太平記(国民文庫)


凡例 
使用テキスト 
『太平記 全』(国民文庫刊行会) (流布版本)  翻刻

1. 漢字表記や読みを一部改めました。
2.JISに無い漢字は別の字に置き換えるか、■で表示しました。
3.各章段の頭には原本に○が有りますが、末尾に原本に無い番号を振りました。S+巻数(2桁)+章段(2桁)
4.漢文の返り点や一、二点等を省略しました。
5.各巻巻頭目録は有りません。

2001.06.07 荒山

太平記 目録

太平記 序

巻第一
後醍醐天皇御治世事付武家繁昌事
関所停止事
立后事付三位殿御局事
儲王御事
中宮御産御祈事付俊基偽篭居事
無礼講事付玄慧文談事
頼員回忠事
資朝俊基関東下向事付御告文事

巻第二
南都北嶺行幸事
僧徒六波羅召捕事付為明詠歌事
三人僧徒関東下向事
俊基朝臣再関東下向事
長崎新左衛門尉意見事付阿新殿事
俊基被誅事並助光事
天下怪異事
師賢登山事付唐崎浜合戦事
持明院殿御幸六波羅事
主上臨幸依非実事山門変儀事付紀信事

巻第三
主上御夢事付楠事
笠置軍事付陶山小見山夜討事
主上御没落笠置事
赤坂城軍事
桜山四郎入道自害事

巻第四
笠置囚人死罪流刑事付藤房卿事
八歳宮御歌事
一宮並妙法院二品親王御事
俊明極参内事
中宮御歎事
先帝遷幸事
備後三郎高徳事付呉越軍事

巻第五
持明院殿御即位事
宣房卿二君奉公事
中堂新常燈消事
相摸入道弄田楽並闘犬事
時政参篭榎島事
大塔宮熊野落事

巻第六
民部卿三位局御夢想事
楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事
正成天王寺未来記披見事
赤松入道円心賜大塔宮令旨事
関東大勢上洛事
赤坂合戦事付人見本間抜懸事

巻第七
吉野城軍事
千剣破城軍事
新田義貞賜綸旨事
赤松蜂起事
河野謀叛事
先帝船上臨幸事
船上合戦事

巻第八
摩耶合戦事付酒部瀬河合戦事
三月十二日合戦事
持明院殿行幸六波羅事
禁裡仙洞御修法事付山崎合戦事
山徒寄京都事
四月三日合戦事付妻鹿孫三郎勇力事
主上自令修金輪法給事付千種殿京合戦事
谷堂炎上事

巻第九
足利殿御上洛事
山崎攻事付久我畷合戦事
足利殿打越大江山事
足利殿着御篠村則国人馳参事
高氏被篭願書於篠村八幡宮事
六波羅攻事
主上々皇御沈落事
越後守仲時已下自害事
主上々皇為五宮被囚給事付資名卿出家事
千葉屋城寄手敗北事

巻第十
千寿王殿被落大蔵谷事
新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事
三浦大多和合戦意見事
鎌倉合戦事
赤橋相摸守自害事付本間自害事
稲村崎成干潟事
鎌倉兵火事付長崎父子武勇事
大仏貞直並金沢貞将討死事
信忍自害事
塩田父子自害事
塩飽入道自害事
安東入道自害事付漢王陵事
亀寿殿令落信濃事付左近大夫偽落奥州事
長崎高重期合戦事
高時並一門以下於東勝寺自害事

巻第十一
五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事
諸将被進早馬於船上事
書写山行幸事付新田注進事
正成参兵庫事付還幸事
筑紫合戦事
長門探題降参事
越前牛原地頭自害事
越中守護自害事付怨霊事
金剛山寄手等被誅事付佐介貞俊事

巻第十二
公家一統政道事
大内裏造営事付聖廟御事
安鎮国家法事付諸大将恩賞事
千種殿並文観僧正奢侈事付解脱上人事
広有射怪鳥事
神泉苑事
兵部卿親王流刑事付驪姫事

巻第十三
竜馬進奏事
藤房卿遁世事
北山殿謀叛事
中前代蜂起事
兵部卿宮薨御事付干将莫耶事
足利殿東国下向事付時行滅亡事

巻第十四
新田足利確執奏状事
節度使下向事
矢矧鷺坂手超河原闘事
箱根竹下合戦事
官軍引退箱根事
諸国朝敵蜂起事
将軍御進発大渡山崎等合戦事
主上都落事付勅使河原自害事
長年帰洛事付内裏炎上事
将軍入洛事付親光討死事
坂本御皇居並御願書事

巻第十五
園城寺戒壇事
奥州勢著坂本事
三井寺合戦並当寺撞鐘事付俵藤太事
建武二年正月十六日合戦事
正月二十七日合戦事
将軍都落事付薬師丸帰京事
大樹摂津国豊島河原合戦事
主上自山門還幸事
賀茂神主改補事

巻第十六
将軍筑紫御開事
小弐与菊池合戦事付宗応蔵主事
多々良浜合戦事付高駿河守引例事
西国蜂起官軍進発事
新田左中将被責赤松事
児島三郎熊山挙旗事付船坂合戦事
将軍自筑紫御上洛事付瑞夢事
備中福山合戦事
新田殿被引兵庫事
正成下向兵庫事
兵庫海陸寄手事
本間孫四郎遠矢事
経島合戦事
正成兄弟討死事
新田殿湊河合戦事
小山田太郎高家刈青麦事
聖主又臨幸山門事
持明院本院潜幸東寺事
日本朝敵事
正成首送故郷事

巻第十七
山攻事付日吉神託事
京都両度軍事
山門牒送南都事

義貞軍事付長年討死事
江州軍事
自山門還幸事
立儲君被著于義貞事付鬼切被進日吉事
義貞北国落事
還幸供奉人々被禁殺事
北国下向勢凍死事
瓜生判官心替事付義鑑房蔵義治事
十六騎勢入金崎事
金崎船遊事付白魚入船事
金崎城攻事付野中八郎事

巻第十八
先帝潜幸芳野事
高野与根来不和事
瓜生挙旗事
越前府軍並金崎後攻事
瓜生判官老母事付程嬰杵臼事
金崎城落事
春宮還御事付一宮御息所事
比叡山開闢事

巻第十九
光厳院殿重祚御事
本朝将軍補任兄弟無其例事
新田義貞落越前府城事
金崎東宮並将軍宮御隠事
諸国宮方蜂起事
相摸次郎時行勅免事
奥州国司顕家卿並新田徳寿丸上洛事
追奥勢跡道々合戦事
青野原軍事付嚢沙背水事

巻第二十
黒丸城初度軍事付足羽度々軍事
越後勢越々前事
宸筆勅書被下於義貞事
義貞牒山門同返牒事
八幡炎上事
義貞重黒丸合戦事付平泉寺調伏法事
義貞夢想事付諸葛孔明事
義貞馬属強事
義貞自害事
義助重集敗軍事
義貞首懸獄門事付勾当内侍事
奥州下向勢逢難風事
結城入道堕地獄事

巻第二十一
天下時勢粧事
佐渡判官入道流刑事
法勝寺塔炎上事
先帝崩御事
南帝受禅事
任遺勅被成綸旨事付義助攻落黒丸城事
塩冶判官讒死事

巻第二十二
畑六郎左衛門事
義助被参芳野事並隆資卿物語事
佐々木信胤成宮方事
義助予州下向事
義助朝臣病死事付鞆軍事
大館左馬助討死事付篠塚勇力事

巻第二十三
大森彦七事
就直義病悩上皇御願書事
土岐頼遠参合御幸致狼籍事付雲客下車事

巻第二十四
朝儀年中行事事
天竜寺建立事
依山門嗷訴公卿僉議事
天竜寺供養事付大仏供養事
三宅荻野謀叛事付壬生地蔵事

巻第二十五
持明院殿御即位事付仙洞妖怪事
宮方怨霊会六本杉事付医師評定事
藤井寺合戦事
自伊勢進宝剣事付黄梁夢事
住吉合戦事

巻第二十六
正行参吉野事
四条縄手合戦事付上山討死事
楠正行最後事
芳野炎上事
賀名生皇居事
執事兄弟奢侈事
上杉畠山讒高家事付廉頗藺相如事
妙吉侍者事付秦始皇帝事
直冬西国下向事

巻第二十七
天下妖怪事付清水寺炎上事
田楽事付長講見物事
雲景未来記事
左兵衛督欲誅師直事
御所囲事
右兵衛佐直冬鎮西没落事
左馬頭義詮上洛事
直義朝臣隠遁事付玄慧法印末期事
上杉畠山流罪死刑事
大嘗会事

巻第二十八
義詮朝臣御政務事
太宰少弐奉聟直冬事
三角入道謀叛事
直冬朝臣蜂起事付将軍御進発事
錦小路殿落南方事
自持明院殿被成院宣事
慧源禅巷南方合体事付漢楚合戦事

巻第二十九
宮方京攻事
将軍上洛事付阿保秋山河原軍事
将軍親子御退失事付井原石窟事
越後守自石見引返事
光明寺合戦事付師直怪異事
小清水合戦事付瑞夢事
松岡城周章事
師直師泰出家事付薬師寺遁世事
師冬自害事付諏方五郎事
師直以下被誅事付仁義血気勇者事

巻第三十
将軍御兄弟和睦事付天狗勢汰事
高倉殿京都退去事付殷紂王事
直義追罰宣旨御使事付鴨社鳴動事
薩多山合戦事
慧源禅門逝去事
吉野殿与相公羽林御和睦事付住吉松折事
相公江州落事
持明院殿吉野遷幸事付梶井宮事

巻第三十一
新田起義兵事
武蔵野合戦事
鎌倉合戦事
笛吹峠軍事
八幡合戦事付官軍夜討事
南帝八幡御退失事

巻第三十二
茨宮御位事
無剣璽御即位無例事
山名右衛門左為敵事付武蔵将監自害事
主上義詮没落事付佐々木秀綱討死事
山名伊豆守時氏京落事
直冬与吉野殿合体事付天竺震旦物語事
直冬上洛事付鬼丸鬼切事
神南合戦事

巻第三十三
京軍事
八幡御託宣事
三上皇自芳野御出事
飢人投身事
公家武家栄枯易地事
将軍御逝去事
新待賢門院並梶井宮御隠事
崇徳院御事
菊池合戦事
新田左兵衛佐義興自害事

巻第三十四
宰相中将殿賜将軍宣旨事
畠山道誓上洛事
和田楠軍評定事付諸卿分散事
新将軍南方進発事付軍勢狼籍事
紀州竜門山軍事
二度紀伊国軍事付住吉楠折事
銀嵩軍事付曹娥精衛事
竜泉寺軍事
平石城軍事付和田夜討事
吉野御廟神霊事付諸国軍勢還京都事

巻第三十五
新将軍帰洛事付擬討仁木義長事
京勢重南方発向事付仁木没落事
南方蜂起事付畠山関東下向事
北野通夜物語事付青砥左衛門事
尾張小河東池田事

巻第三十六
仁木京兆参南方事付大神宮御託宣事
大地震並夏雪事
天王寺造営事付京都御祈祷事
山名伊豆守落美作城事付菊池軍事
秀詮兄弟討死事
清氏叛逆事付相摸守子息元服事
頓宮心替事付畠山道誓事

巻第三十七
清氏正儀寄京事
新将軍京落事
南方官軍落都事
持明院新帝自江州還幸事付相州渡四国事
可立大将事付漢楚立義帝事
尾張左衛門佐遁世事
身子声聞一角仙人志賀寺上人事
畠山入道々誓謀叛事付楊国忠事

巻第三十八
彗星客星事付湖水乾事
諸国宮方蜂起事付越中軍事
九州探題下向事付李将軍陣中禁女事
菊池大友軍事
畠山兄弟修禅寺城楯篭事付遊佐入道事
細川相摸守討死事付西長尾軍事
和田楠与箕浦次郎左衛門軍事
太元軍事

巻第三十九
大内介降参事
山名京兆被参御方事
仁木京兆降参事
芳賀兵衛入道軍事
神木入洛事付洛中変異事
諸大名讒道朝事付道誉大原野花会事
神木御帰座事
高麗人来朝事
自太元攻日本事
神功皇后攻新羅給事
光厳院禅定法皇行脚御事
法皇御葬礼事

巻第四十
中殿御会事
左馬頭基氏逝去事
南禅寺与三井寺確執事
最勝講之時及闘諍事
将軍薨逝事
細河右馬頭自西国上洛事

目録 終



太平記巻第一

蒙窃採古今之変化、察安危之来由、覆而無外天之徳也。明君体之保国家。載而無棄地之道也。良臣則之守社稷。若夫其徳欠則雖有位不持。所謂夏桀走南巣、殷紂敗牧野。其道違則雖有威不久。曾聴趙高刑咸陽、禄山亡鳳翔。是以前聖慎而得垂法於将来也。後昆顧而不取誡於既往乎。
○後醍醐天皇御治世事付武家繁昌事 S0101
爰に本朝人皇の始、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇の御宇に当て、武臣相摸守平高時と云者あり。此時上乖君之徳、下失臣之礼。従之四海大に乱て、一日も未安。狼煙翳天、鯢波動地、至今四十余年。一人而不得富春秋。万民無所措手足。倩尋其濫觴者、匪啻禍一朝一夕之故。元暦年中に鎌倉の右大将頼朝卿、追討平家而有其功之時、後白河院叡感之余に、被補六十六箇国之総追補使。従是武家始て諸国に守護を立、庄園に地頭を置。彼頼朝の長男左衛門督頼家、次男右大臣実朝公、相続で皆征夷将軍の武将に備る。是を号三代将軍。然を頼家卿は為実朝討れ、実朝は頼家の子為悪禅師公暁討れて、父子三代僅に四十二年にして而尽ぬ。其後頼朝卿の舅、遠江守平時政子息、前陸奥守義時、自然に執天下権柄勢漸欲覆四海。此時の大上天皇は、後鳥羽院也。武威振下、朝憲廃上事歎思召て、義時を亡さんとし給しに、承久の乱出来て、天下暫も静ならず。遂に旌旗日に掠て、宇治・勢多にして相戦ふ。其戦未終一日、官軍忽に敗北せしかば、後鳥羽院は隠岐国へ遷されさせ給て、義時弥八荒を掌に握る。其より後武蔵守泰時・修理亮時氏・武蔵守経時・相摸守時頼・左馬権頭時宗・相摸守貞時、相続で七代、政武家より出で、徳窮民を撫するに足り、威万人の上に被といへ共、位四品の際を不越、謙に居て仁恩を施し、己を責て礼義を正す。是を以て高しと云ども危からず、盈りと云ども溢れず。承久より以来、儲王摂家の間に、理世安民の器に相当り給へる貴族を一人、鎌倉へ申下奉て、征夷将軍と仰で、武臣皆拝趨の礼を事とす。同三年に、始て洛中に両人の一族を居て、両六波羅と号して、西国の沙汰を執行せ、京都の警衛に備らる。又永仁元年より、鎮西に一人の探題を下し、九州の成敗を司しめ、異賊襲来の守を堅す。されば一天下、普彼下知に不随と云処もなく、四海の外も、均く其権勢に服せずと云者は無りけり。朝陽不犯ども、残星光を奪る、習なれば、必しも、武家より公家を蔑し奉としもは無れども、所には地頭強して、領家は弱、国には守護重して、国司は軽。此故に朝廷は年々に衰、武家は日々に盛也。因茲代々の聖主、遠くは承久の宸襟を休めんが為、近くは朝議の陵廃を歎き思食て、東夷を亡さばやと、常に叡慮を回されしかども、或は勢微にして不叶、或は時未到して、黙止給ひける処に、時政九代の後胤、前相摸守平高時入道崇鑒が代に至て、天地命を革むべき危機云顕れたり。倩古を引て今を視に、行跡甚軽して人の嘲を不顧、政道不正して民の弊を不思、唯日夜に逸遊を事として、前烈を地下に羞しめ、朝暮に奇物を翫て、傾廃を生前に致さんとす。衛の懿公が鶴を乗せし楽早尽き、秦の李斯が犬を牽し恨今に来なんとす。見人眉を顰め、聴人唇を翻す。此時の帝後醍醐天王と申せしは、後宇多院の第二の皇子、談天門院の御腹にて御座せしを、相摸守が計として、御年三十一の時、御位に即奉る。御在位之間、内には三綱五常の儀を正して、周公孔子の道に順、外には万機百司の政不怠給、延喜天暦の跡を追れしかば、四海風を望で悦び、万民徳に帰して楽む。凡諸道の廃たるを興し、一事の善をも被賞しかば、寺社禅律の繁昌、爰に時を得、顕密儒道の碩才も、皆望を達せり。誠に天に受たる聖主、地に奉ぜる明君也と、其徳を称じ、其化に誇らぬ者は無りけり。
○関所停止事 S0102
夫四境七道の関所は、国の大禁を知しめ、時の非常を誡んが為也。然に今壟断の利に依て、商売往来の弊、年貢運送の煩ありとて、大津・葛葉の外は、悉く所々の新関を止らる。又元亨元年の夏、大旱地を枯て、田服の外百里の間、空く赤土のみ有て、青苗無し。餓■野に満て、飢人地に倒る。此年銭三百を以て、粟一斗を買。君遥に天下の飢饉を聞召て、朕不徳あらば、天予一人を罪すべし。黎民何の咎有てか、此災に逢ると、自帝徳の天に背ける事を歎き思召て、朝餉の供御を止られて、飢人窮民の施行に引れけるこそ難有けれ。是も猶万民の飢を助くべきに非ずとて、検非違使の別当に仰て、当時富祐の輩が、利倍の為に畜積る米穀を点検して、二条町に仮屋を建られ、検使自断て、直を定て売せらる。されば商買共に利を得て、人皆九年の畜有が如し。訴訟の人出来の時、若下情上に達せざる事もやあらんとて、記録所へ出御成て、直に訴を聞召明め、理非を決断せられしかば、虞■の訴忽に停て、刑鞭も朽はて、諌鼓も撃人無りけり。誠に理世安民の政、若機巧に付て是を見ば、命世亜聖の才とも称じつべし。惟恨らくは斉桓覇を行、楚人弓を遺しに、叡慮少き似たる事を。是則所以草創雖合一天守文不越三載也。
○立后事付三位殿御局事 S0103
文保二年八月三日、後西園寺大政大臣実兼公の御女、后妃の位に備て、弘徽殿に入せ給ふ。此家に女御を立られたる事已に五代、是も承久以後、相摸守代々西園寺の家を尊崇せしかば、一家の繁昌恰天下の耳目を驚せり。君も関東の聞へ可然と思食て、取分立后の御沙汰も有けるにや。御齢已に二八にして、金鶏障の下に傅れて、玉楼殿の内に入給へば、夭桃の春を傷る粧ひ、垂柳の風を含る御形、毛■・西施も面を恥、絳樹・青琴も鏡を掩ふ程なれば、君の御覚も定て類あらじと覚へしに、君恩葉よりも薄かりしかば、一生空く玉顔に近かせ給はず。深宮の中に向て、春の日の暮難き事を歎き、秋の夜の長恨に沈ませ給ふ。金屋に人無して、皎々たる残燈の壁に背ける影、薫篭に香消て、蕭々たる暗雨の窓を打声、物毎に皆御泪を添る媒と成れり。「人生勿作婦人身、百年苦楽因他人。」と、白楽天が書たりしも、理也と覚たり。其比安野中将公廉の女に、三位殿の局と申ける女房、中宮の御方に候れけるを、君一度御覧ぜられて、他に異なる御覚あり。三千の寵愛一身に在しかば、六宮の粉黛は、顔色無が如也。都て三夫人・九嬪・二十七世婦・八十一女御・曁後宮の美人・楽府の妓女と云へども、天子顧眄の御心を付られず。只殊艶尤態の独能是を致のみに非ず、蓋し善巧便佞叡旨に先て、奇を争しかば、花の下の春の遊、月の前の秋の宴、駕すれば輦を共にし、幸すれば席を専にし給ふ。是より君王朝政をし給はず。忽に准后の宣旨を下されしかば、人皆皇后元妃の思をなせり。驚見る、光彩の始て門戸に生ることを。此時天の人、男を生む事を軽じて、女を生む事を重ぜり。されば御前の評定、雑訴の御沙汰までも、准后の御口入とだに云てげれば、上卿も忠なきに賞を与、奉行も理有を非とせり。関雎は楽而不淫、哀而不傷。詩人採て后妃の徳とす。奈何かせん、傾城傾国の乱今に有ぬと覚て、浅増かりし事共也。
○儲王御事 S0104
螽斯の化行れて、皇后元妃の外、君恩に誇る官女、甚多かりければ、宮々次第に御誕生有て、十六人までぞ御座しける。中にも第一宮尊良親王は、御子左大納言為世卿女、贈従三位為子の御腹にて御坐しを、吉田内大臣定房公養君にし奉しかば、志学の歳の始より、六義の道に長じさせ給へり。されば富緒河の清き流を汲、浅香山の故き跡を蹈で、嘯風弄月に御心を傷め給ふ。第二宮も同御腹にてぞ御坐しける。総角の御時より妙法院の門跡に御入室有て、釈氏の教を受させ給ふ。是も瑜伽三密の間には、歌道数奇の御翫有しかば、高祖大師の旧業にも不恥、慈鎮和尚の風雅にも越たり。第三宮は民部卿三位殿の御腹也。御幼稚の時より、利根聡明に御坐せしかば、君御位をば此宮に社と思食したりしかども、御治世は大覚寺殿と持明院殿と、代々持せ給べしと、後嵯峨院の御時より被定しかば、今度の春宮をば持明院殿御方に立進せらる。天下の事小大となく、関東の計として、叡慮にも任られざりしかば、御元服の義を改られ、梨本の門跡に御入室有て、承鎮親王の御門弟と成せ給ひて、一を聞て十を悟る御器量、世に又類も無りしかば、一実円頓の花匂を、荊渓の風に薫じ、三諦即是の月の光を、玉泉の流に浸せり。されば消なんとする法燈を挑げ、絶なんとする恵命を継んこと、只此門主の御時なるべしと、一山掌を合せて悦、九院首を傾て仰奉る。第四の宮も同御腹にてぞをはしける。是は聖護院二品親王の御附弟にてをはせしかば、法水を三井の流に汲、記■を慈尊の暁に期し給ふ。此外儲君儲王の選、竹苑椒庭の備、誠に王業再興の運、福祚長久基、時を得たりとぞ見へたりける。
○中宮御産御祈之事付俊基偽篭居事 S0105
元亨二年の春の比より、中宮懐姙の御祈とて、諸寺・諸山の貴僧・高僧に仰て様々の大法・秘法を行はせらる。中にも法勝寺の円観上人、小野文観僧正二人は、別勅を承て、金闕に壇を構、玉体に近き奉て、肝胆を砕てぞ祈られける。仏眼、金輪、五壇の法・一宿五反孔雀経・七仏薬師熾盛光・烏蒭沙摩、変成男子の法・五大虚空蔵・六観音・六字訶臨、訶利帝母・八字文殊、普賢延命、金剛童子の法、護摩煙は内苑に満、振鈴の声は掖殿に響て、何なる悪魔怨霊なりとも、障碍を難成とぞ見へたりける。加様に功を積、日を重て、御祈の精誠を尽されけれども、三年まで曾て御産の御事は無りけり。後に子細を尋れば、関東調伏の為に、事を中宮の御産に寄て、加様に秘法を修せられけると也。是程の重事を思食立事なれば、諸臣の異見をも窺ひ度思召けれども、事多聞に及ばゝ、武家に漏れ聞る事や有んと、憚り思召れける間、深慮智化の老臣、近侍の人々にも仰合らるゝ事もなし。只日野中納言資朝・蔵人右少弁俊基・四条中納言隆資・尹大納言師賢・平宰相成輔計に、潛に仰合られて、さりぬべき兵を召けるに、錦織の判官代、足助次郎重成、南都北嶺の衆徒、少々勅定に応じてげり。彼俊基は累葉の儒業を継で、才学優長成しかば、顕職に召仕れて、官蘭台に至り、職々事を司れり。然る間出仕事繁して、籌策に隙無りければ、何にもして暫篭居して、謀叛の計畧を回さんと思ける処に、山門横川の衆徒、款状を捧て、禁庭に訴る事あり。俊基彼奏状を披て読申れけるが、読誤りたる体にて、楞厳院を慢厳院とぞ読たりける。座中の諸卿是を聞て目を合て、「相の字をば、篇に付ても作に付ても、もくとこそ読べかりける。」と、掌を拍てぞ笑はれける。俊基大に恥たる気色にて、面を赤て退出す。夫より恥辱に逢て、篭居すと披露して、半年計出仕を止、山臥の形に身を易て、大和・河内に行て、城郭に成ぬべき処々を見置、東国・西国に下て、国の風俗、人の分限をぞ窺見られける。
○無礼講事付玄恵文談事 S0106
爰に美濃国住人、土岐伯耆十郎頼貞・多治見四郎次郎国長と云者あり。共に清和源氏の後胤として、武勇の聞へありければ、資朝卿様々の縁を尋て、眤び近かれ、朋友の交已に浅からざりけれども、是程の一大事を無左右知せん事、如何か有べからんと思はれければ、猶も能々其心を窺見ん為に、無礼講と云事をぞ始られける。其人数には、尹大納言師賢・四条中納言隆資・洞院左衛門督実世・蔵人右少弁俊基・伊達三位房游雅・聖護院庁の法眼玄基・足助次郎重成・多治見四郎次郎国長等也。其交会遊宴の体、見聞耳目を驚せり。献盃の次第、上下を云はず、男は烏帽子を脱で髻を放ち、法師は衣を不着して白衣になり、年十七八なる女の、盻形優に、膚殊に清らかなるをに十余人、褊の単へ計を着せて、酌を取せければ、雪の膚すき通て、大液の芙蓉新に水を出たるに異ならず。山海の珍物を尽し、旨酒泉の如くに湛て、遊戯舞歌ふ。其間には只東夷を可亡企の外は他事なし。其事と無く、常に会交せば、人の思咎むる事もや有んとて、事を文談に寄んが為に、其比才覚無双の聞へありける玄恵法印と云文者を請じて、昌黎文集の談義をぞ行せける。彼法印謀叛の企とは夢にも不知、会合の日毎に、其席に臨で玄を談じ理を折。彼文集の中に、「昌黎赴潮州」と云長篇有り。此処に至て、談義を聞人々、「是皆不吉の書なりけり。呉子・孫子・六韜・三略なんど社、可然当用の文なれ。」とて、昌黎文集の談義を止てげり。此韓昌黎と申は、晩唐の季に出て、文才優長の人なりけり。詩は杜子美・李太白に肩を双べ、文章は漢・魏・晋・宋の間に傑出せり。昌黎が猶子韓湘と云者あり。是は文字をも嗜ず、詩篇にも携らず、只道士の術を学で、無為を業とし、無事を事とす。或時昌黎韓湘に向て申けるは、「汝天地の中に化生して、仁義の外に逍遥す。是君子の恥処、小人の専とする処也。我常に汝が為に是を悲むこと切也。と教訓しければ、韓湘大にあざ笑て、「仁義は大道の廃たる処に出、学教は大偽の起時に盛也。吾無為の境に優遊して、是非の外に自得す。されば真宰の臂を掣て、壷中に天地を蔵し、造化の工を奪て、橘裡に山川を峙つ。却て悲らくは、公の只古人の糟粕を甘て、空く一生を区々の中に誤る事を。」と答ければ、昌黎重曰、「汝が所言我未信、今則造化の工を奪事を得てんや。」と問に、韓湘答事無して、前に置たる瑠璃の盆を打覆て、軈て又引仰向けたるを見れば、忽に碧玉の牡丹の花の嬋娟たる一枝あり。昌黎驚て是を見に、花中に金字に書る一聯の句有り。「雲横秦嶺家何在、雪擁藍関馬不前。云云。」昌黎不思儀の思を成して、是を読で一唱三嘆するに、句の優美遠長なる体製のみ有て、其趣向落着の所を難知。手に採て是を見んとすれば、忽然として消失ぬ。是よりしてこそ、韓湘仙術の道を得たりとは、天下の人に知られけれ。其後昌黎仏法を破て、儒教を貴べき由、奏状を奉ける咎に依て、潮州へ流さる。日暮馬泥で前途程遠し。遥に故郷の方を顧ば、秦嶺に雲横て、来つらん方も不覚。悼で万仞の嶮に登らんとすれば、藍関に雪満て行べき末の路も無し。進退歩を失て、頭を回す処に、何より来れるともなく、韓湘悖然として傍にあり。昌黎悦で馬より下、韓湘が袖を引て、泪の中に申けるは、「先年碧玉の花の中に見へたりし一聯の句は、汝我に予左遷の愁を告知せるなり。今又汝爰に来れり。料り知ぬ、我遂に謫居に愁死して、帰事を得じと。再会期無して、遠別今にあり。豈悲に堪んや。」とて、前の一聯に句を続で、八句一首と成して、韓湘に与ふ。一封朝奏九重天。夕貶潮陽路八千。欲為聖明除弊事。豈将衰朽惜残年。雲横秦嶺家何在。雪擁藍関馬不前。知汝遠来須有意。好収吾骨瘴江辺。韓湘此詩を袖に入て、泣々東西に別にけり。誠哉、「痴人面前に不説夢」云事を。此談義を聞ける人々の忌思けるこそ愚なれ。
○頼員回忠事 S0107
謀反人の与党、土岐左近蔵人頼員は、六波羅の奉行斉藤太郎左衛門尉利行が女と嫁して、最愛したりけるが、世中已に乱て、合戦出来りなば、千に一も討死せずと云事有まじと思ける間、兼て余波や惜かりけん、或夜の寝覚の物語に、「一樹の陰に宿り、同流を汲も、皆是多生の縁不浅、況や相馴奉て已三年に余れり。等閑ならぬ志の程をば、気色に付け、折に触ても思知り給ふらん。去ても定なきは人間の習、相逢中の契なれば、今若我身はかなく成ぬと聞給ふ事有ば、無らん跡までも貞女の心を失はで、我後世を問給へ。人間に帰らば、再び夫婦の契を結び、浄土に生れば、同蓮の台に半座を分て待べし。」と、其事と無くかきくどき、泪を流てぞ申ける。女つく/゛\と聞て、「怪や何事の侍ぞや。明日までの契の程も知らぬ世に、後世までの荒増は、忘んとての情にてこそ侍らめ。さらでは、かゝるべしとも覚ず。」と、泣恨て問ければ、男は心浅して、「さればよ、我不慮の勅命を蒙て、君に憑れ奉る間、辞するに道無して、御謀反に与しぬる間、千に一も命の生んずる事難し。無端存る程に、近づく別の悲さに、兼加様に申也。此事穴賢人に知させ給ふな。」と、能々口をぞ堅めける。彼女性心の賢き者也ければ、夙にをきて、つく/゛\と此事を思ふに、君の御謀叛事ならずば、憑たる男忽に誅せらるべし。若又武家亡なば、我親類誰かは一人も残るべき。さらば是を父利行に語て、左近蔵人を回忠の者に成し、是をも助け、親類をも扶けばやと思て、急ぎ父が許に行、忍やかに此事を有の侭にぞ語りける。斉藤大に驚き、軈て左近蔵人を呼寄せ、「卦る不思議を承る、誠にて候やらん。今の世に加様の事、思企給はんは、偏に石を抱て淵に入る者にて候べし。若他人の口より漏なば、我等に至まで皆誅せらるべきにて候へば、利行急御辺の告知せたる由を、六波羅殿に申て、共に其咎を遁んと思ふは、何か計給ふぞ。」と、問ければ、是程の一大事を、女性に知らする程の心にて、なじかは仰天せざるべき、「此事は同名頼貞・多治見四郎二郎が勧に依て、同意仕て候。只兎も角も、身の咎を助る様に御計候へ。」とぞ申ける。夜未明に、斉藤急ぎ六波羅へ参て、事の子細を委く告げ申ければ、則時をかへず鎌倉へ早馬を立て、京中・洛外の武士どもを六波羅へ召集て、先着到をぞ付られける。其比摂津国葛葉と云処に、地下人代官を背て合戦に及事あり。彼本所の雑掌を、六波羅の沙汰として、庄家にしすへん為に、四十八箇所の篝、並在京人を催さるゝ由を被披露。是は謀叛の輩を落さじが為の謀也。土岐も多治見も、吾身の上とは思も寄らず、明日は葛葉へ向ふべき用意して、皆己が宿所にぞ居たりける。去程に、明れば元徳元年九月十九日の卯刻に、軍勢雲霞の如に六波羅へ馳参る。小串三郎左衛門尉範行・山本九郎時綱、御紋の旗を給て、打手の大将を承て、六条河原へ打出、三千余騎を二手に分て、多治見が宿所錦小路高倉、土岐十郎が宿所、三条堀河へ寄けるが、時綱かくては如何様大事の敵を打漏ぬと思けるにや、大勢をば態と三条河原に留て、時綱只一騎、中間二人に長刀持せて、忍やかに土岐が宿所へ馳て行き、門前に馬をば乗捨て、小門より内へつと入て、中門の方を見れば、宿直しける者よと覚て、物具・太刀・々、枕に取散し、高鼾かきて寝入たり。廐の後を回て、何にか匿地の有と見れば、後は皆築地にて、門より外は路も無し。さては心安しと思て、客殿の奥なる二間を颯と引あけたれば、土岐十郎只今起あがりたりと覚て、鬢髪を撫揚て結けるが、山本九郎を屹と見て、「心得たり。」と云侭に、立たる大刀を取、傍なる障子を一間蹈破り、六間の客殿へ跳出、天井に大刀を打付じと、払切にぞ切たりける。時綱は態敵を広庭へ帯出し、透間も有らば生虜んと志て、打払ては退、打流しては飛のき、人交もせず戦て、後を屹と見たれば、後陣の大勢二千余騎、二の関よりこみ入て、同音に時を作る。土岐十郎久く戦ては、中々生捕れんとや思けん、本の寝所へ走帰て、腹十文字にかき切て、北枕にこそ臥たりけれ。中間に寝たりける若党どもゝ、思々に討死して、遁るゝ者一人も無りけり。首を取て鋒に貫て、山本九郎は是より六波羅へ馳参る。多治見が宿所へは、小串三郎左衛門範行を先として、三千余騎にて推寄たり。多治見は終夜の酒に飲酔て、前後も不知臥たりけるが、時の声に驚て、是は何事ぞと周障騒ぐ。傍に臥たる遊君、物馴たる女也ければ、枕なる鎧取て打着せ、上帯強く縮させて、猶寝入たる者どもをぞ起しける。小笠原孫六、傾城に驚されて、太刀計を取て、中門に走出で、目を磨々四方を岐と見ければ、車の輪の旗一流、築地の上より見へたり。孫六内へ入て、「六波羅より打手の向て候ける。此間の御謀反早顕たりと覚候。早面々太刀の目貫の堪ゑん程は切合て、腹を切れ。」と呼て、腹巻取て肩になげかけ、廾四差たる胡■と、繁藤の弓とを提て、門の上なる櫓へ走上り、中差取て打番ひ、狭間の板八文字に排て、「あらこと/゛\しの大勢や。我等が手柄のほどこそ顕たれ。抑討手の大将は誰と申人の向れて候やらん。近付て箭一請て御覧候へ。」と云侭に、十二束三伏、忘るゝ計引しぼりて、切て放つ。真前に進だる狩野下野前司が若党に、衣摺助房が胄のまつかう、鉢付の板まで、矢先白く射通して、馬より倒に射落す。是を始として、鎧の袖・草摺・胄鉢とも不言、指詰て思様に射けるに、面に立たる兵廾四人、矢の下に射て落す。今一筋胡■に残たる矢を抜て、胡■をば櫓の下へからりと投落し、「此矢一をば冥途の旅の用心に持べし。」と云て腰にさし、「日本一の剛者、謀叛に与し自害する有様見置て人に語れ。」と高声に呼て、太刀の鋒を口に呀て、櫓より倒に飛落て、貫てこそ死にけれ。此間に多治見を始として、一族若党廾余人物具ひし/\と堅め、大庭に跳出で、門の関の木差て待懸たり。寄手雲霞の如しと云へども、思切たる者どもが、死狂をせんと引篭たるがこはさに、内へ切て入んとする者も無りける処に、伊藤彦次郎父子兄弟四人、門の扉の少し破たる処より、這て内へぞ入たりける。志の程は武けれども、待請たる敵の中へ、這て入たる事なれば、敵に打違るまでも無て、皆門の脇にて討れにけり。寄手是を見て、弥近く者も無りける間、内より門の扉を推開て、「討手を承るほどの人達の、きたなうも見へられ候者哉。早是へ御入候へ。我等が頭共引出物に進せん。」と、恥しめてこそ立たりけれ。寄手共敵にあくまで欺れて、先陣五百余人馬を乗放して、歩立に成、喚て庭へこみ入。楯篭る所の兵ども、とても遁じと思切たる事なれば、何へか一足も引べき。二十余人の者ども、大勢の中へ乱入て、面もふらず切て廻る。先駈の寄手五百余人、散々に切立られて、門より外へ颯と引く。されども寄手は大勢なれば、先陣引けば二陣喚て懸入。々々ば追出、々々せば懸入り、辰刻の始より午刻の終まで、火出る程こそ戦けれ。加様に大手の軍強ければ、佐々木判官が手者千余人、後へ廻て錦小路より、在家を打破て乱入る。多治見今は是までとや思けん、中門に並居て、二十二人の者ども、互に差違々々、算を散せる如く臥たりける。追手の寄手共が、門を破りける其間に、搦手の勢共乱入り、首を取て六波羅へ馳帰る。二時計の合戦に、手負死人を数るに、二百七十三人也。
○資朝俊基関東下向事付御告文事 S0108
土岐・多治見討れて後、君の御謀叛次第に隠れ無りければ、東使長崎四郎左衛門泰光、南条次郎左衛門宗直二人上洛して、五月十日資朝・俊基両人を召取奉る。土岐が討れし時、生虜の者一人も無りしかば、白状はよも有らじ、さりとも我等が事は顕れじと、無墓憑に油断して、曾て其用意も無りければ、妻子東西に逃迷ひて、身を隠さんとするに処なく、財宝は大路に引散されて、馬蹄の塵と成にけり。彼資朝卿は日野の一門にて、職大理を経、官中納言に至りしかば、君の御覚へも他に異して、家の繁昌時を得たりき。俊基朝臣は身儒雅の下より出で、望勲業の上に達せしかば、同官も肥馬の塵を望み、長者も残盃の冷に随ふ。宜哉「不義而富且貴、於我如浮雲。」と云へる事。是孔子の善言、魯論に記する処なれば、なじかは違べき。夢の中に楽尽て、眼前の悲云に来れり。彼を見是を聞ける人毎に、盛者必衰の理を知らでも、袖をしぼりゑず。同二十七日、東使両人、資朝・俊基を具足し奉て、鎌倉へ下着す。此人々は殊更謀叛の張本なれば、軈て誅せられぬと覚しかども、倶に朝廷の近臣として、才覚優長の人たりしかば、世の譏り君の御憤を憚て、嗷問の沙汰にも不及、只尋常の放召人の如にて、侍所にぞ預置れける。七月七日、今夜は牽牛・織女の二星、烏鵲橋を渡して、一年の懐抱を解夜なれば、宮人の風俗、竹竿に願糸を懸け、庭前に嘉菓を列て、乞巧奠を修る夜なれ共、世上騒しき時節なれば、詩歌を奉る騒人も無く、絃管を調る伶倫もなし。適上臥したる月卿雲客も、何と無く世中の乱、又誰身上にか来んずらんと、魂を消し肝を冷す時分なれば、皆眉を顰め面を低てぞ候ける。夜痛深て、「誰か候。」と召れければ、「吉田中納言冬房候。」とて御前に候す。主上席を近て仰有けるは、「資朝・俊基が囚れし後、東風猶未静、中夏常に危を蹈む。此上に又何なる沙汰をか致んずらんと、叡慮更に不穏。如何して先東夷を定べき謀有ん。」と、勅問有ければ、冬房謹で申けるは、「資朝・俊基が白状有りとも承候はねば、武臣此上の沙汰には及ばじと存候へども、近日東夷の行事、楚忽の義多候へば、御油断有まじきにて候。先告文一紙を下されて、相摸入道が忿を静め候ばや。」と申されければ、主上げにもとや思食れけん、「さらば軈て冬房書。」と仰有ければ、則御前にして草案をして、是を奏覧す。君且叡覧有て、御泪の告文にはら/\とかゝりけるを、御袖にて押拭はせ給へば、御前に候ける老臣、皆悲啼を含まぬは無りけり。頓て万里小路大納言宣房卿を勅使として、此告文を関東へ下さる。相摸入道、秋田城介を以て告文を請取て、則披見せんとしけるを、二階堂出羽入道々蘊、堅く諌めて申けるは、「天子武臣に対して直に告文を被下たる事、異国にも我朝にも未其例を承ず。然を等閑に披見せられん事、冥見に付て其恐あり。只文箱を啓ずして、勅使に返進せらるべきか。」と、再往申けるを、相摸入道、「何か苦しかるべき。」とて、斉藤太郎左衛門利行に読進せさせられけるに、「叡心不偽処任天照覧。」被遊たる処を読ける時に、利行俄に眩衄たりければ、読はてずして退出す。其日より喉下に悪瘡出て、七日が中に血を吐て死にけり。時澆季に及で、道塗炭に落ぬと云ども、君臣上下の礼違則は、さすが仏神の罰も有けりと、是を聞ける人毎に、懼恐ぬは無りけり。「何様資朝・俊基の隠謀、叡慮より出し事なれば、縦告文を下されたりと云ども、其に依るべからず。主上をば遠国へ遷し奉べし。」と、初は評定一決してけれども、勅使宣房卿の被申趣げにもと覚る上、告文読たりし利行、俄に血を吐て死たりけるに、諸人皆舌を巻き、口を閉づ。相摸入道も、さすが天慮其憚有りけるにや、「御治世の御事は朝議に任せ奉る上は、武家綺ひ申べきに非ず。」と、勅答を申て、告文を返進せらる。宣房卿則帰洛して、此由を奏し申れけるにこそ、宸襟始て解て、群臣色をば直されけれ。去程に俊基朝臣は罪の疑しきを軽じて赦免せられ、資朝卿は死罪一等を宥められて、佐渡国へぞ流されける。


太平記
太平記巻第二
○南都北嶺行幸事 S0201
元徳二年二月四日、行事の弁別当、万里小路中納言藤房卿を召れて、「来月八日東大寺興福寺行幸有べし、早供奉の輩に触仰すべし。」と仰出されければ、藤房古を尋、例を考て、供奉の行装、路次の行列を定らる。佐々木備中守廷尉に成て橋を渡し、四十八箇所篝、甲胄を帯し、辻々を堅む。三公九卿相従ひ、百司千官列を引、言語道断の厳儀也。東大寺と申は聖武天皇の御願、閻浮第一の盧舎那仏、興福寺と申は淡海公の御願、藤氏尊崇の大伽藍なれば、代々の聖主も、皆結縁の御志は御坐せども、一人出給事容易からざれば、多年臨幸の儀もなし。此御代に至て、絶たるを継、廃たるを興して、鳳輦を廻し給しかば、衆徒歓喜の掌を合せ、霊仏威徳の光をそふ。されば春日山の嵐の音も、今日よりは万歳を呼ふかと怪まれ、北の藤波千代かけて、花咲春の陰深し。又同月二十七日に、比叡山に行幸成て、大講堂供養あり。彼堂と申は、深草天皇の御願、大日遍照の尊像也。中比造営の後、未供養を遂ずして、星霜已積りければ、甍破ては霧不断の香を焼、扉落ては月常住の燈を挑ぐ。されば満山歎て年を経る処に、忽に修造の大功を遂られ、速に供養の儀式を調へ給しかば、一山眉を開き、九院首を傾けり。御導師は妙法院尊澄法親王、咒願は時の座主大塔尊雲法親王にてぞ御座しける。称揚讚仏の砌には、鷲峯の花薫を譲り、歌唄頌徳の所には、魚山の嵐響を添。伶倫遏雲の曲を奏し、舞童回雪の袖を翻せば、百獣も率舞、鳳鳥も来儀する計也。住吉の神主、津守の国夏大皷の役にて登山したりけるが、宿坊の柱に一首の歌をぞ書付たる。契あれば此山もみつ阿耨多羅三藐三菩提の種や植剣是は伝教大師当山草創の古、「我立杣に冥加あらせ給へ。」と、三藐三菩提の仏達に祈給し故事を思て、読る歌なるべし。抑元亨以後、主愁臣辱られて、天下更安時なし。折節こそ多かるに、今南都北嶺の行幸、叡願何事やらんと尋れば、近年相摸入道振舞、日来の不儀に超過せり。蛮夷の輩は、武命に順ふ者なれば、召とも勅に応ずべからず。只山門南都の大衆を語て、東夷を征罰せられん為の御謀叛とぞ聞へし。依之大塔の二品親王は、時の貫主にて御坐せしか共、今は行学共に捨はてさせ給て、朝暮只武勇の御嗜の外は他事なし。御好有故にや依けん、早業は江都が軽捷にも超たれば、七尺の屏風未必しも高しともせず。打物は子房が兵法を得玉へば、一巻の秘書尽されずと云事なし。天台座主始て、義真和尚より以来一百余代、未懸る不思議の門主は御坐さず。後に思合するにこそ、東夷征罰の為に、御身を習されける武芸の道とは知られたれ。
○僧徒六波羅召捕事付為明詠歌事 S0202
事の漏安きは、禍を招く媒なれば、大塔宮の御行事、禁裡に調伏の法被行事共、一々に関東へ聞へてけり。相摸入道大に怒て、「いや/\此君御在位の程は天下静まるまじ。所詮君をば承久の例に任て、遠国へ移し奉せ、大塔宮を死罪に所し奉るべき也。先近日殊に竜顔に咫尺奉て、当家を調伏し給ふなる、法勝寺の円観上人・小野の文観僧正・南都の知教・教円・浄土寺の忠円僧正を召取て、子細を相尋べし。」と、已に武命を含で、二階堂下野判官・長井遠江守二人、関東より上洛す。両使已に京着せしかば、「又何なる荒き沙汰をか致さんずらん。」と、主上宸襟を悩されける所に、五月十一日の暁、雑賀隼人佐を使にて、法勝寺の円観上人・小野の文観僧正・浄土寺の忠円僧正、三人を六波羅へ召取奉る。此中に忠円僧正は、顕宗の碩徳也しかば、調伏の法行たりと云、其人数には入らざりしかども、是も此君に近付き奉て、山門の講堂供養以下の事、万直に申沙汰せられしかば、衆徒与力の事、此僧正よも存ぜられぬ事は非じとて、同召取れ給にけり。是のみならず、智教・教円二人も、南都より召出されて、同六波羅へ出給ふ。又二条中将為明卿は、歌道の達者にて、月の夜雪の朝、褒貶の歌合の御会に召れて、宴に侍る事隙無りしかば、指たる嫌疑の人にては無りしかども、叡慮の趣を尋問ん為に召取れて、斉藤某に是を預らる。五人の僧達の事は、元来関東へ召下して、沙汰有べき事なれば、六波羅にて尋窮に及ばず。為明卿の事に於ては、先京都にて尋沙汰有て、白状あらば、関東へ註進すべしとて、検断に仰て、已嗷問の沙汰に及んとす。六波羅の北の坪に炭をゝこす事、■湯炉壇の如にして、其上に青竹を破りて敷双べ、少隙をあけゝれば、猛火炎を吐て、烈々たり。朝夕雑色左右に立双で、両方の手を引張て、其上を歩せ奉んと、支度したる有様は、只四重五逆の罪人の、焦熱大焦熱の炎に身を焦し、牛頭馬頭の呵責に逢らんも、角社有らめと覚へて、見にも肝は消ぬべし。為明卿是を見給て、「硯や有。」と尋られければ、白状の為かとて、硯に料紙を取添て奉りければ、白状にはあらで、一首の歌をぞ書れける。
思きや我敷嶋の道ならで浮世の事を問るべしとは常葉駿河守、此歌を見て感歎肝に銘じければ、泪を流して理に伏す。東使両人も是を読て、諸共に袖を浸しければ、為明は水火の責を遁れて、咎なき人に成にけり。詩歌は朝廷の翫処、弓馬は武家の嗜む道なれば、其慣未必しも、六義数奇の道に携らねども、物相感ずる事、皆自然なれば、此歌一首の感に依て、嗷問の責を止めける、東夷の心中こそやさしけれ。力をも入ずして、天地を動し、目にみへぬ鬼神をも哀と思はせ、男女の中をも和げ、猛き武士の心をも慰るは歌也と、紀貫之が古今の序に書たりしも、理なりと覚たり。
○三人僧徒関東下向事 S0203
同年六月八日、東使三人の僧達を具足し奉て、関東に下向す。彼忠円僧正と申は、浄土寺慈勝僧正の門弟として、十題判断の登科、一山無双の碩学也。文観僧正と申は、元は播磨国法華寺の住侶たりしが、壮年の比より醍醐寺に移住して、真言の大阿闍梨たりしかば、東寺の長者、醍醐の座主に補せられて、四種三密の棟梁たり。円観上人と申は、元は山徒にて御坐けるが、顕密両宗の才、一山に光有かと疑はれ、智行兼備の誉れ、諸寺に人無が如し。然ども久山門澆漓の風に随はゞ、情慢の幢高して、遂に天魔の掌握の中に落ぬべし。不如、公請論場の声誉を捨て、高祖大師の旧規に帰んにはと、一度名利の轡を返して、永く寂寞の苔の扉を閉給ふ。初の程は西塔の黒谷と云所に居を卜て、三衣を荷葉の秋の霜に重ね、一鉢を松華の朝の風に任給ひけるが、徳不孤必有隣、大明光を蔵ざりければ、遂に五代聖主の国師として、三聚浄戒の太祖たり。かゝる有智高行の尊宿たりと云へども、時の横災をば遁給はぬにや、又前世の宿業にや依けん。遠蛮の囚と成て、逆旅の月にさすらひ給、不思議なりし事ども也。円観上人計こそ、宗印・円照・道勝とて、如影随形の御弟子三人、随逐して輿の前後に供奉しけれ。其外文観僧正・忠円僧正には相随者一人も無て、怪なる店馬に乗せられて、見馴ぬ武士に打囲れ、まだ夜深きに鳥が鳴東の旅に出給ふ、心の中こそ哀なれ。鎌倉までも下し着けず、道にて失ひ奉るべしなんど聞へしかば、彼の宿に着ても今や限り、此の山に休めば是や限りと、露の命のある程も、心は先に消つべし。昨日も過今日も暮ぬと行程に、我とは急がぬ道なれど、日数積れば、六月二十四日に鎌倉にこそ着にけれ。円観上人をば佐介越前守、文観僧正をば佐介遠江守、忠円僧正をば足利讚岐守にぞ預らる。両使帰参して、彼僧達の本尊の形、炉壇の様、画図に写て註進す。俗人の見知るべき事ならねば、佐々目の頼禅僧正を請じ奉て、是を被見せに、「子細なき調伏の法也。」と申されければ、「去ば此僧達を嗷問せよ。」とて、侍所に渡して、水火の責をぞ致しける。文観房暫が程はいかに問れけれ共、落玉はざりけるが、水問重りければ、身も疲心も弱なりけるにや、「勅定に依て、調伏の法行たりし条子細なし。」と、白状せられけり。其後忠円房を嗷問せんとす。此僧正天性臆病の人にて、未責先に、主上山門を御語ひありし事、大塔の宮の御振舞、俊基の隠謀なんど、有もあらぬ事までも、残所なく白状一巻に載られたり。此上は何の疑か有べきなれ共、同罪の人なれば、閣べきに非ず。円観上人をも明日問奉るべき評定ありける。其夜相摸入道の夢に、比叡山の東坂本より、猿共二三千群来て、此上人を守護し奉る体にて、並居たりと見給ふ。夢の告只事ならずと思はれければ、未明に預人の許へ使者を遣し、「上人嗷問の事暫く閣べし。」と被下知処に、預人遮て相摸入道の方に来て申けるは、「上人嗷問の事、此暁既其沙汰を致候はん為に、上人の御方へ参て候へば、燭を挑て観法定坐せられて候。其御影後の障子に移て、不動明王の貌に見させ給候つる間、驚き存て、先事の子細を申入ん為に、参て候也。」とぞ申ける。夢想と云、示現と云、只人にあらずとて、嗷問の沙汰を止られけり。同七月十三日に、三人の僧達遠流の在所定て、文観僧正をば硫黄が嶋、忠円僧正をば越後国へ流さる。円観上人計をば遠流一等を宥て、結城上野入道に預られければ、奥州へ具足し奉、長途の旅にさすらひ給。左遷遠流と云ぬ計也。遠蛮の外に遷されさせ給へば、是も只同じ旅程の思にて、肇法師が刑戮の中に苦み、一行阿闍梨の火羅国に流されし、水宿山行の悲もかくやと思知れたり。名取川を過させ給とて上人一首の歌を読給ふ。陸奥のうき名取川流来て沈やはてん瀬々の埋木時の天災をば、大権の聖者も遁れ給はざるにや。昔天竺の波羅奈国に、戒定慧の三学を兼備し給へる独の沙門をはしけり。一朝の国師として四海の倚頼たりしかば、天下の人帰依偈仰せる事、恰大聖世尊の出世成道の如也。或時其国の大王法会を行ふべき事有て説戒の導師に此沙門をぞ請ぜられける。沙門則勅命に随て鳳闕に参ぜらる。帝折節碁を被遊ける砌へ、伝奏参て、沙門参内の由を奏し申けるを、遊しける碁に御心を入られて、是を聞食れず、碁の手に付て、「截れ。」と仰られけるを、伝奏聞誤りて、此沙門を刎との勅定ぞと心得て、禁門の外に出し、則沙門の首を刎てけり。帝碁をあそばしはてゝ、沙門を御前へ召ければ、典獄の官、「勅定に随て首を刎たり。」と申す。帝大に逆鱗ありて、「「行死定て後三奏す」と云へり。而を一言の下に誤を行て、朕が不徳をかさぬ。罪大逆に同じ。」とて、則伝奏を召出して三族の罪に行れけり。さて此沙門罪なくして死刑に逢ひ給ぬる事只事にあらず、前生の宿業にてをはすらんと思食れければ、帝其故を阿羅漢に問給ふ。阿羅漢七日が間、定に入て宿命通を得て過現を見給ふに、沙門の前生は耕作を業とする田夫也。帝の前生は水にすむ蛙にてぞ有ける。此田夫鋤を取て春の山田をかへしける時、誤て鋤のさきにて、蛙の頚をぞ切たりける。此因果に依て、田夫は沙門と生れ、蛙は波羅奈国の大王と生れ、誤て又死罪を行れけるこそ哀なれ。されば此上人も、何なる修因感果の理に依か、卦る不慮の罪に沈給ぬらんと、不思議也し事共也。
○俊基朝臣再関東下向事 S0204
俊基朝臣は、先年土岐十郎頼貞が討れし後、召取れて、鎌倉まで下給しかども、様々に陳じ申されし趣、げにもとて赦免せられたりけるが、又今度の白状共に、専隠謀の企、彼朝臣にありと載たりければ、七月十一日に又六波羅へ召取れて関東へ送られ給ふ。再犯不赦法令の定る所なれば、何と陳る共許されじ、路次にて失るゝか鎌倉にて斬るゝか、二の間をば離れじと、思儲てぞ出られける。落花の雪に蹈迷ふ、片野の春の桜がり、紅葉の錦を衣て帰、嵐の山の秋の暮、一夜を明す程だにも、旅宿となれば懶に、恩愛の契り浅からぬ、我故郷の妻子をば、行末も知ず思置、年久も住馴し、九重の帝都をば、今を限と顧て、思はぬ旅に出玉ふ、心の中ぞ哀なる。憂をば留ぬ相坂の、関の清水に袖濡て、末は山路を打出の浜、沖を遥見渡せば、塩ならぬ海にこがれ行、身を浮舟の浮沈み、駒も轟と踏鳴す、勢多の長橋打渡り、行向人に近江路や、世のうねの野に鳴鶴も、子を思かと哀也。時雨もいたく森山の、木下露に袖ぬれて、風に露散る篠原や、篠分る道を過行ば、鏡の山は有とても、泪に曇て見へ分ず。物を思へば夜間にも、老蘇森の下草に、駒を止て顧る、古郷を雲や隔つらん。番馬、醒井、柏原、不破の関屋は荒果て、猶もる物は秋の雨の、いつか我身の尾張なる、熱田の八剣伏拝み、塩干に今や鳴海潟、傾く月に道見へて、明ぬ暮ぬと行道の、末はいづくと遠江、浜名の橋の夕塩に、引人も無き捨小船、沈みはてぬる身にしあれば、誰か哀と夕暮の、入逢鳴ば今はとて、池田の宿に着給ふ。元暦元年の比かとよ、重衡中将の、東夷の為に囚れて、此宿に付給しに、「東路の丹生の小屋のいぶせきに、古郷いかに恋しかるらん。」と、長者の女が読たりし、其古の哀迄も、思残さぬ泪也。旅館の燈幽にして、鶏鳴暁を催せば、疋馬風に嘶へて、天竜河を打渡り、小夜の中山越行ば、白雲路を埋来て、そことも知ぬ夕暮に、家郷の天を望ても、昔西行法師が、「命也けり。」と詠つゝ、二度越し跡までも、浦山敷ぞ思はれける。隙行駒の足はやみ、日已亭午に昇れば、餉進る程とて、輿を庭前に舁止む。轅を叩て警固の武士を近付け、宿の名を問給ふに、「菊川と申也。」と答へければ、承久の合戦の時、院宣書たりし咎に依て、光親卿関東へ召下されしが、此宿にて誅せられし時、昔南陽懸菊水。汲下流而延齢。今東海道菊河。宿西岸而終命。と書たりし、遠き昔の筆の跡、今は我身の上になり。哀やいとゞ増りけん、一首の歌を詠て、宿の柱にぞ書れける。古もかゝるためしを菊川の同じ流に身をや沈めん大井河を過給へば、都にありし名を聞て、亀山殿の行幸の、嵐の山の花盛り、竜頭鷁首の舟に乗り、詩歌管絃の宴に侍し事も、今は二度見ぬ夜の夢と成ぬと思つゞけ給ふ。嶋田、藤枝に懸りて、岡辺の真葛裡枯て、物かなしき夕暮に、宇都の山辺を越行ば、蔦楓いと茂りて道もなし。昔業平の中将の住所を求とて、東の方に下とて、「夢にも人に逢ぬなりけり。」と読たりしも、かくやと思知れたり。清見潟を過給へば、都に帰る夢をさへ、通さぬ波の関守に、いとゞ涙を催され、向はいづこ三穂が崎・奥津・神原打過て、富士の高峯を見給へば、雪の中より立煙、上なき思に比べつゝ、明る霞に松見へて、浮嶋が原を過行ば、塩干や浅き船浮て、をり立田子の自も、浮世を遶る車返し、竹の下道行なやむ、足柄山の巓より、大磯小磯直下て、袖にも波はこゆるぎの、急としもはなけれども、日数つもれば、七月二十六日の暮程に、鎌倉にこそ着玉けれ。其日軈て、南条左衛門高直請取奉て、諏防左衛門に預らる。一間なる処に蜘手きびしく結て、押篭奉る有様、只地獄の罪人の十王の庁に渡されて、頚械手械を入られ、罪の軽重を糺すらんも、右やと思知れたり。
○長崎新左衛門尉意見事付阿新殿事 S0205
当今御謀反の事露顕の後御位は軈て持明院殿へぞ進らんずらんと、近習の人々青女房に至まで悦あへる処に、土岐が討れし後も曾て其沙汰もなし。今又俊基召下されぬれ共、御位の事に付ては何なる沙汰あり共聞ざりければ、持明院殿方の人々案に相違して五噫を謳者のみ多かりけり。さればとかく申進る人のありけるにや、持明院殿より内々関東へ御使を下され、「当今御謀反の企近日事已に急なり。武家速に糾明の沙汰なくば天下の乱近に有べし。」と仰られたりければ、相摸入道、「げにも。」と驚て、宗徒の一門・並頭人・評定衆を集て、「此事如何有べき。」と各所存を問る。然ども或は他に譲て口を閉、或は己を顧て言を出さゞる処に、執事長崎入道が子息新左衛門尉高資進出て申けるは、「先年土岐十郎が討れし時、当今の御位を改申さるべかりしを、朝憲に憚て御沙汰緩かりしに依て此事猶未休。乱を撥て治を致は武の一徳也。速に当今を遠国に遷し進せ、大塔宮を不返の遠流に所し奉り、俊基・資朝以下の乱臣を、一々に誅せらるゝより外は、別儀あるべしとも存候はず。」と、憚る処なく申けるを、二階堂出羽入道道蘊暫思案して申けるは、「此儀尤然るべく聞へ候へ共、退て愚案を廻すに、武家権を執て已に百六十余年、威四海に及、運累葉を耀すこと更に他事なし。唯上一人を仰奉て、忠貞に私なく、下百姓を撫て仁政に施ある故也。然に今君の寵臣一両人召置れ、御帰衣の高僧両三人流罪に処せらるゝ事も、武臣悪行の専一と云つべし。此上に又主上を遠所へ遷し進せ、天台座主を流罪に行れん事、天道奢を悪むのみならず、山門争か憤を含まざるべき。神怒人背かば、武運の危に近るべし。「君雖不君、不可臣以不臣」と云へり。御謀反の事君縦思食立とも、武威盛ならん程は与し申者有べからず。是に付ても武家弥よ慎で勅命に応ぜば、君もなどか思食直す事無らん。かくてぞ国家の泰平、武運の長久にて候はんと存るは、面々如何思食候。」と申けるを、長崎新左衛門尉又自余の意見をも不待、以の外に気色を損じて、重て申けるは、「文武揆一也と云へ共、用捨時異るべし。静なる世には文を以て弥治め、乱たる時には武を以急に静む。故戦国の時には孔盂不足用、太平の世には干戈似無用。事已に急に当りたり。武を以て治むべき也。異朝には文王・武王、臣として、無道の君を討し例あり。吾朝には義時・泰時、下として不善の主を流す例あり。世みな是を以て当れりとす。されば古典にも、「君視臣如土芥則臣視君如冦讎。」と云へり。事停滞して武家追罰の宣旨を下されなば、後悔すとも益有べからず。只速に君を遠国に遷し進せ、大塔の宮を硫黄が嶋へ流奉り、隠謀の逆臣、資朝・俊基を誅せらるゝより外の事有べからず。武家の安泰万世に及べしとこそ存候へ。」と、居長高に成て申ける間、当座の頭人・評定衆、権勢にや阿けん、又愚案にや落けん、皆此義に同じければ、道蘊再往の忠言に及ばず眉を顰て退出す。さる程に、「君の御謀反を申勧けるは、源中納言具行・右少弁俊基・日野中納言資朝也、各死罪に行るべし。」と評定一途に定て、「先去年より佐渡国へ流されてをはする資朝卿を斬奉べし。」と、其国の守護本間山城入道に被下知。此事京都に聞へければ、此資朝の子息国光の中納言、其比は阿新殿とて歳十三にてをはしけ〔る〕が、父の卿召人に成玉しより、仁和寺辺に隠て居られけるが、父誅せられ給べき由を聞て、「今は何事にか命を惜むべき。父と共に斬れて冥途の旅の伴をもし、又最後の御有様をも見奉るべし。」とて母に御暇をぞ乞れける。母御頻に諌て、「佐渡とやらんは、人も通はぬ怖しき嶋とこそ聞れ。日数を経る道なればいかんとしてか下べき。其上汝にさへ離ては、一日片時も命存べしとも覚へず。」と、泣悲て止ければ、「よしや伴ひ行人なくば、何なる淵瀬にも身を投て死なん。」と申ける間、母痛止ば、又目の前に憂別も有ぬべしと思侘て、力なく今迄只一人付副たる中間を相そへられて、遥々と佐渡国へぞ下ける。路遠けれども乗べき馬もなければ、はきも習ぬ草鞋に、菅の小笠を傾て、露分わくる越路の旅、思やるこそ哀なれ。都を出て十三日と申に、越前の敦賀の津に着にけり。是より商人船に乗て、程なく佐渡国へぞ着にける。人して右と云べき便もなければ、自本間が館に致て中門の前にぞ立たりける。境節僧の有けるが立出て、「此内への御用にて御立候か。又何なる用にて候ぞ。」と問ければ、阿新殿、「是は日野中納言の一子にて候が、近来切られさせ給べしと承て、其最後の様をも見候はんために都より遥々と尋下て候。」と云もあへず、泪をはら/\と流しければ、此僧心有ける人也ければ、急ぎ此由を本間に語るに、本間も岩木ならねば、さすが哀にや思けん、軈て此僧を以持仏堂へいざなひ入て、蹈皮行纒解せ足洗て、疎ならぬ体にてぞ置たりける。阿新殿是をうれしと思に付ても、同は父の卿を疾見奉ばやと云けれ共、今日明日斬らるべき人に是を見せては、中々よみ路の障とも成ぬべし。又関東の聞へもいかゞ有らんずらんとて、父子の対面を許さず、四五町隔たる処に置たれば、父の卿は是を聞て、行末も知ぬ都にいかゞ有らんと、思やるよりも尚悲し。子は其方を見遣て、浪路遥に隔たりし鄙のすまゐを想像て、心苦く思つる泪は更に数ならずと、袂の乾くひまもなし。是こそ中納言のをはします楼の中よとて見やれば、竹の一村茂りたる処に、堀ほり廻し屏塗て、行通ふ人も稀也。情なの本間が心や。父は禁篭せられ子は未稚なし。縦ひ一所に置たりとも、何程の怖畏か有べきに、対面をだに許さで、まだ同世の中ながら生を隔たる如にて、なからん後の苔の下、思寝に見ん夢ならでは、相看ん事も有がたしと、互に悲む恩愛の、父子の道こそ哀なれ。五月二十九日の暮程に、資朝卿を篭より出し奉て、「遥に御湯も召れ候はぬに、御行水候へ。」と申せば、早斬らるべき時に成けりと思給て、「嗚呼うたてしき事かな、我最後の様を見ん為に、遥々と尋下たる少者を一目も見ずして、終ぬる事よ。」と計り宣て、其後は曾て諸事に付て言をも出給はず。今朝迄は気色しほれて、常には泪を押拭ひ給けるが、人間の事に於ては頭燃を払ふ如に成ぬと覚て、只綿密の工夫の外は、余念有りとも見へ給はず。夜に入れば輿さし寄て乗せ奉り、爰より十町許ある河原へ出し奉り、輿舁居たれば、少も臆したる気色もなく、敷皮の上に居直て、辞世の頌を書給ふ。五蘊仮成形。四大今帰空。将首当白刃。截断一陣風。年号月日の下に名字を書付て、筆を閣き給へば、切手後へ回るとぞ見へし、御首は敷皮の上に落て質は尚坐せるが如し。此程常に法談なんどし給ひける僧来て、葬礼如形取営み、空き骨を拾て阿新に奉りければ、阿新是を一目見て、取手も撓倒伏、「今生の対面遂に叶ずして、替れる白骨を見る事よ。」と泣悲も理也。阿新未幼稚なれ共、けなげなる所存有ければ、父の遺骨をば只一人召仕ける中間に持せて、「先我よりさきに高野山に参て奥の院とかやに収よ。」とて都へ帰し上せ、我身は労る事有る由にて尚本間が館にぞ留りける。是は本間が情なく、父を今生にて我に見せざりつる鬱憤を散ぜんと思ふ故也。角て四五日経ける程に、阿新昼は病由にて終日に臥し、夜は忍やかにぬけ出て、本間が寝処なんど細々に伺て、隙あらば彼入道父子が間に一人さし殺して、腹切らんずる物をと思定てぞねらいける。或夜雨風烈しく吹て、番する郎等共も皆遠侍に臥たりければ、今こそ待処の幸よと思て、本間が寝処の方を忍て伺に、本間が運やつよかりけん、今夜は常の寝処を替て、何くに有とも見へず。又二間なる処に燈の影の見へけるを、是は若本間入道が子息にてや有らん。其なりとも討て恨を散ぜんと、ぬけ入て是を見るに、其さへ爰には無して、中納言殿を斬奉し本間三郎と云者ぞ只一人臥たりける。よしや是も時に取ては親の敵也。山城入道に劣るまじと思て走りかゝらんとするに、我は元来太刀も刀も持ず、只人の太刀を我物と憑たるに、燈殊に明なれば、立寄ば軈て驚合ふ事もや有んずらんと危で、左右なく寄ゑず。何がせんと案じ煩て立たるに、折節夏なれば灯の影を見て、蛾と云虫のあまた明障子に取付たるを、すはや究竟の事こそ有れと思て障子を少引あけたれば、此虫あまた内へ入て軈て灯を打けしぬ。今は右とうれしくて、本間三郎が枕に立寄て探るに、太刀も刀も枕に有て、主はいたく寝入たり。先刀を取て腰にさし、太刀を抜て心もとに指当て、寝たる者を殺は死人に同じければ、驚さんと思て、先足にて枕をはたとぞ蹴たりける。けられて驚く処を、一の太刀に臍の上を畳までつとつきとをし、返す太刀に喉ぶゑ指切て、心閑に後の竹原の中へぞかくれける。本間三郎が一の太刀に胸を通されてあつと云声に、番衆ども驚騒で、火を燃して是を見るに、血の付たるちいさき足跡あり。「さては阿新殿のしわざ也。堀の水深ければ、木戸より外へはよも出じ。さがし出て打殺せ。」とて、手々松明をとぼし、木の下、草の陰まで残処無ぞさがしける。阿新は竹原の中に隠れながら、今は何くへか遁るべき。人手に懸らんよりは、自害をせばやと思はれけるが、悪しと思親の敵をば討つ、今は何もして命を全して、君の御用にも立、父の素意をも達したらんこそ忠臣孝子の儀にてもあらんずれ、若やと一まど落て見ばやと思返して、堀を飛越んとしけるが、口二丈深さ一丈に余りたる堀なれば、越べき様も無りけり。さらば是を橋にして渡んよと思て、堀の上に末なびきたる呉竹の梢へさら/\と登たれば、竹の末堀の向へなびき伏て、やす/\と堀をば越てげり。夜は未深し、湊の方へ行て、舟に乗てこそ陸へは着めと思て、たどるたどる浦の方へ行程に、夜もはや次第に明離て忍べき道もなければ、身を隠さんとて日を暮し、麻や蓬の生茂たる中に隠れ居たれば、追手共と覚しき者共百四五十騎馳散て、「若十二三計なる児や通りつる。」と、道に行合人毎に問音してぞ過行ける。阿新其日は麻の中にて日を暮し、夜になれば湊へと心ざして、そことも知ず行程に、孝行の志を感じて、仏神擁護の眸をや回らされけん、年老たる山臥一人行合たり。此児の有様を見て痛しくや思けん、「是は何くより何をさして御渡り候ぞ。」と問ければ、阿新事の様をありの侭にぞ語りける。山臥是を聞て、我此人を助けずば、只今の程にかはゆき目を見るべしと思ければ、「御心安く思食れ候へ。湊に商人舟共多候へば、乗せ奉て越後・越中の方まで送付まいらすべし。」と云て、足たゆめば、此児を肩に乗せ背に負て、程なく湊にぞ行着ける。夜明て便船やあると尋けるに、折節湊の内に舟一艘も無りけり。如何せんと求る処に、遥の澳に乗うかべたる大船、順風に成ぬと見て檣を立篷をまく。山臥手を上て、「其船是へ寄てたび給へ、便船申さん。」と呼りけれ共、曾て耳にも聞入ず、舟人声を帆に上て湊の外に漕出す。山臥大に腹を立て柿の衣の露を結で肩にかけ、澳行舟に立向て、いらたか誦珠をさら/\と押揉て、「一持秘密咒、生々而加護、奉仕修行者、猶如薄伽梵と云へり。況多年の勤行に於てをや。明王の本誓あやまらずば、権現金剛童子・天竜夜叉・八大龍王、其船此方へ漕返てたばせ給へ。」と、跳上々々肝胆を砕てぞ祈りける。行者の祈り神に通じて、明王擁護やしたまひけん、澳の方より俄に悪風吹来て、此舟忽覆らんとしける間、舟人共あはてゝ、「山臥の御房、先我等を御助け候へ。」と手を合膝をかゞめ、手々に舟を漕もどす。汀近く成ければ、船頭舟より飛下て、児を肩にのせ、山臥の手を引て、屋形の内に入たれば、風は又元の如に直りて、舟は湊を出にけり。其後追手共百四五十騎馳来り、遠浅に馬を叩て、「あの舟止れ。」と招共、舟人是を見ぬ由にて、順風に帆を揚たれば、舟は其日の暮程に、越後の府にぞ着にける。阿新山臥に助られて、鰐口の死を遁しも、明王加護の御誓掲焉なりける験也。
○俊基被誅事並助光事 S0206
俊基朝臣は殊更謀叛の張本なれば、遠国に流すまでも有べからず、近日に鎌倉中にて斬奉るべしとぞ被定たる。此人多年の所願有て、法華経を六百部自ら読誦し奉るが、今二百部残りけるを、六百部に満る程の命を被相待候て、其後兎も角も被成候へと、頻に所望有ければ、げにも其程の大願を果させ奉らざらんも罪也とて、今二百部の終る程僅の日数を待暮す、命の程こそ哀なれ。此朝臣の多年召仕ける青侍に後藤左衛門尉助光と云者あり。主の俊基召取られ給し後、北方に付進せ嵯峨の奥に忍て候けるが、俊基関東へ被召下給ふ由を聞給て、北方は堪ぬ思に伏沈て歎悲給けるを見奉に、不堪悲して、北の方の御文を給て、助光忍て鎌倉へぞ下ける。今日明日の程と聞へしかば、今は早斬れもやし給ひつらんと、行逢人に事の由を問々、程なく鎌倉にこそ着にけれ。右少弁俊基のをはする傍に宿を借て、何なる便もがな、事の子細を申入んと伺けれども、不叶して日を過しける処に、今日こそ京都よりの召人は斬れ給べきなれ、あな哀れや、なんど沙汰しければ、助光こは如何がせんと肝を消し、此彼に立て見聞しければ、俊基已に張輿に乗せられて粧坂へ出給ふ。爰にて工藤二郎左衛門尉請取て、葛原岡に大幕引て、敷皮の上に坐し給へり。是を見ける助光が心中譬て云ん方もなし。目くれ足もなへて、絶入る計に有けれども、泣々工藤殿が前に進出て、「是は右少弁殿の伺候の者にて候が、最後の様見奉候はん為に遥々と参候。可然は御免を蒙て御前に参り、北方の御文をも見参に入候はん。」と申もあへず、泪をはら/\と流ければ、工藤も見るに哀を催されて、不覚の泪せきあへず。「子細候まじ、早幕の内へ御参候へ。」とぞ許しける。助光幕の内に入て御前に跪く。俊基は助光を打見て、「いかにや。」と計宣て、軈て泪に咽び給ふ。助光も、「北方の御文にて候。」とて、御前に差置たる計にて、是も涙にくれて、顔をも持あげず泣居たり。良暫く有て、俊基涙を押拭ひ、文を見給へば、「消懸る露の身の置所なきに付ても、何なる暮にか、無世の別と承り候はんずらんと、心を摧く涙の程、御推量りも尚浅くなん。」と、詞に余て思の色深く、黒み過るまで書れたり。俊基いとゞ涙にくれて、読かね給へる気色、見人袖をぬらさぬは無りけり。「硯やある。」と宣へば、矢立を御前に指置ば、硯の中なる小刀にて鬢の髪を少し押切て、北方の文に巻そへ、引返し一筆書て助光が手に渡し給へば、助光懐に入て泣沈たる有様、理りにも過て哀也。工藤左衛門幕の内に入て、「余りに時の移り候。」と勧れば、俊基畳紙を取出し、頚の回り押拭ひ、其紙を推開て、辞世の頌を書給ふ。古来一句。無死無生。万里雲尽。長江水清。筆を閣て、鬢の髪を摩給ふ程こそあれ、太刀かげ後に光れば、頚は前に落けるを、自ら抱て伏給ふ。是を見奉る助光が心の中、謦て云ん方もなし。さて泣々死骸を葬し奉り、空き遺骨を頚に懸、形見の御文身に副て、泣々京へぞ上りける。北方は助光を待付て、弁殿の行末を聞ん事の喜しさに、人目も憚ず、簾より外に出迎ひ、「いかにや弁殿は、何比に御上可有との御返事ぞ。」と問給へば、助光はら/\と泪をこぼして、「はや斬れさせ給て候。是こそ今はのきはの御返事にて候へ。」とて、鬢の髪と消息とを差あげて声も惜まず泣ければ、北方は形見の文と白骨を見給て、内へも入給ず、縁に倒伏し、消入給ぬと驚く程に見へ給ふ。理なる哉、一樹の陰に宿り一河の流を汲む程も、知れず知らぬ人にだに、別れとなれば名残を惜習なるに、況や連理の契不浅して、十年余りに成ぬるに夢より外は又も相見ぬ、此世の外の別と聞て、絶入り悲み玉ふぞ理りなる。四十九日と申に形の如の仏事営て、北の方様をかへ、こき墨染に身をやつし、柴の扉の明くれは、亡夫の菩提をぞ訪ひ玉ける。助光も髻切て、永く高野山に閉篭て、偏に亡君の後生菩提をぞ訪奉ける。夫婦の契、君臣の儀、無跡迄も留て哀なりし事共也。
○天下怪異事 S0207
嘉暦二年の春の比南都大乗院禅師房と六方の大衆と、確執の事有て合戦に及ぶ。金堂、講堂、南円堂、西金堂、忽に兵火の余煙に焼失す。又元弘元年、山門東塔の北谷より兵火出来て、四王院、延命院、大講堂、法華堂、常行堂、一時に灰燼と成ぬ。是等をこそ、天下の災難を兼て知する処の前相かと人皆魂を冷しけるに、同年の七月三日大地震有て、紀伊国千里浜の遠干潟、俄に陸地になる事二十余町也。又同七日の酉の刻に地震有て、富士の絶頂崩るゝ事数百丈也と。卜部の宿祢、大亀を焼て占ひ、陰陽の博士、占文を啓て見に、「国王位を易、大臣遭災。」とあり。「勘文の表不穏、尤御慎可有。」と密奏す。寺々の火災所々の地震只事に非ず。今や不思義出来と人々心を驚しける処に、果して其年の八月二十二日、東使両人三千余騎にて上洛すと聞へしかば、何事とは知ず京に又何なる事や有んずらんと、近国の軍勢我も我もと馳集る。京中何となく、以外に騒動す。両使已に京着して未文箱をも開ぬ先に、何とかして聞へけん。「今度東使の上洛は主上を遠国へ遷進せ、大塔宮を死罪に行奉ん為也。」と、山門に披露有ければ、八月二十四日の夜に入て、大塔宮より潛に御使を以て主上へ申させ玉ひけるは、「今度東使上洛の事内々承候へば、皇居を遠国へ遷奉り、尊雲を死罪に行ん為にて候なる。今夜急ぎ南都の方へ御忍び候べし。城郭未調、官軍馳参ぜざる先に、凶徒若皇居に寄来ば、御方防戦に利を失ひ候はんか。且は京都の敵を遮り止んが為、又は衆徒の心を見んが為に、近臣を一人、天子の号を許れて山門へ被上せ、臨幸の由を披露候はゞ、敵軍定て叡山に向て合戦を致し候はん歟。去程ならば衆徒吾山を思故に、防戦に身命を軽じ候べし。凶徒力疲れ合戦数日に及ばゞ、伊賀・伊勢・大和・河内の官軍を以て却て京都を被攻んに、凶徒の誅戮踵を回すべからず。国家の安危只此一挙に可有候也。」と被申たりける間、主上只あきれさせ玉へる計にて何の御沙汰にも及玉はず。尹大納言師賢・万里小路中納言藤房・同舎弟季房三四人上臥したるを御前に召れて、「此事如何可有。」と被仰出ければ、藤房卿進で被申けるは、「逆臣君を犯し奉らんとする時、暫其難を避て還て国家を保は、前蹤皆佳例にて候。所謂重耳は■に奔り、大王■に行く。共に王業をなして子孫無窮に光を栄し候き。兔角の御思案に及候はゞ、夜も深候なん。早御忍候へ。」とて、御車を差寄、三種の神器を乗奉り、下簾より出絹出して女房車の体に見せ、主上を扶乗進て、陽明門より成奉る。御門守護の武士共御車を押へて、「誰にて御渡り候ぞ。」と問申ければ、藤房・季房二人御車に随て供奉したりけるが、「是は中宮の夜に紛て北山殿へ行啓ならせ給ふぞ。」と宣たりければ、「さては子細候はじ。」とて御車をぞ通しける。兼て用意やしたりけん、源中納言具行・按察大納言公敏・六条少将忠顕、三条河原にて追付奉る。此より御車をば被止、怪げなる張輿に召替させ進せたれども、俄の事にて駕輿丁も無りければ、大膳大夫重康・楽人豊原兼秋・随身秦久武なんどぞ御輿をば舁奉りける。供奉の諸卿皆衣冠を解で折烏帽子に直垂を着し、七大寺詣する京家の青侍なんどの、女性を具足したる体に見せて、御輿の前後にぞ供奉したりける。古津石地蔵を過させ玉ひける時、夜は早若々と明にけり。此にて朝餉の供御を進め申て、先づ南都の東南院へ入せ玉ふ。彼僧正元より弐ろなき忠義を存ぜしかば、先づ臨幸なりたるをば披露せで衆徒の心を伺聞に、西室顕実僧正は関東の一族にて、権勢の門主たる間、皆其威にや恐れたりけん、与力する衆徒も無りけり。かくては南都の皇居叶まじとて、翌日二十六日、和束の鷲峯山へ入せ玉ふ。此は又余りに山深く里遠して、何事の計畧も叶まじき処なれば、要害に御陣を召るべしとて、同二十七日潛幸の儀式を引つくろひ、南都の衆徒少々召具せられて、笠置の石室へ臨幸なる。
○師賢登山事付唐崎浜合戦事 S0208
尹大納言師賢卿は、主上の内裏を御出有し夜、三条河原迄被供奉たりしを、大塔宮より様々被仰つる子細あれば、臨幸由にて山門へ登り、衆徒の心をも伺ひ、又勢をも付て合戦を致せと被仰ければ、師賢法勝寺の前より、袞竜の御衣を着て、腰輿に乗替て山門の西塔院へ登玉ふ。四条中納言隆資・二条中将為明・中院左中将貞平、皆衣冠正して、供奉の体に相順ふ。事の儀式誠敷ぞ見へたりける。西塔の釈迦堂を皇居と被成、主上山門を御憑有て臨幸成たる由披露有ければ、山上・坂本は申に及ばず、大津・松本・戸津・比叡辻・仰木・絹河・和仁・堅田の者迄も、我前にと馳参。其勢東西両塔に充満して、雲霞の如にぞ見へたりける。懸りけれども、六波羅には未曾是を知らず。夜明ければ東使両人内裏へ参て、先づ行幸を六波羅へ成奉んとて打立ける処に、浄林房阿闍梨豪誉が許より、六波羅へ使者を立て、「今夜の寅の刻に、主上山門を御憑有て臨幸成りたる間、三千の衆徒悉く馳参り候。近江・越前の御勢を待て、明日は六波羅へ被寄べき由評定あり。事の大に成り候はぬ先に、急ぎ東坂本へ御勢を被向候へ。豪誉後攻仕て、主上をば取奉るべし。」とぞ申たりける。両六波羅大に驚て先内裡へ参て見奉るに、主上は御坐無て、只局町女房達此彼にさしつどひて、鳴声のみぞしたりける。「さては山門へ落させ玉たる事子細なし。勢つかぬ前に山門を攻よ。」とて、四十八箇所の篝に畿内五箇国の勢を差添て、五千余騎追手の寄手として、赤山の麓、下松の辺へ指向らる。搦手へは佐々木三郎判官時信・海東左近将監・長井丹後守宗衡・筑後前司貞知・波多野上野前司宣道・常陸前司時朝に、美濃・尾張・丹波・但馬の勢をさしそへて七千余騎、大津、松本を経て、唐崎の松の辺まで寄懸たり。坂本には兼てより相図を指たる事なれば、妙法院・大塔宮両門主、宵より八王子へ御上あて、御旗を被揚たるに、御門徒の護正院の僧都祐全・妙光坊の阿闍梨玄尊を始として、三百騎五百騎此彼より馳参りける程に、一夜の間に御勢六千余騎に成にけり。天台座主を始て解脱同相の御衣を脱給て、堅甲利兵の御貌に替る。垂跡和光の砌り忽に変て、勇士守禦の場と成ぬれば、神慮も何が有らんと計り難ぞ覚たる。去程に、六波羅勢已に戸津の宿辺まで寄たりと坂本の内騒動しければ、南岸円宗院・中坊勝行房・早雄の同宿共、取物も取あへず唐崎の浜へ出合げる。其勢皆かち立にて而も三百人には過ざりけり。海東是を見て、「敵は小勢也けるぞ、後陣の勢の重ならぬ前に懸散さでは叶まじ。つゞけや者共。」と云侭に、三尺四寸の太刀を抜て、鎧の射向の袖をさしかざし、敵のうず巻て扣へたる真中へ懸入、敵三人切ふせ、波打際に扣へて続く御方をぞ待たりける。岡本房の幡磨竪者快実遥に是を見て、前につき双たる持楯一帖岸破と蹈倒し、に尺八寸の小長刀水車に回して躍り懸る。海東是を弓手にうけ、胄の鉢を真二に打破んと、隻手打に打けるが、打外して、袖の冠板より菱縫の板まで、片筋かいに懸ず切て落す。二の太刀を余りに強く切んとて弓手の鐙を踏をり、已に馬より落んとしけるが、乗直りける処を、快実長刀の柄を取延、内甲へ鋒き上に、二つ三つすき間もなく入たりけるに、海東あやまたず喉ぶゑを突れて馬より真倒に落にけり。快実軈て海東が上巻に乗懸り、鬢の髪を掴で引懸て、頚かき切て長刀に貫き、武家の太将一人討取りたり、物始よし、と悦で、あざ笑てぞ立たりける。爰に何者とは知ず見物衆の中より、年十五六計なる小児の髪唐輪に上たるが、麹塵の筒丸に、大口のそば高く取り、金作の小太刀を抜て快実に走懸り、甲の鉢をしたゝかに三打四打ぞ打たりける。快実屹と振帰て是を見るに、齢二八計なる小児の、大眉に鉄漿黒也。是程の小児を討留たらんは、法師の身に取ては情無し。打たじとすれば、走懸々々手繁く切回りける間、よし/\さらば長刀の柄にて太刀を打落て、組止めんとしける処を、比叡辻の者共が田の畔に立渡て射ける横矢に、此児胸板をつと被射抜て、矢庭に伏て死にけり。後に誰ぞと尋れば、海東が嫡子幸若丸と云ける小児、父が留置けるに依て軍の伴をばせざりけるが、猶も覚束なくや思けん、見物衆に紛て跡に付て来ける也。幸若稚しと云へ共武士の家に生たる故にや、父が討れけるを見て、同く戦場に打死して名を残けるこそ哀なれ。海東が郎等是を見て、「二人の主を目の前に討せ、剰へ頚を敵に取せて、生て帰る者や可有。」とて、三十六騎の者共轡を双て懸入、主の死骸を枕にして討死せんと相争ふ。快実是を見てから/\と打笑て、「心得ぬ物哉。御辺達は敵の首をこそ取らんずるに、御方の首をほしがるは武家自滅の瑞相顕れたり。ほしからば、すは取らせん。」と云侭に、持たる海東が首を敵の中へがはと投懸、坂本様の拝み切、八方を払て火を散す。三十六騎の者共、快実一人に被切立て、馬の足をぞ立かねたる。佐々木三郎判官時信後に引へて、「御方討すな、つゞけや。」と下知しければ、伊庭・目賀多・木村・馬淵、三百余騎呼て懸る。快実既に討れぬと見へける処に、桂林房の悪讚岐・中房の小相摸・勝行房の侍従竪者定快・金蓮房の伯耆直源、四人左右より渡合て、鋒を指合て切て回る。讚岐と直源と同じ処にて打れにければ、後陣の衆徒五十余人連て又討て懸る。唐崎の浜と申は東は湖にて、其汀崩たり。西は深田にて馬の足も立ず、平沙渺々として道せばし。後へ取まはさんとするも叶ず、中に取篭んとするも叶ず。されば衆徒も寄手も互に面に立たる者計戦て、後陣の勢はいたづらに見物してぞ磬へたる。已に唐崎に軍始りたりと聞へければ、御門徒の勢三千余騎、白井の前を今路へ向ふ。本院の衆徒七千余人、三宮林を下降る。和仁・堅田の者共は、小舟三百余艘に取乗て、敵の後を遮んと、大津をさして漕回す。六波羅勢是を見て、叶はじとや思けん、志賀の炎魔堂の前を横切に、今路に懸て引帰す。衆徒は案内者なれば、此彼の逼々に落合て散々に射る。武士は皆無案内なれば、堀峪とも云ず馬を馳倒して引かねける間、後陣に引ける海東が若党八騎・波多野が郎等十三騎・真野入道父子二人・平井九郎主従二騎谷底にして討れにけり。佐々木判官も馬を射させて乗がへを待程に、大敵左右より取巻て既に討れぬとみへけるを、名を惜み命を軽んずる若党共、帰合々々所々にて討死しける其間に、万死を出て一生に合ひ、白昼に京へ引帰す。此比迄は天下久静にして、軍と云事は敢て耳にも触ざりしに、俄なる不思議出来ぬれば、人皆あはて騒で、天地も只今打返す様に、沙汰せぬ処も無りけり。
○持明院殿御幸六波羅事 S0209
世上乱たる時節なれば、野心の者共の取進する事もやとて、昨日二十七日の巳刻に、持明院本院・春宮両御所、六条殿より、六波羅の北方へ御幸なる。供奉の人人には、今出川前右大臣兼季公・三条大納言通顕・西園寺大納言公宗・日野前中納言資名・防城宰相経顕・日野宰相資明、皆衣冠にて御車の前後に相順ふ。其外の北面・諸司・格勤は、大略狩衣の下に腹巻を着映したるもあり。洛中須臾に反化して、六軍翠花を警固し奉る。見聞耳目を驚かせり。
○主上臨幸依非実事山門変儀事付紀信事 S0210
山門の大衆唐崎の合戦に打勝て、事始よしと喜合る事斜ならず。爰に西塔を皇居に被定る条、本院面目無に似り。寿永の古へ、後白川院山門を御憑有し時も、先横川へ御登山有しか共、軈て東塔の南谷、円融坊へこそ御移有しか。且は先蹤也、且は吉例也。早く臨幸を本院へ可成奉と、西塔院へ触送る。西塔の衆徒理にをれて、仙蹕を促ん為に皇居に参列す。折節深山をろし烈して、御簾を吹上たるより、竜顔を拝し奉たれば、主上にてはをわしまさず、尹大納言師賢の、天子の袞衣を着し給へるにてぞ有ける。大衆是を見て、「こは何なる天狗の所行ぞや。」と興をさます。其後よりは、参る大衆一人もなし。角ては山門何なる野心をか存ぜんずらんと学へければ、其夜の夜半計に、尹大納言師賢・四条中納言隆資・二条中将為明、忍で山門を落て笠置の石室へ被参る。去程に上林房阿闍梨豪誉は、元来武家へ心を寄しかば、大塔宮の執事、安居院の中納言法印澄俊を生捕て六波羅へ是を出す。護正院僧都猷全は、御門徒の中の大名にて八王子の一の木戸を堅たりしかば、角ては叶じとや思けん、同宿手の者引つれて、六波羅へ降参す。是を始として、独り落二人落、々行ける間、今は光林房律師源存・妙光房の小相摸・中坊の悪律師、三四人より外は落止る衆徒も無りけり。妙法院と大塔宮とは、其夜迄尚八王子に御坐ありけるが、角ては悪りぬべしと、一まども落延て、君の御行末をも承らばやと思召れければ、二十九日の夜半計に、八王子に篝火をあまた所に焼て、未大勢篭たる由を見せ、戸津浜より小舟に召れ、落止る所の衆徒三百人計を被召具て、先石山へ落させ給ふ。此にて両門主一所へ落させ給はん事は、計略遠からぬに似たる上、妙法院は御行歩もかひ/゛\しからねば、只暫此辺に御座有べしとて、石山より二人引別させ給て、妙法院は笠置へ超させ給へば、大塔宮は十津河の奥へと志て、先南都の方へぞ落させ給ける。さしもやごとなき一山の貫首の位を捨て、未習せ給はぬ万里漂泊の旅に浮れさせ給へば、医王山王の結縁も是や限りと名残惜く、竹園連枝の再会も今は何をか可期と、御心細被思召ければ、互に隔たる御影の隠るゝまでに顧て、泣々東西へ別させ給ふ、御心の中こそ悲けれ。抑今度主上、誠に山門へ臨幸不成に依て、衆徒の意忽に変ずること、一旦事ならずと云へ共、倩事の様を案るに、是叡智の不浅る処に出たり。昔強秦亡て後、楚の項羽と漢高祖と国を争事八箇年、軍を挑事七十余箇度也。其戦の度毎に、項羽常に勝に乗て、高祖甚苦める事多し。或時高祖■陽城に篭る。項羽兵を以て城を囲事数百重也。日を経て城中に粮尽て兵疲れければ、高祖戦んとするに力なく、遁んとするに道なし。此に高祖の臣に紀信と云ける兵、高祖に向て申けるは、「項羽今城を囲ぬる事数百重、漢已に食尽て士卒又疲たり。若兵を出して戦はゞ、漢必楚の為に擒とならん。只敵を欺て潛に城を逃出んにはしかじ。願くは臣今漢王の諱を犯して楚の陣に降せん。楚此に囲を解て臣を得ば、漢王速に城を出て重て大軍を起し、却て楚を亡し給へ。」と申ければ、紀信が忽に楚に降て殺れん事悲しけれ共、高祖社稷の為に身を軽くすべきに非ざれば、力無く涙ををさへ、別を慕ながら紀信が謀に随給ふ。紀信大に悦で、自漢王の御衣を着し、黄屋の車に乗り、左纛をつけて、「高祖罪を謝して、楚の大王に降す。」と呼て、城の東門より出たりけり。楚の兵是を聞て、四面の囲を解て一所に集る。軍勢皆万歳を唱。此間に高祖三十余騎を従へて、城の西門より出て成皐へぞ落給ける。夜明て後楚に降る漢王を見れば、高祖には非ず。其臣に紀信と云者なりけり。項羽大に忿て、遂に紀信を指殺す。高祖頓て成皐の兵を率して、却て項羽を攻む。項羽が勢尽て後遂に烏江にして討れしかば、高祖長く漢の王業を起して天下の主と成にけり。今主上も懸し佳例を思召、師賢も加様の忠節を被存けるにや。彼は敵の囲を解せん為に偽り、是は敵の兵を遮らん為に謀れり。和漢時異れども、君臣体を合たる、誠に千載一遇の忠貞、頃刻変化の智謀也。


太平記

太平記巻第三
○主上御夢事付楠事 S0301
元弘元年八月二十七日、主上笠置へ臨幸成て本堂を皇居となさる。始一両日の程は武威に恐れて、参り任る人独も無りけるが、叡山東坂本の合戦に、六波羅勢打負ぬと聞へければ、当寺の衆徒を始て、近国の兵共此彼より馳参る。されども未名ある武士、手勢百騎とも二百騎とも、打せたる大名は一人も不参。此勢許にては、皇居の警固如何有べからんと、主上思食煩はせ給て、少し御まどろみ有ける御夢に、所は紫宸殿の庭前と覚へたる地に、大なる常盤木あり。緑の陰茂て、南へ指たる枝殊に栄へ蔓れり。其下に三公百官位に依て列坐す。南へ向たる上座に御坐の畳を高く敷、未坐したる人はなし。主上御夢心地に、「誰を設けん為の座席やらん。」と怪しく思食て、立せ給ひたる処に、鬟結たる童子二人忽然として来て、主上の御前に跪き、涙を袖に掛て、「一天下の間に、暫も御身を可被隠所なし。但しあの樹の陰に南へ向へる座席あり。是御為に設たる玉■にて候へば、暫く此に御座候へ。」と申て、童子は遥の天に上り去ぬと御覧じて、御夢はやがて覚にけり。主上是は天の朕に告る所の夢也と思食て、文字に付て御料簡あるに、木に南と書たるは楠と云字也。其陰に南に向ふて坐せよと、二人の童子の教へつるは、朕再び南面の徳を治て、天下の士を朝せしめんずる処を、日光月光の被示けるよと、自ら御夢を被合て、憑敷こそ被思食けれ。夜明ければ当寺の衆徒、成就房律師を被召、「若此辺に楠と被云武士や有。」と、御尋有ければ、「近き傍りに、左様の名字付たる者ありとも、未承及候。河内国金剛山の西にこそ、楠多門兵衛正成とて、弓矢取て名を得たる者は候なれ。是は敏達天王四代の孫、井手左大臣橘諸兄公の後胤たりと云へども、民間に下て年久し。其母若かりし時、志貴の毘沙門に百日詣て、夢想を感じて設たる子にて候とて、稚名を多門とは申候也。」とぞ答へ申ける。主上、さては今夜の夢の告是也と思食て、「頓て是を召せ。」と被仰下ければ、藤房卿勅を奉て、急ぎ楠正成をぞ被召ける。勅使宣旨を帯して、楠が館へ行向て、事の子細を演られければ、正成弓矢取る身の面目、何事か是に過んと思ければ、是非の思案にも不及、先忍て笠置へぞ参ける。主上万里小路中納言藤房卿を以て被仰けるは、「東夷征罰の事、正成を被憑思食子細有て、勅使を被立処に、時刻を不移馳参る条、叡感不浅処也。抑天下草創の事、如何なる謀を廻してか、勝事を一時に決して太平を四海に可被致、所存を不残可申。」と勅定有ければ、正成畏て申けるは、「東夷近日の大逆、只天の譴を招候上は、衰乱の弊へに乗て天誅を被致に、何の子細か候べき。但天下草創の功は、武略と智謀とに二にて候。若勢を合て戦はゞ、六十余州の兵を集て武蔵相摸の両国に対すとも、勝事を得がたし。若謀を以て争はゞ、東夷の武力只利を摧き、堅を破る内を不出。是欺くに安して、怖るゝに足ぬ所也。合戦の習にて候へば、一旦の勝負をば必しも不可被御覧。正成一人未だ生て有と被聞召候はゞ、聖運遂に可被開と被思食候へ。」と、頼しげに申て、正成は河内へ帰にけり。
○笠置軍事付陶山小見山夜討事 S0302
去程に主上笠置に御坐有て、近国の官軍付随奉る由、京都へ聞へければ、山門の大衆又力を得て、六波羅へ寄る事もや有んずらんとて、佐々木判官時信に、近江一国の勢を相副て大津へ被向。是も猶小勢にて叶ふまじき由を申ければ、重て丹波国の住人、久下・長沢の一族等を差副て八百余騎、大津東西の宿に陣を取る。九月一日六波羅の両■断、糟谷三郎宗秋・隅田次郎左衛門、五百余騎にて宇治の平等院へ打出で、軍勢の着到を着るに、催促をも不待、諸国の軍勢夜昼引も不切馳集て十万余騎に及べり。既に明日二日巳刻に押寄て、矢合可有と定めたりける其前の日、高橋又四郎抜懸して、独り高名に備へんとや思けん、纔に一族の勢三百余騎を率して、笠置の麓へぞ寄たりける。城に篭る所の官軍は、さまで大勢ならずと云へども、勇気未怠、天下の機を呑で、回天の力を出さんと思へる者共なれば、纔の小勢を見て、なじかは打て懸らざらん。其勢三千余騎、木津河の辺にをり合て、高橋が勢を取篭て、一人も余さじと責戦ふ。高橋始の勢ひにも似ず、敵の大勢を見て、一返も不返捨鞭を打て引ける間、木津河の逆巻水に被追浸、被討者其数若干也。僅に命許を扶る者も、馬物具を捨て赤裸になり、白昼に京都へ逃上る。見苦しかりし有様也。是を悪しと思ふ者やしたりけん。平等院の橋爪に、一首の歌を書てぞたてたりける。木津川の瀬々の岩浪早ければ懸て程なく落る高橋高橋が抜懸を聞て、引ば入替て高名せんと、跡に続きたる小早河も、一度に皆被追立一返も不返、宇治まで引たりと聞へければ、又札を立副て、懸も得ぬ高橋落て行水に憂名を流す小早河哉昨日の合戦に、官軍打勝ぬと聞へしかば、国々の勢馳参りて、難儀なる事もこそあれ、時日を不可移とて、両検断宇治にて四方の手分を定て、九月二日笠置の城へ発向す。南の手には五畿内五箇国の兵を被向。其勢七千六百余騎、光明山の後を廻て搦手に向。東の手には、東海道十五箇国の内、伊賀・伊勢・尾張・三河・遠江の兵を被向。其勢二万五千余騎、伊賀路を経て金剛山越に向ふ。北の手には、山陰道八箇国の兵共一万二千余騎、梨間の宿のはづれより、市野辺山の麓を回て、追手へ向ふ。西の手には、山陽道八箇国の兵を被向。其勢三万二千余騎、木津河を上りに、岸の上なる岨道を二手に分て推寄る。追手搦手、都合七万五千余騎、笠置の山の四方二三里が間は、尺地も不残充満したり。明れば九月三日の卯刻に、東西南北の寄手、相近て時を作る。其声百千の雷の鳴落が如にして天地も動く許也。時の声三度揚て、矢合の流鏑を射懸たれども、城の中静り還て時の声をも不合、当の矢をも射ざりけり。彼笠置の城と申は、山高して一片の白雲峯を埋み、谷深して万仞の青岩路を遮る。攀折なる道を廻て揚る事十八町、岩を切て堀とし石を畳で屏とせり。されば縦ひ防ぎ戦ふ者無とも、輒く登る事を得難し。されども城中鳴を静めて、人ありとも見へざりければ、敵はや落たりと心得て、四方の寄手七万五千余騎、堀がけとも不謂、葛のかづらに取付て、岩の上を伝て、一の木戸口の辺、二王堂の前までぞ寄たりける。此にて一息休めて城の中を屹と向上ければ、錦の御旗に日月を金銀にて打て着たるが、白日に耀て光り渡りたる其陰に、透間もなく鎧ふたる武者三千余人、甲の星を耀し、鎧の袖を連て、雲霞の如くに並居たり。其外櫓の上、さまの陰には、射手と覚しき者共、弓の弦くひしめし、矢束解て押甘、中差に鼻油引て待懸たり。其勢決然として、敢て可攻様ぞなき。寄手一万余騎是を見て、前まんとするも不叶、引んとするも不協して、心ならず支たり。良暫有て、木戸の上なる櫓より、矢間の板を排て名乗けるは、「参河国住人足助次郎重範、忝くも一天の君にたのまれ進らせて、此城の一の木戸を堅めたり。前陣に進んだる旗は、美濃・尾張の人々の旗と見るは僻目か。十善の君の御座す城なれば、六波羅殿や御向ひ有らんずらんと心得て、御儲の為に、大和鍛冶のきたうて打たる鏃を少々用意仕て候。一筋受て御覧じ候へ。」と云侭に、三人張の弓に十三束三伏篦かづきの上まで引かけ、暫堅めて丁と放つ。其矢遥なる谷を阻て、二町余が外に扣へたる荒尾九郎が鎧の千檀の板を、右の小脇まで篦深にぐさと射込む。一箭なりといへども究竟の矢坪なれば、荒尾馬より倒に落て起も直らで死けり。舎弟の弥五郎是を敵に見せじと、矢面に立隠して、楯のはづれより進出て云けるは、「足助殿の御弓勢、日来承候し程は無りけり。此を遊ばし候へ。御矢一筋受て物の具の実の程試候はん。」と欺て、弦走を敲てぞ立たりける。足助是を聞て、「此者の云様は、如何様鎧の下に、腹巻か鎖歟を重て着たれば社、前の矢を見ながら此を射よとは敲くらん。若鎧の上を射ば、篦摧け鏃折て通らぬ事もこそあれ。甲の真向を射たらんに、などか砕て通らざらん。」と思案して、「胡■より金磁頭を一つ抜出し、鼻油引て、「さらば一矢仕り候はん。受て御覧候へ。」と云侭に、且く鎧の高紐をはづして、十三束三伏、前よりも尚引しぼりて、手答へ高くはたと射る。思ふ矢坪を不違、荒尾弥五郎が甲の真向、金物の上二寸計射砕て、眉間の真中をくつまき責て、ぐさと射篭だりければ、二言とも不云、兄弟同枕に倒重て死にけり。是を軍の始として、追手搦手城の内、をめき叫で責戦ふ。箭叫の音時の声且も休時なければ、大山も崩て海に入り、坤軸も折て忽地に沈む歟とぞ覚へし。晩景に成ければ、寄手弥重て持楯をつきよせつきよせ、木戸口の辺まで攻たりける処に、爰に南都の般若寺より巻数持て参りたりける使、本性房と云大力の律僧の有けるが、褊衫の袖を結で引違へ、尋常の人の百人しても動し難き大磐石を、軽々と脇に挟み、鞠の勢に引欠々々、二三十つゞけ打にぞ投たりける。数万の寄手、楯の板を微塵に打砕かるゝのみに非ず、少も此石に当る者、尻居に被打居ければ、東西の坂に人頽を築て、馬人弥が上に落重る。さしも深き谷二、死人にてこそうめたりけれ。されば軍散じて後までも木津河の流血に成て、紅葉の陰を行水の紅深きに不異。是より後は、寄手雲霞の如しといへども、城を攻んと云者一人もなし。只城の四方を囲めて遠攻にこそしたりけれ。かくて日数を経ける処に、同月十一日、河内の国より早馬を立て、「楠兵衛正成と云者、御所方に成て旗を挙る間、近辺の者共、志あるは同心し、志なきは東西に逃隠る。則国中の民屋を追捕して、兵粮の為に運取、己が館の上なる赤坂山に城郭を構へ、其勢五百騎にて楯篭り候。御退治延引せば、事御難儀に及候なん。急ぎ御勢を可被向。」とぞ告申ける。是をこそ珍事なりと騒ぐ処に、又同十三日の晩景に、備後の国より早馬到来して、「桜山四郎入道、同一族等御所方に参て旗を揚、当国の一宮を城郭として楯篭る間、近国の逆徒等少々馳加て、其勢既七百余騎、国中を打靡、剰他国へ打越んと企て候。夜を日に継で討手を不被下候はゞ、御大事出来ぬと覚候。御油断不可有。」とぞ告たりける。前には笠置の城強して、国々の大勢日夜責れども未落、後には又楠・桜山の逆徒大に起て、使者日々に急を告。南蛮西戎は已に乱ぬ。東夷北狄も又如何あらんずらんと、六波羅の北方駿河守、安き心も無りければ、日々に早馬を打せて東国勢をぞ被乞ける。相摸入道大に驚て、「さらばやがて討手を差上せよ。」とて、一門他家宗徒の人々六十三人迄ぞ被催ける。大将軍には大仏陸奥守貞直・同遠江守・普恩寺相摸守・塩田越前守・桜田参河守・赤橋尾張守・江馬越前守・糸田左馬頭・印具兵庫助・佐介上総介・名越右馬助・金沢右馬助・遠江左近大夫将監治時・足利治部大輔高氏、侍大将には、長崎四郎左衛門尉、相従ふ侍には、三浦介入道・武田甲斐次郎左衛門尉・椎名孫八入道・結城上野入道・小山出羽入道・氏家美作守・佐竹上総入道・長沼四郎左衛門入道・土屋安芸権守・那須加賀権守・梶原上野太郎左衛門尉・岩城次郎入道・佐野安房弥太郎・木村次郎左衛門尉・相馬右衛門次郎・南部三郎次郎・毛利丹後前司、那波左近太夫将監・一宮善民部太夫・土肥佐渡前司・宇都宮安芸前司・同肥後権守・葛西三郎兵衛尉・寒河弥四郎・上野七郎三郎・大内山城前司・長井治部少輔・同備前太郎・同因幡民部大輔入道・筑後前司・下総入道・山城左衛門大夫・宇都宮美濃入道・岩崎弾正左衛門尉・高久同孫三郎・同彦三郎・伊達入道・田村形部大輔入道・入江蒲原の一族・横山猪俣の両党、此外、武蔵・相摸・伊豆・駿河・上野、五箇国の軍勢、都合二十万七千六百余騎、九月二十日鎌倉を立て、同晦日、前陣已に美濃・尾張両国に着ば、後陣は猶未高志・二村の峠に支へたり。爰に備中国の住人陶山藤三義高・小見山次郎某、六波羅の催促に随て、笠置の城の寄手に加て、河向に陣を取て居たりけるが、東国の大勢既に近江に着ぬと聞へければ、一族若党共を集て申けるは、「御辺達如何が思ぞや、此間数日の合戦に、石に被打、遠矢に当て死ぬる者、幾千万と云数を不知。是皆差て為出したる事も無て死ぬれば、骸骨未だ乾かざるに、名は先立て消去ぬ。同く死ぬる命を、人目に余る程の軍一度して死たらば、名誉は千載に留て、恩賞は子孫の家に栄ん。倩平家の乱より以来、大剛の者とて名を古今に揚たる者共を案ずるに、何れも其程の高名とは不覚。先熊谷・平山が一谷の先懸は、後陣の大勢を憑し故也。梶原平三が二度の懸は、源太を助ん為なり。佐々木三郎が藤戸を渡しゝは、案内者のわざ、同四郎高綱が宇治川の先陣は、いけずき故也。此等をだに今の世迄語伝て、名を天下の人口に残すぞかし。何に況や日本国の武士共が集て、数日攻れども落し得ぬ此城を、我等が勢許にて攻落したらんは、名は古今の間に双なく、忠は万人の上に可立。いざや殿原、今夜の雨風の紛れに、城中へ忍入て、一夜討して天下の人に目を覚させん。」と云ければ、五十余人の一族若党、「最可然。」とぞ同じける。是皆千に一も生て帰る者あらじと思切たる事なれば、兼ての死に出立に、皆曼陀羅を書てぞ付たりける。差縄の十丈許長きを二筋、一尺計置ては結合々々して、其端に熊手を結着て持せたり。是は岩石などの被登ざらん所をば、木の枝岩の廉に打懸て、登らん為の支度也。其夜は九月晦日の事なれば、目指とも不知暗き夜に、雨風烈く吹て面を可向様も無りけるに、五十余人の者ども、太刀を背に負、刀を後に差て、城の北に当たる石壁の数百丈聳て、鳥も翔り難き所よりぞ登りける。二町許は兎角して登りつ、其上に一段高き所あり。屏風を立たる如くなる岩石重て、古松枝を垂、蒼苔路滑なり。此に至て人皆如何んともすべき様なくして、遥に向上て立たりける処に、陶山藤三、岩の上をさら/\と走上て、件の差縄を上なる木の枝に打懸て、岩の上よりをろしたるに、跡なる兵共各是に取付て、第一の難所をば安々と皆上りてげり。其より上にはさまでの嶮岨無りければ、或は葛の根に取付、或は苔の上を爪立て、二時計に辛苦して、屏際まで着てけり。此にて一息休て、各屏を上り超、夜廻りの通りける迹に付て、先城の中の案内をぞ見たりける。追手の木戸・西の坂口をば、伊賀・伊勢の兵千余騎にて堅めたり。搦手に対する東の出屏の口をば、大和・河内の勢五百余騎にて堅たり。南の坂、二王堂の前をば、和泉・紀伊国の勢七百余騎にて堅たり。北の口一方は嶮きを被憑けるにや、警固の兵をば一人も不被置、只云甲斐なげなる下部共二三人、櫓の下に薦を張、篝を焼て眠居たり。陶山・小見山城を廻、四方の陣をば早見澄しつ。皇居は何くやらんと伺て、本堂の方へ行処に、或役所の者是を聞付て、「夜中に大勢の足音して、潛に通は怪き物哉、誰人ぞ。」と問ければ、陶山吉次取も敢ず、「是は大和勢にて候が、今夜余に雨風烈しくして、物騒が〔し〕く候間、夜討や忍入候はんずらんと存候て、夜廻仕候也。」と答ければ、「げに。」と云音して、又問事も無りけり。是より後は中々忍たる体も無して、「面々の御陣に、御用心候へ。」と高らかに呼はて、閑々と本堂へ上て見れば、是ぞ皇居と覚て、蝋燭数多所に被燃て、振鈴の声幽也。衣冠正くしたる人、三四人大床に伺候して、警固の武士に、「誰か候。」と被尋ければ、「其国の某々。」と名乗て廻廊にしかと並居たり。陶山皇居の様まで見澄して、今はかうと思ければ、鎮守の前にて一礼を致し、本堂の上なる峯へ上て、人もなき坊の有けるに火を懸て同音に時の声を挙ぐ。四方の寄手是を聞、「すはや城中に返忠の者出来て、火を懸たるは。時の声を合せよや。」とて追手搦手七万余騎、声々に時を合て喚き叫ぶ。其声天地を響かして、如何なる須弥の八万由旬なりとも崩ぬべくぞ聞へける。陶山が五十余人の兵共、城の案内は只今委く見置たり。此役所に火を懸ては彼こに時の声をあげ、彼こに時を作ては此櫓に火を懸、四角八方に走り廻て、其勢城中に充満たる様に聞へければ、陣々堅めたる官軍共、城内に敵の大勢攻入たりと心得て、物の具を脱捨弓矢をかなぐり棄て、がけ堀とも不謂、倒れ転びてぞ落行ける。錦織判官代是を見て、「膩き人々の振舞哉。十善の君に被憑進せて、武家を敵に受る程の者共が、敵大勢なればとて、戦はで逃る様やある、いつの為に可惜命ぞ。」とて、向ふ敵に走懸々々、大はだぬぎに成て戦ひけるが、矢種を射尽し、太刀を打折ければ、父子二人並郎等十三人、各腹かき切て同枕に伏て死にけり。
○主上御没落笠置事 S0303
去程に類火東西より被吹て、余煙皇居に懸りければ、主上を始進せて、宮々・卿相・雲客、皆歩跣なる体にて、何くを指ともなく足に任て落行給ふ。此人々、始一二町が程こそ、主上を扶進せて、前後に御伴をも被申たりけれ。雨風烈しく道闇して、敵の時の声此彼に聞へければ、次第〔に〕別々に成て、後には只藤房・季房二人より外は、主上の御手を引進する人もなし。悉も十善の天子、玉体を田夫野人の形に替させ給て、そことも不知迷ひ出させ玉ける、御有様こそ浅猿けれ。如何にもして、夜の内に赤坂城へと御心許を被尽けれども、仮にも未習はせ玉はぬ御歩行なれば、夢路をたどる御心地して、一足には休み、二足には立止り、昼は道の傍なる青塚の陰に御身を隠させ玉て、寒草の疎かなるを御座の茵とし、夜は人も通はぬ野原の露に分迷はせ玉て、羅穀の御袖をほしあへず。兎角して夜昼三日に、山城の多賀郡なる有王山の麓まで落させ玉てけり。藤房も季房も、三日まで口中の食を断ければ、足たゆみ身疲れて、今は如何なる目に逢とも逃ぬべき心地せざりければ、為ん方無て、幽谷の岩を枕にて、君臣兄弟諸共に、うつゝの夢に伏玉ふ。梢を払ふ松の風を、雨の降かと聞食て、木陰に立寄せ玉たれば、下露のはら/\と御袖に懸りけるを、主上被御覧て、さして行笠置の山を出しよりあめが下には隠家もなし藤房卿泪を押へて、いかにせん憑む陰とて立よれば猶袖ぬらす松の下露山城国の住人、深須入道・松井蔵人二人は、此辺の案内者なりければ、山々峯々無残所捜しける間、皇居隠なく被尋出させ給ふ。主上誠に怖しげなる御気色にて、「汝等心ある者ならば、天恩を戴て私の栄花を期せよ。」と被仰ければ、さしもの深須入道俄に心変じて、哀此君を隠奉て、義兵を揚ばやと思けれども、迹につゞける松井が所存難知かりける間、事の漏易くして、道の成難からん事を量て、黙止けるこそうたてけれ。俄の事にて網代輿だに無りければ、張輿の怪げなるに扶乗進せて、先南都の内山へ入奉る。其体只殷湯夏台に囚れ、越王会稽に降せし昔の夢に不異。是を聞是を見る人ごとに、袖をぬらさずと云事無りけり。此時此彼にて、被生捕給ける人々には、先一宮中務卿親王・第二宮妙法院尊澄法親王・峰僧正春雅・東南院僧正聖尋・万里小路大納言宣房・花山院大納言師賢・按察大納言公敏・源中納言具行・侍従中納言公明・別当左衛門督実世・中納言藤房・宰相季房・平宰相成輔・左衛門督為明・左中将行房・左少将忠顕・源少将能定・四条少将隆兼・妙法院執事澄俊法印、北面・諸家侍共には、左衛門大夫氏信・右兵衛大夫有清・対馬兵衛重定・大夫将監兼秋・左近将監宗秋・雅楽兵衛尉則秋・大学助長明・足助次郎重範・宮内丞能行・大河原源七左衛門尉有重、奈良法師に、俊増・教密・行海・志賀良木治部房円実・近藤三郎左衛門尉宗光・国村三郎入道定法・源左衛門入道慈願・奥入道如円・六郎兵衛入道浄円、山徒には勝行房定快・習禅房浄運・乗実房実尊、都合六十一人、其所従眷属共に至までは計るに不遑。或は篭輿に被召、或伝馬に被乗て、白昼に京都へ入給ひければ、其方様歟と覚たる男女街に立並て、人目をも不憚泣悲む、浅増かりし分野也。十月二日六波羅の北方、常葉駿河守範貞、三千余騎にて路を警固仕て、主上を宇治の平等院へ成し奉る。其日関東の両大将京へは不入して、すぐに宇治へ参向て、竜顔に謁奉り、先三種の神器を渡し給て、持明院新帝可進由を奏聞す。主上藤房を以て被仰出けるは、「三種神器は、自古継体君、位を天に受させ給ふ時、自ら是を授る者也。四海に威を振ふ逆臣有て、暫天下を掌に握る者ありと云共、未此三種の重器を、自専して新帝に渡し奉る例を不聞。其上内侍所をば、笠置の本堂に捨置奉りしかば、定て戦場の灰塵にこそ落させ給ひぬらめ。神璽は山中に迷し時木の枝に懸置しかば、遂にはよも吾国の守と成せ給はぬ事あらじ。宝剣は、武家の輩若天罰を顧ずして、玉体に近付奉る事あらば、自其刃の上に伏させ給はんずる為に、暫も御身を放たる事あるまじき也。」と被仰ければ、東使両人も、六波羅も言ば無して退出す。翌日竜駕を廻して六波羅へ成進らせんとしけるを、前々臨幸の儀式ならでは還幸成まじき由を、強て被仰出ける間、無力鳳輦を用意し、袞衣を調進しける間、三日迄平等院に御逗留有てぞ、六波羅へは入給ける。日来の行幸に事替て、鳳輦は数万の武士に被打囲、月卿雲客は怪げなる篭・輿・伝馬に被扶乗て、七条を東へ河原を上りに、六波羅へと急がせ給へば、見る人涙を流し、聞人心を傷しむ。悲乎昨日は紫宸北極の高に坐して、百司礼儀の妝を刷ひしに、今は白屋東夷の卑きに下らせ給て、万卒守禦の密しきに御心を被悩。時移事去楽尽て悲来る。天上の五衰人間の一炊、唯夢かとのみぞ覚たる。遠からぬ雲の上の御住居、いつしか思食出す御事多き時節、時雨の音の一通、軒端の月に過けるを聞食て、住狎ぬ板屋の軒の村時雨音を聞にも袖はぬれけり四五日有て、中宮の御方より御琵琶を被進けるに、御文あり。御覧ずれば、思やれ塵のみつもる四の絃に払ひもあへずかゝる泪を引返して、御返事有けるに、涙ゆへ半の月は陰るとも共に見し夜の影は忘れじ同八日両検断、高橋刑部左衛門・糟谷三郎宗秋、六波羅に参て、今度被生虜給し人々を一人づゝ大名に被預。一宮中務卿親王をば佐々木判官時信、妙法院二品親王をば長井左近大夫将監高広、源中納言具行をば筑後前司貞知、東南院僧正をば常陸前司時朝、万里小路中納言藤房・六条少将忠顕二人をば、主上に近侍し奉るべしとて、放召人の如くにて六波羅にぞ留め置れける。同九日三種の神器を、持明院の新帝の御方へ被渡。堀河大納言具親・日野中納言資名、是を請取て長講堂へ送奉る。其御警固には長井弾正蔵人・水谷兵衛蔵人・但馬民部大夫・佐々木隠岐判官清高をぞ被置ける。同十三日に、新帝登極の由にて、長講堂より内裏へ入せ給ふ。供奉の諸卿、花を折て行妝を引刷ひ、随兵の武士、甲冑を帯して非常を誡む。いつしか前帝奉公の方様には、咎有も咎無も、如何なる憂目をか見んずらんと、事に触て身を危み心を砕けば、当今拝趨の人々は、有忠も無忠も、今に栄花を開きぬと、目を悦ばしめ耳をこやす。子結で陰を成し、花落て枝を辞す。窮達時を替栄辱道を分つ。今に始めぬ憂世なれども、殊更夢と幻とを分兼たりしは此時也。
○赤坂城軍事 S0304
遥々と東国より上りたる大勢共、未近江国へも入ざる前に、笠置の城已に落ければ、無念の事に思て、一人も京都へは不入。或は伊賀・伊勢の山を経、或は宇治・醍醐の道を要て、楠兵衛正成が楯篭たる赤坂の城へぞ向ひける。石河々原を打過、城の有様を見遣れば、俄に誘へたりと覚てはか/゛\しく堀をもほらず、僅に屏一重塗て、方一二町には過じと覚たる其内に、櫓二三十が程掻双べたり。是を見る人毎に、あな哀の敵の有様や、此城我等が片手に載て、投るとも投つべし。あはれせめて如何なる不思議にも、楠が一日こらへよかし、分捕高名して恩賞に預らんと、思はぬ者こそ無りけれ。されば寄手三十万騎の勢共、打寄ると均く、馬を蹈放々々、堀の中に飛入、櫓の下に立双で、我前に打入んとぞ諍ひける。正成は元来策を帷幄の中に運し、勝事を千里の外に決せんと、陳平・張良が肺肝の間より流出せるが如の者なりければ、究竟の射手を二百余人城中に篭て、舎弟の七郎と、和田五郎正遠とに、三百余騎を差副て、よその山にぞ置たりける。寄手は是を思もよらず、心を一片に取て、只一揉に揉落さんと、同時に皆四方の切岸の下に着たりける処を、櫓の上、さまの陰より、指つめ引つめ、鏃を支て射ける間、時の程に死人手負千余人に及べり。東国の勢共案に相違して、「いや/\此城の為体、一日二日には落まじかりけるぞ、暫陣々を取て役所を構へ、手分をして合戦を致せ。」とて攻口を少し引退き、馬の鞍を下し、物の具を脱で、皆帷幕の中にぞ休居たりける。楠七郎・和田五郎、遥の山より直下して、時刻よしと思ければ、三百余騎を二手に分け、東西の山の木陰より、菊水の旗二流松の嵐に吹靡かせ、閑に馬を歩ませ、煙嵐を捲て押寄たり。東国の勢是を見て、敵か御方かとためらひ怪む処に、三百余騎の勢共、両方より時を咄と作て、雲霞の如くに靉ひたる三十万騎が中へ、魚鱗懸に懸入、東西南北へ破て通り、四方八面を切て廻るに、寄手の大勢あきれて陣を成かねたり。城中より三の木戸を同時に颯と排て、二百余騎鋒を双て打て出、手崎をまわして散々に射る。寄手さしもの大勢なれども僅の敵に驚騒で、或は維げる馬に乗てあをれども進まず。或は弛せる弓に矢をはげて射んとすれども不被射。物具一領に二三人取付、「我がよ人のよ。」と引遇ける其間に、主被打ども従者は不知、親被打共子も不助、蜘の子を散すが如く、石川々原へ引退く。其道五十町が間、馬・物具を捨たる事足の踏所もなかりければ、東条一郡の者共は、俄に徳付てぞ見たりける。指もの東国勢思の外にし損じて、初度の合戦に負ければ、楠が武畧侮りにくしとや思けん。吐田・楢原辺に各打寄たれども、軈て又推寄んとは不擬。此に暫引へて、畿内の案内者を先に立て、後攻のなき様に山を苅廻、家を焼払て、心易く城を責べきなんど評定ありけるを、本間・渋谷の者共の中に、親被打子被討たる者多かりければ、「命生ては何かせん、よしや我等が勢許なりとも、馳向て打死せん。」と、憤りける間、諸人皆是に被励て、我も我もと馳向けり。彼赤坂の城と申は、東一方こそ山田の畔重々に高して、少し難所の様なれ、三方は皆平地に続きたるを、堀一重に屏一重塗たれば、如何なる鬼神が篭りたり共、何程の事か可有と寄手皆是を侮り、又寄ると均く、堀の中、切岸の下まで攻付て、逆木を引のけて打て入んとしけれども、城中には音もせず、是は如何様昨日の如く、手負を多く射出て漂ふ処へ、後攻の勢を出して、揉合せんずるよと心得て、寄手十万余騎を分て、後の山へ指向て、残る二十万騎稲麻竹葦の如く城を取巻てぞ責たりける。卦けれども城の中よりは、矢の一筋をも不射出更人有とも見へざりければ、寄手弥気に乗て、四方の屏に手を懸、同時に上越んとしける処を、本より屏を二重に塗て、外の屏をば切て落す様に拵たりければ、城の中より、四方の屏の鈎縄を一度に切て落したりける間、屏に取付たる寄手千余人、厭に被打たる様にて、目許はたらく処を、大木・大石を抛懸々々打ける間、寄手又今日の軍にも七百余人被討けり。東国の勢共、両日の合戦に手ごりをして、今は城を攻んとする者一人もなし。只其近辺に陣々を取て、遠攻にこそしたりけれ。四五日が程は加様にて有けるが、余に暗然として守り居たるも云甲斐なし。方四町にだに足ぬ平城に、敵四五百人篭たるを、東八箇国の勢共が責かねて、遠責したる事の浅猿さよなんど、後までも人に被笑事こそ口惜けれ。前々は早りのまゝ楯をも不衝、責具足をも支度せで責ればこそ、そゞろに人をば損じつれ。今度は質てを替て可責とて、面々に持楯をはがせ、其面にいため皮を当て、輒く被打破ぬ様に拵て、かづきつれてぞ責たりける。切岸の高さ堀の深さ幾程もなければ、走懸て屏に着ん事は、最安く覚けれ共、是も又釣屏にてやあらんと危みて無左右屏には不着、皆堀の中にをり漬て、熊手を懸て屏を引ける間、既に被引破ぬべう見へける処に、城の内より柄の一二丈長き杓に、熱湯の湧翻りたるを酌で懸たりける間、甲の天返綿噛のはづれより、熱湯身に徹て焼爛ければ、寄手こらへかねて、楯も熊手も打捨て、ばつと引ける見苦しさ、矢庭に死るまでこそ無れども、或は手足を被焼て立も不揚、或は五体を損じて病み臥す者、二三百人に及べり。寄手質を替て責れば、城の中工を替て防ぎける間、今は兔も角も可為様なくして、只食責にすべしとぞ被議ける。かゝりし後は混ら軍をやめて、己が陣々に櫓をかき、逆木を引て遠攻にこそしたりけれ。是にこそ中々城中の兵は、慰方もなく機も疲れぬる心地しけれ。楠此城を構へたる事暫時の事なりければ、はか/゛\しく兵粮なんど用意もせざれば、合戦始て城を被囲たる事、僅に二十日余りに、城中兵粮尽て、今四五日の食を残せり。懸ければ、正成諸卒に向て云けるは、「此間数箇度の合戦に打勝て、敵を亡す事数を不知といへども、敵大勢なれば敢て物の数ともせず、城中既食尽て助の兵なし。元来天下の士卒に先立て、草創の功を志とする上は、節に当り義に臨では、命を可惜に非ず。雖然事に臨で恐れ、謀を好で成すは勇士のする所也。されば暫此城を落て、正成自害したる体を敵に知せんと思ふ也。其故は正成自害したりと見及ばゞ、東国勢定て悦を成て可下向。下らば正成打て出、又上らば深山に引入、四五度が程東国勢を悩したらんに、などか退屈せざらん。是身を全して敵を亡す計畧也。面々如何計ひ給。」と云ければ、諸人皆、「可然。」とぞ同じける。「さらば。」とて城中に大なる穴を二丈許掘て、此間堀の中に多く討れて臥たる死人を二三十人穴の中に取入て、其上に炭・薪を積で雨風の吹洒ぐ夜をぞ待たりける。正成が運や天命に叶けん、吹風俄に沙を挙て降雨更に篠を衝が如し。夜色窈溟として氈城皆帷幕を低る。是ぞ待所の夜なりければ、城中に人を一人残し留て、「我等落延ん事四五町にも成ぬらんと思はんずる時、城に火を懸よ。」と云置て、皆物の具を脱ぎ、寄手に紛て五人三人別々になり、敵の役所の前軍勢の枕の上を越て閑々と落けり。正成長崎が厩の前を通りける時、敵是を見つけて、「何者なれば御役所の前を、案内も申さで忍やかに通るぞ。」と咎めれけば、正成、「是は大将の御内の者にて候が、道を踏違へて候ひける。」と云捨て、足早にぞ通りける。咎めつる者、「さればこそ怪き者なれ、如何様馬盜人と覚るぞ。只射殺せ。」とて、近々と走寄て真直中をぞ射たりける。其矢正成が臂の懸りに答て、したゝかに立ぬと覚へけるが、す膚なる身に少も不立して、筈を返して飛翻る。後に其矢の痕を見れば、正成が年来信じて奉読観音経を入たりける膚の守に矢当て、一心称名の二句の偈に、矢崎留りけるこそ不思議なれ。正成必死の鏃に死を遁れ、二十余町落延て跡を顧ければ、約束に不違、早城の役所共に火を懸たり。寄手の軍勢火に驚て、「すはや城は落けるぞ。」とて勝時を作て、「あますな漏すな。」と騒動す。焼静まりて後城中をみれば、大なる穴の中に炭を積で、焼死たる死骸多し。皆是を見て、「あな哀や、正成はや自害をしてけり。敵ながらも弓矢取て尋常に死たる者哉。」と誉ぬ人こそ無りけれ。
○桜山自害事 S0305
去程に桜山四郎入道は、備後国半国許打順へて、備中へや越まし、安芸をや退治せましと案じける処に、笠置城も落させ給ひ、楠も自害したりと聞へければ、一旦の付勢は皆落失ぬ。今は身を離ぬ一族、年来の若党二十余人ぞ残りける。此比こそあれ、其昔は武家権を執て、四海九州の内尺地も不残ければ、親き者も隠し得ず、疎はまして不被憑、人手に懸りて尸を曝さんよりはとて、当国の一宮へ参り、八歳に成ける最愛の子と、二十七に成ける年来の女房とを刺殺て、社壇に火をかけ、己が身も腹掻切て、一族若党二十三人皆灰燼と成て失にけり。抑所こそ多かるに、態社壇に火を懸焼死ける桜山が所存を如何にと尋るに、此入道当社に首を傾て、年久かりけるが、社頭の余りに破損したる事を歎て、造営し奉らんと云大願を発しけるが、事大営なれば、志のみ有て力なし。今度の謀叛に与力しけるも、専此大願を遂んが為なりけり。されども神非礼を享給はざりけるにや、所願空して打死せんとしけるが、我等此社を焼払たらば、公家武家共に止む事を不得して如何様造営の沙汰可有。其身は縦ひ奈落の底に堕在すとも、此願をだに成就しなば悲むべきに非ずと、勇猛の心を発て、社頭にては焼死にける也。倩垂迹和光の悲願を思へば、順逆の二縁、何れも済度利生の方便なれば、今生の逆罪を翻して当来の値遇とや成らんと、是もたのみは不浅ぞ覚へける。


