はるかなる山河に




(目次)
戦歿学生にささぐ…………………南原繁
序……………………………………辰野隆
戦歿学生の手記
失われなかつた人間性
『戦歿学生の手記』に寄せて……三井為友
あとがき
  造本構成  清水博



〈次の人名索引は本書の末尾に掲げられているが、今、検索の便を考え、ここにも掲出することにした〉

佐々木八郎(手記)
大井栄光(書簡)
目黒晃(書簡)
岩田譲(日記)
菊山裕生(日記)
竹田喜義(日記)
江口昌男(書簡)
来海宏(詩)
森脇富爾夫(書簡)
山根明(日記)
松岡欣平(日記)
有坂長生(書簡)
坂巻豊(日記)
小森寿一(日記)
山中忠信(日記)
山岸久雄(短歌)
森本浩文(書簡)
山隅観(短歌・書簡)
篠塚龍則(手記)
三崎邦之助(書簡)
和田捻(日記)
中村徳郎(日記・書簡)
海上春雄(遺書・絶筆)
松吉正資(短歌)
加藤敏治(短歌)
川井修治(短歌)
深沢恒雄(所懐・短歌)
伊瀬輝男(日記)
中尾武徳(書翰)
沢田泰男(書翰)
亥角泰彦(遺書)
西村秀八(書翰)
蜂谷博史(日記)
長坂信(書翰)
杉村裕(日記)
井上長(短歌)
住吉胡之吉(日記)
鈴木実(遺言状)
稲垣光夫(俳句・日記)








     戦歿学生にささぐ
                 南原繁

<本文省略>(昭和二十一年三月三十日東大戦歿並に殉難者慰霊祭における告文)


     序
                 辰野隆

 青春の遺書を読まねばならぬ老者の胸は痛い。
 我等は真に愛す可く親しむ可き幾万の学徒を失つた。今や祖国の領土は狭められ、衣食住は前代未聞の制限を強いられ、一日を糊するにもなほ我等は常ならぬ努力に疲れてゐるが、斯のやうな艱難なら、我等は如何やうに刻苦しても、不撓の努力を重ねて徐ろに贖ひ得ることであらう。然し一度征いて帰らぬ青年学徒の命数を想ふと、今日我等老骨がおめおめと生き残つてゐることが、赦されぬ逆事として、折にふれて、良心を悩まし、苦しめるのである。
 幾度考へなほして見ても惨めな負け戦であつた。緒戦半歳のボオ・ジエストに徒らに酔ひしれた我等の懈怠は天罰を蒙る前に対手国の物量と科学とによつて徹底的に懲戒された。邪は正に克たず、などと愚にもつかぬ念仏を繰返すほど我等の眼は眩んではゐない。勝敗は必しも道義の高下に依つて左右されず、実力の如何によつて決定される厳たる事実を我等は具さに閲して骨の髄まで味到したのである。真に、無二の教訓であつた。而も絶好の教訓を身に沁みて悟つた時には軍は既に敗れて、夥しい青年学徒は戦渦の犠牲となつてゐた。
 戦歿学徒諸君の手記や書簡を読みながら、私は幾度かあふれ出る涙をとどめかねた。彼等の溌剌たる想念と青春の息吹が一行毎ににじみ出で、考へながら闘ふ日本の青春が誰かに訴へようとしてゐる、その数々の疑ひ、悩み、悲み、望みが直下に私の胸に迫つて来るのであつた。而して、そこに、軍閥官僚徒輩の低劣凡愚な理念に寸毫も影響されぬ個人の思想感情が披瀝されてゐるのが如何にも快かつた。或者は酷烈な太陽に照らされ或物は冷かな月光を浴びてゐる。或者は潜水艦内で船底が海の底を掠める音に耳を傾けてゐる。或者は飛行機の上でよくも今まで生きてゐたと考へてゐる。或者は中学、高等学校以来蓄へた思想を静かに検討してゐる。或者は一茎の青草に眺め入り、名もない花に微笑する。或者は病室に横たはりながら恋人を想ひ、或者は父母兄弟に今生の別れの辞を書き誌してゐる。
 何といふ良い青年たちであらう。而も何れも、数年前に送られて校門を出て征つた学徒、今や既に書簡と手記とによつて、我等の記憶と感謝の裡にのみ生きる心となつてしまつたのである。
 遺族の方々に切に乞ふ。何卒此の遺稿を時々思出されては熟読せられんことを。空前の大難に、不幸な家々から失はれた青春を末永く愛惜せられ、斯の貴き喪によつて祖国の前途が照らされ、双眼に宿る我等の涙がいささかにても骨肉を奪はれた方々の悲しさ淋しさを慰め和らげんことを。
                      (二二・一〇)





佐々木八郎
 大正十一年三月七日生
 第一高校を経て昭和十七年四月経済学部に入学
 昭和十八年十二月入団
 昭和二十年四月十四日沖縄海上で昭和特攻隊員として戦死


     『愛』と『戦』と『死』
   ─宮沢賢治作『烏の北斗七星』に関聯して─
          ─昭和十八年十一月十日出陣に際して─
 宮沢賢治はその生立ち、性格から、その身につけた風格から、僕の最も敬愛し、思慕する詩人の一人であるが、彼の思想、言葉をかへて言へば彼の全作品の底に流れてゐる一貫したもの、それが又僕の心を強く打たないでおかないのだ。『世界がぜんたい幸福にならない中は個人の幸福はあり得ない。』といふ句に集約表現される彼の理想、正しく、清く、健やかなもの──人間の人間としての美しさへの愛、とても一口に言ひつくせない、深味のある、東洋的の香りの高い、しかも暖みのこもつたその思想、それが、いつか僕自身の中に育まれてきてゐた、人間や社会についての理想にぴつたりあふのである。『烏の北斗七星』中に描出された彼の戦争観が、そのまゝに僕の現在の気持を現してゐるといへるやうな気がする。僕は一時『鴉』といふ異名を頂戴したことがある。そんなつまらないところ迄似てゐるのかも知れないが、宮沢賢治の『烏の北斗七星』における戦争観を敷衍して、僕の今の気持を記して見よう。
 副次的の要素としては、大尉と砲艦のリーベも僕の現在に縁がないでもないが、それはこゝでは省略する。僕の最も心をうたれるのは、大尉が、『明日は戦死するのだ。』と思ひながら、『わたくしが、この戦に勝つことがいいのか、山烏の勝つのがいいのか、それはわたくしにはわかりません。みんなあなたのお考への通りです。わたくしはわたくしにきまつたやうに力一杯にたたかひます。みんなみんなあなたのお考への通りです。』と祈るところと、山烏を葬りながら、『あゝマヂヱル様、どうか憎むことの出来ない敵を殺さないでいいやうに早くこの世界がなりますやうに、そのためならば、わたくしのからだなどは何べん引裂かれてもかまひません。』といふところに見られる、『愛』と『戦』と『死』といふ問題についての最も美しい、ヒユーマニステイツクな考へ方なのだ。人間として、これらの問題にあたる時、これ以上に人間らしい、美しい、崇高な方法があるだらうか。そして本当の意味での人間としての勇敢さ、強さが、これ程はつきりと現れてゐる状景が他にあるだらうか。「童話」だとあつさり片附けまい。『愛』と『戦』と『死』の本当に正しい、清い、健やかな心情の所有者に写る姿は、正にかうなければならたいと思ふ。
 勿論、僕は戦に勝つ方がいいか、負ける方がいいかを知らないとはいはない。どの民族も、どの国家も、全力を挙げてその民族、その国の発展をはかつてこそ人類の歴史に進歩があるのだと思ふ。あくまで積極的に戦ひ抜くべきだと思ふ。然しながら、果して吾々が勝つか負けるか、その間題になると、早や何とも言へない。むしろわれわれ経済学徒は、世界史の発展の原動力は何か、又戦争は何故起らねばならないか、そして戦争の帰趨は那辺にあるか、戦争の勝敗の鍵は何か。さういつた問題を研究し、それが生産力──それも一工場内の、或ひは一工程に於ける眼に直接見える生産力ではなく、国家の総力の具体的表現とも言ふべき、国民経済生産関係の有する生産力であることを知るとともに、又それが個々人の理想主義的努力を超えた、運命的、必然的な力のあることを知つたのである。もはやわれわれは、われわれ個々人の力がそれ程有力なものと自負することも、われわれの努力が直ちに、わが国の勝利と東亜諸民族の解放とを約束すると信ずることも出来ない。たゞわれわれの期待出来るのは、一国民としての立場を超えた世界史的観点において、われわれの努力は、世界史の発展を約束するであらうといふ事のみである。田辺元の哲学と一緒にされては一寸心外であるけれども、こゝでわれわれは真に国民として同時に世界人であることが出来るのである。われわれはたゞ日本人であり、日本人としての主張にのみ徹するならば、われわれは敵米英を憎みつくさねばならないだらう。しかし、僕の気持はもつとヒユーマニスチツクなもの、宮沢賢治の『烏』と同じやうなものなのだ。憎まないでも良いものを憎みたくない。そんな気持なのだ。正直なところ、軍の指導者達の言ふことは、単なる民衆煽動の為の空念仏としか響かないのだ。そして正しいものには常に味方をしたい。そして不正なものに対しては、敵味方の差別なく憎みたぃ。好悪愛憎、総て僕にとつては、純粋に人間的なものであつて、国籍の異ると言ふだけで、人を愛し憎むことは出来ない。勿論、国籍の差、民族の差から、理解しあへない所が出て対立するなら又話は別である。然し単に国籍が異るといふだけで人間として本当は崇高で美しいものを尊敬する事を怠り、醜い卑劣なことを見逃すことをしたくないのだ。
 では何の為に今僕は、海鷲を志願するのか。さういふ風に、僕の今の気持は、日本人ではあるが、狭いシヨーヴイニズムを離れた風来の一人間として、カーライルではないが、父も知らぬ、母も知らぬ、この世に生れた一人の人間として、偶然置かれたこの日本の土地、この父母、そして今迄に受けて来た学問と、鍛へあげた体とを、一人の学生としてそれらの事情を運命として担ふ人間としての職務をつくしたい。全力を捧げて人間としての一生をその運命の命ずるままに送りたい、さういふ気持なのだ。そしてお互に生れもつた運命を背に担ひつつ、お互夫々きまつたやうに力一杯働き、力一杯戦はうではないか。そんな気持なのだ。つまらない理窟をつけて、自分にきまつた道から逃げかくれすることは卑怯である。きまつた道を進んで、天の命ずるままに勝敗を決しよう。お互がお互にきまつたやうに全力をつくす所に、世界史の進歩もあると信ずる。一箇の人間として、どこまでも、人間らしく卑怯でないやうに生きたいものだと思ふ。
 世界が正しく、良くなる為に、一つの石を積み重ねるのである。なるべく大きく、据りのいい石を、先人の積んだ塔の上は重ねたいものだ。不安定な石を置いて、後から積んだ人のも諸共に倒し落すやうな石でありたくないものだと思ふ。出来ることならわれ等の祖国が、新しい世界史に於ける主体的役割を担つてくれるといゝと思ふ。又われわれはそれを可能ならしめるやうに全力を尽さねばならない。然し現在のわが国の国内態勢にはまだまだ旧いものが、振ひ落されずに残つて何か心許ないものを感じさせられる。戦に勝ち抜かう、頑張り披かうといふ精神ばかりでは駄目だ。その精神の担ふ組織、生産関係を、科学の命ずるところによつて最も合理的にすることこそ必要なのではなからうか。われわれは、われわれにきまつたやうに力一杯働くのみ、それ以上を望むことは、神を冒涜するものといふべきであらう。





大井栄光
 大正三年十月二日生
 富山高校を経て昭和九年理学部数学科に入学十二年卒業
 昭和十三年九月一日入隊
 昭和十六年六月十四日華北柿樹園で戦死


 (牧師へ 兵営にて)
 御無沙汰いたしました。
 永い間教会に出席しないで居りますが、この様なことは永年来ないことであります。そしてそれが私自身に如何様に影響して居るかを反省して見ますと真に恥しい乍らその痕跡を認めぬわけには参りません。乱暴な境遇にありますと『基督者の柔和』を保ちつづける事は仲々大変でした。又聖書を学び祈祷をすることを斯の様に制限されてゐるのに今までと全然変化がないとすれば、過去の教会生活にあまり得る所がなかつた事になります。が併し私にとつて現在既に変化は認められ、私は聖言に飢ゑを感じて居ります。けれども聖書は力を与へます。『喜び』といふものが単に安価な休息の別名に過ぎない様な激動と多忙な生活に追はれてゐますと、聖書に出て来る『喜び』の意味が一層深く反省させられ、喜びを持つ者の喜びを痛切に感じます。戦友は日々駆立てられて、演習に汗を絞つて居りますが、私は同じ事をし乍らもやはり祈ることをなしつゝうれしい時間を日々僅か乍らもつて居ります。何粁にもわたつて重い装具と兵器と銃をもつて駈足を続けると、鞄や水筒の紐が頸に締めつけられて呼吸さへ自由に大きくすることが出来ません。こんな時には大抵参つてしまふか、さうでなくても意気消沈し勝ちです。私はその時主の祈りを駈足の歩調にそろへて唱へることを試みて参りました。唱へる為に主の祈りの字数はそのまゝでは適当でないのですが、所々を長音で繋いだりして駈け続けます。すると私は目前の森や空や雲を超越して、永遠にわたりてすみ給ふ聖なる神の僕であることを深刻に意識せしめられます。殊に主の祈りそのものから基督の仲保さへも教へられて、基督の受け給ふた苦痛を偲ぶことが出来ます。基督が生きて自分と共に働き給ふといふことが色々の意味でひし/\と迫つて来ます。そして結局元気のよい日々を送る事が出来て居ります。
 戦争は私の大切な時に私の生活を奪ひ去りましたが、私は最後まで境遇の犠牲として屈服することをせず、却つて戦争が私に教へて呉れた強靱なる忍耐の精神と熾烈なる戦闘の精神を利用して、戦争に打ちかてる者にならうと努力して居ります。
 S・Sの皆さまに呉々も宜しく。
                 主にありて   栄光生

 (母へ 昭和十五年四月十七日)
 母上様
 いよ/\別離の日が参りました。
 けれども私は元気にいつて参りますから、呉々もお体を大切になさつて苦心して生還した時には一層御元気なるお姿に接し得ることを祈つております。
 何の屈托もなく何の感情の高揚沈低も無きかの如く装ふて居りましても私はやはり多くの未完成を抱いたまゝ戦地に参ります。そこには寂寞の感もありますし、愛惜の情もあります。けれども見えざる神の意志の支配に全幅の信頼を置いて、危難地に赴く構へは聊か乍ら既に会得して居ると自負して居ります。此の上はママも義光も三重子も皆が私の心情をくみとつてせめて笑顔をもつて私を送つていただきたかつたのですが、やはり親と子の情はもつと深刻切実のものである様です。私はママの涙をいとひませぬ。しかし此の後はなるべく朗らかに日々を過されて私の出しますたよりをおまち下さることを願上げます。はじめから『悲しみの涙』では戦地に赴くのでなくて死ににゆく様な気が却つておこりますから、どうぞ釣道具やスケツチブツクをもつて出かけた心持ちになつていただきたいと切望いたします。どうかもう決して涙を流すまいと決心して約束していただきたいものです。
 桜の花の美しき風情、春日ののどかな気分に落着きまして自分の心をふりかへりますと色々新しい感情が湧くのでした。今迄は人世だとか、悩みだとか楽しみだとか、その他のむつかしいことをお互にわかつた様な気になつて話しあつたり独り合点したりしてゐましたが、結局は殆ど全部は過ぎゆく者に過ぎませんでした。そして唯基督による救ひといふ事が動かぬ世界への唯一の希望のかけはしとして残されてゐる様な気がします。その信仰も決して非常に強固であるとは敢て申しませんが、他のもの──世界の中のすべて──にくらべればばるかに切実なものの様に思へるといふわけです。
 あれ程戦争を嫌つて恐れてゐた、かつての私が、今や一切の雑念をさらりとすて、ひたすら戦ひにのぞむ者としていろ/\修養をつゞけることは全く驚異すべき事柄の様であらうと思ひます。けれどもそれは家の人からみれば驚異的現象であつても当事者になつて見れば、かなり当然すぎるものとしか考へられません。「それ程軍人になりきつたか」と言はれればそれまでですが、私はむしろそう考へるよりは「軍人といふ境遇におかれて特殊な鍛錬をされつゝある」といふ方が正当であらうと思ひます。私は「それ程軍人にはなり切つてはおりませぬ。」
 軍隊生活に於て私が苦痛としましたことの内で、私の感情──繊細な鋭敏な──が段々すりへらされて、何物をも恐れないかはりに何物にも反応しない様な状態に墜ちて行くのでないかといふ疑念程、私を憂欝にしたものはありません。私はさうやつて段々動物になり下つてしまふよりは、いつまでも鋭敏な感情に生きつつ、しかも果敢な戦闘を遂行したい衝動にかられてゐます。しかし私は無理はしません。一瞬は驚き、たじろいでも次の瞬聞には最善の方法を落着いて実施して行くといふ様に、自分の性格を生かして最後の勝利に向つて邁進したいと思ひます。私にとつて所謂最後の勝利が生還によつてはじめて成就されるものか、或ひは戦死してのみ与へられるものかは今の所全然わかりません。がそれだけに、いとも朗かに出発して行けますから、どうか留守の皆も楽しい日々を送つて、私の必生(必死!)の修養を見守つてゐていただきたい。死すればそれは又主の御旨ですから、めゝしく涙など流さぬこと、生還したとしてもそれで最後の勝利が与へられたわけではないのですから軽々に笑はぬ事を願ひます。
 以上何だか深刻な長談義になり生したが、この中から微笑だけを読みとつて下さい。これからはもう少し面白い、ひようきんな快い事も沢山かきたいと思ひます。
 私が最近あまり書かなくなつて、自分でも頭が石の様にこち/\になつて了つたかと思ひましたが、まだ/\どん/\書けますし、多少人間らしい感情も人並に湧きおこりますから、時折の感情を時折、書いて送りますから、愉しき団欒の糧にもして下さい。これで第一信を了ります。
  一九四〇・四・一七          栄光生


 (牧師へ)
 御恩寵を祈ります。
 主の御恵によつて元気ですから御安心下さい。戦地に於て夕方静かな折に讃美歌を以て讃美する余裕を与へられてゐる事は随分幸ひな事と思つてゐます。私の現在の状況は恩恵に満ちてゐると言へます。生命の危険は戦地ですから何処でも問題になりませんが、私としては心の余裕のため楽な気がします。
 本夕はじめて支那人の教会に入つてみました。祈祷会があるやうなので町の中の観察の帰途ついでに立ち寄つたのです。中年の男女老人が集つてゐました。私は日本の耶蘇教徒だと言ひましたら、とても嬉しさうな顔をしてこちらに日本語の聖書がありますからとわざわざ出して来てくれました。支那語の聖書を珍しさうにながめてゐたからだと思ひます。すぐに帰つたのですが、帰り際に老人が出埃及記を呉れようとしました。嬉しいことでした。町の中を歩いて帰りながら、廃跡の部落ではありますが、今私の心の中には信仰者の喜びが溢れてゐることを自覚致しました。
 教会のことを思つて御恵みを祈つてゐます。皆様に宜しく。
                  主にありて   栄光生


 (母へ 昭和十五年十月)
 戦争に来て忍耐といふ事を随分深刻に学びました。よく腹が出来て、おこらなくなるといひますが、たしかにそれは私にとつてもある程度真理である様です。精神的に苦痛も絶無では決してありませんが、いつも肉体的に健康である様に、精神的にも朗らかに元気で、日々を励んで過して行ける事は何より幸ひです。これから来年の三月頃までは専ら初年兵の教官として、多忙やなにかで追はれる事と思ひますが、肉体的には絶体保証付の体ですし、大いに努力して教育し、よい中隊の兵をつくりたいと思ひます。
 どうか義光が寒さに向ひ過度に努めて無理にならぬ様に、三重子が一日も早く起床する様に祈つてゐます。この前の三重子宛の葉書に書きましたが、実に思ふべからざる程のことを夢に見、希望が湧いて来ます。ママも御自重なさつて下さい。疲労が重なるといけませんから、よく注意せられる様に。しかしその点に注意されたら、日向ぼつこや何かいろいろと積極的にしようとされることはむしろ奨励すべき事柄であると思ひます。よねさんはよくやつてくれるやうで深く感謝してゐます。姉上様の所のねーやと共に「勲章もの」ですね。よろしく付言して下さい。只惜しむらくは戦地の旦那様がねーや達が期待する程手柄をたてないで、一向「動章もの」にならない事です。冬物不要のことはもう申述べましたね。決して/\心配なさらぬ様に、今まで寒くて眠られぬといふ事はありませんでした。夜行軍で寒い事はありましたがそれも一回位です。とまれば藁の中にねればとても暖かいものです。然しフトンの暖かさには及ばない。しかし藁の中にねて、チヨツト寝がへるとゴソゴソ藁の音がすると何だかジヨンの世界に下りた様な気がして、遠い北支の見知らぬ田舎ですが、すぐ傍にジヨンが居る様に思ふ瞬間もあります。実際は情報係の角谷中尉がねてゐるので、夜中にふと(突飛なしかも失体千万の聯想に)微笑させられることもありました。
 自分の感情──正確にいふと情緒──を制御することについても随分興味深い経験をもつてゐます。実際長途黙々と歩いて居ると、訳もなく気分が憂欝になる瞬間があることを学びました。そんな時には自分で自分にいひきかせるのです。「何が不満か。」「何も不満でない。」「何が憂欝にさせるのか。」「全然わからない。」自問自答です。結局は疲労気味だからだと思ひますが、その際つとめて朗かにさせようといふ自分となか/\機嫌がなほらない自分とが戦ふやうな気がします。斯して心が鍛へられて行くのだと思ひます。又書きます。丁度便箋もおはりになりました。おやすみなさい。さよなら。僕はねます。
  十月十二日夜十時          栄光生
 母上様


 (妹へ)
 東京は段々寒くなりましたか。或ひはまだ寒いといふ程でなく、一年中で一番過しやすい頃かもしれませんね。富山では秋がくると必ず次には雪と寒さの冬が来るので「いよいよ来るな」といふ気組が必要で、ゆく秋が此の上なく寂しいものですが、東京の秋はそれとは少し違ひますね。わかりますか。北支の秋ははじめてですが、少くともそれを味ひ、その佳さを感ずる程の心の余裕があることは非常に幸ひだと思ひます。といへば北支の秋が決して悪くない事がおわかりでせう。夜は星も日本と同じですし、色々のことが日本内地と聯想されてその美しさに惹かれます。けれども勿論日本が一番よい所です。そして東京が一番よいのです。その中でも世田谷の我が家が一番よいわけです。北支に来て何がよいといつても日本の最も美しいもの──我が家庭──よりも美しく又愛すべきものはありません。北支の秋のよさも、キツト、ママを中心にした二人の兄と妹が静かに味ふ東京の秋のよさには遥かに及ばない事でせう。けれども勿体ない程澄んで綺麗な空気の中で自然の下で毎日演習をしてゐます。段々肥らざるを得ません。皆様によろしく。
                  主にありて   兄
   秋風よ心して吹け此の家には我が愛する母病みて臥り居り

     可憐
 可憐の情といふことは屡々云はれる。僕もよくこの気持を味ふことがある。小さきもの、微弱なる者を慈む心は実に人の心に浮ぶ数々の情念の中でも非常に好ましいものである。実力のない、頼る所のない弱い者が只弱いといふ丈では、可憐の情はわからないのではなからうか。弱いながらに自己を保存し、細々ながら下手ながら、及ばず乍らの努力を表してゐるのを見るときこそ可憐の情が湧くやうである。弱者が強者の庇護を当然かの如く考へてゐるのは結局卑屈であるに過ぎない。そこには可憐の情はちつとも湧かない。
 能力の低い兵隊が下手乍らも日の丸の旗で送られて来た感激におし出されて、懸命の努力をしてゐるのを見る時、隊長として僕は非常に感動を受けることが屡々である。そしてそこに湧くのは可憐の情である。長い間風呂にも入らない汚れた手で、寒さで丸く太つてゐる様な手で、屈伸も自由ではなさそうに思はせる節々の指で、兵器の手入を一生懸命やつてゐる。
 或ひは又他の上官からは既に彼はグメだと烙印をおされてゐながらも、猶自分では無心に空しい努力をしてゐる兵隊を見る時、可憐だと思ふ。彼等にだつて彼等の世界はあるのだ。彼等が誇らかに自己を主張する場面もあるのだ。少くとも彼等はその愛する父或は母、兄弟をもつてゐる筈だ。そして彼等が誠実であるにもかゝはらず、彼等の才能の低き故に彼等は低く評価せられ、不合格の批評を受けねばならぬ。彼等は珠玉の如き美しい心をもつてゐるのに、彼等の父、母、兄弟が彼に希望をおき彼に期待してゐるのに、彼等は結局微弱なのである。その時その様な兵一人一人が限りなく可憐になる。
 僕は可憐の情を娼婦に対していだいた事もある。彼等は無力であるのに彼等は努力してゐるのだ。自ら悪魔の化身の如く化粧し、男を誘惑せんと腕まくりする女達は、あまり強い存在である故に、可憐の情の対象にはなり得べくもない。彼等は男より強くさへある。しかし他方には真に可隣な女達もあるものだ。殊にその様な商売女が修養だとか、善であるとか、多少とも良心的に覚醒せられた瞬間程、彼等を可憐にするものはない。その時彼等は全く打ちくだかれた人、弱き人である。弱いのに彼等は空しい努力をしてゐる。北支まできてゐる彼女達ではあり、海外発展第一線の勇ましい彼等ではあるのだが、一体何をしてゐるのだらう。
 僕は又或時支那人とその一人の小児を見て深刻に可隣の情に満されたことがある。その支那人といふのは四十才位の男子、背も高く、肥えた体、豊かな頬、面長の男子であつた。別に金持といへる程ではなく、さりとて最下級に汚いみなりといふ程でもなかつた。彼はその子供とみえて四才位の小さい小児をだいて、皇軍の堂々たる進軍を路傍に佇み見送つてゐた。彼等は結局敗れた国の国民なのであつた。彼等は勝利の皇軍を如何に観じ如何に考へてゐるのであらうか。彼等には卑屈の情はなかつた。彼等にはその小さい自主性がほのみえてゐた。殊に敗れた大人に護られた小さい子供には、何かしら、将来の支那の可能性がかくされてゐるかの如くであつた。それにも拘らず、一顧だに与へられず、文化の光に遠い、あの寒村に捨て去られんとしてゐるのであつた。僕は進軍中に可憐な彼等二人によつて心はかきむしられる思ひがした。
 僕は亦一人の若くして可隣な乙女を知つてゐる。曾ては彼女にも人の世の習ひ、青春の美しき恋愛の喜びがあつたのであつた。然し儘ならぬ世の習ひで彼等二人はその切なる希望を満たされる迄もなく、遠く別れねばならなかつた。一人残された彼女はその誠実な品性の故に何時迄もそのやさしき顔には、光さへ差加はる程である。世にありて望少なき彼女が、空虚の日々を、単に空虚に終らしめる事無き為に、日毎に或ひは針仕事、時には国防婦人会の奉仕の為に、時には寒さにかじかんだ手をこすり乍ら、せめてもの努力、絞り出せる限りの奉仕を続けてゐるのを見る時に、その弱き者を神も憐み給へと祈りたくなるのであつた。古きより一抹の哀愁のたゞよう所にこそ可憐の情は弥増すと言ふ。否美しきものと言ひ得るものは結局その如きものでなければならない。
 最後に僕は自分自身に対する可憐の情について一言せねばならぬ。僕は強がりを言ふ。自ら意志の人ならんと標榜しつゝ依然弱き人である。僕は懸命の努力と或る程度の真面目さについては知つてゐる、と同時にその微弱を知つてゐる。他の人は僕の内的の微弱を知るまい。外的の頑固に反比例して内的の弱気の存するを覚るまい。然し僕は自分のことだから誰よりもよく知つてゐる。其所に於ては観照する自分と、観照される弱い自分が明瞭である。而も努力する自分が明瞭である為に、僕は僕自身が可憐なる存在として映ずるのである。僕は自分に可憐を感ずるが故に、猶希望を置くのである。鋭さをくじかれ、鈍重と頑固が卑屈になり下つてしまつた自己を想像するだけでも身震ひがする。僕は今身動きならぬ困難な立場に置かれつゝ、猶懸命の努力を続ん事を尽し、この上は神の御庇護を確信をもつて祈つてゐる。
 嗚呼可隣なる我なる哉。
                  昭和一五、一一、二七



     *     *



目黒晃
 大正五年十一月十日生
 第二高校を経て昭和十二年四月文学部社会学科に入学
 昭和十六年入営
 昭和十六年九月華中岳州野戦病院で戦病死


 (父への手紙)
 昭和十六年九月十六日
 父さん、秋が来ました。今まで百何十度といふ暑さの中にうだつて居たのが急にあの冷涼とした秋風に驚かされたのです。星空も綺麗です、虫が身近に鳴きます。どんな虫でも──蟋蟀でも松虫でも内地で聞ける様な秋の虫はどんなものでも、この支那の地に私達兵隊に一寸した郷愁をおこさせるのです。私達兵隊がお互に依り合つて話す様な時は、だからあの内地の山河と食物の話に限られる訳です。
 父さん、私の山森部隊は今漢口に居ます。何箇月かのあの酷暑をついての教育が愈々此の秋に試され成果を得る事になつた訳なのです。九月九日重陽の日に私達部隊は駐屯の準備を整へました。其れはこの漢口からさらに三百五十キロも離れた常陽の町なのです。午前十時私達の自動車は秋雨のしよぼしよぼする中を私の初陣の地に向つて出発しました。何十台とない自動車部隊はなだらかな丘陵を後から後からと進みました。ひどいぬかるみの為めにタイヤが滑つて動かなくなつたり、山坂が登れないためにみんなで苦労して引き上げたり、自動車が故障したり、数へ切れない程の苦労を重ねて私達の自動車部隊は四日間の行程を経て十二日の午後十時にこの漢口に着いたのでした。これから船に乗ります。船に乗つて何処に行くのか全然私共には解りません。何にしても唯命のあるまゝに、大君のみことのまゝに進むだけの事です。
 父さん、かうして愈々この支那事変といふ未曾有の戦の中に在つて一兵士として私の進む道も決められました。来るべき日がとうとうやつて来たのです。幾度も父さんは私に今日の日に生きるべき覚悟を促して来ました。私はその度に新しい意気を振ひ起して此の困苦の中に生きる心算をねりました。残念乍ら私は未だに悟る事は充分ではありません。唯若い者の盲滅法の精神を以て進むだけの事であります。
 父さん、正直の所私は此の中支の地で今迄の何ケ月かの間に父さんだの、母さんだのに身近に、あの子供の時分の様に愚痴をこぼし、訴へたい様な事が幾らもありました。それは意地悪な友達が家に帰つて両親に告口する様な子供らしさではありましたけれど……いろんな事を聞いて戴き度くて、淋しくて孤りで夜、表に出て黙つて星空を眺めた事が幾度もありました。

 私の住める所はやはり懐しくて、優しくて魂の穏かな世界なのだと僻み根性を起したりもしました。ですがこんな悪い夢も今度の初陣で吹き払はれる事と私は信じて居ります。其れよりも何よりも兵隊はどんな苦しみに堪えながらと云ふよりも苦しみを物ともしないで戦ふかと云ふ事をもう知り尽しましたし、私も大ていの困苦には絶対に負けないと張り切るのです。父さん、卑怯な真似は絶対に致しません。命のあるだけは進みます。先達つて送つて戴いたお守りもしつかりと背中にまいて、もう決して離すまいと思つて居ります。お守りは命を惜むためにあるものではなくて、却て弱い兵隊をも勇敢にするものだと思ふのです。父さんだの、母さんだのの深い御心がこのお守りの中に籠つて居ると考へれば考へる程、しつかりしなければならないと思ふのです。
 かうして私は心も身ももうすつかり準備を終りました。此の上は唯強い勇敢な一兵士としてこの戦に進むだけのことなのです。生れて、死ぬことに一顧の悔も残さないで昔の武士が潔く臨んだ様に、そんな風に、私は此の戦に臨む準備を致しました。父さんから教へられて来た様に正しくそして強い兵隊として此の地に戦ふ積りを決めました。父さん、其ればかりではありません。私は古い昔の人達にも静かに別離して居ります。父さん、母さんの御恩に対しまして、私は何も申し上げられません。父さんが裸一貫でつくり上げられた家は私にとつては唯一つの懐しい思出になるのです。ほんとにあんな調和に充ちた世界はないと思はれる程父さんは美しく御自分の家をつくられました。其れは美しい父さんの残された芸術品です。私共子供達はその中で暖かく育くまれました。不自由もなく、いつも夕餉には温い煙がたちこめて居ました。私が此処に来ていつも偲び、いつも噛みしめて居たのは父さんの作られた、あの芸術品だけだつたのです。私はあの美しい調和を見せて戴いたと云ふだけで生甲斐を感じるのです。父さん、長い御恩だつたと思ひます。深い御心でありました。今は唯此の戦に精一杯働く私の事を考へて御安心下さい。では出掛けます。秋風がそよいで鉄道の土堤下のクリークの水がゆらぎます。仙台には美しい秋が訪れたことと偲ばれまナ。書き出せば限りない程懐しい昔を思ひます。ではともかく今日は失礼します。いつも父さんにお話し申し上げて居る私のことをお考へ下さい。


