐりました。
 ハサンもそれがわが子(こ)であらうとは知(し)る筈(はず)がないが、それでも言(い)はず語(かた)らずのうちに親子(おやこ)の情(じよう)が通(つう)じたものでせう、すつかりアジーブの方(ほう)へ心(こゝろ)を吸(す)ひ寄(よ)せられました。アジーブにしてもやつぱり同(おな)じことだと見(み)えて、見(み)ず知(し)らずのハサンがわけもなく懐(なつ)かしくてたまらなかつたのですね。で、召(め)し使(つか)ひがとめるのもきかずに、ずん/\店(みせ)の中(なか)へはひつて行(い)きました。ハサンは大(たい)そう喜(よろこ)んで自分(じぶん)の拵(こしら)へた柘榴(ざくろ)の砂糖漬(さとうづ)けを出(だ)して来(き)て、
「あなた方(がた)が寄(よ)つて下(くだ)すつたので、こんな嬉(うれ)しいことはございませぬ。どうぞ沢山(たくさん)召(め)し上(あが)つて下(くだ)さい」と、云(い)ひながら、それをすゝめました。
「小父(をぢ)さん、どうもあり難(がた)う」と、云(い)ひながら、アジーブは遠慮(えんりよ)なくそれを食(た)べました。
「これで僕(ぼく)も会(あ)ひたいと思(おも)つてゐる方(かた)に会(あ)ふことが出来(でき)たら、何(なに)も云(い)ふことはないんだがね」
「へえ、あなたはそんなお小(ちひ)さい姿(すがた)をして、もうどなたか大事(だいじ)な方(かた)と生(い)き別(わか)れをなすつたのですか」と、ハサンは思(おも)はず聞(き)き返(かへ)しました。
「さうなんだよ。僕(ぼく)の一番(いちばん)大事(だいじ)なお父様(とうさま)がどこへいらしつたかわからないのだ。だから、僕(ぼく)はかうしてお祖父様(ぢいさま)と一(いつ)しよに方々(ほう/゛\)捜(さが)しに出(で)たのだよ」と、云(い)ひ/\、気(き)の弱(よわ)いアジーブはもう泣(な)いてゐました。
 しばらくして、少年(しようねん)と召(め)し使(つか)ひとはハサンの店(みせ)を出(で)ました。なんだか掌中(しようちゆう)の玉(たま)をなくしたような気(き)がして、ハサンは一時(いつとき)も落(お)ち着(つ)いてゐられませんでした。で、すぐに後(あと)から駈(か)け出(だ)して、二人(ふたり)の後(あと)を追(お)つかけました。それを見(み)て、アジーブの召(め)し使(つか)ひはうしろを振(ふ)り返(かへ)りながら、「何(なん)の用(よう)があつて、貴様(きさま)は後(あと)をつけて来(く)るのだ。さつさと帰(かへ)れ」と、叱(しか)りつけました。が、それ位(くらゐ)のことでは、なか/\帰(かへ)りそうもなかつたので、今度(こんど)はアジーブが腹(はら)を立(た)てました。そして、そこらに落(お)ちてゐた石(いし)を拾(ひろ)つたかと思(おも)ふと、いきなりハサンの顔(かほ)を目(め)がけて投(な)げつけました。それが運(うん)わるく額(ひたひ)に当(あた)つたからたまりません。ハサンの顔(かほ)は血(ち)だらけになつてしまひました。それでもハサンは「あゝ、私(わたし)が悪(わる)かつた。あんまりしつつこくついて来(き)たもんだから、とう/\あの子(こ)の機嫌(きげん)を損(そこ)ねてしまつた」と、相手(あひて)を恨(うら)まないで、かへつて自分(じぶん)の身(み)を責(せ)めながら、すご/\と元(もと)来(き)た道(みち)を引(ひ)き返(かへ)して行(い)きました。
 アジーブは尋(たづ)ねる父(ちゝ)に廻(めぐ)りあつたとも知(し)らぬばかりか、父(ちゝ)の顔(かほ)に石(いし)まで投(な)げつけて、そのまゝお祖父(ぢい)さんと一(いつ)しよにこの都(みやこ)を立(た)ち去(さ)りました。そして、程(ほど)なくエル・バスラーの都(みやこ)へまゐりました。お祖父(ぢい)さんはハサンの残(のこ)して置(お)いた書(か)き附(つ)けからヌーアがこの都(みやこ)にゐたことを知(し)つてゐますので、あはよくばハサンを捜(さが)し出(だ)すことも出来(でき)ようかと心(こゝろ)が急(せ)いてをりました。で、すぐ様(さま)国王(こくおう)に謁見(えつけん)を願(ねが)つて、わが身(み)の上(うへ)を詳(くは)しく物語(ものがた)つた上(うへ)、元(もと)の宰相(さいしよう)のヌーアは自分(じぶん)の弟(おとうと)であると申(まを)し上(あ)げました。国王(こくおう)は思(おも)はず声(こゑ)をあげて、
「おゝ、左様(さよう)であつたか。だが残念(ざんねん)なことに、ヌーアは十二年前(じゆうにねんまへ)一人(ひとり)の男(をとこ)の子(こ)を遺(のこ)して死(し)んで行(い)つてな。それに、その子(こ)もどこかへ出奔(しゆつぽん)して、皆目(かいもく)行方(ゆくへ)が知(し)れぬのぢや。しかしその子(こ)の母(はゝ)に当(あた)るヌーアの妻(つま)は、俺(おれ)の手許(てもと)にまだ存命(ぞんめい)でゐるよ」と、仰(おほ)せられました。甥(をひ)の母親(はゝおや)がまだ生(い)きてゐると聞(き)いて、宰相(さいしよう)シエムは大(たい)そう喜(よろこ)んで、
「では、どうぞその母親(はゝおや)に会(あ)はせて下(くだ)さいまし」と、お願(ねが)ひしました。
 国王(こくおう)は直(す)ぐさまそれをお許(ゆる)しになりました。そこでシエムは、早速(さつそく)甥(をひ)の母親(はゝおや)を訪(たづ)ねて行(い)つて、はる/゛\やつて来(き)た理由(りゆう)を詳(くは)しく語(かた)つて聞(き)かせた上(うへ)、これがあなたの孫(まご)だと云(い)つてアジーブに引(ひ)き合(あ)はせました。お祖母(ばあ)さまはアジーブの傍(そば)へ駈(か)け寄(よ)つて、両手(りようて)に抱(だ)きしめたまゝ、しばらくはうれし泣(な)きに泣(な)いてゐました。が、シエムは彼女(かのじよ)に云(い)ひました。──
「さあ、さうして泣(な)いてゐても仕方(しかた)がないから、私(わたし)どもと一(いつ)しよにあなたもカイロの都(みやこ)へいらつしやい。さうしたら、いつかは又(また)この子(こ)の父親(ちゝおや)に会(あ)ふことも出来(でき)ませうから」
 それから宰相(さいしよう)の一行(いつこう)は、弟(おとうと)の妻(つま)を加(くは)へて、いよ/\帰国(きこく)の旅(たび)に上(のぼ)りました。そして、ダマスカスに着(つ)くと、今度(こんど)はこゝで国王(こくおう)へ差(さ)し上(あ)げる土産物(みやげもの)を調(とゝの)へることにしました。それがためには、どうしても一週間(いつしゆうかん)ばかり逗留(とうりゆう)せねばなりませんでした。で、その間(あひだ)に、アジーブは又(また)例(れい)の石(いし)を投(な)げつけた料理人(りようりにん)のことを思(おも)ひ出(だ)したので、召(め)し使(つか)ひに向(むか)つて、
「もう一度(いちど)あの料理人(りようりにん)のところへ行(い)つて見(み)ようよ。あんなに親切(しんせつ)にしてくれたのに、怪我(けが)までさせて、ほんとうに済(す)まないことをしたからね」と、云(い)ひ出(だ)しました。そして、再(ふたゝ)びハサンの店(みせ)へやつてまゐりました。ハサンはちようど柘榴(ざくろ)の砂糖漬(さとうづ)けを拵(こしら)へ上(あ)げたところでしたが、アジーブは、その姿(すがた)を見(み)ると、いきなり駈(か)け寄(よ)つて、
「いつかはほんとうに悪(わる)いことをしたね。だが、勘忍(かんにん)しておくれよ。私(わたし)はお前(まへ)がなつかしくて、かうして訪(たづ)ねて来(き)たのだからね」と、申(まを)しました。すると、ハサンもにこ/\して、
「いゝえ、あんなことちつとも気(き)にしちやゐませんよ。でも、本当(ほんとう)によく来(き)てくれましたね。さあ、それではもう一度(いちど)私(わたし)の料理(りようり)を召(め)し上(あが)つて下(くだ)さいな」と、さも/\なつかしそうに云(い)ひました。
「でも、今度(こんど)はもう/\後(あと)からついて来(き)たりしては厭(いや)だよ。それだけはきつと約束(やくそく)するね」と、アジーブが申(まを)しました。
「えゝえゝ、それはもうきつと約束(やくそく)しますとも」
 そこで、二人(ふたり)はまたおいしい石榴(ざくろ)の砂糖漬(さとうづ)けを腹一杯(はらいつぱい)食(た)べました。そして、帰(かへ)つて見(み)ると、アジーブのお祖母(ばあ)さまがやつぱり柘榴(ざくろ)の砂糖漬(さとうづ)けを膳(ぜん)に上(の)せました。が、たつた今(いま)同(おな)じものを食(た)べて来(き)たばかりなので、アジーブはいくらすゝめられても手(て)を出(だ)さうとはしませんでした。しまひには、ちよつとなめるようにして見(み)て、
「だつて、これは少(すこ)し甘味(あまみ)が足(た)りないんだもの。僕(ぼく)はもつとおいしいのを腹一杯(はらいつぱい)食(た)べて来(き)たんだよ」と、子供(こども)だけに、とう/\ほんとうのことを云(い)つてしまひました。
 それを聞(き)くと、お祖母(ばあ)さまもいつになく腹(はら)を立(た)てゝ、
「何(なに)をお云(い)ひだえ、えゝ、これは私(わたし)が手(て)づからこしらへたものだよ。そして、お前(まへ)のお父(とう)さんの外(ほか)には、一人(ひとり)だつてこんなにおいしくこしらへるものはないんだよ」と、申(まを)しました。「でも、さつき町(まち)で食(た)べた石榴(ざくろ)の砂糖漬(さとうづ)けは、そりやあおいしかつたよ。ほんとうだよ」と、アジーブはあくまで云(い)ひつのりました。「よし、そんなことを云(い)ふなら」と、お祖母(ばあ)さまも負(ま)けない気(き)になつて、すぐさま召(め)し使(つか)ひに命(めい)じて、同(おな)じ店(みせ)からその砂糖漬(さとうづ)けをとつて来(こ)させるようにいたしました。それをお祖父(ぢい)さまに差(さ)し上(あ)げて、どちらがおいしいかきめて頂(いたゞ)かうと云(い)ふのでございます。
 召(め)し使(つか)ひは早速(さつそく)ハサンの店(みせ)へ行(い)つて、お祖母(ばあ)さまと孫(まご)とのいさかひをありのまゝに話(はな)して聞(き)かせた上(うへ)、さう云(い)ふわけだから、アジーブの負(ま)けないように、一(ひと)つ特別上等(とくべつじようとう)の砂糖漬(さとうづ)けを売(う)つて貰(もら)ひたいと云(い)ひ入(い)れました。それを聞(き)いて、ハサンはにつこり笑(わら)ひながら、
「はい、畏(かしこ)まりました。ですが、こいつの拵(こしら)へ方(かた)にかけては、私(わたし)と私(わたし)のお母(かあ)さまに優(まさ)るものは世間(せけん)にありつこないから、その点(てん)は安心(あんしん)していらつしやい。そしてそのお母(かあ)さまは今(いま)遠(とほ)い所(ところ)にゐるんですからね」と、云(い)ひ/\皿(さら)に一杯(いつぱい)の砂糖漬(さとうづ)けを掬(すく)つてくれました。
 で、それを受(う)け取(と)ると、召(め)し使(つか)ひは急(いそ)いで戻(もど)つてまゐりました。お祖母(ばあ)さまは待(ま)ち構(かま)へてゐて、先(ま)づその風味(ふうみ)を味(あじ)はつて見(み)ましたが、それだけでもう誰(だれ)がこしらへたかを悟(さと)りました。そして、あまりの意外(いがい)に気(き)を失(うしな)つて、その場(ば)に倒(たふ)れてしまひました。さあ、一同(いちどう)の驚(おどろ)きは容易(ようい)でありません。顔(かほ)に水(みづ)を振(ふ)りかけるやら背中(せなか)をさするやら、大騒(おほさわ)ぎをいたしましたが、それでも程(ほど)なく息(いき)を吹(ふ)き返(かへ)しました。そして、眼(め)を見(み)ひらくと同時(どうじ)に、
「あゝ、私(わたし)の息(むすこ)がまだ生(い)きてゐたのだ」と、叫(さけ)びました。「この砂糖漬(さとうづ)けをこしらへたものは、私(わたし)の息(むすこ)の他(ほか)にない。ハサンだ、なんと云(い)つてもハサンに相違(そうい)ない。この拵(こしら)へ方(かた)を教(をし)へたのは誰(だれ)でもない、この私(わたし)なんだからね」
 これを聞(き)いた宰相(さいしよう)の喜(よろこ)びは、またアジーブの喜(よろこ)びは、とても言葉(ことば)には尽(つ)くされますまい。宰相(さいしよう)は早速(さつそく)召(め)し使(つか)ひにいひつけて、ハサンをよび寄(よ)せました。かうしてハサンは思(おも)ひがけなくも母親(はゝおや)に会(あ)つた上(うへ)、それとも知(し)らなかつたアジーブとは親子(おやこ)の対面(たいめん)をして一時(いちじ)は夢(ゆめ)に夢見(ゆめみ)る思(おも)ひをしてゐました。が、いろ/\と長(なが)い物語(ものがたり)を聞(き)くにつれて、その不思議(ふしぎ)な運命(うんめい)に驚(おどろ)くと共(とも)に、深(ふか)く心(こゝろ)の底(そこ)から喜(よろこ)びました。
 やがて、一同(いちどう)連(つ)れ立(だ)つて、カイロの都(みやこ)に帰(かへ)つてまゐりました。宰相(さいしよう)の娘(むすめ)シツテルの喜(よろこ)びは、まあ、どんなであつたでせう。




   若(わか)い獅子(しゝ)と大工(だいく)の話(はなし)

 昔(むかし)、一番(いちばん)の雄孔雀(をくじやく)と雌孔雀(めくじやく)とが、ある海岸(かいがん)に住(す)んでをりました。そこには他(ほか)の鳥(とり)や獣(けもの)を捕(と)つて食(た)べるような、恐(おそ)ろしい野獣(やじゆう)を始(はじ)めとして、いろ/\な獣類(けものるい)が沢山(たくさん)住(す)んでゐました。で、孔雀(くじやく)どもはそれが恐(おそ)ろしさに、夜間(やかん)は木(き)の上(うへ)へとまるようにして、朝(あさ)になつてから餌(ゑ)をあさつて廻(まは)りました。かうしてしばらくは何事(なにごと)もなく暮(くら)してゐましたが、だん/\恐(おそ)ろしさが嵩(こう)じて来(き)たので、どこか他(ほか)へ行(い)つて、もつと気楽(きらく)な住(す)みかを求(もと)めようといたしました。そしてだん/\捜(さが)し廻(まは)つてゐる間(ふひだ)に、ふと一(ひと)つの島(しま)を見(み)つけましたが、それは木(き)や草(くさ)が茂(しげ)つて、きれいな清水(しみづ)の流(なが)れてゐる、まことに住(す)みよさそうな所(ところ)でございましたので、いよ/\その島(しま)に移(うつ)つて住(す)むことにいたしました。
 その島(しま)へ移(うつ)つてから、二羽(には)の孔雀(くじやく)は、毎日(まいにち)果物(くだもの)を取(と)つて食(た)べたり、小川(をがは)の水(みづ)を飲(の)んだりしながら、それまでとは違(ちが)つて、至極(しごく)おだやかな暮(くら)しをしてゐました。が、ある日(ひ)のこと一羽(いちは)の鴨(かも)がいかにも狼狽(うろた)へたような様子(ようす)をしながら、彼等(かれら)の側(そば)へ近(ちか)づいてまゐりました。 それを見(み)ると、雄孔雀(をくじやく)は、これはきつと何事(なにごと)か異変(いへん)が起(おこ)つたに相違(そうい)ないと思(おも)ひましたので、鴨(かも)に向(むか)つて、
「どうしてあなたは、そんなにきよと/\してゐるのです」と、たづねました。鴨(かも)はこれに答(こた)へて、
「どうしてつて、あなた、私(わたし)はどうにも恐(こは)くて/\、ほんとに命(いのち)も縮(ちゞ)まるほどですよ。と云(い)つて、それは野獣(やじゆう)なぞが恐(こは)いのではありません。私(わたし)の恐(こは)いのは、あの人間(にんげん)といふ奴(やつ)ばらですよ。まつたく人間(にんげん)くらゐ恐(おそ)ろしいものはありませんものね。ですから、あなたがたも人間(にんげん)を見(み)たら御用心(ごようじん)なさいましよ」と、云(い)ひました。
「まあ安心(あんしん)なさい。お前(まへ)さんも私達(わたしたち)のところへ来(き)たからには、もう大丈夫(だいじようぶ)ですからね」と、雄孔雀(をくじやく)は相手(あひて)を力(ちから)づけるように申(まを)しました。
「それでは、どうぞあなたがたのお仲間(なかま)に入(い)れて下(くだ)さいまし。他(ほか)に頼(たよ)る所(ところ)とてない身(み)でございますから」と、鴨(かも)はさも嬉(うれ)しそうに申(まを)しました。
 その時(とき)、雄孔雀(をくじやく)も木(き)の枝(えだ)から降(お)りて来(き)て、「私達(わたしたち)もあなたが来(き)て下(くだ)すつたので、賑(にぎ)やかになつて喜(よろこ)んでゐますよ。今(いま)においしい物(もの)を沢山(たくさん)上(あ)げますから、安心(あんしん)して落(お)ちついていらつしやい。かうして海(うみ)の真中(まんなか)の島(しま)にゐるんですもの、どうして人間(にんげん)などが私(わたし)どもに近(ちか)づいて来(こ)られませう。陸(りく)からも、海(うみ)からも、どつちからだつてやつて来(こ)られやしませんわい。ですから、もうなんにも心配(しんぱい)しないがいゝんですよ。で、その人間(にんげん)がどんなことをしましたかい。それを一(ひと)つ私(わたし)どもに聞(き)かせてくれませんか」と、たづねました。
 そこで鴨(かも)は次(つ)ぎのように話(はな)して聞(き)かせました。
「私(わたし)はこれまでこの島(しま)で、別段(べつだん)恐(おそ)ろしい目(め)にも遭(あ)はないで、極(きは)めて穏(おだ)やかに暮(く)らして来(き)ました。ところが、ある夜(よ)、夢(ゆめ)に、私(わたし)が人間(にんげん)の姿(すがた)をした男(をとこ)と話(はなし)をしてゐると、どこからともなく、かう云(い)つて私(わたし)に注意(ちゆうい)してくれる言葉(ことば)が耳(みゝ)に聞(きこ)えて来(く)るんですね。『鴨(かも)よ、人間(にんげん)に気(き)を許(ゆる)すな、あんな者(もの)の云(い)うことに瞞(だま)されてはいけないぞ。あいつ等(ら)はお前(まへ)なぞの思(おも)ひもよらぬほど計略(けいりやく)がうまいのだからね。どうして容易(ようい)に悪(わる)がしこいんぢやないのだ。まるで嘘(うそ)で固(かた)めたような悪(わる)ものばかりだよ。その証拠(しようこ)に、あいつ等(ら)は魚(さかな)をごまかして水(みづ)から引(ひ)き上(あ)げるし、土(つち)のたまで鳥(とり)を打(う)つし、あの大(おほ)きな象(ぞう)でさへ罠(わな)にかけて捕(つか)まへてしまふよ。まつたく、どんな者(もの)でも人間(にんげん)の悪戯(いたづら)にかゝつては叶(かな)はないね。鳥(とり)でも、野獣(やじゆう)でも、人間(にんげん)の手(て)から免(のが)れるわけには行(い)かないよ。だから、お前方(まへがた)も用心(ようじん)しなけりやいけないね』と、かう云(い)ふたですよ。それを聞(き)いて、私(わたし)はがた/\顫(ふる)へながら眼(め)をさましました。そして、それからといふものは、いつその計略(けいりやく)にかゝるか、いつその罠(わな)に落(お)ちるかと、たゞもう人間(にんげん)の怖(こは)さ、恐(おそ)ろしさに、生(い)きた心地(こゝち)もありませんでしたがね、とう/\ゐたゝまらなくなつて、あてどもなくひとりでさまよひ出(だ)したのですよ。
 で、その日(ひ)も暮(く)れかゝつた頃(ころ)には、おなかはなくし、精(せい)も根(こん)も尽(つ)き果(は)てゝ、この末(すゑ)どうなることかと心配(しんぱい)しい/\、疲(つか)れた羽(は)がひに鞭打(むちう)ちながら、だん/\やつて参(まゐ)りました。そして、あそこに見(み)えるあの山(やま)へ行(ゆ)き着(つ)いた時(とき)、洞穴(ほらあな)の入(い)り口(ぐち)に、一疋(いつぴき)の黄色(きいろ)い色(いろ)をした若(わか)い獅子(しゝ)がしやがんでゐるのを見(み)ました。若(わか)い獅子(しゝ)は大(たい)そう喜(よろこ)んで私(わたし)を迎(むか)へてくれました。私(わたし)の美(うつく)しい羽色(はいろ)や、優(やさ)しい姿(すがた)があの方(かた)の気(き)に入(い)つたものと見(み)えるんですね。で、私(わたし)に声(こゑ)をかけながら、『もつと近(ちか)くへ来(こ)ないか」と、云(い)ふのですよ。で、私(わたし)が傍(そば)へ行(い)くと、「お前(まへ)の名(な)はなんと云(い)つて、どういふ連中(れんじゆう)の仲間(なかま)かね」と、たづねました。そこで私(わたし)は「私(わたし)の名(な)は鴨(かも)と云(い)つて空飛(そらと)ぶ鳥(とり)の仲間(なかま)でございます』と、有様(ありよう)を答(こた)へましたが、今度(こんど)はこつちからどういふわけで、あなたは今頃(いまごろ)こんな処(ところ)にぶら/\していらしつたのです」と、たづねて見(み)ました。すると、若(わか)い獅子(しゝ)の云(い)ふには、『それはかう云(い)ふわけなんだ。二三日前(にさんにちまへ)から、人間(にんげん)に気(き)をつけろ、人間(にんげん)に気(き)をつけろと、しきりに親爺(おやぢ)が云(い)つてゐたが昨夜(ゆうべ)とう/\人間(にんげん)の姿(すがた)を夢(ゆめ)に見(み)たんだよ』かう云(い)つて、どうでせう、私(わたし)が今(いま)あなた方(がた)にお話(はなし)したと丸(まる)で同(おな)じような夢(ゆめ)の話(はなし)をして聞(き)かせるぢやありませんか。そこで私(わたし)は、『獅子(しゝ)さん、私(わたし)はあなたにお願(ねが)ひして人間(にんげん)を殺(ころ)して貰(もら)はうと思(おも)つて、こゝまで来(き)たんですがね、一(ひと)つ思(おも)ひ切(き)つてやつつけて下(くだ)さいよ。あなたは野獣(やじゆう)の中(なか)の帝王(ていおう)ぢやありませんか」と、熱心(ねつしん)に勧(すゝ)めて見(み)ました。すると、彼(かれ)はなんと思(おも)つたか、ふいに立(た)ち上(あが)つて尻尾(しつぽ)でぴちや/\自分(じぶん)の背中(せなか)を打(う)ちながら、ゆるゆると歩(ある)き出(だ)しました。私(わたし)もその後(あと)からついて行(い)きました。
 私(わたし)どもはだん/\道(みち)を下(くだ)つて行(い)きました。すると、目(め)の前(まへ)に埃(ほこり)が立(た)ち上(あが)つて、その中(なか)から裸(はだか)の驢馬(ろば)が一疋(いつぴき)こちらを目(め)がけて駈(か)け出(だ)して来(き)ました。それを見(み)て、獅子(しゝ)が声(こゑ)をかけると、驢馬(ろば)はすなほに彼(かれ)の前(まへ)へやつてまゐりました。『どう云(い)ふわけで、お前(まへ)はこちらへ逃(に)げて来(き)たのだ』と、獅子(しゝ)がたづねました。『人間(にんげん)が恐(こは)いからです』と、驢馬(ろば)は答(こた)へました。『あいつ等(ら)に殺(ころ)されようとでもしたのかい』と、再(ふたゝ)び獅子(しゝ)がたづねました。すると、驢馬(ろば)は次(つ)ぎのように答(こた)へました。『いえ、さうではありません、私(わたし)があいつ等(ら)を恐(こは)がるのは、あいつ等(ら)が私(わたし)を乗(の)り廻(まは)すからです。あいつ等(ら)は鞍(くら)といふものを持(も)つてゐて、それを私(わたし)の背中(せなか)に載(の)つけるばかりでなく、腹帯(はらおび)といふものを私(わたし)の腹(はら)にまきつけ、鞦(しりがひ)といふものを私(わたし)の尻尾(しつぽ)の下(した)へ挟(はさ)むんです。また馬銜(はみ)といふ物(もの)を持(も)つて来(き)て、それを私(わたし)の口(くち)に食(は)ませたり、突(つ)く棒(ぼう)といふ物(もの)を拵(こさ)へて、それで私(わたし)をつつ突(つ)いて走(はし)らせたりするのですよ。とにかく、あいつ等(ら)は、私(わたし)の力以上(ちからいじよう)に走(はし)らなければ承知(しようち)しないのですからね。で、もし私(わたし)がうつかり躓(つまづ)きでもしようものなら、さん/゛\に私(わたし)を罵(のゝし)ります。嘶(な)くと、謗(そし)ります。そして、私(わたし)が年寄(としよ)りになつて、もう走(はし)れなくなると、あいつ等(ら)は私(わたし)の上(うへ)に木(き)の荷鞍(にぐら)を置(お)いて、私(わたし)を水売(みづう)りの手(て)に渡(わた)します。すると、水売(みづう)りは川(かは)から水(みづ)を汲(く)んで、山羊(やぎ)の革嚢(かはぶくろ)だのに詰(つ)めた上(うへ)、私(わたし)の背(せ)につけて運(はこ)ばせるんですよ。かうして、私(わたし)は死(し)ぬまでこき使(つか)はれたあげく、いよ/\死(し)んだ時(とき)には、芥(あくた)の山(やま)へ捨(す)てられて、犬(いぬ)の餌食(ゑじき)になるんです。まつたく、これぢや死(し)ぬにも優(まさ)つた苦(くる)しみぢやないでせうかね』それを聞(き)いて、獅子(しゝ)は、『お前(まへ)はこれからどこへ行(い)かうとしてゐるのだ』とたづねました。驢馬(ろば)は『私(わたし)は夜明(よあ)け前(まへ)に人間(にんげん)の姿(すがた)を見(み)かけました。で、かうして一目散(いちもくさん)に逃(に)げて来(き)たのですがね。たゞもう、一時(いつとき)も早(はや)くよい隠(かく)れ場所(ばしよ)が見(み)つけたいばかりですよ』と、申(まを)しました。
 ところで、驢馬(ろば)がまだぐづ/\してゐる間(あひだ)に、また埃(ほこり)の雲(くも)が彼方(かなた)の空(そら)に舞(ま)ひ上(あが)つて、それが消(き)えると、その中(なか)から一疋(いつぴき)の黒馬(くろうま)があらはれました。その馬(うま)は、額(ひたひ)と蹄(ひづめ)の近(ちか)くに白(しろ)いところのある、脚(あし)のすらりとして細(ほそ)い、まことに美(うつく)しい馬(うま)でございました。若(わか)い獅子(しゝ)はまた、『お前(まへ)がこの広(ひろ)い砂漠(さばく)を飛(と)んで来(き)たのは、どうしたわけだね』と、たづねて見(み)ました。すると、その馬(うま)は「人間(にんげん)が恐(こは)いからですよ」と、同(おな)じように答(こた)へました。そこで、若(わか)い獅子(しゝ)は馬(うま)の言葉(ことば)に内心(ないしん)驚(おどろ)きながら、「そんな事(こと)をいふな、そんな事(こと)をいふのはお前(まへ)の恥(はぢ)だぞ。お前(まへ)はさうして背(せ)の高(たか)い、丈夫(じようぶ)な獣(けだもの)ぢやないか。それ程(ほど)大(おほ)きなずうたいをして、人一倍(ひといちばい)にはやい脚(あし)を持(も)つてゐながら、どうして人間(にんげん)なぞを恐(こは)がるのだ。見(み)たまへ。僕(ぼく)はこんな小(ちひ)さな体(からだ)をしてゐても、鴨(かも)を助(たす)けて、一(ひと)つ人間(にんげん)と戦(たゝか)つてやらうと考(かんが)へてゐるんだよ。お前(まへ)がその蹄(ひづめ)で、蹴(け)つたら、あいつ等(ら)一(ひと)たまりもなく死(し)んでしまつて、お前(まへ)に手向(てむか)ふことなぞは、とても出来(でき)なさそうなものだがね」と、申(まを)しました。すると、馬(うま)は声(こゑ)を挙(あ)げて笑(わら)ひました。『どうして/\、飛(と)んでもない、私(わたし)なぞがあいつ等(ら)を征服(せいふく)するなんて考(かんが)へも及(およ)ばないことですよ。何(なに)しろ、あいつ等(ら)はありあまる程(ほど)の悪智恵(わるじえ)を持(も)つてゐるのですからね。そして、棕櫚(しゆろ)の毛(け)でつくつた二本(にほん)の縄(なは)を私(わたし)の手足(てあし)にかけて、私(わたし)の頭(あたま)を高(たか)い棒杭(ぼうぐひ)に結(むす)びつけるんですもの、寝(ね)ることも横(よこ)になることも出来(でき)やあしません。またあいつ等(ら)が私(わたし)に乗(の)らうと思(おも)ふ時(とき)には、鐙(あぶみ)といふ金具(かなぐ)を私(わたし)に結(いは)ひ着(つ)けた上(うへ)、鞍(くら)といふものに二本(にほん)の腹帯(はらおび)を通(とほ)して、私(わたし)の背中(せなか)に載(の)せつけるのですよ。そして、口(くち)には馬銜(はみ)を食(は)ませ、それに手綱(たづな)といふ鞣(なめ)し皮(がは)の紐(ひも)を結(いは)ひつけるんです。で、その手綱(たづな)をしつかり握(にぎ)つて、自由自在(じゆうじざい)に私(わたし)を動(うご)かすのですね。又(また)その鐙(あぶみ)で時々(とき/゛\)血(ち)の出(で)る程(ほど)私(わたし)の横腹(よこばら)を蹴(け)るんです。こんなにして使(つか)つて置(お)きながら、私(わたし)が年(とし)を取(と)つてはやく走(はし)れなくなると、あいつ等(ら)は私(わたし)を粉挽(こなひ)き屋(や)へ売(う)り渡(わた)して、朝(あさ)から晩(ばん)まで臼(うす)のまはりを廻(まは)らせますよ。さうしていよ/\動(うご)けなくなつた時(とき)は、私(わたし)を屠殺者(とさつしや)の手(て)に渡(わた)して屠(ほふ)らせるんですね。すると、そいつ等(ら)はまた私(わたし)の皮(かは)を剥(は)ぐ、尻尾(しつぽ)を引(ひ)きぬいて篩屋(ふるひや)に売(う)る、おまけに私(わたし)の脂(あぶら)までも溶(と)かして何(なに)かに使(つか)ふんですからね」
 かうして獅子(しゝ)が馬(うま)と話(はなし)してゐる間(あひだ)に、また埃(ほこり)が立(た)ち上(あが)つて、今度(こんど)は駱駝(らくだ)がやつてまゐりました。若(わか)い獅子(しゝ)は相手(あひて)が大(おほ)きくていかにも丈夫(じようぶ)そうなのを見(み)て、これが人間(にんげん)だなと考(かんが)へました。そして、今(いま)にも飛(と)びかゝらうとしたのでした。けれども、私(わたし)が側(そば)から「あれは駱駝(らくだ)といふ獣(けだもの)ですよ』と、教(をし)へてやつたので、何事(なにごと)もなく済(す)みました。そこで若(わか)い獅子(しゝ)はまた前(まへ)のようにたづねました。すると、これもやつぱり人間(にんげん)の手(て)から逃(に)げて来(き)たと云(い)ふのでございます。「えゝ、そんな大(おほ)きな体格(たいかく)をしてゐる癖(くせ)に、どうして人間(にんげん)なぞを恐(こは)がるのだ」と、獅子(しゝ)は眼(め)を丸(まる)くしてたづねました。『お前(まへ)がその脚(あし)で蹴飛(けと)ばしてやつたら、ちつぽけな人間(にんげん)なんか一度(いちど)で死(し)んでしまふだらうぢやないか」すると、駱駝(らくだ)はそれに答(こた)へました。「なか/\さう容易(たやす)くは行(ゆ)きませんよ。まつたく、あいつ等(ら)の計略(けいりやく)のうまさと云(い)つたら、そりやあお話(はなし)するようなものぢやありませんからね。お聞(き)き下(くだ)さい。まあ、かうですよ。あいつ等(ら)は私(わたし)の鼻(はな)に鼻環(はなわ)といふものを通(とほ)して、頭(あたま)にたづなといふものをつけるんです。それから、私(わたし)を小(ちひ)さな子供(こども)の手(て)に渡(わた)すんですがね、子供(こども)はその紐(ひも)でもつて、こんな大(おほ)きなずうたいをしてゐる私(わたし)を自由自在(じゆうじざい)に引(ひ)き廻(まは)すんだから叶(かな)ひませんや。またあいつ等(ら)は私(わたし)に重(おも)い荷物(にもつ)を背負(しよ)はせて、一緒(いつしよ)に長(なが)い道中(どうちゆう)をさせます。かうして永(なが)い歳月(さいげつ)の間(あひだ)、夜昼(よるひる)休(やす)みなしに苦(くる)しい労働(ろうどう)をさせるんですが、いよ/\私(わたし)が年(とし)を取(と)つて、あいつ等(ら)の役(やく)に立(た)たなくなると、情容赦(なさけようしや)もなく私(わたし)を屠殺者(とさつしや)の手(て)に売(う)り渡(わた)すんですよ。すると、そいつ等(ら)は又(また)私(わたし)の皮(かは)を鞣(なめ)し皮屋(がはや)に売(う)つて、肉(にく)を料理人(りようりにん)に売(う)るんですね。ほんとに、考(かんが)へて見(み)てもぞつとしますよ』それを聞(き)いて、若(わか)い獅子(しゝ)は、
『一体(いつたい)お前(まへ)はいつ人間(にんげん)の手(て)から遁(のが)れて来(き)たのか』と、たづねました。「ほんの少(すこ)し前(まへ)逃(に)げ出(だ)して来(き)たばかりですがね、ひよつとしたら、今頃(いまごろ)は途中(とちゆう)まで追(お)ひかけて来(き)てゐるかも知(し)れませんよ』と、駱駝(らくだ)はさう云(い)ふ下(した)からびく/\顫(ふる)へてゐました。すると、若(わか)い獅子(しゝ)は『まあ、そんなに狼狽(うろた)へるにや及(およ)ばないよ。しばらくお待(ま)ちなさい。今(いま)にこのわしがあいつ等(ら)を引(ひ)つ裂(さ)いて、その肉(にく)をお前方(まへがた)に御馳走(ごちそう)した上(うへ)、その骨(ほね)を折(を)つて、その血(ち)を啜(すゝ)る所(ところ)を見(み)せて上(あ)げるからな』と、申(まを)しました。
 すると、どうでせう、この話(はなし)が終(をは)るか終(をは)らないうちに、瘠(や)せた、背(せ)の低(ひく)い老人(ろうじん)が、何気(なにげ)なくこちらへやつてまゐりました。彼(かれ)は片手(かたて)に大工(だいく)の道具(どうぐ)を入(い)れた籃(かご)を提(さ)げて、頭(あたま)の上(うへ)には木(き)の枝(えだ)と八枚(はちまい)の板(いた)とを載(の)せてをりました。そして、二人(ふたり)の子供(こども)の手(て)を曳(ひ)いてゐました。彼(かれ)が私(わたし)どもの前(まへ)まで来(き)た時(とき)、若(わか)い獅子(しゝ)は彼(かれ)の前(まへ)へ進(すゝ)んで行(い)きました。すると、老人(ろうじん)は獅子(しゝ)に向(むか)つて、『私(わたし)は悪(わる)い奴等(やつら)に苦(くる)しめられてゐるものです。どうか私(わたし)を助(たす)けて下(くだ)さい』と、云(い)ひながら、獅子(しゝ)の前(まへ)に立(た)つて泣(な)いたり、歎(なげ)いたり、溜(た)め息(いき)をついたりして見(み)せました。『お前(まへ)は一体(いつたい)何者(なにもの)だ』と、若(わか)い獅子(しゝ)は相手(あひて)の様子(ようす)を見(み)やりながら、かうたづねました。『お前(まへ)に似(に)たようなものを、わしは未(ま)だ生(うま)れてからまだ一度(いちど)も見(み)たことがないがな』そこで大工(だいく)は答(こた)へました。『私(わたし)は大工(だいく)です。(大工(だいく)は貧乏(びんぼう)で始終(しじゆう)他人(たにん)から苦(くる)しめられてゐるので、かう云(い)つたのです)で、私(わたし)を苦(くる)しめる奴等(やつら)と云(い)ふのは人間(にんげん)なんですがね。明日(あす)の朝(あさ)はそいつ等(ら)がきつとこゝを通(とほ)りますよ』それを聞(き)いて、若(わか)い獅子(しゝ)は武者(むしや)ぶるひをしながら、『よし、今夜(こんや)は朝(あさ)まで起(お)きてゐることにしよう。そして、人間(にんげん)を殺(ころ)してやるまでは、どうあつても帰(かへ)らないぞ』と、大(おほ)きな声(こゑ)で叫(さけ)びました。それからその大工(だいく)に向(むか)つて、『見(み)たところ、お前(まへ)の脚(あし)はどうも短(みぢか)いようじやが、それで他(ほか)の野獣(やじゆう)と歩調(ほちよう)を揃(そろ)へて歩(ある)くのは随分(ずいぶん)困難(こんなん)ぢやらうな。そこできくがね、お前(まへ)は一体(いつたい)どこへ行(い)くつもりなんだい』と、たづねました。すると、大工(だいく)は次(つ)ぎのように申(まを)しました。『はい、私(わたし)は山猫(やまねこ)さまのところへ伺(うかゞ)はうとしてゐるのです。と云(い)ふのは、この地方(ちほう)へ人間(にんげん)が入(い)り込(こ)んだといふ噂(うはさ)をお聞(き)きになつて、あの方(かた)が大(たい)そう御心配(ごしんぱい)になりましてね、私(わたし)の許(もと)へわざ/\使(つか)ひをよこされたのですよ。そして、人間(にんげん)がやつて来(き)ても自分(じぶん)の傍(そば)へは近寄(ちかよ)れないように、一(ひと)つ家(いへ)を建(た)てゝくれないかと、かう仰(おつ)しやるんですね、で、私(わたし)はこの通(とほ)り板(いた)ぎれを持(も)つて、あの方(かた)の許(もと)へ出(で)かけて来(き)たのですよ』
 それを聞(き)いて、若(わか)い獅子(しゝ)は急(きゆう)に山猫(やまねこ)が羨(うらや)ましくなりました。そして、大工(だいく)に向(むか)つて、『山猫(やまねこ)の方(ほう)は後廻(あとまは)しにして置(お)いて、先(ま)づその板(いた)ぎれで俺(おれ)のうちを建(た)てゝくれないか』と、しきりに頼(たの)みました。すると、大工(だいく)は『それは困(こま)りましたね,何(なに)しろ山猫(やまねこ)さまの方(ほう)は先口(せんくち)ですから、それを建(た)てゝからでないと、どうもあなたのお言葉(ことば)に従(したが)ふわけには参(まゐ)りませんよ』と、わざとすげなく申(まを)しました。が、さう云(い)はれると、若(わか)い獅子(しゝ)は一(いつ)そうしつつこくなつて、
『お前(まへ)が俺(おれ)のうちを造(つく)つてくれるまでは、どんなことがあつてもこの場(ば)は去(さ)らせないよ』と、云(い)ひながら、なほも大工(だいく)の機嫌(きげん)を取(と)らうとして、その前(まへ)に這(は)ひつくばつたり、肩(かた)へ飛(と)びついたりして見(み)せました。その拍子(ひようし)に、大工(だいく)はよろ/\として、手(て)に持(も)つた籃(かご)を放(はふ)り出(だ)したまゝ、仰向(あふむ)けに倒(たふ)れてしまひました。それを見(み)て、獅子(しゝ)は『なんといふお前(まへ)は弱(よわ)い奴(やつ)だらう本当(ほんとう)に力(ちから)がないね。これぢや人間(にんげん)を怖(こは)がるのも無理(むり)はないよ』と、笑(わら)ひに笑(わら)ひました。大工(だいく)は腹(はら)を立(た)てましたが、相手(あひて)が相手(あひて)ですから、わざとその色(いろ)を隠(かく)して、にこ/\笑(わら)ひながら、『では、あなたから先(さき)に造(つく)つて上(あ)げませうよ』と、云(い)ひました。そこで持(も)つて来(き)た板(いた)ぎれを適当(てきとう)の長(なが)さに切(き)つて、それを釘(くぎ)づけにして箱(はこ)の恰好(かつこう)に拵(こさ)へました。そして、幾本(いくほん)かの釘(くぎ)を手(て)に握(にぎ)つたまゝ、若(わか)い獅子(しゝ)に向(むか)つて、さあ出来(でき)ましたから、『この入(い)り口(ぐち)からうちの中(なか)へはひつて見(み)て下(くだ)さい。そして、手足(てあし)ををつて、小(ちひ)さく蹲(しやが)んで御覧(ごらん)なさい』と、云(い)ひました。獅子(しゝ)は大(たい)そう喜(よろこ)んで、云(い)はれるまゝに箱(はこ)の中(なか)へはひりました。が尻尾(しつぽ)だけはまだ箱(はこ)の外(そと)にはみ出(だ)してゐました。さう云(い)ふわけで、少(すこ)し窮屈(きゆうくつ)なところから、獅子(しゝ)はそのまゝ後(あと)へ退(さが)つて、箱(はこ)から出(で)ようといたしました。すると、大工(だいく)はあわてゝ、『まあお待(ま)ちなさい、尻尾(しつぽ)も一(いつ)しよにはひるかどうか見(み)てあげますからね』と、云(い)ひ/\、獅子(しゝ)の尻尾(しつぽ)を箱(はこ)の中(なか)へ押(お)し込(こ)んで、その上(うへ)から手早(てばや)く蓋(ふた)をした上(うへ)、とん/\と釘(くぎ)を打(う)ちつけてしまひました。『おい、お前(まへ)の造(つく)つてくれたうちはどうも窮屈(きゆうくつ)でたまらないね。早(はや)く出(だ)してくれないか』と、若(わか)い獅子(しゝ)は大(おほ)きな声(こゑ)で呼(よ)ばはりました。『どうして/\、かうなつてから出(だ)してやつてたまるものか。お前(まへ)もとう/\檻(おり)の中(なか)へ入(い)れられたね。いくら後悔(こうかい)したつて、もう後(あと)の祭(まつり)だよ』と、大工(だいく)は手(て)を打(う)つて笑(わら)ひました。若(わか)い獅子(しゝ)は、この時(とき)になつて始(はじ)めて、大工(だいく)が人間(にんげん)であることに気(き)がついたのでした。私(わたし)はもう最初(さいしよ)から怖(おそ)ろしくてたまりませんでしたが、ずつと離(はな)れた所(ところ)へ遠退(とほの)いて、ぶる/\顫(ふる)へながら見(み)てゐました。すると、どうでせう。そいつは箱(はこ)の近(ちか)くに溝(みぞ)を掘(ほ)つて、その中(なか)へ箱(はこ)を転(ころ)がし込(こ)んでから、どん/\薪(まき)を投(な)げ入(い)れて可愛(かわい)そうに、その若(わか)い獅子(しゝ)を焼(や)き殺(ころ)してしまひましたよ。それを見(み)て私(わたし)はもう顫(ふる)へ上(あが)つてしまひました。そして、余(あま)りの怖(おそ)ろしさに、この二日間(ふつかかん)といふもの、後(あと)をも見(み)ないで、ただもう逃(に)げ通(どほ)しに逃(に)げて来(き)たんですよ」
 この話(はなし)を鴨(かも)から聞(き)いた時(とき)、孔雀(くじやく)どもは非常(ひじよう)に驚(おどろ)いてゐました。が、やがて、雌孔雀(めくじやく)は、鴨(かも)に向(むか)つて「だが、もう心配(しんぱい)することはありませんよ。こゝだけは大丈夫(だいじようぶ)ですからね」と云(い)つて慰(なぐさ)めてやりました。そして、お互(たがひ)に仲(なか)のよい友達(ともだち)になる約束(やくそく)をして、その夜(よ)は一緒(いつしよ)に飲(の)み食(く)ひをして過(す)ごしました。