太平記

太平記巻第四
○笠置囚人死罪流刑事付藤房卿事 S0401
笠置城被攻落刻、被召捕給し人々の事、去年は歳末の計会に依て、暫く被閣ぬ。新玉の年立回れば、公家の朝拝武家の沙汰始りて後、東使工藤次郎左衛門尉・二階堂信濃入道行珍二人上洛して、可行死罪人々、可処流刑国々、関東評定の趣、六波羅にして被定。山門・南都の諸門跡、月卿・雲客・諸衛の司等に至迄、依罪軽重、禁獄流罪に処すれ共、足助次郎重範をば六条河原に引出し、首を可刎と被定。万里小路大納言宣房卿は、子息藤房・季房二人の罪科に依て、武家に被召捕、是も如召人にてぞ座しける。齢已に七旬に傾て、万乗の聖主は遠嶋に被遷させ給ふべしと聞ゆ。二人の賢息は、死罪にぞ行はれんずらんと覚へて、我身さへ又楚の囚人と成給へば、只今まで命存て、浩る憂事をのみ見聞事の悲しければと、一方ならぬ思ひに、一首の歌をぞ被詠ける。長かれと何思ひけん世中の憂を見するは命なりけり罪科有もあらざるも、先朝拝趨の月卿・雲客、或は被停出仕、尋桃源迹、或被解官職、懐首陽愁、運の通塞、時の否泰、為夢為幻、時遷り事去て哀楽互に相替る。憂を習の世の中に、楽んでも何かせん、歎ても由無るべし。源中納言具行卿をば、佐々木佐渡判官入道道誉、路次を警固仕て鎌倉へ下し奉る。道にて可被失由、兼て告申人や有けん、会坂の関を越給ふとて、帰るべき時しなければ是や此行を限りの会坂の関勢多の橋を渡るとて、けふのみと思我身の夢の世を渡る物かはせたの長橋此卿をば道にて可奉失と、兼て定し事なれば、近江の柏原にて切奉るべき由、探使襲来していらでければ、道誉、中納言殿の御前に参り、「何なる先世の宿習によりてか、多の人の中に入道預進せて、今更加様に申候へば、且は情を不知に相似て候へ共、卦る身には無力次第にて候。今までは随分天下の赦を待て、日数を過し候つれ共、関東より可失進由、堅く被仰候へば、何事も先世のなす所と、思召慰ませ給候へ。」と申もあへず袖を顔に押当しかば、中納言殿も不覚の泪すゝみけるを、推拭はせ給ひて、「誠に其事に候。此間の儀をば後世までも難忘こそ候へ。命の際の事は、万乗の君既に外土遠嶋に御遷幸の由聞へ候上は、其以下の事どもは、中々不及力。殊更此程の情の色、誠存命すとも難謝こそ候へ。」と計にて、其後は言をも被仰ず、硯と紙とを取寄て、御文細々とあそばして、「便に付て相知れる方へ、遣て給はれ。」とぞ被仰ける。角て日已に暮ければ、御輿指寄て乗せ奉り、海道より西なる山際に、松の一村ある下に、御輿を舁居たれば、敷皮の上に居直せ給ひて、又硯を取寄せ、閑々と辞世の頌をぞ被書ける。逍遥生死。四十二年。山河一革。天地洞然。六月十九日某と書て、筆を抛て手を叉、座をなをし給ふとぞ見へし。田児六郎左衛門尉、後へ廻るかと思へば、御首は前にぞ落にける。哀と云も疎なり。入道泣々其遺骸を煙となし、様々の作善を致してぞ菩提を奉祈ける。糸惜哉、此卿は先帝帥宮と申奉りし比より近侍して、朝夕拝礼不怠、昼夜の勤厚異于他。されば次第に昇進も不滞、君の恩寵も深かりき。今かく失給ぬと叡聞に達せば、いかばかり哀にも思食れんずらんと覚へたり。同二十一日殿法印良忠をば大炊御門油小路の篝、小串五郎兵衛秀信召捕て六波羅へ出したりしかば、越後守仲時、斉藤十郎兵衛を使にて被申けるは、「此比一天の君だにも叶はせ給はぬ御謀叛を、御身なんど思立給はん事、且は無止、且は楚忽にこそ覚て候へ。先帝奪ひ進せん為に、当所の絵図なんどまで持廻られ候ける条、武敵の至り重科無双、隠謀の企罪責有余。計の次第一々に被述候へ。具に関東へ可注進。」とぞ宣ける。法印返事せられけるは、「普天の下無非王土、率土人無非王民。誰か先帝の宸襟を歎き奉らざらん。人たる者是を喜べきや。叡慮に代て玉体を奪奉らんと企事、なじかは可無止。為誅無道、隠謀を企事更に非楚忽儀。始より叡慮の趣を存知、笠置の皇居へ参内せし条無子細。而るを白地に出京の蹤に、城郭無固、官軍敗北の間、無力本意を失へり。其間に具行卿相談して、綸旨を申下、諸国の兵に賦し条勿論なり。有程の事は此等なり。」とぞ返答せられける。依之六波羅の評定様々なりけるを、二階堂信濃入道進で申けるは、「彼罪責勿論の上は、無是非可被誅けれども、与党の人なんど尚尋沙汰有て重て関東へ可被申かとこそ存候へ。」と申ければ、長井右馬助、「此義尤可然候。是程の大事をば関東へ被申てこそ。」と申ければ、面々の意見一同せしかば、法印をば五条京極の篝、加賀前司に預られて禁篭し、重て関東へぞ被注進ける。平宰相成輔をば、河越参河入道円重具足し奉て、是も鎌倉へと聞へしが、鎌倉迄も下し着奉らで相摸の早河尻にて奉失。侍従中納言公明卿・別当実世卿二人をば、赦免の由にて有しかども、猶も心ゆるしや無りけん、波多野上野介宣通・佐々木三郎左衛門尉に被預て、猶も本の宿所へは不帰給。尹大納言師賢卿をば下総国へ流して、千葉介に被預。此人志学の年の昔より、和漢の才を事として、栄辱の中に心を止め不給しかば、今遠流の刑に逢へる事、露計も心に懸て思はれず。盛唐詩人杜少陵、天宝の末の乱に逢て、「路経■■双蓬鬢、天落滄浪一釣舟」と天涯の恨を吟じ尽し、吾朝の歌仙小野篁は隠岐国へ被流て、「海原八十嶋かけて漕出ぬ」と釣する海士に言伝て、旅泊の思を詠ぜらる。是皆時の難易を知て可歎を不歎、運の窮達を見て有悲を不悲。況乎「主憂る則臣辱る。主辱るゝ則臣死」といへり。縦骨を醢にせられ、身を車ざきにせらる共、可傷道に非ずとて、少しも不悲給。只依時触興に、諷詠等閑に日を渡る。今は憂世の望絶ぬれば、有出家志由頻に被申けるを、相摸入道子細候はじと被許ければ、年未満強仕、翠の髪を剃落し、桑門人と成給しが、無幾程元弘の乱出来し始俄に病に被侵、円寂し給ひけるとかや。東宮大進季房をば常陸国へ流して、長沼駿河守に預けらる。中納言藤房をば同国に流して、小田民部大輔にぞ被預ける。左遷遠流の悲は何れも劣らぬ涙なれども、殊に此卿の心中推量るも猶哀也。近来中宮の御方に左衛門佐局とて容色世に勝れたる女房御座しけり。去元享の秋の比かとよ、主上北山殿に行幸成て、御賀の舞の有ける時、堂下の立部袖を翻し、梨園の弟子曲を奏せしむ。繁絃急管何れも金玉の声玲瓏たり。此女房琵琶の役に被召、青海波を弾ぜしに、間関たる鴬の語は花下に滑、幽咽せる泉の流は氷の底に難めり。適怨清和節に随て移る。四絃一声如裂帛。撥ては復挑、一曲の清音梁上に燕飛、水中に魚跳許也。中納言ほのかに是を見給しより、人不知思初ける心の色、日に副て深くのみ成行共、可云知便も無ければ、心に篭て歎明し思暮して、三年を過給けるこそ久しけれ。何なる人目の紛れにや、露のかごとを結ばれけん、一夜の夢の幻、さだかならぬ枕をかはし給にけり。其次の夜の事ぞかし、主上俄に笠置へ落させ給ひければ、藤房衣冠を脱ぎ、戎衣に成て供奉せんとし給ひけるが、此女房に廻り逢ん末の契も難知、一夜の夢の面影も名残有て、今一度見もし見へばやと被思ければ、彼女房の住給ける西の対へ行て見給ふに、時しもこそあれ、今朝中宮の召有て北山殿へ参り給ぬと申ければ、中納言鬢の髪を少し切て、歌を書副てぞ被置ける。黒髪の乱ん世まで存へば是を今はの形見とも見よ此女房立帰り、形見の髪と歌とを見て、読ては泣、々ては読み、千度百廻巻返せ共、心乱てせん方もなし。懸る涙に文字消て、いとゞ思に絶兼たり。せめて其人の在所をだに知たらば、虎伏野辺鯨の寄浦なり共、あこがれぬべき心地しけれ共、其行末何く共不聞定、又逢ん世の憑もいさや知らねば、余りの思に堪かねて、書置し君が玉章身に副て後の世までの形みとやせん先の歌に一首書副て、形見の髪を袖に入、大井河の深き淵に身を投けるこそ哀なれ。「為君一日恩、誤妾百年身」とも、加様の事をや申べき。按察大納言公敏卿は上総国、東南院僧正聖尋は下総国、峯僧正俊雅は対馬国と聞へしが、俄に其議を改て、長門国へ流され給ふ。第四の宮は但馬国へ流奉て、其国の守護大田判官に預らる。
○八歳宮御歌事S0402
第九宮は、未御幼稚に御坐ばとて、中御門中納言宣明卿に被預、都の内にぞ御坐有ける。此宮今年は八歳に成せ給けるが、常の人よりも御心様さか/\しく御座ければ、常は、「主上已に人も通はぬ隠岐国とやらんに被流させ給ふ上は、我独都の内に止りても何かせん。哀我をも君の御座あるなる国のあたりへ流し遣せかし。せめては外所ながらも、御行末を承はらん。」と書くどき打しほれて、御涙更にせきあへず。「さても君の被押篭御座ある白河は、京近き所と聞くに、宣明はなど我を具足して御所へは参らぬぞ。」と仰有ければ、宣明卿涙を押へて、「皇居程近き所にてだに候はゞ、御伴仕て参ぜん事子細有まじく候が、白河と申候は都より数百里を経て下る道にて候。されば能因法師が都をば霞と共に出しかど秋風ぞ吹白川の関と読て候し歌にて、道の遠き程、人を通さぬ関ありとは思召知せ給へ。」と被申ければ、宮御泪を押へさせ給て、暫は被仰出事もなし。良有て、「さては宣明我を具足して参らじと思へる故に、加様に申者也。白川関読とたりしは、全く洛陽渭水の白河には非ず、此関奥州の名所也。近来津守国夏が、是を本歌にて読たりし歌に、東路の関迄ゆかぬ白川も日数経ぬれば秋風ぞ吹又最勝寺の懸の桜枯たりしを、植かゆるとて、藤原雅経朝臣、馴々て見しは名残の春ぞともなど白川の花の下陰是皆名は同して、所は替れる証歌也。よしや今は心に篭て云出さじ。」と、宣明を被恨仰、其後よりは書絶恋しとだに不被仰、万づ物憂御気色にて、中門に立せ給へる折節、遠寺の晩鐘幽に聞へければ、つく/゛\と思暮して入逢の鐘を聞にも君ぞ恋しき情動于中言呈於外、御歌のをさ/\しさ哀れに聞へしかば、其比京中の僧俗男女、是を畳紙・扇に書付て、「是こそ八歳の宮の御歌よ。」とて、翫ばぬ人は無りけり。
○一宮並妙法院二品親王御事 S0403
三月八日一宮中務卿親王をば、佐々木大夫判官時信を路次の御警固にて、土佐の畑へ流し奉る。今までは縦秋刑の下に死て、竜門原上の苔に埋る共、都のあたりにて、兎も角もせめて成らばやと、仰天伏地御祈念有けれ共、昨日既先帝をも流し奉りぬと、警固の武士共申合ひけるを聞召て、御祈念の御憑もなく、最心細く思召ける処に、武士共数多参りて、中門に御輿を差寄せたれば、押へかねたる御泪の中に、せき留る柵ぞなき泪河いかに流るゝ浮身なるらん同日、妙法院二品親王をも、長井左近大夫将監高広を御警固にて讚岐国へ流し奉る。昨日は主上御遷幸の由を承り、今日は一宮被流させ給ぬと聞召、御心を傷ましめ給けり。憂名も替らぬ同じ道に、而も別て赴き給、御心の中こそ悲けれ。初の程こそ別々にて御下有けるが、十一日の暮程には、一宮も妙法院も諸共に兵庫に着せ給たりければ、一宮は是より御舟にめして、土佐の畑へ可有御下由聞へければ、御文を参せ玉けるに、今までは同じ宿りを尋来て跡無き波と聞ぞ悲き一宮御返事、明日よりは迹無き波に迷共通ふ心よしるべ共なれ配所は共に四国と聞ゆれば、せめては同国にてもあれかし。事問風の便にも、憂を慰む一節とも念じ思召けるも叶はで、一宮はたゆたふ波に漕れ行、身を浮舟に任せつゝ、土佐の畑へ赴かせ給へば、有井三郎左衛門尉が館の傍に、一室を構て置奉る。彼畑と申は、南は山の傍にて高く、北は海辺にて下れり、松の下露扉に懸りて、いとゞ御袖の泪を添、磯打波の音御枕の下に聞へて、是のみ通ふ故郷の、夢路も遠く成にけり。妙法院は是より引別れて、備前国迄は陸地を経て、児嶋の吹上より船に召て、讚岐の詫間に着せ給ふ。是も海辺近き処なれば、毒霧御身を侵して瘴海の気冷じく、漁歌牧笛の夕べの声、嶺雲海月の秋の色、総て触耳遮眼事の、哀を催し、御涙を添る媒とならずと云事なし。先皇をば任承久例に、隠岐国へ流し可進に定まりけり。臣として君を無奉る事、関東もさすが恐有とや思けん、此為に後伏見院の第一の御子を御位に即奉りて、先帝御遷幸の宣旨を可被成とぞ計ひ申ける。於天下事に、今は重祚の御望可有にも非ざれば、遷幸以前に先帝をば法皇に可奉成とて、香染の御衣を武家より調進したりけれ共、御法体の御事は、暫く有まじき由を被仰て、袞竜の御衣をも脱せ給はず。毎朝の御行水をめされ、仮の皇居を浄めて、石灰の壇に準へて、太神宮の御拝有ければ、天に二の日無れども、国に二の王御座心地して、武家も持あつかひてぞ覚へける。是も叡慮に憑思食事有ける故也。
○俊明極参内事 S0404
去元享元年の春の比、元朝より俊明極とて、得智の禅師来朝せり。天子直に異朝の僧に御相看の事は、前々更に無りしか共、此君禅の宗旨に傾かせ給て、諸方参得の御志をはせしかば、御法談の為に此禅師を禁中へぞ被召ける。事の儀式余に微々ならんは、吾朝の可恥とて、三公公卿も出仕の妝ひを刷ひ、蘭台金馬も守禦の備を厳くせり。夜半に蝋燭を伝て禅師被参内。主上紫宸殿に出御成て、玉坐に席を薦め給ふ。禅師三拝礼訖て、香を拈じて万歳を祝す。時に勅問有て曰、「桟山航海得々来。和尚以何度生せん。」禅師答云、「以仏法緊要処度生ん。」重て、曰、「正当恁麼時奈何。」答曰、「天上に有星、皆拱北。人間無水不朝東。」御法談畢て、禅師拝揖して被退出。翌日別当実世卿を勅使にて禅師号を被下る。時に禅師向勅使、「此君雖有亢竜悔、二度帝位を践せ給べき御相有。」とぞ被申ける。今君為武臣囚て亢竜の悔に合せ給ひけれ共、彼禅師の相し申たりし事なれば、二度九五の帝位を践せ給はん事、無疑思食に依て、法体の御事は暫く有まじき由を、強て被仰出けり。
○中宮御歎事 S0405
三月七日、已に先帝隠岐国へ被遷させ給ふと聞へければ、中宮夜に紛れて、六波羅の御所へ行啓成せ給、中門に御車を差寄たれば、主上出御有て、御車の簾を被掲。君は中宮を都に止置奉りて、旅泊の波長汀の月に彷徨給はんずる行末の事を思召し連ね、中宮は又主上を遥々と遠外に想像奉りて、何の憑の有世共なく、明ぬ長夜の心迷ひの心地し、長襟にならんと、共に語り尽させ給はゞ、秋の夜の千夜を一夜に準共、猶詞残て明ぬべければ、御心の中の憂き程は其言の葉も及ばねば、中々云出させ給ふ一節もなし。只御泪にのみかきくれて、強顔見へし晨明も、傾く迄に成にけり。夜已に明なんとしければ、中宮御車を廻らして還御成けるが、御泪の中に、此上の思はあらじつれなさの命よさればいつを限りぞと許聞へて、臥沈ませ給ながら、帰車の別路に、廻り逢世の憑なき、御心の中こそ悲しけれ。
○先帝遷幸事 S0406
明れば三月七日、千葉介貞胤、小山五郎左衛門、佐々木佐渡判官入道々誉五百余騎にて、路次を警固仕て先帝を隠岐国へ遷し奉る。供奉の人とては、一条頭大夫行房、六条少将忠顕、御仮借は三位殿御局許也。其外は皆甲冑を鎧て、弓箭帯せる武士共、前後左右に打囲奉りて、七条を西へ、東洞院を下へ御車を輾れば、京中貴賎男女小路に立双て、「正しき一天の主を、下として流し奉る事の浅猿さよ。武家の運命今に尽なん。」と所憚なく云声巷に満て、只赤子の母を慕如く泣悲みければ、聞に哀を催して、警固の武士も諸共に、皆鎧の袖をぞぬらしける。桜井の宿を過させ給ける時、八幡を伏拝御輿を舁居させて、二度帝都還幸の事をぞ御祈念有ける。八幡大菩薩と申は、応神天皇の応化百王鎮護の御誓ひ新なれば、天子行在の外までも、定て擁護の御眸をぞ廻さる覧と、憑敷こそ思召けれ。湊川を過させ給時、福原の京を被御覧ても、平相国清盛が四海を掌に握て、平安城を此卑湿の地に遷したりしかば、無幾程亡しも、偏に上を犯さんとせし侈の末、果して天の為に被罰ぞかしと、思食慰む端となりにけり。印南野を末に御覧じて、須磨の浦を過させ給へば、昔源氏大将の、朧月夜に名を立て此浦に流され、三年の秋を送りしに、波只此もとに立し心地して、涙落共覚ぬに、枕は浮許に成にけりと、旅寝の秋を悲みしも、理なりと被思召。明石の浦の朝霧に遠く成行淡路嶋、寄来る浪も高砂の、尾上の松に吹嵐、迹に幾重の山川を、杉坂越て美作や、久米の佐羅山さら/\に、今は有べき時ならぬに、雲間の山に雪見へて、遥に遠き峯あり。御警固の武士を召て、山の名を御尋あるに、「是は伯耆の大山と申山にて候。」と申ければ、暫く御輿を被止、内証甚深の法施を奉らせ給ふ。或時は鶏唱抹過茅店月、或時は馬蹄踏破板橋霜、行路に日を窮めければ、都を御出有て、十三日と申に、出雲の見尾の湊に着せ給ふ。爰にて御船を艤して、渡海の順風をぞ待れける。
○備後三郎高徳事付呉越軍事 S0407
其比備前国に、児嶋備後三郎高徳と云者あり。主上笠置に御座有し時、御方に参じて揚義兵しが、事未成先に、笠置も被落、楠も自害したりと聞へしかば、力を失て黙止けるが、主上隠岐国へ被遷させ給と聞て、無弐一族共を集めて評定しけるは、「志士仁人無求生以害仁、有殺身為仁。」といへり。されば昔衛の懿公が北狄の為に被殺て有しを見て、其臣に弘演と云し者、是を見るに不忍、自腹を掻切て、懿公が肝を己が胸の中に収め、先君の恩を死後に報て失たりき。「見義不為無勇。」いざや臨幸の路次に参り会、君を奪取奉て大軍を起し、縦ひ尸を戦場に曝す共、名を子孫に伝へん。」と申ければ、心ある一族共皆此義に同ず。「さらば路次の難所に相待て、其隙を可伺。」とて、備前と播磨との境なる、舟坂山の嶺に隠れ臥、今や/\とぞ待たりける。臨幸余りに遅かりければ、人を走らかして是を見するに、警固の武士、山陽道を不経、播磨の今宿より山陰道にかゝり、遷幸を成奉りける間、高徳が支度相違してけり。さらば美作の杉坂こそ究竟の深山なれ。此にて待奉んとて、三石の山より直違に、道もなき山の雲を凌ぎて杉坂へ着たりければ、主上早や院庄へ入せ給ぬと申ける間、無力此より散々に成にけるが、せめても此所存を上聞に達せばやと思ける間、微服潛行して時分を伺ひけれ共、可然隙も無りければ、君の御坐ある御宿の庭に、大なる桜木有けるを押削て、大文字に一句の詩をぞ書付たりける。天莫空勾践。時非無范蠡。御警固の武士共、朝に是を見付て、「何事を何なる者が書たるやらん。」とて、読かねて、則上聞に達してけり。主上は軈て詩の心を御覚り有て、竜顔殊に御快く笑せ給へども、武士共は敢て其来歴を不知、思咎る事も無りけり。抑此詩の心は、昔異朝に呉越とてならべる二の国あり。此両国の諸侯皆王道を不行、覇業を務としける間、呉は越を伐て取んとし、越は呉を亡して合せんとす。如此相争事及累年。呉越互に勝負を易へしかば、親の敵となり、子の讎と成て共に天を戴く事を恥。周の季の世に当て、呉国の主をば呉王夫差と云、越国の主をば越王勾践とぞ申ける。或時此越王范蠡と云大臣を召て宣ひけるは、「呉は是父祖の敵也。我是を不討、徒に送年事、嘲を天下の人に取のみに非ず。兼ては父祖の尸を九泉の苔の下に羞しむる恨あり。然れば我今国の兵を召集て、自ら呉国へ打超、呉王夫差を亡して父祖の恨を散ぜんと思也。汝は暫く留此国可守社稷。」と宣ひければ、范蠡諌め申けるは、「臣窃に事の子細を計るに、今越の力を以て呉を亡さん事は頗以可難る。其故は先両国の兵を数ふるに呉は二十万騎越は纔に十万騎也。誠に以小を、大に不敵、是呉を難亡其一也。次には以時計るに、春夏は陽の時にて忠賞を行ひ秋冬は陰の時にて刑罰を専にす。時今春の始也。是征伐を可致時に非ず。是呉を難滅其二也。次に賢人所帰則其国強、臣聞呉王夫差の臣下に伍子胥と云者あり。智深して人をなつけ、慮遠くして主を諌む。渠儂呉国に有ん程は呉を亡す事可難。是其三也。麒麟は角に肉有て猛き形を不顕、潛竜は三冬に蟄して一陽来復の天を待。君呉越を合られ、中国に臨で南面にして孤称せんとならば、且く伏兵隠武、待時給ふべし。」と申ければ、其時越王大に忿て宣けるは、「礼記に、父の讎には共に不戴天いへり、我已に及壮年まで呉を不亡、共に戴日月光事人の羞むる所に非や。是を以兵を集る処に、汝三の不可を挙て我を留る事、其義一も道に不協。先兵の多少を数へて可致戦ば、越は誠に呉に難対。而れ共軍の勝負必しも不依勢多少、只依時運。又は依将謀。されば呉と越と戦ふ事及度々雌雄互に易れり。是汝が皆知処也。今更に何ぞ越の小勢を以て戦呉大敵事不協我を可諌や。汝が武略の不足処の其一也。次に以時軍の勝負を計らば天下の人皆時を知れり。誰か軍に不勝。若春夏は陽の時にて罰を不行と云はゞ、殷の湯王の桀を討しも春也。周の武王の紂を討しも春也。されば、「天の時は不如地利に、地利は〔不〕如人和に」といへり。而るに汝今可行征罰時に非ずと我を諌むる、是汝が知慮の浅き処の二也。次に呉国に伍子胥が有ん程は、呉を亡す事不可叶と云はゞ、我遂に父祖の敵を討て恨を泉下に報ぜん事有べからず。只徒に伍子胥が死せん事を待たば死生有命又は老少前後す。伍子胥と我と何れをか先としる。此理を不弁我征罰を可止や。此汝が愚の三也。抑我多日に及で兵を召事呉国へも定て聞へぬらん。事遅怠して却て呉王に被寄なば悔とも不可有益。「先則制人後則被人制」といへり。事已に決せり且も不可止。」とて、越王十一年二月上旬に、勾践自ら十万余騎の兵を率して呉国へぞ被寄ける。呉王夫差是を聞て、「小敵をば不可欺。」とて、自ら二十万騎勢を率して、呉と越との境夫枡県と云所に馳向ひ、後に会稽山を当て、前に大河を隔て陣を取る。態と敵を計ん為に三万余騎を出して、十七万騎をば陣の後の山陰に深く隠してぞ置たりける。去程に越王夫枡県に打臨で、呉の兵を見給へば、其勢僅に二三万騎には過じと覚へて所々に磬へたり。越王是を見て、思に不似小勢なりけりと蔑て、十万騎の兵同時に馬を河水に打入させ、馬筏を組で打渡す。比は二月上旬の事なれば、余寒猶烈くして、河水氷に連れり。兵手凍て弓を控に不叶。馬は雪に泥で懸引も不自在。され共越王責鼓を打て進まれける間、越の兵我先にと双轡懸入る。呉国の兵は兼てより敵を難所にをびき入て、取篭て討んと議したる事なれば、態と一軍もせで夫椒県の陣を引退て会稽山へ引篭る。越の兵勝に乗て北るを追事三十余里、四隊の陣を一陣に合せて、左右を不顧、馬の息も切るゝ程、思々にぞ追たりける。日已に暮なんとする時に、呉兵二十万騎思ふ図に敵を難所へをびき入て、四方の山より打出て、越王勾践を中に取篭、一人も不漏と責戦ふ。越の兵は今朝の軍に遠懸をして人馬共に疲れたる上無勢なりければ、呉の大勢に被囲、一所に打寄て磬へたり。進で前なる敵に蒐らんとすれば、敵は嶮岨に支へて、鏃を調へて待懸たり。引返て後なる敵を払はんとすれば、敵は大勢にて越兵疲れたり。進退此に谷て敗亡已に極れり。され共越王勾践は破堅摧利事、項王が勢を呑、樊■勇にも過たりければ、大勢の中へ懸入、十文字に懸破、巴の字に追廻らす。一所に合て三処に別れ、四方を払て八面に当る。頃刻に変化して雖百度戦、越王遂に打負て、七万余騎討れにけり。勾践こらへ兼て会稽山に打上り、越の兵を数るに打残されたる兵僅に三万余騎也。其も半ば手を負て悉箭尽て鋒折たり。勝負を呉越に伺て、未だ何方へも不着つる隣国の諸侯、多く呉王の方に馳加はりければ、呉の兵弥重て三十万騎、会稽山の四面を囲事如稲麻竹葦也。越王帷幕の内に入り、兵を集めて宣ひけるは、「我運命已に尽て今此囲に逢へり。是全く非戦咎、天亡我。然れば我明日士と共に敵の囲を出て呉王の陣に懸入り、尸を軍門に曝し、恨を再生に可報。」とて越の重器を積で、悉焼捨んとし給ふ。又王■与とて、今年八歳に成給ふ最愛の太子、越王に随て、同く此陣に座けるを呼出し奉て、「汝未幼稚なれば、吾死に殿れて、敵に捕れ、憂目を見ん事も可心憂。若又我為敵虜れて、我汝より先立ば、生前の思難忍。不如汝を先立て心安く思切り、明日の軍に討死して、九泉の苔の下、三途の露の底迄も、父子の恩愛を不捨と思ふ也。」とて、左の袖に拭涙、右の手に提剣太子の自害を勧め給ふ時に、越王の左将軍に、大夫種と云臣あり。越王の御前に進出て申けるは、「生を全くして命を待事は遠くして難く、死を軽くして節に随ふ事は近くして安し。君暫く越の重器を焼捨、太子を殺す事を止め給へ。臣雖不敏、欺呉王君王の死を救ひ、本国に帰て再び大軍を起し、此恥を濯んと思ふ。今此山を囲んで一陣を張しむる呉の上将軍太宰■は臣が古の朋友也。久く相馴て彼が心を察せしに、是誠に血気の勇者なりと云へ共、飽まで其心に欲有て、後の禍を不顧。又彼呉王夫差の行迹を語るを聞しかば、智浅して謀短く、色に婬して道に暗し。君臣共に何れも欺くに安き所也。抑今越の戦無利、為呉被囲ぬる事も、君范蠡が諌めを用ひ不給故に非ずや。願は君王臣が尺寸の謀を被許、敗軍数万の死を救ひ給へ。」と諌申ければ、越王理に折て、「「敗軍の将は再び不謀」と云へり。自今後の事は然大夫種に可任。」と宣て、重器を被焼事を止、太子の自害をも被止けり。大夫種則君の命を請て、冑を脱ぎ旗を巻て、会稽山より馳下り、「越王勢ひ尽て、呉の軍門に降る。」と呼りければ、呉の兵三十万騎、勝時を作て皆万歳を唱ふ。大夫種は則呉の轅門に入て、「君王の倍臣、越勾践の従者、小臣種慎で呉の上将軍の下執事に属す。」と云て、膝行頓首して、太宰■が前に平伏す。太宰■床の上に坐し、帷幕を揚させて大夫種に謁す。大夫種敢て平視せず。低面流涙申けるは、「寡君勾践運極まり、勢尽て呉の兵に囲れぬ。仍今小臣種をして、越王長く呉王の臣と成、一畝の民と成ん事を請しむ。願は先日の罪を被赦今日の死を助け給へ。将軍若勾践の死を救ひ給はゞ、越の国を献呉王成湯沐地、其重器を将軍に奉り、美人西施を洒掃の妾たらしめ、一日の歓娯に可備。若夫請、所望不叶遂に勾践を罪せんとならば、越の重器を焼棄、士卒の心を一にして、呉王の堅陣に懸入、軍門に尸を可止。臣平生将軍と交を結ぶ事膠漆よりも堅し。生前の芳恩只此事にあり。将軍早く此事を呉王に奏して、臣が胸中の安否を存命の裏に知しめ給へ。」と一度は忿り一度は歎き、言を尽して申ければ、太宰■顔色誠に解て、「事以不難、我必越王の罪をば可申宥。」とて軈て呉王の陣へぞ参りける。太宰■即呉王の玉座に近付き、事の子細を奏しければ、呉王大に忿て、「抑呉と越と国を争ひ、兵を挙る事今日のみに非ず。然るに勾践運窮て呉の擒となれり。是天の予に与へたるに非や。汝是を乍知勾践が命を助けんと請ふ。敢て非忠烈之臣。」宣ひければ、太宰■重て申けるは、「臣雖不肖、苛も将軍の号を被許、越の兵と戦を致す日、廻謀大敵を破り、軽命勝事を快くせり。是偏に臣が丹心の功と云つべし。為君王の、天下の太平を謀らんに、豈一日も尽忠不傾心や。倩計事是非、越王戦に負て勢尽ぬといへ共、残処の兵猶三万余騎、皆逞兵鉄騎の勇士也。呉の兵雖多昨日の軍に功有て、自今後は身を全して賞を貪ん事を思ふべし。越の兵は小勢なりといへ共志を一にして、而も遁れぬ所を知れり。「窮鼠却噛猫、闘雀不恐人」といへり。呉越重て戦はゞ、呉は必危に可近る。不如先越王の命を助け、一畝の地を与て呉の下臣と成さんには。然らば君王呉越両国を合するのみに非ず。斉・楚・秦・趙も悉く不朝云事有べからず。是根を深くし蔕を固する道也。」と、理を尽て申ければ、呉王即欲に耽る心を逞して、「さらば早会稽山の囲を解て勾践を可助。」宣ひける。太宰■帰て大夫種に此由を語りければ、大夫種大に悦で、会稽山に馳帰り、越王に此旨を申せば、士卒皆色を直して、「出万死逢一生、偏に大夫種が智謀に懸れり。」と、喜ばぬ人も無りけり。越王已に降旗を被建ければ、会稽の囲を解て、呉の兵は呉に帰り、越の兵は越に帰る。勾践即太子王■与をば、大夫種に付て本国へ帰し遣し、我身は白馬素車に乗て越の璽綬を頚に懸、自ら呉の下臣と称して呉の軍門に降り給ふ。斯りけれ共、呉王猶心ゆるしや無りけん、「君子は不近刑人」とて、勾践に面を不見給、剰勾践を典獄の官に被下、日に行事一駅駆して、呉の姑蘇城へ入給ふ。其有様を見る人、涙の懸らぬ袖はなし。経日姑蘇城に着給へば、即手械足械を入て、土の楼にぞ入奉りける。夜明日暮れ共、月日の光をも見給はねば、一生溟暗の中に向て、歳月の遷易をも知給はねば、泪の浮ぶ床の上、さこそは露も深かりけめ。去程に范蠡越の国に在て此事を聞に、恨骨髄に徹て難忍。哀何なる事をもして越王の命を助け、本国に帰り給へかし。諸共に謀を廻らして、会稽山の恥を雪めんと、肺肝を砕て思ければ、疲身替形、簀に魚を入て自ら是を荷ひ、魚を売商人の真似をして、呉国へぞ行たりける。姑蘇城の辺にやすらひて、勾践のをはする処を問ければ、或人委く教へ知せけり。范蠡嬉しく思て、彼獄の辺に行たりけれ共、禁門警固隙無りければ、一行の書を魚の腹の中に収て、獄の中へぞ擲入ける。勾践奇く覚して、魚の腹を開て見給へば、西伯囚■里。重耳走■。皆以為王覇。莫死許敵。とぞ書たりける。筆の勢文章の体、まがふべくもなき范蠡が業ざ也。と見給ひければ、彼れ未だ憂世に存へて、為我肺肝を尽しけりと、其志の程哀にも又憑もしくも覚へけるにこそ、一日片時も生けるを憂しとかこたれし我身ながらの命も、却て惜くは思はれけれ。斯りける処に、呉王夫差俄に石淋と云病を受て、身心鎮に悩乱し、巫覡祈れ共無験、医師治すれ共不痊、露命已に危く見へ給ける処に、侘国より名医来て申けるは、「御病実に雖重医師の術及まじきに非ず。石淋の味を甞て、五味の様を知する人あらば、輒く可奉療治。」とぞ申ける。「さらば誰か此石淋を甞て其味をしらすべき」と問に、左右の近臣相顧て、是を甞る人更になし。勾践是を伝聞て泪を押へて宣く、「我会稽の囲に逢し時已に被罰べかりしを、今に命助置れて天下の赦を待事、偏に君王慈慧の厚恩也。我今是を以て不報其恩何の日をか期せん。」とて潛に石淋を取て是を甞て其味を医師に被知。医師味を聞て加療治、呉王の病忽に平癒してげり。呉王大に悦で、「人有心助我死、我何ぞ是を謝する心無らんや。」とて、越王を自楼出し奉るのみに非ず。剰越の国を返し与へて、「本国へ返り去べし。」とぞ被宣下ける。爰に呉王の臣伍子胥と申者、呉王を諌て申けるは、「「天与不取却て得其咎」云へり。此時越の地を不取勾践を返し被遣事、千里の野辺に虎を放つが如し。禍可在近。」申けれ共呉王是を不聞給、遂に勾践を本国へぞ被返ける。越王已に車の轅を廻して、越の国へ帰り給ふ処に、蛙其数を不知車前に飛来。勾践是を見給て、是は勇士を得て素懐を可達瑞相也。とて、車より下て是を拝し給ふ。角て越の国へ帰て住来故宮を見給へば、いつしか三年に荒はて、梟鳴松桂枝狐蔵蘭菊叢、無払人閑庭に落葉満て簫々たり。越王免死帰給ぬと聞へしかば、范蠡王子王■与を宮中へ入奉りぬ。越王の后に西施と云美人座けり。容色勝世嬋娟無類しかば、越王殊に寵愛甚しくして暫くも側を放れ給はざりき。越王捕呉給ひし程は為遁其難側身隠居し給たりしが、越王帰給ふ由を聞給ひて則後宮に帰り参り玉ふ。年の三年を待わびて堪ぬ思に沈玉ける歎の程も呈れて、鬢疎かに膚消たる御形最わりなくらうたけて、梨花一枝春雨に綻び、喩へん方も無りけり。公卿・大夫・文武百司、此彼より馳集りける間、軽軒馳紫陌塵冠珮鎗丹■月、堂上堂下如再開花。斯りける処に自呉国使者来れり。越王驚て以范蠡事の子細を問給ふに、使者答曰、「我君呉王大王好婬重色尋美人玉ふ事天下に普し。而れ共未だ如西施不見顔色。越王出会稽山囲時有一言約。早く彼西施を呉の後宮へ奉傅入、備后妃位。」使也。越王聞之玉て、「我呉王夫差が陣に降て、忘恥甞石淋助命事、全保国身を栄やかさんとには非ず、只西施に為結偕老契なりき。生前に一度別て死して後期再会、保万乗国何かせん。されば縦ひ呉越の会盟破れて二度我為呉成擒共、西施を送他国事は不可有。」とぞ宣ひける。范蠡流涙申けるは、「誠に君展転の思を計るに、臣非不悲云へ共、若今西施を惜給はゞ、呉越の軍再び破て呉王又可発兵。去程ならば、越国を呉に被合のみに非ず、西施をも可奪、社稷をも可被傾。臣倩計るに、呉王好婬迷色事甚し。西施呉の後宮に入給ふ程ならば、呉王是に迷て失政事非所疑。国費へ民背ん時に及で、起兵被攻呉勝事を立処に可得つ。是子孫万歳に及で、夫人連理の御契可久道となるべし。」と、一度は泣一度は諌て尽理申ければ、越王折理西施を呉国へぞ被送ける。西施は小鹿の角のつかの間も、別れて可有物かはと、思ふ中をさけられて、未だ幼なき太子王■与をも不云知思置、ならはぬ旅に出玉へば、別を慕泪さへ暫しが程も止らで、袂の乾く隙もなし。越王は又是や限の別なる覧と堪ぬ思に臥沈て、其方の空を遥々と詠めやり玉へば、遅々たる暮山の雲いとゞ泪の雨となり、虚しき床に独ねて、夢にも責て逢見ばやと欹枕臥玉へば、無添甲斐化に、無為方歎玉ふもげに理りなり。彼西施と申は天下第一の美人也。妝成て一度笑ば百の媚君が眼を迷して、漸池上に無花歟と疑ふ。艷閉て僅に見れば千態人の心を蕩して忽に雲間に失月歟と奇しまる。されば一度入宮中君王の傍に侍しより、呉王の御心浮れて、夜は終夜ら婬楽をのみ嗜で、世の政をも不聞、昼は尽日遊宴をのみ事として、国の危をも不顧。金殿挿雲、四辺三百里が間、山河を枕の下に直下ても、西施の宴せし夢の中に興を催さん為なりき。輦路に無花春日は、麝臍を埋て履を熏し、行宮に無月夏の夜は、蛍火を集て燭に易ふ。婬乱重日更無止時しかば、上荒下廃るれ共、佞臣は阿て諌せず。呉王万事酔如忘。伍子胥見之呉王を諌て申けるは、「君不見殷紂王妲妃に迷て世を乱り、周の幽王褒■を愛して国を傾事を。君今西施を婬し給へる事過之。国の傾敗非遠に。願は君止之給へ。」と侵言顔諌申けれ共、呉王敢て不聞給。或時又呉王西施に為宴、召群臣南殿の花に酔を勧め給ける処に、伍子胥威儀を正しくして参たりけるが、さしも敷玉鏤金瑶階を登るとて、其裾を高くかゝげたる事恰如渉水時。其怪き故を問に、伍子胥答申けるは、「此姑蘇台越王の為に被亡、草深く露滋き地とならん事非遠。臣若其迄命あらば、住こし昔の迹とて尋見ん時、さこそは袖より余る荊棘の露も、■々として深からんずらめと、行末の秋を思ふ故に身を習はして裙をば揚る也。」とぞ申ける。忠臣諌を納れ共、呉王曾て不用給しかば、余に諌かねて、よしや身を殺して危きを助けんとや思けん、伍子胥又或時、只今新に砥より出たる青蛇の剣を持て参りたり。抜て呉王の御前に拉で申けるは、「臣此剣を磨事、退邪払敵為也。倩国の傾んとする其基を尋ぬれば、皆西施より出たり。是に過たる敵不可有。願は刎西施首、社稷の危を助けん。」と云て、牙を噛て立たりければ、忠言逆耳時君不犯非云事なければ、呉王大に忿て伍子胥を誅せんとす。伍子胥敢て是を不悲。「争い諌めて死節是臣下の則也。我正に越の兵の手に死なんよりは、寧君王の手に死事恨の中の悦也。但し君王臣が忠諌を忿て吾に賜死事、是天已に棄君也。君越王の為に滅れて、刑戮の罪に伏ん事、三年を不可過。願は臣が穿両眼呉の東門に掛られて、其後首を刎給へ。一双の眼未枯前に、君勾践に被亡て死刑に赴き給はんを見て、一笑を快くせん。」と申ければ、呉王弥忿て即伍子胥を被誅、穿其両眼呉の東門幢上にぞ被掛ける。斯りし後は君悪を積ども臣敢て不献諌、只群臣口を噤み万人目を以てす。范蠡聞之、「時已に到りぬ。」と悦で、自二十万騎の兵を率して、呉国へぞ押寄ける。呉王夫差は折節晋国呉を叛と聞て、晋国へ被向たる隙なりければ、防ぐ兵一人もなし。范蠡先西施を取返して越王の宮へ帰し入奉り、姑蘇台を焼掃ふ。斉・楚の両国も越王に志を通ぜしかば、三十万騎を出して范蠡に戮力。呉王聞之先晋国の戦を閣て、呉国へ引返し、越に戦を挑とすれば、前には呉・越・斉・楚の兵如雲霞の、待懸たり。後には又晋国の強敵乗勝追懸たり。呉王大敵に前後を裹れて可遁方も無りければ、軽死戦ふ事三日三夜、范蠡荒手を入替て不継息攻ける間、呉の兵三万余人討れて僅に百騎に成にけり。呉王自相当る事三十二箇度、夜半に解囲六十七騎を随へ、姑蘇山に取上り、越王に使者を立て曰、「君王昔会稽山に苦し時臣夫差是を助たり。願は吾今より後越の下臣と成て、君王の玉趾を戴ん。君若会稽の恩を不忘、臣が今日の死を救ひ給へ。」と言を卑し厚礼降せん事をぞ被請ける。越王聞之古の我が思ひに、今人の悲みさこそと哀に思知給ければ、呉王を殺に不忍、救其死思給へり。范蠡聞之、越王の御前に参て犯面申けるは、「伐柯其則不遠。会稽の古は天越を呉に与へたり。而を呉王取事無して忽に此害に逢り。今却て天越に呉を与へたり。無取事越又如此の害に逢べし。君臣共に肺肝を砕て呉を謀る事二十一年、一朝にして棄ん事豈不悲乎。君行非時不顧臣の忠也。」と云て、呉王の使者未帰前に、范蠡自攻鼓を打て兵を勧め、遂に呉王を生捕て軍門の前に引出す。呉王已に被面縛、呉の東門を過給ふに、忠臣伍子胥が諌に依て、被刎首時、幢の上に掛たりし一双の眼、三年まで未枯して有けるが、其眸明に開け、相見て笑へる気色なりければ、呉王是に面を見事さすが恥かしくや被思けん、袖を顔に押当て低首過給ふ。数万の兵見之涙を流さぬは無りけり。即呉王を典獄の官に下され、会稽山の麓にて遂に首を刎奉る。古来より俗の諺曰、「会稽の恥を雪むる。」とは此事を云なるべし。自是越王呉を合するのみに非ず、晉・楚・斉・秦を平げ、覇者の盟主と成しかば、其功を賞して范蠡を万戸侯に封ぜんとし給ひしか共、范蠡曾て不受其禄、「大名の下には久く不可居る、功成名遂而身退は天の道也。」とて、遂に姓名を替へ陶朱公と呼れて、五湖と云所に身を隠し、世を遁てぞ居たりける。釣して芦花の岸に宿すれば、半蓑に雪を止め、歌て楓葉の陰を過れば、孤舟に秋を戴たり。一蓬の月万頃の天、紅塵の外に遊で、白頭の翁と成にけり。高徳此事を思准らへて、一句の詩に千般の思を述べ、窃に叡聞にぞ達ける。去程に先帝は、出雲の三尾の湊に十余日御逗留有て、順風に成にければ、舟人纜を解て御艤して、兵船三百余艘、前後左右に漕並べて、万里の雲に沿。時に滄海沈々として日没西北浪、雲山迢々として月出東南天、漁舟の帰る程見へて、一灯柳岸に幽也。暮れば芦岸の煙に繋船、明れば松江の風に揚帆、浪路に日数を重ぬれば、都を御出有て後二十六日と申に、御舟隠岐の国に着にけり。佐々木隠岐判官貞清、府の嶋と云所に、黒木の御所を作て皇居とす。玉■に咫尺して被召仕ける人とては、六条少将忠顕、頭大夫行房、女房には三位殿の御局許也。昔の玉楼金殿に引替て、憂節茂き竹椽、涙隙なき松の墻、一夜を隔る程も可堪忍御心地ならず。■人暁を唱し声、警固の武士の番を催す声許り、御枕の上に近ければ、夜のをとゞに入せ給ても、露まどろませ給はず。萩戸の明るを待し朝政なけれ共、巫山の雲雨御夢に入時も、誠に暁ごとの御勤、北辰の御拝も懈らず、今年何なる年なれば、百官無罪愁の涙を滴配所月、一人易位宸襟を悩他郷風給らん。天地開闢より以来斯る不思議を不聞。されば掛天日月も、為誰明なる事を不恥。無心草木も悲之花開事を忘つべし。


太平記

太平記巻第五
○持明院殿御即位事 S0501
元弘二年三月二十二日に、後伏見院第一御子、御年十九にして、天子の位に即せ給ふ。御母は竹内左大臣公衡の御娘、後には広義門院と申し御事也。同年十月二十八日に、河原の御禊あて、十一月十三日に大嘗会を被遂行。関白は鷹司の左大臣冬教公、別当は日野中納言資名卿にてぞをはしける。いつしか当今奉公の人々は、皆一時に望を達して門前市を成し、堂上花の如し。中にも梶井二品親王は、天台座主に成せ給て、大塔・梨本の両門迹を合せて、御管領有しかば、御門徒の大衆群集して、御拝堂の儀式厳重也。加之御室の二品親王法守、仁和寺の御門迹に御移有て、東寺一流の法水を湛へて、北極万歳の聖運を祈り給ふ。是皆後伏見院の御子、今上皇帝の御連枝也。
○宣房卿二君奉公事 S0502
万里小路大納言宣房卿は、元来前朝旧労の寵臣にてをはせし上、子息藤房・季房二人笠置の城にて被生捕て、被処遠流しかば、父の卿も罪科深き人にて有べかりしを、賢才の聞へ有とて、関東以別儀其罪を宥め、当今に可被召仕之由奏し申す。依之日野中納言資明卿を勅使にて、此旨を被仰下ければ、宣房卿勅使に対して被申けるは、「臣雖不肖之身、以多年奉公之労蒙君恩寵、官禄共に進、剰汚政道輔佐之名。「事君之礼、値其有罪、犯厳顔、以道諌諍、三諌不納奉身以退、有匡正之忠無阿順之従、是良臣之節也。若見可諌而不諌、謂之尸位。見可退而不退、謂之懐寵。々々尸位国之奸人也。」と云り。君今不義の行をはして、為武臣被辱給へり。是臣が予依不知処雖不献諌言世人豈其無罪許哉。就中長子二人被処遠流之罪。我已七旬の齢に傾けり。後栄為誰にか期せん。前非何又恥ざらんや。二君の朝に仕て辱を衰老の後に抱かんよりは、伯夷が行を学て飢を首陽の下に忍ばんには不如。」と、涙を流て宣ひければ、資明卿感涙を押へ兼て暫は言をも宣はず。良有て宣ひけるは、「「忠臣不必択主、見仕而可治而已也。」といへり。去ば百里奚は二仕秦穆公永令致覇業、管夷吾翻佐斉桓公、九令朝諸侯。主無以道射鉤之罪、世不皆奈鬻皮之恥といへり。就中武家如此許容の上は、賢息二人の流罪争無赦免御沙汰乎、夫伯夷・叔斉飢て何の益か有し。許由・巣父遁て不足用。抑隠身永断来葉之一跡、与仕朝遠耀前祖之無窮、是非得失有何処乎。与鳥獣同群孔子所不執也。」資明卿理を尽して被責ければ。宣房卿顔色誠に屈伏して、「「以罪棄生、則違古賢夕改之勧、忍垢苟全則犯詩人胡顔之譏」と、魏の曹子建が詩を献ぜし表に書たりしも、理とこそ存ずれ。」とて、遂に参仕の勅答をぞ被申ける。
○中堂新常灯消事 S0503
其比都鄙の間に、希代の不思議共多かりけり。山門の根本中堂の内陣へ山鳩一番飛来て、新常灯の油錠の中に飛入て、ふためきける間、灯明忽に消にけり。此山鳩、堂中の闇さに行方に迷ふて、仏壇の上に翅を低て居たりける処に、承塵の方より、其色朱を指たる如くなる鼠狼一つ走り出で、此鳩を二つながら食殺てぞ失にけり。抑此常灯と申は、先帝山門へ臨幸成たりし時、古桓武皇帝の自ら挑させ給し常燈に準へて、御手づから百二十筋の燈心を束ね、銀の御錠に油を入て、自掻立させ給し燈明也。是偏に皇統の無窮を耀さん為の御願、兼ては六趣の群類の暝闇を照す、慧光法燈の明なるに、思食準へて被始置し常燈なれば、未来永劫に至迄消る事なかるべきに、鴿鳩の飛来て打消けるこそ不思議なれ。其を玄獺の食殺しけるも不思議也。
○相摸入道弄田楽並闘犬事 S0504
又其比洛中に田楽を弄事昌にして、貴賎挙て是に着せり。相摸入道此事を聞及び、新座・本座の田楽を呼下して、日夜朝暮に弄事無他事。入興の余に、宗との大名達に田楽法師を一人づゝ預て装束を飾らせける間、是は誰がし殿の田楽、彼何がし殿の田楽なんど云て、金銀珠玉を逞し綾羅錦繍を妝れり。宴に臨で一曲を奏すれば、相摸入道を始として一族大名我劣らじと直垂・大口を解で抛出す。是を集て積に山の如し。其弊へ幾千万と云数を不知。或夜一献の有けるに、相摸入道数盃を傾け、酔に和して立て舞事良久し。若輩の興を勧る舞にてもなし。又狂者の言を巧にする戯にも非ず。四十有余の古入道、酔狂の余に舞ふ舞なれば、風情可有共覚ざりける処に、何くより来とも知ぬ、新坐・本座の田楽共十余人、忽然として坐席に列てぞ舞歌ひける。其興甚尋常に越たり。暫有て拍子を替て歌ふ声を聞けば、「天王寺のやようれぼしを見ばや。」とぞ拍子ける。或官女此声を聞て、余の面白さに障子の隙より是を見るに、新坐・本座の田楽共と見へつる者一人も人にては無りけり。或觜勾て鵄の如くなるもあり、或は身に翅在て其形山伏の如くなるもあり。異類異形の媚者共が姿を人に変じたるにてぞ有ける。官女是を見て余りに不思議に覚ければ、人を走らかして城入道にぞ告たりける。入道取物も取敢ず、太刀を執て其酒宴の席に臨む。中門を荒らかに歩ける跫を聞て、化物は掻消様に失せ、相摸入道は前後も不知酔伏たり。燈を挑させて遊宴の座席を見るに、誠に天狗の集りけるよと覚て、踏汚したる畳の上に禽獣の足迹多し。城入道、暫く虚空を睨で立たれ共、敢て眼に遮る者もなし。良久して、相摸入道驚覚て起たれ共、惘然として更に所知なし。後日に南家の儒者刑部少輔仲範、此事を伝聞て、「天下将乱時、妖霊星と云悪星下て災を成すといへり。而も天王寺は是仏法最初の霊地にて、聖徳太子自日本一州の未来記を留給へり。されば彼媚者が天王寺の妖霊星と歌ひけるこそ怪しけれ。如何様天王寺辺より天下の動乱出来て、国家敗亡しぬと覚ゆ。哀国主徳を治め、武家仁を施して消妖謀を被致よかし。」と云けるが、果して思知るゝ世に成にけり。彼仲範実に未然の凶を鑒ける博覧の程こそ難有けれ。相摸入道懸る妖怪にも不驚、益々奇物を愛する事止時なし。或時庭前に犬共集て、噛合ひけるを見て、此禅門面白き事に思て、是を愛する事骨髄に入れり。則諸国へ相触て、或は正税・官物に募りて犬を尋、或は権門高家に仰て是を求ける間、国々の守護国司、所々の一族大名、十疋二十疋飼立て、鎌倉へ引進す。是を飼に魚鳥を以てし、是を維ぐに金銀を鏤む。其弊甚多し。輿にのせて路次を過る日は、道を急ぐ行人も馬より下て是に跪き、農を勤る里民も、夫に被取て是を舁、如此賞翫不軽ければ、肉に飽き錦を着たる奇犬、鎌倉中に充満して四五千疋に及べり。月に十二度犬合せの日とて被定しかば、一族大名御内外様の人々、或は堂上に坐を列ね、或庭前に膝を屈して見物す。于時両陣の犬共を、一二百疋充放し合せたりければ、入り違ひ追合て、上に成下に成、噛合声天を響し地を動す。心なき人は是を見て、あら面白や、只戦に雌雄を決するに不異と思ひ、智ある人は是を聞て、あな忌々しや、偏に郊原に尸を争ふに似たりと悲めり。見聞の准ふる処、耳目雖異、其前相皆闘諍死亡の中に存て、浅猿しかりし挙動なり。
○時政参篭榎嶋事 S0505
時已に澆季に及で、武家天下の権を執る事、源平両家の間に落て度々に及べり。然ども天道必盈を虧故に、或は一代にして滅び、或は一世をも不待して失ぬ。今相摸入道の一家、天下を保つ事已に九代に及ぶ。此事有故。昔鎌倉草創の始、北条四郎時政榎嶋に参篭して、子孫の繁昌を祈けり。三七日に当りける夜、赤き袴に柳裏の衣着たる女房の、端厳美麗なるが、忽然として時政が前に来て告て曰、「汝が前生は箱根法師也。六十六部の法華経を書冩して、六十六箇国の霊地に奉納したりし善根に依て、再び此土に生る事を得たり。去ば子孫永く日本の主と成て、栄花に可誇。但其挙動違所あらば、七代を不可過。吾所言不審あらば、国々に納し所の霊地を見よ。」と云捨て帰給ふ。其姿をみければ、さしも厳しかりつる女房、忽に伏長二十丈許の大蛇と成て、海中に入にけり。其迹を見に、大なる鱗を三つ落せり。時政所願成就しぬと喜て、則彼鱗を取て、旗の文にぞ押たりける。今の三鱗形の文是也。其後弁才天の御示現に任て、国々の霊地へ人を遣して、法華経奉納の所を見せけるに、俗名の時政を法師の名に替て、奉納筒の上に大法師時政と書たるこそ不思議なれ。されば今相摸入道七代に過て一天下を保けるも、江嶋の弁才天の御利生、又は過去の善因に感じてげる故也。今の高時禅門、已に七代を過、九代に及べり。されば可亡時刻到来して、斯る不思議の振舞をもせられける歟とぞ覚ける。
○大塔宮熊野落事 S0506
大塔二品親王は、笠置の城の安否を被聞食為に、暫く南都の般若寺に忍て御座有けるが、笠置の城已に落て、主上被囚させ給ぬと聞へしかば、虎の尾を履恐れ御身の上に迫て、天地雖広御身を可被蔵所なし。日月雖明長夜に迷へる心地して、昼は野原の草に隠れて、露に臥鶉の床に御涙を争ひ、夜は孤村の辻に彳て、人を尤むる里の犬に御心を被悩、何くとても御心安かるべき所無りければ、角ても暫はと被思食ける処に、一乗院の候人按察法眼好専、如何して聞たりけん、五百余騎を率して、未明に般若寺へぞ寄たりける。折節宮に奉付たる人独も無りければ一防ぎ防て落させ可給様も無りける上、透間もなく兵既に寺内に打入たれば、紛れて御出あるべき方もなし。さらばよし自害せんと思食て、既に推膚脱せ給たりけるが、事叶はざらん期に臨で、腹を切らん事は最可安。若やと隠れて見ばやと思食返して、仏殿の方を御覧ずるに、人の読懸て置たる大般若の唐櫃三あり。二の櫃は未開蓋を、一の櫃は御経を半ばすぎ取出して蓋をもせざりけり。此蓋を開たる櫃の中へ、御身を縮めて臥させ給ひ、其上に御経を引かづきて、隠形の呪を御心の中に唱てぞ坐しける。若捜し被出ば、頓て突立んと思召て氷の如くなる刀を抜て、御腹に指当て、兵、「此にこそ。」と云んずる一言を待せ給ける御心の中、推量るも尚可浅。去程に兵仏殿に乱入て、仏壇の下天井の上迄も無残所捜しけるが、余りに求かねて、「是体の物こそ怪しけれ。あの大般若の櫃を開見よ。」とて、蓋したる櫃二を開て、御経を取出し、底を翻して見けれどもをはせず。蓋開たる櫃は見るまでも無とて、兵皆寺中を出去ぬ。宮は不思議の御命を続せ給ひ、夢に道行心地して、猶櫃の中に座しけるが、若兵又立帰り、委く捜す事もや有んずらんと御思案有て、頓て前に兵の捜し見たりつる櫃に、入替らせ給てぞ座しける。案の如く兵共又仏殿に立帰り、「前に蓋の開たるを見ざりつるが無覚束。」とて、御経を皆打移して見けるが、から/\と打笑て、「大般若の櫃の中を能々捜したれば、大塔宮はいらせ給はで、大唐の玄弉三蔵こそ坐しけれ。」と戯れければ、兵皆一同に笑て門外へぞ出にける。是偏に摩利支天の冥応、又は十六善神の擁護に依る命也。と、信心肝に銘じ感涙御袖を湿せり。角ては南都辺の御隠家暫も難叶ければ、則般若寺を御出在て、熊野の方へぞ落させ給ける。御供の衆には、光林房玄尊・赤松律師則祐・木寺相摸・岡本三河房・武蔵房・村上彦四郎・片岡八郎・矢田彦七・平賀三郎、彼此以上九人也。宮を始奉て、御供の者迄も皆柿の衣に笈を掛け、頭巾眉半に責め、其中に年長ぜるを先達に作立、田舎山伏の熊野参詣する体にぞ見せたりける。此君元より龍楼鳳闕の内に長とならせ給て、華軒香車の外を出させ給はぬ御事なれば、御歩行の長途は定て叶はせ給はじと、御伴の人々兼ては心苦しく思けるに、案に相違して、いつ習はせ給ひたる御事ならねども怪しげなる単皮・脚巾・草鞋を召て、少しも草臥たる御気色もなく、社々の奉弊、宿々の御勤懈らせ給はざりければ、路次に行逢ひける道者も、勤修を積める先達も見尤る事も無りけり。由良湊を見渡せば、澳漕舟の梶をたへ、浦の浜ゆふ幾重とも、しらぬ浪路に鳴千鳥、紀伊の路の遠山眇々と、藤代の松に掛れる磯の浪、和歌・吹上を外に見て、月に瑩ける玉津島、光も今はさらでだに、長汀曲浦の旅の路、心を砕く習なるに、雨を含める孤村の樹、夕を送る遠寺の鐘、哀を催す時しもあれ、切目の王子に着給ふ。其夜は叢祠の露に御袖を片敷て、通夜祈申させ給けるは、南無帰命頂礼三所権現・満山護法・十万の眷属・八万の金剛童子、垂迹和光の月明かに分段同居の闇を照さば、逆臣忽に亡びて朝廷再耀く事を令得給へ。伝承る、両所権現は是伊弉諾・伊弉冉の応作也。我君其苗裔として朝日忽に浮雲の為に被隠て冥闇たり。豈不傷哉。玄鑒今似空。神若神たらば、君盍為君と、五体を地に投て一心に誠を致てぞ祈申させ給ける。丹誠無二の御勤、感応などかあらざらんと、神慮も暗に被計たり。終夜の礼拝に御窮屈有ければ、御肱を曲て枕として暫御目睡在ける御夢に、鬟結たる童子一人来て、「熊野三山の間は尚も人の心不和にして大儀成難し。是より十津川の方へ御渡候て時の至んを御待候へかし。両所権現より案内者に被付進て候へば御道指南可仕候。」と申すと被御覧御夢は則覚にけり。是権現の御告也。けりと憑敷被思召ければ、未明に御悦の奉弊を捧げ、頓て十津河を尋てぞ分入らせ給ける。其道の程三十余里が間には絶て人里も無りければ、或は高峯の雲に枕を峙て苔の筵に袖を敷、或は岩漏水に渇を忍んで朽たる橋に肝を消す。山路本より雨無して、空翠常に衣を湿す。向上れば万仞の青壁刀に削り、直下ば千丈の碧潭藍に染めり。数日の間斯る嶮難を経させ給へば、御身も草臥はてゝ流るゝ汗如水。御足は欠損じて草鞋皆血に染れり。御伴の人々も皆其身鉄石にあらざれば、皆飢疲れてはか/゛\敷も歩得ざりけれ共、御腰を推御手を挽て、路の程十三日に十津河へぞ着せ給ひける。宮をばとある辻堂の内に奉置て、御供の人々は在家に行て、熊野参詣の山伏共道に迷て来れる由を云ければ、在家の者共哀を垂て、粟の飯橡の粥など取出して其飢を相助く。宮にも此等を進せて二三日は過けり。角ては始終如何可在とも覚へざりければ、光林房玄尊、とある在家の是ぞさもある人の家なるらんと覚しき所に行て、童部の出たるに家主の名を問へば、「是は竹原八郎入道殿の甥に、戸野兵衛殿と申人の許にて候。」と云ければ、さては是こそ、弓矢取てさる者と聞及ぶ者なれ、如何にもして是を憑まばやと思ければ、門の内へ入て事の様を見聞処に、内に病者有と覚て、「哀れ貴からん山伏の出来れかし、祈らせ進らせん。」と云声しけり。玄尊すはや究竟の事こそあれと思ければ、声を高らかに揚て、「是は三重の滝に七日うたれ、那智に千日篭て三十三所の巡礼の為に、罷出たる山伏共、路蹈迷て此里に出て候。一夜の宿を借一日〔の〕飢をも休め給へ。」と云たりければ、内より怪しげなる下女一人出合ひ、「是こそ可然仏神の御計ひと覚て候へ。是の主の女房物怪を病せ給ひ候。祈てたばせ給てんや。」と申せば、玄尊、「我等は夫山伏にて候間叶ひ候まじ。あれに見へ候辻堂に、足を休て被居て候先達こそ、効験第一の人にて候へ。此様を申さんに子細候はじ。」と云ければ、女大に悦で、「さらば其先達の御房、是へ入進せさせ給へ。」と云て、喜あへる事無限。玄尊走帰て此由を申ければ、宮を始奉て、御供の人皆彼が館へ入せ給ふ。宮病者の伏たる所へ御入在て御加持あり。千手陀羅尼を二三反高らかに被遊て、御念珠を押揉ませ給ければ、病者自口走て、様々の事を云ける、誠に明王の縛に被掛たる体にて、足手を縮て戦き、五体に汗を流して、物怪則立去ぬれば、病者忽に平瘉す。主の夫不斜喜で、「我畜たる物候はねば、別の御引出物迄は叶候まじ。枉て十余日是に御逗留候て、御足を休めさせ給へ。例の山伏楚忽に忍で御逃候ぬと存候へば、恐ながら是を御質に玉らん。」とて、面々の笈共を取合て皆内にぞ置たりける。御供の人々、上には其気色を不顕といへ共、下には皆悦思へる事無限。角て十余日を過させ給けるに、或夜家主の兵衛尉、客殿に出て薪などせさせ、四方山の物語共しける次に申けるは、「旁は定て聞及ばせ給たる事も候覧。誠やらん、大塔宮、京都を落させ給て、熊野の方へ趣せ給候けんなる。三山の別当定遍僧都は無二武家方にて候へば、熊野辺に御忍あらん事は難成覚候。哀此里へ御入候へかし。所こそ分内は狭く候へ共、四方皆嶮岨にて十里二十里が中へは鳥も翔り難き所にて候。其上人の心不偽、弓矢を取事世に超たり。されば平家の嫡孫惟盛と申ける人も、我等が先祖を憑て此所に隠れ、遂に源氏の世に無恙候けるとこそ承候へ。」と語ければ、宮誠に嬉しげに思食たる御気色顕れて、「若大塔宮なんどの、此所へ御憑あて入せ給ひたらば、被憑させ給はんずるか。」と問せ給へば、戸野兵衛、「申にや及び候。身不肖に候へ共、某一人だに斯る事ぞと申さば、鹿瀬・蕪坂・湯浅・阿瀬川・小原・芋瀬・中津川・吉野十八郷の者迄も、手刺者候まじきにて候。」とぞ申ける。其時宮、木寺相摸にきと御目合有ければ、相摸此兵衛が側に居寄て、「今は何をか隠し可申、あの先達の御房こそ、大塔宮にて御坐あれ。」と云ければ、此兵衛尚も不審気にて、彼此の顔をつく/゛\と守りけるに、片岡八郎・矢田彦七、「あら熱や。」とて、頭巾を脱で側に指置く。実の山伏ならねば、さかやきの迹隠なし。兵衛是を見て、「げにも山伏にては御座せざりけり。賢ぞ此事申出たりける。あな浅猿、此程の振舞さこそ尾篭に思召候つらん。」と以外に驚て、首を地に着手を束ね、畳より下に蹲踞せり。俄に黒木の御所を作て宮を守護し奉り、四方の山々に関を居、路を切塞で、用心密しくぞ見へたりける。是も猶大儀の計畧難叶とて、叔父竹原八郎入道に此由を語ければ、入道頓て戸野が語に随て、我館へ宮を入進らせ、無二の気色に見へければ、御心安く思召て、此に半年許御座有ける程に、人に被見知じと被思食ける御支度に、御還俗の体に成せ給ければ、竹原八郎入道が息女を、夜るのをとゞへ被召て御覚異他なり。さてこそ家主の入道も弥志を傾け、近辺の郷民共も次第に帰伏申たる由にて、却て武家をば褊しけり。去程に熊野の別当定遍此事を聞て、十津河へ寄せんずる事は、縦十万騎の勢ありとも不可叶。只其辺の郷民共の欲心を勧て、宮を他所へ帯き出し奉らんと相計て、道路の辻に札を書て立けるは、「大塔宮を奉討たらん者には、非職凡下を不云、伊勢の車間庄を恩賞に可被充行由を、関東の御教書有之。其上に定遍先三日が中に六万貫を可与。御内伺候の人・御手の人を討たらん者には五百貫、降人に出たらん輩には三百貫、何れも其日の中に必沙汰し与べし。」と定て、奥に起請文の詞を載て、厳密の法をぞ出しける。夫移木の信は為堅約、献芹の賂は為奪志なれば、欲心強盛の八庄司共此札を見てければ、いつしか心変じ色替て、奇しき振舞共にぞ聞へける。宮「角ては此所の御止住、始終悪かりなん。吉野の方へも御出あらばや。」と被仰けるを、竹原入道、「如何なる事や候べき。」と強て留申ければ、彼が心を破られん事も、さすがに叶はせ給はで、恐懼の中に月日を送らせ給ける。結句竹原入道が子共さへ、父が命を背て、宮を討奉らんとする企在と聞しかば、宮潛に十津河も出させ給て、高野の方へぞ趣かせ給ひける。其路、小原・芋瀬・中津河と云敵陣の難所を経て通る路なれば、中々敵を打憑て見ばやと被思召、先芋瀬の庄司が許へ入せ給ひけり。芋瀬、宮をば我館へ入進らせずして、側なる御堂に置奉り、使者を以て申けるは、「三山別当定遍武命を含で、隠謀与党の輩をば、関東へ注進仕る事にて候へば、此道より無左右通し進らせん事、後の罪科陳謝するに不可有拠候、乍去宮を留進らせん事は其恐候へば、御伴の人々の中に名字さりぬべからんずる人を一両人賜て、武家へ召渡候歟、不然ば御紋の旗を給て、合戦仕て候つる支証是にて候と、武家へ可申にて候。此二つの間、何れも叶まじきとの御意にて候はゞ、無力一矢仕らんずるにて候。」と、誠に又予儀もなげにぞ申入たりける。宮は此事何れも難議也。と思召て、敢御返事も無りけるを、赤松律師則祐進み出て申けるは、「危きを見て命を致すは士卒の守る所に候。されば紀信は詐て敵に降り、魏豹は留て城を守る。是皆主の命に代りて、名を留めし者にて候はずや。兎ても角ても彼が所存解て、御所を通し可進にてだに候はゞ、則祐御大事に代て罷出候はん事は、子細有まじきにて候。」と申せば、平賀三郎是を聞て、「末坐の意見卒尓の議にて候へ共、此艱苦の中に付纏奉りたる人は、雖一人上の御為には、股肱耳目よりも難捨被思召候べし。就中芋瀬庄司が申所、げにも難被黙止候へば、其安きに就て御旗許を被下候はんに、何の煩か候べき。戦場に馬・物具を捨、太刀・刀を落して敵に被取事、さまでの恥ならず。只彼が申請る旨に任て、御旗を被下候へかし。」と申ければ、宮げにもと思召て、月日を金銀にて打て着たる錦の御旗を、芋瀬庄司にぞ被下ける。角て宮は遥に行過させ給ぬ。暫有て村上彦四郎義光、遥の迹にさがり、宮に追着進せんと急けるに、芋瀬庄司無端道にて行合ぬ。芋瀬が下人に持せたる旗を見れば、宮の御旗也。村上怪て事の様を問に、尓々の由を語る。村上、「こはそも何事ぞや。忝も四海の主にて御坐す天子の御子の、朝敵御追罰の為に、御門出ある路次に参り合て、汝等程の大凡下の奴原が、左様の事可仕様やある。」と云て、則御旗を引奪て取、剰旗持たる芋瀬が下人の大の男を掴で、四五丈許ぞ抛たりける。其怪力無比類にや怖たりけん。芋瀬庄司一言の返事もせざりければ、村上自御旗を肩に懸て、無程宮に〔奉〕追着。義光御前に跪て此様を申ければ、宮誠に嬉しげに打笑はせ給て、「則祐が忠は孟施舎が義を守り、平賀が智は陳丞相が謀を得、義光が勇は北宮黝が勢を凌げり。此三傑を以て、我盍治天下哉。」と被仰けるぞ忝き。其夜は椎柴垣の隙あらはなる山がつの庵に、御枕を傾けさせ給て、明れば小原へと志て、薪負たる山人の行逢たるに、道の様を御尋有けるに、心なき樵夫迄も、さすが見知進せてや在けん、薪を下し地に跪て、「是より小原へ御通り候はん道には、玉木庄司殿とて、無弐の武家方の人をはしまし候。此人を御語ひ候はでは、いくらの大勢にても其前をば御通り候ぬと不覚候。恐ある申事にて候へ共、先づ人を一二人御使に被遣候て、彼人の所存をも被聞召候へかし。」とぞ申ける。宮つく/゛\と聞召て、「芻蕘の詞迄も不捨」と云は是也。げにも樵夫が申処さもと覚るぞ。」とて、片岡八郎・矢田彦七二人を、玉置庄司が許へ被遣て、「此道を御通り有べし、道の警固に、木戸を開き、逆茂木を引のけさせよ。」とぞ被仰ける。玉置庄司御使に出合て、事の由を聞て、無返事にて内へ入けるが、軈て若党・中間共に物具させ、馬に鞍置、事の体躁しげに見へければ、二人の御使、「いや/\此事叶ふまじかりけり。さらば急ぎ走帰て、此由を申さん。」とて、足早に帰れば、玉置が若党共五六十人、取太刀許にて追懸たり。二人の者立留り、小松の二三本ありける陰より跳出で、真前に進だる武者の馬の諸膝薙で刎落させ、返す太刀にて頚打落して、仰たる太刀を押直してぞ立たりける。迹に続て追ける者共も、是を見て敢て近付者一人もなし、只遠矢に射すくめけれ、片岡八郎矢二筋被射付て、今は助り難と思ければ、「や殿、矢田殿、我はとても手負たれば、此にて打死せんずるぞ。御辺は急ぎ宮の御方へ走参て、此由を申て、一まども落し進せよ。」と、再往強て云ければ、矢田も一所にて打死せんと思けれども、げにも宮に告申さゞらんは、却て不忠なるべければ、無力只今打死する傍輩を見捨て帰りける心の中、被推量て哀也。矢田遥に行延て跡を顧れば、片岡八郎はや被討ぬと見へて、頚を太刀の鋒に貫て持たる人あり。矢田急ぎ走帰て此由を宮に申ければ、「さては遁れぬ道に行迫りぬ。運の窮達歎くに無詞。」とて、御伴の人々に至まで中々騒ぐ気色ぞ無りける。さればとて此に可留に非ず、行れんずる所まで行やとて、上下三十余人の兵共、宮を前に立進せて問々山路をぞ越行ける。既に中津河の峠を越んとし給ける所に、向の山の両の峯に玉置が勢と覚て、五六百人が程混冑に鎧て、楯を前に進め射手を左右へ分て、時の声をぞ揚たりける。宮是を御覧じて、玉顔殊に儼に打笑ませ給て、御手の者共に向て、「矢種の在んずる程は防矢を射よ、心静に自害して名を万代に可貽。但各相構て、吾より先に腹切事不可有。吾已に自害せば、面の皮を剥耳鼻を切て、誰が首とも見へぬ様にし成て捨べし。其故は我首を若獄門に懸て被曝なば、天下に御方の志を存ぜん者は力を失ひ、武家は弥所恐なかるべし。「死せる孔明生る仲達を走らしむ」と云事あり。されば死して後までも、威を天下に残すを以て良将とせり。今はとても遁れぬ所ぞ、相構て人々きたなびれて、敵に笑はるな。」と被仰ければ、御供の兵共、「何故か、きたなびれ候べき。」と申て、御前に立て、敵の大勢にて責上りける坂中の辺まで下向ふ。其勢僅三十二人、是皆一騎当千の兵とはいへ共、敵五百余騎に打合て、可戦様は無りけり。寄手は楯を雌羽につきしとうてかづき襄り、防ぐ兵は打物の鞘をはづして相懸りに近付所に、北の峯より赤旗三流、松の嵐に翻して、其勢六七百騎が程懸出たり。其勢次第に近付侭、三手に分て時の声を揚て、玉置庄司に相向ふ。真前に進だる武者大音声を揚て、「紀伊国の住人野長瀬六郎・同七郎、其勢三千余騎にて大塔宮の御迎に参る所に、忝も此君に対ひ進せて、弓を控楯を列ぬる人は誰ぞや。玉置庄司殿と見るは僻目か、只今可滅武家の逆命に随て、即時に運を開かせ可給親王に敵対申ては、一天下の間何の処にか身を置んと思ふ。天罰不遠から、是を鎮ん事我等が一戦の内にあり。余すな漏すな。」と、をめき叫でぞ懸りける。是を見て玉置が勢五百余騎、叶はじとや思けん、楯を捨旗を巻て、忽に四角八方へ逃散ず。其後野長瀬兄弟、甲を脱ぎ弓を脇に挟て遥に畏る。宮の御前近く被召て、「山中の為体、大儀の計略難叶かるべき間、大和・河内の方へ打出て勢を付ん為、令進発之処に、玉置庄司只今の挙動、当手の兵万死の内に一生をも得難しと覚つるに、不慮の扶に逢事天運尚憑あるに似たり。抑此事何として存知たりければ、此戦場に馳合て、逆徒の大軍をば靡ぬるぞ。」と御尋有ければ、野長瀬畏て申けるは、「昨日の昼程に、年十四五許に候し童の、名をば老松といへり〔と〕名乗て、「大塔宮明日十津河を御出有て、小原へ御通りあらんずるが、一定道にて難に逢はせ給ぬと覚るぞ、志を存ぜん人は急ぎ御迎に参れ」と触廻り候つる間、御使ぞと心得て参て候。」とぞ申ける。宮此事を御思案あるに、直事に非ずと思食合せて、年来御身を放されざりし膚の御守を御覧ずるに、其口少し開たりける間、弥怪しく思食て、則開被御覧ければ、北野天神の御神体を金銅にて被鋳進たる其御眷属、老松の明神の御神体、遍身より汗かいて、御足に土の付たるぞ不思議なる。「さては佳運神慮に叶へり、逆徒の退治何の疑か可有。」とて、其より宮は、槙野上野房聖賢が拵たる、槙野の城へ御入ありけるが、此も尚分内狭くて可悪ると御思案ありて、吉野の大衆を語はせ給て、安善宝塔を城郭に構へ、岩切通す吉野河を前に当て、三千余騎を随へて楯篭らせ給けるとぞ聞へし。


太平記

太平記巻第六
○民部卿三位局御夢想事 S0601
夫年光不停如奔箭下流水、哀楽互替似紅栄黄落樹。尓れば此世中の有様、只夢とやいはん幻とやいはん。憂喜共に感ずれば、袂の露を催す事雖不始今、去年九月に笠置城破れて、先帝隠岐国へ被遷させ給し後は、百司の旧臣悲を抱て所々に篭居し、三千の宮女涙を流して面々に臥沈給ふ有様、誠に憂世の中の習と云ながら、殊更哀に聞へしは、民部卿三位殿御局にて留たり。其を如何にと申に、先朝の御寵愛不浅上、大塔の宮御母堂にて渡せ給しかば、傍への女御・后は、花の側の深山木の色香も無が如く〔也〕。而るを世間静ならざりし後は、万づ引替たる九重の内の御住居も不定、荒のみ増る浪の上に、舟流したる海士の心地して、寄る方もなき御思の上に打添て、君は西海の帰らぬ波に浮沈み、泪無隙御袖の気色と承りしかば、空傾思於万里之暁月、宮は又南山の道なき雲に踏迷はせ給て、狂浮たる御住居と聞ゆれど、難託書於三春之暮雁。云彼云此一方ならぬ御歎に、青糸の髪疎にして、いつの間に老は来ぬらんと被怪、紅玉膚消て、今日を限の命共がなと思召ける御悲の遣方なさに、年来の御祈の師とて、御誦経・御撫物なんど奉りける、北野の社僧の坊に御坐して、一七日参篭の御志ある由を被仰ければ、此折節武家の聞も無憚には非ねども、日来の御恩も重く、今程の御有様も御痛しければ、無情は如何と思て、拝殿の傍に僅なる一間を拵て、尋常の青女房なんどの参篭したる由にて置奉りけり。哀古へならば、錦帳に妝を篭、紗窓に艶を閉て、左右の侍女其数を不知、当りを輝て仮傅奉べきに、いつしか引替たる御忍の物篭なれば、都近けれ共事問かわす人もなし。只一夜松の嵐に御夢を被覚、主忘れぬ梅が香に、昔の春を思召出すにも、昌泰の年の末に荒人神と成せ玉ひし、心づくしの御旅宿までも、今は君の御思に擬へ、又は御身の歎に被思召知たる、哀の色の数々に、御念誦を暫被止て、御涙の内にかくばかり、忘ずは神も哀れと思しれ心づくしの古への旅と遊て、少し御目睡有ける其夜の御夢に、衣冠正しくしたる老翁の、年八十有余なるが、左の手に梅の花を一枝持、右の手に鳩の杖をつき、最苦しげなる体にて、御局の臥給たる枕の辺に立給へり。御夢心地に思召けるは、篠の小篠の一節も、可問人も覚ぬ都の外の蓬生に、怪しや誰人の道蹈迷へるやすらひぞやと御尋有ければ、此老翁世に哀なる気色にて、云ひ出せる詞は無て、持たる梅花を御前に指置て立帰けり。不思議やと思召て御覧ずれば、一首の歌を短冊にかけり。廻りきて遂にすむべき月影のしばし陰を何歎くらん御夢覚て歌の心を案じ給に、君遂に還幸成て雲の上に住ませ可給瑞夢也。と、憑敷思召けり。誠に彼聖廟と申奉るは、大慈大悲の本地、天満天神の垂迹にて渡らせ給へば、一度歩を運ぶ人、二世の悉地を成就し、僅に御名を唱る輩、万事の所願を満足す。況乎千行万行の紅涙を滴尽て、七日七夜の丹誠を致させ給へば、懇誠暗に通じて感応忽に告あり。世既澆季に雖及、信心誠ある時は霊艦新なりと、弥憑敷ぞ思食ける。
○楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事 S0602
元弘二年三月五日、左近将監時益、越後守仲時、両六波羅に被補て、関東より上洛す。此三四年は、常葉駿河守範貞一人として、両六波羅の成敗を司て在しが、堅く辞し申けるに依てとぞ聞へし。楠兵衛正成は、去年赤坂の城にて自害して、焼死たる真似をして落たりしを、実と心得て、武家より、其跡に湯浅孫六入道定仏を地頭に居置たりければ、今は河内国に於ては殊なる事あらじと、心安く思ける処に、同四月三日楠五百余騎を率して、俄に湯浅が城へ押寄て、息をも不継責戦ふ。城中に兵粮の用意乏しかりけるにや、湯浅が所領紀伊国の阿瀬河より、人夫五六百人に兵粮を持せて、夜中に城へ入んとする由を、楠風聞て、兵を道の切所へ差遣、悉是を奪取て其俵に物具を入替て、馬に負せ人夫に持せて、兵を二三百人兵士の様に出立せて、城中へ入んとす。楠が勢是を追散さんとする真似をして、追つ返つ同士軍をぞしたりける。湯浅入道是を見て、我兵粮入るゝ兵共が、楠が勢と戦ふぞと心得て、城中より打て出で、そゞろなる敵の兵共を城中へぞ引入ける。楠が勢共思の侭に城中に入すまして、俵の中より物具共取出し、ひし/\と堅めて、則時の声をぞ揚たりける。城の外の勢、同時に木戸を破り、屏を越て責入ける間、湯浅入道内外の敵に取篭られて、可戦様も無りければ、忽に頚を伸て降人に出づ。楠其勢を合せて、七百余騎にて和泉・河内の両国を靡けて、大勢に成ければ、五月十七日に先住吉・天王寺辺へ打て出で、渡部の橋より南に陣を取る。然間和泉・河内の早馬敷並を打、楠已に京都へ責上る由告ければ、洛中の騒動不斜。武士東西に馳散りて貴賎上下周章事窮りなし。斯りければ両六波羅には畿内近国の勢如雲霞の馳集て、楠今や責上ると待けれ共、敢て其義もなければ、聞にも不似、楠小勢にてぞ有覧、此方より押寄て打散せとて、隅田・高橋を両六波羅の軍奉行として、四十八箇所の篝、並に在京人、畿内近国の勢を合せて、天王寺へ被指向。其勢都合五千余騎、同二十日京都を立て、尼崎・神崎・柱松の辺に陣を取て、遠篝を焼て其夜を遅しと待明す。楠是を聞て、二千余騎を三手に分け、宗との勢をば住吉・天王寺に隠て、僅に三百騎許を渡部の橋の南に磬させ、大篝二三箇所に焼せて相向へり。是は態と敵に橋を渡させて、水の深みに追はめ、雌雄を一時に決せんが為と也。去程に明れば五月二十一日に、六波羅の勢五千余騎、所々の陣を一所に合せ、渡部の橋まで打臨で、河向に引へたる敵の勢を見渡せば、僅に二三百騎には不過、剰痩たる馬に縄手綱懸たる体の武者共也。隅田・高橋是を見て、さればこそ和泉・河内の勢の分際、さこそ有らめと思ふに合せて、はか/゛\しき敵は一人も無りけり。此奴原一々に召捕て六条河原に切懸て、六波羅殿の御感に預らんと云侭に、隅田・高橋人交もせず橋より下を一文字にぞ渡ける。五千余騎の兵共是を見て、我先にと馬を進めて、或は橋の上を歩ませ或は河瀬を渡して、向の岸に懸驤る。楠勢是を見て、遠矢少々射捨て、一戦もせず天王寺の方へ引退く。六波羅の勢是を見て、勝に乗り、人馬の息をも不継せ、天王寺の北の在家まで、揉に揉でぞ追たりける。楠思程敵の人馬を疲らかして、二千騎を三手に分て、一手は天王寺の東より敵を弓手に請て懸出づ。一手は西門の石の鳥居より魚鱗懸に懸出づ。一手は住吉の松陰より懸出で、鶴翼に立て開合す。六波羅の勢を見合すれば、対揚すべき迄もなき大勢なりけれ共、陣の張様しどろにて、却て小勢に囲れぬべくぞ見へたりける。隅田・高橋是を見て、「敵後ろに大勢を陰してたばかりけるぞ。此辺は馬の足立悪して叶はじ。広みへ敵を帯き出し、勢の分際を見計ふて、懸合々々勝負を決せよ。」と、下知しければ、五千余騎の兵共、敵に後ろを被切ぬ先にと、渡部の橋を指て引退く。楠が勢是に利を得て、三方より勝時を作て追懸くる。橋近く成ければ、隅田・高橋是を見て、「敵は大勢にては無りけるぞ、此にて不返合大河後ろに在て悪かりぬべし。返せや兵共。」と、馬の足を立直し/\下知しけれども、大勢の引立たる事なれば、一返も不返、只我先にと橋の危をも不云、馳集りける間、人馬共に被推落て、水に溺るゝ者不知数、或淵瀬をも不知渡し懸て死ぬる者も有り、或は岸より馬を馳倒て其侭被討者も有。只馬・物具を脱捨て、逃延んとする者は有れ共、返合せて戦はんとする者は無りけり。而れば五千余騎の兵共、残少なに被打成て這々京へぞ上りける。其翌日に何者か仕たりけん、六条河原に高札を立て一首の歌をぞ書たりける。渡部の水いか許早ければ高橋落て隅田流るらん京童の僻なれば、此落書を歌に作て歌ひ、或は語伝て笑ひける間、隅田・高橋面目を失ひ、且は出仕を逗め、虚病してぞ居たりける。両六波羅是を聞て、安からぬ事に被思ければ、重て寄せんと被議けり。其比京都余に無勢なりとて関東より被上たる宇都宮治部大輔を呼寄評定有けるは、「合戦の習ひ運に依て雌雄替る事古へより無に非ず。然共今度南方の軍負ぬる事、偏に将の計の拙に由れり。又士卒の臆病なるが故也。天下嘲哢口を塞ぐに所なし。就中に仲時罷上し後、重て御上洛の事は、凶徒若蜂起せば、御向ひ有て静謐候との為なり。今の如んば、敗軍の兵を駈集て何度むけて候とも、はか/゛\しき合戦しつ共不覚候。且は天下の一大事、此時にて候へば、御向候て御退治候へかし。」と宣ひければ、宇都宮辞退の気色無して被申けるは、「大軍已に利を失て後、小勢にて罷向候はん事、如何と存候へども、関東を罷出し始より、加様の御大事に逢て命を軽くせん事を存候き。今の時分、必しも合戦の勝負を見所にては候はねば、一人にて候共、先罷向て一合戦仕り、及難儀候はゞ、重御勢をこそ申候はめ。」と、誠に思定たる体に見へてぞ帰りける。宇都宮一人武命を含で大敵に向はん事、命を可惜に非ざりければ、態と宿所へも不帰、六波羅より直に、七月十九日午刻に都を出で、天王寺へぞ下りける。東寺辺までは主従僅に十四五騎が程とみへしが、洛中にあらゆる所の手者共馳加りける間、四塚・作道にては、五百余騎にぞ成にける。路次に行逢者をば、権門勢家を不云、乗馬を奪ひ人夫を駈立て通りける間、行旅の往反路を曲げ、閭里の民屋戸を閉づ。其夜は柱松に陣を取て明るを待つ。其志一人も生て帰らんと思者は無りけり。去程に河内国の住人和田孫三郎此由を聞て、楠が前に来て云けるは、「先日の合戦に負腹を立て京より宇都宮を向候なる。今夜既に柱松に着て候が其勢僅に六七百騎には過じと聞へ候。先に隅田・高橋が五千余騎にて向て候しをだに、我等僅の小勢にて追散して候しぞかし。其上今度は御方勝に乗て大勢也。敵は機を失て小勢也。宇都宮縦ひ武勇の達人なりとも、何程の事か候べき。今夜逆寄にして打散して捨候ばや。」と云けるを、楠暫思案して云けるは、「合戦の勝負必しも大勢小勢に不依、只士卒の志を一にするとせざると也。されば「大敵を見ては欺き、小勢を見ては畏れよ」と申す事是なり。先思案するに、先度の軍に大勢打負て引退く跡へ、宇都宮一人小勢にて相向ふ志、一人も生て帰らんと思者よも候はじ。其上宇都宮は坂東一の弓矢取也。紀清両党の兵、元来戦場に臨で命を棄る事塵芥よりも尚軽くす。其兵七百余騎志を一つにして戦を決せば、当手の兵縦退く心なく共、大半は必可被討。天下の事全今般の戦に不可依。行末遥の合戦に、多からぬ御方初度の軍に被討なば、後日の戦に誰か力を可合。「良将は不戦して勝」と申事候へば、正成に於ては、明日態と此陣を去て引退き、敵に一面目在る様に思はせ、四五日を経て後、方々の峯に篝を焼て、一蒸蒸程ならば、坂東武者の習、無程機疲て、「いや/\長居しては悪かりなん。一面目有時去来や引返さん。」と云ぬ者は候はじ。されば「懸るも引も折による」とは、加様の事を申也。夜已に暁天に及べり。敵定て今は近付らん。去来させ給へ。」とて、楠天王寺を立ければ、和田・湯浅も諸共に打連てぞ引たりける。夜明ければ、宇都宮七百余騎の勢にて天王寺へ押寄せ、古宇都の在家に火を懸け、時の声を揚たれ共、敵なければ不出合。「たばかりぞすらん。此辺は馬の足立悪して、道狭き間、懸入敵に中を被破な、後ろを被裹な。」と下知して、紀清両党馬の足をそろへて、天王寺の東西の口より懸入て、二三度まで懸入々々しけれ共、敵一人も無して、焼捨たる篝に燈残て、夜はほの/゛\と明にけり。宇都宮不戦先に一勝したる心地して、本堂の前にて馬より下り、上宮太子を伏拝み奉り、是偏に武力の非所致、只然神明仏陀の擁護に懸れりと、信心を傾け歓喜の思を成せり。頓て京都へ早馬を立て、「天王寺の敵をば即時に追落し候ぬ。」と申たりければ、両六波羅を始として、御内外様の諸軍勢に至まで、宇都宮が今度の振舞抜群也。と、誉ぬ人も無りけり。宇都宮、天王寺の敵を輒く追散したる心地にて、一面目は有体なれ共、軈て続て敵の陣へ責入らん事も、無勢なれば不叶、又誠の軍一度も不為して引返さん事もさすがなれば、進退谷たる処に、四五日を経て後、和田・楠、和泉・河内の野伏共を四五千人駈集て、可然兵二三百騎差副、天王寺辺に遠篝火をぞ焼せける。すはや敵こそ打出たれと騒動して、深行侭に是を見れば、秋篠や外山の里、生駒の岳に見ゆる火は、晴たる夜の星よりも数く、藻塩草志城津の浦、住吉・難波の里に焼篝は、漁舟に燃す居去火の、波を焼かと怪しまる。総て大和・河内・紀伊国にありとある所の山々浦々に、篝を焼ぬ所は無りけり。其勢幾万騎あらんと推量してをびたゝし。如此する事両三夜に及び、次第に相近付けば、弥東西南北四維上下に充満して、闇夜に昼を易たり。宇都宮是を見て、敵寄来らば一軍して、雌雄を一時に決せんと志して、馬の鞍をも不息、鎧の上帯をも不解待懸たれ共、軍は無して敵の取廻す勢ひに、勇気疲れ武力怠で、哀れ引退かばやと思ふ心着けり。斯る処に紀清両党の輩も、「我等が僅の小勢にて此大敵に当らん事は、始終如何と覚候。先日当所の敵を無事故追落して候つるを、一面目にして御上洛候へかし。」と申せば、諸人皆此義に同じ、七月二十七日夜半許に宇都宮天王寺を引上洛すれば、翌日早旦に楠頓て入替りたり。誠に宇都宮と楠と相戦て勝負を決せば、両虎二龍の闘として、何れも死を共にすべし。されば互に是を思ひけるにや、一度は楠引て謀を千里の外に運し、一度は宇都宮退て名を一戦の後に不失。是皆智謀深く、慮り遠き良将なりし故也。と、誉ぬ人も無りけり。去程に楠兵衛正成は、天王寺に打出て、威猛を雖逞、民屋に煩ひをも不為して、士卒に礼を厚くしける間、近国は不及申、遐壌遠境の人牧までも、是を聞伝へて、我も我もと馳加りける程に、其勢ひ漸強大にして、今は京都よりも、討手を無左右被下事は難叶とぞ見へたりける。
○正成天王寺未来記披見事 S0603 
元弘二年八月三日、楠兵衛正成住吉に参詣し、神馬三疋献之。翌日天王寺に詣て白鞍置たる馬、白輻輪の太刀、鎧一両副て引進す。是は大般若経転読の御布施なり。啓白事終て、宿老の寺僧巻数を捧て来れり。楠則対面して申けるは、「正成、不肖の身として、此一大事を思立て候事、涯分を不計に似たりといへ共、勅命の不軽礼儀を存ずるに依て、身命の危きを忘たり。然に両度の合戦聊勝に乗て、諸国の兵不招馳加れり。是天の時を与へ、仏神擁護の眸を被回歟と覚候。誠やらん伝承れば、上宮太子の当初、百王治天の安危を勘て、日本一州の未来記を書置せ給て候なる。拝見若不苦候はゞ、今の時に当り候はん巻許、一見仕候ばや。」と云ければ、宿老の寺僧答て云、「太子守屋の逆臣を討て、始て此寺を建て、仏法を被弘候し後、神代より始て、持統天皇の御宇に至までを被記たる書三十巻をば、前代旧事本記とて、卜部の宿祢是を相伝して有職の家を立候。其外に又一巻の秘書を被留て候。是は持統天皇以来末世代々の王業、天下の治乱を被記て候。是をば輒く人の披見する事は候はね共、以別儀密に見参に入候べし。」とて、即秘府の銀鑰を開て、金軸の書一巻を取出せり。正成悦て則是を披覧するに、不思議の記文一段あり。其文に云、当人王九十五代。天下一乱而主不安。此時東魚来呑四海。日没西天三百七十余箇日。西鳥来食東魚を。其後海内帰一三年。如■猴者掠天下三十余年。大凶変帰一元。云云。正成不思議に覚へて、能々思案して此文を考るに、先帝既に人王の始より九十五代に当り給へり。「天下一度乱て主不安」とあるは是此時なるべし。「東魚来て呑四海」とは逆臣相摸入道の一類なるべし。「西鳥食東魚を」とあるは関東を滅す人可有。「日没西天に」とは、先帝隠岐国へ被遷させ給ふ事なるべし。「三百七十余箇日」とは、明年の春の比此君隠岐国より還幸成て、再び帝位に即かせ可給事なるべしと、文の心を明に勘に、天下の反覆久しからじと憑敷覚ければ、金作の太刀一振此老僧に与へて、此書をば本の秘府に納させけり。後に思合するに、正成が勘へたる所、更に一事も不違。是誠に大権聖者の末代を鑒て記し置給し事なれ共、文質三統の礼変、少しも違はざりけるは、不思議なりし讖文也。
○赤松入道円心賜大塔宮令旨事 S0604
其比播磨国の住人、村上天皇第七御子具平親王六代の苗裔、従三位季房が末孫に、赤松次郎入道円心とて弓矢取て無双の勇士有り。元来其心闊如として、人の下風に立ん事を思はざりければ、此時絶たるを継廃たるを興して、名を顕し忠を抽ばやと思けるに、此二三年大塔宮に属纒奉て、吉野十津川の艱難を経ける円心が子息律師則祐、令旨を捧て来れり。披覧するに、「不日に揚義兵率軍勢、可令誅罰朝敵、於有其功者、恩賞宜依請」之由、被戴。委細事書十七箇条の恩裁被添たり。条々何れも家の面目、世の所望する事なれば、円心不斜悦で、先当国佐用庄苔縄の山に城を構て、与力の輩を相招く。其威漸近国に振ひければ、国中の兵共馳集て、無程其勢一千余騎に成にけり。只秦の世已に傾んとせし弊に乗て、楚の陳勝が異蒼頭にして大沢に起りしに異ならず。頓て杉坂・山の里二箇所に関を居、山陽・山陰の両道を差塞ぐ。是より西国の道止て、国々の勢上洛する事を得ざりけり。
○関東大勢上洛事 S0605
去程に畿内西国の凶徒、日を逐て蜂起する由、六波羅より早馬を立て関東へ被注進。相摸入道大に驚て、さらば討手を指遣せとて、相摸守の一族、其外東八箇国の中に、可然大名共を催し立て被差上。先一族には、阿曾弾正少弼・名越遠江入道・大仏前陸奥守貞直・同武蔵左近将監・伊具右近大夫将監・陸奥右馬助、外様の人々には、千葉大介・宇都宮三河守・小山判官・武田伊豆三郎・小笠原彦五郎・土岐伯耆入道・葦名判官・三浦若狭五郎・千田太郎・城太宰大弐入道・佐々木隠岐前司・同備中守・結城七郎左衛門尉・小田常陸前司・長崎四郎左衛門尉・同九郎左衛門尉・長江弥六左衛門尉・長沼駿河守・渋谷遠江守・河越三河入道・工藤次郎左衛門高景・狩野七郎左衛門尉・伊東常陸前司・同大和入道・安藤藤内左衛門尉・宇佐美摂津前司・二階堂出羽入道・同下野判官・同常陸介・安保左衛門入道・南部次郎・山城四郎左衛門尉、此等を始として、宗との大名百三十二人、都合其勢三十万七千五百余騎、九月二十日鎌倉を立て、十月八日先陣既に京都に着けば後陣は未だ足柄・筥根に支へたり。是のみならず河野九郎四国の勢を率して、大船三百余艘にて尼崎より襄て下京に着。厚東入道・大内介・安芸熊谷、周防・長門の勢を引具して、兵船二百余艘にて、兵庫より襄て西の京に着。甲斐・信濃の源氏七千余騎、中山道を経て東山に着。江馬越前守・淡河右京亮、北陸道七箇国の勢を率して、三万余騎にて東坂本を経て上京に着。総じて諸国七道の軍勢我も我もと馳上りける間、京白河の家々に居余り、醍醐・小栗栖・日野・勧修寺・嵯峨・仁和寺・太秦の辺・西山・北山・賀茂・北野・革堂・河崎・清水・六角堂の門の下、鐘楼の中迄も、軍勢の宿らぬ所は無りけり。日本雖小国是程に人の多かりけりと始て驚く許也。去程に元弘三年正月晦日、諸国の軍勢八十万騎を三手に分て、吉野・赤坂・金剛山、三の城へぞ被向ける。先吉野へは二階堂出羽入道々蘊を太将として、態と他の勢を交へず、二万七千余騎にて、上道・下道・中道より、三手に成て相向ふ。赤坂へは阿曾弾正少弼を大将として、其勢八万余騎、先天王寺・住吉に陣を張る。金剛山へは陸奥右馬助、搦手の大将として、其勢二十万騎、奈良路よりこそ被向けれ。中にも長崎悪四郎左衛門尉は、別して侍大将を承て、大手へ向ひけるが、態己が勢の程を人に被知とや思けん。一日引さがりてぞ向ひける。其行妝見物の目をぞ驚しける。先旗差、其次に逞しき馬に厚総懸て、一様の鎧着る兵八百余騎、二町計先き立てゝ、馬を静めて打せたり。我身は其次に纐纈の鎧直垂に、精好の大口を張せ、紫下濃の鎧に、白星の五枚甲に八竜を金にて打て付たるを猪頚に着成し、銀の瑩付の脛当に金作の太刀に振帯て、一部黒とて、五尺三寸有ける坂東一の名馬に塩干潟の捨小舟を金貝に磨たる鞍を置て、款冬色の厚総懸て、三十六差たる白磨の銀筈の大中黒の矢に、本滋藤の弓の真中握て、小路を狭しと歩ませたり。片小手に腹当して、諸具足したる中間五百余人、二行に列を引き、馬の前後に随て、閑に路次をぞ歩みける。其後四五町引さがりて、思々に鎧たる兵十万余騎、甲の星を輝かし、鎧の袖を重て、沓の子を打たるが如くに道五六里が程支たり。其勢ひ決然として天地を響かし山川を動す許也。此外々様の大名五千騎・三千騎、引分々々昼夜十三日迄、引も切らでぞ向ひける。我朝は不及申、唐土・天竺・太元・南蛮も、未是程の大軍を発す事難有かりし事也。と思はぬ人こそ無りけれ。
○赤坂合戦事付人見本間抜懸事 S0606
去程に赤坂の城へ向ひける大将、阿曾弾正少弼、後陣の勢を待調へんが為に、天王寺に両日逗留有て、同二月二日午刻に、可有矢合、於抜懸之輩者、可為罪科之由をぞ被触ける。爰に武蔵国の住人に人見四郎入道恩阿と云者あり。此恩阿、本間九郎資貞に向て語りけるは、「御方の軍勢雲霞の如くなれば、敵陣を責落さん事疑なし。但事の様を案ずるに、関東天下を治て権を執る事已に七代に余れり。天道欠盈理遁るゝ処なし。其上臣として君を流し奉る積悪、豈果して其身を滅さゞらんや。某不肖の身なりと云へ共、武恩を蒙て齢已に七旬に余れり。今日より後差たる思出もなき身の、そゞろに長生して武運の傾かんを見んも、老後の恨臨終の障共成ぬべければ、明日の合戦に先懸して、一番に討死して、其名を末代に遺さんと存ずる也。」と語りければ、本間九郎心中にはげにもと思ながら、「枝葉の事を宣者哉。是程なる打囲の軍に、そゞろなる先懸して討死したりとも、差て高名とも云れまじ。されば只某は人なみに可振舞也。」と云ければ、人見よにも無興気にて、本堂の方へ行けるを、本間怪み思て、人を付て見せければ、矢立を取出して、石の鳥居に何事とは不知一筆書付て、己が宿へぞ帰りける。本間九郎、さればこそ此者に一定明日先懸せられぬと、心ゆるし無りければ、まだ宵より打立て、唯一騎東条を指て向けり。石川々原にて夜を明すに、朝霞の晴間より、南の方を見ければ、紺唐綾威の鎧に白母衣懸て、鹿毛なる馬に乗たる武者一騎、赤坂の城へぞ向ひける。何者やらんと馬打寄せて是を見れば、人見四郎入道なりけり。人見本間を見付て云けるは、「夜部宣し事を実と思なば、孫程の人に被出抜まし。」と打笑てぞ、頻に馬を早めける。本間跡に付て、「今は互に先を争ひ申に及ず、一所にて尸を曝し、冥途までも同道申さんずるぞよ。」と云ければ、人見、「申にや及ばん。」と返事して、跡になり先になり物語して打けるが、赤坂城の近く成ければ、二人の者共馬の鼻を双て懸驤り、堀の際まで打寄て、鐙踏張弓杖突て、大音声を揚て名乗けるは、「武蔵国の住人に、人見四郎入道恩阿、年積て七十三、相摸国の住人本間九郎資貞、生年三十七、鎌倉を出しより軍の先陣を懸て、尸を戦場に曝さん事を存じて相向へり。我と思はん人々は、出合て手なみの程を御覧ぜよ。」と声々に呼て城を睨で引へたり。城中の者共是を見て、是ぞとよ、坂東武者の風情とは。只是熊谷・平山が一谷の先懸を伝聞て、羨敷思へる者共也。跡を見るに続く武者もなし。又さまで大名とも見へず。溢れ者の不敵武者に跳り合て、命失て何かせん。只置て事の様を見よ、とて、東西鳴を静めて返事もせず。人見腹を立て、「早旦より向て名乗れ共、城より矢の一をも射出さぬは、臆病の至り歟、敵を侮る歟、いで其義ならば手柄の程を見せん。」とて、馬より飛下て、堀の上なる細橋さら/\と走渡り、二人の者共出し屏の脇に引傍て、木戸を切落さんとしける間、城中是に騒で、土小間・櫓の上より、雨の降が如くに射ける矢、二人の者共が鎧に、蓑毛の如くにぞ立たりける。本間も人見も、元より討死せんと思立たる事なれば、何かは一足も可引。命を限に二人共に一所にて被討けり。是まで付従ふて最後の十念勧めつる聖、二人が首を乞得て、天王寺に持て帰り、本間が子息源内兵衛資忠に始よりの有様を語る。資忠父が首を一目見て、一言をも不出、只涙に咽で居たりけるが、如何思けん、鐙を肩に投懸、馬に鞍置て只一人打出んとす。聖怪み思て、鎧の袖を引留め、「是はそも如何なる事にて候ぞ。御親父も此合戦に先懸して、只名を天下の人に被知と許思召さば、父子共に打連てこそ向はせ給ふべけれ共、命をば相摸殿に献り、恩賞をば子孫の栄花に貽さんと思召ける故にこそ、人より先に討死をばし給らめ。而るに思ひ篭給へる所もなく、又敵陣に懸入て、父子共に打死し給ひなば、誰か其跡を継ぎ誰か其恩賞を可蒙。子孫無窮に栄るを以て、父祖の孝行を呈す道とは申也。御悲歎の余りに無是非死を共にせんと思召は理なれ共、暫止らせ給へ。」と堅く制しければ、資忠涙を押へて無力着たる鎧を脱置たり。聖さては制止に拘りぬと喜しく思て、本間が首を小袖に裹み、葬礼の為に、側なる野辺へ越ける其間に、資忠今は可止人なければ、則打出て、先上宮太子の御前に参り、今生の栄耀は、今日を限りの命なれば、祈る所に非ず、唯大悲の弘誓の誠有らば、父にて候者の討死仕候し戦場の同じ苔の下に埋れて、九品安養の同台に生るゝ身と成させ給へと、泣々祈念を凝して泪と共に立出けり。石の鳥居を過るとて見れば我父と共に討死しける人見四郎入道が書付たる歌あり。是ぞ誠に後世までの物語に可留事よと思ければ、右の小指を喰切て、其血を以て一首を側に書添て、赤坂の城へぞ向ひける。城近く成ぬる所にて馬より下り、弓を脇に挟で城戸を叩き、「城中の人々に可申事あり。」と呼りけり。良暫く在て、兵二人櫓の小間より顔を指出して、「誰人にて御渡候哉。」と問ければ、「是は今朝此城に向て打死して候つる、本間九郎資貞が嫡子、源内兵衛資忠と申者にて候也。人の親の子を憶ふ哀み、心の闇に迷ふ習にて候間、共に打死せん事を悲て、我に不知して、只一人打死しけるにて候。相伴ふ者無て、中有の途に迷ふ覧。さこそと被思遣候へば、同く打死仕て、無迹まで父に孝道を尽し候ばやと存じて、只一騎相向て候也。城の大将に此由を被申候て、木戸を被開候へ。父が打死の所にて、同く命を止めて、其望を達し候はん。」と、慇懃に事を請ひ泪に咽でぞ立たりける。一の木戸を堅めたる兵五十余人、其志孝行にして、相向ふ処やさしく哀なるを感じて、則木戸を開き、逆茂木を引のけしかば、資忠馬に打乗り、城中へ懸入て、五十余人の敵と火を散てぞ切合ける。遂に父が被討し其迹にて、太刀を口に呀て覆しに倒て、貫かれてこそ失にけれ。惜哉、父の資貞は、無双の弓矢取にて国の為に要須たり。又子息資忠は、ためしなき忠孝の勇士にて家の為に栄名あり。人見は年老齢傾きぬれ共、義を知て命を思ふ事、時と共に消息す。此三人同時に討死しぬと聞へければ、知も知ぬもをしなべて、歎かぬ人は無りけり。既に先懸の兵共、ぬけ/\に赤坂の城へ向て、討死する由披露有ければ、大将則天王寺を打立て馳向ひけるが、上宮太子の御前にて馬より下り、石の鳥居を見給へば、左の柱に、花さかぬ老木の桜朽ぬとも其名は苔の下に隠れじと一首の歌を書て、其次に、「武蔵国の住人人見四郎恩阿、生年七十三、正慶二年二月二日、赤坂の城へ向て、武恩を報ぜん為に討死仕畢ぬ。」とぞ書たりける。又右の柱を見れば、まてしばし子を思ふ闇に迷らん六の街の道しるべせんと書て、「相摸国の住人本間九郎資貞嫡子、源内兵衛資忠生年十八歳、正慶二年仲春二日、父が死骸を枕にして、同戦場に命を止め畢ぬ。」とぞ書たりける。父子の恩義君臣の忠貞、此二首の歌に顕れて、骨は化して黄壌一堆の下に朽ぬれど、名は留て青雲九天の上に高し。されば今に至るまで、石碑の上に消残れる三十一字を見る人、感涙を流さぬは無りけり。去程に阿曾弾正少弼、八万余騎の勢を率して、赤坂へ押寄せ、城の四方二十余町、雲霞の如くに取巻て、先時の声をぞ揚たりける。其音山を動し地を震ふに、蒼涯も忽に可裂。此城三方は岸高して、屏風を立たるが如し。南の方許こそ平地に継ひて、堀を広く深く掘切て、岸の額に屏を塗り、其上に櫓を掻双べたれば、如何なる大力早態なりとも、輒く可責様ぞなき。され共寄手大勢なれば、思侮て楯にはづれ矢面に進で、堀の中へ走り下て、切岸を襄らんとしける処を、屏の中より究竟の射手共、鏃を支て思様に射ける間、軍の度毎に、手負死人五百人六百人、不被射出時はなかりけり。是をも不痛荒手を入替々々、十三日までぞ責たりける。され共城中少も不弱見へけり。爰に播磨国の住人、吉河八郎と云者、大将の前に来て申けるは、「此城の為体、力責にし候はゞ無左右不可落候。楠此一両年が間、和泉・河内を管領して、若干の兵粮を取入て候なれば、兵粮も無左右尽候まじ。倩思案を廻し候に、此城三方は谷深して地に不継、一方は平地にて而も山遠く隔れり。されば何くに水可有とも見へぬに、火矢を射れば水弾にて打消候。近来は雨の降る事も候はぬに、是程まで水の卓散に候は、如何様南の山の奥より、地の底に樋を伏て、城中へ水を懸入るゝ歟と覚候。哀人夫を集めて、山の腰を掘きらせて、御覧候へかし。」と申ければ、大将、「げにも。」とて、人夫を集め、城へ継きたる山の尾を、一文字に掘切て見れば、案の如く、土の底に二丈余りの下に樋を伏せて、側に石を畳み、上に真木の瓦を覆て、水を十町余の外よりぞ懸たりける。此揚水を被止て後、城中に水乏して、軍勢口中の渇難忍ければ、四五日が程は、草葉に置ける朝の露を嘗め、夜気に潤へる地に身を当て、雨を待けれ共雨不降。寄手是に利を得、隙なく火矢を射ける間、大手の櫓二つをば焼落しぬ。城中の兵水を飲まで十二日に成ければ、今は精力尽はてゝ、可防方便も無りけり。死たる者は再び帰る事なし。去来や、とても死なんずる命を、各力の未だ墜ぬ先に打出で、敵に指違へ、思様に打死せんと、城の木戸を開て、同時に打出んとしけるを、城の本人平野将監入道、高櫓より走下り、袖をひかへて云けるは、「暫く楚忽の事な仕給ふそ。今は是程に力尽き喉乾て疲れぬれば、思ふ敵に相逢ん事有難し。名もなき人の中間・下部共に被虜て、恥を曝さん事可心憂。倩事の様を案ずるに、吉野・金剛山の城、未相支て勝負を不決。西国の乱未だ静まらざるに、今降人に成て出たらん者をば、人に見こらせじとて、討事不可有と存ずる也。とても叶はぬ我等なれば、暫事を謀て降人に成、命を全して時至らん事を可待。」といへば、諸卒皆此義に同じて、其日の討死をば止めてけり。去程に次日軍の最中に、平野入道高櫓に上て、「大将の御方へ可申子細候。暫く合戦を止て、聞食候へ。」と云ければ、大将渋谷十郎を以て、事の様を尋るに、平野木戸口に出合て、「楠和泉・河内の両国を平げて威を振ひ候し刻に、一旦の難を遁れん為に、不心御敵に属して候き。此子細京都に参じ候て、申入候はんと仕候処に、已に大勢を以て被押懸申候間、弓矢取身の習ひにて候へば、一矢仕りたるにて候。其罪科をだに可有御免にて候はゞ、頚を伸て降人に可参候。若叶ふまじきとの御定にて候はゞ、無力一矢仕て、尸を陣中に曝すべきにて候。此様を具に被申候へ。」と云ければ、大将大に喜て、本領安堵の御教書を成し、殊に功あらん者には、則恩賞を可申沙汰由返答して、合戦をぞ止めける。城中に篭る所の兵二百八十二人、明日死なんずる命をも不知、水に渇せる難堪さに、皆降人に成てぞ出たりける。長崎九郎左衛門尉是を請取て、先降人の法なればとて、物具・太刀・刀を奪取り、高手小手に禁て六波羅へぞ渡しける。降人の輩、如此ならば只討死すべかりける者をと、後悔すれ共無甲斐。日を経て京都に着しかば、六波羅に誡置て、合戦の事始なれば、軍神に祭て人に見懲させよとて、六条河原に引出し、一人も不残首を刎て被懸けり。是を聞てぞ、吉野・金剛山に篭りたる兵共も、弥獅子の歯嚼をして、降人に出んと思ふ者は無りけり。「罪を緩ふするは将の謀也。」と云事を知らざりける六波羅の成敗を、皆人毎押なべて、悪かりけりと申しが、幾程も無して悉亡びけるこそ不思議なれ。情は人の為ならず。余に驕を極めつゝ、雅意に任て振舞へば、武運も早く尽にけり。因果の道理を知るならば、可有心事共也。


太平記

太平記巻第七
○吉野城軍事S0701
元弘三年正月十六日、二階堂出羽入道道蘊、六万余騎の勢にて大塔宮の篭らせ給へる吉野の城へ押寄る。菜摘河の川淀より、城の方を向上たれば、嶺には白旗・赤旗・錦の旗、深山下風に吹なびかされて、雲歟花歟と怪まる。麓には数千の官軍、冑の星を耀かし鎧の袖を連ねて、錦繍をしける地の如し。峯高して道細く、山嶮して苔滑なり。されば幾十万騎の勢にて責る共、輒く落すべしとは見へざりけり。同十八日の卯刻より、両陣互に矢合せして、入替々々責戦。官軍は物馴たる案内者共なれば、斯のつまり彼の難所に走散て、攻合せ開合せ散々に射る。寄手は死生不知の坂東武士なれば、親子打るれ共不顧、主従滅れども不屑、乗越々々責近づく。夜昼七日が間息をも不続相戦に、城中の勢三百余人打れければ、寄手も八百余人打れにけり。況乎矢に当り石に被打、生死の際を不知者は幾千万と云数を不知。血は草芥を染、尸は路径に横はれり。され共城の体少もよわらねば、寄手の兵多くは退屈してぞ見へたりける。爰に此山の案内者とて一方へ被向たりける吉野の執行岩菊丸、己が手の者を呼寄て申けるは、「東条の大将金沢右馬助殿は、既に赤坂の城を責落して金剛山へ被向たりと聞ゆ。当山の事我等案内者たるに依て、一方を承て向ひたる甲斐もなく、責落さで数日を送る事こそ遺恨なれ。倩事の様を按ずるに、此城を大手より責ば、人のみ被打て落す事有難し。推量するに、城の後の山金峯山には峻を憑で、敵さまで勢を置たる事あらじと覚るぞ。物馴たらんずる足軽の兵を百五十人すぐつて歩立になし、夜に紛れて金峯山より忍び入、愛染宝塔の上にて、夜のほの/゛\と明はてん時時の声を揚よ。城の兵鬨音に驚て度を失はん時、大手搦手三方より攻上て城を追落し、宮を生捕奉るべし。」とぞ下知しける。さらばとて、案内知たる兵百五十人をすぐて、其日の暮程より、金峯山へ廻て、岩を伝ひ谷を上るに、案の如く山の嶮きを憑けるにや、唯こゝかしこの梢に旗許を結付置て可防兵一人もなし。百余人の兵共、思の侭に忍入て、木の下岩の陰に、弓箭を臥て、冑を枕にして、夜の明るをぞ待たりける。あい図の比にも成にければ、大手五万余騎、三方より押寄て責上る。吉野の大衆五百余人、責口におり合て防戦ふ。寄手も城の内も、互に命を不惜、追上せ追下し、火を散してぞ戦たる。卦る処に金峯山より廻りたる、搦手の兵百五十人、愛染宝塔よりをり降て、在々所々に火を懸て、時の声をぞ揚たりける。吉野の大衆前後の敵を防ぎ兼て、或は自腹を掻切て、猛火の中へ走入て死るも有、或は向ふ敵に引組で、指ちがへて共に死るもあり。思々に討死をしける程に、大手の堀一重は、死人に埋りて平地になる。去程に、搦手の兵、思も寄ず勝手の明神の前より押寄て、宮の御坐有ける蔵王堂へ打て懸りける間、大塔宮今は遁れぬ処也。と思食切て、赤地の錦の鎧直垂に、火威の鎧のまだ巳の刻なるを、透間もなくめされ、竜頭の冑の緒をしめ、白檀磨の臑当に、三尺五寸の小長刀を脇に挟み、劣らぬ兵二十余人前後左右に立、敵の靉て引へたる中へ走り懸り、東西を掃ひ、南北へ追廻し、黒煙を立て切て廻らせ給ふに、寄手大勢也。と云へ共、纔の小勢に被切立て、木の葉の風に散が如く、四方の谷へ颯とひく。敵引ば、宮蔵王堂の大庭に並居させ給て、大幕打揚て、最後の御酒宴あり。宮の御鎧に立所の矢七筋、御頬さき二の御うで二箇所つかれさせ給て、血の流るゝ事滝の如し。然れ共立たる矢をも不抜、流るゝ血をも不拭、敷皮の上に立ながら、大盃を三度傾させ給へば、木寺相摸四尺三寸の太刀の鋒に、敵の頚をさし貫て、宮の御前に畏り、「戈■剣戟をふらす事電光の如く也。磐石巌を飛す事春の雨に相同じ。然りとは云へ共、天帝の身には近づかで、修羅かれが為に破らる。」と、はやしを揚て舞たる有様は、漢・楚の鴻門に会せし時、楚の項伯と項荘とが、剣を抜て舞しに、樊■庭に立ながら、帷幕をかゝげて項王を睨し勢も、角やと覚る許也。大手の合戦事急也。と覚て、敵御方の時の声相交りて聞へけるが、げにも其戦に自ら相当る事多かりけりと見へて、村上彦四郎義光鎧に立処の矢十六筋、枯野に残る冬草の、風に臥たる如くに折懸て、宮の御前に参て申けるは、「大手の一の木戸、云甲斐なく責破られつる間、二の木戸に支て数刻相戦ひ候つる処に、御所中の御酒宴の声、冷く聞へ候つるに付て参て候。敵既にかさに取上て、御方気の疲れ候ぬれば、此城にて功を立ん事、今は叶はじと覚へ候。未敵の勢を余所へ回し候はぬ前に、一方より打破て、一歩落て可有御覧と存候。但迹に残り留て戦ふ兵なくば、御所の落させ給ふ者也。と心得て、敵何く迄もつゞきて追懸進せつと覚候へば、恐ある事にて候へ共、めされて候錦の御鎧直垂と、御物具とを下給て、御諱の字を犯して敵を欺き、御命に代り進せ候はん。」と申ければ、宮、「争でかさる事あるべき、死なば一所にてこそ兎も角もならめ。」と仰られけるを、義光言ばを荒らかにして、「かゝる浅猿き御事や候。漢の高祖■陽に囲れし時、紀信高祖の真似をして楚を欺かんと乞しをば、高祖是を許し給ひ候はずや。是程に云甲斐なき御所存にて、天下の大事を思食立ける事こそうたてけれ。はや其御物具を脱せ給ひ候へ。」と申て、御鎧の上帯をとき奉れば、宮げにもとや思食けん、御物の具・鎧直垂まで脱替させ給ひて、「我若生たらば、汝が後生を訪べし。共に敵の手にかゝらば、冥途までも同じ岐に伴ふべし。」と被仰て、御涙を流させ給ひながら、勝手の明神の御前を南へ向て落させ給へば、義光は二の木戸の高櫓に上り、遥に見送り奉て、宮の御後影の幽に隔らせ給ぬるを見て、今はかうと思ひければ、櫓のさまの板を切落して、身をあらはにして、大音声を揚て名乗けるは、「天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ。」と云侭に、鎧を脱で櫓より下へ投落し、錦の鎧直垂の袴許に、練貫の二小袖を押膚脱で、白く清げなる膚に刀をつき立て、左の脇より右のそば腹まで一文字に掻切て、腸掴で櫓の板になげつけ、太刀を口にくわへて、うつ伏に成てぞ臥たりける。大手・搦手の寄手是を見て、「すはや大塔宮の御自害あるは。我先に御頚を給らん。」とて、四方の囲を解て一所に集る。其間に宮は差違へて、天の河へぞ落させ給ける。南より廻りける吉野の執行が勢五百余騎、多年の案内者なれば、道を要りかさに廻りて、打留め奉んと取篭る。村上彦四郎義光が子息兵衛蔵人義隆は、父が自害しつる時、共に腹を切んと、二の木戸の櫓の下まで馳来りたりけるを、父大に諌て、「父子の義はさる事なれ共、且く生て宮の御先途を見はて進せよ。」と、庭訓を残しければ、力なく且くの命を延て、宮の御供にぞ候ける。落行道の軍、事既に急にして、打死せずば、宮落得させ給はじと覚ければ、義隆只一人蹈留りて、追てかゝる敵の馬の諸膝薙では切すへ、平頚切ては刎落させ、九折なる細道に、五百余騎の敵を相受て、半時許ぞ支たる。義隆、節、石の如く也。といへ共、其身金鉄ならざれば、敵の取巻て射ける矢に、義隆既に十余箇所の疵を被てけり。死ぬるまでも猶敵の手にかゝらじとや思けん、小竹の一村有ける中へ走入て、腹掻切て死にけり。村上父子が敵を防ぎ、討死しける其間に、宮は虎口に死を御遁有て、高野山へぞ落させ給ける。出羽入道々蘊は、村上が宮の御学をして、腹を切たりつるを真実と心得て、其頚を取て京都へ上せ、六波羅の実検にさらすに、ありもあらぬ者の頚也。と申ける。獄門にかくるまでもなくて、九原の苔に埋れにけり。道蘊は吉野の城を攻落したるは、専一の忠戦なれ共、大塔宮を打漏し奉りぬれば、猶安からず思て、軈て高野山へ押寄、大塔に陣を取て、宮の御在所を尋求けれ共、一山の衆徒皆心を合て宮を隠し奉りければ、数日の粉骨甲斐もなくて、千剣破の城へぞ向ひける。
○千剣破城軍事 S0702
千剣破城の寄手は、前の勢八十万騎に、又赤坂の勢吉野の勢馳加て、百万騎に余りければ、城の四方二三里が間は、見物相撲の場の如く打囲で、尺寸の地をも余さず充満たり。旌旗の風に翻て靡く気色は、秋の野の尾花が末よりも繁く、剣戟の日に映じて耀ける有様は、暁の霜の枯草に布るが如く也。大軍の近づく処には、山勢是が為に動き、時の声の震ふ中には、坤軸須臾に摧けたり。此勢にも恐ずして、纔に千人に足ぬ小勢にて、誰を憑み何を待共なきに、城中にこらへて防ぎ戦ける楠が心の程こそ不敵なれ。此城東西は谷深く切て人の上るべき様もなし。南北は金剛山につゞきて而も峯絶たり。されども高さ二町許にて、廻り一里に足ぬ小城なれば、何程の事か有べき〔と〕、寄手是を見侮て、初一両日の程は向ひ陣をも取ず、責支度をも用意せず、我先にと城の木戸口の辺までかづきつれてぞ上たりける。城中の者共少しもさはがず、静まり帰て、高櫓の上より大石を投かけ/\、楯の板を微塵に打砕て、漂ふ処を差つめ/\射ける間、四方の坂よりころび落、落重て手を負、死をいたす者、一日が中に五六千人に及べり。長崎四郎左衛門尉、軍奉行にて有ければ、手負死人の実検をしけるに、執筆十二人、夜昼三日が間筆をも置ず注せり。さてこそ、「今より後は、大将の御許なくして、合戦したらんずる輩をば却て罪科に行るべし。」と触られければ、軍勢暫軍を止て、先己が陣々をぞ構へける。爰に赤坂の大将金沢右馬助、大仏奥州に向て宣ひけるは、「前日赤坂を攻落しつる事、全く士卒の高名に非ず。城中の構を推し出して、水を留て候しに依て、敵程なく降参仕候き。是を以て此城を見候に、是程纔なる山の巓に用水有べし共覚候はず。又あげ水なんどをよその山より懸べき便も候はぬに、城中に水卓散に有げに見ゆるは、如何様東の山の麓に流たる渓水を、夜々汲歟と覚て候。あはれ宗徒の人々一両人に仰付られて、此水を汲せぬ様に御計候へかし。」と被申ければ、両大将、「此義可然覚候。」とて、名越越前守を大将として其勢三千余騎を指分て、水の辺に陣を取せ、城より人をり下りぬべき道々に、逆木を引てぞ待懸ける。楠は元来勇気智謀相兼たる者なりければ、此城を拵へける始用水の便をみるに、五所の秘水とて、峯通る山伏の秘して汲水此峯に有て、滴る事一夜に五斛許也。此水いかなる旱にもひる事なければ、如形人の口中を濡さん事相違あるまじけれ共、合戦の最中は或は火矢を消さん為、又喉の乾く事繁ければ、此水許にては不足なるべしとて、大なる木を以て、水舟を二三百打せて、水を湛置たり。又数百箇所作り双べたる役所の軒に継樋を懸て、雨ふれば、霤を少しも余さず、舟にうけ入れ、舟の底に赤土を沈めて、水の性を損ぜぬ様にぞ被拵たりける。此水を以て、縦ひ五六十日雨不降ともこらへつべし。其中に又などかは雨降事無らんと、了簡しける智慮の程こそ浅からね。されば城よりは強に此谷水を汲んともせざりけるを、水ふせぎける兵共、夜毎に機をつめて、今や/\と待懸けるが、始の程こそ有けれ、後には次第々々に心懈り、機緩て、此水をば汲ざりけるぞとて、用心の体少し無沙汰にぞ成にける。楠是を見すまして、究竟の射手をそろへて二三百人夜に紛て城よりをろし、まだ篠目の明けはてぬ霞隠れより押寄せ、水辺に攻て居たる者共、二十余人切伏て、透間もなく切て懸りける間、名越越前守こらへ兼て、本の陣へぞ引れける。寄手数万の軍勢是を見て、渡り合せんとひしめけ共、谷を隔て尾を隔たる道なれば、輒く馳合する兵もなし。兎角しける其間に、捨置たる旗・大幕なんど取持せて、楠が勢、閑に城中へぞ引入ける。其翌日城の大手に三本唐笠の紋書たる旗と、同き文の幕とを引て、「是こそ皆名越殿より給て候つる御旗にて候へ、御文付て候間他人の為には無用に候。御中の人々是へ御入候て、被召候へかし。」と云て、同音にどつと笑ければ、天下の武士共是を見て、「あはれ名越殿の不覚や。」と、口々に云ぬ者こそ無りけれ。名越一家の人々此事を聞て、安からぬ事に被思ければ、「当手の軍勢共一人も不残、城の木戸を枕にして、討死をせよ。」とぞ被下知ける。依之彼手の兵五千余人、思切て討共射共用ず、乗越々々城の逆木一重引破て、切岸の下迄ぞ攻たりける。され共岸高して切立たれば、矢長に思へ共のぼり得ず、唯徒に城を睨、忿を押へて息つぎ居たり。此時城の中より、切岸の上に横へて置たる大木十計切て落し懸たりける間、将碁倒をする如く、寄手四五百人圧に被討て死にけり。是にちがはんとしどろに成て騒ぐ処を、十方の櫓より指落し、思様に射ける間、五千余人の兵共残すくなに討れて、其日の軍は果にけり。誠志の程は猛けれ共、唯し出したる事もなくて、若干討れにければ、「あはれ恥の上の損哉。」と、諸人の口遊は猶不止。尋常ならぬ合戦の体を見て、寄手も侮りにくゝや思けん、今は始の様に、勇進で攻んとする者も無りけり。長崎四郎左衛門尉此有様を見て、「此城を力責にする事は、人の討るゝ計にて、其功成難し。唯取巻て食責にせよ。」と下知して、軍を被止ければ、徒然に皆堪兼て、花の下の連歌し共を呼下し、一万句の連歌をぞ始たりける。其初日の発句をば長崎九郎左衛門師宗、さき懸てかつ色みせよ山桜としたりけるを、脇の句、工藤二郎右衛門尉嵐や花のかたきなるらんとぞ付たりける。誠に両句ともに、詞の縁巧にして句の体は優なれども、御方をば花になし、敵を嵐に喩へければ、禁忌也。ける表事哉と後にぞ思ひ知れける。大将の下知に随て、軍勢皆軍を止ければ、慰む方や無りけん、或は碁・双六を打て日を過し、或は百服茶・褒貶の歌合なんどを翫で夜を明す。是にこそ城中の兵は中々被悩たる心地して、心を遣方も無りける。少し程経て後、正成、「いでさらば、又寄手たばかりて居眠さまさん。」とて、芥を以て人長に人形を二三十作て、甲冑をきせ兵杖を持せて、夜中に城の麓に立置き、前に畳楯をつき双べ、其後ろにすぐりたる兵五百人を交へて、夜のほの/゛\と明ける霞の下より、同時に時をどつと作る。四方の寄手時の声を聞て、「すはや城の中より打出たるは、是こそ敵の運の尽る処の死狂よ。」とて我先にとぞ攻合せける。城の兵兼て巧たる事なれば、矢軍ちとする様にして大勢相近づけて、人形許を木がくれに残し置て、兵は皆次第々々に城の上へ引上る。寄手人形を実の兵ぞと心得て、是を打んと相集る。正成所存の如く敵をたばかり寄せて、大石を四五十、一度にばつと発す。一所に集りたる敵三百余人、矢庭に被討殺、半死半生の者五百余人に及り。軍はてゝ是を見れば、哀大剛の者哉と覚て、一足も引ざりつる兵、皆人にはあらで藁にて作れる人形也。是を討んと相集て、石に打れ矢に当て死せるも高名ならず、又是を危て進得ざりつるも臆病の程顕れて云甲斐なし。唯兎にも角にも万人の物笑ひとぞ成にける。是より後は弥合戦を止ける間、諸国の軍勢唯徒に城を守り上て居たる計にて、するわざ一も無りけり。爰に何なる者か読たりけん、一首の古歌を翻案して、大将の陣の前にぞ立たりける。余所にのみ見てやゝみなん葛城のたかまの山の峯の楠軍も無てそゞろに向ひ居たるつれ/゛\に、諸大将の陣々に、江口・神崎の傾城共を呼寄て、様々の遊をぞせられける。名越遠江入道と同兵庫助とは伯叔甥にて御座けるが、共に一方の大将にて、責口近く陣を取り、役所を双てぞ御座ける。或時遊君の前にて双六を打れけるが、賽の目を論じて聊の詞の違ひけるにや、伯叔甥二人突違てぞ死れける。両人の郎従共、何の意趣もなきに、差違へ差違へ、片時が間に死る者二百余人に及べり。城の中より是を見て、「十善の君に敵をし奉る天罰に依て、自滅する人々の有様見よ。」とぞ咲ける。誠に是直事に非ず。天魔波旬の所行歟と覚て、浅猿かりし珍事也。同三月四日関東より飛脚到来して、「軍を止て徒に日を送る事不可然。」と被下知ければ、宗との大将達評定有て、御方の向ひ陣と敵の城との際に、高く切立たる堀に橋を渡して、城へ打て入んとぞ巧まれける。為之京都より番匠を五百余人召下し、五六八九寸の材木を集て、広さ一丈五尺、長さ二十丈余に梯をぞ作らせける。梯既に作り出しければ、大縄を二三千筋付て、車木を以て巻立て、城の切岸の上へぞ倒し懸たりける。魯般が雲の梯も角やと覚て巧也。軈て早りおの兵共五六千人、橋の上を渡り、我先にと前だり。あはや此城只今打落されぬと見へたる処に、楠兼て用意やしたりけん、投松明のさきに火を付て、橋の上に薪を積るが如くに投集て、水弾を以て油を滝の流るゝ様に懸たりける間、火橋桁に燃付て、渓風炎を吹布たり。憖に渡り懸りたる兵共、前へ進んとすれば、猛火盛に燃て身を焦す、帰んとすれば後陣の大勢前の難儀をも不云支たり。そばへ飛をりんとすれば、谷深く巌そびへて肝冷し、如何せんと身を揉で押あふ程に、橋桁中より燃折て、谷底へどうど落ければ、数千の兵同時に猛の中へ落重て、一人も不残焼死にけり。其有様偏に八大地獄の罪人の刀山剣樹につらぬかれ、猛火鉄湯に身を焦す覧も、角やと被思知たり。去程に吉野・戸津河・宇多・内郡の野伏共、大塔宮の命を含で、相集る事七千余人、此の峯彼〔の〕谷に立隠て、千剣破寄手共の往来の路を差塞ぐ。依之諸国の兵の兵粮忽に尽て、人馬共に疲れければ、転漕に怺兼て百騎・二百騎引て帰る処を、案内者の野伏共、所々のつまり/゛\に待受て、討留ける間、日々夜々に討るゝ者数を知ず。希有にして命計を助かる者は、馬・物具を捨、衣裳を剥取れて裸なれば、或は破たる蓑を身に纏て、膚計を隠し、或は草の葉を腰に巻て、恥をあらはせる落人共、毎日に引も切らず十方へ逃散る。前代未聞の恥辱也。されば日本国の武士共の重代したる物具・太刀・刀は、皆此時に至て失にけり。名越遠江入道、同兵庫助二人は、無詮口論して共に死給ぬ。其外の軍勢共、親は討るれば子は髻を切てうせ、主疵を被れば、郎従助て引帰す間、始は八十万騎と聞へしか共、今は纔に十万余騎に成にけり。
○新田義貞賜綸旨事 S0703
上野国住人新田小太郎義貞と申は、八幡太郎義家十七代の後胤、源家嫡流の名家也。然共平氏世を執て四海皆其威に服する時節なれば、無力関東の催促に随て金剛山の搦手にぞ被向ける。爰に如何なる所存歟出来にけん、或時執事船田入道義昌を近づけて宣ひける、「古より源平両家朝家に仕へて、平氏世を乱る時は、源家是を鎮め、源氏上を侵す日は平家是を治む。義貞不肖也。と云へ共、当家の門■として、譜代弓矢の名を汚せり。而に今相摸入道の行迹を見に滅亡遠に非ず。我本国に帰て義兵を挙、先朝の宸襟を休め奉らんと存ずるが、勅命を蒙らでは叶まじ。如何して大塔宮の令旨を給て、此素懐を可達。」と問給ければ、舟田入道畏て、「大塔宮は此辺の山中に忍て御座候なれば、義昌方便を廻して、急で令旨を申出し候べし。」と、事安げに領掌申て、己が役所へぞ帰ける。其翌日舟田己が若党を三十余人、野伏の質に出立せて、夜中に葛城峯へ上せ、我身は落行勢の真似をして、朝まだきの霞隠に、追つ返つ半時計どし軍をぞしたりける、宇多・内郡の野伏共是を見て、御方の野伏ぞと心得、力を合せん為に余所の峯よりおり合て近付たりける処を、舟田が勢の中に取篭て、十一人まで生捕てげり。舟田此生捕どもを解脱して潛に申けるは、「今汝等をたばかり搦取たる事、全誅せん為に非ず。新田殿本国へ帰て、御旗を挙んとし給ふが、令旨なくては叶まじければ、汝等に大塔宮の御坐所を尋問ん為に召取つる也。命惜くば案内者して、此方の使をつれて、宮の御座あんなる所へ参れ。」と申ければ、野伏ども大に悦て、「其御意にて候はゞ、最安かるべき事にて候。此中に一人暫の暇を給候へ、令旨を申出て進せ候はん。」と申て、残り十人をば留置、一人宮の御方へとてぞ参ける。今や/\と相待処に、一日有て令旨を捧て来れり。開て是を見に、令旨にはあらで、綸旨の文章に書れたり。其詞云、被綸言称敷化理万国者明君徳也。撥乱鎮四海者武臣節也。頃年之際、高時法師一類、蔑如朝憲恣振逆威。積悪之至、天誅已顕焉。爰為休累年之宸襟、将起一挙之義兵。叡感尤深、抽賞何浅。早運関東征罰策、可致天下静謐之功。者、綸旨如此。仍執達如件。元弘三年二月十一日左少将新田小太郎殿綸旨の文章、家の眉目に備つべき綸言なれば、義貞不斜悦て、其翌日より虚病して、急ぎ本国へぞ被下ける。宗徒の軍をもしつべき勢共は兎に角に事を寄て国々へ帰ぬ。兵粮運送の道絶て、千剣破の寄手以外に気を失へる由聞へければ、又六波羅より宇都宮をぞ下されける。紀清両党千余騎寄手に加はて、未屈荒手なれば、軈て城の堀の際まで責上て、夜昼少しも不引退、十余日までぞ責たりける。此時にぞ、屏の際なる鹿垣・逆木皆被引破て、城も少し防兼たる体にぞ見へたりける。され共紀清両党の者とても、斑足王の身をもからざれば天をも翔り難し。竜伯公が力を不得ば山をも擘難し。余に為方や無りけん、面なる兵には軍をさせて後なる者は手々に鋤・鍬を以て、山を掘倒さんとぞ企ける。げにも大手の櫓をば、夜昼三日が間に、念なく掘り崩してけり。諸人是を見て、唯始より軍を止て掘べかりける物を、と後悔して、我も我もと掘けれ共、廻り一里に余れる大山なれば左右なく掘倒さるべしとは見へざりけり。
○赤松蜂起事 S0704
去程に楠が城強くして、京都は無勢也。と聞へしかば、赤松二郎入道円心、播磨国苔縄の城より打て出で、山陽・山陰の両道を差塞ぎ、山里・梨原の間に陣をとる。爰に備前・備中・備後・安芸・周防の勢共、六波羅の催促に依て上洛しけるが、三石の宿に打集て、山里の勢を追払て通んとしけるを、赤松筑前守舟坂山に支て、宗との敵二十余人を生捕てけり。然共赤松是を討せずして、情深く相交りける間、伊東大和二郎其恩を感じて、忽に武家与力の志を変じて、官軍合体の思をなしければ、先己が館の上なる三石山に城郭を構へ、軈て熊山へ取上りて、義兵を揚たるに、備前の守護加治源二郎左衛門一戦に利を失て、児嶋を指て落て行。是より西国の路弥塞て、中国の動乱不斜。西国より上洛する勢をば、伊東に支へさせて、後は思も無りければ、赤松軈て高田兵庫助が城を責落して、片時も足を不休、山陰道を指して責上る。路次の軍勢馳加て、無程七千余騎に成にけり。此勢にて六波羅を責落さん事は案の内なれ共、若戦ひ利を失事あらば、引退て、暫く人馬をも休ん為に、兵庫の北に当て、摩耶と云山寺の有けるに、先城郭を構て、敵を二十里が間に縮めたり。
○河野謀叛事 S0705
六波羅には、一方の打手にはと被憑ける宇都宮は千剣破の城へ向ひつ、西国の勢は伊東に被支て不上得、今は四国勢を摩耶の城へは向べしと被評定ける処に、後の二月四日、伊予国より早馬を立て、「土居二郎・得能弥三郎、宮方に成て旗をあげ、当国の勢を相付て土佐国へ打越る処に、去月十二日長門の探題上野介時直、兵船三百余艘にて当国へ推渡り、星岡にして合戦を致す処に、長門・周防の勢一戦に打負て、死人・手負其数を不知。剰時直父子行方を不知云云。其より後四国の勢悉土居・得能に属する間、其勢已に六千余騎、宇多津・今張の湊に舟をそろへ、只今責上んと企候也。御用心有べし。」とぞ告たりける。
○先帝船上臨幸事 S0706
畿内の軍未だ静ならざるに、又四国・西国日を追て乱ければ、人の心皆薄氷を履で国の危き事深淵に臨が如し。抑今如斯天下の乱るゝ事は偏に先帝の宸襟より事興れり。若逆徒差ちがふて奪取奉んとする事もこそあれ、相構て能々警固仕べしと、隠岐判官が方へ被下知ければ、判官近国の地頭・御家人を催して日番・夜廻隙もなく、宮門を閉て警固し奉る。閏二月下旬は、佐々木富士名判官が番にて、中門の警固に候けるが、如何が思けん、哀此君を取奉て、謀叛を起さばやと思心ぞ付にける。され共可申入便も無て、案じ煩ひける処に、或夜御前より官女を以て御盃を被下たり。判官是を給て、よき便也。と思ければ、潛に彼官女を以て申入けるは、「上様には未だ知し召れ候はずや、楠兵衛正成金剛山に城を構て楯篭候し処に、東国勢百万余騎にて上洛し、去二月の初より責戦候といへ共、城は剛して寄手已に引色に成て候。又備前には伊東大和二郎、三石と申所に城を構て、山陽道を差塞ぎ候。播磨には赤松入道円心、宮の令旨を給て、摂津国まで責上り、兵庫の摩耶と申処に陣を取て候。其勢已に三千余騎、京を縮め地を略して勢近国に振ひ候也。四国には河野の一族に、土居二郎・得能弥三郎、御方に参て旗を挙候処に、長門の探題上野介時直、彼に打負て、行方を不知落行候し後、四国の勢悉く土居・得能に属し候間、既に大船をそろへて、是へ御迎に参るべし共聞へ候。又先京都を責べし共披露す。御聖運開べき時已に至ぬとこそ覚て候へ。義綱が当番の間に忍やかに御出候て、千波の湊より御舟に被召、出雲・伯耆の間、何れの浦へも風に任て御舟を被寄、さりぬべからんずる武士を御憑候て、暫く御待候へ。義綱乍恐責進せん為に罷向体にて、軈て御方に参候べし。」とぞ奏し申ける。官女此由を申入ければ、主上猶も彼偽てや申覧と思食れける間、義綱が志の程を能々伺御覧ぜられん為に、彼官女を義綱にぞ被下ける。判官は面目身に余りて覚ける上、最愛又甚しかりければ、弥忠烈の志を顕しける。「さらば汝先出雲国へ越て、同心すべき一族を語て御迎に参れ。」と被仰下ける程に、義綱則出雲へ渡て塩冶判官を語ふに、塩冶如何思けん、義綱をゐこめて置て、隠岐国へ不帰。主上且くは義綱を御待有けるが、余に事滞りければ、唯運に任て御出有んと思食て、或夜の宵の紛に、三位殿の御局の御産の事近付たりとて、御所を御出ある由にて、主上其御輿にめされ、六条少将忠顕朝臣計を召具して、潛に御所をぞ御出有ける。此体にては人の怪め申べき上、駕輿丁も無りければ、御輿をば被停て、悉も十善の天子、自ら玉趾を草鞋の塵に汚して、自ら泥土の地を踏せ給けるこそ浅猿けれ。比は三月二十三日の事なれば、月待程の暗き夜に、そこ共不知遠き野の道を、たどりて歩せ給へば、今は遥に来ぬ覧と被思食たれば、迹なる山は未滝の響の風に聞ゆる程なり。若追懸進する事もやある覧と、恐しく思食ければ、一足も前へと御心許は進め共、いつ習はせ給べき道ならねば、夢路をたどる心地して、唯一所にのみやすらはせ給へば、こは如何せんと思煩ひて、忠顕朝臣、御手を引御腰を推て、今夜いかにもして、湊辺までと心遣給へ共、心身共に疲れ終て、野径の露に徘徊す。夜いたく深にければ、里遠からぬ鐘の声の、月に和して聞へけるを、道しるべに尋寄て、忠顕朝臣或家の門を扣き、「千波湊へは何方へ行ぞ。」と問ければ、内より怪げなる男一人出向て、主上の御有様を見進せけるが、心なき田夫野人なれ共、何となく痛敷や思進せけん、「千波湊へは是より纔五十町許候へ共、道南北へ分れて如何様御迷候ぬと存候へば、御道しるべ仕候はん。」と申て、主上を軽々と負進せ、程なく千波湊へぞ着にける。爰にて時打鼓の声を聞けば、夜は未だ五更の初也。此道の案内者仕たる男、甲斐々々敷湊中を走廻、伯耆の国へ漕もどる商人舟の有けるを、兎角語ひて、主上を屋形の内に乗せ進せ、其後暇申てぞ止りける。此男誠に唯人に非ざりけるにや、君御一統の御時に、尤忠賞有べしと国中を被尋けるに、我こそ其にて候へと申者遂に無りけり。夜も已に明ければ、舟人纜を解て順風に帆を揚、湊の外に漕出す。船頭主上の御有様を見奉て、唯人にては渡らせ給はじとや思ひけん、屋形の前に畏て申けるは、「加様の時御船を仕て候こそ、我等が生涯の面目にて候へ、何くの浦へ寄よと御定に随て、御舟の梶をば仕候べし。」と申て、実に他事もなげなる気色也。忠顕朝臣是を聞き給て、隠しては中々悪かりぬと思はれければ、此船頭を近く呼寄て、「是程に推し当られぬる上は何をか隠すべき、屋形の中に御座あるこそ、日本国の主、悉も十善の君にていらせ給へ。汝等も定て聞及ぬらん、去年より隠岐判官が館に被押篭て御座ありつるを、忠顕盜出し進せたる也。出雲・伯耆の間に、何くにてもさりぬべからんずる泊へ、急ぎ御舟を着てをろし進せよ。御運開ば、必汝を侍に申成て、所領一所の主に成べし。」と被仰ければ、船頭実に嬉しげなる気色にて、取梶・面梶取合せて、片帆にかけてぞ馳たりける。今は海上二三十里も過ぬらんと思ふ処に、同じ追風に帆懸たる舟十艘計、出雲・伯耆を指て馳来れり。筑紫舟か商人舟かと見れば、さもあらで、隠岐判官清高、主上を追奉る舟にてぞ有ける。船頭是を見て、「角ては叶候まじ、是に御隠れ候へ。」と申て、主上と忠顕朝臣とを、舟底にやどし進せて、其上に、あひ物とて乾たる魚の入たる俵を取積で、水手・梶取其上に立双で、櫓をぞ押たりける。去程に追手の舟一艘、御座舟に追付て、屋形の中に乗移り、こゝかしこ捜しけれ共、見出し奉らず。「さては此舟には召ざりけり。若あやしき舟や通りつる。」と問ければ、船頭、「今夜の子の刻計に、千波湊を出候つる舟にこそ、京上臈かと覚しくて、冠とやらん着たる人と、立烏帽子着たる人と、二人乗せ給て候つる。其舟は今は五六里も先立候ぬらん。」と申ければ、「さては疑もなき事也。早、舟をおせ。」とて、帆を引梶を直せば、此舟は軈て隔ぬ。今はかうと心安く覚て迹の浪路を顧れば、又一里許さがりて、追手の舟百余艘、御坐船を目に懸て、鳥の飛が如くに追懸たり。船頭是を見て帆の下に櫓を立て、万里を一時に渡らんと声を帆に挙て推けれ共、時節風たゆみ、塩向て御舟更に不進。水手・梶取如何せんと、あはて騒ぎける間、主上船底より御出有て、膚の御護より、仏舎利を一粒取出させ給て、御畳紙に乗せて、波の上にぞ浮られける。竜神是に納受やした〔り〕けん、海上俄に風替りて、御坐船をば東へ吹送り、追手の船をば西へ吹もどす。さてこそ主上は虎口の難の御遁有て、御船は時間に、伯耆の国名和湊に着にけり。六条少将忠顕朝臣一人先舟よりおり給て、「此辺には何なる者か、弓矢取て人に被知たる。」と問れければ、道行人立やすらひて、「此辺には名和又太郎長年と申者こそ、其身指て名有武士にては候はね共、家富一族広して、心がさある者にて候へ。」とぞ語りける。忠顕朝臣能々其子細を尋聞て、軈て勅使を立て被仰けるは、「主上隠岐判官が館を御逃有て、今此湊に御坐有。長年が武勇兼て上聞に達せし間、御憑あるべき由を被仰出也。憑まれ進せ候べしや否、速に勅答可申。」とぞ被仰たりける。名和又太郎は、折節一族共呼集て酒飲で居たりけるが、此由を聞て案じ煩たる気色にて、兎も角も申得ざりけるを、舎弟小太郎左衛門尉長重進出て申けるは、「古より今に至迄、人の望所は名と利との二也。我等悉も十善の君に被憑進て、尸を軍門に曝す共名を後代に残ん事、生前の思出、死後の名誉たるべし。唯一筋に思定させ給ふより外の儀有べしとも存候はず。」と申ければ、又太郎を始として当座に候ける一族共二十余人、皆此儀に同じてけり。「されば頓て合戦の用意候べし。定て追手も迹より懸り候らん。長重は主上の御迎に参て、直に船上山へ入進せん。旁は頓て打立て、船上へ御参候べし。」と云捨て、鎧一縮して走り出ければ、一族五人腹巻取て投懸々々、皆高紐しめて、共に御迎にぞ参じける。俄の事にて御輿なんども無りければ、長重着たる鎧の上に荒薦を巻て、主上を負進せ、鳥の飛が如くして舟上へ入奉る。長年近辺の在家に人を廻し、「思立事有て舟上に兵粮を上る事あり。我倉の内にある所の米穀を、一荷持て運びたらん者には、銭を五百づゝ取らすべし。」と触たりける間、十方より人夫五六千人出来して、我劣らじと持送る。一日が中に兵粮五千余石運びけり。其後家中の財宝悉人民百姓に与て、己が館に火をかけ、其勢百五十騎にて、船上に馳参り、皇居を警固仕る。長年が一族名和七郎と云ける者、武勇の謀有ければ、白布五百端有けるを旗にこしらへ、松の葉を焼て煙にふすべ、近国の武士共の家々の文を書て、此の木の本、彼の峯にぞ立置ける。此旗共峯の嵐に吹れて、陣々に翻りたる様、山中に大勢充満したりと見へてをびたゝし。
○船上合戦事 S0707
去程に同二十九日、隠岐判官、佐々木弾正左衛門、其勢三千余騎にて南北より押寄たり。此舟上と申は、北は大山に継き峙ち、三方は地僻に、峯に懸れる白雲腰を廻れり。俄に拵へたる城なれば、未堀の一所をも不掘、屏の一重をも不塗、唯所々に大木少々切倒して、逆木にひき、坊舎の甍を破て、かひ楯にかける計也。寄手三千余騎、坂中まで責上て、城中をきつと向上たれば、松柏生茂ていと深き木陰に、勢の多少は知ね共、家々の旗四五百流、雲に翻り、日に映じて見へたり。さては早、近国の勢共の悉馳参りたりけり。此勢許にては責難しとや思けん、寄手皆心に危て不進得。城中の勢共は、敵に勢の分際を見へじと、木陰にぬはれ伏て、時々射手を出し、遠矢を射させて日を暮す。卦る所に一方の寄手なりける佐々木弾正左衛門尉、遥の麓にひかへて居たりけるが、何方より射る共しらぬ流矢に、右の眼を射ぬかれて、矢庭に伏て死にけり。依之其手の兵五百余騎色を失て軍をもせず。佐渡前司は八百余騎にて搦手へ向たりけるが、俄に旗を巻、甲を脱で降参す。隠岐判官は猶加様の事をも不知、搦手の勢は、定て今は責近きぬらんと心得て、一の木戸口に支て、悪手を入替々々、時移るまでぞ責たりける。日已に西山に隠れなんとしける時、俄に天かき曇り、風吹き雨降事車軸の如く、雷の鳴事山を崩すが如し。寄手是におぢわなゝひて、斯彼の木陰に立寄てむらがり居たる所に、名和又太郎長年舎弟太郎左衛門長重、小次郎長生が、射手を左右に進めて散々に射させ、敵の楯の端のゆるぐ所を、得たりや賢しと、ぬきつれて打てかゝる。大手の寄手千余騎、谷底へ皆まくり落されて、己が太刀・長刀に貫れて命を墜す者其数を不知。隠岐判官計辛き命を助りて、小舟一艘に取乗、本国へ逃帰りけるを、国人いつしか心替して、津々浦々を堅めふせぎける間、波に任せ風に随て、越前の敦賀へ漂ひ寄たりけるが、幾程も無して、六波羅没落の時、江州番馬の辻堂にて、腹掻切て失にけり。世澆季に成ぬといへ共、天理未だ有けるにや、余に君を悩し奉りける隠岐判官が、三十余日が間に滅びはてゝ、首を軍門の幢に懸られけるこそ不思儀なれ。主上隠岐国より還幸成て、船上に御座有と聞へしかば、国々の兵共の馳参る事引も不切。先一番に出雲の守護塩谷判官高貞、富士名判官と打連、千余騎にて馳参る。其後浅山二郎八百余騎、金持の一党三百余騎、大山衆徒七百余騎、都て出雲・伯耆・因幡、三箇国の間に、弓矢に携る程の武士共の参らぬ者は無りけり。是のみならず、石見国には沢・三角の一族、安芸国に熊谷・小早河、美作国には菅家の一族・江見・方賀・渋谷・南三郷、備後国に江田・広沢・宮・三吉、備中に新見・成合・那須・三村・小坂・河村・庄・真壁、備前に今木・大富太郎幸範・和田備後二郎範長・知間二郎親経・藤井・射越五郎左衛門範貞・小嶋・中吉・美濃権介・和気弥次郎季経・石生彦三郎、此外四国九州の兵までも聞伝々々、我前にと馳参りける間、其勢舟上山に居余りて、四方の麓二三里は、木の下・草の陰までも、人ならずと云所は無りけり。