 九月十七日
 父さん、又書きます、暇があるから書きます。恐らく作戦行動に這入つて了つたなら、日夜の忽忙のために書けなくなると思ひますから今の中に書いて了ひます。それよりも、父さんには書き切れない程書く事がありますから申し上げます。
 三月○日私達はあの○○築港を嵐の中に発ちました。蓄音器は勇ましくマーチを吹奏し、私達は甲板に整列して市民の送別の辞をうけました。船は瀬戸内海をすべつて次の日夕方近くに下関と門司の灯をのぞみました。其れが内地との別離でありました。
 玄海灘は荒れましたけれど私は一度も吐いたりはしませんでした。朝早く呉淞の灯を見た時私達は揚子江に這入つて居たのです。揚子江は海とも河とも湖ともつかない広いものでした。もうかうして大陸にはいつたのです。ジャンクが悠久からそのままの様な姿で往来します。すべてが新しい大陸の姿です。
 ○月○日私達は南京に着きました。此処で約一週間の余を○○部隊の宿舎で過しました。それは獅子山の下にあつて、獅子山には砲台の跡が頑強に残つて居ました。鷹がひようひようと舞ひました。私が初めて支那の人間を眼のあたりして印象深く残つたのは苦力の群だつたのです。私が上陸しようとした時桟橋には幾百とない苦力がうごめいてゐました。誰でもが見るかげもないボロを纒つてゐました。年寄から若者に至るまで裸足のまゝで右往左往して居ました。それは私にとつては宿舎に向ふ途中、戦に廃墟となつた幾多の民家よりも印象深いものでした。興中門を朝早く苦力の群が缶詰の空缶を腰にぶらさげて城内に這入り、夕方に又ぞろぞろと城内を出たのは私にとつて忘れ難いものでした。
 ○月○日私達は好便を得てまた揚子江の遡江につきました。両岸はさすがにせばまつて来ました。代赭色の丘陵、麦畑、楊柳、ジヤンクが毎日の両岸の景色でした。そして○月○日の夜漢口に着いて一夜を船中にあかし、○日に上陸して、○日には愈々目指す私達の駐屯地たる○○に出発したのです。私達の部隊が自動車隊である事をはつきり知つたのも漢口でした。即ちこゝから○○まで三百五十キロの行程を私達の輸送のために○台程の自動車が待つてゐました。私達はさうして荷框で二日間揺られて目的の部隊に着いたのは○日の夕方でした。なだらかな丘陵の中に、後ろには揚子江に注ぐと云ふ沮水河が流れ、丁度此の地は美しい自然の地です。朝は山鳩に眼がさめ、驢馬の鳴声に驚ろかされます。此処の大半は既に先頃の戦闘によつて廃墟となつてゐました。で私達の宿舎は支那家屋を改造したものでした。不自由な事は多かつたのですけれども水は支那としては清冽でした。

 私達初年兵は一人前になるために懸命に教育され、古い兵隊は毎日自動車を駆つて遠く○○に軍需品を輸送しました。若緑がこくなり、蛙が騒がしくなり、暑さが百度を越して夏が来ました。すると間もなく秋の虫がしげくなつてもう○箇月を経て了つたのです。
 父さん、○○については色々と地形やら景色やら沢山書く事があります。軍機に触れるといふので私は一度も書きませんでしたけれども、大体以上の様に私達の駐屯地は皇軍前線の兵站要地に位して支那の奥深く自然の景勝の地であると思つて下さい。兵隊は悪路を冒し、日夜埃にまみれてぼろぼろの自動車をとばします。故障が多くて夜おそくまで修理と整備に苦労します。かうして新しい日を迎へては送り、送つては迎へて居るのです。
 父さん、こんな中に住み、教育されて私は愈々作戦に進むことになつたのです。昨日も申し上げました様に私の覚悟は既に決つて居ます。唯今日は私が兵隊となつてどんな処に、どんな風に住み、生きて来たかをお知らせしたかつたのです。
 夜になると船は碇を下ろします。もう消燈時刻も過ぎてひつそりと静まつて参りました。船の中でも虫が鳴きます。明日はいよいよ有名な○○に上陸といふことです。
 もう十時です。今日も元気でつとめました。父さんはもうぐつすりお休みの事と思ひます。母さんは宵つぱりだからまだ起きてるかも知れない。岱も晋も勉強家だから二階には電燈がついて居るだらう。光ちやんは学校の宿題の裁縫で寝ないだらう等と想像します。
 ではみんなお休みなさい。今晩もいい夢を見ます様に。



     *     *



岩田譲
 大正八年十二月二日生
 第三高校を経て昭和十六年四月京大文学部西洋史学科に入学昭和十七年四月東大文学部仏文学科に入学
 昭和十八年四月入隊
 昭和十九年八月十二日ビルマ患者集合所で戦病死


     日 記

 昭和十八年四月十二日
 東条英機を始めこの難局の政路に当る諸軍人の腐敗。この時に当り軍人は財と結びつき、でたらめな政界の動きさへみせてゐる。南方施政のでたらめときたら問題にならないらしい。されど現在東条内閣に代つて如何なる内閣が現れようとも本質に於て何等の変りはなからう。嗚呼!! 忠臣何処にありや、道の衰へたるは何ぞ甚しき。我草莽の微臣今の世代を如何ともなし得ず。今、我は涙をふるつて尽忠を誓ひ、次の時代の捨石にたつ。

 四月十六日
 伊吹先生に挨拶に行く。先年が Paris で買つて絶えずポケツトに入れて愛読された "Les Cent Meifleurs Poemes"を頂戴する。一中へ行つて岡田、今井両先生に挨拶する。

 四月十九日
 ○○さんが来てくれる。始めてはつきり彼女の気持も分る様な気もしたが、今日は黙して、たゞ征く丈である。征く事は、直ちに死ぬ事である。夜、坂本、矢口、福富、吉岡とさゝやか乍ら送別の宴を開く。楠公の七生報国を犇々と感ず。

 昭和十八年十一月二十二日 (遺書)
 外泊にて帰る。いよ/\戦線に征く事になるかも知れぬ。一死報公。唯々天皇陛下万歳、祖国よ、とはに安かれと祈りて死に赴くのみ。
 父上様。何の孝行も出来ずに了つた事を御詫び致します。せめて陛下の赤子として戦線の野に倒れた事を孝行とお思ひ下さい。
 母上様 妹達 皆様 御達者で御暮しあれ。
 友人に。
 僕の志は君が一番よく知つてゐると思ふ。そして其れを君も正しいものと思つてくれるであらう。僕の亡き後僕の志を生かしてくれ。
 一々皆に書かないが、よき友々に。すべてのはらからに。
 戦場に征くに当つて、別に何の感慨も起らないものですね。我乍ら不思議です。人間の精神といふものは不思議なものだと思ひます。父母妹等に会ふのも、之つきりになるかも知れないと云ふのに、ぼたもちやおぜんざいを食べたいと思ふてゐます。底知れぬ呑気さが人間の精神に潜んでゐるのが妙ではありませんか。では皆元気で。






菊山裕生
 大正十年九月六日生
 第三高校を経て昭和十七年十月法学部に入学
 昭和十八年十二月応召
 昭和二十年四月二十九日比島エチアゲ飛行場で戦死

     日 記

 昭和十八年十月十一日
 一体私は陛下の為に銃をとるのであらうか、或は祖国の為に(観念上の)又或は私にとつて疑ひきれぬ肉親の愛のために、更に常に私の故郷であつた日本の自然の為に、或はこれ等全部又は一部の為にであらうか。然し今の私にはこれ等の為に自己の死を賭すると言ふ事が解決されないでゐるのである。二年前の今頃のやうに死の恐怖に襲はれて真夜中起き出して鏡に映つた自分に死の影を見出してゐた頃ならば、そしてその唯一救ひの道として私が選んだ殉教者の道に憧れてゐた頃ならばたゞ命を投げ出すといふ事の為にだけでも喜んで飛行機に乗り潜水艦にも乗つたと思ふのだが、先日亡くなつた老作家の様に、「自分のやうなものでもどうかして生きたい」と言ふ感じを持つてゐる現在の私にどうして銃を持つて戦線に赴く事が出来るのだらうか。灯を消して部屋の窓から益々冴え切つた十三夜の月をながめ、凍りついた雪の様な白い夜の雲を見てゐると私の飛行機へのらうとしてゐた覚悟が実際夢のやうに思はれるのである。
 自分の心を偽らないと言ふ事は私が確かに信ずる道徳律の根本である。その時どうかして生きたいと願ふものが死亡率が高いと考へられる飛行機に乗るのは偽善でなければ偽悪でなければならない。戦線に赴くといふ事は運命として一応問題から除外されるにしても(勿論この運命こそ問題であり重要であるのだが)自分の選択を許される陸軍か海軍か、飛行機にのるか否かはあくまでも自己の決意を要するものであつて、他人に押しつけられるべきものでもなければ、一時の興奮に依つて定めるべきものでもない。
 人間の愚昧さ、卑劣さを多くの友人、知人の中に見てしまつた私が、更にそれを自分自身の中にさへ見た私が、どうして僅かに残つてゐる尊敬すべき友と一人の恩師との為に生を投げすてられるのだらうか、ましてそれらの人々も私の死を望んで居る訳では決してない。最も納得すべき理由は自分自身の為である。かうしてペンを執りながら考へてゐる時この事が確かに思へるのでもあるが、さうなると『死』そのものがはつきりした形を持つて来ないのである。それから、これは運命であると思はれる事もある。
 ベートーヴエンのアパツシヨナータから響いてくるあの憑かれた天才の求めるその美の実体は何であつたらうか。最後まで完成する事の出来ない理想を抱くこの悲しい人類の運命よ。戦はねばならないといふ感情の中にも或はこのすぐれたもの(勿論それは主観的なものである)を創らんとする悲しい運命がひそんでゐるのではなからうか。さうしてその運命がありありと感じられるならばもはや運命の神に従ふのみである。リルケは実にこの気持を持つてゐたと思はれるのだが。あゝ然し私は現実に自己を知らねばならない時に当面したのである。考へ抜く事を延ばしてゐた時がやつとやつて来た。焦る。しかし落着いて考へてみたいと思ふ。

 十月二十日
 昨日の事を書く。昼、多摩墓地へ田口の墓を訪ねる。多摩墓地へ着いたのが四時半、ところが彼の墓がいくら探しても分らなかつた。一つ一つ見て行つたり終には自分の位置が分らなくなつて大きな道へ出てみたりした。声を出して田口と呼んでみた。然し分らなかつた。明日東京を離れるといふ日になつて彼の墓参もかなはないでは申し訳がないと思つて探したが、だん/\暗くなつてさへくるし人も居ない。井戸へ置いてあつた本と花とをとつてとにかく引返すにしても一度出ようと思ひながら更に未練気を出して歩いてみたがやはり分らず、諦らめてふと後の墓を見た時、それが田口の墓であつた。嬉しかつた。声を出して話してみた。田口の墓が動いた様な錯覚に陥つた。水を新に汲んで花をさゝげ線香をあげるともう墓石の字が見えぬ程暮れてゐた。幸運と言ふより田口が呼んだとでもいはざるを得ない。霊の存在を或る程度まで私は信じるのである。田口に俺は戦争に行くが戦死はしないと言つて来た。勿論生命を賭するのは当然であるが、彼の死を超えて私は生きると言つて来た。一寸大袈裟な気もせぬではないが、実感がはつきりともなはないのであらう。死にたくないと言ふ気持それだけが本当かも知れぬ。リルケの言つた様にその人を知つてゐる思出に人は生きるものだから田口は僕の胸に正久さんの胸にそしておそらくは岩宮の胸に生きてゐるのである。僕が死んだ時肉親を除いて、と思ふと誰が居るか、すこし淋しい。然しこゝに真剣な一つの生があつたと信じてくれる人がゐたら、これ程尊い事はない。真剣に生きるこれ以外の何もない。

 十月二十二日朝 上高地にて
 このノートを私がたゞ一人に見せる為に書いてゐるといふ確信が起つてくる。それにその唯一人の人はどこにゐるのだらう。恐らくは世界の果てに!

 昭和十九年四月二十五日(入営後)
 今日一日の時間で之を書かうと思ふ。或は君ともう会ふ機会を恵まれぬかも知れぬと思へば、もつと時間をかけて、一字一句推敲したいと望むのだけれども、その時問も与へられてゐないのだから、なるだけ急いで私の計画通り書けるだけ書いてしまはなければならない。せめてこれを書く形式だけでも、順序だけでも一応整理して置きたいのだが、繰返した様に時間がないし、思ひついたまゝをこのノートに字句として表はしてゆかねばならぬ。
 十二月一日、君と所こそ違へ、時を同じくして軍服を纒つた日から書いてみよう。君はどうだつたかしらないけれども、私は最近になつて漸く思ふのだが、あの時、何故あれ程気軽にこゝへやつて来たのか実際不思議な程なのだ。勿論淡々たる心境で入つて来たと片付けてしまへばそれまでゞあるが、これ程自分の運命といふものが決定的なものを与へられたその最初の日、何か重大な決意があつてもよかつた筈だと思ふのだ。然し、実はこれが本当なのであつて、仮令我々が更に重大な時に直面せざるを得ない様な場合でも、私達には方向さへ与へられてゐたら、しらぬまに、自覚さへ殆どする事なく、その重大なものに進んでゆけるのかと思ふ。
 初年兵としては、私達以外にはたかつたのだから、動かねばならないのも当然だつたが、本当に厳格な内務がはじまつた。「起床」の声に床をはね上げてから消燈まで、烈しく寒い演習以外の時は、叱られる材料でないものはなかつた。時に依つては消燈後も班内の暗い片隅で立つてゐなければならない事もあつた。従つて私達は撲られたりするやうな事の少く、煙草の堂々と吸へる演習は仮令どれ程寒く烈しいものであらうとも嬉しくさへあつた。
 実際、十二月の末、一月の始め頃は上靴で撲られ、帯革で撲られたりしてゐた。飯のつけ方が遅すぎると言つて二時間も立たされた末、散々蹴られたり、撲られたりするものもあつた。君も知つてゐる通り、動く事の不精な、要領の悪い私も亦其の例に洩れなかつた。消燈ラツパは「新兵さんは可哀いやのう又寝て泣くのかよう」と鳴るといふが、何度も撲られて、床の中につきとばされた時は、痛いよりも口惜しくて、実際、「状袋」の中で泣かなければならなかつた。気が弱くなつた。五ケ月教育といふが、その五ケ月が終るまで何日あるかと毎日の様に数へた。夜便所へ行く途中、寒々とした月を見ては、あの満月を幾度こゝで見る事だらうと思ふのだつた。早く戦線に立ちたいといふのも寧ろ一つの泣言でしかなかつた。この時分の泣言を君の所へ書き送つた事を覚えて居る。確か君からつよい返事を貰つたその中に「時間の有難い力を信じて逞しくなれ」とあつたし、私自身に「逞しく」と自ら言つてゐたのだつたが、いろんな事情は実際泣言以外は出ない様な状態だつた。
 マキン、タラワの玉砕を知つても、次から次と前線へ出発して行く兵隊を送つても何とも思はなかつた。従つて何の為にこの生活をしてゐるのか、それが分つてゐてどこか納得出来ないのだつた。かういふ生活を基準として、戦争とか国家とか、重大なものを無意識的に批判してゐた。恐らく君への手紙にもそれが表れてゐたと思ふ。
 いつの間にか急いで之を書いてゐる為、単なる記録のやうになつてしまつた。私の思つた事、書きたい事はあるのに……
 実をいふと私はここで観たいろ/\の人の姿を書かうと思つた。けれども一人一人を克明に書くだけの時間がないし、書ける自信もない。
 私はドストエフスキーの『死の家の記録』をいつからか思ひ出しては名作だと感歎し、そこに描かれた人を思ひ浮かべては、こゝへよくあてはめてみた。こゝの生活は正にあの中に描かれた生活とよく似てゐるのだ。決して『死の家』といふ言葉のもつニユアンスを私はこゝへあてはめるものではない。あの中の人物だつて君の知つてゐる通りすべて希望を持つてゐるし、その他の事だつて決して悪い事ばかりではないのだ。然し私がわざ/\こゝにあの本の事を書くのは、あそこに美事に描かれた様に人間の発見である。即ち、暗く恐しい人間の一面を見ると同時に、何物を以てしても破壊する事の出来ない人間の力と光とを発見するのだつた。軍隊に於ても人間といふものはまた同じであつた。この事を書くためにも、私のみた兵隊のことを詳しく書いてみたいし、事実私自身この粗漏な眼でみてゐてさへ興味を惹かずにゐられない兵隊が二、三人はあつた。然し私にはとても企図した通り表現出来ないから、他の兵隊の事にはふれないで置かうと思ふ。
 私は十二月十五日以来三月上旬まで同じ班にゐたのだが、私は友としての彼等にはすべて失望した。彼等は要領よく立廻るか、生れつきの軍人の様に、或る点で話の分らない様な男か、どちらかであつた。勿論高校時代から知つてゐたNや、早稲田から来たN、四高から来たH等はよく話し合つた。然し結局私は一人の友達も持たなかつた。私は私自身の内部にもその原因をみつけて肯定するけれども軍隊生活にもその責があつたのだと思ふ。即ち各々の生活が、各人の生活として精細の内部に育つてゐても、同じ二等兵の、或は同じ一等兵の生活をしてゐる私達には友達とは寧ろ煩しいものであつたのだらう。私はその結果友情に飢ゑてゐながら私の方で友情を拒絶してゐたのだつた。又、私の中学時代の親友で既に少尉だつたKや見習士官だつたTも同じ部隊にゐた。私はよく遊びに行つていろいろ面倒をみてもらつたりしたが、この場合は階級が間に入つて、どうしても親しめなかつた。
 こゝで又私は『死の家の記録』につい些細な発見をした。といふのは、ドストエフスキーがあれ程一人一人を観察して、その性格等に深い愛を注ぎ、親しみをさへ感じながら、遂に一人の友人をも得なかつた事は、四年問同じ流刑生活を送つてゐたのに、と簡単にさへ考へるとむしろ奇異な感じを起させる。然し勿論これは当然のことだつた。作中にも現れてゐる彼と他の流刑者との間にある性格的な越え難い溝の外に、個人生活を持たないあの様な合同生活は個人個人を近づけないあるものがあるのだと私は体験した。 (四、二四)
 師団管下の甲幹の綜合演習で私達は滋賀県今津饗庭野へ四月十二日に発つた。私は琵琶の湖を見、京都の近くを通るのに胸躍らせて発つた。四ケ月振りで乗る汽車も嬉しかつた。或はこの時分君は京都で高峰三枝子の映画でもみてゐたのかも知れない。春の湖はヨツトが浮び春愁といふやうな言葉をいつか思浮べてゐた。
   逝く春や鳥啼き魚の目は涙 芭蕉
 芭蕉の一節に生きた生活の道標が霞に包まれて私の前に展けてゐた。十七日私はヂフテリヤの疑ひで京都陸軍病院へ入院した。Nも同じ病気で一緒だつた。幸ひ二人とも病気は軽かつた。その為約一週間叡山を望んで呑気な生活をした。
 退院の前日だつた。なつかしい古都に春雨が降つて、病室では白衣の兵士が口笛を吹いた、ハガキを書いたりしてゐた。窓の外は桜が静かにほろ/\と散つてゐた。
 新聞の一面にはインパール攻撃の様が報ぜられてゐた。誠にこの瞬間に戦死してゐるであらう兵士が思はれた。私達も来年には、恐らくその戦場に立てるのである。この大なる戦争の為に死に得るのである。勿論私は決して一部の軍人の様に死を急ぐものでもなく、それどころか生きたい、真実に生きたい。そして本当の生はどこにあるか充分に知つてゐるつもりであるからこそ、以上の様な事を書くのである。
 一応これで全部私の思つてゐた事を書終へたやうに思ふ。要するに私は元気である。
 私はこの記録が遺書になるかも知れぬと思ふ。而も私は肉親の事については一言も書かなかつた。面会をすると親の恩が分ると班の古兵から聞かされてゐたが、私には面会するまでもなく肉親の愛情は絶対的なものであつた。そして、それに対する感情は、もう私の筆では表はせなかつた。恐らく戦死する際の兵隊の言葉『お母さん』といふのが最高の表現であらう。が、私にも亦呼びかける言葉以外に字句を列ねることが不可能であつた。

       比島戦線よりの第一信中
    ふるさとの祭や父母はいかにます

       又最後のたよりとなりし葉書に
    如月の北斗光れり祈るなり



     *     *



竹田喜義
 大正十一年七月十三日生
 東京高校を経て昭和十七年四月文学部国文学単科に入学
 昭和十八年十二月入団
 昭和二十年四月十四日済州島沖で戦死

 昭和十九年六月十六日(金)晴
 「我執を棄てよ」と云ふ。しかしそんなに簡単に棄てられる我執だつたら、軍隊生活半ケ年、もうとうの昔に始末してある筈だ。棄てゝも棄て切れない自分。自分で最も良いものと信じてゐる自分の姿、それは最後迄大事に立派に育て上げるのだ。その自我が、如何にして軍隊生活の中に生き抜いてゆくか、──単なる妥協でなく、ごまかしでなく、誠実の籠つた意味で──それが自分にとつて一番大きな問題だ。他人はこれに対して何物を加へることも出来ない。亦、これに関して他人に救ひを求めることは出来ない。自分一人で、誠実に、賢明に処してゆくことだ。明日、死ぬかもしれない自分である。そして自分のものでゐて、自分のものでないやうな自分。──今までは生活に押されてゐた。環境に負けてゐた。そして、その敗北を、単に感情的な世界で、ぼんやりと、自分を自分で傍視してゐた。それが謙虚な精神だと思つてゐた。衆愚の心であると思つてゐた。衆愚の心──軍隊に入る時、私ははつきりそれを胸中に誓つてきた。それから半年、それを懸命にまもり続けた。ともすれば、投げ出してしまひたい、せゝら笑ひをしてしまひたい、あの(なつかしい)自我への孤高の精神と戦つて──。
 衆愚の心、大衆の中に没するといふことは、しかし、永久に大衆の中に自己を滅し去ることではない筈だ。大衆の愚劣と平凡と息切れのする臭気の波の中から、喘ぎ/\浮び上つてきた。未だ滅し切れない自己の姿──それは凡てを洗ひ落して、凡ての戦を闘ひ抜いて、最後に残された自己だ──に今こそ、手をさしのべて、救ひ上げてやる時ではないか。
 随分と気持の弛緩と生活の怠惰に充たされた日々ではあつたが、自分のワルプルギスナハトには違ひなかつたのだ。
 海軍の士官といふ閉ぢ込められた世界の問題ばかりでなく一人の人間が生きるといふことを真面目に考へる時だ。
 最後まで生き抜いた自己を、大切にまもること、それは、例へ軍隊生活に於いても、正しい、肯定されてよい態度なのだ。
     ×  ×  ×
    帰省所感
 軍隊生活デハ、トモスレバ気持ガ現実的ニ足許バカリ凝視メテヰルコトガ多カツタ。短イナガラモ、家郷デ送ツタ朝ハ私ニ日本人トシテノ夢卜理想ヲ与ヘテクレタ。
 家郷ニハ、ナツカシイ日本ノ歴史ノ血脈ト美シイ日本ノ風土ガアツタ。ソレラノモノヲ胸奥ニ刻ミ込ンデ、戦場ニ立ツコトガ出来ルノヲ幸福ダト思フ。



     *     *



江口昌男
 大正十年三月二十五日生
 第三高校を経て昭和十七年四月文学部西洋史学科に入学
 昭和十八年入隊
 昭和二十年四月十六日午前九時三十分神風特別攻撃隊七生隊員として南西諸島喜界ケ島附近で戦死

 昭和十八年十一月末
 拝啓 先日は大変御世話になりました。死ぬ覚悟が出来ただの、これが最後の別れだといふことの醜さにはあきあきしてゐる。
 僕も天命を血気の勇で縮めたりはしないだらう。まだまだ何物かゞ残つてゐる。死といふものは、神の愛と同じ様に先方からやつてくるものだと信ずる。
 島崎藤村の『夜明け前』を読んで何か救はれた様な感じがしてゐる。
 残つてゐる何物かは恋に悩むことか、子供に気を使ふことか孤身の淋しさをかこつことか、我身の至らざるに発憤することか、己が不運を嘆くことか、世人の頑迷を罵ることかは分らない。然し僕はそれら一切に期待をかけてゐる。それは人間なのだと。
 戦争も平和も我々の行路に於ける一つの山であり平野であるに過ぎぬ。旅行く運命の人間は山にたふれようとも野に果てようともかまはない。旅人の心象には只旅をしたことのみが残るだらう。
 僕は今やつと確固と眼を開いて物を見得る。これも君の指導と激励に外ならぬと有難く感謝してゐる。
 僕は十日に佐世保に入る。嘗つて僕は生活は戦場に於けるよりも偉大だとして今迄の生活なり考へより離れることを嘆いた。然しそれならば戦場に生活を持ち込めばよいではないかと考へ出してゐる。
 皆様に宜敷く伝へて下さい。
                  では又   敬具



     *     *



来海宏

(戦死前約三ケ月休暇にて帰郷せし時作りしもの)

   道祖神祭

はゝと着る赤き毛布
こんこんと湧けるが如く
ぼんぼりに光れる雪の
目をかすむ花の散れると
たゞすがるはゝのたもとに

道の辺のほこらを祭る
道祖神われは来つるも
米の粉のだんごを焼きて
藁の馬の積める俵に
その旅のつゝがなきをと
黒き糧いのりてつめる

この道の来れるところ
遠くして知るすべもなし
この道のゆきゆく所
はるけくもはつる時なし
さはあれど旅を行くなり
はつるなき道にはあれど
ゆくべきは人の旅なり
楽しさも旅にあるべし
汝が旅の楽しかれよと
やさしくもはゝの語れる

藁の馬抱きて寝つる
いろり辺の温き床
ほのぼのと夢にみつる
馬の背に俵を積みて
ことことと旅ゆく人の
そのさまの楽しげなるを



     *     *



森脇富爾夫
 大正八年十一月十五日生
 第六高校を経て昭和十六年四月文学部独文学科に入学十八年九月卒業
 昭和八九年入団
 昭和十九年八月二日独日本大使館海軍武官府附として赴欧の途上フランス南部海岸に上陸直前戦死

 昭和十八年四月十二日(東京 滝野川)
 冠省
 昨朝無事帰京しました。一昨夕岡山に着いて美都夫の下宿に一泊しました。トランクは先づ絶望のやうです。尤も美都坊は電報ほども悲観してゐませんから母さんも御安心下さい。
 今日は朝から雨で出掛けられませんので、手紙書きやら休養で時間を潰すつもり。十六日から二十二日まで一週間野外演習があるらしくうんざりしてゐます。岡山までの車中で貧血を起して弱つた程、目下体力が衰へてゐますから一週間の野営に耐へ得るか疑問です。昨夜塩川の国夫君に会つて少し元気を回復しましたが、色々悒鬱なことばかり多くて、どこへ行つても助かりません。十日ほど家の温い空気で暖められてゐたせいか、ひどく気が弱くなつてゐて、東京へ出て来ると水面へ浮き上つた深海魚の様に呼吸困難で目が廻ります。計画してゐた雑誌の方も、同人の留守中に俗物のポリテイカアのために、ひどく卑俗なものにされてゐて、優秀作品はすべて検閲の困難を顧慮して次号廻しにされてゐて、小生の分もお多分に洩れず、もはや塩川たちと一緒に脱退しようかと考へてゐます。創刊号から睨まれては困るといふ編輯者の云ひ分ですが、神経質に検閲を脅えてゐては今時よい雑誌など出来る筈がなく、ここにもまた吐き出そうとするゲロを喉元を絞めつけられてまた元へ呑みこまされた様な不快と憤懣のやりどころがありません。発表が今の我々の唯一の救ひですのに。こんなことなら自分で編輯を引受けて置いたらよかつたのにと後悔してゐます。
 窓の外の桜が氷雨に叩かれてゐます。一層散つてしまへばよいのに、縮こまつてぶるぶる震へながら、か細い萼にしがみついてゐます。可哀想だ、は感傷でせう。醜いのです。一思ひに散つてみれば美しくもあり見事でせう。同じことで僕たちの様な遅咲きの花は散る際の美しさだけしか持たないのです。氷雨を冷たいと思はずに夢だと思ふのも一つの方法でせう。獅子の檻に投げこまれた者の唯一の救ひは、獅子の檻に投げこまれたといふ夢を見ることです。譬へば仏蘭西象徴派の詩人たちはその様な奇蹟を行つた唯一の天才たちです。所でその奇蹟を行ふのには最も強靱な意志が要るのです。そしてその強靱な意志を自分のものにするためには或ひは兵士になつてみなければならないのかも知れない、こんな矛盾した様な不安で今の所辛じて生きてゐるわけです。
 すべては時間が解決して呉れるでせう。哲学者などと云ふ人生のヂレツタントは思惟の殻の中に閉ぢこもつて、傷かないで仕事(?)が出来ますが、文学は自分の肌を切り売りにする商売です。満身創痍となつて尚、闘はねばならないのです。
 時々絶望しては以上の様な御託宣を並べて元気を回復します。
 休暇中は家で姉さんに色々御馳走して貰つて、喰い意地が張つて、こちらでは甘いコーヒー一つ呑めなくて当分辛いことです。
 着物の夏の白ガスリ忘れて来てゐます。その中に送つておいて下さい。
 母さんは段々仕事が楽になることでせう。時々は不快なこともあるかも知れませんが、腹を立てないで春風駘蕩と余裕ある気持でやつて下さい。
 静は姉さんのお手伝ひをしつかりして、温和しいいゝ子になること。
 では皆、元気で、朗かに、テンポ正しく 握手をしませう   さやうなら
   十二日               富爾夫
 斌夫様 姉上様
 タマノ様 静様



     *     *



山根明
大正十三年十一月二十一日生
第三高校を経て昭和十九年十月文学部社会学科に入学
昭和十九年十二月十九日入営
昭和二十年七月八日華中湖南省長沙で戦病死

     大阪造兵廠出勤日記抄

 昭和十九年六月二十二日
 恒藤恭博士との対話要点
 (省略)
 食ノ問題ヲヨソニシテモ学問ノ道ハ荊ノ道ナリ
 "Trotzdem will ich……"

 昭和十九年五月廿日は記念すべき門出の日なるか。思へば此日よりわが Wanderjahre 始まらんとす。
   (註。十九年五月廿日、第三高等学校の授業は打切られ学徒動員の結果、大阪造兵団に出動。家を離る。─厳父─)
 一週間モ前カラ何日ニハガキヲ書イテアクル朝出スト何日頃着クカトソノ日ノクルノヲタノシミニアレヲカコウカコレヲカコウカト思ヒメグラスノモ日課ノ一ツ。

 八月二十六日
 人間は弱いもので、元気なうちは国家意識により張り切つて働くが、いざ我身が消耗すると他の何をもすてゝ身の楽を考へたがる。休日をゆびをりかぞへるやうになる。しかし一歩つきすすんで此の大きな世の流れから足を抜こうとはしない。それほどの勇気すらないのかもしれぬ。かくて彼は一個の機械となる。

     東都遊学備忘録

 九月廿九日 晴
 我が家の如く気楽に起居せよとの思召しに甘へてのんきに第一夜を過す。九時過ぎ寮に楢林兄を訪ね、寮を一巡先づ東大に向ひ学内を案内していたゞく、午後一時より身体検査簡単に終る。京橋に出で二重橋より宮城を拝す。
 すべて東京は京都に比して荒涼たる感じを与ふ。はるばるあくがれて来て遊子の心に応へてくれるもの、それはあまりにも少い。或意味に於て東大の構ヘやいてふの並木などさうであるけれども、耐へがたき圧迫を加へ転た幻滅を覚ゆ。宮城亦然り、荒涼たる荒野原に過きず。潤ひの少き都宮城前の涙はたゞ有難さのみではなかつた。かゝるが故に都人の愚かさよ。五月のぼりのアンチヤンも落語の世界のみか。他所もの、極端に云へば地方の屑の寄合所帯である。二年半前始めて東上した時は省線電事に先づ肝を抜かれ、人ごみに目を丸くした。今はこつちの心臓も強くなり、ごつた返しを冷視し得る。東京のよさは探さねばならぬ。町々に満ちあふれてゐるかと思ふのは田舎人の誤りだ。
 夜又小石川の○○氏を訪ふ。氏は思想上の東京浪人(と云ひ得べくんば)の一人か。自由思想家でありながら、頑固な旧式親父だ。人物試験には通つた。こんなに勿体つけて入る程の寮かと思へば馬鹿らしくもありいや気もさす。まあ気長にがんばらう。

 十月六日 雨
 文理大へ行く。肥後、加藤両教授共不在。○○君まで不在。腹をへらして帰つた所、楢林氏に呼ばれ鉄道ホテルにて御馳走、洋食食ひたることなければ大いにあぶつくも何とか平げる。肉及魚のえたいの知れぬうまい料理之を箸とスプーンでゆつくり食へたらと思ふ。悠々平げる三人に伍しておくれざる様ナイフ、フオークを使ふには大骨で半ば飲みこんでやつとついて食つた。味もくそもない。をしいこと。品はスープ、魚、肉、アイスクリーム、Kafee ohne Zucker.
 飯をかむと少量にてすむといふことを思ひ出し一口四十ペんを励行して昼食を食つたら消化がよいのか四時になるかならぬのに空腹でたまらぬ。階段を上るのさへ苦痛。又夕飯のごとく呑み込んでも駄目。飯の食ひ方一考を要す。

 十月十一日 曇
 先日より風邪気味。風呂へ入つたらグツたりして了ひ、宛転久しく九時就寝。昼飯を抜きたるためか殊に疲労を覚ゆ。尤も精神的に疲労を来せる事明かなり。未だ明白に云ひ表し得ざれど、東京生活の落着くに従ひ起りし反省より起りしものなり。我が生活は夢の如し、悔いても歎いても底に達せざる情なさ、 Heimweh に非ず──之は断言し得。今日を最もよく生きざる生活に対する不満ならむ。その日、その日を全人格の底より震ひ出して生きし幼なき日を(無意識的ではあるが)瞼にうかぶ。

 十月十三日 曇
 放課後厩橋より浅草橋をつたつて隅田公園吾妻橋を散歩。浅草はごみごみして面白からず。夕ぐれの隅田川、言問橋はスマートでよろし。すべてもやのうち、黎明期の油絵の如く、東京らしさを覚ゆ。
 恒藤先生──封書