   アラ・エ・デイーンの話(はなし)

 昔(むかし)、バグダツドの教王(きようおう)の御家来(ごけらい)に、アラ・エ・デイーンといふ若者(わかもの)がございました。大(たい)そう教王(きようおう)のお気(き)に入(い)つて、一日(いちにち)としてお側(そば)を離(はな)れたことがありませんでした。ところが、妻(つま)のズベイデエに死(し)なれてからといふものは、毎日(まいにち)泣(な)いてばかりゐて、一向(いつこう)御殿(ごてん)へも上(あ)がらないようになりました。教王(きようおう)もそれを御心配(ごしんぱい)になつて、なんとかして彼(かれ)を慰(なぐさ)めてやりたいものだと、いろ/\お考(かんが)へになつた末(すゑ)、宰相(さいしよう)のジヤーフアルを召(め)し寄(よ)せて、
「どうだらう、アラ・エ・デイーンもあゝしてゐては仕方(しかた)がないから、新(あら)たに妻(つま)でも持(も)たせて見(み)ては」と、仰(おほ)せになりました。
「それも宜(よろ)しいが、あのズベイデエに勝(まさ)るような女(をんな)は、この国中(くにじゆう)にもないでせうから、多分(たぶん)あの男(をとこ)が承知(しようち)しますまいよ」と、ジヤーフアルは申(まを)し上(あ)げました。
「さうか」と、教王(きようおう)は重(かさ)ねて仰(おほ)せになりました。「では、せめてあの男(をとこ)を連(つ)れ出(だ)して、気晴(きば)らしでもさせてやつてくれんか。さうしたら、ちつとはあれの心(こゝろ)も休(やす)まるだらうからな」
 宰相(さいしよう)はかしこまつて御前(ごぜん)を退出(たいしゆつ)しました。そして、あまり気(き)の進(すゝ)まぬアラ・エ・デイーンを無理(むり)に連(つ)れ出(だ)して、ぶら/\市中(しちゆう)を遊(あそ)んでまはりました。ところが、その日(ひ)市場(いちば)に奴隷(どれい)の市(いち)が立(た)つてゐました。その当時(とうじ)は、男(をとこ)でも、女(をんな)でも、外国(がいこく)から捕虜(とりこ)にして来(き)たものを奴隷(どれい)にして売(う)ると云(い)ふようなことがあつたのですね。見(み)ると、一人(ひとり)の若(わか)い、それは/\美(うつく)しい娘(むすめ)が台(だい)の上(うへ)にのせられて、せりにかけられてゐました。それを買(か)はうとしてゐるのは、この都(みやこ)の警視総監(けいしそうかん)の息(むすこ)で、ハバズラムといふ醜(みにく)い男(をとこ)でございました。娘奴隷(むすめどれい)はその男(をとこ)に買(か)はれるのが厭(いや)だと見(み)えて、しく/\泣(な)いてゐるのですね。それを見(み)ると、アラ・エ・デイーンは急(きゆう)に可愛(かわい)そうになつて、どうかしてその女(をんな)を救(すく)つてやりたいと思(おも)ひました。で、つか/\と前(まへ)へ出(で)て、自分(じぶん)が黄金(おうごん)の一千枚(いつせんまい)でそれを買(か)ひ取(と)らうと云(い)ひ出(だ)しました。すると、ハバズラムもやつきとなつて、
「では、俺(わし)も黄金(おうごん)をもう一枚(いちまい)増(ま)さう。一千一枚(いつせんいちまい)で買(か)つた」と、どなりました。
「では.黄金二千枚(おうごんにせんまい)」と、アラ・エ・デイーンも叫(さけ)びました。
 かうして、ハバズラムが黄金(おうごん)一千枚(いつせんまい)づゝ、せり上(あ)げるたびに、アラ・エ・デイーンの方(ほう)では一千枚(いつせんまい)づゝ増(ま)して行(い)きました。それを見(み)て、ハバズラムは非常(ひじよう)に腹(はら)を立(た)てました。が、腹(はら)を立(た)てたところで、どうにもならない。とう/\その娘奴隷(むすめどれい)は黄金(おうごん)一万枚(いちまんまい)でアラ・エ・デイーンの手(て)に買(か)ひ取(と)られました。で、彼(かれ)は一(いつ)たんその女(をんな)を家(いへ)に連(つ)れて帰(かへ)つた後(のち)、すぐに解放(かいほう)してやらうといたしました。が、女(をんな)の方(ほう)では、彼(かれ)の恩(おん)に感(かん)じて、どうしてもこのうちに置(お)いてくれと云(い)ふので、とう/\その望(のぞ)みに任(まか)せました。そして、教王(きようおう)に願(ねが)つて、あらためて結婚(けつこん)した上(うへ)、二人(ふたり)で仲(なか)よく暮(くら)すようになりました。
 一方(いつぽう)ハバズラムは、もうがつかりしてしまつて、まるで病人(びようにん)のようになつて家(いへ)に帰(かへ)りました。そして、すぐさま床(とこ)をとつて寝(ね)ましたが、それからは食物(しよくもつ)もとらなければ、夜(よる)も眠(ねむ)らないので、だん/\衰(おとろ)へて行(ゆ)くばかりでございました。かうなると、お母(つか)さんはもう心配(しんぱい)でなりません。どうしたものかと、毎日(まいにち)気(き)を揉(も)んで暮(くら)してゐるうちに、ある日(ひ)のこと、ふいに一人(ひとり)の婆(ばあ)さんが訪(たづ)ねてまゐりました。
 この婆(ばあ)さんは、カマーキンといふ盗賊(とうぞく)の母親(はゝおや)でございました。そして、そのカマーキンといふのは、どんな厚(あつ)い壁(かべ)でも切(き)り破(やぶ)れば、どんな固(かた)い錠前(じようまへ)でもねぢ千切(ちぎ)るといふ、どえらい大泥坊(おほどろぼう)なんですね。ところが、さすがのカマーキンも、ある時(とき)大金(たいきん)を盗(ぬす)んだことから足(あし)がついて、役人(やくにん)の手(て)に取(と)りおさへられた上(うへ)、とう/\監獄(かんごく)へ入(い)れられてしまひました。泥坊(どろぼう)でもわが子(こ)ですから、母親(はゝおや)が心配(しんぱい)して、どうかして警視総監(けいしそうかん)の妻(つま)の取(と)りなしで、わが子(こ)を監獄(かんごく)から出(で)られるようにしてやりたいと、しげ/\通(かよ)つてまゐりました。この日(ひ)もそのためにやつて来(き)たのですが、相手(あひて)が心配(しんぱい)そうな様子(ようす)をしてゐるのを見(み)て、
「一体(いつたい)、どうなさいました」と訊(たづ)ねました。
「どうもハバズラムのかげんが悪(わる)くつてね、この頃(ごろ)ぢやもう命(いのち)もあぶないんだよ」と、総監(そうかん)の妻(つま)は答(こた)へました。そして、かうなつたわけを残(のこ)らず打(う)ちあけて話(はな)しました。それを聞(き)いて、婆(ばあ)さんは膝(ひざ)を進(すゝ)めながら、
「もしこゝに、その女(をんな)を取(と)り戻(もど)して、あなたの息(むすこ)さんの命(いのち)を助(たす)けるものがございましたら、あなたはどうなさいますか」と、云(い)ひました。
「どうなさいますつて、お前(まへ)、そんなことが出来(でき)るのかね」
「出来(でき)ますとも」と、婆(ばあ)さんは答(こた)へました。「伜(せがれ)のカマーキンにやらせたら、きつと取(と)り戻(もど)してお目(め)にかけます。たゞ困(こま)つたのは、あいつが今(いま)監獄(かんごく)へ入(い)れられてゐるのですよ。ですから、どうか教王様(きようおうさま)に取(と)りなして、一日(いちにち)も早(はや)く放免(ほうめん)していたゞくように、あなたから旦那様(だんなさま)にお願(ねが)ひして下(くだ)さいましな。あれが出(で)て来(き)さへすれば、あなたの息(むすこ)さんの思(おも)ひをかなへるくらゐはわけありませんからね。それに、今度(こんど)といふ今度(こんど)はあれも後悔(こうかい)してますから、きつと真人間(まにんげん)になるでせうよ」
 総監(そうかん)の妻(つま)は婆(ばあ)さんの話(はなし)を聞(き)いて、なるほどと思(おも)ひました。そして、総監(そうかん)が家(いへ)に帰(かへ)つて来(き)た時(とき)、泣(な)いたり、くどいたりして、そのことを夫(をつと)に頼(たの)みました。総監(そうかん)もとう/\妻子(つまこ)の愛(あい)にひかれて、それを承知(しようち)しました。そして、カマーキンに鎖(くさり)をつけたまゝ、教王(きようおう)の御前(ごぜん)へ出(で)て、いゝようにそこを取(と)りなしました。何(なに)も御存(ごぞん)じない教王(きようおう)は、カマーキンが後悔(こうかい)したと聞(き)いて、すぐにその罪(つみ)をお許(ゆる)しになりました。かうしてカマーキンは、その場(ば)から放免(ほうめん)されたばかりでなく、新(あら)たに夜警(やけい)の隊長(たいちよう)に任命(にんめい)されました。
 ところで総監(そうかん)の妻(つま)は、その後(のち)婆(ばあ)さんの顔(かほ)を見(み)るたびに、息(むすこ)の方(ほう)のことはどうしてくれるのだと催促(さいそく)するのですね。婆(ばあ)さんも約束(やくそく)だから仕方(しかた)がない、伜(せがれ)に最初(さいしよ)からの話(はなし)をしてなんとかしてやつて貰(もら)へまいかと相談(そうだん)を持(も)ちかけました。が、カマーキンはもと/\泥坊(どろぼう)でもするような男(をとこ)ですから、
「なに、そんなことはいと易(やす)い話(はなし)だ。今夜(こんや)にも一(ひと)つやつつけて見(み)ませうよ」と、わけなく引(ひ)きうけました。
 で、その夜(よ)人(ひと)の寝(ね)ついた頃(ころ)を見計(みはか)らつて、彼(かれ)は大胆(だいたん)にも教王(きようおう)の宮殿(きゆうでん)に忍(しの)び入(い)りました。そして、お伽(とぎ)の者(もの)どもが居眠(ゐねむ)りしてゐる間(あひだ)に、お居間(ゐま)の次(つ)ぎから教王(きようおう)が日頃(ひごろ)大事(だいじ)にしていらつしやる玉(たま)のらんぷを始(はじ)め、二三(にさん)の珍(めづ)らしい宝(たから)を盗(ぬす)み取(と)つて、ふたゝび屋根(やね)づたひに出(で)てまゐりました。そして今度(こんど)はその足(あし)でアラ・エ・デイーンの家(いへ)にはひりました。アラ・エ・デイーンの家(いへ)では、その晩(ばん)結婚(けつこん)の披露(ひろう)をして二人(ふたり)とも疲(つか)れてぐつすり寝込(ねこ)んでゐました。カマーキンはまづ広間(ひろま)へ忍(しの)び込(こ)んで、床(ゆか)の石(いし)を一枚(いちまい)剥(は)がして、その下(した)に盗(ぬす)んで来(き)た宝物(たからもの)を入(い)れました。そして、石(いし)の板(いた)をもとのように直(なほ)して置(お)いてから、又(また)こつそりと出(で)てまゐりました。で、盗(ぬす)んだ物(もの)は何(なに)もかもその家(いへ)に置(お)いて来(き)ましたが、たゞ洋燈(らんぷ)だけは余程(よほど)気(き)に入(い)つたと見(み)えて、
「こいつあいゝ。こいつを前(まへ)に置(お)いて酒(さけ)を飲(の)んだら、さぞうまからうな」と、独言(ひとりごと)を云(い)ひ云(い)ひ、自分(じぶん)の家(いへ)に帰(かへ)つてまゐりました。
 明(あ)くる朝(あさ)、教王(きようおう)が眼(め)をお覚(さま)ましになると、例(れい)の品々(しな/゛\)が紛失(ふんしつ)してゐるのですね。それを御覧(ごらん)になつた教王(きようおう)の驚(おどろ)きと怒(いか)りとは、一通(ひととほ)りではありませんでした。そこへカマーキンが警視総監(けいしそうかん)と一緒(いつしよ)に、何(なに)食(く)はぬ顔(かほ)をしてやつてまゐりました。そこで、教王(きようおう)は昨夜(ゆうべ)の出来事(できごと)を二人(ふたり)にお話(はな)しになつた上(うへ)、更(さら)に警視総監(けいしそうかん)に向(むか)つて、
「近々(きん/\)のうちに盗(ぬす)まれた品(しな)を取(と)り返(かへ)して来(く)ればよし、さもなければ、お前(まへ)の首(くび)を刎(は)ねてしまふぞ」と、どなりつけられました。
「御尤(ごもつと)もでございます」と、総監(そうかん)は申(まを)し上(あ)げました。「ですが、私(わたくし)の首(くび)を刎(は)ねられる前(まへ)に、まづカマーキンの首(くび)をお刎(は)ねになつたらよろしからう。これはどうしても夜警(やけい)の隊長(たいちよう)の責任(せきにん)でございますから」
「なる程(ほど)、私(わたくし)の責任(せきにん)に相違(そうい)ござりませぬ」と、カマーキンはわるびれもせすに申(まを)し立(た)てました。
「で、この盗賊(とうぞく)は飽(あ)くまで私(わたくし)が詮議(せんぎ)してお目(め)にかける所存(しよぞん)でございます。それについては、どうか検事(けんじ)を二人(ふたり)と、警官(けいかん)を十人(じゆうにん)ばかり私(わたくし)につけて下(くだ)さいませ」
「うむ、それはお前(まへ)の云(い)ふ通(とほ)りにしてやる」と、教王(きようおう)は仰(おほ)せになりました。「だが、だが、第一番(だいいちばん)に、まづわしの宮殿(きゆうでん)から捜索(そうさく)するがいゝぞ。盗人(ぬすびと)は近(ちか)い所(ところ)にあるといふからな。で、犯人(はんにん)が明白(めいはく)になつた際(さい)には、たとひわが子(こ)であらうとも容赦(ようしや)はせぬから、きつとさう心得(こゝろえ)てゐるがいゝ」
 そこでカマーキンは、手(て)に真鍮(しんちゆう)と銅(どう)と鉄(てつ)とで造(つく)つた棍棒(こんぼう)を握(にぎ)つたまゝ、役人(やくにん)どもをつれて、いよ/\捜索(そうさく)に取(と)りかゝりました。まづ宮殿(きゆうでん)の中(なか)から始(はじ)めて、次(つ)ぎには宰相(さいしよう)の邸(やしき)を調(しら)べました。それから侍従(じじゆう)や士官(しかん)どもの邸(やしき)とだん/\検(しら)べて行(い)つて、とう/\アラ・エ・デイーンの邸(やしき)へやつてまゐりました。アラ・エ・デイーンは夢(ゆめ)にもそんな覚(おぼ)えはないから、
「さあ/\、どこなりとも捜索(そうさく)して下(くだ)さい」と、戸(と)を開(ひらに)いて一同(いちどう)を招(しよう)じました。
 で、警視総監(けいしそうかん)を先頭(せんとう)に、一同(いちどう)どや/\とはひつて行(い)つて、部屋(へや)から部屋(へや)と検(しら)べにかゝりました。そのうちに、カマーキンは広間(ひろま)へはひつて、一(ひと)つ/\床石(ゆかいし)を叩(たゝ)いて見(み)ながら、例(れい)の石(いし)の上(うへ)まで来(く)ると、棍棒(こんぼう)の先(さき)で力任(ちからまか)せにそれを突(つ)きました。すると、それが幾(いく)つにも破(わ)れて、破(わ)れた石(いし)の間(あひだ)から、何(なに)やら光(ひか)る物(もの)が見(み)えました。それを見(み)ると、カマーキンは急(きゆう)に大声(おほごゑ)を上(あ)げて、
「どうやら盗人(ぬすびと)は見(み)つかりましたぞ」と、よばはりました。
 その声(こゑ)を聞(き)いて、検事(けんじ)も警官(けいかん)もあわてゝそこへ駈(か)け着(つ)けました。そして、その床石(ゆかいし)を上(あ)げて見(み)ると、案(あん)の定(じよう)その下(した)から盗難(とうなん)の品(しな)があらはれたのですね。かうなつてはもう、いくら身(み)に覚(おぼ)えがなくとも仕方(しかた)がない。アラ・エ・デイーンは高手小手(たかてこて)に縛(しば)り上(あ)げられたまゝ引(ひ)つ立(た)てられました。
 その間(あひだ)に、アラ・エ・デイーンの妻(つま)も、カマーキンの手(て)に捕(とら)へられて、有無(うむ)を言(い)はせず警視総監(けいしそうかん)の妻(つま)の手許(てもと)へ連(つ)れて行(ゆ)かれました。息(むすこ)のハバズラムは、一目(ひとめ)彼女(かのじよ)の姿(すがた)を見(み)るや、もう元気(げんき)が恢復(かいふく)して、にや/\しながら、彼女(かのじよ)のそばへ近寄(ちかよ)らうとしました。が、彼女(かのじよ)はいきなり帯(おび)の間(あひだ)から懐剣(かいけん)を抜(ぬ)き出(だ)して、そばへでも寄(よ)らうものなら、相手(あひて)を殺(ころ)して、自分(じぶん)も死(し)んでしまひそうなけはひを示(しめ)しました。で、寄(よ)るには寄(よ)れず、ハバズラムはいよ/\思(おも)ひが募(つの)るばかりで、再(ふたゝ)びどつとわづらひついてしまひました。総監(そうかん)の妻(つま)も非常(ひじよう)に腹(はら)を立(た)てゝ、打(ぶ)つたり、つめつたり、さんざいぢめぬきました。が、固(かた)い女(をんな)の決心(けつしん)はどうするわけにも行(ゆ)きません。とう/\持(も)てあまして、汚(きたな)い着物(きもの)に替(か)へさせたまゝ、台所(だいどころ)へ追(お)ひ下(お)ろして、下働(したばたら)きの女奴隷(をんなどれい)にしてしまひました。
 ところで、アラ・エ・デイーンは、床下(ゆかした)から出(で)た宝物(たからもの)と一緒(いつしよ)に、教王(きようおう)の御前(ごぜん)に引(ひ)き据(す)ゑられました。教王(きようおう)はそれ等(ら)の品々(しな/゛\)を検(しら)べて見(み)られましたが、その中(なか)に肝心(かんじん)のらんぷが一(ひと)つだけ足(た)りませんでした。で、相手(あひて)を睨(にら)みつけるようにしながら、
「らんぷはどうした」と、おたづねになりました。
「私(わたし)はなんにも盗(ぬす)んだ覚(おぼ)えはござりませぬ。また、何(なに)も存(ぞん)じませぬ。見(み)たことさへござりませぬ」と、アラ・エ・デイーンは答(こた)へました。
「知(し)らぬ筈(はず)はない。この場(ば)に臨(のぞ)んで嘘(うそ)をつくとは何事(なにごと)だ、この恩(おん)知(し)らずめが。わしはあれ程(ほど)お前(まへ)を可愛(かわい)がつてやつたのに、そのわしを裏切(うらぎ)つて、盗(ぬす)みをするとは何事(なにごと)だ」と、教王(きようおう)は言葉(ことば)鋭(するど)く仰(おほ)せられました。そして、時(とき)を移(うつ)さず彼(かれ)を絞首台(こうしゆだい)へかけるように命(めい)ぜられました。
 ところで、アラ・エ・デイーンづきの隊長(たいちよう)に、アーマツドといふ男(をとこ)がございました。この男(をとこ)はかねてデイーンの正直(しようじき)で潔白(けつぱく)なことを知(し)つてゐましたので、彼(かれ)がいよ/\絞首台(こうしゆだい)にかけられるといふ噂(うはさ)を聞(き)いて、いかにも気(き)の毒(どく)に思(おも)ひました。で、どうかして助(たす)ける工夫(くふう)はないかと考(かんが)へた末(すゑ)、牢番(ろうばん)の許(もと)へ駈(か)けつけて、鼻(はな)ぐすりを使(つか)つて、一(ひと)わたり牢(ろう)の中(なか)を見(み)せて貰(もら)ひました。そして、死刑(しけい)になりそうな囚人(しゆうじん)の中(なか)から一人(ひとり)アラ・エ・デイーンによく似(に)た男(をとこ)を引(ひ)き出(だ)して、その男(をとこ)を連(つ)れて、ふたゝび絞首台(こうしゆだい)の下(した)へ駈(か)け着(つ)けました。そこにはアラ・エ・デイーンがもう眼(め)を白(しろ)い布(ぬの)で縛(しば)られたまゝ立(た)つてゐました。それを見(み)ると、アーマツドは役人(やくにん)どもに向(むか)つて、
「おい、この男(をとこ)を代(かは)りに絞首台(こうしゆだい)へ上(のぼ)せてくれ。アラ・エ・デイーンはおれが預(あづ)かつた」と、いきなりどなりました。
 役人(やくにん)どももそれには驚(おどろ)きました。が、かねてアーマツドのがむしやらなことは知(し)つてゐるし、それにアラ・エ・デイーンのことも可愛(かわい)そうだと思(おも)つてゐたところなので、黙(だま)つてアーマツドに引(ひ)き渡(わた)しました。そして、その代(かは)りに、アーマツドの連(つ)れて来(き)た囚人(しゆうじん)を絞首台(こうしゆだい)に上(のぼ)らせました。
 それからアーマツドはアラ・エ・デイーンを自分(じぶん)のうちへ連(つ)れて来(き)ました。そして、
「一体(いつたい)、どうしてこんなことになつたのです」と、あらためてたづねました。
 そこでデイーンは自分(じぶん)が無実(むじつ)の罪(つみ)に陥(おちい)つたことを委(くは)しく話(はな)して聞(き)かせました。
「が、いくら無実(むじつ)の罪(つみ)でも、あなたはもうバグダツドに住(す)んでゐることは出来(でき)ますまい。教王(きようおう)の眼(め)をのがれるのは、なか/\容易(ようい)なことぢやありませんからね。が、まあ安心(あんしん)していらつしやい。私(わたし)が手引(てび)きをして、無事(ぶじ)にアレキサンドリーの町(まち)へ落(おと)して上(あ)げますよ」と、アーマツドは頼(たの)もしそうに云(い)ひました。そして、その日(ひ)の中(うち)に支度(したく)をして、アラ・エ・デイーンを連(つ)れたまゝ、バグダツドの都(みやこ)を後(あと)に出発(しゆつぱつ)しました。
 で、二人(ふたり)は途中(とちゆう)いろ/\な目(め)に遭(あ)ひながら、日(ひ)を重(かさ)ねてアヤースの港(みなと)へ着(つ)きました。そこから船(ふね)に乗(の)つて、とう/\目指(めざ)すアレキサンドリーの港(みなと)へ上陸(じようりく)しました。で、まづ市場(いちば)の方(ほう)へ出(で)かけて行(ゆ)くと、そこに一人(ひとり)の仲買(なかが)ひ人(にん)がゐて、一軒(いつけん)の店(みせ)をせり売(う)りにかけてゐました。アラ・エ・デイーンは黄金(おうごん)一千枚(いつせんまい)で、その店(みせ)を買(か)ひ取(と)りました。それから鍵(かぎ)を貰(もら)つて、その店(みせ)を開(あ)けて見(み)ると、倉庫(そうこ)の中(なか)には、帆(ほ)だの、帆綱(ほづな)だの、革(かは)の鞍(くら)だの、鐙(あぶみ)だの、ないふだの、鋏(はさみ)だのといふようなものが一杯(いつぱい)詰(つ)まつてゐました。つまりその店(みせ)の持(も)ち主(ぬし)はもと古道具屋(ふるどうぐや)をしてゐたらしいのですね。かうして彼(かれ)はそれ等(ら)の物(もの)をそつくり手(て)に入(い)れて、大(たい)した元手(もとで)もなしに商売(しようばい)を始(はじ)めることが出来(でき)ました。それを見(み)て、アーマッドも安心(あんしん)したので、三日(みつか)の間(あひだ)そこに滞在(たいざい)した後(のち)、再(ふたゝ)び、バグダツドを指(さ)して帰(かへ)つて行(ゆ)きました。
 一方(いつぽう)、警視総監(けいしそうかん)の息(むすこ)のハバズラムは、どうしてもヤーセミン──これはアラ・エ・デイーンの妻(つま)の名(な)でございます──が思(おも)ふようにならぬので、気(き)を揉(も)み/\、とう/\死(し)んでしまひました。ところで、そのヤーセミンはどうかと云(い)ふと、その家(いへ)に女奴隷(をんなどれい)となつて働(はたら)いてゐながら、ちようどアラ・エ・デイーンと結婚(けつこん)して一年目(いちねんめ)に、玉(たま)のような一人(ひとり)の男(をとこ)の子(こ)を生(う)み落(おと)しました。そして、その名(な)をアスラーンとつけました。アスラーンとはアラビヤ語(ご)の獅子(しゝ)といふことでした。ところで、アスラーンはその名(な)のように丈夫(じようぶ)な子(こ)で、不自由(ふじゆう)の多(おほ)い生活(せいかつ)の中(なか)に、病気(びようき)一(ひと)つせずに育(そだ)つて行(い)きました。かうして又(また)二箇年(にかねん)の月日(つきひ)が経(た)ちました。ある日(ひ)、彼(かれ)の母(はゝ)が台所(だいどころ)で用(よう)をしてゐる間(あひだ)に、アスラーンは一人(ひとり)で広間(ひろま)の階段(かいだん)を上(のぼ)つて行(い)きました。その広間(ひろま)には、警視総監(けいしそうかん)のカーリツドが坐(すわ)つてゐましたが、アスラーンがあんまり可愛(かわい)らしい顔(かほ)をしてゐるので、思(おも)はず抱(だ)き上(あ)げて膝(ひざ)に載(の)せました。そして、つくづくその子(こ)の顔(かほ)を眺(なが)めながら、
「親子(おやこ)とは云(い)へ、さてもよくアラ・エ・デイーンに似(に)てゐるものだな」と、思(おも)つてゐました。
 そこへ母親(はゝおや)のヤーセミンがその子(こ)を捜(さが)しながらはひつてまゐりました。アスラーンは母親(はゝおや)の顔(かほ)を見(み)ると、すぐに警視総監(けいしそうかん)の膝(ひざ)を離(はな)れて、そちらへ行(ゆ)かうとしました。が、彼(かれ)はそれをやらぬように、しつかりと抱(だ)きしめながら、母親(はゝおや)に向(むか)つて、
「この子(こ)も父(てゝ)なし子(ご)になつて可愛(かわい)そうなものだね」と、云(い)ひました。
 ヤーセミンは下(した)を向(む)いたまゝ黙(だま)つてゐました。
「これからは俺(おれ)がこの子(こ)の親代(おやがは)りになつてやるよ」と、カーリツドはつゞけて云(い)ひました。
「で、この子(こ)が成長(せいちよう)して、わたしのお父(とう)さんは誰(だれ)かときくようになつたら、警視総監(けいしそうかん)のカーリツドがお前(まへ)の親(おや)だと教(をし)へてやるがいゝ。なに、そんなことに遠慮(えんりよ)はいらないからな」
 ヤーセミンは、心(こゝろ)の中(なか)に厭(いや)なことだとは思(おも)ひましたが、相手(あひて)は主人(しゆじん)のことではあるし、どうするわけにも行(い)きませんから、
「はい、かしこまりました」と、答(こた)へました。そして.それからはカーリツドのことを「お父(とう)さん、お父(とう)さん」と、呼(よ)ばせるように仕向(しむ)けました。
 で、カーリツドもいよ/\その子(こ)が可愛(かわい)くなつて、何(なに)くれとなく自分(じぶん)の手許(てもと)で面倒(めんどう)を見(み)ました。そして、少(すこ)しく大(おほ)きくなつてからは、いろ/\な学問(がくもん)を始(はじ)めとして、投(な)げたり打(う)つたりする戦(いくさ)の術(すべ)まで教(をし)へました。ですから、アスラーンが十四歳(じゆうしさい)になつた頃(ころ)には、一角(ひとかど)馬術(ばじゆつ)にも達(たつ)して、勇気(ゆうき)の勝(すぐ)れた、立派(りつぱ)な若武者(わかむしや)になりました。
 その後(ご)になつて、ある日(ひ)アスラーンは大盗賊(だいとうぞく)のカマーキンに出会(であ)ひました。そして、二人(ふたり)はお友達(ともだち)になりました。アスラーンは彼(かれ)について酒屋(さかや)へまゐりました。すると、どうでせう、カマーキンは玉(たま)で飾(かざ)つたらんぷを取(と)り出(だ)して、それを前(まへ)に据(す)ゑたまゝ、その光(ひかり)で酒(さけ)を飲(の)むんですね。そして、だん/\酔(よ)ひが廻(ま)はつて来(き)ました。アスラーンは何心(なにごゝろ)なく、
「隊長(たいちよう)さん、そのらんぷをわたしにくれないか」と、云(い)つて見(み)ました。
「いや、これはやれないよ」と、カマーキンは答(こた)へました。
「どうして」と、アスラーンは聞(き)き返(かへ)しました。「くれてもいゝぢやないの」
「いや、こればかりはやれないよ」と、カマーキンは再(ふたゝ)び云(い)ひました。「このらんぷのためにや、大勢(おほぜい)の人(ひと)が命(いのち)を落(おと)してゐるからな」
「どんな人(ひと)が命(いのち)を落(おと)したの」
「アラ・エ・デイーンといふ男(をとこ)さ」
「よく根掘(ねほ)り葉掘(はほ)り聞(き)きたがるね」と、カマーキンは笑(わら)ひました。「だが、まあいゝや、お前(まへ)にだけは教(をし)へてやらう。実(じつ)はお前(まへ)にはハバズラムといふ一人(ひとり)の兄(にい)さんがあつたのだ。その兄(にい)さんが年頃(としごろ)になつても嫁(よめ)の来手(きて)がないものだから、お父(とう)さんは一人(ひとり)、娘奴隷(むすめどれい)を買(か)つて息(むすこ)に宛(あ)てがはうとしたんだがね」
 かう云(い)つて、カマーキンはだん/\話(はなし)を進(すゝ)めて、ハバズラムが病気(びようき)になつたことから、アラ・エ・デイーンが罪(つみ)もないのに死刑(しけい)に処(しよ)せられたことまで、残(のこ)らず語(かた)つて聞(き)かせました。それを聞(き)いて、アスラーンは虫(むし)が知(し)らせるのか、心(こゝろ)の中(なか)に「どうもその娘奴隷(むすめどれい)といふのは、お母(つか)さんのヤーセミンのことらしい。アラ・エ・デイーンといふのも、どうかするとわたしのお父(と)うさんかも知(し)れないよ」と、思(おも)ひました。そして、カマーキンと別(わか)れて、悲(かな)しそうな顔(かほ)をしながら、しほ/\として出(で)て行(い)きました。
 ところで、同(おな)じ店(みせ)に隊長(たいちよう)のアーマツドも酒(さけ)を飲(の)んでゐました。そして、アスラーンがしほしほと出(で)て行(ゆ)く後姿(うしろすがた)を見(み)て、よくアラ・エ・デイーンに似(に)た子供(こども)もあるものだなと、ひとり心(こゝろ)に驚(おど)ろきました。で、すぐ後(あと)から追(お)つかけて来(き)て、少年(しようねん)をよびとめながら、
「お前(まへ)のお母(かあ)さんの名(な)はなんと云(い)ふかね」と、たづねました。
「わたしのお母(かあ)さんは女奴隷(をんなどれい)のヤーセミンと云(い)ひます」と、アスラーンはありのまゝに答(こた)へました。
「やつぱりさうだつたか」と、アーマンドは手(て)を打(う)つて云(い)ひました。「では、教(をし)へて上(あ)げるがね、お前(まへ)のお父(とう)さんはアラ・エ・デイーンと云(い)ふのだよ。嘘(うそ)だと思(おも)つたら、帰(かへ)つて、お母(かあ)さんに聞(き)いて御覧(ごらん)な」
 返(かへ)す/゛\も不思議(ふしぎ)なことばかり聞(き)くので、アスラーンは急(いそ)いで立(た)ち帰(かへ)りました。そして、母親(はゝおや)の顔(かほ)を見(み)ると、いきなり、
「わたしのお父(とう)さんは誰(だれ)ですか」と、たづねました。
「お前(まへ)のお父(とう)さんは、警視総監(けいしそうかん)のカーリツドがそれだよ」
「いえ/\、違(ちが)ひます。本当(ほんとう)はアラ・エ・デイーンと云(い)ふのでせう」
 それを聞(き)いて、母親(はゝおや)は思(おも)はずわつと泣(な)き出(だ)してしまひました。そして、涙(なみだ)の中(なか)から、「一(いつ)たい誰(だれ)からそんなことを聞(き)いたのだえ」と、聞(き)き返(かへ)しました。
 アスラーンはそれに答(こた)へました。「隊長(たいちよう)のアーマツドから聞(き)いたのです」
「さうかえ、それぢや、もう隠(かく)し置(お)いても仕方(しかた)がないから、本当(ほんとう)のことを云(い)つて聞(き)かせますがね。実(じつ)はお前(まへ)はアラ・エ・デイーンさまのわすれがたみなんだよ」
 かう云(い)つて、彼女(かのじよ)は夫(をつと)が無実(むじつ)の罪(つみ)に落(お)ちて死(し)んだことから、自分(じぶん)がこの家(いへ)へ連(つ)れて来(こ)られて、いろんな目(め)に遭(あ)ひながら、今日(こんにち)迄(まで)わが子(こ)を育(そだ)てゝ来(き)たことまで、委(くは)しく話(はな)して聞(き)かせました。それから又(また)言葉(ことば)をついで、「さう云(い)ふわけだから、お前(まへ)さんも今度(こんど)アーマツドに出会(であ)つたら、どうかわたしを助(たす)けて親(おや)の敵(かたき)を討(う)たせて下(くだ)さいとお願(ねが)ひして見(み)るがいゝんだよ。さう云(い)ふ親切(しんせつ)な方(かた)なら、又(また)どんな力(ちから)になつて下(くだ)さるまいものでもないからね」と、申(まを)しました。
 そこで、アスラーンは早速(さつそく)アーマツドを訪(たづ)ねて、
「わたしは生(う)みの父(ちゝ)がアラ・エ・デイーンだといふことを確(たしか)めてまゐりました。お願(ねが)ひですから、どうぞ私(わたし)を助(たす)けて、親(おや)の敵(かたき)を討(う)たせて下(くだ)さい」と、頼(たの)みました。
「だが、一(いつ)たい誰(だれ)がお前(まへ)の父親(ちゝおや)を殺(ころ)したと云(い)ふんだね」と、アーマツドはたづねました。
「あの大盗賊(だいとうぞく)のカマーキンですよ」
「ふむ、どうして又(また)それがわかつたかね」
「わたしはあの人(ひと)が玉(たま)のらんぷを持(も)つてゐるのを見(み)ました」と、少年(しようねん)は答(こた)へました。「そればかりぢやない、あの人(ひと)が教王(きようおう)のお居間(ゐま)へ忍(しの)び込(こ)んでらんぷと一緒(いつしよ)にいろんな宝物(たからもの)を盗(ぬす)んで来(き)た。そして、それをわたしの父(ちゝ)の家(いへ)に隠(かく)して置(お)いたといふことまで、現在(げんざい)あの人(ひと)の口(くち)から聞(き)いたんですよ」
「ふむ」と、つく/゛\それを聞(き)いてゐたアーマツドは云(い)ひました。「さう云(い)ふことなら、私(わたし)も力(ちから)をかして上(あ)げてもいゝが、しかしこれはなか/\むづかしいね。何(なに)しろ向(む)かうも今(いま)では教王(きようおう)の臣下(しんか)になつてゐるのだから、教王(きようおう)のお許(ゆる)しがなけりや討(う)つことは出来(でき)ない」
 かう云(い)つて、アーマツドは、「とにかくお前(まへ)さんも今(いま)の父親(ちゝおや)の警視総監(けいしそうかん)にお願(ねが)ひして、あの方(かた)と同(おな)じように、毎日(まいにち)物(もの)の具(ぐ)に身(み)を固(かた)めて、教王(きようおう)のお身(み)を守護(しゆご)することの出来(でき)るように取(と)り計(はか)らつてお貰(もら)ひなさい。そして、そのうちに、何(なに)か一(ひと)つ手柄(てがら)を立(た)てたら、こちらの願(ねが)ひも聞(き)き届(とゞ)けていたゞけよう」と、助言(じよげん)してくれました。
 アスラーンは喜(よろこ)び勇(いさ)んで家(いへ)に帰(かへ)りました。そして、そのことを総監(そうかん)のカ−リツドに頼(たの)むとカーリツドもすぐに承知(しようち)して、そのように取(と)り計(はか)らつてくれました。それから彼(かれ)は、毎日(まいにち)物(もの)の具(ぐ)に身(み)を堅(かた)めて教王(きようおう)の御前(ごぜん)へ伺候(しこう)するようになりました。ある日(ひ)のこと、教王(きようおう)は多(おほ)くの軍卒(ぐんそつ)どもを引(ひ)き連(つ)れて、都(みやこ)の外(そと)のごるふ場(じよう)へおなりになりました。そして、しばらくの間(あひだ)侍従(じじゆう)どもを相手(あひて)にそのお遊(あそ)びをしてゐられました。これは一人(ひとり)がごるふ棒(ぼう)を取(と)つて球(たま)を飛(と)ばすと、他(た)の一人(ひとり)がそれを打(う)ち返(かへ)す遊(あそ)びでございます。ところが、軍卒(ぐんそつ)どもの間(あひだ)に、一人(ひとり)敵国(てきこく)の廻(まは)し者(もの)が忍(しの)んでゐて、教王(きようおう)をなきものにしようと附(つ)け覘(ねら)つてゐました。そして、教王(きようおう)のお顔(かほ)を覘(ねら)つて球(たま)を投(な)げつけたのですね。が、アスラーンは早(はや)くもそれと知(し)つて、教王(きようおう)とその男(をとこ)との間(あひだ)に馬(うま)を駈(か)け入(い)らせながら、投(な)げつけた球(たま)をそのまゝ打(う)ち返(かへ)してやりました。それが相手(あひて)の胸(むね)にあたつたからたまりません。真(ま)つ逆(さか)さまに落(お)ちて、廻(まは)し者(もの)はその場(ば)に取(と)り押(おさ)へられてしまひました。危(あやふ)い命(いのち)を助(たす)かつた教王(きようおう)は、非常(ひじよう)に喜(よろこ)んで、すぐさまアスラーンを御前(ごぜん)へお召(め)しの上(うへ)、
「この褒美(ほうび)には、なんでもお前(まへ)の欲(ほ)しいものを望(のぞ)んだがいゝぞ」と、仰(おほ)せられました。
 アスラーンはこゝぞと思(おも)つて
「お願(ねが)ひでございますから、どうぞ父(ちゝ)の仇(あだ)を討(う)たせて下(くだ)さいませ」と、申(まを)し上(あ)げました。
 教王(きようおう)はその言葉(ことば)を不審(ふしん)に思(おも)つて、
「お前(まへ)の父(ちゝ)は立派(りつぱ)に生(い)きてゐるではないか」
「いえ、あれは仮(かり)の親(おや)でございます。まことの父(ちゝ)はアラ・エ・デイーンの外(ほか)にござりませぬ」と、アスラーンは答(こた)へました。
 それを聞(き)いて、教王(きようおう)は急(きゆう)に顔(かほ)を曇(くも)らせながら、
「あれはわしの物(もの)を盗(ぬす)んだ裏切(うらぎ)り者(もの)だよ。いくらお前(まへ)の願(ねが)ひでも、あんな者(もの)のことは聞(き)くわけに行(い)かんぞ」と、仰(おほ)せられました。
「いゝえ、それは無実(むじつ)の罪(つみ)でございます」と、アスラーンは一(いつ)しよう懸命(けんめい)に申(まを)し上(あ)げました。
「その証拠(しようこ)には、アラ・エ・デイーンの家(いへ)をおしらべになつた時(とき)、他(ほか)の物(もの)と一緒(いつしよ)に、あの玉(たま)のらんぷもあなた様(さま)のお手(て)に戻(もど)りましたか。それが戻(もど)つてゐませんでしたら、どうか先(ま)づそのらんぷから詮議(せんぎ)をして下(くだ)さいませ」
「ふうむ」と、教王(きようおう)もお考(かんが)へになりました。
「して、それがどうしたと云(い)ふのだ」
「それを隊長(たいちよう)のカマーキンが持(も)つてゐるのでございます」
 かう云(い)つて、アスラーンはカマーキンが居酒屋(ゐざかや)でそのらんぷを出(だ)して見(み)せて、このらんぷのためにはアラ・エ・デイーンが命(いのち)を捨(す)てたが、その起(おこ)りはかう/\だと、彼(かれ)がその場(ば)でしやべつたことを逐一(ちくいち)申(まを)し立(た)てました。そのことをお聞(き)きになつた教王(きようおう)は、憤然(ふんぜん)として、
「すぐさま、カーマキンを召(め)し捕(と)れ」と、命(めい)ぜられました。
 役人(やくにん)どもはすぐにカマーキンに縄(なは)をかけて、御前(ごぜん)に引(ひ)き据(す)ゑました。教王(きようおう)はそれから隊長(たいちよう)のアーマツドを振(ふ)り返(かへ)つて、
「その方(ほう)一(ひと)つカマーキンの身体(しんたい)を検(しら)べて見(み)ろ」と、仰(おほ)せられました。
 アーマツドはお言葉(ことば)にかしこまつて、カマーキンに近寄(ちかよ)りながら、まづそのかくしに手(て)を突(つ)つ込(こ)んで見(み)ました。すると、たちまちその中(なか)から玉(たま)のらんぷがあらはれました。それを見(み)ると、教王(きようおう)はまた/\真赤(まつか)になつて、
「こらつ。そのらんぷはどこから持(も)つて来(き)た」と、どなりつけられました。
「私(わたくし)はそれを買(か)ひましたのでございます」と、カマーキンはこの場(ば)になつても、まだしらを切(き)らうとしました。が、役人(やくにん)どもが寄(よ)つてたかつて革(かは)の鞭(むち)で打(ぶ)ちのめしたので、とうとう彼(かれ)も包(つゝ)み切(き)れないで、実(じつ)はこれ/\かう云(い)ふわけで、総監(そうかん)の妻(つま)に頼(たの)まれて、御殿(ごてん)へ忍(しの)び込(こ)んで奪(うば)ひ取(と)りました。と、残(のこ)らず泥(どろ)を吐(は)いてしまひました。
 その白状(はくじよう)を聞(き)いて、教王(きようおう)は警視総監(けいしそうかん)まで即座(そくざ)に搦(から)め取(と)らうとなさいました。が、アスラーンも彼(かれ)のために命乞(いのちご)ひをしましたし、もともと総監(そうかん)は自分(じぶん)の妻(つま)の悪(わる)だくみを知(し)らないでやつてゐたことですから、とくにアスラーンの母(はゝ)を元(もと)の身分(みぶん)にして、取(と)り上(あ)げた品々(しな/゛\)を返(かへ)してやるだけで、とくに御赦免(ごしやめん)にあづかりました。教王(きようおう)はなほ総監(そうかん)に命(めい)じて、アラ・エ・デイーンの家(いへ)に貼(は)りつけた封印(ふういん)を剥(は)がさせた上(うへ)、その家(いへ)と財産(ざいさん)とを悉(ことごと)くアスラーンに返(かへ)されました。
 で最後(さいご)に教王(きようおう)はアスラーンに向(むか)つて、
「かうなつた上(うへ)は、なんでもお前(まへ)の欲(ほ)しいものを望(のぞ)むがいゝぞ。これまでの償(つぐな)ひにきつとかなへてやるからな」と、ふたゝび懇(ねんご)ろに仰(おほ)せられました。
「別(べつ)に欲(ほ)しいものとてござりませぬ」と、アスラーンはそれに答(こた)へました。「私(わたくし)はたゞもう一度(いちど)父(ちゝ)に会(あ)ひたいだけでございます」
「それだけはどうもかなへて遣(や)れぬな」と、教王(きようおう)も涙(なみだ)ぐんで云(い)はれました。「あれは絞首台(こうしゆだい)にかけられて、とうに死(し)んでゐるからな、しかし、あれが万一(まんいち)にも生(い)きてゐると知(し)らせてくれるものがあつたら、わしはその者(もの)にどんな願(ねが)ひでも聞(き)いてやるつもりだよ」
「本当(ほんとう)にどんな願(ねが)ひでも聞(き)いていたゞけますか」と、アーマツドが急(きゆう)に前(まへ)へ出(で)て来(き)て平伏(へいふく)しました。「それなら申(まを)し上(あ)げますが、私(わたくし)は確(たしか)にアラ・エ・デイーンの現在(げんざい)生(い)きてゐる所(ところ)を知(し)つてをります」
「なに、そちの云(い)ふことはそりや本当(ほんとう)か」と、教王(きようおう)もびつくりして聞(き)き返(かへ)されました。
「何(なに)しに嘘(うそ)を申(まを)し上(あ)げませう。現在(げんざい)この私(わたくし)が絞首台(こうしゆだい)の上(うへ)からあの方(かた)を救(すく)ひ出(だ)して、他(ほか)の囚人(しゆうじん)を身代(みがは)りに立(た)てゝ置(お)いたまゝ、アレキサンドリーの町(まち)へ連(つ)れて行(い)つて、現在(げんざい)あそこに住(す)ませてあるのでございますから」と、アーマツドは逐一(ちくいち)申(まを)し立(た)てました。そして、その後(あと)からすぐに云(い)ひ添(そ)へました。「この事(こと)を申(まを)し上(あ)げました代(かは)りに、前(まへ)のお言葉(ことば)に拠(よ)つて、どうか私(わたくし)の国法(こくほう)を犯(おか)しました罪(つみ)はお許(ゆる)し下(くだ)さいませ」
 それを聞(き)くと、教王(きようおう)は大(たい)そうお喜(よろこ)びになつて、アーマツドの罪(つみ)を赦(ゆる)されたばかりでなく、御褒美(ごほうび)までたまはりました。そして、すぐさまアラ・エ・デイーンを迎(むか)へ取(と)りに、この男(をとこ)を遺(つか)はされました。
 一方(いつぽう)アラ・エ・デイーンは、その間(あひだ)にアレキサンドリーから知(し)らぬ他国(たこく)に渡(わた)つて、さまざまな艱難辛苦(かんなんしんく)に出遭(であ)つてをりました。が、間(ま)もなくアーマツドの迎(むか)ひを受(う)けて、ふたゝびバグダツドへ帰(かへ)つてまゐりました。教王(きようおう)も彼(かれ)が久(ひさ)し振(ぶ)りに帰(かへ)つて来(き)たのを見(み)て、大(たい)そう喜(よろ)こばれましたが、すぐに大盗賊(だいとうぞく)のカマーキンを牢屋(ろうや)から引(ひ)き出(だ)させて、
「アラ・エ・デイーンよ、何事(なにごと)もこいつから起(おこ)つたので、こいつがお前(まへ)の敵(てき)ぢや。ぞんぶんに復讐(ふくしゆう)したがいゝぞ」と、仰(おほ)せられました。
 そこで、彼(かれ)は腰(こし)の剣(けん)を抜(ぬ)いて、一打(ひとう)ちにカマーキンの首(くび)を斬(き)り落(おと)しました。
 それから教王(きようおう)は、臣下(しんか)どもを集(あつ)めて、アラ・エ・デイーンのために盛大(せいだい)な祝宴(しゆくえん)を張(は)られました。そして、彼(かれ)を再(ふたゝ)び重(おも)い役目(やくめ)に任命(にんめい)せられました。かうして彼(かれ)の一家(いつか)は、親子(おやこ)三人(さんにん)とも、幸福(こうふく)な一生(いつしよう)を送(おく)りました。