太平記

太平記巻第八
○摩耶合戦事付酒部瀬河合戦事 S0801
先帝已に船上に着御成て、隠岐判官清高合戦に打負し後、近国の武士共皆馳参る由、出雲・伯耆の早馬頻並に打て、六波羅へ告たりければ、事已に珍事に及びぬと聞人色を失へり。是に付ても、京近き所に敵の足をためさせては叶まじ。先摂津国摩耶の城へ押寄て、赤松を可退治とて、佐々木判官時信・常陸前司時知に四十八箇所の篝、在京人並三井寺法師三百余人を相副て、以上五千余騎を摩耶の城へぞ被向ける。其勢閏二月五日京都を立て、同十一日の卯刻に、摩耶の城の南の麓、求塚・八幡林よりぞ寄たりける。赤松入道是を見て、態敵を難所に帯き寄ん為に、足軽の射手一二百人を麓へ下して、遠矢少々射させて、城へ引上りけるを、寄手勝に乗て五千余騎、さしも嶮き南の坂を、人馬に息も継せず揉に々でぞ挙たりける。此山へ上るに、七曲とて岨く細き路あり。此所に至て、寄手少し上りかねて支へたりける所を、赤松律師則祐・飽間九郎左衛門尉光泰二人南の尾崎へ下降て、矢種を不惜散々に射ける間、寄手少し射しらまかされて、互に人を楯に成て其陰にかくれんと色めきける気色を見て、赤松入道子息信濃守範資・筑前守貞範・佐用・上月・小寺・頓宮の一党五百余人、鋒を双て大山の崩が如く、二の尾より打て出たりける間、寄手跡より引立て、「返せ。」と云けれ共、耳にも不聞入、我先にと引けり。其道或深田にして馬の蹄膝を過ぎ、或荊棘生繁て行く前き弥狭ければ、返さんとするも不叶、防がんとするも便りなし。されば城の麓より、武庫河の西の縁まで道三里が間、人馬上が上に重り死て行人路を去敢ず。向ふ時七千余騎と聞へし六波羅の勢、僅に千騎にだにも足らで引返しければ、京中・六波羅の周章不斜。雖然、敵近国より起て、属順ひたる勢さまで多しとも聞へねば、縦ひ一度二度勝に乗る事有とも、何程の事か可有と、敵の分限を推量て、引ども機をば不失。斯る所に、備前国の地頭・御家人も大略敵に成ぬと聞へければ、摩耶城へ勢重ならぬ前に討手を下せとて、同二十八日、又一万余騎の勢を被差下。赤松入動是を聞て、「勝軍の利、謀不意に出で大敵の気を凌で、須臾に変化して先ずるには不如。」とて三千余騎を率し、摩耶の城を出て、久々智・酒部に陣を取て待かけたり。三月十日六波羅勢、既に瀬河に着ぬと聞へければ、合戦は明日にてぞ有んずらんとて、赤松すこし油断して、一村雨の過けるほど物具の露をほさんと、僅なる在家にこみ入て、雨の晴間を待ける所に、尼崎より船を留めてあがりける阿波の小笠原、三千余騎にて押寄たり。赤松纔に五十余騎にて大勢の中へかけ入り、面も不振戦ひけるが、大敵凌ぐに叶はねば、四十七騎は被討て、父子六騎にこそ成にけれ。六騎の兵皆揆をかなぐり捨て、大勢の中へ颯と交りて懸まわりける間、敵是を知らでや有けん、又天運の助けにや懸りけん、何れも無恙して、御方の勢の小屋野の宿の西に、三千余騎にて引へたる其中へ馳入て、虎口に死を遁れけり。六波羅勢は昨日の軍に敵の勇鋭を見るに、小勢也。といへども、欺き難しと思ければ、瀬河の宿に引へて進み得ず。赤松は又敗軍の士卒を集め、殿れたる勢を待調ん為に不懸、互に陣を阻て未雌雄を決せず。丁壮そゞろに軍旅につかれなば、敵に気を被奪べしとて、同十一日赤松三千余騎にて、敵の陣へ押寄て、先づ事の体を伺ひ見に、瀬河の宿の東西に、家々の旗二三百流、梢の風に翻して、其勢二三万騎も有んと見へたり。御方を是に合せば、百にして其一二をも可比とは見へねども、戦はで可勝道な〔け〕れば、偏に只討死と志て、筑前守貞範・佐用兵庫助範家・宇野能登守国頼・中山五郎左衛門尉光能・飽間九郎左〔衛〕門尉光泰、郎等共に七騎にて、竹の陰より南の山へ打襄て進み出たり。敵是を見て、楯の端少し動て、かゝるかと見ればさもあらず、色めきたる気色に見へける間、七騎の人々馬より飛下り、竹の一村滋りたるを木楯に取て、差攻引攻散々にぞ射たりける。瀬川の宿の南北三十余町に、沓の子を打たる様に引へたる敵なれば、何かはゝづるべき。矢比近き敵二十五騎、真逆に被打落ければ、矢面なる人を楯にして、馬を射させじと立てかねたり。平野伊勢前司・佐用・上月・田中・小寺・八木・衣笠の若者共、「すはや敵は色めきたるは。」と、箙を叩き、勝時を作て、七百余騎轡を双べてぞ懸たりける。大軍の靡く僻なれば、六波羅勢前陣返せども後陣不続、行前は狭し、「閑に引け。」といへども耳にも不聞入、子は親を捨て郎等は主を知らで、我前にと落行ける程に、其勢大半討れて纔に京へぞ帰りける。赤松は手負・生捕の頚三百余、宿河原に切懸させて、又摩耶の城へ引返さんとしけるを、円心が子息帥律師則祐、進み出て申けるは、「軍の利は勝に乗て北るを追に不如。今度寄手の名字を聞に、京都の勢数を尽して向て候なる。此勢共今四五日は、長途の負軍にくたびれて、人馬ともに物の用に不可立。臆病神の覚ぬ前に続ひて責る物ならば、などか六波羅を一戦の中に責落さでは候べき。是太公が兵書に出て、子房が心底に秘せし所にて候はずや。」と云ければ、諸人皆此義に同じて、其夜軈て宿川原を立て、路次の在家に火をかけ、其光を手松にして、逃る敵に追すがうて責上りけり。
○三月十二日合戦事 S0802
六波羅には斯る事とは夢にも知ず。摩耶の城へは大勢下しつれば、敵を責落さん事、日を過さじと心安く思ける。其左右を今や/\と待ける所に、寄手打負て逃上る由披露有て、実説は未聞。何とある事やらん、不審端多き所に、三月十二日申刻計に、淀・赤井・山崎・西岡辺三十余箇所に火を懸たり。「こは何事ぞ。」と問に、「西国の勢已に三方より寄たり。」とて、京中上を下へ返して騒動す。両六波羅驚ひて、地蔵堂の鐘を鳴し洛中の勢を被集けれども、宗徒の勢は摩耶の城より被追立、右往左往に逃隠れぬ。其外は奉行・頭人なんど被云て、肥脹れたる者共が馬に被舁乗て、四五百騎馳集りたれ共、皆只あきれ迷へる計にて、差たる義勢も無りけり。六波羅の北方、左近将監仲時、「事の体を見るに、何様坐ながら敵を京都にて相待ん事は、武略の足ざるに似〔た〕り。洛外に馳向て可防。」とて両検断隅田・高橋に、在京の武士二万余騎を相副て、今在家・作道・西の朱雀・西八条辺へ被差向。是は此比南風に雪とけて河水岸に余る時なれば、桂河を阻て戦を致せとの謀也。去程に赤松入道円心、三千余騎を二に分て、久我縄手・西の七条より押寄たり。大手の勢桂川の西の岸に打莅で、川向なる六波羅勢を見渡せば、鳥羽の秋山風に、家家の旗翩翻として、城南の離宮の西門より、作道・四塚・羅城門の東西、々の七条口まで支へて、雲霞の如に充満したり。されども此勢は、桂川を前にして防げと被下知つる其趣を守て、川をば誰も越ざりけり。寄手は又、思の外敵大勢なるよと思惟して、無左右打て懸らんともせず。只両陣互に川を隔て、矢軍に時をぞ移しける。中にも帥律師則祐、馬を踏放て歩立になり、矢たばね解て押くつろげ、一枚楯の陰より、引攻々々散々に射けるが、「矢軍許にては勝負を決すまじかり。」と独言して、脱置たる鎧を肩にかけ、胄の緒を縮、馬の腹帯を堅めて、只一騎岸より下に打下し、手縄かいくり渡さんとす。父の入道遥に見て馬を打寄せ、面に塞て制しけるは、「昔佐々木三郎が藤戸を渡し、足利又太郎が宇治川を渡たるは、兼てみほじるしを立て、案内を見置き、敵の無勢を目に懸て先をば懸し者也。河上の雪消水増りて、淵瀬も見へぬ大河を、曾て案内も知ずして渡さば可被渡歟。縦馬強くして渡る事を得たりとも、あの大勢の中へ只一騎懸入たらんは、不被討と云事可不有。天下の安危必しも此一戦に不可限。暫命を全して君の御代を待んと思ふ心のなきか。」と、再三強て止ければ、則祐馬を立直し、抜たる太刀を収て申けるは、「御方と敵と可対揚程の勢にてだに候はゞ、我と手を不砕とも、運を合戦の勝負に任て見候べきを、御方は僅に三千余騎、敵は是に百倍せり。急に戦を不決して、敵に無勢の程を被見透なば、雖戦不可有利。されば太公が兵道の詞に、「兵勝之術密察敵人之機、而速乗其利疾撃其不意」と云へり、是以吾困兵敗敵強陣謀にて候はぬや。」と云捨て、駿馬に鞭を進め、漲て流るゝ瀬枕に、逆波を立てぞ游がせける。見之飽間九郎左衛門尉・伊東大輔・川原林二郎・木寺相摸・宇野能登守国頼、五騎続ひて颯と打入たり。宇野と伊東は馬強して、一文字に流を截て渡る。木寺相摸は、逆巻水に馬を被放て、胄の手反許僅に浮で見へけるが、波の上をや游ぎけん、水底をや潛りけん、人より前に渡付て、川の向の流州に、鎧の水瀝てぞ立たりける。彼等五人が振舞を見て尋常の者ならずとや思けん、六波羅の二万余騎、人馬東西に僻易して敢て懸合せんとする者なし。剰楯の端しどろに成て色めき渡る所を見て、「前懸の御方打すな。続けや。」とて、信濃守範資・筑前守貞範真前に進めば、佐用・上月の兵三千余騎、一度に颯と打入て、馬筏に流をせきあげたれば、逆水岸に余り、流れ十方に分て元の淵瀬は、中々に陸地を行がご〔と〕く也。三千余騎の兵共、向の岸に打上り、死を一挙の中に軽せんと、進み勇める勢を見て、六波羅勢叶はじとや思けん、未戦前に、楯を捨て旗を引て、作道を北へ東寺を指て引も有、竹田川原を上りに、法性寺大路へ落もあり。其道二三十町が間には、捨たる物具地に満て、馬蹄の塵に埋没す。去程に西七条の手、高倉少将の子息左衛門佐、小寺・衣笠の兵共、早京中へ責入たりと見へて、大宮・猪熊・堀川・油小路の辺、五十余箇所に火をかけたり。又八条、九条の間にも、戦有と覚へて、汗馬東西に馳違、時の声天地を響せり。唯大三災一時に起て、世界悉却火の為に焼失るかと疑はる。京中の合戦は、夜半許の事なれば、目ざすとも知らぬ暗き夜に、時声此彼に聞へて、勢の多少も軍立の様も見分ざれば、何くへ何と向て軍を可為とも不覚。京中の勢は、先只六条川原に馳集て、あきれたる体にて扣へたり。
○持明院殿行幸六波羅事 S0803
日野中納言資名・同左大弁宰相資明二人同車して、内裏へ参り給たれば、四門徒に開、警固の武士は一人もなし。主上南殿に出御成て、「誰か候。」と御尋あれども、衛府諸司の官、蘭台金馬の司も何地へか行たりけん、勾当の内侍・上童二人より外は御前に候する者無りけり。資名・資明二人御前に参じて、「官軍戦ひ弱くして、逆徒不期洛中に襲来候。加様にて御坐候はゞ、賊徒差違て御所中へも乱入仕候ぬと覚へ候。急ぎ三種の神器を先立て六波羅へ行幸成候へ。」と被申ければ、主上軈て腰輿に被召、二条川原より六波羅へ臨幸成る。其後堀河大納言・三条源大納言・鷲尾中納言・坊城宰相以下、月卿雲客二十余人、路次に参着して供奉し奉りけり。是を聞食及で、院・法皇・東宮・皇后・梶井の二品親王まで皆六波羅へと御幸成る間、供奉の卿相雲客軍勢の中に交て警蹕の声頻也ければ、是さへ六波羅の仰天一方ならず。俄に六波羅の北方をあけて、仙院・皇居となす。事の体騒しかりし有様也。軈て両六波羅は七条河原に打立て、近付く敵を相待つ。此大勢を見て敵もさすがにあぐんでや思ひけん、只此彼に走散て、火を懸時の声を作る計にて、同じ陣に扣へたり。両六波羅是を見て、「如何様敵は小勢也。と覚るぞ、向て追散せ。」とて、隅田・高橋に三千余騎を相副て八条口へ被差向。河野九郎左衛門尉・陶山次郎に二千余騎をさし副て、蓮華王院へ被向けり。陶山川野に向て云けるは、「何ともなき取集め勢に交て軍をせば、憖に足纏に成て懸引も自在なるまじ。いざや六波羅殿より被差副たる勢をば、八条河原に引へさせて時の声を挙げさせ、我等は手勢を引勝て、蓮華王院の東より敵の中へ駈入り、蜘手十文字に懸破り、弓手妻手にて相付て、追物射に射てくれ候はん。」と云ければ、河野、「尤可然。」と同じて、外様の勢二千余騎をば、塩小路の道場の前へ差遣し、川野が勢三百余騎、陶山が勢百五十余騎は引分て、蓮華王院の東へぞ廻りける。合図の程にも成ければ、八条川原の勢、鬨声を揚たるに、敵是に立合せんと馬を西頭に立て相待処に、陶山・川野四百余騎、思も寄らぬ後より、時を咄と作て、大勢の中へ懸入、東西南北に懸破て、敵を一所に不打寄、追立々々責戦。川野と陶山と、一所に合ては両所に分れ、両所に分ては又一所に合、七八度が程ぞ揉だりける。長途に疲たる歩立の武者、駿馬の兵に被懸悩て、討るゝ者其数を不知。手負を捨て道を要て、散々に成て引返す。陶山・川野逃る敵には目をも不懸、「西七条辺の合戦何と有らん、無心元。」とて、又七条川原を直違に西へ打て七条大宮に扣へ、朱雀の方を見遣ければ、隅田・高橋が三千余騎、高倉左衛門佐・小寺・衣笠が二千余騎に被懸立て、馬の足をぞ立兼たる。川野是を見て、「角ては御方被打ぬと覚るぞ。いざや打て懸らん。」と云けるを、陶山、「暫。」と制しけり。「其故は此陣の軍未雌雄決前に、力を合て御方を助たりとも、隅田・高橋が口の悪さは、我高名にぞ云はんずらん。暫く置て事の様を御覧ぜよ。敵縦ひ勝に乗とも何程の事か可有。」とて、見物してぞ居たりける。去程に隅田・高橋が大勢、小寺・衣笠が小勢に被追立、返さんとすれ共不叶、朱雀を上りに内野を指て引もあり、七条を東へ向て逃るもあり、馬に離たる者は心ならず返合て死もあり。陶山是を見て、「余にながめ居て、御方の弱り為出したらんも由なし、いざや今は懸合せん。」といへば、河野、「子細にや及ぶ。」と云侭に、両勢を一手に成て大勢の中へ懸入り、時移るまでぞ戦ひたる。四武の衝陣堅を砕て、百戦の勇力変に応ぜしかば、寄手又此陣の軍にも打負て、寺戸を西へ引返しけり。筑前守貞範・律師則祐兄弟は、最初に桂河を渡しつる時の合戦に、逃る敵を追立て、跡に続く御方の無をも不知、只主従六騎にて、竹田を上りに、法性寺大路へ懸通、六条河原へ打出て、六波羅の館へ懸入んとぞ待たりける。東寺より寄つる御方、早打負て引返しけりと覚て、東西南北に敵より外はなし。さらば且く敵に紛てや御方を待つと、六騎の人々皆笠符をかなぐり捨て、一所に扣へたる処に、隅田・高橋打廻て、「如何様赤松が勢共、尚御方に紛て此中に在と覚るぞ。河を渡しつる敵なれば、馬物具のぬれぬは不可有。其を験しにして組討に打て。」と呼りける間、貞範も則祐も中々敵に紛れんとせば悪かりぬべしとて、兄弟・郎等僅六騎轡を双べわつと呼て敵二千騎が中へ懸入り、此に名乗彼に紛て相戦けり。敵是程に小勢なるべしとは可思寄事ならねば、東西南北に入乱て、同士打をする事数刻也。大敵を謀るに勢ひ久からざれば、郎等四騎皆所々にて被討ぬ。筑前守は被押隔ぬ。則祐は只一騎に成て、七条を西へ大宮を下りに落行ける所に、印具尾張守が郎従八騎追懸て、「敵ながらも優く覚へ候者哉。誰人にてをはするぞ。御名乗候へ。」と云ければ、則祐馬を閑に打て、「身不肖に候へば、名乗申とも不可有御存知候。只頚を取て人に被見候へ。」と云侭に、敵近付ば返合、敵引ば馬を歩せ、二十余町が間、敵八騎と打連て心閑にぞ落行ける。西八条の寺の前を南へ打出ければ、信濃守貞範三百余騎、羅城門の前なる水の潺きに、馬の足を冷して、敗軍の兵を集んと、旗打立て引へたり。則祐是を見付て、諸鐙を合て馳入ければ、追懸つる八騎の敵共、「善き敵と見つる物を、遂に打漏しぬる事の不安さよ。」と云声聞へて、馬の鼻を引返しける。暫く有れば、七条河原・西朱雀にて被懸散たる兵共、此彼より馳集て、又千余騎に成にけり。赤松其兵を東西の小路より進ませ、七条辺にて、又時の声を揚げたりければ、六波羅勢七千余騎、六条院を後に当て、追つ返つ二時許ぞ責合たる。角ては軍の勝負いつ有べしとも覚へざりける処に、河野と陶山とが勢五百余騎、大宮を下りに打て出、後を裹んと廻りける勢に、後陣を被破て、寄手若干討れにければ、赤松わづかの勢に成て、山崎を指て引返しけり。河野・陶山勝に乗て、作道の辺まで追駈けるが、赤松動すれば、取て返さんとする勢を見て、「軍は是までぞ、さのみ長追なせそ。」とて、鳥羽殿の前より引返し、虜二十余人、首七十三取て、鋒に貫て、朱に成て六波羅へ馳参る。主上は御簾を捲せて叡覧あり。両六波羅は敷皮に坐して、是を検知す。「両人の振舞いつもの事なれ共、殊更今夜の合戦に、旁手を下し命を捨給はずば、叶まじとこそ見へて候つれ。」と、再三感じて被賞翫。其夜軈て臨時の宣下有て、河野九郎をば対馬守に被成て御剣を被下、陶山二郎をば備中守に被成て、寮の御馬を被下ければ、是を見聞武士、「あはれ弓矢の面目や。」と、或は羨み或は猜で、其名天下に被知たり。軍散じて翌日に、隅田・高橋京中を馳廻て、此彼の堀・溝に倒れ居たる手負死人の頚共を取集て、六条川原に懸並たるに、其数八百七十三あり。敵是まで多く被討ざれども、軍もせぬ六波羅勢ども、「我れ高名したり。」と云んとて、洛中・辺土の在家人なんどの頚仮首にして、様々の名を書付て出したりける頚共也。其中に赤松入道円心と、札を付たる首五あり。何れも見知たる人無れば、同じやうにぞ懸たりける。京童部是を見て、「頚を借たる人、利子を付て可返。赤松入道分身して、敵の尽ぬ相なるべし。」と、口々にこそ笑ひけれ。
○禁裡仙洞御修法事付山崎合戦事 S0804
此比四海大に乱て、兵火天を掠めり。聖主■を負て、春秋無安時、武臣矛を建て、旌旗無閑日。是以法威逆臣を不鎮ば、静謐其期不可有とて、諸寺諸社に課て、大法秘法をぞ被修ける。梶井宮は、聖主の連枝、山門の座主にて御坐しければ、禁裏に壇を立て、仏眼の法を行せ給ふ。裏辻の慈什僧正は、仙洞にて薬師の法を行はる。武家又山門・南都・園城寺の衆徒の心を取、霊鑑の加護を仰がん為に、所々の庄園を寄進し、種々の神宝を献て、祈祷を被致しか共、公家の政道不正、武家の積悪禍を招きしかば、祈共神不享非礼、語へども人不耽利欲にや、只日を逐て、国々より急を告る事隙無りけり。去三月十二日の合戦に赤松打負て、山崎を指て落行しを、頓て追懸て討手をだに下したらば、敵足をたむまじかりしを、今は何事か可有とて被油断しに依て、敗軍の兵此彼より馳集て、無程大勢に成ければ、赤松、中院の中将貞能を取立て聖護院の宮と号し、山崎・八幡に陣を取、河尻を差塞ぎ西国往反の道を打止む。依之洛中の商買止て士卒皆転漕の助に苦めり。両六波羅聞之、「赤松一人に洛中を被悩て、今士卒を苦る事こそ安からね。去十二日の合戦の体を見るに、敵さまで大勢にても無りける物を、無云甲斐聞懼して敵を辺境の間に閣こそ、武家後代の恥辱なれ、所詮於今度は官軍遮て敵陣に押寄、八幡・山崎の両陣を責落し、賊徒を河に追はめ、其首を取て六条河原に可曝。」と被下知ければ、四十八箇所の篝、並在京人、其勢五千余騎、五条河原に勢揃して、三月十五日の卯刻に、山崎へとぞ向ひける。此勢始は二手に分けたりけるを、久我縄手は、路細く深田なれば馬の懸引も自在なるまじとて、八条より一手に成、桂河を渡り、河嶋の南を経て、物集女・大原野の前よりぞ寄たりける。赤松是を聞て、三千余騎を三手に分つ。一手には足軽の射手を勝て五百余人小塩山へ廻す。一手をば野伏に騎馬の兵を少々交て千余人、狐河の辺に引へさす。一手をば混すら打物の衆八百余騎を汰て、向日明神の後なる松原の陰に隠置く。六波羅勢、敵此まで可出合とは不思寄、そゞろに深入して、寺戸の在家に火を懸て、先懸既に向日明神の前を打過ける処に、善峯・岩蔵の上より、足軽の射手一枚楯手々に提て麓にをり下て散々に射る。寄手の兵共是を見て、馬の鼻を双て懸散さんとすれば、山嶮して不上得、広みに帯き出して打んとすれば、敵是を心得て不懸。「よしや人々、はか/゛\しからぬ野伏共に目を懸て、骨を折ては何かせん。此をば打捨て山崎へ打通れ。」と議して、西岡を南へ打過る処に、坊城左衛門五十余騎にて、思もよらぬ向日明神の小松原より懸出て、大勢の中へ切て入。敵を小勢と侮て、真中に取篭て、余さじと戦ふ処に、田中・小寺・八木・神沢此彼より百騎二百騎、思々に懸出て、魚鱗に進み鶴翼に囲んとす。是を見て狐河に引へたる勢五百余騎、六波羅勢の跡を切らんと、縄手を伝ひ道を要て打廻るを見て、京勢叶はじとや思けん、捨鞭を打て引返す。片時の戦也ければ、京勢多く被打たる事は無けれ共、堀・溝・深田に落入て、馬物具皆取所もなく膩たれば、白昼に京中を打通るに、見物しける人毎に、「哀れ、さりとも陶山・河野を被向たらば、是程にきたなき負はせじ物を。」と、笑はぬ人もなかりけり。去ば京勢此度打負て、向はで京に被残たる河野と陶山が手柄の程、いとゞ名高く成にけり。
○山徒寄京都事 S0805
京都に合戦始りて、官軍動すれば利を失ふ由、其聞へ有しかば、大塔宮より牒使を被立て、山門の衆徒をぞ被語ける。依之三月二十六日一山の衆徒大講堂の庭に会合して、「夫吾山者為七社応化之霊地、作百王鎮護之藩籬。高祖大師占開基之始、止観窓前雖弄天真独朗之夜月、慈恵僧正為貫頂之後、忍辱衣上忽帯魔障降伏之秋霜。尓来妖■見天、則振法威而攘退之。逆暴乱国、則借神力而退之。肆神号山王。須有非三非一之深理矣。山言比叡。所以仏法王法之相比焉。而今四海方乱、一人不安。武臣積悪之余、果天将下誅。其先兆非無賢愚。共所世知也。王事毋■。釈門仮使雖為出塵之徒、此時奈何無尽報国之忠。早翻武家合体之前非宜専朝廷扶危之忠胆矣。」と僉議しければ、三千一同に尤々と同じて院々谷々へ帰り、則武家追討の企の外無他事。山門、已に来二十八日六波羅へ可寄と定ければ、末寺・末社の輩は不及申、所縁に随て近国の兵馳集る事雲霞の如く也。二十七日大宮の前にて着到を付けるに、十万六千余騎と注せり。大衆の習、大早無極所存なれば、此勢京へ寄たらんに、六波羅よも一たまりもたまらじ、聞落にぞせんずらんと思侮て、八幡・山崎の御方にも不牒合して、二十八日の卯刻に、法勝寺にて勢撰へ可有と触たりければ、物具をもせず、兵粮をも未だつかはで、或今路より向ひ、或は西坂よりぞをり下る。両六波羅是を聞て、思に、山徒縦雖大勢、騎馬の兵一人も不可有。此方には馬上の射手を撰へて、三条河原に待受けさせて、懸開懸合せ、弓手・妻手に着て追物射に射たらんずるに、山徒心は雖武、歩立に力疲れ、重鎧に肩を被引、片時が間に疲るべし。是以小砕大、以弱拉剛行也。とて、七千余騎を七手に分て、三条河原の東西に陣を取てぞ待懸たる。大衆斯るべしとは思もよらず、我前に京へ入てよからんずる宿をも取、財宝をも管領せんと志て、宿札共を面々に二三十づゝ持せて、先法勝寺へぞ集りける。其勢を見渡せば、今路・西坂・古塔下・八瀬・薮里・下松・赤山口に支て、前陣已に法勝寺・真如堂に付ば後陣は未山上・坂本に充満たり。甲冑に映ぜる朝日は、電光の激するに不異。旌旗を靡かす山風は、竜蛇の動くに相似たり。山上と洛中との勢の多少を見合するに、武家の勢は十にして其一にも不及。「げにも此勢にては輒くこそ。」と、六波羅を直下ける山法師の心の程を思へば、大様ながらも理也。去程に前陣の大衆且く法勝寺に付て後陣の勢を待ける処へ、六波羅勢七千余騎三方より押寄て時をどつと作る。大衆時の声に驚て、物具太刀よ長刀よとひしめいて取物も不取敢、僅に千人許にて法勝寺の西門の前に出合、近付く敵に抜て懸る。武士は兼てより巧みたる事なれば、敵の懸る時は馬を引返てばつと引き、敵留れば開合せて後へ懸廻る。如此六七度が程懸悩ましける間、山徒は皆歩立の上、重鎧に肩を被推て、次第に疲たる体にぞ見へける。武士は是に利を得て、射手を撰て散々に射る。大衆是に射立られて、平場の合戦叶はじとや思けん、又法勝寺の中へ引篭らんとしける処を、丹波国の住人佐治孫五郎と云ける兵、西門の前に馬を横たへ、其比会てなかりし五尺三寸の太刀を以て、敵三人不懸筒切て、太刀の少仰たるを門の扉に当て推直し、猶も敵を相待て、西頭に馬をぞ扣たる。山徒是を見て、其勢にや辟易しけん。又法勝寺にも敵有とや思けん。法勝寺へ不入得、西門の前を北へ向て、真如堂の前神楽岡の後を二に分れて、只山上へとのみ引返しける。爰に東塔の南谷善智房の同宿に豪鑒・豪仙とて、三塔名誉の悪僧あり。御方の大勢に被引立て、不心北白河を指て引けるが、豪鑒豪仙を呼留て、「軍の習として、勝時もあり負時もあり、時の運による事なれば恥にて不恥。雖然今日の合戦の体、山門の恥辱天下の嘲哢たるべし。いざや御辺、相共に返し合て打死し、二人が命を捨て三塔の恥を雪めん。」と云ければ、豪仙、「云にや及ぶ、尤も庶幾する所也。」と云て、二人蹈留て法勝寺の北の門の前に立並び、大音声を揚て名乗けるは、「是程に引立たる大勢の中より、只二人返し合するを以て三塔一の剛の者とは可知。其名をば定めて聞及ぬらん、東塔の南谷善智坊の同宿に、豪鑒・豪仙とて一山に名を知られたる者共也。我と思はん武士共、よれや、打物して、自余の輩に見物せさせん。」と云侭に、四尺余の大長刀水車に廻して、跳懸々々火を散してぞ切たりける。是を打取らんと相近付ける武士共、多く馬の足を被薙、冑の鉢を被破て被討にけり。彼等二人、此に半時許支へて戦けれ共、続く大衆一人もなし。敵雨の降る如くに射ける矢に、二人ながら十余箇所疵を蒙りければ、「今は所存是までぞ。いざや冥途まで同道せん。」と契て、鎧脱捨押裸脱、腹十文字に掻切て、同じ枕にこそ伏たりけれ。是を見る武士共、「あはれ日本一の剛の者共哉。」と、惜まぬ人も無りけり。前陣の軍破れて引返しければ、後陣の大勢は軍場をだに不見して、道より山門へ引返す。只豪鑒・豪仙二人が振舞にこそ、山門の名をば揚たりけれ。
○四月三日合戦事付妻鹿孫三郎勇力事 S0806
去月十二日赤松合戦無利して引退し後は、武家常に勝に乗て、敵を討事数千人也。といへども、四海未静、剰山門又武家に敵して、大岳に篝火を焼き、坂本に勢を集めて、尚も六波羅へ可寄と聞へければ、衆徒の心を取らん為に、武家より大庄十三箇所、山門へ寄進す。其外宗徒の衆徒に、便宜の地を一二箇所充祈祷の為とて恩賞を被行ける。さてこそ山門の衆議心心に成て武家に心を寄する衆徒も多く出来にければ、八幡・山崎の官軍は、先度京都の合戦に、或被討、或疵を蒙る者多かりければ、其勢太半減じて今は僅に、一万騎に足らざりけり。去ども武家の軍立、京都の形勢恐るゝに不足と見透してげれば、七千余騎を二手に分て、四月三日の卯刻に、又京都へ押寄せたり。其一方には、殿法印良忠・中院定平を両大将として、伊東・松田・頓宮・富田判官が一党、並真木・葛葉の溢れ者共を加へて其勢都合三千余騎、伏見・木幡に火を懸て、鳥羽・竹田より推寄する。又一方には、赤松入道円心を始として、宇野・柏原・佐用・真嶋・得平・衣笠、菅家の一党都合其勢三千五百余騎、河嶋・桂の里に火を懸て、西の七条よりぞ寄たりける。両六波羅は、度々の合戦に打勝て兵皆気を挙ける上、其勢を算ふるに、三万騎に余りける間、敵已に近付ぬと告けれ共、仰天の気色もなし。六条河原に勢汰して閑に手分をぞせられける。山門今は武家に志を通ずといへども、又如何なる野心をか存ずらん。非可油断とて、佐々木判官時信・常陸前司時朝・長井縫殿秀正に三千余騎を差副て、糾河原へ被向。去月十二日の合戦も、其方より勝たりしかば吉例也。とて、河野と陶山とに五千騎を相副て法性寺大路へ被差向。富樫・林が一族・島津・小早河が両勢に、国々の兵六千余騎を相副て、八条東寺辺へ被指向。厚東加賀守・加治源太左衛門尉・隅田・高橋・糟谷・土屋・小笠原に七千余騎を相副て、西七条口へ被向。自余の兵千余騎をば悪手の為に残して、未六波羅に並居たり。其日の巳刻より、三方ながら同時に軍始て、入替々々責戦ふ。寄手は騎馬の兵少して、歩立射手多ければ、小路々々を塞ぎ、鏃を調て散々に射る。六波羅勢は歩立は少して、騎馬の兵多ければ、懸違々々敵を中に篭めんとす。孫子が千反の謀、呉氏が八陣の法、互に知たる道なれば、共に不被破不被囲、只命を際の戦にて更に勝負も無りけり。終日戦て已に夕陽に及びける時、河野と陶山と一手に成て、三百余騎轡を双べて懸たりけるに、木幡の寄手足をもためず被懸立て、宇治路を指て引退く。陶山・河野、逃る敵をば打捨て、竹田河原を直違に、鳥羽殿の北の門を打廻り、作道へ懸出て、東寺の前なる寄手を取篭めんとす。作道十八町に充満したる寄手是を見て、叶はじとや思けん、羅城門の西を横切に、寺戸を指て引返す。小早河は島津安芸前司とは東寺の敵に向て、追つ返つ戦けるが、己が陣の敵を河野と陶山とに被払て、身方の負をしつる事よと無念に思ひければ、「西の七条へ寄せつる敵に逢て、花やかなる一軍せん。」と云て、西八条を上りに、西朱雀へぞ出たりける。此に赤松入道、究竟の兵を勝て、三千余騎にて引へたりければ、無左右可破様も無りなり。されども嶋津・小早河が横合に懸るを見て、戦ひ疲れたる六波羅勢力を得て三方より攻合せける間、赤松が勢、忽に開靡て三所に引へたり。爰に赤松が勢の中より兵四人進み出て、数千騎引へたる敵の中へ無是非打懸りけり。其勢決然として恰樊噌・項羽が忿れる形にも過たり。近付に随て是を見れば長七尺許なる男の、髭両方へ生ひ分て、眥逆に裂たるが、鎖の上に鎧を重て着、大立挙の臑当に膝鎧懸て、竜頭の冑猪頚に着成し、五尺余りの太刀を帯き、八尺余のかなさい棒の八角なるを、手本二尺許円めて、誠に軽げに提げたり。数千騎扣へたる六波羅勢、彼等四人が有様を見て、未戦先に三方へ分れて引退く。敵を招て彼等四人、大音声を揚て名乗けるは、「備中国の住人頓宮又次郎入道・子息孫三郎・田中藤九郎盛兼・同舎弟弥九郎盛泰と云者也。我等父子兄弟、少年の昔より勅勘武敵の身と成りし間、山賊を業として一生を楽めり。然に今幸に此乱出来して、忝くも万乗の君の御方に参ず。然を先度の合戦、指たる軍もせで御方の負したりし事、我等が恥と存ずる間、今日に於ては縦御方負て引とも引まじ、敵強くとも其にもよるまじ、敵の中を破て通り六波羅殿に直に対面申さんと存ずるなり。」と、広言吐て二王立にぞ立たりける。島津安芸前司是を聞て、子息二人手の者共に向て云けるは、「日比聞及し西国一の大力とは是なり。彼等を討たん事大勢にては叶まじ。御辺達は且く外に引へて自余の敵に可戦。我等父子三人相近付て、進づ退つ且く悩したらんに、などか是を討たざらん。縦力こそ強くとも、身に矢の立ぬ事不可有。縦走る事早くとも、馬にはよも追つかじ。多年稽古の犬笠懸、今の用に不立ばいつをか可期。いで/\不思議の一軍して人に見せん。」と云侭に、唯三騎打ぬけて四人の敵に相近付く。田中藤九郎是を見て、「其名はいまだ知らねども、猛くも思へる志かな、同は御辺を生虜て、御方に成て軍せさせん。」とあざ笑て、件の金棒を打振て、閑に歩み近付く。島津も馬を静々と歩ませ寄て、矢比に成ければ、先安芸前司、三人張に十二束三伏、且し堅めて丁と放つ。其矢あやまたず、田中が石の頬前を冑の菱縫の板へ懸て、篦中許射通したりける間、急所の痛手に弱りて、さしもの大力なれども、目くれて更に進み不得。舎弟弥九郎走寄り、其矢を抜て打捨、「君の御敵は六波羅也。兄の敵は御辺也。余すまじ。」と云侭に、兄が金棒をゝつ取振て懸れば、頓宮父子各五尺二寸の太刀を引側めて、小躍して続ひたり。嶋津元より物馴たる馬上の達者矢継早の手きゝなれば、少も不騒、田中進で懸れば、あいの鞭を打て、押もぢりにはたと射。田中妻手へ廻ば、弓手を越て丁と射る。西国名誉の打物の上手と、北国無双の馬上の達者と、追つ返つ懸違へ、人交もせず戦ひける。前代未聞の見物也。去程に嶋津が矢種も尽て、打物に成らんとしけるを見て、角ては叶はじとや思けん、朱雀の地蔵堂より北に引へたる小早河、二百騎にてをめいて懸りけるに、田中が後なる勢、ばつと引退ければ、田中兄弟、頓宮父子、彼此四人の鎧の透間内冑に、各矢二三十筋被射立て、太刀を逆につきて、皆立ずくみにぞ死たりける。見る人聞く人、後までも惜まぬ者は無りけり。美作国の住人菅家の一族は、三百余騎にて四条猪熊まで責入、武田兵庫助・糟谷・高橋が一千余騎の勢と懸合て、時移るまで戦けるが、跡なる御方の引退きぬる体を見て、元来引かじとや思けん。又向ふ敵に後を見せじとや恥たりけん。有元菅四郎佐弘・同五郎佐光・同又三郎佐吉兄弟三騎、近付く敵に馳双べ引組で臥したり。佐弘は今朝の軍に膝口を被切て、力弱りたりけるにや、武田七郎に押へられて頚を被掻、佐光は武田二郎が頚を取る。佐吉は武田が郎等と差違て共に死にけり。敵二人も共に兄弟、御方二人も兄弟なれば、死残ては何かせん。いざや共に勝負せんとて、佐光と武田七郎と、持たる頚を両方へ投捨て、又引組で指違ふ。是を見て福光彦二郎佐長・殖月彦五郎重佐・原田彦三郎佐秀・鷹取彦二郎種佐同時に馬を引退し、むずと組ではどうど落、引組では指違へ、二十七人の者共一所にて皆討れければ、其陣の軍は破にけり。播磨国の住人妻鹿孫三郎長宗と申すは、薩摩氏長が末にて、力人に勝れ器量世に超たり。生年十二の春の比より好で相撲を取けるに、日本六十余州の中には、遂に片手にも懸る者無りけり。人は類を以て聚る習ひなれば、相伴ふ一族十七人、皆是尋常の人には越たり。されば他人の手を不交して一陣に進み、六条坊門大宮まで責入たりけるが、東寺・竹田より勝軍して帰りける六波羅勢三千余騎に被取巻、十七人は被打て、孫三郎一人ぞ残たりける。「生て無甲斐命なれども、君の御大事是に限るまじ。一人なりとも生残て、後の御用にこそ立め。」と独りごとして、只一騎西朱雀を指て引けるを、印具駿河守の勢五十余騎にて追懸たり。其中に、年の程二十許なる若武者、只一騎馳寄せて、引て帰りける妻鹿孫三郎に組んと近付て、鎧の袖に取着ける処を、孫三郎是を物ともせず、長肘を指延て、鎧総角を掴で中に提げ、馬の上三町許ぞ行たりける。此武者可然者のにてや有けん、「あれ討すな。」とて、五十余騎の兵迹に付て追けるを、孫三郎尻目にはつたと睨で、「敵も敵によるぞ。一騎なればとて我に近付てあやまちすな。ほしがらばすは是取らせん。請取れ。」と云て、左の手に提げたる鎧武者を、右の手〔に〕取渡して、ゑいと抛たりければ、跡なる馬武者六騎が上を投越して、深田の泥の中へ見へぬ程こそ打こうだれ。是を見て、五十余騎の者共、同時に馬を引返し、逸足を出してぞ逃たりける。赤松入道は、殊更今日の軍に、憑切たる一族の兵共も、所々にて八百余騎被打ければ、気疲力落はてゝ、八幡・山崎へ又引返しけり。
○主上自令修金輪法給事付千種殿京合戦事 S0807
京都数箇度の合戦に、官軍毎度打負て、八幡・山崎の陣も既に小勢に成りぬと聞へければ、主上天下の安危如何有らんと宸襟を被悩、船上の皇居に壇を被立、天子自金輪の法を行はせ給ふ。其七箇日に当りける夜、三光天子光を並て壇上に現じ給ければ、御願忽に成就しぬと、憑敷被思召ける。さらばやがて大将を差上せて赤松入道に力を合せ、六波羅を可攻とて、六条少将忠顕朝臣を頭中将に成し、山陽・山陰両道の兵の大将として、京都へ被指向。其勢伯耆国を立しまで、僅に千余騎と聞へしが、因幡・伯耆・出雲・美作・但馬・丹後・丹波・若狭の勢共馳加はて、程なく二十万七千余騎に成にけり。又第六の若宮は、元弘の乱の始、武家に被囚させ給て、但馬国へ被流させ給ひたりしを、其国の守護大田三郎左衛門尉取立奉て、近国の勢を相催し、則丹波の篠村へ参会す。大将頭中将不斜悦で、即錦の御旗を立て、此宮を上将軍と仰ぎ奉て、軍勢催促の令旨を被成下けり。四月二日、宮、篠村を御立有て、西山の峯堂を御陣に被召、相従ふ軍勢二十万騎、谷堂・葉室・衣笠・万石大路・松尾・桂里に居余て、半は野宿に充満たり。殿法印良忠は、八幡に陣を取。赤松入道円心は山崎に屯を張れり。彼陣と千種殿の陣と相去事僅に五十余町が程なれば、方々牒じ合せてこそ京都へは可被寄かりしを、千種頭中将我勢の多をや被憑けん。又独高名にせんとや被思けん、潛に日を定て四月八日の卯刻に六波羅へぞ被寄ける。あら不思議、今日は仏生日とて心あるも心なきも潅仏の水に心を澄し、供花焼香に経を翻して捨悪修善を事とする習ひなるに、時日こそ多かるに、斎日にして合戦を始て、天魔波旬の道を学ばる条難心得と人々舌を翻せり。さて敵御方の士卒源平互に交れり。無笠符ては同士打も有ぬべしとて、白絹を一尺づゝ切て風と云文字を書て、鎧の袖にぞ付させられける。是は孔子の言に、「君子の徳は風也。小人の徳は草也。草に風を加ふる時は不偃と云事なし。」と云心なるべし。六波羅には敵を西に待ける故に、三条より九条まで大宮面に屏を塗り、櫓を掻て射手を上て、小路々々に兵を千騎二千騎扣へさせて、魚鱗に進み、鶴翼に囲まん様をぞ謀りける。「寄手の大将は誰そ。」と問に、「前帝第六の若宮、副将軍は千種頭中将忠顕の朝臣。」と聞へければ、「さては軍の成敗心にくからず。源は同流也。といへども、「江南の橘、江北に被移て枳と成」習也。弓馬の道を守る武家の輩と、風月の才を事とする朝廷の臣と闘を決せんに、武家不勝と云事不可有。」と、各勇み進で、七千余騎大宮面に打寄て、寄手遅しとぞ待懸たる。去程に忠顕朝臣、神祇官の前に扣へて勢を分て、上は大舎人より下は七条まで、小路ごとに千余騎づゝ指向て責させらる。武士は要害を拵て射打を面に立て、馬武者を後に置たれば、敵の疼む所を見て懸出々々追立けり。官軍は二重三重に荒手を立たれば、一陣引けば二陣入替り、二陣打負れば三陣入替て、人馬に息を継せ、煙塵天を掠て責戦ふ。官軍も武士も諸共に、義に依て命を軽じ、名を惜で死を争ひしかば、御方を助て進むは有れども、敵に遇て退くは無りけり。角ては何可有勝負とも見へざりける処に、但馬・丹波の勢共の中より、兼て京中に忍て人を入置たりける間、此彼に火を懸たり。時節辻風烈く吹て、猛煙後に立覆ひければ、一陣に支へたる武士共、大宮面を引退て尚京中に扣へたり。六波羅是を聞て、弱からん方へ向けんとて用意を残し留たる、佐々木判官時信・隅田・高橋・南部・下山・河野・陶山・富樫・小早河等、五千余騎を差副て、一条・二条の口へ被向。此荒手に懸合て、但馬の守護大田三郎左衛門被打にけり。丹波国の住人荻野彦六と足立三郎は、五百余騎にて四条油小路まで責入たりけるを、備前国の住人、薬師寺八郎・中吉十郎・丹・児玉が勢共、七百余騎相支て戦けるが、二条の手被破ぬと見へければ、荻野・足立も諸共に御方の負して引返す。金持三郎は七百余騎にて、七条東洞院まで責入たりけるが、深手を負て引かねけるを、播磨国の住人肥塚が一族、三百余騎が中に取篭て、出抜て虜てげり。丹波国神池の衆徒は、八十余騎にて、五条西洞院まで責入、御方の引をも知らで戦けるを、備中国の住人、庄三郎・真壁四郎、三百余騎にて取篭、一人も不余打てげり。方々の寄手、或は被打或は被破て、皆桂河の辺まで引たれども、名和小次郎と小嶋備後三郎とが向ひたりける一条の寄手は、未引、懸つ返つ時移るまで戦たり。防は陶山と河野にて、責は名和と小嶋と也。小島と河野とは一族にて、名和と陶山とは知人也。日比の詞をや恥たりけん、後日の難をや思けん、死ては尸を曝すとも、逃て名をば失じと、互に命を不惜、をめき叫でぞ戦ひける。大将頭中将は、内野まで被引たりけるが、一条の手尚相支て戦半也。と聞へしかば、又神祇官の前へ引返して、使を立て小島と名和とを被喚返けり。彼等二人、陶山と河野とに向て、「今日已に日暮候ぬ。後日にこそ又見参に入らめ。」と色代して、両軍ともに引分、各東西へ去にけり。夕陽に及で軍散じければ、千種殿は本陣峯の堂に帰て、御方の手負打死を被註に、七千人に余れり。其内に、宗と憑たる大田・金持の一族以下、数百人被打畢。仍一方の侍大将とも可成者とや被思けん、小嶋備後三郎高徳を呼寄て、「敗軍の士力疲て再び難戦。都近き陣は悪かりぬと覚れば、少し堺を阻て陣を取り、重て近国の勢を集て、又京都を責ばやと思ふは、如何に計ふぞ。」と宣へば、小嶋三郎不聞敢、「軍の勝負は時の運による事にて候へば、負るも必しも不恥、只引まじき処を引かせ、可懸所を不懸を、大将の不覚とは申也。如何なれば赤松入道は、僅に千余騎の勢を以て、三箇度まで京都へ責入、叶はねば引退て、遂に八幡・山崎の陣をば去らで候ぞ。御勢縦ひ過半被打て候共、残所の兵尚六波羅の勢よりは多かるべし。此御陣後は深山にて前は大河也。敵若寄来らば、好む所の取手なるべし。穴賢、此御陣を引かんと思食す事不可然候。但御方の疲れたる弊に乗て、敵夜討に寄する事もや候はんずらんと存候へば、高徳は七条の橋爪に陣を取て相待候べし。御心安からんずる兵共を、四五百騎が程、梅津・法輪の渡へ差向て、警固をさせられ候へ。」と申置て、則小嶋三郎高徳は、三百余騎にて、七条の橋より西にぞ陣を堅めたる。千種殿は小嶋に云恥しめられて、暫は峯の堂におはしけるが、「敵若夜討にや寄せんずらん。」と云つる言に被驚て、弥臆病心や付給ひけん、夜半過る程に、宮を御馬に乗せ奉て、葉室の前を直違に、八幡を指てぞ被落ける。備後三郎、かかる事とは思ひもよらず、夜深方に峯の堂を見遣ば、星の如に耀き見へつる篝火次第に数消て、所々に焼すさめり。是はあはれ大将の落給ひぬるやらんと怪て、事の様を見ん為に、葉室大路より峯の堂へ上る処に、荻野彦六朝忠浄住寺の前に行合て、「大将已に夜部子刻に落させ給て候間、無力我等も丹後の方へと志て、罷下候也。いざゝせ給へ、打連れ申さん。」と云ければ備後三郎大に怒て、「かゝる臆病の人を大将と憑みけるこそ越度なれ。さりながらも、直に事の様を見ざらんは後難も有ぬべし。早御通り候へ。高徳は何様峯の堂へ上て、宮の御跡を奉見て追付可申。」と云て、手の者兵をば麓に留て只一人、落行勢の中を押分々々、峯の堂へぞ上りける。大将のおはしつる本堂へ入て見れば、能遽て被落けりと覚へて、錦の御旗、鎧直垂まで被捨たり。備後三郎腹を立てゝ、「あはれ此大将、如何なる堀がけへも落入て死に給へかし。」と独り言して、しばらくは尚堂の縁に歯嚼をして立たりけるが、「今はさこそ手の者共も待かねたるらめ。」と思ひければ、錦の御旗許を巻て、下人に持せ、急ぎ浄住寺の前へ走り下り、手の者打連て馬を早めければ、追分の宿の辺にて、荻野彦六にぞ追付ける。荻野は、丹波・丹後・出雲・伯耆へ落ける勢の、篠村・稗田辺に打集まて、三千余騎有けるを相伴、路次の野伏を追払て、丹波国高山寺の城にぞ楯篭りける。
○谷堂炎上事 S0808
千種頭中将は西山の陣を落給ひぬと聞へしかば、翌日四月九日、京中の軍勢、谷の堂・峰の堂已下浄住寺・松の尾・万石大路・葉室・衣笠に乱入て、仏閣神殿を打破り、僧坊民屋を追捕し、財宝を悉く運取て後、在家に火を懸たれば、時節魔風烈く吹て、浄住寺・最福寺・葉室・衣笠・三尊院、総じて堂舎三百余箇所、在家五千余宇、一時に灰燼と成て、仏像・神体・経論・聖教、忽に寂滅の煙と立上る。彼谷堂と申は八幡殿の嫡男対馬守義親が嫡孫、延朗上人造立の霊地也。此上人幼稚の昔より、武略累代の家を離れ、偏に寂寞無人の室をと給し後、戒定慧の三学を兼備して、六根清浄の功徳を得給ひしかば、法華読誦の窓の前には、松尾の明神坐列して耳を傾け、真言秘密の扉の中には、総角の護法手を束て奉仕し給ふ。かゝる有智高行の上人、草創せられし砌なれば、五百余歳の星霜を経て、末世澆漓の今に至るまで、智水流清く、法燈光明也。三間四面の輪蔵には、転法輪の相を表して、七千余巻の経論を納め奉られけり。奇樹怪石の池上には、都卒の内院を移して、四十九院の楼閣を並ぶ。十二の欄干珠玉天に捧げ、五重の塔婆金銀月を引く。恰も極楽浄土の七宝荘厳の有様も、角やと覚る許也。又浄住寺と申は、戒法流布の地、律宗作業の砌也。釈尊御入滅の刻、金棺未閉時、捷疾鬼と云鬼神、潛に双林の下に近付て、御牙を一引■て是を取る。四衆の仏弟子驚見て、是を留めんとし給ひけるに、片時が間に四万由旬を飛越て、須弥の半四天王へ逃上る。韋駄天追攻奪取、是を得て其後漢土の道宣律師に被与。自尓以来相承して我朝に渡しを、嵯峨天皇御宇に始て此寺に被奉安置。偉哉大聖世尊滅後二千三百余年の已後、仏肉猶留て広く天下に流布する事普し。かゝる異瑞奇特の大加藍を無咎して被滅けるは、偏に武運の可尽前表哉と、人皆唇を翻けるが、果して幾程も非ざるに、六波羅皆番馬にて亡び、一類悉く鎌倉にて失せける事こそ不思議なれ。「積悪の家には必有余殃」とは、加様の事をぞ可申と、思はぬ人も無りけり。


太平記

太平記巻第九
○足利殿御上洛事 S0901
先朝船上に御坐有て、討手を被差上、京都を被責由、六波羅の早馬頻に打て、事既に難儀に及由、関東に聞へければ、相摸入道大に驚て、さらば重て大勢を指上せて半は京都を警固し、宗徒は舟上を可責と評定有て、名越尾張守を大将として、外様の大名二十人を被催。其中に足利治部大輔高氏は、所労の事有て、起居未快けるを、又上洛の其数に入て、催促度々に及べり。足利殿此事に依て、心中に被憤思けるは、「我父の喪に居て三月を過ざれば、非歎の涙未乾、又病気身を侵して負薪の憂未休処に、征罰の役に随へて、被相催事こそ遺恨なれ。時移り事変じて貴賎雖易位、彼は北条四郎時政が末孫也。人臣に下て年久し。我は源家累葉の族也。王氏を出て不遠。此理を知ならば、一度は君臣の儀をも可存に、是までの沙汰に及事、偏に身の不肖による故也。所詮重て尚上洛の催促を加る程ならば、一家を尽して上洛し、先帝の御方に参て六波羅を責落して、家の安否を可定者を。」と心中に被思立けるをば、人更に知事無りけり。相摸入道は、可斯事とは不思寄、工藤左衛門尉を使にて、「御上洛延引不被心得。」一日の中両度までこそ被責けれ。足利殿は反逆の企、已に心中に被思定てげれば、中々異儀に不及、「不日に上洛可仕。」とぞ被返答ける。則夜を日に継で被打立けるに、御一族・郎従は不及申、女性幼稚の君達迄も、不残皆可有上洛と聞へければ、長崎入道円喜怪み思て、急ぎ相摸入道の方に参て申けるは、「誠にて候哉覧。足利殿こそ、御台・君達まで皆引具し進せて、御上洛候なれ。事の体怪く存候。加様の時は、御一門の疎かならぬ人にだに、御心被置候べし。況乎源家の貴族として、天下の権柄を捨給へる事年久しければ、思召立事もや候覧。異国より吾朝に至まで、世の乱たる時は、覇王諸候を集て牲を殺し血を啜て弐ろ無らん事を盟ふ。今の世の起請文是也。或は又其子を質に出して、野心の疑を散ず。木曾殿の御子、清水冠者を大将殿の方へ被出き。加様の例を存候にも、如何様足利殿の御子息と御台とをば、鎌倉に被留申て、一紙の起請文を書せ可被進とこそ存候へ。」と申ければ、相摸入道げにもとや被思けん。頓て使者を以て被申遣けるは、「東国は未だ世閑にて、御心安かるべきにて候。幼稚の御子息をば、皆鎌倉に留置進せられ候べし。次に両家の体を一にして、水魚の思を被成候上、赤橋相州御縁に成候、彼此何の不審か候べきなれ共、諸人の疑を散ぜん為にて候へば、乍恐一紙の誓言を被留置候はん事、公私に付て可然こそ存候へ。」と、被仰たりければ、足利殿、欝胸弥深かりけれ共、憤を押へて気色にも不被出、「是より御返事を可申。」とて、使者をば被返てげり。其後舎弟兵部大輔殿を被呼進て、「此事可有如何。」と意見を被訪に、且く案じて被申けるは、「今此一大事を思食立事、全く御身の為に非ず、只天に代て無道を誅し、君は御為に不義を退んと也。其上誓言は神も不受とこそ申習はして候へ。設ひ偽て起請の詞被載候共、仏神などか忠烈の志を守らせ給はで候べき。就中御子息と御台とは、鎌倉に留置進せられん事、大儀の前の少事にて候へば、強に御心を可被煩に非ず。公達未だ御幼稚に候へば、自然の事もあらん時は、其為に少々被残置郎従共、何方へも抱拘へて隠し奉り候なん。御台の御事は、又赤橋殿とても御坐候はん程は、何の御痛敷事か候べき。「大行は不顧細謹」とこそ申候へ。此等程の少事に可有猶予あらず。兎も角も相摸入道の申さん侭に随て其不審を令散、御上洛候て後、大儀の御計略を可被回とこそ存候へ。」と被申ければ、足利殿此道理に服して、御子息千寿王殿と、御台赤橋相州の御妹とをば、鎌倉に留置奉りて、一紙の起請文を書て相摸入道の方へ被遣。相摸入道是に不審を散じて喜悦の思を成し、高氏を招請有て、様々賞翫共有しに、「御先祖累代の白旌あり、是は八幡殿より代々の家督に伝て被執重宝にて候けるを、故頼朝卿の後室、二位の禅尼相伝して、当家に今まで所持候也。希代の重宝と申ながら、於他家に、無其詮候歟。是を今度の餞送に進じ候也。此旌をさゝせて、凶徒を急ぎ御退治候へ。」とて、錦の袋に入ながら、自ら是をまいらせらる。其外乗替の御為にとて、飼たる馬に白鞍置て十疋、白幅輪の鎧十領、金作の太刀一副て被引たりけり。足利殿御兄弟・吉良・上杉・仁木・細川・今河・荒河・以下の御一族三十二人、高家の一類四十三人、都合其勢三千余騎、元弘三年三月二十七日に鎌倉を立、大手の大将と被定、名越尾張守高家に三日先立て、四月十六日に京都に着給ふ。
○山崎攻事付久我畷合戦事 S0902
両六波羅は、度々の合戦に打勝ければ、西国の敵恐るに不足と欺きながら、宗徒の勇士と被憑たりける結城九郎左衛門尉は、敵に成て山崎の勢に加りぬ。其外、国々の勢共五騎十騎、或は転漕に疲て国々に帰り、或は時の運を謀て敵に属しける間、宮方は負れ共勢弥重り、武家は勝共兵日々に減ぜり。角ては如何可有と、世を危む人多かりける処に、足利・名越の両勢叉雲霞の如く上洛したりければ、いつしか人の心替て今は何事か可有と、色を直して勇合へり。かゝる処に、足利殿は京着の翌日より、伯耆の船上へ潛に使を進せて、御方に可参由を被申たりければ、君殊に叡感有て、諸国の官軍を相催し朝敵を可御追罰由の綸旨をぞ被成下ける。両六波羅も名越尾張守も、足利殿にかゝる企有とは思も可寄事ならねば、日々に参会して八幡・山崎を可被責内談評定、一々に心底を不残被尽さけるこそはかなけれ。「大行之路能摧車、若比人心夷途。巫峡之水能覆舟、若比人心是安流也。人心好悪苦不常。」とは云ながら、足利殿は代々相州の恩を戴き徳を荷て、一家の繁昌恐くは天下の肩を可並も無りけり。其上赤橋前相摸守の縁に成て、公達数た出来給ぬれば、此人よも弐はおはせじと相摸入道混に被憑けるも理也。四月二十七日には八幡・山崎の合戦と、兼てより被定ければ、名越尾張守大手の大将として七千六百余騎、鳥羽の作道より被向。足利治部大輔高氏は、搦手の大将として五千余騎、西岡よりぞ被向ける。八幡・山崎の官軍是を聞て、さらば難所に出合て不慮に戦を決せしめよとて、千種頭中将忠顕朝臣は、五百余騎にて大渡の橋を打渡り、赤井河原に被扣。結城九郎左衛門尉親光は、三百余騎にて狐河の辺に向ふ。赤松入道円心は、三千余騎にて淀・古河・久我畷の南北三箇所に陣を張。是皆強敵を拉気、天を廻し地を傾と云共、機を解き勢を被呑とも、今上の東国勢一万余騎に対して可戦とはみへざりけり。足利殿は、兼て内通の子細有けれ共、若恃やし給ふ覧とて、坊門少将雅忠朝臣は、寺戸と西岡の野伏共五六百人駆催して、岩蔵辺に被向。去程に搦手の大将足利殿は、未明に京都を立給ぬと披露有ければ、大手の大将名越尾張守、「さては早人に先を被懸ぬ。」と、不安思ひて、さしも深き久我畷の、馬の足もたゝぬ泥土の中へ馬を打入れ、我先にとぞ進みける。尾張守は、元より気早の若武者なれば、今度の合戦、人の耳目を驚す様にして、名を揚んずる者をと、兼て有増の事なれば、其日の馬物の具・笠符に至まで、当りを耀かして被出立たり。花段子の濃紅に染たる鎧直垂に、紫糸の鎧金物重く打たるを、透間もなく着下して、白星の五枚甲の吹返に、日光・月光の二天子を金と銀とにて堀透して打たるを猪頚に着成し、当家累代重宝に、鬼丸と云ける金作の円鞘の太刀に、三尺六寸の太刀を帯き添、たかうすべ尾の矢三十六指たるを、筈高に負成、黄瓦毛の馬の太く逞きに、三本唐笠を金具に磨たる鞍を置き、厚総の鞦の燃立許なるを懸け、朝日の陰に耀して、光渡てみへたるが、動ば軍勢より先に進出て、当りを払て被懸ければ、馬物具の体、軍立の様、今日の大手の大将は是なめりと、知ぬ敵は無りけり。されば敵も自余の葉武者共には目を不懸、此に開き合せ彼に攻合て、是一人を打んとしけれども、鎧よければ裏かゝする矢もなし。打物達者なれば、近付敵を切て落す。其勢ひ参然たるに辟易して、官軍数万の士卒、已に開き靡きぬとぞ見へたりける。爰に赤松の一族に佐用佐衛門三郎範家とて、強弓の矢継早、野伏戦に心きゝて、卓宣公が秘せし所を、我物に得たる兵あり。態物具を解で、歩立の射手に成、畔を伝ひ、薮を潛て、とある畔の陰にぬはれ臥、大将に近付て、一矢ねらはんとぞ待たりける。尾張守は、三方の敵を追まくり、鬼丸に着たる血を笠符にて推拭ひ、扇開仕ふて、思ふ事もなげに扣へたる処を、範家近々とねらひ寄て引つめて丁と射る。其矢思ふ矢坪を不違、尾張守が冑の真甲のはづれ、眉間の真中に当て、脳を砕骨を破て、頚の骨のはづれへ、矢さき白く射出たりける間、さしもの猛将なれ共、此矢一隻に弱て、馬より真倒にどうど落、範家箙を叩て矢呼を成し、「寄手の大将名越尾張守をば、範家が只一矢に射殺したるぞ、続けや人々。」と呼りければ、引色に成つる官軍共、是に機を直し、三方より勝時を作て攻合す。尾張守の郎従七千余騎、しどろに成て引けるが、或は大将を打せて何くへか可帰とて、引返て討死するもあり。或は深田に馬を馳こうで、叶はで自害するもあり。されば狐河の端より鳥羽の今在家まで、其道五十余町が間には、死人尺地もなく伏にけり。
○足利殿打越大江山事 S0903
追手の合戦は、今朝辰刻より始まて、馬煙東西に靡き、時の声天地を響かして攻合けれ共、搦手の大将足利殿は、桂河の西の端に下り居て、酒盛してぞおはしける。角て数刻を経て後、大手の合戦に寄手打負て、大将已に被討ぬと告たりければ、足利殿、「さらばいざや山を越ん。」とて、各馬に打乗て、山崎の方を遥の余所に見捨て、丹波路を西へ、篠村を指て馬を早められけり。爰に備前国の住人中吉十郎と、摂津国の住人に奴可四郎とは、両陣の手合に依て搦手の勢の中に在けるが、中吉十郎大江山の麓にて、道より上手に馬を打挙て、奴可四郎を呼のけて云けるは、「心得ぬ様哉、大手の合戦は火を散て、今朝の辰刻より始りたれば、搦手は芝居の長酒盛にてさて休ぬ。結句名越殿被討給ぬと聞へぬれば、丹波路を指して馬を早め給ふは、此人如何様野心を挿給歟と覚るぞ。さらんに於ては、我等何くまでか可相従。いざや是より引返て、六波羅殿に此由を申ん。」と云ければ、奴可四郎、「いしくも宣ひたり。我も事の体怪しくは存じながら、是も又如何なる配立かある覧と、兎角案じける間に、早今日の合戦には迦れぬる事こそ安からね。但此人敵に成給ぬと見ながら、只引返したらんは、余に云甲斐なく覚ゆれば、いざ一矢射て帰らん。」と云侭に、中差取て打番、轟懸てかさへ打て廻さんとしけるを、中吉、「如何なる事ぞ。御辺は物に狂ふか。我等僅に二三十騎にて、あの大勢に懸合て、犬死したらんは本意歟。嗚呼の高名はせぬに不如、唯無事故引返て、後の合戦の為に命を全したらんこそ、忠義を存たる者也けりと、後までの名も留まらんずれ。」と、再往制止ければ、げにもとや思けん、奴可四郎も中吉も、大江山より馬を引返して、六波羅へこそ打帰りけれ。彼等二人馳参て事の由を申ければ、両六波羅は、楯鉾とも被憑たりける名越尾張守は被討ぬ。是ぞ骨肉の如くなれば、さりとも弐はおはせじと、水魚の思を被成つる足利殿さへ、敵に成給ぬれば、憑む木下に雨のたまらぬ心地して、心細きに就ても、今まで着纒ひたる兵共も、又さこそはあらめと、心の被置ぬ人もなし。
○足利殿着御篠村則国人馳参事 S0904
去程に、足利殿篠村に陣を取て、近国の勢を被催けるに、当国の住人に久下弥三郎時重と云者、二百五十騎にて最前に馳参る。其旗の文、笠符に皆一番と云文字を書たりける。足利殿是を御覧じて、怪しく覚しければ、高右衛門尉師直を被召て、「久下の者共が、笠璽に一番と云を書たるは、元来の家の文歟、又是へ一番に参りたりと云符歟。」と尋給ければ、師直畏て、「由緒ある文にて候。彼が先祖、武蔵国の住人久下二郎重光、頼朝大将殿、土肥の杉山にて御旗を被揚て候ける時、一番に馳参じて候けるを、大将殿御感候て、「若我天下を持たば、一番に恩賞を可行。」と被仰て、自一番と云文字を書てたび候けるを、頓其家の文と成て候。」と答申ければ、「さては是が最初に参りたるこそ、当家の吉例なれ。」とて、御賞翫殊に甚しかりけり。元来高山寺に楯篭りたる足立・荻野・小島・和田・位田・本庄・平庄の者共許こそ、今更人の下風に可立に非ずとて、丹波より若狭へ打越て、北陸道より責上らんとは企けれ。其外久下・長沢・志宇知・山内・葦田・余田・酒井・波賀野・小山・波々伯部、其外近国の者共、一人も不残馳参りける。篠村の勢無程集て、其数既に二万三千余騎に成にけり。六波羅には是を聞て、「さては今度の合戦天下の安否たるべし。若自然に打負る事あらば、主上・々皇を取奉て、関東へ下向し、鎌倉に都を立て、重て大軍を揚、凶徒を可追討。」と評定有て、去る三月より北方の館を御所にしつらひ、院内を行幸成奉らる。梶井二品親王は天台座主にて坐ば、縦転反すとも、御身に於ては何の御怖畏か可有なれ共、当今の御連枝にて坐ば、且は玉体に近付進せて、宝祚の長久をも祈申さんとにや、是も同く六波羅へ入せ給ふ。加之国母・皇后・女院・北政所・三台・九卿・槐棘・三家の臣・文武百司の官・並竹園門徒の大衆・北面以下諸家の侍・児、女房達に至まで我も々もと参集ける間、京中は忽にさびかへり、嵐の後の木葉の如く、己が様々散行ば、白河はいつしか昌て、花一時の盛を成せり。是も幾程の夢ならん、移り変る世の在様、今更被驚も理也。「夫天子は四海を以て為家」といへり。其上六波羅とても都近き所なれば、東洛渭川の行宮、さまで御心を可被令傷には非ざれども、此君御治天の後天下遂に不穏、剰百寮忽に外都の塵に交りぬれば、是偏に帝徳の天に背きぬる故也。と、罪一人に帰して主上殊に歎被思召ければ、常は五更の天に至まで、夜のをとゞにも入せ給はず、元老智化の賢臣共を被召て、只■舜湯武の旧き迹をのみ御尋有て、会て怪力乱神の徒なる事をば不被聞食。卯月十六日は、中の申なりしか共、日吉の祭礼もなければ、国津御神も浦さびて、御贄の錦鱗徒に湖水の浪に撥辣たり。十七日は中の酉なれども、賀茂の御生所もなければ、一条大路人すみて、車を争ふ所もなし。銀面空しく塵積て、雲珠光を失へり。「祭は豊年にも不勝、凶年にも不減」とこそいへるに、開闢以来無闕如両社の祭礼も、此時に始て絶ぬれば、神慮も如何と測難く、恐有べき事共也。さて官軍は五月七日京中に寄て、合戦可有と被定ければ、篠村・八幡・山崎の先陣の勢、宵より陣を取寄て、西は梅津・桂里、南は竹田・伏見に篝を焼、山陽・山陰の両道は已に如此。又若狭路を経て、高山寺の勢共鞍馬路・高雄より寄るとも聞也。今は僅に東山道許こそ開たれども、山門猶野心を含める最中なれば、勢多をも指塞ぎぬらん。篭の中の鳥、網代の魚の如くにて、可漏方もなければ、六波羅の兵共、上には勇める気色なれ共、心は下に仰天せり。彼雲南万里の軍、「戸に有三丁抽一丁」といへり。況や又千葉屋程の小城一を責んとて、諸国の勢数を尽して被向たれ共、其城未落先に禍既に蕭牆の中より出て、義旗忽に長安の西に近付ぬ。防がんとするに勢少なく救はんとするに道塞れり。哀れ兼てよりかゝるべしとだに知たらば、京中の勢をばさのみすかすまじかりし物をと、両六波羅を始として後悔すれ共甲斐ぞなき。兼々六波羅に議しけるは、「今度諸方の敵牒合て、大勢にて寄るなれば、平場の合戦許にては叶まじ。要害を構て時々馬の足を休め、兵の機を扶て、敵近付ば、懸出々々可戦。」とて、六波羅の館を中に篭て、河原面七八町に堀を深く掘て鴨川を懸入たれば、昆明池の春の水西日を沈て、■淪たるに不異。残三方には芝築地を高く築て、櫓をかき双べ、逆木を重く引たれば、城塩州受降城も角やと覚へてをびたゝし。誠に城の構は、謀あるに似たれ共智は長ぜるに非ず。「剣閣雖高憑之者蹶。非所以深根固蔕也。洞庭雖浚負之者北。非所以愛人治国也。」とかや。今已に天下二つに分れて、安危此一挙に懸たる合戦なれば、粮を捨て舟を沈る謀をこそ致さるべきに、今日より軈て後足を蹈で纔の小城に楯篭らんと、兼て心をつかはれける、武略の程こそ悲しけれ。
○高氏被篭願書於篠村八幡宮事 S0905
去程に、明れば五月七日の寅刻に、足利治部大輔高氏朝臣、二万五千余騎を率して、篠村の宿を立給ふ。夜未だ深かりければ、閑に馬を打て、東西を見給ふ処に、篠村の宿の南に当て、陰森たる故柳疎槐の下に社壇有と覚て、焼荒たる燎の影の風なるに、宜祢が袖振鈴の音幽に聞へて神さびたり。何なる社とは知ねども、戦場に赴く門出なればとて、馬より下て甲を脱て、叢祠の前に跪き、「今日の合戦無事故、朝敵を退治する擁護の力を加へ給へ。」と祈誓を凝してぞ坐ける。時に賽しける巫に、「此社如何なる神を崇奉りたるぞ。」と問ひ給ければ、「是は中比八幡を遷し進らせてより以来、篠村の新八幡と申候也。」とぞ答申ける。足利殿、「さては当家尊崇の霊神にて御坐しけり。機感最も相応せり。宜きに随て一紙の願書を献ばや。」と宣ひければ、疋壇妙玄、鎧の引合より矢立の硯を取出して、筆を引へて是を書。其詞に曰敬白祈願事夫以八幡大菩薩者、聖代前列之宗廟、源家中興之霊神也。本地内証之月、高懸于十万億土之天、垂迹外融之光、明冠於七千余座之上。触縁雖分化、聿未享非礼之奠、垂慈雖利生、偏期宿正直之頭。偉哉為其徳矣。挙世所以尽誠也。爰承久以来、当棘累祖之家臣、平氏末裔之辺鄙、恣執四海之権柄、横振九代之猛威。剰今遷聖主於西海之浪、困貫頂於南山之雲。悪逆之甚前代未聞。是為朝敵之最。為臣之道不致命乎。又為神敵之先。為天之理不下誅乎。高氏苟見彼積悪、未遑顧匪躬、将以魚肉菲、偏当刀俎之利、義卒勠力、張旅於西南之日、上将軍鳩嶺、下臣軍篠村。共在于瑞籬之影、同出乎擁護之懐。函蓋相応。誅戮何疑。所仰百王鎮護之神約也。懸勇於石馬之汗。所憑累代帰依之家運也。寄奇於金鼠之咀。神将与義戦耀霊威。徳風加草而靡敵於千里之外、神光代剣而得勝於一戦之中。丹精有誠、玄鑒莫誤矣。敬白元弘三年五月七日源朝臣高氏敬白とぞ読上たりける。文章玉を綴て、詞明かに理濃なれば、神も定て納受し御坐す覧と、聞人皆信を凝し、士卒悉憑を懸奉けり。足利殿自筆を執て判を居給ひ、上差の鏑一筋副て、宝殿に被納ければ、舎弟直義朝臣を始として、吉良・石塔・仁木・細川・今河・荒川・高・上杉、以下相順ふ人々、我も々もと上矢一づゝ献りける間、其箭社壇に充満て、塚の如くに積挙たり。夜既に明ければ前陣進で後陣を待。大将大江山の峠を打越給ける時、山鳩一番飛来て白旗の上に翩翻す。「是八幡大菩薩の立翔て護らせ給ふ験也。此鳩の飛行んずるに任て可向。」と、被下知ければ、旗差馬を早めて、鳩の迹に付て行程に、此鳩閑に飛で、大内の旧迹、神祇官の前なる樗木にぞ留りける。官軍此奇瑞に勇で、内野を指て馳向ける道すがら、敵五騎十騎旗を巻き甲を脱で降参す。足利殿篠村を出給し時は、僅に二万余騎有しが、右近馬場を過給へば、其勢五万余騎に及べり。
○六波羅攻事 S0906
去程に六波羅には、六万余騎を三手に分て、一手をば神祇官の前に引へさせて、足利殿を防がせらる。一手をば東寺へ差向て、赤松を防がせらる。一手をば伏見の上へ向て、千種殿の被寄竹田・伏見を被支。巳の刻の始より、大手搦手同時に軍始まて、馬煙南北に靡き時の声天地を響かす。内野へは陶山と河野とに宗徒の勇士二万余騎を副て被向たれば、官軍も無左右不懸入、敵も輒不懸出両陣互に支て、只矢軍に時をぞ移しける。爰に官軍の中より、櫨匂の鎧に、薄紫の母衣懸たる武者只一騎、敵の前に馬を懸居て、高声に名乗けるは、「其身人数ならねば、名を知人よもあらじ。是は足利殿の御内に、設楽五郎左衛門尉と申者也。六波羅殿の御内に、我と思はん人あらば、懸合て手柄の程をも御覧ぜよ。」と云侭に、三尺五寸の太刀を抜、甲の真向に差簪し、誠に矢所少く馬を立て引へたり。其勢ひ一騎当千とみへたれば、敵御方互に軍を止めて見物す。爰に六波羅の勢の中より年の程五十計なる老武者の、黒糸の鎧に、五枚甲の緒を縮て、白栗毛の馬に青総懸て乗たるが、馬をしづ/゛\と歩ませて、高声に名乗けるは、「其身雖愚蒙、多年奉行の数に加はて、末席を汚す家なれば、人は定て筆とりなんど侮て、あはぬ敵とぞ思ひ給ふ覧。雖然我等が先祖をいへば、利仁将軍の氏族として、武略累葉の家業也。今某十七代の末孫に、斎藤伊予房玄基と云者也。今日の合戦敵御方の安否なれば、命を何の為に可惜。死残る人あらば、我忠戦を語て子孫に留むべし。」と云捨て、互に馬を懸合せ、鎧の袖と々とを引違へて、むずと組でどうど落つ。設楽は力勝りなれば、上に成て斎藤が頚を掻く。斎藤は心早者なりければ、挙様に設楽を三刀刺す。何れも剛の者なりければ、死して後までも、互に引組たる手を不放、共に刀を突立て、同じ枕にこそ臥たりけれ。又源氏の陣より、紺の唐綾威の鎧に、鍬形打たる甲の緒を縮め、¥¥¥五尺余の太刀を抜て肩に懸、敵の前半町計に馬を駈寄て、高声に名乗けるは、「八幡殿より以来、源氏代々の侍として、流石に名は隠なけれ共、時に取て名を被知ねば、然べき敵に逢難し。是は足利殿の御内に大高二郎重成と云者也。先日度々の合戦に高名したりと聞ゆる陶山備中守・河野対馬守はおはせぬか、出合給へ。打物して人に見物せさせん。」と云侭に、手縄かいくり、馬に白沫嚼せて引へたり。陶山は東寺の軍強しとて、俄に八条へ向ひたりければ此陣にはなし。河野対馬守許一陣に進で有けるが、大高に詞を被懸て、元来たまらぬ懸武者なれば、なじかは少しもためらうべき、「通治是に有。」と云侭に、大高に組んと相近付く。是を見て河野対馬守が猶子に、七郎通遠とて今年十六に成ける若武者、父を討せじとや思けん、真前に馳塞て、大高に押双てむずと組。大高・河野七郎が総角を掴で中に提げ、「己れ程の小者と組で勝負はすまじきぞ。」とて、差のけて鎧の笠符をみるに、其文、傍折敷に三文字を書て着たりけり。さては是も河野が子か甥歟にてぞ有らんと打見て、片手打の下切に諸膝不懸切て落し、弓だけ三杖許投たりける。対馬守最愛の猶子を目の前に討せて、なじかは命を可惜、大高に組んと諸鐙を合て馳懸る処に、河野が郎等共是を見て、主を討せじと三百余騎にてをめゐて懸る。源氏又大高を討せじと、一千余騎にて喚て懸る。源平互に入乱て黒煙を立て責戦ふ。官軍多討れて内野へはつと引。源氏荒手を入替て戦ふに、六波羅勢若干討れて河原へさつと引ば、平氏荒手を入替て、此を先途と戦ふ。一条・二条を東西へ、追つ返つ七八度が程ぞ揉合ひたる。源平両陣諸共に、互に命を惜まねば、剛臆何れとは見へざりけれ共、源氏は大勢なれば、平氏遂に打負て、六波羅を指て引退く。東寺へは、赤松入道円心、三千余騎にて寄懸たり。楼門近く成ければ、信濃守範資、鐙踏張左右を顧て、「誰かある、あの木戸、逆木、引破て捨よ。」と下知しければ、宇野・柏原・佐用・真島の早り雄の若者共三百余騎、馬を乗捨て走り寄り、城の構を見渡せば、西は羅城門の礎より、東は八条河原辺まで、五六八九寸の琵琶の甲、安郡なんどを鐫貫て、したゝかに屏を塗、前には乱杭・逆木を引懸て、広さ三丈余に堀をほり、流水をせき入たり。飛漬らんとすれば、水の深さの程を不知。渡らんとすれば橋を引たり。如何せんと案煩ひたる処に、播磨の国の住人妻鹿孫三郎長宗馬より飛で下、弓を差をろして、水の深さを探るに、末弭僅に残りたり。さては我長は立んずる物を、と思ひければ、五尺三寸の太刀を抜て肩に掛、貫脱で抛すて、かつはと飛漬りたれば、水は胸板の上へも不揚、跡に続ひたる武部七郎是を見て、「堀は浅かりけるぞ。」とて、長五尺許なる小男が、無是非飛入たれば、水は甲をぞ越たりける。長宗きつと見返て、「我総角に取着てあがれ。」と云ければ、武部七郎、妻鹿が鎧の上帯を蹈で肩に乗揚り、一刎刎て向の岸にぞ着ける。妻鹿から/\と笑て、「御辺は我を橋にして渡たるや。いで其屏引破て捨ん。」と云侭に、岸より上へづんど刎揚り、屏柱の四五寸余て見へたるに手を懸、ゑいや/\と引に一二丈掘挙げて、山の如くなる揚土、壁と共に崩れて、堀は平地に成にけり。是を見て、築垣の上に三百余箇所掻双べたる櫓より、指攻引攻射ける矢、雨の降よりも猶滋し。長宗が鎧の菱縫、甲の吹返に立所の矢、少々折懸て、高櫓の下へつ走入り、両金剛の前に太刀を倒につき、上咀して立たるは、何れを二王、何れを孫三郎とも分兼たり。東寺・西八条・針・唐橋に引へたる、六波羅の兵一万余騎、木戸口の合戦強しと騒で、皆一手に成、東寺の東門の脇より、湿雲の雨を帯て、暮山を出たるが如、ましくらに打て出たり。妻鹿も武部もすはや被討ぬと見へければ、佐用兵庫助・得平源太・別所六郎左衛門・同五郎左衛門相懸りに懸て面も不振戦ふたり。「あれ討すな殿原。」とて、赤松入道円心、嫡子信濃守範資・次男筑前守貞範・三男律師則祐・真島・上月・菅家・衣笠の兵三千余騎抜連てぞ懸りける。六波羅の勢一万余騎、七縦八横に被破て、七条河原へ被追出。一陣破て残党全からざれば、六波羅の勢竹田の合戦にも打負、木幡・伏見の軍にも負て、落行勢散々に、六波羅の城へ逃篭る。勝に乗て逃を追ふ四方の寄手五万余騎、皆一所に寄て、五条の橋爪より七条河原まで、六波羅を囲ぬる事幾千万と云数を不知。されども東一方をば態被開たり。是は敵の心を一になさで、輒く責落さん為の謀也。千種頭中将忠顕朝臣、士卒に向て被下知けるは、「此城尋常の思を成て延々に責ば、千葉屋の寄手彼を捨て、此後攻を仕つと覚るぞ。諸卒心を一にして一時が間に可責落。」と被下知ければ、出雲・伯耆の兵共、雑車二三百両取集て、轅と々とを結合せ、其上に家を壊て山の如くに積挙て、櫓の下へ指寄、一方の木戸を焼破けり。爰に梶井宮の御門徒、上林房・勝行房の同宿共、混甲にて三百余人、地蔵堂の北の門より、五条の橋爪へ打て出たりける間、坊門少将、殿法印の兵共三千余騎、僅の勢にまくり立られて、河原三町を追越る。されども山徒さすがに小勢なれば、長追しては悪かりなんとて、又城の中へ引篭る。六波羅に楯篭る所の軍勢雖少と、其数五万騎に余れり。此時若志を一にして、同時に懸出たらましかば、引立たる寄手共、足をためじとみへしか共、武家可亡運の極めにや有けん、日来名を顕せし剛の者といへ共不勇、無双強弓精兵と被云者も弓を不引して、只あきれたる許にて、此彼に村立て、落支度の外は儀勢もなし。名を惜み家を重ずる武士共だにも如此。何況主上・々皇を始進らせて、女院・皇后・北政所・月卿・雲客・児・女童・女房達に至るまで、軍と云事は未だ目にも見玉はぬ事なれば、時の声矢叫の音に懼をのゝかせ給ひて、「こは如何すべき。」と、消入計の御気色なれば、げにも理也。と御痛敷様を見進らするに就ても、両六波羅弥気を失て、惘然の体也。今まで無弐者とみへつる兵なれども、加様に城中の色めきたる様を見て、叶はじとや思ひけん、夜に入ければ、木戸を開逆木を越て、我れ先にと落行けり。義を知命を軽じて残留る兵、僅に千騎にも不足見へにけり。
○主上・々皇御沈落事 S0907
爰に糟谷三郎宗秋、六波羅殿の前に参て申けるは、「御方の御勢次第に落て、今は千騎にたらぬ程に成て候。此御勢にて大敵を防がん事は叶はじとこそ覚へ候へ。東一方をば敵未だ取まはし候はねば、主上・々皇を奉取て、関東へ御下候て後、重て大勢を以て、京都を被責候へかし。佐々木判官時信、勢多の橋を警固して候を被召具ば、御勢も不足候まじ。時信御伴仕る程ならば、近江国に於ては手差者は候まじ。美濃・尾張・三河・遠江には御敵有とも承らねば、路次は定て無為にぞ候はんずらん。鎌倉に御着候なば、逆徒の退治踵を不可回、先思召立候へかし。是程にあさまなる平城に、主上・々皇を篭進らせて、名将匹夫の鋒に名を失はせ給はん事、口惜かるべき事に候はずや。」と、再三強て申ければ、両六波羅げにもとや被思けん、「さらば先、女院・皇后・北政所を始進せて、面々の女性少き人々を、忍びやかに落して後、心閑に一方を打破て落べし。」と評定有て、小串五郎兵衛尉を以て、此由院・内へ被申たりければ、国母・皇后・女院・北政所・内侍・上童・上臈女房達に至まで、城中に篭りたるが恐さに、思はぬ別の悲しさも、後何に成行んずる様をも不知。歩跣にて我先にと迷出給ふ。只金谷園裡の春の花、一朝の嵐に被誘て、四方の霞に散行し、昔の夢に不異。越後守仲時北の方に向て宣ひけるは、「日来の間は、縦思の外に都を去事有共、何くまでも伴ひ申さんとこそ思ひつれ共、敵東西に満て、道を塞ぎぬと聞ゆれば、心安く関東まで落延ぬとも不覚。御事は女性の身なれば苦しかるまじ。松寿は未幼稚なれば、敵設見付たりとも誰が子共よもしらじ。只今の程に、夜に紛れて何方へも忍出給て、片辺土の方にも身を隠し、暫く世の静まらん程を待給ふべし。道の程事故なく関東に着なば、頓て御迎に人を可進す。若又我等道にて被討ぬと聞給はゞ、如何なる人にも相馴て、松寿を人と成し、心付なば僧に成して、我後世を問せ給へ。」と心細げに云置て、泪を流て立給ふ。北の方、越後守の鎧の袖を引へて、「などや角うたてしき言葉に聞へ侍るぞや。此折節少き者なんど引具して、しらぬ傍にやすらはゞ、誰か落人の其方様と思はざらん。又日比より知たる人の傍に立宿らば、敵に捜し被出て、我身の恥を見のみにあらず、少き者の命をさへ失はん事こそ悲しけれ。道にて思の外の事あらば、そこにてこそ共に兎も角も成はてめ。憑む陰なき木の下に、世を秋風の露の間も、被棄置進らせては、ながらうべき心地もせず。」と、泣悲み給ければ、越後守も心は猛しといへども、流石に岩木の身ならねば、慕ふ別を捨兼て、遥に時をぞ移されける。昔漢の高祖と楚の項羽と戦ふ事七十余度也。しに、項羽遂に高祖に被囲て、夜明ば討死せんとせし時に、漢の兵四面にして皆楚歌するを聞て、項羽則帳中に入り、其婦人虞氏に向て、別を慕ひ悲みを含んで、自歌作て云、力抜山兮気蓋世。時不利兮騅不逝。々々々可奈何。虞氏兮々々々奈若何。と悲歌慷慨して、項羽泪を流し給しかば、虞氏悲みに堪兼て、則自剣の上に伏し、項羽に先立て死にけり。項羽明る日の戦に、二十八騎を伴て、漢の軍四十万騎を懸破り、自漢の将軍三人が首を取て、被討残たる兵に向て、「我遂に漢の高祖が為に被亡ぬる事戦の罪に非ず、天我を亡せり。」と、自運を計て遂に烏江の辺にして自害したりしも、角やと被思知て泪を落さぬ武士はなし。南方左近将監時益は、行幸の御前を仕て打けるが、馬に乍乗北方越後守の中門際まで打寄せて、「主上早寮の御馬に被召て候に、などや長々敷打立せ給はぬぞ。」と云捨て打出ければ、仲時無力鎧の袖に取着たる北の方少き人を引放して、縁より馬に打乗り、北の門を東へ打出給へば、被捨置人々、泣々左右へ別て、東の門より迷出給ふ。行々泣悲む声遥に耳に留て、離れもやらぬ悲さに、落行前の路暮て、馬に任て歩せ行。是を限の別とは互に知ぬぞ哀なる。十四五町打延て跡を顧れば、早両六波羅の館に火懸て、一片の煙と焼揚たり。五月闇の比なれば、前後も不見暗きに、苦集滅道の辺に野伏充満て、十方より射ける矢に、左近将監時益は、頚の骨を被射て、馬より倒に落ぬ。糟谷七郎馬より下て、其矢を抜ば、忽に息止にけり。敵何くに有とも知ねば、馳合て敵を可討様もなし。又忍て落る道なれば、傍輩に知せて可返合にてもなし。只同じ枕に自害して、後世までも主従の義を重ずるより外の事はあらじと思ければ、糟谷泣々主の頚を取て錦の直垂の袖に裹み、道の傍の田の中に深く隠して則腹掻切て主の死骸の上に重て、抱着てぞ伏たりける。竜駕遥に四宮河原を過させ給ふ処に、「落人の通るぞ、打留て物具剥。」と呼声前後に聞へて、矢を射る事雨の降が如し。角ては行末とても如何有べきとて、東宮を始進らせて供奉の卿相雲客、方々へ落散給ける程に、今は僅に日野大納言資名・勧修寺中納言経顕・綾小路中納言重資・禅林寺宰相有光許ぞ竜駕の前後には被供奉ける。都を一片の暁の雲に阻て、思を万里の東の道に傾させ給へば、剣閣の遠き昔も被思召合、寿水の乱れたりし世も、角こそと叡襟を悩し玉ひ、主上・々皇も御涙更にせきあへず。五月の短夜明やらで、関の此方も闇ければ、杉の木陰に駒を駐て、暫やすらはせ給ふ処に、何くより射る共知らぬ流矢、主上の左の御肱に立にけり。陶山備中守急ぎ馬より飛下て、矢を抜て御疵を吸に、流るゝ血雪の御膚を染て、見進らするに目もあてられず。忝も万乗の主、卑匹夫の矢前に被傷て、神竜忽に釣者の網にかゝれる事、浅猿かりし世中也。去程に篠目漸明初て、朝霧僅に残れるに、北なる山を見渡せば、野伏共と覚て、五六百人が程、楯をつき鏃を支て待懸たり。是を見て面々度を失てあきれたり。爰に備前国の住人中吉弥八、行幸の御前に候けるが、敵近く馬を懸寄て、「忝も一天の君、関東へ臨幸成処に、何者なれば加様の狼籍をば仕るぞ。心ある者ならば、弓を伏せ甲を脱で、可奉通。礼儀を知ぬ奴原ならば、一々に召捕て、頚切懸て可通。」と云ければ、野伏共から/\と笑て、「如何なる一天の君にても渡らせ給へ、御運已に尽て、落させ給はんずるを、通し進らせんとは申まじ。輒く通り度思食さば、御伴の武士の馬物具を皆捨させて、御心安く落させ給へ。」と云もはてず、同音に時をどつど作る。中吉弥八是を聞て、「悪ひ奴原が振舞哉。いでほしがる物具とらせん。」と云侭に、若党六騎馬の鼻を双べて懸たりけるに、慾心熾盛の野伏共、六騎の兵に被懸立て、蛛の子を散す如く、四角八方へぞ逃散ける。六騎の兵、六方へ分て、逃るを追事各数十町也。弥八余に長追したりける程に、野伏二十余人返合て、是を中に取篭る。然共弥八少もひるまず、其中の棟梁と見へたる敵に、馳並べてむずと組、馬二疋が間へどうど落て、四五丈許高き片岸の上より、上に成下に成ころびけるが、共に組も放れずして深田の中へころび落にけり。中吉下に成てければ、挙様に一刀さゝんとて、腰刀を捜りけるにころぶ時抜てや失たりけん、鞘許有て刀はなし。上なる敵、中吉が胸板の上に乗懸て、鬢の髪を掴で、頚を掻んとしける処に、中吉刀加へに、敵の小腕を丁と掬りすくめて、「暫く聞給へ、可申事あり。御辺今は我をな恐給ふそ、刀があらばこそ、刎返して勝負をもせめ。又続く御方なければ、落重て我を助る人もあらじ。されば御辺の手に懸て、頚を取て被出さたりとも、曾実検にも及まじ、高名にも成まじ。我は六波羅殿の御雑色に、六郎太郎と云者にて候へば、見知ぬ人は候まじ。無用の下部の頚取て罪を作り給はんよりは、我命を助てたび候へ、其悦には六波羅殿の銭を隠くして、六千貫被埋たる所を知て候へば、手引申て御辺に所得せさせ奉ん。」と云ければ、誠とや思けん、抜たる刀を鞘にさし、下なる中吉を引起して、命を助るのみならず様々の引出物をし、酒なんどを勧て、京へ連て上りたれば、弥八六波羅の焼跡へ行、「正しく此に被埋たりし物を、早人が掘て取たりけるぞや。徳着け奉んと思たれば、耳のびくが薄く坐しけり。」と欺て、空笑してこそ返しけれ。中吉が謀に道開けて、主上其日は篠原の宿に着せ給ふ。此にて怪しげなる網代輿を尋出て、歩立なる武者共俄に駕輿丁の如くに成て、御輿の前後をぞ仕りける。天台座主梶井二品親王は、是まで御供申させ給ひたりけるが、行末とても道の程心安く可過共覚させ給はねば、何くにも暫し立忍ばゞやと思召て、「御門徒に誰か候。」と御尋有けれ共、「去ぬる夜の路次の合戦に、或は疵を蒙て留り、或は心替して落けるにや。中納言僧都経超、二位寺主浄勝二人より外は供奉仕りたる出世・坊官一人も候はず。」と申ければ、さては殊更長途の逆旅叶ふまじとて、是より引別て、伊勢の方へぞ赴かせ給ける。さらでだに山立多き鈴鹿山を、飼たる馬に白鞍置て被召たらんは、中々道の可為讎とて、御馬を皆宿の主じに賜て、門主は長々と蹴垂たる長絹の御衣に、檳榔の裏無を被召、経超僧都は、袙重ねたる黒衣に、水精の念珠手に持て、歩兼たる有様、如何なる人も是を見て、すはや是こそ落人よと、思はぬ者は不可有。され共山王大師の御加護にや依けん、道に行逢奉る山路の樵、野径の蘇、御手を引御腰を推て、鈴鹿山を越奉る。さて伊勢の神官なる人を、平に御憑有て御坐しけるに、神官心有て身の難に可遇をも不顧、兎角隠置進せければ、是に三十余日御忍有て、京都少し静りしかば還御成て、三四年が間は、白毫院と云処に、御遁世の体にてぞ御坐有ける。
○越後守仲時已下自害事 S0908
去程に、両六波羅京都の合戦に打負て、関東へ被落由披露有ければ、安宅・篠原・日夏・老曾・愛智川・小野・四十九院・摺針・番場・醒井・柏原、其外伊吹山の麓、鈴鹿河の辺の山立・強盜・溢者共二三千人、一夜の程に馳集て、先帝第五の宮御遁世の体にて、伊吹の麓に忍で御坐有けるを、大将に取奉て、錦の御旗を差挙げ、東山道第一の難所、番馬の宿の東なる、小山の峯に取上り、岸の下なる細道を中に夾みて待懸たり。夜明ければ越後守仲時、篠原の宿を立て、仙蹕を重山の深きに促し奉る。都を出し昨日までは、供奉の兵二千騎に余りしかども、次第に落散けるにや、今は僅に七百騎にも足ざりけり。「若跡より追懸奉る事もあらば、防矢仕れ。」とて、佐々木判官時信をば後陣に打せられ、「賊徒道を塞ぐ事あらば、打散して道を開よ。」とて、糟谷三郎に先陣を被打せ、鸞輿迹に連て、番馬の峠を越んとする処に、数千の敵道を中に夾み、楯を一面に双て、矢前をそろへて待懸たり。糟谷遥に是を見て、「思ふに当国・他国の悪党共が、落人の物具剥がんとてぞ集りたるらん。手痛く当て捨る程ならば、命を惜まで戦ふ程の事はよも非じ。只一懸に駈散して捨よ。」と云侭に、三十六騎の兵共馬の鼻を並てぞ掛たりける。一陣を堅めたる野伏五百余人、遥の峯へまくり揚られて、二陣の勢に逃加る。糟谷は一陣の軍には打勝つ、今はよも手に碍る者非じと、心安く思て、朝霧の晴行侭に、可越末の山路を遥に見渡したれば、錦の旗一流、峯の嵐に翻して、兵五六千人が程要害を前に当て待掛たり。糟谷二陣の敵大勢を見て、退屈してぞ引へたる。重て懸破んとすれば、人馬共に疲れて、敵嶮岨に支へたり。相近付て矢軍をせんとすれば、矢種皆射尽して、敵若干の大勢也。兎にも角にも可叶とも覚へざりければ、麓に辻堂の有けるに、皆下居て、後陣の勢をぞ相待ける。越後守は前陣に軍有と聞て、馬を早めて馳来給ふ。糟谷三郎、越後守に向て申けるは、「弓矢取の可死処にて死せざれば恥を見と申し習はしたるは理にて候けり。我等都にて可打死候し者が、一日の命を惜て是まで落もて来て、今云甲斐なき田夫野人の手に懸て、尸を路径の露に曝さん事こそ口惜候へ。敵此一所許にて候はゞ身命を捨て、打払ても可通候が、推量仕るに、先土岐が一族、最初より謀叛の張本にて候しかば、折を得て、美濃国をば通さじとぞ仕候はんずらん。吉良の一族も度々の召に不応して、遠江国に城郭を構て候と、風聞候しかば、出合ぬ事は候はじ。此等を敵に受ては、退治せん事、恐くは万騎の勢にても難叶。況我等落人の身と成て、人馬共に疲れ、矢の一双をも、はか/゛\しく射候べき力もなく成て候へば、何く迄か落延候べき。只後陣の佐々木を御待候て、近江国へ引返し、暫さりぬべからんずる城に楯篭て、関東勢の上洛し候はんずるを御待候へかし。」と申ければ、越後守仲時も、「此義を存ずれ共、佐々木とても今は如何なる野心か存ずらんと、憑少く覚れば、進退谷て、面々の意見を訪申さんと存ずる也。さらば何様此堂に暫く彳て、時信を待てこそ評定あらめ。」とて、五百余騎の兵共、皆辻堂の庭にぞ下居たる。佐々木判官時信は一里許引さがりて、三百余騎にて打けるが、如何なる天魔波旬の所為にてか有けん、「六波羅殿は番馬の当下にて、野伏共に被取篭て一人も不残被討給たり。」とぞ告たりける。時信、「今は可為様無りけり。」と愛智河より引返し、降人に成て京都へ上りにけり。越後守仲時、暫は時信を遅しと待給けるが、待期過て時移ければ、さては時信も早敵に成にけり。今は何くへか引返し、何くまでか可落なれば、爽に腹を切らんずる物をと、中々一途に心を取定て、気色涼くぞ見へける。其時軍勢共に向て宣ひけるは、「武運漸傾て、当家の滅亡近きに可在と見給ひながら、弓矢の名を重じ、日来の好みを不忘して、是まで着纏ひ給へる志、中々申に言は可無る。其報謝の思雖深と、一家の運已に尽ぬれば、何を以てか是を可報。今は我旁の為に自害をして、生前の芳恩を死後に報ぜんと存ずる也。仲時雖不肖也。平氏一類の名を揚る身なれば、敵共定て我首を以て、千戸侯にも募りぬらん。早く仲時が首を取て源氏の手に渡し、咎を補て忠に備へ給へ。」と、云はてざる言の下に、鐙脱で押膚脱、腹掻切て伏給ふ。糟谷三郎宗秋是を見て、泪の鎧の袖に懸りけるを押へて、「宗秋こそ先自害して、冥途の御先をも仕らんと存候つるに、先立せ給ぬる事こそ口惜けれ。今生にては命を際の御先途を見終進らせつ。冥途なればとて見放可奉に非ず。暫御待候へ。死出の山の御伴申候はん。」とて、越後守の、鞆口まで腹に突立て被置たる刀を取て、己が腹に突立、仲時の膝に抱き付、覆にこそ伏たりけれ。是を始て、佐々木隠岐前司・子息次郎右衛門・同三郎兵衛・同永寿丸・高橋九郎左衛門・同孫四郎・同又四郎・同弥四郎左衛門・同五郎・隅田源七左衛門尉・同孫五郎・同藤内左衛門尉・同与一・同四郎・同五郎・同孫八・同新左衛門尉・同又五郎・同藤六・同三郎・安藤太郎左衛門入道・同孫三郎入道・同左衛門太郎・同左衛門三郎・同十郎・同三郎・同又次郎・同新左衛門・同七郎三郎・同藤次郎・中布利五郎左衛門・石見彦三郎・武田下条十郎・関屋八郎・同十郎・黒田新左衛門・同次郎左衛門・竹井太郎・同掃部左衛門尉・寄藤十郎兵衛・皆吉左京亮・同勘解由七郎兵衛・小屋木七郎・塩屋右馬充・同八郎・岩切三郎左衛門・子息新左衛門・同四郎・浦上八郎・岡田平六兵衛・木工介入道・子息介三郎・吉井彦三郎・同四郎・壱岐孫四郎・窪二郎・糟谷弥次郎入道・同孫三郎入道・同六郎・同次郎・同伊賀三郎・同彦三郎入道・同大炊次郎・同次郎入道・同六郎・櫛橋次郎左衛門尉・南和五郎・同又五郎・原宗左近将監入道・子息彦七・同七郎・同七郎次郎・同平右馬三郎・御器所七郎・怒借屋彦三郎・西郡十郎・秋月二郎兵衛・半田彦三郎・平塚孫四郎・毎田三郎・花房六郎入道・宮崎三郎・同太郎次郎・山本八郎入道・同七郎入道・子息彦三郎・同小五郎・子息彦五郎・同孫四郎・足立源五・三河孫六・広田五郎左衛門・伊佐治部丞・同孫八・同三郎・息男孫四郎・片山十郎入道・木村四郎・佐々木隠岐判官・二階堂伊予入道・石井中務丞・子息弥三郎・同四郎・海老名四郎・同与一・弘田八郎・覚井三郎・石川九郎・子息又次郎・進藤六郎・同彦四郎・備後民部大夫・同三郎入道・加賀彦太郎・同弥太郎・三嶋新三郎・同新太郎・武田与三・満王野藤左衛門・池守藤内兵衛・同左衛門五郎・同左衛門七郎・同左衛門太郎・同新左衛門・斎藤宮内丞・子息竹丸・同宮内左衛門・子息七郎・同三郎・筑前民部大夫・同七郎左衛門・田村中務入道・同彦五郎・同兵衛次郎・信濃小外記・真上彦三郎・子息三郎・陶山次郎・同小五郎・小見山孫太郎・同五郎・同六郎次郎・高境孫三郎・塩谷弥次郎・庄左衛門四郎・藤田六郎・同七郎・金子十郎左衛門・真壁三郎・江馬彦次郎・近部七郎・能登彦次郎・新野四郎・佐海八郎三郎・藤里八郎・愛多義中務丞・子息弥次郎、是等を宗徒の者として、都合四百三十二人、同時に腹をぞ切たりける。血は其身を浸して恰黄河の流の如く也。死骸は庭に充満して、屠所の肉に不異。彼己亥の年、五千の貂錦胡塵に亡び、潼関の戦に、百万の士卒河水に溺れなんも、是にはよも過じと哀なりし事共、目もあてられず、言に詞も無りけり。主上・々皇は、此死人共の有様を御覧ずるに、肝心も御身に不傍、只あきれてぞ坐しましける。
○主上・々皇為五宮被囚給事付資名卿出家事 S0909
去程に五宮の官軍共、主上・々皇を取進らせて其日先長光寺へ入奉り、三種神器並玄象・下濃・二間の御本尊に至まで、自五宮の御方へぞ被渡ける。秦の子嬰漢祖の為に被亡て天子の璽符を頚に懸、白馬素車に乗て、■道の傍に至り給ひし亡秦の時に不異。日野大納言資名卿は、殊更当今奉公の寵臣也。しかば、如何なる憂目をか見んずらんとて、身を危ぶんで被思ければ、其辺の辻堂に遊行の聖の有ける処へおはして、可出家由を宣ひければ、聖軈て戒師と成て、無是非髪を剃落さんとしけるを、資名卿聖に向て、「出家の時は、何とやらん四句の偈を唱る事の有げに候者を。」と被仰ければ、此聖其文をや知ざりけん、「汝是畜生発菩提心。」とぞ唱たりける。三河守友俊も同く此にて出家せんとて、既に髪を洗けるが、是を聞て、「命の惜さに出家すればとて、汝は是畜生也。と唱給ふ事の悲しさよ。」と、ゑつぼに入てぞ笑ける。如此今まで付纏ひ進らせたる卿相雲客も、此彼に落留て、出家遁世して退散しける間、今は主上・春宮・両上皇の御方様とては、経顕・有光卿二人より外は供奉仕る人もなし。其外は皆見狎ぬ敵軍に前後を被打囲て、怪げなる網代輿に被召て、都へ帰上らせ給へば、見物の貴賎岐に立て、「あら不思議や、去年先帝を笠置にて生捕進らせて、隠岐の国へ流し奉りし其報、三年の中に来りぬる事の浅猿さよ。昨日は他州の憂と聞しかど、今日は我上の責に当れりとは、加様の事をや申すべき。此君も又如何なる配所へか被遷させ給て宸襟を被悩ずらんと、心あるも心なきも、見る人毎に因果歴然の理を感思して、袖をぬらさぬは無りけり。
○千葉屋城寄手敗北事 S0910
去程に昨日の夜、六波羅已に被責落て、主上・々皇皆関東へ落させ給ぬと、翌日の午刻に、千葉屋へ聞へたりければ、城中には悦び勇で、唯篭の中の鳥の、出て林に遊ぶ悦をなし、寄手は牲に赴く羊の、被駆て廟に近づく思を成す。何様一日も遅く引かば、野伏弥勢重りて、山中の路可難儀とて、十日の早旦に、千葉屋の寄手十万余騎、南都の方へと引て行く。前には兼て野臥充満たり。跡よりは又敵急に追懸る。都て大勢の引立たる時の癖なれば、弓矢を取捨て、親子兄弟を離て、我先にと逃ふためきける程に、或は道もなき岩石の際に行つまりて腹を切り、或は数千丈深き谷の底へ落入て、骨を微塵に打摧く者、幾千万と云数を不知。始御方の勢を帰さじとて、寄手の方より警固を居、谷合の関・逆木も引除て通る人無ければ、被関落ては馬に離れ、倒れては人に被蹈殺。二三里が間の山路を、数万の敵に被追立て一軍もせで引しかば、今朝まで十万余騎と見へつる寄手の勢、残少なに被討成、僅に生たる軍勢も、馬物具を捨ぬは無りけり。されば今に至るまで、金剛山の麓、東条谷の路の辺には、矢の孔の刀の疵ある白骨、収る人もなければ、苔に纏れて塁々たり。されども宗徒の大将達は、一人も道にては不被討して生たる甲斐はなけれ共、其日の夜半許に、南都にこそ被落着けれ。