 十一月一日 快晴
 十月一日の雨に対し幸先好き朔日なり。約半月ぶりに仰いだ一点の雲なき晴天、昨夜又一降りありたるごとく、地潤ひ愈々清々しさを加ふ、惜しむらくは恰好の履物と昼食なき故武蔵野探勝に出かけられず。(わらじにては湿りて一日にて駄目になる故)午後東北本線に乗りて大宮にゆく、下車せんとすれば空襲警報なり。引返すべきか。予定の行動に出ずべきか。東京迄約一時間特に帯ぶる防空の役目なしとは云へ、関東を襲へば必ず東京に違ひない。ブリツジから改札口迄の間に決心せねばならぬ。何はともあれ引返さねばならぬ人にあらず。第一次の空襲さへ終れば、約一時間後にて解除ならん。その間を利し帰京せんと、取りあへず市中をかけぬけて氷川神社に参る。流石武州一の宮の威厳具り、東京の諸社の比にあらず、朱をぬりかへて加茂の社を思ひ出す。市の東部を南下。たゞ恐るるは波状爆撃なり。此のあたりも洪積台地と沖積低地を入り交りて存するも、高さの差僅々五乃至十米に過ぎず。沖積地は水田、洪積地は畑を大部分とするも、未だ森林を相当残せり。森あればそのかげに四阿の民家あり。森は欅、杉等多し。畑は甘藷で今収穫す。そのあと灰をまいて麦とす。はや芽の出でたる所もあり。桑畑も点在す。綿畑は珍し。今丁度綿を吹いた所。水田は半ば刈りたる所。底地の為水漬ける所多く六月の田の如し。独歩の武蔵野の通り。どこまでも、どこまでも林の間を縫つて邸地の門口から竹薮或は杉林或は紅紅錦繍の雑木林。左より合せ、右に分れ、岐路に時として石地蔵あり、俄に明るく畑のはしへ出るかと思へば林の奥に苔むす墓地あり。邸かと思へば鎮守なり寺なり、関西に森と云へば社寺につきもの民家と縁うすし。関東は然らず四阿のみ瓦ぶきと約半々。中山道すなはち東北線換言すれば大宮浦和を離れるほど自然に林のうちに家あり。町に近づけば生垣など美しく設け瓦ぶきの数を増す。約一時間十分許りにて解除。浦和より田端に至れば警戒警報も解除。

 十一月三日 雨
 明冶の佳節に遂に豪雨となる。入学以来雨多しと雖も幸にして休日に降りたることなし。わざ/\本郷まで飯を食ひに行かねばならぬには消耗する。一食休み、二食にて内野菜″二皿。神田の古本屋をうろつく。美術雑誌のよいのをさがしたが kostbar につき決心つきかねる。一九一三 Beadeker 『独乙案内記』を買ふ。こゝに出て来る程の都市は恐らく戦後廃墟に近からうとすれば歴史的価値ありと考ふ。
 飯は次の如く定む。
 朝(一食につき弐拾銭)夕(五拾銭)計七拾銭。一ケ月弐拾壱円(一定)依つて昼食を九円。米一升(二十五枚の食券)とし次の聯立方程式を立つ。
  25x+40y+50z=900
  x+y+z=30
  x+2z=25
 これを解き、
  x(学食一皿 1日)=21日
  y(雑炊)     =7日
  z(学食二皿 1日)=2日
 夜に入りて木枯の音強く雨戸をうちならす。

 十一月五日 曇。午後回復するも風強き夕なり、夜静穏。
 既に秋酣なるを覚ゆ。根津美術館及高木先生を訪れ、午後土方氏、千枝さん、緒方さん等を訪ねんとの計画も十時のサイレン一吹、オジヤン、警戒警報後約十五分許りにて空襲警報、典型的なる警報なるも、情報によれば敵機一機なり。十二時前解除、人騒せな一機なるかな。戦果に酔はんとする帝都の民心を引緊むる方の戒言より勝れる警報なるも、たゞさへ神経質な神経戦故、以後ねざめ具合の悪くなるもの増加することならん。但、敵の意図かゝる消極的なる神経戦を狙ひしものとも思はれず。近く大々的空襲を敢行し来るは必定ならん。備へあればと云ふが備へは如何にすべきか。民防空の効果は如何程なるか。いたづらに民心を苛立たせるに終らぬ様。大空襲の体験より適当なる指導を求む。ゲートルを着けしのみにて防空の設備なれりと思ふはおかしけれど、民心の安心を得る呪的効果は充分なり。とりあへずリユツクを非常袋となし、下着上下、厚シヤツ、ズホン下、チヨツキ、毛靴下、ワラジ、手拭、紐、薬箱、通帳を入れる。肝心の Essen 少しもなきは止むを得ずとは云へ心細き限りなり。
 午後二時半、警戒警報も解かる。四時千枝さん来る。お萩及天プラ持参有難し。久しぶりの甘いもの文字通り泣かす!
 エドモンロスタンのシラノドベルジユラツクを読む。一昨日の仏語劇の訳本なり。当時を思ひ出しつつ時候も同じ頃。最後の場面、僧院の夜に散るスズカケ(プラタナス)を東一条の電車通よりひろつてまきちらし、又ホロホロと新徳館の二階より落せり、幻燈の黄青などにいろどらる、誠に淋しき『しらの』の最後にふさわしき一シーンよ。その前のゲルマニヤのシラー、『テル』の豪壮なるに比し誠に微細なる仏語(七字読解不能)アトモスフイヤ。今ケヤキ散るむさし野の一角に当時をしのびつゝシラノ、クリスチヤン、ロクサアヌの物語を読む。しかも警報の直後に。
 鶴見祐輔の『米国国民性と日米関係の将来』を読む。流石●(「螢」の「虫」の代りに「火」)眼に大正十一年早くも日米関係の前途不安なるを警告す。面白き書なり。今の日本人にして米国を理解せるもの幾許ぞ、否理解せんと志せる者すら幾人をかぞふべき。学徒にありても如何?。敵を知り己を知らざれば勝を得がたし。嗚呼──。

 十一月十日 曇
 武蔵野探勝。
 八時出発。新宿で来た電車に飛び乗つたら中野行き。中野で乗換へたら三鷹行き。最初よりすべり出しが狂ふ。漸くにして武蔵境に出る。之までの経験から、市の周辺部では電車より直角に三十分歩かなくては東京臭を脱することは出来ぬ、取あへず南下、大体西南の方向に歩む。国分寺跡へ正午頃着く予定なりしが、行けども行けども生垣を廻らし道路の真すぐな住宅地。林は此の間の練馬地方より多いが、どうも面白くない。漸く横道から横道と伝ひ、台地の端に出る。水田をあぜによりわたつて対岸の墓地へ登る。(差十米許り、此の谷には幅二米許りの野川あり)対岸は少し栗林ありしのみにて一面のすゝき原、すゝきはことごとく白穂。かくも深き野よくぞ残つたものと感心しつゝ行くに Soldaten の声。さてはと合点、直に引き返す。中途より北進広き道路あり。通行止めの柵半ばこはれてあり、柵の外に出てふりかへれば、火気厳禁東部第×××部隊とあり。 Soldaten 数名にらみゐたり。危機一髪。そこは多摩墓地の北門なり。奇しくも思はざる所に出たと墓参に行く。墓地とは云へ公園のごとし、殊に墓前の灌木紅黄に色づき甚だ美し。少しも墓地特有の陰惨さを感ぜす。名誉墓地に到る。南より古賀、山本、東郷の三元帥の墓あり。古賀元帥の墓は未だ出来上らず。名誉墓地附近に音羽侯、西郷従道、高橋是清氏の墓あり。
 墓地南門を出で、多摩村を西進すれば、右手の丘陵に高射砲陣地あり。府中へとある道をたどれば、陸軍省の軍機保護法云々と立札のある鉄条網へつきあたる。全く Soldaten に攻め立てらるゝ心地し、北に避け出たらめに歩けばやうやく国分寺村に出る。依つて西進。丘の南麓に一小寺あり。寺名なけれど国分寺らしく附近を歩けば仁王門、薬師堂あり。確かに国分寺なり。南すれば一二米ばかり周囲より小高く笹塚あり。中央桜並木状にあり。南端一本松あり。此れ金堂講堂の跡。礎石等笹のうちに在り。たゞの自然石そのまゝなり。松の根方に史跡武蔵国分寺跡の一碑あるのみ。この南約一米幅の里道。此れ古の国府と寺を結びし、いはゞ、朱雀大路の名残りなり。荒廃荒廃、礎石すら笹の中に在りて不明。之を大和の藤原京跡、太宰府などと較べると関東人の文化意欲と云ふものがうかゞはれる様な心地す。
 このあたり栗林多し。すべて果樹園として仕立てたるもの、勿論中には荒廃して殆ど自然林のさまをなしてゐるものもある。かゝる所は秋草美しく、鉄道菊、薊、名も知らぬ青紫色のつりがね型の花、赤い小さい芥子の様なもの等々。かゝる粟林が例のケヤキ、シヒ、カシ等々を主とする屋敷林をとりまき、その手前に桑が、之もやゝ黄味を帯びて取りまき、その外に畑地あり。尤も畑地中にも桑畑が1/4ばかり占めるから野は一面に黄色を基調とし、林は黒ずんだ緑赤色を帯びたケヤキ、サクラ、黄緑の桑等の層をなし甚だ美し。畑は甘藷が大部分、その後へ麦をまく。大根も少し交り、柿畑もある。練馬あたりでは大根等(時々キヤベツ)蔬菜が半分、このあたりでは一ト二位。練馬あたりは屋敷林以外は林なく、浦和郊外にては屋敷林が深まり自然の雑木林をなす。此のあたりは人工の栗林多きこと上述の如し。故に林の周りに茶や杉などの生垣をめぐらす、畑地をかゝる小灌木にてかこめるは練馬方面でも見たが、あすこは土地の境としてのみ、道は自由に入れる、こゝは一層厳重でかこひの中に入れぬ様私道には門を作る。浦和附近はかゝる生垣すらなし。買出し部隊おことはりなど立てるを見ても此の地方の人気おしはからる。工場数多建てられ純農村を離れゆく傾向あらはなり。ながめた眼は三ケ所中最も美しけれど感じは悪し。



     *     *



松岡欣平
 大正十二年八月十日生
 静岡高校を経て昭和十八年十月経済学部に入学
 昭和十八年十二月入隊
 昭和二十年五月二十七日ビルマモールメンで戦死

 一八・九・二七(日記)
 フアツシズムとは一体何か。ルネツサンス以来の理性と科学の勝利の時代に対する反動運動であらうか。モウリス・コーエンの『理性と自然』の中に云ふ権威・純粋経験・直観・創造的想像力とは果して反理性主義の結果表はれて来たものであらうか。吾人をして見しむればファツシズムとは現代に於ける逃避思想であると一言にして云へる。ルネツサンス以来の我の自覚の行きづまリの結果、論理的飛躍を求めんとして持ち出したのがフアツシズムであらう。混乱の極に達した現代社会を打開する為の方策として最も手つとり早いのが神がかりになることだ。理性的社会が複雑になるにつれてその統一に苦心するのは当然かもしれぬ。然しその理性により混乱せる社会はあくまで理性により解決を求めるものである。ナチス御用哲学者ローゼンベルグは独乙はナチスに於て二十世紀の理想的政治形態を見出したと云ふ。盲目的に人民を一時の感激によりアツプさせて引きづり廻して作り出したナチス国家。感激は一時的のものである。その激情からさめた時そこに見出した自己の周囲は何であらう。統制によりあらゆる自由の剥奪、盲目的な追従のみを求める政府のみが残つてゐる。強力な法治国が残つてゐる。しかもその国はやがて論理的に矛盾に陥り、冷静な批判の下、まさに崩れんとする現実に直面してゐるであらう。フアツシズムに溺るるなかれ。フアツシズムとは青年にありやすき一時の興奮である。冷静に落着いて秩序を正すべし。百年の後に悔を残すなかれ。今日本は興奮してゐる、興奮は大衆であればよい。国家の干城たるもの一時の激情にからるることなかれ。落着いて理性名刀を振つて混乱をとくべし。
 愈々自分も出陣。徴兵猶予の恩典がなくなり、将に学徒出陣の時は来た。
 現在の自分の気持は唯複雑怪奇といふより外はない。ヤつとのことでここ迄こぎつけた自分だつた。所謂学問の銀座通りともいふべき官学をすべて歩んでこの東京帝大迄入つて来た自分。あと三年、否二年半で一人前の学士として社会に立てる自分。国家の要請により将に学窓を去り戦場に向はんとする。
 俺は命が惜しいのであらうか。さうかもしれない。如何に全体主義だの全体と個の関係だのと理解してゐる様に口では云つても人は唯割りきつた所のものに最後に自己といふものが残るのだ。極端に云へば誰一人として個人主義的傾向のない者はゐないと自分は思ふ。国家を思ひ全体を考へる人間それは必ずや国家と自己との調和点を見出さんとしてゐる人間だ。全体と個々との融合点を見極めんとしてゐる人間だ。軍人は滅私奉公といひ、私をすべて捨てゝゐるといふ。果して軍人すべてよく私を捨てたと自分で断言できるであらうか。唯軍人はその進んでゐる直面してゐる職業ともいふべきものが死といふもの戦とぃふもの国防にそそがれてゐるが故に、崇高に見えるのである。彼等の考への中には、否、すべての人の考への中には、死は無限の価値を有すといふ観念がひそんでゐるのだ。無限の価値を有する死、それは結局唯物論に陥つてゐないだらうか。一商人が商品を売つて儲けるといふことは唯物的な、唯金といふものに執着したきたない考へ方だと賤しいものとしてゐる人々よ。結局すべてのものは『物』であるといふ考へに換算できるではないか。死すらも物と考へ得るではないか。それと同時にどんな些細なものであつても精神の存在せぬものはない。人間は結局人間である以上、始めから終りまで悪人はゐない筈だ。他人の金を盗まんとする盗賊と云へども彼等の直接の動機を考へ、真に深い原因を探るならば悪の為の悪は存在しない筈だ。家庭的事情、或は彼の環境等を考へるなら盗人すら一片の善心なきにしもあらず。かく考へるなら如何に些細なる現象といへどもすべて精神なりとする唯心論が生れる。死は勿論最高のものだ。物に対する心のほこるべき最後の切り札として出す自殺の現象が如実に示してゐる。
 自分にはわからない。どうしても解決がつかぬのが事実だ。(中略)物事の大極は必ずある。人間界を支配する、森羅万象を支配する、神の存在することは『信ずる』ことができる。信ずることは力なりと誰かが云つたが全く信ずることは無限の力を有し、これが最後の解決の鍵を持つてゐるのだ。文句なく、それならば、吾々は、いや、自分は信ずるということができるだらうか。凡人の浅間しさか自分は与へられたものを信ずることはできない。そこに必ず邪心が入つてくるのだ。残念だ。カントの云ふ定言命令といふもののあることは知つた。然しそれが現実に如何なるものであらうかは自分には解決できぬ。そして最後にもつてくるものは何かそれは感情論であらう。かうやつて自分が筆をとつてゐる、これもー時の興奮にすぎない、青年期の心理を示すものにすぎなからう、と云つて笑ふ時代が後になつてくるかもしれない。そしてこの青年期の心理は、高等学校を経た人間のもつ心理といふか、考へ方は、即ち弁証法的考へ方であらう。くだいて云へば屁理窟に終つてしまふかもしれない。これが悲しい。自分は書いてゐる際は、又行動してゐる際は真実だと思つてゐるのだ。仮令一場の夢にすぎないと笑はれると思ひつつも行動できる、感情の方がつよく動いてゐる。嗚呼、一体現実といふものは何か。人間の考へ得る範囲とは何か。人間は何をなすべきなのか。自分は何を考へるべきなのか、何を為すべきなのか。これが解決だとて示され得るものは何か。書いてゐるうちに思はぬ方向に走つた、本論にもどさう。自分は命が惜しい、然しそれがすべてでないことは勿論だ。自分の先輩にも又これから自分も又自分の後輩も戦に臨んで死んでゆく。死、死、一体死とは何だらうか。
 それは兎も角としやう。先輩も自分も大東亜の建設の為日本の安寧平和の為に死んでゆき或は傷く。傷ついた位のものは兎も角として死んだ者を考へよう。彼等は大束亜の建設日本の隆昌を願つて、それを信じて死んでゆくのだ。自分もさうだ。そしてその大東亜の建設、日本の隆昌がとげられたら死者又冥すべし。若しそれが成らなかつたらどうなるのだ。死んでも死に切れないではないか。戦は勝つてゐるうちは良い、それが防禦になるとつらいのだ、と誰かが云つた。
 率直に云ふならば、政府よ、日本の現在行つてゐる戦は勝算あつてやつてゐるのであらうか。空莫たる勝利を夢みて戦つてゐるのではないか、国民に向つて日本は必ず勝つと断言できるか、いつもこの断言の為には非常な無理に近い条件がついてゐるのではないか。嗚呼、自分の理論は破綻に来てしまつた。単に理科系の生徒のみ残り、一部の吾々が出陣する、死に向ふといふことに対する個人的立場の不満の解決は遂に出来なくなつた。俺は厭戦思想に陥りさうだ、陥つてゐるかもしれない。一度兵営に入つてしまへばそれ迄だらう。何も考へないであらう。それが一番幸福かもしれない。考へれば考へる程矛盾に陥る。然し人間は考へる葦ではなからうか。人間は考へる能力は有してゐるがそれを解決する能力は持つてゐないのだ。結局、弱いいくじなしだ。能力をもたないといふのは努力がないことだらう。随分勉強した、あらゆるものを解決せんと努力した。それもー場の夢だ。夢の又夢だ。木檜が徴兵検査を受けて帰つてから話したが、検査など一般の人々と一緒になつてみると何と自分の知能の高いかといふことが感ぜられ、優越感に陥るには充分だと云つてゐた。学科試験など一、二分で書きあげられると云つてゐた。或はさうかもしれぬ。自分も弓の段審査の際の学科試験など普通人の五分の一位でできてしまふ。こんなこともあるのだ。それであるのに上を見れば尚広い。学校の試験に汲々とし大学の入試に努力せねばならぬし、経済の本をよめば砂を噛むやうだし、法律の本をひもとけばねむくなる。未だ未だ学問の世界は広い。世界的な研究をしてもわからぬ所は無限だ。げに学問は永遠である。永遠の真理を極めんと斧をかざす吾々、本当にやり甲斐のある男子の本懐これにすぎるものなからん。永遠の真理の前には戦争など一場の喜劇に終るであらう。絶対の真理に直面しては軍備拡張は蜘蛛の巣を作るにも足りないものかもしれない。然し人間は弱いものだ。この些細な現象のために、永遠の研究を捨てなければならないのだ。

 現在の人間の最も願つてゐるものは『平和』である。平和とは一体何か。真の平和をいふならば武力の戦が経つても資源戦、経済戦等結局人類の滅亡迄、平和は到来しないであらう。最近の書物にちよい/\見られるのは戦争の倫理性といふことである。戦争の倫理性なんて有り得るものであらうか。人を殺せば当然、死刑になる、それは人を殺したからである。戦争は明かに人を殺してゐる。その戦争を倫理上是認するなんて、一体倫理は人を殺すことを是認するのか。大乗の立場、大乗の立場と強調される。大乗の立場から戦争をみるなら何故人を殺さぬでもよい様にしないのか。人を殺してゐる間に大乗、小乗などの区別はあるものか。すべて悪である。死んだ人間に生を与へるなんて、近代の哲学の現実に対するへつらひにすぎない。哲学はあく迄リードするものである筈だ。過ぎさつた者に道徳性を与えるなど、文化の恥辱、人間の自己の行為の欺瞞だ。

 『無法松の一生』を見た。入営前の心境であつた為か、妙に印象が深ぃ。近来の映画中傑作の一つとして見ることができた。思ひ出ふかいものとして残るであらう。(中略)
 運動会、提灯行列、太鼓等々すべて走馬燈の如く走つてゆく。すべてが過去の淡い夢と消えてしまつた。いつの日にか提灯行列を見ることが出来よう。いつの日にか運動会の喜びにひたれ得よう。俺は気が狂ひさうだ。俺は太皷を打つてみたい。俺は提灯行列をやつてみたいのだ。長袖の着物がみたいのだ。戦争、戦争、戦争、それは現在の自分にとつてあまりにもつよい宿命的な存在なのである。世はまさに闇だ。戦争に何の倫理があるのだ。大義の為の戦、大義なんて何だ。痢者の寝言にすぎない。宿命と感ずる以上、自分は戦に出ることは何とも思はない。然しそれで宿命は解決されるのであらうか。世の中は再び平和をとりもどせるのであらうか。
 自由主義といひ、軍国主義統制主義といふすべて手段にすぎないのだ。日本は日本のみの道を歩まねばならぬし歩んでゐるのである。平和の為の我が戦の目標でなくて何ぞ。
 果して自由主義の時代であつたかどうか知らぬが、昭和五年頃からの日本といふものを知つてゐる、過去がなつかしい、過去の夢を追つてゐたい。
 弱い心の自分は現実を如何にするかを知らずに過去のはかない夢を追ひ未来の空中楼閣のやうな淡い勝利の夢にふけつてゐる。
 もつと強くなれ。もつと強くなりたい。たゞ、それだけ。



     *     *



有坂長生
 大正七年二月二日生
 東京高校を経て昭和十三年四月文学部国文学科に入学 昭和十六年三月卒業
 昭和十七年三月入隊
 昭和十九年四月印度アツサム州で戦死

 (弟への手紙 一)
 此の素晴しい歴史的な環境の中で我々兄弟の力強い努力を頼もしいものに思つて居る。
 私が学生であつた時に学生たることと同時に歴史に根ざした自覚をいつも問題にして来た事を考へてくれるだらう、自覚はいつも決意に迄高められることだ。
 言葉と云ふものはどうにでもなる。あらゆるものは自己の問題として考へる事の外に生かされる手段はない。
 私達のやうな経歴をとつた人間は世間の注目と関心の中心となる。在学中よくよく考へて置く様に。自分自身で考へる以上に責任があるのだから。あくまで堂々として濶達な気持は忘れてはいけない。

 (弟への手紙 二)
 中支に居る時受取つたお前の手紙をつい十日許り前迄持つてゐた。月の明るく照つてゐる夜お前の手紙を読み直して昂奮しながら営庭を歩いたものだつた。私はお前の年頃の持つ自らな緊張感に触れて私の頭に限りなく色々な考へが浮びあがり頭が冴えたのであつた。
 お前の精神状態に就いて手紙の内容から出来る限り読み取り想像した。其の時私はかういふ事を考へたのであつた。人間といふことは分裂する事を知らなければならぬと。かう書き始めるとお前は戸迷ひするかも知れないけれども事実をたしかめて根源的な所に遡り、それからもとの事実を説明しようとする私のくせが出て来るのである。
 分裂するといふのはいつまでも素朴な自己にとどまらないことを意味する。恐らく眼底更に眼を持つことによつて現実は深さを持つものだ。自己を絶えず打ち直さなければならない。自己につきまとつた膜を切り落さなければならない。
 より高い統一のためには徹底した眼の訓練が必要なのだ。それには感激するのはふさはしくない。感動は対象につきあたつただけでその周囲をまはるだけだ。本質的なものを掴まうと思つたら偉大な人間に直接にぶつかつてゆくがよい。
 勿論廿才の時は廿才の権利を主張してよいのだが徒らな感動の根を抑へて本質的なものを掴まうとするお前の意志をのばして貰ひたいものだ。たとひ私と同じ文学方面に進まないまでも。今日はこれでやめにしよう。気にさわる様な事があつたなら私の勝手だとして許してもらひたい、お前自身の思念を尊重して。健康に注意するやう望む。



     *     *



坂巻豊
 大正十年六月十七日生
 浦和高校を経て昭和十七年十月文学部教育学科に入学
 昭和十八年十二月入隊
 昭和十九年三月十一日朝鮮京城で戦病死


 昭和十八年十一月十七日
 小田さん(故人が十数年交際した婦人)へ
 前便以衆、小一ト月近くなります。最も肝胆相照した親友への一枚を最後として気に入つたレターペーパーもなくなつてしまひました。こんな事を書くにも、色々な過去が思ひ出されて参ります。学生としての手紙もこれが或は最後かもしれません。或はもう一度位書けるやうになるでせうか。とにかく今日ありて明日なき身のはかなさを思ひ現在の感懐の一端でも書いておきたいと甚だ乱れたもので失礼ですが暫くおよみ下さい。
 いつもの通り近況から始めます。木彫は散々苦心したにも拘はらず遂に意に満たず放棄しました。又他日気の充実するのを待つて新しく着手する筈です。
 貴女もさうでせうか、吾々近代人は信仰を失つてをります、吾々は既成のいかなる宗教にも同感できません、キリスト教の奇蹟も救済もまともに感受することができません。仏教もさうです。神道などは信仰すべきものですかと反問したくなります。吾々は信仰すべきものを失つてしまひました。殊に日本に於て歴史を回顧する時、吾々はその中から信仰すべき如何なる存在を発見し得るのでせうか。
 何故、自分は突然に信仰の事を書きだしたのでせうか。端的に申しませう。近い将来に死に直面してゐるからです。人類が宗教を所有したのは人類が生れると共に死の災厄をまぬかれなかつたからです。信仰する心は即ち自己の無力に対する自覚から自己以外の他者而も自己に相対するものでなく絶対他者─人類が神と呼ぶもの─の存在をこひねがひ、只管自己を謙控して彼の絶対者に心を放射し委托し以て自己のみが人類の災厄からのがれんとするのであります。乍併この意味に於ける信仰は最も原始的宗教感情であり吾々には所有し得ない信仰です。自分が先に信仰を失つたといふのはかかる意味のいはば『心の信仰』をさします。素朴的信仰ともいへませう。この『素朴』といふ心の意味、万葉の日本人以来日本人は『素朴』を以て最も根源的な生活感情として生きて参りました。自分は最近一つの生活感情をまとめるつもりでその手がかりを過去の日本人の中に探してみました。記紀万葉以来まづ日本人の生活感情は『まこと』といふ表現にみられます。『まこと』とは如何なるものかといへば鬼貫は自然のままの情の自然に現はれたものを『まこと』と称してゐるのです。素朴自然なる古代日本人が自然のままの情を自然に流露するこれが『まこと』であります。
 『まこと』は又真言であり真事であります。『まこと』の生活者であつた古代日本人は倫理性に於て善であり論理的に正しく更にその二つながら一身同時に生活し現はす処に美的な生活者でもありました。
 かるが故に彼等は心からよく
  海ゆかば水漬屍山ゆかば草むす屍大君の辺にこそ死なめかへりみはせじ
と歌ひ、又
  今日よりはかへりみなくて大君の醜の御楯といでたつわれは
と清澄な心境で皇戦に従ひえたのであります。
 自分は今戦場に赴かんとして果してよく此の素朴なる感情に徹しうるか否か自分を疑つてゐるのです。右の二首とも『かへりみ』ないことを強く言ひきかせてゐるのです。『かへりみ』るとは何をかへりみるのでせうか。具体的に言へば、父母・兄弟・妻子・財産・名誉・権勢等色々ありませうが最も端的にはそれは生命そのものでありませう。生死の問題は人類によつて永遠に一人一人が苦しみ解決を求める問題であります。それは決して或る天才によつて解決しうる底のものでなく主体的各自的な問題であります。而も彼の素朴なる人々には大君御一人に帰一随順することの信仰によつて生を超えることができたと思はれるのであります。
 実に素朴的信仰に帰依しうる人は幸ひであります。近代精神は余りにも自我精神の自覚を強制しました。吾々は今やいかにしても自己を放擲することができなくなりました。吾々は自己の内に確固たるミクロコスモスを構成し終へました。神(絶対者)すらも吾々の内に求めようとさへします。吾々が吾々の一切であります。吾々の死は即ち吾々自身のコスモスの破滅であります。生ある限りに於てのみ、吾々は吾々でありうるのであります。所謂素朴信仰を喪失せる吾々にとつて今や最も苦悩の時がまゐつたのであります。
 吾々は戦場に征くのであります。戦争は勿論すべての兵士を殺すものではありません。併し兵士の或者は殺されるのであります。吾々は常にその或者であることを覚悟せねばならぬのであります。則ち吾々は今や死に直面してゐると申して過言ではないのであります。吾々は自身好むと否とに拘はらず即刻生死の問題を解決すべく強制されてゐるのであります。
 九月二十二日学徒徴兵の発表の当時学生は非常に動揺したのであります。吾人の仲間は(三人)二十三日の夜おそくまで興奮して話しあつたのであります。又三十日には朝四時迄語り明かしたのであります。その他連日手紙を往復したり又は話し合つたりして活動衝動を抑へえなかつたのであります。しかしそれらはいはば一時的な興奮であり、未だ兵として召されるの実感もなく況して死を思ふ程の切迫感はなかつたのであります。やがて興奮も去つたのであります。吾々にとつて問題となるのは戦場に赴く事によつて吾々は死に直面すると云ふ一事であります。吾々は死を恐れてはゐないのであります。たゞ如何にして此の至善にして至美なる生を諦観し得るかに最後の苦悩を感じるのであります。
 貴女も一度は聞かれたでせうが思想家とか論者とかが、そして日本では哲学者と称する人達までが、生活の問題について言ふことは常に軌を一にしてゐるのであります。即ちライプニツツの単子論以来個人哲学に洗はれた西欧思想と違ひ日本思想はひたすら大君に帰一することによつて永遠の生を得るのであり、日本人は国家の為に死ぬことによつて永遠に生きると云ふのであります。例へば今机上にある『理想』十一月号を取上げて見ませう。その中に高階順治の『大戦下学生の世界観の問題』と思する論文があります。これを読みながら批判してみませう。
 「……殉国はわれら皇国臣民に於いては正しく永遠の生である。……併しながらそれは直ちに刻下の肉体的死を意味してゐる。殉国の決意は玉砕への覚悟であり肉体的死への決意である。……死への決意、玉砕への覚悟、それは比類なく貴きものであるが故に又容易ならざるものであり、不退転的信念の根拠を必要とするものである。信念は悲願によつて強められ、悲願は諦観によつて不動のものとなる。現実への諦観、それは絶大の勇気を必要とする。……自らの生を省み、余儀なき死をみつめ、……みつめつつ死を迎へるといふことは、それを超えることであり、死を超える事は生を真に生きることである。生を真に生きることは自覚的存在として自らの生を把持し、それを己が意のままに最高の価値あるものに迄高めるの道は最高の価値者へ合併せしめるところにあり、唯一神聖者にこれを捧げる事にある。」論者の云はんとする処は概ね同情しうるのであり、公然発表するにはかかる表現はさけられぬものと思はれるが、しかしながらこれは単に自明の理を形式的に構成したに過ぎす、内容的に何等示唆するものがない。例へば殉国に於いて永遠の生を見ることは自分が先に共同体の処で説明した事であり、是は全く観念上の安心であり現実的生とは又別個の問題とせねばならない。現に論者は直ぐ後で『肉体的死』なる表現を示してをり、つまり論者は図式的には次の如く言ふ。

  瞬間的生        永遠的生
  肉体的生  肉体的死  欠
  具体的生        観念的(抽象的)生

 そして論者も現実的な問題としての、肉体的死への決意の困難を認めるのであるが、その困難を克服すべきものとして示す『信念』も『悲願』も何等内容的に説明されてゐないのであり又『現実への諦観』が『絶大の勇気』によつて獲得されるといふ考へ方も厳粛に哲学する者に対する侮辱といふの他はない。ただ『肉体的死への決意』や『現実への諦観』が人生に至善至美の世界を探り、生に深い愛着を有つ吾々にとつて、如何にして可能であるかが新しい問題となるでせう。
 『自らの生を省み余儀なき死をみつめ、みつめつゝ死を迎へる』ことは正に理想的なもののふの心境ではありますが、併し死を超克することは『生を真に生きること』でありえませうか。論者が次に唯一神聖者と云ふのは勿論天皇でありますが、吾々は吾々の生を如何に考へたなら唯一神聖者に合併せしめ得るのでせうか。
 吾々はここに論者の虚を見るのであります。即ち論者は永遠の生へ転ずるといふ事を以て現実的肉体的死を肯定しようとするのであります。『やむを得ざる』死を以て『積極的に意義ある死』たらしめんとするのであります。そこに無理があり、飛躍があるのであります。自覚的在者として自らの生を把持し、それを己が意のままに『最高の価値あるものにまで高める』──自覚的在者にとつて最高の価値が何であるかといふことについて論者の論述は曖昧であり吾々も亦軽々しい議論は出来ないと思ひます。
 とに角論者は、「……反省による現実理解こそ真の力の根源である。強いて叡智を曇らして現実凝視を怠り、自らの強さを盲信する者ほど弱く危険なるものはない。……透徹によつて初めて超克も可能となる。」と説いて以て確固たる世界観の必要を力説する。是は当然である。
 私は今まで生死の問題を長々と論じて参りました。そして結局次の結論に至るのであります。
 即ち、
 「吾々は飽くまで生きるのが正しい。正しいとは人間として自然であり素直であり、まことの心情にかなつてゐるといふ意味である。併し吾々は共同体の一員として共同体の要請に応へねばならぬ。その為には死も亦止むを得ない。ここに『現実への諦観』が必要となる。然るに現実は実に諦観し難き最極点にあり、この諦視しがたき現実生を敢えて諦観せんが為には最早観の世界を超えて行の世界否『観行一如』の世界に悟入するに非ざればあらずと思はれる。仏者の謂ふ『観行一如』とは如何なる境地か。到底吾々の速急に体認するを得ずとすれば嗚呼われ等遂に煩悩の虜たるを脱離し得ざるか。」