   ひようきん者(もの)ハサンの話(はなし)

 ハサンはお父(とう)さんがなくなつてから、急(きゆう)にお金(かね)が自由(じゆう)になり出(だ)したので、毎日(まいにち)友(とも)だちを沢山(たくさん)集(あつ)めては、酒盛(さかも)りを催(もよ)ほしたり、物見遊山(ものみゆさん)に出(で)かけたりして、遊(あそ)んでばかりゐました。さうして、面白(おもしろ)をかしく、われを忘(わす)れて日(ひ)を送(おく)つてゐるうちに、ふと気(き)がついて見(み)ると、さしも金銀財寳(きんぎんざいほう)を山(やま)のように積(つ)んだ父親(ちゝおや)の遺産(いさん)も、いつのまにやらすつかりなくなつて、後(あと)にはもう何(なに)一(ひと)つ残(のこ)つてゐませんでした。ハサンは悪(わる)い夢(ゆめ)が覚(さ)めたように、ぼんやりしてしまひました。が、さうしてもゐられませんから、それまで一(いつ)しよに飲(の)んだり騒(さわ)いだりした友達(ともだち)を訪(たづ)ねて、内情(ないじよう)を打(う)ちあけた上(うへ)、応分(おうぶん)の助力(じよりよく)を頼(たの)んで見(み)ました。ところが、相手(あひて)は顔(かほ)をそむけたまゝ、こちらの話(はなし)を聞(き)いてくれませんでした。聞(き)いても、返事(へんじ)をしてくれませんでした。甚(はなは)だしいのは居留守(ゐるす)を使(つか)つて、玄関(げんかん)から追(お)ひ返(かへ)すのもございました。生(うま)れて始(はじ)めてこんな目(め)に遭(あ)つたハサンは、手(て)の裏(うら)を返(かへ)すような友(とも)だちの冷(ひや)やかな態度(たいど)に呆(あき)れ果(は)てました。呆(あき)れ果(は)てたあげく、つく/゛\世(よ)の中(なか)がいやになりました。で、がつかりしながら、とぼ/\うちへ戻(もど)つて来(き)て、お母(かあ)さんにその話(はなし)をすると、お母(かあ)さんは真面目(まじめ)な顔(かほ)をして、
「あなたも、身(み)に泌(し)みてよく覚(おぼ)えていらつしやい。世(よ)の中(なか)といふものはさういふものですよ」と、懇々(こん/\)と云(い)ひ聞(き)かせました。「あなたにお金(かね)のある間(あひだ)は、やい/\云(い)つて側(そば)へ寄(よ)つて来(き)ますが、お金(かね)がなくなつた日(ひ)には、急(きゆう)に知(し)らぬ顔(かほ)をして洟(はな)もひつかけない。それが当世(とうせい)の人情(にんじよう)ですよ」
「はい、私(わたし)もつく/゛\さう思(おも)ひました」
「そこへ気(き)がつけば、それでよろしい」
 かう云(い)つて、お母(かあ)さんは自分(じぶん)のお部屋(へや)へ戻(もど)つて、戸棚(とだな)の奥(おく)から大(おほ)きな金包(かねづゝ)みを三(みつ)つ取(と)り出(だ)して来(き)ました。そして、それをハサンの前(まへ)に並(なら)べながら、かう云(い)ひました。──
「かね/゛\かう云(い)ふこともあらうかと思(おも)つて、私(わたし)はお父(とう)さんがなくなつた時(とき)、財産(ざいさん)を二(ふた)つに分(わ)けて、半分(はんぶん)だけあなたに渡(わた)しましたが、後(あと)の半分(はんぶん)は別(べつ)にしまつて置(お)きました。さあこれを上(あ)げるから、この後(のち)はきつと心(こゝろ)を入(い)れ代(か)へて、二度(にど)とこんなことのないようにして下(くだ)さいよ」
 ハサンは、自分(じぶん)の不心得(ふこゝろえ)から一文(いちもん)なしになつたと思(おも)つてゐたのに、母親(はゝおや)のお蔭(かげ)で又(また)元(もと)の通(とほ)りの金持(かねも)ちになることが出来(でき)ましたので、もう夢(ゆめ)かとばかり喜(よろこ)びました。そして、母親(はゝおや)にあつく謝(しや)しながら、以後(いご)はきつと心(こゝろ)を入(い)れ代(か)へて、これまでのような失敗(しつぱい)は断(だん)じて繰(く)り返(かへ)さないと約束(やくそく)しました。
 けれども、生(うま)れつきのんき者(もの)のハサンは、お金(かね)が手(て)にはひると、もうぢつとしてゐられないと見(み)えて、いつかまた以前(いぜん)と同(おな)じように酒盛(さかも)りや物見遊山(ものみゆさん)に耽(ふけ)るようになりました。ただそれからと云(い)ふものは、決(けつ)して近所(きんじよ)の友達(ともだち)や知人(ちじん)とは交(まじ)はらないで、通(とほ)りがゝりの旅人(たびゞと)を捕(とら)へては、自分(じぶん)の家(いへ)へつれて来(き)い/\いたしました。そして、その旅人(たびゞと)を相手(あひて)に飲(の)んだり騒(さわ)いだりして遊(あそ)ぶのでございます。つまりハサンが心(こゝろ)を入(い)れ代(か)へると云(い)つたのは、以後(いご)信用(しんよう)の出来(でき)ない友達(ともだち)とは決(けつ)して一(いつ)しよに飲(の)まない、知(し)らない旅人(たびゞと)とばかり飲(の)むといふことでございました。が、いくら知(し)らない旅人(たびゞと)でも、永(なが)く一(いつ)しよに酒(さけ)を飲(の)んでをれば、どうしても友(とも)だちになつてしまふ。友(とも)だちになれば、信用(しんよう)が出来(でき)なくなる。さう云(い)ふわけで、ハサンはどんな旅人(たびゞと)でも、一晩(ひとばん)は一(いつ)しよに酒(さけ)を飲(の)んで泊(と)めてもやるが、二晩(ふたばん)とは泊(と)めてやらない。明(あ)くる朝(あさ)になると、「をとゝひ来(こ)い」と云(い)つて、玄関(げんかん)から追(お)ひ出(だ)してやるようにいたしました。そして、その後(のち)は、途中(とちゆう)で逢(あ)つても知(し)らない顔(かほ)をして、横(よこ)を向(む)いたまゝ通(とほ)り過(す)ぎました。
 かうして、ハサンは一年間(いちねんかん)程(ほど)暮(くら)しました。で、ある日(ひ)の夕方(ゆふがた)、いつものように、誰(だれ)か来(き)そうなものだと思(おも)ひながら橋(はし)の上(うへ)に立(た)つてゐると、そこへ教王(きようおう)のエル・ラシードが二人(ふたり)の従者(じゆうしや)を連(つ)れて、三人(さんにん)とも旅人(たびゞと)のように変装(へんそう)して通(とほ)りかゝられました。一体(いつたい)、この王様(おうさま)はその国(くに)の歴史(れきし)でも有名(ゆうめい)な、慈悲(じひ)深(ぶか)い、賢明(けんめい)な王様(おうさま)で、時々(とき/゛\)かういふ風(ふう)に旅人(たびゞと)に変装(へんそう)しては、一人(ひとり)二人(ふたり)お伴(とも)を連(つ)れて市中(しちゆう)を御微行(ごびこう)になりながら、下々(しも/゛\)の様子(ようす)を視察(しさつ)して廻(まは)られるのが癖(くせ)でございました。ところで、ハサンは、それが教王(きようしゆ)であらうとは元(もと)より知(し)る由(よし)もないから、主従(しゆじゆう)らしい三人(さんにん)の姿(すがた)を見(み)かけると、すぐにその側(そば)に近寄(ちかよ)つて、
「いかゞでせう、今晩(こんばん)御都合(ごつごう)がよかつたら私(わたくし)どもへ入(い)らしつて、音楽(おんがく)でも聴(き)きながら、一口(ひとくち)召(め)し上(あが)つて下(くだ)さいませんか。決(けつ)して御迷惑(ごめいわく)はかけませんよ」と誘(さそ)ひました。
 王様(おうさま)は、かね/゛\人民(じんみん)と直接(ちよくせつ)話(はな)しをして、よく下々(しも/゛\)の事情(じじよう)を探(さぐ)りたいと思(おぼ)し召(め)していらしつたのですから、
「いや、それはどうも御親切(ごしんせつ)にありがたう」と、おつしやつて、すぐにハサンの招待(しようたい)に応(おう)じられました。
 で、ハサンも大(たい)そう喜(よろ)んで、先(さき)に立(た)つて三人(さんにん)の客(きやく)をわが家(や)へ連(つ)れて来(き)ました。元(もと)よりこれが教王(きようおう)だとは知(し)る筈(はず)もないが、人品風体(じんぴんふうてい)から云(い)つても、卑(いや)しからぬ人物(じんぶつ)だとは思(おも)ひましたから、奥(おく)の一間(ひとま)へ通(とほ)した上(うへ)、いろ/\御馳走(ごちそう)を並(なら)べ立(た)てゝ、一(いつ)しよう懸命(けんめい)に饗応(きようおう)しました。それからうち中(じゆう)の一番(いちばん)きれいな女中(じよちゆう)を連(つ)れ出(だ)して、琵琶(びは)を弾(ひ)かせ、その撥音(ばちおと)につれて歌(うた)を唄(うた)はせました。その声(こゑ)は銀(ぎん)の鈴(すゞ)のように美(うつく)しうございました。教王(きようおう)もそれが大(たい)そうお気(き)に召(め)したと見(み)えて、なんどもその女(をんな)に歌(うた)を唄(うた)はせては聴(き)いておいでになりました。
 ハサンは紅玉(こうぎよく)のように赤(あか)い色(いろ)をして、麝香(じやこう)のように高(たか)い香(にほひ)をもつた葡萄酒(ぶどうしゆ)を持(も)ち出(だ)して、がらすの盃(さかづき)を王様(おうさま)の前(まへ)にすゝめながら、
「どうかこの盃(さかづき)でもう一杯(いつぱい)飲(の)んで下(くだ)さいまし。今夜(こんや)別(わか)れてはもう二度(にど)とはお目(め)にかゝれないのですから、別(わか)れて後(のち)も心残(こゝろのこ)りのないように、これで一(ひと)つぐつと乾(ほ)して行(い)つて下(くだ)さいまし」と申(まを)しました。
「どうしてそんな悲(かな)しいことを云(い)はれるのです」と、王様(おうさま)は不審(ふしん)そうに聞(き)き返(かへ)されました。
 そこでハサンは、自分(じぶん)が友(とも)だちを信用(しんよう)しなくなつたわけを、これ/\かう/\と委(くは)しく語(かた)つて聞(き)かせました。それを聞(き)いて、腹(はら)をかゝへてお笑(わら)ひになりました。
「いや、それはごもつともだ。さういふことなら、あなたが私(わたくし)どもと友(とも)だちになるのは厭(いや)だといはれるのも道理(どうり)ですよ」
 かう云(い)つて、王様(おうさま)はしばらく首(くび)をかしげて考(かんが)へてゐられましたが、やがてハサンに向(むか)つて、「どうです、あなたは日(ひ)ごろから何(なに)かかうして貰(もら)ひたいとか、又(また)はかうなつたらよからうとか思(おも)つていらつしやることはございませんか」とおたづねになりました。
「いや、それは幾(いく)らもありますよ」と、ハサンは言下(げんか)に答(こた)へました。「まづ第一(だいいち)に、私(わたくし)がどうかして貰(もら)ひたいのは、お隣(とな)りの寺(てら)に住(す)んでゐる糞坊主(くそぼうず)ですよ。私(わたくし)がいゝぐあひに朝寝坊(あさねぼう)をしてゐると、それを邪魔(じやま)するように、わざ/\早(はや)く起(お)きて鉦(かね)を叩(たゝ)くのです。もつとも、それは向(む)かうもお勤(つと)めだから仕方(しかた)がありませんが、どうもそいつは強欲(ごうよく)でけちん坊(ぼう)で、召(め)し使(つか)ひの女(をんな)を四五人(しごにん)も使(つか)つて、全(まつた)く近所(きんじよ)の憎(にく)まれものでございます。もし、私(わたくし)にあゝいふ人間(にんげん)をどうにでもする権力(けんりよく)があつたら、第一番(だいいちばん)にあの坊主(ぼうず)を千(せん)の笞刑(ちけい)に処(しよ)して、寺(てら)を放逐(ほうちく)してやりたいと思(おも)つてゐますよ。さうすれば、私(わたくし)も安心(あんしん)して朝寝坊(あさねぼう)が出来(でき)ませうからな」
「さあ、そのお願(ねが)ひもきつとかなふ時期(じき)が来(く)るでせうよ」
 かう云(い)つて、王様(おうさま)は、相手(あひて)に知(し)られないようにそつと懐(ふところ)から麻酔剤(ますいざい)を出(だ)して、それを自分(じぶん)の前(まへ)の盃(さかづき)の中(なか)へお入(い)れになりました。そして、それをハサンに勧(すゝ)められました。ハサンがそれを受(う)け取(と)つて、ぐつと一口(ひとくち)に飲(の)み乾(ほ)したかと思(おも)ふと、急(きゆう)に人心地(ひとごゝち)がなくなつて、床(ゆか)の上(うへ)に倒(たふ)れてしまひました。王様(おうさま)は立(た)ち上(あが)つて、玄関(げんかん)まで出(で)て行(ゆ)かれました。かねて見(み)え隠(かく)れにお伴(とも)をして、王様(おうさま)の身(み)を守護(しゆご)してゐる兵卒(へいそつ)どもがそこに待(ま)つてゐましたので、それ等(ら)の者(もの)どもに命(めい)じて、ハサンを輿(こし)の上(うへ)にかつぎ載(の)せられました。そして、酔(よ)うて正体(しようたい)のないハサンを一(いつ)しよに連(つ)れながら、宮中(きゆうちゆう)へお帰(かへ)りになりました。それから、そのハサンを御自分(ごじぶん)の寝室(しんしつ)へ連(つ)れて行(い)つて、いつも御自分(ごじぶん)のおやすみになる寝台(しんだい)の上(うへ)に寝(ね)かせるように御命令(ごめいれい)になりました。それから奥御殿(おくごてん)に仕(つか)へてゐる老女(ろうじよ)や腰元(こしもと)どもに向(むか)つて、
「明日(あす)の朝(あさ)この青年(せいねん)が眼(め)を覚(さ)ましたら、お前方(まへがた)はわしに云(い)ふとほりにこの青年(せいねん)にものを云(い)つて、わしにしてくれる通(とほ)りにこの青年(せいねん)にもして上(あ)げなければいけないよ。つまり、この青年(せいねん)がわしだと思(おも)つて仕(つか)へさへすればいゝのだ。わかつたか」と、仰(おほ)せられました。
 それからなほ宰相(さいしよう)だの、侍従(じじゆう)だの、警視総監(けいしそうかん)だのと云(い)ふような、朝廷(ちようてい)の主(おも)だつた人々(ひと/゛\)をお召(め)し寄(よ)せになつて、やはり同(おな)じようにいひつけられました。一同(いちどう)は謹(つゝし)んで陛下(へいか)の御命令(ごめいれい)に従(したが)ふ旨(むね)をお答(こた)へいたしました。そこで王様(おうさま)はかあてんのうしろへはひつて、おやすみになりました。
 あくる朝(あさ)、ハサンは王様(おうさま)の寝台(しんだい)の上(うへ)で目(め)を覚(さ)ましました。そして、きよとんとした顔(かほ)をしながら、自分(じぶん)を取(と)り巻(ま)いてゐる多(おほ)くの侍従(じじゆう)や腰元(こしもと)どもの姿(すがた)を見(み)やりました。彼等(かれら)はハサンの前(まへ)に跪(ひざまづ)いて、頭(あたま)をたれてゐるのでございました。その時(とき)一人(ひとり)の腰元(こしもと)が前(まへ)へ進(すゝ)んで、
「陛下(へいか)、もうお目覚(めざ)めでいらつしやいますか。表御座所(おもてござしよ)の方(ほう)では、、一同(いちどう)陛下(へいか)のお出(で)ましを待(ま)ちかねてをります」と申(まを)し上(あ)げました。ハサンはそれを聞(き)いて、鼻(はな)の先(さき)で「ふゝん」と笑(わら)ひました。そして、横(よこ)を向(む)いてしまひました。が、今度(こんど)は金(きん)や群青(ぐんじよう)を塗(ぬ)つた壁(かべ)だの、刺繍(ししゆう)したかあてんだのが眼(め)につきました。その他(ほか)金銀(きんぎん)の皿(さら)や、陶器(とうき)や、水晶(すいしよう)の壺(つぼ)や、香炉(こうろ)や燭台(しよくだい)やと云(い)ふようなものが、眩(まぶ)しいように、ずらりと並(なら)んでゐました。それを見(み)ると、彼(かれ)は急(きゆう)に頭(あたま)がぐら/\とするような気(き)がいたしました。そして、「一体(いつたい)俺(おれ)はまだ夢(ゆめ)を見(み)てゐるのか知(し)ら。それとももう死(し)んで天国(てんごく)へでもやつて来(き)たのかな」と、口(くち)の中(なか)で呟(つぶやき)きました。が、そこらを見廻(みまは)してゐるうちに、だん/\不安(ふあん)になつて、頤(あご)を胸(むね)の上(うへ)へ垂(た)れたまゝ、ぢつと考(かんが)へ込(こ)んでしまひました。それから又(また)眼(め)を開(ひら)いて、交(かは)る/゛\自分(じぶん)の手(て)を見(み)てゐましたが、いきなりそれを口(くち)へ持(も)つて行(い)つて、がちりと自分(じぶん)で自分(じぶん)の拇指(おやゆび)を噛(か)んで見(み)ました。彼(かれ)は思(おも)はず「あ痛(いた)つ」と大(おほ)きな声(こえ)でわめきました。全(まつた)く眼(め)の玉(たま)の飛(と)び出(で)るほど痛(いた)かつたのでございます。彼(かれ)は自分(じぶん)ながら腹(はら)が立(た)つて来(き)ました。そこで、自分(じぶん)の前(まへ)に立(たつ)つてゐる腰元(こしもと)の一人(ひとり)をそばへよびました。すると、その女(をんな)は二三歩(にさんぽ)前(まへ)へ進(すゝ)んで跪(ひざまづ)きながら、
「陛下(へいか)よ、何御用(なにごよう)でいらせられますか」と、丁寧(ていねい)にたづねました。ハサンは少(すこ)し考(かんが)へた後(あと)で、「お前(まへ)は俺(おれ)がどう云(い)ふ人間(にんげん)で、今(いま)どう云(い)ふ所(ところ)へ来(き)てゐるか知(し)つてゐるかい。知(し)つてゐるなら、そこで云(い)つて御覧(ごらん)よ」とたづねました。
「はい、陛下(へいか)はこの国(くに)の教王(きようおう)でゐらせられます。そして、たゞいまは宮殿(きゆうでん)の中(なか)の御自分(ごじぶん)の寝台(しんだい)に腰(こし)かけていらつしやいます」と、その腰元(こしもと)は真顔(まがほ)で答(こた)へました。
「あれ/\、あんなことを云(い)つてやがる」と、ハサンは心(こゝろ)の中(なか)に考(かんが)へました。「しかし、俺(おれ)はもう何(なに)が何(なん)だかさつぱりわからなくなつた。それとも頭(あたま)が馬鹿(ばか)になつてしまつたのかな。いや、どうも俺(おれ)はまだ寝(ね)てゐるらしい。それにしても、昨夜(ゆうべ)来(き)たお客(きやく)は何者(なにもの)だらう。きつとあれは悪魔(あくま)か魔法使(まほうつか)ひに違(ちが)ひないよ。そして、俺(おれ)をこんな風(ふう)に馬鹿(ばか)にして遊(あそ)んでやがるんだ」
 その間(あひだ)、教王(きようおう)は始終(しじゆう)かあてんのうしろへ隠(かく)れて、ハサンの方(ほう)からは見(み)られないようにしながら、じつとその様子(ようす)を窺(うかゞ)つてゐられました。ハサンはまた侍従長(じじゆうちよう)の方(ほう)へ向(む)き直(なほ)つて、自分(じぶん)の側(そば)へよび寄(よ)せました。すると、侍従長(じじゆうちよう)は彼(かれ)の前(まへ)へ進(すゝ)んで、床(ゆか)に額(ひたひ)のつくほど低(ひく)く頭(あたま)をたれながら、「をゝ、わが教王陛下(きようおうへいか)よ」と申(まを)し上(あ)げました。ハサンは相手(あひて)の言葉(ことば)をさへぎつて、
「一体(いつたい)、誰(だれ)が教王陛下(きようおうへいか)なんだい」と、せき込(こ)みながら聞(き)き返(かへ)しました。
「はい、あなた様(さま)でございます。あなた様(さま)がこの国(くに)の教王陛下(きようおうへいか)でいらせられます」と、侍従(じじゆう)は落(お)ちつき払(はら)つて申(まを)しました。
「お前(まへ)は俺(おれ)を瞞(だま)さうとしてゐるな」と、ハサンはさも憎々(にく/\)しげに侍従長(じじゆうちよう)の顔(かほ)を睨(にら)みつけました。それから今度(こんど)は他(ほか)の侍従(じじゆう)を前(まへ)へよんで、「どうかわしにほんとうのことを云(い)つてくれ。わしはほんとうにこの国(くに)の教王陛下(きようおうへいか)なのかね」とたづねました。すると、その侍従(じじゆう)もやはり同(おな)じように答(こた)へました。ハサンはもう、見(み)るもの聞(き)くもの悉(ことごと)くわからなくなつてしまひました。実際(じつさい)、考(かんが)へれば考(かんが)へるほど、ハサンにはわけがわからないのでございます。で、眼(め)をぱちくりしながら黙(だま)つて坐(すわ)つてゐました。その時(とき)、一人(ひとり)の侍従(じじゆう)が彼(かれ)の前(まへ)へ進(すゝ)んで、彼(かれ)の足下(そつか)に一足(いつそく)の靴(くつ)を並(なら)べました。それは金糸(きんし)や銀糸(ぎんし)の織(お)り物(もの)で拵(こしら)へて、宝石(ほうせき)を鏤(ちりば)めた、ほんとうに見事(みごと)なものでございました。ハサンはそれを手(て)に取(と)つて、長(なが)い間(あひだ)珍(めづ)らしさうに眺(なが)めてゐましたが、やがて何(なに)も云(い)はずにそれを袖(そで)の中(なか)へ隠(かく)しました。それを見(み)て、侍従(じじゆう)はびつくりしたように申(まを)しました。
「陛下(へいか)、それは足(あし)に穿(は)くものでございます」
「なるほど、これは足(あし)に穿(は)くものだつたね。どうもあんまり綺麗(きれい)なものだから、かうして置(お)くとよごれるかと思(おも)つて、ちよつと懐(ふところ)へ入(い)れて見(み)たのだよ」と、ハサンはきまりの悪(わる)そうにそれを袖(そで)の中(なか)から取(と)り出(だ)して、あらためて足(あし)に穿(は)きました。
 まもなく又(また)一人(ひとり)の腰元(こしもと)が、黄金(こがね)の盥(たらひ)と銀(ぎん)の水差(みづさ)しとを持(も)つてはひつて来(き)ました。そして、彼(かれ)の手(て)にぬるま湯(ゆ)を注(そゝ)いでくれました。かうして顔(かほ)を洗(あら)つてしまふと、侍従(じじゆう)どもは彼(かれ)を案内(あんない)して、教王(きようおう)の先祖(せんぞ)の御霊(みたま)が祀(まつ)つてある礼拝堂(れいはいどう)へつれて行(い)きました。ハサンはどうしてお詣(まゐ)りをしたものかよくわからないので、自分(じぶん)のうちでしてゐたように、ぽん/\と柏手(かしはで)を打(う)つて、なんべんもその前(まへ)に平伏(へいふく)しました。そして、心(こゝろ)の中(うち)では、「いや、俺(おれ)はどうしても教王陛下(きようおうへいか)に相違(そうい)ないよ」と考(かんが)へました。「でないとすれば、それは夢(ゆめ)だが、夢(ゆめ)の中(なか)で物事(ものごと)がかうはつきりしてゐる筈(はず)はない。第一(だいいち)、さつき指(ゆび)を噛(か)んで見(み)た時(とき)も、あんなに痛(いた)かつたではないか」
 かう云(い)ふように、とう/\自分(じぶん)でも王様(おうさま)の気(き)になつてしまひました。が、いよ/\朝(あさ)の礼拝(れいはい)を終(をは)つて、黄金(こがね)の王冠(おうかん)だの、紫(むらさき)の袍(ぬのこ)だのと云(い)ふような、きらびやかな教王(きようおう)の衣裳(いしよう)をきせられる段(だん)になると、彼(かれ)は又(また)心配(しんぱい)になり始(はじ)めました。で、玉座(ぎよくざ)についてからも、右(みぎ)の袖(そで)を見(み)たり、左(ひだり)の側(かは)を見(み)たりしながら、前(まへ)の言葉(ことば)を打(う)ち消(け)して、かう申(まを)しました。──
「いや、これはどうしても幻(まぼろし)に違(ちが)ひない。魔法使(まほうつか)ひのする業(わざ)に相違(そうい)ないよ」
 その時(とき)一人(ひとり)の侍従(じじゆう)が彼(かれ)の前(まへ)に跪(ひざまづ)いて、
「陛下(へいか)よ、たゞいま宰相(さいしよう)がお目通(めどほ)りを願(ねが)つて、あちらに控(ひか)へてをりますが、いかゞとりはからひませう」と申(まを)し上(あ)げました。
「あゝすぐこれへ通(とほ)すがよい」と、ハサンは鷹揚(おうよう)に答(こた)へました。すると、扉(とびら)の蔭(かげ)から白(しろ)い鬚(ひげ)を生(は)やした、もつともらしい顔(かほ)の宰相(さいしよう)があらはれました。老宰相(ろうさいしよう)はハサンの前(まへ)に跪(ひざまづ)いて、その日(ひ)の政治(せいじ)を一(ひと)つ/\奏上(そうじよう)いたしました。ハサンはそれに対(たい)して、いゝ加減(かげん)に返事(へんじ)をしてやりました。すると、老宰相(ろうさいしよう)は一々(いち/\)かしこまつて、即座(そくざ)にその通(とほ)りにとり行(おこな)ひました。かう云(い)ふように、なんでも自分(じぶん)の云(い)ふことが通(とほ)つて、誰(だれ)も彼(かれ)も自分(じぶん)に服従(ふくじゆう)されて見(み)ると、ハサンも再(ふたゝ)び気(き)が迷(まよ)つて、どうも自分(じぶん)はやつぱり教王(きようおう)に違(ちが)ひないかなと云(い)ふような気(き)になりました。そして、だん/\嬉(うれ)しくなつてまゐりました。
 その時(とき)、彼(かれ)は急(きゆう)に思(おも)ひついたことがあつたので、「警視総監(けいしそうかん)をよべ、警視総監(けいしそうかん)を」と、大(おほ)きな声(こゑ)でどなりました。すると、すぐに警視総監(けいしそうかん)がやつて来(き)て、彼(かれ)の前(まへ)に跪(ひざまづ)きながら、
「陛下(へいか)よ、何(なに)御用(ごよう)でいらせられますか」と、恐(おそ)る/\申(まを)し上(あ)げました。
「あゝ、お前(まへ)が警視総監(けいしそうかん)か」と、ハサンは云(い)ひました。「では、お前(まへ)に申(まを)しつけるが、これこれかう/\云(い)ふ街(まち)に、ハサンといふ者(もの)の老母(ろうぼ)が住(す)んでゐるから、そこへ訪(たづ)ねて行(い)つて、教王(きようおう)からの贈(おく)り物(もの)だと云(い)ふので、金子(きんす)一千両(いつせんりよう)だけ届(とゞ)けるがよい。それから、その隣(とな)りの寺(てら)に一人(ひとり)の坊主(ぼうず)が住(す)んでゐるが、あの坊主(ぼうず)は不都合(ふつごう)な奴(やつ)だから、一千(いつせん)の笞刑(ちけい)を加(くは)へた上(うへ)、都(みやこ)の外(そと)へ放逐(ほうちく)してしまへ」
 警視総監(けいしそうかん)は委細(いさい)かしこまつて、教王(きようおう)の御前(ごぜん)を退出(たいしゆつ)しました。そして、即日(そくじつ)その言葉(ことば)どほりに執(と)り行(おこな)ひました。
 ハサンは日(ひ)が暮(く)れるまで政治(せいじ)を執(と)つてゐましたが、やがて廷臣(ていしん)どもを残(のこ)らず退出(たいしゆつ)させた上(うへ)、自分(じぶん)も奥御殿(おくごてん)へひきとりました。そこで彼(かれ)は一人(ひとり)の侍従(じじゆう)をよんで、「どうも腹(はら)が減(へ)つてたまらないが、何(なに)か食(た)べるものはないか」と、たづねました。侍従(じじゆう)はかしこまつてさがりましたが、まもなく見事(みごと)な食卓(しよくたく)がその前(まへ)に並(なら)べられました。そして、十人(じゆうにん)の美(うつく)しい腰元(こしもと)が彼(かれ)の背後(はいご)に立(た)つて給仕(きゆうじ)をいたしました。ハサンはその一人(ひとり)にたづねました。──
「一体(いつたい)、こゝにかうして飯(めし)を食(く)つてゐる俺(おれ)は誰(だれ)だらうね」
「あなた様(さま)はまぎれもない教王陛下(きようおうへいか)でいらつしやいます」と、その女(をんな)は答(こた)へました。
「又(また)俺(おれ)を瞞(だま)さうと思(おも)つてやがるな。この馬鹿(ばか)ものめ」と、彼(かれ)は急(きゆう)にむら/\となつて云(い)ひ放(はな)ちました。
「まあめつそうな」と、その女(をんな)はびつくりしたように申(まを)しました。「私(わたくし)どもは、陛下(へいか)の御命令(ごめいれい)とあれば、いつ命(いのち)を召(め)し上(あ)げられても仕方(しかた)のない身(み)でございますもの、どうして陛下(へいか)をお笑(わら)ひ申(まを)すようなことが出来(でき)ませう」
 それを聞(き)いて、ハサンはまた考(かんが)へ直(なほ)しました。
「ぢや、俺(おれ)はやつぱり教王陛下(きようおうへいか)になつたのかな」
 そこへ又(また)、前(まへ)よりも美(うつく)しい十人(じゆうにん)の腰元(こしもと)が、手(て)に/\琵琶(びは)だの、笛(ふえ)だの、鞨鼓(かつこ)だのと云(い)ふような楽器(がつき)を持(も)つて出(で)て来(き)て、それを弾(ひ)いたり、吹奏(すいそう)したり、打(う)ちならしたりしながら、その音(おと)に合(あは)せて歌(うた)を唄(うた)ひました。
「いや、これはいかん」と、ハサンはわれとわが心(こゝろ)を引(ひ)きしめて云(い)ひました。「どうしてもこれは魔法使(まほうつか)ひの仕業(しわざ)に違(ちが)ひない。あゝ一刻(いつこく)も早(はや)くこんな怖(おそ)ろしい所(ところ)から遁(のが)れたいものだ」
 かうは思(おも)ひながらも、ハサンはやつぱり楽(がく)の音(ね)に聞(き)き惚(ほ)れて、しきりに盃(さかづき)を重(かさ)ねました。その時(とき)一人(ひとり)の腰元(こしもと)は、かねて教王(きようおう)の命(めい)を受(う)けてゐたので、そつと盃(さかづき)の中(なか)へ麻酔剤(ますいざい)を投(とう)じて、それをハサンの手(て)に渡(わた)しました。ハサンはそれを一息(ひといき)に飲(の)み乾(ほ)しましたが、そのまま気(き)を失(うしな)つて倒(たふ)れてしまひました。
 あくる朝(あさ)ハサンが眼(め)をさました時(とき)には、もう自分(じぶん)のうちの自分(じぶん)の寝間(ねま)に寝(ね)てゐました。呑(の)んだ麻酔剤(ますいざい)の酔(よ)ひがまだ醒(さ)めないうちに、彼(かれ)を輿(こし)に乗(の)せてうちへ連(つ)れ戻(もど)すように、王様(おうさま)が侍従(じじゆう)どもに命(めい)じて、おとりはからひになつたのでございました。さうとも知(し)らない彼(かれ)は、眼(め)をさまして見(み)るとあたりが真暗(まつくら)なので、
「おい、侍従(じじゆう)はゐないか、腰元(こしもと)のセンジエレーはゐないか」と、大(おほ)きな声(こゑ)で呼(よ)んで見(み)ました。が、誰(だれ)も返辞(へんじ)をするものがない。彼(かれ)はいら/\して来(き)て、つゞけざまにどなりました。お母(かあ)さんはびつくりして隣(とな)りの部屋(へや)から飛(と)んで来(き)ました。そして、「まあお前(まへ)、何(なに)を云(い)つてゐるんだえ。気違(きちが)ひにでもなつたんぢやないか」と、思(おも)はず入(い)り口(ぐち)に立(た)ちどまつてたづねました。
「お前(まへ)は誰(だれ)だ」と、ハサンはえらい権幕(けんまく)で母親(はゝおや)を睨(にら)まへながら叱(しか)りつけました。「この狸婆(たぬきばゞ)あめ。苟(いやしく)も教王陛下(きようおうへいか)に対(たい)してさような無礼(ぶれい)なことを申(まを)す法(ほう)があるか。一体(いつたい)お前(まへ)は何者(なにもの)だ」
「私(わたし)はお前(まへ)のお母(かあ)さんだよ。お前(まへ)は私(わたし)がわからないのかえ」と、母親(はゝおや)はおろ/\声(ごゑ)で云(い)ひました。
「嘘(うそ)をつけつ。俺(おれ)は教王(きようおう)だ。お前(まへ)のようなけちな母親(はゝおや)は持(も)たないぞ」と、ハサンは一段(いちだん)声(こゑ)を高(たか)くして叱(しか)りつけました。
「あれ、いよ/\私(わたし)がわからないのだ。情(なさけ)ないことになつてしまつたわねえ」と云(い)ひながら、彼女(かのじよ)はいきなりそこへ跪(ひざまづ)いて祈祷(きとう)の呪文(じゆもん)を唱(とな)へ始(はじ)めました。が、急(きゆう)に又(また)立(た)ち上(あが)つて、わが子(こ)のそばへ寄(よ)りそひながら、「ハサンや、お前(まへ)はさういふ夢(ゆめ)を見(み)たのだよ、きつとさうだよ。しつかりおし、しつかりしてゐないと、悪魔(あくま)につけ入(い)られるよ。あゝさうだ」と、彼女(かのじよ)は何(なに)か思(おも)ひ出(だ)したように、なほも言葉(ことば)を続(つゞ)けました。「お前(まへ)に聞(き)かせて上(あ)げることがあるんだがね。そりやお前(まへ)が聞(き)いたらさぞ喜(よろこ)びそうな、ほんとうにいゝことなんだよ」
「そりやなんです」と、ハサンはたづねました。
「それはね」と、母親(はゝおや)は語(かた)りつゞけました。「教王陛下(きようおうへいか)の御命令(ごめいれい)だと云(い)つて、昨日(きのふ)警覗総監(けいしそうかん)がお隣(とな)りのお寺(てら)へお出(い)でになつてね、住職(じゆうしよく)を千(せん)の笞刑(ちけい)に処(しよ)した上(うへ)、隣(とな)り近所(きんじよ)の迷惑(めいわく)になるようなことをしたといふ角目(かどめ)で、即日(そくじつ)都(みやこ)の外(そと)へ放逐(ほうちく)しておしまひになつたんだよ。それから私(わたし)の許(もと)へもお立(た)ち寄(よ)りになつて、丁寧(ていねい)な御挨拶(ごあいさつ)があつた上(うへ)、陛下(へいか)の御命令(ごめいれい)だと云(い)ふので、黄金(おうごん)千両(せんりよう)を私(わたし)に下(さ)げて下(くだ)すつたんだがね、なんとまあお有難(ありがた)いことではないかえ」
 母親(はゝおや)の言葉(ことば)を聞(き)いてゐるうちに、彼(かれ)の顔色(かほいろ)は見(み)る/\変(かは)つて来(き)ました。そして、思(おも)はず大(おほ)きな声(こゑ)を張(は)り上(あ)げながら、
「あの住職(じゆうしよく)を笞刑(ちけい)に処(しよ)して放逐(ほうちく)するように命(めい)じたものは、誰(だれ)でもないこの俺(おれ)だよ。千両(せんりよう)の金(かね)をお前(まへ)にとゞけさせたのも、やつぱりこの俺(おれ)だよ。して見(み)ると、俺(おれ)はどうしても教王陛下(きようおうへいか)に相違(そうい)ない」
 かう云(い)つて、彼(かれ)はすつくと立(た)ち上(あが)りながら、ありあふ木(き)の杖(つゑ)を取(と)つて、さん/゛\に母親(はゝおや)を打(う)ち据(す)ゑました。母親(はゝおや)はひい/\声(こゑ)を挙(あ)げて泣(な)きわめきました。それを聞(き)きつけて、とう/\近所(きんじよ)の人(ひと)が仲裁(ちゆうさい)にはひつて来(き)ました。が、彼(かれ)はなほも母親(はゝおや)を打(う)ち据(す)ゑながら、「この狸婆(たぬきばゞ)あめ。まだ俺(おれ)を瞞(だま)そうと思(おも)つてやがるな。俺(おれ)は畏(おそ)れ多(おほ)くも教王陛下(きようおうへいか)だが知(し)らないか」とどなり立(た)てました。そこで近所(きんじよ)の人々(ひと/゛\)も、いよ/\ハサンの気(き)が違(ちが)つたのだと思(おも)つて、皆(みん)なが寄(よ)つてたかつて、可愛(かわい)そうに後手(うしろで)に縛(しば)り上(あ)げてしまひました。それから彼(かれ)を瘋癲病院(きちがひびよういん)へ引(ひ)き渡(わた)しました。
 その後(のち)十日間(とうかかん)ほど経(た)つて、お母(かあ)さんが病院(びよういん)へ見舞(みま)ひに来(き)ました。ハサンは母親(はゝおや)の手(て)に縋(すが)りついて、自分(じぶん)のみじめな境遇(きようぐう)をいろ/\と訴(うつた)へました。それを聞(き)いてお母(かあ)さんは「だから云(い)はないことぢやありませんよ。お前(まへ)さんがほんとうに教王陛下(きようおうへいか)なら、こんな所(ところ)に入(い)れられて、こんな目(め)に逢(あ)ふ筈(はず)がないぢやありませんか。そこへ気(き)がついたら、どうか一日(いちにち)も早(はや)く心(こゝろ)を入(い)れ代(か)へて、正気(しようき)にかへつて下(くだ)さいよ」と、懇々(こん/\)説(と)いて聞(き)かせました。
「なるほどお母(かあ)さんの仰(おつ)しやる通(とほ)りだ。私(わたくし)はどうも夢(ゆめ)を見(み)てゐたらしいですよ。だが、もう夢(ゆめ)はすつかり醒(さ)めましたから、どうか一日(いちにち)も早(はや)くこゝから出(で)られるようにして下(くだ)さい」と、ハサンはうなだれたまゝ、しほ/\として云(い)ひました。
「あゝ、さうだとも。お前(まへ)さんは夢(ゆめ)を見(み)てゐたんだよ。だが、これからはよつぽどしつかりしてゐなくちやいけませんよ。悪魔(あくま)に魅入(みい)られると、なか/\これ位(くらゐ)のことでは済(す)みませんからね」
「えゝ、私(わたくし)もこれからは気(き)をつけて、きつとこんなことのないようにいたします」と、固(かた)く将来(しようらい)を誓(ちか)ひましたので、お母(かあ)さんも近所(きんじよ)の人々(ひと/゛\)に頼(たの)んで、瘋癲病院(きちがひびよういん)から出(で)られるようにとりはからつてやりました。
 病院(びよういん)から出(で)たハサンは、先(ま)づ銭湯(せんとう)へ行(い)つて、よく体(からだ)の垢(あか)を落(おと)しました。それから、久(ひさ)しぶりにうちの食卓(しよくたく)に向(むか)ひましたが、いくらおいしい御馳走(ごちそう)を並(なら)べても、一人(ひとり)で食(た)べるのは彼(かれ)にはどうも面白(おもしろ)くありませんでした。で、母親(はゝおや)がしきりに止(と)めるのも耳(みゝ)にかけないで、彼(かれ)はまた酒(さけ)の相手(あひて)をつれて来(く)るために、例(れい)の橋(はし)の上(うへ)へ出(で)かけて行(い)きました。そして、欄干(らんかん)に腰(こし)かけたまゝ待(ま)つてゐると、どうでせう、そこへまた教王(きようおう)が商人(しようにん)に変装(へんそう)してやつて来(こ)られました。ハサンを宮中(きゆうちゆう)から送(おく)り返(かへ)して後(のち)、毎日(まいにち)のようにこゝへやつて来(こ)られたのですが、今日(けふ)まで彼(かれ)に会(あ)へなかつたのでございます。で、ハサンは相手(あひて)の顔(かほ)を見(み)るや、すぐに大(おほ)きな声(こゑ)で罵(のゝし)りました。
「や、ようこそいらつしやいましたね。この魔法使(まほうつか)ひめ。そんな真面目(まじめ)な顔(かほ)をしてゐたつて、もう今度(こんど)は瞞(だま)されないぞ」
「はゝあ、私(わたし)があなたにどんな悪(わる)いことをしましたかね」と、王様(おうさま)はおちついておたづねになりました。
「おい/\、いゝ加減(かげん)にとぼけるなあよせやい。ほんとうにいま/\しい魔法使(まほうつか)ひだな。私(わたし)はお前(まへ)さんのお蔭(かげ)で、瘋癲病院(きちがひびよういん)へ入(い)れられて、ひどい目(め)にあはされたんだよ。それをどうしてくれるんだい。私(わたし)はお前(まへ)さんを自分(じぶん)のうちへつれて行(い)つて、ありつたけの御馳走(ごちそう)をして、一(いつ)しよう懸命(けんめい)にもてなして上(あ)げたばかりだよ。それだのに、私(わたし)を悪魔(あくま)の手(て)へ渡(わた)して、朝(あさ)から晩(ばん)までさんざ私(わたし)を玩具(おもちや)にさせたぢやないか。えゝもうお前(まへ)さんのような人(ひと)には、こつちは用(よう)がないから、どこへでもさつさと行(い)つてしまつて下(くだ)さい」と、ハサンは腹立(はらだ)ちまぎれにつけ/\云(い)ひました。
「まあ、さう仰(おつ)しやるものでない」と、王様(おうさま)は笑(わら)ひたいのをこらへながら、ものしづかに云(い)はれました。「きつとなんでせうよ。私(わたし)たちがお宅(たく)を出(で)る時(とき)に、表(おもて)の戸(と)に錠(じよう)をかけることを忘(わす)れて置(お)いたから、それで悪魔(あくま)がそこから飛(と)び込(こ)んで来(き)て、あなたにそんな悪戯(いたづら)をしたのでございませうよ」
「なんで表(おもて)の戸(と)を明(あ)け放(はな)しにして置(お)いたのです。それからしてよくないですよ」
「だつて、わざ/\明(あ)け放(はな)しにして置(お)いたわけではないから、勘弁(かんべん)して頂(いたゞ)く外(ほか)ない。とにかく」と、王様(おうさま)は急(きゆう)に言葉(ことば)の調子(ちようし)を変(か)へながらつゞけられました。「さういふ災難(さいなん)にいくつも出(で)あひながら、かうして無事(ぶじ)に戻(もど)つて来(こ)られて、再(ふたゝ)びこゝでお目(め)にかゝれると云(い)ふのはめでたい話(はなし)ぢやありませんか。あなたのためにお祝(いは)ひ申(まを)しますよ」
「いや、何(なに)がどうせうと、私(わたし)はもう二度(にど)とあなたをうちへつれて行(い)くような真似(まね)はいたしませんよ。どうせ後(あと)でろくなことがないのは知(し)れきつてゐますからね」と、ハサンはそんな手(て)に乗(の)るものかと云(い)はんばかりの態度(たいど)で申(まを)しました。
「あなたはさう仰(おつ)しやるが、とにかく私(わたし)があつたればこそ、あなたもあのお隣(とな)りの住職(じゆうしよく)をへこまして、かねての鬱憤(うつぷん)を一度(いちど)に晴(は)らすことが出来(でき)たんぢやありませんか」と、王様(おうさま)はやつぱりにこ/\しながら云(い)はれました。
「それはさうですな」と、ハサンも正直(しようじき)に答(こた)へました。
 王様(おうさま)はそこへつけこんで、再(ふたゝ)び云(い)はれました。──
「ねえ、あなたがもう一度(いちど)私(わたし)のいふことを聞(き)いてくれたら、前(まへ)よりももつといゝことがあなたの身(み)に起(おこ)つて来(く)るでせうよ」
「で、それはどうするんです」と、ハサンは聞(き)き返(かへ)しました。
「たゞ今夜(こんや)もう一度(いちど)、あなたのお宅(たく)へ私(わたくし)どもを招待(しようたい)して下(くだ)さればいゝのですよ」と、王様(おうさま)は静(しづ)かにお答(こた)へになりました。
 それを聞(き)いて、ハサンは暫(しばら)く思案(しあん)してゐましたが、
「今度(こんど)は誓(ちか)つて私(わたし)をあんな悪魔(あくま)どもの玩具(おみちや)にさせないと、固(かた)く約束(やくそく)して下(くだ)さいますなら、私(わたし)は喜(よろこ)んであなたがたを御招待(ごしようたい)いたしますよ」と、ハサンはとう/\云(い)ひ出(だ)しました。
「えゝ、約束(やくそく)しますとも」と、王様(おうさま)もお答(こた)へになりました。
 そこで再(ふたゝ)びハサンは、王様(おうさま)と従者(じゆうしや)二人(ふたり)とを自分(じぶん)のうちへ案内(あんない)した上(うへ)、又(また)もやありつたけの御馳走(ごちそう)を並(なら)べて饗応(きようおう)しました。白(しろ)や赤(あか)の葡萄酒(ぶどうしゆ)も追(お)ひかけ/\出(だ)しました。で、一同(いちどう)はだん/\陽気(ようき)になつて来(き)ました。ことに主人(しゆじん)のハサンは人一倍(ひといちばい)いゝ心持(こゝろも)ちになつて、
「ねえ君(きみ)、僕(ぼく)にやどうしてもわけがわからないんだよ」と、そろ/\王様(おうさま)に向(むか)つてくだを巻(ま)きかけました。「さうぢやありませんか。僕(ぼく)はかう見(み)えても、一度(いちど)は教王(きようおう)の位(くらゐ)についたんですぜ、玉座(ぎよくざ)に上(あが)つて、堂々(どう/゛\)と教王(きようおう)の権威(けんい)を実行(じつこう)しましたよ。いえ、夢(ゆめ)ぢやない。誰(だれ)が何(なん)と云(い)つても、あれは夢(ゆめ)ぢやありませんよ」
「でも、頭(あたま)の疲(つか)れた時(とき)には、いろんな夢(ゆめ)を見(み)るものですからね」
 かう云(い)ひながら、王様(おうさま)は麻酔剤(ますいざい)をそつと盃(さかづき)の中(なか)へ落(おと)されました。そして、それをハサンの前(まへ)へ差(さ)し出(だ)しながら仰(おほ)せられました。「あなたの御無事(ごぶじ)を祝(いは)つて一(ひと)つ差(さ)し上(あ)げますよ。どうかぐつと器用(きよう)に乾(ほ)して下(くだ)さい」
「えゝ、頂戴(ちようだい)しますとも」
 ハサンはその盃(さかづき)を受(う)けて一息(ひといき)に飲(の)み乾(ほ)しましたが、それが胃(い)の腑(ふ)に納(をさ)まるか納(をさ)まらないうちに、がつくりとうなだれたまゝ、そこへ倒(たふ)れてしまひました。
 それから王様(おうさま)はすぐに立(た)ち上(あが)つて、従者(じゆうしや)どもに命(めい)じて、再(ふたゝ)びハサンを宮殿(きゆうちゆう)の中(なか)へ運(はこ)んで行(ゆ)かせた上(うへ)、前(まへ)と同(おな)じように自分(じぶん)の寝台(しんだい)の上(うへ)へ寝(ね)かせました。それからなほ腰元(こしもと)どもに云(い)ひつけて、眠(ねむ)つてゐるハサンのまはりをとり巻(ま)きながら、その眠(ねむ)りをさまさない程度(ていど)に、しづかに笛(ふえ)だの、琵琶(びは)だの、鞨鼓(かつこ)だのを奏(そう)させました。そして、自分(じぶん)はかあてんのうしろへ隠(かく)れて、そつと様子(ようす)を窺(うかゞ)つてゐられました。
 あけがた近(ちか)くハサンはようやく目(め)をさましましたが、いつになく妙(たへ)なる楽(がく)の音(ね)が聞(きこ)えてゐるので、自分(じぶん)ながら不安(ふあん)になつてまゐりました。で、声(こゑ)を張(は)り上(あ)げて、
「お母(かあ)さん」とよんで見(み)ました。
すると、大勢(おほぜい)の腰元(こしもと)どもが彼(かれ)の前(まへ)に跪(ひざまづ)いて、
「陛下(へいか)よ、もはやお目(め)ざめでいらせられますか」
「陛下(へいか)よ、よい朝(あさ)でござります」
「陛下(へいか)よ、何(なに)御用(ごよう)でいらせられますか」と、口々(くち/゛\)にしやべり立(た)てました。それを聞(き)いて、彼(かれ)は思(おも)はず声(こゑ)をあげておい/\泣(な)き出(だ)しました。
「あゝ、こりや助(たす)からない。飛(と)んだことになつてしまつた。今度(こんど)はきつと前(まへ)よりも一層(いつそう)ひどい目(め)に遭(あ)はされるだらうよ」かう云(い)つて、彼(かれ)は自分(じぶん)が瘋癲病院(きちがひびよういん)へ入(い)れられて、殴(なぐ)つたり、蹴(け)つ飛(と)ばされたりしたことを思(おも)ひ出(だ)しました。そして、その時(とき)受(う)けた笞(しもと)の痕(あと)をそつとさすつて見(み)ました。それから腰元(こしもと)や侍従(じじゆう)どもを一巡(いちじゆん)見廻(みまは)しながら、じつと考(かんが)へ込(こ)んでゐましたが、急(きゆう)に傍(そば)にゐた一人(ひとり)の侍従(じじゆう)を見返(みかへ)りながら、
「一(いつ)たい俺(おれ)は眠(ねむ)つてゐるのか、それとも起(お)きてゐるのかね」と云(い)ひ出(だ)しました。「それがはつきりわかるように、お前(まへ)一(ひと)つこの耳朶(みゝたぶ)を思(おも)ひ切(き)り噛(か)んで見(み)てくれないか」
「どう仕(つかまつ)りまして」と、その侍従(じじゆう)はおそる/\答(こた)へました。「あなた様(さま)は畏(おそ)れ多(おほ)くも教王陛下(きようおうへいか)でいらせられますもの、どうして私(わたくし)なぞにあなた様(さま)のお耳(みゝ)を噛(か)むと云(い)ふような、失礼(しつれい)なことがいたされませう。この儀(ぎ)ばかりは、平(ひら)に御免(ごめん)なされて下(くだ)されませ」
「俺(おれ)が教王(きようおう)ならなぜ俺(おれ)の命令(めいれい)に従(したが)はないのか。たつて従(したが)はないに於(お)いては、即座(そくざ)にお前(まへ)の首(くび)を刎(は)ねてしまふぞ」と、ハサンは大(おほ)きな声(こゑ)でどなりました。
「はい/\、それでは仰(おほ)せのとほり噛(か)みまするでござります」と、侍従(じじゆう)はあわてゝ申(まを)しました。そして、ハサンの後(うしろ)へ廻(まは)りながら、上下(うへした)の歯(は)ががちりと出会(であ)ふほど、烈(はげ)しくその耳(みゝ)を噛(か)んでやりました。すると、ハサンは思(おも)はず「きやつ」と悲鳴(ひめい)をあげながら、飛(と)び上(あが)りました。
 それを聞(き)くと、前(まへ)に居並(ゐなら)んでゐた腰元(こしもと)や侍従(じじゆう)どもを始(はじ)めとして、かあてんのうしろに隠(かく)れてゐた王様(おうさま)まで、われを忘(わす)れてふき出(だ)してしまひました。そして、笑(わら)ふ下(した)から、その耳(みゝ)を噛(か)んだ侍従(じじゆう)に向(むか)つて、
「こら、その方(ほう)は気狂(きちが)ひになつたのか。陛下(へいか)のお耳(みゝ)を噛(か)むなんてどうしたのだ」と、口々(くち/゛\)に叱(しか)りつけてゐました。
 一人(ひとり)ハサンは泣(な)き出(だ)しそうな顔(かほ)をしながら、一同(いちどう)の者(もの)に向(むか)つて云(い)ひました。
「おい/\、お前(まへ)たちもこれだけ俺(おれ)をひどい目(め)に遭(あは)はせたら、もう沢山(たくさん)ぢやないか。いゝ加減(かげん)に勘弁(かんべん)してうちへ帰(かへ)してくれよ。いや、お前方(まへがた)が悪(わる)いのぢやない、悪(わる)いのはお前方(まへがた)の親分(おやぶん)のあの魔法使(まほうつか)ひなんだよ。だから、決(けつ)してお前方(まへがた)を恨(うら)みはしないから、早(はや)く帰(かへ)しておくれ」
 それを聞(き)いて、かあてんのうしろに隠(かく)れてゐた王様(おうさま)は腹(はら)をかゝへてお笑(わら)ひになりました。そして、その後(うしろ)から出(で)て来(き)ながら、
「いや、ハサンよ。お前(まへ)はほんとうによくわしを笑(わら)はせてくれた。このまゝでつゞけば、しまひには殺(ころ)されるかも知(し)れないよ」と云ひ/\、又(また)ひとしきりお笑(わら)ひになりました。そこで始(はじ)めて、ハサンも自分(じぶん)の家(いへ)へ招待(しようたい)した旅人(たびゞと)が誰(だれ)であつたかと云(い)ふことをはつきり悟(さと)りました。で、床(ゆか)の上(うへ)に額(ひたひ)をすりつけながら、だん/\の無礼(ぶれい)を幾重(いくへ)にもお詫(わび)び申(まを)し上(あ)げました。王様(おうさま)もいゝ御機嫌(ごきげん)で、即座(そくざ)に時服(じふく)一重(ひとかさ)ねと黄金(おうごん)二千両(にせんりよう)とを取(と)り出(だ)して、ハサンに賜(たまは)つた上(うへ)、なほこの後(のち)は宮中(きゆうちゆう)の道化役(どうけやく)に召(め)しかゝへると云(い)ふお言葉(ことば)でございました。