太平記

太平記巻第十
○千寿王殿被落大蔵谷事 S1001
足利治部大輔高氏敵に成給ぬる事、道遠ければ飛脚未到来、鎌倉には曾て其沙汰も無りけり。斯し処に元弘三年五月二日の夜半に、足利殿の二男千寿王殿、大蔵谷を落て行方不知成給けり。依之鎌倉中の貴賎、すはや大事出来ぬるはとて騒動不斜。京都の事は道遠に依て未だ分明の説も無ければ、毎事無心元とて、長崎勘解由左衛門入道と諏方木工左衛門入道と、両使にて被上ける処に、六波羅の早馬、駿河の高橋にてぞ行合ける。「名越殿は被討給、足利殿は敵に成給ぬ。」と申ければ、「さては鎌倉の事も不審。」とて、両使は取て返し、関東へぞ下ける。爰に高氏の長男竹若殿は、伊豆の御山に御座けるが、伯父の宰相法印良遍、児・同宿十三人山伏の姿に成て、潛に上洛し給けるが、浮嶋が原にて、彼両使にぞ行合給ける。諏方・長崎生取奉んと思処に、宰相法印無是非馬上にて腹切て、道の傍にぞ臥給ける。長崎、「去ばこそ内に野心のある人は、外に遁るゝ無辞。」とて、若竹殿を潛に指殺し奉り、同宿十三人をば頭を刎て、浮嶋が原に懸てぞ通りける。
○新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事 S1002
懸ける処に、新田太郎義貞、去三月十一日先朝より綸旨を給たりしかば、千剣破より虚病して本国へ帰り、便宜の一族達を潛に集て、謀反の計略をぞ被回ける。懸る企有とは不思寄、相摸入道、舎弟の四郎左近大夫入道に十万余騎を差副て京都へ上せ、畿内・西国の乱を可静とて、武蔵・上野・安房・上総・常陸・下野六箇国の勢をぞ被催ける。其兵粮の為にとて、近国の庄園に、臨時の天役を被懸ける。中にも新田庄世良田には、有徳の者多しとて、出雲介親連、黒沼彦四郎入道を使にて、「六万貫を五日中可沙汰。」と、堅く下知せられければ、使先彼所に莅で、大勢を庄家に放入て、譴責する事法に過たり。新田義貞是を聞給て、「我館の辺を、雑人の馬蹄に懸させつる事こそ返々も無念なれ、争か乍見可怺。」とて数多の人勢を差向られて、両使を忽生取て、出雲介をば誡め置き、黒沼入道をば頚を切て、同日の暮程に世良田の里中にぞ被懸たる。相摸入道此事を聞て、大に忿て宣けるは、「当家執世已に九代、海内悉其命に不随と云事更になし。然に近代遠境動ば武命に不随、近国常に下知を軽ずる事奇怪也。剰藩屏の中にして、使節を誅戮する条、罪科非軽に。此時若緩々の沙汰を致さば、大逆の基と成ぬべし。」とて、則武蔵・上野両国の勢に仰て、「新田太郎義貞・舎弟脇屋次郎義助を討て可進す。」とぞ被下知ける。義貞是を聞て、宗徒の一族達を集て、「此事可有如何。」と評定有けるに、異儀区々にして不一定。或は、沼田圧を要害にして、利根河を前に当て敵を待ん。」と云義もあり。又、「越後国には大略当家の一族充満たれば、津張郡へ打超て、上田山を伐塞ぎ、勢を付てや可防。」と意見不定けるを、舎弟脇屋次郎義助暫思案して、進出て被申けるは、「弓矢の道、死を軽じて名を重ずるを以て義とせり。就中相摸守天下を執て百六十余年、于今至まで武威盛に振て、其命を重ぜずと云処なし。されば縦戸祢川をさかうて防共、運尽なば叶まじ。又越後国の一族を憑たり共、人の意不和ならば久き謀に非ず。指たる事も仕出さぬ物故に、此彼へ落行て、新田の某こそ、相摸守の使を切たりし咎に依て、他国へ逃て被討たりしかなんど、天下の人口に入らん事こそ口惜けれ。とても討死をせんずる命を謀反人と謂れて、朝家の為に捨たらんは、無らん跡までも、勇は子孫の面を令悦名は路径の尸を可清む。先立て綸旨を被下ぬるは何の用にか可当。各宣旨を額に当て、運命を天に任て、只一騎也共国中へ打出て、義兵を挙たらんに勢付ば軈て鎌倉を可責落。勢不付ば只鎌倉を枕にして、討死するより外の事やあるべき。と、義を先とし勇を宗として宣しかば、当座の一族三十余人、皆此義にぞ同じける。さらば軈て事の漏れ聞へぬ前に打立とて、同五月八日の卯刻に、生品明神の御前にて旗を挙、綸旨を披て三度是を拝し、笠懸野へ打出らる。相随ふ人々、氏族には、大館次郎宗氏・子息孫次郎幸氏・二男弥次郎氏明・三男彦二郎氏兼・堀口三郎貞満・舎弟四郎行義・岩松三郎経家・里見五郎義胤・脇屋次郎義助・江田三郎光義・桃井次郎尚義、是等を宗徒の兵として、百五十騎には過ざりけり。此勢にては如何と思ふ処に、其日の晩景に利根河の方より、馬・物具爽に見へたりける兵二千騎許、馬煙を立て馳来る。すはや敵よと目に懸て見れば、敵には非ずして、越後国の一族に、里見・鳥山・田中・大井田・羽川の人々にてぞ坐しける。義貞大に悦て、馬を扣て宣けるは、「此事兼てより其企はありながら、昨日今日とは存ぜざりつるに、俄に思立事の候ひつる間、告申までなかりしに、何として存ぜられける。」と問給ひければ、大井田遠江守鞍壷に畏て被申けるは、「依勅定大儀を思召立るゝ由承候はずば、何にとして加様に可馳参候。去五日御使とて天狗山伏一人、越後の国中を一日の間に、触廻て通候し間、夜を日に継で馳参て候。境を隔たる者は、皆明日の程にぞ参着候はんずらん。他国へ御出候はゞ、且く彼勢を御待候へかし。」と被申て、馬より下て各対面色代して、人馬の息を継せ給ける処に、後陣の越後勢並甲斐・信濃の源氏共、家々の旗を指連て、其勢五千余騎夥敷く見へて馳来。義貞・義助不斜悦て、「是偏八幡大菩薩の擁護による者也。且も不可逗留。」とて、同九日武蔵国へ打越給ふに、紀五左衛門、足利殿の御子息千寿王殿を奉具足、二百余騎にて馳着たり。是より上野・下野・上総・常陸・武蔵の兵共不期に集り、不催に馳来て、其日の暮程に、二十万七千余騎甲を並べ扣たり。去ば四方八百里に余れる武蔵野に、人馬共に充満て、身を峙るに処なく、打囲だる勢なれば、天に飛鳥も翔る事を不得、地を走る獣も隠んとするに処なし。草の原より出る月は、馬鞍の上にほのめきて冑の袖に傾けり。尾花が末を分る風は、旗の影をひらめかし、母衣の手静る事ぞなき。懸しかば国々の早馬、鎌倉へ打重て、急を告る事櫛の歯を引が如し。是を聞て時の変化をも計らぬ者は、「穴こと/゛\し、何程の事か可有。唐土・天竺より寄来といはゞ、げにも真しかるべし。我朝秋津嶋の内より出て、鎌倉殿を亡さんとせん事蟷螂遮車、精衛填海とするに不異。」と欺合り。物の心をも弁たる人は、「すはや大事出来ぬるは。西国・畿内の合戦未静ざるに大敵又藩籬の中より起れり。是伍子胥が呉王夫差を諌しに、晋は瘡■にして越は腹心の病也。と云しに不異。」と恐合へり。去程に京都へ討手を可被上事をば閣て、新田殿退治の沙汰計也。同九日軍の評定有て翌日の巳刻に、金沢武蔵守貞将に、五万余騎を差副て、下河辺へ被下。是は先上総・下総の勢を付て、敵の後攻をせよと也。一方へは桜田治部大輔貞国を大将にて、長崎二郎高重・同孫四郎左衛門・加治二郎左衛門入道に、武蔵・上野両国の勢六万余騎を相副て、上路より入間河へ被向。是は水沢を前に当て敵の渡さん処を討と也。承久より以来東風閑にして、人皆弓箭をも忘たるが如なるに、今始て干戈動す珍しさに、兵共こと/゛\敷此を晴と出立たりしかば、馬・物具・太刀・刀、皆照耀許なれば、由々敷見物にてぞ有ける。路次に両日逗留有て、同十一日の辰刻に、武蔵国小手差原に打臨給ふ。爰にて遥に源氏の陣を見渡せば、其勢雲霞の如くにて、幾千万騎共可云数を不知。桜田・長崎是を見て、案に相違やしたりけん、馬を扣て不進得。義貞忽に入間河を打渡て、先時の声を揚、陣を勧め、早矢合の鏑をぞ射させける。平家も鯨波を合せて、旗を進めて懸りけり。初は射手を汰て散々に矢軍をしけるが、前は究竟の馬の足立也。何れも東国そだちの武士共なれば、争でか少しもたまるべき、太刀・長刀の鋒をそろへ馬の轡を並て切て入。二百騎・三百騎・千騎・二千騎兵を添て、相戦事三十余度に成しかば、義貞の兵三百余騎被討、鎌倉勢五百余騎討死して、日已に暮ければ、人馬共に疲たり。軍は明日と約諾して、義貞三里引退て、入間河に陣をとる。鎌倉勢も三里引退て、久米河に陣をぞ取たりける。両陣相去る其間を見渡せば三十余町に足ざりけり。何れも今日の合戦の物語して、人馬の息を継せ、両陣互に篝を焼て、明るを遅と待居たり。夜既に明ぬれば、源氏は平家に先をせられじと、馬の足を進て久米河の陣へ押寄る。平家も夜明けば、源氏定て寄んずらん、待て戦はゞ利あるべしとて、馬の腹帯を固め甲の緒を縮め、相待とぞみへし。両陣互に寄合せて、六万余騎の兵を一手に合て、陽に開て中にとり篭んと勇けり。義貞の兵是を見て、陰に閉て中を破れじとす。是ぞ此黄石公が虎を縛する手、張子房が鬼を拉ぐ術、何れも皆存知の道なれば、両陣共に入乱て、不被破不被囲して、只百戦の命を限りにし、一挙に死をぞ争ひける。されば千騎が一騎に成までも、互に引じと戦けれ共、時の運にやよりけん、源氏は纔に討れて平家は多く亡にければ、加治・長崎二度の合戦に打負たる心地して、分陪を差して引退く。源氏猶続て寄んとしけるが、連日数度の戦に、人馬あまた疲たりしかば、一夜馬の足を休めて、久米河に陣を取寄て、明る日をこそ待たりけれ。去程に桜田治部大輔貞国・加治・長崎等十二日の軍に打負て引退由鎌倉へ聞へければ、相摸入道・舎弟の四郎左近大夫入道恵性を大将軍として、塩田陸奥入道・安保左衛門入道・城越後守・長崎駿河守時光・左藤左衛門入道・安東左衛門尉高貞・横溝五郎入道・南部孫二郎・新開左衛門入道・三浦若狭五郎氏明を差副て、重て十万余騎を被下、其勢十五日の夜半許に、分陪に着ければ、当陣の敗軍又力を得て勇進まんとす。義貞は敵に荒手の大勢加りたりとは不思寄。十五日の夜未明に、分陪へ押寄て時を作る。鎌倉勢先究竟の射手三千人を勝て面に進め、雨の降如散々に射させける間、源氏射たてられて駈ゑず。平家是に利を得て、義貞の勢を取篭不余とこそ責たりけれ。新田義貞逞兵を引勝て、敵の大勢を懸破ては裏へ通り、取て返ては喚て懸入、電光の如激、蜘手・輪違に、七八度が程ぞ当りける。されども大敵而も荒手にて、先度の恥を雪めんと、義を専にして闘ひける間、義貞遂に打負て堀金を指て引退く。其勢若干被討て痛手を負者数を不知。其日軈て追てばし寄たらば、義貞爰にて被討給ふべかりしを、今は敵何程の事か可有、新田をば定て武蔵・上野の者共が、討て出さんずらんと、大様に憑で時を移す。是ぞ平家の運命の尽ぬる処のしるし也。
○三浦大多和合戦意見事 S1003
懸し程に、義貞も無為方思召ける処へ、三浦大多和平六左衛門義勝は、兼てより義貞に志有しかば、相摸国の勢松田・河村・土肥・土屋・本間・渋谷を具足して、以上其勢六千余騎、十五日の晩景に、義貞の陣へ馳参る。義貞大に悦て、急ぎ対面有て、礼を厚くし、席を近付て、合戦の意見をぞ被訪ける。平六左衛門畏て申けるは、「今天下二つに分れて、互の安否を合戦の勝負に懸たる事にて候へば、其雌雄十度も二十も、などか無ては候べき。但始終の落居は天命の帰する処にて候へば、遂に太平を被致事、何の疑か候べき。御勢に義勝が勢を合て戦はんに、十万余騎、是も猶敵の勢に不及候と云ども、今度の合戦に一勝負せでは候べき。」と申ければ、義貞も、「いさとよ、当手の疲たる兵を以て、大敵の勇誇たるに懸らん事は、如何。」と宣ひけるを、義勝重て申けるは、「今日の軍には治定可勝謂れ候。其故は、昔秦と楚と国を争ひける時、楚の将軍武信君、纔に八万余騎の勢を以て、秦の将軍李由が八十万騎の勢に打勝、首を切事四十余万也。是より武信君心驕り軍懈て秦の兵を恐るゝに不足と思へり。楚の副将軍に宋義と云ける兵是を見て、「戦に勝て将驕り卒惰る時は必破と云へり。武信君今如此。不亡何をか待ん。」と申けるが、果して後の軍に、武信君秦の左将軍章邯が為に被討て忽に一戦に亡にけり。義勝昨日潛に人を遣して敵の陣を見するに、其将驕れる事武信君に不異。是則宋義が謂し所に不違。所詮明日の御合戦には、義勝荒手にて候へば一方の前を承て、敵を一当々て見候はん。」と申ければ、義貞誠に心に服し、宜に随ひ、則今度の軍の成敗をば三浦平六左衛門にぞ被許ける。明れば五月十六日の寅刻に、三浦四万余騎が真前に進んで、分陪河原へ押寄る。敵の陣近く成まで態と旗の手をも不下、時の声をも不挙けり。是は敵を出抜て、手攻の勝負を為決也。如案敵は前日数箇度の戦に人馬皆疲たり。其上今敵可寄共不思懸ければ、馬に鞍をも不置、物具をも不取調、或は遊君に枕を双て帯紐を解て臥たる者あり、或は酒宴に酔を被催て、前後を不知寝たる者もあり。只一業所感の者共が招自滅不異。爰に寄手相近づくを見て、河原面に陣を取たる者、「只今面より旗を巻て、大勢の閑に馬を打て来れば、若敵にてや有らん。御要心候へ。」と告たりければ、大将を始て、「さる事あり、三浦大多和が相摸国勢を催て、御方へ馳参ずると聞へしかば、一定参たりと覚るぞ。懸る目出度事こそなけれ。」とて、驚者一人もなし。只兎にも角にも、運命の尽ぬる程こそ浅猿けれ。去程に義貞、三浦が先懸に追すがふて、十万余騎を三手に分け、三方より推寄て、同く時を作りける。恵性時の声に驚て、「馬よ物具よ。」と周章騒処へ、義貞・義助の兵縦横無尽に懸け立る。三浦平六是に力を得て、江戸・豊嶋・葛西・河越、坂東の八平氏、武蔵の七党を七手になし、蜘手・輪違・十文字に、不余とぞ攻たりける。四郎左近大夫入道、大勢也。といへ共、三浦が一時の計に被破て、落行勢は散々に、鎌倉を指して引退く。討るゝ者は数を不知。大将左近大夫入道も、関戸辺にて已に討れぬべく見へけるを、横溝八郎蹈止て、近付敵二十三騎時の間に射落し、主従三騎打死す。安保入道々堪父子三人相随ふ兵百余人、同枕に討死す。其外譜代奉公の郎従、一言芳恩の軍勢共、三百余人引返し、討死しける間に、大将四郎左近大夫入道は、其身に無恙してぞ山内まで被引ける。長崎二郎高重、久米河の合戦に、組で討たりし敵の首二、切て落したりし敵の首十三、中間・下部に取持せて、鎧に立処の箭をも未抜、疵のろより流るゝ血に、白糸の鎧忽に火威に染成て、閑々と鎌倉殿の御屋形へ参り中門に畏りたりければ、祖父の入道世にも嬉しげに打見て出迎、自疵を吸血を含で、泪を流て申けるは、「古き諺に「見子不如父」いへども、我先汝を以て、上の御用に難立者也。と思て、常に不孝を加し事、大なる誤也。汝今万死を出て一生に遇、堅を摧きける振舞、陳平・張良が為難処を究め得たり。相構て今より後も、我が一大事と合戦して父祖の名をも呈し、守殿の御恩をも報じ申候へ。」と、日来の庭訓を翻して只今の武勇を感じければ、高重頭を地に付て、両眼に泪をぞ浮べける。かゝる処に、六波羅没落して、近江の番馬にて、悉く自害のよし告来ければ、只今大敵と戦中に、此事をきいて、大火を打消て、あきれ果たる事限なし。其所従・眷属共是を聞て、泣歎き憂悲むこと、喩をとるに物なし。何にたけく勇める人々も、足手もなゆる心地して東西をもさらに弁へず。然といへども、此大敵を退てこそ、京都へも討手を上さんずれとて、先鎌倉の軍評定をぞせられける。此事敵にしらせじとせしかども、隠あるべき事ならねばやがて聞へて、哀潤色やと、悦び勇まぬ者はなし。
○鎌倉合戦事 S1004
去程に、義貞数箇度の闘に打勝給ぬと聞へしかば、東八箇国の武士共、順付事如雲霞。関戸に一日逗留有て、軍勢の着到を着られけるに、六十万七千余騎とぞ注せる。こゝにて此勢を三手に分て、各二人の大将を差副へ、三軍の帥を令司ら、其一方には大館二郎宗氏を左将軍として、江田三郎行義を右将軍とす。其勢総て十万余騎、極楽寺の切通へぞ向はれける。一方には堀口三郎貞満を上将軍とし、大嶋讚岐守々之を裨将軍として、其勢都合十万余騎、巨福呂坂へ指向らる。其一方には、新田義貞・義助、諸将の命を司て、堀口・山名・岩松・大井田・桃井・里見・鳥山・額田・一井・羽川以下の一族達を前後左右に囲せて、其勢五十万七千余騎、粧坂よりぞ被寄ける。鎌倉中の人々は昨日・一昨日までも、分陪・関戸に合戦有て、御方打負ぬと聞へけれ共、猶物の数共不思、敵の分際さこそ有らめと慢て、強に周章たる気色も無りけるに、大手の大将にて向れたる四郎左近大夫入道僅に被討成て、昨日の晩景に山内へ引返されぬ。搦手の大将にて、下河辺へ被向たりし金沢武蔵守貞将は、小山判官・千葉介に打負て、下道より鎌倉へ引返し給ければ、思の外なる珍事哉と、人皆周章しける処に、結句五月十八日の卯刻に、村岡・藤沢・片瀬・腰越・十間坂・五十余箇所に火を懸て、敵三方より寄懸たりしかば、武士東西に馳替、貴賎山野に逃迷ふ。是ぞ此霓裳一曲の声の中に、漁陽の■鼓動地来り、烽火万里の詐の後に、戎狄の旌旗天を掠て到けん、周の幽王の滅亡せし有様、唐の玄宗傾廃せし為体も、角こそは有つらんと、被思知許にて涙も更に不止、浅猿かりし事共也。去程に義貞の兵三方より寄と聞へければ、鎌倉にも相摸左馬助高成・城式部大輔景氏・丹波左近太夫将監時守を大将として、三手に分てぞ防ける。其一方には金沢越後左近太夫将監を差副て、安房・上総・下野の勢三万余騎にて粧坂を堅めたり。一方には大仏陸奥守貞直を大将として、甲斐・信濃・伊豆・駿河の勢を相随へて、五万余騎、極楽寺の切通を堅めたり。一方には赤橋前相摸守盛時を大将として、武蔵・相摸・出羽・奥州の勢六万余騎にて、州崎の敵に被向。此外末々の平氏八十余人、国々の兵十万騎をば、弱からん方へ可向とて、鎌倉中に被残たり。去程に同日の巳刻より合戦始て、終日終夜責戦ふ。寄手は大勢にて、悪手を入替々々責入ければ、鎌倉方には防場殺所なりければ、打出々々相支て戦ける。されば三方に作る時の声両陣に呼箭叫は、天を響し地を動す。魚鱗に懸り鶴翼に開て、前後に当り左右を支へ、義を重じ命を軽じて、安否を一時に定め、剛臆を累代に可残合戦なれば、子被討共不扶、親は乗越て前なる敵に懸り、主被射落共不引起、郎等は其馬に乗て懸出、或は引組で勝負をするもあり、或は打替て共に死するもありけり。其猛卒の機を見に、万人死して一人残り、百陣破て一陣に成共、いつ可終軍とは見へざりけり。
○赤橋相摸守自害事付本間自害事 S1005¥¥¥
懸ける処、赤橋相摸守、今朝は州崎へ被向たりけるが、此陣の軍剛して、一日一夜の其間に、六十五度まで切合たり。されば数万騎有つる郎従も、討れ落失る程に、僅に残る其勢三百余騎にぞ成にける。侍大将にて同陣に候ける南条左衛門高直に向て宣ひけるは、「漢・楚八箇年の闘に、高祖度ごとに討負給たまひしか共、一度烏江の軍に利を得て却て項羽を被亡き。斉・晋七十度の闘に、重耳更に勝事無りしか共、遂に斉境の闘に打勝て、文公国を保てり。されば万死を出て一生を得、百回負て一戦に利あるは、合戦の習也。今此戦に敵聊勝に乗るに以たりといへ共、さればとて当家の運今日に窮りぬとは不覚。雖然盛時に於ては、一門の安否を見果る迄もなく、此陣頭にて腹を切んと思ふ也。其故は、盛時足利殿に女性方の縁に成ぬる間、相摸殿を奉始、一家の人々、さこそ心をも置給らめ。是勇士の所恥也。彼田広先生は、燕丹に被語はし時、「此事漏すな」と云れて、為散其疑、命を失て燕丹が前に死たりしぞかし。此陣闘急にして兵皆疲たり。我何の面目か有て、堅めたる陣を引て而も嫌疑の中に且く命を可惜。」とて、闘未半ざる最中に、帷幕の中に物具脱捨て腹十文字に切給て北枕にぞ臥給ふ。南条是を見て、「大将已に御自害ある上は士卒誰れが為に命を可惜。いでさらば御伴申さん。」とて、続て腹を切ければ、同志の侍九十余人、上が上に重り伏て、腹をぞ切たりける。さてこそ十八日の晩程に州崎一番に破れて、義貞の官軍は山内まで入にけり。懸処に本間山城左衛門は、多年大仏奥州貞直の恩顧の者にて、殊更近習しけるが、聊勘気せられたる事有て、不被免出仕、未だ己が宿所にぞ候ける。已五月十九日の早旦に、極楽寺の切通の軍破れて敵攻入なんど聞へしかば、本間山城左衛門・若党中間百余人、是を最後と出立て極楽寺坂へぞ向ひける。敵の大将大館二郎宗氏が、三万余騎にて扣たる真中へ懸入て、勇誇たる大勢を八方へ追散し、大将宗氏に組んと透間もなくぞ懸りける。三万余騎の兵共須臾の程に分れ靡き、腰越までぞ引たりける。余りに手繁く進で懸りしかば、大将宗氏は取て返し思ふ程闘て、本間が郎等と引組で、差違へてぞ伏給ひける。本間大に悦で馬より飛で下り、其頚を取て鋒に貫き、貞直の陣に馳参じ、幕の前に畏て、「多年の奉公多日の御恩此一戦を以て奉報候。又御不審の身にて空く罷成候はゞ、後世までの妄念共成ぬべう候へば、今は御免を蒙て、心安冥途の御先仕候はん。」と申もはてず、流るゝ泪を押へつゝ、腹掻切てぞ失にける。「「三軍をば可奪帥」とは彼をぞ云べき。「以徳報怨」とは是をぞ申べき。はづかしの本間が心中や。」とて、落る泪を袖にかけながら、「いざや本間が志を感ぜん。」とて、自打出られしかば、相順兵も泪を流さぬは無りけり。
○稲村崎成干潟事 S1006
去程に、極楽寺の切通へ被向たる大館次郎宗氏、本間に被討て、兵共片瀬・腰越まで、引退ぬと聞へければ、新田義貞逞兵に万余騎を率して、二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかきて横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。と見給ければ、義貞馬より下給て、甲を脱で海上を遥々と伏拝み、竜神に向て祈誓し給ける。「伝奉る、日本開闢の主、伊勢天照太神は、本地を大日の尊像に隠し、垂跡を滄海の竜神に呈し給へりと、吾君其苗裔として、逆臣の為に西海の浪に漂給ふ。義貞今臣たる道を尽ん為に、斧鉞を把て敵陣に臨む。其志偏に王化を資け奉て、蒼生を令安となり。仰願は内海外海の竜神八部、臣が忠義を鑒て、潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に令開給へ。」と、至信に祈念し、自ら佩給へる金作の太刀を抜て、海中へ投給けり。真に竜神納受やし給けん、其夜の月の入方に、前々更に干る事も無りける稲村崎、俄に二十余町干上て、平沙渺々たり。横矢射んと構ぬる数千の兵船も、落行塩に被誘て、遥の澳に漂へり。不思議と云も無類。義貞是を見給て、「伝聞、後漢の弐師将軍は、城中に水尽渇に被責ける時、刀を抜て岩石を刺しかば、飛泉俄に湧出き。我朝の神宮皇后は、新羅を責給し時自ら干珠を取、海上に抛給しかば、潮水遠退て終戦に勝事を令得玉ふと。是皆和漢の佳例にして古今の奇瑞に相似り。進めや兵共。」と被下知ければ、江田・大館・里見・鳥山・田中・羽河・山名・桃井の人々を始として、越後・上野・武蔵・相摸の軍勢共、六万余騎を一手に成て、稲村が崎の遠干潟を真一文字に懸通て、鎌倉中へ乱入る。数多の兵是を見て、後なる敵に懸らんとすれば、前なる寄手迹に付て攻入んとす。前なる敵を欲防と、後の大勢道を塞で欲討と。進退失度、東西に心迷て、墓々敷敵に向て、軍を至す事は無りけり。爰に嶋津四郎と申しは、大力の聞へ有て、誠に器量事がら人に勝れたりければ、御大事に逢ぬべき者也。とて、執事長崎入道烏帽子々にして一人当千と被憑たりければ、詮度の合戦に向んとて未だろ々の防場へは不被向、態相摸入道の屋形の辺にぞ被置ける。懸る処に浜の手破て、源氏已に若宮小路まで攻入たりと騒ぎければ、相摸入道、嶋津を呼寄て、自ら酌を取て酒を進め三度傾ける時、三間の馬屋に被立たりける関東無双の名馬白浪と云けるに、白鞍置てぞ被引ける。見る人是を不浦山と云事なし。嶋津、門前より此馬にひたと打乗て、由井浜の浦風に、濃紅の大笠注を吹そらさせ、三物四物取付て、あたりを払て馳向ければ、数多の軍勢是を見て、誠に一騎当千の兵也。此間執事の重恩を与へて、傍若無人の振舞せられたるも理り哉、と思はぬ人はなかりけり。義貞の兵是を見て、「あはれ敵や。」と罵りければ、栗生・篠塚・畑・矢部・堀口・由良・長浜を始として、大力の覚へ取たる悪者共、我先に彼武者と組で勝負を決せんと、馬を進めて相近づく。両方名誉の大力共が、人交もせず軍する、あれ見よとのゝめきて、敵御方諸共に、難唾を呑で汗を流し、是を見物してぞ扣へたる。懸る処に島津馬より飛で下り、甲を脱で閑々と身繕をする程に、何とするぞと見居たれば、をめ/\と降参して、義貞の勢にぞ加りける。貴賎上下是を見て、誉つる言を翻して、悪まぬ者も無りけり。是を降人の始として、或は年来重恩の郎従、或は累代奉公の家人とも、主を棄て降人になり、親を捨て敵に付、目も不被当有様なり。凡源平威を振ひ、互に天下を争はん事も、今日を限りとぞ見へたりける。
○鎌倉兵火事付長崎父子武勇事 S1007
去程に、浜面の在家並稲瀬河の東西に火を懸たれば、折節浜風烈吹布て、車輪の如くなる炎、黒煙の中に飛散て、十町二十町が外に燃付事、同時に二十余箇所也。猛火の下より源氏の兵乱入て、度方を失へる敵共を、此彼に射伏切臥、或引組差違、或生捕分捕様々也。煙に迷る女・童部共、被追立て火の中堀の底共不云、逃倒れたる有様は、是や此帝尺宮の闘に、修羅の眷属共天帝の為に被罰て、剣戟の上に倒伏阿鼻大城の罪人が獄卒の槍に被駆て、鉄湯の底に落入る覧も、角やと被思知て、語るに言も更になく、聞に哀を催して、皆泪にぞ咽ける。去程に余煙四方より吹懸て、相摸入道殿の屋形近く火懸りければ、相摸入道殿千余騎にて、葛西が谷に引篭り給ければ、諸大将の兵共は、東勝寺に充満たり。是は父祖代々の墳墓の地なれば、爰にて兵共に防矢射させて、心閑に自害せん也。中にも長崎三郎左衛門入道思元・子息勘解由左衛門為基二人は、極楽寺の切通へ向て、責入敵を支て防けるが、敵の時の声已に小町口に聞へて、鎌倉殿へ御屋形に、火懸りぬと見へしかば、相随ふ兵七千余騎をば、猶本の責口に残置き、父子二人が手勢六百余騎を勝て、小町口へぞ向ける。義貞の兵是を見て、中に取篭て討んとす。長崎父子一所に打寄て魚鱗に連ては懸破り、虎韜に別ては追靡け、七八度が程ぞ揉だりける。義貞の兵共蜘手・十文字に被懸散て、若宮小路へ颯と引て、人馬に息をぞ継せける。懸る処に、天狗堂と扇が谷に軍有と覚て、馬煙夥敷みへければ、長崎父子左右へ別て、馳向はんとしけるが、子息勘解由左衛門、是を限と思ければ、名残惜げに立止て、遥に父の方を見遣て、両眼より泪を浮べて、行も過ざりけるを、父屹と是を見て、高らかに恥しめて、馬を扣て云けるは、「何か名残の可惜る、独死て独生残らんにこそ、再会其期も久しからんずれ。我も人も今日の日の中に討死して、明日は又冥途にて寄合んずる者が、一夜の程の別れ、何かさまでは悲かるべき。」と、高声に申ければ、為基泪を推拭ひ、「さ候はゞ疾して冥途の旅を御急候へ。死出の山路にては待進せ候はん。」と云捨て、大勢の中へ懸入ける心の中こそ哀なれ。相順兵僅に二十余騎に成しかば、敵三千余騎の真中に取篭て、短兵急に拉がんとす。為基が佩たる太刀は面影と名付て、来太郎国行が、百日精進して、百貫にて三尺三寸に打たる太刀なれば、此鋒に廻る者、或は甲の鉢を立破に被破、或胸板を袈裟懸に切て被落ける程に、敵皆是に被追立て、敢て近付者も無りけり。只陣を隔て矢衾を作て、遠矢に射殺さんとしける間、為基乗たる馬に矢の立事七筋也。角ては可然敵に近て、組んとする事叶はじと思ければ、由井の浜の大鳥居の前にて馬よりゆらりと飛で下、只一人太刀を倒に杖て、二王立にぞ立たりける。義貞の兵是を見て、猶も只十方より遠矢に射計にて、寄合んとする者ぞ無りける。敵を為謀手負たる真似をして、小膝を折てぞ臥たりける。爰に誰とは不知、輪子引両の笠符付たる武者、五十余騎ひし/\と打寄て、勘解由左衛門が頚を取んと、争ひ近付ける処に、為基かはと起て太刀を取直し、「何者ぞ、人の軍にしくたびれて、昼寝したるを驚すは。いで己等がほしがる頚取せん。」と云侭に、鐔本まで血に成たる太刀を打振て、鳴雷の落懸る様に、大手をはだけて追ける間、五十余騎の者共、逸足を出し逃ける間、勘解由左衛門大音を揚て、「何くまで逃るぞ。蓬し、返せ。と罵る声の、只耳本に聞へて、日来さしも早しと思し馬共、皆一所に躍る心地して、恐しなんど云許なし。為基只一人懸入て裏へぬけ、取て返しては懸乱し、今日を限と闘しが、二十一日の合戦に、由比浜の大勢を東西南北に懸散し、敵・御方の目を驚し、其後は生死を不知成にけり。
○大仏貞直並金沢貞将討死事 S1008
去程に、大仏陸奥守貞直は、昨日まで二万余騎にて、極楽寺の切通を支て防闘ひ給けるが、今朝の浜の合戦に、三百余騎に討成れ、剰敵に後を被遮て、前後に度を失て御座ける処に、鎌倉殿の御屋形にも火懸りぬと見へしかば、世間今はさてとや思けん、又主の自害をや勧めけん、宗徒の郎従三十余人、白州の上に物具脱棄て、一面に並居て腹をぞ切にける。貞直是を見給て、「日本一の不覚の者共の行跡哉。千騎が一騎に成までも、敵を亡名を後代に残すこそ、勇士の本意とする所なれ。いでさらば最後の一合戦快して、兵の義を勧めん。」とて、二百余騎の兵を相随へ、先大嶋・里見・額田・桃井、六千余騎にて磬たる真中へ破て入、思程闘て、敵数た討取て、ばつと駈出見給へば、其勢僅に六十余騎に成にけり。貞直其兵を指招て、「今は末々の敵と懸合ても無益也。」とて、脇屋義助雲霞のごとくに扣たる真中へ駈入、一人も不残討死して尸を戦場の土にぞ残しける。金沢武蔵守貞将も、山内の合戦に相従ふ兵八百余人被打散我身も七箇所まで疵を蒙て、相摸入道の御坐す東勝寺へ打帰り給たりければ、入道不斜感謝して、軈て両探題職に可被居御教書を被成、相摸守にぞ被移ける。貞将は一家の滅亡日の中を不過と被思けれ共、「多年の所望、氏族の規摸とする職なれば、今は冥途の思出にもなれかし。」と、彼御教書を請取て、又戦場へ打出給けるが、其御教書の裏に、「棄我百年命報公一日恩。」と大文字に書て、是を鎧の引合に入て、大勢の中へ懸入、終に討死し玉ければ、当家も他家も推双て、感ぜぬ者も無りけり。
○信忍自害事 S1009
去程に普恩寺前相摸入道信忍も、粧粧坂へ被向たりしが、夜る昼る五日の合戦に、郎従悉く討死して、僅に二十余騎ぞ残ける。諸方の攻口皆破て、敵谷々に入乱ぬと申ければ、入道普恩寺討残されたる若党諸共に自害せられけるが、子息越後守仲時六波羅を落て、江州番馬にて腹切玉ぬと告たりければ、其最後の有様思出して、哀に不堪や被思けん、一首の歌を御堂の柱に血を以て書付玉けるとかや、待しばし死出の山辺の旅の道同く越て浮世語らん年来嗜弄給し事とて、最後の時も不忘、心中の愁緒を述て、天下の称嘆に残されける、数奇の程こそ優けれと、皆感涙をぞ流しける。
○塩田父子自害事 S1010
爰に不思議なりしは、塩田陸奥入道々祐が子息民部大輔俊時、親の自害を勧んと、腹掻切て目前に臥たりけるを見給て、幾程ならぬ今生の別に目くれ心迷て落る泪も不留、先立ぬる子息の菩提をも祈り、我逆修にも備へんとや被思けん、子息の尸骸に向て、年来誦給ける持経の紐を解、要文処々打上、心閑に読誦し給けり。被打漏たる郎等共、主と共に自害せんとて、二百余人並居たりけるを、三方へ差遣し、「此御経誦終る程防矢射よ。」と下地せられけり。其中に狩野五郎重光許は年来の者なる上、近々召仕れければ、「吾腹切て後、屋形に火懸て、敵に頚とらすな。」と云含め、一人被留置けるが、法花経已に五の巻の提婆品はてんとしける時、狩野五郎門前に走出て四方を見る真似をして、「防矢仕つる者共早皆討れて、敵攻近付候。早々御自害候へ。」と勧ければ、入道、「さらば。」とて、経をば左の手に握り、右の手に刀を抜て腹十文字に掻切て、父子同枕にぞ臥給ける。重光は年来と云、重恩と云、当時遺言旁難遁ければ、軈て腹をも切らんずらんと思たれば、さは無て、主二人の鎧・太刀・々剥、家中の財宝中間・下部に取持せて、円覚寺の蔵主寮にぞ隠居たりける。此重宝共にては、一期不足非じと覚しに、天罰にや懸りけん。舟田入道是を聞付て推寄せ、是非なく召捕て、遂に頚を刎て、由井の浜にぞ掛られける。尤角こそ有たけれとて、悪ぬ者も無りけり。
○塩飽入道自害事 S1011
塩飽新左近入道聖遠は、嫡子三郎左衛門忠頼を呼、「諸方の攻口悉破、御一門達大略腹切せ給と聞へければ、入道も守殿に先立進て、其忠義を知られ奉らんと思也。されば御辺は未だ私の眷養にて、公方の御恩をも蒙らねば、縦ひ一所にて今命を不棄共、人強義を知ぬ者とはよも思はじ。然者何くにも暫く身を隠し、出家遁世の身ともなり、我後生をも訪ひ、心安く一身の生涯をもくらせかし。」と、泪の中に宣ひければ、三郎左衛門忠頼も、両眼に泪を浮め、しば/\物も不被申けるが、良有て、「是こそ仰共覚候はね。忠頼直に公方の御恩を蒙りたる事は候はね共、一家の続命悉く是武恩に非と云事なし。其上忠頼自幼少釈門に至る身ならば、恩を棄て無為に入る道も然なるべし。苟も弓矢の家に生れ、名を此門棄に懸ながら、武運の傾を見て、時の難を遁れんが為に、出塵の身と成て、天下の人に指を差れん事、是に過たる恥辱や候べき。御腹被召候はゞ、冥途の御道しるべ仕候はん。」と云も終ず、袖の下より刀を抜て、偸に腹に突立て、畏たる体にて死ける。其弟塩飽四郎是を見て、続て腹を切らんとしけるを、父の入道大に諌て、「暫く吾を先立、順次の孝を専にし、其後自害せよ。」と申ければ、塩飽四郎抜たる刀を収て、父の入道が前に畏てぞ侯ける。入道是を見て快げに打笑、閑々と中門に曲■をかざらせて、其上に結跏趺座し、硯取寄て自ら筆を染め、辞世の頌をぞ書たりける。提持吹毛。截断虚空。大火聚裡。一道清風。と書て、叉手して頭を伸て、子息四郎に、「其討。」と下地しければ、大膚脱に成て、父の頚をうち落て、其太刀を取直て、鐔本まで己れが腹に突貫て、うつぶしざまにぞ臥たりける。郎等三人是を見て走寄り、同太刀に被貫て、串に指たる魚肉の如く頭を連て伏たりける。
○安東入道自害事付漢王陵事 S1012
安東左衛門入道聖秀と申しは、新田義貞の北台の伯父成しかば、彼女房義貞の状に我文を書副て、偸に聖秀が方へぞ被遣ける。安東、始は三千余騎にて、稲瀬河へ向たりけるが、世良田太郎が稲村崎より後へ回りける勢に、陣を被破て引けるが、由良・長浜が勢に被取篭て百余騎に被討成、我身も薄手あまた所負て、己が館へ帰たりけるが、今朝巳刻に、宿所は早焼て其跡もなし。妻子遣属は何ちへか落行けん、行末も不知成て、可尋問人もなし。是のみならず、鎌倉殿の御屋形も焼て、入道殿東勝寺へ落させ給ぬと申者有ければ、「さて御屋形の焼跡には、傍輩何様腹切討死してみゆるか。」と尋ければ、「一人も不見候。」とぞ答ける。是を聞て安東、「口惜事哉。日本国の主、鎌倉殿程の年来住給し処を敵の馬の蹄に懸させながら、そこにて千人も二千人も討死する人の無りし事よと、後の人々に被欺事こそ恥辱なれ。いざや人々、とても死せんずる命を、御屋形の焼跡にて心閑に自害して、鎌倉殿の御恥を洗がん。」とて、被討残たる郎等百余騎を相順へて、小町口へ打莅む。先々出仕の如く、塔辻にて馬より下り、空き迹を見廻せば、今朝までは、奇麗なる大廈高牆の構、忽に灰燼と成て、須臾転変の煙を残し、昨日まで遊戯せし親類朋友も、多く戦場に死して、盛者必衰の尸を余せり。悲の中の悲に、安東泪を押へて惘然たる処に、新田殿の北の台の御使とて、薄様に書たる文を捧たり。何事ぞとて披見れば、「鎌倉の有様今はさてとこそ承候へ。何にもして此方へ御出候へ。此程の式をば身に替ても可申宥候。」なんど、様々に書れたり。是を見て安東大に色を損じて申けるは、「栴檀の林に入者は、不染衣自ら香しといへり。武士の女房たる者は、けなげなる心を一つ持てこそ、其家をも継子孫の名をも露す事なれ。されば昔漢の高祖と楚項羽と闘ける時、王陵と云者城を構て篭たりしを、楚是を攻るに更に不落。此時楚の兵相謀て云、「王陵は母の為に忠孝を存ずる事不浅。所詮王陵が母を捕へて楯の面に当て城を攻る程ならば、王陵矢を射る事を不得して降人に出る事可有。」とて潛に彼母を捕てけり。彼母心の中に思けるは、王陵我に仕る事大舜・曾参が高孝にも過たり。我若楯の面に被縛城に向ふ程ならば、王陵悲に不堪して、城を被落事可有。不如無幾程命を為子孫捨んにはと思定て、自剣の上に死てこそ、遂に王陵が名をば揚たりしか。我只今まで武恩に浴して、人に被知身となれり。今事の急なるに臨で、降人に出たらば、人豈恥を知たる者と思はんや。されば女性心にて縦加様の事を被云共、義貞勇士の義を知給ば、さる事やあるべき、可被制。又義貞縱敵の志を計らん為に宣ふ共、北方は我方様の名を失はじと思はれば、堅可被辞、只似るを友とする方見さ、子孫の為に不被憑。」と、一度は恨一度は怒て、彼使の見る前にて、其文を刀に拳り加へて、腹掻切てぞ失給ける。
○亀寿殿令落信濃事付左近大夫偽落奥州事 S1013
爰に相摸入道殿の舎弟四郎左近大夫入道の方に候ける諏方左馬助入道が子息、諏訪三郎盛高は、数度の戦に郎等皆討れぬ。只主従二騎に成て、左近大夫入道の宿所に来て申けるは、「鎌倉中の合戦、今は是までと覚て候間、最後の御伴仕候はん為に参て候。早思召切せ給へ。」と進め申ければ、入道当りの人をのけさせて、潛に盛高が耳に宣ひけるは、「此乱不量出来、当家已に滅亡しぬる事更に他なし。只相摸入道殿の御振舞人望にも背き神慮にも違たりし故也。但し天縦ひ驕を悪み盈を欠とも、数代積善の余慶家に尽ずば、此子孫の中に絶たるを継ぎ廃たるを興す者無らんや。昔斉の襄公無道なりしかば、斉の国可亡を見て、其臣に鮑叔牙と云ける者、襄公の子小伯を取て他国へ落てげり。其間に襄公果して公孫無智に被亡、斉の国を失へり。其時に鮑叔牙小伯を取立て、斉の国へ推寄、公孫無智を討事を得て遂に再び斉の国を保たせける。斉の桓公は是也。されば於我深く存ずる子細あれば、無左右自害する事不可有候。可遁ば再び会稽の恥を雪ばやと思ふ也。御辺も能々遠慮を回して、何なる方にも隠忍歟、不然ば降人に成て命を継で、甥にてある亀寿を隠置て、時至ぬと見ん時再び大軍を起して素懐を可被遂。兄の万寿をば五大院の右衛門に申付たれば、心安く覚る也。」と宣へば、盛高泪を押へて申けるは、「今までは一身の安否を御一門の存亡に任候つれば、命をば可惜候はず。御前にて自害仕て、二心なき程を見へ進せ候はんずる為にこそ、是まで参て候へ共、「死を一時に定るは易く、謀を万代に残すは難し」と申事候へば、兎も角も仰に可随候。」とて、盛高は御前を罷立て、相摸殿の妾、二位殿の御局の扇の谷に御坐ける処へ参たりければ、御局を始進せて、女房達まで誠に嬉し気にて、「さても此世の中は、何と成行べきぞや。我等は女なれば立隠るゝ方も有ぬべし。此亀寿をば如何すべき。兄の万寿をば五大院右衛門可蔵方有とて、今朝何方へやらん具足しつれば心安く思也。只此亀寿が事思煩て、露の如なる我身さへ、消侘ぬるぞ。」と泣口説給ふ。盛高此事有の侭に申て、御心をも慰め奉らばやとは思ひけれども、女性はゝかなき者なれば、後にも若人に洩し給ふ事もやと思返して、泪の中に申けるは、「此世中今はさてとこそ覚候へ。御一門太略御自害候なり。大殿計こそ未葛西谷に御座候へ。公達を一目御覧じ候て、御腹を可被召と仰候間、御迎の為に参て候。」と申ければ、御局うれし気に御座つる御気色、しほ/\と成せ給て、「万寿をば宗繁に預けつれば心安し、構て此子をも能々隠してくれよ。」と仰せも敢ず、御泪に咽ばせ給しかば、盛高も岩木ならねば、心計は悲しけれ共、心を強く持て申けるは、「万寿御料をも五大院右衛門宗繁が具足し進せ候つるを、敵見付て追懸進せ候しかば、小町口の在家に走入て、若子をば指殺し進せ、我身も腹切て焼死候つる也。あの若御も今日此世の御名残、是を限と思召候へ。とても隠れあるまじき物故に、狩場の雉の草隠たる有様にて、敵にさがし出されて、幼き御尸に、一家の御名を失れん事口惜候。其よりは大殿の御手に懸られ給て冥途までも御伴申させ給たらんこそ、生々世々の忠孝にて御座候はん。疾々入進せ給へ。」と進めければ、御局を始進せて、御乳母の女房達に至るまで、「方見の事を申者哉。せめて敵の手に懸らば如何せん。二人の公達を懐存進つる人々の手に懸て失ひ奉らんを見聞ては、如何許とか思遣る。只我を先殺して後、何とも計へ。」とて、少人の前後に取付て、声も不惜泣悲給へば、盛高も目くれ、心消々と成しか共、思切らでは叶まじと思て、声いらゝげ色を損て、御局を奉睨、「武士の家に生れん人、襁の中より懸る事可有と思召れぬこそうたてけれ。大殿のさこそ待思召候覧。早御渡候て、守殿の御伴申させ給へ。」と云侭に走懸り、亀寿殿を抱取て、鎧の上に舁負て、門より外へ走出れば、同音にわつと泣つれ玉し御声々、遥の外所まで聞へつゝ、耳の底に止れば、盛高も泪を行兼て、立返て見送ば、御乳母の御妻は、歩跣にて人目をも不憚走出させ給て、四五町が程は、泣ては倒れ、倒ては起迹に付て被追けるを、盛高心強行方を知れじと、馬を進めて打程に後影も見へず成にければ、御妻、「今は誰をそだて、誰を憑で可惜命ぞや。」とて、あたりなる古井に身を投て、終に空く成給ふ。其後盛高此若公を具足して、信濃へ落下り、諏訪の祝を憑で有しが、建武元年の春の比、暫関東を劫略して、天下の大軍を起し、中前代の大将に、相摸二郎と云は是なり。角して四郎左近太夫入道は、二心なき侍共を呼寄て「我は思様有て、奥州の方へ落て、再び天下を覆す計を可回也。南部太郎・伊達六郎二人は、案内者なれば可召具。其外の人々は自害して屋形に火をかけ、我は腹を切て焼死たる体を敵に可見。」と宣ければ、二十余人の侍共、一義にも不及、「皆御定に可随。」とぞ申ける。伊達・南部二人は、貌をやつし夫になり、中間二人に物具きせて馬にのせ、中黒の笠符を付させ、四郎入道を■に乗て、血の付たる帷を上に引覆ひ、源氏の兵の手負て本国へ帰る真以をして、武蔵までぞ落たりける。其後残置たる侍共、中門に走出、「殿は早御自害有ぞ。志の人は皆御伴申せ。」と呼て、屋形に火を懸、忽に煙の中に並居て、二十余人の者共は、一度に腹をぞ切たりける。是を見て、庭上・門外に袖を連ねたる兵共三百余人、面々に劣じ々じと腹切て、猛火の中へ飛で入、尸を不残焼死けり。さてこそ四郎左近太夫入道の落給ぬる事をば不知して、自害し給ぬと思けれ。其後西園寺の家に仕へて、建武の比京都の大将にて、時興と被云しは、此入道の事也けり。
○長崎高重最期合戦事 S1014
去程に長崎次郎高重は、始武蔵野の合戦より、今日に至るまで、夜昼八十余箇度の戦に、毎度先を懸、囲を破て自相当る事、其数を不知然ば、手者・若党共次第に討亡されて、今は僅に百五十騎に成にけり。五月二十二日に、源氏早谷々へ乱入て、当家の諸大将、太略皆討れ給ぬと聞へければ、誰が堅めたる陣とも不云、只敵の近づく処へ、馳合々々、八方の敵を払て、四隊の堅めを破ける間、馬疲れぬれば乗替、太刀打折れば帯替て、自敵を切て落す事三十二人、陣を破る事八箇度なり。角て相摸入道の御坐葛西谷へ帰り参て、中門に畏り泪を流し申けるは、「高重数代奉公の義を忝して、朝夕恩顔を拝し奉りつる御名残、今生に於ては今日を限りとこそ覚へ候へ。高重一人数箇所の敵を打散て、数度の闘に毎度打勝候といへ共、方々の口々皆責破られて、敵の兵鎌倉中に充満して候ぬる上は、今は矢長に思共不可叶候。只一筋に敵の手に懸らせ給はぬ様に、思召定させ給候へ。但し高重帰参て勧申さん程は、無左右御自害候な。上の御存命の間に、今一度快く敵の中へ懸入、思程の合戦して冥途の御伴申さん時の物語に仕候はん。」とて、又東勝寺を打出づ。其後影を相摸入道遥に目送玉て、是や限なる覧と名残惜げなる体にて、泪ぐみてぞ被立たる。長崎次郎甲をば脱捨、筋の帷の月日推たるに、精好の大口の上に赤糸の腹巻着て小手をば不差、兎鶏と云ける坂東一の名馬に、金具の鞍に小総の鞦懸てぞ乗たりける。是を最後と思定ければ、先崇寿寺の長老南山和尚に参じて、案内申ければ、長老威儀を具足して出合給へり。方々の軍急にして甲冑を帯したりければ、高重は庭に立ながら、左右に揖して問て曰、「如何是勇士恁麼の事。」和尚答曰、「吹毛急用不如前。」高重此一句を聞て、問訊して、門前より馬引寄打乗て、百五十騎の兵を前後に相随へ、笠符かなぐり棄、閑に馬を歩て、敵陣に紛入。其志偏に義貞に相近付ば、撲て勝負を決せん為也。高重旗をも不指、打物の室をはづしたる者無ければ、源氏の兵、敵とも不知けるにや、をめ/\と中を開て通しければ、高重、義貞に近く事僅に半町計也。すはやと見ける処に、源氏の運や強かりけん、義貞の真前に扣たりける由良新左衛門是を見知て、「只今旗をも不指相近勢は長崎次郎と見ぞ。さる勇士なれば定て思処有てぞ是までは来らん。あますな漏すな。」と、大音挙て呼りければ、先陣に磬たる武蔵の七党三千余騎、東西より引裹で真中に是を取込、我も々もと討んとす。高重は支度相違しぬと思ければ、百五十騎の兵を、ひし/\と一所へ寄て、同音に時をどつと揚、三千余騎の者共を懸抜懸入交合、彼に露れ此に隠れ、火を散してぞ闘ける。聚散離合の有様は須臾に反化して前に有歟とすれば忽焉として後へにある。御方かと思へば屹として敵也。十方に分身して、万卒に同く相当りければ、義貞の兵高重が在所を見定ず、多くは同士打をぞしたりける。長浜六郎是を見て「無云甲斐人々の同士打哉、敵は皆笠符を不付とみへつるぞ、中に紛れば、其を符にして組で討。」と下地しければ、甲斐・信濃・武蔵・相摸の兵共、押双てはむずと組、々で落ては首を取もあり、被捕もあり、芥塵掠天、汗血地を糢糊す。其在様項王が漢の三将を靡し魯陽が日を三舎に返し闘しも、是には不過とぞ見へたりける。され共長崎次郎は未被討、主従只八騎に成て戦けるが、猶も義貞に組んと伺て近付敵を打払、動れば差違て、義貞兄弟を目に懸て回りけるを、武蔵国の住人横山太郎重真、押隔て是に組んと、馬を進めて相近づく。長崎もよき敵ならば、組んと懸合て是を見るに、横山太郎重真也。さてはあはぬ敵ぞと思ければ、重真を弓手に相受、甲の鉢を菱縫の板まで破着たりければ、重真二つに成て失にけり。馬もしりゐに被打居て、小膝を折てどうど伏す。同国の住人庄三郎為久是を見て、よき敵也。と思ければ、続て是に組んとす。大手をはだけて馳懸る。長崎遥に見て、から/\と打笑て、「党の者共に可組ば、横山をも何かは可嫌。逢ぬ敵を失ふ様、いで/\己に知せん。」とて、為久が鎧の上巻掴で中に提げ、弓杖五杖計安々と投渡す。其人飛礫に当りける武者二人、馬より倒に被打落て、血を吐て空く成にけり。高重今はとても敵に被見知ぬる上はと思ければ、馬を懸居大音揚て名乗けるは、「桓武第五の皇子葛原親王に三代の孫、平将軍貞盛より十三代前相摸守高時の管領に、長崎入道円喜が嫡孫、次郎高重、武恩を報ぜんため討死するぞ、高名せんと思はん者は、よれや組ん。」と云侭に、鎧の袖引ちぎり、草摺あまた切落し、太刀をも鞘に納つゝ、左右の大手を播ては、此に馳合彼に馳替、大童に成て駈散しける。懸る処に、郎等共馬の前に馳塞て、「何なる事にて候ぞ。御一所こそ加様に馳廻坐せ。敵は大勢にて早谷々に乱入、火を懸物を乱妨し候。急御帰候て、守殿の御自害をも勤申させ給へ。」と云ければ、高重郎等に向て宣けるは、「余りに人の逃るが面白さに、大殿に約束しつる事をも忘ぬるぞや。いざゝらば帰参ん。」とて、主従八騎の者共、山内より引帰しければ、逃て行とや思ひけん、児玉党五百余騎、「きたなし返せ。」と罵て、馬を争て追懸たり。高重、「こと/゛\しの奴原や、何程の事をか仕出すべき。」とて、聞ぬ由にて打けるを、手茂く追て懸りしかば、主従八騎屹と見帰て馬の轡を引回すとぞみへし。山内より葛西の谷口まで十七度まで返し合せて、五百余騎を追退け、又閑々とぞ打て行ける。高重が鎧に立処の矢二十三筋、蓑毛の如く折かけて、葛西谷へ参りければ、祖父の入道待請て、「何とて今まで遅りつるぞ。今は是までか。」と問れければ、高重畏り、「若大将義貞に寄せ合せば、組で勝負をせばやと存候て、二十余度まで懸入候へ共、遂に不近付得。其人と覚しき敵にも見合候はで、そゞろなる党の奴つ原四五百人切落てぞ捨候つらん。哀罪の事だに思ひ候はずは、猶も奴原を浜面へ追出して、弓手・馬手に相付、車切・胴切・立破に仕棄度存候つれ共、上の御事何がと御心元なくて帰参て候。」と、聞も涼く語るにぞ、最期に近き人々も、少し心を慰めける。
○高時並一門以下於東勝寺自害事 S1015
去程に高重走廻て、「早々御自害候へ。高重先を仕て、手本に見せ進せ候はん。」と云侭に、胴計残たる鎧脱で抛すてゝ、御前に有ける盃を以て、舎弟の新右衛門に酌を取せ、三度傾て、摂津刑部太夫入道々準が前に置き、「思指申ぞ。是を肴にし給へ。」とて左の小脇に刀を突立て、右の傍腹まで切目長く掻破て、中なる腸手縷出して道準が前にぞ伏たりける。道準盃を取て、「あはれ肴や、何なる下戸なり共此をのまぬ者非じ。」と戯て、其盃を半分計呑残て、諏訪入道が前に指置、同く腹切て死にけり。諏訪入道直性、其盃を以て心閑に三度傾て、相摸入道殿の前に指置て、「若者共随分芸を尽して被振舞候に年老なればとて争か候べき、今より後は皆是を送肴に仕べし。」とて、腹十文字に掻切て、其刀を抜て入道殿の前に指置たり。長崎入道円喜は、是までも猶相摸入道の御事を何奈と思たる気色にて、腹をも未切けるが、長崎新右衛門今年十五に成けるが、祖父の前に畏て、「父祖の名を呈すを以て、子孫の孝行とする事にて候なれば、仏神三宝も定て御免こそ候はんずらん。」とて、年老残たる祖父の円喜が肱のかゝりを二刀差て、其刀にて己が腹を掻切て、祖父を取て引伏せて、其上に重てぞ臥たりける。此小冠者に義を進められて、相摸入道も腹切給へば、城入道続て腹をぞ切たりける。是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。其外の人々には、金沢太夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕・子息駿河左近太夫将監時顕・小町中務太輔朝実・常葉駿河守範貞・名越土佐前司時元・摂津形部大輔入道・伊具越前々司宗有・城加賀前司師顕・秋田城介師時・城越前守有時・南部右馬頭茂時・陸奥右馬助家時・相摸右馬助高基・武蔵左近大夫将監時名・陸奥左近将監時英・桜田治部太輔貞国・江馬遠江守公篤・阿曾弾正少弼治時・苅田式部大夫篤時・遠江兵庫助顕勝・備前左近大夫将監政雄・坂上遠江守貞朝・陸奥式部太輔高朝・城介高量・同式部大夫顕高・同美濃守高茂・秋田城介入道延明・明石長門介入道忍阿・長崎三郎左衛門入道思元・隅田次郎左衛門・摂津宮内大輔高親・同左近大夫将監親貞、名越一族三十四人、塩田・赤橋・常葉・佐介の人々四十六人、総じて其門葉たる人二百八十三人、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。庭上・門前に並居たりける兵共是を見て、或は自腹掻切て炎の中へ飛入もあり、或は父子兄弟差違へ重り臥もあり。血は流て大地に溢れ、漫々として洪河の如くなれば、尸は行路に横て累々たる郊原の如し。死骸は焼て見へね共、後に名字を尋ぬれば、此一所にて死する者、総て八百七十余人也。此外門葉・恩顧の者、僧俗・男女を不云、聞伝々々泉下に恩を報る人、世上に促悲を者、遠国の事はいざ不知、鎌倉中を考るに、総て六千余人也。嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。


太平記

太平記巻第十一
○五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事 S1101
義貞已に鎌倉を定て、其威遠近に振ひしかば、東八箇国の大名・高家、手を束ね膝を不屈と云者なし。多日属随て忠を憑む人だにも如此。況や只今まで平氏の恩顧に順て、敵陣に在つる者共、生甲斐なき命を続ん為に、所縁に属し降人に成て、肥馬の前に塵を望み、高門の外に地を掃ても、己が咎を補はんと思へる心根なれば、今は浮世の望を捨て、僧法師に成たる平氏の一族達をも、寺々より引出して、法衣の上に血を淋き、二度は人に契らじと、髪をゝろし貌を替んとする亡夫の後室共をも、所々より捜出して、貞女の心を令失。悲哉、義を専にせんとして、忽に死せる人は、永く修羅の奴と成て、苦を多劫の間に受けん事を。痛哉、恥を忍で苟も生る者は、立ろに衰窮の身と成て、笑を万人の前に得たる事を。中にも五大院右衛門尉宗繁は、故相摸入道殿の重恩を与たる侍なる上、相摸入道の嫡子相摸太郎邦時は、此五大院右衛門が妹の腹に出来たる子なれば、甥也。主也。何に付ても弐ろは非じと深く被憑けるにや、「此邦時をば汝に預置ぞ、如何なる方便をも廻し、是を隠し置き、時到りぬと見へば、取立て亡魂の恨を可謝。」と相摸入道宣ければ、宗繁、「仔細候はじ。」と領掌して、鎌倉の合戦の最中に、降人にぞ成たりける。角て二三日を経て後、平氏悉滅びしかば、関東皆源氏の顧命に随て、此彼に隠居たる平氏の一族共、数た捜出されて、捕手は所領を預り、隠せる者は忽に被誅事多し。五大院右衛門是を見て、いや/\果報尽はてたる人を扶持せんとて適遁得たる命を失はんよりは、此人の在所を知たる由、源氏の兵に告て、弐ろなき所を顕し、所領の一所をも安堵せばやと思ければ、或夜彼相摸太郎に向て申けるは、「是に御坐の事は、如何なる人も知候はじとこそ存じて候に、如何して漏聞へ候けん、船田入道明日是へ押寄候て、捜し奉らんと用意候由、只今或方より告知せて候。何様御座の在所を、今夜替候はでは叶まじく候。夜に紛れて、急ぎ伊豆の御山の方へ落させ給候へ。宗繁も御伴申度は存候へ共、一家を尽して落候なば、船田入道、さればこそと心付て、何くまでも尋求る事も候はんと存じ候間、態御伴をば申まじく候。」と、誠し顔に成て云ければ、相摸太郎げにもと身の置所なくて、五月二十七日の夜半計に、忍て鎌倉を落玉ふ。昨日までは天下の主たりし相摸入道の嫡子にて有しかば、仮初の物詣で・方違ひと云しにも、御内・外様の大名共、細馬に轡を噛せて、五百騎・三百騎前後に打囲で社往覆せしに、時移事替ぬる世の有様の浅猿さよ、怪しげなる中間一人に太刀持せて、伝馬にだにも乗らで、破たる草鞋に編笠着て、そこ共不知、泣々伊豆の御山を尋て、足に任て行給ひける、心の中こそ哀なれ。五大院右衛門は、加様にして此人をばすかし出しぬ。我と打て出さば、年来奉公の好を忘たる者よと、人に指を被差つべし。便宜好らんずる源氏の侍に討せて、勲功を分て知行せばやと思ければ、急船田入道が許に行て、「相摸の太郎殿の在所をこそ、委く聞出て候へ、他の勢を不交して、打て被出候はゞ、定て勲功異他候はんか。告申候忠には、一所懸命の地を安堵仕る様に、御吹挙に預り候はん。」と云ければ、船田入道、心中には悪き者の云様哉と乍思、「先子細非じ。」と約束して、五大院右衛門尉諸共に、相摸太郎の落行ける道を遮てぞ待せける。相摸太郎道に相待敵有とも不思寄、五月二十八日明ぼのに、浅猿げなる■れ姿にて、相摸河を渡らんと、渡し守を待て、岸の上に立たりけるを、五大院右衛門余所に立て、「あれこそ、すは件の人よ。」と教ければ、船田が郎等三騎、馬より飛で下り、透間もなく生捕奉る。俄の事にて張輿なんどもなければ、馬にのせ舟の縄にてしたゝかに是を誡め、中間二人に馬の口を引せて、白昼に鎌倉へ入れ奉る。是を見聞人毎に、袖をしぼらぬは無りけり。此人未だ幼稚の身なれば、何程の事か有べけれ共、朝敵の長男にてをはすれば、非可閣とて、則翌日の暁、潛に首を刎奉る。昔程嬰が我子を殺して、幼稚の主の命にかへ、予譲が貌を変じて、旧君の恩を報ぜし、其までこそなからめ、年来の主を敵に打せて、欲心に義を忘れたる五大院右衛門が心の程、希有也。不道也と、見る人毎に爪弾をして悪みしかば、義貞げにもと聞給て、是をも可誅と、内々其儀定まりければ、宗繁是を伝聞て、此彼に隠れ行きけるが、梟悪の罪身を譴めけるにや、三界雖広一身を措に処なく故旧雖多一飯を与る無人して、遂に乞食の如に成果て、道路の街にして、飢死にけるとぞ聞へし。
○諸将被進早馬於船上事 S1102
都には五月十二日千種頭中将忠顕朝臣・足利治部大輔高氏・赤松入道円心等、追々早馬を立て、六波羅已に令没落之由船上へ奏聞す。依之諸卿僉議あて、則還幸可成否の意見を被献ぜ。時に勘解由次官光守、諌言を以て被申けるは、「両六波羅已に雖没落、千葉屋発向の朝敵等猶畿内に満て、勢ひ京洛を呑めり。又賎き諺に、「東八箇国の勢を以て、日本国の勢に対し、鎌倉中の勢を以て、東八箇国の勢に対す」といへり。されば承久の合戦に、伊賀判官光季を被追落し事は輒かりしか共、坂東勢重て上洛せし時、官軍戦ひに負て、天下久武家の権威に落ぬ。今一戦の雌雄を測るに、御方は纔に十〔に〕して其一二を得たり。「君子不近刑人」と申事候へば、暫く只皇居を被移候はで、諸国へ綸旨を被成下、東国の変違を可被御覧ぜや候らん。」と被申ければ、当座の諸卿悉此議にぞ被同ける。而れども、主上猶時宜定め難く被思召ければ、自周易を披かせ給て、還幸の吉凶を蓍筮に就てぞ被御覧ける。御占師卦に出て云、「師貞、丈人吉無咎、上六大君有命、開国承家。小人勿用。王弼注云、処師之極、師之終也。大君之命不失功也。開国承家、以寧邦也。小人勿用、非其道也。」と注せり。御占已に如此。此上は何をか可疑とて、同二十三日伯耆の舟上を御立有て、腰輿を山陰の東にぞ被催ける。路次の行装例に替りて、頭大夫行房・勘解由次官光守二人許こそ、衣冠にて被供奉けれ。其外の月卿雲客・衛府諸司の助は、皆戎衣にて前騎後乗す。六軍悉甲冑を着し、弓箭を帯して、前後三十余里に支へたり。塩冶判官高貞は、千余騎にて、一日先立て前陣を仕る。又朝山太郎は、一日路引殿て、五百余騎にて後陣に打けり。金持大和守、錦の御旗を差て左に候し、伯耆守長年は、帯剣の役にて右に副ふ。雨師道を清め、風伯塵を払ふ。紫微北辰の拱陣も、角やと覚て厳重也。されば去年の春隠岐国へ被移させ給ひし時、そゞろに宸襟を被悩て、御泪の故と成し山雲海月の色、今は竜顔を令悦端と成て、松吹風も自ら万歳を呼ぶかと被奇、塩焼浦の煙まで、にぎわう民の竈と成る。
○書写山行幸事付新田注進事 S1103
五月二十七日には、播磨国書写山へ行幸成て、先年の御宿願を被果、諸堂御順礼の次に、開山性空上人の御影堂を被開に、年来秘しける物と覚て、重宝ども多かりけり。当寺の宿老を一人召て、「是は如何なる由緒の物共ぞ。」と、御尋有ければ、宿老畏て一々に是を演説す。先杉原一枚を折て、法華経一部八巻並開結二経を細字に書たるあり。是は上人寂寞の扉に御坐て妙典を読誦し給ける時、第八の冥官一人の化人と成て、片時の程に書たりし御経也。又歯禿て僅に残れる杉の屐あり。是は上人当山より毎日比叡山へ御入堂の時、海道三十五里の間を一時が内に歩ませ給し屐也。又布にて縫たる香の袈裟あり。是は上人御身を不放、長時に懸させ給けるが、香の煙にすゝけたるを御覧じて、「哀洗ばや。」と被仰ける時、常随給仕の乙護法「是を洗て参候はん。」と申て、遥に西天を指して飛去ぬ。且く在て、此袈裟をば虚空に懸乾、恰も一片の雲の夕日に映ずるが如し。上人護法を呼て、「此袈裟をば如何なる水にて洗ひたりけるぞ。」と問はせ給へば、護法、「日本の内には可然清冷水候はで、天竺の無熱池の水にて濯で候也。」と、被答申たりし御袈裟也。生木化仏の観世音、稽首生木如意輪、能満有情福寿願、亦満往生極楽願、百千倶■悉所念と、天人降下供養し奉る像なり。毘首羯磨が作りし五大尊、是のみならず、法華読誦の砌には、不動・毘沙門の二童子に、形を現じて仕給也。又延暦寺の中堂供養の日は、上人当山に坐しながら、風に如来唄を引給しかば、梵音遠く叡山の雲に響て一会の奇特を顕せし事共、委細に演説仕りたれば、主上不斜信心を傾させ給て、則当国の安室郷を御寄附有て、不断如法経の料所にぞ被擬ける。今に至まで、其妙行片時も懈る事無して、如法如説の勤行たり。誠に滅罪生善の御願難有かりし事共也。二十八日に法華山へ行幸成て、御巡礼あり。是より龍駕を被早て、晦日は兵庫の福厳寺と云寺に、儲餉の在所を点じて、且く御坐有ける処に、其日赤松入道父子四人、五百余騎を率して参向す。竜顔殊に麗くして、「天下草創の功偏に汝等贔屓の忠戦によれり。恩賞は各望に可任。」と叡感有て、禁門の警固に奉侍せられけり。此寺に一日御逗留有て、供奉の行列還幸の儀式を被調ける処に、其日の午刻に、羽書を頚に懸たる早馬三騎、門前まで乗打にして、庭上に羽書を捧たり。諸卿驚て急披て是を見給へば、新田小太郎義貞の許より、相摸入道以下の一族従類等、不日に追討して、東国已に静謐の由を注進せり。西国・洛中の戦に、官軍勝に乗て両六波羅を雖責落、関東を被責事は、ゆゝしき大事成べしと、叡慮を被回ける処に、此注進到来しければ、主上を始進せて、諸卿一同に猶預の宸襟を休め、欣悦称嘆を被尽、則、「恩賞は宜依請。」と被宣下て、先使者三人に各勲功の賞をぞ被行ける。
○正成参兵庫事付還幸事 S1104
兵庫に一日御逗留有て、六月二日被回腰輿処に、楠多門兵衛正成七千余騎にて参向す。其勢殊に勇々敷ぞ見へたりける。主上御簾を高く捲せて、正成を近く被召、「大儀早速の功、偏に汝が忠戦にあり。」と感じ被仰ければ、正成畏て、「是君の聖文神武の徳に不依ば、微臣争か尺寸の謀を以て、強敵の囲を可出候乎。」と功を辞して謙下す。兵庫を御立有ける日より、正成前陣を奉て、畿内の勢を相順へ、七千余騎にて前騎す。其道十八里が間、干戈戚揚相挟、左輔右弼列を引、六軍次でを守り、五雲閑に幸すれば、六月五日の暮程に、東寺まで臨幸成ければ、武士たる者は不及申、摂政・関白・太政大臣・左右の大将・大中納言・八座・七弁・五位・六位・内外の諸司・医陰両道に至まで、我劣じと参集りしかば、車馬門前に群集して、地府に布雲、青紫堂上に陰映して、天極に列星。翌日六月六日、東寺より二条の内裏へ還幸成て、其日先臨時の宣下有て、足利治部大輔高氏治部卿に任ず。舎弟兵部大輔直義左馬頭に任ず。去程に千種頭中将忠顕朝臣、帯剣の役にて、鳳輦の前に被供奉けるが、尚非常を慎む最中なればとて、帯刀の兵五百人二行に被歩。高氏・直義二人は後乗に順て、百官の後に被打。衛府の官なればとて、騎馬の兵五千余騎、甲冑を帯して被打。其次に宇都宮五百余騎、佐々木判官七百余騎、土居・得能二千余騎、此外正成・長年・円心・結城・長沼・塩冶已下諸国の大名は、五百騎・三百騎、其旗の次に一勢々々引分て、輦輅を中にして、閑に小路打たり。凡路次の行装、行列の儀式、前々の臨幸に事替て、百司の守衛厳重也。見物の貴賎岐に満て、只帝徳を頌し奉声、洋々として耳に盈り。
○筑紫合戦事 S1105
京都・鎌倉は、已に高氏・義貞の武功に依て静謐しぬ。今は筑紫へ討手を被下て、九国の探題英時を可被責とて、二条大納言師基卿を太宰帥に被成て、既に下し奉らんとせられける処に、六月七日、菊池・小弐・大伴が許より、早馬同時に京着して、九州の朝敵無所残、退治候ぬと奏聞す。其合戦の次第を、後に委く尋ぬれば、主上未だ舟上に御座有し時、小弐入道妙慧・大伴入道具簡・菊池入道寂阿、三人同心して、御方に可参由を申入ける間、則綸旨に錦の御旗を副てぞ被下ける。其企彼等三人が心中に秘して、未色に雖不出、さすがに隠れ無りければ、此事頓て探題英時が方へ聞へければ、英時、彼等が野心の実否を能々伺ひ見ん為に、先菊池入道寂阿を博多へぞ呼ける。菊池此使に肝付て、是は如何様彼隠謀露顕して、我等を討ん為にぞ呼給ふ覧。さらんに於は、人に先をせられては叶ふまじ、此方より遮て博多へ寄て、覿面に勝負を決せんと思ければ、兼ての約諾に任て、小弐・大伴が方へ触遺しける処に、大伴、天下の落居未だ如何なるべしとも見定めざりければ、分明の返事に不及。小弐は又其比京都の合戦に、六波羅毎度勝に乗由聞へければ、己が咎を補はんとや思けん、日来の約を変じて、菊池が使八幡弥四郎宗安を討て、其頚を探題の方へぞ出したりける。菊池入道大に怒て、「日本一の不当人共を憑で、此一大事を思立けるこそ越度なれ。よし/\其人々の与せぬ軍はせられぬか。」とて元弘三年三月十三日の卯刻に、僅に百五十騎にて探題の館へぞ押寄ける。菊池入道櫛田の宮の前を打過ける時、軍の凶をや被示けん。又乗打に仕たりけるをや御尤め有けん。菊池が乗たる馬、俄にすくみて一足も前へ不進得。入道大に腹を立て、「如何なる神にてもをはせよ、寂阿が戦場へ向はんずる道にて、乗打を尤め可給様やある。其義ならば矢一つ進せん。受て御覧ぜよ。」とて、上差の鏑を抜き出し、神殿の扉を二矢までぞ射たりける。矢を放つと均く、馬のすくみ直りにければ、「さぞとよ。」とあざ笑て、則打通りける。其後社壇を見ければ、二丈許なる大蛇、菊池が鏑に当て死たりけるこそ不思議なれ。探題は、兼てより用意したる事なれば、大勢を城の木戸より外へ出して戦はしむるに、菊池小勢なりといへども、皆命を塵芥に比し、義を金石に類して、責戦ければ、防ぐ兵若干被打て、攻の城へ引篭る。菊池勝に乗て、屏を越関を切破て、透間もなく責入ける間、英時こらへかねて、既に自害をせんとしける処に、小弐・大友六千余騎にて、後攻をぞしたりける。菊池入道是を見て、嫡子に肥後守武重を喚て云けるは、「我今小弐・大友に被出抜て、戦場の死に赴くといへ共、義の当る所を思ふ故に、命を堕ん事を不悔。然れば寂阿に於ては、英時が城を枕にして可討死。汝は急我館へ帰て、城を堅し兵を起して、我が生前の恨を死後に報ぜよ。」と云含め、若党五十余騎を引分て武重に相副、肥後の国へぞ返しける。故郷に留置し妻子共は、出しを終の別れとも知らで、帰るを今やとこそ待らめと、哀に覚ければ、一首の歌を袖の笠符に書て故郷へぞ送ける。故郷に今夜許の命ともしらでや人の我を待らん肥後守武重は、「四十有余の独の親の、只今討死せんとて大敵に向ふ戦なれば、一所にてこそ兎も角も成候はめ。」と、再三申けれども、「汝をば天下の為に留るぞ。」と父が庭訓堅ければ、武重無力是を最後の別と見捨て、泣々肥後へ帰ける心の中こそ哀なれ。其後菊池入道は二男肥後三郎と相共に、百余騎を前後に立て、後攻の勢には目を不懸して探題の屋形へ責入、終に一足も引ず、敵に指違々々一人も不残打死す。専諸・荊卿が心は恩の為に仕はれ、侯生・予子が命は義に依て軽しとも、是等をや可申。さても小弐・大伴が今度の振舞人に非ずと天下の人に被譏ながら、暗知ずして世間の様を聞居たりける処に、五月七日両六波羅已に被責落て、千葉屋の寄手も悉南都へ引退ぬと聞へければ、小弐入道、こは可如何と仰天す。去ば我れ探題を奉討身の咎を遁ばやと思ければ、先菊池肥後守と大友入道とが許へ内々使者を遣して相語ふに、菊池は先に懲て耳にも不聞入。大友は我も咎ある身なれば、角てや助かると堅領掌してげり。今日や明日やと吉日を撰ける処に、英時、小弐が隠謀の企を聞て、事の実否を伺見よとて、長岡六郎を小弐が許へぞ遣しける。長岡則行向て、小弐に可見参由を云ければ、時節相労事有とて、対面に不及。長岡無力、小弐入道が子息筑後新小弐が許に行向、云入て、さりげなき様にて彼方此方を見るに、只今打立んずる形勢にて、楯を矯せ鏃を砺最中也。又遠侍を見るに、蝉本白くしたる青竹の旗竿あり。さればこそ、船上より錦の御旗を賜たりと聞へしが、実也けりと思て、対面せば頓て指違へんずる者をと思ける処に、新小弐何心もなげにて出合たり。長岡座席に着と均しく、「まさなき人々の謀反の企哉。」と云侭に、腰の刀を抜て、新小弐に飛で懸ける。新小弐飽まで心早き者なりければ、側なる将碁の盤をゝつ取て突刀を受留め、長岡にむずと引組で、上を下へぞ返しける。頓て小弐が郎従共あまた走寄て、上なる敵を三刀指て、下なる主を助けゝれば、長岡六郎本意を不達して、忽に命を失てげり。小弐筑後入道、さては我謀反の企、早探題に被知てげり。今は休事を得ぬ所也とて、大伴入道相共に七千余騎の軍兵を率して、同五月二十五日の午刻に、探題英時の館へ押寄ける。世の末の風俗、義を重ずる者は少く、利に趨る人は多ければ、只今まで付順つる筑紫九箇国の兵共も、恩を忘て落失せ、名をも惜まで翻りける間、一朝の間の戦に、英時遂に打負て、忽に自害しければ、一族郎従三百四十人、続て腹をぞ切たりける。哀哉、昨日は小弐・大友、英時に順て菊池を討、今日は又小弐・大友、官軍に属して、英時を討。「行路難、不在山兮、不在水、唯在人情反覆之間」と、白居易が書たりし筆の跡、今こそ被思知たれ。
○長門探題降参事 S1106
長門の探題遠江守時直、京都の合戦難儀の由を聞て、六波羅に力を勠せんと、大船百余艘に取乗て、海上を上けるが、周防の鳴渡にて、京も鎌倉も早皆源氏の為に被滅て、天下悉王化に順ぬと聞へければ、鳴渡より舟を漕もどして、九州の探題と一所に成んと、心づくしへぞ赴きける。赤間が関に着て、九州の様を伺ひ聞給へば、「筑紫の探題英時も、昨日早小弐・大友が為に被亡て、九国二嶋悉公家のたすけと成ぬ。」と云ければ、一旦催促に依て、此まで属順たる兵共も、いつしか頓て心替して、己が様々に落行ける間、時直僅に五十余人に成て柳浦の浪に漂泊す。彼の浦に帆を下さんとすれば、敵鏃を支て待懸たり。此嶋に纜を結ばんとすれば、官軍楯を双べて討んとす。残留る人々にさへ、今は心を沖津波、可立帰方もなく、可寄所もなければ、世を浮舟の橈を絶、思はぬ風に漂へり。跡に留めし妻子共も、如何成ぬ〔ら〕んと、責て其行末を聞て後、心安く討死をもせばやと被思ければ、且の命を延ん為に、郎等を一人船よりあげて、小弐・嶋津が許へ、降人に可成由をぞ伝へける。小弐も嶋津も年来の好み浅からざりけるに、今の有様聞も哀にや思けん。急迎に来て、己が宿所に入奉る。其比峯の僧正俊雅と申しは、君の御外戚にてをはせしを、笠置の合戦の刻に筑前の国へ被流てをはしけるが、今一時に運を開て、国人皆其左右に慎み随ふ。九州の成敗、勅許以前は暫此僧正の計ひに在しかば、小弐・嶋津、彼時直を同道して降参の由をぞ申入ける。僧正、「子細あらじ。」と被仰て、則御前へ被召けり。時直膝行頓首して、敢て不平視、遥の末座に畏て、誠に平伏したる体を見給て、僧正泪を流して被仰けるは、「去元弘の始、無罪して此所に被遠流時、遠州我を以て寇とせしかば、或は過分の言の下に面を低て泪を推拭ひ、或は無礼の驕の前に手を束て恥を忍き。然に今天道謙に祐して、不測世の変化を見に、吉凶相乱れ栄枯地を易たり。夢現昨日は身の上の哀み、今日は人の上の悲也。「怨を報ずるに恩を以てす」と云事あれば、如何にもして命許を可申助。」と被仰ければ、時直頭を地に付て、両眼に泪を浮めたり。不日に飛脚を以て、此由を奏聞ありければ、則勅免有て懸命の地をぞ安堵せられける。時直無甲斐命を扶て、嘲を万人の指頭に受といへども、時を一家の再興に被待けるが、幾程もあらざるに、病の霧に被侵て、夕の露と消にけり。
○越前牛原地頭自害事 S1107
淡河右京亮時治は、京都の合戦の最中、北国の蜂起を鎮めん為に越前の国に下て、大野郡牛原と云所にぞをはしける。幾程無して、六波羅没落の由聞へしかば、相順たる国の勢共、片時の程に落失て、妻子従類の外は事問人も無りけり。去程に平泉寺の衆徒、折を得て、彼跡を恩賞に申賜らん為に、自国・他国の軍勢を相語ひ、七千余騎を率して、五月十二日の白昼に牛原へ押寄る。時治敵の勢の雲霞の如なるを見て、戦共幾程が可怺と思ければ、二十余人有ける郎等に、向ふ敵を防がせて、あたり近き所に僧の坐しけるを請じて、女房少き人までも、皆髪に剃刀をあて、戒を受させて、偏に後生菩提の経営を、泪の中にぞ被致ける。戒の師帰て後、時治女房に向て「宣ひけるは、二人の子共は男子なれば、稚しとも敵よも命を助じと覚る間、冥途の旅に可伴。御事は女性にてをわすれば、縦ひ敵角と知とも命を失ひ奉るまでの事は非じ。さても此世に在存へ給はゞ、如何なる人にも相馴て、憂を慰む便に付可給。無跡までも心安てをはせんをこそ、草の陰・苔の下までもうれしくは思ふべけれ。」と、泪の中に掻口説て聞へければ、女房最と恨て、「水に住鴛、梁に巣燕も翼をかわす契を不忘。況や相馴進て不覚過ぬる十年余の袖の下に、二人の子共をそだてて、千代もと祈し無甲斐も、御身は今秋の霜の下に伏し、少き者共は朝の露に先立て、消はてなん後の悲を堪へ忍ては、時の間もながらふべき我身かや。とても思に堪かねば、生て可有命ならず。同は思ふ人と共にはかなく成て、埋れん苔の下までも、同穴の契を忘じ。」と、泪の床に臥沈む。去程に防矢射つる郎等共已に皆被討て、衆徒箱の渡を打越、後の山へ廻ると聞へければ、五と六とに成ける少き人を鎧唐櫃に入て、乳母二人に前後を舁せ、鎌倉河の淵に沈めよとて、遥に見送て立たれば、母儀の女房も、同其淵に身を沈めんと、唐櫃の緒に取付て歩行、心の中こそ悲しけれ。唐櫃を岸の上に舁居て、蓋を開たれば、二人の少き人顔を差挙て、「是はなう母御何くへ行給ふぞ。母御の歩にて歩ませ給ふが御痛敷候。是に乗らせ給へ。」と何心もなげに戯ければ、母上流るゝ泪を押へて、「此河は是極楽浄土の八功徳池とて、少き者の生れて遊び戯るゝ所也。我如く念仏申て此河の中へ被沈よ。」と教へければ、二人の少き人々母と共に手を合せ、念仏高らかに唱へて西に向て坐したるを、二人の乳母一人づゝ掻抱て、碧潭の底へ飛入ければ、母上も続て身を投て、同じ淵にぞ被沈ける。其後時治も自害して一堆の灰と成にけり。隔生則忘とは申ながら又一念五百生、繋念無量劫の業なれば、奈利八万の底までも、同じ思の炎と成て焦給ふらんと、哀也ける事共也。
○越中守護自害事付怨霊事 S1108
越中の守護名越遠江守時有・舎弟修理亮有公・甥の兵庫助貞持三人は、出羽・越後の宮方北陸道を経て京都へ責上べしと聞へしかば、道にて是を支んとて、越中の二塚と云所に陣を取て、近国の勢共をぞ相催しける。斯る処に、六波羅已に被責落て後、東国にも軍起て、已に鎌倉へ寄けるなんど、様々に聞へければ、催促に順て、只今まで馳集つる能登・越中の兵共、放生津に引退て却て守護の陣へ押寄んとぞ企ける。是を見て、今まで身に代命に代らんと、義を存じ忠を致しつる郎従も、時の間に落失て、剰敵軍に加り、朝に来り暮に往て、交を結び情を深せし朋友も、忽に心変じて、却て害心を挿む。今は残留たる者とては、三族に不遁一家の輩、重恩を蒙し譜代の侍、僅に七十九人也。五月十七日の午刻に敵既に一万余騎にて寄ると聞へしかば、「我等此小勢にて合戦をすとも、何程の事をかし出すべき、憖なる軍して、無云甲斐敵の手に懸り、縲紲の恥に及ばん事、後代迄の嘲たるべし。」とて、敵の近付ぬ前に女性・少き人々をば舟に乗て澳に沈め、我身は城の内にて自害をせんとぞ出立ける。遠江守の女房は、偕老の契を結て今年二十一年になれば、恩愛の懐の内に二人の男子をそだてたり。兄は九弟は七にぞ成ける。修理亮有公が女房は、相馴て已に三年に余けるが、只ならぬ身に成て、早月比過にけり。兵庫助貞持が女房は、此四五日前に、京より迎へたりける上臈女房にてぞ有ける。其昔紅顔翠黛の世に無類有様、風に見初し珠簾の隙もあらばと心に懸て、三年余恋慕しが、兎角方便を廻して、偸出してぞ迎へたりける。語ひ得て纔に昨日今日の程なれば、逢に替んと歎来し命も今は被惜ける。恋悲みし月日は、天の羽衣撫尽すらん程よりも長く、相見て後のたゞちは、春の夜の夢よりも尚短し。忽に此悲に逢ける契の程こそ哀なれ。末の露本の雫、後れ先立つ道をこそ、悲き物と聞つるに、浪の上、煙の底に、沈み焦れん別れの憂さ、こはそもいかゞすべきと、互に名残を惜つゝ、伏まろびてぞ被泣ける。去程に、敵の早寄来るやらん、馬煙の東西に揚て見へ候と騒げば、女房・少き人々は、泣々皆舟に取乗て、遥の澳に漕出す。うらめしの追風や、しばしもやまで、行人を波路遥に吹送る。情なの引塩や、立も帰らで、漕舟を浦より外に誘らん。彼松浦佐用嬪が、玉嶋山にひれふりて、澳行舟を招しも、今の哀に被知たり。水手櫓をかいて、船を浪間に差留めたれば、一人の女房は二人の子を左右の脇に抱き、二人の女房は手に手を取組で、同身をぞ投たりける。紅の衣絳袴の暫浪に漂しは、吉野・立田の河水に、落花紅葉の散乱たる如に見へけるが、寄来る浪に紛れて、次第に沈むを見はてゝ後、城に残留たる人々上下七十九人、同時に腹を掻切て、兵火の底にぞ焼死ける。其幽魂亡霊、尚も此地に留て夫婦執着の妄念を遺しけるにや、近比越後より上る舟人、此浦を過けるに、俄に風向ひ波荒かりける間、碇を下して澳に舟を留めたるに、夜更浪静て、松涛の風、芦花の月、旅泊の体、万づ心すごき折節、遥の澳に女の声して泣悲む音しけり。是を怪しと聞居たる処に、又汀の方に男の声して、「其舟こゝへ寄せてたべ。」と、声々にぞ呼りける。舟人止む事を不得して、舟を渚に寄たれば、最清げなる男三人、「あの澳まで便船申さん。」とて、屋形にぞ乗たりける。舟人是を乗て澳津塩合に舟を差留めたれば、此三人の男舟より下て、漫々たる浪の上にぞ立たりける。暫あれば、年十六七二十許なる女房の、色々の衣に赤き袴踏くゝみたるが、三人浪の底より浮び出て、其事となく泣しほれたる様也。男よに眤しげなる気色にて、相互に寄近付んとする処に、猛火俄に燃出て、炎男女の中を隔ければ、三人の女房は、いもせの山の中々に、思焦れたる体にて、波の底に沈ぬ。男は又泣々浪の上を游帰て、二塚の方へぞ歩み行ける。余の不思議さに舟人此男の袖を引へて、「去にても誰人にて御渡候やらん。」と問たりければ、男答云、「我等は名越遠江守・同修理亮・並兵庫助。」と各名乗て、かき消様に失にけり。天竺の術婆伽は后を恋て、思の炎に身を焦し、我朝の宇治の橋姫は、夫を慕ひてかたしく袖を波に浸す。是皆上古の不思議、旧記に載る所也。親り斯る事の、うつゝに見へたりける亡念の程こそ罪深けれ。
○金剛山寄手等被誅事付佐介貞俊事 S1109
京洛已に静まりぬといへ共、金剛山より引返したる平氏共、猶南都に留て、帝都を責んとする由聞へ有ければ、中院中将定平を大将として、五万余騎、大和路へ被差向。楠兵衛正成に畿内勢二万余騎を副て、河内国より搦手にぞ被向ける。南都に引篭る平氏の軍兵已に十方に雖退散、残留る兵尚五万騎に余たれば、今一度手痛き合戦あらんと覚るに、日来の儀勢尽はてゝ、いつしか小水の魚の沫に吻く体に成て、徒に日を送ける間、先一番に南都の一の木戸口般若寺を堅て居たりける宇都宮・紀清両党七百余騎、綸旨を給て上洛す。是を始として、百騎二百騎、五騎十騎、我先にと降参しける間、今平氏の一族の輩、譜代重恩の族の外は、一人も残留る者も無りけり。是に付ても、今は何に憑を懸てか命を可惜なれば、各打死して名を後代にこそ残すべかりけるに、攻ての業の程の浅猿さは、阿曾弾正少弼時治・大仏右馬助貞直・江馬遠江守・佐介安芸守を始として、宗との平氏十三人、並長崎四郎左衛門尉・二階堂出羽入道々蘊已下・関東権勢の侍五十余人、般若寺にして各入道出家して、律僧の形に成り、三衣を肩に懸、一鉢を手に提て、降人に成てぞ出たりける。定平朝臣是を請取て、高手小手に誡め、伝馬の鞍坪に縛屈めて、数万の官軍の前々を追立させ、白昼に京へぞ被帰ける。平治には悪源太義平、々家に被生捕て首被刎、元暦には内大臣宗盛公、源氏に被囚て大路を被渡。是は皆戦に臨む日、或は敵に被議、或は自害に無隙して、心ならず敵の手に懸りしをだに、今に至まで人口の嘲と成て、両家の末流是聞時、面を一百余年の後に令辱。況乎是は敵に被議たるにも非ず、又自害に隙なきにも非ず、勢ひ未尽先に自黒衣の身と成て、遁ぬ命を捨かねて、縲紲面縛の有様、前代未聞の恥辱也。囚人京都に着ければ、皆黒衣を脱せ、法名を元の名に改て、一人づゝ大名に預らる。其秋刑を待程に、禁錮の裏に起伏て、思ひ連ぬる浮世の中、涙の落ぬ隙もなし。さだかならぬ便に付て、鎌倉の事共を聞ば、偕老の枕の上に契を成し貞女も、むくつけゞなる田舎人どもに被奪て、王昭君が恨を貽し、富貴の薹の中に傅立し賢息も、傍へだにも寄ざりし凡下共の奴と成て、黄頭郎が夢をなせり。是等はせめて乍憂、未だ生たりときけば、猶も思の数ならず。昨日岐を過ぎ、今日は門にやすらふ行客の、穴哀や、道路に袖をひろげ、食を乞し女房の、倒て死しは誰が母也。短褐に貌を窶て縁を尋し旅人の、被捕て死せしは誰が親也と、風に語るを聞時は、今まで生ける我身の命を、憂しとぞ更に誣たれける。七月九日、阿曾弾正少弼・大仏右馬助・江馬遠江守・佐介安芸守・並長崎四郎左衛門、彼此十五人阿弥陀峯にて被誅けり。此君重祚の後、諸事の政未被行前に、刑罰を専にせられん事は、非仁政とて、潛に是を被切しかば、首を被渡までの事に及ばず、面々の尸骸便宜の寺々に被送、後世菩提をぞ被訪ける。二階堂出羽入道々蘊は、朝敵の最一、武家の輔佐たりしか共、賢才の誉、兼てより叡聞に達せしかば、召仕るべしとて、死罪一等を許され、懸命の地に安堵して居たりけるが、又陰謀の企有とて、同年の秋の季に、終に死刑に被行てげり。佐介左京亮貞俊は、平氏の門葉たる上武略才能共に兼たりしかば、定て一方の大将をもと身を高く思ける処に、相摸入道さまでの賞翫も無りければ、恨を含み憤を抱きながら、金剛山の寄手の中にぞ有ける。斯る処に千種頭中将綸旨を申与へて、御方に可参由を被仰ければ、去五月の初に千葉屋より降参して、京都にぞ歴回ける。去程に、平氏の一族皆出家して、召人に成し後は、武家被官の者共、悉所領を被召上、宿所を被追出て、僅なる身一をだに措かねて、貞俊も阿波の国へ被流て有しかば、今は召仕ふ若党・中間も身に不傍、昨日の楽今日の悲と成て、ます/\身を責る体に成行ければ、盛者必衰の理の中に在ながら、今更世中無情覚て、如何なる山の奥にも身を隠さばやと、心にあらまされてぞ居たりける。さても関東の様何とか成ぬらんと尋聞に、相摸入道殿を始として、一族以下一人も不残、皆被討給て、妻子従類も共に行方を不知成ぬと聞へければ、今は誰を憑み、何を可待世とも不覚、見に付聞に随て、いとゞ心を摧き、魂を消ける処に、関東奉公の者共は、一旦命を扶からん為に、降人に雖出と、遂には如何にも野心有ぬべければ、悉可被誅とて、貞俊又被召捕てげり。挺も心の留る浮世ならねば、命を惜とは思はねども、故郷に捨置し妻子共の行末、何ともきかで死なんずる事の、余に心に懸りければ、最期の十念勧ける聖に付て、年来身を放たざりける腰の刀を、預人の許より乞出して、故郷の妻子の許へぞ送ける。聖是を請取て、其行末を可尋申と領状しければ、貞俊無限喜て、敷皮の上に居直て、一首の歌を詠じ、十念高らかに唱て、閑に首をぞ打せける。皆人の世に有時は数ならで憂にはもれぬ我身也けり聖形見の刀と、貞俊が最期の時着たりける小袖とを持て、急鎌倉へ下、彼女房を尋出し、是を与へければ、妻室聞もあへず、只涙の床に臥沈て、悲に堪兼たる気色に見へけるが、側なる硯を引寄て、形見の小袖の妻に、誰見よと信を人の留めけん堪て有べき命ならぬにと書付て、記念の小袖を引かづき、其刀を胸につき立て、忽にはかなく成にけり。此外或は偕老の契空くして、夫に別たる妻室は、苟も二夫に嫁せん事を悲で、深き淵瀬に身を投、或は口養の資無して子に後れたる老母は、僅に一日の餐を求兼て自溝壑に倒れ伏す。承久より以来、平氏世を執て九代、暦数已に百六十余年に及ぬれば、一類天下にはびこりて、威を振ひ勢ひを専にせる所々の探題、国々の守護、其名を挙て天下に有者已に八百人に余りぬ。況其家々の郎従たる者幾万億と云数を不知。去ば縦六波羅こそ輒被責落共、筑紫と鎌倉をば十年・二十年にも被退治事難とこそ覚へしに、六十余州悉符を合たる如く、同時に軍起て、纔に四十三日の中に皆滅びぬる業報の程こそ不思議なれ。愚哉関東の勇士、久天下を保ち、威を遍海内に覆しかども、国を治る心無りしかば、堅甲利兵、徒に梃楚の為に被摧て、滅亡を瞬目の中に得たる事、驕れる者は失し倹なる者は存す。古へより今に至まで是あり。此裏に向て頭を回す人、天道は盈てるを欠事を不知して、猶人の欲心の厭ことなきに溺る。豈不迷乎。


太平記

太平記巻第十二
○公家一統政道事 S1201
先帝重祚之後、正慶の年号は廃帝の改元なればとて被棄之、本の元弘に帰さる。其二年の夏比、天下一時に評定して、賞罰法令悉く公家一統の政に出しかば、群俗帰風若被霜而照春日、中華懼軌若履刃而戴雷霆。同年の六月三日、大塔宮志貴の毘沙門堂に御座有と聞へしかば、畿内・近国の勢は不及申、京中・遠国の兵までも、人より先にと馳参ける間、其勢頗尽天下大半をぬらんと夥し。同十三日に可有御入洛被定たりしが、無其事と、延引有て、被召諸国兵、作楯砥鏃、合戦の御用意ありと聞へしかば、誰が身の上とは知ね共、京中の武士の心中更に不穏。依之主上右大弁宰相清忠を勅使にて被仰けるは、「天下已に鎮て偃七徳之余威、成九功之大化処に、猶動干戈被集士卒之条、其要何事乎、次四海騒乱の程は、為遁敵難、一旦其容を雖被替俗体、世已に静謐の上は急帰剃髪染衣姿、門迹相承の業を事とし給べし。」とぞ被仰ける。宮、清忠を御前近く被召、勅答申させ給けるは、「今四海一時に定て万民誇無事化、依陛下休明徳、由微臣籌策功矣。而に足利治部大輔高氏僅に以一戦功、欲立其志於万人上。今若乗其勢微不討之、取高時法師逆悪加高氏威勢上に、者なるべし。是故に挙兵備武、全非臣罪。次剃髪の事、兆前に不鑒機者定て舌を翻さん歟。今逆徒不測滅て天下雖属無事、与党猶隠身伺隙、不可有不待時。此時上無威厳、下必可有暴慢心。されば文武の二道同く立て可治今の世也。我若帰剃髪染衣体捨虎賁猛将威、於武全朝家人誰哉。夫諸仏菩薩垂利生方便日、有折伏・摂受二門。其摂受者、作柔和・忍辱之貌慈悲為先、折伏者、現大勢忿怒形刑罰為宗。況聖明君求賢佐・武備才時、或は出塵の輩を帰俗体或退体の主を奉即帝位、和漢其例多し。所謂賈嶋浪仙は、釈門より出て成朝廷臣。我朝天武・孝謙は、替法体登重祚位。抑我栖台嶺幽渓、纔守一門迹、居幕府上将、遠静一天下、国家の用何れをか為吉。此両篇速に被下勅許様に可経奏聞。」被仰、則清忠をぞ被返ける。清忠卿帰参して、此由を奏聞しければ、主上具に被聞召、「居大樹位、全武備守、げにも為朝家似忘人嘲。高氏誅罰の事、彼不忠何事ぞ乎。太平の後天下の士卒猶抱恐懼心。若無罪行罰、諸卒豈成安堵思哉。然ば於大樹任不可有子細。至高氏誅罰事堅可留其企。」有聖断、被成征夷将軍宣旨。依之宮の御憤も散じけるにや、六月十七日志貴を御立有て、八幡に七日御逗留有て、同二十三日御入洛あり。其行列・行装尽天下壮観。先一番赤松入道円心、千余騎にて前陣を仕る。二番に殿法印良忠、七百余騎にて打つ。三番には四条少将隆資、五百余騎。四番には中院中将定平、八百余騎にて打る。其次に花やかに鎧ふたる兵五百人勝て、帯刀にて二行に被歩。其次に、宮は赤地の錦の鎧直垂に、火威の鎧の裾金物に、牡丹の陰に獅子の戯て、前後左右に追合たるを、草摺長に被召、兵庫鎖の丸鞘の太刀に、虎の皮の尻鞘かけたるを、太刀懸の半に結てさげ、白篦に節陰許少塗て、鵠の羽を以て矧だる征矢の三十六指たるを筈高に負成、二所藤の弓の、銀のつく打たるを十文字に拳て、白瓦毛なる馬の、尾髪飽まで足て太逞に沃懸地の鞍置て、厚総の鞦の、只今染出たる如なるを、芝打長に懸成し、侍十二人に双口をさせ、千鳥足を蹈せて、小路を狭しと被歩。後乗には、千種頭中将忠顕朝臣千余騎にて被供奉。猶も御用心の最中なれば、御心安兵を以て非常を可被誡とて、国々の兵をば、混物具にて三千余騎、閑に小路を被打。其後陣には湯浅権大夫・山本四郎次郎忠行・伊東三郎行高・加藤太郎光直、畿内近国の勢打込に、二十万七千余騎、三日支てぞ打たりける。時移り事去て、万づ昔に替る世なれども、天台座主忽に蒙将軍宣旨、帯甲冑召具随兵、御入洛有し分野は、珍かりし壮観也。其後妙法院宮は四国の勢を被召具、讚岐国より御上洛あり。万里小路中納言藤房卿は、預人小田民部大輔相具して常陸国より被上洛。春宮大進季房は配所にて身罷にければ、父宣房卿悦の中の悲み、老後の泪満袖。法勝寺円観上人をば、預人結城上野入道奉具足上洛したりければ、君法体の無恙事を悦び思召て、軈て結城に本領安堵の被成下綸旨。文観上人は硫黄嶋より上洛し、忠円僧正は越後国より被帰洛。総じて此君笠置へ落させ給し刻、解官停任せられし人々、死罪流刑に逢し其子孫、此彼より被召出、一時に蟄懐を開けり。されば日来誇武威無本所を、権門高家の武士共、いつしか成諸庭奉公人、或は走軽軒香車後、或跪青侍恪勤前。世の盛衰時の転変、歎に叶はぬ習とは知ながら、今の如にて公家一統の天下ならば、諸国の地頭・御家人は皆奴婢・雑人の如にて有べし。哀何なる不思議も出来て、武家執四海権世中に又成かしと思ふ人のみ多かりけり。同八月三日より可有軍勢恩賞沙汰とて、洞院左衛門督実世卿を被定上卿。依之諸国の軍勢、立軍忠支証捧申状望恩賞輩、何千万人と云数を不知。実に有忠者は憑功不諛、無忠者媚奥求竈、掠上聞間、数月の内に僅に二十余人の恩賞を被沙汰たりけれ共、事非正路軈被召返けり。さらば改上卿とて、万里小路中納言藤房卿を被成上卿、申状を被付渡。藤房請取之糾忠否分浅深、各申与んとし給ひける処に、依内奏秘計、只今までは朝敵なりつる者も安堵を賜り、更に無忠輩も五箇所・十箇所の所領を給ける間、藤房諌言を納かねて称病被辞奉行。角て非可黙止とて、九条民部卿を上卿に定て御沙汰有ける間、光経卿、諸大将に其手の忠否を委細尋究て申与んとし給ける処に、相摸入道の一跡をば、内裏の供御料所に被置。舎弟四郎左近大夫入道の跡をば、兵部卿親王へ被進。大仏陸奥守の跡をば准后の御領になさる。此外相州の一族、関東家風の輩が所領をば、無指事郢曲妓女の輩、蹴鞠伎芸の者共、乃至衛府諸司・官女・官僧まで、一跡・二跡を合て、内奏より申給りければ、今は六十六箇国の内には、立錐の地も軍勢に可行闕所は無りけり。浩ければ光経卿も、心許は無偏の恩化を申沙汰せんと欲し給けれ共、叶はで年月をぞ被送ける。又雑訴の沙汰の為にとて、郁芳門の左右の脇に決断所を被造。其議定の人数には、才学優長の卿相・雲客・紀伝・明法・外記・官人を三番に分て、一月に六箇度の沙汰の日をぞ被定ける。凡事の体厳重に見へて堂々たり。去ども是尚理世安国の政に非りけり。或は自内奏訴人蒙勅許を、決断所にて論人に理を被付、又決断所にて本主給安堵、内奏より其地を別人の恩賞に被行。如此互に錯乱せし間、所領一所に四五人の給主付て、国々の動乱更に無休時。去七月の初より中宮御心煩はせ給けるが、八月二日隠させ給ふ。是のみならず十一月三日、春宮崩御成にけり。是非只事、亡卒の怨霊共の所為なるべしとて、止其怨害、為令趣善所、仰四箇大寺、大蔵経五千三百巻を一日中に被書写、法勝寺にて則供養を遂られけり。
○大内裏造営事付聖廟御事 S1202
翌年正月十二日、諸卿議奏して曰、「帝王の業、万機事繁して、百司設位。今の鳳闕僅方四町の内なれば、分内狭して調礼儀無所。四方へ一町宛被広、建殿造宮。是猶古の皇居に及ばねばとて、大内裏可被造。」とて安芸・周防を料国に被寄、日本国の地頭・御家人の所領の得分二十分一を被懸召。抑大内裡と申は、秦の始皇帝の都、咸陽宮の一殿を摸して被作たれば、南北三十六町、東西二十町の外、竜尾の置石を居へて、四方に十二の門を被立たり。東には陽明・待賢・郁芳門、南には美福・朱雀・皇嘉門、西には談天・藻壁・殷富門、北には安嘉・偉鑒・達智門、此外上東・上西、二門に至迄、守交戟衛伍長時に誡非常たり。三十六の後宮には、三千の淑女飾妝、七十二の前殿には文武の百司待詔。紫宸殿の東西に、清涼殿・温明殿。当北常寧殿・貞観殿。々々々と申は、后町の北の御匣殿也。校書殿と号せしは、清涼殿の南の弓場殿也。昭陽舎は梨壺、淑景舎は桐壺、飛香舎は藤壺、凝花舎は梅坪、襲芳舎と申は雷鳴坪の事也。萩戸・陣座・滝口戸・鳥曹司・縫殿。兵衛陣、左は宣陽門、右陰明門。日花・月花の両門は、対陣座左右。大極殿・小安殿・蒼龍楼・白虎楼。豊楽院・清署堂、五節の宴水・大嘗会は此所にて被行。中和院は中院、内教坊は雅楽所也。御修法は真言院、神今食は神嘉殿、真弓・競馬をば、武徳殿にして被御覧。朝堂院と申は八省の諸寮是也。右近の陣の橘は昔を忍ぶ香を留め、御階に滋る竹の台幾世の霜を重ぬらん。在原中将の弓・胡■を身に添て、雷鳴騒ぐ終夜あばらなる屋に居たりしは、官の庁の八神殿、光源氏大将の、如物もなしと詠じつゝ、朧月夜に軻しは弘徽殿の細殿、江相公の古へ越の国へ下しに、旅の別を悲て、「後会期遥也。濡纓於鴻臚之暁涙」と、長篇の序に書たりしは、羅城門の南なる鴻臚館の名残なり。鬼の間・直盧・鈴の縄。荒海の障子をば、清涼殿に被立、賢聖の障子をば、紫宸殿にぞ被立ける。東の一の間には、馬周・房玄齢・杜如晦・魏徴、二の間には、諸葛亮・遽伯玉・張子房・第伍倫、三の間には、管仲・■禹・子産・蕭何、四の間には、伊尹・傅説・太公望・仲山甫、西の一の間には、李勣・虞世南・杜預・張華、二の間には、羊■・揚雄・陳寔・班固、三の間には、桓栄・鄭玄・蘇武・倪寛、四の間には、董仲舒・文翁・賈誼・叔孫通也。画図は金岡が筆、賛詞は小野道風が書たりけるとぞ承る。鳳の甍翔天虹の梁聳雲、さしもいみじく被造双たりし大内裏、天災消に無便、回禄度々に及で、今は昔の礎のみ残れり。尋回禄由、彼唐尭・虞舜の君は支那四百州の主として、其徳天地に応ぜしか共、「茆茨不剪、柴椽不削」とこそ申伝たれ。矧や粟散国の主として、此大内を被造たる事、其徳不可相応。後王若無徳にして欲令居安給はゞ、国財力も依之可尽と、高野大師鑒之、門々の額を書せ給けるに、大極殿の大の字の中を引切て、火と云字に成し、朱雀門の朱の字を米と云字にぞ遊しける。小野道風見之、大極殿は火極殿、朱雀門は米雀門とぞ難じたりける。大権の聖者鑒未来書給へる事を、凡俗として難じ申たりける罰にや、其後より道風執筆、手戦て文字正しからざれども、草書に得妙人なれば、戦て書けるも、軈て筆勢にぞ成にける。遂に大極殿より火出て、諸司八省悉焼にけり。無程又造営有しを、北野天神の御眷属火雷気毒神、清涼殿の坤柱に落掛給し時焼けるとぞ承る。抑彼天満大神と申は、風月の本主、文道の大祖たり。天に御坐ては日月に顕光照国土、地に降下ては塩梅の臣と成て群生を利し玉ふ。其始を申せば、菅原宰相是善卿の南庭に、五六歳許なる小児の容顔美麗なるが、詠前栽花只一人立給へり。菅相公怪しと見給て、「君は何の処の人、誰が家の男にて御坐ぞ。」と問玉に、「我は無父無母、願は相公を親とせんと思侍る也。」と被仰ければ、相公嬉く思召て、手から奉舁懐、鴛鴦の衾の下に、恩愛の養育を為事生育奉り、御名をば菅少将とぞ申ける。未習悟道、御才学世に又類も非じと見給しかば、十一歳に成せ給し時父菅相公御髪を掻撫て、「若詩や作り給ふべき。」と問進せ給ければ、少しも案じたる御気色も無て、月耀如晴雪。梅花似照星。可憐金鏡転。庭上玉芳馨。と寒夜の即事を、言ば明に五言の絶句にぞ作せ玉ける。其より後、詩は捲盛唐波瀾先七歩才、文は漱漢魏芳潤、諳万巻書玉しかば、貞観十二年三月二十三日対策及第して自詞場に折桂玉ふ。其年の春都良香の家に人集て弓を射ける所へ菅少将をはしたり。都良香、此公は無何と、学窓に聚蛍、稽古に無隙人なれば、弓の本末をも知玉はじ、的を射させ奉り咲ばやと思して、的矢に弓を取副て閣菅少将御前に、「春の始にて候に、一度遊ばし候へ。」とぞ被請ける。菅少将さしも辞退し給はず、番の逢手に立合て、如雪膚を押袒、打上て引下すより、暫しをりて堅めたる体、切て放たる矢色・弦音・弓倒し、五善何れも逞く勢有て、矢所一寸ものかず、五度の十をし給ければ、都良香感に堪兼て、自下て御手を引、酒宴及数刻、様々の引出物をぞ被進ける。同年の三月二十六日に、延喜帝未だ東宮にて御坐ありけるが、菅少将を被召て、「漢朝の李■は一夜に百首の詩を作けると見たり。汝盍如其才。一時に作十首詩可備天覧。」被仰下ければ、則十題を賜て、半時許に十首の詩をぞ作せ玉ける。送春不用動舟車。唯別残鴬与落花。若使韶光知我意。今宵旅宿在詩家。と云暮春の詩も其十首の絶句の内なるべし。才賢の誉・仁義の道、一として無所欠、君帰三皇五帝徳、世均周公・孔子治只在此人、君無限賞じ思召ければ、寛平九年六月に中納言より大納言に上、軈て大将に成玉ふ。同年十月に、延喜帝即御位給し後は、万機の政然自幕府上相出しかば、摂禄の臣も清花の家も無可比肩人。昌泰二年の二月に、大臣大将に成せ給ふ。此時本院大臣と申は、大織冠九代の孫、昭宣公第一の男、皇后御兄、村上天皇の御伯父也。摂家と云高貴と云、旁我に等き人非じと思ひ給けるに、官位・禄賞共に菅丞相に被越給ければ、御憤更無休時。光卿・定国卿・菅根朝臣などに内々相計て、召陰陽頭、王城の八方に埋人形祭冥衆、菅丞相を呪咀し給けれども、天道私なければ、御身に災難不来。さらば構讒沈罪科思て、本院大臣時々菅丞相天下の世務に有私、不知民愁、以非為理由被申ければ、帝さては乱世害民逆臣、諌非禁邪忠臣に非ずと被思召けるこそ浅猿けれ。「誰知、偽言巧似簧。勧君掩鼻君莫掩。使君夫婦為参商。請君捕峰君莫捕。使君母子成豺狼。」さしも可眤夫婦・父子の中をだに遠くるは讒者の偽也。況於君臣間乎。遂昌泰四年正月二十日菅丞相被遷太宰権帥、筑紫へ被流給べきに定りにければ、不堪左遷御悲、一首の歌に千般の恨を述て亭子院へ奉り給ふ。流行我はみくづとなりぬとも君しがらみと成てとゞめよ法皇此歌を御覧じて御泪御衣を濡しければ、左遷の罪を申宥させ給はんとて、御参内有けれ共、帝遂に出御無りければ、法皇御憤を含で空く還御成にけり。其後流刑定て、菅丞相忽に太宰府へ被流させ玉ふ。御子二十三人の中に、四人は男子にてをわせしかば、皆引分て四方の国々へ奉流。第一の姫君一人をば都に留め進せ、残君達十八人は、泣々都を立離れ、心つくしに赴せ玉ふ御有様こそ悲しけれ。年久く住馴給し、紅梅殿を立出させ玉へば、明方の月幽なるに、をり忘たる梅が香の御袖に余りたるも、今は是や古郷の春の形見と思食に、御涙さへ留らねば、東風吹ば匂をこせよ梅の花主なしとて春な忘れそと打詠給て、今夜淀の渡までと、追立の官人共に道を被急、御車にぞ被召ける。心なき草木までも馴し別を悲けるにや、東風吹風の便を得て、此梅飛去て配所の庭にぞ生たりける。されば夢の告有て、折人つらしと惜まれし、宰府の飛梅是也。去仁和の比、讚州の任に下給しには、解甘寧錦纜、蘭橈桂梶、敲舷於南海月、昌泰の今配所の道へ赴せ玉ふには、恩賜の御衣の袖を片敷て、浪の上篷の底、傷思於西府雲、都に留置進せし北御方・姫君の御事も、今は昨日を限の別と悲く、知ぬ国々へ被流遣十八人の君達も、さこそ思はぬ旅に趣て、苦身悩心らめと、一方ならず思食遣に、御泪更に乾間も無れば、旅泊の思を述させ給ける詩にも、自従勅使駈将去。父子一時五処離。口不能言眼中血。俯仰天神与地祇。北御方より被副ける御使の道より帰けるに御文あり。君が住宿の梢を行々も隠るゝまでにかへり見しはや心筑紫に生の松、待とはなしに明暮て、配所の西府に着せ玉へば、埴生の小屋のいぶせきに、奉送置、都の官人も帰りぬ。都府楼の瓦の色、観音寺の鐘の声、聞に随ひ見に付ての御悲、此秋は独我身の秋となれり。起臥露のとことはに、古郷を忍ぶ御涙、毎言葉繁ければ、さらでも重濡衣の、袖乾く間も無りけり、さても無実の讒によりて、被遷配所恨入骨髄、難忍思召ければ、七日、間御身を清め一巻の告文を遊して高山に登り、竿の前に着て差挙、七日御足を翹させ給たるに、梵天・帝釈も其無実をや憐給けん。黒雲一群天より下さがりて、此告文を把て遥の天にぞ揚りける。其後延喜三年二月二十五日遂に沈左遷恨薨逝し給ぬ。今の安楽寺を御墓所と定て奉送置。惜哉北闕春花、随流不帰水、奈何西府夜月、入不晴虚命雲、されば貴賎滴涙、慕世誇淳素化、遠近呑声悲道蹈澆漓俗。同年夏の末に、延暦寺第十三の座主、法性坊尊意贈僧正、四明山の上、十乗の床前に照観月、清心水御坐けるに、持仏堂の妻戸を、ほと/\と敲音しければ、押開て見玉ふに、過ぬる春筑紫にて正しく薨逝し給ぬと聞へし菅丞相にてぞ御坐ける。僧正奇思して、「先此方へ御入候へ。」と奉誘引、「さても御事は過にし二月二十五日に、筑紫にて御隠候ぬと、慥に承しかば、悲歎の涙を袖にかけて、後生菩提の御追善をのみ申居候に、少も不替元の御形にて入御候へば、夢幻の間難弁こそ覚て候へ。」と被申ければ、菅丞相御顔にはら/\とこぼれ懸りける御泪を押拭はせ給て、「我成朝廷臣、為令安天下、暫下生人間処に、君時平公が讒を御許容有て、終に無実の罪に被沈ぬる事、瞋恚の焔従劫火盛也。依之五蘊の形は雖壊、一霊の神は明にして在天。今得大小神祇・梵天・帝釈・四王許、為報其恨九重の帝闕に近づき、我につらかりし佞臣・讒者を一々に蹴殺さんと存ずる也。其時定て仰山門可被致総持法験。縦雖有勅定、相構不可有参内。」と被仰ければ、僧正曰、「貴方与愚僧師資之儀雖不浅、君与臣上下之礼尚深。勅請の旨一往雖辞申、及度々争か参内仕らで候べき。」と被申けるに、菅丞相御気色俄に損じて御肴に有ける柘榴を取てかみ摧き、持仏堂の妻戸に颯と吹懸させ給ければ、柘榴の核猛火と成て妻戸に燃付けるを、僧正少も不騒、向燃火灑水の印を結ばれければ、猛火忽に消て妻戸は半焦たる許也。此妻戸今に伝て在山門とぞ承る。其後菅丞相座席を立て天に昇らせ玉ふと見へければ、軈雷内裡の上に鳴落鳴騰、高天も落地大地も如裂。一人・百官縮身消魂給ふ。七日七夜が間雨暴風烈して世界如闇、洪水家々を漂はしければ、京白河の貴賎男女、喚き叫ぶ声叫喚・大叫喚の苦の如し。遂に雷電大内の清涼殿に落て、大納言清貫卿の表の衣に火燃付て伏転べども不消。右大弁希世朝臣は、心剛なる人なりければ、「縦何なる天雷也とも、王威に不威哉。」とて、弓に矢を取副て向給へば、五体すくみて覆倒にけり。近衛忠包鬢髪に火付焼死ぬ。紀蔭連は煙に咽で絶入にけり。本院大臣あはや我身に懸る神罰よと被思ければ、玉体に立副進せ太刀を抜懸て、「朝に仕へ給し時も我に礼を乱玉はず、縦ひ神と成玉ふとも、君臣上下の義を失玉はんや。金輪位高して擁護の神未捨玉、暫く静りて穏かに其徳を施し玉へ。」と理に当て宣ひければ、理にやしづまり玉けん、時平大臣も蹴殺され給はず、玉体も無恙、雷神天に上り玉ぬ。去ども雨風の降続事は尚不休。角ては世界国土皆流失ぬと見へければ、以法威神忿を宥申さるべしとて、法性坊の贈僧正を被召。一両度までは辞退申されけるが、勅宣及三度ければ、無力下洛し給けるに、鴨川をびたゝしく水増て、船ならでは道有まじかりけるを、僧正、「只其車水の中を遣れ。」と下知し給ふ。牛飼随命、漲たる河の中へ車を颯と遣懸たれば、洪水左右へ分、却て車は陸地を通りけり。僧正参内し給ふより、雨止風静て、神忿も忽に宥り給ぬと見へければ、僧正預叡感登山し玉ふ。山門の効験天下の称讚在之とぞ聞へし。其後本院大臣受病身心鎮に苦み給ふ。浄蔵貴所を奉請被加持けるに、大臣の左右の耳より、小青蛇頭を差出して、「良浄蔵貴所、我無実の讒に沈し恨を為散、此大臣を取殺んと思也。されば祈療共に以て不可有験。加様に云者をば誰とかしる。是こそ菅丞相の変化の神、天満大自在天神よ。」とぞ示給ける。浄蔵貴所示現の不思議に驚て、暫く罷加持出玉ければ、本院大臣忽に薨じ給ぬ。御息女の女御、御孫の東宮も軈て隠れさせ玉ぬ。二男八条大将保忠同重病に沈給けるが、験者薬師経を読む時、宮毘羅大将と打挙て読けるを、我が頚切らんと云声に聞成て、則絶入給けり。三男敦忠中納言も早世しぬ。其人こそあらめ、子孫まで一時に亡玉ける神罰の程こそをそろしけれ。其比延喜帝の御従兄弟に右大弁公忠と申人、悩事も無て頓死しけり。経三日蘇生給けるが、大息突出て、「可奏聞事あり、我を扶起て内裏へ参れ。」と宣ければ、子息信明・信孝二人左右の手を扶て参内し玉ふ。「事の故何ぞ。」と御尋有ければ、公忠わな/\と振て、「臣冥官の庁とてをそろしき所に至り候つるが、長一丈余なる人の衣冠正しきが、金軸の申文を捧て、「粟散辺地の主、延喜帝王、時平大臣が信讒無罪臣を被流候き。其誤尤重し、早被記庁御札、阿鼻地獄へ可被落。」と申しかば、三十余人並居玉へる冥官大に忿て、「不移時刻可及其責。」と同じ給しを、座中第二の冥官、「若年号を改て過を謝する道あらば、如何し候べき。」と宣しに、座中皆案じ煩たる体に見へて、其後、公忠蘇生仕候。」とぞ被奏ける。君大に驚思召て、軈て延喜の年号を延長に改て、菅丞相流罪の宣旨を焼捨て、官位を元の大臣に帰し、正二位の一階を被贈けり。其後天慶九年近江国比良の社の袮宜、神の良種に託して、大内の北野に千本の松一夜に生たりしかば、此に建社壇、奉崇天満大自在天神けり。御眷属十六万八千之神尚も静り玉ざりけるにや、天徳二年より天元五年に至迄二十五年の間に、諸司八省三度迄焼にけり。角て有べきにあらねば、内裏造営あるべしとて、運魯般斧新に造立たりける柱に一首の蝕の歌あり。造とも又も焼なん菅原や棟の板間の合ん限りは此歌に神慮尚も御納受なかりけりと驚思食て、一条院より正一位太政大臣の官位を賜らせ玉ふ。勅使安楽寺に下て詔書を読上ける時天に声有て一首の詩聞へたり。昨為北闕蒙悲士。今作西都雪恥尸。生恨死歓其我奈。今須望足護天皇基。其後よりは、神の嗔も静り国土も穏也。偉矣、尋本地、大慈大悲の観世音、弘誓の海深して、群生済度の船無不到彼岸。垂跡を申せば天満大自在天神の応化の身、利物日新にして、一来結縁の人所願任心成就す。是を以て上自一人、下至万民、渇仰の首を不傾云人はなし。誠奇特無双の霊社也。去程に、治暦四年八月十四日、内裏造営の事始有て、後三条院の御宇、延久四年四月十五日遷幸あり。文人献詩伶倫奏楽。目出かりしに、無幾程、又安元二年に日吉山王の依御祟、大内の諸寮一宇も不残焼にし後は、国の力衰て代々の聖主も今に至まで造営の御沙汰も無りつるに、今兵革の後、世未安、国費へ民苦て、不帰馬于花山陽不放牛于桃林野、大内裏可被作とて自昔至今、我朝には未用作紙銭、諸国の地頭・御家人の所領に被懸課役条、神慮にも違ひ驕誇の端とも成ぬと、顰眉智臣も多かりけり。
○安鎮国家法事付諸大将恩賞事 S1203
元弘三年春の比、筑紫には規矩掃部助高政・糸田左近大夫将監貞義と云平氏の一族出来て、前亡の余類を集め、所々の逆党を招て国を乱らんとす。又河内国の賊徒等、佐々目憲法僧正と云ける者を取立て、飯盛山に城郭をぞ構ける。是のみならず、伊与国には赤橋駿河守が子息、駿河太郎重時と云者有て、立烏帽子峯に城を拵、四辺の庄園を掠領す。此等の凶徒、加法威於武力不退治者、早速に可難静謐とて、俄に紫宸殿の皇居に構壇、竹内慈厳僧正を被召て、天下安鎮の法をぞ被行ける。此法を行時、甲冑の武士四門を堅て、内弁・外弁、近衛、階下に陣を張り、伶人楽を奏する始、武家の輩南庭の左右に立双で、抜剣四方を鎮る事あり。四門の警固には、結城七郎左衛門親光・楠河内守正成・塩冶判官高貞・名和伯耆守長年也。南庭の陣には右は三浦介、左は千葉大介貞胤をぞ被召ける。此両人兼ては可随其役由を領状申たりけるが、臨其期千葉は三浦が相手に成ん事を嫌ひ、三浦は千葉が右に立ん事を忿て、共に出仕を留ければ、天魔の障礙、法会の違乱とぞ成にける。後に思合するに天下久無為なるまじき表示也けり。されども此法の効験にや、飯盛丸城は正成に被攻落、立烏帽子城は、土居・得能に被責破、筑紫は大友・小弐に打負て、朝敵の首京都に上しかば、共に被渡大路、軈て被懸獄門けり。東国・西国已静謐しければ、自筑紫小弐・大友・菊池・松浦の者共、大船七百余艘にて参洛す。新田左馬助・舎弟兵庫助七千余騎にて被上洛。此外国々の武士共、一人も不残上り集ける間、京白河に充満して、王城の富貴日来に百倍せり。諸軍勢の恩賞は暫く延引すとも、先大功の輩の抽賞を可被行とて、足利治部大輔高氏に、武蔵・常陸・下総三箇国、舎弟左馬頭直義に遠江国、新田左馬助義貞に上野・播磨両国、子息義顕に越後国、舎弟兵部少輔義助に駿河国、楠判官正成に摂津国・河内、名和伯耆守長年に因幡・伯耆両国をぞ被行ける。其外公家・武家の輩、二箇国・三箇国を給りけるに、さしもの軍忠有し赤松入道円心に、佐用庄一所許を被行。播磨国の守護職をば無程被召返けり。されば建武の乱に円心俄に心替して、朝敵と成しも、此恨とぞ聞へし。其外五十余箇国の守護・国司・国々の闕所大庄をば悉公家被官の人々拝領しける間、誇陶朱之富貴飽鄭白之衣食矣。
○千種殿並文観僧正奢侈事付解脱上人事 S1204
中にも千種頭中将忠顕朝臣は、故六条内府有房公の孫にて御坐しかば文字の道をこそ、家業とも嗜まるべかりしに、弱冠の比より我道にもあらぬ笠懸・犬追物を好み、博奕・婬乱を事とせられける間、父有忠卿離父子義、不幸の由にてぞ被置ける。され共此朝臣、一時の栄花を可開過去の因縁にや有けん、主上隠岐国へ御遷幸の時供奉仕て、六波羅の討手に上りたりし忠功に依て、大国三箇国、闕所数十箇所被拝領たりしかば、朝恩身に余り、其侈り目を驚せり。其重恩を与へたる家人共に、毎日の巡酒を振舞せけるに、堂上に袖を連ぬる諸大夫・侍三百人に余れり。其酒肉珍膳の費へ、一度に万銭も尚不可足。又数十間の厩を作双べて、肉に余れる馬を五六十疋被立たり。宴罷で和興に時は、数百騎を相随へて内野・北山辺に打出て追出犬、小鷹狩に日を暮し給ふ。其衣裳は豹・虎皮を行縢に裁ち、金襴纐纈を直垂に縫へり。賎服貴服謂之僭上。々々無礼国凶賊也と、孔安国が誡を不恥ける社うたてけれ。是はせめて俗人なれば不足言。彼文観僧正の振舞を伝聞こそ不思議なれ。適一旦名利の境界を離れ、既に三密瑜伽の道場に入給し無益、只利欲・名聞にのみ■て、更に観念定坐の勤を忘たるに似り。何の用ともなきに財宝を積倉不扶貧窮、傍に集武具士卒を逞す。成媚結交輩には、無忠賞を被申与ける間、文観僧正の手の者と号して、建党張臂者、洛中に充満して、及五六百人。されば程遠からぬ参内の時も、輿の前後に数百騎の兵打囲で、路次を横行しければ、法衣忽汚馬蹄塵、律儀空落人口譏。彼廬山慧遠法師は一度辞風塵境、寂寞の室に坐し給しより、仮にも此山を不出と誓て、十八賢聖を結で、長日に六時礼讚を勤き。大梅常和尚は強不被世人知住処更に茅舎を移して入深居、詠山居風味得已熟印可給へり。有心人は、皆古〔も〕今も韜光消跡、暮山の雲に伴一池の蓮を衣として、行道清心こそ生涯を尽す事なるに、此僧正は如此名利の絆に羈れけるも非直事、何様天魔外道の其心に依託して、挙動せけるかと覚たり。以何云之ならば、文治の比洛陽に有一沙門。其名を解脱上人とぞ申ける。其母七歳の時、夢中に鈴を呑と見て設たりける子なりければ、非直人とて、三に成ける時より、其身を入釈門、遂に貴き聖とは成しける也。されば慈悲深重にして、三衣の破たる事を不悲、行業不退にして、一鉢の空き事を不愁。大隠は必しも市朝の内を不辞。身は雖交五濁塵、心は不犯三毒霧。任縁歳月を渡り、利生山川を抖薮し給けるが、或時伊勢太神宮に参て、内外宮を巡礼して、潛に自受法楽の法施をぞ被奉ける。大方自余の社には様替て、千木不曲形祖木不剃、是正直捨方便の形を顕せるかと見へ、古松垂枝老樹敷葉、皆下化衆生の相を表すと覚たり。垂迹の方便をきけば、仮に雖似忌三宝名、内証深心を思へば、其も尚有化俗結縁理覚て、そゞろに感涙袖を濡しければ、日暮けれ共在家なんどに可立宿心地もし給はず、外宮の御前に通夜念誦して、神路山の松風に眠をさまし、御裳濯川の月に心を清して御坐ける処に、俄に空掻曇雨風烈吹て、雲の上に車を轟、馬を馳る音して東西より来れり。「あな恐しや、此何物やらん。」と上人消肝見給へば、忽然として虚空に瑩玉鏤金たる宮殿楼閣出来て、庭上に引幔門前に張幕。爰に十方より所来の車馬の客、二三千も有らんと覚たるが左右に居流て、上座に一人の大人あり。其容甚非尋常、長二三十丈も有らんと見揚たるに、頭は如夜叉十二の面上に双べり。四十二の手有て左右に相連る。或は握日月、或は提剣戟八竜にぞ乗たりける。相順処の眷属共、皆非常人、八臂六足にして鉄の楯を挟み、三面一体にして金の鎧着せり。座定て後、上坐に居たる大人左右に向て申けるは、「此比帝釈の軍に打勝て手に握日月、身居須弥頂、一足に雖蹈大海、其眷属毎日数万人亡、故何事ぞと見れば、南胆部州扶桑国洛陽辺に解脱房と云一人の聖出来て、化導利生する間、法威盛にして天帝得力、魔障弱して修羅失勢。所詮彼が角て有ん程は、我等向天帝合戦する事叶ふまじ。何にもして彼が醒道心、可着■慢懈怠心。」申ければ、甲の真向に、第六天の魔王と金字に銘を打たる者座中に進出で、「彼醒道心候はん事は、可輒るにて候。先後鳥羽院に滅武家思召心を奉着、被攻六波羅、左京権大夫義時定て向官軍可致合戦。其時加力義時ば官軍敗北して、後鳥羽院遠国へ被流給はゞ、義時司天下成敗治天を計申さんに、必広瀬院第二の宮を可奉即位。さる程ならば、此解脱房彼宮の有御帰依聖なれば、被召官僧奉近竜顔、可刷出仕儀則。自是行業は日々に怠、■慢は時々に増て、破戒無慚の比丘と成んずる条、不可有子細、角てぞ我等も若干の眷属を可設候。」と申ければ、二行に並居たる悪魔外道共、「此儀尤可然覚候。」と同じて各東西に飛去にけり。上人聞此事給て、「是ぞ神明の我に道心を勧させ給ふ御利生よ。」と歓喜の泪を流し、其より軈京へは帰給はで、山城国笠置と云深山に卜一巌屋、攅落葉為身上衣、拾菓為口食、長発厭離穢土心鎮専欣求浄土勤し給ひける。角て三四年を過給ひける処に承久の合戦出来て、義時執天下権しかば、後鳥羽院被流させ給て、広瀬宮即天子位給ける。其時解脱上人在笠置窟聞召て、為官僧度々被下勅使被召けれ共、是こそ第六天の魔王共が云し事よと被思ければ、遂に不随勅定弥行澄してぞ御坐しける。智行徳開しかば、軈て成此寺開山、今に残仏法弘通紹隆給へり。以彼思此、うたてかりける文観上人の行儀哉と、迷愚蒙眼。遂無幾程建武の乱出来しかば、無法流相続門弟一人成孤独衰窮身、吉野の辺に漂泊して、終給けるとぞ聞へし。
○広有射怪鳥事 S1205
元弘三年七月に改元有て建武に被移。是は後漢光武、治王莽之乱再続漢世佳例也とて、漢朝の年号を被摸けるとかや。今年天下に疫癘有て、病死する者甚多し。是のみならず、其秋の比より紫宸殿の上に怪鳥出来て、「いつまで/\。」とぞ鳴ける。其声響雲驚眠。聞人皆無不忌恐。即諸卿相議して曰、「異国の昔、尭の代に九の日出たりしを、■と云ける者承て、八の日を射落せり。我朝の古、堀川院の御在位時、有反化物、奉悩君しをば、前陸奥守義家承て、殿上の下口に候、三度弦音を鳴して鎮之。又近衛院の御在位の時、鵺と云鳥の雲中に翔て鳴しをば、源三位頼政卿蒙勅、射落したりし例あれば、源氏の中に誰か可射候者有。」と被尋けれ共、射はづしたらば生涯の恥辱と思けるにや、我承らんと申者無りけり。「さらば上北面・諸庭の侍共中に誰かさりぬべき者有。」と御尋有けるに、「二条関白左大臣殿の被召仕候、隠岐次郎左衛門広有と申者こそ、其器に堪たる者にて候へ。」と被申ければ、軈召之とて広有をぞ被召ける。広有承勅定鈴間辺に候けるが、げにも此鳥蚊の睫に巣くうなる■螟の如く少て不及矢も、虚空の外に翔飛ばゞ叶まじ。目に見ゆる程の鳥にて、矢懸りならんずるに、何事ありとも射はづすまじき物をと思ければ、一義も不申畏て領掌す。則下人に持せたる弓与矢を執寄て、孫廂の陰に立隠て、此鳥の有様を伺見るに、八月十七夜の月殊に晴渡て、虚空清明たるに、大内山の上に黒雲一群懸て、鳥啼こと荐也。鳴時口より火炎を吐歟と覚て、声の内より電して、其光御簾の内へ散徹す。広有此鳥の在所を能々見課て、弓押張り弦くひしめして、流鏑矢を差番て立向へば、主上は南殿に出御成て叡覧あり。関白殿下・左右の大将・大中納言・八座・七弁・八省輔・諸家の侍、堂上堂下に連袖、文武百官見之、如何が有んずらんとかたづを呑で拳手。広有已に立向て、欲引弓けるが、聊思案する様有げにて、流鏑にすげたる狩俣を抜て打捨、二人張に十二束二伏、きり/\と引しぼりて無左右不放之、待鳥啼声たりける。此鳥例より飛下、紫宸殿の上に二十丈許が程に鳴ける処を聞清して、弦音高く兵と放つ。鏑紫宸殿の上を鳴り響し、雲の間に手答して、何とは不知、大盤石の如落懸聞へて、仁寿殿の軒の上より、ふたへに竹台の前へぞ落たりける。堂上堂下一同に、「あ射たり/\。」と感ずる声、半時許のゝめいて、且は不云休けり。衛士の司に松明を高く捕せて是を御覧ずるに、頭は如人して、身は蛇の形也。嘴の前曲て歯如鋸生違。両の足に長距有て、利如剣。羽崎を延て見之、長一丈六尺也。「さても広有射ける時、俄に雁俣を抜て捨つるは何ぞ。」と御尋有ければ、広有畏て、「此鳥当御殿上鳴候つる間、仕て候はんずる矢の落候はん時、宮殿の上に立候はんずるが禁忌しさに、雁俣をば抜て捨つるにて候。」と申ければ、主上弥叡感有て、其夜軈て広有を被成五位、次の日因幡国に大庄二箇所賜てけり。弓矢取の面目、後代までの名誉也。
○神泉苑事 S1206
兵革の後、妖気猶示禍。銷其殃無如真言秘密効験とて、俄に神泉苑をぞ被修造ける。彼神泉園と申は、大内始て成し時、准周文王霊囿、方八町に被築たりし園囿也。其後桓武の御世に、始て朱雀門の東西に被建二寺。左をば名東寺右をば号西寺。東寺には高野大師安胎蔵界七百余尊守金輪宝祚。西寺には南都の周敏僧都金剛界五百余尊を顕して、被祈玉体長久。斯りし処に、桓武御宇延暦二十三年春比、弘法大師為求法御渡唐有けり。其間周敏僧都一人奉近竜顔被致朝夕加持ける。或時御門御手水を被召けるが、水氷て余につめたかりける程に、暫とて閣き給ひたりけるを、周敏向御手水結火印を給ける間、氷水忽に解て如沸湯也。御門被御覧て、余に不思議に被思召ければ、態火鉢に炭を多くをこさせて、障子を立廻し、火気を内に被篭たれば、臘裏風光宛如春三月也。帝御顔の汗を押拭はせ給て、「此火滅ばや。」と被仰ければ、守敏又向火水の印をぞ結び給ひける。依之炉火忽に消て空く冷灰に成にければ、寒気侵膚五体に如灑水。自此後、守敏加様の顕奇特不思議事如得神変。斯しかば帝是を帰依渇仰し給へる事不尋常。懸りける処に弘法大師有御帰朝。即参内し給ふ。帝異朝の事共有御尋後、守敏僧都の此間様々なりつる奇特共をぞ御物語有ける。大師聞召之、「馬鳴■帷、鬼神去閉口、栴檀礼塔支提破顕尸と申事候へば、空海が有んずる処にて、守敏よもさやうの奇特をば現し候はじ。」とぞ被欺ける。帝さらば両人の効験を施させて威徳の勝劣を被御覧思召て、或時大師御参内有けるを、傍に奉隠置、守敏応勅御前に候す。時に帝湯薬を進りけるが、建盞を閣せ給て、「余に此水つめたく覚る。例の様に加持して被暖候へかし。」とぞ被仰ける。守敏仔細候はじとて、向建盞結火印被加持けれども、水敢て不成湯。帝「こは何なる不思議ぞや。」と被仰、左右に目くわし有ければ、内侍の典主なる者、態熱く沸返たる湯をついで参たり。帝又湯を立させて進らんとし給ひけるが、又建盞を閣せ給ふ。「是は余に熱て、手にも不被捕。」と被仰ければ、守敏先にもこりず、又向建盞結水印たりけれ共、湯敢不醒、尚建盞の内にて沸返る。守敏前後の不覚に失色、損気給へる処に、大師傍なる障子の内より御出有て、「何に守敏、空海是に有とは被存知候はざりける歟。星光は消朝日蛍火は隠暁月。」とぞ咲れける。守敏大に恥之挿欝陶於心中、隠嗔恚於気上被退出けり。自其守敏君を恨申す憤入骨髄深かりければ、天下に大旱魃をやりて、四海の民を無一人飢渇に合せんと思て、一大三千界の中にある所の竜神共を捕へて、僅なる水瓶の内に押篭てぞ置たりける。依之孟夏三月の間、雨降事無して、農民不勤耕作。天下の愁一人の罪にぞ帰しける。君遥に天災の民に害ある事を愁へ思召て、弘法大師を召請じて、雨の祈をぞ被仰付ける。大師承勅、先一七日の間入定、明に三千界の中を御覧ずるに、内海・外海の竜神共、悉守敏の以呪力、水瓶の中に駆篭て可降雨竜神無りけり。但北天竺の境大雪山の北に無熱池と云池の善女竜王、独守敏より上位の薩■にて御坐ける。大師定より出て、此由を奏聞有ければ、俄に大内の前に池を掘せ、清涼の水を湛て竜王をぞ勧請し給ける。于時彼善女龍王金色の八寸の竜に現じて、長九尺許の蛇の頂に乗て此池に来給ふ。則此由を奏す。公家殊に敬嘆せさせ給て、和気真綱を勅使として、以御幣種々物供龍王を祭せらる。其後湿雲油然として降雨事国土に普し。三日の間をやみ無して、災旱の憂永消ぬ。真言の道を被崇事自是弥盛也。守敏尚腹を立て、さらば弘法大師を奉調伏思て、西寺に引篭り、三角の壇を構へ本尊を北向に立て、軍荼利夜叉の法をぞ被行ける。大師此由を聞給て、則東寺に炉壇を構へ大威徳明王の法を修し給ふ。両人何れも徳行薫修の尊宿也しかば、二尊の射給ける流鏑矢空中に合て中に落る事、鳴休隙も無りけり。爰に大師、守敏を油断させんと思召て、俄に御入滅の由を被披露ければ、緇素流悲歎泪、貴賎呑哀慟声。守敏聞之、「法威成就しぬ。」と成悦則被破壇けり。此時守敏俄に目くれ鼻血垂て、心身被悩乱けるが、仏壇の前に倒伏て遂に無墓成にけり。「呪咀諸毒薬還着於本人」と説給ふ金言、誠に験有て、不思議なりし効験也。自是して東寺は繁昌し西寺滅亡す。大師茅と云草を結で、竜の形に作て壇上に立て行はせ給ける。法成就の後、聖衆を奉送給けるに、真の善女龍王をば、軈神泉園に留奉て、「竜華下生三会の暁まで、守此国治我法給へ。」と、御契約有ければ、今まで迹を留て彼池に住給ふ。彼茅の竜王は大龍に成て、無熱池へ飛帰玉ふとも云、或云聖衆と共に空に昇て、指東を、飛去、尾張国熱田の宮に留り玉ふ共云説あり。仏法東漸の先兆、東海鎮護の奇瑞なるにや。大師言、「若此竜王他界に移らば池浅く水少して国荒れ世乏らん。其時は我門徒加祈請、竜王を奉請留可助国。」宣へり。今は水浅く池あせたり。恐は竜王移他界玉へる歟。然共請雨経の法被行ごとに掲焉の霊験猶不絶、未国捨玉似たり、風雨叶時感応奇特の霊池也。代々の御門崇之家々の賢臣敬之。若旱魃起る時は先池を浄む。然を後鳥羽法皇をり居させ玉ひて後、建保の比より此所廃れ、荊棘路を閉るのみならず、猪鹿の害蛇放たれ、流鏑の音驚護法聴、飛蹄の響騒冥衆心。有心人不恐歎云事なし。承久の乱の後、故武州禅門潛に悲此事、高築垣堅門被止雑穢。其後涼燠数改て門牆漸不全。不浄汚穢之男女出入無制止、牛馬水草を求る往来無憚。定知竜神不快歟。早加修理可崇重給。崇此所国土可治也。
○兵部卿親王流刑事付驪姫事 S1207
兵部卿親王天下の乱に向ふ程は、無力為遁其身難雖被替御法体、四海已に静謐せば、如元復三千貫長位、致仏法・王法紹隆給んこそ、仏意にも叶ひ叡慮にも違はせ給ふまじかりしを、備征夷将軍位可守天下武道とて、則勅許を被申しかば、聖慮不隠しか共、任御望遂に被下征夷将軍宣旨。斯りしかば、四海の倚頼として慎身可被重位御事なるに、御心の侭に極侈、世の譏を忘て婬楽をのみ事とし給しかば、天下の人皆再び世の危からん事を思へり。大乱の後は弓矢を裹て干戈袋にすとこそ申すに、何の用ともなきに、強弓射る者、大太刀仕ふ者とだに申せば、無忠被下厚恩、左右前後に仕承す。剰加様のそらがらくる者共、毎夜京白河を廻て、辻切をしける程に、路次に行合ふ児法師・女童部、此彼に被切倒、逢横死者無休時。是も只足利治部卿を討んと被思召ける故に、集兵被習武ける御挙動也。抑高氏卿今までは随分有忠仁にて、有過僻不聞、依何事兵部卿親王は、是程に御憤は深かりけるぞと、根元を尋ぬれば、去年の五月に官軍六波羅を責落したりし刻、殿法印の手の者共、京中の土蔵共を打破て、財宝共を運び取ける間、為鎮狼籍、足利殿の方より是を召捕て、二十余人六条河原に切ぞ被懸ける。其高札に、「大塔宮の候人、殿法印良忠が手の者共、於在々所々、昼強盜を致す間、所誅也。」とぞ被書たりける。殿法印此事を聞て不安事に被思ければ、様々の讒を構へ方便を廻して、兵部卿親王にぞ被訴申ける。加様の事共重畳して達上聞ければ、宮も憤り思召して、志貴に御座有し時より、高氏卿を討ばやと、連々に思召立けれ共、勅許無りしかば無力黙止給けるが、尚讒口不止けるにや、内々以隠密儀を、諸国へ被成令旨を、兵をぞ被召ける。高氏卿此事を聞て、内々奉属継母准后被奏聞けるは、「兵部卿親王為奉奪帝位、諸国の兵を召候也。其証拠分明に候。」とて、国々へ被成下処の令旨を取て、被備上覧けり。君大に逆鱗有て、「此宮を可処流罪。」とて、中殿の御会に寄事兵部卿親王をぞ被召ける。宮懸る事とは更に不思召寄、前駈二人・侍十余人召具して、忍やかに御参内有けるを、結城判官・伯耆守二人、兼てより承勅用意したりければ、鈴の間の辺に待受て奉捕之、則馬場殿に奉押篭。宮は一間なる所の蜘手結たる中に、参通ふ人独も無して、泪の床に起伏せ給ふにも、こは何なる我身なれば、弘元の始は武家のために隠身、木の下岩のはざまに露敷袖をほしかね、帰洛の今は一生の楽未一日終、為讒臣被罪、刑戮の中には苦むらんと、知ぬ前世の報までも思召残す方もなし。「虚名不久立」云事あれば、さり共君も可被聞召直思召ける処に、公儀已に遠流に定りぬと聞へければ、不堪御悲、内々御心よせの女房して、委細の御書を遊し、付伝奏急可経奏聞由を被仰遣。其消息云先以勅勘之身欲奏無罪之由、涙落心暗、愁結言短。唯以一令察万、加詞被恤悲者、臣愚生前之望云足而已。夫承久以来、武家把権朝廷棄政年尚矣。臣苟不忍看之、一解慈悲忍辱法衣、忽被怨敵降伏之堅甲。内恐破戒之罪、外受無慙之譏。雖然為君依忘身、為敵不顧死。当斯時忠臣孝子雖多朝、或不励志、或徒待運。臣独無尺鉄之資、揺義兵隠嶮隘之中窺敵軍。肆逆徒専以我為根元之間、四海下法、万戸以贖。誠是命雖在天奈何身無措処。昼終日臥深山幽谷、石岩敷苔。夜通宵出荒村遠里跣足蹈霜。撫龍鬚消魂、践虎尾冷胸幾千万矣。遂運策於帷幄之中、亡敵於斧鉞之下。竜駕方還都、鳳暦永則天、恐非微臣之忠功、其為誰乎。而今戦功未立、罪責忽来。風聞其科条、一事非吾所犯、虚説所起惟悲不被尋究。仰而将訴天、日月不照不孝者、俯而将哭地、山川無載無礼臣。父子義絶、乾坤共棄。何愁如之乎。自今以後勲業為孰策。行蔵於世軽、綸宣儻被優死刑、永削竹園之名、速為桑門之客。君不見乎、申生死而晋国乱、扶蘇刑而秦世傾。浸潤之譖、膚受之愬、事起于小、禍皆逮大。乾臨何延古不鑒今。不堪懇歎之至、伏仰奏達。誠惶、誠恐謹言。三月五日護良前左大臣殿とぞ被遊ける。此御文、若達叡聞、宥免の御沙汰も有べかりしを、伝奏諸の憤を恐て、終に不奏聞ければ、上天隔听中心の訴へ不啓。此二三年宮に奉付副、致忠待賞御内の候人三十余人、潛に被誅之上は不及兎角申、遂に五月三日、宮を直義朝臣の方へ被渡ければ、以数百騎軍勢路次を警固し、鎌倉へ下し奉て、二階堂の谷に土篭を塗てぞ置進せける。南の御方と申ける上臈女房一人より外は、着副進する人もなく、月日の光も見へぬ闇室の内に向て、よこぎる雨に御袖濡し、岩の滴に御枕を干わびて、年の半を過し給ける御心の内こそ悲しけれ。君一旦の逆鱗に鎌倉へ下し進せられしかども是までの沙汰あれとは叡慮も不赴けるを、直義朝臣日来の宿意を以て、奉禁篭けるこそ浅猿けれ。孝子其父に雖有誠、継母其子を讒する時は傾国失家事古より其類多し。昔異国に晋の献公と云人坐しけり。其后斉姜三人の子を生給ふ。嫡子を申生と云、次男を重耳、三男を夷吾とぞ申ける。三人の子已に長成て後、母の斉姜病に侵されて、忽に無墓成にけり。献公歎之不浅しかども、別の日数漸遠く成しかば、移れば替る心の花に、昔の契を忘て、驪姫と云ける美人をぞ被迎ける。此驪姫只紅顔翠黛迷眼のみに非ず、又巧言令色君の心を令悦しかば、献公寵愛甚して、別し人の化は夢にも不見成にけり。角て経年月程に、驪姫又子を生り。是を奚齊とぞ名付る。奚齊未幼といへ共、母の寵愛に依て、父のをぼへ三人の太子に超たりしかば、献公常に前の后斉姜の子三人を捨て、今の驪姫が腹の子奚齊に、晋の国を譲んと思へり。驪姫心には嬉く乍思、上に偽て申けるは、「奚齊未だ幼くして不弁善悪を、賢愚更に不見前に、太子三人を超て、継此国事、是天下の人の可悪処。」と、時々に諌め申ければ、献公弥驪姫が心に無私、世の譏を恥、国の安からん事を思へる処を感じて、只万事を被任之しかば、其威倍々重く成て天下皆是に帰伏せり。或時嫡子の申生、母の追孝の為に、三牲の備を調へて、斉姜の死して埋れし曲沃の墳墓をぞ被祭ける。其胙の余を、父の献公の方へ奉給ふ。献公折節狩場に出給ひければ、此ひもろぎを裹で置たるに、驪姫潛に鴆と云恐毒を被入たり。献公狩場より帰て、軈此ひもろぎを食んとし給ひけるを、驪姫申されけるは、「外より贈れる物をば、先づ人に食せて後に、大人には進らする事ぞ。」とて御前なりける人に食られたるに、其人忽に血を吐て死にけり。こは何かなる事ぞとて、庭前なる鶏・犬に食せて見給へば、鶏・犬共に斃て死ぬ。献公大に驚て其余を土に捨給へば、捨たる処の土穿て、あたりの草木皆枯萎む。驪姫偽て泪を流し申けるは、「吾太子申生を思ふ事奚齊に不劣。されば奚齊を太子に立んとし給しをも、我こそ諌申て止つるに、さればよ此毒を以て、我と父とを殺して、早晋の国を捕んと被巧けるこそうたてけれ。是を以て思ふに、献公何にも成給なん後は、申生よも我と奚齊とをば、一日片時も生て置給はじ。願は君我を捨、奚齊を失て、申生の御心を休給へ。」と泣々献公にぞ申されける。献公元来智浅して讒を信ずる人なりければ、大に忿て太子申生を可討由、典獄の官に被仰付。諸群臣皆、申生の無罪して死に赴んずる事を悲て、「急他国へ落させ給ふべし。」とぞ告たりける。申生是を聞給て、「我少年の昔は母を失て、長年の今継母に逢へり。是不幸の上に妖命備れり。抑天地間何の所にか父子のなき国あらん、今為遁其死他国へ行て、是こそ父を殺んとて鴆毒を与へたりし大逆不幸の者よと、見る人ごとに悪れて、生ては何の顔かあらん。我不誤処をば天知之。只虚名の下に死を賜て、父の忿を休んには不如。」とて、討手の未来前に自剣に貫て、遂に空成にけり。其弟重耳・夷吾此事を聞て、驪姫が讒の又我身の上に成ん事を恐て、二人共に他国へぞ逃給ける。角て奚齊に晋国を譲得たりけるが、天命に背しかば、無幾程献公・奚齊父子共に、其臣里剋と云ける者に討れて、晋の国忽に滅びけり。抑今兵革一時に定て、廃帝重祚を践せ給ふ御事、偏に此宮の依武功に事なれば、縦雖有小過誡而可被宥かりしを、無是非被渡敵人手、被処遠流事は、朝廷再傾て武家又可蔓延瑞相にやと、人々申合けるが、果して大塔宮被失させ給し後、忽に天下皆将軍の代と成てけり。牝鶏晨するは家の尽る相なりと、古賢の云し言の末、げにもと被思知たり。