     *     *



小森寿一
 大正十一年十二月二十九日生
 第一高校を経て昭和十八年十月法学部に入学
 昭和十八年十二月海軍に入隊
 昭和二十年一月二十二日比島で戦死


 昭和十九年七月五日
 或る友に
 何から語つていゝか、泌々と感じた事を書き陳ねて行くと云ふことが随分久しく無かつた為か。昔味つた胸をときめかす様な思想の発展を楽しみながら綴つた装飾多き章句の連鎖も浮ばない。或ひは此の手記が君にとつて退屈なものであるかも知れない。退屈になつたら煙草をふかし雑談を交へながらでもよい。嘗つての友情に縋つて一読して貰ひたいと思ふ。
 しかし一体何を書かうと云ふのか。思ふに濛々たる細雨の夕は人を追憶に引入れずには措かぬものらしい。何かしら無性に昔がなつかしくなる。眼を閉ぢると彼の俤、此の笑顔が浮ぶ。机の中には君達に貰つたあの写真があつた。あの裏には君も知つてるだらうね。Faust の巻頭の一句
  楽しかりし日のくさ/゛\の象を汝達は齎せり
  さて許多のめでたき影ども浮び出づ
  半ば忘られぬる古き物語の如く
  初恋も始めての友情も諸共に立ち現る
を俺は書き入れたんだが、其の写真を見てゐる中にそれこそ Faust では無いが
  我慄に襲はる。涙相踵いで落つ。
  厳しき心和み軟げるを覚ゆ。
  今我が持ちたる物遠き処にあるかと見えて
  消え失せる物、我が為には現前せる姿
となつた。
 今俺はさう云ふ気持でこれを書いてゐる。云はゞ半年前の俺になつて半年間の海軍生活の印象を古い思出話として話すのだ。だからきつとぼんやりした掴みどころの無いものにならう。俺自身夢を見てゐる様な気持なのだし、外には霖雨の中に月が暈をつけて煙つてゐると云ふ状態なのだから。
 海兵団時代──今から思へば多少懐しくなくもないが、其の当時は憂鬱そのものだつた時代、自由を謳歌し解放を思ふさま享楽した高等学校から冷い軍紀と厳しい束縛とに凍てついた様な海兵団へ入つた時どんなに俺は愛情を欲したことか。奔騰する憂国の至情も逸脱を許さぬ躾に押へられて只管俺は愛情を、ニイチエの所謂『唾棄すべき同情心』を求めた。一日に葉書を十何通書いたのも此の熾烈な求愛に出たのかも知れない。あそこでは人は到底『愛を必要とせざる超人』たり得ず『愛を求めて得ざる奴隷』でしかあり得なかつた。
 俺の同班の者にKと云ふ男がゐた。か弱い肉体と繊細な感情の持主であつたKは同時に当に虐げられた感情を歌ふ詩人であつた。大晦日の夜俺と不寝番に立つたKは
  十二月三十一日の宵寒く我は抒情の歌なくて寝ん
と口ずさんでゐた。本当に寒い夜であつた。体力的に無理なKがカツターの橈を流して教班長に擲られてゐるのを如何ともし得ず見てゐたその夜のことだつたが、確かあの夜君にも便りしたと思ふ。その葉書に
  病む友に便りする夜を凍てわたる
と拙い句を記したと思ふが記憶の誤りであらうか。あの夜は戸外の黒い大地に劣らず俺の心もましてKの心も凍てわたつてゐたのである。そのKにも俺にも嬉しい退団の日が迫つて来た。東大法科の三年であつたKには主計見習尉官合格の自信があつたのであらう。彼の歌にも明るい希望の色が射し始めた。
  父母は起きてゐまさむふるさとの空に向へば心足らへり
 ある日彼は俺に一つの不安を打明けた。Kは高校時代思想問題で半年余も検束されたが結局無罪不起訴となつたと云ふのだ。それは単にKが委員をしてゐた文芸雑誌に一先輩が左傾論文を寄稿したと云ふに止るらしい。又事実Kは詩人らしい軽やかな魂の持主で拮屈な弁証法的左翼思想とは全く縁遠い存在だつた。勿論俺は軽く其の不安を一蹴したが、そしてKはすつかり安心したらしかつたが、俺には一抹の不安があつた。
 発表の日以後のことはKの
  ちゝはゝを呼びつゝ我は冬雪の深みの下にせんすべもなし
と云ふ歌と、俺の
  白雪の深みの下に黙然居りて失意の友に云ふすべもなし
  失意の友を苛む如く思ひつつ雄心持てと我は語りぬ
と云ふ二首の歌から想像して貰へると思ふ。
 成程Kは過去に汚点を有し、又軍人として相応しい性格の持主ではなかつたかも知れぬ。しかし彼の魂は清純な殆んど天そのものと思へるまでに汚れなきものであつた。君には水兵の生活、殊にKのやうな男にとつてそれがどれ程苦しいものであるかわからぬだらう。しかし俺達が退団する前夜Kが自殺を図り俺がそれを発見してそれを未遂に終らしめたことが果して彼にとつて幸福であつたかどうか俺は長く苦しんだ、と云ふ事実がある。余りに長く俺はKのことを書いた様だ。しかし此の事実は人の世の嶮しさを沁々と俺に印象づけた。批判は君にまかせたいと思ふ。
 土浦──我が海鷲揺籃の地、朝日水清き霞ケ浦に映じ、夕陽筑波の連峯を朱に染むるところ、此処で俺は始めて死に直面した。君も知つてゐる通り入団前俺はキリスト教乃至仏教の教理に触れることに依つて生死の問題を解決して置きたいと思つた。そして盤珪の所謂『不生』に依つて又大慧の『膿滴々地、日々是好日』なる禅語に依つて略々安心し得たと思つた。しかしそれは所詮生を基盤とし死を彼岸視した時の生命観に過ぎなかつた。云はば肉体から切離して死を抽象的に見、生死を同位に列せしめようとする様なものであつた。
 若い搭乗員等は戦地で出撃相次ぎ肉体的苦痛が最高度に達すると、死がたまらない魅力になり進んで死地に就きたがるさうだ。俺の所謂安心立命も多くの理論の粉飾を除けば実は此の程度の安易なものであつた。
 フアウストが呪に依つて地霊を呼び出しながら其の余りに恐しく厳しき姿に顔を掩ふあの場面を帝劇で見たのは昨年の春だつたかしら。
 ある日霞ケ浦航空隊の一機が土浦に不時着して火を発し、風房が開かず、俺達の見てゐる前で搭乗員は尽く惨死した。為すべき術も無く手を束ねて見てゐる俺達にはのた打ち廻る搭乗員の姿があり/\と見えたし、其の叫び声も耳を打つた様に思ふ。
 死の容貌は俺にとつてフアウストに於ける地霊の如きものであつた。此の一瞥以来俺は自己の生死観の再検討を余儀なくされた。
 正直に云つて先づ死は従来より遥に怖く厭ふべき存在となつた。祖国への奉仕はかくも呪ふべき死をも賭さねばならぬのであるか。問題は必然に個人と国家の相関存在状態の根本理念の考察に移つた。換言すれば死を多少ロマンチツクに見て『捨身の美しさ』などと云つてゐたのが厳しき現実の死に直面して再反省を促されたのだ。其の頃の俺の日記はこれをむき出しに見せてゐる。
 しかし俺は元来君も知つてゐる通り楽天的で且つ大いに不精だ。未だに解決出来ぬまゝ俺は此の隊に来てゐる。
 そして戦局益々緊迫し敵サイパンに迫ると共に俺の心に解決と云へぬまでも或る──諦念と云ふべきかも知れぬ──達観が生れた。実際現在では君なんかの方が俺より生命の危険に曝されてゐると云ふべきかも知れぬ。俺は今まで祖国への全力的な献身は必然的に死を齎らすと云ふ一つの──倫理学では何と云つたか──矛盾観念を抱いてゐた様に思ふ。
 寮の屋上で数百光年の彼方の星団を仰ぎつゝ君と神を語つたことを思ひ出す。『銀河を包む透明なる意志』『神的理性』何と云つてもよい。『絶対なるもの』は必ずしもさう固燥したものではないであらう。運命に押し流されつゝ敢てその運命を試んとする。これは人の子の不遜であらうか。
 美しき我が愛する祖国の山河、俺を愛し温めてくれる人々、それらを守るべく俺は全力を奮はう。其の前程に快き捨身の道あらばそれを辿らう。厭はしく呪ふべき死あるもまた止むを得ない、万一僥倖の生あらば、また君と歓語し痛飲する機もあらう。俺は今そんな気持でゐる。
 消燈十分前時間は尽きた。取りとめもないことを書きならべた様に思ふ。外には依然あるか無きかの雨が降り続いてゐる。第二警戒配備の空は暗い。しかし近頃俺の気持は頓に明るいのだよ。
  風光り、雲光り、新樹光る日々
 又お便りしよう。君の健康と勉強を祈る。



     *     *



山中忠信
 大正十一年三月五日生
 第三高校を経て昭和十七年四月文学部倫理学科に入学
 昭和十八年十二月入団
 昭和十九年八月十五日横浜海軍病院で戦病死


 昭和十八年十二月三十一日(大竹海兵団生活日記の一部)
 娑婆を離れた場所でも正月になれば正月らしき楽しさが来る。楽しさを近き明日に有つ者、何だか人間も可愛想になる。何と云つても正月は五十日の海兵団に於ける生活の真中に位する息抜きの日なのだ。何はともあれ嬉しき事には変りはない。長い生涯であるかも知れない併し今は長い生涯を考へてはならない。
 此の一、二、三年を、これ迄の年月を自己の生命の一つの区切としなければならない。全てはこの想定の下に自己の若き生命に一つの完結を与へておかなければならない。全く虚の様だ。然し之は現実の事なのである。つく/゛\と軍隊が嫌になる。然しこの様な事を考へてはならないのだ。歴史であらうか、何であらうか、兎に角訳の分らない得体の知れないものだ。
 之に人間が歴史の名前を与へた。起るもの、生起するもの……其の裏には不可解のものがある。何や彼や解らないものゝ中に個人々々は盲目同様亡びてゆく。全く窮屈で可憐なものである。人間は全く憐む可き存在だ。それにしても此頃は涙もろくなつて仕方がない。家の生活をもつと良く落ちついてしんみりとして置けばよかつた等々──盛んにホームシツクになる。この様な生活も未だ二十日余、全く嫌になる、一日も早く出度いものだ。軍隊は全く人間を○とする。動物を鍛へる所の様だ。

 昭和十九年三月十日(横須賀海兵団分団武山海兵団生活日記の一部)
 現在の生活に自己を順応せしめることだ。而して其所で諦念を以て生きる事だ。モガイテモ悲観しても全く致し方のない事である。盲人になつて馬鹿になつて居ますか、否々、盲人にでも馬鹿にでもなるのではないのだ。一人の人間として此の中で生きられる所迄生きてゆくことである。環境、此条件への不満、これに対しては唯為される儘に盲目である可しだ。geistig に到底軍人と正対立である。無味乾燥な兵舎の窓から春の冷雨に煙る外をボンヤリと眺めて居る。人間も世間も此の様なものであらうか。
 生の徹底、これは一の Ideal である、 Beginnである。
 現実には唯この不徹底な煮え切らない憂欝か快活か解らぬ生活があるのみである。何をして生きてゐるのか何をして居るのか解らない自分の状態である。情けなくなつてくる。楽しみの外出、一体それが何であらうか。それを楽しみにして其の一週を送るといふ事が──。存在するのは陰欝な生活なるのみ。然もその路は短かく、涯は死であるとは考へてもくだらない事だ、つまらない事だ。人間的な欲望の充足に精一杯で終るのみであらうか。

 昭和十九年六月二十二日
 此処を出てから約四ケ月の術科教程、任官、第一線、生と死、覚悟はある。然し『死』は考へたくない。来る可き時には唯来る可き時だ。運命のまにまに死地につくのみ。遺言とか、何とか彼とか、事々しい事はやりたくない。Tagebuch が唯一の遺産である。その時迄、許される時迄此の Tagebuch を後生大事に守り乍ら自己の生の充実を願ふのみである。真剣なる生活の記録、之あれば充分ではないか。はやる要なし、泰然として時の至るを待つべし。孤独的なる傾向が多い、個人的なる気持が多い時も時で Begriff der Angst を読んでゐる。 Tagebuch に上下はない。優劣はない。唯其処には、全面的なる自己があるのみである。唯自分のみを其処に表はしてゆけば良いのである。

 昭和十九年八月一日(藤沢電測学校生活日記の一部)
 何か知ら考へる余裕が出来て来た。その日の仕事を全く役所的に済まして後は何か自己を眺めて居る此頃の自分である。全く自分の事より一歩も外に出ない。黙々として自分を守つてゐる。 egoistisch かも知れないが斯くならざるを得ない。『デイーケ』といふことを実感する。中村から借りた向陵時報、今時の時報としては気持の良きものである。好感を以つて隅から隅迄繰返し読む。ヴアレリー論、主体性の倫理論、若人の創作、全く懐かしき限りである。今時にても未だ此の様な活気のある者を出し得る向陵の力を感ずる。果して何が斯くあらしめた者であらうか。星の世界から望遠鏡で見るならば、傑作な芝居が展開されて居るのだ。此の歴史を作る大芝居の1/1000の役割よりは大なる Rolle が此の俺にもあるのだ。
 傍観の出来る人間ではない、其の中にある人間である。如何様になるものか。運命の車輪は廻り始めて其の止まる所を知らない。今年中には山が見えると言ふ。どの様な山であらうか。兎に角鍛へられる。而も一の形式に沿ひて、その中に自己は益々没し去つて行く。
 何かしら情ないものを感ずる。大きな計り知れない歴史の動きの中に自分といふものが没し去られてゆく様に感ずる。



     *     *



山岸久雄
 大正二年十月二十九日生
 静岡高校を経て昭和十二年四月工学部建築学科に入学十五年三月卒業
 昭和十七年一月十日入営、満洲、比島に転戦
 昭和二十一年七月二十八日東京大蔵病院で戦病死


     北満に於いて
  手折りたる土筆なつかし故郷の妹がつみしも同じこのころ

     白波(マニラに向ふ)
  家人は知るや知らずや南へ波路踏分けわが進むとは
  一筋の想乱るる時なれや便りなくして離れ行く身を
  赤き屋根汀に見えて恙なくマニラに著くと妻に知らせん

     セブ島
  パパイヤの甘きふくみに夜風吹く木葉隠れのセブの月影

     望郷
  笹川や緑の畑の美しきわがふる里の春を忘れじ



     *     *



森本浩文
 大正十二年三月八日生
 第八高校を経て昭和十七年十月法学部に入学
 昭和十八年十二月十日入団
 昭和十九年十月十四日台湾方面で戦死


 (昭和十九年二月十一日 父へ)
 今日は紀元節であります。空はくつきり晴れ渡つてゐますが風が中々きつい。二三月頃に吹く東京の空つ風と云つて有名なものです。森さんのところにゐた時なども空の快晴の日で、大学から帰つて来てみると畳の上がザラザラしてゐました。特にここは埋立地で砂埃がものすごく先程も勅語奉読式にグランドへ出て帰つて来て見ると、立派な士官服が真白でした。何するともなく硝子越に外を眺めてゐます。海が光つてゐます。何だか物悲しい気持です。この兵舎は南向きに立つてゐますが、このずつと南の涯に兄貴がゐると思ふと雲か霞の水平線に心が吸ひとられて夢見る気持です。学校にゐる時は、自分の我儘から一寸も兄貴に便りしてやりませんでしたが、自分が軍隊生活を送つて見て初めてどれ程家が恋しいか家からの便りが懐しいかがはつきり分りました。私等はまだ軍隊生活と云つても内地而も帝都のド真中にゐてすらこの様です。兄貴は遥か異国の地にあつて頑張つてゐるのです。どれ程家の事を思つてゐるか。家からの便りを待つてゐるか。私ならもう当然気でも狂ひさうな所です。どうか私には一回位便りが抜けても宜しいから兄貴にかいてやつて下さい。お父さん、お母さん、姉さん、和男、八千代の夫々直筆が宜しい。大切な兄貴を皆の真心で護らなければいけない。どんな事があつても兄貴を死なせてはならない。春の暖い日を受けて座敷の口で兄貴と将棋をさした事を思ひ出します。早くもう一度あの様な日の来る事を待つてゐます。和男は今の中にせいぜい家の気楽さを味はつておけよ。かういつても今のお前には家のよさが分るまいがなあ。

 (昭和十九年二月二十五日 父へ)
 お母さんからのお便り昨夕受取りました。お父さんからのお便りをそれより以前十六日に入手してをつたのですが、この二三日来の打続ける寒さの為(一昨日は特に激しく昨日の朝は積雪三寸にも及びました)一寸いぢけて了つてすまぬ事をしました。森さんから十三日頃便りを頂いたのに家からはちよつとも来ないのでせいを落してゐましたが考へてみると前期の見習尉官(佐原などです)の所へ紛れて居つたらしく思はれます。昨日はお母さんを始め八千代、山下の叔母チヤン、八高の競技部からとどつさり便りを頂いて今日は大いに愉快です。それに雪を落してしまつたせゐか一天快く晴れて大分暖かになりました。この調子にのつて春がきてくれたらいいと思ひます。お母さんのお手紙涙がこぼれさうな思ひで読みました。こんなに喜んで下さるかと思ふと見習尉官になれた事が特別嬉しく思はれます。この上一層勉強して我が運命の女神と故郷と銃後の皆々様の期待にそむかないやうに致します。氏神様、塩尾寺様へお礼参りに行つて下さつたとの事有難く思ひます。お母さんの信心されてゐる神様は誠に霊験あらたかです。その証拠には兄貴を見れば分ります。ガダルカナルの様な猛烈な処へ行つて生還し得たのは一つは兄貴の体力の強靱さと精神力特に部下に対する人格力の偉大さと他の一つは氏神様や不動様を通じてのお母さんの信心です。今度面会に東京へいらつしやつた時には是非成田の不動様へもお礼参りに行かれる事ですね。私も時間が許せたら必ずお伴しますよ。それで思ひ出しましたが去年の四月の末頃突然お母さんが下宿へ来られた事がありましたね。あの時は電報が遅れて本当に思ひがけませんでした。大学から帰つて来てみると森さんが「お母さんが来られてゐますよ」と云ふんでせう。「え、本当ですか」と云つたきりやにはに階段を二つづつ上つて障子をガラツと開けて、スヤスヤと眠つてをられるお母さんの寝顔を見た時は、丁度あの頃は私の紳経衰弱的症状が一番ひどかつた時で上野の花を見ても美しいと思はず、萌え出づる銀杏の若葉を見てもその精気に感ずる事なく一番いけない事には何を見ても何を聞いても泣けなかつた事ですが、あの時お母さんの寝顔を見た時許りは何かしら胸にこみあげてきて目頭がうるんだ事をおぼえてゐます。然しあの頃はいつもでありましたが、あの時もお母さんを素気なくもてなしてすまぬ事をしました。心が衰弱してゐる者の常として自分の本心をすぐおしかくしてしまつて変な処に意地を張つてゐたのではないかと思はれます。それに又成田山株式会社だなどと云つて特にお母さんの気に障る事を申したりしました。然しこれも真面目に信心なさるお母さんを欺す成田の坊主共が憎かつたのだと思つて頂ければ幸福です。実際幾分でもさういふ処があつた事は確かです。それにしても、もつと云ひ方があつた、又あの時あんな事を云ふべきでなかつたと今から悔まれます。実際八高の三年時分から大学一杯、まるで駄々つ子の様にむづかつてゐました。家へかへつて来ても、待ち焦れてをられるお父さんの心に合ふやうな事はちよつとも云はなかつた為に、お互に面前ではさして会ひ度いとは思つてゐないといふやうな顔をして又上京してしまふ事が度々ありました。然し私はその後で非常な淋しさにおそはれて(その様な時には屡々急にお父さんやお母さんがゐなくなられる事が想像されて仕方なかつたものです)何故あんな云ひ方をしてしまつたのだらうと後悔しながら汽車に身をゆらせたものです。お父さん、お母さん、体に気を付けて長生して下さい。



     *     *




山隅観
 大正十二年二月十二日生
 広島高校を経て昭和十七年十月文学部国文科に入学
 昭和十八年十二月入営
 昭和二十年八月十二日夕六時華北河南省密県季堂村附近で戦死


     大山先生に
  一もとは紅一もとは白ざきの山茶花うゑぬ我がかたみにと
  不吉なる花にあらすやと人はいへ死せむいのちと山茶花うゑし
     木村敏介氏に
  富士の嶺は雪に埋れてをるらむと思ひすがしむこのごろの夜は
  風鳴りて夜は更けにけり門出する明日を待ちつゝ墨すりにけり
     烏
  囲壁破れ土とくづれし廃屋に烏のあまたむれて飛び交ふ
  鳴き交し稜線上を飛びゆけるからす幾百羽子烏もゐて
     鶉
  小花咲くくさむらゆけば足許を羽音も高く飛び立てる鳥
     雁
  口々に雁ゆくといふに見上ぐればくもれる空を雁渡りゆく
  たそがれの近づく空はくもりとぢ雁流れゆく西の方へと
  満洲の野は秋深く草枯れば雁は渡るか南の方

 (予士校卒業当時父宛)
 父上様
 幸便がありましたからお便りします。
 支那に行くことになつて中隊長殿始め休暇の件につき上申して下さつたのですが却下されました。一度大陸の部隊に来れば二ケ年は内地の土が踏めぬのが法規的に定められてゐる相です。区隊長殿も陸士の予科より結局中尉で戦地より帰るまで家には帰られなかつたとのことゝ非常に同情を寄せて下さいました。併し軍隊ボケといふか卒業の日が楽みでなくなつた丈又朝がた目がさめて一時間半もじつと床にゐるといふ事が起つた丈であります。父上母上の御落胆思へば今までの不孝が思ひ当ります。併し一面このこともあらんと必要の最少限の本を持つて来たことが何よりの強みです。写真をことづけます。アルバムに貼つたのを荷になるのではがしました。アルバム自身は四平からでも送つて貰ひませう。番号順に貼つて下さい。この一週間は卒業の為の準備で大童、まだ日数があるのですが用件から書いて参るつもりであります。
 もし北京又は交通便な所にでもゐる様でしたら別ですが文庫本でも時々お送り下さい。例へば『ウイルヘルムマイスター』とか『歌集』とか、どちらにしても読み捨てゝ行かねばならぬのでどこまでも持つべきものとさうでないものとあるわけですが。
 軍隊に入つて、今までの環境、殊に友人達のよさがしみじみわかります。過去の友人の馬鹿ぞろひがしみ/゛\と有難い気がします。勿論こゝでも心から話せる友がゐるのですが、大きな流れはそんなものとは異つてゐます。
 昨日は生徒隊長殿の訓話がありました。初めはしかつめらしい話も、酒に及んで忽ち漫談になつてしまひました。夜は区隊で会食しました。周囲の友人がよくて酒を呉れて三合ばかりは飲めました。大した御馳走でした。卒業式には三長官主催の会食があります。
 演習の思ひ出、満人のこと、寒さ、新京のこと、学校のこと、色々語りたいことも多いのですがこれで止めます。

 父上も、五十の坂を相当進まれてしまつたと思ひます。こゝにゐると自分の年齢すら忘れて了つて父母の年も考へねば思ひ出せぬ親不孝さです。
 戦局苛烈の極、戦場は既に内地に及ぶ。お大切に。

 (最後の便りより)
 支那家屋に寝なれて久し夜毎見る夢ことごとく父母なれど
 夢に見る母涙ぐめ我母はうつゝは強し泣き給ふまじ



     *     *



篠塚龍則
 大正十二年一月二十七日生
 第一高校を経て昭和十八年十月文学部教育学科に入学
 昭和十八年十二月入営
 昭和二十年一月三十一日ルソン島イサベラ州サンチヤゴで戦病死


 僕の好きなものの一つに童謡がある。又民謡もすきだ。柳田国男さんの話に依ると民謡はその土地の人々の生活苦から自然と生れたもので、苦しい生活を慰安するためその土地の人々の口から生れた等しい感情をこめた歌であつて、代々に伝はつて古いものになると、奈良朝時代の面影を止めてゐる民謡もあると云はれてゐる。だから民謡を研究する事に古代民族の国家生活も窺ひしり得るとも思はれる。だから日本人ならばやはり心情にぴつたりするものがあるのだらう。又ぴつたりしないものは長い間にいつのまにか忘れ去られてしまつたのだらう。それから童謡、特に子守唄だが、此の中に含まれてゐる言葉も、代々世を経るに従ひ変化する。其は印象を強く残してゐた文句を他の場合に応用して用ふるからである。

  ねんねん子守はどこへ行た
  山を越えて里へいた
  里の土産は何々か
  箪笥長持挟み箱
  それほどもたせてやるならば
  又から帰れと思はすな。

 雨が降つてゐたが今日も演習に出かけた。鉄砲持つて走つて行つて伏せたら汚れた草々の葉に美しい露が置いてあつた。今迄戦闘を目的として駈けて来た自分とは全然別個の静かな世界があつた。「静寂」は偉大を生むと言はれてゐるが、確かにそこには、美しい小さな分野が隠れてゐた。「小さなもの、それをじつとみつめてゐると、そこには一つの大きな世界がある」とはトルストイの言であるが、本当にきれいな露の中には宇宙の一分子たる神秘が秘められてゐる。小さなものを『みつめる』心、そんなものが今俺には必要なのではないかと思はれる。
  秋の野に咲ける秋萩秋風になびける上に秋のつゆおけり



     *     *



三崎邦之助
 大正十年三月八日生
 東京高校を経て昭和十五年四月文学部国文学科入学昭和十七年十月卒業
 昭和十九年七月応召
 昭和二十一年四月十日シベリヤ、ダイシエツト北方の病舎で戦病死


 (H君への手紙)
 暫らく御無沙汰致しました。お変りありませんか。私も元気で務めさせて戴いて居ります。日毎に冬の深くなるのが明瞭に分るのでその迫つて来る力の明白さに驚かされます。昨日と同じ土の上に立つて、同じ場所を見廻しても、冬が自分の仕事を一晩の中にこんなにやつたのかとびつくりします。岩といふか土の堅い塊といふかほろ/\して赤茶けた砂利が編上靴に当る感じが、確かに昨日と違つて冷々として、内地で言へば堅く堅く凍りついた霜柱をふんでゐる様な足の裏の感触です。
 木といふ程のものも見えませんが、兎に角木らしいものは全て葉を落しつくして味気なく立つてゐます。人の脊にも足らぬ小さい灌木とても同じで、内地のつゝじの様に真に灌木の名に値するものがなく、一切の青いものが姿を消してゐる中で殊に憐れに、細い茎からは僅かに二三本宛の枝が出てゐるのみです。
 併しこんなのがよく来るべき春には又芽を出すものだと思つて、近寄つてみるとちやんと蕾がついてゐて、而も蕾のついてゐる枝に限つてよくしなつた釣竿の様にぴんと弾力をもつて空の方へ必ず弧を画いてゐます。矢張どんなに少しでも太陽の光に近づかうといふ無言の欲求を示してゐるのかも知れません。さうしてもう茶褐色にかさ/\と枯切つた今年の葉が巻いて全て下を向いてだらつと下つてゐるのと比べると、縦ひ葉一つなくとも中に生気をたゝへて粘り強く空に立つてゐる枝は遥かに力強く思はれます。我々の現在は又さういふものでありたいと思ひました。枯れてゐるのに落ちないでゐる葉は死せる魂と言ふ感じです。

 相変らず御元気でお過しの事と思ひます。小生も無事消光させて戴いてゐます。この前に木の枝の事等書きましたが、あれから見てゐますとこんな事を知りました。それは私のドイツの銅版画といふ本の中にマリヤが、クリストを抱いて枯木が一本だけ立つてゐる塀に囲まれた中庭に腰を下してゐる画があります。デユラーより一寸前の人(名前は忘れました)のものですが、実によいもので殊にその塀の中に枯木が一本しかない事とその迫力が恐ろしくきいてゐるので、目にしみついて好きなものでした。この辺で見るかげも無いと思つた枯木がよく見ると正にあの画の木なのです。
 今考へると、あの画家が何故枯木を画いたかがはつきり分りました。それは版画の技術上の要請から面倒なものを取り去る為にしただけでなくて、人間の心があらゆる現世的なものから浄められて、最後にぴんと弾力をたゝへて天に向つて蕾を有つてゐる(現世ならざる生への可能性をこの現世の最高唯一の成果として有つてゐる)状態を象徴してゐるものである事が分つたのです。こんな簡単な事も、かういふぽしや/\した草ばかりの中の貧弱な枯木の注視迄は分らなかつた自分の不明を恥づると共に、自然の作品をあれ迄見事に生かし得たかの画家の眼と技に深い畏敬の念を覚えました。今度家に御出でになつたら、あの画集をも一度御覧になつて見て下さい。そしてあの枯木がきつと天に向つて弧をなした枝を有つてゐるのであらうと思ふのですが、その点を確かめて見て下さい。こんな小さい事を見つけたのが嬉しかつたので書きました。お笑ひ下さい。

 暫らく御無沙汰しましたが、相変らず御元気の事と存じます。私も然るべく毎日を過して居ります。目が覚めると、硝子窓が一面に模様のついたすり硝子の様に凍つて、何も見えません。その一番上に先づ日光がさします。
 そして外はもう雪がとけません。空は晴れて日はいつもと同じ様に輝いてゐるのですが、それは何等暖かさとは関係がないのです。ですから地上の醇乎たる白と(それは人間共の造つた細長い無趣味な四角の建物も何も皆蔽ひつくします)それと地平線上できつぱり分たるゝ澄明なコバルト色との、この冷々してゐるが見事な色調のみを太陽はもたらすのです。少しも暖かくないが美しい色合をもたらす太陽は然し何だかいやです。そして私はかう考へます。成程例の枯木は無意味ではない。併しそれは唯一のものではないと、青々と茂つた見て快い樅の木、山毛欅、欅、檜、樫、さういふものは貧弱な枯木よりもより精神的でない訳ではないのです。あの画はあの画でよい、然し太陽は矢張、温く、豊かで『プロダクテイブ』であるのが自然でせう。自分を『プロダクテイブ』にしたい為に、あれ程融通無礙で均衡がとれた心情の持主である所の『ゲーテ』が貪る如く、『イタリー』を憧れた気持がやつと分りかけて来ました。
 貧しい枯木しか生れられない様な不毛の地、私が若し其処に居るべきであるならば、それを忍びそこから何かを得べきですが、出来得べくんば海岸を干して不毛の波に打ち克ち、自然の不生産性を克服して安全ではないが、働けば快く暮してゆかれる(而もフライな民と共に)土地を拓いたフアウストの如き経倫の下に於いてであり度いのです。朝日会館の三河の民は未だ決してフアウストではないでせうが、然し或る暗示を与へ、或る魅力を有ちます。私はもつと勉強しなければなりません。
 暫く御無沙汰しました。御元気の事と存じます。こちらも相変らず無事な毎日を過して居ります。この頃こんな事を考へて居ります。
 芸術家といふものは(何もこんなに改まらないでもよいのですが)彼が真のそれである時には或る種の事柄をのぞいては、非常に不器用な人間であつて、何にでもすぐ間に合ふものではない。けれども彼の不器用は(殊に所謂世渡りと言つた様なものに於ける)止むを得ない事、当然の事なのです。そして彼は世の人々よりももつと強く正しいものを感じ、又喜怒哀楽の振幅も大なのです。けれども一種のつかれた人間である処の彼にあつては、それは生の儘で外に現はれないで、客観的な作品を通してのみ現はれねばならぬのです。そして一度作品を通る間に、必ず純化されてゐなくてはならぬのです。彼は余りに(仮に名付ければ)創造的衝動につかれてゐるので、生のまゝで動く事がなく、その事が又彼の世渡りを一層下手くしてゐるかも知れないが、それでも仕方がないのです。そして彼の作品は大抵世の多くの人々の浅い喜怒哀楽と要求とに間に合はないでせうけれどもそれでよいのです。何故なら彼の作品がつくるのでなくて、自らにして成つた時こそ世の草々の事件が純化されて一つの不滅の形象となり、事件が真の事件として終止符を打たれるからなのです。間に合ふか合はぬかではなくて彼の一打の鑿、一筆の動きを俟つて始めて真に事件が事件となるからなのです。それは何もモニユメンタルな作品を生むといふ事にのみ限られません。何かの仕事にとりつかれて唯の申送りと何時何分に間に合へばよいと言ふのではなくて、その仕事の歴史の上で、何事か新しい事をつくり出した様な人は農夫も漁夫も運転手も石屋も政治家も国民学校の先生も兵隊全て真の芸術家なのです。リルケは風景画論で哲学者と芸術家とを分けて居ましたが私は寧ろかう言ひたい、哲学者も又真の学者であるならば芸術家であると。
 長い事御無沙汰致しました。そちらから度々お便りがありますのに一向筆不精をしてゐて御返事もしないので自分でもやれ/\と思つてゐます。さて春になりました。そして色々の事を感じました。順序とてもなく並べて見ませう。先生はきつとサンドロ・ボテイチエリの画いたヴイーナスがエーゲ海の波の中から帆立貝に乗つて現れて来るあの美しい画を覚えて居られると思ひます。そしてヴイーナスの傍に一寸異様な顔をした西風の神が居るのも御存知でせう。私もぼんやりなので唯美しい画とのみ思つてゐましたが、あれはもつと深いものなのでせう。此処では春めいて来た今日此頃、毎日毎日西風のみが砂塵を捲き上げてゐます。西風こそは春を運び来るもの、花、緑の葉と言つた美を運び来るものなのです。ボテイチエリが美の女神と西風の神とをあゝも快く描いたものは恐らくは彼自身毎日強い然し生暖い西風に吹かれてゐたのではないか、いやそれに違ひないと私には思はれてなりません。何でもかんでも唯一人のエホバの神に帰してしまふキリスト教徒に晩年のボテイチエリがなり果てた時、もう画が描けなくなつたといふのも従つて偶然ではありません。ヴイーナスの傍にエホバの神は来られないのですもの、それはどうしてもギリシヤの多神教でなくてはならぬのです。あの画にはヴイーナスの美しい長い捲髪の辺に桜の花の様な花が散つてゐますが、ボテイチエリは西風のもつて来た花の香にむせび乍らあの画をかいたのでせう。その快さを否定するともう画はかけないのでせう。