   賢婦(けんぷ)ヅムルツドの話(はなし)

 昔(むかし)、クラーサンの国(くに)に、アリーといふ一人(ひとり)の若者(わかもの)がありました。アリーのうちは町(まち)でも相当(そうとう)大(おほ)きな商人(あきうど)でしたが、毎日(まいにち)遊(あそ)んでばかりゐた上(うへ)に、お金(かね)を湯水(ゆみづ)のように費(つか)つたものですから、しまひにはその日(ひ)/\のくらしにさへ困(こま)るようになりました。
 ある日(ひ)のこと、アリーは朝飯(あさめし)さへ食(た)べることも出来(でき)ないで、夕方(ゆふがた)近(ちか)くまでぼんやり考(かんが)へ込(こ)んでゐました。その時(とき)、妻(つま)のヅムルツドは箪笥(たんす)から一(ひと)つの財布(さいふ)を取(と)り出(だ)して、それを夫(をつと)の手(て)に渡(わた)しながら、
「大方(おほかた)こんなこともあらうかと思(おも)つて、私(わたし)は用心(ようじん)に少(すこ)しばかりお金(かね)をしまつて置(お)いたのですがね。けれども、これを費(つか)つてしまつたら、それこそ二人(ふたり)は餓(う)ゑ死(じ)にをしなければならないのですよ」と、云(い)ひました。
「あゝ、あり難(がた)い」と、アリーは嬉(うれ)し涙(なみだ)をこぼして云(い)ひました。「もう懲(こ)りたから、今度(こんど)といふ今度(こんど)は、決(けつ)して無駄使(むだづか)ひなぞはしないよ。私(わたし)もしみ/゛\後悔(こうかい)したからね」
「では、すぐに市場(いちば)へ行(い)つて、二人(ふたり)のために何(なに)か食(た)べ物(もの)を買(か)つて、それから残(のこ)つたお金(かね)でかあてんになるような絹(きぬ)のきれと、七色(なゝいろ)の絹糸(きぬいと)とを買(か)つて来(き)て下(くだ)さい」と、ヅムルツドは云(い)ひました。
 そこでアリーは早速(さつそく)市場(いちば)へ出(で)かけて、妻(つま)に云(い)はれた通(とほ)りの品々(しな/゛\)を買(か)つてまゐりました。そして、その夜(よ)は久(ひさ)しぶりに、おいしい御馳走(ごちそう)を二人(ふたり)で食(た)べました。
 さて、次(つ)ぎの朝(あさ)になると、ヅムルツドはその絹(きぬ)のきれに、七色(なゝいろ)の絹糸(きぬいと)で美(うつく)しい鳥獣(ちようじゆう)の形(かたち)を縫(ぬ)ひ取(と)りした上(うへ)、なほ金糸(きんし)や銀糸(ぎんし)でそれを飾(かざ)りました。かうして八日(やうか)の間(あひだ)に、それはそれは立派(りつぱ)なかあてんを仕(し)あげました。彼女(かのじよ)はそれを夫(をつと)の手(て)に渡(わた)しながら、
「さあ、これを市場(いちば)へ持(も)つて行(い)つて、銀(ぎん)の五十片(ごじゆうひら)で売(う)つて来(き)て下(くだ)さい。ですが、決(けつ)して通(とほ)りがゝりの人(ひと)なぞに売(う)つてはいけませんよ。それが二人(ふたり)の別(わか)れるもとになるかも知(し)れませんからね」と、云(い)ひました。
 アリーは何(なに)もかもヅムルツドの云(い)つた通(とほ)りにいたしました。その後(のち)、彼(かれ)は八日目毎(やうかめごと)に一(ひと)つづゝかあてんを妻(つま)の手(て)から受(う)け取(と)つて、それを市場(いちば)へ持(も)つて行(い)つて売(う)りました。そしてそのお金(かね)で何(なに)不自由(ふじゆう)なく暮(く)らすことが出来(でき)ました。
 かうして一年(いちねん)の月日(つきひ)は経(た)ちました。ある日(ひ)のこと、アリーはいつものようにかあてんを持(も)つて市場(いちば)へ出(で)かけて行(ゆ)きました。そしてそれを仲買(なかが)ひ人(にん)の手(て)に渡(わた)そうとしてゐると、そこへ一人(ひとり)の基督教徒(キリストきようと)がやつて来(き)て、それを銀(ぎん)の六十片(ろくじゆうひら)で売(う)つてくれないかと申(まを)しました。アリーはそれを断(ことわ)りました。が、基督教徒(キリストきようと)はだん/゛\金高(かねだか)を増(ま)して行(い)つて、しまひには銀(ぎん)の百片(ひやくひら)で買(か)はうと云(い)ひ出(だ)しました。百片(ひやくひら)と云(い)へば、何(なに)しろ今(いま)までの値段(ねだん)の倍(ばい)ですから、とうとうアリーも売(う)る気(き)になつてしまひました。そして、お金(かね)を受(う)け取(と)つてうちへ帰(かへ)つてまゐりました。ところが、例(れい)の基督教徒(キリストきようと)はどこまでも彼(かれ)の後(あと)をついて来(く)るぢやありませんか。アリーも「どうも変(へん)な男(をとこ)だな」と、思(おも)ひながら、振(ふ)り返(かへ)つて、
「どうしてあなたは私(わたし)の後(あと)からついて来(く)るんです」と、たづねて見(み)ました。
「いや、別(べつ)にあなたの後(あと)をついて来(き)たわけではない。たゞこの街(まち)の突(つ)き当(あた)りまで行(い)つて見(み)ようと思(おも)つてゐるんですがね。いづれにしても、あなたの御迷惑(ごめいわく)になるようなことはしませんよ」と、その基督教徒(キリストきようと)は答(こた)へました。そして、とう/\アリーのうちまでついて来(き)てしまひました。アリーも、変(へん)なことをする奴(やつ)だなと、少(すこ)し癪(しやく)に障(さは)つたので、
「一体(いつたい)、どこまでついて来(く)る気(き)です」と、相手(あひて)をどなりつけました。
 すると、基督教徒(キリストきようと)はぴよこ/\頭(あたま)を下(さ)げながら、
「いや、決(けつ)して悪気(わるぎ)があるわけぢやありませんがね、どうにも喉(のど)が渇(かわ)いてたまらないのですよ。後生(ごしよう)ですから水(みづ)を一杯(いつぱい)やつて下(くだ)さいな」と、あはれげに申(まを)しました。
 かう云(い)はれると、気(き)の弱(よわ)いアリーには断(ことわ)りきれないので、すぐに家(いへ)の中(なか)へはひつて、水(みづ)を一杯(いつぱい)持(も)つて来(き)てやりました。基督教徒(キリストきようと)は、そこに立(た)つたまゝ、さもうまそうに、ごくごくとそれを飲(の)み干(ほ)しましたが、
「いや、お蔭(かげ)さまで喉(のど)のかわきはとまりました。で、つけ上(あが)るようではございますが、何(なに)か少々(しよう/\)食(た)べる物(もの)をいたゞけないでせうか、こゝにお金(かね)がこれだけありますから」と、一片(ひとひら)の金貨(きんか)を取(と)り出(だ)して、
「これで何(なに)か見(み)つくろつて買(か)つて来(き)ていたゞきたいのですがね」と、云(い)ひ添(そ)へました。
 アリーも面倒(めんどう)だとは思(おも)ひましたが、おなかのすいてゐる人(ひと)を捨(す)てゝも置(お)けませんから、自分(じぶん)で駈(か)け出(だ)して行(い)つて、大急(おほいそ)ぎで五六品(ごろくしな)の食(た)べ物(もの)を買(か)つて来(き)ました。基督教徒(キリストきようと)はそれを見(み)ると、
「ずいぶん沢山(たくさん)ありますね。これぢや、十人(じゆうにん)で食(た)べても食(た)べきれませんよ。なんならあなたも御一(ごいつ)しよに召(め)し上(あが)つて下(くだ)さいませんか」
「いや、私(わたし)は沢山(たくさん)です」と、アリーは辞退(じたい)しました。けれども、
「まあ、さう云(い)はずに、おつきあひをして下(くだ)さいな」と、相手(あひて)は無理(むり)にすゝめるし、それに、まさかそんな悪(わる)いたくらみがあらうとは知(し)りませんから、とう/\そこに坐(すわ)つて一(いつ)しよに食(た)べることにしました。すると、基督教徒(キリストきようと)は、ばなゝの皮(かは)を剥(は)いで、それを二(ふた)つに折(を)つて、その間(あひだ)へそうつと麻酔剤(ますいざい)を塗(ぬ)りつけました。それから、そのばなゝをずぶりと蜂蜜(はちみつ)の中(なか)へ突(つ)き込(こ)んで、
「さあ、どうぞこれを召(め)し上(あが)つて下(くだ)さいな」と、云(い)つてすゝめました。せつかく、出(だ)されたものを食(た)べないのも悪(わる)いと思(おも)つたので、アリーは、云(い)はれるまゝに、それを取(と)つて食(た)べました。そして、そのばなゝが胃(い)の腑(ふ)へ落(お)ち着(つ)くか落(お)ち着(つ)かないに、そこへ打(ぶ)つ倒(たふ)れたまゝ正体(しようたい)もなく眠(ねむ)り込(こ)んでしまひました。
 それを見(み)た基督教徒(キリストきようと)は、アリーの腰(こし)から居間(ゐま)の鍵(かぎ)を奪(うば)ひ取(と)つて、一目散(いちもくさん)に自分(じぶん)の兄(あに)の家(いへ)へ駈(か)けつけました。この基督教徒(キリストきようと)はその名(な)を、バルスームと云(い)ひ、兄(あに)の名(な)はラシードと云(い)ひました。ところで、このラシードはかねてヅムルツドを奪(うば)ひ取(と)らうとして、弟(おとうと)を手先(てさき)に使(つか)つて、始終(しじゆう)附(つ)け狙(ねら)つてゐたのでございます。で、弟(おとうと)の報告(ほうこく)を聞(き)くと、非常(ひじよう)に喜(よろこ)んで、早速(さつそく)馬(うま)に跨(また)がつて、四五人(しごにん)の従者(じゆうしや)を引(ひ)き連(つ)れながら、アリーのうちへやつてまゐりました。そして、いきなりヅムルツドの部屋(へや)へ踏(ふ)み込(こ)んで、声(こゑ)を立(た)てると殺(ころ)すぞと威(おど)かして、むりやりに彼女(かのじよ)を引(ひ)つ立(た)てゝ行(ゆ)きました。
 一方(いつぽう)、アリーはそこに打(ぶ)つ倒(たふ)れたまゝ、次(つ)ぎの日(ひ)まで眠(ねむ)りつゞけました。そして、その日(ひ)も午近(ひるちか)い頃(ころ)になつて、やう/\正気(しようき)にかへりましたが、ヅムルツドの名(な)をよんで見(み)ても返事(へんじ)がない。びつくりして、うち中(じゆう)さがして見(み)ましたが、どこにも姿(すがた)は見当(みあた)りません。さてはあの基督教徒(キリストきようと)にしてやられたのだな、と、彼(かれ)はその時(とき)になつて始(はじ)めて気(き)がつきました。「ああ、飛(と)んだことになつたものだ、あんな奴(やつ)にかあてんを売(う)りさへしなかつたら、こんなことにはならずに済(す)んだものを」と、いくら後悔(こうかい)してももう及(およ)びません。彼(かれ)は泣(な)いたり、わめいたりしました。しまひには気狂(きちが)ひのようにとり乱(みだ)して、ヅムルツドの名(な)をよびながら、あてもなく町中(まちじゆう)を駈(か)けまはりました。が、ヅムルツドはその時分(じぶん)はもうラシードの家(いへ)の一間(ひとま)に押(お)し籠(こ)められてゐましたから、どうしたつてわかる筈(はず)がありません。で、日(ひ)の暮(く)れるまで歩(ある)きまはつた末(すゑ)、アリーは目(め)も当(あ)てられぬ程(ほど)しほれて、とぼ/\と自分(じぶん)のうちへ戻(もど)つてまゐりました。その様子(ようす)を見(み)て、隣(とな)りのお婆(ばあ)さんは非常(ひじよう)に心配(しんぱい)しながら、
「まあアリーさん、お前(まへ)さんは何(なに)をそんなにがつかりしてるんだね」と、親切(しんせつ)にたづねてくれました。
 そこでアリーは自分(じぶん)の家(いへ)に起(おこ)つた不幸(ふこう)をすつかりお婆(ばあ)さんにうちあけて話(はな)しました。すると、このお婆(ばあ)さんは、もと/\同情(どうじよう)にあつい女(をんな)でしたから、「をゝ、それは御心配(ごしんぱい)なことですねえ」と、しばらくは一(いつ)しよになつて泣(な)いてゐましたが、どうやら思(おも)ひついたことがあると見(み)えて、ちようと膝(ひざ)を打(う)ちながら、
「では、かうなさるとようござんすよ。これからすぐに市場(いちば)へ行(い)つて、金(きん)の編(あ)み籠(かご)を一(ひと)つ買(か)つた上(うへ)、その中(なか)へ腕輪(うでわ)だの、指輪(ゆびわ)だの、耳輪(みゝわ)だの、その外(ほか)女(をんな)の欲(ほ)しがるような装身具(そうしんぐ)を仕入(しい)れていらつしやい。さうしたら、私(わたし)が小間物屋(こまものや)になつて、それを頭(あたま)の上(うへ)に載(の)つけて方々(ほう/゛\)のうちを廻(まは)りながら、あの方(かた)を捜(さが)して来(き)て上(あ)げますからね」
 アリーは大(たい)そう喜(よろこ)んで、云(い)はれた通(とほ)りに、早速(さつそく)それ等(ら)の品々(しな/゛\)の用意(ようい)をいたしました。そこでお婆(ばあ)さんは、頭(あたま)の上(うへ)に編(あ)み籠(かご)を載(の)せたまゝ、路地(ろじ)から路地(ろじ)へと、隈(くま)なく町中(まちじゆう)を廻(まは)つて歩(ある)きました。そして、ある日(ひ)のこと、とう/\ラシードの家(いへ)の前(まへ)までやつてまゐりました。ところが、ふとその家(いへ)の中(なか)から悲(かな)しそうな声(こゑ)が聞(き)えて来(く)るのですね。「どうかすると、あれがヅムルツドさんかも知(し)れないよ」と、お婆(ばあ)さんはひとり心(こゝろ)にうなづきながら、その家(いへ)の戸口(とぐち)に近(ちか)づきました。そして、
「小間物(こまもの)を売(う)りに参(まゐ)りましたが、どうぞ一(ひと)つ買(か)つて下(くだ)さいましな」と、云(い)ひいれました。すると、そこにゐあはせた女(をんな)どもは、
「あゝ小間物屋(こまものや)さんかえ。とにかく見(み)せてごらんな」と、云(い)ひながら、お婆(ばあ)さんを家(いへ)の中(なか)へ連(つ)れ込(こ)みました。そして、そのぐるりに寄(よ)つてたかつて、あれを見(み)たりこれを見(み)たりしました。お婆(ばあ)さんの方(ほう)では、もと/\儲(もう)ける気(き)がないのですから、思(おも)ひきり値段(ねだん)を安(やす)くしました。そこで、女(をんな)どもはわれがちにそれを買(か)い取(と)りました。が、お婆(ばあ)さんは、さうしてゐるまも、どこからあんな泣(な)き声(ごゑ)が聞(き)こえて来(き)たかと、八方(はつぽう)に眼(め)を配(くば)つてゐました。ところがその部屋(へや)の隅(すみ)つこの方(ほう)に、厳重(げんじゆう)に手足(てあし)を縛(しば)られた一人(ひとり)の女(をんな)が、床(ゆか)の上(うへ)に突伏(つつぷ)したまゝ、しくしく泣(な)いてゐるではありませんか。よく見(み)ると、それがたづねるヅムルツドなのですね。お婆(ばあ)さんも思(おも)はずはつとしましたが、それとさとられないように、わざと平気(へいき)な顔(かほ)をしながら、
「まあ、可愛(かわい)そうに、この娘(むすめ)さんはどうしてこんな目(め)に遭(あ)つてるのです」と、たづねました。すると、一人(ひとり)の女(をんな)が、
「この女(ひと)が強情(ごうじよう)をはつて、どうしても旦那様(だんなさま)の云(い)ふことをきかないからよ。こんな目(め)に遭(あ)ふのも心柄(こゝろがら)ですわ」と、云(い)ひました。
「どんな悪(わる)いことをしたのかは知(し)りませんが、これではあんまり可愛(かわい)そうですね。私(わたし)がお願(ねが)ひしますから、どうぞこの娘(むすめ)の縄(なは)をといてやつて下(くだ)さいな。そして、旦那様(だんなさま)のお帰(かへ)りになる頃(ころ)、また元(もと)のように縛(しば)つて置(お)いたらいゝでせう」と、
 お婆(ばあ)さんは涙(なみだ)を流(なが)して頼(たの)みました。女(をんな)どももそれに動(うご)かされて、ヅムルツドの縄目(なはめ)をといてやりました。それからお婆(ばあ)さんは、他(ほか)の女(をんな)どもの気(き)がつかないように、そつとヅムルツドの傍(そば)へ近寄(ちかよ)つて、
「今夜(こんや)アリーさんがこゝへやつて来(き)て、塀(へい)の外(そと)に立(た)つて口笛(くちぶえ)を吹(ふ)くからね、さうしたらお前(まへ)さんの方(ほう)でも吹(ふ)き返(かへ)すのだよ。そして、すぐに窓(まど)から脱(ぬ)け出(だ)していらつしやいな」と、その耳(みゝ)に囁(さゝや)きました。
 かうして置(お)いて、お婆(ばあ)さんは急(いそ)いでアリーのもとへ帰(かへ)つてまゐりました。そして、ヅムルツドのありかが知(し)れたことから、今夜(こんや)連(つ)れ出(だ)すようにした手筈(てはず)まで、一々(いち/\)教(をし)へてやりました。アリーは夢(ゆめ)かとばかり喜(よろこ)びましたが、約束(やくそく)の時間(じかん)が来(く)るのを待(ま)ちきれないで、早(はや)くからラシードの家(いへ)へ出(で)かけて行(ゆ)きました。そして、塀(へい)の外(そと)の捨(す)て石(いし)に腰(こし)かけたまゝ、時間(じかん)がたつのを待(ま)つてゐましたが、何(なに)しろ毎日(まいにち)の心配(しんぱい)にひどく疲(つか)れてゐたものだからたまりません。ついそのまゝ、ぐつすりと眠(ねむ)つてしまひました。
 そのうちに、をり悪(あ)しく一人(ひとり)の泥棒(どろぼう)がこの横丁(よこちよう)へやつて来(き)ました。ちようどその時(とき)、ヅムルツドは窓(まど)のそばへ寄(よ)つて、そとを覗(のぞ)いて見(み)ましたが、暗闇(くらやみ)に立(た)つてゐる泥棒(どろぼう)の姿(すがた)を見(み)ててつきりアリーだと思(おも)ひ込(こ)んでしまひました。で、彼女(かのじよ)はいそ/\として合図(あひず)の口笛(くちぶえ)を吹(ふ)きならしました。すると、泥棒(どろぼう)の方(ほう)でもそれを吹(ふ)き返(かへ)しました。そこで、彼女(かのじよ)は用意(ようい)の縄(なは)を窓(まど)から垂(た)らして置(お)いて、それに縋(すが)るようにして、する/\と地面(じめん)の上(うへ)へ降(お)りて来(き)ました。ところが、下(した)に待(ま)ち受(う)けてゐたのは、その当時(とうじ)有名(ゆうめい)な大泥棒(おほどろぼう)のアーマツドを頭(かしら)とする四十人(しじゆうにん)の盗賊(とうぞく)の一人(ひとり)でしたからたまりません。いきなり彼女(かのじよ)を引(ひ)つかついだまゝ、どん/\町(まち)の外(そと)にある自分(じぶん)の洞穴(ほらあな)へ連(つ)れて来(き)てしまひました。そして、留守居(るすゐ)をしてゐたおばあさんにヅムルツドを預(あづ)けて置(お)いたまゝ、自分(じぶん)はまた他(ほか)に為事(しごと)があると云(い)つて、その夜(よ)のうちに再(ふたゝ)び町(まち)の中(なか)へ引(ひ)き返(かへ)しました。
 で、ヅムルツドは始終(しじゆう)そのお婆(ばあ)さんに見張(みは)られながら、どうかして泥棒(どろぼう)の帰(かへ)つて来(こ)ないうちにこゝを逃(に)げ出(だ)す工夫(くふう)はないものかと考(かんが)へてゐましたが、とう/\そのお婆(ばあ)さんに向(むか)つて、
「ねえ、お婆(ばあ)さま、あなたの髪(かみ)はずいぶん汚(よご)れてゐますわね。なんなら私(わたし)が梳(す)いて上(あ)げませうか」と、さも心(こゝろ)やすげに云(い)ひました。すると、お婆(ばあ)さんは大(たい)そう喜(よろこ)んで、
「さうかえ。では、一(ひと)つ梳(す)いて貰(もら)はうかね。わたしは長(なが)い間(あひだ)お湯(ゆ)へもはひらないのだから」と、云(い)ひました。
 そこでヅムルツドは、お婆(ばあ)さんと一(いつ)しよに洞穴(ほらあな)の外(そと)へ出(で)て、日向(ひなた)ぼつこをしながら、いつまでも髪(かみ)を梳(す)いてやつてゐました。そのうちに、お婆(ばあ)さんはいゝ気持(きもち)ちで、うとうと眠(ねむ)つてしまひました。それを見(み)て、ヅムルツドは、そつと洞穴(ほらあな)の中(なか)へ取(と)つて返(かへ)しながら、いづれどこからか盗(ぬす)んで来(き)たものでせうが、そこにあり合(あは)せた騎兵(きへい)の服(ふく)を取(と)つて身(み)に着(つ)け、腰(こし)には剣(けん)を吊(つ)つて、まるで男(をとこ)のように変装(へんそう)しました。それから、そこに繋(つな)いであつた馬(うま)に飛(と)び乗(の)つたまゝ、後(あと)をも見(み)ずに、どんどん逃(に)げ出(だ)しました。
 が、道(みち)に迷(まよ)つたものか、行(ゆ)けども/\元(もと)の町(まち)へは出(で)ませんでした。で、心配(しんぱい)しい/\、十日(とうか)の余(よ)も一人旅(ひとりたび)をつゞけてゐるうちに、ある朝(あさ)のこと、目(め)の前(まへ)に、見(み)るも快(こゝろよ)い、平和(へいわ)な都(みやこ)があらはれました。やがてその町(まち)の城門(じようもん)に近(ちか)づくと、そこには軍隊(ぐんたい)が屯(たむろ)して、多(おほ)くの貴族(きぞく)や侍従(じじゆう)どもが集(あつ)まつてゐました。そして、ヅムルツドの姿(すがた)を見(み)ると、一斉(いつせい)に馬(うま)から飛(と)び降(お)りて、
「国王陛下(こくおうへいか)万歳(ばんざい)」と、口々(くち/゛\)に唱(とな)へながら、彼女(かのじよ)を迎(むか)へました。
「一体(いつたい)あなた方(がた)はどうしたと云(い)ふのです。誰(だれ)が国王陛下(こくおうへいか)なのですか」と、彼女(かのじよ)はあきれてたづねました。
 すると、一人(ひとり)の侍従長(じじゆうちよう)がうや/\しく前(まへ)へ進(すゝ)んで、
「まあ、お聞(き)き下(くだ)さいませ」と、云(い)ひながら、次(つ)ぎのように答(こた)へました。「実(じつ)はこの都(みやこ)の掟(おきて)として、国王(こくおう)がおなくなりになつて、後(あと)にお世継(よつ)ぎのない場合(ばあひ)には、吾々(われ/\)一同(いちどう)かうして城門(じようもん)の外(そと)へ出(で)て、三日(みつか)の間(あひだ)こゝに待(ま)つてゐるのでございます。そして、只今(たゞいま)あなたがおいでになつた道(みち)から最初(さいしよ)にやつて来(き)た方(かた)に誰(だれ)でもよいから、国王(こくおう)の位(くらゐ)についていたゞくのでございます」
 だしぬけにこんなことを云(い)ひ出(だ)されて、さすがのヅムルツドも少々(しよう/\)面(めん)くらひましたが、なまじそれを断(ことわ)つて、こゝで自分(じぶん)が女(をんな)だといふことを見(み)あらはされてはよくないと思(おも)ひましたから、わざと落(お)ちつき払(はら)つて、
「なるほど、それでよくわかりました、私(わたし)も実(じつ)はある貴族(きぞく)の息(むすこ)で仔細(しさい)あつて、家(いへ)を捨(す)てゝ出(で)て来(き)たものですが、さう云(い)ふことなら、あなた方(がた)のお望(のぞ)みに任(まか)せませう」と、答(こた)へました。
 それを聞(き)いて、一同(いちどう)の者(もの)は大(たい)そう喜(よろこ)びました。そして、近衛兵(このえへい)にまはりを警護(けいご)させながら、直(たゞ)ちに宮殿(きゆうでん)へ案内(あんない)して、玉座(ぎよくざ)の上(うへ)にのぼらせました。まつたく夢(ゆめ)のような出世(しゆつせ)をしたものでございますね。
 かうして、早(はや)くも一年(いちねん)の月日(つきひ)が経(た)ちました。その間(あひだ)ヅムルツドは、人民(じんみん)の租税(そぜい)を軽(かる)くしたり、牢獄(ろうごく)に繋(つな)がれた囚人(しゆうじん)どもを放免(ほうめん)したり、その外(ほか)ありとあらゆる仁政(じんせい)を施(ほどこ)しました。ですから、人民(じんみん)の中(うち)誰(だれ)一人(ひとり)として、「なんといふ情深(なさけぶか)いお方(かた)だらう」と、有難(ありがた)がらないものはありませんでした。が、かうして人々(ひと/゛\)に慕(した)はれながらも、彼女(かのじよ)は決(けつ)して幸福(こうふく)ではありませんでした。心(こゝろ)の内(うち)では絶(た)えず「旦那様(だんなさま)はどうしてか、早(はや)くそのようすが知(し)りたいものだ」と、そればかりを考(かんが)へてゐました。そして、時(とき)のたつにつれて、だん/\忘(わす)れるどころか「もしや悪人(あくにん)の手(て)にかゝつて殺(ころ)されたのぢやないか知(し)ら」と、そんなとりこし苦労(ぐろう)までするようになりました。
 これを思(おも)ひ、あれを思(おも)ふにつけ、ヅムルツドはもうゐても立(た)つてもゐられません。そこで、ある日(ひ)のこと、宰相(さいしよう)や侍従(じじゆう)どもを召(め)し集(あつ)めて、宮殿(きゆうでん)の下(した)に広(ひろ)い馬場(ばゞ)を造(つく)るように命(めい)じました。彼等(かれら)は早速(さつそく)王様(おうさま)のいひつけに従(したが)つて工事(こうじ)に取(と)りかゝりました。そして、まもなく彼女(かのじよ)の望(のぞ)み通(どほ)りの馬場(ばゞ)が出来上(できあが)りました。すると、彼女(かのじよ)は再(ふたゝ)び命令(めいれい)を下(くだ)して、その馬場(ばゞ)の中(なか)に大(おほ)きなてんとを張(は)らせ、その中(なか)に幾列(いくれつ)にも長(なが)いていぶるを並(なら)べさせました。で、それがすつかり出来上(できあが)つた時(とき)、彼女(かのじよ)は宰相(さいしよう)に命(めい)じて次(つ)ぎのようなお布令(ふれ)を出(だ)させました。
「毎月(まいげつ)朔日(ついたち)には国王(こくおう)の大盤振(おほばんぶ)る舞(ま)ひがあるから、住民(じゆうみん)は一(いつ)さい店(みせ)を開(ひら)いてはならない。そして、この町(まち)にゐ合(あは)せたものは、たとひ通(とほ)りがゝりの旅人(たびゞと)でも、一人(ひとり)残(のこ)らず宮殿(きゆうでん)の馬場(ばゞ)へ参集(さんしゆう)して、その宴席(えんせき)に列(つら)なるべきである。もしこの命令(めいれい)に背(そむ)くものがあれば、たちどころに死刑(しけい)に処(しよ)せられるであらう」と、まつたく、面白(おもしろ)いお布令(ふれ)が出(で)たものですね。
 で、その当日(とうじつ)になると、人々(ひと/゛\)は後(あと)から後(あと)からと広場(ひろば)に詰(つ)めかけました。そして、一同(いちどう)食卓(しよくたく)についた上(うへ)、腹一杯(はらいつぱい)王様(おうさま)の御馳走(ごちそう)を食(た)べました。その間(あひだ)、彼女(かのじよ)はてんとの中(なか)の玉座(ぎよくざ)に就(つ)いたまゝ、じつと人民(じんみん)どもの様子(ようす)を見(み)てゐられました。かうしてヅムルツドは、もしやアリーの消息(しようそく)を知(し)ることが出来(でき)まいかと、そればかり気(き)をつけてゐたのでございます。
 さて明(あ)くる月(つき)の朔日(ついたち)になると、ヅムルツドは又(また)もや馬場(ばゞ)へ降(お)りて来(き)て、そこに集(あつ)まつた人々(ひと/゛\)に向(むか)つて、遠慮(えんりよ)なく食(た)べるように命(めい)じました。が、まもなく、後(おく)れて来(き)た二三(にさん)の人人(ひとびと)の中(なか)にかの基督教徒(キリストきようと)バルスームの姿(すがた)を見(み)つけました。バルスームはしばらく人々(ひと/゛\)の間(あひだ)に坐(すわ)つてゐましたが、やゝ離(はな)れたていぶるの上(うへ)にうまい米(こめ)の飯(めし)の皿(さら)があるのを見(み)て、手(て)を伸(の)ばして、それを自分(じぶん)の前(まへ)に引(ひ)き寄(よ)せようとしました。そのとたんに、ヅムルツドは二三(にさん)の兵士(へいし)に命(めい)じて、直(たゞ)ちにその男(をとこ)を引(ひ)つ捕(とら)へさせた上(うへ)、自分(じぶん)の面前(めんぜん)に連(つ)れて来(こ)させました。そして、
「お前(まへ)の名(な)はなんと云(い)ふか、又(また)お前(まへ)は何(なに)しにこの国(くに)へやつて来(き)たのだ」と、たづねました。
 すると、バルスームは、何(なに)かといゝかげんな嘘(うそ)ばかりついて、容易(ようい)に実(じつ)を吐(は)かうとはしませんでした。が、王様(おうさま)の方(ほう)では、とうに、彼(かれ)が何者(なにもの)であるかを知(し)つてゐるのだからたまりません。しばらくの間(あひだ)じつとバルスームの顔(かほ)を見(み)つめてゐられましたが、やがて一(いつ)そう声(こゑ)を張(は)り上(あ)げながら、
「この狗(いぬ)め。国王(こくおう)に向(むか)つて嘘(うそ)をつくとは何事(なにごと)だ。お前(まへ)はバルスームといふ基督教徒(キリストきようと)で、誰(だれ)かを捜(さが)しにこの国(くに)へやつて来(き)たのであらうがな」と、云(い)はれました。
 それを聞(き)くと、バルスームは真青(まつさを)になつて、わな/\顫(ふる)へながら、
「御免下(ごめんくだ)さい、私(わたくし)はたしかに基督教徒(キリストきようと)に相違(そうい)ござりませぬ。どうぞ命(いのち)ばかりはお助(たす)け下(くだ)さいませ」と、地面(じべた)に頭(あたま)をすりつけて願(ねが)ひました。が、さんざ悪(わる)いことをして置(お)いて、今更(いまさら)そんなことを云(い)つても仕方(しかた)がありません。とう/\馬場(ばゞ)の外(そと)に引(ひ)き出(い)だされて、その場(ば)に首(くび)を刎(は)ねられてしまひました。
 やがて第三回目(だいさんかいめ)の饗宴(きようえん)の日(ひ)がまゐりました。なんにも知(し)らない町(まち)の人達(ひとたち)は、「皆(みな)さん、うまい米(こめ)の飯(めし)の皿(さら)へは近寄(ちかよ)らないがようござんすよ。うつかり手(て)を出(だ)したが最後(さいご)、すぐに首(くび)を刎(は)ねられてしまひますからね」と、こそ/\云(い)ひ合(あ)ひながら、誰(だれ)一人(ひとり)米(こめ)の飯(めし)の前(まへ)へ坐(すわ)る者(もの)はありませんでした。ところが、又(また)もやそこへ一人(ひとり)後(おく)れて来(き)た男(をとこ)がありました。それはヅムルツドを引(ひ)つさらつて逃(に)げた、例(れい)の泥坊(どろぼう)でございました。他(ほか)にあいた席(せき)がなかつたので、ちようどその米(こめ)の飯(めし)の皿(さら)の前(まへ)へ坐(すわ)ることになりましたが、いきなりそれを手(て)に掴(つか)んだまゝ、さも饑(かつ)ゑてゐたように、がつ/\食(く)ひ始(はじ)めました。はたの者(もの)はたゞあつ気(け)に取(と)られて見(み)てゐました。ヅムルツドもとうからその様子(ようす)に目(め)をつけてゐましたが、泥坊(どろぼう)が二口目(ふたくちめ)を掴(つか)んで口(くち)に入(い)れようとした時(とき)、うしろに立(た)つてゐた兵士(へいし)どもを振(ふ)り返(かへ)つて、
「すぐにあいつをこゝへ引(ひ)つぱつて来(こ)い、手(て)に持(も)つたあの一口(ひとくち)も無事(ぶじ)に食(た)べさせてはならんぞ」と、いひつけました。
 そこで兵士(へいし)どもは、すばやく泥坊(どろぼう)のそばへ駈(か)け寄(よ)つて、むづとその手(て)を掴(つか)んだまゝ、王様(おうさま)の御前(ごぜん)へ引(ひ)つ立(た)てました。するとヅムルツドは前(まへ)と同(おな)じように、
「その方(ほう)の名(な)はなんと云(い)ふか、またなんしにこの国(くに)へやつて来(き)たのか」と、たづねました。
「はい、私(わたくし)はオスマーンといふ園丁(えんてい)でございます。この都(みやこ)へは、少々(しよう/\)捜(さが)すものがあつて参(まゐ)りました」と、この男(をとこ)もいゝかげんな嘘(うそ)を申(まを)し立(た)てました。
 ヅムルツドは大(おほ)きな声(こゑ)を挙(あ)げながら、
「をゝ、この悪者(わるもの)め。国王(こくおう)に向(むか)つて嘘(うそ)をつくとは何事(なにごと)だ。お前(まへ)はマーリツドの手下(てした)でジヤーワンといふ盗賊(とうぞく)に相違(そうい)あるまい。どうだ、正直(しようじき)のことを申(まを)せ。でないと、即座(そくざ)にお前(まへ)の首(くび)を刎(は)ねてしまふぞ」と、叱(しか)りつけました。
 それを聞(き)いて泥坊(どろぼう)は、本当(ほんとう)のことを申(まを)し上(あ)げたら、或(ある)ひは命(いのち)が助(たす)かるかも知(し)れないと思(おも)ひましたので、
「恐(おそ)れ入(い)りました。まことにおつしやる通(とほ)りでございます。ですが、今後(こんご)は心(こゝろ)を改(あらた)めて決(けつ)して悪(わる)いことは致(いた)しませんから、どうぞお許(ゆる)し下(くだ)さいませ」と、願(ねが)ひました。
 ヅムルツドは、傍(かたはら)の兵士(へいし)に向(むか)つて、
「この男(をとこ)を連(つ)れていつて、直(ただ)ちに首(くび)を刎(は)ねよ」と、いひつけました。
 かうして、泥坊(どろぼう)も、バルスームもとう/\殺(ころ)されてしまひました。ところで、バルスームの兄(あに)のラシードは、今(いま)にも弟(おとうと)がヅムルツドの行方(ゆくへ)を捜(さが)し出(だ)して来(く)るかと、毎日(まいにち)待(ま)ち暮(く)らしてゐました。が、いくら待(ま)つても弟(おとうと)の消息(しようそく)がわからないので、しまひには待(ま)ちきれなくなつて、自分(じぶん)で彼女(かのじよ)の行方(ゆくへ)を捜(さが)しに出(で)ました。そして、方々(ほう/゛\)の国(くに)を捜(さが)しまはつてゐるうちに、彼(かれ)もまたヅムルツドの都(みやこ)へやつて来(き)ました。不思議(ふしぎ)なことには、その日(ひ)がまた月(つき)の第一日(だいいちにち)で、ラシードが町(まち)へはひつて見(み)ると、広(ひろ)い大通(おほどほ)りもがらんとして人(ひと)つ子(こ)一人(ひとり)通(とほ)らず、どこの店(みせ)も閉(しま)つて、たゞ窓(まど)から女(をんな)どもが覗(のぞ)いてゐるだけでございました。で、彼(かれ)も不審(ふしん)に思(おも)つて、一人(ひとり)の女(をんな)にそのわけをたづねて見(み)ました。すると、その女(をんな)は、「町(まち)の衆(しゆう)はみんな王様(おうさま)の御招待(ごしようたい)にあづかつて、一人(ひとり)残(のこ)らず御殿(ごてん)の下(した)のお馬場(ばゞ)へ行(い)つてゐるんですわ。今頃(いまごろ)はちようどいろんな御馳走(ごちそう)が出(で)てゐる時分(じぶん)でせうよ。なんならあなたもいらつしやいませんか。誰(だれ)が行(い)つても構(かま)ひませんのよ」と、親切(しんせつ)に馬場(ばゞ)へ出(で)る道筋(みちすぢ)まで教(をし)へてくれました。
 ラシードは云(い)はれるまゝに馬場(ばゞ)へ出(で)かけて見(み)ました。が、それがそも/\運(うん)のつきで、たちまちヅムルツドの眼(め)にとまつたからたまりません。弟(おとうと)のバルスームと同(おな)じように、その場(ば)で首(くび)を刎(は)ねられてしまひました。
 ところで、あの夜(よ)ラシードの塀(へい)の外(そと)で眠(ねむ)つてしまつたアリーはどうしたかと云(い)ふと、あれからしばらくたつて眼(め)をさましましたが、約束(やくそく)の時間(じかん)はとうに過(す)ぎてしまつてゐたので、本当(ほんとう)にびつくりしてしまひました。それでも、彼(かれ)はあわてゝ合図(あひず)の口笛(くちぶえ)を吹(ふ)いて見(み)ました。が、それがなんになりませう。彼(かれ)はとう/\泣(な)き/\うちへ戻(もど)つて来(き)て、例(れい)のお婆(ばあ)さんにどうしたものだろうと相談(そうだん)しました。お婆(ばあ)さんもそれには呆(あき)れ返(かへ)つて、
「実際(じつさい)、お前(まへ)さんにも呆(あき)れますね。それぢや、まるで自分(じぶん)から災難(さいなん)をこしらへてゐるようなものぢやありませんか」と、さん/゛\に彼(かれ)を責(せ)めました。
 さう云(い)はれると、アリーは一(いつ)そうたまらなくなつてとう/\気(き)を失(うしな)つて倒(たふ)れてしまひました。そして、それがもとでわづらひついて、永(なが)い間(あひだ)枕(まくら)が上(あが)りませんでした。で、もしあのお婆(ばあ)さんがなかつたら、それなりに死(し)んでしまつたかも知(し)れません。でも、お婆(ばあ)さんが親切(しんせつ)に看病(かんびよう)をしてくれたお蔭(かげ)で、一年(いちねん)の後(のち)にはどうやら起(お)きてそこらを歩(ある)けるようになりました。その時(とき)、お姿(ばあ)さんはアリーに向(むか)つて、
「さあ、あなたもしつかりなさいな。そして、まはりの国々(くに/゛\)を廻(めぐ)つて、ヅムルツドの行方(ゆくへ)を捜(さが)していらつしやい。ヅムルツドさへ戻(もど)れば、お前(まへ)さんの病気(びようき)はひとりでによくなるのだからね」と、云(い)ひました。
 アリーもその言葉(ことば)に励(はげ)まされて、いよ/\ヅムルツドを捜(さが)しに出(で)かけました。そして、諸国(しよこく)を廻(まは)り廻(まは)つてゐる間(あひだ)に、とう/\ヅムルツドの都(みやこ)へ到着(とうちやく)しました。まもなく新(あたら)しい月(つき)の最初(さいしよ)の日(ひ)がめぐつて来(き)ましたが、その日(ひ)も午近(ひるちか)くなると、町(まち)の人々(ひと/゛\)は参々伍々(さん/\ごゞ)うち連(つ)れ立(だ)つて宮殿(きゆうでん)の広場(ひろば)へ押(お)しかけました。アリーも物珍(ものめづ)らしそうに後(あと)からついてまゐりましたが、かの馬場(ばゞ)へはひつた時(とき)には、もうどのていぶるも一杯(いつぱい)で、たつた一(ひと)つ、例(れい)のうまい米(こめ)の飯(めし)の載(の)つてゐる席(せき)だけがあいてをりました。アリーは、どうしてそれがあいてゐるのか知(し)る筈(はず)もありませんから、別(べつ)に訝(いぶ)かりもしないで、そこに腰(こし)をおろしました。が、いよいよ手(て)を伸(の)ばしてその米(こめ)の飯(めし)を食(た)べようとすると、隣(とな)りにゐた一人(ひとり)の男(をとこ)があわてゝおしとめながら、
「あゝ、その皿(さら)のものを食(た)べたら大変(たいへん)ですよ。それこそ命(いのち)がありませんからね」と、かう云(い)つて注意(ちゆうい)しました。
 が、アリーは、ちよつと振(ふ)り返(かへ)つたまゝ、
「いや、御親切(ごしんせつ)にさう云(い)つて下(くだ)さるのはあり難(がた)いが、構(かま)はず食(た)べさせて下(くだ)さい。で、そのために罰(ばつ)せられるようなら、どんな罰(ばつ)でも受(う)けませうよ。どうせ私(わたし)はもうこの世(よ)に用(よう)のない体(からだ)ですからね」と、平気(へいき)でそれを食(た)べ始(はじ)めました。
 この有様(ありさま)を見(み)た人々(ひと/゛\)は、今(いま)にどうなることかと、それにばかり気(き)を取(と)られてをりました。すると、そこへ二三(にさん)の兵士(へいし)がつか/\と近(ちか)づいてまゐりました。そして、頭(あたま)の上(うへ)から覗(のぞ)き込(こ)むようにしながら、
「甚(はなは)だ恐(おそ)れ入(い)りますが、たゞいま国王(こくおう)がお召(め)しでございますから、どうぞ御前(ごぜん)までいらしつて下(くだ)さいませ」と、云(い)ひました。
 アリーはすぐさま立(た)ち上(あが)つて、兵士(へいし)どもの後(あと)について行(ゆ)きました。人々(ひと/゛\)は彼(かれ)の後姿(うしろすがた)を見送(みおく)りながら、「可愛(かわい)そうに、とう/\あの人(ひと)も首(くび)を刎(は)ねられるんだね」と、こそ/\囁(さゝや)き合(あ)ひました。が、ヅムルツドは鄭重(ていちよう)に彼(かれ)を迎(むか)へて、
「お前(まへ)さんの名(な)はなんと云(い)つて、何(なに)を職業(しよくぎよう)にしてゐるのか。又(また)、こゝへはどう云(い)ふわけでやつて来(き)たのか」と、たづねました。
 アリーはもちろん、相手(あひて)が自分(じぶん)の妻(つま)だとは知(し)りませんから、
「私(わたくし)は名(な)をアリーと申(まを)しまして、クラーサンの生(うま)れのものでございます。そして、行方(ゆくへ)のわからぬ妻(つま)を捜(さが)しに、かうしてはる/゛\やつて参(まゐ)つたのでございます」と、答(こた)へました。が、さう云(い)ふ間(ま)も、眼(め)からぼろ/\涙(なみだ)をこぼしながら、しまひにはとう/\そこへ泣(な)き崩(くづ)れてしまひました。
 それを聞(き)いて、国王(こくおう)ヅムルツドは自分(じぶん)も涙(なみだ)に咽(むせ)びながら、
「いや、よく正直(しようじき)に申(まを)し立(た)てた。神様(かみさま)はお前(まへ)のその心(こゝろ)に愛(め)でゝ、きつと尋(たづ)ねる妻(つま)に逢(あ)はせて下(くだ)さるぞ。何事(なにごと)ももう心配(しんぱい)することはない」と、云(い)ひました。それからアリーを立派(りつぱ)な馬(うま)に乗(の)せて、自分(じぶん)も一(いつ)しよに宮殿(きゆうでん)へ帰(かへ)つて行(ゆ)きました。そして、アリーを自分(じぶん)の部屋(へや)に案内(あんない)して、
「あなたはまだ私(わたし)が誰(だれ)だかおわかりにならないの」と、あまりの嬉(うれ)しさに胸(むね)を躍(をど)らせながらたづねました。
「あなたは、いや、あなた様(さま)は、この国(くに)の国王(こくおう)でいらせられます」と、アリーはおど/\しながら答(こた)へました。
「いゝえ違(ちが)ひます、違(ちが)ひます。わたしはあなたの妻(つま)のヅムルツドですよ」と、手(て)をとりました。
「えゝつ」と、アリーは驚(おどろ)きの声(こゑ)を放(はな)つたまゝ、しばらくは何(なに)が何(なに)やらわかりませんでした。が、いよ/\それがヅムルツドに相違(そうい)ないと知(し)つた時(とき)は、まるで気狂(きちが)ひのようになつて喜(よろこ)びました。
 その翌日(よくじつ)ヅムルツドは、宰相(さいしよう)や侍従(じじゆう)どもを召(め)し集(あつ)めて、直(たゞ)ちに国王(こくおう)の代(かは)りを立(た)てるように命(めい)じました。そして、自分(じぶん)はアリーと一(いつ)しよに、手(て)に手(て)を取(と)つて、二人(ふたり)の生(うま)れ故郷(こきよう)なるクラーサンの国(くに)に向(むか)つて旅立(たびだ)ちました。