太平記

太平記巻十三
○龍馬進奏事 S1301
鳳闕の西二条高倉に、馬場殿とて、俄に離宮を被立たり。天子常に幸成て、歌舞・蹴鞠の隙には、弓馬の達者を被召、競馬を番はせ、笠懸を射させ、御遊の興をぞ被添ける。其比佐々木塩冶判官高貞が許より、竜馬也とて月毛なる馬の三寸計なるを引進す。其相形げにも尋常の馬に異也。骨挙り筋太くして脂肉短し。頚は鶏の如にして、須弥の髪膝を過ぎ、背は竜の如にして、四十二の辻毛を巻て背筋に連れり。両の耳は竹を剥で直に天を指し、双の眼は鈴を懸て、地に向ふ如し。今朝の卯刻に出雲の富田を立て、酉剋の始に京著す。其道已に七十六里、鞍の上閑にして、徒に坐せるが如し。然共、旋風面を撲に不堪とぞ奏しける。則左馬寮に被預、朝には禁池に水飼、夕には花廏に秣飼。其比天下一の馬乗と聞へし本間孫四郎を被召て被乗、半漢雕梁甚不尋常。四蹄を縮むれば双六盤の上にも立ち、一鞭を当つれば十丈の堀をも越つべし。誠に天馬に非ずば斯る駿足は難有とて、叡慮更に類無りけり。或時主上馬場殿に幸成て、又此馬を叡覧有けるに、諸卿皆左右に候す。時に主上洞院の相国に向て被仰けるは、「古へ、屈産の乗、項羽が騅、一日に千里を翔る馬有といへども、我朝に天馬の来る事を未だ聞ず。然に朕が代に当て此馬不求出来る。吉凶如何。」と御尋ありけるに、相国被申けるは、「是聖明の徳に不因ば、天豈此嘉瑞を降候はんや。虞舜の代には鳳凰来、孔子の時は麒麟出といへり。就中天馬の聖代に来る事第一の嘉祥也。其故は昔周の穆王の時、驥・■・驪・■・■・■・■・駟とて八疋の天馬来れり。穆王是に乗て、四荒八極不至云所無りけり。或時西天十万里の山川を一時に越て、中天竺の舎衛国に至り給ふ。時に釈尊霊鷲山にして法華を説給ふ。穆王馬より下て会座に臨で、則仏を礼し奉て、退て一面に坐し給へり。如来問て宣く、「汝は何の国の人ぞ。」穆王答曰、「吾は是震旦国の王也。」仏重て宣く、「善哉今来此会場。我有治国法、汝欲受持否。」穆王曰、「願は信受奉行して理民安国の施功徳。」爾時、仏以漢語、四要品の中の八句の偈を穆王に授給ふ。今の法華の中の経律の法門有と云ふ深秘の文是也。穆王震旦に帰て後深心底に秘して世に不被伝。此時慈童と云ける童子を、穆王寵愛し給ふに依て、恒に帝の傍に侍けり。或時彼慈童君の空位を過けるが、誤て帝の御枕の上をぞ越ける。群臣議して曰、「其例を考るに罪科非浅に。雖然事誤より出たれば、死罪一等を宥て遠流に可被処。」とぞ奏しける。群議止事を不得して、慈童を■県と云深山へぞ被流ける。彼■県と云所は帝城を去事三百里、山深して鳥だにも不鳴、雲暝して虎狼充満せり。されば仮にも此山へ入人の、生て帰ると云事なし。穆王猶慈童を哀み思召ければ、彼八句の内を分たれて、普門品にある二句の偈を、潛に慈童に授させ給て、「毎朝に十方を一礼して、此文を可唱。」と被仰ける。慈童遂に■県に被流、深山幽谷の底に被棄けり。爰に慈童君の恩命に任て、毎朝に一反此文を唱けるが、若忘もやせんずらんと思ければ、側なる菊の下葉に此文を書付けり。其より此菊の葉にをける下露、僅に落て流るゝ谷の水に滴りけるが、其水皆天の霊薬と成る。慈童渇に臨で是を飲に、水の味天の甘露の如にして、恰百味の珍に勝れり。加之天人花を捧て来り、鬼神手を束て奉仕しける間、敢て虎狼悪獣の恐無して、却て換骨羽化の仙人と成る。是のみならず、此谷の流の末を汲で飲ける民三百余家、皆病即消滅して不老不死の上寿を保てり。其後時代推移て、八百余年まで慈童猶少年の貌有て、更に衰老の姿なし。魏の文帝の時、彭祖と名を替て、此術を文帝に授奉る。文帝是を受て菊花の盃を伝へて、万年の寿を被成。今の重陽の宴是也。其より後、皇太子位を天に受させ給ふ時、必先此文を受持し給ふ。依之普門品を当途王経とは申なるべし。此文我朝に伝はり、代々の聖主御即位の日必ず是を受持し給ふ。若幼主の君践祚ある時は、摂政先是を受て、御治世の始に必君に授奉る。此八句の偈の文、三国伝来して、理世安民の治略、除災与楽の要術と成る。是偏に穆王天馬の徳也。されば此龍馬の来れる事、併仏法・王法の繁昌宝祚長久の奇瑞に候べし。」と被申たりければ、主上を始進せて、当座の諸卿悉心に服し旨を承て、賀し申さぬ人は無りけり。暫有て万里小路の中納言藤房卿被参。座定まて後、主上又藤房卿に向て、「天馬の遠より来れる事、吉凶の間、諸臣の勘例、已に皆先畢ぬ。藤房は如何思へるぞ。」と勅問有ければ、藤房卿被申けるは、「天馬の本朝に来れる事、古今未だ其例を承候はねば、善悪・吉凶勘へ申難しといへども退て愚案を回すに、是不可有吉事に。其故は昔漢の文帝の時、一日に千里を行馬を献ずる者あり。公卿・大臣皆相見て是を賀す。文帝笑て曰、「吾吉に行日は三十里凶に行日は十里、鸞輿在前、属車在後、吾独乗千里駿馬将安之乎。」とて乃償其道費而遂被返之。又後漢の光武時、千里の馬と宝剣とを献ずる者あり。光武是を珍とせずして、馬をば鼓車に駕し、剣をば騎士に賜ふ。又周の代已に衰なんとせし時、房星降て八匹の馬と成れり。穆王是を愛して造父をして御たらしめて、四荒八極の外瑶池に遊び碧台に宴し給ひしかば、七廟の祭年を逐て衰へ、明堂の礼日に随て廃れしかば、周の宝祚傾けり。文帝・光武の代には是を棄て福祚久く栄へ、周穆の時には是を愛して王業始て衰ふ。拾捨の間、一凶一吉的然として在耳。臣愚窃に是を案ずるに、「由来尤物是非天、只蕩君心則為害。」といへり。去ば今政道正からざるに依て、房星の精、化して此馬と成て、人の心を蕩かさんとする者也。其故は大乱の後民弊へ人苦で、天下未安れば、執政吐哺を、人の愁を聞、諌臣上表を、主の誤を可正時なるに、百辟は楽に婬して世の治否を不見、群臣は旨に阿て国の安危を不申。依之記録所・決断所に群集せし訴人日々に減じて訴陳徒に閣けり。諸卿是を見て、虞■の訴止て諌鼓撃人なし。無為の徳天下に及で、民皆堂々の化に誇れりと思へり。悲乎其迷へる事。元弘大乱の始、天下の士卒挙て官軍に属せし事更に無他。只一戦の利を以て勲功の賞に預らんと思へる故也。されば世静謐の後、忠を立賞を望む輩、幾千万と云数を知ず。然共公家被官の外は、未恩賞を給たる者あらざるに、申状を捨て訟を止たるは、忠功の不立を恨み、政道の不正を褊して、皆己が本国に帰る者也。諌臣是に驚て、雍歯が功を先として、諸卒の恨を散ずべきに、先大内裏造営可有とて、諸国の地頭に二十分一の得分を割分て被召れば、兵革の弊の上に此功課を悲めり。又国々には守護威を失ひ国司権を重くす。依之非職凡卑の目代等、貞応以後の新立の庄園を没倒して、在庁官人・検非違使・健児所等過分の勢ひを高せり。加之諸国の御家人の称号は、頼朝卿の時より有て已に年久しき武名なるを、此御代に始て其号を被止ぬれば、大名・高家いつしか凡民の類に同じ。其憤幾千万とか知らん。次には天運図に膺て朝敵自亡ぬといへども、今度天下を定て、君の宸襟を休め奉たる者は、高氏・義貞・正成・円心・長年なり。彼等が忠を取て漢の功臣に比せば、韓信・彭越・張良・蕭何・曹参也。又唐の賢佐に譬ば、魏徴・玄齢・世南・如晦・李勣なるべし。其志節に当り義に向て忠を立所、何れをか前とし何れをか後とせん。其賞皆均其爵是同かるべき処に、円心一人僅に本領一所の安堵を全して、守護恩補の国を被召返事、其咎そも何事ぞや。「賞中其功則有忠之者進、罰当其罪則有咎之者退。」と云へり。痛哉今の政道、只抽賞の功に不当譏のみに非ず。兼ては綸言の掌を翻す憚あり。今若武家の棟梁と成ぬべき器用の仁出来て、朝家を褊し申事あらば、恨を含み政道を猜む天下の士、糧を荷て招ざるに集らん事不可有疑。抑天馬の用所を案ずるに、徳の流行する事は郵を置て命を伝るよりも早ければ、此馬必しも不足用。只大逆不慮に出来る日、急を遠国に告る時、聊用に得あらんか。是静謐の朝に出で、兼て大乱の備を設く。豈不吉の表事に候はずや。只奇物の翫を止て、仁政の化を致れんには不如。」と、誠を至し言を不残被申しに、竜顔少し逆鱗の気色有て、諸臣皆色を変じければ、旨酒高会も無興して、其日の御遊はさて止にけりとぞ聞へし。
○藤房卿遁世事 S1302
其後藤房卿連続して諌言を上りけれども、君遂に御許容無りしかば、大内裏造営の事をも不被止、蘭籍桂筵の御遊猶頻なりければ、藤房是を諌兼て、「臣たる道我に於て至せり。よしや今は身を退には不如。」と、思定てぞ坐しける。三月十一日は、八幡の行幸にて、諸卿皆路次の行装を事とし給けり。藤房も時の大理にて坐する上、今は是を限の供奉と被思ければ、御供の官人、悉目を驚す程に出立れたり。看督長十六人、冠の老懸に、袖単白くしたる薄紅の袍に白袴を著し、いちひはばきに乱れ緒をはいて列をひく。次に走り下部八人、細烏帽子に上下、一色の家の紋の水干著て、二行に歩つゞきたり。其後大理は、巻纓の老懸に、赤裏の表の袴、靴の沓はいて、蒔絵の平鞘太刀を佩、あまの面の羽付たる平胡■の箙を負、甲斐の大黒とて、五尺三寸有ける名馬の太く逞に、いかけ地の鞍置て、水色の厚総の鞦に、唐糸の手縄ゆるらかに結でかけ、鞍の上閑に乗うけて、町に三処手縄入させ小路に余て歩せ出たれば、馬副四人、か千冠に猪の皮の尻鞘の太刀佩て、左右にそひ、かい副の侍二人をば、烏帽子に花田のうち絹を重て、袖単を出したる水干著たる舎人の雑色四人、次に白張に香の衣重たる童一人、次に細烏帽子に袖単白して、海松色の水干著たる調度懸六人、次に細烏帽子に香の水干著たる舎人八人、其次に直垂著の雑人等百余人、警蹕の声高らかに、傍を払て被供奉たり。伏拝に馬を留て、男山を登給ふにも、栄行時も有こし物也と、明日は被謂ぬべき身の程も哀に、石清水を見給にも、可澄末の久しさを、君が御影に寄て祝し、其言葉の引替て、今よりは心の垢を雪、憂世の耳を可洗便りに成ぬと思給ひ、大菩薩の御前にして、潛に自受法楽の法施を献ても、道心堅固速証菩提と祈給へば、和光同塵の月明かに心の闇をや照すらんと、神慮も暗に被量たり。御神拝一日有て還幸事散じければ、藤房致仕の為に被参内、竜顔に近付進せん事、今ならでは何事にかと被思ければ、其事となく御前に祗候して、竜逢・比干が諌に死せし恨、伯夷・叔斉が潔きを蹈にし跡、終夜申出て、未明に退出し給へば、大内山の月影も涙に陰りて幽なり。陣頭より車をば宿所へ返し遣し、侍一人召具して、北山の岩蔵と云所へ趣かれける。此にて不二房と云僧を戒師に請じて、遂に多年拝趨の儒冠を解で、十戒持律の法体に成給けり。家貧く年老ぬる人だにも、難離難捨恩愛の旧き栖也。況乎官禄共に卑からで、齢未四十に不足人の、妻子を離れ父母を捨て、山川抖薮の身と成りしは、ためしすくなき発心也。此事叡聞に達しければ、君無限驚き思召て、「其在所を急ぎ尋出し、再び政道輔佐の臣と可成。」と、父宣房卿に被仰下ければ、宣房卿泣々車を飛して、岩蔵へ尋行給けるに、中納言入道は、其朝まで岩蔵の坊にをはしけるが、是も尚都近き傍りなれば、浮世の人の事問ひかはす事もこそあれと厭はしくて、何地と云方もなく足に信て出給ひけり。宣房卿彼坊に行給て、「左様の人やある。」と被尋ければ、主の僧、「さる人は今朝まで是に御坐候つるが、行脚の御志候とて、何地へやらん御出候つる也。」とぞ答へける。宣房卿悲歎の泪を掩て其住捨たる菴室を見給へば、誰れ見よとてか書置ける、破たる障子の上に、一首の歌を被残たり。住捨る山を浮世の人とはゞ嵐や庭の松にこたへん棄恩入無為、真実報恩者と云文の下に、白頭望断万重山。曠劫恩波尽底乾。不是胸中蔵五逆。出家端的報親難。と、黄蘗の大義渡を題せし古き頌を被書たり。さてこそ此人設ひ何くの山にありとも、命の中の再会は叶ふまじかりけるよと、宣房卿恋慕の泪に咽んで、空く帰り給ひけり。抑彼宣房卿と申は、吉田大弐資経の孫、藤三位資通の子也。此人閑官の昔、五部の大乗経を一字三礼に書供養して、子孫の繁昌を祈らん為に、春日の社にぞ被奉納ける。其夜の夢想に、黄衣著たる神人、榊の枝に立文を著て、宣房卿の前に差置たり。何なる文やらんと怪て、急是を披て見給へば、上書に万里小路一位殿へと書て、中には、速証無上大菩提と、金字にぞ書たりける。夢覚て後静に是を案ずるに、我朝廷に仕へて、位一品に至らんずる条無疑。中に見へつる金字の文は、我則此作善を以て、後生善処の望を可達者也と、二世の悉地共に成就したる心地して、憑もしく思給けるが、果して元弘の末に、父祖代々絶て久き従一位に成給けり。中に見へし金字の文は、子息藤房卿出家得道し給べき、其善縁有と被示ける明神の御告なるべし。誠に百年の栄耀は風前の塵、一念の発心は命後の灯也。一子出家すれば、七世の父母皆仏道を成すと、如来の所説明なれば、此人一人の発心に依て、七世の父母諸共に、成仏得道せん事、歎の中の悦なるべければ、是を誠に第一の利生預りたる人よと、智ある人は聞て感歎せり。
○北山殿謀叛事 S1303
故相摸入道の舎弟、四郎左近大夫入道は、元弘の鎌倉合戦の時、自害したる真似をして、潛に鎌倉を落て、暫は奥州に在けるが、人に見知れじが為に、還俗して京都に上、西園寺殿を憑奉て、田舎侍の始て召仕はるゝ体にてぞ居たりける。是も承久の合戦の時、西園寺の太政大臣公経公、関東へ内通の旨有しに依て、義時其日の合戦に利を得たりし間、子孫七代迄、西園寺殿を可憑申と云置たりしかば、今に至迄武家異他思を成せり。依之代々の立后も、多は此家より出て、国々の拝任も半は其族にあり。然れば官太政大臣に至り、位一品の極位を不極と云事なし。偏に是関東贔屓の厚恩也と被思けるにや、如何にもして故相摸入道が一族を取立て、再び天下の権を取せ、我身公家の執政として、四海を掌に握らばやと被思ければ、此四郎左近大夫入道を還俗せさせ、刑部少輔時興と名を替て、明暮は只謀叛の計略をぞ被回ける。或夜政所の入道、大納言殿の前に来て申けるは、「国の興亡を見には、政の善悪を見に不如、政の善悪を見には、賢臣の用捨を見に不如、されば微子去て殷の代傾き、范増被罪楚王滅たり。今の朝家には只藤房一人のみにて候つるが、未然に凶を鑑て、隠遁の身と成候事、朝廷の大凶、当家の御運とこそ覚て候へ。急思召立せ給候はゞ、前代の余類十方より馳参て、天下を覆さん事、一日を不可出。」とぞ勧め申ける。公宗卿げにもと被思ければ、時興を京都の大将として、畿内近国の勢を被催。其甥相摸次郎時行をば関東の大将として、甲斐・信濃・武蔵・相摸の勢を付らる。名越太郎時兼をば北国の大将として、越中・能登・加賀の勢をぞ被集ける。如此諸方の相図を同時に定て後、西の京より番匠数た召寄て、俄に温殿をぞ被作ける。其襄場に板を一間蹈めば落る様に構へて、其下に刀の簇を被殖たり。是は主上御遊の為に臨幸成たらんずる時、華清宮の温泉に准へて、浴室の宴を勧め申て、君を此下へ陥入奉らん為の企也。加様に様々の謀を定め兵を調て、「北山の紅葉御覧の為に臨幸成候へ。」と被申ければ、則日を被定、行幸の儀則をぞ被調ける。已に明日午刻に可有臨幸由、被相触たりける其夜、主上且く御目睡有ける御夢に、赤袴に鈍色の二つ衣著たる女一人来て、「前には虎狼の怒るあり。後ろには熊羆の猛きあり、明日の行幸をば思召留らせ給ふべし。」とぞ申ける。主上御夢の中に、「汝は何くより来れる者ぞ。」と御尋有ければ、「神泉園の辺に多年住侍る者也。」と、答申て立帰ぬと被御覧、御夢は無程覚にけり。主上怪き夢の告也と被思召ながら、是まで事定まりぬる臨幸、期に臨では如何可被停と被思食ければ、遂に鳳輦を被促。乍去夢の告怪しければとて、先神泉苑に幸成て、竜神の御手向有けるに、池水俄に変じて、風不吹白浪岸を打事頻也。主上是を被御覧弥夢の告怪く被思召ければ、且く鳳輦を留て御思案有ける処に、竹林院の中納言公重卿馳参じて被申けるは、「西園寺大納言公宗、隠媒の企有て臨幸を勧め申由、只今或方より告示候。是より急還幸成て、橋本中将俊季、並春衡・文衡入道を被召て、子細を御尋候べし。」と被申ければ、君去夜の夢告の、今日の池水の変ずる態、げにも様ありと思召合て、軈て還幸成にけり。則中院の中将定平に結城判官親光・伯耆守長年を差副て、「西園寺の大納言公宗卿・橋本中将俊季・並文衡入道を召取て参れ。」とぞ被仰下ける。勅宣の御使、其勢二千余騎、追手搦手より押寄て、北山殿の四方を七重八重にぞ取巻ける。大納言殿、早此間の隠謀顕れけりと思給ふ。されば中々騒たる気色もなし。事の様をも知ぬ北御方・女房達・侍共はこは如何なる事ぞやと、周章ふためき逃倒る。御弟俊季朝臣は、官軍の向けるを見て、心早人なりければ、只一人抽て、後の山より何地ともなく落給にけり。定平朝臣先大納言殿に対面有て、穏に事の子細を被演ければ、大納言殿涙を押へて宣けるは、「公宗不肖の身なりといへども、故中宮の御好に依て、官禄共に人に不下、是偏に明王慈恵の恩幸なれば、争か居陰折枝、汲流濁源志可存候。倩事の様を案ずるに、当家数代の間官爵人に超へ、恩禄身に余れる間、或は清花の家是を妬み、或は名家の輩是を猜で、如何様種々の讒言を構へ、様々の虚説を成て、当家を失はんと仕る歟とこそ覚て候へ。乍去天鑑真、虚名いつまでか可掠上聞候なれば、先召に随て陣下に参じ、犯否の御糺明を仰ぎ候べし。但俊季に於は、今朝已に逐電候ぬる間召具するに不及。」とぞ宣ける。官軍共是を聞て、「さては橋本中将殿を隠し被申にてこそあれ。御所中を能々見奉れ。」とて数千の兵共殿中に乱入て、天井塗篭打破、翠簾几帳を引落して、無残処捜けり。依之只今まで可有紅葉の御賀とて楽絃を調べつる伶人、装束をも不脱、東西に逃迷ひ、見物の為とて群をなせる僧俗男女、怪き者歟とて、多く被召捕不慮に刑戮に逢けり。其辺の山の奥、岩のはざま迄、若やと猶捜けれども、俊季朝臣遂に見へ給はざりければ、官軍無力、公宗卿と文衡入道とを召捕奉て、夜中に京へぞ帰ける。大納言殿をば定平朝臣の宿所に、一間なる所を攻篭の如に拵て、押篭奉る。文衡入道をば結城判官に被預、夜昼三日まで、上つ下つ被拷問けるに、無所残白状しければ、則六条河原へ引出して、首を被刎けり。公宗をば伯耆守長年に被仰付、出雲国へ可被流と、公儀已に定りにけり。明日必配所へ赴き給べしと、治定有ける其夜、中院より北の御方へ被告申ければ、北の方忍たる体にて泣々彼こへ坐したり。暫く警固の武士をのけさせて、篭の傍りを見給へば、一間なる所の蜘手密く結たる中に身を縮めて、起伏もなく泣沈み給ければ、流るゝ泪袖に余りて、身も浮く許に成にけり。大納言殿北の方を一目見給て、いとゞ泪に咽び、云出し給へる言葉もなし。北の方も、「こは如何に成ぬる御有様ぞや。」と許涙の中に聞へて、引かづき泣伏給ふ。良暫有て、大納言殿泪を押へて宣けるは、「我身かく引人もなき捨小舟の如く、深罪に沈みぬるに付ても、たゞならぬ御事とやらん承りしかば、我故の物思ひに、如何なる煩はしき御心地かあらんずらんと、それさへ後の闇路の迷と成ぬべう覚てこそ候へ。若それ男子にても候はゞ、行末の事思捨給はで、哀みの懐の中に人となし給べし。我家に伝る所の物なれば、見ざりし親の忘形見ともなし給へ。」とて、上原・石上・流泉・啄木の秘曲を被書たる琵琶の譜を一帖、膚の護より取出し玉て、北の方に手から被渡けるが、側なる硯を引寄て、上巻の紙に一首の歌を書給ふ。哀なり日影待間の露の身に思をかるゝ石竹の花硯の水に泪落て、薄墨の文字さだかならず、見る心地さへ消ぬべきに、是を今はの形見とも、泪と共に留玉へば、北の御方はいとゞ悲みを被副て中々言葉もなければ、只顔をも不擡泣給ふ。去程に追立の官人来て、「今夜先伯耆守長年が方へ渡し奉て暁配所へ可奉下。」と申ければ、頓て物騒しく成て、北方も傍へ立隠給ぬ。さても猶今より後の御有様如何と心苦覚て、透垣の中に立紛て見玉へば、大納言殿を請取進んとて、長年物具したる者共二三百人召具して、庭上に並居たり。余りに夜の深候ぬると急ければ、大納言殿縄取に引へられて中門へ出玉ふ。其有様を見給ける北の御方の心の中、譬へて云はん方もなし。既に庭上に舁居たる輿の簾を掲て乗らんとし給ける時、定平朝臣長年に向て、「早。」と被云けるを、「殺し奉れ。」との詞ぞと心得て、長年、大納言に走懸て鬢髪を掴で覆に引伏せ、腰刀を抜て御頚を掻落しけり。下として上を犯んと企る罰の程こそ恐しけれ。北の方は是を見給て、不覚あつとをめいて、透垣の中に倒れ伏給ふ。此侭頓て絶入り給ぬと見へければ、女房達車に扶乗奉て、泣々又北山殿へ帰し入れ奉る。さしも堂上堂下雲の如なりし青侍官女、何地へか落行けん。人一人も不見成て、翠簾几帳皆被引落たり。常の御方を見給へば、月の夜・雪の朝、興に触て読棄給へる短冊共の、此彼に散乱たるも、今はなき人の忘形見と成て、そゞろに泪を被催給ふ。又夜の御方を見給へば、旧き衾は留て、枕ならべし人はなし。其面影はそれながら、語て慰む方もなし。庭には紅葉散敷て、風の気色も冷きに、古き梢の梟声、けうとげに啼たる暁の物さびしさ、堪ては如何と住はび給へる処に、西園寺の一跡をば、竹林院中納言公重卿賜らせ給たりとて、青侍共数た来て取貸へば、是さへ別の憂数に成て、北の御方は仁和寺なる傍に、幽なる住所尋出して移玉ふ。時しもこそあれ、故大納言殿の百箇日に当りける日、御産事故無して、若君生れさせ玉へり。あはれ其昔ならば、御祈の貴僧高僧歓喜の眉を開き、弄璋の御慶天下に聞へて門前の車馬群を可成に、桑の弓引人もなく、蓬の矢射る所もなきあばら屋に、透間の風冷じけれども、防ぎし陰もかれはてぬれば、御乳母なんど被付までも不叶、只母上自懐きそだて給へば、漸く故大納言殿に似給へる御顔つきを見玉ふにも、「形見こそ今はあたなれ是なくば忘るゝ時もあらまし物を。」と古人の読たりしも、泪の故と成にけり。悲歎の思胸に満て、生産の筵未乾、中院中将定平の許より、以使、「御産の事に付て、内裡より被尋仰事候。もし若君にても御渡候はゞ、御乳母に懐かせて、是へ先入進られ候へ。」と被仰ければ、母上、「あな心憂や、故大納言の公達をば、腹の中までも開て可被御覧聞へしかば、若君出来させ給ぬと漏聞へけるにこそ有けれ。歎の中にも此子をそだてゝこそ、故大納言殿の忘形見とも見、若人とならば僧にもなして、無跡をも問せんと思つるに、未だ乳房も離ぬみどり子を、武士の手に懸て被失ぬと聞て、有し別の今の歎に、消はびん露の命を何に懸てか可堪忍。あるを限の命だに、心に叶ふ者ならで、斯る憂事をのみ見聞く身こそ悲しけれ。」と泣沈み給ければ、春日の局泣々内より御使に出合給て、「故大納言殿の忘形見の出来させ給て候しが、母上のたゞならざりし時節限なき物思に沈給ふ故にや、生れ落玉ひし後、無幾程はかなく成給候。是も咎有し人の行ゑなれば、如何なる御沙汰にか逢候はんずらんと、上の御尤を怖て、隠し侍るにこそと被思召事も候ぬべければ、偽ならぬしるしの一言を、仏神に懸て申入候べし。」とて、泣々消息を書給ひ、其奥に、
偽を糺の森に置露の消しにつけて濡るゝ袖哉
使此御文を持て帰り参れば、定平泪を押へて奏覧し給ふ。此一言に、君も哀とや思召れけん、其後は御尋もなかりければ、うれしき中に思ひ有て、焼野の雉の残る叢を命にて、雛を育らむ風情にて、泣声をだに人に聞せじと、口を押へ乳を含て、同枕の忍びねに、泣明し泣暮して、三年を過し給し心の中こそ悲しけれ。其後建武の乱出来て、天下将軍の代と成しかば、此人朝に仕へて、西園寺の跡を継給し、北山の右大将実俊卿是也。さても故大納言殿滅び給ふべき前表のありけるを、木工頭孝重が兼て聞たりけるこそ不思議なれ。彼卿謀叛の最初、祈祷の為に一七日北野に参篭して、毎夜琵琶の秘曲を弾じ給けるが、七日に満じける其夜は、殊更聖廟の法楽に備べき為とや被思けん。月冷く風秋なる小夜深方に、翠簾を高く捲上させて、玉樹三女の序を弾じ給ふ。「第一・第二絃索々秋風払松疎韻落。第三・第四絃冷々夜鶴憶子篭中鳴、絃々掩抑只拍子に移る。六反の後の一曲、誠に嬰児も起て舞許也。時節木工頭孝重社頭に通夜して、心を澄し耳を側て聞けるが、曲終て後に、人に向て語りけるは、「今夜の御琵琶祈願の御事有て遊ばさるゝならば、御願不可成就。其故は此玉樹と申曲は、昔晉の平公濮水の辺を過給けるに、流るゝ水の声に絃管の響あり。平公則師涓と云楽人を召て、琴の曲に移さしむ。其曲殺声にして、聞人泪を不流云事なし。然共平公是を愛して、専楽絃に用給ひしを、師曠と云ける伶倫、此曲を聴て難じて奏しけるは、「君是を弄び玉はゞ、天下一たび乱て、宗廟全からじ。如何となれば、古へ殷の紂王彼婬声の楽を作て弄び給しが、無程周の武王に被滅給き。其魂魄猶濮水の底に留て、此曲を奏するを、君今新楽に写して、是を翫び給ふ。鄭声雅を乱る故に一唱三歎の曲に非ず。」と申けるが、果して平公滅びにけり。其後此楽猶止ずして、陳の代に至る。陳の後主是を弄で、隋の為に被滅ぬ。隋の煬帝又是を翫ぶ事甚して唐の太宗に被滅ぬ。唐の末の代に当て、我朝の楽人掃部頭貞敏、遣唐使にて渡たりしが、大唐の琵琶の博士廉承夫に逢て、此曲を我朝に伝来せり。然ども此曲に不吉の声有とて、一手を略せる所あり。然を其夜の御法楽に、宗と此手を引給ひしに、然も殊に殺発の声の聞へつるこそ、浅増く覚へ侍りけれ、八音与政通ずといへり。大納言殿の御身に当て、いかなる煩か出来らん。」と、孝重歎て申けるが、無幾程して、大納言殿此死刑に逢給ふ。不思議也ける前相也。
○中前代蜂起事 S1304
今天下一統に帰して、寰中雖無事、朝敵の余党猶東国に在ぬべければ、鎌倉に探題を一人をかでは悪かりぬべしとて、当今第八の宮を、征夷将軍になし奉て、鎌倉にぞ置進せられける。足利左馬頭直義其執権として、東国の成敗を司れども、法令皆旧を不改。斯る処に、西園寺大納言公宗卿隠謀露顕して被誅給し時、京都にて旗を挙んと企つる平家の余類共、皆東国・北国に逃下て、猶其素懐を達せん事を謀る。名越太郎時兼には、野尻・井口・長沢・倉満の者共、馳著ける間、越中・能登・加賀の勢共、多く与力して、無程六千余騎に成にけり。相摸次郎時行には、諏訪三河守・三浦介入道・同若狭五郎・葦名判官入道・那和左近大夫・清久山城守・塩谷民部大夫・工藤四郎左衛門已下宗との大名五十余人与してげれば、伊豆・駿河・武蔵・相摸・甲斐・信濃の勢共不相付云事なし。時行其勢を率して、五万余騎、俄に信濃国に打越て、時日を不替則鎌倉へ責上りける。渋河刑部大夫・小山判官秀朝武蔵国に出合ひ、是を支んとしけるが、共に、戦利無して、両人所々にて自害しければ、其郎従三百余人、皆両所にて被討にけり。又新田四郎上野国利根川に支て、是を防がんとしけるも、敵目に余る程の大勢なれば、一戦に勢力を被砕、二百余人被討にけり。懸りし後は、時行弥大勢に成て、既に三方より鎌倉へ押寄ると告ければ、直義朝臣は事の急なる時節、用意の兵少かりければ、角ては中々敵に利を付つべしとて、将軍の宮を具足し奉て、七月十六日の暁に、鎌倉を落給けり。
○兵部卿宮薨御事付干将莫耶事 S1305
左馬頭既に山の内を打過給ける時、淵辺伊賀守を近付て宣けるは、「御方依無勢、一旦鎌倉を雖引退、美濃・尾張・三河・遠江の勢を催して、頓て又鎌倉へ寄んずれば、相摸次郎時行を滅さん事は、不可回踵。猶も只当家の為に、始終可被成讎は、兵部卿親王也。此御事死刑に行ひ奉れと云勅許はなけれ共、此次に只失奉らばやと思ふ也。御辺は急薬師堂の谷へ馳帰て、宮を刺殺し進らせよ。」と被下知ければ、淵辺畏て、「承候。」とて、山の内より主従七騎引返して宮の坐ける篭の御所へ参たれば、宮はいつとなく闇の夜の如なる土篭の中に、朝に成ぬるをも知せ給はず、猶灯を挑て御経あそばして御坐有けるが、淵辺が御迎に参て候由を申て、御輿を庭に舁居へたりけるを御覧じて、「汝は我を失んとの使にてぞ有らん。心得たり。」と被仰て、淵辺が太刀を奪はんと、走り懸らせ給けるを、淵辺持たる太刀を取直し、御膝の辺をしたゝかに奉打。宮は半年許篭の中に居屈らせ給たりければ、御足も快立ざりけるにや、御心は八十梟に思召けれ共、覆に被打倒、起挙らんとし給ひける処を、淵辺御胸の上に乗懸り、腰の刀を抜て御頚を掻んとしければ、宮御頚を縮て、刀のさきをしかと呀させ給ふ。淵辺したゝかなる者なりければ、刀を奪はれ進らせじと、引合ひける間、刀の鋒一寸余り折て失にけり。淵辺其刀を投捨、脇差の刀を抜て、先御心もとの辺を二刀刺す。被刺て宮少し弱らせ給ふ体に見へける処を、御髪を掴で引挙げ、則御頚を掻落す。篭の前に走出て、明き所にて御頚を奉見、噬切らせ給ひたりつる刀の鋒、未だ御口の中に留て、御眼猶生たる人の如し。淵辺是を見て、「さる事あり。加様の頚をば、主には見せぬ事ぞ。」とて、側なる薮の中へ投捨てぞ帰りける。去程に御かいしやくの為、御前に候はれける南の御方、此有様を見奉て、余の恐しさと悲しさに、御身もすくみ、手足もたゝで坐しけるが、暫肝を静めて、人心付ければ、薮に捨たる御頚を取挙たるに、御膚へも猶不冷、御目も塞せ給はず、只元の気色に見へさせ給へば、こは若夢にてや有らん、夢ならばさむるうつゝのあれかしと泣悲み給ひけり。遥に有て理致光院の長老、「斯る御事と承及候。」とて葬礼の御事取営み給へり。南の御方は、軈て御髪被落ろて泣々京へ上り給ひけり。抑淵辺が宮の御頚を取ながら左馬頭殿に見せ奉らで、薮の傍に捨ける事聊思へる所あり。昔周の末の代に、楚王と云ける王、武を以て天下を取らん為に、戦を習はし剣を好む事年久し。或時楚王の夫人、鉄の柱に倚傍てすゞみ給けるが、心地只ならず覚て忽懐姙し玉けり。十月を過て後、生産の席に苦で一の鉄丸を産給ふ。楚王是を怪しとし玉はず、「如何様是金鉄の精霊なるべし。」とて、干将と云ける鍛冶を被召、此鉄にて宝剣を作て進すべき由を被仰。干将此鉄を賜て、其妻の莫耶と共に呉山の中に行て、竜泉の水に淬て、三年が内に雌雄の二剣を打出せり。剣成て未奏前に、莫耶、干将に向て云けるは、「此二の剣精霊暗に通じて坐ながら怨敵を可滅剣也。我今懐姙せり。産子は必猛く勇める男なるべし。然れば一の剣をば楚王に献るとも今一の剣をば隠して我子に可与玉。」云ければ、干将、莫耶が申に付て、其雄剣一を楚王に献じて、一の雌剣をば、未だ胎内にある子の為に深く隠してぞ置ける。楚王雄剣を開て見給ふに、誠に精霊有と見へければ、箱の中に収て被置たるに、此剣箱の中にして常に悲泣の声あり。楚王怪て群臣に其泣故を問給ふに、臣皆申さく、「此剣必雄と雌と二つ可有。其雌雄一所に不在間、是を悲で泣者也。」とぞ奏しける。楚王大に忿て、則干将を被召出、典獄の官に仰て首を被刎けり。其後莫耶子を生り。面貌尋常の人に替て長の高事一丈五尺、力は五百人が力を合せたり。面三尺有て眉間一尺有ければ、世の人其名を眉間尺とぞ名付ける。年十五に成ける時、父が書置ける詞を見るに、日出北戸。南山其松。松生於石。剣在其中。と書り。さては此剣北戸の柱の中に在と心得て、柱を破て見るに、果して一の雌剣あり。眉間尺是を得て、哀楚王を奉討父の仇を報ぜばやと思ふ事骨髄に徹れり。楚王も眉間尺が憤を聞給て、彼れ世にあらん程は、不心安被思ければ、数万の官軍を差遣して、是を被責けるに、眉間尺一人が勇力に被摧、又其雌剣の刃に触れて、死傷する者幾千万と云数を不知。斯る処に、父干将が古への知音なりける甑山人来て、眉間尺に向て云けるは、「我れ汝が父干将と交りを結ぶ事年久かりき。然れば、其朋友の恩を謝せん為、汝と共に楚王を可奉討事を可謀。汝若父の仇を報ぜんとならば、持所の剣の鋒を三寸嚼切て口の中に含で可死。我汝が頭を取て楚王に献ぜば、楚王悦で必汝が頭を見給はん時、口に含める剣のさきを楚王に吹懸て、共可死。」と云ければ、眉間尺大に悦で、則雌剣の鋒三寸喫切て、口の内に含み、自己が頭をかき切て、客の前にぞ指置ける。客眉間尺が首を取て、則楚王に献る。楚王大に喜て是を獄門に被懸たるに、三月まで其頭不爛、■目を、切歯を、常に歯喫をしける間、楚王是を恐て敢て不近給。是を鼎の中に入れ、七日七夜までぞ被煮ける。余につよく被煮て、此頭少し爛て目を塞ぎたりけるを、今は子細非じとて、楚王自鼎の蓋を開せて、是を見給ける時、此頭、口に含だる剣の鋒を楚王にはつと奉吹懸。剣の鋒不誤、楚王の頚の骨を切ければ、楚王の頭忽に落て、鼎の中へ入にけり。楚王の頭と眉間尺が首と、煎揚る湯の中にして、上になり下に成り、喫相けるが、動ば眉間尺が頭は下に成て、喫負ぬべく見へける間、客自己が首を掻落て鼎の中へ投入、則眉間尺が頭と相共に、楚王の頭を喫破て、眉間尺が頭は、「死して後父の怨を報じぬ。」と呼り、客の頭は、「泉下に朋友の恩を謝しぬ。」と悦ぶ声して、共に皆煮爛れて失にけり。此口の中に含だりし三寸の剣、燕の国に留て太子丹が剣となる。太子丹、荊軻・秦舞陽をして秦始皇を伐んとせし時、自差図の箱の中より飛出て、始皇帝を追奉りしが、薬の袋を被投懸ながら、口六尺の銅の柱の半ばを切て、遂に三に折て失たりし匕首の剣是也。其雌雄二の剣は干将莫耶の剣と被云て、代々の天子の宝たりしが、陳代に至て俄に失にけり。或時天に一の悪星出て天下の妖を示す事あり。張華・雷煥と云ける二人の臣、楼台に上て此星を見るに、旧獄門の辺より剣の光天に上て悪星と闘ふ気あり。張華怪しで光の指す所を掘せて見るに、件の干将莫耶の剣土五尺が下に埋れてぞ残りける。張華・雷煥是を取て天子に献らん為に、自是を帯し、延平津と云沢の辺を通ける時、剣自抜て水の中に入けるが、雌雄二の竜と成て遥の浪にぞ沈みける。淵辺加様の前蹤を思ければ、兵部卿親王の刀の鋒を喫切らせ給て、御口の中に被含たりけるを見て、左馬頭に近付奉らじと、其御頚をば薮の傍に棄けるとなり。
○足利殿東国下向事付時行滅亡事 S1306
直義朝臣は鎌倉を落て被上洛けるが、其路次に於て、駿河国入江庄は、海道第一の難所也。相摸次郎が与力の者共、若道をや塞んずらんと、士卒皆是危思へり。依之其所の地頭入江左衛門尉春倫が許へ使を被遣て、可憑由を被仰たりければ、春倫が一族共、関東再興の時到りぬと、料簡しける者共は、左馬頭を奉打、相摸次郎殿に馳参らんと云けるを、春倫つく/゛\思案して、「天下の落居は、愚蒙の我等が可知処に非ず。只義の向ふ所を思ふに、入江庄と云は、本徳宗領にて有しを、朝恩に下し賜り、此二三年が間、一家を顧る事日来に勝れり。是天恩の上に猶義を重ねたり。此時争か傾敗の弊に乗て、不義の振舞を致さん。」とて、春倫則御迎に参じければ、直義朝臣不斜喜て、頓て彼等を召具し、矢矯の宿に陣を取て、是に暫汗馬の足を休め、京都へ早馬をぞ被立ける。依之諸卿議奏有て、急足利宰相高氏卿を討手に可被下に定りけり。則勅使を以て、此由を被仰下ければ、相公勅使に対して被申けるは、「去ぬる元弘の乱の始、高氏御方に参ぜしに依て、天下の士卒皆官軍に属して、勝事を一時に決候き。然ば今一統の御代、偏に高氏が武功と可云。抑征夷将軍の任は、代々源平の輩功に依て、其位に居する例不可勝計。此一事殊に為朝為家、望み深き所也。次には乱を鎮め治を致す以謀、士卒有功時節に、賞を行にしくはなし。若註進を経て、軍勢の忠否を奏聞せば、挙達道遠して、忠戦の輩勇を不可成。然れば暫東八箇国の官領を被許、直に軍勢の恩賞を執行ふ様に、勅裁を被成下、夜を日に継で罷下て、朝敵を退治仕るべきにて候。若此両条勅許を蒙ずんば、関東征罰の事、可被仰付他人候。」とぞ被申ける。此両条は天下治乱の端なれば、君も能々御思案あるべかりけるを、申請る旨に任て、無左右勅許有けるこそ、始終如何とは覚へけれ。但征夷将軍の事は関東静謐の忠に可依。東八箇国の官領の事は先不可有子細とて、則綸旨を被成下ける。是のみならず、忝も天子の御諱の字を被下て、高氏と名のられける高の字を改めて、尊の字にぞ被成ける。尊氏卿東八箇国を官領の所望、輒く道行て、征夷将軍の事は今度の忠節に可依と勅約有ければ、時日を不回関東へ被下向けり。吉良兵衛佐を先立て、我身は五日引さがりて進発し給けり。都を被立ける日は其勢僅に五百余騎有しか共、近江・美濃・尾張・三河・遠江の勢馳加て、駿河国に著給ける時は三万余騎に成にけり。左馬頭直義、尊氏卿の勢を合て五万余騎、矢矯の宿より取て返して又鎌倉へ発向す。相摸次郎時行是を聞て、「源氏は若干の大勢と聞ゆれば、待軍して敵に気を呑れては不叶。先ずる時は人を制するに利有。」とて、我身は鎌倉に在ながら、名越式部大輔を大将として、東海・東山両道を押て責上る。其勢三万余騎、八月三日鎌倉を立んとしける夜、俄に大風吹て、家々を吹破ける間、天災を遁れんとて大仏殿の中へ逃入り、各身を縮て居たりけるに、大仏殿の棟梁、微塵に折れて倒れける間、其内にあつまり居たる軍兵共五百余人、一人も不残圧にうてゝ死にけり。戦場に趣く門出にかゝる天災に逢ふ。此軍はか/゛\しからじと、さゝやきけれ共、さて有べき事ならねば、重て日を取り、名越式部大輔鎌倉を立て、夜を日に継で路を急ける間、八月七日前陣已に遠江佐夜の中山を越けり。足利相公此由を聞給て、「六韜の十四変に、敵経長途来急可撃と云へり。是太公武王に教る所の兵法也。」とて、同八日の卯刻に平家の陣へ押寄て、終日闘くらされけり。平家も此を前途と心を一にして相当る事三十余箇度、入替々々戦ひけるが、野心の兵後に在て、跡より引けるに力を失て、橋本の陣を引退き、佐夜の中山にて支へたり。源氏の真前には、仁木・細河の人々、命を義に軽じて進みたり。平家の後陣には、諏方の祝部身を恩に報じて、防戦ひけり。両陣牙に勇気を励して、終日相戦けるが、平家此をも被破て、箱根の水飲の峠へ引退く。此山は海道第一の難所なれば、源氏無左右懸り得じと思ける処に、赤松筑前守貞範、さしも嶮き山路を、短兵直に進んで、敵の中へ懸入て、前後に当り、左右に激しける勇力に被払て、平家又此山をも支へず、大崩まで引退く。清久山城守返し合せて、一足も不引闘けるが、源氏の兵に被組て、腹切る間もや無りけん、其身は忽に被虜、郎従は皆被討にけり。路次数箇度の合戦に打負て、平家やたけに思へ共不叶。相摸河を引越て、水を阻て支へたり。時節秋の急雨一通りして、河水岸を浸しければ、源氏よも渡しては懸らじと、平家少し由断して、手負を扶け馬を休めて、敗軍の士を集めんとしける処に、夜に入て、高越後守二千余騎にて上の瀬を渡し、赤松筑前守貞範は中の瀬を渡し、佐々木佐渡判官入道々誉と、長井治部少輔は、下の瀬を渡して、平家の陣の後ろへ回り、東西に分れて、同時に時をどつと作る。平家の兵、前後の敵に被囲て、叶はじとや思けん、一戦にも不及、皆鎌倉を指て引けるが、又腰越にて返し合せて葦名判官も被討にけり。始遠江の橋本より、佐夜の中山・江尻・高橋・箱根山・相摸河・片瀬・腰越・十間坂、此等十七箇度の戦ひに、平家二万余騎の兵共、或は討れ或は疵を蒙りて、今僅に三百余騎に成ければ、諏方三河守を始として宗との大名四十三人、大御堂の内に走入り、同く皆自害して名を滅亡の跡にぞ留めける。其死骸を見るに、皆面の皮を剥で何れをそれとも見分ざれば、相摸次郎時行も、定て此内にぞ在らんと、聞人哀れを催しけり。三浦介入道一人は、如何して遁れたりけん、尾張国へ落て、舟より挙りける所を、熱田の大宮司是を生捕て京都へ上せければ、則六条河原にて首を被刎けり。是のみならず、平家再興の計略、時や未だ至らざりけん、又天命にや違ひけん。名越太郎時兼が、北陸道を打順へて、三万余騎にて京都へ責上けるも、越前と加賀との堺、大聖寺と云所にて、敷地・上木・山岸・瓜生・深町の者共が僅の勢に打負て、骨を白刃の下に砕き、恩を黄泉の底に報ぜり。時行は已に関東にして滅び、時兼は又北国にて被討し後は、末々の平氏共、少々身を隠し貌を替て、此の山の奥、彼の浦の辺にありといへ共、今は平家の立直る事難有とや思けん、其昔を忍びし人も皆怨敵の心を改て、足利相公に属し奉らずと云者無りけり。さてこそ、尊氏卿の威勢自然に重く成て、武運忽に開けゝれば、天下又武家の世とは成にけり。


太平記

太平記巻第十四

○新田足利確執奏状事 S1401
去程に足利宰相尊氏卿は、相摸次郎時行を退治して、東国軈て静謐しぬれば、勅約の上は何の子細か可有とて、未だ宣旨をも不被下、押て足利征夷将軍とぞ申ける。東八箇国の官領の事は、勅許有し事なればとて、今度箱根・相摸河にて合戦の時、有忠輩に被行恩賞。先立新田の一族共拝領したる東国の所領共を、悉く闕所に成して、給人をぞ被付ける。義貞朝臣是を聞て安からぬ事に被思ければ、其替りに我分国、越後・上野・駿河・播磨などに足利の一族共の知行の庄園を押へて、家人共にぞ被行ける。依之新田・足利中悪成て、国々の確執無休時。其根元を尋ぬれば、去ぬる元弘の初義貞鎌倉を責亡して、功諸人に勝れたりしかば、東国の武士共は皆我下より可立と被思ける処に、尊氏卿の二男千寿王殿三歳に成給しが、軍散じて六月三日下野国より立帰て、大蔵の谷に御坐しける。又尊氏卿都にて抽賞異他なりと聞へて、是を輒く上聞にも達し、恩賞にも預らんと思ければ、東八箇国の兵共、心替りして、太半は千寿王殿の手にぞ付たりける。加之義貞若宮の拝殿に坐して、頚共実検し、御池にて太刀・長刀を洗ひ、結句神殿を打破て、重宝共を被見し給に、錦の袋に入たる二引両の旗あり。「是は曩祖八幡殿、後三年の軍の時、願書を添て被篭し御旌也。奇特の重宝と云ながら、中黒の旌にあらざれば、当家の用に無詮。」と宣けるを、足利殿方の人是を聞て彼旌を奉乞。義貞此旌不出しかば、両家確執合戦に及ばんとしけるを、上聞を恐憚て黙止けり。加様の事共重畳有しかば、果して今、新田・足利一家の好みを忘れ怨讎の思をなし、互に亡さんと牙を砥の志顕れて、早天下の乱と成にけるこそ浅猿けれ。依之讒口傍らに有て、乱真事多かりける中に、今度尊氏卿、相摸次郎時行が討手を承て平関東後、今隠謀の企ある由叡聞に達しければ、主上逆鱗有て、「縦其忠功莫太なりとも、不義を重ば可為逆臣条勿論也。則追伐の宣旨を可被下。」と御憤有けるを、諸卿僉議有て、「尊氏が不義雖達叡聞未知其実罪の疑しきを以て、功の誠あるを被棄事は非仁政。」親房・公明、頻に諌言を被上しかば、さらば法勝寺の慧鎮上人を鎌倉へ奉下、事の様を可尋窮定まりにけり。慧鎮上人奉勅関東へ下らんと欲給ける其日、尊氏卿細河阿波守和氏を使にて、一紙の奏状を被捧たり。其状曰、参議従三位兼武蔵守源朝臣尊氏誠恐誠惶謹言。請早誅罰義貞朝臣一類致天下泰平状右謹考往代列聖徳四海、無不賞顕其忠罰当其罪。若其道違則讒雖建草創遂不得守文。肆君子所慎、庸愚所軽也。去元弘之初、東藩武臣恣振逆頻無朝憲。禍乱起于茲国家不獲安。爰尊氏以不肖之身麾同志之師。自是定死於一途士、運倒戈之志、卜勝於両端輩、有与議之誠。聿振臂致一戦之日、得勝於瞬目之中、攘敵於京畿之外。此時義貞朝臣有忿鶏肋之貪心戮鳥使之急課。其罪大而無拠逋身。不獲止軍起不慮。尊氏已於洛陽聞退逆徒之者、履虎尾就魚麗。義貞始以誅朝敵為名。而其実在窮鼠却噛猫闘雀不辞人。斯日義貞三戦不得勝、屈而欲守城深壁之処、尊氏長男義詮為三歳幼稚大将、起下野国。其威動遠、義卒不招馳加。義貞嚢沙背水之謀一成而大得破敵。是則戦雖在他功隠在我。而義貞掠上聞貪抽賞、忘下愚望大官、世残賊国蠹害也。不可不誡之。今尊氏再為鎮先亡之余殃、久苦東征之間。佞臣在朝讒口乱真。是偏生於義貞阿党裏。豈非趙高謀内章邯降楚之謂乎。大逆之基可莫甚於是焉。兆前撥乱武将所全備也。乾臨早被下勅許、誅伐彼逆類、将致海内之安静、不堪懇歎之至。尊氏誠惶誠恐謹言。建武二年十月日とぞ被書たりける。此奏状未だ内覧にも不被下ければ、遍く知人も無処に、義貞朝臣是を伝聞て、同奏状をぞ上ける。其詞曰、従四位上行左兵衛督兼播磨守源朝臣義貞誠惶誠恐謹言。請早誅伐逆臣尊氏直義等徇天下状右謹案当今聖主経緯天地、徳光古今、化蓋三五。所以神武揺鋒端聖文定宇宙也。爰有源家末流之昆弟尊氏直義、不恥散木之陋質、並蹈青雲之高官。聴其所功、堪拍掌一咲。太平初山川震動、略地拉敵。南有正成、西有円心。加之四夷蜂起、六軍虎窺。此時尊氏随東夷命尽族上洛。潛看官軍乗勝、有意免死。然猶不決心於一偏、相窺運於両端之処、名越尾張守高家、於戦場墜命之後、始与義卒軍丹州。天誅革命之日、忽乗鷸蚌之弊快為狼狽之行。若夫非義旗約京高家致死者、尊氏独把斧鉞当強敵乎。退而憶之、渠儂忠非彼、須羞愧亡卒之遺骸。今以功微爵多、頻猜義貞忠義。剰暢讒口之舌、巧吐浸潤之譖。其愬無不一入邪路。義貞賜朝敵御追罰倫旨初起于上野者五月八日也。尊氏付官軍殿攻六波羅同月七日也。都鄙相去八百余里、豈一日中得伝言哉。而義貞京洛听敵軍破挙旌之由載于上奏、謀言乱真、豈禁乎。其罪一。尊氏長男義詮才率百余騎勢還入鎌倉者、六月三日也。義貞随百万騎士、立亡凶党者、五月二十二日也。而義詮為三歳幼稚之大将致合戦之由、掠上聞之条、雲泥万里之差違、何足言。其罪二。仲時・時益等敗北之後、尊氏未被勅許、自専京都之法禁誅親王之卒伍、非司行法之咎、太以不残。其罪三。兵革後蛮夷未心服、本枝猶不堅根之間、奉下竹苑於東国、已令苦柳営于塞外之処、尊氏誇超涯皇沢、欲与立。僭上無礼之過無拠遁。其罪四。前亡余党纔存揚蟷螂忿之日、尊氏申賜東八箇国管領不叙用以往勅裁、養寇堅恩沢、害民事利欲。違勅悖政之逆行、無甚於是。其罪五。天運循環雖無不往而還、成敗帰一統、大化伝万葉、偏出于兵部卿親王智謀。而尊氏構種々讒、遂奉陥流刑訖。讒臣乱国、暴逆誰不悪之。其罪六。親王贖刑事、為l押侈帰正而已。古武丁放桐宮、豈非此謂乎。而尊氏■仮宿意於公議外、奉苦尊体於囹圄中、人面獣心之積悪、是可忍也。孰不可忍乎。其罪七。直義朝臣劫相摸次郎時行軍旅、不戦而退鎌倉之時、窃遣使者奉誅兵部卿親王、其意偏在将傾国家之端。此事隠雖未達叡聞、世之所知遍界何蔵。大逆無道之甚千古未聞此類。其罪八。斯八逆者、乾坤且所不容其身也。若刑措不用者、四維方絶八柱再傾可無益噬臍。抑義貞一挙大軍百戦破堅、万卒死而不顧、退逆徒於干戈下、得静謐於尺寸中。与尊氏附驥尾超険雲、控弾丸殺篭鳥、大功所建、孰与綸言所最矣。尊氏漸為奪天威、憂義士在朝請誅義貞。与義貞傾忠心尽正義、為朝家軽命、先勾萌奏罰尊氏。国家用捨、孰与理世安民之政矣。望請乾臨明照中正、加断割於昆吾利、可令討罰尊氏・直義以下逆党等之由、下賜宣旨、忽払浮雲擁弊将輝白日之余光。義貞誠惶誠恐謹言。建武二年十月日とぞ被書たりける。則諸卿参列して、此事如何可有と僉議有けれ共、大臣は重禄閉口、小臣は憚聞不出言処に、坊門宰相清忠進出て、被申けるは、「今両方の表奏を披て倩案一致之道理、義貞が差申処之尊氏が八逆、一々に其罪不軽。就中兵部卿親王を奉禁殺由初て達上聞。此一事申処実ならば尊氏・直義等罪責難遁。但以片言獄訟事、卒爾に出て制すとも不可止。暫待東説実否尊氏が罪科を可被定歟。」と被申ければ、諸卿皆此儀に被同、其日の議定は終にけり。懸る処に大塔宮の御介妁に付進せ給し南の御方と申女房、鎌倉より帰り上て、事の様有の侭に奏し申させ給ければ、「さては尊氏・直義が反逆無子細けり。」とて、叡慮更に不穏。是をこそ不思議の事と思食す処に、又四国・西国より、足利殿の成るゝ軍勢催促の御教書とて数十通進覧す。就之諸卿重て僉議有て、「此上は非疑処。急に討手を可被下。」とて、一宮中務卿親王を東国の御管領に成し奉り、新田左兵衛督義貞を大将軍に定て国々の大名共をぞ被添ける。元弘の兵乱の後、天下一統に帰して万民無事に誇といへども、其弊猶残て四海未だ安堵の思を不成処に、此事出来て諸国の軍勢共催促に随へば、こは如何なる世中ぞやとて、安き意も無りけり。
○節度使下向事 S1402
懸ける程に、十一月八日新田左兵衛督義貞朝臣、朝敵追罰の宣旨を下し給て、兵を召具し参内せらる。馬・物具誠に爽に勢ひ有て被出立たり。内弁・外弁・八座・八省、階下に陣を張り、中議の節会被行て、節度を被下。治承四年に、権亮三位中将惟盛を、頼朝進罰の為に被下時、鈴許給りたりしは不吉の例なればとて、今度は天慶・承平の例をぞ被追ける。義貞節度を給て、二条河原へ打出て、先尊氏卿の宿所二条高倉へ舟田入道を指向て、時の声を三度挙させ、流鏑三矢射させて、中門の柱を切落す。是は嘉承三年讚岐守正盛が、義親進討の為に出羽国へ下し時の例也とぞ聞へし。其後一宮中務卿親王、五百余騎にて三条河原へ打出させ給たるに、内裏より被下たる錦の御旌を指上たるに、俄に風烈く吹て、金銀にて打て著たる月日の御紋きれて、地に落たりけるこそ不思議なれ。是を見る者、あな浅猿や、今度御合戦はか/゛\しからじと、忌思はぬ者は無りけり。去程に同日の午刻に、大将新田左兵衛督義貞都を立給ふ。元弘の初に、此人さしもの大敵を亡して忠功人に超たりしかども、尊氏卿君に咫尺し給に依て抽賞さまでも無りしが、陰徳遂に露て、今天下の武将に備り給ければ、当家も他家も推並て偏執の心を失ひつゝ、付不随云者無りけり。先当家の一族には、舎弟脇屋右衛門佐義助・式部大夫義治・堀口美濃守貞満・錦折刑部少輔・里見伊賀守・同大膳亮・桃井遠江守・鳥山修理亮・細屋右馬助・大井田式部大輔・大嶋讚岐守・岩松民部大輔・篭沢入道・額田掃部助・金谷治部少輔・世良田兵庫助・羽川備中守・一井兵部大輔・堤宮内卿律師・田井蔵人大夫、是等を宗との一族として末々の源氏三十余人其勢都合七千余騎、大将之前後に打囲たり。他家の大名には、千葉介貞胤・宇都宮治部大輔公綱・菊池肥後守武重・大友左近将監・厚東駿河守・大内新介・佐々木塩冶判官高貞・同加治源太左衛門・熱田摂津大宮司・愛曾伊勢三郎・遠山加藤五郎・武田甲斐守・小笠原信濃守・高山遠江守・河越三河守・皃玉庄左衛門・杉原下総守・高田薩摩守義遠・藤田三郎左衛門・難波備前守・田中三郎衛門・舟田入道・同長門守・由良三郎左衛門・同美作守・長浜六郎左衛門・山上六郎左衛門・波多野三郎・高梨・小国・河内・池・風間、山徒には道場坊、是等を宗との兵として諸国の大名三百二十余人、其勢都合六万七千余騎、前陣已に尾張の熱田に著ければ後陣は未だ相坂の関、四宮河原に支たり。東山道の勢は搦手なれば、大将に三日引下て都を立けり。其大将には、先大智院宮・弾正尹宮・洞院左衛門督実世・持明院兵衛督入道々応・園中将基隆・二条中将為冬、侍大将には、江田修理亮行義・大館左京大夫氏義・嶋津上総入道・同筑後前司・饗庭・石谷・猿子・落合・仁科・伊木・津志・中村・々上・纐纈・高梨・志賀・真壁十郎・美濃権介助重、是等を宗との侍として其勢都合五千余騎、黒田の宿より東山道を経て信濃国へ入ければ、当国の国司堀河中納言二千余騎にて馳加る。其勢を合せて一万余騎、大井の城を責落して同時に鎌倉へ寄んと、大手の相図をぞ待たりける。討手の大勢已に京を立ぬと鎌倉へ告ける人多ければ、左馬頭直義・仁木・細河・高・上杉の人々、将軍の御前へ参じて、「已に御一家傾申されん為に、義貞を大将にて、東海・東山の両道より攻下候なる。敵に難所を被超なば、防戦共甲斐有まじ。急矢矯・薩■山の辺に馳向て、御支候へかし。」と被申ければ、尊氏卿黙然として暫は物も不宣。良有て、「我譜代弓箭の家に生れ、僅に源氏の名を残すといへ共、承久以来相摸守が顧命に随て汚家羞名恨を積だりしを、今度継絶職達征夷将軍望、興廃位極従上三品。是臣が依微功いへども、豈非君厚恩哉。戴恩忘恩事は為人者所不為也。抑今君の有逆鱗処は、兵部卿親王を奉失たると、諸国へ軍勢催促の御教書を下したると云両条の御咎め也。是一も尊氏が所為に非ず。此条々謹で事の子細を陳申さば、虚名遂に消て逆鱗などか静かならざらん。旁は兎も角も身の進退を計ひ給へ。於尊氏向君奉て引弓放矢事不可有。さても猶罪科無所遁、剃髪染衣の貌にも成て、君の御為に不忠を不存処を、子孫の為に可残。」と気色を損じて宣もはてず、後の障子を引立て、内へぞ入給ける。懸りしかば、甲冑を帯して参集たる人々、皆興を醒して退出し、思の外なる事哉と私語かぬ者ぞ無りける。角て一両日を過ける処に、討手の大将一宮を始め進せて、新田の人々三河・遠江まで進ぬと騒ぎければ、上杉兵庫入道々勤・細河阿波守和氏・佐々木佐渡判官入道々誉、左馬頭殿の御方へ参て、「此事如何可有。」と評定しけるに、「将軍の仰もさる事なれども、如今公家一統の御代とならんには、天下の武士は、指たる事もなき京家の人々に付順て、唯奴婢僕従の如なるべし。是諸国の地頭・御家人の心に憤り、望を失といへども、今までは武家棟梁と成ぬべき人なきに依て、心ならず公家に相順者也。されば此時御一家の中に思召し立御事ありと聞たらんに、誰か馳参で候べき。是こそ当家の御運の可開初にて候へ。将軍も一往の理の推処を以加様に仰候とも、実に御身の上に禍来らばよもさては御座候はじ。兎やせまし角や可有と長僉議して、敵に難所を越されなば後悔すとも益あるまじ。将軍をば鎌倉に残し留め奉て左馬頭殿御向候へ。我等面々に御供仕て、伊豆・駿河辺に相支へ、合戦仕て運の程を見候はん。」と被申ければ、左馬頭直義朝臣不斜喜で、軈て鎌倉を打立て、夜を日に継で被急けり。相随ふ人々には、吉良左兵衛督・同三河守・子息三河三郎・石堂入道・其子中務大輔・同右馬頭・桃井修理亮、上杉伊豆守・同民部大輔・細河陸奥守顕氏・同形部大輔頼春・同式部大夫繁氏・畠山左京大夫国清・同宮内少輔・足利尾張右馬頭高経・舎弟式部大夫時家・仁木太郎頼章・舎弟二郎義長・今河修理亮・岩松禅師頼有・高武蔵守師直・越後守師泰・同豊前守・南部遠江守・同備前守・同駿河守・大高伊予守、外様の大名には、小山判官・佐々木佐渡判官入道々誉・舎弟五郎左衛門尉・三浦因幡守・土岐弾正少弼頼遠・舎弟道謙・宇都宮遠江守・佐竹左馬頭義敦・舎弟常陸守義春・小田中務大輔・武田甲斐守・河超三河守・狩野新介・高坂七郎・松田・河村・土肥・土屋、坂東の八平氏、武蔵七党を始として、其勢二十万七千余騎、十一月二十日鎌倉を打立て、同二十四日三河国矢矯の東宿に著にけり。
○矢矧、鷺坂、手超河原闘事 S1403
去程に十一月二十五日の卯刻に、新田左兵衛督義貞・脇屋右衛門佐義助、六万余騎にて矢矧河に推寄、敵の陣を見渡せば、其勢二三十万騎もあるらんと覚敷て、自河東、橋の上下三十余町に打囲で、雲霞の如に充満たり。左兵衛督義貞、長浜六郎左衛門尉を呼て、「此河何くか渡つべき処ある、委く見て参れ。」と宣ければ、長浜六郎左衛門只一騎河の上下を打廻り、軈て馳帰て申けるは、「此河の様を見候に、渡つべき所は三箇所候へ共、向の岸高して屏風を立たるが如くなるに、敵鏃を汰て支て候。されば此方より渡ては、中々敵に利を被得存候。只且河原面に御磬候て敵を被欺ば、定て河を渡てぞ懸り候はんずらん。其時相懸りに懸て、河中へ敵を追て手痛くあつる程ならば、などか勝事を一戦に得では候べき。」と申ければ、諸卒皆此義に同じて、態敵に河を渡させんと河原面に馬の懸場を残し、西の宿の端に南北二十余町に磬て、射手を河中の州崎へ出し、遠矢を射させてぞ帯きける。案に不違吉良左兵衛佐・土岐弾正少弼頼遠・佐々木佐渡判官入道、彼此其勢六千余騎、上の瀬を打渡て、義貞の左将軍、堀口・桃井・山名、里見の人々に打て懸る。官軍五千余騎相懸りに懸て、互に命を不惜火を散て責戦ふ。吉良左兵衛佐の兵三百余騎被討て、本陣へ引退けば、官軍も二百余騎ぞ被討ける。二番には高武蔵守師直・越後守師泰、二万余騎にて橋より下の瀬を渡して、義貞の右将軍、大嶋・額田・篭沢・岩松が勢に打懸る。官軍七千余騎、喚いて真中に懸入て、東西南北へ懸散し、半時許ぞ揉合ひける。高家の兵又五百余騎被討て、又本陣へ引退く。三番に仁木・細川・今河・石塔一万余騎下の瀬を渡て、官軍の総大将新田義貞に打て懸りたり。義貞は兼てより馬廻に勝れたる兵を七千余騎囲ませて、栗生・篠塚・名張八郎とて、天下に名を得たる大力を真先に進ませ、八尺余の金棒に、畳楯の広厚きを突双べ、「縦ひ敵懸るとも謾に不可懸、敵引とも、四度路に不可追。懸寄せては切て落せ。中を破んとせば、馬を透間もなく打寄せて轡を双べよ。一足も敵には進むとも退く心不可有。」と、諸軍を諌て被下知ける。敵一万余騎、陰に閉て囲まんとすれども不囲、陽に開て懸乱さんとすれども敢て不乱、懸入ては討れ、破て通ば切て被落さ、少しも不漂戦ける間、人馬共に気疲れて、左右に分て磬たる処に、総大将義貞・副将軍義助七千余騎にて、香象の浪を蹈で大海を渡らん勢ひの如く、閑に馬を歩ませ、鋒を双て進みける間、敵一万余騎、其勢ひに辟易して河より向へ引退き、其勢若干被討にけり。日已に暮ければ、合戦は明日にてぞ有んずらんと、鎌倉勢皆河より東に陣を取て居けるが、如何思けん、爰にては不叶とて其夜矢矯を引退、鷺坂に陣をぞ取たりける。懸処に宇都宮・仁科・愛曾伊勢守・熱田摂津大宮司、後れ馳にて三千余騎、義貞の陣に著たりけるが、矢矧の合戦に不合事を無念に思て、打寄と等しく鷺坂へ推寄せて、矢一をも不射、抜連て責たりける。引立たる鎌倉勢、鷺坂をも又被破て、立足もなく引けるが、左馬頭直義朝臣兵二万余騎荒手にて馳著たり。敗軍是に力を得て手超に陣をぞ取たりける。同十二月五日、新田義貞、矢矧・鷺坂にて降人に出たりける勢を合て八万余騎、手越河原に打莅で敵の勢を見給へば、荒手加はりたりと覚へて見しより大勢也。「縦何百万騎の勢加はりたりとも、気疲れたる敗軍の士卒半ば交はて、跡より引かば、敵立直す事不可有、只懸て見よ。」とて、脇屋右衛門佐義助・千葉介・宇都宮六千余騎にて、手超河原に推寄て、東西へ渡つ渡されつ、午刻の始より、酉の下まで、十七度までぞ戦たる。夜に入けるば、両方人馬を休めて、河を隔て篝を焼、初は月雲に隠れて、夜已に深にければ、義貞の方より、究竟の射手を勝て、薮の陰より敵の陣近く忍び寄り、後陣に磬たる勢の中へ、雨の降如く込矢をぞ射たりける。数万の敵是に周章騒で跡より引ける間、荒手の兵共、命を軽ずる勇士共、「是は如何なる事ぞ、返せ/\。」と云ながら、落行勢に被引立て鎌倉までぞ落たりける。されば新田義貞度々の軍に打勝て、伊豆の府に著給へば、落行勢共巻弦脱冑降人に出る者数を不知。宇都宮遠江入道、元来総領宇都宮京方に有しかば、縁にふれて馳著たり。佐々木佐渡判官入道、太刀打して痛手数た所に負ふ。舎弟五郎左衛門は手超にて討れしかば、世の中さてとや思けん。降参して義貞の前陳に打けるが、後の筥根の合戦の時又将軍へは参ける。官軍此時若足をもためず、追懸たらましかば、敵鎌倉にも怺ふまじかりけるを、今は何と無くとも、東国の者共御方へぞ参らんずらん、其上東山道より下りし搦手の勢をも可待とて、伊豆の府に被逗留けるこそ、天運とは云ながら、薄情かりし事共なり。猿程に足利左馬頭直義朝臣は、鎌倉に打帰て、合戦の様を申さん為に、将軍の御屋形へ被参たれば、四門空く閉て人もなし。あらゝかに門を敲て、「誰か有。」と問給へば、須賀左衛門出合て、「将軍は矢矧の合戦の事を聞召候しより、建長寺へ御入候て、已に御出家候はんと仰候しを、面々様々申留めて置進せて候。御本結は切せ給て候へども、未だ御法体には成せ給はず。」とぞ申ける。左馬頭・高・上杉の人々是を聞て、「角ては弥軍勢共憑みを失ふべし。如何せん。」と仰天せられけるを、上杉伊豆守重能且思案して、「将軍縦ひ御出家有て法体に成せ給候共、勅勘遁るまじき様をだに聞召候はゞ、思召直す事などか無て候べき。謀に綸旨を二三通書て、将軍に見せ進せ候はゞや。」と被申ければ、左馬頭、「兎も角も事のよからん様に計ひ沙汰候へ。」とぞ被任たりける。伊豆守、「さらば。」とて、宿紙を俄に染出し、能書を尋て、職事の手に少しも不違是を書。其詞に云、足利宰相尊氏、左馬頭直義以下一類等、誇武威軽朝憲之間、所被征罰也。彼輩縦雖為隠遁身、不可寛刑伐。深尋彼在所、不日可令誅戮。於有戦功者可被抽賞、者綸旨如此。悉之以状。建武二年十一月二十三日右中弁光守武田一族中小笠原一族中へと、同文章に名字を替て、十余通書てぞ出したりける。左馬頭直義朝臣是を持て急建長寺へ参り給て、将軍に対面有て泪を押へて宣ひけるは、「当家勅勘の事、義貞朝臣が申勧るに依て、則新田を討手に被下候間、此一門に於ては、縦遁世降参の者なり共、求尋て可誅と議し候なる。叡慮の趣も、又同く遁るゝ所候はざりける。先日矢矧・手超の合戦に討れて候し敵の膚の守りに入て候し綸旨共、是御覧候へ。加様に候上は、とても遁ぬ一家の勅勘にて候へば、御出家の儀を思召翻されて、氏族の陸沈を御助候へかし。」と被申ければ、将軍此綸旨を御覧じて、謀書とは思も寄り給はず。「誠さては一門の浮沈此時にて候ける。さらば無力。尊氏も旁と共に弓矢の義を専にして、義貞と死を共にすべし。」とて、忽に脱道服給て、錦の直垂をぞ被召ける。されば其比鎌倉中の軍勢共が、一束切とて髻を短くしけるは、将軍の髪を紛かさんが為也けり。さてこそ事叶はじとて京方へ降参せんとしける大名共も、右往左往に落行んとしける軍勢も、俄に気を直して馳参ければ、一日も過ざるに、将軍の御勢は三十万騎に成にけり。
○箱根竹下合戦事 S1404
去程に同十二月十一日両陣の手分有て、左馬頭直義箱根路を支へ、将軍は竹下へ向べしと被定にけり。此間度々の合戦に打負たる兵共、未気を直さで不勇、昨日今日馳集たる勢は、大将を待て猶予しける間、敵已に伊豆の府を打立て、今夜野七里山七里を超ると聞しかば、足利尾張右馬頭高経・舎弟式部大夫・三浦因幡守・土岐弾正少弼頼遠・舎弟道謙・佐々木佐渡判官・赤松雅楽助貞則、「加様に目くらべして、鎌倉に集り居ては叶まじ、人の事はよし兎も角もあれ、いざや先竹下へ馳向て、後陣の勢の著ぬ先に、敵寄せば一合戦して討死せん。」とて、十一日まだ宵に竹下へ馳向ふ。其勢僅なりしかば、物冷しくぞ見へたりける。されども義を守る勇士共なれば、族に多少不可依とて、竹下へ打襄て敵の陣を遥に直下たれば、西は伊豆の府、東は野七里山七里に焼双べたる篝火の数幾千万とも不知けり。只晴天の星の影、滄海に移る如く也。さらば御方にも篝火を焼せんとて、雪の下草打払ひ、処々刈集めて幽に火を吹著たれば、夏山の茂みが下に夜を明す、照射の影に不異。されども武運強ければにや、敵今夜は寄来らず。夜已に明なんとしける時、将軍鎌倉を打立せ給へば、仁木・細河・高・上杉、是等を宗との兵として都合其勢十八万騎竹下へ著給へば、左馬頭直義六万余騎にて箱根峠へ著給ふ。去程に、明れば十二日辰刻に、京勢共伊豆の府にて手分して、竹下へは中務卿親王に卿相雲客十六人、副将軍には脇屋治部大輔義助・細屋右馬助・堤卿律師・大友左近将監・佐々木塩冶判官高貞を相副て、已上其勢七千余騎、搦手にて被向けり。箱根路へは又新田義貞宗徒の一族二十余人、千葉・宇都宮・大友千代松丸・菊池肥後守武重・松浦党を始として、国々の大名三十余人、都合其勢七万余騎、大手にてぞ被向ける。同日午刻に軍始まりしかば、大手搦手敵御方、互に時を作りつゝ、山川を傾け天地を動し、叫喚で責戦ふ。去程に、菊池肥後守武重、箱根軍の先懸して、敵三千余騎を遥の峯へ巻上げ、坂中に楯を突双て、一息継て怺へたり。是を見て、千葉・宇都宮・河越・高坂・愛曾・熱田の大宮司、一勢々々陣を取て曳声を出して責上々々、叫喚で戦たり。中にも道場坊助注記祐覚は、児十人同宿三十余人、紅下濃の鎧を一様に著て、児は紅梅の作り花を一枝づゝ甲の真額に挿たりけるが、楯に外れて一陣に進みけるを、武蔵・相摸の荒夷共、「児とも云はず只射よ。」とて、散々に指攻て射ける間、面に進みたる児八人矢庭に倒れて小篠の上にぞ臥たりける。党の者共是を見て、頚を取らんと抜連て打て下けるを、道場坊が同宿共児を討せて何か可怺。三十余人太刀・長刀の鋒を双べて手負の上を飛超々々、「坂本様の袈裟切に成仏せよ。」と云侭に、追攻々々切て廻りける間、武士散々に被切立て、北なる峯へ颯と引と、且し息をぞ継だりける。此隙に祐覚が同宿共、面々の手負を肩に引懸て、麓の陣へぞ下りける。義貞の兵の中に、杉原下総守・高田薩摩守義遠・葦堀七郎・藤田六郎左衛門・川波新左衛門・藤田三郎左衛門・同四郎左衛門・栗生左衛門・篠塚伊賀守・難波備前守・川越参河守・長浜六郎左衛門・高山遠江守・園田四郎左衛門・青木五郎左衛門・同七郎左衛門・山上六郎左衛門とて、党を結だる精兵の射手十六人あり。一様に笠験を付て、進にも同く進み、又引時も共に引ける間、世の人此を十六騎が党とぞ申ける。彼等が射ける矢には、楯も物具もたまらざりければ、向ふ方の敵を射すかさずと云事なし。執事舟田入道は、馳廻て士卒を諌め、大将軍義貞は、一段高き処に諸卒の振舞を被実検ける間、名を重じ命を軽ずる千葉・宇都宮・菊池・松浦の者共、勇進で戦ける間、鎌倉勢馬の足を立兼て、引退者数を不知けり。懸る処に竹下へ被向たる中書王の御勢・諸庭の侍・北面の輩五百余騎、憖武士に先を不被懸とや思けん。錦の御旌を先に進め竹下へ押寄て、敵未一矢も不射先に、「一天君に向奉て曳弓放矢者不蒙天罰哉。命惜くば脱甲降人に参れ。」と声々にぞ呼りける。是を見て尾張右馬頭・舎弟式部大夫・土岐弾正少弼頼遠・舎弟道謙・三浦因幡守・佐々木佐渡判官入道・赤松筑前守貞則、自宵一陣に有けるが、「敵の馬の立様、旌の紋、京家の人と覚るぞ、矢だうなに遠矢な射そ。只抜連れて懸れ。」とて三百余騎双轡、「弓馬の家に生れたる者は名をこそ惜め、命をば惜まぬ者を。云処虚事か実事か、戦て手並の程を見給へ。」とて一同に時を咄と挙げ、喚てこそ懸たりけれ。官軍は敵をかさに受て麓に引へたる勢なれば、何かは一怺も可怺、一戦にも不及して、捨鞭を打てぞ引たりける。是を見て土岐・佐々木一陣に進て、「言ばにも似ぬ人々哉、蓬し返せ。」と恥しめて、追立々々責ける間、後れて引兵五百余騎、或は生捕れ或被討、残少に成にけり。手合せの合戦をしちがへて官軍漂て見へければ、仁木・細河・高・上杉の人々勇進で、中書王の御
陣へ会尺もなく打て懸る。されば引漂たる京勢にて、可叶様無りけるを、中書王の副将軍脇屋右衛門佐、「云甲斐なき者共が憖に一陣に進て御方の力を失こそ遺恨なれ。こゝを散さでは叶まじ。」とて、七千余騎を一手になして、馬の頭を雁行に連ねて、旌の足を龍装に進めて、横合に閑々と懸られける。勝誇たる敵なれば何かは少しも疼むべき。十字に合て八字に破る。大中黒と二つ引両と二の旌を入替々々、東西に靡き南北に分れ、万卒に面を進め一挙に死をぞ争ひける。誠に両方名を被知たる兵共なれば誰かは独も可遁。互に討つ討れつ、馬の蹄を浸す血は混々として洪河の流るゝが如く也。死骸を積める地は、累々として屠所の肉の如く也。無慙と云も疎也。爰に脇屋右衛門佐子息式部大夫とて、今年十三に成けるが、敵御方引分れける時、如何して紛れたりけん、郎等三騎相共に敵の中にぞ残りける。此人幼稚なれども心早き人にて、笠符引切て投捨、髪を乱し顔に振懸て、敵に不被見知とさはがぬ体にてぞ御坐ける。父義助是をば不知、「義治が見へぬは誅れぬるか、又生捕れぬるか、二の間をば離れじ。彼死生を見ずば、片時の命生ても何かはすべき。勇士の戦場に命を捨る事只是子孫の後栄を思ふ故也。されば未幼なき身なれども、片時の別を悲んで此戦場にも伴ひつる也。其死生を知らでは、如何さて有べき。」とて、鎧の袖に泪をかけ、大勢の中へ懸入り給けるが、「誠に父の子を思ふ志、今に初ぬ事なれども、哀なる御事哉。いざや御伴仕らん。」とて義助の兵共轡を双べ三百余騎、主を討せじと懸入ける。義助の二度の懸に、指もの大勢戦疲れて、一度にばつとぞ引たりける。是に理を得て、義助尚追北進まれける処に、式部大夫義治、我が父と見成して馬を引返し、主従四騎にて脇屋殿に馳加はらんと馬を進められけるを、誰とは不知、片引両の笠符著たる兵二騎、御方が返すぞと心得て、「やさしくこそ見へさせ給候へ。御供申て討死し候。」とて、連て是も返しけり。式部大夫義治は父の義助の勢の中へつと懸入り様に、若党にきつと目くはせゝられければ義治の郎従よせ合せて、つゞいて返しつる二騎の兵を切落し、頚を取てぞ指挙たる。義助是を見給て死たる人の蘇生したる様に悦て、今一涯の勇みを成し、「且く人馬を休めよ。」とて、又元の陣へは引返されける。一陣余に闘ひくたびれしかば、荒手を入替て戦しめんとしける処に、大友左近将監・佐々木塩冶判官が、千余騎にて後に引へたるが、如何思けん一矢射て後、旗を巻て将軍方に馳加り、却て官軍を散々に射る。中書王の御勢は、初度の合戦に若干討れて、又も戦はず。右衛門佐の兵は両度の懸合に人馬疲れて無勢也。是ぞ荒手にて一軍もしつべき者と憑れつる大友・塩冶は、忽に翻て、親王に向奉て弓を引、右衛門佐に懸合せて戦しかば、官軍争か堪ふべき。「敵の後ろを遮らぬ前に、大手の勢と成合ん。」とて、佐野原へ引退く。仁木・細川・今川・荒川・高・上杉・武蔵・相摸の兵共、三万余騎にて追懸たり。是にて中書王の股肱の臣下と憑み思食たりける二条中将為冬討れ給ければ、右衛門佐の兵共返合々々、三百騎所々にて討死す。是をも顧ず引立たる官軍共、我先にと落行ける程に、佐野原にもたまり得ず、伊豆の府にも支へずして、搦手の寄手三百余騎は、海道を西へ落て行く。
○官軍引退箱根事 S1405
追手箱根路の合戦は官軍戦ふ毎に利を得しかば、僅に引へて支たる足利左馬頭を追落て、鎌倉へ入らんずる事掌の内に有と、寄手皆勇に々で明るを遅しと待ける処に、搦手より軍破れて、寄手皆追散されぬと聞へければ、諸国の催し勢、路次の軍に降人に出たりつる坂東勢、幕を捨旗を側めて、我先にと落行ける間、さしも広き箱根山に、すきまも無く充満したりつる陣に、人あり共見へず成にけり。執事舟田入道は、一の責口に敵を攻て居たりけるが、敵陣に、「竹下の合戦は将軍打勝せ給て、敵を皆追散して候也。」と、早馬の参て罵る声を聞て、誠とやらん不審なく思ければ、只一騎御方の陣々を打廻て見るに、幕計残て、人のある陣は無りけり。さては竹下の合戦に、御方早打負てけり。かくては叶まじと思て、急大将の陣へ参て、事の子細を申ければ、義貞且く思案し給ひけるが、「何様陣を少し引退て、落行勢を留てこそ合戦をもせめ。」とて、舟田入道に打つれて、箱根山を引て下給ふ。其勢僅に百騎には過ざりけり。且く馬を扣へて後を見給へば、例の十六騎の党馳参たり。又北なる山に添て、三つ葉柏の旗の見へたるは、「敵か御方歟。」と問給へば、熱田の大宮司百騎計にて待奉る。其勢を合て野七里に打出給ひたれば、鷹の羽の旗一流指し揚て、菊池肥後守武重、三百余騎にて馳参る。爰に散所法師一人西の方より来りけるが、舟田が馬の前に畏て、「是はいづくへとて御通り候やらん。昨日の暮程に脇屋殿、竹下の合戦に討負て落させ給候し後、将軍の御勢八十万騎、伊豆の府に居余て、木の下岩の陰、人ならずと云所候はず。今此御勢計にて御通り候はん事、努々叶まじき事にて候。」とぞ申ける。是を聞て栗生と篠塚と打双べて候けるが、鐙蹈張り、つとのびあがり、御方の勢を打見て、「哀れ兵共や。一騎当千の武者とは、此人々をぞ申べき。敵八十万騎に、御方五百余騎、吉程の合ひ手也。いで/\懸破て道開て参せん。継けや人々。」と勇めて、数万騎打集たる敵の中へ懸て入。府中にて一条次郎三千余騎にて戦ひけるが、新田左兵衛督を見てよき敵と思ひけるにや、馳双で組んとしけるを、篠塚中に隔て、打ける太刀を弓手の袖に受留、大の武者をかい掴で弓杖二丈計ぞ投たりける。一条も大力の早業成ければ、抛られたれ共倒れず。漂ふ足を践直して、猶義貞に走懸らんとしけるを、篠塚馬より飛でおり両膝合て倒に蹴倒す。倒るゝと均く、一条を起しも立ず、推へて頚かき切てぞ指揚ける。一条が郎等共、目の前にて主を討せて心うき事に思ければ、篠塚を討んと、馬より飛下々々打て懸れば、篠塚かい違ては蹴倒、々々しては首を取、足をもためず一所にて九人迄こそ討たりけれ。是を見て、敵数十万騎有と云ども、敢て懸合せん共せざりければ、義貞閑々と伊豆の府を打て通り給ふに、宵より落て其辺にまぎれ居たる官軍共、此彼より馳付ける程に、義貞の勢二千騎計に成にけり。「此勢にては縦ひ百重千重に取篭たり共、などか懸破て通らざるべき。」と、悦て行処に、木瀬川に旗一流打立て、勢の程二千騎計見へたり。近々と打寄て、旗の文を見れば、二巴を旗にも笠璽にも書たり。「さては小山判官にてぞ有らん、一騎も余さず打取。」とて、山名・里見の人々馬の鼻を双べておめいて懸りける程に、小山が勢四角八方に懸散されて、百騎計は討れにけり。かくて浮嶋が原を打過れば、松原の陰に旗三流差て、勢の程五百騎計扣たり。「是は敵か御方歟。」と在家の者に問給へば、「是は昨日の竹下より、一宮を追進せて、所々にて合戦し候し甲斐の源氏にて候。」とぞ答申ける。「さてはよき敵ぞ、取篭て討。」とて、二千余騎の勢を二手に分て北南より押寄れば、叶はじとや思けん、一矢をも射ずして、降人に成てぞ出たりける。此勢を先に打せて遥に行けば、中黒の旗を見付て、落隠居たる官軍共、彼方此方より馳付て、七千余騎に成にけり。今はかうと勇て、今井・見付を過る処に、又旗五流差揚て、小山の上に敵二千騎計扣たり。降人に出たりつる甲斐源氏に、「此敵は誰そ。」と問給へば、「是は武田・小笠原の者共にて候也。」と答ふ。「さらば責よ。」とて四方より攻上りけるを、高山薩摩守義遠、「此敵を余さず討んとせば、御方も若干亡ぶべし。大敵をば開ひて責るにこそ利は候へ。」と申ければ、由良・舟田げにもとて、東一方をば開けて三方より責上りければ、此敵共遠矢少々射捨て、東を指てぞ落行ける。是より後は敢て遮る敵もなかりければ、手負を相助、さがる勢を待連て、十二月十四日の暮程に、天竜川の東の宿に著給にけり。時節川上に雨降て、河の水岸を浸せり。長途に疲れたる人馬なれば、渡す事叶まじとて、俄に在家をこぼちて浮橋をぞ渡されける。此時もし将軍の大勢、後より追懸てばし寄たりしかば、京勢は一人もなく亡ぶべかりしを、吉良・上杉の人々、長僉議に三四日逗留有ければ、川の浮橋程なく渡しすまし、数万騎の軍勢残所なく一日が中に渡てけり。諸卒を皆渡しはてゝ後、舟田入道と大将義貞朝臣と二人、橋を渡り給ひけるに、如何なる野心の者かしたりけん、浮橋を一間はりづなを切てぞ捨たりける。舎人馬を引て渡りけるが、馬と共に倒に落入て、浮ぬ沈ぬ流けるを、舟田入道、「誰かある、あの御馬引上げよ。」と申ければ、後に渡ける栗生左衛門、鎧著ながら川中へ飛つかり、二町計游付て、馬と舎人とを左右の手に差揚て、肩を超ける水の底を閑に歩で向の岸へぞ著たりける。此馬の落入ける時、橋二間計落て、渡るべき様もなかりけるを、舟田入道と大将と二人手に手を取組で、ゆらりと飛渡り給ふ。其跡に候ける兵二十余人、飛かねて且し徘徊しけるを、伊賀国住人に名張八郎とて、名誉の大力の有けるが、「いで渡して取せん。」とて鎧武者の上巻を取て中に提げ、二十人までこそ投越けれ。今二人残て有けるを左右の脇に軽々と挟で、一丈余り落たる橋をゆらりと飛で向の橋桁を蹈けるに、蹈所少も動かず、誠に軽げに見へければ、諸軍勢遥に是を見て、「あないかめし、何れも凡夫の態に非ず。大将と云手の者共と云、何れを捨べし共覚ね共、時の運に引れて、此軍に打負給ひぬるうたてさよ。」と、云はぬは人こそなかりけれ。其後浮橋を切て、つき流されたれば、敵縦ひ寄来る共、左右なく渡すべき様もなかりけるに、引立たる勢の習なれば、大将と同心に成て、今一軍せん太平記と思ふ者無りけるにや。矢矯に一日逗留し給ひければ、昨日まで二万余騎有つる勢、十方へ落失て十分が一もなかりけり。早旦に宇都宮治部太輔、大将の前に来て申されけるは、「今夜官軍共、夜もすがら落候ひけると承が、げにも陣々まばらに成て、いづくに人あり共見へ候はず。爰にてもし数日を送らば、後ろに敵出来て、路を塞ぐ事有ぬと覚候。哀れ今少し引退て、あじか・州俣を前に当てゝ、京近き国々に、御陣を召され候へかし。」と申されければ、諸大将、「げにも皇居の事おぼつかなく候へば、さのみ都遠き所の長居は然るべし共存候はず。」とぞ同じける。義貞、「さらば兎も角も面々の御意見にこそ順ひ候はめ。」とて、其日天竜川を立てこそ、尾張国までは引かれけれ。
○諸国朝敵蜂起事 S1406
かゝる処に、十二月十日、讚岐より高松三郎頼重早馬を立て京都へ申けるは、「足利の一族細川卿律師定禅、去月二十六日当国鷺田庄に於て旗を揚る処に、詫間・香西これに与して、則三百余騎に及ぶ。是に依て、頼重時剋を廻らさず、退治せしめん為に、先づ矢嶋の麓に打寄て国中の勢を催す処に、定禅遮て夜討を致せし間、頼重等身命を捨て防戦ふと雖も、属する所の国勢忽に翻て剰へ御方を射る間、頼重が老父、並に一族十四人・郎等三十余人、其場に於て討死仕畢。一陣遂に彼が為に破られし後、藤橘両家・坂東・坂西の者共残る所なく定禅に属する間、其勢已及三千余騎に、近日宇多津に於て兵船を点じ、備前の児嶋に上て已に京都に責上んと仕候。御用心有べし。」とぞ告申ける。かゝりけれ共、京都には新田越後守義顕を大将として、結城・名和・楠木以下宗との大名共大勢にて有しかば、四国の朝敵共縦ひ数を尽して責上る共、何程の事か有るべきと、さまでの仰天もなかりけるに、同十一日、備前国住人児嶋三郎高徳が許より、早馬を立て申けるは、「去月二十六日、当国の住人佐々木三郎左衛門尉信胤・同田井新左衛門尉信高等、細川卿律師定禅が語いを得て備中国に打越、福山の城に楯篭る間、彼国の目代先手勢計を以て合戦を致と雖も、国中の勢催促に随はず。無勢なるに依て引退く刻、朝敵勝に乗し間、目代が勢数百人討死し畢。其翌日に小坂・川村・庄・真壁・陶山・成合・那須・市川以下、悉く朝敵に馳加る間、程なく其勢三千余騎に及べり。爰に備前国の地頭・御家人等、吉備津宮に馳集て、朝敵を相待処に、浅山備後守、備後の国の守護職を賜て下向する間、其勢を合て、同二十八日、福山に押寄責戦〔し〕日、高徳が一族等大手を責破て、已に城中に打入る刻、野心の国人等、忽に翻て御方を射る間、目代浄智が子息七条弁房・小周防の大弐房・藤井六郎・佐井七郎以下三十余人、搦手に於て討れ候畢。官軍遂に戦ひ負て備前国に引退、三石の城に楯篭る処に、当国の守護松田十郎盛朝・大田判官全職・高津入道浄源当国に下著して、已御方に加る間、又三石より国中へ引返、和気の宿に於て、合戦を致す刻、松田十郎敵に属する間、官軍数十人討れて、熊山の城に引篭る。其夜、当国の住人内藤弥二郎、御方の陣に有ながら、潛に敵を城中へ引入責劫間、諸卒悉行方を知らず没落候畢。高徳一族等此時纔に死を免る者身を山林に隠し、討手の下向を相待候。若早速に御勢を下されずば、西国の乱、御大事に及ぶべし。」とぞ申たりける。両日の早馬天聴を驚しければ、「こは如何すべき。」と周章ありける処に、又翌日の午剋に、丹波国より碓井丹波守盛景、早馬を立て申けるは、「去十二月十九日の夜、当国の住人久下弥三郎時重、波々伯部次郎左衛門尉・中沢三郎入道等を相語て守護の館へ押寄る間、防戦と雖も、劫戦不慮に起に依て、御方戦破れて、遂に摂州へ引退く。雖然と猶他の力を合て其恥を雪ん為に、使者を赤松入道に通じて、合力を請る処に、円心野心を挟む歟、返答にも及ばず。剰へ将軍の御教書と号し、国中の勢を相催由、風聞在人口に。加之但馬・丹後・丹波の朝敵等、備前・備中の勢を待、同時に山陰・山陽の両道より責上るべき由承及候、御用心有るべし。」とぞ告たりける。又其日の酉剋に、能登国石動山の衆徒の中より、使者を立てゝ申けるは、「去月二十七日越中に守護、普門蔵人利清・並に井上・野尻・長沢・波多野の者共、将軍の御教書を以て、両国の勢を集め、叛逆を企る間、国司中院少将定清、就用害に被楯篭当山処、今月十二日彼逆徒等、以雲霞勢押寄間、衆徒等与義卒に、雖軽身命を、一陣全事を得ずして、遂に定清於戦場に被墜命、寺院悉兵火の為に回禄せしめ畢。是より逆徒弥猛威を振て、近日已に京都に責上らんと仕候。急ぎ可被下御勢を。」とぞ申ける。是のみならず、加賀の富樫介、越前に尾張守高経の家人、伊予に川野対馬入道、長門に厚東の一族、安芸に熊谷、周防に大内介が一類、備後に江田・弘沢・宮・三善、出雲に富田、伯耆に波多野、因幡に矢部・小幡、此外五畿・七道・四国・九州、残所なく起ると聞へしかば、主上を始めまいらせて、公家被官の人々、独として肝を消さずと云事なし。其比何かなる嗚呼の者かしたりけん。内裏の陽明門の扉に、一首の狂歌をぞ書たりける。賢王の横言に成る世中は上を下へぞ帰したりける四夷八蛮起り合て、急を告る事隙なかりければ、引他の九郎を勅使にして、新田義貞猶道にて敵を支へんとて、尾張国に居られたりけるを、急ぎ先上洛すべしとぞ召れける。引他九郎竜馬を給て、早馬に打けるが、此馬にては、四五日の道をも、一日には輒く打帰んずらんと思けるに合せて、げにも十二月十九日の辰刻に、京を立て、其日の午刻に近江国愛智川の宿にぞ著たりける。彼竜馬俄に病出して、軈て死にけるこそ不思議なれ。引佗乗替に乗替々々、日を経て尾張国に下著し、此子細を左兵衛督に申ければ、「先京都へ引返して宇治・勢多を支てこそ、合戦を致さめ。」とて、勅使に打つれてぞ上られける。
○将軍御進発大渡・山崎等合戦事 S1407
去程に改年立帰れ共、内裏には朝拝もなし。節会も行れず。京白川には、家をこぼちて堀に入れ、財宝を積で持運ぶ。只何にと云沙汰もなく、物騒く見へたりける。懸る程に、将軍已に、八十万騎にて、美濃・尾張へ著給ぬと云程こそあれ、四国の御敵も近付ぬ、山陰道の朝敵も、只今大江山へ取あがるなんど聞へしかば、此間召に応じて上り集たる国々の軍勢共十方へ落行ける程に、洛中には残り止る勢一万騎までもあらじとぞ見へたりける。其も皆勇る気色もなくて、何方へ向へと下知せられけれ共、耳にも聞入ざりければ、軍勢の心を勇ません為に、「今度の合戦に於て忠あらん者には、不日に恩賞行はるべし。」とし壁書を、決断所に押されたり。是を見て、其事書の奥に例の落書をぞしたりける。かく計たらさせ給ふ綸言の汗の如くになどなかるらん去程に正月七日に、義貞内裏より退出して軍勢の手分あり。勢多へは伯耆守長年に、出雲・伯耆・因幡三箇国の勢二千騎を副て向けらる。供御の瀬・ぜゞが瀬二箇所に大木を数千本流し懸て、大綱をはり乱ぐひを打て、引懸々々つなぎたれば、何なる河伯水神なり共、上をも游がたく下をも潛難し。宇治へは楠木判官正成に、大和・河内・和泉・紀伊国の勢五千余騎を副て向らる。橋板四五間はね迦して河中に大石を畳あげ、逆茂木を繁くゑり立て、東の岸を高く屏風の如くに切立たれば、河水二にはかれて、白浪漲り落たる事、恰か竜門三級の如也。敵に心安く陣を取せじとて、橘の小嶋・槙嶋・平等院のあたりを、一宇も残さず焼払ける程に、魔風大廈に吹懸て、宇治の平等院の仏閣宝蔵、忽に焼けゝる事こそ浅猿けれ。山崎へは脇屋右衛門佐を大将として、洞院の按察大納言・文観僧正・大友千代松丸・宇都宮美濃将監泰藤・海老名五郎左衛門尉・長九郎左衛門以下七千余騎の勢を向らる。宝寺より川端まで屏を塗り堀をほりて、高櫓・出櫓三百余箇所にかき双たり。陣の構へなにとなくゆゝしげには見へたれ共、俄に拵たる事なれば屏の土も未干、堀も浅し。又防ぐべき兵も、京家の人、僧正の御房の手の者などゝ号る者共多ければ、此陣の軍はか/゛\しからじとぞ見へたりける。大渡には、新田左兵衛督義貞を惣大将として、里見・鳥山・々名・桃井・額田・々中・篭沢・千葉・宇都宮・菊池・結城・池・風間・小国・河内の兵共一万余騎にて堅めたり。是も橋板三間まばらに引落して、半より東にかい楯をかき、櫓をかきて、川を渡す敵あらば、横矢に射、橋桁を渡る者あらば、走りを以て推落す様にぞ構へたる。馬の懸上りへ逆茂木ひしと引懸て、後に究竟の兵共、馬を引立々々並居たれば、如何なるいけずき・する墨に乗る共、こゝを渡すべしとは見へざりけり。去程に将軍は八十万騎の勢を率し、正月七日近江国伊岐州の社に、山法師成願坊が三百余騎にて楯篭たりける城を、一日一夜に責落して、八日に八幡の山下に陣を取る。細川卿律師定禅は、四国・中国の勢を率して正月七日播磨の大蔵谷に著たりけるに、赤松信濃守範資我国に下て旗を挙ん為に、京より逃下けるに行逢て、互に悦思ふ事限なし。且は元弘の佳例也とて、信濃守を先陣にて、其勢都合二万三千余騎、正月八日の午剋に芥川の宿に陣を取る。久下弥三郎時重・波々伯部二郎左衛門為光・酒井六郎貞信、但馬・丹後の勢と引合て六千余騎、二条大納言殿の西山の峯の堂に陣を取ておはしけるを追落して、正月八日の夜半より、大江山の峠に篝をぞ焼ける。京中には時に取て弱からん方へ向べしとて、新田の一族三十余人、国々の勢五千余騎を貽れたりければ、大江山の敵を追払ふべしとて、江田兵部大輔行義を大将として、三千余騎を丹波路へ差向らる。此勢正月八日の暁、桂川を打渡て、朝霞の紛れに、大江山へ推寄せ、一矢射違る程こそ有けれ、抜連れて責上りける間、一陣に進で戦ひける久下弥三郎が舎弟五郎長重、痛手を負て討れにけり。是を見て後陣の勢一戦も戦ずして、捨鞭を打て引きける間、敵さまでは追ざりけれ共、十里二十里の外まで、引かぬ兵はなかりけり。明れば正月九日の辰剋に、将軍八十万騎の勢にて、大渡の西の橋爪に推寄、橋桁をや渡らまし、川をや渡さましと見給に、橋の上も川の中も、敵の構へきびしければ、如何すべしと思案して時移るまでぞ引へたる。時に官軍の陣よりはやりをの者共と見へたる兵百騎計、川端へ進出て、「足利殿の搦手には憑思食て候つる丹波路の御敵どもをこそ、昨日追散して、一人も不残討取て候へ。御旗の文を見候に、宗との人々は、大略此陣へ御向有と覚て候。治承には足利又太郎、元暦には佐々木四郎高綱、宇治川を渡して名を後代に挙候き。此川は宇治川よりも浅して而も早からず。爰を渡され候へ。」と声々に欺て、箙を敲て咄と笑。武蔵・相摸の兵共、「敵に招れて、何なる早き淵川なり共渡さずと云事やあるべき。仮令川深して、馬人共に沈みなば、後陣の勢其を橋に蹈で渡れかし。」とて、二千余騎一度に馬を打入んとしけるを、執事武蔵守師直馳廻て、「是はそも物に狂ひ給ふか。馬の足もたゝぬ大河の、底は早して上は閑なるを、渡さば渡されんずるか。暫閑まり給へ。在家をこぼちて、筏に組で渡らんずるぞ。」と下知せられければ、さしも進みける兵、げにもとや思けん、軈て近辺の在家数百家を壊ち連て、面二三町なる筏をぞ組だりける。武蔵・相摸の兵共五百余人こみ乗て、橋より下を渡けるが、河中に打たる乱杭に懸て、棹を指せ共行やらず。敵は雨の降る如く散々に射る。筏はちともはたらかず。兎角しける程に、流れ淀たる浪に筏の舫を押切られて、竿にも留らず流けるが、組み重ねたる材木共、次第に別々に成ければ、五百余人乗たる兵皆水に溺れて失にけり。敵は楯を敲て、「あれ見よ。」と咲ふ。御方は手をあがいて、如何かせんと騒き悲め共叶はず。又此軍散じて後、橋の上なる櫓より、武者一人矢間の板を推開て、「治承に高倉の宮の御合戦の時、宇治橋を三間引落して、橋桁計残て候しをだに、筒井浄妙・矢切但馬なんどは、一条・二条の大路よりも広げに、走渡てこそ合戦仕て候ひけるなれ。況や此橋は、かい楯の料に所々板を弛て候へ共、人の渡り得ぬ程の事はあるまじきにて候。坂東より上て京を責られんに、川を阻たる合戦のあらんずるとは、思ひ設られてこそ候つらめ。舟も筏も事の煩計にてよも叶候はじ。只橋の上を渡て手攻の軍に我等が手なみの程を御覧じ候へ。」と、敵を欺き恥しめてあざ咲てぞ立たりける。是を聞て武蔵守師直が内に、野木与一兵衛入道頼玄とて、大力の早業、打物取て世に名を知られたる兵有けるが、同丸の上にふしなはめの大鎧すき間もなく著なし、獅子頭の冑に、目の下の頬当して、四尺三寸のいか物作の太刀をはき、大たて揚の膸当脇楯の下へ引こうて、柄も五尺身も五尺の備前長刀、右の小脇にかいこみて、「治承の合戦は、音に聞て目に見たる人なし。浄妙にや劣と我を見よ。敵を目に懸る程ならば、天竺の石橋、蜀川の縄の橋也とも、渡得ずと云事やあるべき。」と高声に広言吐て、橋桁の上にぞ進だる。櫓の上の掻楯の陰なる官軍共、是を射て落さんと、差攻引攻散々に射る。面僅に一尺計ある橋桁の上を、歩ば矢に違ふ様もなかりけるに、上る矢には指覆、下る矢をば跳越へ、弓手の矢には右の橋桁に飛移り、馬手の矢には左の橋桁へ飛移り、真中を指て射る矢をば、矢切の但馬にはあらねども、切て落さぬ矢はなかりけり。数万騎の敵御方立合て見ける処に、又山川判官が郎等二人、橋桁を渡て継たり。頼玄弥力を得て、櫓の下へかづき、堀立たる柱を、ゑいや/\と引くに、橋の上にかいたる櫓なれば、橋共にゆるぎ渡て、すはやゆり倒しぬとぞ見へたりける。櫓の上なる射手共四五十人叶はじとや思けん、飛下々々倒れふためいて二の木戸の内へ逃入ければ、寄手数十万騎同音に箙を敲てぞ笑ける。「すはや敵は引ぞ。」と云程こそ有けれ、参河・遠江・美濃・尾張のはやり雄の兵共千余人、馬を乗放々々、我前にとせき合て渡るに、射落されせき落されて、水に溺るゝ者数を知ず。其をも不顧、幾程もなき橋の上に、沓の子を打たるが如く立双で、重々に構たる櫓かい楯を引破らんと引ける程に、敵や兼てをしたりけん、橋桁四五間中より折れて、落入る兵千余人、浮ぬ沈ぬ流行。数万の官軍同音に楯を敲てどつと咲。され共野木与一兵衛入道計は、水練さへ達者也ければ、橋の板一枚に乗り、長刀を棹に指て、本の陣へぞ帰りける。是より後は橋桁もつゞかず、筏も叶ず。右てはいつまでか向居べきと、責あぐんで思ける処に、さも小賢げなる力者一人立封したる文を持て、「赤松筑前殿の御陣はいづくにて候ぞ。」と、問々走て出来る。筑前守は八日の宵より、桃井修理亮・土屋三川守・安保丹後守と陣を双て、橋の下に居たりけるが、此使を見付て、急文を披て見れば、舎兄信濃守範資の自筆にて、「義貞以下の逆徒等退治の事、将軍家の御教書到来の間、為挙義兵播州に罷下る処に、細川卿律師定禅、京都に責上らるゝ間、路次に於て参会す。且く元弘の佳例に任て、範資可打先陣由一諾事訖、今日已芥河の宿に著候也。明日十日辰剋には、山崎の陣へ推寄て、合戦を致すべきにて候。此由を又将軍へ申さしめ給ふべし。」とぞ書たりける。筑前守此状を持参して読上たりければ、将軍を始奉て、吉良・石堂・高・上杉・畠山の人々、「今はかうぞ。」と悦合る事不斜。此使立帰て後、相図の程にも成ければ、細川卿律師定禅二万余騎にて、桜井の宿の東へ打出、赤松信濃守範資二千余騎にて、川に副て押寄る。筑前守貞範、川向より旗の文を見て、小舟三艘に取乗押渡りて兄弟一所になる。此間東西数百里を隔て、安否更に知らざりしかば、いづくの陣にか討れぬらんと安き心もなかりつるに、互に恙無りける天運の程の不思議さよと、手に手を取組み、額を合せて、先づ悦び泣にぞ泣たりける。山崎の合戦は、元弘の吉例に任せて、赤松先矢合をすべしと、兼て定められたりけるを、播磨の紀氏の者共、三百余騎抜懸して一番に押寄せたり。官軍敵を小勢と見て、木戸を開き、逆茂木を引除て、五百余騎抜連て懸出たるに、寄手一積もたまらず追立られて、四方に逃散る。二番に坂東・坂西の兵共二千余騎、桜井の宿の北より、山に副て推寄たり。城中の大将脇屋右衛門佐義助の兵、並宇都宮美濃将監泰藤が紀清両党二千余騎、二の木戸より同時に打出て、東西に開きあひ、南北へ追つ返つ、半時計相戦ふ。汗馬の馳違音、鬨作る声、山に響き地を動して、雌雄未決、戦半なる時、四国の大将細川卿律師定禅、六万余騎、赤松信濃守範資二千余騎、二手に分て押寄たり。官軍敵の大勢を見て、叶はじとや思ひけん、引返して城の中に引篭る。寄手弥機に乗て、堀に飛漬り、逆茂木引のけて、射れ共痛まず、打て共漂はず、乗越々々責入ける程に、堀は死人に埋て平地になり、矢間は皆射とぢられて開きゑず。城中早色めき立て見へけるが、一番に但馬国の住人、長九郎左衛門、同意の兵三百余騎、旗を巻て降人に出づ。是を見て、洞院按察大納言殿の御勢、文観僧正の手の者なんど云て、此間畠水練しつる者共、弓を弛し冑を脱で我先にと降人に出ける間、城中の官軍力を失て防得ず。さらば淀・鳥羽の辺へ引退て、大渡の勢と一に成て戦へとて、討残されたる官軍三千余騎、赤井を差て落行ば、山崎の陣は破にけり。「右ては敵皇居に乱入りぬと覚るぞ。主上を先山門へ行幸成奉てこそ、心安合戦をもせめ。」とて、新田左兵衛督、大渡を捨てゝ都へ帰給へば、大友千代松丸・宇都宮治部大輔降人に成て、将軍の御方に馳加る。義貞・義助一手に成て淀の大明神の前を引時、細川卿律師定禅六万余騎にて追懸たり。新田越後守義顕後陣に引けるが、三千余騎にて返合せ、相撲が辻を陣に取て、旗を颯と指揚たりけれ共、跡に合戦有とは義貞には告られず。先山門へ行幸を成奉らん為也。越後守義顕、矢軍にて且く時を移し、義貞今は内裏へ参られぬらんと覚る程に成て、三千余騎を二手に分て、東西よりどつとをめいて懸入、大勢に颯と乱合ひ火を散してぞ闘たる。只今まで御方に有て、敵になりぬる大友・宇都宮が兵共なれば、越後守を見知て、自余の勢には目を懸ず、此に取篭め彼によせ合せて、打留めんとしけるを、義顕打破ては囲を出、取て返ては追退け、七八度まで自戦れけるに、鎧の袖も冑のしころも、皆切落されて、深手あまた所負ひければ、半死半生に切成されて、僅に都へ帰り給ふ。
○主上都落事付勅使河原自害事 S1408
山崎・大渡の陣破れぬと聞へければ、京中の貴賎上下、俄に出来たる事の様に、周章ふためき倒れ迷て、車馬東西に馳違ふ。蔵物・財宝を上下へ持運ぶ。義貞・義助未馳参らざる前に、主上は山門へ落させ給はんとて、三種の神器を玉体にそへて、鳳輦に召されたれ共、駕輿丁一人もなかりければ、四門を堅て候武士共、鎧著ながら徒立に成て、御輿の前後をぞ仕りける。吉田内大臣定房公、車を飛ばせて参ぜられたりけるが、御所中を走廻て見給ふに、よく近侍の人々も周章たりけりと覚て、明星・日の札、二間の御本尊まで、皆捨置かれたり。内府心閑に青侍共に執持せて参ぜられけるが、如何かして見落し給ひけん、玄象・牧馬・達磨の御袈裟・毘須羯摩が作し五大尊、取落されけるこそ浅猿しけれ。公卿・殿上人三四人こそ、衣冠正くして供奉せられたりけれ、其外の衛府の官は、皆甲冑を著し、弓箭を帯して、翠花の前後に打囲む。此二三年の間天下僅に一統にして、朝恩に誇りし月卿雲客、指たる事もなきに、武具を嗜み弓馬を好みて、朝義道に違ひ、礼法則に背しも、早かゝる不思議出来るべき前表也と、今こそ思ひ知られたれ。新田左兵衛督・脇屋右衛門佐・並に江田・大館・堀口美濃守・里見・大井田・々中・篭沢以下の一族三十余人・千葉介・宇都宮美濃将監・仁科・高梨・菊池以下の外様の大名八十余人、其勢僅に二万余騎、鳳輦の跡を守禦して、皆東坂本へと馬を早む。事の騒しかりし有様たゞ安禄山が潼関の軍に、官軍忽に打負て、玄宗皇帝自ら蜀の国へ落させ給しに、六軍翠花に随て、剣閣の雲に迷しに異ならず。爰に信濃国の住人に勅使川原丹三郎は、大渡の手に向たりけるが、宇治も山崎も破れて、主上早何地共なく東を差て落させ給ひぬと披露有ければ、「見危致命臣の義也。我何の顔有てか、亡朝の臣として、不義の逆臣に順はんや。」と云て、三条川原より父子三騎引返して、鳥羽の造路・羅精門の辺にて、腹かき切て死けり。
○長年帰洛事付内裏炎上事 S1409
那和伯耆守長年は、勢多を堅めて居たりけるが、山崎の陣破れて、主上早東坂本へ落させ給ぬと聞へければ、是より直に坂本へ馳参らんずる事は安けれ共、今一度内裏へ馳まいらで直に落行んずる事は、後難あるべしとて、其勢三百余騎にて、十日の暮程に又京都へぞ帰ける。今日は悪日とて将軍未都へは入給はざりけれ共、四国・西国の兵共、数万騎打入て、京白川に充満たれば、帆掛舟の笠符を見て、此に要彼に遮て、打留んとしけれ共、長年懸散ては通り、打破ては囲を出、十七度まで戦けるに、三百余騎の勢次第々々に討れて、百騎計に成にけり。され共長年遂に討れざれば、内裏の置石の辺にて、馬よりをり冑を脱ぎ、南庭に跪く。主上東坂本へ臨幸成て、数剋の事なれば、四門悉閇て、宮殿正に寂寞たり。然ば早甲乙人共、乱入けりと覚て、百官礼儀を調し紫宸殿の上には賢聖の障子引破られて、雲台の画図此こ彼こに乱たり。佳人晨装を餝りし弘徽殿の前には、翡翠の御簾半より絶て、微月の銀鉤虚く懸れり。長年つく/゛\と是を見て、さしも勇める夷心にも哀れの色や勝りけん、泪を両眼に余て鎧の袖をぞぬらしける。良且く徘徊て居たりけるが、敵の時の声ま近く聞へければ、陽明門の前より馬に打乗て、北白川を東へ今路越に懸て、東坂本へぞ参ける。其後四国・西国の兵共、洛中に乱入て、行幸供奉の人々の家に、屋形屋形に火を懸たれば、時節辻風はげしく吹布て、竜楼竹苑准后の御所・式部卿親王常盤井殿・聖主御遊の馬場の御所、煙同時に立登りて炎四方に充満たれば、猛火内裏に懸て、前殿后宮・諸司八省・三十六殿十二門、大廈の構へ、徒に一時の灰燼と成にけり。越王呉を亡して姑蘇城一片の煙となり、項羽秦を傾て、咸陽宮三月の火を盛にせし、呉越・秦楚の古も、是にはよも過じと、浅猿かりし世間なり。
○将軍入洛事付親光討死事 S1410
明れば正月十一日、将軍八十万騎にて都へ入給ふ。兼ては合戦事故なくして入洛せば、持明院殿の御方の院・宮々の御中に一人御位に即奉て、天下の政道をば武家より計ひ申べしと、議定せられたりけるが、持明院の法皇・儲王・儲君一人も残らせ給はず、皆山門へ御幸成たりける間、将軍自ら万機の政をし給はん事も叶ふまじ、天下の事如何すべきと案じ煩ふてぞおはしける。結城大田判官親光は、此君に弐ろなき者也と深く憑まれ進せて、朝恩に誇る事傍に人なきが如也ければ、鳳輦に供奉せんとしけるが、此世の中、とても今は墓々しからじと思ひければ、いかにもして将軍をねらい奉らん為に、態と都に落止てぞ居たりける。或禅僧を縁に執て、降参仕るべき由を将軍へ申入たりければ、「親光が所存よも誠の降参にてはあらじ、只尊氏をたばからん為にてぞあるらん。乍去事の様を聞かん。」とて、大友左近将監をぞ遣されける。去程に大友と太田判官と、楊梅東洞院にて行合たり。大友は元来少し思慮なき者也ければ、結城に向て、「御降参の由を申され候つるに依て、某を御使にて事の由を能々尋ねよと仰せらるゝにて候。何様降人の法にて候へば、御物具を解せ給ひ候べし。」と、あらゝかに言をぞ懸たりける。親光是を聞て、さては将軍はや我心中を推量有て、打手の使に大友を出されたりと心得て、「物具を解せよとの御使にて候はゞ進候はん。」と云侭に、三尺八寸の太刀を抜て、大友に馳懸り、冑のしころより本頚まで、鋒五寸計ぞ打こみたる。大友も太刀を抜んとしけるが、目やくれけん、一尺計抜懸て馬より倒に落て死にけり。是を見て大友が若党三百余騎、結城が手の者十七騎を中に取篭て、余さず是を討んとす。結城が郎等共は、元来主と共に討死せんと、思切たる者共なれば、中々戦てはなにかせんとて、引組では差違差違、一足も引かず、一所にて十四人まで打れにけり。敵も御方も是を聞て、「あたら兵を、時の間に失つる事の方見しさよ。」と、惜まぬ人こそなかりけれ。
○坂本御皇居並御願書事 S1411
主上已に東坂本に臨幸成て、大宮の彼岸所に御座あれ共、未参ずる大衆一人もなし。さては衆徒の心も変じぬるにやと叡慮を悩されける処に、藤本房英憲僧都参て、申出たる言もなく泪を流して大床の上に畏てぞ候ける。主上御簾の内より叡覧あて名字を委く尋仰らる。さて其後、「硯やある。」と仰られければ、英憲急ぎ硯を召寄て御前に閣く。自宸筆を染られて御願書をあそばされ、「是を大宮の神殿に篭よ。」と仰せ下されければ、英憲畏て右方権禰宜行親を以て是を納め奉る。暫くあて円宗院法印定宗、同宿五百余人召具して参りたり。君大に叡感有て、大床へ召る。定宗御前に跪て申けるは、「桓武皇帝の御宇に、高祖大師当山を開基して、百王鎮護の伽藍を立られ候しより以来、朝家に悦び有る時は、九院挙て掌を合せ、山門に愁へある日は、百司均く心を傾られずと申す事候はず。誠に仏法と王法と相比する故、人として知ずと云者候べからず。されば今逆臣朝廷を危めんとするに依て、忝も万乗の聖主、吾山を御憑あて、臨幸成て候はんずるを、褊し申す衆徒は、一人もあるまじきにて候。身不肖に候へ共、定宗一人忠貞を存ずる程ならば、三千の宗徒、弐ろはあらじと思食し候べし。供奉の官軍さこそ窮屈に候らめ。先御宿を点じて進せ候べし。」とて、二十一箇所の彼岸所、其外坂本・戸津・比叡辻の坊々・家々に札を打て、諸軍勢をぞやどしける。其後又南岸坊の僧都・道場坊祐覚、同宿千余人召具して、先内裏に参じ、やがて十禅師に立登て大衆を起し、僉議の趣を院々・谷々へぞ触送りける間、三千の衆徒悉く甲冑を帯して馳参。先官軍の兵粮とて、銭貨六万貫・米穀七千石・波止土濃の前に積だりければ、祐覚是を奉行して、諸軍勢に配分す。さてこそ未医王山王も、我君を捨させ給はざりけりと、敗軍の士卒悉く憑もしき事には思ひけれ。


太平記
太平記巻第十五

○園城寺戒壇事 S1501
山門二心なく君を擁護し奉て、北国・奥州の勢を相待由聞へければ、義貞に勢の著ぬ前に、東坂本を急可被責とて、細川卿律師定禅・同刑部少輔・並陸奥守を大将として、六万余騎を三井寺へ被差遣。是は何も山門に敵する寺なれば、衆徒の所存よも二心非じと被憑ける故也。随而衆徒被致忠節者、戒壇造営の事、武家殊に加力可成其功之由、被成御教書。抑園城寺の三摩耶戒壇の事は、前々已に公家尊崇の儀を以て、勅裁を被成、又関東贔負の威を添て取立しか共、山門嗷訴を恣にして猛威を振ふ間、干戈是より動き、回禄度々に及べり。其故を如何と尋るに、彼寺の開山高祖智証大師と申奉るは、最初叡山伝教大師の御弟子にて、顕密両宗の碩徳、智行兼備の権者にてぞ御坐しける。而るに伝教大師御入滅の後、智証大師の御弟子と、慈覚大師の御弟子と、聊法論の事有て、忽に確執に及ける間、智証大師の門徒修禅三百房引て、三井寺に移る。于時教待和尚百六十年行て祈出し給し生身の弥勒菩薩を智証大師に付属し給へり。大師是を受て、三密瑜伽の道場を構へ、一代説教の法席を展給けり。其後仁寿三年に、智証大師求法の為に御渡唐有けるに、悪風俄に吹来て、海上の御船忽にくつがへらんとせし時、大師舷に立出て、十方を一礼して誠礼を致させ給ひしかば、仏法護持の不動明王、金色の身相を現じて、船の舳に立給ふ。又新羅大明神親りに船の艫に化現して、自橈を取給ふ。依之御舟無恙明州津に著にけり。角て御在唐七箇年の間、寝食を忘て顕密の奥義を究め給ひて、天安三年に御帰朝あり。其後法流弥盛にして、一朝の綱領、四海の倚頼たりしかば、此寺四箇の大寺の其一つとして、論場の公請に随ひ、宝祚の護持を致事諸寺に卓犖せり。抑山門已に菩薩の大乗戒を建、南都は又声聞の小乗戒を立つ。園城寺何ぞ真言の三摩耶戒を建ざらんやとて、後朱雀院の御宇長暦年中に、三井寺の明尊僧正、頻りに勅許を蒙らんと奏聞しけるを、山門堅く支申ければ、彼寺の本主太政大臣大友皇子の後胤、大友夜須磨呂の氏族連署して、官府を申す。貞観六年十二月五日の状に曰、「望請長為延暦寺別院、以件円珍作主持之人、早垂恩恤、以園城寺、如解状可為延暦寺別院之由、被下寺牒。将俾慰夜須磨呂並氏人愁吟。弥為天台別院専祈天長地久之御願、可致四海八■之泰平云云。仍貞観八年五月十四日、官符被成下曰、以園城寺可為天台別院云云。如之貞観九年十月三日智証大師記文云、円珍之門弟不可受南都小乗劣戒、必於大乗戒壇院、可受菩薩別解脱戒云云。然ば本末の号歴然たり。師弟の義何ぞ同からん。」証を引き理を立て支申ける間、君思食煩せ給て、「許否共に凡慮の及処に非れば、只可任冥慮。」とて、自告文を被遊て叡山根本中堂に被篭けり。其詞云、「戒壇立、而可無国家之危者、悟其旨帰、戒壇立而可有王者之懼者、施其示現云云。」此告文を被篭て、七日に当りける夜、主上不思議の御夢想ありけり。無動寺の慶命僧正、一紙の消息を進て云、「自胎内之昔、至治天之今、忝雖奉祈請宝祚長久、三井寺戒壇院若被宣下者、可失本懐云云。」又其翌夜の御夢に彼慶命僧正参内して紫宸殿に被立たりけるが、大きに忿れる気色にて、「昨日一紙の状を雖進覧、叡慮更に不驚給、所詮三井寺の戒壇有勅許者、変年来之御祈、忽に可成怨心。」と宣ふ。又其翌の夜の御夢に、一人の老翁弓箭を帯して殿上に候す。主上、「汝は何者ぞ。」と御尋有ければ、「円宗擁護の赤山大明神にて候。三井寺の戒壇院執奏の人に向て、矢一つ仕ん為に参内して候也。」とぞ申れける。夜々の御夢想に、君も臣も恐て被成ければ、遂に寺門の所望被黙止、山門に道理をぞ被付ける。角て遥に程経て、白河院の御宇に、江帥匡房の兄に、三井寺の頼豪僧都とて、貴き人有けるを被召、皇子御誕生の御祈をぞ被仰付ける。頼豪勅を奉て肝胆を砕て祈請しけるに、陰徳忽に顕れて承保元年十二月十六日に皇子御誕生有てけり。帝叡感の余に、「御祷の観賞宜依請。」と被宣下。頼豪年来の所望也ければ、他の官禄一向是を閣て、園城寺の三摩耶戒壇造立の勅許をぞ申賜ける。山門又是を聴て款状を捧て禁庭に訴へ、先例を引て停廃せられんと奏しけれども、「綸言再び不複」とて勅許無りしかば、三塔嗷儀を以て谷々の講演を打止め、社々の門戸を閉て御願を止ける間、朝儀難黙止して無力三摩耶戒壇造立の勅裁をぞ被召返ける。頼豪是を忿て、百日の間髪をも不剃爪をも不切、炉壇の烟にふすぼり、嗔恚の炎に骨を焦て、我願は即身に大魔縁と成て、玉体を悩し奉り、山門の仏法を滅ぼさんと云ふ悪念を発して、遂に三七日が中に壇上にして死にけり。其怨霊果して邪毒を成ければ、頼豪が祈出し奉りし皇子、未母后の御膝の上を離させ給はで、忽に御隠有けり。叡襟是に依て不堪、山門の嗷訴、園城の効験、得失甚き事隠無りければ、且は山門の恥を洗ぎ、又は継体の儲を全せん為に、延暦寺座主良信大僧正を申請て、皇子御誕生の御祈をぞ被致ける。先御修法の間種々の奇瑞有て、承暦三年七月九日皇子御誕生あり。山門の護持隙無りければ、頼豪が怨霊も近付奉らざりけるにや、此宮遂に玉体無恙して、天子の位を践せ給ふ。御在位の後院号有て、堀河院と申しは、則此第二の宮の御事也。其後頼豪が亡霊忽に鉄の牙、石の身なる八万四千の鼠と成て、比叡山に登り、仏像・経巻を噛破ける間、是を防に無術して、頼豪を一社の神に崇めて其怨念を鎮む。鼠の禿倉是也。懸し後は、三井寺も弥意趣深して、動ば戒壇の事を申達せんとし、山門も又以前の嗷儀を例として、理不尽に是を欲徹却と。去ば始天歴年中より、去文保元年に至迄、此戒壇故に園城寺の焼る事已に七箇度也。近年は是に依て、其企も無りつれば、中々寺門繁昌して三宝の住持も全かりつるに、今将軍妄に衆徒の心を取ん為に、山門の忿をも不顧、楚忽に被成御教書ければ、却て天魔の所行、法滅の因縁哉と、聞人毎に脣を翻しけり。
○奥州勢著坂本事 S1502
去年十一月に、義貞朝臣打手の大将を承て、関東へ被下向時、奥州の国司北畠中納言顕家卿の方へ、合図の時をたがへず可攻合由綸旨を被下たりけるが、大軍を起す事不容易間、兎角延引す。剰路すがらの軍に日数を送りける間、心許は被急けれども、此彼の逗留に依て、箱根の合戦には迦れ給ひにけり。されども幾程もなく、鎌倉に打入給ひたれば、将軍は早箱根竹下の戦に打勝て、軈て上洛し給ひぬと申ければ、さらば迹より追てこそ上らめとて、夜を日に継でぞ被上洛ける。去程に越後・上野・常陸・下野に残りたる新田の一族、並千葉・宇都宮が手勢共、是を聞伝て此彼より馳加りける間、其勢無程五万余騎に成にけり。鎌倉より西には手さす者も無りければ、夜昼馬を早めて、正月十二日近江の愛智河の宿に被著けり。其日大館中務大輔、佐々木判官氏頼其比未幼稚にて楯篭りたる観音寺の城郭を責落て、敵を討事都て五百余人、翌日早馬を先立て事の由を坂本へ被申たりければ、主上を始進せて、敗軍の士卒悉悦をなし、志を不令蘇と云者なし。則道場坊の助註記祐覚に被仰付、湖上の船七百余艘を点じて志那浜より一日が中にぞ被渡ける。爰に宇都宮紀清両党、主の催促に依て五百余騎にて打連たりけるが、宇都宮は将軍方に在と聞へければ、面々に暇を請、色代して志那浜より引分れ、芋洗を廻て、京都へこそ上りけれ。
○三井寺合戦並当寺撞鐘事付俵藤太事 S1503
東国の勢既[に]坂本に著ければ、顕家卿・義貞朝臣、其外宗との人々、聖女の彼岸所に会合して、合戦の評定あり。「何様一両日は馬の足を休てこそ、京都へは寄候はめ。」と、顕家卿宣けるを、大館左馬助被申けるは、「長途に疲れたる馬を一日も休候はゞ中々血下て四五日は物の用に不可立。其上此勢坂本へ著たりと、敵縦聞及共、頓て可寄とはよも思寄候はじ。軍は起不意必敵を拉習也。只今夜の中に志賀・唐崎の辺迄打寄て、未明に三井寺へ押寄せ、四方より時を作て責入程ならば、御方治定の勝軍とこそ存候へ。」と被申ければ、義貞朝臣も楠判官正成も、「此義誠に可然候。」と被同て、頓て諸大将へぞ被触ける。今上りの千葉勢是を聞て、まだ宵より千余騎にて志賀の里に陣取る。大館左馬助・額田・羽川六千余騎にて、夜半に坂本を立て、唐崎の浜に陣を取る。戸津・比叡辻・和爾・堅田の者共は、小船七百余艘に取乗て、澳に浮て明るを待。山門の大衆は、二万余人、大略徒立なりければ、如意越を搦手に廻り、時の声を揚げば同時に落し合んと、鳴を静めて待明す。去程に坂本に大勢の著たる形勢、船の往反に見へて震しかりければ、三井寺の大将細川卿律師定禅、高大和守が方より、京都へ使を馳て、「東国の大勢坂本に著て、明日可寄由其聞へ候。急御勢を被添候へ。」と、三度迄被申たりけれ共、「関東より何勢が其程迄多は上るべきぞ。勢は大略宇都宮紀清の両党の者とこそ聞ゆれ。其勢縦誤て坂本へ著たりとも、宇都宮京に在と聞へなば、頓て主の許へこそ馳来んずらん。」とて、将軍事ともし給はざりければ、三井寺へは勢の一騎をも不被添。夜既に明方に成しかば源中納言顕家卿二万余騎、新田左兵衛督義貞三万余騎、脇屋・堀口・額田・鳥山の勢一万五千余騎、志賀・唐崎の浜路に駒を進て押寄て、後陣遅しとぞ待ける。前陣の勢先大津の西の浦、松本の宿に火をかけて時の声を揚ぐ。三井寺の勢共、兼てより用意したる事なれば、南院の坂口に下り合て、散々に射る。一番に千葉介千余騎にて推寄せ、一二の木戸打破り、城の中へ切て入り、三方に敵を受て、半時許闘ふたり。細川卿律師定禅が横合に懸りける四国の勢六千余騎に被取篭て、千葉新介矢庭に被打にければ、其手の兵百余騎に、当の敵を討んと懸入々々戦て、百五十騎被討にければ、後陣に譲て引退く。二番に顕家卿二万余騎にて、入替へ乱合て責戦ふ。其勢一軍して馬の足を休れば、三番に結城上野入道・伊達・信夫の者共五千余騎入替て面も不振責戦ふ。其勢三百余騎被討て引退ければ、敵勝に乗て、六万余騎を二手に分て、浜面へぞ打て出たりける。新田左衛門督是を見て、三万余騎を一手に合せて、利兵堅を破て被進たり。細川雖大勢と、北は大津の在家まで焼る最中なれば通り不得。東は湖海なれば、水深して廻んとするに便りなし。僅に半町にもたらぬ細道を只一順に前まんとすれば、和爾・堅田の者共が渚に舟を漕並て射ける横矢に被防て、懸引自在にも無りけり。官軍是に力を得て、透間もなく懸りける間、細川が六万余騎の勢五百余騎被打て、三井寺へぞ引返しける。額田・堀口・江田・大館七百余騎にて、逃る敵に追すがふて、城の中へ入んとしける処を、三井寺衆徒五百余人関の口に下り塞て、命を捨闘ける間、寄手の勢百余人堀の際にて被討ければ、後陣を待て不進得。其間に城中より木戸を下して堀の橋を引けり。義助是を見て、「無云甲斐者共の作法哉。僅の木戸一に被支て是程の小城を責落さずと云事やある。栗生・篠塚はなきか。あの木戸取て引破れ。畑・亘理はなきか。切て入れ。」とぞ被下知ける。栗生・篠塚是を聞て馬より飛で下り、木戸を引破らんと走寄て見れば、屏の前に深さ二丈余りの堀をほりて、両方の岸屏風を立たるが如くなるに、橋の板をば皆刎迦して、橋桁許ぞ立たりける。二人の者共如何して可渡と左右をきつと見処に、傍なる塚の上に、面三丈許有て、長さ五六丈もあるらんと覚へたりける大率都婆二本あり。爰にこそ究竟の橋板は有けれ。率都婆を立るも、橋を渡すも、功徳は同じ事なるべし。いざや是を取て渡さんと云侭に、二人の者共走寄て、小脇に挟てゑいやつと抜く。土の底五六尺掘入たる大木なれば、傍りの土一二尺が程くわつと崩て、率都婆は無念抜にけり。彼等二人、二本の率都婆を軽々と打かたげ、堀のはたに突立て、先自歎をこそしたりけれ。「異国には烏獲・樊■、吾朝には和泉小次郎・浅井那三郎、是皆世に双びなき大力と聞ゆれども、我等が力に幾程かまさるべき。云所傍若無人也と思ん人は、寄合て力根の程を御覧ぜよ。」と云侭に、二本の率都婆を同じ様に、向の岸へぞ倒し懸たりける。率都婆の面平にして、二本相並たれば宛四条・五条の橋の如し。爰に畑六郎左衛門・亘理新左衛門二人橋の爪に有けるが、「御辺達は橋渡しの判官に成り給へ。我等は合戦をせん。」と戯れて、二人共橋の上をさら/゛\と走渡り、堀の上なる逆木共取て引除、各木戸の脇にぞ著たりける。是を防ぎける兵共、三方の土矢間より鑓・長刀を差出して散々に突けるを、亘理新左衛門、十六迄奪てぞ捨たりける。畑六郎左衛門是を見て、「のけや亘理殿、其屏引破て心安く人々に合戦せさせん。」と云侭に、走懸り、右の足を揚て、木戸の関の木の辺を、二蹈三蹈ぞ蹈だりける。余に強く被蹈て、二筋渡せる八九寸の貫の木、中より折て、木戸の扉も屏柱も、同くどうど倒れければ、防がんとする兵五百余人、四方に散て颯とひく。一の木戸已に破ければ、新田の三万余騎の勢、城の中へ懸入て、先合図の火をぞ揚たりける。是を見て山門の大衆二万余人、如意越より落合て、則院々谷々へ乱入り、堂舎・仏閣に火を懸て呼き叫でぞ責たりける。猛火東西より吹懸て、敵南北に充満たれば、今は叶じとや思けん、三井寺の衆徒共、或は金堂に走入て猛火の中に腹を切て臥、或は聖教を抱て幽谷に倒れ転ぶ。多年止住の案内者だにも、時に取ては行方を失ふ。況乎四国・西国の兵共、方角もしらぬ烟の中に、目をも不見上迷ひければ、只此彼この木の下岩の陰に疲れて、自害をするより外の事は無りけり。されば半日許の合戦に、大津・松本・三井寺内に被討たる敵を数るに七千三百余人也。抑金堂の本尊は、生身の弥勒にて渡せ給へば、角ては如何とて或衆徒御首許を取て、薮の中に隠し置たりけるが、多被討たる兵の首共の中に交りて、切目に血の付たりけるを見て、山法師や仕たりけん、大札を立て、一首の歌に事書を書副たりける。「建武二年の春の比、何とやらん、事の騒しき様に聞へ侍りしかば、早三会の暁に成ぬるやらん。いでさらば八相成道して、説法利生せんと思ひて、金堂の方へ立出たれば、業火盛に燃て修羅の闘諍四方に聞ゆ。こは何事かと思ひ分く方も無て居たるに、仏地坊の某とやらん、堂内に走入り、所以もなく、鋸を以て我が首を切し間、阿逸多といへ共不叶、堪兼たりし悲みの中に思ひつゞけて侍りし。山を我敵とはいかで思ひけん寺法師にぞ頚を切るゝ。」前々炎上の時は、寺門の衆徒是を一大事にして隠しける九乳の鳧鐘も取人なければ、空く焼て地に落たり。此鐘と申は、昔竜宮城より伝りたる鐘也。其故は承平の比俵藤太秀郷と云者有けり。或時此秀郷只一人勢多の橋を渡けるに、長二十丈許なる大蛇、橋の上に横て伏たり。両の眼は耀て、天に二の日を卦たるが如、双べる角尖にして、冬枯の森の梢に不異。鉄の牙上下に生ちがふて、紅の舌炎を吐かと怪まる。若尋常の人是を見ば、目もくれ魂消て則地にも倒つべし。されども秀郷天下第一の大剛の者也ければ更に一念も不動ぜして、彼大蛇の背の上を荒かに蹈で閑に上をぞ越たりける。然れ共大蛇も敢て不驚、秀郷も後ろを不顧して遥に行隔たりける処に、怪げなる小男一人忽然として秀郷が前に来て云けるは、「我此橋の下に住事已に二千余年也。貴賎往来の人を量り見るに、今御辺程に剛なる人を未見ず。我に年来地を争ふ敵有て、動ば彼が為に被悩。可然は御辺我敵を討てたび候へ。」と、懇にこそ語ひけれ。秀郷一義も不謂、「子細有まじ。」と領状して、則此男を前に立てゝ又勢多の方へぞ帰ける。二人共に湖水の波を分て、水中に入事五十余町有て一の楼門あり。開て内へ入るに、瑠璃の沙厚く玉の甃暖にして、落花自繽紛たり。朱楼紫殿玉欄干、金を鐺にし銀を柱とせり。其壮観奇麗、未曾て目にも不見耳にも聞ざりし所也。此怪しげなりつる男、先内へ入て、須臾の間に衣冠を正しくして、秀郷を客位に請ず。左右侍衛官前後花の装善尽し美尽せり。酒宴数刻に及で夜既に深ければ、敵の可寄程に成ぬと周章騒ぐ。秀郷は一生涯が間身を放たで持たりける五人張にせき弦懸て噛ひ湿し、三年竹の節近なるを十五束二伏に拵へて、鏃の中子を筈本迄打どほしにしたる矢、只三筋を手挟て、今や/\とぞ待たりける。夜半過る程に雨風一通り過て、電火の激する事隙なし。暫有て比良の高峯の方より、焼松二三千がほど二行に燃て、中に嶋の如なる物、此龍宮城を指てぞ近付ける。事の体を能々見に、二行にとぼせる焼松は皆己が左右の手にともしたりと見へたり。あはれ是は百足蜈蚣の化たるよと心得て、矢比近く成ければ、件の五人張に十五束三伏忘るゝ許引しぼりて、眉間の真中をぞ射たりける。其手答鉄を射る様に聞へて、筈を返してぞ不立ける。秀郷一の矢を射損て、不安思ひければ、二の矢を番て、一分も不違態前の矢所をぞ射たりける。此矢も又前の如くに躍り返て、是も身に不立けり。秀郷二つの矢をば皆射損じつ、憑所は矢一筋也。如何せんと思けるが、屹と案じ出したる事有て、此度射んとしける矢さきに、唾を吐懸て、又同矢所をぞ射たりける。此矢に毒を塗たる故にや依けん、又同矢坪を三度迄射たる故にや依けん、此矢眉間のたゞ中を徹りて喉の下迄羽ぶくら責てぞ立たりける。二三千見へつる焼松も、光忽に消て、島の如に有つる物、倒るゝ音大地を響かせり。立寄て是を見るに、果して百足の蜈蚣也。竜神は是を悦て、秀郷を様々にもてなしけるに、太刀一振・巻絹一・鎧一領・頚結たる俵一・赤銅の撞鐘一口を与て、「御辺の門葉に、必将軍になる人多かるべし。」とぞ示しける。秀郷都に帰て後此絹を切てつかふに、更に尽事なし。俵は中なる納物を、取ども/\尽ざりける間、財宝倉に満て衣裳身に余れり。故に其名を俵藤太とは云ける也。是は産業の財らなればとて是を倉廩に収む。鐘は梵砌の物なればとて三井寺へ是をたてまつる。文保二年三井寺炎上の時、此鐘を山門へ取寄て、朝夕是を撞けるに、敢てすこしも鳴ざりける間、山法師共、「悪し、其義ならば鳴様に撞。」とて、鐘木を大きに拵へて、二三十人立懸りて、破よとぞ撞たりける。其時此鐘海鯨の吼る声を出して、「三井寺へゆかふ。」とぞ鳴たりける。山徒弥是を悪みて、無動寺の上よりして数千丈高き岩の上をころばかしたりける間、此鐘微塵に砕にけり。今は何の用にか可立とて、其われを取集て本寺へぞ送りける。或時一尺許なる小蛇来て、此鐘を尾を以[て]扣きたりけるが、一夜の内に又本の鐘に成て、疵つける所一も無りけり。されば今に至るまで、三井寺に有て此鐘の声を聞人、無明長夜の夢を驚かして慈尊出世の暁を待。末代の不思議、奇特の事共也。
○建武二年正月十六日合戦事 S1504
三井寺の敵無事故責落たりければ、長途に疲たる人馬、一両日機を扶てこそ又合戦をも致さめとて、顕家卿坂本へ被引返ければ、其勢二万余騎は、彼趣に相順ふ。新田左兵衛督も、同坂本へ帰らんとし給ひけるを、舟田長門守経政、馬を叩て申けるは、「軍の利、勝に乗る時、北るを追より外の質は非じと存候。此合戦に被打漏て、馬を棄物具を脱で、命許を助からんと落行候敵を追懸て、京中へ押寄る程ならば、臆病神の付たる大勢に被引立、自余の敵も定て機を失はん歟。さる程ならば、官軍敵の中へ紛れ入て、勢の分際を敵に不見せしとて、此に火をかけ、彼に時を作り、縦横無碍に懸立る者ならば、などか足利殿御兄弟の間に近付奉て、勝負を仕らでは候べき。落候つる敵、よも幾程も阻り候はじ。何様一追々懸て見候はゞや。」と申ければ、義貞、「我も此義を思ひつる処に、いしくも申たり。さらば頓て追懸よ。」とて、又旗の手を下して馬を進め給へば、新田の一族五千余人、其勢三万余騎、走る馬に鞭を進めて、落行敵をぞ追懸たる。敵今は遥に阻たりぬらんと覚る程なれば、逃るは大勢にて遅く、追は小勢にて早かりければ、山階辺にて漸敵にぞ追付ける。由良・長浜・吉江・高橋、真前に進で追けるが、大敵をば不可欺とて、広みにて敵の返し合つべき所迄はさまで不追、遠矢射懸々々、時を作る許にて、静々と是を追ひ、道迫りて、而も敵の行前難所なる山路にては、かさより落し懸て、透間もなく射落し切臥せける間、敵一度も返し不得、只我先にとぞ落行ける。されば手を負たる者は其侭馬人に被蹈殺、馬離たる者は引かねて無力腹を切けり。其死骸谷をうめ溝を埋みければ、追手の為には道平に成て、弥輪宝の山谷を平らぐるに不異、将軍三井寺に軍始たりと聞へて後、黒烟天に覆を見へければ、「御方如何様負軍したりと覚るぞ。急ぎ勢を遣せ。」とて、三条河原に打出、先勢揃をぞし給ひける。斯処に粟田口より馬烟を立て、其勢四五万騎が程引て出来たり。誰やらんと見給へば、三井寺へ向し四国・西国の勢共也。誠に皆軍手痛くしたりと見へて、薄手少々負はぬ者もなく、鎧の袖冑の吹返に、矢三筋四筋折懸ぬ人も無りけり。さる程に新田左兵衛督、二万三千余騎を三手に分て、一手をば将軍塚の上へ挙、一手をば真如堂の前より出し、一手をば法勝寺を後に当て、二条河原へ出して、則相図の烟をぞ被挙ける。自らは花頂山に打上て、敵の陣を見渡し給へば、上は河合森より、下は七条河原まで、馬の三頭に馬を打懸け、鎧の袖に袖を重て、東西南北四十余町が間、錐を立る許の地も不見、身を峙て打囲たり。義貞朝臣弓杖にすがり被下知けるは、「敵の勢に御方を合れば、大海の一滴、九牛が一毛也。只尋常の如くに軍をせば、勝事を得難し。相互に面をしり被知たらんずる侍共、五十騎づゝ手を分て、笠符を取捨、幡を巻て、敵の中に紛れ入り、此彼に叩々、暫可相待。将軍塚へ上せつる勢、既に軍を始むと見ば、此陣より兵を進めて可令闘。其時に至て、御辺達敵の前後左右に旗を差挙て、馬の足を不静め、前に在歟とせば後へぬけ、左に在かとせば右へ廻て、七縦八横に乱て敵に見する程ならば、敵の大勢は、還て御方の勢に見へて、同士打をする歟、引て退く歟、尊氏此二つの中を不可出。」韓信が謀を被出しかば、諸大将の中より、逞兵五十騎づゝ勝り出して、二千余騎各一様に、中黒の旗を巻て、文を隠し、笠符を取て袖の下に収め、三井寺より引をくれたる勢の真似をして、京勢の中へぞ馳加りける。敵斯る謀ありとは、将軍不思寄給、宗との侍共に向ふて被下知けるは、「新田はいつも平場の懸をこそ好と聞しに、山を後ろに当てゝ、頓ても懸出ぬは、如何様小勢の程を敵に見せじと思へる者也。将軍塚の上に取あがりたる敵を置てはいつまでか可守挙。師泰彼に馳向て追散せ。」と宣ければ、越後守畏て、「承候。」と申て、武蔵・相摸の勢二万余騎を率して、双林寺と中霊山とより、二手に成てぞ挙たりける。此には脇屋右衛門佐・堀口美濃守・大館左馬助・結城上野入道以下三千余騎にて向たりけるが、其中より逸物の射手六百余人を勝て、馬より下し、小松の陰を木楯に取て、指攻引攻散々にぞ射させたりける。嶮き山を挙かねたりける武蔵・相摸の勢共、物具を被徹て矢場に伏、馬を被射てはね落されける間、少猶予して見へける処を、「得たり賢し。」と、三千余騎の兵共抜連て、大山の崩るが如く、真倒に落し懸たりける間、師泰が兵二万余騎、一足をもためず、五条河原へ颯と引退。此にて、杉本判官・曾我二郎左衛門も被討にけり。官軍態長追をばせで、猶東山を後に当て勢の程をぞ見せざりける。搦手より軍始まりければ、大手音を受て時を作る。官軍の二万余騎と将軍の八十万騎と、入替入替天地を響して戦たる。漢楚八箇年の戦を一時に集め、呉越三十度の軍を百倍になす共、猶是には不可過。寄手は小勢なれども皆心を一にして、懸時は一度に颯と懸て敵を追まくり、引時は手負を中に立て静に引く。京勢は大勢なりけれ共人の心不調して、懸時も不揃、引時も助けず、思々心々に闘ける間、午の剋より酉の終まで六十余度の懸合に、寄手の官軍度毎に勝に不乗と云事なし。されども将軍方大勢なれば、被討共勢もすかず、逃れども遠引せず、只一所にのみこらへ居たりける処に、最初に紛れて敵に交りたる一揆の勢共、将軍の前後左右に中黒の旗を差揚て、乱合てぞ戦ける。何れを敵何を御方共弁へ難ければ、東西南北呼叫で、只同士打をするより外の事ぞ無りける。将軍を始奉りて、吉良・石堂・高・上杉の人々是を見て、御方の者共が敵と作合て後矢を射よと被思ければ、心を置合て、高・上杉の人々は、山崎を指して引退き、将軍・吉良・石堂・仁木・細川の人々は、丹波路へ向て落給ふ。官軍弥勝に乗て短兵急に拉。将軍今は遁る所なしと思食けるにや、梅津、桂河辺にては、鎧の草摺畳み揚て腰の刀を抜んとし給ふ事、三箇度に及けり。されども将軍の御運や強かりけん、日既に暮けるを見て、追手桂河より引返ければ、将軍も且く松尾・葉室の間に引へて、梅酸の渇をぞ休められける。爰に細川卿律師定禅、四国の勢共に向て宣けるは、「軍の勝負は時の運に依事なれば、強に恥ならねども、今日の負は三井寺の合戦より事始りつる間、我等が瑕瑾、人の嘲を不遁。されば態他の勢を不交して、花やかなる軍一軍して、天下の人口を塞がばやと思也。推量するに、新田が勢は、終日の合戦に草伏て、敵に当り変に応ずる事自在なるまじ。其外の敵共は、京白河の財宝に目をかけて一所に不可在。其上赤松筑前守僅の勢にて下松に引へて有つるを、無代に討せたらんも可口惜。いざや殿原、蓮台野より北白河へ打廻て、赤松が勢と成合、新田が勢を一あて/\て見ん。」と宣へば、藤・橘・伴の者共、「子細候まじ。」とぞ同じける。定禅不斜喜で、態将軍にも知らせ不奉、伊予・讚岐の勢の中より三百余騎を勝て、北野の後ろより上賀茂を経て、潛に北白河へぞ廻りける。糾の前にて三百余騎の勢十方に分て、下松・薮里・静原・松崎・中賀茂、三十余箇所に火をかけて、此をば打捨て、一条・二条の間にて、三所に鬨をぞ挙たりける。げにも定禅律師推量の如く、敵京白河に分散して、一所へ寄る勢少なかりければ、義貞・義助一戦に利を失て、坂本を指して引返しけり。所々に打散たる兵共、俄に周章て引ける間、北白河・粟田口の辺にて、舟田入道・大館左近蔵人・由良三郎左衛門尉・高田七郎左衛門以下宗との官軍数百騎被討けり。卿律師、頓て早馬を立て、此由を将軍へ被申たりければ、山陽・山陰両道へ落行ける兵共、皆又京へぞ立帰る。義貞朝臣は、僅に二万騎勢を以て将軍の八十万騎を懸散し、定禅律師は、亦三百余騎の勢を以て、官軍の二万余騎を追落す。彼は項王が勇を心とし、是は張良が謀を宗とす。智謀勇力いづれも取々なりし人傑也。
○正月二十七日合戦事 S1505
斯る処に去年十二月に、一宮関東へ御下有し時、搦手にて東山道より鎌倉へ御下有し大智院宮・弾正尹宮、竹下・箱根の合戦には、相図相違して逢せ給はざりしかども、甲斐・信濃・上野・下野勢共馳参しかば、御勢雲霞の如に成て、鎌倉へ入せ給ふ。此にて事の様を問へば、「新田、竹下・箱根の合戦に打負て引返す。尊氏朝臣北を追て被上洛ぬ。其後奥州国司顕家卿、又尊氏朝臣の跡を追て、被責上候ぬ。」とぞ申ける。「さらば何様道にても新田蹈留らば合戦有ぬべし。鎌倉に可逗留様なし。」とて、公家には洞院左衛門督実世・持明院右衛門督入道・信濃国司堀河中納言・園中将基隆・二条少将為次、武士には、嶋津上野入道・同筑後前司・大伴・猿子の一党・落合の一族・相場・石谷・纐纈・伊木・津子・中村・々上・源氏・仁科・高梨・志賀・真壁、是等を宗との者として都合其勢二万余騎、正月二十日の晩景に東坂本にぞ著にける。官軍弥勢ひを得て翌日にも頓て京都へ寄んと議しけるが、打続き悪日也ける上、余に強く乗たる馬共なれば、皆竦て更はたらき得ざりける間、兎に角に延引して、今度の合戦は、二十七日にぞ被定ける。既其日に成ぬれば、人馬を休ん為に、宵より楠木・結城・伯耆、三千余騎にて、西坂を下々て、下松に陣を取る。顕家卿は三万余騎にて、大津を経て山科に陣を取る。洞院左衛門督二万余騎にて赤山に陣を取。山徒は一万余騎にて竜花越を廻て鹿谷に陣を取。新田左兵衛督兄弟は二万余騎の勢を率し、今道より向て、北白河に陣を取る。大手・搦手都合十万三千余騎、皆宵より陣を取寄たれども、敵に知せじと態篝火をば焼ざりけり。合戦は明日辰刻と被定けるを、機早なる若大衆共、武士に先をせられじとや思けん、まだ卯刻の始に神楽岡へぞ寄たりける。此岡には宇都宮・紀清両党城郭を構てぞ居たりける。去ば無左右寄著て人の可責様も無りけるを、助註記祐覚が同宿共三百余人、一番に木戸口に著て屏を阻て闘けるが、高櫓より大石数た被投懸て引退処に、南岸円宗院が同宿共五百余人、入替てぞ責たりける。是も城中に名誉の精兵共多かりければ、走廻て射けるに、多く物具を被徹て叶はじとや思ひけん、皆持楯の陰に隠れて、「悪手替れ。」とぞ招きける。爰に妙観院の因幡竪者全村とて、三塔名誉の悪僧あり。鎖の上に大荒目の鎧を重て、備前長刀のしのぎさがりに菖蒲形なるを脇に挟み、箆の太さは尋常の人の蟇目がらにする程なる三年竹を、もぎつけに押削て、長船打の鏃の五分鑿程なるを、筈本迄中子を打徹にしてねぢすげ、沓巻の上を琴の糸を以てねた巻に巻て、三十六差たるを、森の如に負成し、態弓をば不持、是は手衝にせんが為なりけり。切岸の面に二王立に立て名乗けるは、「先年三井寺の合戦の張本に被召て、越後国へ被流たりし妙観院高因幡全村と云は我事也。城中の人々此矢一つ進せ候はん。被遊て御覧候へ。」と云侭に、上差一筋抽出て、櫓の小間を手突にぞ突たりける。此矢不誤、矢間の陰に立たりける鎧武者のせんだんの板より、後の角総著の金物迄、裏表二重を徹て、矢前二寸許出たりける間、其兵櫓より落て、二言も不云死にけり。是を見ける敵共、「あなをびたゝし、凡夫の態に非ず。」と懼て色めきける処へ、禅智房護聖院の若者共、千余人抜連て責入ける間、宇都宮神楽岡を落て二条の手に馳加る。是よりしてぞ、全村を手突因幡とは名付ける。山法師鹿谷より寄て神楽岡の城を責る由、両党の中より申ければ、将軍頓て後攻をせよとて、今河・細川の一族に、三万余騎を差副て被遣けるが、城は早被責落、敵入替ければ、後攻の勢も徒に京中へぞ帰ける。去程に、楠判官・結城入道・伯耆守、三千余騎にて糾の前より押寄て、出雲路の辺に火を懸たり。将軍是を見給て、「是は如何様神楽岡の勢共と覚るぞ、山法師ならば馬上の懸合は心にくからず、急ぎ向て懸散せ。」とて、上杉伊豆守・畠山修理大夫・足利尾張守に、五万余騎を差副てぞ被向ける。楠木は元来勇気無双の上智謀第一也ければ、一枚楯の軽々としたるを五六百帖はがせて、板の端に懸金と壷とを打て、敵の駆んとする時は、此楯の懸金を懸、城の掻楯の如く一二町が程につき並べて、透間より散々に射させ、敵引けば究竟の懸武者を五百余騎勝て、同時にばつと駆させける間、防手の上杉・畠山が五万余騎、楠木が五百余騎に被揉立て五条河原へ引退く。敵は是計歟と見処に、奥州国司顕家卿二万余騎にて粟田口より押寄て、車大路に火を被懸たり。将軍是を見給て、「是は如何様北畠殿と覚るぞ、敵も敵にこそよれ、尊氏向はでは叶まじ。」とて、自五十万騎を率し、四条・五条の河原へ馳向て、追つ返つ、入替々々時移る迄ぞ被闘ける。尊氏卿は大勢なれども軍する勢少くして、大将已に戦ひくたびれ給ぬ。顕家卿は小勢なれば、入替る勢無して、諸卒忽に疲れぬ。両陣互に戦屈して忿りを抑へ、馬の息つぎ居たる処へ、新田左兵衛督義貞・脇屋右衛門佐義助・堀口美濃守貞満・大館左馬助氏明、三万余騎を三手に分け、双林寺・将軍塚・法勝寺の前より、中黒の旗五十余流差せて、二条河原に雲霞の如くに打囲たる敵の中を、真横様に懸通りて、敵の後を切んと、京中へこそ被懸入けれ。敵是を見て、「すはや例の中黒よ。」と云程こそあれ、鴨河・白河・京中に、稲麻竹葦の如に打囲ふだる大勢共、馬を馳倒し、弓矢をかなくり捨て、四角八方へ逃散事、秋の木の葉を山下風の吹立たるに不異。義貞朝臣は、態鎧を脱替へ馬を乗替て、只一騎敵の中へ懸入々々、何くにか尊氏卿の坐らん、撰び打に討んと伺ひ給ひけれども、将軍運強くして、遂に見へ給はざりければ、無力其勢を十方へ分て、逃る敵をぞ追はせられける。中にも里見・鳥山の人々は、僅に二十六騎の勢にて、丹波路の方へ落ける敵二三万騎有けるを、将軍にてぞ坐らんと心得て桂河の西まで追ける間、大勢に返合せられて一人も不残被討にけり。さてこそ十方に分れて追ける兵も、「そゞろに長追なせそ。」とて、皆京中へは引返しける。角て日已に暮ければ、楠判官総大将の前に来て申けるは、「今日御合戦、不慮に八方の衆を傾くと申せ共さして被討たる敵も候はず、将軍の落させ給ける方をも不知、御方僅の勢にて京中に居候程ならば、兵皆財宝に心を懸て、如何に申すとも、一所に打寄る事不可有候。去程ならば、前の如く又敵に取て被返て、度方を失事治定可有と覚候。敵に少しも機を付ぬれば、後の合戦しにくき事にて候。只此侭にて今日は引返させ給ひ候て、一日馬の足を休め、明後日の程に寄せて、今一あて手痛く戦ふ程ならば、などか敵を十里・二十里が外まで、追靡けでは候べき。」と申ければ、大将誠にげにもとて、坂本へぞ被引返ける。将軍は今度も丹波路へ引給んと、寺戸の辺までをはしたりけるが、京中には敵一人も不残皆引返したりと聞へければ、又京都へぞ帰り給ひける。此外八幡・山崎・宇治・勢多・嵯峨・仁和寺・鞍馬路へ懸りて、落行ける者共も是を聞て、みな我も我もと立帰りけり。入洛の体こそ恥かしけれども、今も敵の勢を見合すれば、百分が一もなきに、毎度かく被追立、見苦き負をのみするは非直事。我等朝敵たる故歟、山門に被咒詛故歟と、謀の拙き所をば閣て、人々怪しみ思はれける心の程こそ愚なれ。
○将軍都落事付薬師丸帰京事 S1506
楠判官山門へ帰て、翌の朝律僧を二三十人作り立て京へ下し、此彼の戦場にして、尸骸をぞ求させける。京勢怪て事の由を問ければ、此僧共悲歎の泪を押へて、「昨日の合戦に、新田左兵衛督殿・北畠源中納言殿・楠木判官已下、宗との人々七人迄被討させ給ひ候程に、孝養の為に其尸骸を求候也。」とぞ答へける。将軍を始奉て、高・上杉の人々是を聞て、「あな不思議や、宗徒の敵共が皆一度に被討たりける。さては勝軍をばしながら官軍京をば引たりける。何くにか其頚共の有らん。取て獄門に懸、大路を渡せ。」とて、敵御方の尸骸共の中を求させけれ共、是こそとをぼしき頚も無りけり。余にあらまほしさに、此に面影の似たりける頭を二つ獄門の木に懸て、新田左兵衛督義貞・楠河内判官正成と書付をせられたりけるを、如何なるにくさうの者かしたりけん、其札の側に、「是はにた頚也。まさしげにも書ける虚事哉。」と、秀句をしてぞ書副て見せたりける。又同日の夜半許に、楠判官下部共に焼松を二三千燃し連させて、小原・鞍馬の方へぞ下しける。京中の勢共是を見て、「すはや山門の敵共こそ、大将を被討て、今夜方々へ落行げに候へ。」と申ければ、将軍もげにもとや思ひ給ひけん。「さらば落さぬ様に、方々へ勢を差向よ。」とて、鞍馬路へは三千余騎、小原口へ五千余騎、勢多へ一万余騎、宇治へ三千余騎、嵯峨・仁和寺の方迄、洩さぬ様に堅めよとて、千騎・二千騎差分て、勢を不被置方も無りけり。さてこそ京中の大勢大半減じて、残る兵も徒に用心するは無りけれ。去程に官軍宵より西坂をゝり下て、八瀬・薮里・鷺森・降松に陣を取る。諸大将は皆一手に成て、二十九日の卯刻に、二条河原へ押寄て、在々所所に火をかけ、三所に時をぞ揚たりける。京中の勢は、大勢なりし時だにも叶はで引し軍也。況て勢をば大略方々へ分ち被遣ぬ。敵可寄とは夢にも知ぬ事なれば、俄に周章ふためきて、或は丹波路を指て引もあり、或は山崎を志て逃るもあり、心も発らぬ出家して禅律の僧に成もあり。官軍はさまで遠く追ざりけるを、跡に引御方を追懸る敵ぞと心得て、久我畷・桂河辺には、自害をしたる者も数を不知ありけり。況馬・物具を棄たる事は、足の蹈所も無りけり。将軍は其日丹波の篠村を通り、曾地の内藤三郎左衛門入道々勝が館に著給へば、四国・西国の勢は、山崎を過て芥河にぞ著にける。親子兄弟骨肉主従互に行方を不知落行ければ、被討てぞ死しつらんと悲む。されども、「将軍は正しく別事無て、尾宅の宿を過させ給候也。」と分明に云者有ければ、兵庫湊河に落集りたる勢の中より丹波へ飛脚を立て、「急ぎ摂州へ御越候へ、勢を集て頓て京都へ責上り候はん。」と申ければ、二月二日将軍曾地を立て、摂津国へぞ越給ひける。此時熊野山の別当四郎法橋道有が、未に薬師丸とて童体にて御伴したりけるを、将軍喚寄給て、忍やかに宣けるは、「今度京都の合戦に、御方毎度打負たる事、全く戦の咎に非ず。倩事の心を案ずるに、只尊氏混朝敵たる故也。されば如何にもして持明院殿の院宣を申賜て、天下を君与君の御争に成て、合戦を致さばやと思也。御辺は日野中納言殿に所縁有と聞及ば、是より京都へ帰上て、院宣を伺ひ申て見よかし。」と被仰ければ、薬師丸、「畏て承り候。」とて、三草山より暇申て、則京へぞ上りける。
○大樹摂津国豊嶋河原合戦事 S1507
将軍湊河に著給ければ、機を失つる軍勢共、又色を直して、方々より馳参りける間、無程其勢二十万騎に成にけり。此勢にて頓て責上り給はゞ、又官軍京にはたまるまじかりしを、湊河の宿に、其事となく三日迄逗留有ける間、宇都宮五百余騎道より引返して、官軍に属し、八幡に被置たる武田式部大輔も、堪かねて降人に成ぬ。其外此彼に隠れ居たりし兵共、義貞に属ける間、官軍弥大勢に成て、竜虎の勢を振へり。二月五日顕家卿・義貞朝臣、十万余騎にて都を立て、其日摂津国の芥河にぞ被著ける。将軍此由を聞給て、「さらば行向て合戦を致せ。」とて、将軍の舎弟左馬頭に、十六万騎を差副て、京都へぞ被上ける。さる程に両家の軍勢、二月六日の巳刻に、端なく豊嶋河原にてぞ行合ける。互に旗の手を下して、東西に陣を張り、南北に旅を屯す。奥州国司先二たび逢て、軍利あらず、引退て息を継ば、宇都宮入替て、一面目に備んと攻戦ふ。其勢二百余騎被討て引退けば、脇屋右衛門佐二千余騎にて入替たり。敵には仁木・細川・高・畠山、先日の恥を雪めんと命を棄て戦ふ。官軍には江田・大館・里見・鳥山、是を被破ては何くへか可引と、身を無者に成てぞ防ぎける。されば互に死を軽ぜしかども、遂に雌雄を不決して、其日は戦ひ暮てけり。爰に楠判官正成、殿馳にて下りけるが、合戦の体を見て、面よりは不懸、神崎より打廻て、浜の南よりぞ寄たりける。左馬頭の兵、終日の軍に戦くたびれたる上、敵に後をつゝまれじと思ければ、一戦もせで、兵庫を指て引退く。義貞頓て追懸て、西宮に著給へば、直義は猶相支て、湊河に陣をぞ被取ける。同七日の朝なぎに、遥の澳を見渡せば、大船五百余艘、順風に帆を揚て東を指て馳たり。何方に属勢にかと見る処に、二百余艘は梶を直して兵庫の嶋へ漕入る。三百余艘は帆をつゐて、西宮へぞ漕寄せける。是は大伴・厚東・大内介が、将軍方へ上りけると、伊予の土居・得能が、御所方へ参りけると漕連て、昨日迄は同湊に泊りたりしが、今日は両方へ引分て、心々にぞ著たりける。荒手の大勢両方へ著にければ、互に兵を進めて、小清水の辺に羽向合。将軍方は目に余る程の大勢なりけれども、日比の兵、荒手にせさせんとて、軍をせず。厚東・大伴は、又強に我等許が大事に非ずと思ければ、さしも勇める気色もなし。官軍方は双べて可云程もなき小勢なりけれども、元来の兵は、是人の大事に非ず、我身の上の安否と思ひ、荒手の土居・得能は、今日の合戦無云甲斐しては、河野の名を可失と、機をとき心を励せり。されば両陣未闘はざる前に安危の端機に顕れて、勝負の色暗に見たり。されども荒手の験しなれば、大伴・厚東・大内が勢三千余騎、一番に旗を進めたり。土居・得能後へつと懸抽て、左馬頭の引へ給へる打出宿の西の端へ懸通り、「葉武者共に目な懸そ、大将に組め。」と下知して、風の如くに散し雲の如くに集て、呼ひて懸入、々々ては戦ひ、戦ふては懸抽け、千騎が一騎に成迄も、引なと互に恥めて面も不振闘ひける間、左馬頭叶はじとや被思けん、又兵庫を指して引給ふ。千度百般戦へども、御方の軍勢の軍したる有様、見るに可叶とも覚ざりければ、将軍も早退屈の体見へ給ける処へ、大伴参て、「今の如くにては何としても御合戦よかるべしとも覚候はず。幸に船共数候へば、只先筑紫へ御開き候へかし。小弐筑後入道御方にて候なれば、九国の勢多く属進せ候はゞ、頓て大軍を動て京都を被責候はんに、何程の事か候べき。」と申ければ、将軍げにもとや思食けん、軈て大伴が舟にぞ乗給ひける。諸軍勢是を見て、「すはや将軍こそ御舟に被召て落させ給へ。」とのゝめき立て、取物も取不敢、乗をくれじとあはて騒ぐ。舟は僅に三百余艘也。乗んとする人は二十万騎に余れり。一艘に二千人許こみ乗ける間、大船一艘乗沈めて、一人も不残失にけり。自余の舟共是を見て、さのみは人を乗せじと纜を解て差出す。乗殿れたる兵共、物具衣裳を脱捨て、遥の澳に游出で、舟に取著んとすれば、太刀・長刀にて切殺し、櫓かいにて打落す。乗得ずして渚に帰る者は、徒に自害をして礒越す波に漂へり。尊氏卿は福原の京をさへ被追落て、長汀の月に心を傷しめ、曲浦の波に袖を濡して、心づくしに漂泊し給へば、義貞朝臣は、百戦の功を高して、数万の降人を召具し、天下の士卒に将として花の都に帰給ふ。憂喜忽に相替て、うつゝもさながら夢の如くの世に成けり。
○主上自山門還幸事 S1508
去月晦日逆徒都を落しかば、二月二日主上自山門還幸成て、花山院を皇居に被成にけり。同八日義貞朝臣、豊嶋・打出の合戦に打勝て、則朝敵を万里の波に漂せ、同降人の五刑の難を宥て京都へ帰給ふ。事体ゆゝしくぞ見へたりける。其時の降人一万余騎、皆元の笠符の文を書直して著たりけるが、墨の濃き薄き程見へて、あらはにしるかりけるにや、其次の日、五条の辻に高札を立て、一首の歌をぞ書たりける。二筋の中の白みを塗隠し新田々々しげな笠符哉都鄙数箇度の合戦の体、君殊に叡感不浅。則臨時除目を被行て、義貞を左近衛中将に被任ぜ、義助を右衛門佐に被任けり。天下の吉凶必しも是にはよらぬ事なれども、今の建武の年号は公家の為不吉也けりとて、二月二十五日に改元有て、延元に被移。近日朝廷已に逆臣の為に傾られんとせしか共、無程静謐に属して、一天下又泰平に帰せしかば、此君の聖徳天地に叶へり。如何なる世の末までも、誰かは傾け可申と、群臣いつしか危を忘れて、慎む方の無りける、人の心ぞ愚かなる。
○賀茂神主改補事 S1509
大凶一元に帰して万機の政を新たにせられしかば、愁を含み喜を懐く人多かりけり。中にも賀茂の社の神主職は、神職の中の重職として、恩補次第ある事なれば、咎無しては改動の沙汰も難有事なるを、今度尊氏卿貞久を改て、基久に被補任、彼れ眉を開く事僅に二十日を不過、天下又反覆せしかば、公家の御沙汰として貞久に被返付。此事今度の改動のみならず、両院の御治世替る毎に転変する事、掌を反すが如し。其逆鱗何事の起ぞと尋ぬれば、此基久に一人の女めあり。被養て深窓に在し時より、若紫の■匂殊に、初本結の寐乱髪、末如何ならんと、見るに心も迷ぬべし。齢已に二八にも成しかば、巫山の神女雲と成し夢の面影を留め、玉妃の太真院を出し春の媚を残せり。只容色嬋娟の世に勝れたるのみに非ず、小野小町が弄びし道を学び、優婆塞宮のすさみ給し跡を追しかば、月の前に琵琶を弾じては、傾く影を招き、花の下に歌を詠じては、うつろう色を悲めり。されば其情を聞き、其貌を見る人毎に、意を不悩と云事なし。其比先帝は未帥宮にて、幽かなる御棲居也。是は後宇多院第二の皇子後醍醐天王と申せし御事也。今の法皇は伏見院第一の皇子にて、既に春宮に立せ可給と云、時めき合へり。此宮々如何なる玉簾の隙にか被御覧たりけん。此女最あてやかに臈しとぞ被思食ける。されども、混すらなる御業は如何と思食煩て、荻の葉に伝ふ風の便に付け、萱の末葉に結ぶ露のかごとに寄せては、いひしらぬ御文の数、千束に余る程に成にけり。女も最物わびしう哀なる方に覚へけれども、吹も定ぬ浦風に靡きはつべき烟の末も、終にはうき名に立ぬべしと、心強き気色をのみ関守になして、早年の三年を過にけり。父は賎して母なん藤原なりければ、無止事御子達の御覚は等閑ならぬを聞て、などや今迄御いらへをも申さではやみにけるぞと、最痛ふ打侘れば、御消息伝へたる二りのなかだち次よしと思て、「たらちめの諌めも理りにこそ侍るめれ。早一方に御返事を。」と、かこち顔也ければ、女云ばかりなく打侘て、「いさや我とは争でか分く方可侍。たゞ此度の御文に、御歌の最憐れに覚へ侍らん方へこそ参らめ。」と云て、少し打笑ぬる気色を、二りの媒嬉しと聞て、急ぎ宮々の御方へ参てかくと申せば、頓て伏見宮の御方より、取手もくゆる許にこがれたる紅葉重の薄様に、何よりも言の葉過て、憐れなる程なり。思ひかね云んとすればかきくれて泪の外は言の葉もなしと被遊たり。此上の哀誰かと思へる処に、帥宮御文あり。是は指も色深からぬ花染のかほり返たるに、言は無て、数ならぬみのゝを山の夕時雨強面松は降かひもなしと被遊たり。此御歌を見て、女そゞろに心あこがれぬと覚て、手に持ながら詠じ伏たりければ、早何れをかと可云程もなければ、帥宮の御使そゞろに独笑みして帰り参りぬ。頓て其夜の深け過る程に、牛車さはやかに取まかないて、御迎に参りたり。滝口なりける人、中門の傍にやすらひかねて、夜もはや丑三に成ぬと急げば、女下簾を掲させて、被扶乗としける処に、父の基久外より帰りまうで来て、「是はいづ方へぞ。」と問に、母上、「帥宮召有て。」と聞ゆ。父痛く留て、「事の外なる態をも計ひ給ひける者哉。伏見宮は春宮に立せ給べき由御沙汰あれば、其御方へ参てこそ、深山隠の老木迄も、花さく春にも可逢に、行末とても憑みなき帥宮に参り仕へん事は、誰が為とても可待方や有。」と云留めければ、母上げにやと思返す心に成にけり。滝口は角ともしらで簾の前によりゐて、月の傾きぬる程を申せば、母上出合て、「只今俄に心地の例ならぬ事侍れば、後の夕べをこそ。」と申て、御車を返してげり。帥宮かゝる事侍とは、露もおぼしよらず、さのみやと今日の憑みに昨日の憂さを替て、度々御使有けるに、「思の外なる事候て、伏見宮の御方へ参りぬ。」と申ければ、おやしさけずば、東路の佐野の船橋さのみやは、堪ては人の恋渡るべきと、思ひ沈ませ給にも、御憤の末深かりければ、帥宮御治世の初、基久指たる咎は無りしかども、勅勘を蒙り神職を被解て、貞久に被補。其後天下大に乱て、二君三たび天位を替させ給しかば、基久・貞久纔に三四年が中に、三度被改補。夢幻の世の習、今に始ぬ事とは云ながら、殊更身の上に被知たる世の哀に、よしや今は兎ても角てもと思ければ、うたゝねの夢よりも尚化なるは此比見つる現なりけりと、基久一首の歌を書留めて、遂に出家遁世の身とぞ成にける。