 葱を売りに行くお婆さんの後からついて旧い街に入つてゆくと何の臭か分らないがぷんと異様な臭がします。そしてさういふ処には未だ中年以上の女の人で纒足をしてゐる人や耳に金の環を通してゐる人を見かけます。耳に通した金の環は必ずしも悪くありません。小さいのを一寸垂らしてゐる様は見てゐていゝ感じさへ受けます。けれども纒足の方はいやなものです。ヨチ/\と歩いてゐるのを見ると何処がよいのだらうと思ひます。馬鹿に大きい足もみつともないですが、小さい三角の不自然な足はひどく嫌悪の情を起させます。
 エルチーウングとはチーエンして得る、ひつぱり出すといふ意味らしいのですが、美しさといふものも何等かのエルチーウングによつて得らるべきものならば、それは断じて纒足の様ものではあり得ないと考へます。シラーにエステーテイシユ エルチーウングといふ本がありますが、確かにそれは不自然な、しめつける様なやり方で誤つて纒足みたいなものを美しいと思つたり、さういふ教育法を唯一のものと思つたりしてゐる人には解らぬでせう。けれども吾々の周囲にはさういふ教官が何と多いでせう。足から上は千差万別の顔かたちをしてゐるのに足の先だけはどの女の人も同じであるといふのが実に変てこな感じを与へます。人が一人一人千差万別ならば顔の天辺から足の爪先迄異つてゐるのが本当で又一人一人がさういふ風にまとまつてゐる所がよいのですから、足の先だけ皆同じだといふ点ですべての人の個性を滅却してゐるこの異様な習慣は真に不愉快なものです、さすがに今は若い女はやらぬ様ですが、吾々の精神的方面ではかういふのに類するものが実に多いのではないかと考へて気持が悪くなります。
 さて西風と共に春が来ますと美しいものは地面の色です。それから未だ耕しても居らず青くもないのですが、去年の秋迄人が此処で働いてゐたのだといふ事の解る整然とした畑の畝の並びが実に美しく感じます。茫漠たる枯野原ばかり見てくると、整然とした線といふものはとても嬉しいものです。周囲の山々には、毎晩の様に野火が燃えます。烈しい時には昼間細い赤い線がちろ/\と拡がつて行くのが見えます。夜それを仰ぎ見ると、人家の火事等の様な凄さはなく実に穏かで(尤も傍へ行くとえらい勢で燃えてゐるには相違ありませんが)真紅に燃え切つた炭火が静まり返つてゐるのと同じ様な感じがします。一度焼あとを通つた事がありますが其処は唯何でもない枯草が黒く焦げてゐるだけで、少しも面白い事はありませんでした。処が黒く焦げた山肌が自分達の周囲にも一度にタンポヽの花等が数知れず突出し、薄緑の生々とした芽が出始めるのと共に、殆んど三日とはかゝらずに真青になるのです。その色彩の黒から緑へといふ目ざましい変転は内地では味ふ事の出来ぬものでした。唯私には未だ雪国の人の春を喜ぶ気持といふものは(よく普通に口にされるものですが)分りません。と言ふのは、冬と夏しか此処はないと言ふ方がどうも本当らしいですから。山々の肌が緑になり温い雨に煙る頃になりますと、川は豊に流れて中洲の上では随分広い畑が耕され始めます。渡舟が通り出します。川の辺では朝鮮の女の人が棒で衣をたゝいて川の水で濯いでゐる姿が見えます。一番先に出る野菜は白と青との目にしみる対照を有つ葱です。老婆が籠で町に売りに出ます。葱の新鮮なあくの鋭い香がこんなに嬉しかつた事はありません。

 (日高六郎氏へ)
 随分久しく御無沙汰致しました。こちらは相変らずですが、鎌倉の方は御無事でせうか。大学の事も一寸も話を聞かぬのでどんなか知りませんがいづれ建物の幾つかは壊されてゐるのでせうね。それは兎に角ドイツも遂に参つてしまひましたが、偶々過去の偉大だつたドイツ、何度もどん底に沈倫しては起ち上つたドイツを知る事が出来た者にとつては、どうもドイツがこのまゝもう何の仕事もなし得ない無気力な民族となり果てると言ふ気がしません。フランスについても同様です。といふよりはヨーロツパは未だ決して古びきつて、博物館の窓ガラスの彼方に納まる様な民族、国家から成つてゐるのではないといふことです。新しきヨーロツパ、新しきアジア、そしてそれ等が互に相聯関して織成されて行く新しき世界、問題は実に大きいものです。生半可な勉強ではとても駄目だとつく/゛\感じます。眼前の問題で夢中になつてゐたら、きつとこの大きい動きには取り残されてしまふに違ひありません、戦闘の終了は勿論或る非常に大きい転機には違ひありませんけれど。戦争の終了を感ぜしめません。万物の父たる戦は戦闘の終りによつてなくなりはせぬでせう。戦闘にすぐ間に合ふかどうかは知りませんが、もつとヴエルデといひますか、人間の精神にふさはしいものたらしめる為には絶対必要な勉強といふものがあると思ひます。我々の日夜攻めて行かねばならないものはさういふものであると考へますが、中々むづかしい事です、何とぞ御無事で御勉強下さい。



     *     *



和田稔
 大正十一年一月十三日生
 第一高校を経て昭和十七年十月法学部に入学
 昭和十八年十二月入団
 昭和二十年七月二十五日人間魚雷「回天」搭乗員として訓練中戦死


 昭和十八年十二月廿八日
 帝大新聞を見る。学生を取りもどした様な気持でむさぼり読む。そこには我々の姿を美しいと書いてある。さうかなあと思ふ。
 我々はつい先頃までは、ほんとに我々の大きな目標をつかんでゐたと思つてゐた。少くとも見つめてゐたと思つてゐた。けれども、やがてあまりにその目あてのものに近寄りすぎてみると今度は、我々のまはりのほんのさゝやかな事にも邪魔されて、我々の大きかるべき目標はともすればかくされてしまひ、たゞ日常のきびきびしたことや、くさ/\することだけが、たゞそれ丈のものとして感ぜられる様になつてしまつたものだつた。多少物足りない話かもしれないが、我々の今日はたゞ今日だけで沢山のものになつてゐた。
 芸術だの文化だのといふものがしば/\全く軽んぜられるのは、その軽蔑者に余裕のない時に限るのである。もし彼等にそれに親しむだけの余裕を心持よく与へたならば、彼らは即座に転向してしまふであらう。何となれば彼らにとつて憎むべきものは芸術や文化そのものではなくて、さういふものを考へられる余裕そのものだからである。すなはち彼らは多分にやきもちやだつたのである。
 軍人にはそんな型が多い様な気がする。

 (航海学校のころ ─予備学生当時─)
 昭和十九年九月廿四日
 軍人と学生のくひちがひについて。先日田辺が貸してくれた向陵時報(一高)の終刊号。矢内原、立沢先生も執筆され、寮の委員長、委員達も幼稚な――ほんとに、宇田博の空閨のたはごとの様なセンシブルな小説の外には、文芸も評論もすべてが中学生みたいに幼稚だつた――筆を揮つてゐた。「文化的なるもの」への愛着と現代の世相への怒といふ様なものが、今の私には不思議と下らぬネチネチと保守的な文化のお面をかぶつた旧いものへの思い切り悪いしがみつきとしか思へなかつたのである。しかも私は同時に決して学生当時これと同様なことばに憤慨し、感激した私のあのころを否定する気にはなれなかつたのである。私は入隊以来やつぱり学生時代からの良い意味での娑婆気といふものは持ちつゞけてゐるつもりでゐる。私の思ふこともたとへ一年足らずの薄い軍紀や軍人精神の膜がその上にはられたかもしれぬにしても、決して内奥には大きな変化はない筈なのである。その私にとつて一つの思想に対する私の反響がかくも変化してしまつたといふことは何を示すものなのであらうか。それは一つの私の思ひの道の進展なのであらうか。それとも私はいつか軍人専用の遊歩道路をしらずしらずに逍遥してゐるのだらうか。それともまた、私は当時の文化的なものと現在のそれとの解釈の範疇をひつくり返してしまつてゐたのであらうか。


 十月四日
 昨夕輸送船一隻出港陸兵を満載す。こちらで帽子をふりながら眼鏡で見たらみんなポヤツとした白い顔を甲板に並べて私達に応へようともしてゐなかつた。
 手をあげて帽をふれども兵はついにこたへず水脈みつめゐぬ

 十月九日
 この頃私は、時々女の夢を見る様になつた。大竹は勿論、武山でも夢といへば、食物か家の夢しか見なかつたのだが身体と気分が楽になつて、そろ/\私にも男性としての本来がもどつて来たのかもしれない。それに比例して食慾は次第に普通並になつて来てゐる。大竹で母や妹をおどろかした様な食ひつぷりは到底出来さうにもない。
 航海学校の校庭の砂はきれいだ。雨にしめると地はすぐチヨコレートそのまゝの色にかはつてその上に薄くしきつめられる小砂は白砂糖をふりかけた様だ。ふみしめるとアスフアルトの様なギコチなさもなく、茶色いどこでもの土の様なたよりなさもなくいつもしつとりとやはらかく足にこたえてくれる。大竹の練兵場も丁度これであつた。こんなときしやがんで砂を手によせたりするといつか私の友達が
   ふめどふめど夜べの小雨にぬれはてゝくづれて落つる大竹の砂
と詠んだあの瀬戸のとろける様な波さやぎが思ひ出されるのである。
 信号の教課ももう終りに近い。窓の外の暗い色のコンクリートのかべにはもう細長い電信柱のかげがうつりこんで来た。いまだかつてこんなにわびしい夕方の気持でものの影をながめたことはなかつたのに、今日の私の心はすつかり娑婆にかへつた様だ。

 あと二ケ月のいこひの日を終へたならば私は第一線にとび込んで行く。相変らずの小心さと神経質を軍人精神のオブラートに包みこんで、遂にいつかな正しいものに対しても心からの信仰をもつことのなかつた私の苦しみはやがて始まつてゆくであらう。ともあれ軍隊生活のもつとも安逸の面の中に漂泊してゐた過去四ケ月の私の生活。

 (特攻隊員として)
 昭和二十年二月一日
 初めての回天搭乗。
 漱石の『こゝろ』を読み、尾崎士郎の『人生劇場』を読む。いづれもかつて目を通したものではあるが、この様に殺気のみちた生命になつてしまつた私にとつては、涙ぐましく、ことさらな感慨めいたものがあつた。文学とか詩とかいふものが、夫々各個のものとしてではなく一般なる文字、詩、そのものとして私に訴へてくれる様になつた。勿論それは途方もなく杜撰なものであることは、当り前すぎることなのだが、しかしそれにしてもどうしてそれがこの様に私に涙ぐましく響くのであらう。
 私にはもう何も要らない。慰めとか、励ましとか、もしそれが喋々とした軍隊口調やハツタリ多きものであるならば、それは私には腹立たしさ以外の何物でもなくなつてゐる筈だ。
 何と下らない安つぽさの群であることかそれは。
 私に今ほしいのは私の平和時代に私を泣かせたと同じ涙なのだ。私が何の色眼鏡もなしに私を見つめてゐた私の心はいつか失はれてしまつてゐるのではなからうか。私がこの春のうちに、私の生を祖国に捧げるであらうといふことは、もう私の知つたことではない。私は今はじめてのんびりした生活を得て、この中に生きる途を探し求めることに精一杯にならうとしてゐるのだ。

 三月廿六日
 お父さんお母さん、稔はこんな所にゐます。ほら、むかし若菜(註、妹)が演奏会などに晴れ姿を見せた時の赤いビロード、それが灯に光つてゐたと同じ風に海は今つや/\と陽に輝いてゐます。ねむい午後です。そして私は四百噸の鋼鉄曳船の指揮官、首には双眼鏡、左腕には特攻マークの緑の菊水です。あと一時間もすれば佐伯につくことでせう。年とつた船長さんもこつくりをはじめました。お父さん、三好といふ中尉が死にました。船の底をもぐりそこねてぶつかつたのです。上のハツチから水が入つて二時間もして揚げられた時にはすつかりぐにやんとして顔は血だらけで死んでゐました。回天艇をひつくりかへして水を抜いた時、ばかにさび色をした海の水だと思つたのはきつとその血が大分まじつてゐたんでせう。雨もふつてゐました。その夜指揮官以下みんながお酒をのんでゐました。それから急に嵐になつて十一時頃には魚雷艇が二隻岸にうちあげられてしまひました。みんなお酒もさめてとんで行つたのですけれど間に合はなかつたのです。

 三月廿七日
 二五日午後七時 回天戦果発表さる。神潮特攻隊といふのださうである。神潮だなんて、私たちも知らない間に誰が勝手な名前をつけたのだらう。

 四月十八日
 あと一ケ月、丁度学期試験の前の様な気持である。私はN中尉の様に大仰な言葉は吐けさうにない。彼の言々句々はすベて一途なる憂国の熱にもえ上つてゐる。しかも私の冷厳な心はそれすらも静かな反省の深みにおししづめようとしてゐる。もちろん、その様な内省等ある意味で、たしかにつまらぬ、そして不必要なもの、といはるべきではあらう。しかし一度考へることを知つた私達には、それが不可避の重荷であることを感ずるのだし、又それを荷つてこそ私には私の一生の清算が出来上ると思ふのである。
 冷たきは人の心 奥津城こそ吾すみかなれ。石川達三は『転落の詩集』でその女にかうかゝせてゐた。私は今となつて私の、私自身の心の冷たさをしみ/゛\思ひ、その周囲へのしみ通る様な淋しさを深く感ずる。私の勇奮のきほひ立ちの後に、この様な心が存在してゐるといふことは私の卑怯なのであらうか。戦友はこの二三日私が疲れた顔をしてゐると心配する。その間私は強ひてでも私の死といふものに対してある解釈を与へようとしてゐたのだつた。そしてその様なものがすべてはつきりと割切れる一つの感情の前では、そのまゝのかたまりで、すつかり解きあかせると知つたとき私は安心もして、そして更に私にしか与へられなかつたであらう様な私の心の裏についてゐる冷たさを、そつと撫でさすつて見る様になつたのである。私は私の肉体をうまく敵にぶちあてる様に夢中になつて射角表をこしらへた。

 五月六日
 あと一ト月の命の中に今迄の迂乱な生涯の結論を見出さうとでもいふのか。あきらめきれない砂時計の針が廻つて行く。私の突撃の時を動きのとれない時と、それでもそつと怖れてゐることもあるのだ。
 上すべりだつたためのみに、私は今迄平気な冷淡な顔をしてゐた。そして始めて今、私は本当に私の過去を狼狽してゐる。あと一ト月の生命に何の装飾もない私を見つけださうとしての私のあがき。
 私にはもう自分自身がなくなつてしまつてゐる様だ。
 深さ三五米、浮び上ることもなくて海底をごしごし這ひ廻る魚雷にも乗つた。傾斜四〇度、同乗者の顔を靴の下に見て三〇米の海の砂に動かなくなつた魚雷も操つた。ハツチを開けると内圧の高さにパツと白煙が館内一杯にひろがつて顔中がボカツとなぐられる様な魚雷もあつた。そして当隊の凄腕の一人として自他共に許される男にもなつた。よくもかくまで生きながらへたものと、よそびとは泣くかも知れぬ様な私の毎日。

     出撃後艇内に於ける手記
(第一次出撃時の記録にて遭難時之を携帯し後回天艇内より発見さる)
 昭和二十年六月一日
 余は甚だしく神経質なりき、余の過去になせる様々の悪は余をして時には夜も眠らしめず、且又余の日常行動をして著しく消極的ならしめたることあり。しかれども、余の一旦悪なりと信じたる他人の行動に対しては余はかりそめにも許さざるの態度をとりたり。然してその峻烈周囲をはゞからず又自己の不品をも顧みざる言行は常に余をして敗北せしむるを常とせり。いはゞ余はイプセンのいふが如き正しさを当時、しかも余りに感情的に固持したるなり。しかして物質的なる悪の形而上的な悪のみを悪として憎めり。余に対する諸輩の誤解もまたこゝにありしならん。今にしても余は余のとりたるその表現手段につきては深く謝意を表すべき点多くありしを認むるなり。余はあまりにも感情的且計略的にして又自己の資格をも顧みざるなりき、報国の徒たる日亦日に迫るを思ふの外に、自己の人間性につきてたゞこの一点に心残りを有するなり。

 六月十二日
 人間性に対する信頼なきものは憐れむべし。吾人出撃以来十数日間は終始感情怠惰安逸にのみ過されたり。人或は吾人の談笑をして死を目前とせるしやく/\の余裕なりと感ずるやも知れざれど、こは死を直視する勇気なきものの日常自然の趨勢たるのみにて何らの価値あるものにあらざるなり。
 第一高等学校に於ける教育は天下無比なりき。独立自歩、毅然として聳ゆるあるを感ず。一言いはゞその精神は志士の精神なりき、志士の精神は闘争の精神なりき、向陵三年の風は余の如き小心者をすら尚幾許たりとも精神上の潔癖者たらしめ、且余をしてしば/\長上とたゝかはしめたり、今ウルシーの沖縄補給路の大道に立ちて敵を待つの時、若かりし感性の時代の志士の教へを思ひ、しかしてそを根ざしとする闘争の精神ひしひしと臍下に静まるを感ずるなり。人余をして傲慢たりとなすべからず。余は幸福なり。
 夜艦橋に登り右は北斗、左に南十字星輝やけるを見る。コロナ真上にありて銀河白雲の如し。

 六月二十日  帰投
 死生を思はずして唯日々の虚弱虚妄のみに大言壮語し得るは死生を越えたるに似たれども断じて然らざるなり。当時己の努むるにありてこそ死生の間に悟するあるなれ、かりそめなるべきことにあらざるなり。
 余の一生は、たゞ虚栄の一生にして且卑屈の一生なりき。しかれどもその余にとりてこの出撃一ケ月間の静観の日には如何なる意味に於ても余の生涯に一つの句読を打ちたるものならん。その実は未だ結ばざるなり。
 尾崎士郎の『人生劇場』をよみて、ふとも余の過去の如何に芝居気多かりしかと顧みたることもありき。余の自負せる死生観と雖も、あるひは余の芝居気の一端にすぎざるやも知れず。一層の努力反省必要なり。



     *     *



中村徳郎
 大正七年十月二日生
 第一高校を経て昭和十七年十月理学部地理学科に入学
 昭和十七年十月入営
 昭和十九年六月比島方面に向い以後行方不明


   在隊手記抄録
 (千葉県習志野東部第九部隊に在隊中、当時戦車兵、二等兵より上等兵の期間)
 昭和十八年一月二十一日
 マスクを洗ひながら汽車の笛をきいた。妙に長く山にこだまする様にひゞいて行つた。ふちの光つた藍色の夕焼雲が美しかつた。水晶の上の様な雲であつた。

 二月二十日
 学問が時世をリードすると言ふのでなくてはならぬ。然し現在では学問が時世にリードされて居る。一体どうしたといふのだらう。寒心に堪へない。

 三月十四日
 生きる事が死ぬことであり、死ぬ事が生きることである。さういつた場合がある。
   ×  ×  ×
 過ぎゆくものの中から、永遠なもののかたちを。さゝやかなものの中から、神的な意味を。現象の中から、イデアの輪廓を、汲み採らう。(詩と友情)あゝもつと生命的でありたい!

 四月十三日
 「目前の利益に捕はれて、過去を顧み歴史の重んずべきを識らず、前途を望み将来を夢見て、理想に憧るゝ事を知らず、永遠を思慕し、無窮を追求し、大局を洞察することを忘れるものは、個人も、時代も、国民も、危いかな、危いかなだ。」(立沢先生)

 四月二十六日
 午後渋谷から寮へ行つた。玉木さんに会つて最近のことカールビルス君がかのスターリングラードで戦死を途げられた旨独逸から入電あつたとの話を承つた。上等兵の階級だつたとか。彼も亦『第五交響楽』を以て其の死を悼まれた一人であつたのだらう。
 穂高の岩場ですんでの所で死ぬべかりし命、而もそれは結局四年とはもたなかつた。色々とあの晩の事が思ひ出される。恐らく彼も亦戦車の中に屍を埋めたのではなからうか。
 私の生活に切実に近似した、遠いけれども迫つた事象ではある。(註、三年前北アルプス穂高の岩場にて夜間遭難せしカールビルス君を本人が徹宵救助せし事あり。)

 四月二十九日
 智力の低下、知性の磨消、私達は必死の努力を払つて拒がねばならぬ。然しそれも何といふ消極的な努力であることか!
   ×  ×  ×
 夕暮の武蔵野を戦車を駆つて西へ。武蔵野! 欅と杉と、竹と雑木と。畑の匂ひがする。夕餉の味噌汁の香がする。若芽の薫。軽戦の煙の中からかすか嗅ぎあてた時の嬉しさ。何処までも涯しなく続けとおもひながら操縦桿を握つてゐたのであつた。

 五月五日
 忍耐は生命の結晶の最も微妙な過程のためである。
 詩の力は経験的な宿命的不幸に克つ力である。
 私は真に偉大なる詩の力を知つた。

 五月九日(日)
 大学の五月祭だといふ。ゆつくり読書に一日を過した。『巷塵抄』と『思索と体験』とを読む。吹田順助氏の文芸時評を眼にした。何と毒々しいことか。心からの憤激を感じないではゐられない。私達は決して国民の同情とか関心を聚めるために仕事をしてゐるのではない。

 五月十五日
 私達はともすれば井中の蛙になり易い。安易な自己礼讃や自己満足に駈つて而も自ら識らないで得々としてゐる。日本国の美点長所を礼讃し、数々の美談に涙を濺いで感激するのも当然なことであるが、単にそれ丈に終つて了つてはいけない。私達は広く眼を注がなければならぬ。私達が誇り得るものは何であるか。誇るべきであるものは何か。又抑々誇るとはどうする事であるか。私達はよく省みなくてはならない。安つぽい感傷やブリキ細工の様な独善をやめなければならない、私は余りにもくどすぎる自己礼讃をきくと反吐をはきたくなる。
 日本人はもつと謙譲であるべき筈だ。黙々として永遠に全人類の心の底を脈打つて流れる偉大な貢献をなしてこそ、初めて日本民族の偉大性が燦として全人類史を飾るのだ。
 実力のない空威張は絶て排して貰ひ度い。その実力は並大抵の努力で得られるものではない。
 不敗国であるとてそれを誇りに思つて済まして居られるだらうか。勿論誇つては悪いといふ事は無いかも知れない。然し問題は、如何に敗れて惨澹たる悲境に陥つても、常に旺盛なる民族精神の昂揚を見、決してあさましい末路を辿らず、益々どん底から盛上る実力を示し得たか、さうでなかつたかといふ所にある。
 さういふ事を考へると、又しても歴史を読みたくなる。広く深く歴史を探つて見なければならぬ。さうすれば必ず他愛ない自己礼讃や自己満足の夢に耽つて居られなくなる筈だ。此の夢ほど国を殆くするものはない。自惚れた国で興隆した国はない。
 私達は如何に頑張つても歴史の有する規定性から免れる事は出来ない。

 五月十六日
 私は今日も亦生きてゐた。単に生きてゐただけに過ぎなかつたではなからうか。生物学的にだけ生きてゐる事の淋しさ。限りない無意味さ。

 五月十八日
 『美術報国会』とやらいふものが出来たといふ。曰く報国隊、曰く報国団、曰く報国会と。何でも『報国』といふ文字を冠すればよいと思つてゐるらしい。大方『美報』も亦、戦争の絵でも描きまくつて以て事足れりとするのかも知れない。何れも誤れるも甚しいと言はねばならない。真の報国といふものがどんなものか考へもしないで大言壮語してゐる。
 「ほうこく」でなくて「ぼうこく」であらう。
 四方八方何処を向いても私達に対する形式的な皮相な阿訣だらけだ。無理した声である。何とかしなければ。

 五月二十日
 今日、此の秋霜烈日の生活の裡に在つて、雄々しくも闘ひ抜いて決して自己の人間性を殺さなかつた友を見た。私にとつてどれ程力強い存在であつたか知れない。私はもつと自ら鞭つて自らの心を鍛へねばならない。
 一体私はどうやつて生きて行けばよいのか。虚偽と虚飾とは私達の人間として最も排撃しなければならない目的だ。1+1=2である。一と一との和は日本に於いても独逸に於いても英国に於ても何処でも二である。日本だけが三や四になるといふ事は有り得ない。
 私は此処を出発点としなければならない。

 八月五日
 稲田兄の追悼録が送られて来た。一日之を読む。一人感慨無量なるものがある。行軍、組選、理四コンパ、何事につけ涙ぐましい憶出だ。委員生活も何と表現したらよいのだらう。嗚呼。
 市川の療養所に在つた彼が、余命幾何もないのを知つてか知らずでか、『複素函数論』『仏蘭西語四週間』を読み、歌句をものしてゐたのを知つては深く我々の胸をえぐられるやうな気がした。我々は我々の最後まで自己に忠実でなければならぬ。最後迄我々の本分を放擲してはならない。

 九月九日
 演習の帰り、A教官と不図した事から現代の教育の事に就いて話が出た。学問に対する或一種の思慕と尊敬の情、現状に対する烈々たる憂国の至情とを見て、言ふに言はれぬ感激を覚えた。
 伊太利の降伏が報ぜられた。我々。

 九月十二日
 夜は独りで『白桃』を読んだ。頁を開いた真中へ鼻をつけるやうにして紙の香を嗅いだ時、涙のにじむ様な感激を覚えた。『高山国吟行』を繰返し読む。素肌に秋めいた風が静かな晩である。

 九月二十日
 野口兄から便りが来た。淡々として綴られた一行一句が何と美しい響を持つてゐることか。心憎いまでに巧な表現の裡に銀の鈴の様な音が響いて来る。「手入れ良好」な兵器は矢張り美しく光つてゐるし、いざといふ場合にははつきりした物を言ふのである。
   ×  ×  ×
 原の真中へ横はる。『確率論』が青い空と鉛色の雲の中から抱きしめるやうに私を嬉しがらせた。

 昭和十九年二月十一日
 「ストーブが紅く燃えてゐた。燻んだ窓硝子を透して静かなランプの影が之も亦静かな雪の舞ふのを映してゐた。食膳に上つたパイナツプルと紅茶が私達の昔をこよなく楽しませた。快い疲れ!」
 かくして四年前の今宵が暮れて行つたのを、限りない懐しさを以て、黄金の夢の様に憶ひ出す。三本槍の登攀を終つたあの日のことを。今日、此の日を卜して再び筆を執ることにした。
 よく考へて見ると何故に又書き始めたかといふ疑問に一応逢着せざるを得ない。他人に見せる事を前提とした日記が、価値のない、と言ふよりも卑しい歪められたものである事は勿論である。私は時々書きたい非常な欲求に駆られることがある。只書きたいのだ。然しそれが色々の障碍に依つて実際の文字とはならずに、泡沫の如く消えて了ふのも重ねて経験する処である。私はそれを惜しいと思ふ様になつた。その理由は識らない。

 二月十三日
 エミール・ボレルの『空間と時間』を読了する。近頃になく興味深く読んだ。

 二月十四日
 再び『ドイツ戦歿学生の手紙』を記む。何回繰返して読んでもいゝ。此処に居て読むと殊に感銘が深い。彼等は真摯だ。塹壕の中で、蝋燭の灯の下で、バイブルを読み、ゲーテを読み、ワグネルに想ひを寄せる彼等は幸福である。寄せ得る彼等は。
 死骸の中から取出した手記に、決して敵を誹謗する文句がない、といふ記録は注目に値する。
 斯かる真面目な偉大な学生を有つ独逸民族の底力を羨しく思ふ。あらゆる理論を超服した死の克服、果敢な突撃、夫等が必ずしも日本軍にのみ特有のものではないと知る。陶冶された崇高な理性の真の強さを又しても信ぜずにはゐられない。
 総じてクリスマスの描写が美しい。私達の幼い頃もクリスマスは本当にメールヒエンの世界であつた。さうでなくてさへメールヒエンの尠い日本の子供達は愈々それが喪はれ、奪はれて行く趨勢を悲しいと思ふ。

 二月十八日
 『文化地理学』を読了する。学問の広さと、その困難さと、それに対する限りなき希望とを感ずる。メンデルの言葉を思つて力づけとしたい。
「見てゐてごらん。今に私の時代が来る。」

 二月二十二日
 三谷先生の御逝去を知つた日。日本にとつての悲しみ。巨星墜つ。流れ星を見るやうな……。
 私達は三谷先生の殆んど最後の教へ子であつた。幸福な事であつた。私と先生との交渉は一年の時法制経済の講義から始まる。私は終始一番前の机の真下で講義を聴いた。シユワ゛イツエルとステイルネルを知つたのも其の時であつた。『知識と信仰』『岩元先生について』の御講演、岩元先生の葬儀に於ける先生の弔辞。烈々たる先生の気魄を深い感動をもつて思ひ出す事が出来る。
 十七日に河合栄治郎教授の逝去を知つた。偉大なる人格は造らうとして造り得るものではない。飛行機や船は造り得る。過去及び現在の偉大なる人格は単に日本のみではなく、全人類の宝である。さういふ宝を数多く持つ民族程偉大である。
 真に内的苦悩を経験して偉大なる人格を得るし、真に内的苦悩を経験しない民族も亦決して偉大な民族と言ふ事は出来ない。

 三月一日
 私はまだ色々の意味で生活の核心に触れてゐない。私はもつと真実で、もつとひたむきでなければいけない。もつと夢をもつてよい。

 三月三日
 得ることは歓びである。然し与へる事はそれにもまして歓びである。得ることの歓びを知る者も幸福である。与へる事の歓びを知る者はそれにもまして幸福である。

 三月五日(註、土肥原大将が検閲に来隊せし日)
 人々の邪悪さと運命の酷薄さとの間にあり乍ら善良であり、いつまでも善良であらねばならぬ。最も激しい争闘中にも温和であり、悪い人間の間にあつても善良であり、戦ひの最中にも平静でありたい。
 誰にも気付かれずに埋れてゐる此の生の力! それに引換へ、地上を塞ぎ、他人の場所と幸福とを奪ひ、日の光に当つてゐるあれ等死人同様の悪人共!
 真理への思慕を喪つて国家の隆昌はない。

 三月十二日
 波蘭は十七世紀に滅んだ国で、第一次大戦後復活したが、最近又独逸に併呑された興亡極まりない国家である。伊太利も同様変幻極まりない国だ。然し波蘭が生んだ例へばシヨパンやキユリー夫人の赫々たる存在は全世界の人類が永遠に抹殺する事の出来ない事実である。ダンテもコペルニクスもガリレオもダ・ヴインチも近世伊太利の生んだ人類の共同の文化財であつた。残した功績は如何なる事情によつても否定する事は出来ない。民族の偉大さは、真にかゝる如き人類の生活の根柢を豊かに富ます様な機縁ともなるべき人材を産む事によつて価値づけられると言つてよい。これからの日本がどういふ風になつても、私達は之を背負つて起つべく運命づけられてゐる。安佚を貪つてはならない。如何なる花も果実も、困苦と忍耐に依つて始めて其の根が養はれるのである。私は斃れてはならない。

 三月十六日
 私を呼ぶ声に、戦車の底から首を外へ出すと私は聞いた。
 『どうだ中村、月の出だ。……神秘的だね。』
 見ると一帯に明るくなつた原の左の涯、杜の上に赤い半月が今丁度出た所であつた。のろい車の運行に揺られながら妙に嬉しい気持がした。電線が月の前を上つたり下つたりしてゐた。私はワイルドのサロメを思ひ出さずにはゐられなかつた。帰つて床に入つたのは彼此四時であつたらうか。眠るのが惜しいやうな晩であつた。

 三月二十七日
 要は実践に在る。言説と標語の掲示にのみ急にして――而も何とそれが美辞麗句に富んでゐることか実践と実現とに隔たる事遠い現状は洵に憎むべきである。其の意味に於いて私は文字を怖れる。用ふべき文字を。
 何に於いて生き甲斐を見出すべきか。見出し得るか。杜撰な頭。失はれた青春。刻一刻時の流れは瞬時も憩ふ事を知らぬ。浦島太郎を知つてゐるか。ではどうすればよいか。
 近頃の「私は生きてゐる」だけの私に過ぎない様な気がする。「生きてゐる」だけの私は「死んでゐる」私に、同値で迄ないにしても等値である。つくづくと此頃無意識有意識の裡に冒した過去に於ける数々の非道徳的行為について考へさせられてならない。償ひ得べきものもある。償ふべからざるものもある。それを思ふと私は悲しいがおもはない訳には行かない。

 四月三日
 寒い雨の降る日表門に立つた。私は悪い事をした。卑しむべき官僚気質を見せたのである。
 とある少年が門の傍で小便をした。私はそれを咎めた。水洟を垂らした血色の良くない彼を見ると、咎めてゐる私自身が悲しくなつた。威猛高な官僚気質を突然現すことが私に時々ある。そしてそれと同時に別の私がそれを卑しむ。それから自責の念が募るのである。

 四月二十七日
 考へたいこと、考へなくてはならぬこと、考へようと思ふこと、夫等が私の頭に溢れてゐる。それが私を幸福にするのだ。

 五月八日
 一蔓の藤がある。美しい花房が一ぱい。私はじつとそれを見つめた。生物学教室の前にある藤も今頃は盛りであらう。今果して誰がその下に転んでゐることであらうか。

 五月十二日
 異常な感激をもつて『アルト・ハイデルベルク』を読み終つた。私にも私のハイデルベルクを持つ事が出来たことは此の上ない幸福だ。

 五月十三日
 『若いヴエルテルの悩み』読了。彼の死に至る経緯は胸を打つた。近頃私は自己を佯つてゐることが無いであらうか。安易な妥協に満足してゐる様な点がないであらうか。鮮鋭な、潔癖な正義感が麻痺してゐるのではないだらうか。恐ろしいことだ、恐ろしいことだ。
 生かされてゐるのではない。生きるのだ。
 すべて、待つがいゝ。

 五月二十六日
 おゝ、今日は蝉の声を聞いた。習志野の林に深々と沁みる交響楽を聞いた。

 六月五日
 父上、母上に。
 長い間あらゆる苦難とたゝかつて私を之迄に育んで下さつた御恩はいつまでも忘れません。私は何も御恩返しをしませんでした。数々の不孝をお赦し下さい。思へば思ふ程慚愧に堪へません。
 南極の氷の中か、ヒマラヤの氷河の底か、氷壁の上か、トルキスタンの沙漠の中に埋れて私の生涯を閉ぢたかつたと思ひます。残念ですが運命の神は私に幸しませんでした。
 総ては悲劇でした。然し芥川も言つてゐる様に、「親子となつた時に既に人生の悲劇が始まつたのだ。」といふことは、いみじくも本当だと思ひます。気の毒なお父さんお母さんに恵みあれかし。
 (註、六月五日は急に明後日外地第一線に出ることが決定した日)