   馬(うま)どろぼう

 町(まち)はづれの野路(のみち)を、一人(ひとり)の百姓(ひやくしよう)が驢馬(ろば)をひいて歩(ある)いてゐました。町(まち)へ荷物(にもつ)でも積(つ)んで行(い)つたかへりと見(み)えて、手綱(たづな)を長(なが)くして、後手(うしろで)にその端(はし)を握(にぎ)つたまゝ、ぶらり/\とのんきそうに歩(ある)いて行(ゆ)くのでございます。それを二人(ふたり)の悪(わる)ものが見(み)てゐました。そして、一人(ひとり)がもう一人(ひとり)の悪(わる)ものに向(むか)つて、
「どうだい、おれがあの男(をとこ)の驢馬(ろば)をとつて見(み)せようか」と、申(まを)しました。
「そいつは面白(おもしろ)いね。だが、どうしてとるんだい」と、相手(あひて)は聞(き)き返(かへ)しました。
「まあ細工(さいく)はりゆう/\仕上(しあ)げをごらうじろだ」と、云(い)ひながら、その男(をとこ)はずん/\驢馬(ろば)をひいた百姓(ひやくしよう)の方(ほう)へ駈(か)けて行(ゆ)きました。そしてそつと驢馬(ろば)のおもがいをはづして、それを自分(じぶん)の頸(くび)のまはりに結(ゆは)ひつけました。そして、その驢馬(ろば)は傍(そば)へ来(き)たもう一人(ひとり)の悪(わる)ものに渡(わた)してやつてしまひました。その間(あひだ)驢馬(ろば)をひいてゐた百姓(ひやくしよう)は、そんなことゝはまるで知(し)らずにゐたのでございます。
 で、驢馬(ろば)を受(う)け取(と)つたもう一人(ひとり)の悪(わる)ものゝ姿(すがた)がそこいらに見(み)えなくなつた時(とき)、頸(くび)におもがいを結(ゆは)ひつけた方(ほう)の悪(わる)ものは、急(きゆう)に道(みち)の真中(まんなか)に立(た)ちどまつたまゝ、動(うご)かなくなつてしまひました。百姓(ひやくしよう)は向(むか)うを向(む)いたなりで、
「はい/\、どう/\」と、云(い)ひ/\、一二度(いちにど)強(つよ)く手綱(たづな)を引(ひ)つ張(ぱ)つて見(み)ました。が、どうしてもついて来(こ)ないので、
「この業(ごう)つくばりめが、又(また)ふて出(だ)しやあがつたな」と、云(い)ひながら、始(はじ)めてうしろを振(ふ)り返(かへ)つて見(み)ました。ところが、そこには、ぼう/\と鬚(ひげ)がのびて眼(め)のぎよろりとした男(をとこ)が、頸(くび)のまはりにおもがいを掛(か)けたまゝぼんやり立(た)つてゐるではありませんか。百姓(ひやくしよう)はびつくりして、たじ/\と後(うしろ)へさがりながら、もう少(すこ)しであをのけに倒(たふ)れそうになりました。が、やうやく踏(ふ)みとゞまつて、
「お前(まへ)は何者(なにもの)だ」と、おづ/\声(こゑ)をかけて見(み)ました。
「はい、私(わたし)はあなた様(さま)の驢馬(ろば)でございます」と、悪(わる)ものは殊勝(しゆしよう)らしく返事(へんじ)をいたしました。
「驢馬(ろば)だ」と、百姓(ひやくしよう)はいよ/\あきれ返(かへ)りました。
「はい、驢馬(ろば)に相違(そうい)ござりませぬ。が、どうかまあその仔細(しさい)を一通(ひととほ)り聞(き)いて下(くだ)さいませ」
 かう云(い)つて、悪(わる)ものはいかにもしほ/\とした様子(ようす)をしながら、その身(み)の上話(うへばなし)とやらを始(はじ)めました。
「何(なに)を隠(かく)さう、私(わたし)はこゝから五里程先(ごりほどさき)のある港町(みなとまち)の小商人(こあきんど)の伜(せがれ)に生(うま)れたものでございます。おやぢが死(し)んでから母親(はゝおや)の手(て)一(ひと)つで育(そだ)てられましたが、生(うま)れついての極道(ごくどう)で、自分(じぶん)が稼(かせ)いだゞけはみんな酒代(さかて)にかへるばかりか、しまひにはありもせぬうちの諸道具(しよどうぐ)まで持(も)ち出(だ)した上(うへ)、それでもまだ足(た)りんで、或日(あるひ)酔(よ)つぱらつてうちへ戻(もど)つて来(き)た時(とき)、年寄(としよ)りの臍(へそ)くりを出(だ)さないと云(い)つて、母親(はゝおや)をぼん/\殴(なぐ)つたり蹴(け)つたりいたしました。母親(はゝおや)はひい/\泣(な)きながら、『どうかこの乱暴者(らんぼうもの)の手(て)からわたしを救(すく)つて下(くだ)さいませ』と、神様(かみさま)にお願(ねが)ひをかけました。日頃(ひごろ)信心深(しんじんぶか)い母親(はゝおや)のことですから、神様(かみさま)もその願(ねが)ひをお聞(き)きになると、立(た)ちどころに私(わたし)をあのような驢馬(ろば)の姿(すがた)に変(か)へておしまひなされたのでございます。私(わたし)はそれから廻(まは)り廻(まは)つてあなた様(さま)のところへ売(う)られてまゐりました。そして、ずつと、あなた様(さま)の厩(うまや)で働(はたら)いてゐましたが、今日(けふ)はどうしたのやら母親(はゝおや)が私(わたし)のことを思(おも)ひ出(だ)して「あのような不孝(ふこう)な奴(やつ)でも子(こ)どもはやつぱり可愛(かわ)いうございます。どうかもう一度(いちど)あの子(こ)に会(あ)はせて下(くだ)さいませ』と、かう神様(かみさま)にお願(ねが)ひをかけてくれました。その願(ねが)ひが聞(き)き入(い)れられたと見(み)えて、私(わたし)はかうして急(きゆう)にもとの姿(すがた)に立(た)ちかへつたのでございます」
 だん/\の話(はなし)を聞(き)いて、百姓(ひやくしよう)はいよ/\あきれ返(かへ)つてしまひました。そして、知(し)らぬことゝは云(い)ひながら、これまで自分(じぶん)と同(おな)じ人間(にんげん)を縄(なは)でしばつて、あつちこつち引(ひ)き廻(まは)したり、田圃(たんぼ)や畑(はたけ)で没義道(もぎどう)にこき使(つか)つたりしたことを思(おも)ふと、空恐(そらおそ)ろしいような気(き)がして、自分(じぶん)の後生(ごしよう)の程(ほど)も案(あん)じられて来(き)ました。で、今(いま)までのことは水(みづ)に流(なが)してくれと、さん/゛\にあやまつた上(うへ)、一刻(いつこく)も早(はや)く母親(はゝおや)に顔(かほ)を見(み)せて安心(あんしん)させたがよからうと云(い)つて、その場(ば)からすぐにその男(をとこ)を放(はな)してやりました。泥棒(どろぼう)は赤(あか)い舌(した)をぺろりと出(だ)しながら、いづこともなく逃(に)げ去(さ)つてしまひました。
 百姓(ひやくしよう)はそれからもなほ考(かんが)へに沈(しづ)みながら、手(て)ぶらでぼんやり自分(じぶん)のうちへ帰(かへ)つて参(まゐ)りました。おかみさんは亭主(ていしゆ)の浮(う)かぬ顔(かほ)を見(み)ると、
「まあ、どうなすつたのです。それに驢馬(ろば)もつれないでさ」と、心配(しんぱい)そうにたづねました。
「お前(まへ)は驢馬(ろば)のことをちつとも気(き)がつかなかつたのかい」と、百姓(ひやくしよう)は逆(ぎやく)に聞(き)き返(かへ)しました。──
「気(き)がつかなかつたとは、そりやなんのことよ」
「うむ、気(き)がついてゐなけりや話(はな)して聞(き)かせるがね」
 かう云(い)つて、百姓(ひやくしよう)は途中(とちゆう)で自分(じぶん)と驢馬(ろば)との間(あひだ)に起(おこ)つた出来事(できごと)を始(はじ)めから終(しま)ひまで話(はな)して聞(き)かせました。それを聞(き)くと、おかみさんも顔色(かほいろ)をかへて、
「まあ、それでもよく私(わたし)たちに罰(ばち)が当(あた)らなかつたものだわねえ──人間(にんげん)に藁(わら)を食(く)はせておいたり、鞭(むち)で引(ひ)つぱたいたりして追(お)ひ使(つか)つてさ」
「ほんとになあ」
 それから二人(ふたり)は天(てん)のお許(ゆる)しを仰(あふ)ぐために、長(なが)い間(あひだ)神様(かみさま)の前(まへ)で祈(いの)つた上(うへ)、乞食(こじき)どもに沢山(たくさん)ほどこしをいたしました。
 が、亭主(ていしゆ)はそれからも家(いへ)に引(ひ)き籠(こも)つたまゝ、毎日(まいにち)為事(しごと)もせずにぶら/\遊(あそ)んでばかりゐますので、おかみさんはとう/\たまりかねたと見(み)えて、ある日(ひ)次(つ)ぎのように云(い)ひ出(だ)しました。──
「あなたもまあ、いつまで考(かんが)へ込(こ)んでばかりゐるんですよ。明日(あした)は町(まち)に馬(うま)の市(いち)が立(た)つそうだから、代(かは)りの驢馬(ろば)でも買(か)ひに行(い)つて、一日(いちにち)も早(はや)く為事(しごと)に取(と)りかゝつて下(くだ)さいな」
「それもさうだな」
 かう云(い)つて亭主(ていしゆ)は、やつと尻(しり)を持(も)ち上(あ)げました。そして、次(つ)ぎの朝(あさ)早(はや)く馬(うま)の市(いち)へ出(で)かけて、だん/\見(み)て行(ゆ)くうちに、ふと以前(いぜん)自分(じぶん)のうちで飼(か)つてゐた驢馬(ろば)が眼(め)にとまりました。
 彼(かれ)はぎくりとして、その前(まへ)に立(た)ちどまりました。それから、あたりに人(ひと)のゐないのを見(み)すまして、その馬(うま)の耳(みゝ)のはたに口(くち)を寄(よ)せながら、そつとさゝやきました。──
「貴様(きさま)はまた親不孝(おやふこう)をして、二度(にど)までこんな姿(すがた)になりをつたな。だが、もうあかんぞ。おれはもう二度(にど)と再(ふたゝ)び貴様(きさま)のような奴(やつ)を買(か)つてはやらんからな」
 そして、後(あと)をも見(み)ずにどん/\自分(じぶん)のうちへ帰(かへ)つて来(き)てしまひました。




   エス・シンヂバードの航海譚(こうかいだん)

      動(うご)く島(しま)の話(はなし)

 皆(みな)さん、私(わたし)はもとこのバグダツドの都(みやこ)でも第一流(だいいちりゆう)の商人(あきうど)の息(むすこ)に生(うま)れて、あり余(あま)る財産(ざいさん)を両親(りようしん)から譲(ゆづ)られましたが、おいしい物(もの)を食(た)べたり、いゝ酒(さけ)を飲(の)んだり、悪(わる)い友達(ともだち)と交(まじ)はつたりして、湯水(ゆみづ)のようにお金(かね)を使(つか)つてしまひました、で、やつと気(き)がついた時(とき)には、私(わたし)の持(も)つてゐたお金(かね)はもうすつかりなくなつてゐました。かうなつては、いくら後悔(こうかい)しても追(お)つつきません。そこで私(わたし)も覚悟(かくご)をきめて、いくつかの建(た)て物(もの)と、まだ自分(じぶん)の手(て)に残(のこ)つてゐた衣裳(いしよう)や諸道具(しよどうぐ)を一切(いつさい)売(う)り払(はら)つてしまひました。そして、手(て)に入(い)つたお金(かね)を元手(もとで)に何(なに)か一儲(ひとまう)けしようと、いろ/\考(かんが)へた末(すゑ)、ふと思(おも)ひついたのは、貿易商(ぼうえきしよう)の仲間入(なかまい)りをして外国(がいこく)へ旅行(りよこう)することでございました。で、さう決心(けつしん)すると、私(わたし)はすぐにいろんな商品(しようひん)だの、貨物(かもつ)だのを、旅行(りよこう)に必要(ひつよう)な品々(しな/゛\)と一(いつ)しよに買(か)ひ集(あつ)めて、それを携(たづさ)へたまゝ、一艘(いつそう)の商船(しようせん)に乗(の)り込(こ)みました。
 やがてその船(ふね)は商人(あきうど)の一隊(いつたい)を乗(の)せたまゝ、エル・パスラーの都(みやこ)へつきました。それから私(わたし)どもは、来(く)る日(ひ)も/\海(うみ)を乗(の)つきつて進(すゝ)みました。そして、到(いた)るところで売(う)つたり、買(か)つたり、商品(しようひん)の交換(こうかん)をしたりしました。で、かうして日夜(にちや)航海(こうかい)を続(つゞ)けてゐる間(あひだ)に、私(わたし)どもはとう/\極楽(ごくらく)の園(その)でもあるような美(うつく)しい島(しま)へ着(つ)きました。船長(せんちよう)はそこへ船(ふね)を横(よこ)づけにして桟橋(さんばし)を渡(わた)しました。船中(せんちゆう)にゐた者(もの)どもは、一人(ひとり)残(のこ)らずその島(しま)へ上陸(じようりく)しました。そして、竃(かま)を据(す)ゑて火(ひ)を焚(た)く者(もの)もあれば、料理(りようり)をするものもある。又(また)きれいな水(みづ)で洗濯(せんたく)をする者(もの)もありました。が、私(わたし)は他(ほか)の人達(ひとたち)と一(いつ)しよに珍(めづら)しい海岸(かいがん)の景色(けしき)を見(み)て廻(まは)りました.その後(のち)、船客(せんきやく)どもはみんな一(いつ)しよになつて、食(く)つたり、飲(の)んだり、騒(さわ)いだりしてゐました。ところが、どうでせう、そのうちにこの大(おほ)きな島(しま)がゆら/\と動(うご)き出(だ)したではございませんか。見(み)ると、船長(せんちよう)は舷(ふなべり)の上(うへ)に突(つ)つ立(た)つて、大(おほ)きな声(こゑ)を張(は)り上(あ)げながら、
「早(はや)く船(ふね)へお乗(の)んなさい、早(はや)く、早(はや)く、そんな諸道具(しよどうぐ)なぞは、うつちやらかして、早(はや)く、早(はや)く、早(はや)くせんと命(いのち)がありませんぞ」と、よばはりました。
 実際(じつさい)、不思議(ふしぎ)なことがあればあるものですね。私(わたし)どもが島(しま)だとばかり思(おも)つてゐたのは、実(じつ)は大(おほ)きな魚(さかな)の背中(せなか)なのでした。その魚(さかな)が海(うみ)の真中(まんなか)に浮(うか)んだまゝ、じつとして動(うご)かないでゐると、その上(うへ)へ砂(すな)が溜(たま)つて、もう何十年(なんじゆうねん)も前(まへ)から草(くさ)や木(き)が生(は)え出(だ)したので、ちようど島(しま)のように見(み)えたのですね。ところが、その上(うへ)で焚(た)き火(び)をしたものだから、魚(うを)が熱(あつ)くなつて、そろ/\動(うご)き出(だ)したのですよ。
 船客(せんきやく)どもは、船長(せんちよう)のこの言葉(ことば)を聞(き)くと、商品(しようひん)も、諸道具(しよどうぐ)も、銅(どう)の鍋(なべ)も竈(かま)もうつちやらかしたまゝ、命(いのち)から/゛\船(ふね)の中(なか)へ逃(に)げ込(こ)みました。が、運悪(うんわる)く逃(に)げ後(おく)れたものはどうすることも出来(でき)ないで、たゞあれよ/\と騒(さわ)いでゐるうちに、その島(しま)は海底(かいてい)深(ふか)く沈(しづ)んで行(い)つてしまひました。そして、その上(うへ)に乗(の)つてゐた連中(れんちゆう)はみんな渦巻(うづま)く波(なみ)の中(なか)へ放(はふ)り出(だ)されてしまひました。私(わたし)もその一人(ひとり)で、もう少(すこ)しで溺(おぼ)れて死(し)ぬところでしたが、神様(かみさま)が授(さづ)けて下(くだ)さいましたものでせうか、ふと一(ひと)つの桶(をけ)が手(て)に当(あた)つたので、それに縋(すが)りついて、やう/\その中(なか)へ匐(は)ひ上(あが)りました。そして、櫂(かい)で掻(か)くように足(あし)で水(みづ)を掻(か)きながら、あちらへ揺(ゆ)られ、こちらへ流(なが)されしてゐるうちに、頼(たの)みに思(おも)ふ船(ふね)は、もう私(わたし)どもがみんな助(たす)からないものとでも思(おも)つたのでせうか、帆(ほ)を張(は)つて、どん/\沖(おき)へ出(で)てしまひました。私(わたし)はその帆影(ほかげ)が見(み)えなくなるまで、じつと見送(みおく)つてゐました。その時(とき)の心細(こゝろぼそ)さといつたら、口(くち)でいふようなものではありません。もちろん命(いのち)はないものと覚悟(かくご)をしました。で、かうして海(うみ)の上(うへ)に浮(うか)んでゐる間(あひだ)に、恐(おそ)ろしい夜(よる)がやつて来(き)ました。が、夜(よ)が明(あ)けて見(み)ると、波(なみ)のまに/\一(ひと)つの高(たか)い島(しま)に打(う)ち寄(よ)せられてゐました。
 まあ、なんといふ嬉(うれ)しさでせう。が、さてその島(しま)へ上(あが)らうとすると、岸(きし)が高(たか)くてなか/\思(おも)ふように行(い)きません。やう/\垂(た)れ下(さが)つてゐる木(き)の枝(えだ)をとらまへて、死(し)ぬ思(おも)ひで、その木(き)の上(うへ)に攀(よ)ぢのぼりました。そして、その木(き)の幹(みき)づたひに、とう/\島(しま)にあがりました。それから気(き)がついて見(み)ると、手(て)は萎(な)へ、足(あし)は痺(しび)れて、股(もゝ)には魚(うを)につゝかれた痕(あと)が幾(いく)つも残(のこ)つてゐるのですね。
 私(わたし)は死(し)んだ人(ひと)のように砂(すな)の上(うへ)へ身(み)を投(な)げ出(だ)したまゝ、次(つ)ぎの日(ひ)まで正体(しようたい)もなく寝込(ねこ)んでしまひました。で、眼(め)を覚(さま)ました時(とき)には、島(しま)の太陽(たいよう)が私(わたし)の上(うへ)に照(て)り輝(かゞや)いてゐました。見(み)ると、両足(りようあし)がすつかり膨(ふく)れ上(あが)つて、とても歩(ある)くことが出来(でき)ないのですね。が、それよりもおなかが空(す)いてたまらないので、膝(ひざ)で這(は)ひ廻(まは)るようにしながら、何(なに)か食(た)べられるようなものはないかと、その辺(へん)を捜(さが)して見(み)ました。いゝあんばいに、その島(しま)には沢山(たくさん)果物(くだもの)がなつてゐて、きれいな泉(いづみ)も湧(わ)いてゐました。そこで、その果物(くだもの)を取(と)つて食(た)べながら、幾日(いくにち)かを過(すご)してゐるうちに、少(すこ)しは元気(げんき)が出(で)て来(き)ましたので、そろ/\島(しま)めぐりを始(はじ)めました。
 ある日(ひ)のこと、私(わたし)はまた海岸(かいがん)へ出(で)て見(み)ました。すると、遠(とほ)くの方(ほう)に、何(なに)かしら動(うご)くものが見(み)えるのですね。不思議(ふしぎ)に思(おも)つて、だん/\そばへ行(い)つて見(み)ると、一疋(いつぴき)の立派(りつぱ)な牝馬(めうま)が立(た)ち木(き)につながれてゐました。そして、私(わたし)を見(み)て、びつくりするような声(こゑ)で嘶(いなゝ)くぢやありませんか。私(わたし)は恐(おそ)ろしくなつてそのまゝ、急(いそ)いで引(ひ)き返(かへ)さうとしました。ちようどそこへ一人(ひとり)の男(をとこ)が地面(じめん)の下(した)から出(で)てまゐりました。そして、私(わたし)に向(むか)つて、どうしてこんな所(ところ)へやつて来(き)たのかとたづねるのですね。私(わたし)はそれまでの一部始終(いちぶしじゆう)を語(かた)つて聞(き)かせました。するとその男(をとこ)は、「こちらへ来(こ)い」と、言(い)つて、大(おほ)きな地下室(ちかしつ)の中(なか)へ連(つ)れて行(い)つた上(うへ)、いろんな御馳走(ごちそう)を出(だ)して、私(わたし)をいたはつてくれました。
 その男(をとこ)の話(はなし)によると、彼(かれ)はこの島(しま)の王様(おうさま)に仕(つか)へてゐる馬丁(ばてい)で、毎月(まいげつ)、月夜(つきよ)の頃(ころ)になると、この海岸(かいがん)へやつて来(き)て、あの馬(うま)を囮(おとり)に海馬(かいば)をつかまへるのだそうで、とつた海馬(かいば)はみんな王様(おうさま)へ献上(けんじよう)するのだといふことでございました。そんな話(はなし)をした後(あと)で、
「まあ、いゝあんばいでしたね」と、その男(をとこ)は申(まを)しました。「もし私(わたし)どもがお目(め)にかゝらなかつたなら、あなたはあのまゝ死(し)んでしまつたかも知(し)れませんよ。ですが、かうなればもう安心(あんしん)していらつしやい。私(わたし)がなんとかして国(くに)へ帰(かへ)れるように骨(ほね)を折(を)つて上(あ)げますからね」
 一両日(いちりようじつ)の後(のち)、その男(をとこ)は私(わたし)を一疋(いつぴき)の牝馬(めうま)に乗(の)せて、この島(しま)の都(みやこ)へ連(つ)れて行(い)つてくれました。そこで王様(おうさま)の御前(ごぜん)へ出(で)ましたが、王様(おうさま)も私(わたし)の話(はなし)を聞(き)いて、大(たい)そう驚(おどろ)いてゐられました。そして、それからは、何(なに)くれとなく親切(しんせつ)に世話(せわ)をして下(くだ)さつた上(うへ)、私(わたし)をその港(みなと)の書記(しよき)にして下(くだ)さいました。で、私(わたし)は毎日(まいにち)帳面(ちようめん)を持(も)つて波止場(はとば)へ出(で)ばつて、出入(でい)りの船(ふね)や貨物(かもつ)などをしらべて記入(きにゆう)するようになりました。
 ある日(ひ)、私(わたし)がいつものように海岸(かいがん)に立(た)つてゐると、ふいに多(おほ)くの商人(あきうど)を乗(の)せた大船(おほぶね)がはひつてまゐりました。それが波止場(はとば)へついた時(とき)、水夫(すいふ)どもは船(ふね)の中(なか)にあつたいろ/\な荷物(にもつ)を海岸(かいがん)へ揚(あ)げました。で、何気(なにげ)もなくそれ等(ら)の品(しな)を調(しら)べてゐるうちに、私(わたし)はふと見覚(みおぼ)えのある荷物(にもつ)に目(め)をとめました。よく/\調(しら)べて見(み)ると、どうしてもそれは私(わたし)のものに相違(そうい)ないのですね。そこで船長(せんちよう)に会(あ)つて見(み)ると、その顔(かほ)にも見覚(みおぼ)えがある。で、それとなく、この荷物(にもつ)の持(も)ち主(ぬし)は誰(だれ)かときいて見(み)ました。
 ところが、船長(せんちよう)はもう私(わたし)の顔(かほ)を見忘(みわす)れたのか、
「えゝ、これですかい。これは海(うみ)のシンヂバードといふ男(をとこ)のものでしたがね、その人(ひと)は私(わたし)どもと航海(こうかい)してゐるうちに、海(うみ)に溺(おぼ)れて死(し)んでしまひましたよ」と、平気(へいき)で答(こた)へました。
「船長殿(せんちようどの)、そのシンヂバードが今(いま)こゝにゐるこの私(わたし)ですよ、私(わたし)がその荷物(にもつ)の持(も)ち主(ぬし)ですよ」と、私(わたし)は大(おほ)きな声(こゑ)を挙(あ)げました。
 それを聞(き)くと、船長(せんちよう)も目(め)を円(まる)くして、
「冗談(じようだん)を言(い)つちや困(こま)りますよ」と、どなりました。「一(いつ)たん死(し)んだシンヂバードが今頃(いまごろ)生(い)き返(かへ)つて来(き)ますかい。いゝかげんなことを言(い)つて、この品物(しなもの)をまき上(あ)げようつたつて、その手(て)には乗(の)りませんよ」
「まあ、お待(ま)ちなさい。では、とにかく、私(わたし)の話(はなし)を聞(き)いて下(くだ)さいな」
 かう云(い)つて、私(わたし)は桶(をけ)に縋(すが)つて島(しま)に流(なが)れついたことから、運(うん)よく王様(おうさま)の馬丁(ばてい)に助(たす)けられたこと、それから王様(おうさま)のお世話(せわ)になつて今日(けふ)まで過(す)ごして来(き)たことまで、一々(いち/\)こまかに語(かた)つて聞(き)かせました。で、やう/\船長(せんちよう)も疑(うたが)ひを晴(は)らして、
「あなたがそれほどの大難(だいなん)を免(のが)れたのは、まつたく神様(かみさま)のお蔭(かげ)ですよ。では、どうぞ品物(しなもの)を受(う)け取(と)つて下(くだ)さい」と、言(い)ひながら、一(ひと)つ残(のこ)らずそれを渡(わた)してくれました。
 他(ほか)の船客(せんきやく)どももその話(はなし)を伝(つた)へ聞(き)いて、みんな私(わたし)のぐるりへ集(あつ)まつて来(き)ました。そして、口々(くち/゛\)に私(わたし)の無事(ぶじ)を祝(いは)つてくれました。
 で、私(わたし)は、二(ふた)たび自分(じぶん)の手(て)にかへつた品物(しなもの)の中(なか)から一番(いちばん)珍(めづら)しそうなものを選(えら)んで、王様(おうさま)に献上(けんじよう)いたしました。王様(おうさま)も大(たい)そうお喜(よろこ)びになつて、その返礼(へんれい)として沢山(たくさん)の財宝(ざいほう)を下(くだ)さいました。
 それから私(わたし)は自分(じぶん)の品物(しなもの)を売(う)り払(はら)つて、その代(かは)りにこの都(みやこ)の産物(さんぶつ)をいろ/\買(か)ひ集(あつ)めました。そして、再(ふたゝ)び以前(いぜん)の船(ふね)に乗(の)り込(こ)みました。それから夜(よる)となく昼(ひる)となく航海(こうかい)をつゞけてとう/\、エル・バスラーの都(みやこ)へ無事(ぶじ)に到着(とうちやく)しました。で、こゝにしばらく滞在(たいざい)した後(のち)、沢山(たくさん)のお金(かね)を握(にぎ)つて、再(ふたゝ)びバグダツドなる自分(じぶん)の家(いへ)へ帰(かへ)つて参(まゐ)りました。そして、新(あら)たに、召(め)し使(つか)ひをかゝへて、多(おほ)くの奴隷(どれい)を買(か)つた上(うへ)、地所(じしよ)を買(か)ひ入(い)れたり、立派(りつぱ)な家(いへ)を建(た)てたりいたしました。かうして私(わたし)は又(また)おいしい物(もの)を食(た)べ、うまい酒(さけ)を呑(の)んで、栄耀栄華(えいようえいが)の出来(でき)る身分(みぶん)になりました。私(わたし)の第一(だいいち)の航海(こうかい)の出来事(できごと)といふのはざつとこんなものでございます。