太平記
太平記巻第十六

○将軍筑紫御開事 S1601
建武三年二月八日、尊氏卿兵庫を落給ひし迄は、相順ふ兵僅七千余騎有しか共、備前の児嶋に著給ける時、京都より討手馳下らば、三石辺にて支よとて、尾張左衛門佐氏頼を、田井・飽浦・松田・内藤に付て留られ、細川卿律師定禅・同刑部大輔義敦をば、東国の事無心元とて返さる。其外の勢共は、各暇申て己が国々に留りける間、今は高・上杉・仁木・畠山・吉良・石塔の人々、武蔵・相摸勢の外は相順兵も無りけり。筑前国多々良浜の湊に著給ひける日は、其勢僅に五百人にも足ず、矢種は皆打出・瀬川の合戦に射尽し、馬・物具は悉兵庫西宮の渡海に脱捨ぬ。気疲れ勢尽ぬれば、轍魚の泥に吻き、窮鳥の懐に入ん風情して、知ぬ里に宿を問ひ、狎れぬ人に身を寄れば、朝の食飢渇して夜の寝醒蒼々たり。何の日か誰と云ん敵の手に懸てか、魂浮れ、骨空して、天涯望郷の鬼と成んずらんと、明日の命をも憑れねば味気無思はぬ人も無りけり。斯処に、宗像大宮司使者を進て、「御座の辺は余りに分内狭て、軍勢の宿なんども候はねば、恐ながら此弊屋へ御入有て、暫此間の御窮屈を息られ、国々へ御教書を成れて、勢を召れ候べし。」と申ければ、将軍軈て宗像が館へ入せ給ふ。次日小弐入道妙恵が方へ、南遠江守宗継・豊田弥三郎光顕を両使として、恃べき由を宣遣されければ、小弐入道子細に及ばず、軈嫡子の太郎頼尚に、若武者三百騎差添て、将軍へぞ進せける。
○小弐与菊池合戦事付宗応蔵主事 S1602
菊池掃部助武俊は、元来宮方にて肥後国に有けるが、小弐が将軍方へ参由を聞て道にて討散んと、其勢三千余騎にて水木の渡へぞ馳向ける。小弐太郎は、夢にも此を知ずして、小船七艘に込乗て、我身は先向の岸に付く。畦篭豊前守以下は未越、叩へて船の指し戻す間を相待ける処に、菊池が兵三千余騎、三方より推寄て、河中へ追ばめんとす。畦篭が兵百五十騎、とても遁れぬ所也と、一途に思定て、菊池が大勢の中へ懸入て、一人も不残討死す。小弐太郎は川向より、此を見けれ共、大河を中に障て、舟ならでは渡べき便も無ければ、徒に恃切たる一族若党共を敵に取篭させける心中、遣方無して無念なる。遂に船共近辺に見へざりければ、忿を推て将軍へぞ参ける。菊池は手合の合戦に討勝て、門出吉と悦で、頓て其勢を率、小弐入道妙恵が楯篭たる内山の城へぞ推寄ける。小弐宗徒の兵をば皆頼尚に付て、其勢過半水木の渡にて討れぬ。城に残勢僅に三百人にも足ざりければ、菊池が大勢に可叶とも覚へず。されども城の要害緊しかりければ、切岸の下に敵を直下して、防戦事数日に及べり。菊池荒手を入替々々夜昼十方より責けれ共、城中の兵一人も討れず、矢種も未尽りければ、いかに責るとも不落物をと思ける処に、小弐が一族等俄に心替して攻の城に引挙、中黒の旗を揚て、「我等聊所存候間宮方へ参候也。御同心候べしや。」と、妙恵が方へ云遣しければ、一言の返答にも及ばず、「苟も存て義無んよりは、死して名を残さんには不如。」と云て、持仏堂へ走入、腹掻斬て臥にけり。郎等百余人も、堂の大床に並居て、同音に声を出し、一度に腹をぞ切たりける。其声天に響て、悲想悲々想天迄も聞へやすらんと夥し。小弐が最末の子に、宗応蔵主と云僧、蔀遣戸を蹈破て薪とし、父が死骸を葬して、「万里碧天風高月明、為問慧公行脚事、蹈翻白刃転身行、下火云、猛火重焼一段清」と、閑に下火の仏事をして、其炎の中へ飛入て同く死にぞ赴ける。
○多々良浜合戦事付高駿河守引例事 S1603
小弐が城已に責落されて、一族若党百六十五人、一所にて討れければ、菊池弥大勢に成て、頓て多々良浜へぞ寄懸ける。将軍は香椎宮に取挙て、遥に菊池が勢を見給ふに、四五万騎も有らんと覚敷く、御方は纔に三百騎には過ず。而も半は馬にも乗ず鎧をも著ず、「此兵を以て彼大敵に合ん事、■蜉動大樹、蟷螂遮流車不異。憖なる軍して、云甲斐なき敵に合んよりは腹を切ん。」と、将軍は被仰けるを、左馬頭直義堅く諌申れけるは、「合戦の勝負は、必も大勢小勢に依べからず。異国に漢高祖■陽の囲を出時は、才に二十八騎に成しかども、遂に項羽が百万騎に討勝て天下を保り。吾朝の近比は、右大将頼朝卿土肥の杉山の合戦に討負て臥木の中に隠し時は、僅に七騎に成て候しか共、終に平氏の一類を亡して累葉久武将の位を続候はずや。二十八騎を以て百万騎の囲を出、七騎を以て伏木の下に隠れし機分、全く臆病にて命を捨兼しには非ず、只天運の保べき処を恃し者也。今敵の勢誠に雲霞の如しといへども、御方の三百余騎は今迄著纏て、我等が前途を見はてんと思へる一人当千の勇士なれば、一人も敵に後を見せ候はじ。此三百騎志を同する程ならば、などか敵を追払はで候べき。御自害の事曾て有べからず。先直義馳向て一軍仕て見候はん。」と申捨て、左馬頭香椎宮を打立給へば、相順人々には、仁木四郎次郎義長・細川陸奥守顕氏・高豊前守師重・大高伊予守重成・南遠江守宗継・上杉伊豆守重能・畠山阿波守国清を始として、大伴・嶋津・曾我・白石・八木岡・相庭を宗徒の兵として、都合其勢二百五十騎、三万余騎の敵に懸合せんと志して、命を塵芥に思ける心の程こそ艷けれ。直義已旌の手を下し、社壇の前を打過給ひける時、烏一番杉の葉を一枝噛て甲の上へぞ落しける。左馬頭馬より下て、是は香椎宮の擁護し給ふ瑞相也と敬礼して、射向の袖に差れける。敵御方相近付て、時の音を挙んとしける時、大高伊予守重成は、「将軍の御陣の余りに無勢に候へば帰参候はん。」とて引返しけり。直義此を見て、「始よりこそ留るべきに、敵を見て引返すは臆病の至也。あはれ大高が五尺六寸を五尺切てすて、剃刀にせよかし。」と欺れける。去程に菊池五千余騎を率し、浜の西より相近付て、先矢合の流鏑をぞ射たりける。左馬頭の陣よりは矢の一筋をも射ず、鳴を閑めて、透間あらば切懸んと伺見給ひけるに、誰が射とも不知白羽の流鏑矢敵の上を鳴響て、落所も見へず。左馬頭の兵共、是は只事に非と憑敷思、勇を不成と云者なし。両陣相挑で、未兵刃を交へざる処に、菊池が兵黄河原毛なる馬に、火威の鎧著たる武者只一騎、御方の勢に三町余り先立て、抜懸にぞしたりける。爰に曾我左衛門・白石彦太郎・八木岡五郎、三人共に馬・物具無て、真前に進だりけるが、見之、白石立向て馬より引落さんと、手もと近く寄副ければ、敵太刀を捨て、腰刀を抜んと、一反り反りけるが、真倒に成て落にけり。白石此を起も立ず、推へて首をば掻てけり。馬をば曾我走寄て打乗り、鎧をば八木岡剥取て著たりけり。白石が高名に、二人得利、軈三人共に敵の中へ打入れば、仁木・細川以下、「御方討すな、連や。」とて、大勢の中へ懸入て乱合てぞ闘ける。仁木越後守は、近付敵五騎切て落し、六騎に手負せて、猶敵の中に乍有、仰たる太刀を蹈直しては切合ひ、命を限とぞ見たりける。されば百五十騎、参然として堅を破れば、菊池が勢誠に百倍せりといへども、才の小勢に懸立られて、一陣の軍兵三千余騎、多々良浜の遠干潟を、二十余町までぞ引退ける。搦手に回りける松浦・神田の者共、将軍の御勢の僅に三百余騎にも足ざりけるを二三万騎に見なし、礒打浪の音をも敵の時の声に聞なしければ、俄に叶はじと思ふ心付て、一軍をもせず旌を捲と甲を脱で降人に出にけり。菊池此を見て弥難儀に思ひ、「大勢の懸らぬ先に。」と急肥後国へ引返す。将軍則一色太郎入道々献・仁木四郎次郎義長を差遣し菊池が城を責させらるるに、一日も堪得ず深山の奥へ逃篭る。是より軈同国八代の城を責て内河彦三郎を追落す也。此のみならず、阿蘇大宮司八郎惟直は、先日多々良浜の合戦に深手負たりけるが、肥前国小杵山にて自害しぬ。其弟九郎は、知ぬ里に行迷て、卑き田夫に生擒れぬ。秋月備前守は、大宰府迄落たりけるが、一族二十余人一所にて討れにけり。是等は皆一方の大将共なり。又九州の強敵ともなりぬべき者也しが、天運時至ざれば加様に皆滅されにけり。爾より後は九国・二嶋、悉将軍に付順奉ずと云者なし。此全く菊池が不覚にも非ず、又直義朝臣の謀にも依らず、啻将軍天下の主と成給ふべき過去の善因催して、霊神擁護の威を加へ給しかば、不慮に勝ことを得て一時に靡き順けり。今まで大敵なりし松浦・神田の者共、将軍の小勢を大勢也と見て、降人に参たりと其聞有ければ、将軍高・上杉の人々に向て宣けるは、「言の下に骨を消し、笑の中に刀を砺は此比の人の心也。されば小弐が一族共は多年の恩顧なりしか共、正く小弐を討つるも遠からぬ様ぞかし。此を見るにも松浦・神田何なる野心を挿でか、一軍もせず降人には出たるらん。信心真と有時は感応不思議を顕事あり。今御方の小勢を大勢と見し事、不審無に非ず。相構て面々心赦し有べからず。」と仰ければ、遥の末坐に候ける高駿河守進出て申けるは、「誠に人の心の測り難事は、天よりも高地よりも厚と申せども、加様の大儀に於ては、余に人の心を御不審有ては、争か早速の大功を成候べき。就中御勢の多見へて候ける事、例無にも有べからず。其故は昔唐朝に、玄宗皇帝の左将軍に哥舒翰、与逆臣安禄山兵崔乾祐、潼関にて戦けるに、黄なる旗を差たる兵十万余騎、忽然として官軍の陣に出来れり。崔乾祐此を見て敵大勢なりと思ひ、兵を引て四方に逃散る。其喜に勅使宗廟に詣けるに、石人とて、石にて作双て廟に置たる人形共両足泥に触れ、五体に矢立り。さてこそ黄旗の兵十万余騎は、宗廟の神官軍に化して、逆徒を退け給たりけりと、人皆疑を散じけり。吾朝には天武天皇与大友王子天下を争はせ給ける時、備中国二万郷と云所にて、両方の兵戦を決せんとす。于時天武天皇の御勢は僅に三百余騎、大友王子の御勢は、一万余騎也。勢の多少更闘ふべくも無りける処に、何より来れる共知ぬ爽かなる兵二万余騎、天皇の御方に出来て、大友王子の御勢を十方へ懸散す。此よりして其所を二万里と名付らる。君が代は二万の里人数副て絶ず備る御貢物哉と周防の内侍が読たりしも、此心にて候也。」と、和漢両朝の例を引て、武運の天に叶へる由を申ければ、将軍を始まいらせて、当座の人々も、皆歓喜の笑をぞ含れける。
○西国蜂起官軍進発事 S1604
去程に、将軍筑紫へ没落し給し刻、四国・西国の朝敵共、機を損じ度を失て、或は山林に隠れ或は所縁を尋て、新田殿の御教書を給らぬ人は無りけり。此時若義貞早速に被下向たらましかば、一人も降参せぬ者は有まじかりしを、其比天下第一の美人と聞へし、勾当の内侍を内裏より給たりけるに、暫が程も別を悲て、三月の末迄西国下向の事被延引けるこそ、誠に傾城傾国の験なれ。依之丹波国には、久下・長沢・荻野・波々伯部の者共、仁木左京大夫頼章を大将として、高山寺の城に楯篭り、播磨国には、赤松入道円心白旗が峯を城郭に構て、射手の下向を支んとす。美作には、菅家・江見・弘戸の者共、奈義能山・菩提寺の城を拵へて、国中を掠め領す。備前には、田井・飽浦・内藤・頓宮・松田・福林寺の者共、石橋左衛門佐を大将として、甲斐河・三石二箇処の城を構て船路・陸地を支んとす。備中には、庄・真壁・陶山・成合・新見・多地部の者共、勢山を切塞で、鳥も翔らぬ様に構へたり。是より西、備後・安芸・周防・長門は申に不及、四国・九州も悉著では叶まじかりければ、将軍方に無志も皆順ひ不靡云事なし。処々の城郭、国々の蜂起、震く京都へ聞ければ、先東国を敵に成ては叶まじとて、北畠源中納言顕家卿を、鎮守府の将軍になして、奥州へ下さる。新田左中将義貞には、十六箇国の管領を被許、尊氏追討の宣旨をぞ被成ける。義貞綸命を蒙て、已に西国へ立んとし給ける刻、瘧病の心地煩しかりければ、先江田兵部大輔行義・大館左馬助氏明二人を播磨国へ被差下。其勢二千余騎、三月四日京を立て、同六日書写坂本に著にけり。赤松入道是を聞て、敵に足をためさせては叶まじとて、備前・播磨両国の勢を合て書写坂本へ押寄ける間、江田・大館、室山に出向て相戦ふ。赤松軍利無して、官軍勝に乗しかば、江田・大館勢を得て、西国の退治輒かるべき由、頻に羽書を飛せて京都へ注進す。
○新田左中将被責赤松事 S1605
去程に、左中将義貞の病気能成てければ、五万余騎の勢を率して、西国へ下り給ふ。後陣の勢を待調へん為に、播磨国賀古河に四五日逗留有ける程に、宇都宮治部大輔公綱・紀伊常陸守・菊池次郎武季三千余騎にて下著す。其外摂津国・播磨・丹波・丹後の勢共、思々に馳参じける間、無程六万余騎に成にけり。「さらば軈て赤松が城へ寄て可責。」とて、斑鳩の宿迄打寄せ給たりける時、赤松入道円心、小寺藤兵衛尉を以て、新田殿へ被申けるは、「円心不肖の身を以て、元弘の初大敵に当り、逆徒を責却候し事、恐は第一の忠節とこそ存候しに、恩賞の地、降参不儀の者よりも猶賎く候し間、一旦の恨に依て多日の大功を捨候き。乍去兵部卿親王の御恩、生々世々難忘存候へば、全く御敵に属し候事、本意とは不存候。所詮当国の守護職をだに、綸旨に御辞状を副て下し給り候はゞ、如元御方に参て、忠節を可致にて候。」と申たりければ、義貞是を聞給て、「此事ならば子細あらじ。」と被仰て、頓て京都へ飛脚を立、守護職補任の綸旨をぞ申成れける。其使節往反の間、已に十余日を過ける間に、円心城を拵すまして、「当国の守護・国司をば、将軍より給て候間、手の裏を返す様なる綸旨をば、何かは仕候べき。」と、嘲哢してこそ返されけれ。新田左中将是を聞給て、「王事毋脆事、縦恨を以て朝敵の身になる共、戴天欺天命哉。其儀ならば爰にて数月を送る共、彼が城を責落さでは通るまじ。」とて、六万余騎の勢を以て、白旗の城を百重千重に取囲て、夜昼五十余日、息をも不継責たりける。斯りけれ共、此城四方皆嶮岨にして、人の上るべき様もなく、水も兵粮も卓散なる上、播磨・美作に名を得たる射手共、八百余人迄篭りたりける間、責けれども/\只寄手々負討るゝ許にて、城中恙なかりけり。脇屋右衛門佐是を見給て、左中将に向て被申けるは、「先年正成が篭りたりし金剛山の城を、日本国の勢共が責兼て、結句天下を覆されし事は、先代の後悔にて候はずや。僅の小城一に取懸りて、そゞろに日数を送り候はゞ、御方の軍勢は皆兵粮に疲、敵陣の城には弥強り候はんか。其上尊氏已に筑紫九箇国を平て、上洛する由聞候へば、彼が近付ぬ前に備前・備中を退治して、安芸・周防・長門の勢を被著候はでは、ゆゝしき大事に及候ぬとこそ覚候へ。乍去今迄責懸たる城を落さで引は、天下の哢共成べく候へば、御勢を少々被残、自余の勢を船坂へ差向られ、先山陽道の路を開て中国の勢を著け、推て筑紫へ御下候へかし。」と被申ければ、左中将、「此儀尤宜覚候。」とて、頓て宇都宮と菊池が勢を差副、伊東大和守・頓宮六郎を案内者として、二万余騎舟坂山へぞ向られける。彼山と申は、山陽道第一の難処也。両方は嶺峨々として、中に一の細道あり。谷深石滑にして、路羊腸を践で上る事二十余町、雲霧窈溟たり。若一夫怒臨関、万侶難得透。況岩石を穿て細橋を渡しゝ大木を倒して逆木に引たれば、何なる百万騎の勢にても、責破るべしとはみへざりけり。去ば指も勇める菊池・宇都宮が勢も、麓に磬へて不進得。案内者に憑れたる伊東・頓宮の者共も、山をのみ向上て徒に日をぞ送ける。
○児嶋三郎熊山挙旗事付船坂合戦事 S1606
斯りける処に、備前国の住人児嶋三郎高徳、去年の冬、細川卿律師、四国より責上し時、備前・備中数箇度の合戦に打負て、山林に身を隠し、会稽の恥を雪がんと、義貞朝臣の下向を待て居たりけるが、舟坂山を官軍の超かねたりと聞て、潛使を新田殿の方へ立て申けるは、「舟坂より御勢を可被越由承及候事実に候はゞ、彼要害輒く難被破候歟。高徳来十八日当国於熊山可挙義兵候。さる程ならば、舟坂を堅たる凶徒等、定て熊山へ寄来候はん歟。敵の勢のすきたる隙を得て御勢を二手に分たれ、一手をば舟坂へ差向て可攻勢ひを見せ、一手をば三石山の南に当て樵の通ふ路一候なる、潛に廻せて、三石の宿より西へ被出候はゞ、船坂の敵前後を被裹、定て引方を失候はんか。高徳国中に旗を挙、舟坂を先破り候はゞ、西国の軍勢御方に参ずと云者候べからず。急此相図を以て、御合戦有べく候也。」とぞ申送ける。其比播磨より西、長門の国に至まで悉く敵陣にて、案内を通づる者もなきに、高徳が使者来て、企の様を申ければ、新田殿悦給ふ事不斜。則相図の日を定て、其使をぞ被返ける。使者備前に帰て相図の様を申ければ、四月十七日の夜半許に、児嶋三郎高徳、己が館に火をかけて、僅二十五騎にてぞ打出ける。国を阻境を隔たる一族共は、事急なるに依て不及相催、近辺の親類共に事の子細を告たりければ、今木・大富・和田・射越・原・松崎の者共、取物も不取敢馳著ける間、其勢二百余騎に成にけり。兼ては夜中に熊山へ取上り、四方に篝火を焼て、大勢篭りたる勢ひを、敵にみせんと巧みたりけるが、馬よ物具よとひしめく間に、夏の夜程なく明けれども、無力相図の時刻を違じとて、熊山へこそ取上りけれ。如案三石・舟坂の勢共是を聞て、「国中に敵出来なば、ゆゝしき大事なるべし。万方を閣て、先熊山を責よ。」とて、舟坂・三石の勢三千余騎を引分て、熊山へぞ向たりける。彼熊山と申は、高さは比叡山の如にして四方に七の道あり。其路何も麓は少し嶮して峯は平なり。高徳僅の勢を七の道へ差分て、四方へ敵をぞ防ぎける。追下せば責上り、責上れば追下し、終日戦暮して態と時をぞ移しける。夜に入ける時、寄手の中に石戸彦三郎とて此山の案内者有けるが、思も寄ぬ方より抜入て、本堂の後なる峯にて鬨をぞ揚たりける。高徳四方の麓へ勢を皆分て遣ぬ。僅に十四五騎にて本堂の庭に磬たりけるが、石戸が二百騎の中へ喚て懸入り、火を散てぞ闘ひける。深山の木隠れ月暗して、敵の打太刀分明にも見へざりければ、高徳が内甲を突れて、馬より倒に落にけり。敵二騎落合て、頚を取んとしける処へ、高徳が甥松崎彦四郎・和田四郎馳合て、二人の敵を追払ひ、高徳を馬に引乗せて、本堂の縁にぞ下しける。高徳は内甲の疵痛手也ける上、馬より落ける時、胸板を強く蹈れて、目昏魂消ければ、暫絶入したりけるを、父備後守範長、枕の下に差寄て、「昔鎌倉の権五郎景政は、左の眼を射抜れ、三日三夜まで其矢を抜かで、当の矢を射たりとこそ云伝へたれ。是程の小疵一所に弱りて死ると云事や可有。其程無云甲斐心を以て此一大事をば思立けるか。」と荒らかに恥しめける間、高徳忽に生出て、「我を馬に舁乗よ、今一軍して敵を追払はん。」とぞ申ける。父大に悦で、「今は此者よも死なじ。いざや殿原、爰らに有つる敵共追散さん。」とて、今木太郎範秀・舎弟次郎範仲・中西四郎範顕・和田四郎範氏・松崎彦四郎範家主従十七騎にて、敵二百騎が中へまつしらくに懸入ける間、石戸是を小勢とは知ざりけるにや、一立合せも立合せず、南面の長坂を福岡までこそ引たりけれ。其侭両陣相支て互に軍もせざりけり。相図の日にも成ければ、脇屋右衛門佐を大将として、梨原へ打莅み、二万騎の勢を三手に分たる。一手には江田兵部大輔を大将として、二千余騎杉坂へ向らる。是は菅家・南三郷の者共が堅めたる所を追破て、美作へ入ん為也。一手には大江田式部大輔氏経を大将として、菊池・宇都宮が勢五千余騎を船坂へ差向らる。是は敵を爰に遮り留て、搦手の勢を潛に後より回さん為也。一手には伊東大和守を案内者として、頓宮六郎・畑六郎左衛門、当国の目代少納言範猷・由良新左衛門・小寺六郎・三津沢山城権守以下態小勢を勝て三百余騎向らる。其勢皆轡の七寸を紙を以て巻て、馬の舌根を結たりける。杉坂越の北、三石の南に当て、鹿の渡る道一あり。敵是を知ざりけるにや、堀切たる処もなく、逆木の一本をも引ざりけり。此道余に木茂て、枝の支へたる処をば下て馬を引く。山殊に嶮して、足もたまらぬ所をば、中々乗て懸下す、兎角して三時許に嶮岨を凌で三石の宿の西へ打出たれば、城中の者も舟坂の勢も、遥に是を顧て、思も寄ぬ方なれば、熊山の寄手共が帰たるよと心得て、更に仰天もせざりけり。三百余騎の勢共、宿の東なる夷の社の前へ打寄り、中黒の旗を差揚て東西の宿に火をかけ、鬨をぞ挙たりける。城中の兵は、大略舟坂へ差向けぬ。三石に有し勢は、皆熊山へ向ひたる時分なれば、闘はんとするに勢なく、防がんとするに便なし。舟坂へ向ひたる勢、前後の敵に取巻れて、すべき様もなかりければ、只馬・物具を捨て、城へ連たる山の上へ、はう/\逃上らんとぞ騒ぎける。是を見て、大手・搦手差合せて、「余すな漏すな。」と追懸ける間、逃方を失ける敵共此彼に行迫て自害をする者百余人、生取らるゝ者五十余人也。爰に備前国一宮の在庁、美濃権介佐重と云ける者、可引方なくして、已に腹を切らんとしけるが、屹と思返す事有て、脱たる鎧を取て著、捨たる馬に打乗て、向ふ敵の中を推分て、播磨の方へぞ通りける。舟坂より打入る大勢共、「是は何者ぞ。」と尋ければ、「是は搦手の案内者仕つる者にて候が、合戦の様を委く新田殿へ申入候也。」と答ければ、打合ふ数万の勢共、「目出候。」と感じて、道を開てぞ通しける。佐重、総大将の侍所長浜が前に跪て、「備前国の住人に、美濃権介佐重、三石の城より降人に参て候。」と申ければ、総大将より、「神妙に候。」と被仰、則著到にぞ被著ける。佐重若干の人を出抜て、其日の命を助かりける。是も暫時の智謀也。舟坂已に破れたれば、江田兵部大輔は、三千余騎にて美作国へ打入て、奈義能山・菩提寺二箇所の城を取巻給ふ。彼城もすべなき様なければ、馬・武具を捨て、城に連たる上の山へぞ逃上りける。脇屋右衛門佐義助は、五千余騎にて三石の城を責らる。大江田式部大輔は、二千余騎にて備中国へ打越、福山の城にぞ陣を被取ける。
○将軍自筑紫御上洛事付瑞夢事 S1607
多々良浜の合戦の後、筑紫九国の勢一人として将軍に不順靡云者無りけり。然共中国に敵陣充満して道を塞ぎ、東国王化に順て、御方に通ずる者少なかりければ、左右なく京都へ責上らん事は、如何有べからんと、此春の敗北にこり懼て、諸卒敢て進む義勢無りける処に、赤松入道が三男則祐律師、並に得平因播守秀光、播磨より筑紫へ馳参て申けるは、「京都より下されたる敵軍、備中・備前・播磨・美作に充満して候といへ共、是皆城々を責かねて、気疲れ粮尽たる時節にて候間、将軍こそ大勢にて御上洛候へとだに承及候はゞ、一たまりも怺じと存候。若御進発延引候て、白旗の城責落されなば、自余の城一日も怺候まじ。四箇国の要害、皆敵の城に成て候はんずる後は、何百万騎の勢にても、御上洛叶まじく候。是則趙王が秦の兵に囲れて、楚の項羽舟筏を沈め、釜甑を焼て、戦負けば、士卒一人も生て返らじとせし戦にて候はずや。天下の成功只此一挙に可有にて候者を。」と詞を残さで申ければ、将軍是を聞給て、「げにも此義さもありと覚るぞ。さらば夜を日に継で、上洛を急ぐべし。但九州を混ら打捨ては叶まじ。」とて、仁木四郎次郎義長を大将として、大友・小弐両人を留置き、四月二十六日に太宰府を打立て、同二十八日に順風に纜解て、五月一日安芸の厳嶋へ舟を寄られて、三日参篭し給ふ。其結願の日、三宝院の僧正賢俊京より下て、持明院殿より被成ける院宣をぞ奉ける。将軍是を拝覧し給て、「函蓋相応して心中の所願已に叶へり。向後の合戦に於ては、不勝云事有べからず。」とぞ悦給ける。去四月六日に、法皇は持明院殿にて崩御なりしかば、後伏見院とぞ申ける。彼崩御已前に下し院宣なり。将軍は厳島の奉弊事終て、同五日厳嶋を立給へば、伊予・讚岐・安芸・周防・長門の勢五百余艘にて馳参る。同七日備後・備中・出雲・石見・伯耆の勢六千余騎にて馳参る。其外国々の軍勢不招に集り、不責に順ひ著事、只吹風の草木を靡すに異ならず。新田左中将の勢已に備中・備前・播磨・美作に充満して、国々の城を責る由聞へければ、鞆の浦より左馬頭直義を大将にて、二十万騎を差分て、徒路を上せられ、将軍は一族四十余人、高家一党五十余人、上杉の一類三十余人、外様の大名百六十頭、兵船七千五百余艘を漕双て、海上をぞ上られける。同五日備後の鞆を立給ひける時一の不思議あり。将軍の屋形の中に少目眠給たりける夢に、南方より光明赫奕たる観世音菩薩一尊飛来りまし/\て、船の舳に立給へば、眷属の二十八部衆、各弓箭兵杖を帯して擁護し奉る体にぞ見給ける。将軍夢覚て見給へば、山鳩一つ船の屋形の上にあり。彼此偏に円通大士の擁護の威を加へて、勝軍の義を可得夢想の告也と思召ければ、杉原を三帖短冊の広さに切せて、自観世音菩薩を書せ給て、舟の帆柱毎にぞ推させられける。角て舟路の勢、已に備前の吹上に著けば、歩路の勢は、備中の草壁の庄にぞ著にける。
○備中福山合戦事 S1608
福山に楯篭る処の官軍共、此由を聞て、「此城未拵るに不及、彼に付此に付、大敵を支へん事は、可叶共覚へず。」と申けるを、大江田式部大輔、且く思案して宣ひけるは、「合戦の習、勝負は時の運に依といへども、御方の小勢を以て、敵の大勢に闘はんに、不負云事は、千に一も有べからず。乍去国を越て足利殿の上洛を支んとて、向ひたる者が、大勢の寄ればとて、聞逃には如何すべき。よしや只一業所感の者共が、此所にて皆可死果報にてこそ有らめ。軽死重名者をこそ人とは申せ。誰々も爰にて討死して、名を子孫に残さんと被思定候へ。」と諌められければ、紀伊常陸・合田以下は、「申にや及候。」と領状して討死を一篇に思儲てければ、中々心中涼くぞ覚へける。去程に、明れば五月十五日の宵より、左馬頭直義三十万騎の勢にて、勢山を打越へ、福山の麓四五里が間、数百箇所を陣に取て、篝を焼てぞ居たりける。此勢を見ては、如何なる鬼神ともいへ、今夜落ぬ事はよも非じと覚けるに、城の篝も不焼止、猶怺たりと見へければ、夜已に明て後、先備前・備中の勢共、三千余騎にて押寄せ、浅原峠よりぞ懸たりける。是迄も城中鳴を静めて音もせず。「さればこそ落たりと覚るぞ。時の声を挙て敵の有無も知れ。」とて、三千余騎の兵共、楯の板を敲き、時を作る事三声、近付て上んとする処に、城中の東西の木戸口に、大鼓を打て時の声をぞ合せたりける。外所に磬たる寄手の大勢是を聞て、「源氏の大将の篭りたらんずる城の、小勢なればとて、聞落にはよもせじと思つるが、果して未怺たりけるぞ。侮て手合の軍し損ずな。四方を取巻て同時に責よ。」とて国々の勢一方々々を請取て、谷々峯々より攻上りける。城中の者共は、兼てより思儲たる事なれば、雲霞の勢に囲まれぬれ共少も不騒、此彼の木隠に立隠れて、矢種を不惜散々に射ける間、寄手稲麻の如に立双びたれば、浮矢は一も無りけり。敵に矢種を尽させんと、寄手は態射ざりければ、城の勢は未だ一人も不手負。大江田式部大輔是を見給て、「さのみ精力の尽ぬさきに、いざや打出て、左馬頭が陣一散し懸散さん。」とて、城中には徒立なる兵五百余人を留て、馬強なる兵千余騎引率し、木戸を開かせ、逆木を引のけて、北の尾の殊に嶮き方より喚てぞ懸出られける。一方の寄手二万余騎是に被懸落、谷底に馬を馳こみ、いやが上に重り臥臥す。式部大輔是をば打捨、「東のはなれ尾に二引両の旗の見るは、左馬頭にてぞ有らん。」とて、二万余騎磬へたる勢の中へ破て入り、時移るまでぞ闘れける。「是も左馬頭にては無りける。」とて、大勢の中を颯と懸抜て御方の勢を見給へば、五百余騎討れて纔に四百騎に成にけり。爰にて城の方を遥に観れば、敵早入替りぬと見へて櫓・掻楯に火を懸たり。式部大輔其兵を一処に集めて、「今日の合戦今は是迄ぞ、いざや一方打破て備前へ帰り、播磨・三石の勢と一にならん。」とて、板倉の橋を東へ向て落給へば、敵二千騎・三千騎、此彼に道を塞で打留んとす。四百余騎の者共も、遁ぬ処ぞと思ひ切たる事なれば、近付敵の中へ破て入り、懸散し、板倉川の辺より唐皮迄、十余度までこそ闘ひけれ。され共兵もさのみ討れず、大将も無恙りければ、虎口の難を遁て、五月十八日の早旦に、三石の宿にぞ落著ける。左馬頭直義は、福山の敵を追落して、事始よしと悦給事不斜。其日一日唐皮の宿に逗留有て、頚の実験有けるに、生捕・討死の頚千三百五十三と註せり。当国の吉備津宮に参詣の志をはしけれ共、合戦の最中なれば、触穢の憚有とて、只願書許を被篭て、翌の日唐皮を立給へば、将軍も舟を出されて、順風に帆をぞあげられける。五月十八日晩景に、脇屋右衛門佐三石より使者を以て、新田左中将の方へ立て、福山の合戦の次第、委細に註進せられければ、其使者軈て馳返て、「白旗・三石・菩提寺の城未責落ざる処に、尊氏・直義大勢にて舟路と陸路とより上ると云に、若陸の敵を支ん為に、当国にて相待ば、舟路の敵差違て帝都を侵さん事疑なし。只速に西国の合戦を打捨て、摂津国辺まで引退、水陸の敵を一処に待請、帝都を後に当て、合戦を致すべく候。急其よりも山の里辺へ出合れ候へ。美作へも此旨を申遣し候つる也。」とぞ、被仰たりける。依之五月十八日の夜半許に、官軍皆三石を打捨て、舟坂をぞ引れける。城中の勢共、是に機を得て、舟坂山に出合ひ、道を塞で散々に射る。宵の間の月、山に隠れて、前後さだかに見へぬ事なれば、親討れ子討るれども、只一足も前へこそ行延んとしける処に、菊池が若党に、原源五・源六とて、名を得たる大剛の者有りけるが、態と迹に引さがりて、御方の勢を落さんと、防矢を射たりける。矢種皆射尽ければ、打物の鞘をはづして、「傍輩共あらば返せ。」とぞ呼ける。菊池が若党共是を聞て、遥に落延たりける者共、「某此に有。」と名乗懸て返合せける間、城よりをり合せける敵共、さすがに近付得ずして、只余所の峯々に立渡て時の声をぞ作りける。其間に数万の官軍共、一人も討るゝ事なくして、大江田式部大輔、其夜の曙には山の里へ著にけり。和田備後守範長・子息三郎高徳、佐々木の一党が舟よりあがる由を聞て、是を防がん為に、西川尻に陣を取て居たりけるが、福山已に落されぬと聞へければ、三石の勢と成合んが為に、九日の夜に入て、三石へぞ馳著ける。爰にて人に尋れば、「脇屋殿は早宵に播磨へ引せ給ひて候也。」と申ける間、さては舟坂をば通り得じとて、先日搦手の廻りたりし三石の南の山路を、たどるたどる終夜越て、さごしの浦へぞ出たりける。夜未深かりければ、此侭少しの逗留もなくて打て通らば、新田殿には安く追著奉るべかりけるを、子息高徳が先の軍に負たりける疵、未愈けるが、馬に振れけるに依て、目昏く肝消して、馬にもたまらざりける間、さごしの辺に相知たる僧の有けるを尋出して、預置ける程に、時刻押遷りければ、五月の短夜明にけり。去程に此道より落人の通りけると聞て、赤松入道三百余騎を差遣して、名和辺にてぞ待せける。備後守僅に八十三騎にて、大道へと志て打ける処に、赤松が勢とある山陰に寄せ合て、「落人と見るは誰人ぞ。命惜くば弓をはづし物具脱で降人に参れ。」とぞかけたりける。備後守是を聞て、から/\と打笑ひ、「聞も習はぬ言ば哉、降人に可成は、筑紫より将軍の、様々の御教書を成してすかされし時こそ成んずれ。其をだに引さきて火にくべたりし範長が、御辺達に向て、降人にならんと、ゑこそ申まじけれ。物具ほしくばいでとらせん。」と云侭に、八十三騎の者共、三百余騎の中へ喚て懸入り、敵十二騎切て落し、二十三騎に手負せ、大勢の囲を破て、浜路を東へぞ落行ける。赤松が勢案内者なりければ、被懸散ながら、前々へ馳過て、「落人の通るぞ、打留め物具はげ。」と、近隣傍庄にぞ触たりける。依之其辺二三里が間の野伏共、二三千人出合て此の山の隠、彼の田の畷に立渡りて、散々に射ける間、備後守が若党共、主を落さんが為に、進では懸破り引下ては討死し、十八より阿弥陀が宿の辺迄、十八度まで戦て落ける間、打残されたる者、今は僅に主従六騎に成にけり。備後守或辻堂の前にて馬を引へて、若党共に向て申けるは、「あはれ一族共だに打連れたりせば、播磨の国中をば安く蹴散して通るべかりつる物を、方々の手分に向られて一族一所に不居つれば、無力範長討るべき時刻の到来しける也。今は可遁共覚ねば、最後の念仏心閑に唱へて腹を切らんと思ぞ。其程敵の近付かぬ様に防げ。」とて、馬より飛でをり、辻堂の中へ走入、本尊に向ひ手を合せ念仏高声に二三百返が程唱て、腹一文字に掻切て、其刀を口に加て、うつぶしに成てぞ臥たりける。其後若党四人つゞきて自害をしけるに、備後守がいとこに和田四郎範家と云ける者、暫思案しけるは、敵をば一人も滅したるこそ後までの忠なれ。追手の敵若赤松が一族子共にてや有らん。さもあらば引組で、差違へんずる物をと思て、刀を抜て逆手に拳り、甲を枕にして、自害したる体に見へてぞ臥たりける。此へ追手懸りける赤松が勢の大将には、宇弥左衛門次郎重氏とて、和田が親類なりけり。まさしきに辻堂の庭へ馳来て、自害したる敵の首をとらんとて、是をみるに袖に著たる笠符皆下黒の文也。重氏抜たる太刀を抛て、「あら浅猿や、誰やらんと思たれば、児嶋・和田・今木の人々にて有けるぞや。此人達と■疾知ならば、命に替ても助くべかりつる物を。」と悲て、泪を流して立たりける。和田四郎此声を聞て、「範家是に有。」とて、かはと起たれば、重氏肝をつぶしながら立寄て、「こはいかに。」とぞ悦ける。軈て和田四郎をば同道して助をき、備後守をば、葬礼懇に取沙汰して、遺骨を故郷へぞ送りける。さても八十三騎は討れて範家一人助りける、運命の程こそ不思議なれ。
○新田殿被引兵庫事 S1609
新田左中将義貞は、備前・美作の勢共を待調へん為に、賀古川の西なる岡に陣を取て、二日までぞ逗留し給ひける。時節五月雨の降つゞいて、河の水増りければ、「跡より敵の懸事もこそ候へ。先総大将又宗との人々許は、舟にて向へ御渡候へかし。」と諸人口々に申けれども、義貞、「さる事や有べき。渡さぬ先に敵懸りたらば、中々可引方無して、死を軽んぜんに便あり。されば韓信が水を背にして陣を張しは此なり。軍勢を渡しはてゝ、義貞後に渡る共、何の痛が可有。」とて、先馬弱なる軍勢、手負たる者共を、漸々にぞ被渡ける。去程に水一夜に落て、備前・美作の勢馳進りければ、馬筏を組で、六万余騎同時に川をぞ渡されける。是までは西国勢共馳参て、十万騎に余りたりしが、将軍兄弟上洛し給ふ由を聞て、何の間にか落失けん、五月十三日左中将兵庫に著給ける時は、其勢纔に二万騎にも不足けり。
○正成下向兵庫事 S1610
尊氏卿・直義朝臣大勢を率して上洛の間、用害の地に於て防ぎ戦はん為に、兵庫に引退ぬる由、義貞朝臣早馬を進て、内裡に奏聞ありければ、主上大に御騒有て、楠判官正成を被召て、「急兵庫へ罷下、義貞に力を合せて合戦を可致。」と被仰ければ、正成畏て奏しけるは、「尊氏卿已に筑紫九国の勢を率して上洛候なれば、定て勢は雲霞の如にぞ候覧。御方の疲れたる小勢を以て、敵機に乗たる大勢に懸合て、尋常の如くに合戦を致候はゞ、御方決定打負候ぬと覚へ候なれば、新田殿をも只京都へ召候て、如前山門へ臨幸成候べし。正成も河内へ罷下候て、畿内の勢を以て河尻を差塞、両方より京都を攻て兵粮をつからかし候程ならば、敵は次第に疲て落下、御方は日々に随て馳集候べし。其時に当て、新田殿は山門より推寄られ、正成は搦手にて攻上候はゞ、朝敵を一戦に滅す事有ぬと覚候。新田殿も定て此了簡候共、路次にて一軍もせざらんは、無下に無云甲斐人の思はんずる所を恥て、兵庫に支られたりと覚候。合戦は兎ても角ても、始終の勝こそ肝要にて候へ。能々遠慮を被廻て、公議を可被定にて候。」と申ければ、「誠に軍旅の事は兵に譲られよ。」と、諸卿僉議有けるに、重て坊門宰相清忠申されけるは、「正成が申所も其謂有といへども、征罰の為に差下されたる節度使、未戦を成ざる前に、帝都を捨て、一年の内に二度まで山門へ臨幸ならん事、且は帝位を軽ずるに似り、又は官軍の道を失処也。縦尊氏筑紫勢を率して上洛すとも、去年東八箇国を順へて上し時の勢にはよも過し。凡戦の始より敵軍敗北の時に至迄、御方小勢也といへども、毎度大敵を不責靡云事なし。是全武略の勝たる所には非ず、只聖運の天に叶へる故也。然れば只戦を帝都の外に決して、敵を斧鉞の下に滅さん事何の子細か可有なれば、只時を替へず、楠罷下るべし。」とぞ被仰出ける。正成、「此上はさのみ異儀を申に不及。」とて、五月十六日に都を立て五百余騎にて兵庫へぞ下ける。正成是を最期の合戦と思ければ、嫡子正行が今年十一歳にて供したりけるを、思ふ様有とて桜井の宿より河内へ返し遣すとて、庭訓を残しけるは、「獅子子を産で三日を経る時、数千丈の石壁より是を擲。其子、獅子の機分あれば、教へざるに中より跳返りて、死する事を得ずといへり。況や汝已に十歳に余りぬ。一言耳に留らば、我教誡に違ふ事なかれ。今度の合戦天下の安否と思ふ間、今生にて汝が顔を見ん事是を限りと思ふ也。正成已に討死すと聞なば、天下は必ず将軍の代に成ぬと心得べし。然りと云共、一旦の身命を助らん為に、多年の忠烈を失て、降人に出る事有べからず。一族若党の一人も死残てあらん程は、金剛山の辺に引篭て、敵寄来らば命を養由が矢さきに懸て、義を紀信が忠に比すべし。是を汝が第一の孝行ならんずる。」と、泣々申含めて各東西へ別にけり。昔の百里奚は、穆公晉の国を伐し時、戦の利無からん事を鑒て、其将孟明視に向て、今を限の別を悲み、今の楠判官は、敵軍都の西に近付と聞しより、国必滅ん事を愁て、其子正行を留て、無跡迄の義を進む。彼は異国の良弼、是は吾朝の忠臣、時千載を隔つといへ共、前聖後聖一揆にして、有難かりし賢佐なり。正成兵庫に著ければ、新田左中将軈て対面し給て、叡慮の趣をぞ尋問れける。正成畏て、所存の通りと勅定の様とを、委く語り申ければ、「誠に敗軍の小勢を以て、機を得たる大敵に戦はん事叶ふべきにてはなけれ共、去年関東の合戦に打負て上洛せし時、路にて猶支ざりし事、人口の嘲遁るゝ時を得ず。其こそあらめ、今度西国へ下されて、数箇所の城郭一も不落得して、結句敵の大勢なるを聞て、一支もせず京都まで遠引したらんは、余りに無云甲斐存る間、戦の勝負をば見ずして、只一戦に義を勧ばやと存る計也。」と宣ひければ、正成重て申けるは、「「衆愚之愕々たるは、不如一賢之唯々」と申候へば、道を不知人の譏をば、必しも御心に懸らるまじきにて候。只可戦所を見て進み、叶ふまじき時を知て退くをこそ良将とは申候なれ。さてこそ「暴虎憑河而死無悔之者不与」と、孔子も子路を被誡事の候。其上元弘の初には平大守の威猛を一時にくだかれ、此年の春は尊氏の逆徒を九州へ退られ候し事、聖運とは申ながら、偏に御計略の武徳に依し事にて候へば、合戦の方に於ては誰か褊し申候べき。殊更今度西国より御上洛の事、御沙汰の次第、一々に道に当てこそ存候へ。」と申ければ、義貞朝臣誠に顔色解て、通夜の物語に、数盃の興をぞ添られける。後に思合すれば、是を正成が最後なりけりと、哀なりしこと共也。
○兵庫海陸寄手事 S1611
去程に、明れば五月二十五日辰刻に、澳の霞の晴間より、幽に見へたる舟あり。いさりに帰る海人か、淡路の迫戸を渡舟歟と、海辺の眺望を詠て、塩路遥に見渡せば、取梶面梶に掻楯掻て、艫舳に旗を立たる数万の兵船順風に帆をぞ挙たりける。烟波眇々たる海の面、十四五里が程に漕連て、舷を輾り、艫舳を双たれば、海上俄に陸地に成て、帆影に見ゆる山もなし。あな震し、呉魏天下を争し赤壁の戦、大元宋朝を滅せし黄河の兵も、是には過じと目を驚かして見る処に、又須磨の上野と鹿松岡、鵯越の方より二引両・四目結・直違・左巴・倚かゝりの輪違の旗、五六百流差連て、雲霞の如に寄懸たり。海上の兵船、陸地の大勢、思しよりも震くして、聞しにも猶過たれば、官軍御方を顧て、退屈してぞ覚へける。され共義貞朝臣も正成も、大敵を見ては欺き、小敵を見ては侮ざる、世祖光武の心根を写して得たる勇者なれば、少も機を失たる気色無して、先和田の御崎の小松原に打出て、閑に手分をぞし給ひける。一方には脇屋右衛門佐義助を大将として末々の一族二十三人、其勢五千余騎経嶋にぞ磬へたる。一方には大館左馬助氏明を大将として、相順ふ一族十六人、其勢三千余騎にて、灯炉堂の南の浜に磬らる。一方には楠判官正成態佗の勢を不交して七百余騎、湊川の西の宿に磬へて、陸地の敵に相向ふ。左中将義貞は総大将にてをはすれば、諸将の命を司て、其勢二万五千余騎、和田御崎に帷幕を引せて磬へらる。去程に、海上の船共帆を下して礒近く漕寄すれば、陸地の勢も旗を進めて相近にぞ成にける。両陣互に攻寄て、先澳の舟より大鼓を鳴し、時の声を揚れば、陸地の搦手五十万騎、請取て声をぞ合せける。其声三度畢れば、官軍又五万余騎、楯の端を鳴し箙を敲て時を作る。敵御方の時の声、南は淡路絵嶋が崎・鳴戸の澳、西は播磨路須摩の浦、東は摂津国生田森、四方三百余里に響渡て、苟に天維も断て落、坤軸も傾く許なり。
○本間孫四郎遠矢事 S1612
新田・足利相挑で未戦処に、本間孫四郎重氏黄瓦毛なる馬の太く逞きに、紅下濃の鎧著て、只一騎和田の御崎の波打際に馬打寄せて、澳なる舟に向て、大音声を挙て申けるは、「将軍筑紫より御上洛候へば、定て鞆・尾道の傾城共、多く被召具候覧。其為に珍しき御肴一つ推て進せ候はん。暫く御待候へ。」と云侭に、上差の流鏑矢を抜て、羽の少し広がりけるを鞍の前輪に当てかき直し、二所藤の弓の握太なるに取副、小松陰に馬を打寄て、浪の上なる鶚の、己が影にて魚を驚し、飛さがる程をぞ待たりける。敵は是を見て、「射放たらんは希代の笑哉。」と目を放たず。御方は是を見て、「射当たらんは時に取ての名誉哉。」と、機を攻てぞ守ける。遥に高飛挙りたる鶚、浪の上に落さがりて、二尺計なる魚を、主人のひれを掴で澳の方へ飛行ける処を、本間小松原の中より馬を懸出し、追様に成て、かけ鳥にぞ射たりける。態と生ながら射て落さんと、片羽がひを射切て直中をば射ざりける間、鏑は鳴響て大内介が舟の帆柱に立、みさごは魚を掴ながら、大友が舟の屋形の上へぞ落たりける。射手誰とは知ねども、敵の舟七千余艘には、舷を蹈で立双、御方の官軍五万余騎は汀に馬を磬へて、「あ射たり/\。」と感ずる声天地を響して静り得ず。将軍是を見給て、「敵我弓の程を見せんと此鳥を射つるが、此方の舟の中へ鳥の落たるは御方の吉事と覚るなり。何様射手の名字を聞ばや。」と被仰ければ、「小早河七郎舟の舳に立出て、「類少なく、見所有ても遊されつる者哉。さても御名字をば何と申候やらん承候ばや。」と問たりければ、本間弓杖にすがりて、「其身人数ならぬ者にて候へば、名乗申共誰か御存知候べき。但弓箭を取ては、坂東八箇国の兵の中には、名を知たる者も御座候らん。此矢にて名字をば御覧候へ。」と云て、三人張に十五束三伏、ゆら/\と引渡し、二引両の旗立たる舟を指して、遠矢にぞ射たりける。其矢六町余を越て、将軍の舟に双たる、佐々木筑前守が船を箆中過通り、屋形に乗たる兵の鎧の草摺に裏をかゝせてぞ立たりける。将軍此矢を取寄せ見給ふに、相摸国住人本間孫四郎重氏と、小刀のさきにて書たりける。諸人此矢を取伝へ見て、「穴懼、如何なる不運の者か此矢崎に廻て死なんずらん。」と、兼て胸をぞ冷しける。本間孫四郎扇を揚て、澳の方をさし招て、「合戦の最中にて候へば、矢一筋も惜く存候。其矢此方へ射返してたび候へ。」とぞ申けれ。将軍是を聞給て、「御方に誰か此矢射返しつべき者有。」と高武蔵守に尋給ければ、師直畏て、「本間が射て候はんずる遠矢を、同じ坪に射返候はんずる者、坂東勢の中には有べしとも存候はず。誠にて候やらん、佐々木筑前守顕信こそ、西国一の精兵にて候なれ。彼を被召仰付られ候へかし。」と申ければ、「げにも。」とて佐々木をぞ被呼ける。顕信召に随て、将軍の御前に参たり。将軍本間が矢を取出して、「此矢、本の矢坪へ射返され候へ。」と被仰ければ、顕信畏て、難叶由をぞ再三辞し申ける。将軍強て被仰ける間、辞するに無処して、己が舟に立帰り、火威の鎧に鍬形打たる甲の緒を縮、銀のつく打たる弓の反高なるを、帆柱に当てきり/\と推張、舟の舳崎に立顕て、弓の弦くひしめしたる有様、誠に射つべくぞ見へたりける。かゝる処に、如何なる推参の婆伽者にてか有けん、讚岐勢の中より、「此矢一受て弓勢の程御覧ぜよ。」と、高らかに呼はる声して、鏑をぞ一つ射たりける。胸板に弦をや打たりけん、元来小兵にてや有けん、其矢二町迄も射付ず、波の上にぞ落たりける。本間が後に磬へたる軍兵五万余騎、同音に、「あ射たりや。」と欺て、しばし笑も止ざりけり。此後は中々射てもよしなしとて、佐々木は遠矢を止てけり。
○経嶋合戦事 S1613
遠矢射損じて、敵御方に笑れ憎まれける者、恥を洗がんとや思けん。舟一艘に二百余人取乗て、経島へ差寄せ、同時に礒へ飛下て、敵の中へぞ打て懸りける。脇屋右衛門佐の兵ども、五百余騎にて中に是を取篭、弓手馬手に相付て、縄手を廻してぞ射たりける。二百余騎の者共、心は勇といへ共、射手も少く徒立なれば、馬武者に懸悩されて、遂に一人も残らず討れにければ、乗捨つる舟は、徒に岸打浪に漂へり。細河卿律師是を見給て、「つゞく者の無りつる故にこそ、若干の御方をば故なく討せつれ。いつを期すべき合戦ぞや。下場のよからんずる所へ舟を著て、馬を追下々々打て上れ。」と被下知。四国の兵共、大船七百余艘、紺部の浜より上らんとて、礒に傍てぞ上りける。兵庫嶋三箇所に磬へたる官軍五万余騎、船の敵をあげ立じと、漕行舟に随て、汀を東へ打ける間、舟路の勢は自進で懸る勢にみへ、陸の官軍は偏に逃て引様にぞ見へたりける。海と陸との両陣互に相窺て、遥の汀に著て上りければ、新田左中将と楠と、其間遠く隔て、兵庫嶋の舟著には支たる勢も無かりける。依之九国・中国の兵船六十余艘、和田の御崎に漕寄て、同時に陸へぞあがりける。
○正成兄弟討死事 S1614
楠判官正成、舎弟帯刀正季に向て申けるは、「敵前後を遮て御方は陣を隔たり。今は遁ぬ処と覚るぞ。いざや先前なる敵を一散し追捲て後ろなる敵に闘はん。」と申ければ、正季、「可然覚候。」と同じて、七百余騎を前後に立て、大勢の中へ懸入ける。左馬頭の兵共、菊水の旗を見て、よき敵也と思ければ、取篭て是を討んとしけれ共、正成・正季、東より西へ破て通り、北より南へ追靡け、よき敵とみるをば馳双て、組で落ては頭をとり、合はぬ敵と思ふをば、一太刀打て懸ちらす。正季と正成と、七度合七度分る。其心偏に左馬頭に近付、組で討んと思にあり。遂に左馬頭の五十万騎、楠が七百余騎に懸靡けられて、又須磨の上野の方へぞ引返しける。直義朝臣の乗られたりける馬、矢尻を蹄に蹈立て、右の足を引ける間、楠が勢に追攻られて、已に討れ給ぬと見へける処に、薬師寺十郎次郎只一騎、蓮池の堤にて返し合せて、馬より飛でをり、二尺五寸の小長刀の石づきを取延て、懸る敵の馬の平頚、むながひの引廻、切ては刎倒々々、七八騎が程切て落しける其間に、直義は馬を乗替て、遥々落延給けり。左馬頭楠に追立られて引退を、将軍見給て、「悪手を入替て、直義討すな。」と被下知ければ、吉良・石堂・高・上杉の人々六千余騎にて、湊河の東へ懸出て、跡を切らんとぞ取巻ける。正成・正季又取て返て此勢にかゝり、懸ては打違て死し、懸入ては組で落、三時が間に十六度迄闘ひけるに、其勢次第々々に滅びて、後は纔に七十三騎にぞ成にける。此勢にても打破て落ば落つべかりけるを、楠京を出しより、世の中の事今は是迄と思ふ所存有ければ、一足も引ず戦て、機已に疲れければ、湊河の北に当て、在家の一村有ける中へ走入て、腹を切ん為に、鎧を脱で我身を見るに、斬疵十一箇所までぞ負たりける。此外七十二人の者共も、皆五箇所・三箇所の疵を被らぬ者は無りけり。楠が一族十三人、手の者六十余人、六間の客殿に二行に双居て、念仏十返計同音に唱て、一度に腹をぞ切たりける。正成座上に居つゝ、舎弟の正季に向て、「抑最期の一念に依て、善悪の生を引といへり。九界の間に何か御辺の願なる。」と問ければ、正季から/\と打笑て、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ。」と申ければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれ共我も加様に思ふ也。いざゝらば同く生を替て此本懐を達せん。」と契て、兄弟共に差違て、同枕に臥にけり。橋本八郎正員・宇佐美河内守正安・神宮寺太郎兵衛正師・和田五郎正隆を始として、宗との一族十六人、相随兵五十余人、思々に並居て、一度に腹をぞ切たりける。菊池七郎武朝は、兄の肥前守が使にて須磨口の合戦の体を見に来りけるが、正成が腹を切る所へ行合て、をめ/\しく見捨てはいかゞ帰るべきと思けるにや、同自害をして炎の中に臥にけり。抑元弘以来、忝も此君に憑れ進せて、忠を致し功にほこる者幾千万ぞや。然共此乱又出来て後、仁を知らぬ者は朝恩を捨て敵に属し、勇なき者は苟も死を免れんとて刑戮にあひ、智なき者は時の変を弁ぜずして道に違ふ事のみ有しに、智仁勇の三徳を兼て、死を善道に守るは、古へより今に至る迄、正成程の者は未無りつるに、兄弟共に自害しけるこそ、聖主再び国を失て、逆臣横に威を振ふべき、其前表のしるしなれ。
○新田殿湊河合戦事 S1615
楠已に討れにければ、将軍と左馬頭と一処に合て、新田左中将に打て懸り給ふ。義貞是を見て、「西の宮よりあがる敵は、旗の文を見るに末々の朝敵共なり。湊河より懸る勢は尊氏・直義と覚る。是こそ願ふ所の敵なれ。」とて西宮より取て返し、生田の森を後ろを当て四万余騎を三手に分て、敵を三方にぞ受られける。去程に両陣互に勢を振て時を作り声を合す。先一番に大館左馬助氏明・江田兵部大輔行義、三千余騎にて、仁木・細川が六万余騎に懸合て、火を散して相戦ふ。其勢互に討れて、両方へ颯と引のけば、二番に中院の中将定平・大江田・里見・鳥山五千余騎にて、高・上杉が八万騎に懸合て、半時許黒烟を立て揉合たり。其勢共戦疲れて両方へ颯と引退けば、三番に脇屋右衛門佐・宇都宮治部大輔・菊池次郎・河野・土居・得能一万騎にて、左馬頭・吉良・石堂が十万余騎に懸合せ、天を響かし地を動して責戦ふ。或は引組で落重て、頚を取もあり、取るゝもあり。或は敵と打違て、同く馬より落るもあり。両虎二龍の闘に、何れも討るゝ者多かりければ、両方東西へ引のきて、人馬の息をぞ休めける。新田左中将是を見給て、「荒手の兵已に尽て戦未決せず。是義貞が自当るべき処也。」とて、二万三千騎を左右に立て、将軍の三十万騎に懸合せ、兵刃を交へて命を鴻毛よりも軽せり。官軍の総大将と、武家の上将軍と、自戦ふ軍なれば、射落さるれども矢を抜隙なく、組で下になれ共、落合て助くる者なし。只子は親を棄て切合、朗等は主に離れて戦へば、馬の馳違ふ声、太刀の鐔音、いかなる脩羅の闘諍も、是には過じとをびたゝし。先に一軍して引しさりたる両方の勢共、今はいつをか可期なれば、四隊の陣一処に挙て、敵と敵と相交り、中黒の旗と二引両と、巴の旗と輪違と、東へ靡き西へ靡き、礒山風に翩翻して、入違ひたる許にて、何れを御方の勢とは見へ分かず。新田・足利の国の争ひ今を限りとぞ見へたりける。官軍は元来小勢なれば、命を軽じて戦といへども、遂には大敵に懸負て、残る勢纔五千余騎、生田の森の東より丹波路を差てぞ落行ける。数万の敵勝に乗て是を追事甚急なり。され共何もの習なれば、義貞朝臣、御方の軍勢を落延させん為に後陣に引さがりて、返し合せ/\戦れける程に、義貞の被乗たりける馬に矢七筋迄立ける間、小膝を折て倒けり。義貞求塚の上に下立て、乗替の馬を待給共、敢て御方是を不知けるにや、下て乗せんとする人も無りけり。敵や是を見知けん、即取篭て是を討んとしけるが、其勢に僻易して近は更不寄けれ共、十方より遠矢に射ける矢、雨雹の降よりも猶繁し。義貞は薄金と云甲に、鬼切・鬼丸とて多田満仲より伝たる源氏重代の太刀を二振帯れたりけるを、左右の手に抜持て、上る矢をば飛越、下る矢には差伏き、真中を指て射矢をば二振の太刀を相交て、十六迄ぞ切て被落ける。其有様、譬ば四天王、須弥の四方に居して同時に放つ矢を、捷疾鬼走廻て、未其矢の大海に不落著前に、四の矢を取て返らんも角やと覚許也。小山田太郎遥の山の上より是を見て、諸鐙を合て馳参て、己が馬に義貞を乗奉て、我身徒立に成て追懸る敵を防けるが、敵数たに被取篭て、遂討れにけり。其間に義貞朝臣御方の勢の中へ馳入て、虎口に害を遁給ふ。
○小山田太郎高家刈青麦事 S1616
抑官軍の中に知義軽命者雖多、事の急なるに臨で、大将の替命とする兵無りけるに、遥隔たる小山田一人馬を引返して義貞を奉乗、剰我身跡に下て打死しける其志を尋れば、僅の情に憑て百年の身を捨ける也。去年義貞西国の打手を承て、播磨に下著し給時、兵多して粮乏。若軍に法を置ずば、諸卒の狼藉不可絶とて、一粒をも刈採、民屋の一をも追捕したらんずる者をば、速可被誅之由を大札に書て、道の辻々にぞ被立ける。依之農民耕作を棄ず、商人売買を快しける処に、此高家敵陣の近隣に行て青麦を打刈せて、乗鞍に負せてぞ帰ける。時の侍所長浜六郎左衛門尉是を見、直に高家を召寄、無力法の下なれば是を誅せんとす。義貞是を聞給て、「推量するに此者、青麦に替身と思んや。此所敵陣なればと思誤けるか、然ずば兵粮に術尽て法の重を忘たるかの間也。何様彼役所を見よ。」とて、使者を遣して被点検ければ、馬・物具爽に有て食物の類は一粒も無りけり。使者帰て此由を申ければ、義貞大に恥たる気色にて、「高家が犯法事は、戦の為に罪を忘たるべし。何様士卒先じて疲たるは大将の恥也。勇士をば不可失、法をば勿乱事。」とて、田の主には小袖二重与て、高家には兵粮十石相副て色代してぞ帰されける。高家此情を感じて忠義弥染心ければ、此時大将の替命、忽に打死をばしたる也。自昔至今迄、流石に侍たる程の者は、利をも不思、威にも不恐、只依其大将捨身替命者也。今武将たる人、是を慎で不思之乎。
○聖主又臨幸山門事 S1617
官軍の総大将義貞朝臣、僅に六千余騎に打成されて帰洛せられければ、京中の貴賎上下色を損じて周章騒事限なし。官軍若戦に利を失はゞ、如前東坂本へ臨幸成べきに兼てより儀定ありければ、五月十九日主上三種の神器を先に立て、竜駕をぞ廻らされける。浅猿や、元弘の初に公家天下を一統せられて、三年を過ざるに、此乱又出来て、四海の民安からず。然ども去ぬる正月の合戦に、朝敵忽に打負て、西海の浪に漂ひしかば、是聖徳の顕るゝ処也。今はよも上を犯さんと好み、乱を起さんとする者はあらじとこそ覚へつるに、西戎忽に襲来て、一年の内に二度まで天子都を移させ給へば、今は日月も昼夜を照す事なく、君臣も上下を知ぬ世に成て、仏法・王法共に可滅時分にや成ぬらんと、人々心を迷はせり。されども此春も山門へ臨幸成て、無程朝敵を退治せられしかば、又さる事やあらんと定めなき憑みに積習して、此度は、公家にも武家にも供奉仕る者多かりけり。摂録臣は申に及ず、公卿には吉田内大臣定房・万里小路大納言宣房・竹林院大納言公重・御子左大納言為定・四条中納言隆資・坊城中納言経顕・洞院左衛門督実世・千種宰相中将忠顕・葉室中納言長光・中御門宰相宣明、殿上人には中院左中将定平・坊門左大弁清忠・四条中将隆光・園中将基隆・甘露寺左大弁藤長・岡崎右中弁範国・一条頭大夫行房、此外衛府諸司・外記・史・官人・北面・有官・無官の滝口・諸家の侍・官僧・官女・医陰両道に至まで、我も我もと供奉仕る。武家の輩には、新田左中将義貞・子息越後守義顕・脇屋右衛門佐義助・子息式部大輔義治・堀口美濃守貞満・大館左馬助義氏・江田兵部少輔行義・額田掃部助正忠・大江田式部大輔氏経・岩松兵衛蔵人義正・鳥山左京助氏頼・羽川越中守時房・桃井兵庫助顕氏・里見大膳亮義益・田中修理亮氏政・千葉介貞胤・宇都宮治部大輔公綱・同美濃将監泰藤・狩野将監貞綱・熱田大宮司昌能・河野備後守通治・得能備中守通益・武田甲斐守盛正・小笠原蔵人政道・仁科信濃守氏重・春日部治部少輔時賢・名和伯耆守長年・同太郎判官長生・今木新蔵人範家・頓宮六郎忠氏、是等を宗との侍とし、其勢都合六万余騎、鳳輦の前後に打囲て、今路越にぞ落行給ける。
○持明院本院潛幸東寺事 S1618
持明院法皇・本院・新院・春宮に至まで、悉皆山門へ御幸成進らすべき由、太田判官全職、路次の奉行として、供奉仕たるに、本院は兼てより尊氏に院宣を被成下たりしかば、二度御治世の事やあらんずらんと思召て、北白川の辺より、俄に御不預の事有とて、御輿を法勝寺の塔前に舁居させて、態時をぞ移されける。去程に敵已に京中に入乱れぬと見て、兵火四方に盛也。全職是を見て、「さのみはいつまでか、暗然として可待申なれば、供奉の人々に急ぎ山門へ成進らすべし。」と申置て、新院・法皇・春宮許を先東坂本へぞ御幸成進せける。本院は全職が立帰る事もやあらんずらんと恐しく思召されければ、日野中納言資名、殿上人には三条中将実継計を供奉人として、急東寺へぞ成たりける。将軍不斜悦で、東寺の本堂を皇居と定めらる。久我内大臣を始として、落留給へる卿相雲客参られしかば、則皇統を立らる。是ぞはや尊氏の運を開かるべき瑞なりける。
○日本朝敵事 S1619
夫日本開闢の始を尋れば、二儀已分れ三才漸顕れて、人寿二万歳の時、伊弉諾・伊弉冊の二の尊、遂妻神夫神と成て天の下にあまくだり、一女三男を生給ふ。一女と申は天照太神、三男と申は月神・蛭子・素盞烏の尊なり。第一の御子天照太神此国の主と成て、伊勢国御裳濯川の辺、神瀬下津岩根に跡を垂れ給ふ。或時は垂迹の仏と成て、番々出世の化儀を調へ、或時は本地の神に帰て、塵々刹土の利生をなし給ふ。是則迹高本下の成道也。爰に第六天の魔王集て、此国の仏法弘らば魔障弱くして其力を失べしとて、彼応化利生を妨んとす。時に天照太神、彼が障碍を休めん為に、我三宝に近付じと云誓をぞなし給ひける。依之第六天の魔王忿りを休めて、五体より血を出し、「尽未来際に至る迄、天照太神の苗裔たらん人を以て此国の主とすべし。若王命に違ふ者有て国を乱り民を苦めば、十万八千の眷属朝にかけり夕べに来て其罰を行ひ其命を奪ふべし」と、堅誓約を書て天照太神に奉る。今の神璽の異説是也。誠に内外の宮の在様自余の社壇には事替て、錦帳に本地を顕はせる鏡をも不懸、念仏読経の声を留て僧尼の参詣を許されず。是然当社の神約を不違して、化属結縁の方便を下に秘せる者なるべし。されば天照太神より以来、継体の君九十六代、其間に朝敵と成て滅し者を数ふれば、神日本磐余予彦天皇御宇天平四年に紀伊国名草郡に二丈余の蜘蛛あり。足手長して力人に超たり。綱を張る事数里に及で、往来の人を残害す。然共官軍勅命を蒙て、鉄の網を張り、鉄湯を沸して四方より責しかば、此蜘蛛遂に殺されて、其身分々に爛れにき。又天智天皇の御宇に藤原千方と云者有て、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼と云四の鬼を使へり。金鬼は其身堅固にして、矢を射るに立ず。風鬼は大風を吹せて、敵城を吹破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地に溺す。隠形鬼は其形を隠して、俄敵を拉。如斯の神変、凡夫の智力を以て可防非ざれば、伊賀・伊勢の両国、是が為に妨られて王化に順ふ者なし。爰に紀朝雄と云ける者、宣旨を蒙て彼国に下、一首の歌を読て、鬼の中へぞ送ける。草も木も我大君の国なればいづくか鬼の棲なるべき四の鬼此歌を見て、「さては我等悪逆無道の臣に随て、善政有徳の君を背奉りける事、天罰遁るゝ処無りけり。」とて忽に四方に去て失にければ、千方勢ひを失て軈て朝雄に討れにけり。是のみならず、朱雀院の御宇承平五年に、将門と云ける者東国に下て、相馬郡に都を立、百官を召仕て、自平親王と号す。官軍挙て是を討んとせしかども、其身皆鉄身にて、矢石にも傷られず剣戟にも痛ざりしかば、諸卿僉議有て、俄に鉄の四天を鋳奉て、比叡山に安置し、四天合行の法を行せらる、故天より白羽の矢一筋降て、将門が眉間に立ければ、遂に俵藤太秀郷に首を捕られてけり。其首獄門に懸て曝すに、三月迄色不変、眼をも不塞、常に牙を嚼て、「斬られし我五体何れの処にか有らん。此に来れ。頭続で今一軍せん。」と夜な/\呼りける間、聞人是を不恐云事なし。時に道過る人是を聞て、将門は米かみよりぞ斬られける俵藤太が謀にてと読たりければ、此頭から/\と笑ひけるが、眼忽に塞て、其尸遂に枯にけり。此外大石山丸・大山王子・大友真鳥・守屋大臣・蘇我入鹿・豊浦大臣・山田石川・左大臣長屋・右大臣豊成・伊予親王・氷上川継・橘逸勢・文屋宮田・江美押勝・井上皇后・早良太子・大友皇子・藤原仲成・天慶純友・康和義親・宇治悪左府・六条判官為義・悪右衛門督信頼・安陪貞任・宗任・清原武衡・平相国清盛・木曾冠者義仲・阿佐原八郎為頼・時政九代の後胤高時法師に至迄、朝敵と成て叡慮を悩し仁義を乱る者、皆身を刑戮の下に苦しめ、尸を獄門の前に曝さずと云事なし。去ば尊氏卿も、此春東八箇国の大勢を率して上洛し玉ひしかども、混朝敵たりしかば数箇度の合戦に打負て、九州を差て落たりしが、此度は其先非を悔て、一方の皇統を立申て、征罰を院宣に任られしかば、威勢の上に一の理出来て、大功乍に成んずらんと、人皆色代申れけり。去程に東寺已に院の御所と成しかば、四壁を城郭に構へて、上皇を警固し奉る由にて、将軍も左馬頭も、同く是に篭られける。是は敵山門より遥々と寄来らば、小路々々を遮て、縦横に合戦をせんずる便よかるべしとて、此寺を城郭にはせられけるなり。
○正成首送故郷事 S1620
湊川にて討れし楠判官が首をば、六条川原に懸られたり。去ぬる春もあらぬ首をかけたりしかば、是も又さこそ有らめと云者多かりけり。疑は人によりてぞ残りけるまさしげなるは楠が頚と、狂歌を札に書てぞ立たりける。其後尊氏卿楠が首を召れて、「朝家私日久相馴し旧好の程も不便也。迹の妻子共、今一度空しき貌をもさこそ見度思らめ。」とて、遺跡へ被送ける情の程こそ有難けれ。楠が後室・子息正行是を見て、判官今度兵庫へ立し時、様々申置し事共多かる上、今度の合戦に必ず討死すべしとて、正行を留置しかば、出しを限の別也とぞ兼てより思ひ儲たる事なれども、貌をみれば其ながら目塞り色変じて、替はてたる首をみるに、悲の心胸に満て、歎の泪せき敢ず。今年十一歳に成ける帯刀、父が頭の生たりし時にも似ぬ有様、母が歎のせん方もなげなる様を見て、流るゝ泪を袖に押へて持仏堂の方へ行けるを、母怪しく思て則妻戸の方より行て見れば、父が兵庫へ向ふとき形見に留めし菊水の刀を、右の手に抜持て、袴の腰を押さげて、自害をせんとぞし居たりける。母急走寄て、正行が小腕に取付て、泪を流して申けるは、「「栴檀は二葉より芳」といへり。汝をさなく共父が子ならば、是程の理に迷ふべしや。小心にも能々事の様を思ふてみよかし。故判官が兵庫へ向ひし時、汝を桜井の宿より返し留めし事は、全く迹を訪らはれん為に非ず、腹を切れとて残し置しにも非ず。我縦ひ運命尽て戦場に命を失ふ共、君何くにも御座有と承らば、死残りたらん一族若党共をも扶持し置き、今一度軍を起し、御敵を滅して、君を御代にも立進らせよと云置し処なり。其遺言具に聞て、我にも語し者が、何の程に忘れけるぞや。角ては父が名を失ひはて、君の御用に合進らせん事有べし共不覚。」と泣々勇め留て、抜たる刀を奪とれば、正行腹を不切得、礼盤の上より泣倒れ、母と共にぞ歎ける。其後よりは、正行、父の遺言、母の教訓心に染肝に銘じつゝ、或時は童部共を打倒し、頭を捕真似をして、「是は朝敵の頚を捕也。」と云、或時は竹馬に鞭を当て、「是は将軍を追懸奉る。」なんど云て、はかなき手ずさみに至るまでも、只此事をのみ業とせる、心の中こそ恐しけれ。


太平記
太平記巻第十七

○山攻事付日吉神託事 S1701
主上二度山門へ臨幸なりしかば、三千の衆徒去ぬる春の勝軍に習て、弐ろなく君を擁護し奉り、北国・奥州の勢を待由聞へければ、将軍・左馬頭・高・上杉の人々、東寺に会合して合戦の評定あり。事延引して義貞に勢付なば叶まじ。勢未だ微なるに乗て山門を可攻とて、六月二日四方の手分を定て、追手・搦手五十万騎の勢を、山門へ差向らる。追手には、吉良・石堂・渋河・畠山を大将として、其勢五万余騎、大津・松本の東西の宿・園城寺の焼跡・志賀・唐崎・如意が岳まで充満したり。搦手には、仁木・細河・今川・荒河を大将として、四国・中国の勢八万余騎、今道越に三石の麓を経て、無動寺へ寄んと志す。西坂本へは、高豊前守師重・高土佐守・高伊予守・南部遠江守・岩松・桃井等を大将として三十万騎、八瀬・薮里・しづ原・松崎・赤山・下松・修学院・北白川まで支て、音無の滝・不動堂・白鳥よりぞ寄たりける。山門には、敵是まで可寄とは思も寄ざりけるにや、道々をも警固せず、関・逆木の構もせざりければ、さしも嶮しき道なれ共、岩石に馴たる馬共なれば、上らぬ所も無りけり。其時しも新田左兵衛督を始として、千葉・宇都宮・土肥・得能に至るまで東坂本に集居て、山上には行歩も叶はぬ宿老、稽古の窓を閉たる修学者の外は、兵一人も無りけり。此時若西坂より寄る大勢共、暫も滞りなく、四明の巓まで打挙りたらましかば、山上も坂本も、防に便り無して、一時に落べかりしを、猶も山王大師の御加護や有けん、俄に朝霧深立隠して、咫尺の内をも見ぬ程なりければ、前陣に作る御方の時の音を、敵の防ぐ矢叫の声ぞと聞誤て、後陣の大勢つゞかねば、そゞろに時をぞ移しける。懸る処に、大宮へをり下て三塔会合しける大衆上下帰山して、将門の童堂の辺に相支て、こゝを前途と防ける間、面に進みける寄手三百人被討、前陣敢て懸らねば、後陣は弥不得進、只水飲の木陰に陣をとり、堀切を堺て、掻楯を掻、互に遠矢を射違て、其日は徒に暮にけり。西坂に軍始りぬと覚へて、時声山に響て聞へければ、志賀・唐崎の寄手十万余騎、東坂本の西穴生の前へ押寄て、時声をぞ揚たりける。爰にて敵の陣を見渡せば、無動寺の麓より、湖の波打際まで、から堀を二丈余に堀通して処々に橋を懸け、岸の上に屏を塗、関・逆木を密しくして、渡櫓・高櫓三百余箇所掻双べたり。屏の上より見越せば、是こそ大将の陣と覚へて中黒の旗三十余流山下風に吹れて、竜蛇の如くに翻りたる其下に、陣屋を双て油幕を引、爽に鎧たる兵二三万騎、馬を後に引立させて、一勢々々並居たり。無動寺の麓、白鳥の方を向上たりければ、千葉・宇都宮・土肥・得能・四国・中国の兵こゝを堅めたりと覚へて、左巴・右巴・月に星・片引両・傍折敷に三文字書たる旗共六十余流木々の梢に翻て、片々たる其陰に、甲の緒を縮たる兵三万余騎、敵近付かば横合にかさより落さんと、轡を双て磬たり。又湖上の方を直下たれば、西国・北国・東海道の、船軍に馴たる兵共と覚て、亀甲・下濃・瓜の紋・連銭・三星・四目結・赤幡・水色・三■、家々の紋画たる旗、三百余流、塩ならぬ海に影見へて、漕双べたる舷に、射手と覚へたる兵数万人、掻楯の陰に弓杖を突て横矢を射んと構へたり。寄手誠に大勢なりといへども、敵の勢に機を被呑て、矢懸りまでも進み得ず、大津・唐崎・志賀の里三百余箇所に陣を取て、遠攻にこそしたりけれ。六月六日、追手の大将の中より西坂の寄手の中へ使者を立て、「此方の敵陣を伺見候へば、新田・宇都宮・千葉・河野を始として、宗との武士共、大畧皆東坂本を堅たりとみへて候。西坂をば嶮きを憑て、公家の人々、さては山法師共を差向て候なる。一軍手痛く攻て御覧候へ。はか/\しき合戦はよも候はじ、思図に大岳の敵を追落されて候はゞ、大講堂・文殊楼の辺に引へて、火を被挙候へ。同時に攻合せて、東坂本の敵を一人も余さず、湖水に追はめて亡し候べし。」とぞ牒せられける。西坂の大将高豊前守是を聞て、諸軍勢に向て法を出しけるは、「山門を攻落すべき諸方の相図明日にあり。此合戦に一足も退たらん者は、縦先々抜群の忠ありと云とも、無に処して本領を没収し、其身を可追出。一太刀も敵に打違へて、陣を破り、分捕をもしたらんずる者をば、凡下ならば侍になし、御家人ならば、直に恩賞を可申与。さればとて独高名せんとて抜懸すべからず。又傍輩の忠を猜で危き処を見放つべからず。互に力を合せ、共に志を一にして、斬共射共不用、乗越々々進べし。敵引退かば、立帰さぬさきに攻立て、山上に攻上り、堂舎・仏閣に火を懸て、一宇も不残焼払ひ、三千の衆徒の頚を一々に、大講堂の庭に斬懸て、将軍の御感に預り給へかし。」と、諸人を励まして下知しける、悪逆の程こそ浅猿けれ。諸国の軍勢等此命を聞て、勇み前まぬ者なし。夜已に明ければ、三石・松尾・水飲より、三手に分れて二十万騎、太刀・長刀の鋒を双べ、射向の袖を差かざして、ゑい/\声を出してぞ揚たりける。先一番に中書王の副将軍に被憑たりける千種宰相中将忠顕卿・坊門少将正忠、三百余騎にて被防けるが、松尾より攻上る敵に後を被裹て一人も不残討れてけり。是を見て後陣に支へて防ぎける護正院・禅智坊・道場坊以下の衆徒七千余人、一太刀打ては引上暫支ては引退、次第々々に引ける間、寄手弥勝に乗て、追立々々一息をも継せず、さしも嶮き雲母坂・蛇池を弓手に見成て、大岳までぞ攻あがりける。去程に院々に早鐘撞て、西坂已に被攻破ぬと、本院の谷々に騒ぎ喚りければ、行歩も叶はぬ老僧は鳩の杖に携て、中堂・常行堂なんどへ参て、本尊と共に焼死なんと悲み、稽古鑽仰をのみ事とする修学者などは、経論聖教を腹に当て、落行悪僧の太刀・長刀を奪取て、四郎谷の南、箸塚の上に走挙り、命を捨て闘ける。爰に数万人の中より只一人備後国住人、江田源八泰氏と名乗て、洗革の大鎧に五枚甲の緒を縮、四尺余の太刀所々さびたるに血を付て、ましくらにぞ上たりける。是を見て、杉本の山神大夫定範と云ける悪僧、黒糸の鎧に竜頭の甲の緒をしめ、大立挙の髄当に、三尺八寸の長刀茎短に取て乱足を蹈み、人交もせず只二人、火を散してぞ斬合ける。源八遥の坂を上て、数箇度の戦に腕緩く機疲れけるにや、動ればうけ太刀に成けるを、定範得たり賢しと、長刀の柄を取延源八が甲の鉢を破よ砕よと、重打にぞ打たりける。源八甲の吹返を目の上へ切さげられて、著直さんと推仰きける処を、定範長刀をからりと打棄て、走懸てむずと組。二人が蹈ける力足に、山の片岸崩て足もたまらざりければ、二人引組ながら、数千丈高き小篠原を、上になり下になり覆けるが、中程より別々に成て両方の谷の底へぞ落たりける。此外十四の禅侶、法花堂の衆に至るまで、忍辱の衣の袖を結て肩にかけ、降魔の利剣を提て、向ふ敵に走懸々々、命を風塵よりも軽して防ぎ戦ける程に、寄手の大勢進兼て、四明の巓・西谷口、今三町許に向上て一気休てぞゆらへける。爰に何者か為たりけん、大講堂の鐘を鳴して、事の急を告たりける間、篠の峯を堅めんとて、昨日横川へ被向たりける宇都宮五百余騎、鞭に鐙を合て西谷口へ馳来る。皇居を守護して東坂本に被坐ける新田左中将義貞、六千余騎を率して四明の上へ馳上て、紀清両党を虎韜にすゝませ、江田・大館を魚鱗に連ねて真倒に懸立られけるに、寄手二十万騎の兵共、水飲の南北の谷へ被懸落て、馬人上が上に落重りしかば、さしも深き谷二つ死人に埋て平地になる。寄手此日の合戦に討負て、相図の支度相違しければ、水飲より下に陣を取て、敵の隙を伺ふ。義貞は東坂本を閣て、大岳を陣に取り、昼夜旦暮に闘て、互に陣を不被破、西坂の合戦此侭にて休ぬ。其翌日高豊前守大津へ使を立て、「宗との敵共は、皆大岳へ向たりと見へて候。急追手の合戦を被始て東坂本を攻破り、神社・仏閣・僧坊・民屋に至るまで、一宇も不残焼払て、敵を山上に追上、東西両塔の間に打上て、煙を被挙候はゞ、大岳の敵ども前後に心を迷はして、進退定て度を失つと覚へ候。其時此方より同攻上戦の雌雄を一時に可決。」とぞ牒せられける。吉良・石堂・仁木・細川の人々是を聞て、「昨日は已に追手の勧に依て高家の一族共手の定の合戦を致しつ。今日は又搦手より此陣の合戦を被勧事誠に理に当れり、非可黙止。」とて、十八万騎を三手に分て、田中・浜道・山傍より、態夕日に敵を向て、東坂本へぞ寄たりける。城中の大将には、義貞の舎弟脇屋右衛門佐義助を被置たりければ、東国・西国の強弓・手足を汰へて、土矢間・櫓の上にをき、土肥・得能・仁科・春日部・伯耆守以下の四国・北国の懸武者共二万余騎、白鳥が岳に磬へさせ、船軍に馴たる国々の兵に、和仁・堅田の地下人共を差添て五千余人、兵船七百余艘に掻楯を掻て、湖水の澳に被浮たり。敵陣の構密くして、人の近付べき様なしといへども、軍をせでは敵の落べき様やあるとて、三方の寄手八十万騎相近付て時を作りければ、城中の勢六万余騎、矢間の板を鳴し、舷を敲て時声を合す。大地も為之裂、大山も此時に崩やすらんとをびたゝし。寄手已に堀の前までかづき寄せ、埋草を以て堀をうめ、焼草を積で櫓を落さんとしける時、三百余箇所の櫓・土さま・出屏の内より、雨の降如射出しける矢、更に浮矢一つも無りければ、楯のはづれ旗下に射臥られて、死生の堺を不知者三千人に余れり。寄手余に射殺されける間、持楯の陰に隠んと、少色めきける処を、城中より見澄して、脇屋・堀口・江田・大館の人々六千余騎、三の関を開せて、驀直に敵の中へ懸入る。土肥・得能・仁科・伯耆が勢二千余騎、白鳥より懸下て横合にあふ。湖水に浮べる国々の兵共、唐崎の一松の辺へ漕寄て、さし矢・遠矢・すぢかひ矢に、矢種を不惜射たりける。寄手大勢なりといへ共、山と海と横矢に射白され、田中・白鳥の官軍に被懸立、叶はじとや思けん、又本陣へ引返す。其後よりは日夜朝暮に兵を出し、矢軍許をばしけれ共、寄手は遠攻に為たる許を態にし、官軍は城を不被落を勝にして、はか/゛\しき軍は無りけり。同十六日熊野の八庄司共、五百余騎にて上洛したりけるが、荒手なれば一軍せんとて、軈て西坂へぞ向ひたりける。黒糸の鎧甲に、指のさきまで鎖りたる篭手・髄当・半頬・膝鎧、無透処一様に裹つれたる事がら、誠に尋常の兵共の出立たる体には事替て、物の用に立ぬと見へければ、高豊前守悦思事不斜、軈て対面して、合戦の意見を訪ければ、湯河庄司殊更進出て申けるは、「紀伊国そだちの者共は、少きより悪処岩石に馴て、鷹をつかひ、狩を仕る者にて候間、馬の通はぬ程の嶮岨をも、平地の如に存ずるにて候。ましてや申さん、此山なんどを見て、難所なりと思事は、露許も候まじ。威毛こそ能も候はね共、我等が手づから撓拵て候物具をば、何なる筑紫の八郎殿も、左右なく裏かゝする程の事はよも候はじ。将軍の御大事此時にて候へば、我等武士の矢面に立て、敵矢を射ば物具に請留め、斬らば其太刀・長刀に取付、敵の中へわり入程ならば、何なる新田殿共のたまへ、やわか怺へ候や。」と傍若無人に申せば、聞人見人何れも偏執の思を成にけり。「さらば軈て是をさき武者として攻よ。」とて、六月十七日の辰刻に、二十万騎の大勢、熊野の八庄司が五百余人を先に立て、松尾坂の尾崎よりかづきつれてぞ上たりける。官軍の方に綿貫五郎左衛門・池田五郎・本間孫四郎・相馬四郎左衛門とて、十万騎が中より勝出されたる強弓の手垂あり。池田と綿貫とは、時節東坂本へ遣はされて不居合ば、本間と相馬と二人、義貞の御前に候けるが、熊野人共の真黒に裹つれて攻上けるを、遥に直下し、から/\と打笑ひ、「今日の軍に御方の兵に太刀をも抜せ候まじ。矢一をも射させ候まじ。我等二人罷向て、一矢仕て奴原に肝つぶさせ候はん。」と申、最閑に座席をぞ立たりける。猶も弓を強引ん為に、著たる鎧を脱置て、脇立許に大童になり、白木の弓のほこ短には見へけれ共、尋常の弓に立双べたりければ、今二尺余ほこ長にて、曲高なるを大木共に押撓、ゆら/\と押張、白鳥の羽にてはぎたる矢の、十五束三臥有けるを、百矢の中より只二筋抜て弓に取副、訛歌うたふて、閑々と向の尾へ渡れば、跡に立たる相馬、銀のつく打たる弓の普通の弓四五人張合たる程なるを、左の肩に打かたげて、金磁頭二つ箆撓に取添て、道々撓直爪よりて一村茂る松陰に、人交もなく只二人、弓杖突てぞ立たりける。爰に是ぞ聞へたる八庄司が内の大力よと覚へて、長八尺許なる男の、一荒々たるが、鎖の上に黒皮の鎧を著、五枚甲の緒を縮、半頬の面に朱をさして、九尺に見る樫木の棒を左の手に拳り、猪の目透したる鉞の歯の亘一尺許あるを、右の肩に振かたげて、少もためらふ気色なく、小跳して登る形勢は、摩醯脩羅王・夜叉・羅刹の怒れる姿に不異。あはひ二町許近付て、本間小松の陰より立顕れ、件の弓に十五束三臥、忘るゝ許引しぼり、ひやうと射渡す。志す処の矢坪を些も不違、鎧の弦走より総角付の板まで、裡面五重を懸ず射徹して、矢さき三寸許ちしほに染て出たりければ、鬼歟神と見へつる熊野人、持ける鉞を打捨て、小篠の上にどうど臥す。其次に是も熊野人歟と覚へて、先の男に一かさ倍て、二王を作損じたる如なる武者の、眼さかさまに裂、鬚左右へ分れたるが、火威の鎧に竜頭の甲の緒を縮、六尺三寸の長刀に、四尺余の太刀帯て、射向の袖をさしかざし、後を吃とみて、「遠矢な射そ。矢だうなに。」と云侭に、鎧づきして上ける処を、相馬四郎左衛門、五人張に十四束三臥の金磁頭、くつ巻を残さず引つめて、弦音高く切て放つ。手答とすがい拍子に聞へて、甲の直向より眉間の脳を砕て、鉢著の板の横縫きれて、矢じりの見る許に射篭たりければ、あつと云声と共に倒れて、矢庭に二人死にけり。跡に継ける熊野勢五百余人、此矢二筋を見て、前へも不進後ろへも不帰、皆背をくゝめてぞ立たりける。本間と相馬と二人ながら是をば少しもみぬ由にて、御方の兵の二町許隔たりける向の尾に陣を取て居りけるに向て、「例ならず敵共のはたらき候は、軍の候はんずるやらん。ならしに一矢づゝ射て見候はん。何にても的に立させ給へ。」と云ければ、「是を遊ばし候へ。」とて、みな紅の扇に月出したるを矢に挟て遠的場だてにぞ立たりける。本間は前に立、相馬は後に立て、月を射ば天の恐も有ぬべし。両方のはづれを射んずるぞと約束して、本間はたと射れば、相馬もはたと射る。矢所約束に不違、中なる月をぞ残しける。其後百矢二腰取寄て、張がへの弓の寸引して、「相摸国の住人本間孫四郎資氏、下総国の住人相馬四郎左衛門尉忠重二人、此陣を堅て候ぞ。矢少々うけて、物具の仁の程御覧候へ。」と高らかに名乗ければ、跡なる寄手二十万騎、誰追としも無れども、我先にとふためきて、又本の陣へ引返す。如今矢軍許にて日を暮し夜を明さば、何年責る共、山落る事やは可有と、諸人攻あぐんで思ける処に、山徒金輪院の律師光澄が許より、今木の少納言隆賢と申ける同宿を使にて、高豊前守に申けるは、「新田殿の被支候四明山の下は、山上第一の難所にて候へば、輒く攻破られん事難叶とこそ存候へ。能物馴て候はんずる西国方の兵を四五百人、此隆賢に被相副、無動寺の方より忍入り、文殊楼の辺四王院の傍にて時声を被揚候はゞ、光澄与力の衆徒等、東西両塔の間に、旗を挙時声を合て、山門をば時の間に、攻落し候べし。」とぞ申ける。あわれ山徒の中に御方する者の一人なり共出来あれかしと、念願しける処に、隆賢忍やかに来、夜討すべき様を申ければ、高豊前守大に喜で、播磨・美作・備前・備中四箇国の勢の中より、夜討に馴たる兵五百余人を勝て、六月十八日の夕闇に四明の巓へぞ上せける。隆賢多年の案内者なる上、敵の有所無所委見置たる事なれば、少しも道に迷べきにては無りけるが、天罰にてや有けん、俄に目くれ心迷て、終夜四明の麓を北南へ迷ありきける程に、夜已に明ければ紀清両党に見付られて、中に被取篭ける間、迹なる武者共百余人討れて、谷底へ皆ころび落ぬ。隆賢一人は、深手数箇所負て、腹を切んとしけるが、上帯を解隙に被組て生虜れにけり。大逆の張本なれば、軈てこそ斬らるべかりしを、大将山徒の号に宥如して、御方にある一族の中へ遣はされ、「生て置ん共、殺されんとも意に可任。」と被仰ければ、今木中務丞範顕畏て、「承候。」とて、則使者の見ける前にて、其首を刎てぞ捨たりける。忝も万乗の聖主、医王山王の擁護を御憑有て、臨幸成たる故に、三千の衆徒悉仏法と王法と可相比理を存じて、弐なく忠戦を致す処に、金輪院一人山徒の身として我山を背き、武士の家に非して将軍に属し、剰弟子同宿を出し立て、山門を亡んと企ける心の程こそ浅猿けれ。されば悪逆忽に顕て、手引しつる同宿ども、或は討れ或は生虜れぬ。光澄は無幾程して、最愛の子に殺されぬ。其子は又一腹一生の弟に討れて、世に類なき不思議を顕ける神罰の程こそ怖しけれ。去程に越前の守護尾張守高経・北陸道の勢を率して、仰木より押寄て、横川を可攻と聞へければ、楞厳院九谷の衆徒、処々のつまり/\に関を拵へ逆木を引て要害を構へける。其比大師の御廟修造の為とて、材木を多く山上に引のぼせたりけるを、櫓の柱、矢間の板にせんとて坂中へぞ運ける。其日、般若院の法印が許に召仕ける童、俄に物に狂て様々の事を口走けるが、「我に大八王子の権現つかせ給たり。」と名乗て、「此御廟の材木、急本の処へ返し運ぶべし。」とぞ申ける。大衆是を不審して、「誠に八王子権現のつかせ給たる物ならば、本地内証朗にして諸教の通儀明かなるべし。」とて、古来碩学の相承し来る一念三千の法門、唯受一人の口決共を様々にぞ問たりける。此童から/\と打笑て、「我和光の塵に交る事久して、三世了達の智も浅く成ぬといへ共、如来出世の御時会座に列て聞し事なれば、あら/\云て聞かせん。」とて、大衆の立てつる処の不審、一々に言に花をさかせ理に玉を聯ねて答へける。大衆皆是に信を取て、重て山門の安否、軍の勝負を問ふに、此物つき涙をはら/\と流して申けるは、「我内には円宗の教法を守り、外には百王の鎮護を致さん為に、当山開基の初より跡を垂し事なれば、何にも吾山の繁昌、朝廷の静謐をこそ、心に懸て思ふ事なれ共、叡慮の向ふ所も、富貴栄耀の為にして、理民治世の政に非ず、衆徒の願ふ心も、皆驕奢放逸の基にして、仏法紹隆の為に非ざる間、諸天善神も擁護の手を休め、四所三聖も加被の力を不被回。悲哉、今より後朝儀久く塗炭に落て、公卿大臣蛮夷の奴となり、国主はるかに帝都を去て、臣は君を殺し、子は父を殺す世にならんずる事の浅猿さよ。大逆の積り却て其身を譴る事なれば、逆臣猛威を振はん事も、又久しからじ。嗚呼恨乎、師重が吾山を攻落して堂舎・仏閣を焼払はんと議する事、看々人々、明日の午刻に早尾大行事を差遣して、逆徒を四方に退けんずる者を。此上は吾山に何の怖畏か可有。其材木皆如元運返せ。」と託宣して、此童自四五人して持程なる大木を一つ打かつぎ、御廟の前に打捨、手足を縮めて振ひけるが、「明日の午刻に、敵を追払ふべしと云神託、余りに事遠からで、誠共覚へず、一事も若相違せば、申処皆虚説になるべし。暫く明日の様を見て思合する事あらば、後日にこそ奏聞を経め。」と申して、其日の奏し事を止めければ、神託空く衆徒の胸中に蔵れて、知人更に無りけり。山門には西坂に軍あらば、本院の鐘をつき、東坂本に合戦あらば、生源寺の鐘を鳴すべしと方々の約束を定たりける。爰に六月二十日の早旦に早尾の社の猿共数群来て、生源寺の鐘を東西両塔に響渡る程こそ撞たりけれ。諸方の官軍、九院の衆徒是を聞て、すはや相図の鐘を鳴すは。さらば攻口へ馳向て防がんとて、我劣らじと渡り合ふ。東西の寄手此形勢を見て、山より逆寄に寄するぞと心得て、水飲・今路・八瀬・薮里・志賀・唐崎・大津・松本の寄手共、楯よ物具よと、周章色めきける間、官軍是に利を得て、山上・坂本の勢十万余騎、木戸を開、逆木を引のけて打て出たりける。寄手の大将蹈留て、「敵は小勢ぞ、引て討るな。きたなし返せ。」と下知して、暫支たりけれ共、引立たる大勢なれば一足も不留。脇屋右衛門佐義助の兵五千余騎、志賀の炎魔堂の辺に有ける敵の向ひ城に、五百余箇所に東西火を懸て、をめき叫で揉だりける。敵陣こゝより破て、寄手の百八十万騎、さしも嶮しき今路・古道・音無の滝・白鳥・三石・大岳より、人雪頽をつかせてぞ逃たりける。谷深して行さきつまりたる所なれば、馬人上が上に落重て死ける有様は、伝聞治承の古へ、平家十万余騎の兵、木曾が夜討に被懸立て、くりから谷に埋れけるも、是には過じと覚へたり。大将高豊前守は太股を我太刀に突貫て引兼たりけるを、舟田長門守が手者是を生虜り白昼に東坂本を渡し、大将新田左中将の前に面縛す。是は仏敵・神敵の最たれば、「重衡卿の例に任すべし。」とて、山門の大衆是を申請て、則唐崎の浜に首を刎てぞ被懸ける。此豊前守は将軍の執事高武蔵守師直が猶子の弟にて、一方の大将を承る程の者なれば、身に替らんと思者共幾千万と云数を不知しか共、若党の一人も無して、無云甲斐敵に被生取けるは、偏に医王山王の御罰也けりと、今日は昨日の神託に、げにやと被思合て、身の毛も弥立つ許なり。
○京都両度軍事 S1702
六月五日より同二十日まで、山門数日の合戦に討るゝ者疵を被る者、何千万と云数を不知。結句寄手東西の坂より被追立、引退たる兵共は、京中にも猶足を留めず、十方へ落行ける間、洛中以外に無勢に成て、如何はせんと仰天す。此時しも山門より時日を回らさず寄たらましかば、敵重て都にはよも怺へじと見へけるを、山門に様々の異義有て、空く十余日を過されける程に、辺土洛外に逃隠たる兵共、機を直して又立帰ける間、洛中の勢又大勢に成にけり。是をば不知、山門には京中無勢也と聞て、六月晦日十万余騎を二手に分て、今路・西坂よりぞ寄たりける。将軍始は態と小勢を河原へ出して、矢一筋射違へて引んとせられける間、千葉・宇都宮・土肥・得能・仁科・高梨が勢、勝に乗て京中へ追懸て攻入る。飽まで敵を近付て後、東寺より用意の兵五十万騎を出して、竪小路・横小路に機変の陣をはり、敵を東西南北より押隔て、四方に当り八方に囲で余さじと闘。寄手片時が間に五百余人被討て西坂を差て引返す。さてこそ京勢は又勢に乗り山門方は力を落して、牛角の戦に成にけり。角て暫は合戦も無りけるに、二条の大納言師基卿、北国より、敷地・上木・山岸・瓜生・河島・深町以下の者三千余騎を率して、七月五日東坂本へ著給ふ。山門是に又力を得て同十八日京都へぞ被寄ける。前には京中を経て、遥々と東寺まで寄ればこそ、小路ぎりに前後左右の敵を防かねて其囲をば破かねつれ、此度は、一勢は二条を西へ内野へ懸出て、大宮を下りに押寄せ、一勢は河原を下りに押寄せ、東西より京を中に挿て、焼攻にすべしとぞ被議ける。此謀いかなる野心の者か京都へ告たりけん、将軍是を聞すましてげれば、六十万騎の勢を三手に分、二十万騎をば東山と七条河原に被置たり。是は河原より寄んずる敵を、東西より却て中に取篭ん為なり。二十万騎をば船岳山の麓、神祇官の南に被隠置たり。是は内野より寄んずる敵を、南北より引裹まん為也。残る二十万騎をば西八条東寺の辺に磬へさせて、軍門の前に被置たり。是は諸方の陣族の被懸散ば、悪手に替らん為也。去程に明れば十八日卯刻に、山門の勢、北白河・八瀬・薮里・下松・修学院の前に押寄て東西二陣の手を分つ。新田の一族五万余騎は、糾杜を南に見て、紫野を内野へ懸通る。二条師基卿・千葉介・宇都宮・仁科・高梨、真如堂を西へ打過て、河原を下りに押寄る。其手の足軽共走散り、京中の在家数百箇所に火を懸たりければ、猛火天に満ち翻て、黒烟四方に吹覆ふ。五条河原より軍始て、射る矢は雨〔の〕如く、剣戟電の如し。軈て内野にも合戦始て、右近の馬場の東西、神祇官の南北に、汗馬の馳違音、時声に相交て、只百千の雷の大地に振ふが如く也。暫有て五条川原の寄手、一戦に討負て引たりける程に、内野の大勢弥重て、新田左中将兄弟の勢を、十重・二十重に取巻て、をめき叫で攻戦ふ。され共義貞の兵共、元来機変磬控百鍛千錬して、己が物と得たる所なれば、一挙に百重の囲を解て、左副右衛一人も討れず、返合々々戦て、又山へ引帰す。夫武の七書に言、云、「将謀泄則軍無利、外窺内則禍不制。」とて、此度の洛中の合戦に官軍即討負ぬる事、たゞ敵内通の者共の御方に有ける故也とて、互に心を置あへり。
○山門牒送南都事 S1703
官軍両度の軍に討負て、気疲れ勢ひ薄く成てげれば、山上・坂本に何なる野心の者か出来て、不慮の儀あらんずらんと、主上玉■を安くし給はず、叡襟を傾けさせ給ければ、先衆徒の心を勇しめん為に、七社の霊神九院の仏閣へ、各大庄二三箇所づゝを寄附せらる。其外一所住とて、衆徒八百余人早尾に群集して、軍勢の兵粮已下の事取沙汰しける衆の中へ、江州の闕所分三百余箇所を被行て、当国の国衙を山門永代管領すべき由、永宣旨を成て被補任。若今官軍勝事を得ば、山門の繁昌、此時に有ぬと見へけれ共、三千の衆徒悉此抽賞に誇らば、誰か稽古の窓に向て三諦止観の月を弄び、鑽仰の嶺に攀て一色一香の花を折らん。富貴の季には却て法滅の基たるべければ、神慮も如何有らんと智ある人は是を不悦。同十七日三千の衆徒、大講堂の大庭に三塔会合して僉議しけるは、「夫吾山者当王城之鬼門、為神徳之霊地。是以保百王之宝祚、依一山之懇誠。鎮四夷之擾乱、唯任七社之擁護。爰有源家余裔尊氏・直義者。将傾王化亡仏法。訪大逆於異国、禄山比不堪。尋積悪於本朝、守屋却可浅。抑普天之下無不王土。縦使雖為釈門之徒、此時蓋尽致命之忠義。故北嶺天子本命之伽藍也。何運朝廷輔危之計略。南都博之氏寺也。須救藤氏類家之淹屈。然早牒送東大・興福両寺、可被結義戦戮力之一諾。」、三千一同に僉議して、則南都へ牒状を送りける。其詞に云、延暦寺牒興福寺衙請早廻両寺一味籌策、御追罰朝敵源尊氏・直義以下逆徒、弥致仏法・王法昌栄状。牒、仏法伝吾邦兮七百余歳、祝皇統益蒼生者、法相円頓之秘■最勝。神明垂権跡兮七千余座、鎮宝祚耀威光者、四所三聖之霊験異他。是以先者淡海公建興福寺、以瑩八識五重之明鏡、後者桓武帝開比叡山、以挑四教三観之法灯。爾以降南都北嶺共掌護国護王之精祈。天台法相互究権教実教之奥旨。寔是以仏法守王法濫觴、以王法弘仏法根源也。因茲当山有愁之時、通白疏而談懇情。朝家有故之日、同丹心而祈安静。五六年以来天下大乱民間不静。就中尊氏・直義等、起自辺鄙之酋長、飽浴超涯之皇沢。未知君臣之道、忽有犲狼之心。樹党而誘引戎虜、矯詔而賊害藩籬。倩思王業再興之聖運、更非尊氏一人之武功、企叛逆無其辞。以義貞称其敵、貪天功而為己力、咎犯之所恥也。仮朝錯挙逆謀、劉■之所亡也。為臣犯君忘恩背義、開闢以来未聞其迹。遂乃去春之初、猛火甚於燎原、九重之城闕成灰燼。暴風扇于区宇、無辜之民黎堕塗炭。論其濫悪誰不歎息。且為避当時之災■、且為仰和光之神助、廻仙蹕於七社之瑞籬、任安全於四明之懇府。衆徒之心、此時豈敢乎。爰三千一揆、忘身命扶義兵。老少同心、代冥威伏異賊。王道未衰、神感潜通之故也。逆党巻旗而奔西、凶徒倒戈而敗北。喩猶紅炉之消雪、相似団石之圧卵。昔晉之祈八公也。早覆符堅之兵、唐之感四王也。乍却吐蕃之陣。蓋乃斯謂歟。遂使儼鸞輿之威儀促鳳城之還幸。天掃■搶、上下同見慶雲之色。海剪鯨鯢、遠近尽歇逆浪之声。然是学侶群侶之精誠也。豈非医王山王之加護哉。而今賊党再窺覦帝城、官軍暫彷徨征途。仍慣先度之朝儀、重及当社之臨幸。山上山下興廃只在此時。仏法王法盛衰豈非今日乎。天台之教法、七社之霊験、偏共安危於朝廷。法相之護持、四所之冥応、盍加贔屓於国家。貴寺若存報国之忠貞者、衆徒須運輔君之計略矣。満山之愁訴、猶通音問而成合体。一朝之治乱、何随群議、而無与力。仍勒事由、牒送如件。敢勿猶予。故牒。延元々年六月日延暦寺三千衆徒等とぞ被書たる。状披閲の後、南都大衆則山門に同心して返牒を送る。其状云、
興福寺衆徒牒延暦寺衙来牒一紙牒、夫観行五品之居勝位也。学円頓於河淮之流。等覚無垢之円上果也。敷了義於印度之境。是以隋高祖之崇玄文、玉泉水清。唐文皇奮神藻、瑶花風芳。遂使一夏敷揚之奥■遥伝于叡山。三国相承之真宗、独留于吾寺以降、及于千祀、軌垂百王。寔是弘仏法之宏規、護皇基之洪緒者也。彼尊氏・直義等、遠蛮之亡虜、東夷之降卒也。雖非鷹犬之才、屡忝爪牙之任。乍忘朝奨還挿野心。討揚氏兮為辞、在藩渓兮作逆。劫略州県、掠虜吏民。帝都悉焼残、仏閣多魔滅。軼赤眉之入咸陽、超黄巾寇河北。濫吹之甚、自古未聞。天誅之所覃、冥譴何得遁。因茲去春之初、鋤■棘矜一摧関中焉、匹馬倚輪纔遁海西矣。今聚其敗軍擁彼余衆、不恐雷霆之威、重待斧鉞之罪。六軍徘徊、群兇益振。是則孟津再駕之役、独夫所亡也。城濮三舎之謀、侍臣攸敗也。夫違天者有大咎。失道者其助寡。積暴之勢豈又能久乎。方今廻皇輿於花洛之外、張軍幕於猶渓之辺。三千群侶、定合懇祈之掌、七社霊神、鎮廻擁護之眸者歟。彼代宗之屯長安也。観師於香積寺之中。勾践之在会稽也。陣兵天台山之北。事叶先蹤、寧非佳摸乎。爰当寺衆徒等、自翠花北幸、抽丹棘中庭。専祈宝祚之長久、只期妖■之滅亡。精誠無弐、冥助豈空乎。就中寺辺之若輩、国中之勇士、頻有加官軍之志、屡廻退凶徒之策。然而南北境阻、風馬之蹄不及、山川地殊、雲鳥之勢難接矣。矧亦賊徒構謀、寇迫松■之下。人心未和、禍在蕭牆之中。前対燕然之虜、後有宛城之軍、攻守之間進退失度。但綸命屡降、牒送難黙止。速率鋭師、早征凶党、今以状牒。々到准状。故牒。延元々年六月日興福寺衆徒等とぞ書たりける。南都已に山門に与力しぬと聞へければ、畿内・近国に軍の勝負を計かねて何方へか著べきと案じ煩ひける兵共、皆山門に志を通じ、力を合せんとす。雖然堺敵陣を隔てければ、坂本へ馳参事不可叶、「大将を給て陣を取て京都を攻落し候べし。」とぞ申ける。「さらば。」とて、八幡へは四条中納言隆資卿を被差遣。真木・葛葉・禁野・片野・宇殿・賀島・神崎・天王寺・賀茂・三日の原の者共馳集て、三千余騎大渡の橋より西に陣を取て、川尻の道を差塞。宇治へは、中院中将定平を被遣。宇治・田原・醍醐・小栗栖・木津・梨間・市野辺山・城脇の者共馳集て、二千余騎、宇治橋二三間引落て、橘の小島が崎に陣をとる。北丹波道へは、大覚寺の宮を大将とし奉て、額田左馬助を被遣。其勢三百余騎、白昼に京中を打通て、長坂に打上る。嵯峨・仁和寺・高雄・栂尾・志宇知・山内・芋毛・村雲の者共馳集て、千余騎京中を足の下に直下して、京見峠・嵐山・高雄・栂尾に陣をとる。此外鞍馬道をば西塔より塞で、勢多をば愛智・信楽より指塞ぐ。今は四方七つの道、纔に唐櫃越許あきたれば、国々の運送道絶て洛中の士卒兵粮に疲れたり。暫は馬を売、物具を沽、口中の食を継けるが、後には京白川の在家・寺々へ打入て、衣裳を剥取、食物を奪ひくう。卿相雲客も兵火の為に焼出されて、此の辻堂、彼の拝殿に身を側め、僧俗男女は道路に食を乞て、築地の陰、唐居敷の上に飢臥す。開闢以来兵革の起る事多しといへ共、是程の無道は未記処也。京勢は疲れて、山門又つよる由聞へければ、国々の勢百騎・二百騎、東坂本へと馳参る事引もきらず。中にも阿波・淡路より、阿間・志知・小笠原の人々、三千余騎にて参りければ、諸卿皆憑しき事に被思けるにや、今はいつをか可期、四方より牒し合せて、四国の勢を阿弥陀が峯へ差向て、夜々篝をぞ焼せられける。其光二三里が間に連て、一天の星斗落て欄干たるに不異。或夜東寺の軍勢ども、楼門に上て是をみけるが、「あらをびたゝしの阿弥陀が峯の篝や。」と申ければ、高駿河守とりも敢ず、多く共四十八にはよも過じ阿弥陀峯に灯す篝火と一首の狂歌に取成して戯ければ、満座皆ゑつぼに入てぞ笑ける。今一度京都に寄せて、先途の合戦あるべしと、諸方の相図定りにければ、士卒の志を勇めんが為に、忝も十善の天子、紅の御袴をぬがせ給ひ、三寸づゝ切て、所望の兵共にぞ被下ける。七月十三日、大将新田左中将義貞、度々の軍に、打残されたる一族四十三人引具して先皇居へ参ぜらる。主上龍顔麗しく群下を照臨有て、「今日の合戦何よりも忠を尽すべし。」と被仰下ければ、義貞士卒の意に代て、「合戦の雌雄は時の運による事にて候へば、兼て勝負を定めがたく候。但今日の軍に於ては、尊氏が篭て候東寺の中へ、箭一つ射入候はでは、罷帰るまじきにて候なり。」と申て、御前をぞ被退出ける。諸軍勢、大将の前後に馬を早めて、白鳥の前を打過ける時、見物しける女童部、名和伯耆守長年が引さがりて打けるを見て、「此比天下に結城・伯耆・楠木・千種頭中将、三木一草といはれて、飽まで朝恩に誇たる人々なりしが、三人は討死して、伯耆守一人残たる事よ。」と申けるを、長年遥に聞て、さては長年が今まで討死せぬ事を、人皆云甲斐なしと云沙汰すればこそ、女童部までもか様には云らめ。今日の合戦に御方若討負ば、一人なり共引留て、討死せん者をと独言して、是を最後の合戦と思定てぞ向ける。
○隆資卿自八幡被寄事 S1704
京都の合戦は、十三日の巳刻と、兼て諸方へ触送たりければ、東坂本より寄る勢、関山・今路の辺に引へて、時剋を待ける処に、敵や謀て火を懸たりけん、北白川に焼失出来て、烟蒼天に充満したり。八幡より寄んずる宮方の勢共是を見て、「すはや山門より寄て、京中に火を懸たるは。今日の軍に為をくれば、何の面目か有べき。」とて、相図の剋限をも不相待、其勢纔に三千余騎にて、鳥羽の作道より東寺の南大門の前へぞ寄たりける。東寺の勢、山門より寄る敵を防んとて、河合・北白河の辺へ皆向たりければ、卿相雲客、或は将軍近習の老者・児なんど許集り居て、此敵を可防兵は更になかりけり。寄手の足軽共、鳥羽田の面の畔をつたひ、四塚・羅精門のくろの上に立渡り、散々に射ける間、作道まで打出たりける、高武蔵守師直が五百余騎、被射立て引退く。敵弥勝に乗て、持楯ひしき楯を突寄々々、かづき入て攻ける程に、坤の角なる出屏の上の高櫓一つ、念なく被攻破て焼けり。城中是に躁れて、声々にひしめき合けれ共、将軍は些共不驚給、鎮守の御宝前に看経しておはしける。其前に問注所の信濃入道々大と土岐伯耆入道存孝と二人倶して候けるが、存孝傍を屹と見て、「あはれ愚息にて候悪源太を上の手へ向候はで、是に留て候はゞ、此敵をば輒く追払はせ候はんずる者を。」と申ける処に、悪源太つと参りたり。存孝うれしげに打見て、「いかに上の手の軍は未始まらぬか。」「いやそれは未存知仕候はず。三条河原まで罷向て候つるが、東寺の坤に当て、烟の見へ候間、取て返して馳参じて候。御方の御合戦は何と候やらん。」と申ければ、武蔵守、「只今作道の軍に打負て引退くといへ共、是御陣の兵多からねば、入替事叶はず、已に坤の角の出屏を被打破て、櫓を被焼落上は、将軍の御大事此時也。一騎なりとも御辺打出て此敵を払へかし。」畏て、「承り候。」とて、悪源太御前を立けるを、将軍、「暫。」とて、いつも帯副にし給ける御所作り兵庫鎖の御太刀を、引出物にぞせられける。悪源太此太刀を給て、などか心の勇まざらん。洗皮の鎧に、白星の甲の緒を縮て、只今給りたる金作りの太刀の上に、三尺八寸の黒塗の太刀帯副、三十六差たる山鳥の引尾の征矢、森の如にときみだし、三人張の弓にせき絃かけて噛しめし、態臑当をばせざりけり。時々は馬より飛下りて、深田を歩まんが為也けり。北の小門より打出て、羅精門の西へ打廻り、馬をば畔の陰に乗放て、三町余が外に村立たる敵を、さしつめ引つめ散々にぞ射たりける。一矢に二人三人をば射落せども、あだ矢は一も無りければ、南大門の前に攻寄たる寄手の兵千余人、一度にはつと引退く。悪源太是に利を得て、かけ足逸物馬に打乗、さしも深き鳥羽田中を真平地に懸立て、敵六騎切て落し、十一騎に手負せて、仰たる太刀を押直し、東寺の方を屹と見て、気色ばうたる有様は、いかなる和泉小次郎・朝夷那三郎も是には過じとぞみへたりける。悪源太一人に被懸立て、数万の寄手皆しどろに成ぬと見へければ、高武蔵守師直千余騎にて、又作道を下りに追かくる。越後守師泰は、七百余騎にて竹田を下りに要合せんとす。已に引立たる大勢なれば、なじかは足を留むべき。討るゝをも顧ず、手負をも不助、我先にと逃散て、元の八幡へ引返す。
○義貞軍事付長年討死事 S1705
一方の寄手の破れたるをも不知、相図の剋限よく成ぬとて、追手の大将新田義貞・脇屋義助、二万余騎を率して、今路・西坂本より下て、三手に分れて押寄る。一手は義貞・義助・江田・大館・千葉・宇都宮、其勢一万余騎、大中黒・月に星・左巴、丹・児玉のうちわの旗、三十余流連りて、糾すを西へ打通り、大宮を下りに被押寄。一手には伯耆守長年・仁科・高梨・土居・得能・春日部、以下の国々の勢集て五千余騎、大将義貞の旗を守て鶴翼魚鱗の陣をなし、猪隈を下りに押寄る。一手は二条大納言・洞院左衛門督を両大将にて五千余騎、牡丹の旗・扇の旗、只二流差揚て、敵に跡を切られじと、四条を東へ引亘して、さきへは態進まれず。兼てより阿弥陀が峯に陣を取たりし阿波・淡路の勢千余騎は、未京中へは入ず、泉涌寺の前今熊野辺までをり下て、相図の煙を上たれば、長坂に陣を取たる額田が勢八百余騎、嵯峨・仁和寺の辺に打散、所々に火を懸たり。京方は大勢なれども、人疲れ馬疲れ、而も今朝の軍に矢種は皆射尽したり。寄るは小勢なれ共、さしも名将の義貞、先日度々の軍に打負て、此度会稽の恥を雪んと、牙を咀名を恥づと聞ぬれば、御治世両統の聖運も、新田・足利多年の憤も、只今日の軍に定りぬと、気をつめぬ人は無りけり。去程に六条大宮より軍始て、将軍の二十万騎と義貞の二万騎と入乱て戦たり。射違る矢は、夕立の軒端を過る音よりも猶滋く、打合ふ太刀の鍔音は、空に応る山彦の、鳴り止む隙も無りけり。京勢は小路々々を立塞で、敵を東西より取篭、進まば先を遮り、左右へ分れば中をわらんと、変化機に応じて戦ければ、義貞の兵少も散らで、中をも不破、退て、跡よりも揉で、向ふ敵に懸立々々、大宮を下りにましくらに懸りける程に、仁木・細川・今川・荒川・土岐・佐々木・逸見・武田・小早河、此を被打散、彼に被追立、所々に磬へたれば、義貞の兵二万余騎、東寺の小門前に推寄て、一度に時をどつと作る。義貞坂本を打出し時、先皇居に参て、「天下の落居は聖運に任せ候へば、心とする処に候はず。何様今度の軍に於ては、尊氏が篭て候東寺の中へ矢一射入候はでは、帰参るまじきにて候。」と申て出たりし其言に不違、敵を一と的場の内に攻寄せたれば、今はかうと大に悦で、旗の陰に馬を打すへ城を睨み、弓杖にすがつて、高らかに宣ひけるは、「天下の乱休事無して、無罪人民身を安くせざる事年久し。是国主両統御争とは申ながら、只義貞と尊氏卿との所にあり。纔に一身の大功を立ん為に多くの人を苦しめんより、独身にして戦を決せんと思故に、義貞自此軍門に罷向て候也。それかあらぬか、矢一受て知給へ。」とて、二人張に十三束二臥、飽まで堅めて引しぼり、弦音高く切て放つ。其矢二重に掻たる高櫓の上を越て、将軍の座し給る帷幕の中を、本堂の艮の柱に一ゆり/\て、くつまき過てぞ立たりける。将軍是を見給、「我此軍を起して鎌倉を立しより、全君を傾け奉んと思ふに非。只義貞に逢ひて、憤を散ぜん為也。き。然れば彼と我と、独身にして戦を決せん事元来悦ぶ所也。其門開け、討て出ん。」と宣ひけるを、上杉伊豆守、「是はいかなる御事にて候ぞ。楚の項羽が漢の高祖に向ひ、独身にして戦んと申しをば、高祖あざ笑て汝を討に刑徒を以てすべしと欺き候はずや。義貞そゞろに深入して、引方のなさに能敵にや遭と、ふてゝ仕候を、軽々しく御出ある事や候べき。思も寄ぬ御事に候。」とて、鎧の御袖に取付ければ、将軍無力義者の諌に順ふて、忿を押へて坐し給ふ。懸る処に、土岐弾正少弼頼遠、三百余騎にて、上賀茂に引へて有けるが、五条大宮に引へたる旗を見てければ、大将は皆公家の人々よと見てければ、後ろより時を吐と作て、喚き叫でぞ懸たりける。「すはや後ろより取回しけるは。川原へ引て、広みにて戦へ」と云程こそ有けれ、一戦も不戦、五条川原へはつと追出されて、些も足を不蹈留、西坂本を差して逃たりける。土岐頼遠、五条大宮の合戦に打勝て、勝時を揚ければ、此彼より勢共数千騎馳集て、大宮を下りに、義貞の後へ攻よする。神祇官に磬へたる仁木・細川・吉良・石堂が勢二万余騎は、朱雀を直違に西八条へ推寄る。東よりは小弐・大友・厚東・大内、四国・中国の兵共三万余騎、七条河原を下りに、針・唐橋へ引回して、敵を一人も不討洩引裹。三方は如此百重千重に取巻て、天を翔り地に潜て出るより外は、漏ても可逃方なし。前には城郭堅く守て、数万の兵鏃をそろへて散々に射る。義貞今日を限の運命也と思定給ければ、二万余騎を只一手に成て、八条・九条に引へたる敵十万余騎四角八方へ懸散し、三条河原へ颯と引て出たるを、千葉・宇都宮も、はや所々に引分れ、名和伯耆守長年も、被懸阻ぬとみへたり。仁科・高梨・春日部・丹・児玉三千余騎一手に成て、一条を東へ引けるが、三百余騎被討て鷺の森へ懸抜たり。長年は二百余騎にて大宮にて返し合せ、我と後の関をさして一人も不残死してけり。其後処々の軍に勝ほこりたる敵三十万騎、纔に討残されたる義貞の勢を真中に又取篭る。義貞も思切たる体にて、一引も引んとはし給はず、馬を皆西頭に立て、討死せんとし給ける処に、主上の恩賜の御衣を切て、笠符に付たる兵共所々より馳集り、二千余騎、戦ひ疲たる大敵を懸立々々揉だりけるに、雲霞の如くなる敵共、馬の足を立兼て、京中へはつと引ければ、義貞・義助・江田・大館、万死を出て一生に逢ひ、又坂本へ被引返。
○江州軍事 S1706
京都を中に篭て四方より寄せば、今度はさりともと憑しく覚へしに、諸方の相図相違して、寄手又打負しかば、四条中納言も、八幡を落て坂本へ被参ぬ。阿弥陀が峯に陣を取し阿波・淡路の兵共も、細川卿律師に打負て、坂本へ帰ぬ。長坂を堅めたりし額田も落て、山上へ帰参しければ、京勢は篭の中を出たる鳥の如く悦、宮方は穴に篭りたる獣の如く縮れり。南都の大衆も山門に可与力由返牒を送しかば、定て力を合せんずらんと待れしかども、将軍より数箇所の庄園を寄附して、被語ける程に、目の前の慾に身の後の恥を忘ければ、山門与力の合戦を翻して、武家合体の約諾をぞなしける。今は君の御憑有ける方とては、備後の桜山、備中の那須五郎、備前の児島・今木・大富が兵船を汰て近日上洛の由申けると、伊勢の愛州が、当国の敵を退治して、江州へ発向すべしと注進したりし許也。山門の衆徒財産を尽して、士卒の兵粮を出すといへ共、公家・武家の従類、上下二十万人に余りたる人数を、六月の始より、九月の中旬まで養ければ、家財悉尽て、共に首陽に莅んとす。剰北国の道をば、足利尾張守高経差塞で人を不通。近江の国も、小笠原信濃守、野路・篠原に陣を取て、湖上往返の舟を留めける間、只官軍朝暮の飢を嗜むのみに非ず、三千の聖供の運送の道塞て、谷々の講演も絶はてゝ、社々の祭礼も無りけり。山門角ては叶まじとて、先江州の敵を退治して、美濃・尾張の通路を開くべしとて、九月十七日に、三塔の衆徒五千余人、志那の浜より襄て、野路・篠原へ押寄る。小笠原、山門の大勢を見て、さしもなき平城に篭て、取巻れなば叶まじとて、逆よせに平野に懸合せて戦ける程に、道場坊注記祐覚、一軍に打負て、立足もなく引ければ、成願坊律師入替て、一人も不残討にけり。山門弥憤を深して、同二十三日、三塔の衆徒の中より五百房の悪僧を勝て、二万余人兵船を連て推渡る。小笠原が勢共、重て寄る山門の大勢に聞懼して大半落失ければ、勢纔三百騎にも不足けり。是を聞て例の大早の極めなき大衆共なれば、後陣の勢をも待調へず我前にとぞ進みける。此大勢を敵に受て落留る程の者共なれば、なじかは些も気を可屈す。小笠原が三百余騎、山徒の向ひ陣を取たりける四十九院の宿へ、未卯刻に推寄て、懸立々々戦けるに、宗との山徒理教坊の阿闍梨を始として、三千余人まで討れにければ、湖上の舟に棹て堅田を差して漕もどる。懸る処に佐々木佐渡判官入道導誉、京より潜に若狭路を廻て、東坂本へ降参して申けるは、「江州は代々当家守護の国にて候を、小笠原上洛の路に滞て、不慮に両度の合戦を致し、其功を以て軈て管領仕候事、導誉面目を失ふ所にて候。若当国の守護職を被恩補候はゞ、則彼国へ罷向ひ、小笠原を追落し、国中を打平げて、官軍に力を著ん事、時日を移すまじきにて候。」とぞ申ける。主上も義貞も、出抜て申とは不知給、「事誠に可然。」とて、導誉が申請る旨に任せて、当国の守護職並に便宜の闕所数十箇所、導誉が恩賞に被行て江州へぞ被遣ける。元来斟て申つる事なれば、導誉江州へ推渡て後、当国をば将軍より給りたる由を申す間、小笠原軈て国を捨て上洛しぬ。導誉忽に国を管領して、弥坂本を遠攻に攻ければ、山徒の遠類・親類、宮方の被管・所縁の者までも、近江国中には迹を可止様ぞ無りける。「さては導誉出抜けり、時刻を不移退治せよ。」と、脇屋右衛門佐を大将にて、二千余騎を江州へ被差向。此勢志那の渡をして、舟より下ける処へ、三千余騎にて推寄せ、上も立ず戦ひける程に、或は遠浅に舟を乗すへ、襄り場に馬を下し兼て、被射落被切臥兵数を不知。此日の軍にも官軍又打負て、纔坂本へ漕返る。此後よりは山上・坂本に弥兵粮尽て、始め百騎二百騎有し者、五騎十騎になり、五騎十騎有し人は、馬にも不乗成にけり。
○自山門還幸事 S1707
斯る処に、将軍より内々使者を主上へ進じて被申けるは、「去々年の冬、近臣の讒に依て勅勘を蒙り候し時、身を法体に替て死を無罪賜らんと存候し処に、義貞・義助等、事を逆鱗に寄て日来の鬱憤を散ぜんと仕候し間、止事を不得して此乱天下に及候。是全く君に向ひ奉て反逆を企てしに候はず。只義貞が一類を亡して、向後の讒臣をこらさんと存ずる許也。若天鑒誠を照されば、臣が讒にをち罪を哀み思召て、竜駕を九重の月に被廻鳳暦を万歳の春に被複候へ。供奉の諸卿、並降参の輩に至で、罪科の軽重を不云、悉本官本領に複し、天下の成敗を公家に任せ進せ候べし。」と、「且は条々御不審を散ぜん為に、一紙別に進覧候也。」とて、大師勧請の起請文を副て、浄土寺の忠円僧正の方へぞ被進ける。主上是を叡覧有て、「告文を進する上、偽てはよも申されじ。」と被思召ければ、傍の元老・智臣にも不被仰合、軈て還幸成べき由を被仰出けり。将軍勅答の趣を聞て、「さては叡智不浅と申せ共、欺くに安かりけり。」と悦て、さも有ぬべき大名の許へ、縁に触れ趣きを伺て、潜に状を通じてぞ被語ける。去程に還幸の儀事潜に定ければ、降参の志ある者共、兼てより今路・西坂本の辺まで抜々に行設けて、還幸の時分をぞ相待ける。中にも江田兵部少輔行義・大館左馬助氏明は、新田の一族にて何も一方の大将たりしかば、安否を当家の存亡にこそ被任べかりしが、いかなる深き所存か有けん、二人共降参せんとて、九日暁より先山上に登てぞ居たりける。義貞朝臣斯る事とは不知給、参仕の軍勢に対面して事なき様にておはしける処へ、洞院左衛門督実世卿の方より、「只今主上京都へ還幸可成とて、供奉の人を召候。御存知候やらん。」と被告たりければ、義貞、「さる事や可有。御使の聞誤にてぞ有覧。」とて、最騒がれたる気色も無りけるを、堀口美濃守貞満聞も敢ず、「江田・大館が、何の用ともなきに、此暁中堂へ参るとて、登山仕つるが怪く覚候。貞満先内裏へ参て、事の様を見奉り候はん。」とて、郎等に被著たる鎧取て肩に投懸け、馬の上にて上帯を縮、諸鐙合せて参ぜらる。皇居近く成ければ、馬より下、甲を脱で中間に持せ、四方を屹と見渡すに、臨幸只今の程とみへて、供奉の月卿雲客、衣冠を帯せるもあり、未鳳輦を大床に差寄て、新典侍、内侍所の櫃を取出し奉れば、頭弁範国、剣璽の役に随て、御簾の前に跪く。貞満左右に少し揖して御前に参、鳳輦の轅に取付、涙を流して被申けるは、「還幸の事、児如の説幽に耳に触候つれ共、義貞存知仕らぬ由を申候つる間、伝説の誤かと存て候へば、事の儀式早誠にて候ける。抑義貞が不義何事にて候へば、多年の粉骨忠功を被思召捨て、大逆無道の尊氏に叡慮を被移候けるぞや。去元弘の始、義貞不肖の身也といへ共、忝も綸旨を蒙て関東の大敵を数日の内に亡し、海西の宸襟を三年の間に休め進せ候し事、恐は上古の忠臣にも類少く、近日義卒も皆功を譲る処にて候き。其尊氏が反逆顕しより以来、大軍を靡して其師を虜にし、万死を出て一生に逢こと勝計るに不遑。されば義を重じて命を墜す一族百三十二人、節に臨で尸を曝す郎従八千余人也。然共今洛中数箇度の戦に、朝敵勢盛にして官軍頻に利を失候事、全戦の咎に非ず、只帝徳の欠る処に候歟。仍御方に参る勢の少き故にて候はずや。詮ずる処当家累年の忠義を被捨て、京都へ臨幸可成にて候はゞ、只義貞を始として当家の氏族五十余人を御前へ被召出、首を刎て伍子胥が罪に比、胸を割て比干が刑に被処候べし。」と、忿る面に泪を流し、理を砕て申ければ、君も御誤を悔させ給へる御気色になり、供奉の人々も皆理に服し義を感じて、首を低てぞ坐られける。
○立儲君被著于義貞事付鬼切被進日吉事 S1708
暫有て、義貞朝臣父子兄弟三人、兵三千余騎を召具して被参内たり。其気色皆忿れる心有といへ共、而も礼儀みだりならず、階下の庭上に袖を連ねて並居たり。主上例よりも殊に玉顔を和げさせ給て、義貞・義助を御前近く召れ、御涙を浮べて被仰けるは、「貞満が朕を恨申つる処、一儀其謂あるに似たりといへ共、猶遠慮の不足に当れり。尊氏超涯の皇沢に誇て、朝家を傾んとせし刻、義貞も其一家なれば、定て逆党にぞ与せんと覚しに、氏族を離れて志を義にをき、傾廃を助て命を天に懸しかば、叡感更に不浅。只汝が一類を四海の鎮衛として、天下を治めん事をこそ思召つるに、天運時未到して兵疲れ勢ひ廃れぬれば、尊氏に一旦和睦の儀を謀て、且くの時を待ん為に、還幸の由をば被仰出也。此事兼も内々知せ度は有つれ共、事遠聞に達せば却て難儀なる事も有ぬべければ、期に臨でこそ被仰めと打置つるを、貞満が恨申に付て朕が謬を知れり。越前国へは、川島の維頼先立て下されつれば、国の事定て子細あらじと覚る上、気比の社の神官等敦賀の津に城を拵へて、御方を仕由聞ゆれば、先彼へ下て且く兵の機を助け、北国を打随へ、重て大軍を起して天下の藩屏となるべし。但朕京都へ出なば、義貞却て朝敵の名を得つと覚る間、春宮に天子の位を譲て、同北国へ下し奉べし。天下の事小大となく、義貞が成敗として、朕に不替此君を取立進すべし。朕已に汝が為に勾践の恥を忘る。汝早く朕が為に范蠡が謀を廻らせ。」と、御涙を押へて被仰ければ、さしも忿れる貞満も、理を知らぬ夷共も、首を低れ涙を流して、皆鎧の袖をぞぬらしける。九日は事騒き受禅の儀、還幸の装に日暮ぬ。夜更る程に成て、新田左中将潜に日吉の大宮権現に参社し玉ひて、閑に啓白し給けるを、「臣苟も和光の御願を憑で日を送り、逆縁を結事日已に久し。願は征路万里の末迄も擁護の御眸を廻らされて、再大軍を起し朝敵を亡す力を加へ給へ。我縦不幸にして命の中に此望を不達と云共、祈念冥慮に不違ば、子孫の中に必大軍を起者有て、父祖の尸を清めん事を請ふ。此二の内一も達する事を得ば、末葉永く当社の檀度と成て霊神の威光を耀し奉るべし。」と、信心を凝して祈誓し、当家累代重宝に鬼切と云太刀を社壇にぞ被篭ける。
○義貞北国落事 S1709
明れば十月十日の巳刻に、主上は腰輿にめされて今路を西へ還幸なれば、春宮は竜蹄にめされ、戸津を北へ行啓なる。還幸の供奉にて京都へ出ける人々には、吉田内大臣定房・万里小路大納言宣房・御子左中納言為定・侍従中納言公明・坊門宰相清忠・勧修寺中納言経顕・民部卿光経・左中将藤長・頭弁範国、武家の人々には、大館左馬頭氏明・江田兵部少輔行義・宇都宮治部大輔公縄・菊池肥後守武俊・仁科信濃守重貞・春日部左近蔵人家縄・南部甲斐守為重・伊達蔵人家貞・江戸民部丞景氏・本間孫四郎資氏・山徒の道場坊助注記祐覚、都合其勢七百余騎、腰輿の前後に相順ふ。行啓の御供にて、北国へ落ける人々には、一宮中務卿親王・洞院左衛門督実世・同少将定世・三条侍従泰季・御子左少将為次・頭大夫行房・子息少将行尹、武士には新田左中将義貞・子息越後守義顕・脇屋右衛門佐義助・子息式部大夫義治・堀口美濃守貞満・一井兵部大輔義時・額田左馬助為縄・里見大膳亮義益・大江田式部大夫義政・鳥山修理亮義俊・桃井駿河守義繁・山名兵庫助忠家・千葉介貞胤・宇都宮信濃将監泰藤・同狩野将監泰氏・河野備後守通治・同備中守通縄・土岐出羽守頼直・一条駿河守為治、其外山徒少々相雑て、都合其勢七千余騎、案内者を前に打せて、竜駕の前後に打囲む。此外妙法院の宮は御舟に被召て、遠江国へ落させ給ふ。阿曾宮は山臥の姿に成て吉野の奥へ忍ばせ給ふ。四条中納言隆資卿は紀伊国へ下り、中院少将定平は河内国へ隠れ給ふ。其有様、偏に只歌舒翰安禄山に打負て、玄宗蜀の国へ落させ給し時、公子・内宮、悉、或は玉趾を跣にして剣閣の雲に蹈迷ひ、或は衣冠を汚して野径の草に逃蔵れし昔の悲に相似たり。昨日一昨日までも、聖運遂に開けば、錦を著て古郷へ帰り、知ぬ里、みぬ浦山の旅宿をも語り出さば、中々にうかりし節も悲きも、忘形見と成ぬべし、心々の有様に身を慰めて有つるに、君臣父子万里に隔り、兄弟夫婦十方に別行けば、或は再会の期なき事を悲み、或は一身の置処なき事を思へり。今も逆旅の中にして、重て行、々も敵の陣帰るも敵の陣なれば、誰か先に討れて哀と聞んずらん、誰か後に死て、なき数を添んずらんと、詞に出ては云はね共、心に思はぬ人はなし。「南翔北嚮、難附寒温於春鴈。東出西流、只寄贍望於暁月。」江相公の書たりし、別れに送る筆の迹、今の涙と成にけり。
○還幸供奉人々被禁殺事 S1710