 六月二十日
 (急に外地出征が決定して出発し、途中門司市より両親に書き送りたる最後の書翰なり。)
 父上母上様。弟へ。
 昭和十九年六月二十日午前八時     門司にて  徳郎
 何も彼も突然で而も一切がほんの些細な運命の皮肉からかういふことになりました。然し別に驚いても居りません。克郎(註、弟)に一時間なりとも会ふことの出来たのはせめてもでした。実際は既にその前に居なくなつてゐる筈でした。さうしたら誰にも会へなかつたのです。
 色々の都合で十日余り門司の、塵と煙とに燻み切つたみすぼらしい街の、瓦の荒れた旗籠屋に暮しました。特に印象的な数々の思ひ出を残して愈々近日中に出帆します。電話でも知つてゐれば家へも話を通じますし、従つて或は会へたかも知れなかつたのでしたが之も運命です。
 (註、出征と同日頃両親は東京より山梨へ疎開せり。)
 之から行く先は勿論判りませんが最も激戦地であることは間違ないと思ひます。お便りも恐らくは当分(と言つてもかなり永い間)全然出来ないと思はれます。偶然高村兄も同行し何かにつけ私達はお互に心を慰め、心を豊かにすることが出来るでせう。(註、高村氏は当時一高理乙三年生)最も伴侶にしたかつた本を手許に持つてゐなかつたのは残念ですが致し方ありません。それでも幾冊かを携へて来ました。(註、カエサル・ガリヤ戦記(岩波文庫)、フイヒテ・独逸国民に告ぐ(同上)ゲーテとシルレル往復書簡集。"Carossa Rumaenisches Tagebuch.""Mountain Essays."最近世界史年表、岩波全書教冊等)
 出発に当つては後に残る先輩同僚の戦友が細かい面倒を見てくれました。学校の級友などと違つてほんのかりそめの縁で集つた戦友は中には住所も知らない、恐らくさういふ人達とは此の儘それつきりになつてしまふのが大部分ではないかと思ひますが、あの人達が示してくれたさゝやかではあるけれど美しく純粋な好意の数々は生涯忘れられないでせう。それで思ひ出したのですが、入隊の前夜理四の級友八田兄から拾円を而も極めて美しい善意ある方法で贈られました。彼は今第二工学部土木学科に在学中です。お礼を忘れないで戴きたいと思ひます。
 辻村教授と安倍校長の両先生には別にお便りを出しておきました。一年から受持であり山岳部長であつた荒又先生と、一中の常山先生とにはお便りをする余裕を得ませんでした。宜しくお伝へ下さい。Morris 氏には何れ又会へることゝ思ひますが万一の事があつたら(その確率は必ずしも小さくないのですが)斯くなれる顛末と其の後の自分が如何に在りしかを伝へて下さい。それと共に氏に宛てた手紙を克郎が持つてゐますから渡して下さい。若し氏が来朝しなかつたら氏のロンドンの所番地が最近の日記の住所欄に書いてあります。
 今の自分は心中必ずしも落着を得ません。一切が納得が行かず、肯定が出来ないからです。苟くも一個の或る人格を持つた「人間」が、その意志も行為も無視され、尊重される事なく、或る一個の、訳も分らない他人の、一寸した脳細胞の気まぐれな働きの函数となつて左右される事程無意味なことが有るでせうか。自分はどんな所へ行つても将棋の駒のやうにはなりたくないと思ひます。
 ともかく早く教室へ帰つて本来の使命に邁進したい念切なるものがあります。かうやつて居ると、じりじり刻みに奪はれて行く青春を限りなく惜しむ気がしてなりません、自分がこれからしようとして居る仕事は、日本人の中には勿論やらうといふ者が一人も居ないと云つてよい位の仕事なのです。而も条件に恵まれてゐる点に於いて世界中にもさうザラにない位ではないかと思つてゐます。自分は勿論日本の国威を輝かすのが目的ではないのですが、然しその結果として、戦に勝つて島を占領したり、都市を占有したりするよりもどれ程真に国威を輝かす事になるか知れないものがある事を信じて居ます。
 自分を斯く進ましめたのは言ふまでもなく辻村先生の存在が力あります。同時にモリス氏の力を除くことが出来ません。氏は私に、真の人間たるものが、人類たるものが何を為すべきかといふ事を教へてくれました。又学問の何物たるかを教へられた様な気がします。私は或夜、西蔵の壁画を掛けた一室で、西蔵の銀の匙で茶を掻廻しながら氏が私に語つた。。 "Devote yourself to Science!" といふ言葉を忘れる事が出来ません。(註、モリス氏は元一高講師、現在ロンドンBBC放送解説者)
   ×  ×  ×
 現在のかうした状態が続く時、祖国の将来のことが案ぜられてなりません。如何に日本が特殊の国だからなぞ言つても歴史の規定性から免れる事は出来ないと思ひます。恰も自分の身体は特別誂へだから現代生理学の法則には従はないのだと誇示するのと同じ位滑稽な事です。現在のやうな状勢が永い将来に於て如何なる状勢を生むか考へなければならない事です。凡そ何人が真の憂国者であつたかは歴史が決めてくれるでせう。自分の場合、動章なぞを貰はなくても、歴史の永遠性の中に愛国者たる価値を若しも附与される事が有ればそれで満足します。
 若し私が『死んだ』といふ知らせがあつたら、自分の意志に反して敵弾に殪れたのではないと信じて下さい。戦闘惨烈を極め、愈々といふ時は自分自ら命を絶つことを肯定し、そして自らの手で果すつもりで居ります。然しさういふ事のないのを信じたいと思ひます。だが又案外それははかない望みではないかといふ気もいたします。
   ×  ×  ×
 克郎には十分勉強させてやつて下さい。委せておいて大丈夫の様に思ひます。が実際考へれば考へる程可哀想に感じます。勉強するのには現下の状態が色々と余りにも苛酷であり、不自由であるからです。先日最後の面会に来た時、将校室で将校の立合の下に、私が事務的に色々の事を告げたのでしたが、それを下を向いて刻明に筆記し乍ら涙を落してゐた有様は可哀想でなりませんでした。
 随分とりとめもない事を記しました。もう夕方になりました。色々と準備にかゝらねばなりません。では元気で行つてまゐります。御身体を大切にして下さい。こちらのことは御心配なく。爪と頭髪とは出発の間際聯隊へ残して来ました。
 克郎へ。色々の事は別に記して置いた。今日最後の散髪に外出があつた際、近くの古本屋で左の掘出物を得た。楽しみに持つて行く。
 一、ゲーテとシルレル往復書簡集 上
 一、文学と文化
 一、形成的自覚
 一、三省堂最新世界史年表
 此の間頼んだこと、面倒だらうが着々整理してくれ。
 追伸。旅行制限で北寮二十七番の連中も甲府以西へは旅行し難くなりました。すると塩山を中心とする奥秩父か、甲府からの『南ア』位が範囲になる訳ですが、殊に前者が最も利用されると思ひます。家へ寄つたら私の代りとして面倒を見て上げて下さい。牛乳でも腹一杯御馳走して上げて下さい。呉々もお願ひ致します。



     *     *



海上春雄
 大正十年三月二十日生
 静岡高校を経て昭和十七年十月経済学部に入学
 昭和十八年十二月応召
 昭和二十年一月九日比島リンガエン湾で戦死


     遺書
 死こそは正に人生の深淵にして人たる者の心の中に常に留め置かる可き事とは言ひ乍ら事に際してその決意を新にす可きこそ肝要ならん。
 顧るに吾この世に生を享けしより二十有余年一つとして偉大なる天地万物の恩愛に浴せざりし事なくそれに報ゆ可き何物も有せざりき。
 吾只吾が命の為にのみありし凡てのもののために徒死を願はず吾只に報恩の途を進まん。
 昭和十八年十一月          海上春雄

   絶筆
 (昭和二十年一月比島ルソン島某地ニテ出撃前「メモ」ノ紙片ニ鉛筆書ノモノ)
 父上様、母上様。
 元気デ任地ヘ向ヒマス。春雄ハ凡ユル意味デヤハリ学生デシタ。  春雄




     *     *



松吉正資
 大正十二年十二月一日生
 山口高校を経て昭和十七年十月法学部に入学
 昭和十八年十二月入団
 昭和二十年五月十一日沖縄で特攻隊員として戦死


   故郷雑詠
いりうみの岸べにならぶ家並のうしろにつづき山そびえたり
海かこむ山のふもとの蜜柑畑みかん熟れたり遠目にしるく

   述懐
ゆく身にはひとしほしむるふるさとの人のなさけのあたたかきかな
うつそみはよし砕くともはらからのなさけ忘れじ常世ゆくまで



     *     *



加藤敏治

   義姉に
しぬびあふ思ひ交はさむ幾山河さかりて遠く別れ征くとも
苦しくもたえて生きませ再びの春のめぐりを待ちのぞみつゝ
   「生命かけはぐくみそだてし若桜捧げまつらむ今日の日よりは」なるうた送られければ「かへし」とて
みなさけにこたふることもあらずして出で征く我を許したまへや
雲はなれはなれゆくともたらちねのかなし面影我忘れめや
戦のにはのかりねの夢にだに交へよかなし母が面影



     *     *



川井修治


   筑紫に下る車中にて
ぬばたまの夕闇せまるふるさとの空を仰ぎて別れつげなむ



     *     *



深沢恒雄
 大正七年九月二十八日生
 浦和高校を経て昭和十四年四月理学部地質学科に入学昭和十六年十二月卒業
 昭和十七年一月入団
 昭和十九年七月十七日比島方面洋上で戦死


  所懐
此の家に生を享けこれまでにして戴いたことは、考へれば考へる程有難い幸福でございます。それを御恩返しの真似事さへ致しませんのは慚愧の至りでございますが、今皇国の為身命を抛つそのことでせめて御心をお慰め下さいますやうお願ひ申上げます。私には例によつて死ぬことも平気で居ります。死ねば生きてゐては出来ない事も出来ます。
 人を守り国を守り家を守りませう。
 では皆様御機嫌よう。生きてゐなければ出来ない事も沢山ございます。

   第一線測量船勤務中の作
はろ/゛\とまばゆき海を椰子の実の浮きつゝ遠くなりにけらしも
艫に舳に見張りを立てゝ行き行けど海と空より見ぬ幾日かな
航跡は銀河にも似てほのあかく夜光虫にや又光るあり
島山は雨にかくれて虹の内にわが母艦のみあかるく浮ぶ
行き行けど同じ速さの虹の門島は漸く大きさを増す
洋中に大船二つ横づけて一つうねりに身を委ねたり
○族と支那人四人妻にして一人異郷に老ひし人かな
二人のみの邦人なりきとつぶやきつ老通訳は塚草に触る
なほ遠く見むと思へかも藤からむ岩山の上に邦人の墓
亡き友に北の果見せむとラワン生ふるこの山道を棺かつぎけむ
工員に水吹きかけてたはむるゝ慰安婦かれもふるさと千里



     *     *



伊瀬輝男
 大正十二年八月四日生
 六高を経て昭和十八年十月法学部入学
 昭和十八年十二月入隊
 昭和二十年一月七日台湾から飛行機で内地に帰還の途中連絡を絶つ

 昭和十九年一月二十五日 曇後小雨稍寒
 寒稽古。第一陣退団。午前銃剣道の予定なりしも取止め、本日退団する者は最後の身のまはりの整理、残る者は舎内整理。風邪を押してやる寒稽古がたゝりしか本日特に発熱、咳甚だしく身体のだるきことおびたゞし、退団迄には必ず全快して元気よく出て行き度きものを終日憂鬱情なし。国重、大西武、宮井、米本、松永の五戦友小雨そぼ降る夕しづ/\と退団、見送る者、行く者共に感無量涙さへすゝる者あり、思はず淋しき別離なりき。一ケ月半といふ僅かの月日ながら何の縁ぞ、一つ釜の飯を食ひ、労苦を共にせし友に今日ぞ別る、この友のみかは今残れる友とも日ならずして離散の運命にあるものを。三教班の大黒柱、宮井、米本、可愛く賑かなり、我が両傍に吊床を並べ共に訓練をやりし、大西武、国重等の五戦友去り、教班俄に淋しくなりぬ、我特に淋し。友よ、今や軍中の人ならむ、遠路北国への旅、友よ健なれ。本日全員発表かも知れぬと思ひしに、未だ発表なし。緊張をはらんだ一日、愈々発表は明日か。事多き日なれど風邪甚しく筆進まず。『吊床下し』後、家よりの小包を渡さる。千人針の腹巻は母上姉上の丹誠ならむ、アースタム、スマイル、腹薬等有難き品々なり。封筒を吊床の中にて開く。先づ出て来しは孝治郎の習字なり。『ガンバレ』実に雄々しく書きたり。我が手を取りて教へし結果三重丸張出しの成績ならむ。亦日の丸の絵、一年生にしては格段の出来栄え。頑張れ孝治郎、勉強するのだぞ、片仮名で綴りし手紙も同封あり。アンチヤンニアヒタイ。シヤシントハナシテヰル。オモチヤオカシノトキハタベナサイ……等々一字一字がたまらなく可愛い。その純粋に余を慕ひ懐しんでくれるのに涙が出るのをどうすることも出来なかつた。最後に出て来たもの──あゝそれは母の手紙であつた。母の手紙、実に思ひがけないものであつた。母から手紙を貰つたことは勿論一度もない。母が字を書くのを見たこともない、その母が余に手紙を書いて呉れたのだ。紙の切端にたど/\しく書かれた母の字、我を思ひしあまり書きたるものなり。有難し。たど/\しく子供の如く天真爛漫なる文字、あゝ我が母の字なりけり。父母のことは心配せず、任務につとめよ、金ぴら様は船神だから信仰せよ──涙泉の如く胸つまり五体ふるふ。この有難き母の愛、雄々しき愛、母上、不孝の子、こゝに誓つて母上のお教を守ります──と幸福に吊床の中にしばし眠らず。



     *     *



中尾武徳
 大正十二年三月三十一日生
 福岡高校を経て昭和十七年四月法学部に入学
 昭和十八年十二月入団
 昭和二十年五月四日神風特攻隊水心隊員として西南太平洋で戦死


 娑婆よりの最後のおとづれを書かうとしてペンを執つたが、千万言胸に溢れて書くべき言葉を知らない。君の手紙や電報は四日、香椎に帰つてから見た。二十八日の夜香椎駅の夕闇をすかして私を探した君の姿を思ひ浮べて誠にすまないと思ふ。
 君は姪の浜や新宮の浜の様な美しい砂浜にどこまでも続いてゐる足跡を見た事があるだらう。藤村か誰かの詩にそんな光景を歌つたのがあつた様に思ふ。私はそこに交り合つた数条の足跡が我々であつた様に思ふ。どこに始つてどこに終るかもしれない。どこに交つてどこに別れるかも知れない。そこはかとなく悲しいものは浜辺の足跡である。
 浪に消される痕であつても、足跡の主の力づよい一足一足が覗れる。もり上つた砂あと立去つた人の逞ましい歩みを知る時、私は力づけられる。誠に我々は過去を知らず、未来を知らない。然し現在に厳然と立つ時、脚に籠る力を知る。加藤からの便りにも『永遠に歩かねばならぬ、永遠に歩き続けねばなりません』とあつた。
 十二月七日               中尾武徳
 柳浦文夫君

 (最後の書翰より第一回出撃の前日、昭和二十年四月二十八日──)
 壮行会で人に励まされ又自ら励ましもしました。私は本当に幸福者です。渺たる一身を以て人には何の尽す所もないのに、人から本当に誠を以て接せられ、身にあまる幸福を以て勇んで行く事が出来ます。
 此の期に及んで何も言ふ事はありません。ただ皆様の健康を祈ります。
 私の平常の所懐を書きつらねた日記を残して置きました。私は何も出来なかつたけれども清く強く生きる事を念願として省みて醜い汚い事のないのを何よりの本望だと思ひます。



     *     *



沢田泰男
 大正十一年十一月二十九日生
 第一高校を経て昭和十七年十月法学部に入学
 昭和十八年十二月入団
 昭和二十年五月本州上空で戦死


 昭和十九年十二月十五日 曇
 K君への手紙
 御らん此の頃の夜空の星の美しいこと、一つ一つが何かを囁いてゐる様ぢやないか。自分の気持が悲しい時は星共も同じ悲しみを悲しんでゐる様だし、嬉しい時には同じ喜びを喜び合つてゐる様だね。星共は恋する人々を見ることばかりを仕事としてゐるのであんなに美しいんだらう。
 お別れして一年、もうすぐ一週年が廻つて来るね。『去る者日々に疎し』といふ諺があるが、成程それはつい最近迄は真理だつた。離阪当初の如く、夜な/\貴女の夢ばかり見、楽しい甘い空想に耽る様なことは、日と共に次第に少くなつていつた。しかしつい最近のある日曜日、別離以来の君からの手紙をもう一度全部読み返してみた。戴いた時は何の気なしに読み過したであらう月並な文章の奥深く何かしら眼頭が熱くなる様なものを感じた。今初めて私の赤裸々な良心を以つて君の偽ない純情の輝きを感受した様だ。静に眼をつむつて過去を振返る時私は貴女と交際する上にその間にある溝を設けてゐた。そしてその溝を跳越えようとする感情とこの溝を死守せしめようとする理性や四囲の束縛とが絶えず心の中で闘争してゐた。しかしあれやかや考へ結局それは闘争を続けたまゝ何らの解決も与へられずにお別れしたのです。これが又最後の晩の様な行為言語となつて現はれたのです。
 今考へてみると私に決断力がなかつたのだ。も一歩深く君の愛情を理解し得る感受性に乏しかつたのだ。否感受したのだけれどもあるものの牽制を恐れて故意に神経を麻痺せしめてゐたのだ。つまり自己を偽つてゐたのだ。私は今程強く君に愛を感ずることはない。これは今まで私の感情を束縛しつづけてゐたすべての障害を気持の上で除去し得て虚偽のない赤裸々な気持になれと言つたことがあるが、さう言つた自己が今にしてやつと赤裸々な気持になり得てゐるのだ。誠に恥しい次第です。再び違つた意味と気持で君の夢を見つづける様になつた。この気持こそ生涯変るまい。これは私の本心だ。もと/\私は或る女の人がすぐ好きになり、それがすぐ嫌になれば、又すぐ代りの女を見付けるといふ様なことの出来る男ではない。君にもさういふ所がある。かうした二人がお互にかくまでしつかり結び合はされたことは永久に二人の結合を意味するものではなからうか。私も先短い命、君は許してくれるものとして出来うるならば、この気持を実現してゆきたいとの思ひ切なり。
 かくて私は最後の晩を後悔してゐる。どうかあの時迄の私の言葉、私の行為は全部私の良心を束縛し麻痺せしめてゐた心の鬼の為せる業と思つてゆるして戴きたい。私は今一度しつかり貴女を抱擁したい気持で一杯だ。
 しかしそんなことは私一個の身勝手な我儘だけではゆかない。どうしても実現不可能なる正当な理由さへなき限り私は断乎として君を抱擁する。君に接吻する。

 昭和二十年一月七日(日)晴
 K君への手紙
 拝啓御手紙拝見。相変らず元気の由何よりです。決戦下物質的不自由は如何に烈しくとも心は楽しい新年を迎へられたことと思ふ。私も去年の正月とは気分的に格段相違した愉快な正月を迎へました。
 自分一個の考へでかうしたい、かうすることが当然だ、正しいのだ、と思ふことも、その通り実行出来ることが何と少いことか。何事も思ふに任せぬがこの世の中だとつくづく感じさせられた。前の手紙に書いたことは私の偽らぬ真情であり、希望である。又永久に変らぬ美しい恋だと思つてゐるが、あの手紙に書いた様なことがもし実現し得るものだとすれば本当にこの世の中は夢の国、極楽の国でせう。しかし色々な事情はそれを妨げます。その事情は私も話したことがあり、大体おわかりのことと思ひます。結婚したいのは二人の切なる真情であり又さうすることが神の国では正しいことなのでせうが、さう出来ぬのがこの世の中です。
 私は決して君の肉を要求してゐるのではない。女の体は吾人には不必要だし、私個人としてもそこ迄なり下つてゐない。私は君の美しい魂の響き、心の音を欲したのです。魂は肉体を離れ得ぬ故に魂を欲した私は君の肉体をも欲するものと考へて下さいますな。
 私は君の体を欲することが私以外のすべてのものによい結果をもたらさぬことを知るが故に君の魂の声をきくことのみに満足しませう。君とても私との肉的結合を待つ時は永久に実現不可能の悲惨な運命にあふでせう。私は君を愛するが故に、君に私との肉的結合はさらりと諦めて他の人を選べと云ひたい。これは辛いことだが君を愛するが故に敢て云ふのです。結局私と君との交際は予感通り美しい友情恋愛として生涯続けませう。私の気持は前の手紙の如くにして未来永劫に変らぬことを附言して君の幸福を祈りつゝ擱筆す。
 私は近く征く。

 結局かうなる運命にあつたのだ。かうなるのが一番正しかつたのかも知れない。俺の気持としても之で不安な気持は一掃された。ともあれ彼女を救ひ得なかつたことは生涯の痛恨事である。こんな手紙を出すことは又彼女をどんなに悲しませ嘆かせるかも知れないがより多くを救ふ為に二人は犠牲とならねばならないのだ。

 二月十五日 曇
 敵機動大部隊日本近海に出現し大空襲をうける算大なるため再度重要物件及衣類の隊外分散を行ふ。この為楽しみな外出も中止されて一日中きり/\舞ひだ。日本近海に敵機動部隊をみる。これ程までに戦局は緊迫してゐる。
 最近は非常時といふ言葉さへ用ひられなくなつた。あれ程までに人口に膾炙した言葉なれど其の昔の非常時といふ観念は現在の戦局とはあまりにも雲泥の範疇差を有するが為である。こんなに戦局が緊迫してゐるといふのに我々が徒食してゐるとは一体何事だらう。
 搭乗員はあり余る程あれど乗るべき飛行機はなし、戦局を顧みても、物質的威力は決して馬鹿には出来ぬ。結局終局の勝利を獲得し得るものは精神よりも圧倒的物量ではなからうか。

 Kさんが結婚するらしい。一寸淋しい気がする。あれ程錯綜した事件も彼女の結婚といふ一事によつてすべては解決されざるを得なかつた。又それが今の場合最良の解決法であらう。恐らく彼女は何も言はずに嫁ぐだらうし俺だつてお祝ひの言葉さヘ言はない積りだ。そんな言葉をのべて二人の関係を現実にひきさげたくないのだ。青春のはかない夢なら夢でいゝ。みにくい現実よりはましだ。
 しかしがくんとした気持だけは中々とれない。蔭ながら彼女の幸福を祈らう。

 三月一日 晴時々曇
 午前十時大講堂に於いて司令より第一次北浦特攻隊員の指名あり、小生も勿論選に入れり。今更覚悟の気持のと改めて書く要はない。
 心構へははるか昔に出来てゐる。唯一日も早くこの日の来らんことを祈念しつゝ、時には諦め時には勇んで今日迄過して来たまでだ。司令から自分の名前を呼ばれた時ふと瞬間的にではあるが母の顔が頭に浮んですぐ消えた。
 父母よ弟妹よ幸あれかし。

 四月十二日
 沖縄本島周辺をめぐる彼我の決戦将に帝国の存亡を左右せんとするまでに重大化す。この時に当り一艦でも一船でも多く敵艦船を沈むるは焦眉の急なり。我々水上機部隊にも遂に特攻の命下る。午前七時特別攻撃隊員の命名式あり。つゞいて午後その第一陣は隊員全部の心からなる「帽ふれ」に見送られて勇躍征途に発つ。俺も無論特攻員である。残念乍ら第一陣には選抜されざりしもこの次には必ず出陣する。飛行機の整備に要する時日を考慮してあと五六日すれば進発出来るだらう。一日にしても早い程よし。心は止水明鏡、後顧の憂は更になけれど唯一度父母の御顔を見てゆきたい。心ゆくまで話してゆきたい。しかもこれさへももうかなはぬ。せめて写真でも持つてゐればよかつたのに……。

 俺は親不孝だつた。──休暇これは学生教程卒業の暁には必ずあるものと信じて休暇あれば親にも会へるとばかり思つてゐたのが抑々誤りではあつたが。この親不孝は必ず俺の体当りによつて贖つてみせる。
 進発まで時日の余裕も少い。とび/\ながら過去二ケ年近く北浦の学生生活を綴つて来たこの日記も今日を限りにやめることにする。
 特攻隊員に命名されて体当りするまでの気持なんていふものはとても筆などにては真を写し切れるものではない。この心境はかゝる経験を有するもののみが味はひ得るものとして書くことはやめよう。
 さらば父母弟妹よ、師よ。
 御健康をお祈りします。



     *     *



亥角泰彦
 大正十一年六月十九日生
 静岡高校を経て昭和十七年四月経済学部に入学
 昭和十八年十二月入団
 昭和二十年四月十四日沖縄方面で戦死


 (回天特攻隊員として出発の際の母宛の遺書)
 久しく御無沙汰申し上げました。
 御母上様には御変りもなくと申し上げ度き処なれど誠に御苦労多きことゝ御察し申し上げます。扨、今日思ひ立つて筆をとりましたのは他でもなし、所謂遺書に類するものです。小生例のつむじ曲りにてピン/\生きてゐるものが無理に死んだ先のことを考へて独りで悲壮がるなど以ての外と思つてをりますので一切何も残さぬつもりでした。又書き置いて後始末して頂くやうなこともございません。
 併しこれもたゞのお便りとすれば何もかたくなに排する必要もなし、殊に家にゐた頃御母上となら夜中の二時三時でも飽かずに御話をしてゐた小生、久し振りに御喋りするのも亦悪くないと存じ、思ひつくまゝにぼつ/\書いてみたいと思ひます。前置が大部長くなりましたが。
 一、御母上の御そばをはなれてゐる間に僕がどの位変つたか。
 学生時代の私は万事に冷淡で中で熱心なものといへば読書、スポーツ、たまに一生懸命になれば、芝居、浄瑠璃、風俗史といへば体裁がよいが多少色気のついた昔話といつたやうな調子でした。軍隊に入つてからも極度に情緒趣味であることには変りなし。その他無精でお人好しで相変らずの人間です。唯少し変つたことといへば昔爺さんみたいに詰らぬ日常のことに小うるさかつた所、あれが非常に強くなつたこと、言ひかへれば妙な所に小心になつたことです。これは軍人といふものに懐いてゐた多少の期待をすつかり裏切られ、職業的軍人に愛想をつかしてからのことなのです。
 極度に形式主義な彼等がそれを以て我等に臨み我等を律するのは所謂海軍の伝統、海軍常識なのです。その実それは島国根性、尻の穴の小さな連中が営々としてつくり上げた形式的な固陋な因襲にすぎないのですが。しかもそれは私達の最も詰らぬことゝ考へる所、それをもつて『なつてをらぬ』と責められても、こちらは一向痛くも痒くもない筈なんです。まして生来対抗意識等といふものゝ薬にしたくもなかつた小生故、普通ならどこ吹く風といふ面でゐてしかるべきだつたのですが、どういふものか軍隊に入つて以来妙に対抗意識が強くなり、唯彼等に文句を言はれたくない一心でやつてきました。とも角自分が今迄最も下らぬこととして無関心だつたことに神経をつかつて尻尾をつかまれまいとするのですから、勢ひピリ/\した人間にならざるを得ません。しかし本心では所謂軍人精神たるものに非常なる侮蔑をいだいてゐたのですから、娑婆気を抜けと言はれゝば言はれる程、それにしがみつき、これを失つて我々の取柄どこにありといふ調子でしたから、人様から見れば実に小心翼々裏表の多い生活だつたでせう。併し何を言はれやうと、何をされやうと糞食へと腹の中でせゝら笑つて(海軍々人はこういふ時、顔で笑つて心の中で泣くのださうですが)意地を張り続けてきたこの一年余りの生活で、たしかにしんの強いところが出来たのは事実です。
 併しこれもみな過ぎ去つたこと、いまの私はもうこんなこだわりは持つてをりません。或ひはこのことにとゞまらず今の自分の仕事以外すべてに無関心になつてしまつたといふのが正確な言ひ方かも知れません。
 一、死といふこと
 私は軍隊に入る頃から死ぬことは何でもないと、馬鹿のやうに言つてをりました。事実さうであつたやうです。併し生命何ぞ惜むに足らんと常々吹聴してゐなくてはならなかつたといふのはやはり『生死』といふものに非常なこだはりをもつことをあらはすものです。事実私は生死を超越したといひながらつい先頃迄死生観といふ問題が頭の中から離れたことはありませんでした。
 それは私の仕事の性質上殊に仕方のないことだつたかも知れませんでした。自分のなすべきことは判つてゐる、しかもそれに対する訓練は受けてゐない、さういつた頃、(去年の終三ケ月間)の私には如何にして我々の死を価値づけるか、我々は何に生命を捧げるのか、何やかやと思ひ惑つたものです。しかし愈々訓練を始めてからといふもの、私は死といふことを少しも考へぬやうになりました。誰の為に死ぬかとか、それでは犬死になりはせぬかとか、どんな死様はしたくないとか、そんなこと総てが頭の中から消えてしまひました。又考へる必要がなくなつたのです。自分のなすべき仕事──これは決して我等何をなすべきか、といふ道徳的な命題の意味でもなく、又所謂軍人としての職責とかいつたやうな重苦しいものでもなく、唯「さあこれから寝ようか」と言つたやうな極く軽い、気楽な意味の『仕事』なのですが──を唯淡々としてやつてゆく。私の今の死生観はこれにつきてゐます。死生観といふ言葉には、一寸不適切な表現ですが、唯あるがまゝに最善を生きて行け、さうすれば死も生もすべてがうまくゆくのだ。
 生死を超越したと称しながら縷々と大判ノート一枚を費してこんな事をかくのは、かへつて死に強い執着を持つてゐる証拠ではないかと反問されさうですが、さにあらず、私の仕事の性質上私が何時何処で、いかなる死様をしたかといふことは先づ永久に家の方々に告げられる事はあるまいと思ひます、それは私としては望む処でもあります。然し万一その故に皆さんが私の心持に就いて、又死様について思ひをめぐらされるやうなことがあつてはと存じ、私は最後迄生を楽しみ、安らかな気持でポツとこの世から消えてゆくものなることを長々と述べた次第であります。
 最後に小生実に勝手なことばかりいたし、色々御心配ばかりお掛けしました。併しそれでそれなりに結構親孝行な息子であつたやうに思つてゐます。
 冗談はさておき、若し情況が許しさうな機会に恵まれましたら、静岡の小生古戦場を訪れ、昔を思ひ出して下さい。あの頃が私にとつてもつとも張り切つた、又印象深い頃です。もし私が化けて出るとすれば、あの頃の姿で出たいとさへ思つてゐる位です。
 時間も愈々迫りました。これで失礼します。皆さん御機嫌よう。
  出撃の朝               春彦
     出で立つや心もすがしるりの色



     *     *



市村秀八
 大正五年十一月十二日生
 水戸高校を経て昭和十四年四月経済学部に入学
 昭和十六年八月応召
 昭和二十年六月二十五日ルソン島マウンテン州西北方二十粁附近で戦病死


 (錦州より 昭和十六年九月五日 受信)
 昭和十六年八月十五日 高崎出発
 凭んな重い背嚢で歩けるだらうかと思つた。完全軍装であつた。軍服の背中が学生服の冷さを想ひ出させて、どうもしつくりしなかつた。半里程裏路をボンヤリと列について歩いた。間もなく小学校の庭に憩をとつた。途中はすべて警戒網が厳重に布れてゐた。慣れぬ肩に重力が加速度的に加はつた。曇つた日である。此処彼処に水溜りが隠見する。真夏の正午過ぎいよ/\整列して貨物線のプラツトホームから静々と高崎駅の階段を昇つた。寂として誰も語る者はない。各人が運命の不可思議な回転に驚きともつかぬ沈黙の眼を瞠つてゐる。周囲は只ならぬ防牒一色に染められてゐた。
 乗車命令を俟つて粛然と列をなして乗る。片側の窓は堅く鎧戸が閉ざされてゐた。打ち振る手も万歳の歓声もなく、鈍重な車輪の音と共に汽車はプラツトホームを滑り去つた。やがて二食分の汽車弁と飴が一袋わたされる。意志なき目で窓外を眺め、感能なき頭で己を省みた。床を見ては天井を仰ぎ無暗矢鱈に飴をしやぶつた。汽車は途中大宮で切り換えたのみで驀ら都へ東京へと進んで行つた。

 (南支より 昭和十六年十二月二十二日 受信)
 三日月が黒い雲に光を奪はれながら黒縁の山の嶺に身を投じてゆく。その嶺の麓に二つの部落が薄墨色の影を宿す。斯うした部落が日没と共に不気味な謎を蔵するかの如く黒い塊と化して幾夜か我々の眼を緊張せしめて来た。電燈のない此地方の山村ではほの赤い燈心の光が水田の彼方に点滅する。その光が漏るゝ事を土民達は恐れつゝも時折りとぼし、我々は怪しみつゝその一点に神経を尖らせた。
 月の姿が山蔭に隠れると共に俄かに眼前一帯の土地が暗黒の巷と化す。凝と光を求めて見入つてゐる中に眼が慣れてくる。そんな時思ひ合せたやうに雲の晴間から蒼穹深く南国独特の美しい星の輝が浮き出てくる。奥深い澄みきつた大陸的の空は立体美を展開する。距離を異にした各星座ははつきりと各々その平面を主張する。近い星はボオツト明るく遠い星は常夏の地にも寒さうに感ぜられる。自分は賑かな星の群を見て、都会の美しい光を想ひ出してみる。しかし憧憬は何故か果てしなき星の如く無縁の軌道上に浮動する夢のやうに思はれてならない。同じ星を仰ぐ下界とは云ひながら、その光に照らされて立ちならぶ家屋は処々廃墟と化した不気味な土煉瓦に過ぎないのだ。自分は寧ろ郷愁すら忘れて呆然丘に立つ客観された己の姿に気がついた。

 (南支広東病院より  昭和十七年八月十三日 受信)
 自分が星は全々いらないといつたら宮城の爺さんが、
 「あたん(あなた)はそう云はすけん、誰とて腹の中で星の殖えるを嫌ふものはおらんけん。」
と自分の言葉を否定した。そこで自分は言つた。
 「私は星が欲しいとか、欲しくないとか云ふことは眼中にない。たゞお汁粉を大して飲みたいとも思はぬ時は遠い途を態々飯盒さげて行き、その上長い間列を作つて待機して買つてくる位なら、面倒臭いから、飲まないで昼寝してゐた方が楽だと思ふだらう。しかし他人がそんな時でも親切に買つてきて、之を君飲み給へと云ふなら喜んでいたゞくよ。飲みたくない時のお汁粉と同じで眼中にない星なんだから、卑屈に苦労してまでいたゞきたくない。俺は一等兵で沢山だ。一つや二つの星を貰つたつて有り難くもないし、一円や二円俸給が上つたりしたつて、それぽつちの金は欲しくない。しかし敢て呉れると云ふなら邪魔にならないから喜んで貰ふ。知性ではどんな将校にだつて負ける筈がないのだからと己惚れて人格者のみを尊敬してゐるのだ。元来下士官が階級観を誇り、将校が知性を衒つてゐるのが実のない薄つペらな錯覚のやうな気がして仕様がなかつた。実際多数の人間が国家の与へた統率権と個人の一個の私権の行使とを履き違えてゐる。爺さんには俺の気持が中々判らないだらうが、星が要らないといふのは、自分の一つの自信力に基いてゐるのだよ……。」