      金剛石(こんごうせき)の谷(たに)の話(はなし)

 昨日(さくじつ)皆(みな)さんにお話(はなし)しましたように、私(わたし)は第一(だいいち)の航海(こうかい)から帰(かへ)つた後(のち)、極(きは)めて幸福(こうふく)な月日(つきひ)を送(おく)つてゐました。ところが、そのうちにもう一度(いちど)知(し)らぬ国々(くに/゛\)を旅行(りよこう)して見(み)たいと思(おも)ふようになりました。
 そこで私(わたし)は売(う)れ行(ゆ)きのよさそうな商品(しようひん)だの、日用品(にちようひん)だのを買(か)ひ集(あつ)めました。そして、美(うつく)しい帆(ほ)をかけた、綺麗(きれい)な船(ふね)に乗(の)り組(く)んで、第二(だいに)の航海(こうかい)につきました。
 で、島(しま)から島(しま)へ渡(わた)つて、売(う)つたり買(か)つたり、商品(しようひん)を交換(こうかん)したりしてゐるうちに、ある美(うつく)しい小島(こじま)へつきました。そこには、どの木(き)にも/\熟(じゆく)した果物(くだもの)がなつて、草花(くさばな)が咲(さ)き乱(みだ)れ鳥(とり)が囀(さへづ)り、清(きよ)い泉(いづみ)が湧(わ)いてゐました。が、人(ひと)は住(す)んでいないと見(み)えて、一筋(ひとすぢ)の煙(けむり)も見当(みあた)りませんでした。私(わたし)どもの仲間(なかま)は、あたりの景色(けしき)を眺(なが)めながら、彼方(かなた)此方(こなた)と歩(ある)いてゐました。私(わたし)は又(また)きれいな泉(いづみ)の傍(そば)に坐(すわ)つて、船(ふね)から持(も)つて来(き)たものを飲(の)み食(く)ひしながら花(はな)の香(か)のするそよ風(かぜ)に吹(ふ)かれてゐるうちに、いゝ心持(こゝろも)ちになつて、そのまゝぐつすり寝込(ねこ)んでしまひました。
 どのくらゐ眠(ねむ)つたか知(し)れませんが、ふと目(め)を覚(さ)まして見(み)ると、どうでせう。私(わたし)をひとり捨(す)て置(お)いたまゝ、船(ふね)はもうとうに出帆(しゆつぱん)してゐるではありませんか。私(わたし)はまるできちがひのように泣(な)き悲(かな)しみました。そして、何不足(なにふそく)のない身(み)で、何(なに)しに又(また)こんな航海(こうかい)なぞ思(おも)ひ立(た)つたかとつく/゛\自分(じぶん)の気(き)まぐれを後悔(こうかい)しました。が、いくら後悔(こうかい)したところで、もうどうにもなりません。私(わたし)は立(た)ち上(あが)つて、島(しま)の中(なか)をあちこち歩(ある)き廻(まは)りました。さうしてゐるうちに、ふと一本(いつぽん)の高(たか)い木(き)が眼(め)にとまつたので、それに攀(よ)ぢ上(のぼ)つて海(うみ)の方(ほう)を見(み)やりました。が、空(そら)と水(みづ)ばかりで何(なに)一(ひと)つ見(み)えません。で、今度(こんど)は陸(りく)の方(ほう)へ向(む)き直(なほ)つて見(み)ました。すると島(しま)の上(うへ)に、遠方(えんぽう)ではつきりとはわからないが、何(なに)かしら大(おほ)きな白(しろ)い物(もの)が目(め)についたんですね。
 私(わたし)は早速(さつそく)木(き)から下(お)りて、その方角(ほうがく)へどん/\進(すゝ)んで行(ゆ)きました。さて近(ちか)づいて見(み)ると、高(たか)さといひ、大(おほ)きさといひ、すばらしく立派(りつぱ)な円(まる)い建(た)て物(もの)で、うはべは妙(みよう)にすべ/\してゐました。私(わたし)はぐるりとその周(まは)りを廻(まは)つて見(み)ました。が、入(い)り口(ぐち)らしいものはどこにも見当(みあた)りませんでした。それから自分(じぶん)の立(た)つてゐる所(ところ)にしるしをつけて置(お)いて、歩(ある)きながら測(はか)つて見(み)ると、周囲(しゆうい)がちようど五十歩(ごじつぽ)もございました。ところが、こんな事(こと)をしてゐるうちに、突然(とつぜん)あたりが暗(くら)くなつてまゐりました。まだ日(ひ)の暮(く)れる時分(じぶん)ではないのに、どうも不思議(ふしぎ)なこともあるものだと、びつくりして空(そら)を見上(みあ)げると、どうでせう、翼(つばさ)の百間(ひやくけん)四面(しめん)もあるような、図(ず)ぬけて大(おほ)きな鳥(とり)が飛(と)んでゐるぢやありませんか。それが太陽(たいよう)を陰(かげ)らしたから、あたりが俄(には)かに暗(くら)くなつたのですね。私(わたし)はふと以前(いぜん)旅行者(りよこうしや)や航海者(こうかいしや)などから聞(き)いた話(はなし)を思(おも)ひ出(だ)しました。それは、ある島(しま)にはるーくといふ大(おほ)きな鳥(とり)が棲(す)んでゐて、象(ぞう)を捕(とら)まへて来(き)ては雛鳥(ひなどり)に食(た)べさせるといふ話(はなし)ですよ。そこで、この真白(まつしろ)な円(まある)いものはるーくの卵(たまご)に相違(そうい)ないと思(おも)ひました。
 かうして私(わたし)が驚(おどろ)いてゐるうちに、どうでせう、その鳥(とり)はさつと卵(たまご)の上(うへ)へ降(お)りて来(き)て、両(りよう)の翼(つばさ)でそれを温(あたゝ)めにかゝりました。そして、そのまゝ眠(ねむ)つてしまつたんですね。私(わたし)はそこで頭(あたま)に巻(ま)いてあるたあばんをとつて、それで自分(じぶん)の体(からだ)をしつかりと鳥(とり)の脚(あし)に結(ゆは)ひ着(つ)けました。かうして置(お)けば、この鳥(とり)が私(わたし)を人間(にんげん)の住(す)んでゐる国(くに)へ運(はこ)んでくれるだらうと思(おも)つたからですよ。
 あたりが白(しら)んで、朝(あさ)が近(ちか)づいた時(とき)、鳥(とり)は大(おほ)きな鳴(な)き声(ごゑ)を立(た)てゝ空高(そらたか)く舞(ま)ひ上(あが)りました。そしてしばらくの間(あひだ)高(たか)い/\空中(くうちゆう)を飛(と)び廻(まは)つた後(のち)、やうやく地面(じめん)の上(うへ)へ降(お)りました。私(わたし)は、足(あし)が地面(じめん)につくや急(いそ)いで鳥(とり)の脚(あし)に結(ゆは)ひつけて置(お)いた布(ぬの)をほどきました。やがてその鳥(とり)は何(なに)か知(し)ら爪(つめ)に引(ひ)つかけたまゝ、再(ふたゝ)び高(たか)く舞(ま)ひ上(あが)りました。見(み)ると、それは大(おほ)きな蛇(へび)でした。鳥(とり)はそれを引(ひ)つ掴(つか)んだまゝ、海(うみ)の方(ほう)へ飛(と)んで行(い)つてしまひました。
 その後(あと)で私(わたし)はその辺(へん)を歩(ある)き廻(まは)つて見(み)ました。そこは非常(ひじよう)に高(たか)い山(やま)と山(やま)との谷合(たにあ)ひでした。そして、一本(いつぽん)の木(き)もなければ、草(くさ)もなく、水(みづ)さへ流(なが)れてゐないのですね。私(わたし)はがつかりして、こんな所(ところ)へ来(く)るくらゐなら、いつそあの島(しま)にゐた方(ほう)がまだしもましであつたと、つくづく後悔(こうかい)しました。でも、どうかして脱(ぬ)け出(だ)す方法(ほうほう)はないものかと、だん/\歩(ある)いて行(ゆ)くうちに、また一(ひと)つの谷合(たにあ)ひへ出(で)ました。見(み)ると、驚(おどろ)くぢやありませんか、そこの地面(じめん)はすつかりだいあもんどで出来(でき)てゐるのですよ。が、喜(よろこ)んだのは束(つか)の間(ま)で、たちまち又(また)ちゞみ上(あが)つてしまひました。つい目(め)の前(まへ)に、象(ぞう)でもまる呑(の)みにしそうな大蛇(おほへび)が、それも一疋(いつぴき)や二疋(にひき)ではない、無数(むすう)にとぐろを巻(ま)いてゐるのだからたまりませんや。もつとも、それ等(ら)の蛇(へび)も昼間(ひるま)は岩(いわ)の間(あひだ)に隠(かく)れてゐて、夜(よる)になるとそこらを匐(は)ひ廻(まは)るらしいのですね。例(れい)のるーくや禿(は)げ鷹(たか)が恐(こは)いからですよ。
 とう/\その日(ひ)も暮(く)れてしまひました。私(わたし)は蛇(へび)の恐(おそ)ろしさに、どこか無事(ぶじ)に一夜(いちや)を明(あ)かす所(ところ)はないものかと、あちこち捜(さが)し廻(まは)つた末(すゑ)、やつと小(ちひ)さな洞穴(ほらあな)を見(み)つけて、その中(なか)へはひり込(こ)みました。が、見(み)ると奥(おく)の方(ほう)に一疋(いつぴき)の大蛇(おほへび)が卵(たまご)を抱(だ)いたまゝ眠(ねむ)つてゐるではありませんか。私(わたし)はがた/\とふるへ出(だ)しました。と云(い)つて、どこへも行(ゆ)く所(ところ)はありませんからとう/\その夜(よ)は、一睡(いつすい)もせずにそのまゝ明(あ)かしました。で、長(なが)い夜(よ)が明(あ)けて、岩(いは)の間(あひだ)から朝(あさ)の光(ひかり)が射(さ)し込(こ)んで来(き)た時(とき)、私(わたし)はまるで酔(よ)つぱらつた人(ひと)のように、ふら/\とその穴(あな)から出(で)てまゐりました。
 私(わたし)はそれから谷間(たにま)に沿(そ)うて歩(ある)いてゐました。すると、ふいに、大(おほ)きな獣(けもの)の肉(にく)がづしんと音(おと)を立(た)てゝ目(め)の前(まへ)へ落(お)ちて来(き)ました。しかも、あたりには誰(だれ)もゐる気(け)はひがありません。私(わたし)もびつくりしたものの、すぐその後(あと)から、かねて商人(あきうど)や冒険家(ぼうけんか)などから聞(き)いた話(はなし)を思(おも)ひ出(だ)しました。それは、だいあもんどをとる商人(あきうど)どものことで、まづ羊(ひつじ)の肉(にく)に刻(きざ)み目(め)をつけて、それを山(やま)の上(うへ)から谷底(たにぞこ)を目(め)がけて投(な)げ込(こ)んでやる。すると、その肉(にく)はまだしめつてゐるものだから、だいあもんどがその肉(にく)に食(く)ひ込(こ)む。そこへ禿(は)げ鷹(たか)だの鷲(わし)だのが餌(ゑさ)を捜(さが)しに来(き)て、それを爪(つめ)にひつかけたまゝ、山(やま)の天辺(てつぺん)まで飛(と)んで来(く)るんですね。待(ま)ちかまへてゐた商人(あきうど)どもは大声(おほごゑ)を上(あ)げて喚(わめ)き立(た)てる。すると、鳥(とり)は驚(おどろ)いて肉(にく)を捨(す)てたまゝ、逃(に)げて行(ゆ)く。そこでその肉(にく)にくつついて来(き)ただいあもんどを採取(さいしゆ)するといふわけなんですね。
 そんな事(こと)を考(かんが)へてゐると、また目(め)の前(まへ)へ大(おほ)きな肉(にく)の塊(かたまり)が落(お)ちて来(き)ました。そこで私(わたし)はいよ/\この谷(たに)から脱(ぬ)け出(だ)す工夫(くふう)に取(と)りかゝりました。先(ま)づそこらに落(お)ちているだいあもんどの一番(いちばん)よさそうなのを拾(ひろ)つて、かくしと云(い)はず、服(ふく)の裏(うら)と云(い)はず、詰(つ)め込(こ)めるだけ詰(つ)め込(こ)みました。それから地面(じべた)へ仰向(あふむ)けに寝(ね)て、肉(にく)の塊(かたまり)を胸(むね)の上(うへ)に載(の)せ、それと自分(じぶん)の身体(からだ)とをしつかり頭(あたま)の布(ぬの)で結(いは)ひつけました。すると、まもなく一羽(いちは)の禿(は)げ鷹(たか)が降(お)りて来(き)て、その肉(にく)と一(いつ)しよに私(わたし)の体(からだ)まで引(ひ)つ攫(さら)つたまゝ、大空(おほぞら)高(たか)く舞(ま)ひ上(あが)りました。そして、だん/\高(たか)く飛(と)んで、山(やま)の天辺(てつぺん)まで上(あが)つた時(とき)、いゝあんばいに、鳥(とり)はその山(やま)にとまりました。すると、急(きゆう)に山(やま)のうしろから大(おほ)きな鬨(とき)の声(こゑ)が起(おこ)りました。禿(は)げ鷹(たか)はそれに恐(おそ)れて、肉(にく)と私(わたし)とを捨(す)てたまゝ、空(そら)のかなたへ逃(に)げ去(さ)りました。
 鬨(とき)の声(こゑ)を上(あ)げたのはやつぱり商人(あきうど)でした。そして、その肉(にく)を目(め)がけて駆(か)けつけてまゐりました。が、その下(した)から私(わたし)があらわれたのを見(み)ると、びつくりした様子(ようす)で、しばらくは物(もの)も云(い)ひませんでした。でも、おづ/\その肉(にく)の塊(かたまり)に近(ちか)づいて、何度(なんど)もひつくり返(かへ)して見(み)てゐました。が、何(なに)一(ひと)つくつついてゐないのを見(み)て、
「あゝ残念(ざんねん)だな。一(いつ)たい、これはどうしたと云(い)ふのだ」と、くやしそうに叫(さけ)びました。それから私(わたし)の方(ほう)を向(む)いて、「お前(まへ)さんは誰(だれ)だ、どうしてこゝへやつて来(き)たんだ」とたゝみかけてきくんですね。そこで私(わたし)は、
「いや、恐(こは)がるには及(およ)ばない、私(わたし)は人間(にんげん)だよ。しかし、あなた方(がた)のような商人(あきうど)なんだがね、私(わたし)がこの山(やま)へやつて来(き)たわけを話(はな)したら、誰(だれ)だつて驚(おどろ)かないものはあるまいよ」と、云(い)つてやりました。そして、私(わたし)の身(み)に起(おこ)つたさま/゛\な出来事(できごと)を話(はな)して聞(き)かせました。それから持(も)つて来(き)ただいあもんどをふんだんにわけてやつたものですから、商人(あきうど)どもは非常(ひじよう)に喜(よろこ)んで、私(わたし)をその仲間(なかま)ヘ入(い)れてくれました。
 次(つ)ぎの朝(あさ)、私(わたし)どもはその大(おほ)きな山(やま)の峰(みね)伝(づた)ひに出発(しゆつぱつ)しました。それから廻(めぐ)り廻(めぐ)つて、一(ひと)つの美(うつく)しい島(しま)に到着(とうちやく)しました。その島(しま)には、一本(いつぽん)の木(き)の下(した)に百人(ひやくにん)の旅人(たびゞと)が宿(やど)れるといふ、素晴(すば)らしく大(おほ)きな樟脳(しようのう)の木(き)が沢山(たくさん)立(た)つてをりました。また、犀(さい)といふ一種(いつしゆ)の野獣(やじゆう)が住(す)んでゐましたが、この動物(どうぶつ)は象(ぞう)を角(つの)で持(も)ち上(あ)げるといふことでございました。そして、その象(ぞう)を角(つの)の上(うへ)に突(つ)き刺(さ)したまゝ、それを忘(わす)れて草(くさ)を食(は)んでゐると云(い)ふのですね、で、象(ぞう)は突(つ)き刺(さ)されたまゝ死(し)んでしまふが、その脂(あぶら)が頭(あたま)の上(うへ)に流(なが)れて来(き)て、それが眼(め)にはひると、犀(さい)は盲(めくら)になる。そこへ例(れい)のるーくが飛(と)んで来(き)て、象(ぞう)と犀(さい)とを一(いつ)しよに爪(つめ)に引(ひ)つかけたまゝ、雛鳥(ひなどり)のところへ持(も)つて帰(かへ)つてそれに食(た)べさせるといふ、まるで嘘(うそ)のような話(はなし)ですよ。
 ところで、その島(しま)を去(さ)る前(まへ)に、私(わたし)は持(も)つて来(き)ただいあもんどを取(と)り出(だ)して、いろんな商品(しようひん)や日用品(にちようひん)と交換(こうかん)しました。そして、到(いた)る処(ところ)で売(う)つたり買(か)つたりしながら、とう/\エル・バスラーの都(みやこ)へ到着(とうちやく)して、それからバグダツドのわが家(や)へ帰(かへ)りました。
 第二(だいに)の航海(こうかい)の間(あひだ)に私(わたし)の身(み)に起(おこ)つた出来事(できごと)は、まあ、こんなものでございます。


      人食(ひとく)ひ猿(ざる)の話(はなし)

 では、皆(みな)さん、今度(こんど)は第三(だいさん)の航海(こうかい)の話(はなし)をいたしませう。これは、昨日(きのふ)までお話(はなし)した二(ふた)つの話(はなし)に比(くら)べては、また一段(いちだん)と不思議(ふしぎ)なものでございますよ。
 ところで、第二(だいに)の航海(こうかい)から帰(かへ)つた後(のち)は、前(まへ)にもまして幸福(こうふく)な身(み)になつたものゝ、時(とき)の経(た)つにつれて、私(わたし)はまた旅行(りよこう)がしたくてたまらなくなりました。そこでまた荷造(にづく)りをして、仲間(なかま)の商人(あきうど)どもと一(いつ)しよにエル・バスラーの港(みなと)を出発(しゆつぱつ)しました。
 そして、行(ゆ)く先々(さき/゛\)で売(う)つたり、買(か)つたり、遊(あそ)んだりして、面白(おもしろ)をかしく日(ひ)を送(おく)つてゐるうちに、ある日(ひ)恐(おそ)ろしい大風(おほかぜ)が起(おこ)つて、とう/\私(わたし)どもの船(ふね)は吹(ふ)き流(なが)されてしまひました。そして、幾日(いくにち)か浪(なみ)にもまれたあげく、見(み)も知(し)らぬ島(しま)へ吹(ふ)き寄(よ)せられました。が、運(うん)の悪(わる)いことには、それが猿(さる)の山(やま)であつたのですね。
 私(わたし)どもの船(ふね)を見(み)ると、何百(なんびやく)何千(なんぜん)とも知(し)れぬ小猿(こざる)どもがやつて来(き)て、瞬(またゝ)くひまに船(ふね)を取(と)り巻(ま)いてしまひました。そいつ等(ら)は獣(けもの)の中(なか)でも一(いち)ばん醜(みにく)い獣(けもの)で、体中(からだじゆう)どす黒(ぐろ)い毛(け)でおほはれてゐる上(うへ)に、その黄色(きいろ)い眼(め)をした真(ま)つ黒(くろ)な顔(かほ)と云(い)つたら、見(み)てもぞつとする位(くらゐ)でした。で、そいつ等(ら)がどん/\船(ふな)べりを上(のぼ)つて来(き)て、きい/\云(い)ひながら、帆(ほ)を引(ひ)つ裂(さ)いたり、帆綱(ほづな)を噛(か)み切(き)つたり、さんざ船(ふね)の中(なか)を荒(あら)すんですね。が、手向(てむか)ひでもしたら、どんな目(め)に遭(あ)はされるか知(し)れないので、私(わたし)どもはたゞ手(て)を束(つか)ねて見(み)てゐました。そのうちに、そいつ等(ら)はとう/\私(わたし)どもを捕虜(とりこ)にして、島(しま)の上(うへ)に追(お)ひ上(あ)げたまゝ、積(つ)み荷(に)ごとその船(ふね)をひつぱつて、どこへか姿(すがた)を隠(かく)しました。
 後(あと)に残(のこ)つた私(わたし)どもは、どうにもしようがないので、あちこちと島(しま)の上(うへ)をうろついてゐました。そのうちにふと人(ひと)の住(す)むらしい家(いへ)が眼(め)についたので、だん/\近(ちか)づいて見(み)ると、それは軒(のき)の高(たか)い、壁(かべ)の厚(あつ)い、まことにがつしりした建(た)て物(もの)でした。そして、入(い)り口(ぐち)には黒檀(こくたん)の二枚扉(にまいとびら)がついてゐましたが、どうしたのやらそれが開(あ)け放(はな)しになつてゐました。で、私(わたし)どもは恐(おそ)る/\その中(なか)へはひつて見(み)ました。ところが、どうでせう、奥(おく)には大(おほ)きな竃(へつゝい)があつて、その周(まは)りに人間(にんげん)の骨(ほね)が一杯(いつぱい)散(ち)らばつてゐるではありませんか。それを一目(ひとめ)見(み)ると、私(わたし)どもは腰(こし)がぬけたようになつて、口(くち)を利(き)くことさへ出来(でき)ませんでした。で、ぼんやり坐(すわ)つてゐるうちに、とつぷりと日(ひ)が暮(く)れてしまひました。すると、ふいに大地(だいち)がゆさ/\と揺(ゆ)れて、上空(じようくう)からなんとも云(い)はれない奇妙(きみよう)な声(こゑ)が聞(き)えて来(き)ました。その途端(とたん)に、姿(すがた)は人間(にんげん)のようだが、椰子(やし)の木(き)のように背(せい)の高(たか)い、真黒(まつくろ)な顔(かほ)をした、えたいの知(し)れない大男(おほをとこ)がぬつと私(わたし)どもの前(まへ)に現(あらは)れました。見(み)ると、その眼(め)は火(ひ)のように燃(も)え立(た)つてゐるんですね。それに、下唇(したくちびる)のそり返(かへ)つた、すてきもない大(おほ)きな口(くち)をして、その中(なか)から二本(にほん)の牙(きば)がにゆつと出(で)てゐるのですよ。耳(みゝ)はと云(い)へば、摺(す)り鉢(ばち)のように肩(かた)の上(うへ)に垂(た)れ下(さが)つて、手足(てあし)の爪(つめ)は獅子(しゝ)のそれのように尖(と)んがつてゐました。あまりの恐(おそ)ろしさに私(わたし)どもは死(し)んだものゝように突(つ)つ伏(ぷ)してしまひました。その男(をとこ)はしばらく私(わたし)どもを見廻(みまは)してゐましたが、やがてそばへやつて来(き)て、まつ先(さき)に私(わたし)を摘(つま)み上(あ)げました。そして、そこら中(じゆう)握(にぎ)つて見(み)たり、ひつくり返(かへ)して見(み)たりするのですね。私(わたし)はもう生(い)きた心地(こゝち)はなく、そのまゝ一口(ひとくち)に食(く)はれてしまふことゝばかり思(おも)つてゐました。が、長(なが)い航海(こうかい)と心労(しんろう)とに痩(や)せ衰(おとろ)へてゐたからでもございませうか、しばらくひねくり廻(まは)してゐた後(あと)で、私(わたし)を手(て)から放(はな)して、今度(こんど)は別(べつ)な男(をとこ)を取(と)り上(あ)げました。が、その男(をとこ)も骨(ほね)と皮(かは)ばかりになつてゐましたので、また他(ほか)の男(をとこ)を捕(つか)まへました。かうして一々(いち/\)検(しら)べて行(い)くうちに、最後(さいご)に取(と)り上(あ)げた船長(せんちよう)が一(いち)ばん肥(ふと)つてゐると見(み)て、それを地面(じめん)に叩(たゝ)きつけた上(うへ)、長(なが)い金串(かなぐし)を持(も)つて来(き)て、まだぴく/\してゐるのを芋刺(いもざ)しに刺(さ)し通(とほ)しました。それから、かん/\熾(さか)つてゐる火(ひ)の上(うへ)にかけて、何度(なんど)もひつくり返(かへ)しながら、こんがりと焙(あぶ)りました。そして、その肉(にく)を爪(つめ)で剥(は)がしてはむしや/\食(た)べてしまひました。
 それが済(す)むと、大男(おほをとこ)はそのまゝ、横(よこ)になつて、牛(うし)の殺(ころ)されるような鼾(いびき)の音(おと)を立(た)てながら、朝(あさ)までぐつすり寝(ね)つゞけました。そして、夜(よ)が明(あ)けると、私(わたし)どもを捨(す)てゝ置(お)いたまゝ、どこへか行(い)つてしまひました。
 で、その大男(おほをとこ)の影(かげ)が見(み)えなくなるや否(いな)や、私(わたし)どもは一(いつ)しよに寄(よ)りこぞつて、あまりの恐(おそ)ろしさにたゞもう声(こゑ)をあげて泣(な)きました。が、泣(な)いてみても仕方(しかた)がないので、顫(ふる)へる足(あし)を踏(ふ)みしめながら、どこか隠(かく)れる所(ところ)はないか、逃(に)げる道(みち)はないかと、あちこち捜(さが)し廻(まは)りました。が、隠(かく)れる所(ところ)もなければ、逃(に)げる道(みち)は尚更(なほさら)ありませんでした。そのうちに、又(また)もや夜(よる)になりましたので、すご/\と元(もと)の所(ところ)へ戻(もど)つてまゐりました。すると、又(また)例(れい)の大男(おほをとこ)が地響(じひゞ)きを立(た)てゝやつて来(き)ました。そして、前(まへ)の晩(ばん)と同(おな)じように、私(わたし)どもの中(なか)から一(いち)ばん肥(ふと)つた者(もの)を選(えら)び出(だ)して、その男(をとこ)を船長(せんちよう)にしたと同(おな)じようにして食(た)べました。それから一晩中(ひとばんじゆう)寝(ね)つづけて、夜(よ)が明(あ)けると、どこへか行(い)つてしまひました。
 私(わたし)どもはまた一所(ひとところ)へ集(あつま)つて、この先(さき)どうしたものかと相談(そうだん)をしました。中(なか)には、あゝして焼(や)いて食(く)はれるくらゐなら、いつそ海(うみ)へ身(み)を投(な)げて死(し)んだ方(ほう)がましだと云(い)ふ者(もの)さへありました。が、一人(ひとり)の男(をとこ)はそれをさへぎつて、
「どうせない命(いのち)なら、一(ひと)つ計略(けいりやく)にかけてあいつを殺(ころ)してやらうぢやないか。みんなが命(いのち)がけでやつたら、うまく行(い)かないものでもあるまい」と、云(い)ひ出(だ)しました。私(わたし)もその後(あと)について、
「もしあいつを殺(ころ)すとすれば、まづ海岸(かいがん)へ出(で)て、幾(いく)つか筏(いかだ)を仕組(しく)んで置(お)かうぢやありませんか。万一(まんいち)殺(ころ)しそこなつた場合(ばあひ)に、素早(すばや)くそれに乗(の)つて海(うみ)へ出(で)るのですよ」と、云(い)ひました。
 仲間(なかま)のものは皆(みな)それに同意(どうい)しました。で、すぐ海岸(かいがん)へ降(お)りて、木(き)ぎれを集(あつ)めて、三(みつ)つ四(よつ)つ筏(いかだ)を組(く)み立(た)てました。
 夕方(ゆふがた)になると、また例(れい)の大男(おほをとこ)がやつて来(き)て、仲間(なかま)の一人(ひとり)を食(た)べてしまひました。が、その男(をとこ)が寝入(ねい)つたのを見(み)すまして、私(わたし)どもは金串(かなぐし)を二本(にほん)そつと抜(ぬ)き取(と)りました。そして、かん/\熾(さか)つてゐる火(ひ)の中(なか)へ突(つ)つ込(こ)んで、真赤(まつか)になるまで焼(や)きました。それから、それを大男(おほをとこ)の眼(め)の中(なか)へ突(つ)き刺(さ)して、力任(ちからまか)せに上(うへ)からおしつけました。大男(おほをとこ)は大(おほ)きな呻(うめ)き声(ごゑ)を立(た)てゝ、私(わたし)どもをさぐり廻(まは)つたが、もう盲(めくら)になつてゐるので、さすがの大男(おほをとこ)もどうすることも出来(でき)ませんでした。で、大地(だいち)も揺(ゆ)れるような泣(な)き声(ごゑ)をあげながら、そこらをさぐり/\表(おもて)へ駈(か)け出(だ)しました。が、まもなく、もう一人(ひとり)牝(めす)の黒(くろ)ん坊(ぼ)を連(つ)れてやつてまゐりました。私(わたし)どもはそれを見(み)て顫(ふる)へ上(あが)りました。が、こゝぞと海岸(かいがん)指(さ)して逃(に)げ出(だ)しながら、大急(おほいそ)ぎで筏(いかだ)に飛(と)び乗(の)りました。が、黒(くろ)ん坊(ぼ)どもは、めい/\手(て)に岩(いは)のかけらを握(にぎ)つて、私(わたし)ども目(め)がけて投(な)げつけました。で、私(わたし)どもの仲間(なかま)は一人(ひとり)々々殺(ころ)されてしまひました。そして、生(い)き残(のこ)つたものは、私(わたし)の外(ほか)にたゞ二人(ふたり)だけでございました。
 で、三人(さんにん)は波(なみ)のまに/\押(お)し流(なが)されながら、それでも運(うん)よく一(ひと)つの島(しま)に吹(ふ)き上(あ)げられました。その島(しま)には、味(あじ)のよい果物(くだもの)もあれば、きれいな泉(いづみ)も湧(わ)いてゐましたので、それを食(た)べたり飲(の)んだりして腹(はら)をこしらへました。そして草(くさ)の上(うへ)に横(よこ)たはつたまゝ、一眠(ひとねむ)りいたしました。が、夜(よる)になつて、ふいに目(め)を覚(さ)まして見(み)ると、驚(おどろ)いたことには、一疋(いつぴき)の大蛇(おほへび)が、私(わたし)ども目(め)がけてやつて来(く)るのですよ。逃(に)げる暇(ひま)もなにもあつたものではありません。仲間(なかま)の一人(ひとり)は忽(たちま)ち巻(ま)きつかれて、頭(あたま)からぐい/\呑(の)まれてしまひした。腹(はら)の中(なか)でぺし/\とその男(をとこ)の肋骨(ろつこつ)が折(を)れる音(おと)まで聞(きこ)えるのですね。まつたく生(い)きた心地(こゝち)はありませんでした。が、大蛇(おほへび)はそれなり行(い)つてしまひました。
 次(つ)ぎの晩(ばん)は私(わたし)どもゝ用心(ようじん)して、高(たか)い木(き)の上(うへ)に攀(よ)ぢのぼつて眠(ねむ)りました。が、そんな事(こと)ぐらゐではなんにもなりません。大蛇(おほへび)はする/\と登(のぼ)つて来(き)て、又(また)もや連(つ)れの男(をとこ)を呑(の)んでしまひました。そして、そのまゝ影(かげ)をかくしました。私(わたし)は木(き)の天辺(てつぺん)にのぼつたまゝ、一睡(いつすい)もせずにその夜(よ)を明(あ)かしました。
 朝(あさ)の光(ひかり)が射(さ)して来(き)た時(とき)、私(わたし)は死(し)んだ人(ひと)のようになつて、その木(き)から降(お)りました。が、今日(けふ)はいよ/\自分(じぶん)が呑(の)まれる番(ばん)だと思(おも)ふと、果物(くだもの)を見(み)ても食(た)べる気(き)にはなれません。いつそ海(うみ)へ飛(と)び込(こ)まうかと、幾(いく)たびも考(かんが)へましたが、まて/\、生(い)きられるだけは生(い)き延(の)びようと心(こゝろ)を励(はげ)まして、それから木(き)ぎれを拾(ひろ)つて足(あし)のうら十文字(じゆうもんじ)に結(いは)ひつけました。頭(あたま)にも同(おな)じようにしました。胴体(どうたい)には板(いた)ぎれを結(いは)ひつけました。かうして四方八方(しほうはつぽう)から自分(じぶん)の体(からだ)を包(つゝ)んでしまつたのですね。夕方(ゆふがた)になると、例(れい)の蛇(へび)はいつものように近(ちか)づいてまゐりました。
 が、私(わたし)がまるで木(き)ぎれの籠(かご)の中(なか)へはひつたようになつて寝(ね)てゐたので、どうしても呑(の)むわけに行(い)きません。で、遠(とほ)のいてはまたやつて来(き)、来(き)てはまた遠(とほ)のいて、一晩中(ひとばんじゆう)さうしてゐましたが、とう/\諦(あきら)めたと見(み)えて、夜明(よあ)け頃(ごろ)になると、どこかへ行(い)つてしまひました。
 私(わたし)はそれから立(た)ち上(あ)がつて、その島(しま)のはづれまで歩(ある)いて来(き)ました。その時(とき)、ふと海(うみ)の上(うへ)を走(はし)つてゐる一艘(いつそう)の船(ふね)が目(め)にとまりました。そこで私(わたし)は木(き)の枝(えだ)に頭(あたま)の布(ぬの)を結(いは)ひつけて振(ふ)りながら、声(こゑ)を限(かぎ)りによばはりました。すると、向(むか)うでもそれがわかつたと見(み)えて、船(ふね)を岸(きし)へつけてくれました。そして、私(わたし)のまはりを取(と)り巻(ま)きながら、どうしてこんな島(しま)へ来(き)てゐたのかとたづねました。そこで私(わたし)は自分(じぶん)の身(み)に起(おこ)つた事柄(ことがら)を一々(いち/\)話(はな)して聞(き)かせました。それを聞(き)くと、船長(せんちよう)は大(たい)そう私(わたし)に同情(どうじよう)して、新(あたら)らしい服(ふく)を着(き)せたり、御馳走(ごちそう)を食(た)べさせたりして、いろ/\私(わたし)を慰(なぐさ)めてくれました。で、私(わたし)は二(ふた)たびその船(ふね)の商人(あきうど)どもと一(いつ)しよに愉快(ゆかい)な航海(こうかい)をつゞけるようになりました。
 それから暫(しばら)くして、私(わたし)どもを乗(の)せた船(ふね)は白檀(びやくだん)の木(き)の生(お)ひ繁(しげ)つた、一(ひと)つの美(うつく)しい島(しま)につきました。商人(あきうど)どもは売(う)つたり買(か)つたりするために上陸(じようりく)しました。その時(とき)、船長(せんちよう)は私(わたし)をそばへよんで、
「お前(まへ)さんも知(し)らぬ国(くに)で大(たい)そう難儀(なんぎ)をして来(き)たのだから、私(わたし)は何(なに)かお前(まへ)さんにも儲(もう)けさせて上(あ)げたいと思(おも)つてるんだがね」と、云(い)ひ出(だ)しました。
「どうかお願(ねが)ひします」と、私(わたし)は頭(あたま)を下(さ)げました。すると、船長(せんちよう)は次(つ)ぎのように云(い)ひました。
「ところで、こゝにあるこのしろ物(もの)だがね」と、船長(せんちよう)は再(ふたゝ)び云(い)ひました。「この持(も)ち主(ぬし)は私達(わたしたち)と一(いつ)しよに航海(こうかい)してゐるうちに、どこかへ行(い)つてしまつて生(い)きてるんだか死(し)んでるんだかよくわからないのですよ。そこで、私(わたし)の考(かんが)へでは、これをお前(まへ)さんに売(う)つて貰(もら)つて、国(くに)へ帰(かへ)つてから持(も)ち主(ぬし)の家族(かぞく)を捜(さが)し出(だ)して、その売(う)り上(あ)げ代金(だいきん)を渡(わた)してやりたい。もちろん、儲(もう)けのうち幾(いく)らかはお前(まへ)さんに差(さ)し上(あ)げる積(つも)りですがね。どうです、一(ひと)つ引(ひ)き請(う)けてくれますか」
 もちろん、私(わたし)に否(いな)やはありません。
「喜(よろこ)んで引(ひ)き受(う)けます」と、答(こた)へました。すると、船長(せんちよう)は早速(さつそく)人夫(にんぷ)どもに命(めい)じて、その荷物(にもつ)を陸(りく)あげさせました。それから書記(しよき)をよんで、
「では、このしろ物(もの)は海(うみ)のエス・シンヂバードの名(な)で書(か)き上(あ)げて置(お)いて下(くだ)さい。あの人(ひと)もるーくの島(しま)から行方不明(ゆくへふめい)になつたが、バグダツドへ帰(かへ)つた上(うへ)、もしあの人(ひと)が生(い)きてゐたら、当人(とうにん)に渡(わた)してやらうし、もし又(また)死(し)んでゐたら、家族(かぞく)の者(もの)に渡(わた)してやればいゝからね」
 その言葉(ことば)を聞(き)いた時(とき)、私(わたし)は思(おも)はず飛(と)び上(あが)りました。そして、つく/゛\船長(せんちよう)の顔(かほ)を見(み)ると、どうやら見覚(みおぼ)えがあるようにも思(おも)はれるのですね。で、私(わたし)はつか/\と前(まへ)へ出(で)ながら、
「船長(せんちよう)さん、そのシンヂバードは私(わたし)ですよ。私(わたし)がそのシンヂバードですよ」と、叫(さけ)びました。
 が、あれから大分(だいぶ)時(とき)も経(た)つてゐたので、先(さ)きでもなか/\それを信(しん)じようとしませんでした。で、私(わたし)はるーくの島(しま)を脱(ぬ)け出(だ)したことから、又(また)もやだいあもんどの山(やま)で難渋(なんじゆう)したことまで、逐一(ちくいち)語(かた)つて聞(き)かせました。をりから波止場(はとば)へあつまつて来(き)た人々(ひと/゛\)の中(なか)に、だいあもんどの山(やま)で逢(あ)つた商人(しようにん)の一人(ひとり)がまじつてゐて、その男(をとこ)も私(わたし)が海(うみ)のシンヂバードに相違(そうい)ないことを証明(しようめい)してくれました。で、船長(せんちよう)もとう/\私(わたし)の言葉(ことば)を信(しん)じて、本人(ほんにん)に品物(しなもの)が渡(わた)されるようになつたのを喜(よろこ)びながら、一(ひと)つ残(のこ)らずそれを返(かへ)してくれました。
 かうして私(わたし)は再(ふたゝ)び以前(いぜん)の商品(しようひん)を手(て)に入(い)れました。で、到(いた)る処(ところ)の島々(しま/゛\)でそれを売(う)りさばいて、莫大(ばくだい)の利益(りえき)を得(え)た上(うへ)、とう/\エル・バスラーの港(みなと)に到着(とうちやく)しました。そして、そこからバグダツドへ帰(かへ)つてまゐりました、
 私(わたし)がこの航海(こうかい)の間(あひだ)に出逢(であ)つた不思議(ふしぎ)な事件(じけん)と云(い)ふのは、ざつとこんなものでございます。
 が、明晩(みようばん)はいよ/\第四(だいし)の航海(こうかい)の話(はなし)をいたしませう。それはもつと/\不思議(ふしぎ)なものでございますよ。


      食人種(しよくじんしゆ)の話(はなし)