還幸已に法勝寺辺まで近付ければ、左馬頭直義五百余騎にて参向し、先三種の神器を当今の御方へ可被渡由を被申ければ、主上兼より御用意有ける似せ物を取替て、内侍の方へぞ被渡ける。其後主上をば花山院へ入進せて、四門を閉て警固を居へ、降参の武士をば大名共の方へ一人づゝ預て、召人の体にてぞ被置ける。可斯とだに知たらば、義貞朝臣と諸共に北国へ落て、兎も角も成べかりける者をと、後悔すれ共甲斐ぞなき。十余日を経て後、菊池肥後守は、警固の宥くありける隙を得て本国へ逃下りぬ。又宇都宮は、放召人の如にて、逃ぬべき隙も多かりけれ共、出家の体に成て徒に向居たりけるを、悪しと思ふ者や為たりけん、門の扉に山雀を絵書、其下に一首の歌をぞ書たりける。山がらがさのみもどりをうつのみや都に入て出もやらぬは本間孫四郎は、元より将軍家来の者なりしが、去る正月十六日の合戦より新田左中将に属して、兵庫の合戦の時は、遠矢を射て弓勢の程をあらはし、雲母坂の軍の時は、扇を射て手垂の程を見せたりし、度々の振舞悪ければとて、六条川原へ引出して首を被刎けり。山徒の道場坊助注記祐覚は、元は法勝寺の律僧にて有しが、先帝船上に御座ありし時、大衣を脱で山徒の貌に替へ、弓箭に携て一時の栄華を開けり。山門両度の臨幸に軍用を支し事、偏に祐覚が為処也しかば、山徒の中の張本也とて、十二月二十九日、阿弥陀が峯にて切られけるが、一首の歌を法勝寺の上人の方へぞ送りける。大方の年の暮ぞと思しに我身のはても今夜成けり此外山門より供奉して被出たる三公九卿、纔に死罪一等を被宥たれ共、解官停任せられて、有も無が如くの身に成給ければ、傍人の光彩に向て面を泥沙の塵に低、後生の栄耀を望で涙を犬羊の天に淋く。住にし迹に帰り給けれ共、庭には秋の草
茂て通し道露深く、閨には夜の月のみさし入て塵打払ふ人もなし。顔子が一瓢水清して、独道ある事を知るといへ共、相如が四壁風冷して衣なきに堪ず、五衰退没の今の悲に、大梵高台の昔の楽を思出し給ふにも、世の憂事は数添て、涙の尽る時はなし。
○北国下向勢凍死事 S1711
同十一日は、義貞朝臣七千余騎にて、塩津・海津に著給ふ。七里半の山中をば、越前の守護尾張守高経大勢にて差塞だりと聞へしかば、是より道を替て木目峠をぞ越給ひける。北国の習に、十月の初より、高き峯々に雪降て、麓の時雨止時なし。今年は例よりも陰寒早くして、風紛に降る山路の雪、甲冑に洒き、鎧の袖を翻して、面を撲こと烈しかりければ、士卒寒谷に道を失ひ、暮山に宿無して、木の下岩の陰にしゞまりふす。適火を求得たる人は、弓矢を折焼て薪とし、未友を不離者は、互に抱付て身を暖む。元より薄衣なる人、飼事無りし馬共、此や彼に凍死で、行人道を不去敢。彼叫喚大叫喚の声耳に満て、紅蓮大紅蓮の苦み眼に遮る。今だにかゝり、後の世を思遣るこそ悲しけれ。河野・土居・得能は三百騎にて後陣に打けるが、見の曲にて前の勢に追殿れ、行べき道を失て、塩津の北にをり居たり。佐々木の一族と、熊谷と、取篭て討んとしける間、相がゝりに懸て、皆差違へんとしけれ共、馬は雪に凍へてはたらかず、兵は指を墜して弓を不控得、太刀のつかをも拳得ざりける間、腰の刀を土につかへ、うつぶしに貫かれてこそ死にけれ。千葉介貞胤は五百余騎にて打けるが、東西くれて降雪に道を蹈迷て、敵の陣へぞ迷出たりける。進退歩を失ひ、前後の御方に離れければ、一所に集て自害をせんとしけるを、尾張守高経の許より使を立て、「弓矢の道今は是までにてこそ候へ。枉て御方へ出られ候へ。此間の義をば身に替ても可申宥。」慇懃に宣ひ遣されければ、貞胤心ならず降参して高経の手にぞ属しける。同十三日義貞朝臣敦賀津に著給へば、気比弥三郎大夫三百余騎にて御迎に参じ、東宮・一宮・総大将父子兄弟を先金崎の城へ入奉り、自余の軍勢をば津の在家に宿を点じて、長途の窮屈を相助く。爰に一日逗留有て後、此勢一所に集り居ては叶はじと、大将を国々の城へぞ被分ける。大将義貞は東宮に付進せて、金崎の城に止給ふ。子息越後守義顕には北国の勢二千余騎を副て越後国へ下さる。脇屋右衛門佐義助は千余騎を副て瓜生が杣山の城へ遣はさる。是は皆国々の勢を相付て、金崎の後攻をせよとの為也。
○瓜生判官心替事付義鑑房蔵義治事 S1712
同十四日、義助・義顕三千余騎にて、敦賀の津を立て、先杣山へ打越給ふ。瓜生判官保・舎弟兵庫助重・弾正左衛門照、兄弟三人種々の酒肴舁せて鯖並の宿へ参向す。此外人夫五六百人に兵粮を持せて諸軍勢に下行し、毎事是を一大事と取沙汰したる様、誠に他事もなげに見へければ、大将も士卒も、皆たのもしき思をなし給。献酌順に下て後、右衛門佐殿の飲給ひたる盃を、瓜生判官席を去て三度傾ける時、白幅輪の紺糸の鎧一領引給ふ。面目身に余りてぞみへたりける。其後判官己が館に帰て、両大将へ色々小袖二十重調進す。此外御内・外様の軍勢共の、余に薄衣なるがいたはしければ、先小袖一充仕立てゝ送るべしとて、倉の内より絹綿数千取出して、俄に是をぞ裁縫せける。斯る処に足利尾張守の方より潜に使者を通じ、前帝より成れたりとて、義貞が一類可御追罰由の綸旨をぞ被送ける。瓜生判官是を見て、元より心遠慮なき者なりければ、将軍より謀て被申成たる綸旨とは思も寄ず。さては勅勘武敵の人々を許容して大軍を動さん事、天の恐も有べしと、忽に心を反じて杣山の城へ取上り、関を閉てぞ居たりける。爰に判官が弟に義鑑房と云禅僧の有けるが、鯖並の宿へ参じて申けるは、「兄にて候保は、愚痴なる者にて候間、将軍より押へて被申成候綸旨を誠と存て、忽に違反の志を挿み候。義鑑房弓箭を取身にてだに候はゞ、差違て共に死ぬべく候へ共、僧体に恥ぢ仏見に憚て、黙止候事こそ口惜覚候へ。但倩愚案を廻し候に、保、事の様を承り開き候程ならば、遂には御方に参じ候ぬと存候。若御幼稚の公達数た御坐候はゞ一人是に被留置進候へ。義鑑懐の中、衣の下にも隠し置進せて、時を得候はゞ御旗を挙て、金崎の御後攻を仕候はん。」と申も敢ず、涙をはらはらとこぼしければ、両大将是が気色を見給て、偽てはよも申さじと疑の心をなし給はず、則席を近付て潜に被仰けるは、「主上坂本を御出有し時、「尊氏若強て申事あらば、休事を得ずして、義貞追罰の綸旨をなしつと覚るぞ。汝かりにも朝敵の名を取らんずる事不可然。春宮に位を譲奉て万乗の政を任せ進らすべし。義貞股肱の臣として王業再び本に複する大功を致せ」と被仰下、三種の神器を春宮に渡し進ぜられし上は、縦先帝の綸旨とて、尊氏申成たり共、思慮あらん人は用るに足ぬ所也と思ふべし。然れ共判官この是非に迷へる上は、重て子細を尽すに及ばず、急で兵を引て、又金崎へ可打帰事已に難儀に及時分、一人兄弟の儀を変じて忠義を顕さるゝ条、殊に有難くこそ覚て候へ。御心中憑もしく覚れば、幼稚の息男義治をば、僧に預申候べし。彼が生涯の様、兎も角も御計候へ。」と宣て、脇屋右衛門佐殿の子息に式部大夫義治とて、今年十三に成給ひけるを、義鑑坊にぞ預けらる。此人鍾愛他に異なる幼少の一子にて坐すれば、一日片時も傍を離れ給はず、荒き風にもあてじとこそ労り哀み給ひしに、身近き若党一人をも付ず、心も知ぬ人に預て、敵の中に留置き給へば、恩愛の別も悲くて、再会の其期知がたし。夜明れば右衛門佐は金崎へ打帰り、越後国へ下んとて、宿中にて勢をそろへ給ふに、瓜生が心替を聞ていつの間にか落行けん、昨日までは三千五百余騎と注したりし軍勢、纔二百五十騎に成にけり。此勢にては、何として越後まで遥々と敵陣を経ては下べし。さらば共に金崎へ引返てこそ、舟に乗て下らめとて、義助も義顕も、鯖並の宿より打連て、又敦賀へぞ打帰り給ける。爰に当国の住人今庄九郎入道浄慶、此道より落人の多く下る由を聞て、打留めん為に、近辺の野伏共を催し集て、嶮岨に鹿垣をゆひ、要害に逆木を引て、鏃を調へてぞ待かけたる。義助朝臣是を見給て、「是は何様今庄法眼久経と云し者の、当手に属して坂本まで有しが一族共にてぞ有らん。其者共ならばさすが旧功を忘じと覚るぞ。誰かある、近付て事の様を尋きけ。」と宣ひければ、由良越前守光氏畏て、「承候。」とて、只一騎馬を磬て、「脇屋右衛門佐殿の合戦評定の為に、杣山の城より金崎へ、かりそめに御越候を、旁存知候はでばし、加様に道を被塞候やらん。若矢一筋をも被射出候なば、何くに身を置て罪科を遁れんと思はれ候ぞ、早く弓を伏せ甲を脱で通申され候へ。」と高らかに申ければ、今庄入道馬より下りて、「親にて候卿法眼久経御手に属して軍忠を致し候しかば、御恩の末も忝存候へ共、浄慶父子各別の身と成て尾張守殿に属し申たる事にて候間、此所をば支申さで通し進せん事は、其罪科難遁存候程に、態と矢一仕り候はんずるにて候。是全く身の本意にて候はねば、あはれ御供仕候人々の中に、名字さりぬべからんずる人を一両人出し給り候へかし。其首を取て合戦仕たる支証に備へて、身の咎を扶り候はん。」とぞ申ける。光氏打帰て此由を申せば、右衛門佐殿進退谷りたる体にて、兎角の言も出されざりければ、越後守見給て、「浄慶が申所も其謂ありと覚ゆれ共、今まで付纏たる士卒の志、親子よりも重かるべし。されば彼等が命に義顕は替るとも、我命に士卒を替がたし。光氏今一度打向て、此旨を問答して見よ。猶難儀の由を申さば、力なく我等も士卒と共に討死して、将の士を重んずる義を後世に伝へん。」とぞ宣ひける。光氏又打向て此由を申に、浄慶猶心とけずして、数刻を移しける間、光氏馬より下て、鎧の上帯切て投捨、「天下の為に重かるべき大将の御身としてだにも、軍勢の命に替らんとし給ぞかし。況や義に依て命を軽ずべき郎従の身として、主の御命に替らぬ事や有べき。さらば早光氏が首を取て、大将を通し進らせよ。」と云もはてず、腰の刀を抜て自腹を切んとす。其忠義を見に、浄慶さすがに肝に銘じけるにや、走寄て光氏が刀に取付、「御自害の事怒々候べからず。げにも大将の仰も士卒の所存も皆理りに覚へ候へば、浄慶こそいかなる罪科に当られ候共、争でか情なき振舞をば仕り候べき。早御通り候へ。」と申て、弓を伏逆木を引のけて、泣々道の傍に畏る。両大将大に感ぜられて、「我等はたとひ戦場の塵に没すとも、若一家の内に世を保つ者出来ば、是をしるしに出して今の忠義を顕さるべし。」とて、射向の袖にさしたる金作の太刀を抜て、浄慶にぞ被与ける。光氏は主の危を見て命に替らん事を請、浄慶は敵の義を感じて後の罪科を不顧、何れも理りの中なれば、是をきゝ見る人ごとに、称嘆せぬは無りけり。
○十六騎勢入金崎事 S1713
始浄慶が問答の難儀なりしを聞て、金崎へ通らん事叶はじとや思けん、只今まで二百五十騎有つる軍勢、いづちともなく落失て纔十六騎に成にけり。深山寺の辺にて樵の行合たるに、金崎の様を問給へば、「昨日の朝より国々の勢二三万騎にて、城を百重千重に取巻て、攻候也。」とぞ申ける。「さてはいかゞすべき。是より東山道を経て忍で越後へや下る、只爰にて腹をや切る。」と異儀区なりけるを、栗生左衛門進出て申けるは、「何くの道を経ても、越後まで遥々と落させ給はん事叶はじとこそ存候へ。下人の独をもつれぬ旅人の、疲て道を通り候はんを、誰か落人よと見ぬ事の候べき。又面々に爰にて腹を切候はんずる事も、楚忽に覚へ候へば、今夜は此山中に忍て夜を明して、まだ篠目の明はてざらん比をひ、杣山の城より後攻するぞと呼はりて、敵の中へ懸入て戦んに、敵若騒ひで攻口を引退事あらば、差違ふて城へ入候べし。忻て路を遮り候はゞ、思ふ程太刀打して、惣大将の被御覧御目の前にて討死仕て候はんこそ、後までの名も九原の骨にも留り候はんずれ。」と申ければ、十六人の人々皆此義にぞ被同ける。去ば大勢なる体を敵に見する様に謀れとて、十六人が鉢巻と上帯とを解て、青竹の末に結付て旗の様にみせて、此の木の梢、彼の陰に立置て、明るを遅しとぞ待れける。金鶏三たび唱て、雪よりしらむ山の端に、横雲漸引渡りければ、十六騎の人々、中黒の旗一流差挙、深山寺の木陰より、敵陣の後へ懸出て、「瓜生・富樫・野尻・井口・豊原・平泉寺、並に剣・白山の衆徒等、二万余騎にて後攻仕候ぞ。城中の人々被出向候て、先懸者共の剛臆の振舞委く御覧じて、後の証拠に立れ候へ。」と、声々に喚て時の声をぞ揚たりける。其真前に前みける武田五郎は、京都の合戦に切れたりし右の指未痊ずして、太刀のつかを拳るべき様も無りければ、杉の板を以て木太刀を作て、右の腕にぞ結付たりける。二番に前ける栗生左衛門は帯副の太刀無りける間、深山柏の回り一尺許なるを、一丈余に打切て金才棒の如に見せ、右の小脇にかい挟て、大勢の中へ破て入。是を見て金崎を取巻たる寄手三万余騎、「すはや杣山より後攻の勢懸けるは。」とて、馬よ物具よと周章騒ぐ。案の如深山寺に立並たる旗共の、木々の嵐に翻るを見て、後攻の勢げにも大勢なりけりと心得て、攻口に有ける若狭・越前の勢共、楯を捨て弓矢を忘れてはつと引。城中の勢八百余人是に利を得て、浜面の西へ、大鳥居の前へ打出たりける間、雲霞の如くに充満したる大勢共、度を失て十方へ逃散。或は迹に引を敵の追と心得て、返し合せて同士打をし、或要て逃を敵とみて、立留て腹を切もあり、二里三里が外にも猶不止、誰が追としもなき遠引して、皆己が国々へぞ帰りける。
○金崎船遊事付白魚入船事 S1714
去程に、百重千重に城を囲みたりつる敵共、一時の謀に被破て、近辺に今は敵と云者一人も無りければ、是只事に非ずとて、城中の人々の悦合る事限なし。十月二十日の曙に、江山雪晴て漁舟一蓬の月を載せ、帷幕風捲て貞松千株の花を敷り。此興都にて未被御覧風流なれば、逆旅の御心をも慰められん為に、浦々の船を点ぜられ、竜頭鷁首に准て、雪中の景をぞ興ぜさせ給ける。春宮・一宮は御琵琶、洞院左衛門督実世卿は琴の役、義貞は横笛、義助は箏の笛、維頼は打物にて、蘇合香の三帖・万寿楽の破、繁絃急管の声、一唱三嘆の調べ、融々洩々として、正始の音に叶ひしかば、天衆も爰に天降り、竜神も納受する程也。簫韶九奏すれば鳳舞ひ魚跳る感也。誠に心なき鱗までも、是を感ずる事や有けん、水中に魚跳御舟の中へ飛入ける。実世卿是を見給て、「昔周武王八百の諸侯を率し、殷の紂を討ん為に孟津を渡りし時、白魚跳て武王の舟に入けり。武王是を取て天に祭る。果して戦に勝事を得しかば、殷の世を遂に亡して、周八百の祚を保り。今の奇瑞古に同じ。早く是を天に祭て寿をなすべし。」と、屠人是を調て其胙を東宮に奉。春宮御盃を傾させ給ける時、島寺の袖と云ける遊君御酌に立たりけるが、柏子を打て、「翠帳紅閨、万事之礼法雖異、舟中波上、一生之歓会是同。」と、時の調子の真中を三重にしほり歌ひたりければ、儲君儲王忝も叡感の御心を被傾、武将官軍も齊く嗚咽の袖をぞぬらされける。
○金崎城攻事付野中八郎事 S1715
杣山より引返す十六騎の勢に被出抜、金崎の寄手四方に退散しぬる由京都へ聞へければ、将軍大に忿りを成して、軈て大勢をぞ被下ける。当国の守護尾張守高経は、北陸道の勢五千余騎を率して、蕪木より向はる。仁木伊賀守頼章は、丹波・美作の勢千余騎を率して、塩津より向はる。今河駿河守は但馬・若狭の勢七百余騎を率して、小浜より向はる。荒河参川守は丹後の勢八百余騎を率して疋壇より向はる。細川源蔵人は四国の勢二万余騎を率して、東近江より向はる。高越後守師泰は、美濃・尾張・遠江の勢六千余騎を率して、荒血中山より向はる。小笠原信濃守は、信濃国の勢五千余騎を率して、新道より向ふ。佐々木塩冶判官高貞は、出雲・伯耆の勢三千余騎を率して、兵船五百余艘に取乗て海上よりぞ向ひける。其勢都合六万余騎、山には役所を作双べ、海には舟筏を組で、城の四方を囲ぬる事、隙透間も無りけり。彼城の有様、三方は海に依て岸高く巌滑也。巽の方に当れる山一つ、城より少し高ふして、寄手城中を目の下に直下すといへ共、岸絶地僻にして、近付寄ぬれば、城郭一片の雲の上に峙ち、遠して射れば、其矢万仞の谷の底に落つ。さればいかなる巧を出して攻る共、切岸の辺までも可近付様は無りけれ共、小勢にて而も新田の名将一族を尽して被篭たり。寄手大勢にて而も将軍の家礼威を振て向はれたれば、両家の争ひ只此城の勝負に有べしと、各機を張心を専にして、攻戦ふ事片時もたゆまず。矢に当て疵を病、石に打れて骨を砕く者、毎日千人・二千人に及べ共、逆木一本をだにも破られず。是を見て小笠原信濃守、究竟の兵八百人を勝て、東の山の麓より巽角の尾を直違に、かづき連てぞ揚たりける。城には此や被破べき所なりけん、城の中の兵三百余人、二の関を開て、同時に打て出たり。両方相近に成ければ、矢を止て打物になる。防ぐ兵は、此を引ば継て攻入られぬと危みて、一足も不退戦。寄手は無云甲斐引て、敵・御方不被笑と、命を捨てぞ攻たりける。敵さすがに小勢なれば、戦疲れてみへける処に、例の栗生左衛門、火威の鎧に竜頭の甲を夕日に耀かし、五尺三寸の太刀に、樫の棒の八角に削たるが、長さ一丈二三尺も有らんと覚へたるを打振て、大勢の中へ走り懸り、片手打に二三十、重ね打に打たりける。寄手の兵四五十人、犬居にどうと打居られ、中天にづんと被打挙、沙の上に倒れ伏。後陣の勢是を見て、しどろに成て浪打際に村立所へ、気比の大宮司太郎・大学助・矢島七郎・赤松大田の帥法眼、四人無透間打て懸りける間、叶はじとや思けん、小笠原が八百余人の兵、一度にはつと引て本の陣へぞ帰りける。今河駿河守此日の合戦を見て推量するに、「此が如何様被破ぬべき所なればこそ、城より此を先途と出ては戦らめ。陸地より寄せばこそ足立悪て輒く敵には被払つれ。舟て一攻々て見よ。」とて、小舟百余艘に取乗て、昨日小笠原が攻たりし浜際よりぞ上ける。寄と均く切岸の下なる鹿垣一重引破て、軈て出屏の下へ著んとしける処へ、又城より裹まれたる兵二百余人、抜連て打出たりけるに、寄手五百余人真逆に被巻落、我先にと舟にぞ込乗ける。遥に舟を押出して跡を顧に、中村六郎と云者痛手を負て舟に乗殿れ、礒陰なる小松の陰に太刀を倒について、「其舟寄よ。」と招共、あれ/\と許にて、助んとする者も無りけり。爰に播磨国の住人野中八郎貞国と云ける者是を見て、「しらで有んは無力。御方の兵の舟に乗殿れて、敵に討れんとするを、親り見ながら助ぬと云事や有べき。此舟漕戻せ。中村助ん。」と云けれ共、人敢て耳にも不聞入。貞国大に忿て、人の指櫓を引奪て、逆櫓に立、自舟を押返し、遠浅より下立て、只一人中村が前へ歩行。城の兵共是を見て、「手負て引兼たる者は何様宗との人なれば社、是を討せじと、遥に引たる敵共は、又返合すらん。下合て首を取れ。」とて、十二三人が程、中村が後へ走懸りけるを、貞国些も不騒、長刀の石づき取伸て、向敵一人諸膝薙で切居、其頚を取て鋒に貫き、中村を肩に引懸て、閑に舟に乗ければ、敵も御方も是を見て、「哀剛の者哉。」と、誉ぬ人こそ無りけれ。其後よりは、寄手大勢也といへ共、敵手痛く防ければ、攻屈して、只帰り、逆木引、向櫓を掻て、徒に矢軍許にてぞ日を暮しける。


太平記
太平記巻第十八

○先帝潜幸芳野事 S1801
主上は重祚の御事相違候はじと、尊氏卿様々被申たりし偽の詞を御憑有て、自山門還幸成しか共、元来謀り進せん為なりしかば、花山院の故宮に被押篭させ給、宸襟を蕭颯たる寂寞の中に悩さる。霜に響く遠寺の鐘に御枕を欹て、楓橋の夜泊に、御哀を副られ、梢に余る北山の雪に御簾を撥ては、梁園の昔の御遊に御涙を催さる。紅顔花の如なりし三千の宮女も、一朝の嵐に誘引て、何地ともなく成しかば、夜のをとゞに入せ給ても、夢より外の昔もなし。紫宸に星を列し百司の老臣も満天の雲に被掩、参仕る人独もなければ、天下の事如何に成ぬ覧と、可被尋聞召便もなし。「抑朕が不徳何事なれば、か程に仏神にも放たれ奉て、逆臣の為に被犯覧。」と、旧業の程浅猿く、此世中も憑少く被思召ければ、寛平の遠き迹をも尋ね、花山の近き例をも追ばやと思召立せ給ける処に、刑部大輔景繁武家の許を得て、只一人伺候したりけるが、勾当内侍を以て潜に奏聞申けるは、「越前の金崎の合戦に、寄手毎度打負候なる間、加賀国・剣・白山の衆徒等御方に参り、富樫介が篭て候那多の城を責落して金崎の後攻を仕らんと企候なる。是を聞て、還幸の時供奉仕て京都へ罷上候し菊池掃部助武俊・日吉加賀法眼以下、皆己が国々へ逃下て義兵を挙、国中を打順へて候なる間、天下の反覆遠からじと、謳歌説満耳に候。急ぎ近日の間に、夜に紛れて大和の方へ臨幸成候て、吉野・十津川の辺に皇居を被定、諸国へ綸旨を被成下、義貞が忠心をも助られ、皇統の聖化を被耀候へかし。」と、委細にぞ申入たりける。主上事の様を具に被聞召、さては天下の武士猶帝徳を慕ふ者多かりけり。是天照太神の、景繁が心に入替せ給て、被示者也と被思召ければ、「明夜必寮の御馬を用意して、東の小門の辺に相待べし。」とぞ被仰出ける。相図の刻限にも成ければ、三種の神器をば、新勾当内侍に被持て、童部の蹈開たる築地の崩より、女房の姿にて忍出させ給ふ。景繁兼てより用意したる事なれば、主上をば寮の御馬に舁乗せ進せ、三種神器を自荷担して、未夜の中に大和路に懸て、梨間宿までぞ落し進せける。白昼に南都を如此にて通らせ給はゞ、人の怪め申事もこそあれとて、主上をば怪げなる張輿に召替させ進て、供奉の上北面共を輿舁になし、三種の神器をば足付たる行器に入て、物詣する人の破篭なんど入て持せたる様に見せて、景繁夫に成て是を持つ。何れも皆習はぬ態なれば、急ぐとすれども行やらで、其日の暮程に内山までぞ著せ給ける。此までも若敵の追蒐進らする事もや有んずらんと安き心も無りければ、今夜如何にもして吉野辺まで成進せんとて、此より寮の御馬を進せたれ共、八月二十八日の夜の事なれば道最暗して可行様も無りける処に、俄に春日山の上より金峯山の嶺まで、光物飛渡る勢ひに見へて、松明の如くなる光終夜天を耀し地を照しける間、行路分明に見へて程なく夜の曙に、大和国賀名生と云所へぞ落著せ給ける。此所の有様、里遠して人烟幽に山深して鳥の声も稀也。柴と云物をかこいて家とし、芋野老を堀て渡世許なれば皇居に可成所もなく、供御に備べき其儲も難尋。角ては如何可有なれば、吉野の大衆を語ひて君を入進せんと思て、景繁則吉野へ行向ひ、当寺の宿老吉水の法印に此由を申ければ、満山の衆徒を語ひ蔵王堂に集会して僉儀しけるは、「古へ清美原の天皇、大友の皇子に被襲、此所に幸成しも、無程天下泰平を被致。其先蹤に付て今仙蹕を被促事、衆徒何ぞ異儀に可及乎。就中昨夜の光物臨幸の道を照す。是然当山の鎮守蔵王権現・小守・勝手大明神、三種の神器を擁護し万乗の聖主を鎮衛し給ふ瑞光也。暫くも不可有猶予。」とて、若大衆三百余人、皆甲冑を帯して御迎にぞ参りける。此外楠帯刀正行・和田次郎・真木定観・三輪の西阿、紀伊国には、恩地・牲河・貴志・湯浅、五百騎・三百騎、引も切らず面々馳参ける間、雲霞の勢を腰輿の前後に囲ませて、無程吉野へ臨幸なる。春雷一たび動く時、蟄虫萌蘇する心地して、聖運忽に開けて、功臣既に顕れぬと、人皆歓喜の思をなす。
○高野与根来不和事 S1802
先帝花山院を忍出させ玉て吉野に潜幸成りしかば、近国の軍勢は申に不及、諸寺・諸社の衆徒・神官に至まで、皆王化に随て、或は軍用を支へ、或は御祷を致しけるに、根来の大衆は一人も吉野へ参〔ら〕ず。是は必しも武家を贔負して、公家を背申には非ず。此君高野山を御崇敬有て、方々の所領を被寄、様々の御立願有と聞て、偏執の心を挿ける故也。抑為釈門徒者は、以柔和宗とし以忍辱衣とする事にてこそあるに、根来と高野と、依何事是程迄に霍執の心をば結ぶぞと、事の起りを尋ぬれば、中比高野伝法院に、覚鑁とて一人の上人御坐けり。一度三密瑜伽の道場に入しより、永四曼不離の行業に不懈、観法座闌して薫修年久しかりけるが、即身成仏と乍談、猶有漏の身を不替事を歎て、求聞持の法を七座迄行ふ。され共三品成就の内、何れを得たりとも覚ざりければ、覚洞院の清憲僧正の室に入、一印一明を受て、又百日行ひ給ひければ、其法忽に成就して、自然智を得給て、浅略深秘の奥義、不習底を極め、不聞旨を開けり。爰に我慢邪慢の大天狗共、如何にして人の心中に依託して、不退の行学を妨んとしけれ共、上人定力堅固なりければ、隙を伺事を不得。されども或時上人温室に入て、瘡をたでられけるが、心身快して纔の楽に婬著す。是時天狗共力を得て、造作魔の心をぞ付たりける。是より覚鑁伝法院を建立して、我門徒を昌にせばやと思ふ心懇に成ければ、鳥羽禅定法皇に経奏聞て、堂舎を立僧坊を作らる。されば一院の草創不日に事成りし後、覚鑁上人忽に入定の扉を閉て、慈尊の出世五十六億七千万歳の暁を待給ふ。高野の衆徒等是を聞て、「何条其御房我慢の心にて被堀埋、高祖大師の御入定に同じからんとすべき様やある。其儀ならば一院を破却せよ。」とて、伝法院へ押寄せ堂舎を焼払ひ、御廟を堀破て是を見に、上人は不動明王の形像にて、伽楼羅炎の内に座し給へり。或若大衆一人走り寄て、是を引立んとするに、其身磐石の如くにして、那羅延が力にても動し難く、金剛の杵も砕難ぞ見へたりける。悪僧等猶是にも不恐、「穴こと/\し。如何なる古狸・古狐なりとも、妖る程ならば是にや劣るべき。よし/\真の不動か、覚鑁が妖たる形か、打見よ。」とて、大なる石を拾ひ懸て十方より是を打に、投る飛礫の声大日の真言に聞へて、曾て其身に不中、あらけて微塵に砕去る。是時覚鑁、「去ばこそ汝等が打処の飛礫、全く我身に中る事不可有。」と、少し■慢の心被起ければ、一の飛礫上人の御額に中て、血の色漸にして見へたりけり。「さればこそ。」とて、大衆共同音にどつと笑ひ、各院々谷々へぞ帰りける。是より覚鑁上人の門徒五百坊、心憂事に思て、伝法院の御廟を根来へ移して、真言秘密の道場を建立す。其時の宿意相残て、高野・根来の両寺、動すれば確執の心を挿めり。
○瓜生挙旗事 S1803
去程に、先帝は吉野に御座有て、近国の兵馳参る由聞へければ、京都の周章は申に不及、諸国の武士も又天下不穏と、安き心も無りけり。此事已に一両月に及けれ共、金崎の城には出入絶たるに依て、知人も無りける処に、十一月二日の朝暖に、櫛川の島崎より金崎を差て游者あり。海松・和布を被く海士人か、浪に漂ふ水鳥かと、目を付て是をみれば、其には非ずして、亘理新左衛門と云ける者、吉野の帝より被成たる綸旨を、髻には結付て游ぐにてぞ有ける。城の中の人々驚て、急ぎ開て見るに、先帝潜に吉野へ臨幸成て、近国の士卒悉馳参る間、不日に京都を可被責由被載たり。寄手は是を聞て、此際隠しつる事を、城中に早知ぬと不安思へば、城の内には助の兵共国々に出来て、今に寄手を追掃ぬと、悦の心身に余れり。中にも瓜生判官保、足利尾張守高経の手に属して金崎の責口にあり。其弟兵庫助重・弾正左衛門照・義鑑房三人は、未金崎へは向はで、杣山の城に有けるが、去月十一日に、新田の人々北国へ被落たりし時、義鑑房が隠置たりし、脇屋右衛門佐の子息、式部大輔義治を大将として、義兵を挙んと日々夜々にぞ巧ける。兄の判官此事を聞て、「此者共若楚忽に謀叛を発さば、我必存知せぬ事は非じとて、金崎にて討れぬ。」と思ければ、兄弟一に成てこそ、兎も角も成めと思返して、哀同心する人あれかしと、壁に耳を付て、心を人の腹に置て、兎角伺ひ聞ける折節、陣屋を双べて居たりける宇都宮美濃将監と、天野民部大輔と寄合て、四方山の雑談の次に、家々の旗の文共を云沙汰しける処に、誰とは不知末座なる者、「二引両と大中黒と、何れか勝れたる文にて候覧。」と問ければ、美濃将監、「文の善悪をば暫置く、吉凶を云者、大中黒程目出き文は非じと覚ゆ。其故は前代の文に三鱗形をせられしが滅びて、今の世二引両に成ぬ。是を又亡さんずる文は、一引両にてこそあらんずらん。」と申ければ、天野民部大輔、「勿論候、周易と申文には、一文字をばかたきなしと読て候なる。されば此御文は、如何様天下を治めて、五畿七道を悉敵無世に成ぬと覚て候。」と、文字に付て才学を吐ければ、又傍らなる者の、「天に口なし以人云しむ。」と、無憚所笑戯れければ、瓜生判官是を聞て、「さては此人々も、野心を挿む所存有けり。」と、嬉く思て、常に酒を送り茶を進て連々に睦近付て後、大儀を思立候由を語りければ、宇都宮も天野も、「子細非じ。」とぞ同じける。さらば軈て杣山へ帰て旗を挙んと評定しける処に、諸国の軍勢共、暇をも不乞、己が所領へ抜々に帰りけるを押留めん為に、高越後守、四方の口々に堅く兵士を居て人を不通。若は所用ありて、此道を通る人は、師泰が判形を取てぞ通りける。瓜生判官、さらば此関を謀て通らんと思て、越後守の許に行て、「御馬の大豆を召進せん為に、杣山へ人夫を百五十人可遣候。関所の御札を給り候へ。」と云ければ、師泰が執事山口入道、杉板を札に作て、「此人夫百五十人可通。」と書て判を居てぞ出しける。瓜生此札を請取て、下なる判形許を残し置て、上なる文字を皆押削て、「上下三百人可通。」と書直し、宇都宮・天野相共に、三山寺の関所を無事故通てげり。瓜生判官杣山に帰りければ、三人の弟共大に悦て、軈式部大輔義治を大将として、十一月八日飽和の社の前にて中黒の旗を挙ける程に、去ぬる十月坂本より落下ける軍勢、此彼に隠居たりけるが、此事を聞て何の間にか馳来りけん、無程千余騎に成にけり。則其勢を五百余騎差分て、鯖並の宿・湯尾の峠に関を居て、北国の道を差塞。昔の火打が城の巽に当る山の、水木足て嶮く峙たる峯を攻の城に拵て、兵粮七千余石積篭たり。是は千万蒐合の軍に打負る事あらば、楯篭らん為の用意也。越後守師泰は此由を聞て、「若遅く退治せば、剣・白山の衆徒等成合て、由々敷大事なるべし、時を不替杣山を打落して、金崎の城を心安く可責。」とて、能登・加賀・越中三箇国の勢六千余騎を、杣山の城へぞ差向ける。瓜生是を聞て、敵の陣を要害に取せじとて、新道・今庄・桑原・宅良・三尾・河内四五里が間の在家を一宇も不残焼払て、杣山の城の麓なる湯尾の宿許をば、態焼残してぞ置たりける。去程に、十一月二十三日、寄手六千余騎、深雪に橇をも懸ず、山路八里を一日に越て、湯尾の宿にぞ著たりける。此より杣山へは五十町を隔て、其際に大河あり。日暮て路に歩み疲れぬ、明日こそ相近付て、矢合をもせめとて、僅なる在家に攻り居て、火を焼身を温めて、前後も不知して寝たりける。瓜生は兼て案の図に敵を谷底へ帯き入て、今はかうと思ければ、其夜の夜半許に、野伏三千人を後の山へあげ、足軽の兵七百余人左右へ差回して、鬨声をぞ揚たりける。寝をびれたる寄手共、時声に驚て周章翊く処へ、宇都宮・紀清の両党乱入て、家々に火を懸たれば、物具したる者は太刀を不取、弓を持たる者は矢を不矯。五尺余降積たる雪の上に橇も不懸して走出たれば、胸の辺迄落入て、足を抜んとすれ共不叶。只泥に粘たる魚の如にて、被生虜者三百余人、被討者は不知数を。希有にして逃延たる人も、皆物具を捨て、弓箭を失はぬ者は無りけり。
○越前府軍並金崎後攻事 S1804
北国の道塞て、後に敵あらば、金崎を責ん事難儀なるべし。如何にもして杣山の勢を、国中へはびこらぬ様にせでは叶まじとて、尾張守高経、北陸道四箇国の勢三千余騎を率して、十一月二十八日に、蕪木の浦より越前の府へ帰給ふ。瓜生此事を聞て、敵に少しも足をためさせては悪かるべしとて、同二十九日に、三千余騎にて押寄せ、一日一夜責戦て、遂に高経が楯篭たる新善光寺の城を責落す。此時又被討者三百余人、生虜百三十人が首を刎て、帆山河原に懸並ぶ。夫より式部大輔義治勢ひ漸く近国に振ひければ、平泉寺・豊原の衆徒、当国他国の地頭・御家人、引出物を捧げ酒肴を舁せて、日々に群集しけれども、義治よに無興げなる体にのみ見へ給ければ、義鑑房御前に近て、「是程目出き砌にて候に、などや勇みげなる御気色も候はぬやらん。」と申ければ、義治袖掻収め給て、「御方両度の軍に打勝て、敵を多く亡したる事、尤可悦処なれ共、春宮を始進せて、当家の人々金崎の城に被取篭御座あれば、さこそ兵粮にも詰り戦にも苦みて、心安き隙もなく御坐すらめと想像奉る間、酒宴に臨め共楽む心も候はず。」と宣へば、義鑑房畏て申けるは、「其事にて候はゞ、御心安く被思召候へ。此間は余りに雪吹烈くして、長途の歩立難儀に候間、天気の少し晴るゝ程を相待にて候。」とて、感涙を押へながら御前をぞ立にける。宇都宮と小野寺と牆越に是を聞て、「好堅樹は地の底に有て芽百囲をなし、頻伽羅は卵の中に有て声衆鳥に勝れたり」といへり。此人丈夫の心ねをはして、加様に思ひ給けるこそ憑しけれ。さらば軈て金崎の後攻をすべし。」とて、兵を集め楯を作せて、さ程雪の降ぬ日を門出にしてぞ相待ける。正月七日椀飯事終て、同十一日雪晴風止て、天気少し長閑なりければ、里見伊賀守を大将として、義治五千余人を金崎の後攻の為に敦賀へ被差向。其勢皆雪吹の用意をして、物具の上に蓑笠を著、踏組の上に橇を履で、山路八里が間の雪蹈分て、其日桑原迄ぞ寄たりける。高越後守も兼て用意したる事なれば、敦賀津より二十余町東に当て、究竟の用害の有ける処へ、今河駿河守を大将として、二万余騎を差向て、所々に掻楯掻せて、今や寄ると待懸たり。夜明ければ先一番に、宇都宮・紀清両党三百余人押寄て、坂中なる敵千余人を遥の峯へ巻り上て、軈二陣の敵に蒐らんとしけるが、両方の峯なる大勢に被射立、北なる峯へ引退く。二番に瓜生・天野・斉藤・小野寺七百余騎、鋒を調へて上りけるに、駿河守の堅めたる陣を三箇所被追破、はつと引ける処へ、越後守が勢三千余騎、荒手に代て相戦ふ処に、瓜生・小野寺が勢又追立られて、宇都宮と一に成んと、傍なる峯へ引上りけるを、里見伊賀守僅の勢にて、「蓬し、返せ。」とて横合に進まれたり。敵是を大将よと見てんげれば、自余の葉武者には懸らず、をつ取篭て討んとしけるを、瓜生と義鑑房と屹と見て、「我等爰にて討死せでは御方の勢は助るまじき処ぞ。」と自嘆して、只二人打て蒐り、敵の中へ破て入んとするを見て、判官が弟林次郎入道源琳・同舎弟兵庫助重・弾正左衛門照三人是を見て、遥に落延たりけるが、共に討死せんと取て返しけるを、義鑑房尻目に睨で、「日来再三謂し事をば何の程に忘れけるぞ。我等二人討死したらんは、永代の負にて有んずるを、思篭る心の無りける事の云甲斐なさよ。」と、あらゝかに申留めける間、三人の者共、現もと思返して少し猶予しける間、大勢の敵に中を被押隔、里見・瓜生・義鑑房三人は一所にて被討にけり。桑原より深雪を分て重鎧に肩をひける者共、数刻の合戦に入替る勢もなく戦疲れければ、返さんとするに力尽き引んとするに足たゆみぬ。されば此彼に引延て、腹を切者数を不知。適落延る兵も、弓矢・物具を棄ぬはなし。「さてこそ先日府・鯖並の軍に多く捨たりし兵具共をば、今皆取返たれ。」と、敦賀の寄手共は笑ける。是程に不定の人間、化なる身命を資とて、互に罪業を造り、長き世の苦みを受ん事こそ浅猿けれ。
○瓜生判官老母事付程嬰杵臼事 S1805
去程に、敗軍の兵共杣山へ帰ければ、手負・死人の数を註すに、里見伊賀守・瓜生兄弟・甥の七郎が外、討死する者五十三人蒙疵者五百余人也。子は父に別れ弟は兄に殿れて、啼哭する声家々に充満り。去共瓜生判官が老母の尼公有けるが、敢て悲める気色もなし。此尼公大将義治の前に参て、「此度敦賀へ向ふて候者共が不覚にてこそ里見殿を討せ進せて候へ。さこそ被思召候らめと、御心中推量り進せて候。但是を見ながら、判官兄弟何れも無恙してばし帰り参りて候はゞ、如何に今一入うたてしさも無遣方候べきに、判官が伯父・甥三人の者、里見殿の御供申し、残の弟三人は、大将の御為に活残りて候へば、歎の中に悦とこそ覚て候へ。元来上の御為に此一大事を思立候ぬる上は、百千の甥子共が被討候共、可歎にては候はず。」と、涙を流して申つゝ、自酌を取て一献を進め奉りければ、機を失へる軍勢も、別を歎く者共も、愁を忘れて勇みをなす。抑義鑑房が討死しける時、弟三人が続て返しけるを、堅く制し留めける謂れを如何にと尋ぬれば、此義鑑房合戦に出ける度毎に、「若此軍難儀に及ばゞ、我等兄弟の中に一両人は討死をすべし。残の兄弟は命を全して、式部大輔殿を取立進すべし。」とぞ申ける。是も古への義を守り人を規とせし故也。昔秦の世に趙盾・智伯と云ける二人、趙の国を諍ふ事年久し。或時智伯已に趙盾がために被取巻、夜明なば討死せんとしける時、智伯が臣程嬰・杵臼と云ける二人の兵を呼寄て、「我已に運命極迄趙盾に囲まれぬ。夜明ば必討死すべし。汝等我に真実の志深くば、今夜潜に城を逃出て、我三歳の孤を隠置て、長ならば趙盾を亡して、我生前の恥を雪むべし。」とぞ宣ひける。程嬰・杵臼是を聞て、「臣等主君と共に討死仕ん事は近して易し。三歳の孤を隠して命を全せん事は遠して難し。雖然、為臣道豈易を取て難きを捨ん哉。必君の仰に可随。」とて、程嬰・杵臼は、潜に其夜紛れて城を落にけり。夜明ければ、智伯忽に討死して残る兵も無りしかば、多年諍ひし趙国終に趙盾に随ひけり。爰に程嬰・杵臼二人は、智伯が孤を隠さんとするに趙盾是を聞付て、討んとする事頻也。程嬰是を恐れて、杵臼に向て申けるは、「旧君三歳の孤を以て、此二人の臣に託たり。されば死て敵を欺かんと、暫く命を生て孤を取立んと、何れか難かるべき。」杵臼が云く、「死は一心の義に向ふ処に定り、生は百慮の智を尽す中に全し。然ば吾生を以て難しとす。」と。程嬰、「さらば吾は難きに付て命を全すべし。御辺は易きに付て討死せらるべし。」と云に、杵臼悦で許諾す。「さらば謀を回すべし。」とて、杵臼我子の三歳に成けるを旧主の孤なりと披露して、是を抱きかゝへ、程嬰は主の孤三になるを我子なりと云て、朝夕是を養育しける。角て杵臼は山深き栖に隠れ、程嬰は趙盾が許に行て、可降参由を申に、趙盾猶も心を置て是を不許。程嬰重て申けるは、「臣は元智伯が左右に仕へて、其行跡を見しに、遂に趙の国を失はんずる人なりとしれり。遥に君の徳恵を聞に、智伯に勝れ給へる事千里を隔たり。故に臣苟も趙盾に仕へん事を乞。豈亡国の先人の為に有徳の賢君を謀らんや。君若我をして臣たる道を許されば、亡君智伯が孤三歳になる此にあり。杵臼が養育深く隠置たる所我具にしれり。君是を失せ給ひ、趙国を永く令安給へ。」とぞ申たりける。趙盾是を聞給ひて、さては程嬰不偽吾が臣とならんと思けると信じて、程嬰に武官を授て、あたり近く被召仕けり。さて杵臼が隠したる所を委尋聞て、数千騎の兵を差遣して是を召捕らんとするに、杵臼兼て相謀し事なれば、未膝の上なる三歳の孤を差殺して、「亡君智伯の孤運命拙して謀已に顕れぬ。」と喚て、杵臼も腹掻切て死にけり。趙盾今より後は吾子孫の代を傾けんとする者は非じと悦で、弥程嬰に心をも不置。剰大禄を与へ高官を授て国の政を令司。爰に智伯が孤程嬰が家に長りしかば、程嬰忽に兵を発して三年が中に趙盾を亡し、遂に智伯が孤に趙国を保たせり。此大功然程嬰が謀より出しかば、趙王是を賞して大禄を与へんとせらる。程嬰是を不請。「我官に昇り禄を得て卑くも生を貪らば、杵臼と倶に計し道に非ず。」とて杵臼が尸を埋し古き墳の前にて、自剣の上に伏て、同苔にぞ埋れける。されば今の保と義鑑房と討死す。古への程嬰・杵臼が振舞にも劣るべしとも云がたし。
○金崎城落事 S1806
金崎城には、瓜生が後攻をこそ命に懸て待れしに、判官打負て、軍勢若干討れぬと聞へければ、憑方なく成はて、心細ぞ覚ける。日々に随て兵粮乏く成ければ、或は江魚を釣て飢を資け、或は礒菜を取て日を過す。暫しが程こそ加様の物に命を続で軍をもしけれ。余りに事迫りければ、寮の御馬を始として諸大将の被立たる秘蔵の名馬共を、毎日一疋づゝ差殺して、各是をぞ朝夕の食には当たりける。是に付ても後攻する者なくては、此城今十日とも堪がたし。総大将御兄弟窃に城を御出候て杣山へ入せ給ひ、与力の軍勢を被催て、寄手を被追払候へかしと、面々に被勧申ければ、現にもとて、新田左中将義貞・脇屋右衛門佐義助・洞院左衛門督実世・河島左近蔵人惟頼を案内者にて上下七人、三月五日の夜半許に、城を忍び抜出て杣山へぞ落著せ給ひける。瓜生・宇都宮不斜悦て、今一度金崎へ向て、先度の恥を雪め城中の思を令蘇せと、様々思案を回しけれども、東風漸閑に成て山路の雪も村消ければ、国々の勢も寄手に加て兵十万騎に余れり。義貞の勢は僅に五百余人、心許は猛けれ共、馬・物具も墓々しからねば、兎やせまし角やせましと身を揉で、二十日余りを過しける程に、金崎には、早、馬共をも皆食尽して、食事を断つ事十日許に成にければ、軍勢共も今は手足もはたらかず成にけり。爰に大手の攻口に有ける兵共、高越後守が前に来て、「此城は如何様兵粮に迫りて馬をばし食候やらん。初め比は城中に馬の四五十疋あるらんと覚へて、常に湯洗をし水を蹴させなんどし候しが、近来は一疋も引出す事も候はず。哀一攻せめて見候はばや。」と申ければ、諸大将、「可然。」と同じて、三月六日の卯刻に、大手・搦手十万騎、同時に切岸の下、屏際にぞ付たりける。城中の兵共是を防ん為に、木戸の辺迄よろめき出たれ共、太刀を仕ふべき力もなく、弓を挽べき様も無れば、只徒に櫓の上に登り、屏の陰に集て、息つき居たる許也。寄手共此有様を見て、「さればこそ城は弱りてけれ。日の中に攻落さん。」とて、乱杭・逆木を引のけ屏を打破て、三重に拵たる二の木戸迄ぞ攻入ける。由良・長浜二人、新田越後守の前に参じて申けるは、「城中の兵共数日の疲れに依て、今は矢の一をも墓々敷仕得候はぬ間、敵既に一二の木戸を破て、攻近付て候也。如何思食共叶べからず。春宮をば小舟にめさせ進せ、何くの浦へも落し進せ候べし。自余の人々は一所に集て、御自害有べしとこそ存候へ。其程は我等責口へ罷向て、相支候べし。見苦しからん物共をば、皆海へ入させられ候へ。」と申て、御前を立けるが、余りに疲れて足も快く立ざりければ、二の木戸の脇に被射殺伏たる死人の股の肉を切て、二十余人の兵共一口づゝ食て、是を力にしてぞ戦ける。河野備後守は、搦手より責入敵を支て、半時計戦けるが、今はゝや精力尽て、深手余多負ければ、攻口を一足も引退かず、三十二人腹切て、同枕にぞ伏たりける。新田越後守義顕は、一宮の御前に参て、「合戦の様今は是までと覚へ候。我等無力弓箭の名を惜む家にて候間、自害仕らんずるにて候。上様の御事は、縦敵の中へ御出候共、失ひ進するまでの事はよも候はじ。只加様にて御座有べしとこそ存候へ。」と被申ければ、一宮何よりも御快気に打笑せ給て、「主上帝都へ還幸成し時、以我元首将とし、以汝令為股肱臣。夫無股肱元首持事を得んや。されば吾命を白刃の上に縮めて、怨を黄泉の下に酬はんと思也。抑自害をば如何様にしたるがよき物ぞ。」と被仰ければ、義顕感涙を押へて、「加様に仕る者にて候。」と申もはてず、刀を抜て逆手に取直し、左の脇に突立て、右の小脇のあばら骨二三枚懸て掻破り、其刀を抜て宮の御前に差置て、うつぶしに成てぞ死にける。一宮軈て其刀を被召御覧ずるに、柄口に血余りすべりければ、御衣の袖にて刀の柄をきり/\と押巻せ給て、如雪なる御膚を顕し、御心の辺に突立、義顕が枕の上に伏させ給ふ。頭大夫行房・里見大炊助時義・武田与一・気比弥三郎大夫氏治・大田帥法眼以下御前に候けるが、いざゝらば宮の御供仕らんとて、同音に念仏唱て一度に皆腹を切る。是を見て庭上に並居たる兵三百余人、互に差違々々弥が上に重伏。気比大宮司太郎は、元来力人に勝て水練の達者なりければ、春宮を小舟に乗進せて、櫓かいも無れ共綱手を己が横手綱に結付、海上三十余町を游で蕪木の浦へぞ著進せける。是を知人更に無りければ、潜に杣山へ入進せん事は最安かりぬべかりしに、一宮を始進せて、城中人々不残自害する処に、我一人逃て命を活たらば、諸人の物笑なるべしと思ける間、春宮を怪しげなる浦人の家に預け置進せ、「是は日本国の主に成せ給ふべき人にて渡せ給ふぞ。如何にもして杣山の城へ入進せてくれよ。」と申含めて、蕪木の浦より取て返し、本の海上を游ぎ帰て、弥三郎大夫が自害して伏たる其上に、自我首を掻落て片手に提、大膚脱に成て死にけり。土岐阿波守・栗生左衛門・矢島七郎三人は、一所にて腹切んとて、岩の上に立並で居たりける処に、船田長門守来て、「抑新田殿の御一家の運爰にて悉極め給はゞ、誰々も不残討死すべけれ共、惣大将兄弟杣山に御座あり、公達も三四人迄、此彼に御座ある上は、我等一人も活残て御用に立んずるこそ、永代の忠功にて侍らめ。何と云沙汰もなく自害しつれて、敵に所得せさせての用は何事ぞや。いざゝせ給へ、若やと隠れて見ん。」と申ければ、三人の者共船田が迹に付て、遥の礒へぞ遠浅の浪を分て、半町許行たれば、礒打波に当りて大に穿たる岩穴あり。「爰こそ究竟の隠れ所なれ。」とて、四人共に此穴の中に隠れて、三日三夜を過しける心の中こそ悲しけれ。由良・長浜は、是までも猶木戸口に支へて、喉乾けば、己が疵より流るゝ血を受て飲み、力落疲るれば、前に伏たる死人の肉を切て食て、皆人々の自害しはてん迄と戦けるを、安間六郎左衛門走り下て、「何を期に合戦をばし給ぞ。大将は早御自害候つるぞや。」と申ければ、「いざやさらば、とても死なんずる命を、若やと寄手の大将のあたりへ紛れ寄て、よからんずる敵と倶に差違へて死ん。」とて、五十余人の兵共、三の木戸を同時に打出、責口一方の寄手三千余人を追巻り、其敵に相交て、高越後守が陣へぞ近付ける。如何に心許は弥武に思へ共、城より打出でたる者共の為体、枯槁憔悴して、尋常の人に可紛も無りければ、皆人是を見知て、押隔ける間、一人も能敵に合者無して、所々にて皆討れにけり。都て城中に篭る処の勢は百六十人、其中に降人に成て助かる者十二人、岩の中に隠れて活たる者四人、其外百五十一人は一時に自害して、皆戦場の土と成にけり。されば今に到迄其怨霊共此所に留て、月曇り雨暗き夜は、叫喚求食の声啾々として、人の毛孔を寒からしむ。「誓掃匈奴不顧身、五千貂錦喪胡塵、可憐無定河辺骨、猶是春閨夢裡人」と、己亥の歳の乱を見て、陳陶が作りし隴西行も角やと被思知たり。
○春宮還御事付一宮御息所事 S1807
去程に夜明ければ、蕪木の浦より春宮御座の由告たりける間、島津駿河守忠治を御迎に進せて取奉る。去夜金崎にて討死自害の頚百五十一取並べて被実検けるに、新田の一族には、越後守義顕・里見大炊助義氏の頚許有て、義貞・義助二人の首は無りけり。さては如何様其辺の淵の底なんどにぞ沈めたらんと、海人を入て被かせけれ共、曾不見ければ、足利尾張守、春宮の御前に参て、「義貞・義助二人が死骸、何くに有とも見へ候はぬは、何と成候けるやらん。」と被尋申ければ、春宮幼稚なる御心にも、彼人々杣山に有と敵に知せては、軈て押寄る事もこそあれと被思召けるにや。「義貞・義助二人、昨日の暮程に自害したりしを、手の者共が役所の内にして火葬にするとこそ云沙汰せしか。」と被仰ければ、「さては死骸のなきも道理也けり。」とて、是を求るに不及。さてこそ杣山には墓々敷敵なければ、降人にぞ出んずらんとて、暫が程は閣けれ。我執と欲念とにつかはれて、互に害心を発す人々も、終には皆無常の殺鬼に逢ひ、被呵責ことも不久。哀に愚かなる事共なり。新田越後守義顕・並一族三人、其外宗徒の首七を持せ、春宮をば張輿に乗進せて、京都へ還し上せ奉る。諸大将事の体、皆美々敷ぞ見へたりける。越後守義顕の首をば、大路を渡して獄門に被懸。新帝御即位の初より三年の間は、天下の刑を不行法也。未河原の御禊、大甞会も不被遂行先に、首を被渡事は如何あるべからん。先帝重祚の初、規矩掃部助高政・糸田左近将監貞吉が首を被渡たりしも、不吉の例とこそ覚ゆれと、諸人の意見共有けれ共、是は朝敵の棟梁義貞の長男なればとて、終大路を被渡けり。春宮京都へ還御成ければ、軈楼の御所を拵へて、奉押篭。一宮の御頚をば、禅林寺の長老夢窓国師の方へ被送、御喪礼の儀式を引繕る。さても御匣殿の御歎、中々申も愚也。此御匣殿の一宮に参り初給し古への御心尽し、世に類なき事とこそ聞へしか。一宮已に初冠めされて、深宮の内に長せ給し後、御才学もいみじく容顔も世に勝れて御座かば、春宮に立せ給なんと、世の人時明逢へりしに、関東の計ひとして、慮の外に後二条院の第一の御子春宮に立せ給しかば、一宮に参り仕べき人々も、皆望を失ひ、宮も世中万づ打凋たる御心地して、明暮は只詩哥に御心を寄せ、風月に思を傷しめ給ふ。折節に付たる御遊などあれ共、差て興ぜさせ給ふ事もなし。さるにつけては、何なる宮腹、一の人の御女などを角と仰られば、御心を尽させ給ふまでもあらじと覚へしに、御心に染む色も無りけるにや、是をと被思召たる御気色もなく、只独のみ年月を送らせ給ける。或時関白左大臣の家にて、なま上達部・殿上人余た集て、絵合の有けるに、洞院の左大将の出されたりける絵に、源氏の優婆塞の宮の御女、少し真木柱に居隠て、琵琶を調べ給しに、雲隠れしたる月の俄に最あかく指出たれば、扇ならでも招べかりけりとて、撥を揚てさしのぞきたる顔つき、いみじく臈闌て、匂やかなる気色云ばかりなく、筆を尽してぞ書たりける。一宮此絵を被御覧、無限御心に懸りければ、此絵を暫被召置、みるに慰む方もやとて、巻返々々御覧ぜらるれ共、御心更に不慰。昔漢李夫人甘泉殿の病の床に臥して無墓成給しを、武帝悲みに堪兼て返魂香を焼玉しに、李夫人の面影の烟の中に見へたりしを、似絵に書せて被御覧しかども、「不言不笑令愁殺人。」と、武帝の歎給けんも、現に理と思知せ給ふ。我ながら墓なの心迷やな。誠の色を見てだにも、世は皆夢の中の現とこそ思ひ捨る事なるに、是はそも何事の化し心ぞや。遍照僧正の哥の心を貫之が難じて、「歌のさまは得たれ共実少し。譬へば絵に書ける女を見て徒に心を動すが如し。」と云し、其類にも成ぬる者哉と思棄給へ共、尚文悪なる御心胸に充て、無限御物思に成ければ、傍への色異なる人を御覧じても、御目をだにも回らされず。況て時々の便りにつけて事問通し給ふ御方様へは、一急雨の過る程の笠宿りに可立寄心地にも思召さず。世中にさる人ありと伝聞て御心に懸らば、玉垂の隙求る風の便も有ぬべし。又僅に人を見し許なる御心当ならば、水の泡の消返りても、寄る瀬はなどか無るべきに、是は見しにも非ず聞しにも非ず、古の無墓物語、化なる筆の迹に御心を被悩ければ、無為方思召煩はせ給へば、せめて御心を遣方もやと、御車に被召、賀茂の糾の宮へ詣させ給ひ、御手洗河の川水を御手水に結ばれ、何となく河に逍遥せさせ給ふにも、昔業平中将、恋せじと御祓せし事も、哀なる様に思召出されて、祈る共神やはうけん影をのみ御手洗河の深き思をと詠ぜさせ給ふ時しもあれ、一急雨の過行程、木の下露に立濡て、御袖もしほれたるに、「日も早暮ぬ。」と申声して、御車を轟かして一条を西へ過させ給ふに、誰が栖宿とは不知、墻に苔むし瓦に松生て、年久く住荒したる宿の物さびし気なるに、撥音気高く青海波をぞ調べたる。「怪しや如何なる人なるらん。」と、洗墻に御車を駐めさせて、遥に見入させ給ひたれば、見る人有とも不知体にて、暮居空の月影の、時雨の雲間より幽々と顕れ出たるに、御簾を高く巻上て、年の程二八許なる女房の、云ばかりなくあてやかなるが、秋の別を慕ふ琵琶を弾ずるにてぞ有ける。鉄砕珊瑚一両曲、氷写玉盤千万声、雑錯たる其声は、庭の落葉に紛つゝ、外には降らぬ急雨に、袖渋る許にぞ聞へたる。宮御目も文に熟々と御覧ずるに、此程漫に御心を尽して、夢にもせめて逢見ばやと、恋悲み給ひつる似絵に少しも不違、尚あてやかに臈闌て、云はん方なくぞ見へたりける。御心地空に浮て、たど/\しき程に成せ給へば、御車より下させ給て、築山の松の木陰の立寄せ給へば、女房見る人有と物侘し気にて、琵琶をば几帳の傍らに指寄せて内へ紛れ入ぬ。引や裳裾の白地なる面影に、又立出る事もやとて、立徘徊はせ給たれば、怪げなる御所侍の、御隔子進する音して、早人定りぬれば、何迄角ても可有とて、宮還御成ぬ。絵にかきたりし形にだに、御心を悩されし御事也。まして実の色を被御覧て、何にせんと恋忍ばせ給も理哉。其後よりは太すらなる御気色に見へながら、流石御詞には不被出けるに、常に御会に参り給ふ二条中将為冬、「何ぞや賀茂の御帰さの、幽なりし宵の間の月、又も御覧ぜまぼしく被思召にや。其事ならば最安き事にてこそ侍るめれ。彼の女房の行末を委尋て候へば、今出河右大臣公顕の女にて候なるを、徳大寺左大将に乍申名、未皇太后宮の御匣にて候なる。切に思召れ候はゞ、歌の御会に申寄て彼亭へ入せ給て、玉垂の隙にも、自御心を露す御事にて候へかし。」と申せば、宮例ならず御快げに打笑せ給て、「軈今夜其亭にて可有褒貶御会。」と、右大臣の方へ被仰出ければ、公顕忝と取りきらめきて、数寄の人余た集て、角と案内申せば、宮は為冬許を御供にて、彼亭へ入せ給ぬ。哥の事は今夜さまでの御本意ならねば、只披講許にて、褒貶はなし。主の大臣こゆるぎの急ぎありて、土器もて参りたれば、宮常よりも興ぜさせ給て、郢曲絃歌の妙々に、御盃給はせ給ひたるに、主も痛く酔臥ぬ。宮も御枕を傾させ給へば、人皆定りて夜も已に深にけり。媒の左中将心有て酔ざりければ、其案内せさせて、彼女房の栖ける西の台へ忍入せ給て、墻の隙より見給へば、灯の幽なるに、花紅葉散乱たる屏風引回し、起もせず寝もせぬ体に打濡、只今人々の読たりつる哥の短冊取出して、顔打傾けたれば、こぼれ懸りたる鬢の端れより、匂やかに幽なる容せ、露を含める花の曙、風に随へる柳の夕の気色、絵に書共筆も難及、語るに言も無るべし。外ながら幽に見てし形の、世に又類ひもやあらんと、怪しきまでに思ひしは、尚数ならざりけりと御覧じ居給ふに、御心も早ほれ/゛\と成て、不知我が魂も其袖の中にや入ぬらんと、ある身ともなく覚させ給ふ。時節辺に人も無て、灯さへ幽なれば、妻戸を少し押開て内へ入せ給たるに、女は驚く貌にも非ず、閑やかにもてなして、やはら衣引被て臥たる化妝、云知らずなよやかに閑麗なり。宮も傍に寄伏給て、有しながらの心尽し、哀なる迄に聞へけれ共、女はいらへも申さず、只思にしほれたる其気色、誠に匂深して、花薫り月霞む夜の手枕に、見終ぬ夢の化ある御心迷に、明るも不知語ひ給へ共、尚強顔気色にて程経ぬれば、己が翅を並べながら人の別をも思知ぬ八声の鳥も告渡り、涙の氷解やらず、衣々も冷やかに成て、類も怨き在明の、強顔影に立帰せ給ぬ。其後より度々御消息有て、云ばかりなき御文の数、早千束にも成ぬ覧と覚る程に積りければ、女も哀なる方に心引れて、のぼれば下る稲舟の、否には非ずと思へる気色になん顕れたり。され共尚互に人目を中の関守になして、月比過させ給けるに、式部少輔英房と云儒者、御文談に参じて、貞観政要を読けるに、「昔唐の太宗、鄭仁基が女を后に備へ、元和殿に冊入んとし玉ひしを、魏徴諌て、「此女は已に陸氏に約せり」と申せしかば、太宗其諌に随て、宮中に召るゝ事を休め給き。」と談じけるを、宮熟々と聞召て、何なれば古の君は、かく賢人の諌に付て、好色心を棄給けるぞ。何なる我なれば、已に人の云名付て事定りたる中をさけて、人の心を破るらん。古の様を恥、世の譏を思食て、只御心の中には恋悲ませ給ひけれ共、御詞には不被出、御文をだに書絶て、角とも聞へねば、百夜の榻の端書、今は我や数書ましと打侘て、海士の刈藻に思乱給ふ。角て月日も過ければ、徳大寺此事を聞及、「左様に宮なんどの御心に懸られんを、争でか便なうさる事可有。」とて、早あらぬ方に通ふ道有と聞へければ、宮も今は無御憚、重て御文の有しに、何よりも黒み過て、知せばや塩やく浦の煙だに思はぬ風になびく習ひを女もはや余りに強顔かりし心の程、我ながら憂物に思ひ返す心地になん成にければ、詞は無て、立ぬべき浮名を兼て思はずは風に烟のなびかざらめや其後よりは、彼方此方に結び置れし心の下紐打解て、小夜の枕を河島の、水の心も浅からぬ御契に成しかば、生ては偕老の契深く、又死ては同苔の下にもと思召通して、十月余りに成にけるに、又天下の乱出来て、一宮は土佐の畑へ被流させ給しかば、御息所は独都に留らせ給て、明るも不知歎き沈せ給て、せめてなき世の別なりせば、憂に堪ぬ命にて、生れ逢ん後の契を可憑に、同世ながら海山を隔てゝ、互に風の便の音信をだにも書絶て、此日比召仕はれける青侍・官女の一人も参り通はず、万づ昔に替る世に成て、人の住荒したる蓬生の宿の露けきに、御袖の乾く隙もなく、思召入せ給ふ御有様、争でか涙の玉の緒も存へぬ覧と、怪き程の御事也。宮も都を御出有し日より、公の御事御身の悲み、一方ならず晴やらぬに、又打添て御息所の御名残、是や限と思召しかば、供御も聞召入られず、道の草葉の露共に、消はてさせ給ぬと見へさせ給ふ。惜共思食ぬ御命長らへて、土佐の畑と云所の浅猿く、此世の中とも覚へぬ浦の辺に流されて、月日を送らせ給へば、晴るゝ間もなき御歎、喩へて云ん方もなし。余りに思くづほれさせ給ふ御有様の、御痛敷見奉りければ、御警固に候ける有井庄司、「何か苦く候べき。御息所を忍で此へ入進せられ候へ。」とて、御衣一重し立て、道の程の用意迄細々に沙汰し進せければ、宮無限喜しと思召て、只一人召仕れける右衛門府生秦武文と申随身を、御迎に京へ上せらる。武文御文を給て、急京都へ上り、一条堀川の御所へ参りたれば、葎茂りて門を閉、松の葉積りて道もなし。音信通ふものとては、古き梢の夕嵐、軒もる月の影ならでは、問人もなく荒はてたり。さては何くにか立忍ばせ給ぬらんと、彼方此方の御行末を尋行程に、嵯峨の奥深草の里に、松の袖垣隙あらはなるに、蔦はい懸て池の姿も冷愁く、汀の松の嵐も秋冷く吹しほりて、誰栖ぬらんと見るも懶げなる宿の内に、琵琶を弾ずる音しけり。怪しやと立留て、是を聞ば、紛ふべくもなき御撥音也。武文喜しく思ひて、中々案内も不申、築地の破れより内へ入て、中門の縁の前に畏れば、破れたる御簾の内より、遥に被御覧、「あれや。」と許の御声幽に聞へながら、何共被仰出事もなく、女房達数たさゞめき合ひて、先泣声のみぞ聞へける。「武文御使に罷上り、是迄尋参りて候。」と申も不敢、縁に手を打懸てさめ/゛\と泣居たり。良有て、「只此迄。」と召あれば、武文御簾の前に跪き、「雲井の外に想像進らするも、堪忍び難き御事にて候へば、如何にもして田舎へ御下り候へとの御使に参て候。」とて、御文を捧たり。急ぎ披て御覧ぜらゝるに、げにも御思ひの切なる色さもこそと覚て、言の葉毎に置露の、御袖に余る許なり。「よしや何なる夷の栖居なりとも、其憂にこそ責ては堪め。」とて、既に御門出有ければ、武文甲斐々々敷御輿なんど尋出し、先尼崎まで下し進せて、渡海の順風をぞ相待ける。懸りける折節、筑紫人に松浦五郎と云ける武士、此浦に風を待て居たりけるが、御息所の御形を垣の隙より見進せて、「こはそも天人の此土へ天降れる歟。」と、目枯もせず守り居たりけるが、「穴無端や。縦主ある人にてもあれ、又何なる女院・姫宮にても坐ませ。一夜の程に契を、百年の命に代んは何か惜からん。奪取て下らばや。」と思ける処に、武文が下部の浜の辺に出て行けるを呼寄て、酒飲せ引出物なんど取せて、「さるにても御辺が主の具足し奉て、船に召せんとする上臈は、何なる人にて御渡あるぞ。」と問ければ、下臈の墓なさは、酒にめで引出物に耽りて、事の様有の侭にぞ語りける。松浦大に悦で、「此比何なる宮にても御座せよ、謀反人にて流され給へる人の許へ、忍で下給はんずる女房を、奪捕たり共、差ての罪科はよも非じ。」と思ければ、郎等共に彼宿の案内能々見置せて、日の暮るをぞ相待ける。夜既に深て人定る程に成ければ、松浦が郎等三十余人、物具ひし/\と堅めて、続松に火を立て蔀・遣戸を蹈破り、前後より打て入。武文は京家の者と云ながら、心剛にして日比も度々手柄を顕したる者なりければ、強盜入たりと心得て、枕に立たる太刀をゝつ取て、中門に走出て、打入敵三人目の前に切臥せ、縁にあがりたる敵三十余人大庭へ颯と追出して、「武文と云大剛の者此にあり。取れぬ物を取らんとて、二つなき命を失な、盜人共。」と■て、仰たる太刀を押直し、門の脇にぞ立たりける。松浦が郎等共武文一人に被切立て、門より外へはつと逃たりけるが、「蓬し。敵は只一人ぞ。切て入。」とて、傍なる在家に火を懸て、又喚てぞ寄たりける。武文心は武しといへ共、浦風に吹覆はれたる烟に目暮て、可防様も無りければ、先御息所を掻負進せ、向ふ敵を打払て、澳なる船を招き、「何なる舟にてもあれ、女性暫乗進せてたび候へ。」と申て、汀にぞ立たりける。舟しもこそ多かるに、松浦が迎に来たる舟是を聞て、一番に渚へ差寄たれば、武文大に悦で、屋形の内に打置奉り、取落したる御具足、御伴の女房達をも、舟に乗んとて走帰たれば、宿には早火懸て、我方様の人もなく成にけり。松浦は適我舟に此女房の乗せ給たる事、可然契の程哉と無限悦て、「是までぞ。今は皆舟に乗れ。」とて、郎等・眷属百余人、捕物も不取敢、皆此舟に取乗て、眇の澳にぞ漕出したる。武文渚に帰来て、「其御舟被寄候へ。先に屋形の内に置進せつる上臈を、陸へ上進せん。」と喚りけれども、「耳にな聞入そ。」とて、順風に帆を上たれば、船は次第に隔りぬ。又手繰する海士の小船に打乗て、自櫓を推つゝ、何共して御舟に追著んとしけれ共、順風を得たる大船に、押手の小舟非可追付。遥の沖に向て、挙扇招きけるを、松浦が舟にどつと笑声を聞て、「安からぬ者哉。其儀ならば只今の程に海底の竜神と成て、其舟をば遣まじき者を。」と忿て、腹十文字に掻切て、蒼海の底にぞ沈ける。御息所は夜討の入たりつる宵の間の騒より、肝心も御身に不副、只夢の浮橋浮沈、淵瀬をたどる心地して、何と成行事共知せ給はず。舟の中なる者共が、「あはれ大剛の者哉。主の女房を人に奪はれて、腹を切つる哀さよ。」と沙汰するを、武文が事やらんとは乍聞召、其方をだに見遣せ給はず。只衣引被て屋形の内に泣沈ませ給ふ。見るも恐ろしくむくつけ気なる髭男の、声最なまりて色飽まで黒きが、御傍に参て、「何をかさのみむつからせ給ふぞ。面白き道すがら、名所共を御覧じて御心をも慰ませ給候へ。左様にては何なる人も船には酔物にて候ぞ。」と、兎角慰め申せ共、御顔をも更擡させ給はず、只鬼を一車に載せて、巫の三峡に棹すらんも、是には過じと御心迷ひて、消入せ給ぬべければ、むくつけ男も舷に寄懸て、是さへあきれたる体なり。其夜は大物の浦に碇を下して、世を浦風に漂ひ給ふ。明れば風能成ぬとて、同じ泊りの船共、帆を引梶を取り、己が様々漕行けば、都は早迹の霞に隔りぬ。九国にいつか行著んずらんと、人の云を聞召すにぞ、さては心つくしに行旅也と、御心細きに付ても、北野天神荒人神に成せ給し其古への御悲み、思召知せ給はゞ、我を都へ帰し御座せと、御心の中に祈せ給。其日の暮程に、阿波の鳴戸を通る処に、俄に風替り塩向ふて、此船更に不行遣。舟人帆を引て、近辺の礒へ舟を寄んとすれば、澳の塩合に、大なる穴の底も見へぬが出来て、舟を海底に沈んとす。水主梶取周章て帆薦なんどを投入々々渦に巻せて、其間に船を漕通さんとするに、舟曾不去。渦巻くに随て浪と共に舟の廻る事、茶臼を推よりも尚速也。「是は何様竜神の財宝に目懸られたりと覚へたり。何をも海へ入よ。」とて、弓箭・太刀・々・鎧・腹巻、数を尽して投入たれ共、渦巻事尚不休。「さては若色ある衣裳にや目を見入たるらん。」とて、御息所の御衣、赤き袴を投入たれば、白浪色変じて、紅葉を浸せるが如くなり。是に渦巻き少し閑まりたれ共、船は尚本の所にぞ回居たる。角て三日三夜に成ければ、舟の中の人独も不起上、皆船底に酔臥て、声々に呼叫ぶ事無限。御息所は、さらでだに生る御心地もなき上に、此浪の騒になを御肝消て、更に人心も坐さず。よしや憂目を見んよりは、何なる淵瀬にも身を沈めばやとは思召つれ共、さすがに今を限と叫ぶ声を聞召せば、千尋の底の水屑と成、深き罪に沈なん後の世をだに誰かは知て訪はんと思召す涙さへ尽て、今は更に御くしをも擡させ給はず。むくつけ男も早忙然と成て、「懸る無止事貴人を取奉り下る故に、竜神の咎めもある哉らん。無詮事をもしつる者哉。」と誠に後悔の気色なり。斯る処に梶取一人船底より這出て、「此鳴渡と申は、竜宮城の東門に当て候間、何にても候へ、竜神の欲しがらせ給ふ物を、海へ沈め候はねば、いつも加様の不思議ある所にて候は、何様彼上臈を龍神の思懸申されたりと覚へ候。申も余に邪見に無情候へ共、此御事独の故に若干の者共が、皆非分の死を仕らん事は、不便の次第にて候へば、此上臈を海へ入進せて、百余人の命を助させ給へ。」とぞ申ける。松浦元来無情田舎人なれば、さても命や助かると、屋形の内へ参て、御息所を荒らかに引起し奉り、「余に強顔御気色をのみ見奉るも、無本意存候へば、海に沈め進すべきにて候。御契深くば土佐の畑へ流れよらせ給ひて、其宮とやらん堂とやらん、一つ浦に住せ給へ。」とて、無情掻抱き進せて、海へ投入奉んとす。是程の事に成ては、何の御詞か可有なれば、只夢の様に思召して、つや/\息をも出させ給はず、御心の中に仏の御名許を念じ思召て、早絶入せ給ぬるかと見へたり。是を見て僧の一人便船せられたりけるが、松浦が袖を磬て、「こは如何なる御事にて候ぞや。竜神と申も、南方無垢の成道を遂て、仏の授記を得たる者にて候へば、全く罪業の手向を不可受。而るを生ながら人を忽に海中に沈められば、弥竜神忿て、一人も助る者や候べき。只経を読み陀羅尼を満て法楽に備られ候はんずるこそ可然覚へ候へ。」と、堅く制止宥めければ、松浦理に折て、御息所を篷屋の内に荒らかに投棄奉る。「さらば僧の儀に付て祈りをせよや。」とて、船中の上下異口同音に観音の名号を唱奉りける時、不思議の者共波の上に浮び出て見へたり。先一番に退紅著たる仕丁が、長持を舁て通ると見へて打失ぬ。其次に白葦毛の馬に白鞍置たるを、舎人八人して引て通ると見へて打失ぬ。其次に大物の浦にて腹切て死たりし、右衛門府生秦武文、赤糸威の鎧、同毛の五枚甲の緒を縮、黄■毛なる馬に乗て、弓杖にすがり、皆紅の扇を挙げ、松浦が舟に向て、其舟留まれと招く様に見へて、浪の底にぞ入にける。梶取是を見て、「灘を走る舟に、不思議の見ゆる事は常の事にて候へ共、是は如何様武文が怨霊と覚へ候。其験を御覧ぜん為に、小船を一艘下して此上臈を乗進せ、波の上に突流して、竜神の心を如何と御覧候へかし。」と申せば、「此儀げにも。」とて、小船を一艘引下して、水手一人と御息所とを乗せ奉て、渦の波に漲て巻却る波の上にぞ浮べける。彼早離・速離の海岸山に被放、「飢寒の愁深して、涙も尽ぬ。」と云けんも、人住島の中なれば、立寄方も有ぬべし。是は浦にも非ず、島にも非ず、如何に鳴渡の浪の上に、身を捨舟の浮沈み、塩瀬に回る泡の、消なん事こそ悲けれ。されば竜神もゑならぬ中をや被去けん。風俄に吹分て、松浦が舟は西を指して吹れ行と見へけるが、一の谷の澳津より武庫山下風に被放て、行方不知成にけり。其後浪静り風止ければ、御息所の御船に被乗つる水主甲斐々々敷舟を漕寄て、淡路の武島と云所へ著奉り、此島の為体、回一里に足ぬ所にて、釣する海士の家ならでは、住人もなき島なれば、隙あらはなる葦の屋の、憂節滋き栖に入進せたるに、此四五日の波風に、御肝消御心弱りて、軈て絶入せ給ひけり。心なき海人の子共迄も、「是は如何にし奉らん。」と、泣悲み、御顔に水を灑き、櫓床を洗て御口に入なんどしければ、半時許して活出させ給へり。さらでだに涙の懸る御袖は乾く間も無るべきに、篷漏る滴藻塩草、可敷忍旅寝ならねば、「何迄角ても有佗ぶべき。土佐の畑と云浦へ送りてもやれかし。」と、打佗させ給へば、海士共皆同じ心に、「是程厳敷御渡候上臈を、我等が舟に乗進せて、遥々と土佐迄送り進せ候はんに、何の泊にてか、人の奪取進せぬ事の候べき。」と、叶まじき由を申せば、力及ばせ給はずして、浪の立居に御袖をしぼりつゝ、今年は此にて暮し給ふ。哀は類ひも無りけり。さて一宮は武文を京へ上せられし後は、月日遥に成ぬれ共、何共御左右を申さぬは、如何なる目にも逢ぬる歟と、静心なく思食て、京より下れる人に御尋有ければ、「去年の九月に御息所は都を御出有て、土佐へ御下り候しとこそ慥に承りしか。」と申ければ、さては道にて人に被奪ぬるか、又世を浦風に被放、千尋の底にも沈ぬる歟と、一方ならず思ひくづほれさせ給けるに、或夜御警固に参たる武士共、中門に宿直申て四方山の事共物語しける者の中に、「さるにても去年の九月、阿波の鳴渡を過て当国に渡りし時、船の梶に懸たりし衣を取上て見しかば、尋常の人の装束とも不見、厳かりし事よ。是は如何様院・内裏の上臈女房なんどの田舎へ下らせ給ふが、難風に逢て海に沈み給けん其装束にてぞ有らん。」と語て、「穴哀や。」なんど申合ければ、宮墻越に被聞召、若其行末にてや有らんと不審多く思食て、「聊御覧ぜられたき御事あり。其衣未あらば持て参れ。」と御使有ければ、「色こそ損じて候へ共未私に候。」とて召寄進せたり。宮能々是を御覧ずるに、御息所を御迎に武文を京へ上せられし時、有井庄司が仕立て進せたりし御衣也。穴不思議やとて、裁余したる切れを召出して、差合せられたるに、あやの文少も不違続きたれば、二目共不被御覧、此衣を御顔に押当て、御涙を押拭はせ給ふ。有井も御前に候けるが、涙を袖に懸つゝ罷立にけり。今は御息所の此世に坐す人とは露も不被思召、此衣の橈に懸りし日を、なき人の忌日に被定、自御経を書写せられ、念仏を唱へさせ給て、「過去聖霊藤原氏女、並物故秦武文共に三界の苦海を出て、速に九品の浄刹に到れ。」と祈らせ給ふ。御歎の色こそ哀なれ。去程に其年の春の比より、諸国に軍起て、六波羅・鎌倉・九国・北国の朝敵共、同時に滅びしかば、先帝は隠岐国より還幸成り、一宮は土佐の畑より都へ帰り入らせ給ふ。天下悉公家一統の御世と成て目出かりしか共、一宮は唯御息所の今世に坐さぬ事を歎思食ける処に、淡路の武島に未生て御坐有と聞へければ、急御迎を被下、都へ帰上らせ給ふ。只王質が仙より出て七世の孫に会ひ、方士が海に入て楊貴妃を見奉りしに不異。御息所は、「心づくしに趣し時の心憂さ、浪に回りし泡の消るを争そう命の程、堪兼たりし襟は御推量りも浅くや。」とて、御袖濡る許なり。宮は又「外渡る舟の梶の葉に、書共尽ぬ御歎、無跡問し月日の数、御身に積りし悲みは、語るも言は愚か也。」と書口説せ給ひける。さしも憂かりし世中の、時の間に引替て、人間の栄花、天上の娯楽、不極云事なく、不尽云御遊もなし。長生殿の裏には、梨花の雨不破壌を、不老門の前には、楊柳の風不鳴枝。今日を千年の始めと、目出きためしに思食たりしに、楽尽て悲み来る人間の習なれば、中一年有て、建武元年の冬の比より又天下乱て、公家の御世、武家の成敗に成しかば、一宮は終に越前金崎の城にて御自害有て、御首京都に上て、禅林寺長老夢窓国師、喪礼被執行など聞へしかば、御息所は余りの為方なさに御車に被助載て、禅林寺の辺まで浮れ出させ給へば、是ぞ其御事と覚敷て、墨染の夕の雲に立煙、松の嵐に打靡き、心細く澄上る。さらぬ別の悲さは、誰とても愚ならぬ涙なれ共、宮などの無止事御身を、剣の先に触て、秋の霜の下に消終させ給ぬる御事は、無類悲なれば、想像奉る今はの際の御有様も、今一入の思ひを添て、共に東岱前後の烟と立登り、北芒新丘の露共消なばやと、返る車の常盤に、臥沈ませ給ける、御心の中こそ哀なれ。行て訪旧跡、竹苑故宮月心を傷しめ、帰臥寒閨、椒房寡居の風夢を吹、著見に順聞に、御歎日毎に深く成行ければ、軈御息所も御心地煩ひて、御中陰の日数未終先に、無墓成せ給ひければ、聞人毎に押並て、類ひ少なき哀さに、皆袂をぞ濡しける。
○比叡山開闢事 S1808
金崎の城被攻落て後、諸国の宮方失力けるにや。或は降参し、或は退散して、天下将軍の威に随ふ事、宛如吹風靡草木。在々所々に宮方の城有て、山門又如何なる事をかし出さんずらんと危まれし程こそ、衆徒の心を不違、山門の所領共に被成安堵たりしか、今天下已に武威に帰して静謐しぬる上は、何の憤か可有とて、以前の成敗の事を変じて、山門を三井寺の末寺にやなす、又若干の所領を塞げたるも無益なれば、只一円に九院を没倒し衆徒を追出して、其跡を軍勢にや可充行、高・上杉の人々、将軍の御前に参じて評定しける処に、北小路の玄慧法印出来れり。武蔵守師直、「此人こそ大智広学の物知にて候なれば、加様の事共も存知候はんずれ。此れに山門の事、委く尋問候はゞや。」と被申ければ、将軍、「げにも。」とて、「法印此方へ。」とぞ被呼ける。法印席に直て四海静謐の事共賀し申て、種々の物語共に及びける時、上杉伊豆守重能、法印に向て被申けるは、「以前山門両度の臨幸を許容申て将軍に敵し奉る事無他事。雖然武運合天命に故に、遂に朝敵を一時に亡して、太平を四海に致候き。抑山門毎年の祭礼に、洛中の人民を煩し、三千の聖供共に、国土の庄園を領する事、為世雖多費、公家武家不止之事は、只専御祈祷仰天下静謐故也。而に今為武家結怨、為朝敵致懇祈。是当家の蠧害、釈門の残賊なるべし。風に聞比叡山草創の事、時は延暦の末の年に当れり、君は桓武の治天に始まれり。此寺未立ざりし先に、聖主治国給ふ事相続て五十代、曾異国にも不被侵、妖怪にも不被悩、君巍々の徳を播し、民堂々の化に誇る。以是憶之、有て無益の者は山門也。無て可能山法師也。但山門無ては叶まじき故候哉覧。白河院も、「朕が心に不任は、双六の賽・賀茂河の水・山法師也。」と被仰候けんなる。其議誠に不審しく覚候。御物語候へ、次での才学に仕候はん。」とぞ被申ける。法印熟々と聞之、言語道断の事なり。閉口去塞耳帰らばやと思ひけれ共、若一言の下に、翻邪帰正事もやあらんずらんと思ひければ、中々旨に逆ひ儀を犯す言ばを留めて、長物語をぞ始られける。「夫斯国の起りは家々に伝る処格別にして其説区也といへ共、暫記する処の一儀に、天地已に分れて後、第九の減劫人寿二万歳の時、迦葉仏西天に出世し給ふ。于時大聖釈尊得其授記、住都率天給ひしが、我八相成道之後、遺教流布の地、可有何所と、此南瞻部州を遍く飛行して御覧じけるに、漫々たる大海の上に、一切衆生悉有仏性、如来常住無有変易と立浪の音あり。釈尊是を聞召て、此波の流止らんずる所、一つの国と成て、吾教法弘通する霊地たるべしと思召ければ、則此浪の流行に随て、遥に十万里の蒼海を凌ぎ給ふ。此波忽に一葉の葦の海中に浮べるにぞ留りにける。此葦の葉果して一の島となる。今の比叡山の麓、大宮権現垂跡給ふ波止土濃也。是故に波止て土濃也とは書るなるべし。其後人寿百歳の時釈尊中天竺摩竭陀国浄飯王宮に降誕し給ふ。御歳十九にて二月上八の夜半に王宮を遁れ出、六年難行して雪山に捨身、寂場樹下に端坐し給ふ事、又六年の後夜に正覚を成し後、頓大三七日、遍小十二年、染浄虚融の演説三十年、一実無相の開顕八箇年、遂に滅度を抜提河の辺、双林樹下に唱給ふ。雖然、仏は元来本有常住周遍法界の妙体なれば、為遺教流布、昔葦の葉の国と成し南閻浮提豊葦原の中津国に到て見給ふに、時は鵜羽不葺合尊の御代なれば、人未仏法の名字をだにも不聞。然共此地大日遍照の本国として、仏法東漸の霊地たるべければ、何れの所にか可開応化利生之門、彼方此方を遍歴し給ふ処に、比叡山の麓楽々名美也志賀の浦の辺に、垂釣坐せる老翁あり。釈尊向之、「翁若此地の主たらば此山を吾に与よ。成結界地仏法を弘ん。」と宣ければ、此翁答曰、「我は人寿六千歳の始より、此所の主として、此湖の七度迄蘆原と変ぜしを見たり。但此地結界の地と成らば、釣する所を可失。釈尊早去て他国に求め給へ。」とぞ惜みける。此翁は是白髭明神也。釈尊因茲、寂光土に帰らんとし給ひける処に、東方浄瑠璃世界の教主医王善逝忽然として来り給へり。釈尊大に歓喜し給て、以前老翁が云つる事を語り給ふに、医王善逝称歎して宣はく、「善哉釈迦尊、此地に仏法を弘通し給はん事。我人寿二万歳の始より此国の地主也。彼老翁未知我。何此山を可奉惜哉。機縁時至て仏法東流せば、釈尊は教を伝る大師と成て、此山を開闢し給へ。我は此山の王と成て久く後五百歳の仏法を可護。」と誓約をなし、二仏各東西に去給にけり。角て千八百年を経て後、釈尊は伝教大師と成せ給ふ。延暦二十三年に始て求法の為に漢土に渡り給ふ。則顕密戒の三学淵底に玉を拾ひ、同二十四年に帰朝し給ぬ。爰に桓武皇帝、法の檀度と成せ給て比叡山を被草創始め、伝教大師承勅、根本中堂を建んとて地を引れけるに、紅蓮の如くなる人の舌一つ土の底に有て法華読誦の声不止。大師怪て其故を問給ふに、此舌答て曰く、「我古へ此山に住して、六万部の法華経を読誦せしが、寿命有限身已に雖壊、音声無尽舌は尚存せり。」とぞ申ける。又中堂造営事終て、為本尊大師御手から薬師の像を作り給しに、一度斧を下して、「像法転時、利益衆生、故号薬師、瑠璃光仏。」と唱へて、礼拝し給ける時に、木像の薬師屈首諾かせ給ひけり。其後大師は小比叡の峯に杉の庵を卜て、暫独住し坐ける。或時角ぞ詠じ給ひける。波母山や小比叡の杉の独居は嵐も寒し問人もなしと被遊、観月を澄して御坐ける処に、光明嚇奕たる三つの日輪、空中より飛下れり。其光の中に釈迦・薬師・弥陀の三尊光を並べて坐し給ふ。此三尊或は僧形を現或は俗体に変じて、大師を礼し奉て、「十方大菩薩・愍衆故行道・応生恭敬心・是則我大師。」と讚給ふ。大師大に礼敬し給て、「願は其御名を聞ん。」と問給ふに、三尊答曰、「竪の三点に横の一点を加へ、横の三点に竪の一点を添ふ。我内には円宗の教法を守り、外には済度の方便を助けん為に、此山に来れり。」と答給ふ。其光天に懸れる事、百練の鸞鏡の如し。大師此言を以て文字を成に、竪の三点に横の一点を加へては、山と云字也。横の三点に竪の一点を添ては王と云字也。山は是高大にして不動形、王は天・地・人の三才に経緯たる徳を顕し玉へる称号なるべしとて、其神を山王と崇め奉る。所謂大宮権現は久遠実成の古仏、天照太神の応作、専護円宗教法、久宿比叡山。故に法宿大菩薩とも奉申。既是三界の慈父、我等が本師也。聖真子は九品安養界の化主、八幡大菩薩の分身、光を和四明麓、速示三聖形。雖十悪猶引接事は、疾風の雲霧を披よりも甚し。雖一念必感応なる事は、喩之巨海納涓露。和光同塵は既に為結縁始。往生安楽は豈非得脱終乎。二の宮は初め大聖釈尊と約をなし給ひし東方浄瑠璃世界の如来、吾国秋津州の地主也。随所示願の誓ひ既に叶ふ。現世安隠人望、願生西方の願、豈非後生菩提指南乎。八王子は千手観音の垂跡、以無垢三昧力、済奈落伽重苦、潅頂大法王子也。故に云大八王子。本地清涼の月は雖処安養界、応化随縁の影は遥に顕麓祠露に。各所居の浄土を表ば、是然ら補陀楽山共申つべし。客人宮は十一面観音の応作、白山禅定の霊神也。而助山王行化を、出北陸之崇峯来東山之霊地、故号客人。現在生の中には得十種勝利を、臨命終の時には生九品蓮台。十禅師の宮は無仏世界の化王、地蔵薩■の応化也。忝も受牟尼遺教、懇預■利付嘱に。二仏中間の大導師、三聖執務の法体也。彼御託宣に云、「三千の衆徒を養て我子とし、一乗の教法を守て我命とす。」と示し給ふ。設ひ雖微少結縁也。宜蒙莫大利益。三の宮は普賢菩薩の権化、妙法蓮華の正体也。一乗読誦の窓の前には、影向を垂て哀愍を納受し給ふ。既是慚愧懺悔の教主たり。六根罪障の我等何不奉仰之哉。次に中七社、牛の御子は大威徳、大行事は毘沙門、早尾は不動、気比は聖観音、下八王子は虚空蔵、王子の宮は文殊、聖女は如意輪、次に下七社の小禅師は弥勒竜樹、悪王子は愛染明王、新行事は吉祥天女、岩滝は弁才天、山末は摩利支天、剣宮は不動、大宮の竃殿は大日、聖真子の竃殿は金剛界の大日、二宮竃殿は日光・月光各出大悲門趣利生之道給ふ。其後四所の菩薩、化を助けて十方より来至し、三七の霊神光を並べて四辺に囲繞し給ふ。夫済渡利生の区なる徳、百千劫の間に舌を暢て説共不可尽。山は戒定慧の三学を表し建三塔。人は一念三千の義を以て員とす。十二願王回眸故に、天下の治乱此冥応に不懸と云事なく、七社権現垂跡故に、海内の吉凶其玄鑒に不依と云事なし。されば朝廷に有事日は祈之除災致福。山門有訴時は傷之以非被理。爰に両度の臨幸を山門に許容申たりしは、一往衆徒の僻事に以て候へ共、窮鳥入懐時は狩人も哀之不殺事にて候。況乎十善の君の御恃あらんに誰か可不与申。譬ば其時の久執の輩、少々相残て野心を挿み候共、武将忘其恨、厚恩被行徳候者、敵の運を祈らんずる勤は却て一家の祈となり、朝敵を贔負せん心変じて、御方の御ために無弐者と成り候べし。」と、内外の理致明かに、尽言被申たりければ、将軍・左兵衛督を奉始、高・上杉・頭人・評定衆に至る迄、さては山門なくて、天下を治る事有まじかりけりと信仰して、則旧領安堵の外に、武家益々寄進の地をぞ被副ける。


太平記
太平記巻第十九

○光厳院殿重祚御事 S1901
建武三年六月十日、光厳院太上天皇重祚の御位に即進せたりしが、三年の内に天下反覆して宋鑒ほろびはてしかば、其例いかゞあるべからんと、諸人異議多かりけれ共、此将軍尊氏卿の筑紫より攻上し時、院宣をなされしも此君也。今又東寺へ潜幸なりて、武家に威を加られしも此御事なれば、争其天恩を報じ申さではあるべきとて、尊氏卿平にはからひ申されける上は、末座の異見再往の沙汰に及ばず。其比物にも覚へぬ田舎の者共、茶の会酒宴の砌にて、そゞろなる物語しけるにも、「あはれ此持明院殿ほど、大果報の人はをはせざりけり。軍の一度をもし給はずして、将軍より王位を給らせ給たり。」と、申沙汰しけるこそをかしけれ。
○本朝将軍補任兄弟無其例事 S1902
同年十月三日改元有て、延元にうつる。其十一月五日の除目に、足利宰相尊氏卿、上首十一人を越て、位正三位にあがり、官大納言に遷て、征夷将軍の武将に備り給ふ。舎弟左馬頭直義朝臣は、五人を越て、位四品に叙し、官宰相に任じて、日本の副将軍に成給ふ。夫我朝に将軍を置れし初は、養老四年に多治比の真人県守、神亀元年に藤原朝臣宇合、宝亀十一年に藤原朝臣継綱。其後時代遥に隔て藤原朝臣小里丸、大伴宿禰家持・紀朝臣古佐美・大伴宿禰乙丸・坂上宿禰田村丸・文屋宿禰綿丸・藤原朝臣忠文・右大将宗盛・新中納言知盛・右大将源頼朝・木曾左馬頭源義仲・左衛門督頼家・右大臣実朝に至まで其人十六人皆功の抽賞に依て、父子其先を追事ありといへども、兄弟一時に相双で、大樹の武将に備事、古今未其例を聞ずと、其方様の人は、皆驕逸の思気色に顕たり。其外宗との一族四十三人、或は象外の選に当り、俗骨忽に蓬莱の雲をふみ、或乱階の賞に依て、庸才立ろに台閣の月を攀。加之其門葉たる者は、諸国の守護吏務を兼て、銀鞍未解、五馬忽策重山之雲、蘭橈未乾、巨船遥棹滄海之浪。総て博陸輔佐の臣も、是に向て上位を臨ん事を憚る。況や名家儒林の輩は、彼仁に列て下風に立ん事を喜べり。
○新田義貞落越前府城事 S1903
左中将義貞朝臣・舎弟脇屋右衛門佐義助は、金崎城没落の後、杣山の麓瓜生が館に、有も無が如にてをはしましけるが、いつまでか右て徒に時を待べき。所々に隠れ居たる敗軍の兵を集て国中へ打出、吉野に御座ある先帝の宸襟をも休め進せ、金崎にて討れし亡魂の恨をも散ぜばやと思はれければ、国々へ潜に使を通じて、旧功の輩をあつめられけるに、竜鱗に付き、鳳翼を攀て、宿望を達せばやと、蟄居に時を待ける在々所々の兵共、聞伝々々抜々に馳集りける程に、馬・物具なんどこそきら/\敷はなけれ共、心ばかりはいかなる樊■・周勃にも劣じと思へる義心金鉄の兵共、三千余騎に成にけり。此事軈て、京都に聞へければ、将軍より足利尾張守高経・舎弟伊予守二人を大将として、北陸道七箇国の勢六千余騎を差副、越前府へぞ下されける。右て数月をふれ共、府は大勢なり、杣山は要害なれば、城へも寄えず府へも懸りへず、只両陣の堺、大塩・松崎辺に兵を出し合て、日々夜々に軍の絶る隙もなし。かゝる所に加賀国の住人、敷地伊豆守・山岸新左衛門・上木平九郎以下の者共、畑六郎左衛門尉時能が語に付て、加賀・越前堺、細呂木の辺に城郭をかまへ、津葉五郎が大聖寺の城を責落て、国中を押領す。此時までは平泉寺の衆徒等、皆二心なき将軍方にてありけるが、是もいかゞ思けん、過半引分て宮方に与力申し、三峰と云所へ打出、城をかまへて敵を待所に、伊自良次郎左衛門尉、是に与して三百余騎にて馳加る間、近辺の地頭・御家人等、ふせぎ戦に力を失て、皆己が家々に火を懸て、府の陣へ落集る。北国是より動乱して、汗馬の足を休めず。三峰の衆徒の中より杣山へ使者を立て、大将を一人給て合戦を致すべき由を申ける間、脇屋右衛門佐義助朝臣五百余騎を相副て三峯の陣へ指遣さる。牒使又加賀国に来て前に相図を定らるゝ間、敷地・上木・山岸・畑・結城・江戸・深町の者共、細屋右馬助を大将として、其勢三千余騎越前国へ打こへ、長崎・河合・川口三箇所に城を構て漸々に府へぞ責寄ける。尾張守高経は、六千余騎を随へて府中にたて篭られたりけるが、敵に国中を押取れて、一所に篭居ては兵粮につまりて、ついによかるまじとて、三千余騎をば府に残しをき、三千余騎をば一国に分遣て山々峯々に城を構へ、兵を二百騎・三百騎づゝ三十余箇所にぞ置れける。戦場雪深して馬の足の立ぬ程は、城と城とを合て昼夜旦暮合戦を致すといへ共、僅に一日雌雄を争ふ計にて、誠の勝負は未なかりけり。去程にあら玉の年立帰て二月中旬にも成ければ、余寒も漸く退て、士卒弓をひくに手かゞまらず、残雪半村消て、疋馬地を蹈に蹄を労せず。今は時分よく成ぬ。次第に府辺へ近付寄て、敵の往反する道々に城をかまへて、四方を差塞で攻戦べし。何くか用害によかるべき所あると、見試ん為に、脇屋右衛門佐僅百四五十騎にて、鯖江の宿へ打出られけり。名将小勢にて城の外に打出たるを、能隙なりと、敵にや人の告たりけん。尾張守の副将軍細川出羽守五百余騎にて府の城より打出鯖江宿へ押寄、三方より相近付て、一人もあまさじとぞ取巻ける。脇屋右衛門前後の敵に囲れて、とても遁ぬ所也と思切てければ、中々心を一にして少も機を撓さず。後陣に高木の社をあて、左右に瓜生畔を取て、矢種を惜まず散々に射させて、敵に少も馬の足を立させず、七八度が程遭つ啓つ追立追立攻付たるに、細川・鹿草が五百余騎、纔の勢に懸立られて、鯖江の宿の後なる川の浅瀬を打わたり、向の岸へ颯と引。結城上野介・河野七郎・熊谷備中守・伊東大和次郎・足立新左衛門・小島越後守・中野藤内左衛門・瓜生次郎左衛門尉八騎の兵共、川の瀬頭に打のぞみ、つゞいて渡さんとしけるが、大将右衛門佐、馬を打寄て制せられけるは、「小勢の大勢に勝事は暫時の不思議也。若難所に向て敵にかゝらば、水沢に利を失て、敵却て機に乗べし。今日の合戦は、不慮に出来つる事なれば、遠所の御方是をしらで、左右なく馳来らじと覚るぞ。此辺の在家に火を懸て、合戦ありと知せよ。」と、下知せられければ、篠塚五郎左衛門馳廻て、高木・瓜生・真柄・北村の在家二十余箇所に火を懸て、狼烟天を焦せり。所々の宮方此烟を見て、「すはや鯖江の辺に軍の有けるは、馳合て御方に力を合よ。」とて、宇都宮美濃将監泰藤・天野民部大輔政貞三百余騎にて、鯖並の宿より馳来。一条少将行実朝臣、二百余騎にて飽和より打出らる。瓜生越前守重・舎弟加賀守照、五百余騎にて妙法寺の城より馳下る。山徒三百余騎は大塩の城よりをり合ひ、河島左近蔵人惟頼は、三百余騎にて三峯の城より馳来り、総大将左中将義貞朝臣は、千余騎にて杣山よりぞ出られける。合戦の相図ありと覚へて、所々の宮方鯖江の宿へ馳集る由聞へければ、「未河ばたに叩へたる御方討すな。」とて、尾張守高経・同伊予守三千余騎を率して、国分寺の北へ打出らる。両陣相去事十余町、中に一の河を隔つ。此河さしもの大河にてはなけれ共、時節雪消に水増て、漲る浪岸をひたしければ、互に浅瀬を伺見て、いづくをか渡さましと、暫く猶予しける処に、船田長門守が若党葛新左衛門と云者、川ばたに打寄て、「此河は水だに増れば州俄に出来て、案内知ぬ人は、いつも謬する河にて候ぞ。いで其瀬ぶみ仕らん。」と云まゝに、白蘆毛なる馬に、かし鳥威の鎧著て、三尺六寸のかひしのぎの太刀を抜、甲の真向に指かざし、たぎりて落る瀬枕に、只一騎馬を打入て、白浪を立てぞ游せける。我先に渡さんと打のぞみたる兵三千余騎これを見て、一度に颯と打入て、弓の本筈末筈取ちがへ、馬の足の立所をば手綱をさしくつろげて歩せ、足のたゝぬ所をば馬の頭をたゝき上て泳せ、真一文字に流をきつて、向の岸へ懸あげたり。葛新左衛門は、御方の勢に二町ばかり先立て渡しければ、敵の為に馬のもろ膝ながれて、歩立に成て敵六騎に取篭られて、已に打れぬと見へける処に、宇都宮が郎等に清の新左衛門為直馳合て、敵二騎切て落し、三騎に手負せ、葛新左衛門をば助てけり。寄る勢も三千余騎、ふせぐ勢も三千余騎、大将は何れも名を惜む源氏一流の棟梁也。而も馬の懸引たやすき在所なれば、敵御方六千余騎、前後左右に追つ返つ入乱、半時ばかりぞ戦たる。かくては只命を限の戦にて、いつ勝負あるべしとも見へざりける処に、杣山河原より廻ける三峰の勢と、大塩より下る山法師と差違て、敵陣の後へ廻り、府中に火を懸たりけるに、尾張守の兵三千余騎、敵を新善光寺の城へ入かはらせじと、府中を指引返す。義貞朝臣の兵三千余騎、逃る敵を追すがうて、透間もなく攻入ける間、城へ篭らんと逃入勢共、己が拵たる木戸逆木に支られて、城へ入べき逗留もなかりければ、新善光寺の前を、府より西へ打過る。伊予守の勢千余騎は、若狭をさして引ければ、尾張守の兵二千余騎、織田・大虫を打過て、足羽の城へぞ引れける。都て此日一時の戦に、府の城すでに責落されぬと聞及て、未敵も寄ざる先に、国中の城の落事、同時に七十三箇所也。
○金崎東宮並将軍宮御隠事 S1904
新田義貞・義助杣山より打出て、尾張守・伊予守府中を落、其外所々の城落されぬと聞へければ、尊氏卿・直義朝臣大に忿て、「此事は偏に春宮の彼等を御扶あらん為に、金崎にて此等は腹を切たりと宣しを、誠と心得て、杣山へ遅く討手を差下つるによつて也。此宮是程当家を失はんと思召けるを知らで、若只置奉らば、何様不思議の御企も有ぬと覚れば、潜に鴆毒を進て失奉れ。」と、粟飯原下総守氏光にぞ下知せられける。春宮は、連枝の御兄弟将軍の宮とて、直義朝臣先年鎌倉へ申下参せたりし先帝第七の宮と、一処に押篭られて御座ありける処へ、氏光薬を一裹持て参り、「いつとなく加様に打篭て御座候へば、御病気なんどの萌す御事もや候はんずらんとて、三条殿より調進せられて候、毎朝一七日聞食候へ。」とて、御前にぞ閣ける。氏光罷帰て後、将軍宮此薬を御覧ぜられて宣けるは、「未見へざるさきに、兼て療治を加る程に我等を思はゞ、此一室の中に押篭て朝暮物を思はすべしや。是は定て病を治する薬にはあらじ、只命を縮る毒なるべし。」とて、庭へ打捨んとせさせ給けるを、春宮御手に取せ給て、「抑尊氏・直義等、其程に情なき所存を挿む者ならば、縦此薬をのまず共遁べき命かは。是元来所願成就也。此毒を呑世をはやうせばやとこそ存候へ。「夫れ人間の習、一日一夜を経る間に八億四千の念あり。一念悪を発せば一生の悪身を得、十念悪を発せば十生悪身を受く。乃至千億の念も又爾也。」といへり。如是一日の悪念の報、受尽さん事猶難し。況一生の間の悪業をや。悲哉、未来無窮の生死出離何れの時ぞ。富貴栄花の人に於て、猶此苦を遁ず。況我等篭鳥の雲を恋、涸魚の水を求る如に成て、聞に付見るに随ふ悲の中に、待事もなき月日を送て、日のつもるをも知らず。悪念に犯されんよりも、命を鴆毒の為に縮て、後生善処の望を達んにはしかじ。」と仰られて、毎日法華経一部あそばされ、念仏唱させ給て、此鴆毒をぞ聞召ける。将軍の宮是を御覧じて、「誰とても懸る憂き世に心を留べきにあらず、同は後生までも御供申さんこそ本意なれ。」とて、諸共に此毒薬を七日までぞ聞食ける。軈春宮は、其翌日より御心地例に違はせ給けるが、御終焉の儀閑にして、四月十三日の暮程に、忽に隠させ給けり。将軍宮は二十日余まで後座ありけるが、黄疸と云御いたはり出来て、御遍身黄に成せ給て、是も終に墓なくならせ給にけり。哀哉尸鳩樹頭の花、連枝早く一朝の雨に随ひ、悲哉鶺鴒原上の草、同根忽に三秋の霜に枯ぬる事を。去々年は兵部卿親王鎌倉にて失はれさせ給ひ、又去年の春は中務親王金崎にて御自害あり。此等をこそためしなく哀なる事に、聞人心を傷しめつるに、今又春宮・将軍宮、幾程なくて御隠れありければ、心あるも心なきも、是をきゝ及ぶ人毎に、哀を催さずと云事なし。かくつらくあたり給へる直義朝臣の行末、いかならんと思はぬ人も無りけるが、果して毒害せられ給ふ事こそ不思議なれ。
○諸国宮方蜂起事 S1905
主上山門より還幸なり、官軍金崎にて皆うたれぬと披露有ければ、今は再び皇威に服せん事、近き世にはあらじと、世挙て思定ける処に、先帝又三種の神器を帯して、吉野へ潜幸なり、又義貞朝臣已に数万騎の軍勢を率して、越前国に打出たりと聞へければ、山門より降参したりし大館左馬助氏明、伊予国へ逃下り、土居・得能が子共と引合て、四国を討従へんとす。江田兵部大夫行義も丹波国に馳来て、足立・本庄等を相語て、高山寺にたて篭る。金谷治部大輔経氏、播磨の東条より打出、吉河・高田が勢を付て、丹生の山陰に城郭を構へ、山陰の中道を差塞ぐ。遠江の井介は、妙法院宮を取立まいらせて、奥の山に楯篭る。宇都宮治部大輔入道は、紀清両党五百余騎を率して、吉野へ馳参ければ、旧功を捨ざる志を君殊に叡感有て、則是を還俗せさせられ四位少将にぞなされける。此外四夷八蛮、此彼よりをこるとのみ聞へしかば、先帝旧労の功臣、義貞恩顧の軍勢等、病雀花を喰て飛揚の翅を伸、轍魚雨を得て■■の脣を湿すと、悦び思はぬ人もなし。
○相摸次郎時行勅免事 S1906
先亡相摸入道宗鑒が二男相摸次郎時行は、一家忽に亡し後は、天に跼り地に蹐して、一身を置に安き所なかりしかば、こゝの禅院、彼の律院に、一夜二夜を明て隠ありきけるが、窃に使者を吉野殿へ進て申入けるは、「亡親高時法師、臣たる道を弁へずして、遂に滅亡を勅勘の下に得たりき。然といへ共、天誅の理に当る故を存ずるに依て、時行一塵も君を恨申処を存候はず。元弘に義貞は関東を滅し、尊氏は六波羅を攻落す。彼両人何も勅命に依て、征罰を事とし候し間、憤を公儀に忘れ候し処に、尊氏忽に朝敵となりしかば、威を綸命の下に仮て、世を叛逆の中に奪んと企ける心中、事已に露顕し候歟。抑尊氏が其人たる事偏に当家優如の厚恩に依候き。然に恩を荷て恩を忘れ、天を戴て天を乖けり。其大逆無道の甚き事、世の悪む所人の指さす所也。是を以当家の氏族等、悉敵を他に取らず。惟尊氏・直義等が為に、其恨を散ん事を存ず。天鑒明に下情を照されば、枉て勅免を蒙て、朝敵誅罰の計略を廻すべき由、綸旨を成下れば、宜く官軍の義戦を扶け、皇統の大化を仰申べきにて候。夫不義の父を誅せられて、忠功の子を召仕はるゝ例あり。異国には趙盾、我朝には義朝、其外泛々たるたぐひ、勝計すべからず。用捨無偏、弛張有時、明王の撰士徳也。豈既往の罪を以て、当然の理を棄られ候はんや。」と、伝奏に属して委細にぞ奏聞したりける。主上能々聞召て、「犁牛のたとへ、其理しか也。罰其罪にあたり、賞其功に感ずるは善政の最たり。」とて、則恩免の綸旨をぞ下れける。
○奥州国司顕家卿並新田徳寿丸上洛事 S1907
奥州の国司北畠源中納言顕家卿、去元弘三年正月に、園城寺合戦の時上洛せられて義貞に力を加へ、尊氏卿を西海に漂はせし無双の大功也とて、鎮守府の将軍に成れて、又奥州へぞ下されける。其翌年官軍戦破れて、君は山門より還幸なりて、花山院の故宮に幽閉せられさせ給ひ、金崎の城は攻落されて、義顕朝臣自害したりと聞へし後は、顕家卿に付随ふ郎従、皆落失て勢微々に成しかば、纔に伊達郡霊山の城一を守て、有も無が如にてぞをはしける。かゝる処に、主上は吉野へ潜幸なり義貞は北国へ打出たりと披露ありければ、いつしか又人の心替て催促に随ふ人多かりけり。顕家卿時を得たりと悦て、廻文を以て便宜の輩を催さるゝに、結城上野入道々忠を始として、伊達・信夫・南部・下山六千余騎にて馳加る。国司則其勢を合て三万余騎、白川の関へ打越給に、奥州五十四郡の勢共、多分はせ付て、程なく十万余騎に成にけり。さらば軈鎌倉を責落て、上洛すべしとて、八月十九日白川関を立て、下野国へ打越給ふ。鎌倉の管領足利左馬頭義詮此事を聞給て、上杉民部大夫・細川阿波守・高大和守、其外武蔵・相摸の勢八万余騎を相副て、利根河にて支らる。去程に、両陣の勢東西の岸に打臨で、互に是を渡さんと、渡るべき瀬やあると見ければ、其時節余所の時雨に水増て、逆波高く漲り落て、浅瀬はさてもありや無やと、事問べき渡守さへなければ、両陣共に水の干落るほどを相待て、徒に一日一夜は過にけり。爰に国司の兵に、長井斉藤別当実永と云者あり。大将の前にすゝみ出て申けるは、「古より今に至まで、河を隔たる陣多けれ共、渡して勝ずと云事なし。縦水増て日来より深く共、此川宇治・勢多・藤戸・富士川に勝る事はよもあらじ。敵に先づ渡されぬさきに、此方より渡て、気を扶て戦を決候はんに、などか勝で候べき。」と申ければ、国司、「合戦の道は、勇士に任るにしかず、兎も角も計ふべし。」とぞ宣ける。実永大に悦て、馬の腹帯をかため、甲の緒をしめて、渡さんと打立けるを見て、いつも軍の先を争ひける部井十郎・高木三郎、少も前後を見つくろはず、只二騎馬を颯と打入て、「今日の軍の先懸、後に論ずる人あらば、河伯水神に向て問へ。」と高声に呼て、箆橈形に流をせいてぞ渡しける。長井斉藤別当・舎弟豊後次郎、兄弟二人是を見て、「人の渡したる処を渡ては、何の高名かあるべき。」と、共に腹を立て、是より三町計上なる瀬を只二騎渡けるが、岩浪高して逆巻く波に巻入られて、馬人共に見へず、水の底に沈で失にけり。其身は徒に溺て、尸は急流の底に漂といへ共、其名は永く止て武を九泉の先に耀す。さてこそ鬚髪を染て討死せし実盛が末とは覚へたれと、万人感ぜし言の下に先祖の名をぞ揚たりける。是を見て、奥州の勢十万余騎、一度に打入れて、まつ一文字に渡せば、鎌倉勢八万余騎、同時に渡合て、河中にて勝負を決せんとす。され共先一番に渡つる奥勢の人馬に、東岸の流せかれて、西岸の水の早き事、宛竜門三級の如なれば、鎌倉の先陣三千余騎、馬筏を押破られて、浮ぬ沈ぬ流行。後陣の勢は是を見て、叶はじとや思けん、河中より引返て、平野に支て戦けるが、引立ける軍なれば、右往左往に懸ちらされて、皆鎌倉へ引返す。国司利根川の合戦に打勝て、勢漸強大に成と云ども、鎌倉に猶東八箇国の勢馳集て、雲霞の如なりと聞ければ、武蔵の府に五箇日逗留して、窃に鎌倉の様をぞ伺ひきゝ給ける。かゝる処に、宇都宮左少将公綱、紀清両党千余騎にて国司に馳加る。然共、芳賀兵衛入道禅可一人は国司に属せず。公綱が子息加賀寿丸を大将として、尚当国宇都宮の城に楯篭る。これに依て国司、伊達・信夫の兵二万余騎を差遣て、宇都宮の城を責らるゝに、禅可三日が中に攻落れて降参したりけるが、四五日を経て後又将軍方にぞ馳付ける。此時に先亡の余類相摸次郎時行も、已に吉野殿より勅免を蒙てければ、伊豆国より起て、五千余騎足柄・箱根に陣を取て、相共に鎌倉を責べき由を国司の方へ牒せらる。又新田左中将義貞の次男徳寿丸、上野国より起て、二万余騎武蔵国へ打越て、入間河にて著到を付け、国司の合戦若延引せば、自余の勢を待ずして鎌倉を責べしとぞ相謀ける。鎌倉には上杉民部大夫・同中務大夫・志和三郎・桃井播磨守・高大和守以下宗との一族大名数十人、大将足利左馬頭義詮の御前に参て、評定ありけるは、「利根川の合戦の後、御方は気を失て大半は落散候、御敵は勢に乗て、弥猛勢に成候ぬ。今は重て戦共勝事を得難し。只安房・上総へ引退て、東八箇国の勢何方へか付と見て、時の反違に随ひ、軍の安否を計て戦ふべきか。」と、延々としたる評定のみ有て、誠に冷しく聞へたる義勢は更になかりけり。
○追奥勢跡道々合戦事 S1908
大将左馬頭殿は其比纔に十一歳也。未思慮あるべき程にてもをはせざりけるが、つく/゛\と此評定を聞給て、「抑是は面々の異見共覚へぬ事哉、軍をする程にては一方負ぬ事あるべからず。漫に怖ば軍をせぬ者にてこそあらめ。苟も義詮東国の管領として、たま/\鎌倉にありながら、敵大勢なればとて、爰にて一軍もせざらんは、後難遁れがたくして、敵の欺ん事尤当然也。されば縦御方小勢なりとも、敵寄来らば馳向て戦はんに、叶はずは討死すべし。若又遁つべくは、一方打破て、安房・上総の方へも引退て、敵の後に随て上洛し、宇治・勢多にて前後より責たらんに、などか敵を亡さゞらん。」と謀濃に義に当て宣ければ、勇将猛卒均く此一言に励されて、「さては討死するより外の事なし。」と、一偏に思切て鎌倉中に楯篭る。其勢一万余騎には過ざりけり。是を聞て国司・新田徳寿丸・相摸次郎時行・宇都宮の紀清両党、彼此都合十万余騎、十二月二十八日に、諸方皆牒合て、鎌倉へとぞ寄たりける。鎌倉には敵の様を聞て、とても勝べき軍ならずと、一筋に皆思切たりければ、城を堅し塁を深くする謀をも事とせず、一万余騎を四手に分て、道々に出合、懸合々々一日支て、各身命を惜まず戦ける程に、一方の大将に向はれける志和三郎杉下にて討れにければ、此陣より軍破て寄手谷々に乱入る。寄手三方を囲て御方一処に集しかば、打るゝ者は多して戦兵は少。かくては始終叶べしとも見へざりければ、大将左馬頭殿を具足し奉て、高・上杉・桃井以下の人々、皆思々に成てぞ落られける。かゝりし後は、東国の勢宮方に随付事雲霞の如し。今は鎌倉に逗留して、何の用かあるべきとて、国司顕家卿以下、正月八日鎌倉を立て、夜を日についで上洛し給へば、其勢都合五十万騎、前後五日路左右四五里を押て通るに、元来無慚無愧の夷共なれば、路次の民屋を追捕し、神社仏閣を焼払ふ。総此勢の打過ける跡、塵を払て海道二三里が間には、在家の一宇も残らず草木の一本も無りけり。前陣已に尾張の熱田に著ければ、摂津大宮司入道源雄、五百余騎にて馳付、同日美濃の根尾・徳山より堀口美濃守貞満、千余騎にて馳加る。今は是より京までの道に、誰ありとも此勢を聊も支んとする者は有がたしとぞ見へたりける。爰に鎌倉の軍に打負て、方々へ落られたりける上杉民部大輔・舎弟宮内少輔は、相摸国より起り、桃井播磨守直常は、箱根より打出、高駿河守は安房・上総より鎌倉へ押渡り、武蔵・相摸の勢を催るゝに、所存有て国司の方へは付ざりつる江戸・葛西・三浦・鎌倉・坂東の八平氏・武蔵の七党、三万余騎にて馳来る。又清の党旗頭、芳賀兵衛入道禅可も、元来将軍方に志有ければ、紀清両党が国司に属して上洛しつる時は、虚病して国に留たりけるが、清の党千余騎を率して馳加る。此勢又五万余騎国司の跡を追て、先陣已に遠江に著ば、其国の守護今河五郎入道、二千余騎にて馳加る。中一日ありて三河国に著ば、当国守護高尾張守、六千余騎にて馳加る。又美濃の州俣へ著ば、土岐弾正少弼頼遠、七百余騎にて馳加る。国司の勢六十万騎前を急て、将軍を討奉らんと上洛すれば、高・上杉・桃井が勢は八万余騎、国司を討んと跡に付て追て行。「蟷螂蝉をうかゞへば、野鳥蟷螂を窺ふ。」と云荘子が人間世のたとへ、げにもと思ひ知れたり。
○青野原軍事付嚢沙背水事 S1909
坂東よりの後攻の勢、美濃国に著て評定しけるは、「将軍は定て宇治・勢多の橋を引て、御支あらんずらん。去程ならば国司の勢河を渡しかねて、徒に日を送べし。其時御方の勢労兵の弊に乗て、国司の勢を前後より攻んに、勝事を立ろに得つべし。」と申合れけるを、土岐頼遠黙然として耳を傾けゝるが、「抑目の前を打通る敵を、大勢なればとて、矢の一をも射ずして、徒に後日の弊に乗ん事を待ん事は、只楚の宋義が「蚊を殺には其馬を撃ず。」と云しに似たるべし。天下の人口只此一挙に有べし。所詮自余の御事は知ず、頼遠に於ては命を際の一合戦して、義にさらせる尸を九原の苔に留むべし。」と、又余儀もなく申されければ、桃井播磨守、「某も如此存候。面々はいかに。」と申されければ、諸大将皆理に服して、悉此儀にぞ同じける。去程に奥勢の先陣、既垂井・赤坂辺に著たりけるが、跡より上る後攻の勢近づきぬと聞へければ、先其敵を退治せよとて、又三里引返して、美濃・尾張両国の間に陣を取らずと云処なし。後攻の勢は八万余騎を五手に分、前後を鬮に取たりければ、先一番に小笠原信濃守・芳賀清兵衛入道禅可二千余騎にて志貴の渡へ馳向ば、奥勢の伊達・信夫の兵共、三千余騎にて河を渡てかゝりけるに、芳賀・小笠原散々に懸立られて、残少に討れにけり。二番に高大和守三千余騎にて、州俣河を渡る所に、渡しも立ず、相摸次郎時行五千余騎にて乱合、互に笠符をしるべにて組で落、々重て頚を取り、半時ばかり戦たるに、大和守が憑切たる兵三百余人討れにければ、東西に散靡て山を便に引退く。三番に今河五郎入道・三浦新介、阿字賀に打出て、横逢に懸る所を、南部・下山・結城入道、一万余騎にて懸合、火出程に戦たり。今河・三浦元来小勢なれば、打負て河より東へ引退く。四番に上杉民部大輔・同宮内小輔、武蔵・上野の勢一万余騎を率して、青野原に打出たり。爰には新田徳寿丸・宇都宮の紀清両党三万余騎にて相向ふ。両陣の旗の紋皆知りたる兵共なれば、後の嘲をや恥たりけん、互に一足も引ず、命を涯に相戦ふ。毘嵐断て大地忽に無間獄に堕、水輪涌て世界こと/゛\く有頂天に翻へらんも、かくやと覚るばかり也。され共大敵とりひしくに難ければ、上杉遂に打負て、右往左往に落て行。五番に桃井播磨守直常・土岐弾正少弼頼遠、態と鋭卒をすぐつて、一千余騎渺々たる青野原に打出て、敵を西北に請てひかへたり。是には奥州の国司鎮守府将軍顕家卿・副将軍春日少将顕信、出羽・奥州の勢六万余騎を率して相向ふ。敵に御方を見合すれば、千騎に一騎を合すとも、猶当るに足ずと見ける処に、土岐と桃井と、少も機を呑れず、前に恐べき敵なく、後に退くべき心有とも見へざりけり。時の声を挙る程こそ有けれ、千余騎只一手に成て、大勢の中に颯と懸入、半時計戦て、つと懸ぬけて其勢を見れば、三百余騎は討れにけり。相残勢七百余騎を又一手に束ねて、副将軍春日少将のひかへたる二万余騎が中へ懸入て、東へ追靡、南へ懸散し、汗馬の足を休めず、太刀の鐔音止時なく、や声を出てぞ戦合たる。千騎が一騎に成までも、引な引なと互に気を励して、こゝを先途と戦けれ共、敵雲霞の如くなれば、こゝに囲れ彼に取篭られて、勢もつき気も屈しければ、七百余騎の勢も、纔に二十三騎に打成され、土岐は左の目の下より右の口脇・鼻まで、鋒深に切付られて、長森の城へ引篭る。桃井も三十余箇度の懸合に七十六騎に打成され、馬の三図・平頚二太刀切れ、草摺のはづれ三所つかれて、余に戦疲ければ、「此軍是に限るまじ、いざや人々馬の足休ん。」と、州俣河に馬を追漬て、太刀・長刀の血を洗て、日も暮れば野に下居て、終に河より東へは越給はず。京都には奥勢上洛の由、先立て聞へけれ共、土岐美濃国にあれば、さりとも一支は支へんずらんと、憑敷思はれける処に、頼遠既に青野原の合戦に打負て、行方知らずとも聞へ、又は討れたり共披露ありければ、洛中の周章斜ならず。さらば宇治・勢多の橋を引てや相待つ。不然ば先西国の方へ引退て、四国・九州の勢を付て、却て敵をや攻べきと異議まち/\に分て、評定未落居せざりけるに、越後守師泰且く思案して申されけるは、「古より今に至まで、都へ敵の寄来る時、宇治・勢多の橋を曳て戦事度々也。然れ共此河にて敵を支て、都を落されずと云事なし。寄る者は広く万国を御方にして威に乗り、防ぐ者は纔に洛中を管領して気を失故也。不吉の例を逐て、忝く宇治・勢多の橋を引、大敵を帝都の辺にて相待んよりは、兵勝の利に付て急近江・美濃辺に馳向ひ、戦を王城の外に決せんには如じ。」と、勇み其気に顕れ謀其理に協て申されければ、将軍も師直も、「此儀然べし。」とぞ甘心せられける。「さらば時刻をうつさず向へ。」とて、大将軍には高越後守師泰・同播磨守師冬・細川刑部大輔頼春・佐々木大夫判官氏頼・佐々木佐渡判官入道々誉・子息近江守秀綱、此外諸国の大名五十三人都合其勢一万余騎、二月四日都を立、同六日の早旦に、近江と美濃との堺なる黒地河に著にけり。奥勢も垂井・赤坂に著ぬと聞へければ、こゝにて相まつべしとて、前には関の藤川を隔、後には黒地川をあてゝ、其際に陣をぞ取たりける。抑古より今に至まで、勇士猛将の陣を取て敵を待には、後は山により、前は水を堺ふ事にてこそあるに、今大河を後に当て陣を取れける事は又一の兵法なるべし。昔漢の高祖と楚の項羽と天下を争事八箇年が際戦事休ざりけるに、或時高祖軍に負て逃る事三十里、討残されたる兵を数るに三千余騎にも足ざりけり。項羽四十余万騎を以て是を追けるが、其日既に暮ぬ。夜明ば漢の陣へ押寄て、高祖を一時に亡さん事隻手の内に在とぞ勇みける。爰に高祖の臣に韓信と云ける兵を大将に成して、陣を取らせけるに、韓信態と後に大河を当て橋を焼落し、舟を打破てぞ棄たりける。是は兎ても遁るまじき所を知て、士卒一引も引心なく皆討死せよと、しめさん為の謀也。夜明ければ、項羽の兵四十万騎にて押寄、敵を小勢也と侮て戦を即時に決せんとす。其勢参然として左右を不顧懸けるを、韓信が兵三千余騎、一足も引ず死を争て戦ける程に、項羽忽に討負て、討るゝ兵二十万人、逃るを追事五十余里なり。沼を堺ひ沢を隔て、こゝまでは敵よも懸る事得じと、橋を引てぞ居りける。漢の兵勝に乗て今夜軈て項羽の陣へ寄んとしけるに、韓信兵共を集て申けるは、「我思様あり。汝等皆持所の兵粮を捨てゝ、其袋に砂を入て持べし。」とぞ下知しける。兵皆心得ぬ事哉と思ながら、大将の命に随て、士卒皆持所の粮を捨て、其袋に砂を入て、項羽が陣へぞ押寄たる。夜に入て項羽が陣の様を見るに、四方皆沼を堺ひ沢を隔て馬の足も立ず、渡るべき様なき所にぞ陣取たりける。此時に韓信持たる所の砂嚢を沢に投入々々、是を堤に成て其上を渡るに、深泥更に平地の如し。項羽の兵二十万騎終日の軍には疲れぬ。爰までは敵よすべき道なしと油断して、帯紐とひてねたる処に、高祖の兵七千余騎時を咄と作て押寄たれば、一戦にも及ばず、項羽の兵十万余騎、皆河水にをぼれて討れにけり。是を名付て韓信が嚢砂背水の謀とは申也。今師泰・師冬・頼春が敵を大勢也と聞て、態水沢を後に成て、関の藤川に陣を取けるも、専士卒心を一にして、再び韓信が謀を示す者なるべし。去程に国司の勢十万騎、垂井・赤坂・青野原に充満して、東西六里南北三里に陣を張る。夜々の篝を見渡せば、一天の星計落て欄干たるに異ならず。此時越前国に、新田義貞・義助、北陸道を順て、天を幹らし地を略する勢ひ専昌也。奥勢若黒地の陣を払ん事難儀ならば、北近江より越前へ打越て、義貞朝臣と一つになり、比叡山に攀上り、洛中を脚下に直下して南方の官軍と牒し合せ、東西より是攻めば、将軍京都には一日も堪忍し給はじと覚しを、顕家卿、我大功義貞の忠に成んずる事を猜で、北国へも引合ず、黒地をも破りえず、俄に士卒を引て伊勢より吉野へぞ廻られける。さてこそ日来は鬼神の如くに聞へし奥勢、黒地をだにも破えず、まして後攻の東国勢京都に著なば、恐るゝに足ざる敵也とぞ、京勢には思ひ劣されける。顕家卿南都に著て、且く汗馬の足を休て、諸卒に向て合戦の異見を問給ひければ、白河の結城入道進て申けるは、「今度於路次、度々の合戦に討勝、所々の強敵を追散し、上洛の道を開といへども、青野原の合戦に、聊利を失ふに依て、黒地の橋をも渡り得ず、此侭吉野殿へ参らん事、余に云甲斐なく覚へ候。只此御勢を以て都へ攻上、朝敵を一時に追落す歟、もし不然ば、尸を王城の土に埋み候はんこそ本意にて候へ。」と、誠に無予義申けり。顕家卿も、此義げにもと甘心せられしかば、頓て京都へ攻上給はんとの企なり。其聞へ京都に無隠しかば、将軍大に驚給て、急ぎ南都へ大勢を差下し、「顕家卿を遮り留むべし。」とて討手の評定ありしかども、我れ向んと云人無りけり。角ては如何と、両将其器を撰び給ひけるに、師直被申けるは、「何としても此大敵を拉がん事は、桃井兄弟にまさる事あらじと存候。其故は自鎌倉退て経長途を、所々にして戦候しに、毎度此兵どもに手痛く当りて、気を失ひ付たる者共なり。其臆病神の醒めぬ先に、桃井馳向て、南都の陣を追落さん事、案の内に候。」と被申しかば、「さらば。」とて、頓て師直を御使にて桃井兄弟に此由を被仰しかば、直信・直常、子細を申に及ばずとて、其日頓て打立て、南都へぞ進発せられける。顕家卿是を聞て、般若坂に一陣を張、都よりの敵に相当る。桃井直常兵の先に進んで、「今度諸人の辞退する討手を我等兄弟ならでは不可叶とて、其撰に相当る事、且は弓矢の眉目也。此一戦に利を失はゞ、度々の高名皆泥土にまみれぬべし。志を一に励して、一陣を先攻破れや。」と下知せられしかば、曾我左衛門尉を始として、究竟の兵七百余騎身命を捨て切て入る。顕家卿の兵も、爰を先途と支戦しかども、長途の疲れ武者何かは叶ふべき。一陣・二陣あらけ破て、数万騎の兵ども、思々にぞ成にける。顕家卿も同く在所をしらず成給ぬと聞へしかば、直信・直常兄弟は、大軍を容易追散し、其身は無恙都へ帰上られけり。されば戦功は万人の上に立、抽賞は諸卒の望を塞がんと、独ゑみして待居給たりしかども、更に其功其賞に不中しかば、桃井兄弟は万づ世間を述懐して、天下の大変を憑にかけてぞ待れける。懸る処に、顕家卿舎弟春日少将顕信朝臣、今度南都を落し敗軍を集め、和泉の境に打出て近隣を犯奪、頓て八幡山に陣を取て、勢ひ京洛を呑。依之京都又騒動して、急ぎ討手の大将を差向べしとて厳命を被下しかども、軍忠異于他桃井兄弟だにも抽賞の儀もなし。況て其已下の者はさこそ有んずらんとて、曾て進む兵更に無りける間、角ては叶まじとて、師直一家を尽して打立給ける間、諸軍勢是に驚て我も我もと馳下る。されば其勢雲霞の如にて、八幡山の下四方に尺地も不残充満たり。されども要害の堀稠して、猛卒悉く志を同して楯篭たる事なれば、寄手毎度戦に利を失ふと聞へしかば、桃井兄弟の人々、我身を省みて、今度の催促にも不応、都に残留られたりけるが、高家氏族を尽し大家軍兵を起すと云ども、合戦利を失と聞て、余所には如何見て過べき。述懐は私事、弓矢の道は公界の義、遁れぬ所也とて、偸かに都を打立て手勢計を引率し、御方の大勢にも不牒合、自身山下に推寄せ、一日一夜攻戦ふ。是にして官軍も若干討れ疵を被りける。直信・直常の兵ども、残少に手負討れて、御方の陣へ引て加る。此比の京童部が桃井塚と名づけたるは、兄弟合戦の在所也。是を始として厚東駿河守・大平孫太郎・和田近江守自戦て疵を被り、数輩の若党を討せ、日夜旦暮相挑。かゝる処に、執事師直所々の軍兵を招き集め、「和泉の堺河内は故敵国なれば、さらでだに、恐懼する処に、強敵其中に起ぬれば、和田・楠も力を合すべし。未微〔な〕るに乗て早速に退治すべし。」とて、八幡には大勢を差向て、敵の打て出ぬ様に四方を囲め、師直は天王寺へぞ被向ける。顕家卿の官軍共、疲れて而も小勢なれば、身命を棄て支戦ふといへども、軍無利して諸卒散々に成しかば、顕家卿立足もなく成給て、芳野へ参らんと志し、僅に二十余騎にて、大敵の囲を出んと、自破利砕堅給ふといへども、其戦功徒にして、五月二十二日和泉の堺安部野にて討死し給ければ、相従ふ兵悉く腹切疵を被て、一人も不残失にけり。顕家卿をば武蔵国の越生四郎左衛門尉奉討しかば、頚をば丹後国の住人武藤右京進政清是を取て、甲・太刀・々まで進覧したりければ、師直是を実検して、疑ふ所無りしかば、抽賞御感の御教書を両人にぞ被下ける。哀哉、顕家卿は武略智謀其家にあらずといへども、無双の勇将にして、鎮守府将軍に任じ奥州の大軍を両度まで起て、尊氏卿を九州の遠境に追下し、君の震襟を快く奉休られし其誉れ、天下の官軍に先立て争ふ輩無りしに、聖運天に不叶、武徳時至りぬる其謂にや、股肱の重臣あへなく戦場の草の露と消給しかば、南都侍臣・官軍も、聞て力をぞ失ける。