 (ニユーギニアより内地帰還の参謀に托せし無検閲のもの  昭和十八年九月十八日 着信)
 改造とカレントオブザワールドと短歌研究及六月二十九日出の書簡八月二十三日に受取りました。眼鏡も縁を糸でしばつて使用してゐます。辞書も豆辞典借りましたからまあ何とかなります。
 小生の現在は通信兵などでは有りません。師団司令部の通訳です。そして情報室の一員である訳です。通訳生活も已に半年、その間濠飛行士の訊問に三回参加いたしました。その他は概ね鹵獲書類、地図の翻訳がその主たる業務です。土人語も可成り喋れるやうになりました。しかし敵国のラヂオ聴取は苦手です。生活はジヤングルの中で泥濘の原始林に不快な隠遁生活を営んでゐます。夜のみ炊事が許される為め、朝夕二回の飯上はどろんこで、とてもお話になりません。場所はニユーギニアのサラモア附近と御承知あり度し。それでも師団司令部に来てゐるのが小生の運の拓けた所以で、生命はこの司令部が全滅しない限り安全と思つて安堵され度し。
 サラモア戦線の苦闘はアツツ島、ガダルカナル島に次ぐ凄惨さです。日本人は世界一強いのだなどといふ己惚は内地の人達の頭から一掃して貰ひたい。これからの日本青年はもつと個性を完成した生命を捨てる事を潔とする人間を、より沢山生産して貰ひ度い。一日百発平均で五十日も連続爆撃されたサラモアは家屋は全滅、山形が一変した。同じ穴の上へ又爆弾が落ちて、しかも五百瓩爆弾の大穴、深さ四、五間、直径二十米以上のものが数千となく群生してゐる。四発のコンソリデーテツドB24やボーイングB17E、双発のノースアメリカンB25等が五六十機も空を圧して来ます。目下ではこゝニユーギニアは残念ながら制空権を敵に完全に握られてゐます。かるが故に小生もダンピール海峡で三時間漂流の憂目を喫しました。ニユーブリテンからニユーギニアヘそれは極楽から地獄への進軍譜かも知れなかつた。しかし日本軍は四面楚歌の中にも頑張つてゐる。
 サラモア戦線の自分達の苦闘、これは現在日本の戦つてゐる最悪の場面です。茂木小隊長殿も寺山中隊長殿も戦死しました。中島昇三君や高崎の面会で一緒になつた御存知の白石兵長も、茂木二等兵もダンピール海峡の藻屑と消え失せました。
 小生はあくまで運の強い男です。そして司令部に来た今日、御両親様には十分安心して可なりです。勿論小生としては生命の玉砕は覚悟してゐるけれど、とも角自分達は全く奇蹟の生き残りで五分の一になつて了つてゐる。尾島徳平君も三日間漂流したと云つてゐました。今は最前線で如何なつてゐる事やら。
 事実形勢は甚だ悪く、敵の砲弾も日々何百発と飛来します。又小生其の経験してゐる空襲に遭つたら内地の一般人などは阿鼻叫喚、戦慄で気が狂ふでせう。十間と隔たぬ個所に爆弾が墜ちたのも一再に止まりません。しかし自分は平気で昼寝もし、悠然と構へてゐる。何等周章や戦慄は感じない。防塞壕の中で、爆風が鼓膜を破るから耳に指を突込み聴いてゐる。大風が断続的に吹きつけるやうに熱を奪つてサツト過ぎる。
 まあ余り書いて了ふと帰つてから話す種が無くなるからこの位にしておきませう。今ニユーギニアで死ぬか生きるかの戦をしてゐますが来春頃は屹姥還れるでせう。小生は現在全く健康でピン/\です。参謀殿が内地へ帰られるので、こんな通信を内地から投函していたゞける事になりました。
   八月二十六日 ロロにて認む。



     *     *



蜂谷博史
 大正十一年三月十八日生
 第六高校を経て昭和十八年四月文学部に入学
 昭和十八年十二月入営
 昭和十九年十二月硫黄島に転属


    日記

   陸軍航空技術学校時代
エンヂンの唸淋しや糸つゝじ
臨検の疲れに濁る病舎哉
帰らざる愛機の夢や夏野炎ゆ
戦友送り独り兵舎に旅日記
警報にしばしの準備梅雨にこめて

 昭和十九年十月
 今日も雨です。これで三日降りみ降らずみです。自分の様な何も知らない者にとつては、もつけの幸とでも云へるでせう。煙つた飛行場も雨の中に悄然とある飛行機こんな状態が自分にとつて幸福だとは何と空恐しい事でせう。併し此処の生活にも殆ど慣れて来ました。いえ、慣らされてしまつたのです。不愉快な事も多いです。併し楽しい事もあります。夕食後より点呼迄が一番自分の心が落ち着きます。自分を省みるのも家郷を想ふのも母の言葉を思ひ出すのもこの時です。自分にとつては家郷は最大の宝です。これある為に自分は生きてゐるのです。母の傍で好きな本を読み、自由な生活を送つてみたいと思ひます。併し軍隊ではそれは許されません。個人の思惟は極度に制限されます。地方では馬鹿げた常識外れの事が軍隊では普通の事なのです。今晩あたり颱風が来るさうです。明日も雨かも知れません。今日から週番見習に就きます。責任はないでせうが大過無くやらせて頂き度いと思ひます。最近は神様霊様に祈る事も少くなつた。たしかに御無礼をしてゐます。これではいけない/\と思ひながら易きについてしまふのです。それだけ運命に任せてゐるのかもしれません。併し少し奥を考へるとやはりこれでは駄目です。自分は何処迄も広大な神思のまゝに生きてきた人間であり、これからも生かされて行く人間です。これを忘れた時は必ず破綻の来る事は分りきつて居ります。もつと/\祈らなければならないと思ひます。
 こゝの生活は全く面白い生活です。雨ふれば全く暇です。

   硫黄島戦覚書より
硫黄島雨にけぶりて静かなり昨日の砲爆夢にあるらし(一九・一二・九)
爆音を壕中にして歌つくるあはれ吾が春今つきんとす(一九・一二・一三)
南海の淋しさに堪え我は生く人いきれする壕下にありて
人いきれいやまし来る壕中に淋しく生きる人ありあはれ(一九・一二・一四)
硫黄島いや深みゆく雲にらみ帰らむ一機待ちて日は暮る(一九・一二・一七)



     *     *



長坂信
 大正十二年十月三日生
 浦和高校を経て昭和十八年十月経済学部に入学
 昭和十八年十二月入営
 昭和二十年八月十四日午後四時牡丹江、ムーリン間の地点で戦死


 (母宛の葉書──昭和二十年四月、満洲にて──)
 其後如何お暮しでせうか。東都の様子もさつぱりわかりませんので矢張り気になります。こちらは相変らず未だ冬も去りやらぬ態です。不可抗力とはいひ乍らこの所暫し沈鬱な生活に少々閉口して居ります。つまらぬ事のみ頭の中を往来します。学生生活に較べて現在の環境では、勿論外面的にですが一種の義務を履行してゐるといふやうな気持から自責とか焦燥とかいふ感情が殺されて居ります。この逃避的な安堵が近頃鼻につき出して我ながら浅間しい気持になります。何かしら重くのしかゝつて来るやうです。これを打開することが当面の急務のやうな気がします。
 それから山口の大電さん(従兄)の住所氏名お報せ下さい。

 (両親宛の書簡──二十年六月最後の便り、満洲より──)
 今日此の頃は毎日々々しとしとと雨ばかり降り続いて居ます。丁度内地の梅雨と全く同じです。今年の季候は例年にない不順とか。既に六月といふのに未だにどうかすると火が欲しい位です。ゴム長を泥まみれにしながら空ばかり眺めて暮して居ります。扨て其の後如何ですか。東京に家があると思ふとヒヤ/\です。会ふ人毎に「君の家はまだありますか。」と訊かれます。これが日常の挨拶になつて居ります。出来たら早く退散して下さい。
 こちらへ来てから早くも五ケ月いつの間にかロートル見習になつてしまひました。この社会も世間の人が考へておるやうなものではありません。将校の一員として交際してゐてつくづくと厭になることもまゝあります。その度に自分の弱さを励ましながら暮してゐます。本来の任務のためにならどんな苦しい目にあつても厭ひませんがこんな余計なことで気をつかふのはどうも嫌です。社会といふのはこんなものなのでせう。世間知らずの私の目に不合理に見えることもこれが通常なのかも知れません。が兎も角もあまりよいものとは思はれません。本当にぴつたりするのは本当の意味の同僚だけです。こんなことを考へると少年の頃が懐しく思ひ出されます。あの頃の純な気持に再び帰ることが出来たらどんなに幸福なことでせう。あの頃の無垢な遊び友達のことも思ひ出されます。今頃はどうしてゐるかと。
 宮腰見習士官殿と一緒に写真を撮りました。後便で御送りします。
 では時節柄御身大切に。元気で頑張ります。
 御両親様                    信  拝



     *     *



杉村裕
 大正十二年二月二十六日生
 東京高校を経て昭和十七年四月法学部に入学
 昭和十八年十二月入団
 昭和二十年七月北海道千歳海軍航空基地で殉職

   日記
 昭和二十年七月十一日
 佐々木の遺稿「宮沢賢治『烏の北斗七星』愛と戦と死に関聯して」を読み大いに感激した。彼とは深く話し合ふ機会も持たず、思ひ出と言へば、よくつまらぬ喧嘩したこと位であつたのだが残念でならぬ。『童話を愛読する大人は好い。』彼の良く言つてゐた言葉通り、彼は立派な精神の持主たることを示しつゝ死んで行つた。

 昭和二十年六月二十四日
 朝から雨。しつとりと落着いた気持の良い日だ。S君とNとに手紙を書く。ゲーテとの対話中巻読了。暫く離れてゐた世界に再び触れた。もりもりしたもの、力強きもの、プロドウクテイヴイテート、アクテイヴイテートに再びふれた。ガイステイツヒエスストレーベン。人は最も困難なる事にも信仰と溌剌たる勇気とで打勝てるがそれに反して発作的な疑のためにも直ちに滅ぶ。
 憎悪は人を傷けない。人を破滅させるのは軽蔑である。
 バイロンに関して。吾人はただ純粋なるもの、道徳的なるもののみを尊重してはならない。
 一切の偉大なるものは認めさへすれば教養になる。
 色々の事のあつた高校時代。怒り笑ひ喜び泣いた、あの頃つまらぬことに大いに憤慨したが、一番懐しい時代。亀尾さん、俺の思想の根底は彼及び独逸語で造られたのを想ふ。そして俺が始めて人の世への眼をあけたのも、あの時代だ。

 昭和二十年六月二十九日
 愈々母、多恵、静卜別レテ上野ニ向フ車中ニテ認ム。是デ此ノ世デハ再ビ顔ヲ合ハセルコトハナカラウ。窓カラ首ヲ出シテ見エナクナル迄手ヲ振ツテ別レタ。『オ父様卜色々話ヲシテ行キナサイ、私ナドニ言フト泣クト思ツテ言ハナイカモ知レヌケド。』ト母ガ停車場デ言ハレタガ胸ニシミタ。併シコノシツトリシテ別レルノガ良イノダ。『特攻隊ニ行ク人ハ本当ニ新聞ニ書イテアル様ニ喜ンデ行クノカ聞イテクレト誰カガ言ツテヰタ。』ト母ノ言ニ一寸憤慨シタ。少クトモ私ハ喜ンデ行キマス。ソレガオ国ノタメト思フカラ、ソレガ日本人トシテノツトメデアルト思フカラ。
 私ノココロノ詳シイ説明ハモツトアトニユツクリ書クツモリ。

さようなら母上、多恵子さようなら
日本海よ さようなら
あなたの息子、兄、友は 今よろこんで行きまする

国の弥栄いのりつつ
また会ふ世をば思ひつゝ
さよなら さよなら お元気で

別れ来て
独り窓辺の
汽車の旅
海や林や松の森
月見草咲く丘越えて
ふりむきふりむき 進み行く
かなしかりけり汽車の旅
かなしかりけり独り故

 六月三十日(軽井沢から上野の車中にて)
 直江津から立通しの汽車、軽井沢で降りて一時半。
 雨の降る中をSさんのところへ行かうか行くまいか暫く考へつつさまよふ。思つてゐたほど寒くない。待合室にごろ寝してゐる人が大勢ゐるので洗面所の横の一寸したところに腰かける。眠らんとすれど寝られず。二時半弁当を喰ふ。五時、自転車を借りに行き、一旦駅で荷物を整理し出かけやうとした時、ふと声をかけてSさんとTさんが飛出して来た。驚いた。
 只口を開いてポカンとしてゐたばかり。もう一度顔をみたからお邪魔するのをやめようかといつたが、やはり何となく惜しく一しよにお家まで行く。雨のそぼふる並木道を俺は自転車、SさんとTさんとは一つ傘で色々のことを話しながら行つた。今日は俺を見送るため高崎までの切符を買ひに来たところださうな。昨日Hちやんが駅まで来て列車の時刻表を書きとつて行き皆でこれに乗つてゐるか協議したさうだ。Tさんが一時半着の汽車だと云つて是非駅まで行くと云つたのを家の人達がそんなことはないと反対したそうだ。
 一昨夜Tさんが東京から帰つて後、皆御飯をたべないので節米になつてよいさうだ。をばさまなどひどく泣いてをられた。俺の話をしはじめたものは罰金をとることにしたのだが破産しさうださうだ。
 俺は素直にかういふ話を聞いて有難いと思つた。Sさん一家の御厚情が胸にしみた。
 Sさんはかへつて来てくれなかつた方がよかつたと云つた。『あなたは残酷よ』と云つた。テニスだけでおしまひだつたらこんた悲しい目に会はなくてよかつたのにと云つた。或はさうであつたかもしれぬ。俺は方々に唯悲しみをまいて歩く男なのかもしれぬ。
 別に話すこととてないが、そこに何時問ゐても同じことだが余りにも早く時が流れた。七時六分の予定を六時二十二分に変更して徒歩駅に向ふ。途中Sさんと一つ傘に入つて、並木道を歩いた。楽しかつた。時の立つのと、駅の近づくのが残念でたまらなかつた。
 雨のたれこめた山、赤川根の白い家、ずつと続く並木道、そぼふる雨、そして傍にゐる人の存在感。俺は抱きしめて接吻したいといふ慾望と強く戦はねばならなかつた。しかし、やはり自然の心の声の命ずるままに振舞つた方がよかつたのではないかと之を書いてゐる今、残念だ。
 誰にみせようと思つてこんなものを書いたのか、自分でも気がしれぬ。唯ありのままの俺の姿の一面。

 車中にて。俺の特攻隊に行くに際しての心理状態。
 俺の生活の目標は、立派な人間として生きようと云ふことであつた。更に具体的に云へば、立派な日本人として生きようと云ふことであつた。そして俺はさういふ理想に一歩でも近寄らうと努力する事を限りなく尊いものとみた。私はその努力の中に価値を見出した。私は唯立派な日本人として生きたいと思ふ。結局、たゞそれだけなのだ。娑婆二十三年の学問も考へてみれば惜しいとも云へる。併しそれらはその目的にではなくて、その各過程に価値があるのだと思ふ。だから俺は満足だ。叉目的的にみても今迄の勉強は――余りしなかつたが――決して無駄にはなつてゐないと信ずる。併しもう暫く生きてゐたいと云ふ気持もたしかにある。それを分析すると、
 第一、どんなにつらくとも、どんなに苦しくとも生きてゐたいといふ生物に与へられた本能。
 第二、もう暫くこの世にあれば、何か面白いこと、快ニユースがあるだらう。ヒヨツトして俺が今度の戦争で死んだ最後の一人になつては馬鹿臭いといふ気持。
であらう。併し之等は第一義的な理念の要請するものよりはるかに影が薄い。

 七月五日
 本日千歳に着任。大いに期するところあり、固有編成もきまつたらしい。愈々明日より飛行作業。



     *     *



井上長
 大正十一年五月一日生
 静岡高校を経て昭和十七年四月法学部に入学
 昭和十八年十二月入団
 昭和二十年七月二十四日巡洋艦大淀艦上で戦死


   とびの歌
大空に悲しくなきて輪をゑがきまひ流れゆく秋のとびかな
   寄神酒思人
この神酒にかかる涙は心嬬こひみだれにし涙にあらず
   紫烟
しまらくのいのちにあればむらさきのけむりの舞はかなしかりけり
   看護婦
水盤の花のみだれをみとりめは知らざるごとし脈を問ひ去る
   退院
軍装をきるてふことのまれにしてけさはこの身に力あるかな
病みし身も見ゆる限りは帽ふれる若き兵らの幸をいのるも
やゝなれしみとりめあまた居並びてけさの旅愁はせきあへずかも
   雑詠
二十三年世はままならぬ事ありと深く知りつつ糸を垂れたり
いかならむ苦しき事もたぢろがずみつめてあれば言ふこともなし
秋の日を丘にのぼりて目下なる白堊にさす日みれば悲しも
われひとり清らにあればいかならむ事もうらまずさざんかの花
ひややけき瓶の水吸ひひそやかにひたすらに生くさざんかの花
あめつちの秋のひそけささびしさもあらはにいはぬさざんかの花
はたとせと三つのいのちはうつしよにかふるものなし母のふみみる



     *     *



住吉胡之吉
 大正十年二月十五日生
 静岡高校を経て昭和十七年十月第二工学部電気工学科に入学
 昭和十九年末より航空研究所に動員
 昭和二十年五月二十四日目黒の自宅に帰り同夜家族七人と共に戦災死


 昭和二十年三月五日 曇
 欝々たる一日何やかやと物思ひにふける。一日ヒーターの前に坐り早目に帰る。何が故に愛するものが別れねばならないか、又現在の人間生活のみじめさ、自然の恵みを乱用して殺戮し合ふ悲惨さ、然し強く逞しくあらねばならぬ。如何に憂ふるとも解決は己の一瞬々々の努力のみなのだ。祖国愛、自分は従容として死に就くことは出来るつもりなり。然し国家への疑惑あるを否定し得ない。国家は問題でなく現在の日本自体が解答である。又この美しき日本に生を受くる恵みへの感謝何人に劣らう。だが日本のより美しくより高きを願ふ心が現実の日本へ割り切れなさとなつて疼く。
 努力したい。本当に自分の為すべきことに全力を尽したい。明るく元気よく。これが一切を解決してくれるのだ。

 三月七日
 朝散髪。実践の伴はぬ思想は駄目なりと。さうかも知れない。思想といふことでも真に思想することは、その実践自体の価値を含んでゐると言はれよう。だが実践といふことに自分は相当好い加減な気持であつた。実践すれば即ち全力を尽くせば総て成り、解決すると思ひ、又無批判に実践を口にして来た。
 全力を尽くす。それ丈で自分の心は解決出来るかも知れない。とにかく、自己の生命の充実感に溺れて。然し自己のほかは決して救はれてゐないのだ。しかしやはりなほ全力を尽くさん。倒れても止まずと信じ努めてゆくのだ。妥協し安易に走る生活、真に生きん願ひを忘れて、一時のはかなき生に溺る。いけない。今一度、吾とはこの宇宙、国家の間に立つ一人の人間であるといふ事を反省してみるべきだ。
 『国家とは。』
 吾も国家も今の有様それ自体が解答であり、それ以外の何物でもない。だが現実に満足出来ぬ、吾、国家、の現実である。消さんとして消し得ざる向上心は己の、日本の、理想の姿を求める。それ故に現実は十分な解答ではない。現実の長短を剔抉し、さらにさらに高きへと発展して行くことだ。その為には強く正しき意志こそ一番大切な要素である。

 苦しまう。苦しみを貫くことより解決の道はないからだ。苦しい中にこそ真心も希望も輝き始めるからだ。それ故に自分の現在を甘受しよう。感謝し一層闘志を出さう。捨石たらん意志すらひしがれんとする生活。だが、それは未だ自分が弱いからだ。―子(註、航研時代交渉のあつた人)のことにしたつて二人がこの現在の前途暗澹たる中にも本当に真心を通じ信じ合ひ、この恋をもつと真たらしめんと汗と涙の中を通らなくては。吾等二人の恋こそ一番真なる一番深き恋たらしめん。―子よ、それ故に現在の苦しみに耐へよ。苦しいであらう。耐へてくれ。お前は祈ることを知つてゐる筈だ。祈つてくれ。そしてお前の涙でこの二人の恋をもつと清めてくれ。自分も本当に汗を流さう。そして二人の恋を本当に立派な恋たしらめ、結婚てふ次の創造に進まう。
 然し今は反省思索は徒らな気分に溺れてはならぬ。現実は厳しい。足もとに、といふより自分の身に火をつけられてゐるのだ。これを消さなくては如何に中に理想を蔵すとも、それもろ共無なる消滅に帰さねばならぬ。如何に単調枯寥たる生活たりとも自分一個の今まで得て来た生の倫理を以てすれば希望を以て楽しく過すことは出来る。だが今はそれでは済まされぬ。国家の悲境は飽くまで自分の心痛となつて疼く。それ故に己の生の倫理も未だしといふことも感じはする。だがこの悲境に苦しみつつ、国家のために自分を最善に生かさうとする努力とそれより生れる生命の充実感てふ希望は許さるべきではないか。飽くまで明るく元気よく。それは自己を頼む朗らかさなのだ。

 三月二十日
 昨夜早速宿直を引受く。―子の身を案ずれども姿見えず。唐津さんのラジオ引受けて組まんとするも頭痛で早く寝る。井上先生のベツドで。鼠のさわぎ夜凄し。―子への電話通じてやつと帰つて来るも空し。午後美代子(註、令妹)に電話し、電話を依頼、祐天寺駅に行くも空し。
 ―子よ聴きつつあらん。今日放送の最後の音楽が美しく流れてくる。―子、奈良へ疎開して行くとか。夕方美代子に知らさる。居ても立つても居られず彼女の家に電話して貰ふ。明日東北沢駅に二時。夜は別れの手紙を書く。吾に後幾莫かの生あらん。然し最後迄最後まで、希望を持ち努力するのだ。美しき、正しき祖国への、非力弱志なるも、この自己への信頼が、―子への信頼が、尽きるなき希望となつて湧いてくる。―子よ、遠く別れあるとも健在なれ。お前は現実に最善を尽くして行く女だ。そして祈ることを知つてゐる。お前の真心、お前の努力、祈り且つ周囲の人々の光とも杖ともならんことを。

 四月二日
 あと百日、二百日の生命。父にも母等を疎開させて下さるやう頼む。自己を視よ、真一筋ありや、本当に幾莫かの生命を大事に過さなくては。だが今静かに一人在り、色々と思ふ。大事一筋。そして最後の死花を立派にせん覚悟。静かに強く強く感ずることが出来る。今までの自分の苦しみは無駄ではなかつた。死の恐怖、感ぜず。たゞ有終の美を、自らが微笑みて死ねる最後が期せられる。祖国のため、愛する人々のために渾身の誠が尽くせるのだもの。だが生命惜まう。此の懐しい二階家の階段登るも景色眺めるのも僅かだ。自分が一瞬々々を一番大事に生きてゐるやを一層反省を強くし精進すべきだ。
 愛するものに逢ふなかれと。この仏の訓がうけられる今の気持。―子、いとしい。本当に嘘偽りもない。隠し立てしたくもない。逢ひたい。だが逢つたところで所詮無意味なのだ。人生正にくるし、はかなし。そしてそれを或程度つきぬけ、諦めた気持は空虚なる故静かだ。実に静かだ。

 四月十二日
 昨夜十時まで函数論を読む。此頃やうやく落着いて、又興味にかられて本が読める。今朝五時半起床。航研にリヤカーを取りに行く。空腹も気持よし。美代子が芋飴を持つて来る。小沢、石井(註、後輩の人々)が来るとき彼等に食はせたい。さう思つても又自分の食欲熾烈。まだ心足らず。若し―子ならば否応なしに彼女に食べさせるであらうに。己が心反省。三省。万人一切―子を思ふ心にて接すべき。

 四月十三日
 リヤカーを曳いて航研に。途中兵営の前を通り憂欝なり。殺風景な軍人の社会。だがそんなことに負けてはならない。強くあれ。予感又々当り、―子よりのたよりあり。土田(註、静高時代の級友)より便。希望を信念たらしめる何物かがある。

 四月十四日
 昨夜大空襲、少し遅く出勤。午後荷を少しおろして早目に帰る。春の日、悲し。もう桜も盛りを過ぎてしまつた。見習士官が兵を教育してゐるのを見る。高声をはり上げると全くたゞ時を費すべく費す空虚な時の浪費。無意義の中に意義を感得せんとしても出来ない。食つて眠つて心なき空元気と嘘を言はねばならぬ如き軍隊。

 四月十五日
 勅諭の暗誦の強要。愚だ。それにつけても今の気持は次第々々にコスモポリタン的になつて来てゐる。日本の今までの強制的な枠にはまり得ないものが此処に出てゐる。自らの道をもつとしつかりと立て。それに進む毅然たる勇気と努力。

 四月二十六日
 ―子より便りあり。自分の非力弱志心痛し。―子も毎日一歩づつでも進んでゐる。自分は今全く実力もない。だが飽くまで明るく素直でありたい。そして『緑の手帳』(註、常事肌身離さず持つてゐた小さな手帳)に記した如く感謝し、人を愛しその愛の実践に孜々たる努力。自分は今いたらぬ。然しこの道があることを信ずる。勝勢の故に死するは安らかならん。然し敗勢の烈火を浴びて斃るもなほ自己の信ずるところに、自己の夢に最善の努力を。

 四月三十日
 一切が不満。押へんとして抑へ得ぬ不満に黙々として帰る。青空なり、春空なり。午前中朝つぱらから大挙空襲。外に出、芝に腰を下しつつ。
   爆音に耳そばだてるうつろさかなし。
   たゞ春をいたみ遠き人想ふ。
   なすすべもなく春は過ぎ行く。
   空に光あふれ風なごむ。
   この春や早や青葉さかりにして。
 充さんとして充し得ぬ不満、自己の内的外的不満、人への、現在一切への不満、不愉快、それも日本の悲境と前途の無明。そしてそれがための別れ。

 五月四日
 何度書いても書き足らぬ。此の人生の厳粛悲惨苛酷たることを。そしてそれに対して自分はもつと強く正しく大きくなればと。正直に自分の日本に対する気持。日本は好きだ、愛する。だが日本の国体云々以上に日本人は大きく人間の運命を考へなければならないのではなからうか。美しくも清き富士、郷土愛、民族愛、が祖国愛たることならば、人後に落ちない。だがたゞ過去の歴史、国体のために戦ふのはどうしても割り切れぬ。人間の悲惨事は天皇では救へぬ。日本人一人々々がもつと立派にならなくては。人間がもつと広く、大きな心になること、もつと人の汗と涙を知ることだ。さもなくば人間の運命は永遠に悲惨であらう。本当に人間の悲惨事を救ふべく現在の道を正しく掴み最善を尽くせ。

 五月六日
 灰燼の中から新たな日本を創り出すのだ。国体を云々する輩のため日本は小さな跼蹐たる世界に齷齪してゐた。新緑の萌え出るやうな希望と明るさ、生命の躍動した日本を日本の今までの国がわれ/\の希望であつたことは否定出来ぬ。又万世一系の皇統を云々する心微塵もない。だがその皇統、国体の故に、神勅あるが故に現実を無視し、人間性を蹂躙し、社会の趨くべき開展を阻止せんとした軍部、固陋なる愛国主義者。彼等が大御稜威をさまたげ日本を左右して来たのが最近の有様。宮様と平民、自分はもうかかる封建的な、人間性を無視したことを抹殺したい。本当に感謝し、隣人を愛し、肉親とむつび、皆が助け合ひたい。

 五月十六日
 朝。一日読書に過さんとす。昨日は力仕事、今日は又かく過す。たゞ禁じ得ない生活の喜びの湧くあり。暇を見ては『夜明け前』第二部を読み行く。現在の国の勢がすぐ思ひ較べられる。そして静かな希望も湧いて来る。本当に自分の信念をもつと/\しつかりとしなければと思ふ。そして大きな視野を飽くまで明るい自己への信念を以つて努力精進したい。
 ―子への思慕に苦しむ。―子は信ぜられる女だ。而も久しく便りない為さう信じてゐても早く便りを待つや切なり。父母弟妹への思、道を歩きつつも胸痛むばかりなり。

 五月十七日
 宇野さんの荷物を浄名院より海島寺に運ぶ。辰野さん、山田君、山中君等と。空飽くまで清く高し。のぼり立つ入道雲も美しく山肌がはつきりと見える。
 皆苦しんでゐる。『ドイツ戦歿学生の手紙』を再読し、感銘非常なり。理想と現実とのギヤツプ。苦しみつつ若き生命を散らし行く人々。白分とてあと半歳の生命。どうしたつて救ひはない、自分の心に少しでも安らかな救ひがあれば自分で自分をごまかしてゐるのだ。苦しみつゝも最善をつくしてゆきたい。
 『夜明け前』『雲と草原』読み行く。静かな夜。一(註、東大電気科学生、共に勤務してゐた)の出してくれたあられを食べたり。外に出る。下弦の月の光、墓場にも淡し。雲一つなき星空。『あゝ若人よ、大空よ、生命よ、生命この一つ』と寮歌吟じつつ己が月影を踏む。あと半歳、自分は斯く湧き出る心情を書いて飽きないであらう。素直に自分の気持を書いてゆきたい。又ありのまゝ書ける気持に入りたい。自然を讃へ、生命をよろこび、苦しみに耐へつつ。この日記になにか記し残すべき一日一日でありたい。戦火にこの日記も灰に帰すであらう。だが書きに書く。



     *     *



鈴木実
 大正十三年十月十九日生
 第八高校を経て昭和十九年十月法学部に入学、昭和十九年十月入隊
 昭和二十年八月六日午前八時原子爆弾のため負傷、昭和二十年八月二十五日午後九時三十分大野陸軍病院で死亡


   遺言状
 父母上様、親不孝者ノ自分デシタガドウカ御許シ下サイ。之カラ自分ハ親ニ孝養ヲ尽クサウト思ツテヰマシタガ遂ニ斃レマシタ。自分ハ貧シイ中ヨリ第八高等学校、東京帝大へ進マセテ頂キ常ニ感謝シテ参リマシタ。自分ハ学生時代カラ色々父母上様ニ御心配ヲカケマシテ之カラ孝行スル時代ニ入ラントスル時斃レルノガ残念デス。姉上様ヤ妹達ハオ嫁入リモ思ヒ止リ国民学校児童ノ教育ニ当リ傍ラ良ク父母上様ノ手伝ヒヲシテ下サイマシタ。自分ハ何トモ御礼ノ申シ様モアリマセン。父母上様ハ晨ニ月ヲ仰ギ夕ベニ星ヲ戴キコツ/\ト御働キニナツテ自分ヲ大学ヘ迄進マセ下サレ本当ニ父母上様ニ苦労バカリカケテ何ノ御恩返シモ出来ズニ死ンデ往ク自分ハ残念デ御詫ビノ申様ガアリマセン。然シ父母上様、自分ノ身ハ死シテモ魂ハ必ズ仏前ニテ父母上様ヤ姉上様妹達ヲ常ニ見護ツテヰマス。魂トナツテ父母上様ニ孝養ヲ尽シ度イト思ツテヰマス。ドウカ父母上様、姉上様、妹達ヨ泣カナイデ下サイ。魂トナリテ常ニ皆卜一諸ニ働キ皆卜一諸ニ食事ヲシ皆卜共ニ笑ヒ皆卜悲シミヲ共ニシマス。之カラ秋ニ入リ百虫ノ声ヲ聞クニツケ、冬トモナリテ落葉ノ淋シイ林ヲ見ルニツケテモ決シテ泣カナイデ下サイ。ソシテ如何ナル事態ニ遭遇スルモ身体ニ充分注意シテ断乎トシテ事ニ当リ何時マデモ何時マデモ達者デオ暮シ下サイ。父母上様、去ル六日ノ原子爆弾ハ非常ニ威力ノアルモノデシタ。自分ハ其ノ為ニ顔面・背中・左腕ヲ火傷致シマシタ。然シ軍医殿ヲ始メ看護婦サン、友人達ノ心ヨリナル手厚イ看護ノ中ニ最後ヲ遂ゲル自分ハ此ノ上モナイ幸福デアリマス。
                    鈴木実
 昭和二十年八月二十五日二十一時
父母上様



     *     *



稲垣光夫
 大正十三年三月十二日生
 東京高校を経て昭和十八年十月法学部に入学
 昭和十九年十月海軍経理学校に入学
 昭和二十二年六月二十二日沼津国立病院で死亡


(句帖より)
   死去
長き夜になり初む星の一つ哉
秋の蚊に食はるゝ事もなくなりぬ
   帰省
復員子亡母にも告げざる心あり
亡母の碑よ児は迷ひあり告げしのみ
暁けの冷え夢や母恋ひ果敢なくに
   秋夜
一つ星白き都に妹住めり
秋の夜や碗を洗へば白くなる
栗食めばまして偲ばゆ故郷の
ガフキーの]かなし若葉闇
   二十有三寂秋
ひつかぶる夜寒の床の沮かな

   日記
 一月十三日(月)晴
 夜十時
 西島さんは思ふ様に口がきけない程になつてしまつた。でも意識は相当はつきりしてゐる。もうやがて死んでしまはなければならない人、死の影はあの人をとらへてしまつてゐる。
 死の影も幸福なものでなければならない。
 そして人々はお互ひに幸福でありあはねばならないのに、あゝそれは何と掴へ難いものであらう。
 みんな誰でも死んで行つた。
 こんな事しか私は考へない。私が皮相であるためだらうか。

 夜十二時
 依田君がフラスコにボール水をあたゝめて湯婆にして持つて来てくれた。先達赤いカメレオン水を暖めて来てくれた時、それをヒーターの上にのせたらヒーターの赤いのが更にカメレオンの赤いのに映えてすばらしく奇麗だつた。
 素適! 素適!
と依田君、広瀬君大騒ぎだつた。
 今日のはキレイナ金色のボール水だ。
 電燈の光りに当てると光が集つたところに鎌形の丁度 Komet の尾の様な光を画く。
 人情、人間的な実ではないが之は又極めて美しい。手を当てゝみると、何か科学的な美しさを呈する。飽きた頃眺めて、又ふところへしまつてお腹をあたゝめ乍ら勉強する。
 その上美味しい真白なふくよかな大福を二つもいたゞいた。