 さて、第三(だいさん)の航海(こうかい)から帰(かへ)つた私(わたし)は、人(ひと)に羨(うらや)まれる程(ほど)安楽(あんらく)な生活(せいかつ)を送(おく)つてゐましたが、生(うま)れついて旅行(りよこう)の好(す)きな私(わたし)の魂(たましひ)は、いつまでも私(わたし)をぢつとさせては置(お)きませんでした。で、とう/\第四(だいし)の航海(こうかい)を思(おも)ひ立(た)ちました。
 そこで私(わたし)は、これまでよりはずつと沢山(たくさん)品物(しなもの)を積(つ)み込(こ)んで、いつものようにエル・バスラーの港(みなと)から出帆(しゆつぱん)しました。そして、最初(さいしよ)のうちは随分(ずいぶん)愉快(ゆかい)な航海(こうかい)をつゞけてゐましたが、又(また)もや大(おほ)しけに出逢(であ)ひました。船長(せんちよう)は必死(ひつし)になつて働(はたら)きましたが、そのかひもなく船(ふね)は転覆(てんぷく)して、乗(の)り組(く)んでゐた人達(ひとたち)はみんな荒波(あらなみ)の中(なか)へ放(はふ)り出(だ)されました。が、私(わたし)は運(うん)よく一枚(いちまい)の板(いた)ぎれを捕(とら)まへたので、十人(じゆうにん)あまりの商人(あきうど)どもと一(いつ)しよに、その上(うへ)に坐(すわ)つたまゝ一日(いちにち)一夜(いちや)といふもの波(なみ)や風(かぜ)に揉(も)まれて漂(たゞよ)ひつゞけました。そして、次(つ)ぎの日(ひ)のお午近(ひるちか)い頃(ころ)やつとある島(しま)へ吹(ふ)きつけられました。
 その夜(よ)はとにかく海岸(かいがん)の草(くさ)の上(うへ)で眠(ねむ)りました。そして、明(あ)くる朝(あさ)、日(ひ)の出(で)る頃(ころ)になると、みんな起(お)き上(あが)つて、草(くさ)の根(ね)を噛(か)んで飢(う)ゑを凌(しの)ぎながら、あちこち島(しま)の上(うへ)を歩(ある)いて見(み)ました。すると、遠方(えんぽう)の方(ほう)に一(ひと)つの建(た)て物(もの)が見(み)えるんですね。私(わたし)どもはだん/\そちらへ歩(ある)いて行(い)きました。が、近寄(ちかよ)つて見(み)ると、どうでせう、一隊(いつたい)の野蛮人(やばんじん)がばら/\と飛(と)び出(だ)して来(き)て、見(み)るまに私(わたし)どもを捕虜(とりこ)にしてしまひました。そして、有無(うむ)を云(い)はせず、国王(こくおう)の前(まへ)に引(ひ)つ立(た)てました。
 国王(こくおう)は私(わたし)どもを見(み)てにや/\笑(わら)ひながら、下(した)に坐(すわ)れと命(めい)じました。私(わたし)どもは云(い)はれる通(とほ)りにしました。すると、野蛮人(やばんじん)の一人(ひとり)が私(わたし)どもの前(まへ)に食(た)べ物(もの)を持(も)つて来(き)て並(なら)べました。それは今(いま)まで見(み)たことも聞(き)いたこともないような、変(へん)な料理(りようり)でした。私(わたし)は気味(きみ)がわるいので、わざと手(て)を出(だ)しませんでした。が、仲間(なかま)の者(もの)は油断(ゆだん)してそれを食(た)べてしまつたんですね。すると、どうでせう、みんな馬鹿(ばか)のようになつて、げら/\笑(わら)ひ出(だ)しました。そこへ又(また)ここあの実(み)の油(あぶら)を持(も)つて来(き)て、それを仲間(なかま)の者(もの)に飲(の)ませた上(うへ)、こて/\と体中(からだじゆう)に塗(ぬ)りつけました。ところが、それを飲(の)むと仲間(なかま)の者(もの)はすぐに眼(め)の色(いろ)が変(かは)つて来(き)て、無暗(むやみ)に物(もの)を食(く)ふようになりました。そして、蛮人(ばんじん)どもの出(だ)すものをがつ/\食(た)べるんですね。私(わたし)はそれを見(み)て、仲間(なかま)の者(もの)が気(き)の毒(どく)でなりませんでした。つまりこの蛮人(ばんじん)どもは恐(おそ)ろしい食人種(しよくじんしゆ)であつたものですね。そして、この島(しま)へ漂着(ひようちやく)したものは、みんな国王(こくおう)の前(まへ)へ連(つ)れて来(き)て、例(れい)の物(もの)を食(た)べさせた上(うへ)、あの油(あぶら)を塗(ぬ)りつけるんですよ。すると、みんな馬鹿(ばか)になつて、だん/\胃袋(いぶくろ)がひろがるものだからいくらでも物(もの)が食(た)べられる。かうしてどつさり物(もの)を食(た)べさせて、うんと肥(ふと)らせて置(お)いてから、一人(ひとり)づゝ屠殺(とさつ)して国王(こくおう)の食膳(しよくぜん)に上(のぼ)せるのですね。国王(こくおう)はそれでも焙(あぶ)つて食(た)べると云(い)ふことでしたが、他(ほか)の者(もの)は生(なま)のまゝぽり/\かじるのですよ。で、まのあたりさういふ酷(むご)たらしいしわざを見(み)るにつけて、私(わたし)はいよ/\仲間(なかま)の者(もの)が可愛(かわい)そうでたまらなくなりました。が、彼等(かれら)はもうすつかり馬鹿(ばか)になり切(き)つてゐるので、自分(じぶん)たちがどうされるかも知(し)らないで、平気(へいき)で食(く)つてばかりゐるのですね。なほ蛮人(ばんじん)どもは、一人(ひとり)の番人(ばんにん)をつけて置(お)いて、毎日(まいにち)彼等(かれら)をひき出(だ)しては、草原(くさはら)の上(うへ)で適度(てきど)の運動(うんどう)を取(と)らせるようにしました。かうなれば、まつたく牛(うし)や馬(うま)も同(おな)じことですね。
 が、私(わたし)一人(ひとり)は、何(なに)一(ひと)つ食(た)べないのと恐(おそ)ろしいのとで、見(み)る影(かげ)もなく痩(や)せ衰(おとろ)へて、しまひには骨(ほね)と皮(かは)ばかりになつてしまひました。で、こんな奴(やつ)はだめだと思(おも)つたのでせう、蛮人(ばんじん)どもゝ、私(わたし)のことはうつちやつて置(お)いたまゝ、すつかり忘(わす)れてしまひました。で、この時(とき)だと思(おも)つて、私(わたし)は番人(ばんにん)が仲間(なかま)の者(もの)を連(つ)れ出(だ)してゐるひまに、そつと小屋(こや)を逃(に)げ出(だ)しました。そして、七日七夜(なのかなゝよ)の間(あひだ)駈(か)けとほしに駈(か)けた後(のち)、日(ひ)の暮(く)れ方(がた)に、とう/\或(ある)海岸(かいがん)にたどり着(つ)きました。すると、何(なに)やら向(むか)うに人影(ひとかげ)が見(み)えました。が、さんざおぢ気(け)が附(つ)いてゐるから、そばへは寄(よ)らないで、遠方(えんぽう)からぢつと透(す)かして見(み)ると、それは胡椒(こしよう)をとりに来(き)た人達(ひとたち)でございました。その人達(ひとたち)は私(わたし)の姿(すがた)を見(み)ると、そばへやつて来(き)て、
「お前(まへ)さんはどういふ者(もの)で、どこからやつて来(き)たのか」と、たづねました。
 私(わたし)はそこでこれ迄(まで)の経歴(けいれき)をありのまゝに語(かた)りました。すると、彼等(かれら)は眼(め)を●(メヘン+「爭」)(みは)つて、
「まあ、あの黒人(こくじん)の中(なか)から遁(のが)れて来(き)たのですか。昔(むかし)からあいつ等(ら)の手(て)にかゝつては、誰(だれ)一人(ひとり)無事(ぶじ)で遁(のが)れて来(き)たものはないと云(い)ふのに、よくまあ来(こ)られましたね」と、たゞもうあきれてゐました。
 それからあり合(あ)はせの食(た)べ物(もの)なぞ出(だ)して、親切(しんせつ)にいたはつてくれましたので、私(わたし)もやつと生(い)き返(かへ)つた思(おも)ひをしました。そして、その人達(ひとたち)の為事(しごと)が済(す)むのを待(ま)つて、一(いつ)しよに船(ふね)に乗(の)せて、対岸(たいがん)の島(しま)まで連(つ)れて行(い)つて貰(もら)ひました。そこで、彼等(かれら)は私(わたし)を連(つ)れて国王(こくおう)の前(まへ)へ出(で)ました。国王(こくおう)も私(わたし)の話(はなし)を聞(き)いて、大(たい)そう驚(おどろ)いてゐられました。そして、いろんな御馳走(ごちそう)をたまはつた上(うへ)、新(あたら)しい衣服(いふく)まで下(くだ)されました。で、私(わたし)は勇(いさ)んで御前(ごぜん)を退出(たいしゆつ)しました。
 私(わたし)はそれから市中(しちゆう)を見物(けんぶつ)して廻(まは)りました。見(み)ると、市場(いちば)や問屋(とんや)もあつて、富(とみ)の程度(ていど)も高(たか)ければ、住民(じゆうみん)も多(おほ)く、いかにも繁華(はんか)らしい都(みやこ)でございました。が、一(ひと)つ驚(おどろ)いたことには、身分(みぶん)の高(たか)い者(もの)も低(ひく)い者(もの)も、一様(いちよう)に鞍(くら)のない裸馬(はだかうま)に乗(の)つて歩(ある)いてゐるのですね。をかしな話(はなし)だと思(おも)つて、私(わたし)はそのわけを国王(こくおう)にたづねて見(み)ました。が、国王(こくおう)はまるで御存(ごぞん)じないと見(み)えて、却(かへ)つて、
「鞍(くら)とは一体(いつたい)どんなものか」と、おたづねになるのです。
 そこで、私(わたし)は少(すこ)し許(ばか)りの木(き)ぎれを頂戴(ちようだい)して、心(こゝろ)のきいた大工(だいく)を助手(じよしゆ)に、早速(さつそく)鞍(くら)の製作(せいさく)に取(と)りかゝりました。そして、木地(きじ)が出来上(できあが)ると、その上(うへ)から鞣革(なめしがは)を張(は)つて、磨(みが)きをかけてしばらくの間(あひだ)に立派(りつぱ)な鞍(くら)を仕上(しあ)げました。それから、今度(こんど)は鍜冶屋(かじや)に命(めい)じて一対(いつゝい)の鐙(あぶみ)を打(う)たせました。で、双方(そうほう)が出来上(できあが)つた時(とき)、私(わたし)はそれを持(も)つて国王(こくおう)の御前(ごぜん)へ出(で)ました。そして、厩舎(うまや)から馬(うま)をひき出(だ)して、二(ふた)つともちやんとそれにつけて御覧(ごらん)に入(い)れました。国王(こくおう)も、なるほどかういふものかと云(い)ふので、早速(さつそく)乗(の)つて見(み)られましたが、大(たい)そうお気(き)に召(め)して、沢山(たくさん)御褒美(ごほうび)を下(くだ)されました。ところが、宰相(さいしよう)を始(はじ)めとしてその他(ほか)の貴族(きぞく)たちも、その噂(うはさ)を聞(き)いて、われも/\と鞍(くら)を註文(ちゆうもん)しました。私(わたし)はそれを引(ひ)き請(う)けて造(つく)つてやりました。かうして国中(くにじゆう)の鞍(くら)を一手(いつて)で拵(こしら)へてゐる間(あひだ)に、私(わたし)はだん/\裕福(ゆうふく)にもなれば、世間(せけん)からも尊敬(そんけい)されるようになりました。
 ある日(ひ)のこと、国王(こくおう)は私(わたし)をおそば近(ちか)く坐(すわ)らせて、「わしはお前(まへ)に一(ひと)つ頼(たの)みがあるが、ぜひそれは聞(き)いて貰(もら)ひたいものだね」と、云(い)ひ出(だ)されました。
「どんなことでございませうか」と、私(わたし)は聞(き)き返(かへ)しました。「私(わたし)もかうして陛下(へいか)の召(め)し使(つか)ひとなつた以上(いじよう)、たとひどのような仰(おほ)せであらうとも違背(いはい)はいたしませぬ。どうぞ心置(こゝろお)きなくおつしやつて下(くだ)さいませ」
「その頼(たの)みと云(い)ふのは」と、国王(こくおう)はつゞいておつしやいました。「他(ほか)でもないが、わしはお前(まへ)に長(なが)くこの国(くに)のものになつて貰(もら)ひたいのぢや。ついては、わしが一人(ひとり)立派(りつぱ)な婦人(ふじん)を見立(みた)てゝ遣(つか)はすが、どうぢや、その女(をんな)と結婚(けつこん)して貰(もら)はれないだらうか」
 あまりに思(おも)ひがけない仰(おほ)せなので、「はつ」と、頭(かしら)を下(さ)げたまゝ、私(わたし)はしばらく返事(へんじ)が出来(でき)ませんでした。が、国王(こくおう)のお言葉(ことば)に背(そむ)くわけには行(ゆ)かないから、とにかくお受(う)けするの旨(むね)を申(まを)し上(あ)げました。すると、国王(こくおう)は大(たい)そうお喜(よろこ)びになつて、その場(ば)ですぐに婚約(こんやく)の式(しき)を挙(あ)げるように命(めい)ぜられました。相手(あひて)の女(をんな)といふのはその国(くに)の貴族(きぞく)の娘(むすめ)で、心(こゝろ)ばえも正(たゞ)しく、容色(ようしよく)もすぐれた、本当(ほんとう)に立派(りつぱ)な婦人(ふじん)でございました。で、私(わたし)はすつかり満足(まんぞく)して、まもなくその女(をんな)を自分(じぶん)の家(いへ)にひき取(と)りました。そして、仲(なか)よく暮(くら)してゐるうちに、忘(わす)れるともなく国(くに)のことも忘(わす)れて、うか/\と月日(つきひ)を送(おく)るようになりました。
 で、しばらくは何事(なにごと)もありませんでしたが、ある時(とき)隣(とな)りの細君(さいくん)がこの世(よ)を去(さ)りました。その家(いへ)の主人(しゆじん)とはかねて懇意(こんい)にしてゐましたので、私(わたし)はおくやみがてら主人(しゆじん)を慰(なぐさ)めに出(で)かけました。見(み)ると、その主人(しゆじん)は死骸(しがい)を前(まへ)に置(お)いたまゝ、身(み)も世(よ)もあらず泣(な)きくづれてゐるのですね。それが一通(ひととほ)りでないので、
「まあ、そんなに歎(なげ)いても仕方(しかた)がない。死(し)んだものはあきらめて、あなたがわづらはないように、体(からだ)を大事(だいじ)になさるのが肝心(かんじん)ですよ」と、云(い)つてやりました。
 が、主人(しゆじん)は一(いつ)そう烈(はげ)しく泣(な)き出(だ)して、
「私(わたし)が体(からだ)を大事(だいじ)にしてなんになりませう。私(わたし)の命(いのち)はもう一日(いつにち)だけですよ、明日(あす)はもうあなたにもお目(め)にかゝれませんよ」と、身悶(みもだ)えしながらわめくのですよ。
「どうしてそんなことを云(い)ふのです。あなたは気(き)でもちがつたのですか」と、私(わたし)は手(て)がつけられないような気(き)がして云(い)ひました。
「あなたはなんにも御存(ごぞん)じないから、そんなことを云(い)つてるのぢや」と、主人(しゆじん)はそれに答(こた)へました。「今(いま)に近所(きんじよ)の人達(ひとたち)がよつて来(き)て、妻(つま)と一(いつ)しよに、私(わたし)まで墓穴(はかあな)の中(なか)へ埋(うづ)めてしまひますよ。どつちが先(さき)へ死(し)んでも、一人(ひとり)だけ後(あと)に残(のこ)つてゐるわけに行(ゆ)かぬのが、私(わたし)どもの国(くに)の習(なら)はしですからね」
 それを聞(き)いて、私(わたし)はびつくりしてしまひました。が、聞(き)き返(かへ)してゐる暇(ひま)のないうちに、どや/\と大勢(おほぜい)の人(ひと)がはひつて来(き)ました。そして、棺車(かんぐるま)の上(うへ)に、女(をんな)の亡骸(なきがら)と、それに生前(せいぜん)の衣裳(いしよう)や装飾品(そうしよくひん)は云(い)ふまでもない、生(い)きた夫(をつと)まで一(いつ)しよに載(の)せて、ごろ/\と曳(ひ)いて行(ゆ)きました。で、都(みやこ)の外(そと)へ出(で)て、海(うみ)に近(ちか)い、山(やま)の中腹(ちゆうふく)に達(たつ)すると、彼等(かれら)は一枚(いちまい)の大(おほ)きな石(いし)を持(も)ち上(あ)げました。その下(した)は井戸側(ゐどがは)のような石(いし)の枠(わく)になつてゐて、その枠(わく)の中(なか)へ女(をんな)の死体(したい)をはふり下(お)ろしました。それは山(やま)の底(そこ)までとゞくような、大(おほ)きな洞穴(ほらあな)でございました。彼等(かれら)はそれからその夫(をつと)を連(つ)れて来(き)て、一本(いつぽん)の縄(なは)を腰(こし)に結(いは)ひつけたまゝ、ずる/\と穴(あな)の中(なか)へ卸(お)ろしてやりました。そして、その穴(あな)の口(くち)を大(おほ)きな石(いし)で元(もと)のように塞(ふさ)いでしまひました。かうして殺(ころ)されるのは、前(まへ)に死(し)んだ妻(つま)よりもどんなに切(せつ)ないことでせう。私(わたし)はすぐに国王(こくおう)の御前(ごぜん)へ出(で)て、
「どうして生(い)きた人間(にんげん)を死(し)んだ者(もの)と一(いつ)しよに埋(う)めるのです」と、なじるようにきいて見(み)ました。
「それはわしの国(くに)の習(なら)はしでな」と、国王(こくおう)はむつつりとして云(い)はれました。「つまり生(い)きてゐるうちも、死(し)んでからも、夫婦(ふうふ)は絶対(ぜつたい)に離(はな)れることを許(ゆる)されぬのぢや」
「では」と、私(わたし)は急(せ)き込(こ)んでたづねました。「では、私(わたし)のような外国人(がいこくじん)でも、妻(つま)が死(し)んだら、やつぱり生(い)き埋(う)めにされるんですね」
「もちろんぢや」
 この返辞(へんじ)を聞(き)いて、私(わたし)はもうがつかりしてしまひました。で、それからと云(い)ふものは、自分(じぶん)よりも妻(つま)が先(さき)に死(し)んだらどうしようと、そればかり気(き)にかゝるようになりました。が、そのうちには又(また)「なに、俺(おれ)の方(ほう)が先(さき)に死(し)ぬだらうよ」と、そんな当(あ)てにもならぬ空頼(そらだの)みを当(あ)てにするようにもなりました。
 その後(ご)しばらくして、私(わたし)の妻(つま)が病気(びようき)にかゝつて、数日間(すうじつかん)寝(ね)てゐた後(のち)、そのまゝ死(し)んでしまひました。私(わたし)の驚(おどろ)きはそれこそ筆(ふで)にも口(くち)にも尽(つく)されませんでした。が、逃(に)げ出(だ)す道(みち)もありません。まご/\してゐるうちに、大勢(おほぜい)人(ひと)が集(あつま)つて来(き)て、隣(とな)りの夫婦(ふうふ)と同(おな)じように、墓所(はかしよ)までひいて行(ゆ)かれました。やがて石(いし)の蓋(ふた)を持(も)ち上(あ)げて、まづ妻(つま)の死体(したい)を投(な)げ込(こ)みました。それからいよ/\私(わたし)にも永別(えいべつ)の言葉(ことば)を述(の)べるのですね。私(わたし)はもう気(き)も顛倒(てんとう)して、相手(あひて)の膝(ひざ)にしがみついたまゝ、自分(じぶん)は外国人(がいこくじん)だからこんな習(なら)はしには従(したが)へない。どうぞ勘弁(かんべん)してくれ、勘弁(かんべん)してくれ、とわめき立(た)てました。が、誰(だれ)も私(わたし)の云(い)ふことなぞ聞(き)いてはくれません。いきなり私(わたし)の手(て)を取(と)つて縛(しば)り上(あ)げた上(うへ)、むりやりに穴(あな)の中(なか)へ突(つ)き落(おと)しました。私(わたし)はとう/\一本(いつぽん)の縄(なは)に結(ゆは)い着(つ)けられたまゝ、ずる/\と穴(あな)の底(そこ)までおろされました。そして上(うへ)から大(おほ)きな石(いし)で穴(あな)の口(くち)を塞(ふさ)いでしまはれました。
 穴(あな)の中(なか)は真暗(まつくら)で、夜(よる)と昼(ひる)との見分(みわ)けもつきませんでした。それに、どちらを向(む)いても、死骸(しがい)がごろ/\してゐて、その腐(くさ)つた臭気(しゆうき)と云(い)つたらたまらないのですね。私(わたし)はなるたけ新(あたら)しい死骸(しがい)から遠(とほ)のいて、ばら/\な骨(ほね)の上(うへ)に腰(こし)を下(お)ろしました。そして、最後(さいご)に添(そ)えてくれた七(なゝ)きれの麺麭(ぱん)と一壺(ひとつぼ)の水(みづ)とを、極(きは)めて少量(しようりよう)づゝちびり/\飲(の)んで、一日(いちにち)延(の)ばしに命(いのち)を延(の)ばしてゐました。このぱんと水(みづ)とは、私(わたし)のようにして埋(う)められる者(もの)には誰(だれ)にでもつけてくれるのですよ。ところで、いくら舐(な)めるようにしてゐても、無(な)くなるものは無(な)くなるので、私(わたし)はいよ/\飢(う)ゑ死(じ)にするばかりになりました。その時(とき)、ふいに石(いし)の蓋(ふた)がのけられて、上(うへ)から日光(につこう)が射(さ)して来(き)ました。見(み)ると、先(ま)ず男(をとこ)の死体(したい)がはふり下(お)ろされて、その後(あと)から生(い)きたその妻(つま)がずる/\とおろされて来(く)るんですね。私(わたし)は一本(いつぽん)の大(おほ)きな骨(ほね)を手(て)に持(も)つて、その女(をんな)のそばへ近(ちか)づきながら、いきなりその脳天(のうてん)を打(う)ち下(お)ろして、殺(ころ)してしまひました。他(ほか)でもない、その女(をんな)の持(も)つてゐる七(なゝ)きれのぱんが欲(ほ)しかつたからです。かうなると、人間(にんげん)もあさましいものですね。が、さうまでにして生(い)きてゐなければならない私(わたし)と、一思(ひとおも)ひに殺(ころ)された女(をんな)と、どちらが幸福(こうふく)だかわかりませんね。私(わたし)はそれからも、生(い)きながら埋(う)められて来(く)るものがあるたんびに、それを殺(ころ)して、その麺麭(ぱん)と水(みづ)とを奪(うば)ひ取(と)りました。そして、それをほんの少(すこ)しづゝ食(た)べながら、わづかに命(いのち)を繋(つな)いでゐました。
 ところが、ある日(ひ)うと/\と眠(ねむ)つてゐた時(とき)、何(なに)やら洞穴(ほらあな)の中(なか)で物音(ものおと)がしたような気(き)がして、眼(め)を覚(さ)ましました。私(わたし)は一本(いつぽん)の長(なが)い骨(ほね)を手(て)に握(にぎ)つたまゝ、急(いそ)いでそちらへ行(い)つて見(み)ました。ところが、向(むか)うでは私(わたし)が動(うご)き出(だ)したのに驚(おどろ)いたと見(み)えて、どん/\逃(に)げて行(ゆ)くのですよ。どうもそれが獣(けもの)らしいのですね。獣(けもの)がはひつて来(く)る位(くらゐ)なら、どこかに別(べつ)の穴(あな)があるに違(ちが)ひない。さう思(おも)つたので、私(わたし)は一(いつ)しよう懸命(けんめい)にその後(あと)から追(おつ)かけて行(ゆ)きました。すると洞穴(ほらあな)がだん/\上(うへ)の方(ほう)へ登(のぼ)つて行(ゆ)くようになつてゐて、ふいに星(ほし)のような光(ひかり)が行手(ゆくて)に見(み)えてまゐりました。私(わたし)はこをどりして喜(よろこ)びました。あれこそ人間(にんげん)の世界(せかい)へ通(つう)ずる穴(あな)に相違(そうい)ない。さう思(おも)つて駈(か)けつけて見(み)ると、やつぱりその山(やま)の裏側(うらがは)へ通(つう)ずるようになつたトンネルで、洞穴(ほらあな)の中(なか)の死骸(しがい)を食(く)ひに来(く)る野獣(やじゆう)が長(なが)い間(あひだ)につくつたものらしいのですね。で、その穴(あな)の外(そと)へ出(で)て、再(ふたゝ)び太陽(たいよう)の光(ひかり)を見(み)た時(とき)の私(わたし)の心持(こゝろも)ちは、なんと云(い)つたらいゝでせうか。まつたく、一度(いちど)死(し)んだ人間(にんげん)が二(ふた)たび生(い)き返(かへ)つたような、悪(わる)い夢(ゆめ)から覚(さ)めたような気持(きも)ちでこざいました。が、私(わたし)は考(かんが)へるところがあつて、再(ふたゝ)びその狭(せま)いトンネルの中(なか)を通(とほ)つて、元(もと)ゐた洞穴(ほらあな)の中(なか)へ取(と)つて返(かへ)しました。そして、そこらに散(ち)らばつてゐる黄金(おうごん)や白金(はくきん)の装身具(そうしんぐ)だの、宝石(ほうせき)だのを手当(てあた)り任(まか)せに掻(か)きあつめました。それから死体(したい)の衣裳(いしよう)を剥(は)いで、あつめたものをすつかりその中(なか)へ包(つゝ)んだまゝ、それを引(ひ)つかついで、再(ふたゝ)び穴(あな)の外(そと)へ出(で)てまゐりました。けれども、そこは山(やま)の裏側(うらがは)にあたつてゐて、前(まへ)は一面(いちめん)にひろ/゛\とした海(うみ)、左右(さゆう)は険(けは)しい崖(がけ)になつてゐましたから、どこへどうするわけにも行(い)かないのですよ。
 私(わたし)は毎日(まいにち)波打(なみう)ちぎはに立(た)つて、どうかして沖(おき)を通(とほ)る船(ふね)はないものかと、そればかり心頼(こゝろだの)みに眺(なが)めてゐました。すると、ある日(ひ)海(うみ)の上(うへ)を走(はし)つてゐる一艘(いつそう)の船(ふね)が眼(め)についたのですね。私(わたし)は飛(と)び上(あが)つて喜(よろこ)ぴました。そして、死体(したい)から剥(は)いだ白(しろ)い布片(きれ)を振(ふ)りながら、声(こゑ)を限(かぎ)りによびつゞけました。それが通(つう)じたと見(み)え、船(ふね)の方(ほう)でも進行(しんこう)をとめて、ぼーとをおろして私(わたし)を救(すく)ひに来(き)てくれました。水夫(すいふ)どもは私(わたし)を取(と)りかこみながら、
「お前(まへ)さんはどこの生(うま)れのどういふ者(もの)だ。どうしてこんな所(ところ)へ来(き)てゐたのか」と、口々(くち/゛\)にたづねました。
 が、今度(こんど)は私(わたし)もありのまゝを答(こた)へる気(き)になれなかつたので、「難船(なんせん)して、こゝへ打(う)ち上(あ)げられたのだ」と、いゝかげんにその場(ば)をつくろつて置(お)きました。一(ひと)つは、どうかしたらその船(ふね)にあの都(みやこ)の者(もの)が乗(の)り組(く)んでゐやせんかと、それを心配(しんぱい)したのですよ。で、水夫(すいふ)どもはすぐに私(わたし)をぼーとに乗(の)せて、親船(おやぶね)へ連(つ)れて行(い)つてくれました。
 ところで、その船(ふね)の船長(せんちよう)は非常(ひじよう)に親切(しんせつ)な人(ひと)でございましたので、私(わたし)もそれからは安(やす)らかな航海(こうかい)をつゞけることが出来(でき)ました。そして、とう/\エル・バスラーの港(みなと)へ到着(とうちやく)して、それからバグダツドの都(みやこ)へ帰(かへ)つてまゐりました。
 これが第四航海(だいしこうかい)の間(あひだ)に、私(わたし)の身(み)に起(おこ)つた出来事(できごと)でございます。




   アリ・ババと四十人(しじゆうにん)の盗賊(とうぞく)