 五月十二日(月) 曇後次第に晴
 (前略)
本日検痰・ガフキー終に出づ、シヨツク大。二年の療養生活に漸く治癒の曙光ありたるとき皮肉なる哉。初めてガフキー出づとは。
 不意識の中、或ひは病染の媒を努めたるやも知れずと思はゞ、皆に対つて申訳之無、自己の感情、悲愴の感なきにしもあらずと言ひ条、自己の悲を忘却、たゞ身を山の奥に人の気配より遠ざけんとするなり。

 五月十三日(火) 晴
 (前略)
夕方とうとう私は寂しさに堪へずなつかしい河へ行つた。
クローバの花蓆に寝てる子供から花の頸飾りをもらつてくる。
水に活けて居いて広瀬君にあげようかなどと思ふ。
帰つてくると机の上に赤い美しい大きなイチゴが置いてあつた。誰れがくれたのかしら。
この美しいイチゴはずい分私を慰めてくれる。
私も充分弱い心になつて居るのだ。
なつかしい、愛する人の心に、
私の心もほどけて淋しがる。

私のほしいもの、
それは美しい人でもない。
あり余る程の財貨でもない。
人に捧げられる健康の体の私の愛情と、
そして何時までもどんな時でも変らない
人の愛情。

 五月十七日(土) 晴次第に曇
 今朝は主任が来て私の右肺尖に空洞があると言つて居た。少くとも之は重大た事だ。そのひどいシヨツクも(二年の療養生活は丸で無駄であり、むしろマイナスとなる)私は割合に平静にうけとめた。昨夜は寝られぬまゝに深更まで考へてしまつたのであるが、それも何時しか、寝入る頃に、私は一生娶らず、自分の苦痛は考へず、もつと弱い人々の為めに生きていきたいと思つてゐた。その心が案外今日のシヨツクを、もちこたへさせたのであらう。私の希みは大学への復学にあつたのだが、それも出来なくなつてしまふ。朝のしばらくを私は白い枕に頬を押しあて悲しがつてゐた。

 五月十八日(日) 雨
 夜半からひどい大降り、今日は一日止みそうもない。
 それからそれへと彼女の事を想ふ。
 我が恋は悲しき哉。
 私ははじめて大きな悲しい溜息と涙がこぼれた。

     さびしさに雨だれで消す煙草の火

 五月二十六日(月) 曇
 もし空洞があつたら成丈手術してもらふつもりだ。そのような傾向に心が動いて来た。
 彼女への私の心も終ひには言はずに私は再びのロマンの世界へ帰つて来た。

 六月十九日
 明日手術、生への執着。洋々たる仕事。
 余は活動を得べく、病を克服せん。
 混沌の中より秩序とリズム。
 その昔入学試験への楽しさ、自信あれば。
 エネルギツシユ。肯定。創造。来れ苦難。







     失われなかつた人間性

 私達は生き残つた。あの激しい戦争の中をとにもかくにも生き残つた。
 どうして生き残つたか。運命による者もある。戦争で私達は運命の力の恐しさをひしひしと身に感じた。ちよつとしたはずみで命の助かつた者もある。たとえば、身辺に破裂した爆弾の破片を不思議にも身に受けず、かえつて遠くにいた戦友を失つたこともある。これが運命でなかつたろうか。運命だ。これが運命だ。私達にほほえんだこうした運命が、今ここに遺稿を見る多くの学友達には冷たいあらしとなつて襲いかかつたのだ。それまで、歴史は必然のはぐるまで一分一厘の狂いもなく動いて行くものだと信じ込んでいた私達は、或る個人についてだけは運命の力のどんなに恐しいかを思い知らされた。
 また、私達の中には自分から求めて生き残つた者もある。すなわち、理科系統で当然兵隊に行かないですむ者は別として、或る人は高等学校文科から医大に行つたり、その他の手段をとつて軍隊にはいるのをのばそうとした。その人達にもいい分はある。我々は軍隊にはいるよりも学問をした方が人類のためになるのだ、と。たしかにそうだつた。けれども、その理くつの根本に横たわる人間の生命保存本能をみのがすわけには行かない。その事の善悪をここで論ずるのはやめよう。たゞ私達は、そういう人達と同じ事を心のどこかで願いながらも、それをふり払つて黙つて行つた人達の事を思い出す。国のため、天皇のためという事が彼等の心に重くかぶさつていた。祖国を愛し家を愛するゆえに、大部分の者は喜んで行つた。『皇国』の不滅と不敗とを信じて敢然として敵艦船に単機をかつて飛び込みさえした。
 さらに深刻な例として、特攻隊志願を航空隊でかたく拒んで生き残つた者もある。上官からは乱臣賊子とののしられ、同僚にはひきようものとあざけられ、しかも彼は断乎として志願しなかつた。…
 こうして私達は生き残つた。
 生き残つた私達は硝煙の消えた今、うす暗かつたあのころを考えて見る。この本に盛られたとうりの感情をあの時代の私達は持つていた。私達も皆すべてが同じ様にあの戦争の中で戦争を考え、死を考えていたのではない。或る者ははつきりとあの戦争の本質をつかみ、それに反抗していた。けれど、大多数の人達はあの戦争を美しいスロオガンどうりに信じ、勝つために若い身体を火と燃やしていた。未曾有の思想弾圧の下に幼いころから教育されて来た私達にとつて、それは一面仕方のない事でもあつた。帝国主義的侵略戦争というその本質が白日の下にさらされた今となつて見ると、あのころの私達の考えは幼稚なもので、また、表現は舌たらずだつたかも知れない。或るものは近代以前的とさえ評し去られるだらう。けれども次の事だけははつきりと知つてもらいたい。すなわち、私達はいつもまじめに考えていた事を。そして、どんなにひどい戦闘の中でも人間性を失わなかつたという事を。私達は国籍を違えて生まれたというだけの理由で敵味方となつて殺し合わなければならなかつた敵国人を深い愛の目でさえながめていた。はつきりとはわからないながらも、そうした事をしなければならない様にさせた、私達の上にかぶさつている黒雲の様な或るものを恨んでいた。
 私達の或る者は思想警察の重圧の下での読書にあき、思索にたえられなくなり、行動によつて何等かの収獲を得ようというぼんやりした期待をもつて軍隊にはいつた。しかし軍隊はそんな甘い所ではなかつた。そこにはあらゆる汚辱と腐敗とが満ちていた。そこでは私達のすべての自由は認められなかつた。私達の人間性も省られなかつた。けれども、正義心に富み、良心に満ちている若い人達の心に自然に人間性が生まれ、保たれないわけはない。こうしてどんな環境にあつても、どんな時代にあつても人間の奥底に脈々といぶきをつずけている人間性の聖火は私達の胸から消えはしなかつた。その多くの例を読者はこの本の中に見るだろう。そして戦死した学生達の(結果から見たら)はかなかつた人間性に涙するだろうと信ずる。私達はもう一度そこに立ち帰つて、それを再建の精神的基盤にしなければならないのではなかろうか。
 終戦の時何よりも強く感じたのは私達が生き残つたという事だつた。その感動はすぐ敗戦の祖国の上に及んだ。その再建、いやもつといえば新日本の創造が生き残つた私達の大きなつとめだという事を全身で自覚した。或る者は終戦前からひそかにこの日のある事を予想していた。
 だからこそ彼は特攻隊にもあえて加わらなかつたのだ。ただ命が惜しくて、空しく飛び出して行く同輩を送つていたのではない。血気にはやる人達を冷然と軽べつの念を持つて見ていたのでもない。彼には自信があつた。しかし彼も人間だ。爆薬を胸に抱えて出て行く人を石の心でみつめていたのではない。泣いた。悩んだ。苦しんだ。しかも彼は志願しなかつた。彼のまことがそれを許さなかつた。
 こうして私達は生き残つた。しかし、この文集の中には特攻隊員として出撃する直前に書いた遺書もいくつか収められている。これらを読み、また幾多の戦死した若い人達の顔を回想すると、私達は結局生き残つた者も死んだ者も底につらなるものは一つだつたという気がせざるを得ない。上にかぶさつた黒い雲、私達の運命はあまりにも暗かつた。その下で私達は一人で考え、一人で悩まなければならなかつた。語り合う事は許されなかつた。そのゆえに私達は各自孤独のままで進み或は退いた。あゝ、私達は、見送る私達を黙つて見たあの人達の目を思い出す。澄み切つた目、寂しそうな目、その目の奥に失われなかつた人間性のわびしげな、あわいなやみの光を認めるのは私達だけだろうか。あの人達の遺書の行間に私達と共通した美しい尊い何物かを見いだすのは私達編集者の主観だけだろうか。
 そう考えて来ると死んで行つた人達が生き残つた私達に何を期待していたかわかつて来る。生き残つた、と感じた次の瞬間に私達はその事を知つていた。またそれゆえの生き残りを計つた自信だつた。もちろん私達の全部がはつきりとした自信を持つて生き残つたのではない。或る人は死にそこなつたといつて敗戦をくやしがつたし、或る人はぼんやりとしているうちに運命によつて生き残つた。しかしその人達(この方が多かつたかも知れない)もやがては生き残つたという強い感動に打たれたに違いない。そして何かをしようという大きな意慾を燃え上らせたに違いない。けれども私達人間は安きにつきやすい。いつかこの感動も意慾も消えうせて、ともすれば戦後のただれた空気にとけ込んでしまおうとする私達だ。この私達にここでもう一度あの生き残つたという感情を純粋に起させるのがこの文集の一つのつとめだと思う。私達はあまりに生き残つた事を忘れすぎる。
 私達はこの本に似たものとして『ドイツ戦歿学生の手紙』を持つている。この本の多くの手記がこれについてつずられ一様に或る感激をもつて読み終つた事をしるしている。それはたしかに感激に値する本だ。しかし私達はそれよりもこの本の方を推したいと思う。ことに編集態度について私達はヴイツトコツプに数等まさると自負している。彼がドイツ至上主義を吹き込む事を主眼としたのに対して私達は人間性を強く出す事を目的とした。私達の編集した手記にはなるほど戦闘の激烈な情景はほとんどない。これは日本軍の比類ない厳重な検閲制度によるものと考えられる。この点、『ドイツ戦歿学生の手紙』の方ははるかにいきいきとしているだろう。けれども、私達の指摘したいのはドイツの思想の貧困さだ。あのドイツの思想家達のはい出にもかかわらず若い人達のこの貧しさ。それこそ二十年をまたずにナチスの興隆を許した理由ではなかろうか。私達はこの本に収められている諸君が決して思想に富んでいると主張するのではない。ただ私達のいいたいのは、発表する自由こそ持たなかつたけれども、考える自由をこれほどまでに強く持つていたという事だ。私達の学友は少くともこの考える自由だけは持つていた。彼等と同じ環境に多少ともすごして来た私達には、これらの文の中から涙の出るほど切実な、自由な考えから生み出されたものを見る事が出来る。いかに弾圧されようともこの自由さえあればいつか必ず真理が芽ばえる。彼等は不幸にしてこの真理をみのらす事が出来なかつたけれども、私達がそれと同じ『考える自由』の上に立つて今新しい出発をはじめたのだ。この自由のある所、真理はいつも不死鳥の様に灰の中から飛び立つだろう。私達はこの再建の基盤を早くも戦時のこれらの手記に見いだすのだ。これらの人々を持つた日本はまだ決して滅びないと感ずる。
 戦死した学友達が苦しんだ暗い環境は今すつかり払い去られているけれども、また今この人達の知らなかつた苦しさが私達を襲つている。敗戦後の現実がこれだ。インフレ、失業、ヤミ、あらゆる価値の転倒、これらによる社会不安、更にこうした戦後社会の必然の産物としてのペシミズム、デカダニズム。私達にとつて世相はまことに苦難に満ちている。しかし私達はこれを乗り切らなければならない。乗り切るべく生き残つたのだ。新日本の創造こそ戦歿した学友へのただ一つのとむらいとなるのだ。私達の編集したこの手記はこうした意味の危機突破の指標とはならないだろうか。とまれ――
 私達は生き残つた。あの激しい戦争の中をとにもかくにも生き残つた。私達はこの『生き残つた』という真の意味を決して忘れてはならない。



   『戦歿学生の手記』に寄せて
                   三井為友
 平和がやつて来て、人々はだんだん落着きを取り戻している。嵐のような数ケ年のことは、何か夢のようですらある。今も、生活はあの頃に劣らず困難であるけれども、尠く共あの頃のような右往左往することなく、一日一日が、進歩と建設の日々であることは、明かるく楽しい思いである。
 心静かな日がやつてきても、然しまだ本当に静かには成りきれないのであろうか。あの嵐の中で、戦線に内地に空しく散つてしまつた友人や知己の誰彼が、いつも脳裏に去来し乍ら、その遺族をとむらうこともできず、生き残つた友人らで、追憶の集いを持つこともできずに居る。生活の為の忙しさの中で、これらのことは、忘れ去つてしまうのであろうか。情ないことであると思う。
 こんな心境にいる時、『戦歿学生の手記』が出版されることは、私にとつても心の重荷の一つがおりた思いで、本当に嬉しい。多数遺族の方々にとつても、また数千数万の友人らにとつても、同様であると思う。逝つてしまつた人々は帰らないけれど、此の紙上にこれらの人々と語り合うことは、何と楽しいことであろう。言葉や用語の癖にすら、たまらない懐しさをかんずる。まして、書かれたまゝの手蹟を読む者には、手を握り合う思いである。
 怒濤のようなあの数ケ年を、しずかに振りかえつて見ようとしないことは、焼け跡が、崩れたまゝ見捨てられているのに似ている。あまり片附けもせずに、応急のバラツクを建てて、それが『ついの住家』のように思いこんで平気でいる人も居る。見捨てられているところには雑草が生えて、一見、天然の緑地のようにすら思われるので、もうこれでよいのだと思つている人も居るようだ。だが、こんなことで本当の建設があるだろうか。
 私たちは今こそ、あの焼跡のしつとりと重たい土を手にとりあげて、噛みしめてみる必要があると思う。挟雑物の多い土の味は、決して快いものではない。この土にからまる追憶は、決して楽しいものではないからである。その不快さは、偽られた感激や裏切られた怒りから来ているかもしれない。然し結局自分自身が内含する挟雑物への嘔吐感ではないであろうか。この挟雑物を平気で呑みこんできた者が生き残つて、ひたすら純粋になろうとして、石にひしがれ乍らも良心の叫びを叫びつづけた人たちは、春秋むなしく死んでいつてしまつた。『手記』を読み乍ら、私はそんな風にも思う。
 だから此の手記をよむことは、純粋の鏡を見せられるようで、本当につらい。自分の顔が、そこにどんなに醜く映つていることか。いま人々が追憶の集いや反省の会を持とうとしないことは、生活の忙しさからばかりではない。この醜い自分の姿を見るにたえないのではないかと思う。過去を過去として『密室』の中に閉じこんで、ひたすら現在に興じ、明日に関心を持つている姿。あるいは自分はもともとの民主主義者で、嵐の中でも純粋を守りつづけてきた者であるというように強弁して、時を得顔に振舞つている顔。その様な姿や顔が、この手記の鏡の前にどんな風に映るであろうか。この手記は、純粋であつた日本人たちに対する命をかけての遺言であり、偽り多い人々にたいする懺悔と祈りの請書である。
 焼け跡の土をかみしめてみることは、過去の密室の扉をひらくことであり、不純であつた自己を懺悔することであろう。過去を披瀝し、剰すところない懺悔なくして、どうして明かるい明日があろう。われわれにとつて、本当にまだ心の底から明かるい未来を仰ぐことのできないのは、われわれ自身の自己精算が足らないからであると思う。自らの暗い過去の影が、未来の側に投影されているのだ。『侵略戦争』を支持した者は、ひとり残らず懺悔の上にたつ再出発が必要ではないだろうか。『口先だけで支持したのだ』という風な自己弁解が許されてはならない。『強いられ、目かくしされていたのだ』という風な逃避も許されない。自己の弱さや妥協性を、命を捨てた人々の前に謝罪すべきではないであろうか。
     ×   ×
 大学で出陣する学生を送つてから、数ケ月ならずして、私も亦彼等のあとを追うて応召した。令状に接したときの気持は、不安や動揺や未練やいろんなものが復合していたが、『喜こび』がその大きな部分を占めていた事はたしかである。祖国と運命を共にして、祖国の為に死なうということは、自らの内心の命令であつたにも拘らず、容易にこの祖国と一体に成り得ない割りきれない悩みに常に陥つていたからだ。これで割り切れる、すべてがすつきりする、という感懐が私の全身を洗つてくれるように思つた。
 だが、此の『喜こび』は長く続かなかつた。入隊して、夢はただちに破られてしまつたのだ。軍紀厳正を信じ、神のように聖なるものと思いこんでいた皇軍の現実の姿は、一般社会人には想像することもできないし腐敗しきつた社会であつた。満州の兵舎で、われわれ同時応召兵は、夕暮上官の靴の泥を落し乍ら、われながらみじめの底をついた生活に、同僚の顔をまともに見ることすら出来ないのであつた。靴みがき場が唯一の不平の吐き場であつたので、お互にささやき合つたものだ。
『まるで屠殺場へひかれる牛そのまゝではないか。』
『牛よりいけないよ。内地で刑務所へでも入つていた方が、よつぽどましだつたね。』
『この位醜悪な社会が、世界のどこにあるだろうか。』
『俺は内地へかえつたら、この誤られた皇軍の姿を徹底的に暴露してやる。』
そして話は日に日に過激になり戦闘的になつていつた。
『俺は内地では天皇を有難いものと思つていたよ。だが、こゝへ来てみて、天皇くらい無慈悲な、残虐な、利己主義なものはないと思うよ。』
『それは天皇の罪ぢやないさ。天皇の名を借りている軍隊の上官がわるいんだよ。』
『然し、天皇を笠にきるとしても、あの絶対専制権がいけないよ。蹴殺そうが、殴り殺そうが何ら罰せられないんだから。』
『殴るのや蹴るのなんかまだいゝさ。俺はあの鶯の谷渡りなんていう侮辱には堪えられないよ。死んだ方がいゝとよつぽど思うね。』
『死ぬなんて奴があるものか。死んだ気持になつて戦うんだよ。この腐り切つた社会組織をぶちこわすのだ。』
『一人二人であばれたつてどうなるものか。結局軍法会議で死刑になるか、早急に戦線に引つぱつてゆかれて、たまよけの土嚢代りになるかがおちだよ。』
『あゝ、俺は死にたくない。人間に生れたんだから人間らしく生きたいよ。馬は兵器だ、兵隊は消耗品だ、などと、馬や豚以下に扱われて生きることは、とても堪えられん。』
『俺達は生れた時期が悪かつたと諦めるさ。子供たちにまで此の悲惨さを味わせることはとても堪らないね。』
『俺はしみじみ考えたんだが、幸い生きて内地へかえつたら、どんな犠牲を払つても俺は断じて妻子と一緒にアメリカかイギリスに帰化するよ。親類もいらない、何もいらない。人間らしく生きられる国へいつて暮すよ。』
『帰化したつて日本はよくならんぢやないか。』
『日本なんかどうでもいゝ。糞くらえだ。日本人がみんな死にたえたら、世界が平和になるんなら、みんな死んだ方がいゝんだ。』
『兎も角、俺は軍隊へ入つてはじめてわかつたが、よその国の軍隊の管理はどうでもいゝ、此の我国の軍隊の組織で、統制で、若しも戦争に勝つんだつたら、俺は世界に正義や神のある事は信じないね。断じて信じないね。』
 こんな風に元気に話し合える間は、まだ内地とのつながりも切れず、われわれの中にも所謂内地の気分――地方気分――が残つていたのだ。船に乗せられて十数日を費して内地に渡り、それから戦艦二隻に分乗して南方の戦線に向うころには、みんな呆け切つてしまつた。ぼんやりと黒潮を見つめている男があつた。
『何を考えているんだね。』
ときくと、
『俺は罪なことをしたと思つて後悔している。俺は生徒たちを少年航空兵に志願するようにと一生懸命すゝめて沢山志願させてしまつたんだ。どんなに怨んでるだろう、この俺を。俺はくだらない教師だつたよ。』
と云つて考えこんでしまつた。私はその時私自身をも反省しないわけにはゆかなかつた。私も亦学徒出陣の一翼をにない、あの大学の銀杏並木の黄葉の中に、壮烈な進軍ラツパと共に発つてゆく学生たちを励まし送つたのだ。学生隊列の銃剣の輝きと一緒に頬に光る二すじのものを忘れることができない。私も亦、むしように涙が出たが、それは感激の涙だと思つていた。学生たちを羨みさえして、割り切れる生活の中に飛びこんでゆけるのを讃えていたのだ。だがあの隊列は刑場へゆく者のようであり、ラツパさえ悲愴な葬送曲に響いた。散るを待つばかりの銀杏の黄葉に、鉛色の晩秋に陽光が弱くはねかえつていたが――。あの学徒たちはどうなつたろうか。
 私はこの戦艦の上で、出ていつた学生にめぐり逢つた。予備士官学校を終えて、見習士官になつて南方の戦線へ渡る便乗者であつたが、彼等も亦一様に呆けていた。無表情の憂鬱がその顔にただよつていた。
 ――僕達は不幸な時に生れてしまつた。
と、ただそれだけの言葉が、私の脳裏に焼きつけられている。
 学生が出陣したあとの学園には、寥々として外地学生や留学生が残された。彼等も亦内地学生に劣らず深刻な悩みを持つていた者達である。この外地学生に、まもなく自由志願兵制度が布かれた。彼等に志願兵応募を勧奨する様にという通達が文部省から発せられた。その勧奨がどの程度のものであつたかは、『志願に応じないものは諭旨退学せしめるやうに』と云う示達によつても知らされる。大学は大学令にその様な規程のないことをたてにとつて、この示達に応じなかつた。然し、私の役目はやはり出来るだけ志願を勧奨せねばならないのであつた。彼等は容易に出頭に応じなかつた。下宿を訪ねてみれば、どこへ行つたか幾日も帰らないというのが多かつた。出頭に応じて来るものは正直者の学生であつた。私はその中の一人の朝鮮人学生を忘れ得ない。
『志願に応じ得ない気持、君の抱いている気持を率直に話してくれないか。何でもきこう。秘密も守ろう。』
 そう云つた私の言葉を信じて、ぼつぼつと語りはじめた学生の言葉は、私の胸を針のように刺した。学生は伝えられた関東大震災の状況を語り、朝鮮統治の内情を語り、
『僕達は独立したいのだ。自由意志で生きたいのだ。此の戦争は日本が勝つても負けても、朝鮮独立の千載一遇の好機である。僕は日本の戦線に酷使されたくない。犬死したくない。民族独立の為の戦争に死にたいのだ。僕は朝鮮を自由にしたい。強制でなく自由意志で生きられる国にしたい。』
 さめざめと涙を流して云う朝鮮人学生の言葉に、私は答えるすべを知らなかつた。私の中に精算しきれずにいたヒユーマニズムが海綿のように水を吸つて、胸を一杯にしてしまつたのだ。私は何とかして彼を説得する言葉はないものかと思い惑い乍ら、遂に何も言わずに別れた。
『割り切れないけれど運命と思つて志願する。』そう云つた学生もあつた。出陣する前、配給の酒をたずさえて私を訪ねてきた者もあつた。肩を叩いて送りだし乍ら、『東洋民族の為に頑張つてくれ給え。僕もきつとあとからゆく。』と云つたが、何とその言葉の空虚な事であろう。私も亦彼等をして、今の私と同じような悲惨な運命を選ばしめた責任を感じなくていゝだろうか。自由の国に生きたい。民族を独立させたい。と彼は云つたが、私は一体自由意志で動いているのか。私の民族は独立民族なのか。南十字星の下で、考えれば頭が重苦しくなるばかりであつた。
 南方の戦線の有様は、語るにしのびない。此の世の地獄とは、まさにあの姿なのであろう。殊にわれわれの戦友の殆どを死なしめた二百里のジヤングル行軍。その行軍でも下士官や将校は、兵の犠牲に於て生き残つて行軍を続けていつた。途にたおれて腐敗し、ふくれ上り、虻ととかげの餌食となつていた兵の数はかぞえきれない。兵站へ着けば前進できなくなつた何百の兵が、枯木のように痩せ細り、発狂した眼をぎよろつかせて泣きわめいている姿。彼等は一人として目的地へ辿り着けるものではなかつた。
 連合軍の全面的上陸を迎えてジヤングルの中に退却して対峙した終戦前二ケ月の苦闘。飢餓と豪雨とマラリヤと、そしてジヤングルを明るくしてしまう集中射撃とで、毎日毎日数十の兵が死んでいつた。苦しみにたえきれずに手榴弾を抱いて自爆する兵、上官に殴り殺される兵。川に飛び込む兵。こうしてわれわれは、此の割合でいけば、あと幾日で全滅だと指折りかぞえて待つ外なかつたのだ。じめじめした壕の中で、いつ吹き飛ぶか知れない手製の木の葉の小舎の中で、『若しも生きて内地へかえれる事があつたらまぐろのすしをたべ乍ら飲みたいね。』などと話し乍ら眠つた戦友が、眼ざめてみればもう呼んでも答えない人であることが幾度あつたか。
 この様な中にあつて、呆け切つた耳にきく終戦の知らせは、殆ど何の衝動も与えなかつた。だが一時間二時間、そして一日二日と時がたつにつれて、あたたかい泉が心の中に湧いて来るように、喜びがわれわれにあふれてきた。それは蘇生の喜こびだ。終戦が無条件降伏であるという事を知つても、この喜こびは打ち消し得なかつた。われわれは生きてかえれないかもしれない。だが、民族は、自由は、よみがえるであろう。非人道は打ち亡ぼされて、人道の明かるい世界が出現するだろう。やもりのように痩せ衰えた兵隊たちに生きる力が一日一日と注がれていつた。
     ×   ×
 終戦ときいて、内地の人々も、他の戦線の人々も切歯やく腕した者が多いと思う。あの当時の国民感情として無理からぬ事である。国民の眼は蔽われ、耳はあざむかれ、批判の力は麻痺させられていたのだ。時がたつに従つて、此の虚偽のヴエールが除き去られたなら、理性ある人々には終戦の喜びが、やはり泉のように湧き出てくるに相違ない。そうした心の底からの喜こびを共感できる者のみが、手を取りあつて、新しい日本の建設に邁進する事が出来るのだと思う。戦地から帰つてきて、内地の人たちと感覚のピントが合わない感じのするのは、この喜こびと悲しみとの感情の齟齬であるように思われる。だが時が経つに従つて、此のギヤツプは埋められる。われわれを支配していたものが、民間の政治・経済・教育の機構ですら、あの腐敗しきつた軍隊の圧制組織にならつていたのだ。軍隊のように端的に世紀末的体制を示してくれるところに直面しなかつた者でも、復活した理性の眼は、この封建的な退歩の組織を見てとることであろう。そして日本の敗戦が、ひとり日本の幸福であつたばかりでなく、人類文化の為に幸したことを知るであろう。
 南方の戦線に散つた戦友たちが、地下に敗戦の報をきいたなら、『やつぱり世界には正義もあり神もあつた』と、かん爾としてほほえむであろうと思うと、小我を捨てゝ嬉しいことである。偶然に生きて内地の土を踏んだ私はこれら多くの戦友たちの遺志を継いで、命は南方に捨てゝきたものと思つて、日本再建のために尽くしたいと思つている。まだまだ日本のあらゆる階層の中に、そして自分の中にすらも、歴史の進歩へのブレーキが、封建的な残滓が沢山に残つている。私は南方みやげのひどいマラリヤに悩まされ、これら封建的なものとの日々の戦いに疲れきつて、戦いを抛棄しようか、妥協しようかと弱気になつてしまうことがある。そのときは屹度、南方の多くの戦友の霊が、『戦つてくれ、戦つてくれ』と呼びかける。『そうだ、身代りに生きてきたのだつた』と思う。
 『戦歿学生の手記』を読んで、こゝにもまた数十数百の、否数万の、死霊の叫びがあるのをきく。彼等の中には、蔽われた批判力のために、戦いの実体を掴み得ないで悩み抜いた者も居る。諦観にしがみつこうとした者もいる。けれど一様に彼等を支配しているものは、安易に割り切れる論理でなくて、割りきり得ない悩みの論理だ。それはすぐれた直観が激流に抗して進歩の方向へ進もうとする為の悩みである。矛盾を見きわめようとする矛盾の論理である。これを受け継ぐ者のみが明日の建設者となるであろう。
 この『手記』は、われわれを映す鏡であるといつたが、われわれがそこにたえざる自己更新をしていくとき、それは又われわれを呼ぶ炬火である。そこに脈々として動いているものは、簡単に割りきれる論理――死の論理ではなくして、割りきれない論理、迷いの論理、物の実体を見究めようとする努力の論理――即ち生の論理であるからである。この意味でも彼等は決して死んでは居ないと思う。(四七・一一・八)




     あとがき

 精神的窒息のあの悪夢のような時代が終りを告げて一年、硝煙うすらぎ戦塵おさまつて学園にもようやく清新自由の気運がみなぎるようになつた時、この悲惨な侵略戦争のために尊い生命を失つた学生たちの手記書簡をあつめて、どのような悪政、どのような圧迫の下にあつても、尊い、美しい人間性を失うことのなかつた若い純真な魂を広く世に紹介してはどうかという声がきかれるようになつた。東大の編集委員会ではこの事をとりあげて戦歿学生手記編集委員会を設け、編集をはじめたのは昨年の秋のことであつた。われわれ編集委員は、戦死者の名前を調べてこれに手紙を出し、そのほか掲示場新聞ラジオなどの機関を利用してその趣意の宣伝につとめた結果、百十名の方々の手記や書簡をその遺族や友人の方々から送つていたゞくことができた。
 本書には、これらの方々のうち、その五分の二、三十九名分をのせた。われわれの、送つて来られた一篇一篇に対する敬愛の念は、どの篇にも強い執着を起させて取捨選択をほとんど不可能にさせた。一体、日本の軍隊内の日記や手紙に対する検閲は(他のものに対してもそうだつたが)後世の人々には想像を絶するほど厳重をきわめたものであつた。だから読む者は検閲というのつぴきならないわくにゆがめられた表面の文章の奥にひめられているものを読み取らなければならない。そこに、何と多くのものがかくれ、よこたわり、いきづき、めばえていることだろう。編集者が感じ取り、これを引き出し、適当に配列するのに苦心した理由であつた。編集者の不明、非力はそれを十分に果していないであろう。ひたすらに読者の御賢読をねがう次第である。
 また、このたびの不幸な戦争の犠牲者でなくても、間接の犠牲者――あるいは病にたおれ、あるいは経済的苦境のために学園から去らなければならなかつた人たち、そういう人たちの書きしるしたもののなかにもどれだけすぐれた精神、尊い人間性がひそみ、いぶいていることであろう。また遠く異郷の地にあつて身辺にたずさえ持つていてその生命と共にはかなく散逸してしまつた手帳や日記類、はたまた戦火のために一握りの灰となつてしまつたものもどれだけあつたことであろうか。思えば本書に採つたものは、何か目に見えない、大きい、かたまりのようなもの(このたびの日本の悲劇もこのかたまりが大きな声にならなかつたことに結局起因すると思うのだが)そのなかから偶然の運命によつてわれわれの手もとにあつめられたものにすぎないというような気がする。
 われわれはわれわれの努力が至らなかつたこと、そのためにこの募集のことをほんとに広く徹底させ、遺族の方一人一人全部に知つていたゞくに至らなかつたであろうことを今もつて大いに悔いている。又、本書は編集委員会の人的時間的経済的の余力のなかつたために『東大』と限つたけれども、なにもセクト的な考えにもとづいて限つたのではなかつた。本書の刊行が他日のもつと完全な、もつと立派な全国の戦歿学生の手記書簡集の出版の機縁ともなればこの上もないさいわいである。
 終りに本書のために、序文を賜つた南原繁総長、われわれの顧問となつて原稿を読んで下さり序まで書いて下さつた辰野隆先生、同じように原稿を読み、われわれのなやみと苦しみとおもいとを書きのべて下さつた三井為友氏に、厚く御礼を申し上げる。三井氏は文学部教育学科を卒業され、昭和十九年から敗戦後までボルネオ方面にあつてつぶさに戦争を体験されたわれわれの先輩である。現在は東京第二師範の教授をしておられる。
 それから、われわれの手もとまで貴重な遺品をお届け下さり、また長文のうつしを書いて送つて下さつた遺族ならびに友人の方々、編集に関して御助力下さつた東京大学新聞社の桜井恒次氏、そのほか陰に陽にわれわれのために便宜をはかつて下さつた関係諸方面に、こゝに心から御礼を申し上げる次第である。
 本文の最後に採録した「失われなかつた人間性」という一文は、編集委員の一人野元菊雄がこれを書き、他の編集委員と協議の上でこれをまとめたものである。ほかにより適当な執筆者もあつたことと思うが一応編集委員で「生きのこり学生の感想」を書いてみたのである。
                東大学生自治会戦歿学生手記編集委員会





佐々木八郎(手記)
大井栄光(書簡)
目黒晃(書簡)
岩田譲(日記)
菊山裕生(日記)
竹田喜義(日記)
江口昌男(書簡)
来海宏(詩)
森脇富爾夫(書簡)
山根明(日記)
松岡欣平(日記)
有坂長生(書簡)
坂巻豊(日記)
小森寿一(日記)
山中忠信(日記)
山岸久雄(短歌)
森本浩文(書簡)
山隅観(短歌・書簡)
篠塚龍則(手記)
三崎邦之助(書簡)
和田捻(日記)
中村徳郎(日記・書簡)
海上春雄(遺書・絶筆)
松吉正資(短歌)
加藤敏治(短歌)
川井修治(短歌)
深沢恒雄(所懐・短歌)
伊瀬輝男(日記)
中尾武徳(書翰)
沢田泰男(書翰)
亥角泰彦(遺書)
西村秀八(書翰)
蜂谷博史(日記)
長坂信(書翰)
杉村裕(日記)
井上長(短歌)
住吉胡之吉(日記)
鈴木実(遺言状)
稲垣光夫(俳句・日記)



(奥付)
1947年11月30日印刷
1947年12月4日発行
1949年1月30日五版発行
はるかなる山河に
定価150円
編集者 東大学生自治会
    戦歿学生手記編集委員会
発行者 東大協同組合出版部
    代表者 別枝達夫
印刷者 株式会社大倉印刷所
    岩崎史郎
    東京都中央区湊町3ノ12
発行所 東大協同組合出版部
    東京都文京区本富士町1 東京大学内