 昔(むかし)、ペルシヤの国(くに)のある町(まち)に、カシムにアリ・ババと云(い)ふ二人(ふたり)の兄弟(きようだい)がありました。兄(あに)のカシムは、大(おほ)きな商人(あきうど)の娘(むすめ)と結婚(けつこん)して、町(まち)でも評判(ひようばん)なお金持(かねも)ちになりました。が、弟(おとうと)のアリ・ババが結婚(けつこん)した女(をんな)は大変(たいへん)貧乏(びんぼう)でしたので、これは又(また)みすぼらしい小屋(こや)に住(す)んでゐました。で、アリ・ババは、毎日(まいにち)森(もり)へ行(い)つて薪(たきゞ)を集(あつ)めては、それを町(まち)の市場(いちば)へ売(う)りに出(で)て、その日(ひ)/\を送(おく)つてゐました。
 ある日(ひ)のこと、アリ・ババは森(もり)へ行(い)つて、いつものように薪(たきゞ)をきつてゐますと、ふいに右手(みぎて)の空高(そらたか)く、雲(くも)のような土煙(つちけむり)が捲(ま)き上(あが)つて、それが非常(ひじよう)な勢(いきほひ)で自分(じぶん)の方(ほう)へ押(お)し寄(よ)せて参(まゐ)りました。よく見(み)ると、それは馬(うま)に乗(の)つた盗賊(とうぞく)の一隊(いつたい)らしいのです。で、こいつらは、自分(じぶん)を殺(ころ)して、自分(じぶん)の連(つ)れてゐる驢馬(ろば)を奪(うば)うために来(き)たのではないかしら、と思(おも)ふと、あまりの恐(おそ)ろしさにアリ・ババは慄(ふる)へ上(あが)つてしまひました。が、彼等(かれら)はもうすぐ目(め)の前(まへ)へ迫(せま)つて来(き)て、とても逃(に)げ出(だ)すひまなぞがあつたものではございません。そこでアリ・ババは、薪(たきゞ)をつけた驢馬(ろば)を路傍(みちばた)の叢(くさむら)の中(なか)へ追(お)ひ込(こ)んで置(お)いて、自分(じぶん)は身(み)を隠(かく)すために、険(けは)しい岩(いは)の側(そば)にはえてゐる太(ふと)い木(き)に攀(よ)ぢ登(のぼ)りました。そして、葉(は)のよく繁(しげ)つた枝(えだ)の上(うへ)に乗(の)つかつて、下(した)からは見(み)えないように身(み)を庇(かば)ひながら、そうつと様子(ようす)を窺(うかゞ)つてをりました。
 すると、どうでせう、すさまじい勢(いきほひ)で走(はし)つて来(き)た一隊(いつたい)の人々(ひと/゛\)は、岩(いは)の前(まへ)まで来(く)るとぴたりと足(あし)をとめて、みんな馬(うま)から飛(と)び降(お)りました。見(み)れば、それは総勢(そうぜい)四十人(しじゆうにん)の盗賊(とうぞく)どもで手(て)に/\分捕(ぶんど)り品(ひん)を携(たづさ)へてゐました。きつとその分捕(ぶんど)り品(ひん)を隠(かく)すためにやつて来(き)たのだなと、さう思(おも)つて見(み)てゐると、やがて隊長(たいちよう)らしい男(をとこ)が、つか/\と岩(いは)の前(まへ)へ進(すゝ)んで出(で)て、次(つ)ぎのようなことを云(い)ひました。
 「開(ひら)けよ、胡麻(ごま)」
 すると不思議(ふしぎ)にも、岩(いは)の扉(とびら)がひとりでに、する/\と開(ひら)いて、そこに広(ひろ)い戸口(とぐち)が現(あらは)れました。盗賊(とうぞく)どもは、めい/\の分捕(ぶんど)り品(ひん)を担(かつ)いで、皆(みん)なその洞穴(ほらあな)の中(なか)へはひつて行(ゆ)きました。そのとたんに、岩(いは)の扉(とびら)は元(もと)のように閉(しま)つてしまひました。アリ・ババは、この間(あひだ)にそつと逃(に)げ出(だ)そうかと思(おも)ひましたが、いつ彼等(かれら)が出(で)て来(こ)ようもわからないので、ぢつとこらへて、そのまゝ木(き)の上(うへ)に留(とゞ)まつてゐました。と、やゝしばらくして、入(い)り口(ぐち)の扉(とびら)が再(ふたゝ)び開(ひら)きました。そして、真先(まつさき)に隊長(たいちよう)が出(で)て参(まゐ)りました。彼(かれ)は入(い)り口(ぐち)に立(た)つたまゝ、後(あと)から出(で)て来(く)る手下(てした)の者(もの)どもの人数(にんず)を調(しら)べてゐましたが、一人残(ひとりのこ)らず出(で)てしまふと、今度(こんど)はかう云(い)ふ呪文(じゆもん)を唱(とな)へました。──
 「閉(と)じよ、胡麻(ごま)」
 すると、扉(とびら)は又(また)ひとりでに閉(しま)つてしまひました。そして一同(いちどう)は再(ふたゝ)び、ひらりと馬(うま)に跨(またが)つて、隊長(たいちよう)を先頭(せんとう)に、もと来(き)た方角(ほうがく)へ駈(か)けて行(い)つてしまひました。
 やがて、盗賊(とうぞく)どもの姿(すがた)が見(み)えなくなると、アリ・ババは心(こゝろ)のうちに、「あの呪文(じゆもん)は、誰(だれ)が唱(とな)へてもきゝめがあるかしら。一(ひと)つ試(ため)してみようや」と、考(かんが)へながら、木(き)から降(お)りて来(き)て、例(れい)の岩(いは)の前(まへ)に立(た)ちました。そして、
「開(ひら)けよ、胡麻(ごま)」
と、大(おほ)きな声(こゑ)で云(い)ひますと、忽(たちま)ち入(い)り口(ぐち)の扉(とびら)が開(ひら)きました。アリ・ババはびつくりしましたが、同時(どうじ)に又(また)喜(よろこ)びもして、おづ/\その中(なか)へはひつて行(ゆ)きました。見(み)ると、それは大(おほ)きな洞穴(ほらあな)で、しかもその広(ひろ)い床(ゆか)の上(うへ)には、絹(きぬ)や、錦(にしき)や、美(うつく)しい刺繍(ししゆう)のある布(ぬの)や、その他(ほか)色(いろ)とりどりの毛氈(もうせん)などが、山(やま)のように積(つ)んでございました。なほ、金貨(きんか)や銀貨(ぎんか)を一杯(いつぱい)詰(つ)めた革袋(かはぶくろ)が、これもまた山(やま)のように積(つ)んでございましたので、たゞもう眼(め)を●(メヘン+「爭」)(みは)つてあきれる外(ほか)ありませんでした。
 ところで、アリ・ババが洞穴(ほらあな)の中(なか)へはひるや否(いな)や、入(い)り口(ぐち)の扉(とびら)はその後(あと)からひとりでに閉(しま)つてしまひました。が、彼(かれ)は呪文(じゆもん)を覚(おぼ)えてゐましたので、それを見(み)ても、少(すこ)しも慌(あわ)てませんでした。そして、あたりの貴(たうと)い品物(しなもの)などには目(め)もくれず、一(いつ)しよう懸命(けんめい)に金貨(きんか)の袋(ふくろ)ばかり運(はこ)び出(だ)して、それを驢馬(ろば)の脊(せ)につけた上(うへ)、木(き)の枝(えだ)や薪(たきゞ)で隠(かく)して、誰(だれ)の目(め)にもその袋(ふくろ)が見(み)えないようにいたしました。かうして驢馬(ろば)の荷拵(にごしら)へが済(す)むと、彼(かれ)は岩(いは)の前(まへ)に立(た)つて、
「閉(と)じよ、胡麻(ごま)」と叫(さけ)ぴました。岩(いは)の扉(とびら)は音(おと)もなく閉(しま)りました。そこで、アリ・ババは大急(おほいそ)ぎで町(まち)へ戻(もど)つてまゐりました。
 さてアリ・ババのおかみさんは、彼(かれ)が持(も)つて帰(かへ)つた沢山(たくさん)な金貨(きんか)を見(み)ると、たゞもう盗(ぬす)んで来(き)たものとばかり思(おも)ひ込(こ)んで、しきりにアリ・ババを責(せ)め立(た)てました。しかしアリ・ババからその冒険談(ぼうけんだん)を聞(き)くと、安心(あんしん)すると共(とも)に、有頂天(うちようてん)になつて、早速(さつそく)お金(かね)の勘定(かんじよう)を始(はじ)めました。それを見(み)て、アリ・ババは笑(わら)ひながら云(い)ひました。──
「いつまで勘定(かんじよう)したつて、それが勘定(かんじよう)しきれるものか。そんなことをしてゐるよりも、早(はや)く穴(あな)を掘(ほ)つて、誰(だれ)にも見(み)つけられないように埋(う)めて置(お)かうよ」
 すると、おかみさんは云(い)ひました。──
「では、目方(めかた)だけでもはかつて見(み)ませうよ。おほよそ目方(めかた)にしてどのくらゐあるか、それが知(し)りたいからさ」
「そんなに云(い)ふなら、お前(まへ)のすきなようにするがいゝさ。だが、このことは誰(だれ)にも云(い)つちやあいけないよ」と、アリ・ババは云(い)つて聞(き)かせました。
 そこでおかみさんは、大急(おほいそ)ぎでカシムのうちへ秤(はかり)を借(か)りに行(ゆ)きました。ところが、カシムのおかみさんは、欲張(よくば)りで、おまけに嫉(ねた)み深(ぶか)い女(をんな)でしたから、弟(おとうと)のうちで一体(いつたい)何(なに)を計(はか)るかそれが知(し)りたいものだと、そつと秤(はかり)の皿(さら)に蝋(ろう)と脂(あぶら)とを塗(ぬ)りつけて置(お)きました。アリ・ババのおかみさんは、そんなことは知(し)りませんから、うちへ帰(かへ)ると、早速(さつそく)その秤(はかり)で金貨(きんか)の目方(めかた)をはかり始(はじ)めました。その間(あひだ)、アリ・ババはせつせと穴(あな)を掘(ほ)つてゐました。そして、すつかり目方(めかた)をはかつてしまつてから、それを穴(あな)の中(なか)へ入(い)れて、その上(うへ)からそつと土(つち)をかぶせて置(お)きました。
 やがてアリ・ババのおかみさんはカシムのうちへ秤(はかり)を返(かへ)しに行(ゆ)きましたが、ついうつかりしてゐましたので、金貨(きんか)が一(ひと)つ皿(さら)にくつついてゐるのも知(し)らずにゐました。ところが、受(う)け取(と)る方(ほう)では、何(なに)がついて来(く)るかと、それを楽(たのし)みに待(ま)つてゐたのですからたまりません。しかし、よもや金貨(きんか)がくつついて来(こ)ようとは思(おも)つてゐませんでした。で、それを見(み)ると、カシムのおかみさんは、あまりの嫉(ねた)ましさに、すつかり腹(はら)を立(た)てゝしまひました。そして、夕方(ゆふがた)カシムが戻(もど)つて来(く)ると、いきなりかう云(い)ひました。──
「お前(まへ)さんはそれでもお金持(かねも)ちのつもりでゐるんですかい。弟(おとうと)のアリ・ババさんを御覧(ごらん)なさいな。金貨(きんか)が山(やま)ほどあつて、秤(はかり)でゞもはからなければ、とてもはかり切(き)れないくらゐなんですよ。それだのに、お前(まへ)さんと云(い)つたら、あれんばかりのお金(かね)をなんべんも/\数(かぞ)へ直(なほ)して、ほく/\喜(よろこ)んでゐるぢやないの」
 それからアリ・ババのおかみさんが秤(はかり)を借(か)りに来(き)たことや、秤(はかり)の皿(さら)に金貨(きんか)がくつついてゐたことを話(はな)して聞(き)かせた上(うへ)、その金貨(きんか)を目(め)の前(まへ)へ出(だ)して見(み)せたものですから、カシムも嫉(ねた)ましくてたまらなくなりました。で、明(あ)くる朝(あさ)は早起(はやお)きをして、アリ・ババのところへやつてまゐりました。そして、散々(さん/゛\)弟(おとうと)を責(さいな)んだあげく、とう/\金貨(きんか)のありかと例(れい)の呪文(じゆもん)とを白状(はくじよう)させてしまひました。
 そこでカシムは、その日(ひ)のうちに十頭(じつとう)の驢馬(ろば)を用意(ようい)して置(お)いて、明(あ)くる朝(あさ)早(はや)くかの洞穴(ほらあな)を指(さ)してやつてまゐりました。そして、不思議(ふしぎ)な岩(いは)の前(まへ)に辿(たど)り着(つ)くと、胸(むね)を躍(をど)らせながら、「開(ひら)けよ、胡麻(ごま)」と、叫(さけ)びました。すると、たちまち入(い)り口(ぐち)の扉(とびら)が開(ひら)きました。カシムは喜(よろこ)んで早速(さつそく)その中(なか)へ飛(と)び込(こ)みました。見(み)れば、足(あし)の踏(ふ)み場(ば)もない程(ほど)、金銀財宝(きんぎんざいほう)が山(やま)と積(つ)んであるではありませんか。カシムはもう夢中(むちゆう)になつて、しばらくの間(あひだ)あつちこつちと歩(ある)き廻(まは)つてばかりゐました。が、まもなく気(き)がついて、手当(てあた)り任(まか)せに沢山(たくさん)な金貨(きんか)の袋(ふくろ)を掻(か)き集(あつ)めた上(うへ)、いよいよ荷拵(にごしら)へに取(と)りかゝらうと入(い)り口(ぐち)の方(ほう)へ出(で)てまゐりました。そして、岩(いは)の扉(とびら)の前(まへ)に立(た)つて、「開(ひら)けよ、大麦(おほむぎ)」と、叫(さけ)びました。けれども、戸(と)はびくともしません。カシムはびつくりして、急(きゆう)にあわて出(だ)しながら、知(し)つてゐる限(かぎ)りの穀物(こくもつ)の名(な)を呼(よ)んで見(み)ました。が、胡麻(ごま)といふ名(な)だけはどうしても思(おも)ひ出(だ)せなかつたのです。カシムはもう金貨(きんか)どころではありません。あまりの悲(かな)しさに、もう生(い)きた心地(こゝち)もなく、ひたすら自分(じぶん)の強欲(ごうよく)を後悔(こうかい)いたしました。が、それも今(いま)となつてはなんのかひもありませんでした。
 さて、その日(ひ)も午近(ひるちか)くなると、かの盗賊(とうぞく)の一隊(いつたい)が洞穴(ほらあな)をさして馳(は)せ帰(かへ)つてまゐりました。かうなつてはもうたまりません。カシムはたちまち斬(き)り殺(ころ)されて、その上(うへ)になほ、死体(したい)をずた/\に引(ひ)き裂(さ)かれてしまひました。実際(じつさい)むごたらしいことをするものですね。が、盗賊(とうぞく)どもの方(ほう)では、それを洞穴(ほらあな)の左右(さゆう)に吊(つる)して置(お)いて、この後(のち)忍(しの)び込(こ)む者(もの)の見(み)せしめにしようと云(い)ふのでございました。
 ところで、カシムのおかみさんはカシムの帰(かへ)りを今(いま)か/\と待(ま)ち構(かま)へてゐました。が、その日(ひ)も暮(く)れて、夜(よる)になつてもまだカシムが帰(かへ)つて来(こ)ないものですから、弟(おとうと)のアリ・ババのところへ行(い)つて、さも心配(しんぱい)そうに、
「アリ・ババさん、カシムがまだ戻(もど)りませんが、何(なに)か災難(さいなん)でも起(おこ)つたんぢやないでせうか。だつて、こんなに遅(おそ)くなる筈(はず)がありませんものね」と、たづねました。
 それを聞(き)いて、アリ・ババはひとり心(こゝろ)の中(なか)に、どうかするとそんなことかも知(し)れないぞ、と思(おも)ひましたが、つとめて平気(へいき)な声(こゑ)で、
「なあに、心配(しんぱい)することはありませんよ。兄(にい)さんは万事(ばんじ)よく呑(の)み込(こ)んでゐるんですからね。多分(たぶん)廻(まは)り道(みち)でもしてゐるんですよ、それに相違(そうい)ありませんとも。見(み)ていらつしやい、今(いま)にひよつこり帰(かへ)つて来(き)ますから」と、云(い)ひました。
 かうしてアリ・ババに慰(なぐさ)められて、カシムのおかみさんはうちへ戻(もど)つて行(ゆ)きました。しかし、いつまで待(ま)つてもカシムは帰(かへ)つてまゐりませんでした。彼女(かのじよ)は気(き)も狂(くる)はんばかりに、その夜(よ)一夜(ひとよ)を泣(な)き明(あ)かしました。
 明(あ)くる朝(あさ)、アリ・ババは驢馬(ろば)を連(つ)れて、兄(あに)を捜(さが)しに森(もり)の方(ほう)へ出(で)かけて行(ゆ)きました、が、例(れい)の岩(いは)の近(ちか)くへ来(き)て見(み)ると、生々(なま/\)しい血(ち)が幾(いく)すぢもあたりの大地(だいち)を染(そ)めてゐるのです。アリ・ババは慄(ふる)へる足(あし)を踏(ふ)みしめながら、岩(いは)の前(まへ)に近寄(ちかよ)りました。そして、例(れい)の呪文(じゆもん)を唱(とな)へましたが、すぐに扉(とびら)が開(ひら)いたので、いざ一歩(ひとあし)はひらうとすると、これは又(また)なんとしたことでせう。八(や)つ裂(ざ)きになつた兄(あに)の死体(したい)がぶらりと目(め)の前(まへ)にかゝつてゐるではありませんか。アリ・バパは、危(あやふ)く卒倒(そつとう)するところでございました。が、思(おも)へば、今(いま)は寸時(すんじ)も暇(ひま)どつてゐる場合(ばあひ)ではないので、気(き)を励(はげ)ましながら兄(あに)の死体(したい)を引(ひ)きおろして、それを二(ふた)つの布(ぬの)に包(つゝ)みました。そして驢馬(ろば)の脊(せ)につけて、誰(だれ)にも見咎(みとが)められないように、その上(うへ)からすつかり薪(たきゞ)でおほうてしまひました。かうして用意(ようい)が出来(でき)ると、彼(かれ)はあたりに眼(め)を配(くば)りながら、気(き)をつけ/\、町(まち)へ戻(もど)つてまゐりました。
 アリ・ババはそれから死体(したい)を乗(の)つけた驢馬(ろば)を曳(ひ)つぱつたまゝ、カシムのうちへ行(い)つて、しづかに裏門(うらもん)の戸(と)を敲(たゝ)きました。すると、モルギアナといふ若(わか)い女中(じよちゆう)が出(で)て来(き)て、門(もん)を開(ひら)いて、アリ・ババと驢馬(ろば)とを中庭(なかには)へ入(い)れました。処(ところ)で、アリ・ババはかねてからこの女中(じよちゆう)が大(たい)そう悧功(りこう)な機転(きてん)の利(き)く女(をんな)だと云(い)ふことを知(し)つてゐましたので、カシムの身(み)に起(おこ)つた災難(さいなん)の一部始終(いちぶしじゆう)を先(ま)づこの女(をんな)に打(う)ち明(あ)けました。そして、
「モルギアナや、お前(まへ)一(ひと)つ急(いそ)いで旦那(だんな)のお葬(とむら)ひの支度(したく)をしてくれないか。だが、盗賊(とうぞく)に殺(ころ)されたなぞと、誰(だれ)にも云(い)つちやあいけない。もしもこのことが世間(せけん)へ知(し)れたら、私達(わたしたち)の身(み)はどうなるかわからないからね。では、私(わたし)はこれからお上(かみ)さんに会(あ)つて知(し)らせて来(く)るよ」かう云(い)つて、アリ・ババが立(た)ち去(さ)らうとした時(とき)、カシムのおかみさんがそこへ出(で)てまゐりました。そして、アリ・ババの姿(すがた)を見(み)ると、思(おも)はず声(こゑ)を挙(あ)げました。──
「まあ、アリ・ババさん、なんといふ青(あを)い顔(かほ)をしてゐるのよう。一体(いつたい)どうしたんです。うちの人(ひと)はどうかしたんですか」
 そこでアリ・ババは、カシムが盗賊(とうぞく)どもに殺(ころ)されて洞穴(ほらあな)に吊(つる)されてゐたことから、死体(したい)を驢馬(ろば)に載(の)つけて、薪(たきゞ)で隠(かく)すようにして持(も)つて来(き)たことまで、一々(いち/\)委(くは)しく話(はな)して聞(き)かせました。それを聞(き)いて、おかみさんは、正体(しようたい)もなく泣(な)きくづれました。が、それもこれもみんな、強欲(ごうよく)の報(むく)いですから、誰(だれ)を怨(うら)むわけにもまゐりません。で、アリ・ババは泣(な)きわめくお上(かみ)さんを言葉(ことば)やさしく慰(なぐさ)めて置(お)いて、一先(ひとま)づ自分(じぶん)のうちへ引(ひ)き取(と)りました。
 その後(あと)で、下女(げじよ)のモルギアナは急(いそ)いで薬種屋(やくしゆや)の店(みせ)へ行(ゆ)きました。そして、さも/\心配(しんぱい)そうな顔(かほ)をしながら、
「大熱(たいねつ)の病人(びようにん)にのませる薬(くすり)を下(くだ)さいまし」と、頼(たの)みました。すると、薬種屋(やくしゆや)さんはびつくりして、
「お前(まへ)さんのうちに、そんな大病人(たいびようにん)があるのですか。それは御心配(ごしんぱい)ですね」と云(い)ひながら、その薬(くすり)を取(と)つて渡(わた)しました。そこでモルギアナは、
「旦那(だんな)が熱病(ねつびよう)にかゝつて、今(いま)にも危(あぶな)いのですわ。もう長(なが)いこと口(くち)も利(き)かなければ、何(なに)一(ひと)つ喉(のど)へ通(とほ)らないのですからね」と、上手(じようず)に嘘(うそ)をつきました。
 明(あ)くる朝(あさ)、モルギアナは再(ふたゝ)び薬種屋(やくしゆや)へ出(で)かけて行(い)つてとても助(たす)からない病人(びようにん)が息(いき)を引(ひ)き取(と)る前(まへ)にのませて、もう一度(いちど)持(も)ち直(なほ)すような薬(くすり)を下(くだ)さいと云(い)ひました。そしてその薬(くすり)を受(う)け取(と)ると、大(おほ)きな溜(た)め息(いき)をつきながら、さも悲(かな)しげに、
「旦那様(だんなさま)にこの薬(くすり)を召(め)し上(あが)るだけの力(ちから)がおありになるとようございますがねえ。もしも私(わたし)がうちへ帰(かへ)らないうちにおなくなりになつたらどうしませう」と、泣(な)き/\申(まを)しました。
 その次(つ)ぎの朝(あさ)、モルギアナは早(はや)くからマスタバといふ仕立屋(したてや)のうちへ出(で)かけて行(い)つて、少(すこ)しお願(ねが)ひしたい為事(しごと)があるから、一(いつ)しよに来(き)て下(くだ)さいと申(まを)し入(い)れました。しかし、そんなことから秘密(ひみつ)が漏(も)れては大変(たいへん)ですから、先(ま)づその男(をとこ)に金貨(きんか)を握(にぎ)らせて、道中(どうちゆう)を目隠(めかく)しさせながら連(つ)れて来(き)ました。そして、真暗(まつくら)な室(へや)へ入(い)れてからその目隠(めかく)しを取(と)つて次(つ)ぎのように云(い)ひました。──
「このばら/\になつた死骸(しがい)をもとの通(とほ)りに縫(ぬ)ひ合(あは)せて下(くだ)さい。その代(かは)りには、もつと沢山(たくさん)金貨(きんか)を差(さ)し上(あ)げますよ」
 さすがのマスタバもこれには驚(おどろ)きました。と云(い)つて、今更(いまさら)逃(に)げ出(だ)すわけにもまゐりませんから、云(い)はれるまゝにその死骸(しがい)を縫(ぬ)ひ合(あ)はせました。そこでモルギアナは約束通(やくそくどほ)りに金貨(きんか)を渡(わた)して、再(ふたゝ)び目隠(めかく)しをさせてから、仕立屋(したてや)の店(みせ)まで送(おく)り届(とゞ)けてやりました。
 それからモルギアナは急(いそ)いでうちへ帰(かへ)つて、アリ・ババ始(はじ)め近所(きんじよ)の人々(ひと/゛\)を呼(よ)び集(あつ)めた上(うへ)、なほイマムといふお坊(ぼう)さんにも来(き)てもらつて、無事(ぶじ)にカシムのお葬(とむら)ひを済(す)ませました。ですから、近所(きんじよ)の人達(ひとたち)は皆(みな)カシムが病気(びようき)で死(し)んだものとばかり思(おも)つて、誰(だれ)一人(ひとり)あやしむ者(もの)もありませんでした。
 その後(のち)四十日間(しじゆうにちかん)の忌(い)みが明(あ)けると、アリ・ババは兄(あに)のうちへ移(うつ)つて、カシムのおかみさんも手(て)もとで養(やしな)つてやることにしました。そして、それまでよその店(みせ)に奉公(ほうこう)してゐたカシムの息(むすこ)も呼(よ)び戻(もど)して、市場(いちば)にあつた父親(ちゝおや)の店(みせ)を引(ひ)き継(つ)いでやらせることにしました。
 ところで、盗賊(とうぞく)どもの方(ほう)ではどうかと云(い)ひますと、洞穴(ほらあな)の入(い)り口(ぐち)に吊(つる)して置(お)いた筈(はず)の死骸(しがい)がなくなつてゐましたので、彼等(かれら)もすつかりどぎもを抜(ぬ)かれました。
「こいつはどこまでも詮議(せんぎ)しなくつちやあならんよ。このまゝ打(あ)つちやつて置(お)いたら、せつかく苦心(くしん)して貯(た)めた宝(たから)も今(いま)にみんな持(も)つて行(ゆ)かれてしまふだらうからな」と、盗賊(とうぞく)の頭(かしら)が申(まを)しました。それから三十九人(さんじゆうくにん)の手下(てした)を集(あつ)めて会議(かいぎ)を開(ひら)いた結果(けつか)、その中(なか)でも一番(いちばん)心(こゝろ)のきいた男(をとこ)に外国(がいこく)の商人(あきうど)の服装(ふくそう)をさせて、町(まち)へ出(で)て様子(ようす)を探(さぐ)らせることにいたしました。
 その役(やく)を仰(おほ)せつかつた手下(てした)は、その夜(よ)のうちに町(まち)へ出(で)て行(い)きました。そして、朝(あさ)早(はや)く市場(いちば)へ行(い)つて見(み)ると、どこの店(みせ)でもまだ戸(と)を開(あ)けてゐませんでしたが、たつた一軒(いつけん)、あの仕立屋(したてや)のマスタバだけは糸(いと)と針(はり)とを持(も)つて為事台(しごとだい)に向(むか)つてゐました。手下(てした)は何気(なにげ)もなくその店(みせ)さきに立(た)つて、
「お早(はよ)う。いや、どうも御精(ごせい)が出(で)ますな。それにしても、この暗(くら)いのによく眼(め)が見(み)えますな」と、声(こゑ)をかけました。すると、仕立屋(したてや)は得意(とくい)になつて、
「年(とし)こそ取(と)つたれ、私(わたし)の目(め)は人一倍(ひといちばい)よく見(み)えるんですよ。自慢(じまん)ぢやあないが、暗闇(くらやみ)の中(なか)で死骸(しがい)を縫(ぬ)ひ合(あ)はせたのは、まあ私(わたし)くらゐなものでせうぜ」と、云(い)ひました。
 これを聞(き)いて、盗賊(とうぞく)は、こいつはうまいことを聞(き)き出(だ)したぞと、心(こゝろ)のうちで思(おも)ひました。そこで、もつと確(たし)かな手(て)がゝりをつかまうとして、
「ご冗談(じようだん)でせう。そりや死人(しにん)に着(き)せる経帷巾(きようかたびら)の間違(まちが)ひぢやありませんか。その方(ほう)があなたの御商売柄(ごしようばいがら)ですものね」と、云(い)ひました。
「冗談(じようだん)なら冗談(じようだん)でいゝさ。何(なに)もお前(まへ)さんがたの知(し)つたことぢやないからね」と、仕立屋(したてや)は腹(はら)を立(た)てゝ云(い)ひ返(かへ)しました。
 そこで盗賊(とうぞく)はそつと仕立屋(したてや)の手(て)に金貨(きんか)を握(にぎ)らせながら、かう申(まを)しました。
「いや、御免(ごめん)なさい。ですが、その死骸(しがい)を縫(ぬ)ひ合(あ)はせたと仰(おつ)しやるのは、どこのうちですかい。ぜひそれが伺(うかゞ)ひたいんですがね」
 すると、仕立屋(したてや)は貰(もら)つた金貨(きんか)のお礼(れい)を云(い)つてから、
「さあ、教(をし)へてくれと云(い)はれてもちよつと困(こま)るんですがねえ、何(なに)しろ私(わたし)は目隠(めかく)しをして連(つ)れて行(ゆ)かれて、縫(ぬ)つてしまふと、また目隠(めかく)しをしてこゝまで送(おく)り届(とゞ)けられたんでからな。どこをどう行(い)つてどう戻(もど)つて来(き)たか、さつぱりわけがわからないんですよ」と、云(い)ひました。
「それは困(こま)りましたねえ。ですが、どうです、もう一度(いちど)目隠(めかく)しをして、私(わたし)と一(いつ)しよについて来(き)てくれませんか。どのくらゐ行(い)つたところで、どう曲(まが)つたか、およその見当(けんとう)は着(つ)くでせうからね。さうすれば、このお金(かね)も差(さ)し上(あ)げますよ」
 かう云(い)つて盗賊(とうぞく)は又(また)もや仕立屋(したてや)の手(て)に金貨(きんか)を握(にぎ)らせました。そこで仕立屋(したてや)は、店(みせ)の方(ほう)はそのまゝ放(はふ)つて置(お)いて、盗賊(とうぞく)と一(いつ)しよに出(で)かけました。ところで、このマスタバは大(たい)そう賢(かしこ)い男(をとこ)でございましたので、一歩(ひとあし)々々数(かぞ)へて歩(ある)きながら、やがてアリ・ババの家(いへ)の前(まへ)まで来(く)ると、にはかに立(た)ちどまつて、
「確(たし)かにこゝまで来(き)たんですよ」と、云(い)ひました。
 盗賊(とうぞく)は非常(ひじよう)に喜(よろこ)んで、後(あと)で来(き)てもすぐわかるように、白墨(はくぼく)でもつてそのうちの戸(と)に目印(めじるし)をつけました。そして、仕立屋(したてや)には厚(あつ)くお礼(れい)を云(い)つて返(かへ)すと共(とも)に、自分(じぶん)は洞穴(ほらあな)をさして戻(もど)つてまゐりました。
 この朝(あさ)、モルギアナは市場(いちば)へお使(つか)ひに出(で)てゐましたのが、帰(かへ)つて来(き)て見(み)ると、入(い)り口(ぐち)の扉(とびら)の上(うへ)に白墨(はくぼく)の印(しるし)がついてゐますので、なんだか不思議(ふしぎ)に思(おも)ひました。で、しばらく考(かんが)へてゐましたが、これはきつとよくない奴(やつ)のしわざに相違(そうい)ないと見(み)ぬいてしまひました。そこで、モルギアナは急(いそ)いで白墨(はくぼく)を持(も)つて来(き)て、隣(とな)り近所(きんじよ)のうちの戸(と)に、みんな同(おな)じように印(しるし)をつけて置(お)きました。
 ところで、アリ・ババのうちの戸(と)に印(しるし)をつけた男(をとこ)は、頭(かしら)を始(はじ)めその他(ほか)多(おほ)くの盗賊(とうぞく)どもを案内(あんない)して、早速(さつそく)町(まち)へ引(ひ)つ返(かへ)して来(き)ました。が、見(み)ると、どの家(いへ)にも同(おな)じような印(しるし)がついてゐるので、どれがどれやら、さつぱりわからなくなつてしまひました。盗賊(とうぞく)の頭(かしら)はぷん/\怒(おこ)つて、そのまゝ洞穴(ほらあな)へ帰(かへ)りました。が、帰(かへ)つて見(み)ても腹(はら)が立(た)つてたまらないので、みんなの見(み)てゐる前(まへ)で、その男(とこ)を一室(いつしつ)に監禁(かんきん)した上(うへ)、改(あらた)めて別(べつ)の男(をとこ)を町(まち)へ探索(たんさく)にやりました。
 二番目(にばんめ)の男(をとこ)も、前(まへ)の手下(てした)と同(おな)じように、先(ま)づ仕立屋(したてや)の店(みせ)へ行(い)つて、アリ・ババの家(いへ)のありかを教(をし)へて貰(もら)ひました。そして、前(まへ)の印(しるし)と紛(まぎ)れてはならぬと思(おも)つたので、今度(こんど)は戸(と)の柱(はしら)にはつきりと赤(あか)い印(しるし)を附(つ)けて置(お)きました。ところで、それがまた用心深(ようじんぶか)いモルギアナの目(め)にとまつたから仕方(しかた)がない、彼女(かのじよ)はまた此処彼処(こゝかしこ)の戸(と)の柱(はしら)に同(おな)じような印(しるし)をつけてしまひました。そんなことゝは知(し)らないから、二番目(にばんめ)の男(をとこ)は又(また)喜(よろこ)び勇(いさ)んで盗賊(とうぞく)どもを案内(あんない)して来(き)ました。が、来(き)て見(み)れば前(まへ)と同(おな)じように、やつぱり、どれがどうやらわからないではありませんか。頭(かしら)は真赤(まつか)になつて、脳天(のうてん)から湯気(ゆげ)を立(た)てながら、かん/\に怒(おこ)つてしまひました。
「よし、もうお前達(まへたち)には頼(たの)まない。俺(おれ)が自分(じぶん)で捜(さが)して来(く)る」と、かう云(い)つて、例(れい)の仕立屋(したてや)のところへ出(で)かけて行(ゆ)きました。そして、やつぱりマスタバに案内(あんない)をさせましたが、今度(こんど)は印(しるし)などつけないで、うちの様子(ようす)をしつかり心(こゝろ)に覚(おぼ)えて来(き)ました。
 で、森(もり)へ帰(かへ)ると、彼(かれ)は手下(てした)の者(もの)に云(い)ひつけて、革(かは)でこしらへた大(おほ)きな油(あぶら)の袋(ふくろ)(エジプトでは、水(みづ)でも酒(さけ)でも乃至(ないし)油(あぶら)でも、みんな革(かは)の袋(ふくろ)に入(い)れたものです)を三十八個(さんじゆうはちこ)買(か)ひ入(い)れました。そして、三十七人(さんじゆうしちにん)の武装(ぶそう)した盗賊(とうぞく)どもをそれ /゛\その袋(ふくろ)の中(なか)にはひらせて、残(のこ)る一(ひと)つには油(あぶら)を一杯(いつぱい)詰(つ)めました。実(じつ)は、手下(てした)の者(もの)は総勢(そうぜい)三十九人(さんじゆうくにん)ゐましたが、前(まへ)にしくじつた二人(ふたり)が牢屋(ろうや)に押(お)し込(こ)められてゐたので、三十七人(さんじゆうしちにん)になつたのです。
 かうして用意(ようい)が出来(でき)ると、頭(かしら)は三十八(さんじゆうはち)の革袋(かはぶくろ)を十九疋(じゆうくひき)の驢馬(ろばせ)に載(の)つけて、油商人(あぶらあきうど)と化(ば)けて町(まち)へやつてまゐりました。そして、その日(ひ)の夕方近(ゆふがたちか)くアリ・ババのうちの前(まへ)に着(つ)きました。その時(とき)ちようどアリ・ババはやつと夕飯(ゆふはん)を済(す)まして、うちの前(まへ)を一人(ひとり)で散歩(さんぽ)してゐました。盗賊(とうぞく)の頭(かしら)はアリ・ババの姿(すがた)を見(み)ると、つか/\と側(そば)へ寄(よ)つて叮嚀(ていねい)に挨拶(あいさつ)をしました。そして「私(わたし)はかう/\いふ村(むら)の油商人(あぶらあきうど)で、この町(まち)へもちよい/\油(あぶら)を売(う)りにまゐるものですが、あひにく今日(けふ)は晩(おそ)く着(つ)きましたので、どこへ泊(とま)つたものかと困(こま)つてゐるのでございます。で、誠(まこと)に恐(おそ)れ入(い)りますが、お宅(たく)の庭(には)へなりとも泊(と)めて頂(いたゞ)いて、革袋(かはぶくろ)をおろして驢馬(ろば)を休(やす)ませた上(うへ)、飼葉(かいば)でもくれてやりたいと思(おも)ひますが、いかゞでございませう」と、ねんごろに頼(たの)みました。
 アリ・バパも、それが盗賊(とうぞく)の頭(かしら)であらうとは夢(ゆめ)にも気(き)がつかなかつたので、喜(よろこ)んでその願(ねが)ひを聞(き)き入(い)れました。そして空(あ)き家(や)になつてゐた物置(ものおき)へ驢馬(ろば)を繋(つな)いで置(お)くように指(さ)し図(ず)したが、なほ一人(ひとり)の下男(げなん)に命(めい)じて穀物(こくもつ)や水(みづ)をそこへ搬(はこ)ばせました。又(また)頭(かしら)のことは一(いつ)さいモルギアナに言(い)ひつけて、何(なに)一(ひと)つ粗相(そそう)のないようにもてなさせました。
 かうしてお客様(きやくさま)になりすました盗賊(とうぞく)の頭(かしら)は、夕飯(ゆふはん)が済(す)んだ後(のち)、驢馬(ろば)を見廻(みまは)るような振(ふ)りをして、物置(ものおき)きの方(ほう)へ行(い)つて見(み)ました。そして、あたりに人(ひと)のゐないのを見(み)すましてから、袋(ふくろ)の中(なか)に隠(かく)れてゐる手下(てした)の者(もの)どもに向(むか)つて、
「夜中頃(よなかごろ)に俺(おれ)が合(あ)ひ図(ず)をしたら、すぐにそのないふで袋(ふくろ)を破(やぶ)つて飛(と)び出(だ)すんだぞ。いゝか、わかつたか」と、小声(こごゑ)で囁(さゝや)きました。
 それから、あてがはれた部屋(へや)へはひつて、ひそかに隙(すき)をねらつてをりました。
 この時(とき)、台所(だいどころ)の方(ほう)では、まだ後(あと)かたづけがすまないのに、らんぷの油(あぶら)がなくなつたので、モルギアナは大層(たいそう)困(こま)つてゐました。すると、そこへ前(まへ)の下男(げなん)がやつて来(き)て、物置(ものお)きの方(ほう)を指差(ゆびさ)しながら、
「あすこへ行(ゆ)けば、油(あぶら)はいくらでもあるよ。何(なに)も困(こま)ることはないぢやないか」と、云(い)ひました。「あゝ、さうだつたわね」と、モルギアナはすぐに物置(ものお)きへ行(い)つて見(み)ました。すると、驚(おどろ)いたことには、一(ひと)つの袋(ふくろ)の中(なか)から「もう飛(と)び出(だ)してもようござんすか」と、かういふ人声(ひとごゑ)が聞(きこ)えるではありませんか。とんだ油(あぶら)もあつたものです。モルギアナは飛(と)び上(あが)るほどびつくりしました。が、もと/\大胆(だいたん)で、機転(きてん)のきく女(をんな)のことですから、すぐさま彼等(かれら)の策略(さくりやく)をみぬいてしまひました。そして、じよさいなく頭(かしら)の声色(こわいろ)を真似(まね)ながら、
「まだその時刻(じこく)ぢやないんだよ」と、答(こた)へました。そして、どの革袋(かはぶくろ)に向(むか)つても一々(いち/\)同(おな)じ返事(へんじ)をしてから、最後(さいご)に人声(ひとごゑ)のしない一(ひと)つの袋(ふくろ)を開(ひら)いて見(み)ました。すると、その中(なか)には油(あぶら)が溢(あふ)れる程(ほど)はひつてゐましたので、それを一杯(いつぱい)缶(かん)に入(い)れて台所(だいどころ)へ持(も)つて参(まゐ)りました。その時(とき)はもう彼女(かのじよ)の頭(あたま)にはうまい考(かんが)へが浮(うか)んでゐましたので、早速(さつそく)その油(あぶら)を大釜(おほがま)に入(い)れて、下(した)からどん/\火(ひ)を焚(た)きました。そして、油(あぶら)がぷつ/\音(おと)を立(た)てゝ煮(に)えくり返(かへ)つた時(とき)、それを缶(かん)に入(い)れて再(ふたゝ)び物置(ものお)きへ持(も)つて行(ゆ)きました。モルギアナの足音(あしおと)を聞(き)きつけた盗賊(とうぞく)どもは、いよ/\飛(と)び出(だ)す時刻(じこく)が来(き)たと思(おも)つたものか、「今度(こんど)はいゝんですか」と、どの袋(ふくろ)からもかう云(い)つてたづねるのです。が、モルギアナはなんとも答(こた)へないで、返事(へんじ)の代(かは)りに、熱(あつ)い熱(あつ)い油(あぶら)を頭(あたま)の上(うへ)から注(そゝ)ぎ込(こ)んでやりました。さあたまらない、盗賊(とうぞく)どもはすつかりやけどをして、そのまゝ死(し)んでしまひました。
 それからまもなくのことでした。盗賊(とうぞく)の頭(かしら)は部屋(へや)の窓(まど)を明(あ)けて、手下(てした)のものが飛(と)び出(だ)して来(く)る合(あ)ひ図(ず)に、ぽん/\と手(て)を鳴(な)らしました。が、なんの返事(へんじ)もなければ、物音(ものおと)一(ひと)つしませんでした。で、ちよつと間(あひだ)を置(お)いて、もう一度(いちど)手(て)を叩(たゝ)いて見(み)ました。大(おほ)きな声(こゑ)を挙(あ)げて呼(よ)んでも見(み)ました。が、外(そと)の暗闇(くらやみ)はたゞしいんとしづまり返(かへ)つてゐました。
「ちえつ。困(こま)つた奴等(やつら)だな。いよ/\時刻(じこく)が来(き)たといふのに、ぐつすり寝込(ねこ)んでけつかるんだらう。よし、叩(たゝ)き起(おこ)してくれるから見(み)てゐるがいゝ」と、頭(かしら)は窓(まど)から飛(と)び出(だ)して物置(ものお)きへ駈(か)け着(つ)けました。そして、一番(いちばん)手近(てじか)な袋(ふくろ)に近寄(ちかよ)つて、腹立(はらだ)ちまぎれにぐい/\ゆすぶつて見(み)ると、どうでせう。袋(ふくろ)の中(なか)からは、なんとも云(い)はれない厭(いや)な臭気(しゆうき)が立(た)ち昇(のぼ)つて来(く)るではありませんか。それもその筈(はず)です、袋(ふくろ)の中(なか)の男(をとこ)は煮(に)えくり返(かへ)つて、とうに死(し)んでゐるのですからね。しかも、どの袋(ふくろ)を覗(のぞ)いて見(み)ても、みんな同(おな)じ有様(ありさま)です。これには盗賊(とうぞく)の頭(かしら)もすつかりふるへあがつてしまひました。そして、ぐず/\してゐては自分(じぶん)の身(み)が危(あやふ)いと思(おも)つたのでせう。そのまゝ塀(へい)を乗(の)り越(こ)えて、一(いち)もくさんに逃(に)げて行(い)つてしまひました。
 この出来事(できごと)を少(すこ)しも知(し)らなかつたアリ・ババは、夜(よ)のまだ明(あ)けきらぬうちから起(お)き上(あが)つて、水浴(すいよく)に出(で)かけました。そして、日(ひ)が高(たか)く上(のぼ)つた頃(ころ)帰(かへ)つて来(き)て見(み)ると、驢馬(ろば)も袋(ふくろ)もそのまゝになつてゐますので、彼(かれ)はモルギアナをよんで、
「おい、あのお客(きやく)さんはまだお出(で)かけにならないのか」と、たづねました。
 そこでモルギアナは、アリ・ババをそつと物置(ものお)きへ案内(あんない)して、袋(ふくろ)の中(なか)の死骸(しがい)を見(み)せながら昨夜(さくや)の出来事(できごと)を詳(くは)しく話(はな)しました。それから扉(とびら)についてゐた白墨(はくぼく)の目印(めじるし)や赤(あか)い印(しるし)のことなども残(のこ)らず話(はな)して聞(き)かせた上(うへ)、その時分(じぶん)から少(すこ)しも油断(ゆだん)なく気(き)を配(くば)つてゐたのだと云(い)ひました。そして、まだうすく消(き)え残(のこ)つてゐる目印(めじるし)の所(ところ)ヘアリ・ババを連(つ)れて行(い)つて、
「これ、この通(とほ)りですよ。きつとこれは昨夜(さくや)の盗賊(とうぞく)どものしわざに違(ちが)ひあリませんわね。ところで三十九人(さんじゆうくにん)のうち後(あと)の二人(ふたり)はまだ生(い)き残(のこ)つてゐる筈(はず)ですから、昨夜(さくや)逃(に)げ出(だ)した頭(かしら)は、口惜(くや)しまぎれに、その二人(ふたり)を連(つ)れて復讐(ふくしゆう)に来(く)るにきまつてゐますよ。ほんとに用心(ようじん)しなけりやなりませんわ」と、云(い)ひました。
 それを聞(き)いて、アリ・ババはどんなに喜(よろこ)んだことでせう、モルギアナに向(むか)つて、心(こゝろ)の底(そこ)から何度(なんど)も/\お礼(れい)を云(い)ひました。が、それよりも先(ま)づ袋(ふくろ)の中(なか)の死骸(しがい)を片附(かたづ)けなければなりません。そこで彼(かれ)は、下男(げなん)をよんで、庭(には)の片隅(かたすみ)に深(ふか)い/\穴(あな)を掘(ほ)らせました。それから三十七個(さんじゆうしちこ)の死骸(しがい)をその中(なか)へ放(はふ)り込(こ)んで、上(うへ)から土(つち)をかぶせた上(うへ)、すつかり地(じ)ならしをして置(お)きました。なほ十九匹(じゆうくひき)の驢馬(ろば)は、一二頭(いちにとう)づゝ市場(いちば)へ連(つ)れて行(い)つて、誰(だれ)にも怪(あや)しまれないように上手(じようず)に売(う)り払(はら)ひました。かうしてこの事件(じけん)は無事(ぶじ)に納(をさ)まりました。
 ところで盗賊(とうぞく)の頭(かしら)は命(いのち)から/゛\、森(もり)の中(なか)へ逃(に)げ返(かへ)つたものゝ、もう腹(はら)が立(た)つて/\とてもじつとしてはゐられません。どうあつてもアリ・ババの命(いのち)を取(と)らずに置(お)くものかと、かたい/\決心(けつしん)をいたしました。そこで、いろ/\手段(しゆだん)を考(かんが)へ廻(めぐ)らした末(すゑ)、市場(いちば)へ出(で)て、一軒(いつけん)の店(みせ)を借(か)り受(う)けました。そして、洞穴(ほらあな)から持(も)つて来(き)た貴重(きちよう)な品々(しな/゛\)でその店(みせ)を飾(かざ)り立(た)てました。
 ところが、偶然(ぐうぜん)にもその店(みせ)は死(し)んだカシムの息(むすこ)で、アリ・ババの甥(をひ)に当(あた)る男(をとこ)の店(みせ)と向(むか)ひ合(あは)せになつてゐました。カシムの息(むすこ)も、そんなことゝは夢(ゆめ)にも知(し)らなかつたので、二人(ふたり)はまもなく懇意(こんい)になつてしまひました。盗賊(とうぞく)の頭(かしら)の方(ほう)では、みづからハサンと名(な)のつて、近所(きんじよ)隣(とな)りの人達(ひとたち)に進(すゝ)んで交際(こうさい)を求(もと)めました。かうして親(した)しくなつて置(お)いて、それとなくアリ・ババの消息(しようそく)を聞(き)き出(だ)したいものだと考(かんが)へてゐたのでございます。アリ・ババの方(ほう)ではまた、そんなことを知(し)らう筈(はず)もありませんから、ちよい/\甥(をひ)の店(みせ)へやつてまゐりました。盗賊(とうぞく)のハサンは一目(ひとめ)見(み)て、直(す)ぐにそれと覚(さと)りました。そして、ある朝(あさ)アリ・ババの甥(をひ)に向(むか)つて、
「ねえ、あなた、ときをりお店(みせ)へいらつしやるあの方(かた)は、どういふ方(かた)ですか」と、きいて見(み)ました。
「あれですが。あれは私(わたし)の叔父(をぢ)で、お父(とう)さんの弟(おとうと)ですよ」と、アリ・ババの甥(をひ)は答(こた)へました。
 その後(のち)ハサンは、アリ・ババの甥(をひ)に対(たい)しては一(いつ)そう厚意(こうい)を示(しめ)すようにして、贈(おく)り物(もの)をするやら、食事(しよくじ)に招(まね)くやら、いろ/\に手(て)を尽(つく)しました。そこでアリ・ババの甥(をひ)の方(ほう)でも、ぜひ一度(いちど)ハサンを招待(しようたい)したいと思(おも)つてゐましたが、どうも家(いへ)が小(ちひ)さくて、席(せき)がないので弱(よわ)つてゐました。すると、アリ・ババがそれを聞(き)き込(こ)んで、
「そんなことなら、心配(しんぱい)するにはあたらないよ。なに、遠慮(えんりよ)はないから、わしのうちへ連(つ)れて来(く)るがいゝ。御馳走(ごちそう)も、わしの方(ほう)でモルギアナに言(い)ひつけて、とびきり上等(じようとう)のを拵(こしら)へて置(お)くからな」と、申(まを)しました。
 アリ・ババの甥(をひ)は非常(ひじよう)に喜(よろこ)んで、早速(さつそく)その翌日(よくじつ)ハサンを遊園地(ゆうえんち)へ連(つ)れ出(だ)して、その帰(かへ)りがけに叔父(をぢ)のうちへ立(た)ち寄(よ)りました。ハサンはかうしてアリ・ババに近(ちか)づくことが出来(でき)るのを、内心(ないしん)大(おほ)いに喜(よろこ)んではゐましたが、うはべはさも遠慮深(えんりよぶか)く見(み)せかけて、なか/\閾(しきゐ)を跨(また)がうとはしませんでした。が、アリ・ババの甥(をひ)はいろ/\に言(い)つて、とう/\うちの中(なか)へ連(つ)れ込(こ)みました。
 アリ・ババは叮嚀(ていねい)にハサンを迎(むか)へ入(い)れて、ありつたけの厚意(こうい)を示(しめ)しながら、しばらくの間(あひだ)、二人(ふたり)で親(した)しそうに話(はなし)をしてゐました。が、まもなく夕飯(ゆふはん)の時刻(じこく)にもならうかといふ頃(ころ)になると、ハサンは急(きゆう)に立(た)ち上(あが)つて、
「では、これでお暇(いとま)いたします。いづれまたお伺(うかゞ)ひいたしますから」と、云(い)ひ出(だ)しました。
 アリ・ババはあわてゝ相手(あひて)を引(ひ)きとめながら、
「まあ、そんなことをおつしやらずに、なんにもございませんが、せめて夕飯(ゆふはん)なりと召(め)し上(あが)つて行(い)つて下(くだ)さい」と、申(まを)しました。
「あり難(がた)う存(ぞん)じます。それはもう喜(よろこ)んで御馳走(ごちそう)に預(あづか)かりたいのですが、少(すこ)し都合(つびう)の悪(わる)いことがございますので、今日(こんにち)はこれで失礼(しつれい)いたします」と、ハサンはなほも帰(かへ)らうといたしました。
「誠(まこと)に恐縮(きようしゆく)ですが、どういふ御都合(ごつごう)がおありになるのか、それをおつしやつて頂(いたゞ)けますまいか」と、アリ・ババは重(かさ)ねてたづねました。すると、ハサンは、
「なに、詰(つま)らないことですがね、実(じつ)はこの間(あひだ)まで医者(いしや)にかゝつてゐまして、もう癒(なほ)つたのですが、当分(とうぶん)塩(しほ)のはひつたものを食(た)べてはならないと、かう云(い)はれてゐるものですから」
と、答(こた)へました。
「いや、それだけの理由(りゆう)でしたら、このまゝお帰(かへ)し申(まを)すわけには行(ゆ)きませんよ。しばらくお待(ま)ち下(くだ)さい。ちよつと言(い)ひつけて来(き)ますから」
 かう云(い)ひながら、アリ・ババは台所(だいどころ)へ行(い)つて、塩(しほ)を用(もち)ひないで調理(ちようり)するように言(い)ひつけました。モルギアナは大(たい)そう不思議(ふしぎ)に思(おも)つて、一体(いつたい)どなたが召(め)し上(あ)がるのですか」と、たづねました。すると、アリ・ババは、
「誰(だれ)であらうと、お前(まへ)の知(し)つたことぢやないよ」と、慳貪(けんどん)に云(い)ひ捨(す)てたまゝ、再(ふたゝ)び客間(きやくま)へ取(と)つて返(かへ)しました。
 しかし、モルギアナはどうしても不思議(ふしぎ)でなりませんでした。で、御馳走(ごちそう)が出来(でき)ると、下男(げなん)と一(いつ)しよにそれを客間(きやくま)へ運(はこ)んで行(ゆ)きました。そして、ハサンを一目(ひとめ)見(み)るとすぐにそれと覚(さと)つてしまひました。いや、そればかりではありません。ハサンが着物(きもの)の下(した)に忍(しの)ばせてゐた短刀(たんとう)までも、ちやんと見(み)ぬいてしまひました。
「これでわかつた」と、彼女(かのじよ)は一人(ひとり)でうなづきました。それから急(いそ)いで着物(きもの)を脱(ぬ)いで、きれいな踊(をど)り子(こ)の衣裳(いしよう)に着代(きが)へました。また顔(かほ)には美(うつく)しいぺえるを被(かぶ)つて、金銀(きんぎん)づくりの帯(おび)を腰(こし)のまはりにまきつけました。そして、その帯(おび)には宝石(ほうせき)を沢山(たくさん)鏤(ちりば)めた短刀(たんとう)がさしてございました。
 支度(したく)が出来(でき)ると、彼女(かのじよ)は下男(げなん)を呼(よ)んで、
「さあ、これからお客様(きやくさま)の前(まへ)へ出(で)て唄(うた)つたり踊(をど)つたりするんだから、あなたも太鼓(たいこ)を持(も)つて一(いつ)しよに来(き)て下(くだ)さいな」と、云(い)ひました。
 やがて、下男(げなん)が前(まへ)に立(た)つて太鼓(たいこ)を叩(たゝ)きながら、二人(ふたり)は客間(きやくま)へはひつて行(ゆ)きました。すると、アリ・ババはさも機嫌(きげん)のよさそうに、
「さあ/\早(はや)く踊(をど)つた/\」と、申(まを)しました。ハサンもまた言葉(ことば)を添(そ)えて、
「あゝ、これはどうも愉快(ゆかい)ですな」と、云(い)ひました。
 そこでモルギアナは、下男(げなん)の叩(たゝ)く太鼓(たいこ)の音(おと)に合(あ)はせて、くるり/\と踊(をど)つて見(み)せました。そのしとやかな美(うつく)しい姿(すがた)には、一座(いちざ)の者(もの)もうつとりとなつてしまひました。そして、その次(つ)ぎにはぎらりと短刀(たんとう)を抜(ぬ)いて、それを頭(あたま)の上(うへ)で振(ふ)り廻(まは)したり、乳房(ちぶさ)の間(あひだ)へ当(あ)てがつて見(み)たりしながら、剣舞(けんぶ)をいたしました。それがまた素晴(すば)らしく見事(みごと)なものでございました。
 かうして一(ひと)わたり踊(をど)りがすむと、モルギアナは右手(みぎて)に短刀(たんとう)、左手(ひだりて)には鞨鼓(かつこ)を持(も)つて、よく芸人(げいにん)のするように、御祝儀(ごしゆうぎ)を貰(もら)つて廻(まは)りました。最初(さいしよ)にアリ・ババのところへ行(ゆ)きました。すると、彼(かれ)は鞨鼓(かつこ)の中(なか)へ金貨(きんか)を入(い)れてくれました。次(つ)ぎにはアリ・ババの甥(をひ)の前(まへ)へ行(ゆ)きましたが、これも同(おな)じように金貨(きんか)を入(い)れました。今度(こんど)はいよ/\ハサンの番(ばん)でした。彼(かれ)はモルギアナが近(ちか)づくのを見(み)ると、財布(さいふ)を取(と)り出(だ)そうとして懐(ふところ)へ手(て)を入(い)れました。その途端(とたん)にモルギアナは電(いなづま)のような早業(はやわざ)で、ハサンの心臓(しんぞう)目(め)がけて、ぐさりと短刀(たんとう)を突(つ)き立(た)てました。かうなつてはもうたまりません。ハサンはばたりとそこに倒(たふ)れたまゝ、まもなく死(し)んでしまひました。
 驚(おどろ)いたのはアリ・ババです。彼(かれ)はあわてゝ叫(さけ)びました。
「こらつ、お前(まへ)はなんといふことをしたのだ。気(き)でも狂(くる)つたのか」
「いゝえ」と、モルギアナは落(お)ち着(つ)き払(はら)つて申(まを)しました。「旦那様(だんなさま)、私(わたし)はあなたを救(すく)つて差(さ)し上(あ)げたのでございます。どうぞこの男(をとこ)の着物(きもの)を脱(ぬ)がせて、何(なに)があるか、一応(いちおう)あらためて見(み)て下(くだ)さい」
 そこでアリ・ババは死人(しにん)の着物(きもの)を探(さぐ)つて見(み)ました。すると、驚(おどろ)くではありませんか。そこには一振(ひとふ)りの短刀(たんとう)が隠(かく)されてゐました。で、よく/\死骸(しがい)を検(しら)べて見(み)ると、たしかに盗賊(とうぞく)の頭(かしら)であることがわかりました。
 アリ・ババは嬉(うれ)しさのあまり夢中(むちゆう)になつて、繰(く)り返(かへ)し/\、お礼(れい)を述(の)べてゐましたが、やがてかう叫(さけ)びました。
「あゝ、私(わたし)はこれまでお前(まへ)さんのような立派(りつぱ)な女(をんな)を見(み)たことがない。どうぞ、私(わたし)の甥(をひ)の妻(つま)になつておくれ」
 モルギアナを妻(つま)にすることは、アリ・ババの甥(をひ)としても至極(しごく)望(のぞ)ましいことなので、まもなく、二人(ふたり)のために盛大(せいだい)な結婚式(けつこんしき)が挙(あ)げられることになりました。




日本児童文庫

昭和二年九月一日印刷
昭和二年九月三日発行
アラビヤ夜話
〔非売品〕

訳著者    森田草平
編集兼発行者 東京市小石川区表町一〇九
       北原鉄雄
印刷者    東京市小石川区久堅町一〇八
       君島 潔
印刷所    東京市小石川区久堅町一〇八
       共同印刷株式会社

発行所    東京小石川表町一〇九
       アルス
       振替 東京二四八八八番・電話 小石川三五七〇・四八一三番

製本・金子



復刻版 日本児童文庫

昭和五十七年二月十日印刷
昭和五十七年二月二十日発行
アラビヤ夜話 No.28

訳著者 森田草平
発行者 小関貴久

発行所 〒152東京都目黒区平町一─一六─六
    株式会社名著普及会
    電話 03七二四─八〇三一

(落丁・乱丁本はお取り替えいたします。)



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製作担当責任者  西田竹虎
         岡花庸晃
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