太平記
太平記巻第二十

○黒丸城初度軍事付足羽度々軍事 S2001
新田左中将義貞朝臣、去二月の始に越前府中の合戦に打勝給し刻、国中の敵の城七十余箇所を暫時に責落して、勢ひ又強大になりぬ。此時山門の大衆、皆旧好を以て内々心を通せしかば、先彼比叡山に取上て、南方の官軍に力を合せ、京都を責られん事は無下に輒かるべかりしを、足利尾張守高経、猶越前の黒丸城に落残てをはしけるを、攻落さで上洛せん事は無念なるべしと、詮なき小事に目を懸て、大儀を次に成れけるこそうたてけれ。五月二日義貞朝臣、自ら六千余騎の勢を率して国府へ打出られ、波羅密・安居・河合・春近・江守五箇所へ、五千余騎の兵をさし向られ、足羽城を攻させらる。先一番に義貞朝臣のこじうと、一条の少将行実朝臣、五百余騎にて江守より押寄て、黒龍明神の前にて相戦ふ。行実の軍利あらずして、又本陣へ引返さる。二番に船田長門守政経、七百余騎にて安居の渡より押寄て、兵半河を渡る時、細河出羽守二百余騎にて河向に馳合せ、高岸の上に相支て、散々に射させける間、漲る浪にをぼれて馬人若干討れにければ、是も又差たる合戦も無して引返す。三番に細屋右馬助、千余騎にて河合の庄より押寄、北の端なる勝虎城を取巻て、即時に攻落さんと、屏につき堀につかりて攻ける処へ、鹿草兵庫助三百余騎にて後攻にまはり、大勢の中へ懸入て面も振らず攻戦ふ。細屋が勢、城中の敵と後攻の敵とに追立られて本陣へ引返す。角て早寄手足羽の合戦に、打負る事三箇度に及り。此三人の大将は、皆天下の人傑、武略の名将たりしかども、余に敵を侮て、■に大早りなりし故に、毎度の軍に負にけり。されば、後漢の光武、々に臨む毎に、「大敵を見ては欺き、小敵を見ては恐よ。」と云けるも、理なりと覚たり。
○越後勢越々前事 S2002
去ば越後の国は、其堺上野に隣て、新田の一族充満たる上、元弘以後義貞朝臣勅恩の国として、拝任已に多年なりしかば、一国の地頭・後家人、其烹鮮に随事日久し。義貞已に北国を平げて京都へ攻上らんとし給ふ由を聞て、大井田弾正少弼・同式部大輔・中条入道・鳥山左京亮・風間信濃守・禰津掃部助・大田滝口を始として、其勢都合二万余騎にて、七月三日越後の府を立て越中国へ打越けるに、其国の守護普門蔵人俊清、国の堺に出合て是を支んとせしか共、俊清無勢なりければ、大半討れて松倉城へ引篭る。越後勢はこゝを打捨て、やがて加賀国へ打通る。富樫介是を聞て、五百余騎の勢を以て、阿多賀・篠原の辺に出合ふ。然共敵に対揚すべき程の勢ならねば、富樫が兵二百余騎討れて、那多城へ引篭る。越後の勢両国二箇度の合戦に打勝て、北国所々の敵恐るゝに足らずと思へり。此まゝにて軈て越前へ打越べかりしが、是より京までの道は、多年の兵乱に、国ついへ民疲れて、兵粮有べからず。加賀国に暫く逗留して行末の兵粮を用意すべしとて、今湊の宿に十余日まで逗留す。其間に軍勢、剣・白山以下所々の神社仏閣に打入て、仏物神物を犯し執り、民屋を追捕し、資財を奪取事法に過たり。嗚呼「霊神為怒則、災害満岐。」といへり。此軍勢の悪行を見に、其罪若一人に帰せば、大将義貞朝臣、此度の大功を立ん事如何あるべからんと、兆前に機を見る人は潜に是を怪めり。
○宸筆勅書被下於義貞事 S2003
日を経て越後勢、已に越前の河合に著ければ、義貞の勢弥強大に成て、足羽城を拉がん事、隻手の中にありと、皆掌をさす思をなせり。げにも尾張守高経の義を守る心は奪がたしといへ共、纔なる平城に三百余騎にて楯篭り、敵三万余騎を四方に受て、篭鳥の雲を恋ひ、涸魚の水を求る如くなれば、何までの命をか此世の中に残すらんと、敵は是を欺て勇み、御方は是に弱て悲めり。既に来二十一日には、黒丸の城を攻らるべしとて、堀溝をうめん為に、うめ草三万余荷を、国中の人夫に持寄させ、持楯三千余帖をはぎ立て、様々の攻支度をせられける処に、芳野殿より勅使を立られて仰られけるは、「義興・顕信敗軍の労兵を率して、八幡山に楯篭る処に、洛中の逆徒数を尽して是を囲む。城中已に食乏して兵皆疲る。然といへ共、北国の上洛近にあるべしと聞て、士卒梅酸の渇を忍ぶ者也。進発若延引せしめば、官軍の没落疑有べからず。天下の安危只此一挙にあり。早其堺の合戦を閣て、京都の征戦を専にすべし。」と仰られて、御宸筆の勅書をぞ下されける。義貞朝臣勅書を拝見して、源平両家の武臣、代々大功ありと云共、直に宸筆の勅書を下されたる例未聞所也。是当家超涯の面目也。此時命を軽ぜずんば、正に何れの時をか期すべきとて、足羽の合戦を閣かれて、先京都の進発をぞいそがれける。
○義貞牒山門同返牒事 S2004
児島備後守高徳、義貞朝臣に向て申けるは、「先年京都の合戦の時、官軍山門を落されて候し事、全く軍の雌雄に非ず、只北国の敵に道をふせがれて兵粮につまりし故也。向後も其時の如に候はゞ、縦ひ山上に御陣を召れ候共、又先年の様なる事決定たるべく候。然れば越前・加賀の宗との城々には、皆御勢を残し置れて兵粮を運送せさせ大将一両人に御勢を六七千騎も差副られ山門に御陣を召れ、京都を日々夜々攻られば、根を深し蔕を堅する謀成て、八幡の官軍に力を付け、九重の凶徒を亡すべき道たるべく候。但小勢にて山門へ御上候はゞ、衆徒案に相違して御方を背く者や候はんずらん。先山門へ牒状を送られて、衆徒の心を伺ひ御覧ぜられ候へかし。」と申ければ、義貞「誠に此義謀濃にして慮り遠し。さらば牒状を山門へ送るべし。」と宣ば、高徳兼て心に草案をやしたりけん。則筆を取て書之。其の詞云、
正四位上行左近衛中将兼播磨守源朝臣義貞牒延暦寺衙。請早得山門贔屓一諾、誅罰逆臣尊氏・直義以下党類、致仏法王法光栄状。式窃覿素昔渺聞玄風、桓武皇帝下詔専一基叡山者、以聖化期昌顕密両宗於億載。伝教大師上表九鎮王城者、以法威為護国家太平於無疆之耳也。然則聞山門衰微悼之、見朝庭傾廃悲之。不九五之聖位三千之衆徒為孰乎。去元弘之始、一天革命、四海帰風之後。有源家余裔尊氏直義。無忠貪大禄、不材登高官。自誇超涯之皇沢、不顧欠盈之天真。忽棄君臣之義、猥懐犲狼之心。聿害流于蒸民、禍溢于八極。公議不獲止、将行天誅之日、烟塵暗侵九重之月、翠花再掃四明之雲。此時貴寺忽輔危、庸臣謀退暴。雖然守死於善道者寡、求党於利門者多。因茲官軍戦破、而聖主忝逢■里之囚。氈城食竭而君王自臥戦場之刃。自爾以降逆徒弥恣意、婬刑濫行罰。凶戻残賊無不悪而極。自疑天維云絶、日月無所懸。地軸既摧、山川不得載。側耳奪目。苟不忍待時、呑炭含刃、径欲計近敵之処、忽聴鸞輿幸南山、衆星拱北極。於是蘇恩、発恩、徹憤啓憤。起自嶮溢之中、纔得郡県之衆。然則駆金牛開路、飛火鶏劫城。其戦未半決勝於一挙、退敵於四方訖。疇昔范蠡闘黄地、破呉三万之旅、周郎挑赤壁、虜魏十万之軍。把来何足比。如今挙国量誅朝敵。天慮以臣為爪牙之任。肆不遑卜否泰、振臂将発京師。貴山償若不捐故旧、拉大敵於隻手中必矣。伝聞当山之護持、亘古亘今、卓犖于乾坤。承和修大威徳之法、次君乃坐玉■。承平安四天王之像、将門遂傷鉄身。是以頼佳運於七社之冥応、復旧規於一山之懇祈。熟思量之凡悪在彼与義在我、孰与天下之治乱山上之安危。早聞一諾之群議、而遠合虎竹、速靡三軍之卒伍而為揺竜旗。牒送如件、勒之以状。延元二年七月日とぞ書たりける。山門の大衆は先年春夏両度、山上へ臨幸成たりし時、粉骨の忠功を致すに依て、若干の所領を得たりしが、官軍北国に落行き、主上京都に還幸成しかば、大望一々に相違して、あはれいかなる不思議も有て、先帝の御代になれかしと祈念する処に、此牒状来したりければ、一山挙て悦び合る事限なし。同七月二十三日に、一所住の大衆、大講堂の庭に会合して返牒を送る。其詞云、
延暦寺牒新田左近衛中将家衙。来牒一紙被載朝敵御追罰事。右鎮四夷之擾乱、而致国家之太平者、武将所不失節。祈百王之宝祚、而銷天地之妖■者、吾山所不譲他。途殊帰同。豈其際措一線縷乎。夫尊氏・直義等暴悪、千古未聞其類。是匪啻仏法王法之怨敵。兼又為害国害民之残賊。孟軻有言、出於己者帰己矣。渠若今不亡、以何待之。雖然逆臣益振威、義士恒有困何乎。取類看之、夫差合越之威、遂為勾践所摧、項羽抜山之力、却為沛公見獲。是則所以呉無義而猛、漢有仁而正也。安危所拠無若天命矣。是以山門内重武候之忠烈期佳運、外忝聖主之尊崇、祈皇猷。上下庶幾貪聴之処、儻投青鳥見竭丹心。一山之欣悦底事如之。七社之霊鑒、此時露顕。倩把往昔量吉凶、当山如棄則挙世起而不立。治承之乱、高倉宮聿没外都之塵。吾寺専与則合衆禦而不得。元暦之初、源義仲忽攀中夏之月。是人情起神慮。捨彼取此之故也。満山之群議今如斯。凶徒之誅戮何有疑。時節已到。暫勿遅擬。仍牒送如件。以状。延元二年七月日とぞ書たりける。山門の返牒越前に到来しければ、義貞斜ならず悦で、頓て上洛せんとし給ひけるが、混らに北国を打捨なば、高経如何様跡より起て、北陸道をさし塞ぬと覚れば、二手に分て国をも支へ、又京をも責べしとして、義貞は三千余騎にて越前に留り、義助は二万余騎を率して七月二十九日越前の府を立て、翌日には敦賀の津に著にけり。
○八幡炎上事 S2005
将軍此事を聞召れて、「八幡の城未責落さで、兵攻戦に疲ぬる処に、脇屋右衛門佐義助山門と成し合て、北国より上洛すなるこそゆゝ敷珍事なりけれ。期に臨で引かば、南方の敵勝に乗べし。未事の急にならぬ先に、急八幡の合戦を閣て、京都へ帰て北国の敵を相待べし。」と、高武蔵守の方へぞ下知し給ひける。師直此由を聞て、此城を責かゝりながら、落さで引返しなば、南方の敵に利を得られつべし。さて又京都を閣ば、北国の敵に隙を伺れつべし。彼此如何せんと、進退谷て覚へければ、或夜の雨風の紛に、逸物の忍を八幡山へ入れて、神殿に火をぞ懸たりける。此八幡大菩薩と申奉るは、忝も王城鎮護の宗廟にて、殊更源家崇敬の霊神にて御坐せば、寄手よも社壇を焼く程の悪行はあらじと、官軍油断しけるにや、城中周章騒動して烟の下に迷倒す、是を見て四方の寄手十万余騎、谷々より攻上て、既に一二の木戸口までぞ攻入ける。此城三方は嶮岨にして登がたければ、防に其便あり。西へなだれたる尾崎は平地につゞきたれば、僅に堀切たる乾堀一重を憑で、春日少将顕信朝臣の手の者共、五百余騎にて支たりけるが、敵の火を見て攻上りける勢に心を迷はして、皆引色にぞ成にける。爰に城中の官軍、多田入道が手の者に、高木十郎、松山九郎とて、名を知られたる兵二人あり。高木は其心剛にして力足らず、松山は力世に勝て心臆病也。二人共に同関を堅めて有けるが、一の関を敵にせめ破れて、二の関になを支てぞ居たりける。敵已に逆木を引破て、関を切て落さんとしけれども、例の松山が癖なれば、手足振惶て戦ん共せざりけり。高木十郎是を見て眼を嗔かし、腰の刀に手を懸て云けるは、「敵四方を囲て一人も余さじと攻戦ふ合戦也。こゝを破られては宗との大将達乃至我々に至までも、落て残る者やあるべき。されば爰を先途と戦べき処なるを、御辺以の外に臆して見へ給こそ浅猿けれ。平生百人二百人が力ありと自称せられしは、何の為の力ぞや。所詮御辺爰にて手を摧きたる合戦をし給はずば、我敵の手に懸んよりは、御辺と差違へて死べし。」と忿て、誠に思切たる体にぞ見へたりける。松山其色を見て、覿面の勝負敵よりも猶怖くや思けん、「暫しづまり給へ、公私の大事此時なれば、我命惜むべきにあらず。いで一戦して敵にみせん。」と云侭に、はなゝく/\走り立て、傍にありける大石の、五六人して持あぐる程なるを軽々と提て、敵の群て立たる其中へ、十四五程大山の崩るゝが如に投たりける。寄手数万の兵共、此大石に打れて将碁倒をするが如、一同に谷底へころび落ければ、己が太刀長刀につき貫て、命を堕し疵を蒙る者幾千万と云数を知らず。今夜既に攻落されぬと見へつる八幡の城、思の外にこらへてこそ、松山が力は只高木が身にありけりと、咲はぬ人もなかりけり。去程に敦賀まで著たりける越前の勢共、遥に八幡山の炎上を聞て、いか様せめ落されたりと心得て、実否を聞定ん為に数日逗留して、徒に日数を送る。八幡の官軍は、兵粮を社頭に積で悉焼失しかば、北国の勢を待までのこらへ場もなかりければ、六月二十七日の夜半に、潜に八幡の御山を退落て、又河内国へぞ帰りける。此時若八幡の城今四五日もこらへ、北国の勢逗留もなく上りたらましかば、京都は只一戦の内に攻落すべかりしを、聖運時未至らざりけるにや、両陣の相図相違して、敦賀と八幡との官軍共、互に引て帰りける薄運の程こそあらはれたれ。
○義貞重黒丸合戦事付平泉寺調伏法事 S2006
義貞京都の進発を急れつる事は、八幡の官軍に力をつけ、洛中の隙を伺ん為也。き。而に今其相図相違しぬる上は、心閑に越前の敵を悉く対治して、重て南方に牒合てこそ、京都の合戦をば致さめとて、義貞も義助も河合の庄へ打越て、先足羽の城を責らるべき企也。尾張守高経此事を聞給て、「御方僅に三百騎に足ざる勢を以て、義貞が三万余騎の兵に囲まれなば、千に一つも勝事を得べからず、然といへ共、敵はや諸方の道を差塞ぬと聞ゆれば、落とも何くまでか落延べき。只偏に打死と志て、城を堅くするより外の道やあるべき。」とて、深田に水を懸入て、馬の足も立ぬ様にこしらへ、路を堀切て穽をかまへ、橋をはづし溝を深して、其内に七の城を拵へ、敵せめば互に力を合て後へまはりあふ様にぞ構られたりける。此足羽の城と申は、藤島の庄に相双で、城郭半は彼庄をこめたり。依之平泉寺の衆徒の中より申けるは、「藤島庄は、当寺多年山門と相論する下地にて候。若当庄を平泉寺に付らるべく候はゞ、若輩をば城々にこめをきて合戦を致させ、宿老は惣持の扉を閉て、御祈祷を致すべきにて候。」とぞ云ける。尾張守大に悦で、今度合戦雌雄、■借衆徒合力、憑霊神之擁護之上者、先以藤島庄所付平泉寺也。若得勝軍之利者、重可申行恩賞、仍執達如件。建武四年七月二十七日尾張守平泉寺衆徒御中と、厳密の御教書をぞ成れける。衆徒是に勇て、若輩五百余人は藤島へ下て城に楯篭り、宿老五十人は、炉壇の烟にふすぼり返て、怨敵調伏の法をぞ行はれける。
○義貞夢想事付諸葛孔明事 S2007
其七日に当りける夜、義貞の朝臣不思議の夢をぞ見給ける。所は今の足羽辺と覚たる河の辺にて、義貞と高経と相対して陣を張る。未戦ずして数日を経る処に、義貞俄にたかさ三十丈計なる大蛇に成て、地上に臥給へり。高経是を見て、兵をひき楯を捨て逃る事数十里にして止と見給て、夢は則覚にけり。義貞夙に起て、此夢を語り給に、「竜は是雲雨の気に乗て、天地を動す物也。高経雷霆の響に驚て、葉公が心を失しが如くにて、去る事候べし、目出き御夢なり。」とぞ合せける。爰に斉藤七郎入道々献、垣を阻て聞けるが、眉をひそめて潜に云けるは、「是全く目出き御夢にあらず。則天の凶を告るにて有べし。其故は昔異朝に呉の孫権・蜀の劉備・魏の曹操と云し人三人、支那四百州を三に分て是を保つ。其志皆二を亡して、一にあはせんと思へり。然共曹操は才智世に勝れたりしかば、謀を帷帳の中に運して、敵を方域の外に防ぐ。孫権は弛張時有て士を労らひ衆を撫でしかば、国を賊し政を掠る者競ひ集て、邪に帝都を侵し奪へり。劉備は王氏を出て遠からざりしかば、其心仁義に近して、利慾を忘るゝ故に、忠臣孝子四方より来て、文教をはかり武徳を行ふ。此三人智仁勇の三徳を以て天下を分て持ちしかば、呉魏蜀の三都相並で、鼎の如く峙てり。其比諸葛孔明と云賢才の人、世を避け身を捨てゝ、蜀の南陽山に在けるが、寂を釣り閑を耕て歌ふ歌をきけば、歩出斉東門。往到蕩陰里。里中有三墳。塁々皆相似。借問誰家塚。田疆古冶子。気能排南山。智方絶地理。一朝見讒言。二桃殺三士。誰能為此謀。国将斉晏子。とぞうたひける。蜀の智臣是を聞て、彼が賢なる所を知ければ、是を召て政を任せ、官を高して世を治め給ふべき由をぞ奏し申ける。劉備則幣を重し、礼を厚して召れけれ共、孔明敢て勅に応ぜず。只澗飲岩栖して、生涯を断送せん事を楽しむ。劉備三度び彼の草庵の中へをはして宣ひけるは、「朕不肖の身を以て、天下の太平を求む。全く身を安じ、欲を恣にせんとには非ず。只道の塗炭にをち、民の溝壑に沈ぬる事をすくはん為のみ也。公若良佐の才を出して、朕が中心を輔られば、残に勝、殺を棄ん事、何ぞ必しも百年を待ん。夫石を枕にし泉に漱で、幽栖を楽むは一身の為也。国を治め民を利して大化を致さんは、万人の為也。」と、誠を尽し理を究て仰られければ、孔明辞するに詞なくして、遂に蜀の丞相と成にけり。劉備是を貴寵して、「朕有孔明如魚有水。」と喜給ふ。遂に公侯の位を与て、其名を武侯と号せられしかば、天下の人是を臥龍の勢ひありと懼あへり。其徳已に天下を朝せしむべしと見へければ、魏の曹操是を愁て、司馬仲達と云将軍に七十万騎の兵を副て蜀の劉備を責んとす。劉備は是を聞て孔明に三十万騎の勢を付て、魏と蜀との堺、五丈原と云処へ差向らる。魏蜀の兵河を阻て相支る事五十余日、仲達曾て戦んとせず。依之魏の兵、漸く馬疲れ食尽て日々に竃を減ぜり。依之魏の兵皆戦んと乞に、仲達不可也と云て是を許さず。或時仲達蜀の芻蕘共をとりこにして、孔明が陣中の成敗をたづね問に、芻蕘共答て云けるは、「蜀の将軍孔明士卒を撫で、礼譲を厚くし給ふ事疎ならず。一豆の食を得ても、衆と共に分て食し、一樽の酒を得ても、流れに濺で士と均く飲す。士卒未炊ざれば大将食せず。官軍雨露にぬるる時は大将油幕を不張。楽は諸侯の後に楽み、愁は万人の先に愁ふ。加之夜は終夜睡を忘て、自城を廻て懈れるを戒め、昼は終日に面を和て交を睦ましくす。未須臾の間も心を恣にし、身を安ずる事を見ず。依之其兵三十万騎、心を一にして死を軽くせり。鼓を打て進むべき時はすゝみ、鐘を敲て退くべき時は退ん事、一歩も大将の命に違事あるべからずと見へたり。其外の事は、我等が知べき処に非。」とぞ語りける。仲達是を聞て、「御方の兵は七十万騎其心一人も不同、孔明が兵三十万騎、其志皆同じといへり。されば戦を致して蜀に勝事は努あるべからず。孔明が病る弊に乗て戦はゞ、必勝事を得つべし。其故は孔明此炎暑に向て昼夜心身を労せしむるに、温気骨に入て、病にふさずと云事有べからず。」と云て、士卒の嘲をもかへりみず、弥陣を遠く取て、徒に数月をぞ送りける。士卒ども是を聞て、「如何なる良医と云共あはひ四十里を阻て、暗に敵の脈を取知る事やあるべき。只孔明が臥龍の勢をきゝをぢしてかゝる狂言をば云人也。」と、掌を拍て笑あへり。或夜両陣のあはひに、客星落て、其光火よりも赤し。仲達是を見て、「七日が中に天下の人傑を失べき星也。孔明必死すべきに当れり。魏必蜀を合せて取ん事余日あるべからず。」と悦べり。果して其朝より孔明病に臥事七日にして、油幕の裏に死にけり。蜀の副将軍等、魏の兵忽に利を得て前まん事を恐て、孔明が死を隠し、大将の命と相触て、旗をすゝめ兵をなびけて魏の陣へ懸入る。仲達は元来戦を以て、蜀に勝事を得じと思ければ一戦にも及ばず、馬に鞭て走事五十里、嶮岨にして留る。今に世俗の諺に、「死せる孔明生る仲達を走しむ。」と云事は、是を欺る詞也。戦散じて後蜀の兵孔明が死せる事を聞て、皆仲達にぞ降ける。其より蜀先亡び呉後に亡て、魏の曹操遂に天下を保ちけり。此故事を以て、今の御夢を料簡するに、事の様、魏呉蜀三国の争に似たり。就中竜は陽気に向ては威を震ひ、陰の時に至ては蟄居を閉づ。時今陰の初め也。而も龍の姿にて水辺に臥たりと見給へるも、孔明を臥龍と云しに不異。されば面々は皆、目出き御夢なりと合られつれ共、道猷は強に甘心せず。」と眉をひそめて云ければ、諸人げにもと思へる気色なれども、心にいみ言ばに憚て、凶とする人なかりけり。
○義貞馬属強事 S2008
潤七月二日、足羽の合戦と触れられたりければ、国中の官軍義貞の陣河合庄へ馳集りけり。其勢宛も雲霞の如し。大将新田左中将義貞朝臣は、赤地錦の直垂に脇立ばかりして、遠侍の座上に坐し給へば、脇屋右衛門佐は、紺地の錦の直垂に、小具足計にて、左の一の座に著給ふ。此外山名・大館・里見・鳥山・一井・細屋・中条・大井田・桃井以下の一族三十余人は、思々の鎧甲に色々の太刀・刀、奇麗を尽して東西二行に座を烈す。外様の人々には、宇都宮美濃将監を始として、禰津・風間・敷地・上木・山岸・瓜生・河島・大田・金子・伊自良・江戸・紀清両党以下著到の軍勢等三万余人、旗竿引そばめ/\、膝を屈し手をつかねて、堂上庭前充満たれば、由良・舟田に大幕をかゝげさせて、大将遥に目礼して一勢々々座敷を起つ。巍々たるよそをひ、堂々たる礼、誠に尊氏卿の天下を奪んずる人は、必義貞朝臣なるべしと、思はぬ者はなかりけり。其日の軍奉行上木平九郎、人夫六千余人に、幕・掻楯・埋草・屏柱・櫓の具足共を持はこばせて参りければ、大将中門にて鎧の上帯しめさせ、水練栗毛とて五尺三寸有ける大馬に、手綱打懸て、門前にて乗んとし給けるに、此馬俄に属強をして、騰跳狂ひけるに、左右に付たる舎人二人蹈れて、半死半生に成にけり。是をこそ不思議と見る処に、旗さしすゝんで足羽河を渡すに、乗たる馬俄に河伏をして、旗さし水に漬にけり。加様の怪共、未然に凶を示しけれ共、已に打臨める戦場を、引返すべきにあらずと思て、人なみ/\に向ひける勢共、心中にあやふまぬはなかりけり。
○義貞自害事 S2009
燈明寺の前にて、三万余騎を七手に分て、七の城を押阻て、先対城をぞ取られける。兼ての廃立には、「前なる兵は城に向ひ逢ふて合戦を致し、後なる足軽は櫓をかき屏を塗て、対城を取すましたらんずる後、漸々に攻落すべし。」と議定せられたりけるが、平泉寺の衆徒のこもりたる藤島の城、以外に色めき渡て、軈て落つべく見へける間、数万の寄手是に機を得て、先対城の沙汰をさしおき、屏に著堀につかつてをめき叫でせめ戦ふ。衆徒も落色に見へけるが、とても遁るべき方のなき程を思ひ知けるにや、身命を捨て是を防ぐ。官軍櫓を覆て入んとすれば、衆徒走木を出て突落す。衆徒橋を渡て打て出れば、寄手に官軍鋒を調て斬て落す。追つ返つ入れ替る戦ひに、時刻押移て日已に西山に沈まんとす。大将義貞は、燈明寺の前にひかへて、手負の実検してをはしけるが、藤島の戦強して、官軍やゝもすれば追立らるゝ体に見へける間、安からぬ事に思はれけるにや、馬に乗替へ鎧を著かへて、纔に五十余騎の勢を相従へ、路をかへ畔を伝ひ、藤島の城へぞ向はれける。其時分黒丸の城より、細川出羽守・鹿草彦太郎両大将にて、藤島の城を攻ける寄手共を追払はんとて、三百余騎の勢にて横畷を廻けるに、義貞覿面に行合ひ給ふ。細川が方には、歩立にて楯をついたる射手共多かりければ、深田に走り下り、前に持楯を衝双て鏃を支て散々に射る。義貞の方には、射手の一人もなく、楯の一帖をも持せざれば、前なる兵義貞の矢面に立塞て、只的に成てぞ射られける。中野藤内左衛門は義貞に目加して、「千鈞の弩は為■鼠不発機。」と申けるを、義貞きゝもあへず、「失士独免るゝは非我意。」と云て、尚敵の中へ懸入んと、駿馬に一鞭をすゝめらる。此馬名誉の駿足なりければ、一二丈の堀をも前々輒く越けるが、五筋まで射立られたる矢にやよはりけん。小溝一をこへかねて、屏風をたをすが如く、岸の下にぞころびける。義貞弓手の足をしかれて、起あがらんとし給ふ処に、白羽の矢一筋、真向のはづれ、眉間の真中にぞ立たりける。急所の痛手なれば、一矢に目くれ心迷ひければ、義貞今は叶はじとや思けん、抜たる太刀を左の手に取渡し、自ら頚をかき切て、深泥の中に蔵して、其上に横てぞ伏給ひける。越中国の住人氏家中務丞重国、畔を伝て走りより、其首を取て鋒に貫き、鎧・太刀・々同く取持て、黒丸の城へ馳帰る。義貞の前に畷を阻てゝ戦ける結城上野介・中野藤内左衛門尉・金持太郎左衛門尉、此等馬より飛で下り、義貞の死骸の前に跪て、腹かき切て重り臥す。此外四十余騎の兵、皆堀溝の中に射落されて、敵の独をも取得ず。犬死してこそ臥たりけれ。此時左中将の兵三万余騎、皆猛く勇める者共なれば、身にかはり命に代らんと思はぬ者は無りけれ共、小雨まじりの夕霧に、誰を誰とも見分ねば、大将の自ら戦ひ打死し給をも知らざりけるこそ悲けれ。只よそにある郎等が、主の馬に乗替て、河合をさして引けるを、数万の官軍遥に見て、大将の跡に随んと、見定めたる事もなく、心々にぞ落行ける。漢高祖は自ら淮南の黥布を討し時、流矢に当て未央宮の裡にして崩じ給ひ、斉宣王は自楚の短兵と戦て干戈に貫れて、修羅場の下に死し給き。されば「蛟竜は常に保深淵之中。若遊浅渚有漁綱釣者之愁。」と云り。此人君の股肱として、武将の位に備りしかば、身を慎み命を全してこそ、大儀の功を致さるべかりしに、自らさしもなき戦場に赴て、匹夫の鏑に命を止めし事、運の極とは云ながら、うたてかりし事共也。軍散じて後、氏家中務丞、尾張守の前に参て、「重国こそ新田殿の御一族かとをぼしき敵を討て、首を取て候へ。誰とは名乗候はねば、名字をば知候はねども、馬物具の様、相順し兵共の、尸骸を見て腹をきり討死を仕候つる体、何様尋常の葉武者にてはあらじと覚て候。これぞ其死人のはだに懸て候つる護りにて候。」とて、血をも未あらはぬ首に、土の著たる金襴の守を副てぞ出したりける。尾張守此首を能々見給て、「あな不思議や、よに新田左中将の顔つきに似たる所有ぞや。若それならば、左の眉の上に矢の疵有べし。」とて自ら鬢櫛を以て髪をかきあげ、血を洗ぎ土をあらひ落て是を見給ふに、果して左の眉の上に疵の跡あり。是に弥心付て、帯れたる二振の太刀を取寄て見給に、金銀を延て作りたるに、一振には銀を以て金膝纏の上に鬼切と云文字を沈めたり。一振には金を以て、銀脛巾の上に鬼丸と云文字を入られたり。是は共に源氏重代の重宝にて、義貞の方に伝たりと聞れば、末々の一族共の帯くべき太刀には非と見るに、弥怪ければ、膚の守を開て見給ふに、吉野の帝の御宸筆にて、「朝敵征伐事、叡慮所向、偏在義貞武功、選未求他、殊可運早速之計略者也。」と遊ばされたり。さては義貞の頚相違なかりけりとて、尸骸を輿に乗せ時衆八人にかゝせて、葬礼の為に往生院へ送られ、頚をば朱の唐櫃に入れ、氏家の中務を副て、潜に京都へ上せられけり。
○義助重集敗軍事 S2010
脇屋右衛門佐義助は、河合の石丸の城へ打帰て、義貞の行末をたづね給ふに、始の程は分明に知人もなかりけるが、事の様次第に顕れて、「討れ給ひけり。」と申合ければ、「日を替へず黒丸へ押寄て、大将の討れ給ひつらん所にて、同討死せん。」と宣ひけれども、いつしか兵皆あきれ迷て、只忙然たる外は指たる儀勢もなかりけり。剰へ人の心も頓て替りけるにや、野心の者内にありと覚へて、石丸の城に火を懸んとする事、一夜の内に三箇度也。是を見て斉藤五郎兵衛尉季基、同七郎入道々献二人は、他に異なる左中将の近習にて有しかば、門前の左右の脇に、役所を並べて居たりけるが、幕を捨てゝ夜の間に何地ともなく落にけり。是を始として、或は心も発らぬ出家して、往生院長崎の道場に入り、或は縁に属し罪を謝て、黒丸の城へ降参す。昨日まで三万騎にあまりたりし兵共、一夜の程に落失て、今日は僅に二千騎にだにも足ざりけり。かくては北国を蹈へん事叶ふまじとて、三峯の城に河島を篭め、杣山の城に瓜生を置き、湊の城に畑六郎左衛門尉時能を残されて、潤七月十一日に、義助・義治父子共に、禰津・風間・江戸・宇都宮の勢七百余騎を率して、当国の府へ帰給ふ。
○義貞首懸獄門事付勾当内侍事 S2011
新田左中将の首京都に著ければ、是朝敵の最、武敵の雄なりとて、大路を渡して獄門に懸らる。此人前朝の寵臣にて、武功世に蒙らしめしかば、天下の倚頼として、其芳情を悦び、其恩顧をまつ人、幾千万と云数を知ず、京中に相交りたれば、車馬道に横り、男女岐に立て、是を見に堪へず、泣悲む声■々たり。中にも彼の北の台勾当の内侍の局の悲を伝へ聞こそあはれなれ。此女房は頭の大夫行房の女にて、金屋の内に装を閉ぢ、鶏障の下に媚を深して、二八の春の比より内侍に召れて君王の傍に侍り、羅綺にだも堪ざる貌は、春の風一片の花をふき残すかと疑はる。紅粉を事とせる顔は、秋の雲半江の月をはき出すに似たり。されば椒房の三十六宮、五雲の漸くに遶る事を听、禁漏の二十五声、一夜の正に長き事を恨む。去建武の始、天下又乱れんとせし時、新田左中将常に召れて、内裡の御警固にぞ候はれける。或夜月冷く風秋なるに、此勾当の内侍半簾を巻て、琴を弾じ給ひけり。中将其怨声に心引れて、覚へず禁庭の月に立吟、あやなく心そゞろにあこがれてければ、唐垣の傍に立紛れて伺けるを、内侍みる人ありと物侘しげにて、琴をば引かずなんぬ。夜痛く深て、在明の月のくまなく差入たるに、「類ひまでやはつらからぬ。」と打詠め、しほれ伏たる気色の、折らばをちぬべき萩の露、拾はゞ消なん玉篠の、あられより尚あだなれば、中将行末も知ぬ道にまよひぬる心地して、帰る方もさだかならず、淑景舎の傍にやすらひ兼て立明す。朝より夙に帰りても、風かなりし面影の、なをこゝもとにある心迷に、世の態人の云かはす事も心の外なれば、いつとなくをきもせず寐もせで夜を明し日を暮して、若しるべする海人だにあらば、忘れ草のをふと云浦のあたりにも、尋ねゆきなましと、そゞろに思しづみ給ふ。あまりにせん方なきまゝに、媒すべき人を尋出して、そよとばかりをしらすべき、風の便の下荻の穂に出るまではなくともとて、我袖の泪に宿る影とだにしらで雲井の月やすむらんと読て遣されたりければ、君の聞召れん事も憚ありとて、よにあはれげなる気色に見へながら、手にだに取らずと、使帰て語ければ、中将いとゞ思ひしほれて、云べき方なく、有るを憑の命とも覚へずなりぬべきを、何人か奏しけん、君、等閑ならずと聞召て、夷心のわく方なさに、思そめけるも理也と、哀れなる事に思召れければ、御遊の御次に左中将を召れ、御酒たばせ給ひけるに、「勾当の内侍をば此盃に付て。」とぞ仰出されける。左中将限なく忝と悦て、翌の夜軈て牛車さはやかにしたてゝ、角と案内せさせたるに、内侍もはや此年月の志に、さそふ水あらばと思ひけるにや、さのみ深け過ぬ程に、車のきしる音して、中門にながへを指廻せば、侍児ひとり二人妻戸をさしかくして驚破めきあへり。中将は此幾年を恋忍で相逢ふ今の心の中、優曇花の春まち得たる心地して、珊瑚の樹の上に陽台の夢長くさめ、連理の枝の頭りに驪山の花自濃也。あやなく迷ふ心の道、諌る人もなかりしかば、去ぬる建武のすへに、朝敵西海の波に漂し時も、中将此内侍に暫しの別を悲て征路に滞り、後に山門臨幸の時、寄手大岳より追落されて、其まゝ寄せば京をも落んとせしかども、中将此内侍に迷て、勝に乗疲を攻る戦を事とせず。其弊へ果して敵の為に国を奪れたり。誠に「一たび笑で能く国を傾く。」と、古人の是をいましめしも理也とぞ覚へたる。中将坂本より北国へ落給ひし時は、路次の難儀を顧て、此内侍をば今堅田と云所にぞ留め置れたりける。かゝらぬ時の別れだに、行には跡を顧て、頭を家山の雲に回らし、留まるは末を思ひやりて、泪を天涯の雨に添ふ。況や中将は行末とても憑みなき北狄の国に趣き給へば、生て再び廻りあはん後の契もいさ知らず。又内侍は、都近き海人の礒屋に身をかくし給ひければ、今もやさがし出されて、憂名を人に聞れんずらんと、一方ならずなげき給ふ。翌年の春、父行房朝臣金崎にて打れ給ひぬと聞へしかば、思の上に悲をそへて、明日までの命もよしや何かせんと、歎きしづみ給ひしか共、さすがに消ぬ露の身なれば、をき居に袖をほしわびて、二年あまりに成にけり。中将も越前に下り著し日より、軈て迎をも上せばやと思ひ給ひけれども、道の程も輒からず、又人の云思はんずる所憚あれば、只時々の音信ばかりを互に残る命にて、年月を送り給けるが、其秋の始に、今は道の程も暫く静に成ぬればとて、迎の人を上せられたりければ、内侍は此三年が間、暗き夜のやみに迷へるが、俄に夜の明たる心地して、頓て先杣山まで下著き給ぬ。折節中将は足羽と云所へ向ひ給たりとて、此には人も無りければ、杣山より輿の轅を廻して浅津の橋を渡り給ふ処に、瓜生弾正左衛門尉百騎ばかりにて行合奉りたるが、馬より飛でをり、輿の前にひれ伏て、「是はいづくへとて御渡り候らん。新田殿は昨日の暮に、足羽と申所にて討れさせ給て候。」と申もはてず、涙をはら/\とこぼせば、内侍の局、こは何なる夢のうつゝぞやと、胸ふさがり肝消て、中々泪も落やらず、輿の中にふし沈みて、「せめてはあはれ其人の討れ給ひつらん野原の草の露の底にも、身をすて置て帰れかし。さのみはをくれさきだゝじ、共に消もはてなん。」と、泣悲み給へ共、「早其輿かき返せ。」とて、急で又杣山へぞ返し入れまいらせける。是ぞ此程中将殿の住給ひし所也とて、色紙押散したる障子の内を見給へば、何となき手ずさみの筆の跡までも、只都へいつかと、あらまされたる言の葉をのみ書をき、読すてられたり。かゝる空き形見を見につけても、いとゞ悲のみふかくなり行ば、心少も慰べき方ならね共、中将のすみすて給し跡なれば、爰にて中陰の程をも過して、なき跡をも訪はゞやと覚しけるに、頓て其辺も騒しく成て敵の近付など聞へしかば、城の麓はあしかるべしとて、頓て又京へ上せ奉り、仁和寺のあたり、幽なる宿の、主だにすまずなりぬる蓬生の宿に送り置奉る。都も今は返て旅なれば、住所も定まらず、心うかれ袖しほれて、何くにか身を浮舟のよるべも有べきと、昔見し人の行末を尋て陽明の傍りへ行給ひける路に、人あまた立あひて、あなあはれなんど云音するを、何事にかと立留て見給へば、越路はるかに尋行て、あはで帰し新田左中将義貞の首を、獄門の木に懸られて、眼塞り色変ぜり。内侍の局是を二目とも見給はずして、傍なる築地の陰になき倒れ給ひけり。知も知らぬも是を見て、共に涙を流さぬはなかりけり。日已に暮けれども、立帰るべき心地もなければ、蓬が本の露の下に泣しほれてをはしけるを、其辺なる道場の聖、「余りに御いたはしく見させ給ひ候に。」とて、内へいざなひ入奉れば、其夜やがて翠の髪を刷下し、紅顔を墨染にやつし給ふ。暫しが程はなき面影を身にそへて、泣悲み給しが、会者定離の理に、愛別離苦の夢を覚して、厭離穢土の心は日々にすゝみ、欣求浄土の念時々に勝りければ、嵯峨の奥に往生院のあたりなる柴の扉に、明暮を行ひすましてぞをはしける。
○奥州下向勢逢難風事 S2012
吉野には、奥州の国司安部野にて討れ、春日少将八幡の城を落されて、諸卒皆力を失といへども、新田殿北国より責上る由奏聞したりけるを御憑あつて、今や/\と待給ける処に、此人さへ足羽にて討れぬと聞へければ、蜀の後主の孔明を失ひ、唐の太宗の魏徴に哭せしが如く、叡襟更にをだやかならず、諸卒も皆色を失へり。爰に奥州の住人、結城上野入道々忠と申けるもの、参内して奏し申しけるは、「国司顕家卿三年の内に両度まで大軍を動して上洛せられ候し事は、出羽奥州の両国みな国司に従て、凶徒其隙を得ざる故也。国人の心未変ぜざるさきに、宮を一人下し進せて、忠功の輩には直に賞を行はれ、不忠不烈の族をば根をきり葉をからして、御沙汰候はんには、などか攻随へでは候べき。国の差図を見候に、奥州五十四郡恰日本の半国に及べり。若兵数を尽して一方に属せば、四五十万騎も候べし。道忠宮を挟み奉て、老年の首に胄を頂く程ならば、重て京都に攻上り、会稽の恥を雪めん事一年の内をば過し候まじ。」と申ければ、君を始奉て左右の老臣悉く、「此議げにも然るべし。」とぞ同ぜられける。依之第八宮の今年七歳にならせ給ふを、初冠めさせて、春日少将顕信を輔弼とし、結城入道々忠を衛尉として、奥州へぞ下しまいらせられける。是のみならず新田左兵衛義興・相摸次郎時行二人をば、「東八箇国を打平て宮に力を副奉れ。」とて、武蔵相摸の間へぞ下されける。陸地は皆敵強して通りがたしとて、此勢皆伊勢の大湊に集て、船をそろへ風を待けるに、九月十二日の宵より、風やみ雲収て、海上殊に静りたりければ、舟人纜をといて、万里の雲に帆を飛す。兵船五百余艘、宮の御座舟を中に立てゝ、遠江の天竜なだを過ける時に、海風俄に吹あれて、逆浪忽に天を巻翻す。或は檣を吹折られて、弥帆にて馳る舟もあり。或は梶をかき折て廻流に漂船もあり。暮れば弥よ風あらく成て、一方に吹も定らざりければ、伊豆の大島・女良の湊・かめ河・三浦・由居の浜・津々浦々の泊に船の吹寄せられぬはなかりけり。宮の召れたる御舟一艘、漫々たる大洋に放たれて、已に覆らんとしける処に、光明赫奕たる日輪、御舟の舳前に現じて見へけるが、風俄に取て返し、伊勢国神風浜へ吹もどし奉る。若干の舟共行方もしらず成ぬるに、此御舟計日輪の擁護に依て、伊勢国へ吹もどされ給ぬる事たゞ事にあらず。何様此宮継体の君として、九五の天位を践せ給ふべき所を、忝も天照太神の示されける者也とて、忽に奥州の御下向を止られ、則又吉野へ返し入れ進せられけるに、果して先帝崩御の後、南方の天子の御位をつがせ給し吉野の新帝と申奉しは、則此宮の御事也。
○結城入道堕地獄事 S2013
中にも結城上野入道が乗たる舟、悪風に放されて渺渺たる海上にゆられたゞよふ事、七日七夜也。既に大海の底に沈か、羅刹国に堕かと覚しが、風少し静りて、是も伊勢の安野津へぞ吹著られける。こゝにて十余日を経て後猶奥州へ下らんと、渡海の順風を待ける処に、俄に重病を受て起居も更に叶はず、定業極りぬと見へければ、善知識の聖枕に寄て、「此程まではさり共とこそ存候つるに、御労り日に随て重らせ給候へば、今は御臨終の日遠からじと覚へて候。相構て後生善所の御望惰たる事無して、称名の声の内に、三尊の来迎を御待候べし。さても今生には、何事をか思召をかれ候。御心に懸る事候はゞ仰置れ候へ。御子息の御方様へも伝へ申候はん。」と云ければ、此入道已に目を塞んとしけるが、ゝつぱと跂起て、から/\と打笑ひ、戦たる声にて云けるは、「我已に齢七旬に及で、栄花身にあまりぬれば、今生に於ては一事も思残事候はず。只今度罷上て、遂に朝敵を亡し得ずして、空く黄泉のたびにをもむきぬる事、多生広劫までの妄念となりぬと覚へ候。されば愚息にて候大蔵権少輔にも、我後生を弔はんと思はゞ、供仏施僧の作善をも致すべからず。更に称名読経の追賁をも成すべからず。只朝敵の首を取て、我墓の前に懸双て見すべしと云置ける由伝て給り候へ。」と、是を最後の詞にて、刀を抜て逆手に持ち、断歯をしてぞ死にける。罪障深重の人多しといへ共、終焉に是程の悪相を現ずる事は、古今未聞の所也。げにも此道忠が平生の振舞をきけば、十悪五逆重障過極の悪人也。鹿をかり鷹を使ふ事は、せめて世俗の態なれば言ふにたらず。咎なき者を殴ち縛り、僧尼を殺す事数を知ず。常に死人の頚を目に見ねば、心地の蒙気するとて、僧俗男女を云ず、日毎に二三人が首を切て、態目の前に懸させけり。されば彼が暫も居たるあたりは、死骨満て屠所の如く、尸骸積で九原の如し。此入道が伊勢にて死たる事、道遠ければ故郷の妻子未知る事無りけるに、其比所縁なりける律僧、武蔵国より下総へ下る事あり。日暮野遠して留るべき宿を尋ぬる処に、山伏一人出来て、「いざ、ゝせ給へ。此辺に接待所の候ぞ。其所へつれ進せん。」と云ける間、行脚の僧悦て、山伏の引導に相順ひ、遥に行て見に、鉄の築地をついて、金銀の楼門を立たり。其額を見れば、「大放火寺」と書たり。門より入て内を見るに、奇麗にして、美を尽せる仏殿あり。其額をば「理非断」とぞ書たりける。僧をば旦過に置て、山伏は内へ入ぬ。暫く有て、前の山伏、内より螺鈿の匣に法花経を入たるを持来て、「只今是に不思議の事あるべきにて候。いかに恐しく思召候共、息をもあらくせず、三業を静めて此経を読誦候べし。」と云て、己は六の巻の紐を解て寿量品をよみ、僧には八の巻を与て、普門品をぞ読せける。僧何事にやとあやしく思ひながら山伏の云に任て、口には経を誦し、心に妄想を払て、寂々としてぞ居たりける。夜半過る程に、月俄にかき陰り、雨あらく電して、牛頭馬頭の阿放羅刹共、其数を知らず、大庭に群集せり。天地須臾に換尽して、鉄城高く峙ち、鉄綱四方に張れり。烈々たる猛火燃て一由旬が間に盛なるに、毒蛇舌をのべて焔を吐き、鉄の犬牙をといで吠いかる。僧是を見て、あな恐ろし、是は無間地獄にてぞあるらんと恐怖して見居たる処に、火車に罪人を独りのせて、牛頭馬頭の鬼共、ながへを引て虚空より来れり。待て忿れる悪鬼共、鉄の俎の盤石の如なるを庭に置て、其上に此罪人を取てあをのけにふせ、其上に又鉄の俎を重て、諸の鬼共膝を屈し肱をのべて、ゑいや声を出、「ゑいや/\。」と推すに、俎のはづれより血の流るゝ事油をしたづるが如し。是を受て大なる鉄の桶に入れあつめたれば、程なく十分に湛へて滔々たる事夕陽を浸せる江水の如也。其後二の俎を取のけて、紙の如に推しひらめたる罪人を、鉄の串にさしつらぬき、炎の上に是を立てゝ、打返々々炮る事、只庖人の肉味を調するに不異。至極あぶり乾して後、又俎の上に推ひらめて、臠刀に鉄の魚箸を取副て、寸分に是を切割て、銅の箕の中へ投入たるを、牛頭馬頭の鬼共箕を持て、「活々。」と唱へて是を簸けるに、罪人忽に蘇て又もとの形になる。時に阿放羅刹鉄の■を取て、罪人にむかひ、忿れる言を出して、罪人を責て曰、「地獄非地獄、汝が罪責汝。」と、罪人此苦に責られて、泣んとすれども涙落ず。猛火眼を焦す故に、叫ばんとすれ共声出ず。鉄丸喉を塞故に、若一時の苦患を語るとも、聞人は地に倒れつべし。客位の僧是を見て、魂も浮れ骨髄も砕ぬる心地して、恐しく覚へければ、主人の山伏に向て、「是は如何なる罪人を、加様に呵責し候やらん。」と問ければ、山伏の云、「是こそ奥州の住人結城上野入道と申者、伊勢国にて死して候が、阿鼻地獄へ落て呵責せらるゝにて候へ。若其方様の御縁にて御渡候はゞ、跡の妻子共に、「一日経を書供養して、此苦患を救ひ候へ。」と仰られ候へ。我は彼入道今度上洛せし時、鎧の袖に名を書て候し、六道能化の地蔵薩■にて候也。」と、委く是を教へけるに、其言未終、暁をつぐる野寺の鐘、松吹く風に響て、一声幽に聞へければ、地獄の鉄城も忽にかきけす様にうせ、彼山伏も見へず成て、旦過に坐せる僧ばかり野原の草の露の上に惘然として居たりけり。夢幻の境も未覚へね共夜已に明ければ、此僧現化の不思議に驚て、いそぎ奥州へ下り、結城上野入道が子大蔵権少輔に此事を語に、「父の入道が伊勢にて死たる事、未聞及ばざる前なれば、是皆夢中の妄想か、幻の間の怪異か。」と、真しからず思へり。其後三四日あつて、伊勢より飛脚下て、父の上野入道が遺言の様、臨終の悪相共委く語りけるにこそ、僧の云所一も偽らざりけりと信を取て、七々の忌日に当る毎に、一日経を書供養して、追孝の作善をぞ致しける。「「若有聞法者無一不成仏。」は、如来の金言、此経の大意なれば、八寒八熱の底までも、悪業の猛火忽に消て、清冷の池水正に湛ん。」と、導師称揚の舌をのべて玉を吐給へば、聴衆随喜の涙を流して袂を沾しけり。是然地蔵菩薩の善巧方便にして、彼有様を見せしめて追善を致さしめんが為也。結縁の多少に依て、利生の厚薄はあり共、仏前仏後の導師、大慈大悲の薩■に値遇し奉らばゝ真諦俗諦善願の望を達せん。今世後世能引導の御誓たのもしかるべき御事也。


太平記
太平記巻第二十一

○天下時勢粧事 S2101
暦応元年の末に、四夷八蛮悉く王化を助て大軍同時に起りしかば、今はゝや聖運啓ぬと見へけるに、北畠顕家卿、新田義貞、共に流矢の為に命を墜し、剰奥州下向の諸卒、渡海の難風に放されて行方知ずと聞へしかば、世間さてとや思けん。結城上野入道が子息大蔵少輔も、父が遺言を背て降人に出ぬ。芳賀兵衛入道禅可も、主の宇都宮入道が子息加賀寿丸を取篭て将軍方に属し、主従の礼儀を乱り己が威勢を恣にす。此時新田氏族尚残て城々に楯篭り、竹園の連枝時を待て国々に御座有といへ共、猛虎の檻に篭り、窮鳥の翅を削れたるが如に成ぬれば、戻眼空く百歩の威を闔、悲心遠く九霄の雲を望で、只時々の変有ん事を待計也。天下の危かりし時だにも、世の譏をも不知侈を究め欲を恣にせし大家の氏族、高・上杉の党類なれば、能なく芸無くして乱階不次の賞に関り、例に非ず法に非して警衛判断の識を司る。初の程こそ朝敵の名を憚りて毎事天慮を仰ぎ申体にて有しが、今は天下只武徳に帰して、公家有て何の用にか立べきとて、月卿雲客・諸司格勤の所領は云に及ず、竹園椒房・禁裡仙洞の御領までも武家の人押領しける間、曲水重陽の宴も絶はて、白馬蹈歌の節会も行れず、如形儀計也。禁闕仙洞さびかへり、参仕拝趨の人も無りけり。況や朝廷の政、武家の計に任て有しかば、三家の台輔も奉行頭人の前に媚を成し、五門の曲阜も執事侍所の辺に賄ふ。されば納言宰相なんど路次に行合たるを見ても、声を学び指を差て軽慢しける間、公家の人々、いつしか云も習はぬ坂東声をつかい、著もなれぬ折烏帽子に額を顕して、武家の人に紛んとしけれ共、立振舞へる体さすがになまめいて、額付の跡以外にさがりたれば、公家にも不付、武家にも不似、只都鄙に歩を失し人の如し。
○佐渡判官入道流刑事 S2102
此比殊に時を得て、栄耀人の目を驚しける佐々木佐渡判官入道々誉が一族若党共、例のばさらに風流を尽して、西郊東山の小鷹狩して帰りけるが、妙法院の御前を打過るとて、跡にさがりたる下部共に、南底の紅葉の枝をぞ折せける。時節門主御簾の内よりも、暮なんとする秋の気色を御覧ぜられて、「霜葉紅於二月花なり。」と、風詠閑吟して興ぜさせ給けるが、色殊なる紅葉の下枝を、不得心なる下部共が引折りけるを御覧ぜられて、「人やある、あれ制せよ。」と仰られける間、坊官一人庭に立出て、「誰なれば御所中の紅葉をばさやうに折ぞ。」と制しけれ共、敢て不承引。「結句御所とは何ぞ。かたはらいたの言や。」なんど嘲哢して、弥尚大なる枝をぞ引折りける。折節御門徒の山法師、あまた宿直して候けるが、「悪ひ奴原が狼籍哉。」とて、持たる紅葉の枝を奪取、散々に打擲して門より外へ追出す。道誉聞之、「何なる門主にてもをわせよ、此比道誉が内の者に向て、左様の事翔ん者は覚ぬ物を。」と忿て、自ら三百余騎の勢を率し、妙法院の御所へ押寄て、則火をぞ懸たりける。折節風烈く吹て、余煙十方に覆ければ、建仁寺の輪蔵・開山堂・並塔頭・瑞光菴同時に皆焼上る。門主は御行法の最中にて、持仏堂に御座有けるが、御心早く後の小門より徒跣にて光堂の中へ逃入せ給ふ。御弟子の若宮は、常の御所に御座有けるが、板敷の下へ逃入せ給ひけるを、道誉が子息源三判官走懸て打擲し奉る。其外出世・坊官・児・侍法師共、方々へ逃散りぬ。夜中の事なれば、時の声京白河に響きわたりつゝ、兵火四方に吹覆。在京の武士共、「こは何事ぞ。」と遽騒で、上下に馳せ違ふ。事の由を聞定て後に馳帰りける人毎に、「あなあさましや、前代未聞の悪行哉。山門の嗷訴今に有なん。」と、云ぬ人こそ無りけれ。山門の衆徒此事を聞て、「古より今に至まで、喧嘩不慮に出来る事多といへ共、未門主・貫頂の御所を焼払ひ、出世・坊官を面縛する程の事を聞ず。早道誉・秀綱を給て、死罪に可行。」由を公家へ奏聞し、武家に触れ訴ふ。此門主と申も、正き仙院の連枝にて御座あれば、道誉が翔無念の事に憤り思召て、あわれ断罪流刑にも行せばやと思召けれ共、公家の御計としては難叶時節なれば、無力武家へ被仰処に、将軍も左兵衛督も、飽まで道誉を被贔負ける間、山門は理訴も疲て、款状徒に積り、道誉は法禁を軽じて奢侈弥恣にす。依之嗷儀の若輩、大宮・八王子の神輿を中堂へ上奉て、鳳闕へ入れ奉んと僉儀す。則諸院・諸堂の講莚を打停め、御願を停廃し、末寺・末社の門戸を閇て祭礼を打止。山門の安否、天下の大事、此時にありとぞ見へたりける。武家もさすが山門の嗷訴難黙止覚へければ、「道誉が事、死罪一等を減じて遠流に可被処歟。」と奏聞しければ、則院宣を成れ山門を宥らる。前々ならば衆徒の嗷訴は是には総て休るまじかりしか共、「時節にこそよれ、五刑の其一を以て山門に理を付らるゝ上は、神訴眉目を開くるに似たり。」と、宿老是を宥て、四月十二日に三社の神輿を御帰座成し奉て、同二十五日道誉・秀綱が配所の事定て、上総国山辺郡へ流さる。道誉近江の国分寺迄、若党三百余騎、打送の為にとて前後に相順ふ。其輩悉猿皮をうつぼにかけ、猿皮の腰当をして、手毎に鴬篭を持せ、道々に酒肴を設て宿々に傾城を弄ぶ。事の体尋常の流人には替り、美々敷ぞ見へたりける。是も只公家の成敗を軽忽し、山門の鬱陶を嘲弄したる翔也。聞ずや古より山門の訴訟を負たる人は、十年を過ざるに皆其身を滅すといひ習せり。治承には新大納言成親卿、西光・西景、康和には後二条関白、其外泛々の輩は不可勝計。されば是もいかゞ有んずらんと、智ある人は眼を付て怪み見けるが、果して文和三年の六月十三日に、持明院新帝、山名左京大夫時氏に被襲、江州へ臨幸成ける時、道誉が嫡子源三判官秀綱堅田にて山法師に討る。其弟四郎左衛門は、大和内郡にて野伏共に殺れぬ。嫡孫近江判官秀詮・舎弟次郎左衛門二人は、摂津国神崎の合戦の時、南方の敵に誅せられにけり。弓馬の家なれば本意とは申ながら、是等は皆医王山王の冥見に懸られし故にてぞあるらんと、見聞の人舌を弾して、懼れ思はぬ者は無りけり。
○法勝寺塔炎上事 S2103
康永元年三月二十日に、岡崎の在家より俄失火出来て軈て焼静まりけるが、纔なる細■一つ遥に十余町を飛去て、法勝寺の塔の五重の上に落留る。暫が程は燈篭の火の如にて、消もせず燃もせで見へけるが、寺中の僧達身を揉で周章迷けれ共、上べき階もなく打消べき便も無れば、只徒に虚をのみ見上て手撥てぞ立れたりける。さる程に此細■乾たる桧皮に焼付て、黒煙天を焦て焼け上る。猛火雲を巻て翻る色は非想天の上までも上り、九輪の地に響て落声は、金輪際の底迄も聞へやすらんとをびたゝし。魔風頻に吹て余煙四方に覆ければ、金堂・講堂・阿弥陀堂・鐘楼・経蔵・総社宮・八足の南大門・八十六間の廻廊、一時の程に焼失して、灰燼忽地に満り。焼ける最中外より見れば、煙の上に或は鬼形なる者火を諸堂に吹かけ、或は天狗の形なる者松明を振上て、塔の重々に火を付けるが、金堂の棟木の落るを見て、一同に手を打てどつと笑て愛宕・大岳・金峯山を指て去と見へて、暫あれば花頂山の五重の塔、醍醐寺の七重の塔、同時に焼ける事こそ不思議なれ。院は二条河原まで御幸成て、法滅の煙に御胸を焦され、将軍は西門の前に馬を控られて、回禄の災に世を危めり。抑此寺と申は、四海の泰平を祈て、殊百王の安全を得せしめん為に、白河院御建立有し霊地也。されば堂舎の構善尽し美尽せり。本尊の錺は、金を鏤め玉を琢く。中にも八角九重の塔婆は、横竪共に八十四丈にして、重々に金剛九会の曼陀羅を安置せらる。其奇麗崔嵬なることは三国無双の鴈塔也。此塔婆始て造出されし時、天竺の無熱池・震旦の昆明池・我朝の難波浦に、其影明に写て見へける事こそ奇特なれ。かゝる霊徳不思議の御願所、片時に焼滅する事、偏に此寺計の荒廃には有べからず。只今より後弥天下不静して、仏法も王法も有て無が如にならん。公家も武家も共に衰微すべき前相を、兼て呈す物也と、歎ぬ人は無りけり。
○先帝崩御事 S2104
南朝の年号延元三年八月九日より、吉野の主上御不予の御事有けるが、次第に重らせ給。医王善逝の誓約も、祈に其験なく、耆婆扁鵲が霊薬も、施すに其験をはしまさず。玉体日々に消て、晏駕の期遠からじと見へ給ければ、大塔忠雲僧正、御枕に近付奉て、泪を押て申されけるは、「神路山の花二たび開る春を待、石清水の流れ遂に澄べき時あらば、さりとも仏神三宝も捨進せらるゝ事はよも候はじとこそ存候つるに、御脈已に替せ給て候由、典薬頭驚申候へば、今は偏に十善の天位を捨て、三明の覚路に趣せ給ふべき御事をのみ、思召被定候べし。さても最期の一念に依て三界に生を引と、経文に説れて候へば、万歳の後の御事、万づ叡慮に懸り候はん事をば、悉く仰置れ候て、後生善所の望をのみ、叡心に懸られ候べし。」と申されたりければ、主上苦げなる御息を吐せ給て、「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者、是如来の金言にして、平生朕が心に有し事なれば、秦穆公が三良を埋み、始皇帝の宝玉を随へし事、一も朕が心に取ず。只生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉亡して、四海を令泰平と思計也。朕則早世の後は、第七の宮を天子の位に即奉て、賢士忠臣事を謀り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行なくば、股肱の臣として天下を鎮べし。思之故に、玉骨は縦南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望んと思ふ。若命を背義を軽ぜば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ。」と、委細に綸言を残されて、左の御手に法華経の五巻を持せ給、右の御手には御剣を按て、八月十六日の丑剋に、遂に崩御成にけり。悲哉、北辰位高して百官星の如に列と雖も、九泉の旅の路には供奉仕臣一人もなし。奈何せん、南山地僻にして、万卒雲の如に集といへ共、無常の敵の来をば禦止むる兵更になし。只中流に舟を覆て一壷の浪に漂ひ、暗夜に燈消て、五更の雨に向が如し。葬礼の御事、兼て遺勅有しかば、御終焉の御形を改めず、棺槨を厚し御坐を正して、吉野山の麓、蔵王堂の艮なる林の奥に、円丘を高く築て、北向に奉葬。寂寞たる空山の裏、鳥啼日已暮ぬ。土墳数尺の草、一経涙尽て愁未尽。旧臣后妃泣々鼎湖の雲を瞻望して、恨を天辺の月に添へ、覇陵の風に夙夜して、別を夢裡の花に慕ふ。哀なりし御事也。天下久乱に向ふ事は、末法風俗なれば暫く言に不足。延喜天暦より以来、先帝程の聖主神武の君は未をはしまさざりしかば、何と無共、聖徳一たび開て、拝趨忠功の望を達せぬ事は非じと、人皆憑をなしけるが、君の崩御なりぬるを見進て、今は御裳濯河の流の末も絶はて、筑波山の陰に寄人も無て、天下皆魔魅の掌握に落る世に成んずらんと、あぢきなく覚へければ、多年著纏進らせし卿相雲客、或は東海の波を蹈で仲連が跡を尋、或は南山の歌を唱て■戚が行を学んと、思々に身の隠家をぞ求給ける。爰に吉野執行吉水法印宗信、潜に此形勢を伝聞て、急参内して申けるは、「先帝崩御の刻被遺々勅、第七の宮を御位に即進せ、朝敵追伐の御本意を可被遂と、諸卿親り綸言を含せ給し事也。未日を経ざるに退散隠遁の御企有と承及候こそ、心ゑがたく存候へ。異国の例を以吾朝の今を計候に、文王草昧の主として、武王周の業を起し、高祖崩じ給て後、孝景漢の世を保候はずや。今一人万歳を早し給ふとも、旧労の輩其功を捨て敵に降んと思者は有べからず。就中世の危を見て弥命を軽ぜん官軍を数るに、先上野国に新田左中将義貞の次男左兵衛佐義興、武蔵国に其家嫡左少将義宗、越前国に脇屋刑部卿義助、同子息左衛門佐義治、此外江田・大館・里見・鳥山・田中・羽河・山名・桃井・額田・一井・金谷・堤・青竜寺・青襲・小守沢の一族都合四百余人、国々に隠謀し所々に楯篭る。造次にも忠戦を不計と云事なし。他家の輩には、筑紫に菊池・松浦鬼八郎・草野・山鹿・土肥・赤星、四国には土居・得能・江田・羽床、淡路に阿間・志知、安芸に有井、石見には三角入道・合四郎、出雲伯耆に長年が一族共、備後には桜山、備前に今木・大富・和田・児島、播磨に吉河、河内に和田・楠・橋本・福塚、大和に三輪の西阿・真木の宝珠丸、紀伊国に湯浅・山本・井遠三郎・賀藤太郎、遠江には井介、美濃に根尾入道、尾張に熱田大宮司、越前には小国・池・風間・禰津越中守・大田信濃守、山徒には南岸の円宗院、此外泛々の輩は数に不遑。皆義心金石の如にして、一度も変ぜぬ者共也。身不肖に候へども、宗信右て候はん程は、当山に於て又何の御怖畏か候べき。何様先御遺勅に任て、継体の君を御位に即進せ、国々へ綸旨を成下れ候へかし。」と申ければ、諸卿皆げにもと思れける処に、又楠帯刀・和田和泉守二千余騎にて馳参り、皇居を守護し奉て、誠に他事なき体に見へければ、人々皆退散の思を翻て、山中は無為に成にけり。
○南帝受禅事 S2105
同十月三日に、太神宮へ奉幣使を下され、第七の宮天子の位に即せ給ふ。夫継体君登極の御時、様々の大礼有べし。先新帝受禅の日、三種の神器を被伝て、御即位の儀式あり。其明年の三月に、卜部宿禰陰陽博士、軒廊にして国郡を卜定す。則行事所始ありて、百司千官次第の神事を執行る。同年の十月に、東の河原に成て御禊あり。又神泉苑の北に斎庁所を作て、旧主一日抜穂を御覧ぜらる。竜尾堂を立られ、壇上にして御行水有て、回立殿を建、新帝大甞宮に行幸あり。其日殊に堂上の伶倫、正始の曲を調て一たび雅音を奏すれば、堂下の舞人、をみの衣を袒て、五たび袖を翻す。是を五節の宴酔と云。其後大甞宮に行幸成て御牲の祭を行る程に、悠紀・主基、風俗の歌を唱て帝徳を称じ、童女・八乙女、稲舂の歌を歌て神饌を献る。是皆代々の儲君、御位を天に継せ給ふ時の例なれば、三載数度の大礼、一も欠ては有べからずといへども、洛外山中の皇居の事、可周備にあらざれば、如形三種神器を拝せられたる計にて、新帝位に即せ給ふ。
○任遺勅被成綸旨事付義助攻落黒丸城事 S2106
同十一月五日、南朝の群臣相義して、先帝に尊号を献る。御在位の間、風教多は延喜の聖代を被追しかば、尤も其寄有とて、後醍醐天皇と諡し奉る。新帝幼主にて御座ある上、君崩じ給たる後、百官冢宰に総て、三年政を聞召れぬ事なれば、万機悉く北畠大納言の計として、洞院左衛門督実世・四条中納言隆資卿、二人専諸事を被執奏。同十二月先北国にある脇屋刑部卿義助朝臣の方へ綸旨を被成。先帝御遺勅異于他上は、不替故義貞之例、官軍恩賞以下の事相計て、可経奏聞之由被宣下。其外筑紫の西征将軍宮、遠江井城に御座ある妙法院、奥州新国司顕信卿の方へも、任旧主遺勅殊に可被致忠戦之由、綸旨をぞ下されける。義助は義貞討れし後勢微也といへども、所々の城郭に軍勢を篭置、さまでは敵に挟められざりければ、何まで右ても有べきぞ。城々の勢を一に合て、黒丸の城に楯篭られたる尾張守高経を責落さばやと評定有ける処に、先帝崩御の御事を承て、惘然たる事闇夜に灯を失へるが如し。さは有ながら、御遺勅他に異なる宣旨の忝さに、忠義弥心肝に銘じければ、如何にもして一戦に利を得、南方祠候の人々の機をも扶ばやと、御国忌の御中陰の過を遅とぞ相待ける。此両三年越前の城三十余箇所相交て合戦の止日なし。中にも湊城とて、北陸道七箇国の勢共が終に攻落さゞりし城は、義助の若党畑六郎左衛門時能が、纔二十三人にて篭たりし平城也。南帝御即位の初天運図に膺る時なるべし。諸卒同城を出て一所に集り、当国の朝敵を平げ他国に打越べき由を大将義助の方より牒せられければ、七月三日に畑六郎左衛門三百余騎にて湊城を出て、金津・長崎・河合・河口にあらゆる所の敵の城十二箇所を打落て、首を切事八百余人、女童三歳の嬰児迄のこさず是を差殺す。同五日に、由良越前守光氏、五百余騎にて西方寺の城より出て、和田・江守・波羅密・深町・安居の庄内に、敵の稠く構へたる六箇所の城を二日に攻落し、則御方の勢を入替て六箇所の城を守らしむ。同五日、堀口兵部大輔氏政、五百余騎にて居山の城より出て、香下・鶴沢・穴間・河北、十一箇所の城を五日が中に攻落して、降人千余人を引率し、河合庄へ出合はる。惣大将脇屋刑部卿義助は、禰津・風間・瓜生・川島・宇都宮・江戸・波多野が勢、三千余騎の将として、国府より三手に分て、織田・々中・荒神峯・安古渡の城十七箇所を三日三夜に攻落して、其城の大将七人虜り士卒五百余人を誅して、河合庄へ打出らる。同十六日四方の官軍一所に相集て、六千余騎三方より黒丸を相挟て未戦。河合孫五郎種経降人に成て畑に属す。其勢を率て、夜半に足羽の乾なる小山の上に打上て、終夜城の四辺を打廻り、時を作り遠矢を射懸て、後陣の大勢集らば、一番に城へ攻入んと勢を見せて待明す。爰に上木平九郎家光は、元は新田左中将の兵にて有しが、近来将軍方に属して、黒丸の城に在けるが、大将尾張守高経の前に来て申けるは、「此城は先年新田殿の攻られしに、不思議の御運に依て打勝せ給しに御習候て、猶子細あらじと思召候はんには、疎なる御計にて候べし。其故は先年此所へ向候し敵共、皆東国西国の兵にて、不知案内に候し間、深田に馬を馳こみ、堀溝に堕入て、遂に名将流矢の鏑に懸り候き。今は御方に候つる者共が多く敵に成て候間、寄手も城の案内は能存知候。其上畑六郎左衛門と申て日本一の大力の剛者、命を此城に向て止んと思定て向候なる。恐くは今時の御方に、誰か是と牛角の合戦をし候べき。後攻もなき平城に名将の小勢にて御篭候て、命を失はせ給はん事、口惜かるべき御計にて候。只今夜の中に加賀国へ引退せ給て、京都の御勢下向の時、力を合せ兵を集て、還て敵を御退治候はんに、何の子細か候べき。」とぞ申ける。細川出羽守・鹿草兵庫助・浅倉・斉藤等に至まで、皆此義に同じければ、尾張守高経、五の城に火を懸て、其光を松明に成て、夜間に加賀国富樫が城へ落給ふ。畑が謀を以て、義助黒丸の城を落してこそ、義貞の討れられたりし会稽の恥をば雪けれ。
○塩冶判官讒死事 S2107
北国の宮方頻に起て、尾張守黒丸の城を落されぬと聞へければ、京都以外に周章して、助の兵を下さるべしと評定あり。則四方の大将を定て、其国々へ勢をぞ添られける。高上野介師治は、大手の大将として、加賀・能登・越中の勢を率し、加賀国を経て宮の腰より向はる。土岐弾正少弼頼遠は、搦手の大将として、美濃・尾張の勢を率し、穴間・郡上を経て大野郡へ向はる。佐々木三郎判官氏頼は江州の勢を率して、木目岳を打越て敦賀の津より向はる。塩冶判官高貞は船路の大将として、出雲・伯耆の勢を率し兵船三百艘を調へ、三方の寄手の相近付んずる黎、津々浦々より上て敵の後を襲、陣のあはいを隔て、戦を機変の間に致すべしと、合図を堅く定らる。陸地三方の大将已に京を立て、分国の軍勢を催れければ、塩冶も我国へ下て、其用意を致さんとしける最中に、不慮の事出来て、高貞忽に武蔵守師直が為に討れにけり。其宿意何事ぞと尋れば、高貞多年相馴たりける女房を、師直に思懸られて、無謂討れけるぞと聞へし。其比師直ちと違例の事有て、且く出仕をもせで居たりける間、重恩の家人共是を慰めん為に、毎日酒肴を調て、道々の能者共を召集て、其芸能を尽させて、座中の興をぞ促しける。或時月深夜閑て、荻葉を渡風身に入たる心地しける時節、真都と覚都検校と、二人つれ平家を歌けるに、「近衛院の御時、紫宸殿の上に、鵺と云怪鳥飛来て夜な/\鳴けるを、源三位頼政勅を承て射て落したりければ、上皇限なく叡感有て、紅の御衣を当座に肩に懸らる。「此勧賞に、官位も闕国も猶充に不足。誠やらん頼政は、藤壷の菖蒲に心を懸て堪ぬ思に臥沈むなる。今夜の勧賞には、此あやめを下さるべし。但し此女を頼政音にのみ聞て、未目には見ざんなれば、同様なる女房をあまた出して、引煩はゞ、あやめも知ぬ恋をする哉と笑んずるぞ。」と仰られて、後宮三千人の侍女の中より、花を猜み月を妬む程の女房達を、十二人同様に装束せさせて、中々ほのかなる気色もなく、金沙の羅の中にぞ置れける。さて頼政を清涼殿の孫廂へ召れ、更衣を勅使にて、「今夜の抽賞には、浅香の沼のあやめを下さるべし。其手は緩とも、自ら引て我宿の妻と成。」とぞ仰下されける。頼政勅に随て、清涼殿の大床に手をうち懸て候けるが、何も齢二八計なる女房の、みめ貌絵に書共筆も難及程なるが、金翠の装を餝り、桃顔の媚を含で並居たれば、頼政心弥迷ひ目うつろいて、何を菖蒲と可引心地も無りけり。更衣打笑て、「水のまさらば浅香の沼さへまぎるゝ事もこそあれ。」と申されければ、頼政、五月雨に沢辺の真薦水越て何菖蒲と引ぞ煩ふとぞ読たりける。時に近衛関白殿、余の感に堪かねて、自ら立て菖蒲の前の袖を引、「是こそ汝が宿の妻よ。」とて、頼政にこそ下されけれ。頼政鵺を射て、弓箭の名を揚たるのみならず、一首の歌の御感に依て、年月久恋忍つる菖蒲の前を給つる数奇の程こそ面目なれ。」と、真都三重の甲を上れば、覚一初重の乙に収て歌ひすましたりければ、師直も枕をゝしのけ、耳をそばだて聞に、簾中庭上諸共に、声を上てぞ感じける。平家はてゝ後、居残たる若党・遁世者共、「さても頼政が鵺を射たる勧賞に、傾城を給たるは面目なれ共、所領か御引出物かを給りたらんずるには、莫太劣哉。」と申ければ、武蔵守聞もあへず、「御辺達は無下に不当なる事を云物哉。師直はあやめほどの傾城には、国の十箇国計、所領の二三十箇所也とも、かへてこそ給らめ。」とぞ恥しめける。かゝる処に、元は公家のなま上達部に仕て、盛なりし御代を見たりし女房、今は時と共に衰て身の寄辺無まゝに、此武蔵守が許へ常に立寄ける侍従と申女房、垣越に聞て、後の障子を引あけて無限打笑て、「あな善悪無の御心あて候や。事の様を推量候に、昔の菖蒲の前は、さまで美人にては無りけるとこそ覚て候へ。楊貴妃は、一笑ば六宮に顔色無と申候。縦千人万人の女房を双べ居へて置れたり共、あやめの前誠に世に勝れたらば、頼政是を引かね候べしや。是程の女房にだに、国の十箇国計をばかへても何か惜からんと仰候はゞ、先帝の御外戚早田宮の御女、弘徽殿の西の台なんどを御覧ぜられては、日本国・唐土・天竺にもかへさせ給はんずるや。此御方は、よく世に類なきみめ貌にて御渡りありと思食知候へ。いつぞや雲の上人、花待かねし春の日のつれ/゛\に、禁裏仙洞の美夫人、九嬪更衣達を、花の譬にせられ候しに、桐壷の御事は、あてやかにうちあらはれたる御気色を奉見たる事なければ、譬て申さんもあやなかるべけれ共、雲井の外目も異なれば、明やらぬ外山の花にやと可申。梨壷の御事は、いつも臥沈み給へる御気色物がなしく、烽の昔も理にこそ御覧ぜらるらめと、君の御心も空に知れしかば、「玉顔寂寞として涙欄干たり。」と喩ゑし、雨の中の梨壷と名にほふ御様なるべし。或は月もうつろふ本あらの小萩、波も色ある井出の山吹、或は遍照僧正の、「我落にきと人に語るな。」と戯し嵯峨野の秋の女郎花、光源氏大将の、「白くさけるは。」と名を問し、黄昏時の夕顔の花、見るに思の牡丹、色々様々の花共を取々に譬られしに、梅は匂ひふかくて枝たをやかならず。桜は色ことなれ共其香もなし。柳は風を留る緑の糸、露の玉ぬく枝異なれ共、匂もなく花もなし。梅が香を桜が色に移して、柳の枝にさかせたらんこそ、げにも此貌には譬へめとて、遂に花のたとへの数にも入せ給はざりし上は、申も中々疎なる事にてこそ。」と云戯て、障子を引立て内へ入んとするを、師直目もなく打笑て、「暫し。」と袖をひかへて、「其宮はいづくに御座候ぞ。御年は何程に成せ給ふぞ。」と問けるに、侍従立留て、「近比は田舎人の妻と成せ給ぬれば、御貌も雲の上の昔には替り給、御年も盛り過させ給ぬらんと、思やり進て有しに、一日物詣の帰さに参て奉見しが、古の春待遠に有し若木の花よりも猶色深く匂ひ有て、在明の月の隈なく指入たるに、南向の御簾を高くかゝげさせて、琵琶をかきならし給へば、ゝら/\とこぼれかゝりたる鬢のはづれより、ほのかに見へたる眉の匂、芙蓉の眸、丹花の脣る、何なる笙の岩屋の聖なりとも、心迷はであらじと、目もあやに覚てこそ候しか。うらめしの結の神の御計にや。いかなる女院、御息所とも奉見か、さらずば今程天下の権を取るさる人の妻ともなし奉らで、声は塔の鳩の鳴く様にて、御副臥もさこそこは/\しく鄙閑たるらんと覚る出雲の塩冶判官に、先帝より下されて、賎き田舎の御棲にのみ、御身を捨はてさせ給ぬれば、只王昭君が胡国の夷に嫁しけるもかくこそと覚て、奉見も悲くこそ侍りつれ。」とぞ語ける。武蔵守いとゞうれしげに聞竭して、「御物語の余りに面白く覚るに、先引出物申さん。」とて、色ある小袖十重に、沈の枕を取副て、侍従の局が前にぞ置れたる。侍従俄に徳付たる心ちしながら、あらけしからずの今の引出物やと思て、立かねたるに、武蔵守近く居寄て、「詮なき御物語故に、師直が違例はやがてなをりたる心ちしながら、又あらぬ病の付たる身に成て候ぞや。さりとては平に憑申候はん。此女房何にもして我に御媒候てたばせ給へ。さる程ならば所領なりとも、又は家の中の財宝なり共、御所望に随て可進。」とぞ語ける。侍従の局は、思寄ぬ事哉。只独のみをはする人にてもなし。何としてかく共申出べきぞと思ながら、事の外に叶ふまじき由をいはゞ、命をも失れ、思の外の目にもや合んずらんと恐しければ、「申てこそ見候はめ。」とて、先づ帰りぬ。二三日は、とやせましかくや云ましと案じ居たる処に、例ならず武蔵守が許より様々の酒肴なんど送り、「御左右遅。」とぞ責たりける。侍従は辞するに言無して、彼女房の方に行向ひ、忍やかに、「かやうの事は申出に付て、心の程も推量られ進せぬべければ、聞しばかりにてさて有べき事なれ共、かゝる事の侍るをば如何が御計候べき。露計のかごとに人の心をも慰られば、公達の御為に行末たのもしく、又憑方なき我等迄も立よる方無ては候はじ。さのみ度重ならばこそ、安濃が浦に引綱の、人目に余る憚も候はめ。篠の小ざゝの一節も、露かゝる事有共、誰か思寄り候べき。」と、様々書くどき聞ゆれ共、北の台は、「事の外なる事哉。」と計り打わびて、少も云寄べき言葉もなし。さても錦木の千束を重し、夷心の奥をも憐と思しる事もやと、日毎に経廻て、「我にうきめを見せ、深き淵河に沈ませて、憐と計後の御情はあり共、よしや何かせん。只日比参仕へし故宮の御名残と思召ん甲斐には、責て一言の御返事をなり共承候へ。」と、兎角云恨ければ、北台もはや気色打しほれ、「いでや、ものわびしく、かくとな聞へそ。哀なる方に心引れば、高志浜のあだ浪に、うき名の立事もこそあれ。」と、かこち顔也。侍従帰て角こそと語りければ、武蔵守いと心を空に成て、度重らばなさけによはることもこそあれ、文をやりてみばやとて、兼好と云ける能書の遁世者を呼寄て、紅葉重の薄様の、取手もくゆる計にこがれたるに、言を尽してぞ聞へける。返事遅しと待処に、使帰り来て、「御文をば手に取ながら、あけてだに見給はず、庭に捨られたるを、人目にかけじと懐に入帰り参て候ぬる。」と語りければ、師直大に気を損じて、「いや/\、物の用に立ぬ物は手書也けり。今日より其兼好法師、是へよすべからず。」とぞ忿ける。かゝる処に薬師寺次郎左衛門公義、所用の事有て、ふと差出たり。師直傍へ招て、「爰に文をやれ共取ても見ず、けしからぬ程に気色つれなき女房の有けるをばいかゞすべき。」と打笑ければ、公義、「人皆岩木ならねば、何なる女房も慕に靡ぬ者や候べき。今一度御文を遣されて御覧候へ。」とて、師直に代て文を書けるが、中々言はなくて、返すさへ手やふれけんと思にぞ我文ながら打も置れず押返して、媒此文を持て行たるに、女房いかゞ思けん、歌を見て顔打あかめ、袖に入て立けるを、媒さては便りあしからずと、袖を引へて、「さて御返事はいかに。」と申ければ、「重が上の小夜衣。」と計云捨て、内へ紛入ぬ。暫くあれば、使急帰て、「かくこそ候つれ。」と語に、師直うれしげに打案じて、軈薬師寺を呼寄せ、「此女房の返事に、「重が上の小夜衣と云捨て立れける。」と媒の申は、衣小袖を調て送れとにや。其事ならば何なる装束なりともしたてんずるにいと安かるべし。是は何と云心ぞ。」と問はれければ、公義、「いや是はさやうの心にては候はず、新古今の十戒の歌に、さなきだに重が上の小夜衣我妻ならぬ妻な重そと云歌の心を以て、人目計を憚候物ぞとこそ覚て候へ。」と、哥の心を尺しければ、師直大に悦て、「嗚呼御辺は弓箭の道のみならず、歌道にさへ無双の達者也けり。いで引出物せん。」とて、金作の団鞘の太刀一振、手づから取出して、薬師寺にこそ引れけれ。兼好が不祥、公義が高運、栄枯一時に地を易たり。師直此返事を聞しより、いつとなく侍従を呼て、「君の御大事に逢てこそ捨んと思つる命を、詮なき人の妻故に、空く成んずる事の悲しさよ。今はのきはにもなるならば、必侍従殿をつれ進て、死出の山三途の河をば越んずるぞ。」と、或時は目を瞋て云ひをどし、或時は又顔を低て云恨ける程に、侍従局もはや持あつかいて、さらば師直に此女房の湯より上て、只顔ならんを見せてうとませばやと思て、「暫く御待候へ。見ぬも非ず、見もせぬ御心あては、申をも人の憑ぬ事にて候へば、よそながら先其様を見せ進せ候はん。」とぞ慰めける。師直聞之より独ゑみして、今日か明日かと待居たる処に、北台の方に中居する女童に、兼て約束したりければ、侍従局の方へ来て、「今夜このあれの御留主にて、御台は御湯ひかせ給ひ候へ。」とぞ告たりける。侍従右と師直に申せば、頓て侍従をしるべにて、塩冶が館へ忍び入ぬ。二間なる所に、身を側めて、垣の隙より闖へば、只今此女房湯より上りけりと覚て、紅梅の色ことなるに、氷の如なる練貫の小袖の、しほ/\とあるをかい取て、ぬれ髪の行ゑながくかゝりたるを、袖の下にたきすさめる虚だきの煙匂計に残て、其人は何くにか有るらんと、心たど/\しく成ぬれば、巫女廟の花は夢の中に残り、昭君村の柳は雨の外に疎なる心ちして、師直物の怪の付たる様に、わな/\と振ひ居たり。さのみ程へば、主の帰る事もこそとあやなくて、侍従師直が袖を引て、半蔀の外迄出たれば、師直縁の上に平伏て、何に引立れ共起上らず。あやしや此侭にて絶や入んずらんと覚て、兎角して帰したれば、今は混ら恋の病に臥沈み、物狂しき事をのみ、寐ても寤ても云なんど聞へければ、侍従いかなる目にか合んずらんと恐しく覚て、其行え知べき人もなき片田舎へ逃下にけり。此より後は指南する人もなし。師直いかゞせんと歎きけるが、すべき様有と案出して、塩冶隠謀の企有由を様々に讒を運し、将軍・左兵衛督にぞ申ける。塩冶此事を聞ければ、とても遁るまじき我命也。さらば本国に逃下て旗を挙、一旗を促て、師直が為に命を捨んとぞたくみける。高貞三月二十七日の暁、弐ろ有まじき若党三十余人、狩装束に出立せ、小鷹手毎にすへて、蓮台野・西山辺へ懸狩の為に出る様に見せて、寺戸より山崎へ引違、播磨路よりぞ落行ける。身に近き郎等二十余人をば、女房子共に付て、物詣する人の体に見せて、半時計引別れ、丹波路よりぞ落しける。此比人の心、子は親に敵し、弟は兄を失はんとする習なれば、塩冶判官が舎弟四郎左衛門、急武蔵守が許へ行て、高貞が企の様有の侭にぞ告たりける。師直聞之、此事長僉儀して、此女房取はづしつる事の安からずさよと思ければ、急将軍へ参て、「高貞が隠謀の事、さしも急に御沙汰候へと申候つるを聞召候はで、此暁西国を指て逃下候けんなる。若出雲・伯耆に下著して、一族を促て城に楯篭る程ならば、ゆゝしき御大事にて有べう候也。」と申ければ、「げにも。」と驚騒れて誰をか追手に下すべきとて、其器用をぞ撰れける。当座に有ける人々、我をや追手にさゝれんと、かたづを飲で、機を攻たる気色を見給て、此者共が中には、高貞を追攻て討べき者なしと思はれければ、山名伊豆守時氏と、桃井播磨守直常・太平出雲守とを喚び寄て、「高貞只今西国を指て逃下り候なる。いづく迄も追攻て打留られ候へ。」と宣ければ、両人共に一儀にも及ず、畏て領状す。時氏はかゝる事共知ず、出仕の装束にて参られたりけるが、宿所へ帰り、武具を帯し勢を率せば、時剋遷て追つく事を得がたしと思ひけるにや、武蔵守が若党にきせたりける物具取て肩に打懸、馬の上にて高紐かけ、門前より懸足を出して、父子主従七騎、播磨路にかゝり、揉にもみてぞ追たりける。直常も太平も宿所へは帰ず、中間を一人帰して、「乗替の馬物具をば路へ追付けよ。」と下知して、丹波路を追てぞ下りける。道に行合人に、「怪げなる人や通りつる。」と問へば、「小鷹少々すへたりつる殿原達十四五騎が程、女房をば輿にのせて急がはしげに通りつる。其合は二三里は過候ぬらん。」とぞ答へける。「さては幾程も延じ。をくれ馳の勢共を待つれん。」とて、其夜は波々伯部の宿に暫く逗留し給へば、子息左衛門佐・小林民部丞・同左京亮以下侍共、取物も取あへず、二百五十余騎、落人の跡を問々、夜昼の境もなく追懸たり。塩冶が若党共も、追手定て今は懸るらん。一足もと急けれ共、女性・少人を具足したれば、兎角のしつらいに滞て、播磨の陰山にては早追付れにけり。塩冶が郎等共、今は落得じと思ければ、輿をば道の傍なる小家に舁入させて、向敵に立向、をしはだぬぎ散々に射る。追手の兵共、物具したる者は少かりければ、懸寄ては射落し、抜てかゝれば射すへられて矢場に死せる者十一人、手負者は数を知ず。右ても追手は次第に勢重る。矢種も已に尽ければ、先女性をさなき子共を差殺して、腹を切らんとて家の内へ走り入て見ば、あてやかにしをれわびたる女房の、通夜の泪に沈んで、さらず共我と消ぬと見ゆる気色なるが、膝の傍に二人の子をかき寄て、是や何にせんと、あきれ迷へる有様を見るに、さしも武く勇める者共なれ共、落る泪に目も暮て、只惘然としてぞ居たりける。去程に追手の兵共、ま近く取巻て、「此事の起りは何事ぞ。縦塩冶判官を討たり共、其女房をとり奉らでは、執事の御所存に叶べからず。相構て其旨を存知せよ。」と下知しけるを聞て、八幡六郎は、判官が次男の三歳に成が、母に懐き付たるをかき懐て、あたりなる辻堂に修行者の有けるに、「此少人、汝が弟子にして、出雲へ下し進て、御命を助進せよ。必ず所領一所の主になすべし。」と云て、小袖一重副てぞとらせける。修行者かい/゛\しく請取て、「子細候はじ。」と申ければ、八幡六郎無限悦て、元の小家に立帰り、「我は矢種の有ん程は、防矢射んずるぞ。御辺達は内へ参て、女性少なき人を差殺し進て、家に火を懸て腹を切れ。」と申ければ、塩冶が一族に山城守宗村と申ける者内へ走り入、持たる太刀を取直して、雪よりも清く花よりも妙なる女房の、胸の下をきつさきに、紅の血を淋き、つと突とをせば、あつと云声幽に聞へて、薄衣の下に臥給ふ。五になる少人、太刀の影に驚て、わつと泣て、「母御なう。」とて、空き人に取付たるを、山城守心強かき懐き、太刀の柄を垣にあて、諸共に鐔本迄貫れて、抱付てぞ死にける。自余の輩二十二人、「今は心安し。」と悦て、髪を乱し大裸に成て、敵近付ば走懸々々火を散してぞ切合たる。とても遁まじき命也。さのみ罪を造ては何かせんとは思ながら、爰にて敵を暫も支たらば、判官少も落延る事もやと、「塩冶爰にあり、高貞此にあり。頚取て師直に見せぬか。」と、名乗懸々々々二時計ぞ戦たる。今は矢種も射尽しぬ、切疵負はぬ者も無りければ、家の戸口に火を懸て、猛火の中[に]走り入、二十二人の者共は、思々に腹切て、焼こがれてぞ失にける。焼はてゝ後、一堆の灰を払のけて是を見れば、女房は焼野の雉の雛を翅にかくして、焼死たる如にて、未胎内にある子、刃のさき[に]懸られながら、半は腹より出て血と灰とに塗たり。又腹かき切て多く重り臥たる死人の下、少き子を抱て一つ太刀に貫れたる、是ぞ何様塩冶判官にてぞあるらん。され共焼損じたる首なれば取て帰るに及ばずとて、桃井も太平も、是より京へぞ帰り上りける。さて山陽道を追て下りける山名伊豆守が若党共、山崎財寺の前を打過ける処に跡より、「執事の御文にて候、暫く御逗留候へ。可申事有。」とぞ呼りける。何事やらんとて馬を引へたれば、此者三町計隔りて、「余りにつよく走て候程に、息絶てそれまでも参り得ず候。此方へ打帰せ給へ。」山名我身は馬より下、若党を四五騎帰して、「何事ぞ。あれ聞、急馳帰れ。」とぞ下知しける。五騎の兵共誠ぞと心得て、使の前にて馬より飛をり、「何事にて候やらん。」と問へば、此者莞爾と打笑、「誠には執事の使にては候はず。是は塩冶殿の御内の者にて候が、判官殿の落られ候けるを知候はで伴をば不仕候。此にて主の御為に命を捨て、冥途にて此様を語り申べきにて候。」と云もあへず抜合、時移る迄ぞ切合ける。三人に手負せ我身も二太刀切れければ、是迄とや思けん、塩冶が郎等は腹かき破て死にけり。「此者に出しぬかれ時剋移りければ、落人は遥に延ぬらん。」とて、弥馬を早め追懸ける。京より湊河までは十八里の道を二時計に打て、「余りに馬疲ければ、今日はとても近付事有がたし。一夜馬の足を休てこそ追はめ。」とて、山名伊豆守湊河にぞとゞまりける。其時生年十四歳に成ける子息右衛門佐、気早なる若者共を呼抜て宣けるは、「北る敵は跡を恐て、夜を日に継で逃て下る。我等は馬労て徒に明るを待。加様にては此敵を追攻て討つと云事不可有。馬強からん人々は我に同じ給へ、豆州には知せ奉らで、今夜此敵を追攻て、道にて打留めん。」と云もはてず、馬引寄て乗給へば、小林以下の侍共十二騎、我も々と同じて、夜中に追てぞ馳行ける。湊河より賀久河迄は、十六里の道を一夜に打て、夜もはやほの/゛\と明ければ、遠方人の袖見ゆる、河瀬の霧の絶間より、向の方を見渡しければ、旅人とは覚ぬ騎馬の客三十騎計、馬の足しどろに聞へて、我先にと馬を早めて行人あり。すはや是こそ塩冶よと見ければ、右衛門佐川縁に馬を懸居て、「あの馬を早められ候人々は、塩冶殿と見奉るは僻目か、将軍を敵に思ひ、我等を追手に受て、何くまでか落られぬべき。踏留て尋常に討死して、此長河の流に名を残され候へかし。」と、言を懸られて、判官が舎弟塩冶六郎、若党共に向て申けるは、「某は此にて先討死すべし。御辺達は細路のつまり/\に防矢射て、廷尉を落奉れ。一度に討死にする事有べからず。」と、無らん跡の事までも、委是を相謀て、主従七騎引返す。右衛門佐の兵十二騎、一度に河へ打入て、轡を双て渡せば、塩冶が舎弟七騎、向の岸に鏃をそろへ散々に射る。右衛門佐が胄の吹返し射向の袖に矢三筋受て、岸の上へ颯と懸上れば、塩冶六郎抜合て、懸違懸違時移る程こそ切合たれ。小林左京亮、塩冶に切て落されて已に打れんと見へければ、右衛門佐馳塞て、当の敵を切て落す。残り六騎の者共、思々に打死しければ、其首を路次に切懸て、時剋を移さず追て行。此間に塩冶は又五十町計落延たりけれ共、郎等共が乗たる馬疲て、更にはたらかざりければ、道に乗捨歩跣にて相従ふ。右ては本道を落得じとや思けん、御著宿より道を替て、小塩山へぞ懸ける。山名続て追ければ、塩冶が郎等三人返合て、松の一村茂りたるを木楯に取て、指攻引攻散々に射る。面に前む敵六騎射て落し、矢種も尽ければ打物に成て切合てぞ死にける。此より高貞落延て、追手の馬共皆疲にければ、「今は道にて追付事叶まじ。」とて、山陽道の追手は、心閑にぞ下ける。三月晦日に塩冶出雲国に下著しぬれば、四月一日に追手の大将、山名伊豆守時氏、子息右衛門佐師氏、三百余騎にて同国屋杉の庄に著給ふ。則国中に相触て、「高貞が叛逆露顕の間、誅罰せん為に下向する所也。是を打て出したらん輩に於は、非職凡下を云ず、恩賞を申与ふべき由。」を披露す。聞之他人は云に不及、親類骨肉迄も欲心に年来の好を忘ければ、自国他国の兵共、道を塞ぎ前を要て、此に待彼に来て討んとす。高貞一日も身を隠すべき所無れば、佐々布山に取上て一軍せんと、馬を早めて行ける処に、丹波路より落ける若党の中間一人走付て、「是は誰が為に御命をば惜まれて、城に楯篭らんとは思食候や。御台御供申候つる人々は、播磨の陰山と申所にて、敵に追付れて候つる間、御台をも公達をも皆差殺し進て、一人も残らず腹を切て死て候也。是を告申さん為に甲斐なき命生て、是迄参て候。」と云もはてず、腹かき切て馬の前にぞ臥たりける。判官是をきゝ、「時の間も離れがたき妻子を失れて、命生ては何かせん、安からぬ物哉。七生迄師直が敵と成て、思知せんずる物を。」と忿て、馬の上にて腹を切、倒に落て死にけり。三十余騎有つる若党共をば、「城になるべき所を見よ。」とて、此彼へ遣し、木村源三一人付順て有けるが、馬より飛でをり、判官が頚を取て、鎧直垂に裹み、遥の深田の泥中に埋で後、腹かき切て、腸繰出し、判官の頚の切口を陰し、上に打重て懐付てぞ死たりける。後に伊豆守の兵共、木村が足の泥に濁たるをしるべにて、深田の中より、高貞が虚き首を求出して、師直が方へぞ送りける。是を見聞人毎に、「さしも忠有て咎無りつる塩冶判官、一朝に讒言せられて、百年の命を失つる事の哀さよ。只晉の石季倫が、緑珠が故に亡されて、金谷の花と散はてしも、かくや。」と云ぬ人はなし。それより師直悪行積て無程亡失にけり。「利人者天必福之、賊人者天必禍之。」と云る事、真なる哉と覚へたり。


太平記
太平記巻第二十二

○畑六郎左衛門事 S2201
去程に京都の討手大勢にて攻下しかば、杣山の城も被落、越前・加賀・能登・越中・若狭五箇国の間に、宮方の城一所も無りけるに、畑六郎左衛門時能、僅に二十七人篭りたりける鷹巣の城計ぞ相残りたりける。一井兵部少輔氏政は、去年杣山の城より平泉寺へ越て、衆徒を語ひ、挙旗と被議けるが、国中宮方弱して、与力する衆徒も無りければ、是も同く鷹巣城へぞ引篭りける。時能が勇力、氏政が機分、小勢なりとて閣きなば、何様天下の大事に可成とて、足利尾張守高経・高上野介師重、両大将として、北陸道七箇国の勢七千余騎を率して、鷹巣城の四辺を千百重に被囲、三十余箇所の向ひ城をぞ取たりける。彼畑六郎左衛門と申は、武蔵国の住人にて有けるが、歳十六の時より好相撲取けるが、坂東八箇国に更に勝者無りけり、腕の力筋太して股の村肉厚ければ、彼薩摩の氏長も角やと覚て夥し。其後信濃国に移住して、生涯山野江海猟漁を業として、年久く有しかば、馬に乗て悪所岩石を落す事、恰も神変を得るが如し。唯造父が御を取て千里に不疲しも、是には不過とぞ覚へたる。水練は又憑夷が道を得たれば、驪龍頷下の珠をも自可奪。弓は養由が迹を追しかば、弦を鳴して遥なる樹頭の栖猿をも落しつべし。謀巧にして人を眤、気健にして心不撓しかば、戦場に臨むごとに敵を靡け堅に当る事、樊■・周勃が不得道をも得たり。されば物は以類聚る習ひなれば、彼が甥に所大夫房快舜とて、少しも不劣悪僧あり。又中間に悪八郎とて、欠脣なる大力あり。又犬獅子と名を付たる不思議の犬一疋有けり。此三人の者共、闇にだになれば、或帽子甲に鎖を著て、足軽に出立時もあり。或は大鎧に七物持時もあり。様々質を替て敵の向城に忍入。先件の犬を先立て城の用心の様を伺ふに、敵の用心密て難伺隙時は、此犬一吠々走出、敵の寝入、夜廻も止時は、走出て主に向て尾を振て告ける間、三人共に此犬を案内者にて、屏をのり越、城の中へ打入て、叫喚で縦横無碍に切て廻りける間、数千の敵軍驚騒で、城を被落ぬは無りけり。「夫犬は以守禦養人。」といへり。誠に無心禽獣も、報恩酬徳の心有にや、斯る事は先言にも聞ける事あり。昔周の世衰へんとせし時、戎国乱て王化に不随、兵を遣して是を雖責、官軍戦に無利、討るゝ者三十万人、地を被奪事七千余里、国危く士辱しめられて、諸侯皆彼に降事を乞。爰に周王是を愁て■を安じ給はず。時節御前に犬の候けるに魚肉を与、「汝若有心、戎国に下て、窃に戎王を喰殺して、世の乱を静めよ。然らば汝に三千の宮女を一人下て夫婦となし、戎国の王たら[し]めん。」と戯て被仰たりけるを、此狗勅命を聞て、立て三声吠けるが、則万里の路を過て戎国に下て、偸に戎王の寐所へ忍入て、忽に戎王を喰殺し、其頚を咆へて、周王の御前へぞ進ける。等閑に戯れて勅定ありし事なれ共、綸言難改とて、后宮を一人此狗に被下て、為夫婦、戎国を其賞にぞ被行ける。后三千の列に勝れ、一人の寵厚かりし其恩情を棄て、勅命なれば無力、彼犬に伴て泣々戎国に下て、年久住給しかば、一人の男子を生り。其形頭は犬にして身は人に不替。子孫相続て戎国を保ちける間、依之彼国を犬戎国とぞ申ける。以彼思之、此犬獅子が行をも珍しからずとぞ申ける。されば此犬城中に忍入て機嫌を計ける間、三十七箇所に城を拵へ分て、逆木を引屏を塗ぬる向城共、毎夜一二被打落、物具を捨て馬を失ひ恥をかく事多ければ、敵の強きをば不顧、御方に笑れん事を恥て、偸に兵粮を入、忍々酒肴を送て、可然は我城を夜討になせそと、畑を語はぬ者ぞ無りける。爰に寄手の中に、上木九郎家光と云けるは、元は新田左中将の侍也けるが、心を翻して敵となり、責口に候けるが、数百石の兵粮を通して畑に内通すと云聞へ有しかば、何なる者か為けん、大将尾張守高経の陣の前に、「畑を討んと思はゞ、先上木を伐。」と云秀句を書て高札をぞ立たりける。是より大将も上木に心を被置、傍輩も是に隔心ある体に見ける間、上木口惜事に思て、二月二十七日の早旦に、己が一族二百余人、俄に物具ひし/\しと堅め、大竹をひしいで楯の面に当、かづき連てぞ責たりける。自余の寄手是を見て、「城の案内知たる上木が俄に責るは、何様可落様ぞ有らん。上木一人が高名になすな。」とて、三十余箇所の向城の兵共七千人、取物も不取敢、岩根を伝ひ、木の根に取付て、差も嶮しき鷹巣城の坂十八町を一息に責上り、切岸の下にぞ著たりける。され共城には鳴を静めて、「事の様を見よ。」とて閑り却て有けるが、已に鹿垣程近く成ける時、畑六郎・所大夫快舜・悪八郎・鶴沢源蔵人・長尾新左衛門・児玉五郎左衛門五人の者共、思々の物具に、太刀長刀の鋒を汰へ、声々に名乗て、喚て切てぞ出たりける。誠に人なしと由断して、そゞろに進み近づきたる前懸の寄手百余人、是に驚散て、互の助を得んと、一所へひし/\と寄たる処を、例の悪八郎、八九尺計なる大木を脇にはさみ、五六十しても押はたらかしがたき大磐石を、転懸たれば、其石に当る有様、輪宝の山を崩し磊石の卵を圧すに不異。斯る処に理を得て左右に激し、八方を払、破ては返し帰ては進み、散々に切廻りける間、或討れ或疵を被る者、不知其数。乍去其後は、弥寄手攻上る者も無て、只山を阻川を境て、向陣を遠く取のきたれば、中々兎角もすべき様無し。懸し程に、畑つく/゛\と思案して、此侭にては叶ふまじ、珍しき戦ひ今一度して、敵を散すか散さるゝか、二の間に天運を見んと思ければ、我城には大将一井兵部少輔に、兵十一人を著て残し留め、又我身は宗徒の者十六人を引具して、十月二十一日の夜半に、豊原の北に当たる伊地山に打上て、中黒の旌二流打立て、寄手遅しとぞ待たりける。尾張守高経是を聞て、鷹巣城より勢を分て、此へ打出たるとは不寄思、豊原・平泉寺の衆徒、宮方と引合て旌を挙たりと心得て、些も足をためさせじと、同二十二日の卯刻に、三千余騎にてぞ押寄られける。寄手初の程は敵の多少を量兼て、無左右不進けるが、小勢也けりと見て、些も無恐処、我前にとぞ進みたりける。畑六郎左衛門、敵外に引へたる程は、態あり共被知ざりけるが、敵已一二町に責寄せたりける時、金筒の上に火威の胄の敷目に拵へたるを、草摺長に著下て、同毛の五枚甲に鍬形打て緒を縮、熊野打の肪当に、大立揚の脛当を、脇楯の下まで引篭て、四尺三寸太刀に、三尺六寸の長刀茎短に拳り、一引両に三■の笠符、馬の三頭に吹懸させ、塩津黒とて五尺三寸有ける馬に、鎖の胄懸させて、不劣兵十六人、前後左右に相随へ、「畑将軍此にあり、尾張守は何くに坐すぞ。」と呼て、大勢の中へ懸入、追廻し、懸乱し、八方を払て、四維に遮りしかば、万卒忽に散じて、皆馬の足をぞ立兼たる。是を見て、尾張守高経・鹿草兵庫助旗の下に磬て、「無云甲斐者共哉。敵縦鬼神也とも、あれ程の小勢を見て引事や有べき。唯馬の足を立寄せて、魚鱗に引へて、兵を虎韜になして取篭、一人も不漏打留よや。」と、透間も無ぞ被下知ける。懸しかば三千余騎の兵共、大将の諌言に力を得て、十六騎の敵を真中にをつ取篭、余さじとこそ揉だりけれ。大敵雖難欺、畑が乗たる馬は、項羽が騅にも不劣程の駿足也しかば、鐙の鼻に充落され蹄の下にころぶをば、首を取ては馳通り、取て返しては颯と破る。相順ふ兵も、皆似るを友とする事なれば、目に当敵をば切て不落云事なし。其膚不撓目不瞬勇気に、三軍敢て当り難く見へしかば、尾張守の兵三千余騎、東西南北に散乱して、河より向へ引退く。軍散じて後、畑帷幕の内に打帰て、其兵を集るに、五騎は被討九人は痛手を負たりけり。其中に殊更憑たる大夫房快舜、七所まで痛手負たりしが、其日の暮程にぞ死にける。畑も脛当の外、小手の余り、切れぬ所ぞ無りける。少々の小疵をば、物の数とも不思けるに、障子の板の外より、肩崎へ射篭られたりける白羽の矢一筋、何に脱けれ共、鏃更に不脱けるが、三日の間苦痛を責て、終に吠へ死にこそ失にけれ。凡此畑は悪逆無道にして、罪障を不恐のみならず、無用なるに僧法師を殺し、仏閣社壇を焼壊ち、修善の心は露許もなく、作悪業事如山重しかば、勇士智謀の其芸有しか共、遂に天の為にや被罰けん、流矢に被侵て死にけるこそ無慙なれ。君不見哉、舁控弓、天に懸る九の日を射て落し、■盪舟、無水陸地を遣しか共、或は其臣寒■に被殺、或は夏后小康に被討て皆死名を遺せり。されば開元の宰相宋開府が、幼君の為に武を黷し、其辺功を不立しも、無智慮忠臣と可謂と、思合せける許也。畑已に討れし後は、北国の宮方気を撓して、頭を差出す者も無りけり。
○義助被参芳野事并隆資卿物語事 S2202
爰に脇屋刑部卿義助は、去九月十八日、美濃の根尾の城に立篭しか共、土岐弾正少弼頼遠・刑部大夫頼康に責落されて、郎等七十三人を召具し、微服潜行して、熱田大宮司が城尾張国波津が崎へ落させ給て、十余日逗留して、敗軍の兵を集めさせ給て、伊勢伊賀を経て、吉野殿へぞ被参ける。則参内し、竜顔に奉謁しかば、君玉顔殊に麗しく照して前席、此五六年が間の北征の忠功、異他由を感じ被仰て、更に敗北の無念なる事をば不被仰出、其命無恙して今此に来る事、君臣水魚の忠徳再可露故也と、御涙を浮させ御座て被仰下。次日臨時の宣下有て一級を被加。加之当参の一族、並相順へる兵共に至るまで、或は恩賞を給、或官位を進められければ、面目人に超てぞ見へたりける。其時分殿上の上口に、諸卿被参候たりけるが、物語の次に、洞院右大将実世未左衛門督にて坐しが、被欺申けるは、「抑義助越前の合戦に打負て美濃国へ落ぬ。其国をさへ又被追落て、身の置処なき侭に、当山へ参りたるを、君御賞翫有て、官禄を進ませらる事返々も不心得。是唯治承の昔、権佐三位中将維盛が、東国の討手に下て、鳥の羽音に驚て逃上たりしを、祖父清盛入道が計ひとして、一級を進ませしに不異。」とぞ被笑ける。四条中納言隆資卿、つく/\と是を聞給ひけるが、退て被申けるは、「今度の儀、叡慮の趣く処、其理当るかとこそ存候へ。其故は、義助北国の軍に失利候し事は全彼が戦の拙きに非ず。只聖運、時未到、又勅裁の将の威を軽くせられしに依て也。高才に対して加様の事を申せば、以管窺天、听途説塗風情にて候へ共、只其の一端を申べし。昔周の未戦国の時に当て、七雄の諸侯相争ひ互に国を奪はんと謀し時、呉王闔廬、孫子と云ける勇士を大将として、敵国を伐ん事を計る。時に孫氏、呉王闔廬に向て申けるは、「夫以不教之民戦しむる事、是を棄よといへり。若敵国を伐しめんとならば、先宮中にあらゆる所の美人を集て、兵の前に立て、陣を張り戈を持しめて後、我其命を司らむ。一日の中に、三度戦の術を教へんに、命に随ふ事を得ば、敵国を滅さん事、立に得つべし。」とぞ申ける。呉王則孫子が任申請、宮中の美人三千人を南庭に出して、皆兵の前陣に立らる。時に孫氏甲胄を帯し、戈を取て、「鼓うたば進んで刃を交へよ。金をうたば退て二陣の兵に譲れ。敵ひかば急に北るを追へ。敵返さば堪て弱を凌げ。命を背かば我汝等を斬らん。」と、馬を馳てぞ習はしける。三千の美人君の命に依て戦ひを習はす戦場へ出たれども、窈窕たる婉嫋、羅綺にだもたへざる体なれば、戈をだにも擡得ざれば、まして刃を交るまでもなし。あきれたる体にて打笑ぬる計也。孫氏是を忿て、殊更呉王闔廬が最愛の美人三人を忽に斬てぞ捨たりける。是を見、自余の美人相順て、「士卒と共に懸よ。」といへば進み、「返せ。」といへば止る。聚散応変、進退当度。是全孫氏が美人の殺す事を以て兵法とはせず、只大将の命を士卒の重んずべき処を人にしらしめんが為也。呉王も最愛の美人を三人まで失ひつる事は悲しけれ共、孫氏が教へたる謀誠に当れりと被思ければ、遂に孫氏を以て、多くの敵国を亡されてげり。されば周の武王、殷の紂王を伐ん為に、大将を立ん事を太公望に問給ふ。太公望答曰、「凡国有難、君避正殿、召将而詔之曰、社稷安危、一在将軍。願将軍帥師応之。将既受命、乃命大史卜。斎三日、之大廟鑽霊亀卜吉日以授斧鉞。君入廟門西面而立、将入廟門北面而立。君親操鉞持首、授将其柄曰、従此上至天者、将軍制之。復操斧持柄授将其刃曰、従此下至淵者、将軍制之。見其虚則進、見其実則止。勿以三軍為衆而軽敵。勿以受命為重而必死。勿以身貴而賎人。勿以独見而違衆。勿以弁舌為必然。士未坐勿坐。士未食勿食。寒暑必同。如此則士衆必尽死力。将已受命拝而報君曰、臣聞国不可以外治、軍不可以中禦。二心不可以事君。疑志不可以応敵。臣既受命専斧鉞之威。臣不敢将。君許之。乃辞而行。軍中之事不聞君命、皆由将出。臨敵決戦、無有二心。若如則無天於上、無地於下。無敵於前、無君於後。是故智者為之謀、勇者為之闘。気励青雲疾若馳々。兵不接刃而敵降服。戦勝於外、功立於内。吏遷士賞百姓懽悦、将無咎殃。是故風雨時節、五穀豊熟、社稷安寧也。」といへり。古より今に至るまで、将を重んずる事如此にてこそ、敵を亡し国を治る道は候事なれ。去程に此間北国の有様を伝へ承るに、大将の挙状を不帯共、士卒直に訴る事あれば、軈て勅裁を被下、僅に山中を伺ひ以祗候労を、軍用を支へらる。北国の所領共を望む人あれば、不事問被成聖断。依之大将威軽、士卒心恣にして、義助遂に百戦の利を失へり。是全戦ふ処に非ず。只上の御沙汰の違処に出たり。君忝も是を思召知るに依て、今其賞を被重者也。秦将孟明視・西乞術・白乙丙、鄭国の軍に打負て帰たりしを秦穆公素服郊迎して、「我不用百里奚・■叔言辱しめられたり。三子は何の罪かある。其専心毋懈。」と云て三人の官禄を復せしにて候はずや。」と、理を尽て宣られければ、さしも大才の実世卿、言なくしてぞ立れける。「何ぞ古の維盛を入道相国賞せしに同せん哉。」と被申しかば、実世卿言ば無して被退出けり。
○作々木信胤成宮方事 S2203
懸る処に伊予国より専使馳来て、急ぎ可然大将を一人撰て被下、御方に対して忠戦を可致之由を奏聞したりしかば、脇屋刑部卿義助朝臣を可被下公議定けり。され共下向の道、海上も陸地も皆敵陣也。如何して可下、僉議不一ける処に、備前国住人、佐々木飽浦三郎左衛門尉信胤早馬を打てて、「去月二十三日小豆島に押渡り、義兵を挙る処に、国中の忠ある輩馳加て、逆徒少々打順へ、京都運送の舟路を差塞で候也。急近日大将御下向有べし。」とぞ告たりける。諸卿是を聞て、大将進発の道開て、天運機を得たる時至りぬと、悦給事限なし。抑此信胤と申は、去建武乱の始に、細川卿律師定禅に与力して、備前備中の両国を平げ、将軍の為に忠功有しかば、武恩に飽て、恨を可含事も無りしに、依何今俄に宮方に成ぞと、事の根元を尋ぬれば、此比天下に禍をなす例の傾城故とぞ申ける。其比菊亭殿に御妻とて、見目貌無類、其品賎からで、なまめきたる女房ありけり。しかあれ共、元来心軽く思定めたる方もなければ、何となく引手数たのうき綱の、目もはづかなる其喩へも猶事過て、寄瀬何くにかと我ながら思分でぞ有渡りける。さはありながら、をぼろけにては、人の近付べきにもあらぬ宮中の深棲なるに、何がして心を懸し玉垂の、間求得たる便にか有けん、今の世に肩を双る人もなき高土佐守に通馴て、人しれず思結れたる下紐の、せきとめがたき中なれば、初の程こそ忍けれ、後は早山田に懸るひたふるに打ひたゝけて、あやにくなる里居にのみまかでければ、宮仕ひも常には疎そかなる事のみ有て、主の左のをほゐまうち公も、かく共しらせ給しかば、むつかしの人目を中の関守や、よひ/\ごとの深過るをまたず共あれかしと被許、まかで出ける時もあり。懸し程に、此土佐守に元相馴て、子共数た儲たる鎌倉の女房有ける。是は元来田舎人也ければ、物妬はしたなく心武々敷て、彼源氏の雨夜の物語に、頭中将の指をくひ切たりし有様共多かりけり。されども子共の親なれば、けしからずの有様哉とは乍思、いなと云べき方も無て、年を送ける処に、土佐守伊勢国の守護に成て下向しけるが、二人の女房を皆具足して下らんとて、元の女房をば先くだしぬ。御妻を同様にと待しか共、今日よ明日よとて少しうるさげなる気色に見へしかば、土佐守猶も思の色増て、伴行かでは叶まじきとて、三日まで逗留して、兎角云恨ける程に、さらばとて、夜半許に輿指寄せ、几帳指隠して扶乗られぬ。土佐守無限うれしくて、道に少しも不休、軈て伊勢路に趣けり。まだ夜を篭て、逢坂の関の岩かど蹈鳴し、ゆう付鳥に被送て、水の上なる粟津野の、露分行けばにほの海、流の末の河となる、勢多の橋を打渡れば、衣手の田上河の朝風に、比良の峯わたし吹来て、輿の簾を吹揚たり。出絹の中を見入たれば、年の程八十許なる古尼の、額には皺のみよりて、口には歯一もなきが、腰二重に曲てぞ乗たりける。土佐守驚て、「是は何様古狸か古狐かの化たるにてぞ有らん。鼻をふすべよ。蟇目にて射て見よ。」と申ければ、尼泣々、「是は媚者にても候はず。菊亭殿へ年来参通者にて候を、御妻の局へ被召て、「加様にて京に住わびんよりは、我が下る田舎へ行て、且くも慰めかし。」と被仰候し間、さそふ水もがなと思ふ憂身にて候へば、うれしき事に思て昨日御局へ参りて候へば、被留進せて、妻戸に輿を寄たりしに、それに乗れと仰候しかば、何心もなく乗たる許にて候ぞ。」と申ける。土佐守、「さては此女房に出抜れたる者也。彼御所に打入て、奪取ずば下るまじき者を。」とて、尼をば勢多の橋爪に打捨て、空輿を舁返して、又京へぞ上りける。元来思慮なき土佐守、菊亭殿に推寄て、四方の門を差篭て、無残所捜しける。御所中の人々、「こは何なる事ぞ。」とて、上下周章騒事無限。何に求れ共なければ、此女房の住しあたりなる局に有ける女の童を囚へて、責問ければ、「其女房は通方多かりしかば、何くとも差ては知がたし。近来は飽浦三郎左衛門とかや云者にこそ、分て志深く、人目も憚らぬ様に承候しか。」と語りければ、土佐守弥腹を居兼て、軈て飽浦が宿所へ推寄て討んと議りけるを聞て、自科依難遁、身を隠しかね、多年粉骨の忠功を棄て、宮方の旗をば挙ける也。折得ても心許すな山桜さそふ嵐に散もこそすれと歌に読たりしは、人心の花なりけりと、今更思知ても、浅猿かりし事共也。
○義助予州下向事 S2204
去程に四国の通路開ぬとて、脇屋刑部卿義助は、暦応三年四月一日勅命を蒙て、四国西国の大将を奉て、下向とぞ聞へし。年来相順ふ兵其数多しといへ共、越前美濃の合戦に打負し時、大将の行末を不知して山林に隠忍び、或は危難を遁て堺を隔てしかば、芳野へ馳来る兵五百騎にも不足けり。され共四国中国に心を通ずる官軍多く有しかば、今一日も可急とて、未明に芳野を打立て、紀伊の路に懸り被通けるに、加様の次ならでは早晩か参詣の志をも遂げ、当来値遇の縁をも可結と被思ければ、先高野山に詣て、三日逗留し、院々谷々拝み廻るに、聞しより尚貴くて、八葉の峯空にそびへ、千仏の座雲に捧げたり。無漏の扉苔閉て、三会の暁に月を期す。或は説法衆会の場もあり、或は念仏三昧の砌もあり。飛行の三鈷地に堕、験に生たる一株の松、回禄の余烟風に去て、軒を焦せる御影堂、香烟窓を出て心細く、鈴の声霧に篭て物冷し。此は昔滝口入道が住たりし菴室の迹とて尋れば、旧き板間に苔むして、荒ても漏ぬ夜の月、彼は古西行法師が結置し、柴の庵の名残とて立寄れば、払はぬ庭に花散て、蹈に迹なき朝の雪、様々の霊場所々の幽閑を見給にぞ、「遁ぬべくは角てこそあらまほしく。」と宣し、維盛卿の心中、誠と被思知たる。且くも懸る霊地に逗留して、猶も憂身の汚れを濯度思はれけれ共、軍旅に趣給ふ事なれば不協して、高野より紀伊の路に懸り、千里の浜を打過て、田辺の宿に逗留し、渡海の舟を汰へ給に、熊野の新宮別当湛誉・湯浅入道定仏・山本判官・東四郎・西四郎以下の熊野人共、馬・物具・弓矢・太刀・長刀・兵粮等に至るまで、我不劣と奉りける間、行路の資け卓散也。角て順風に成にければ、熊野人共兵船三百余艘調へ立、淡路の武島へ送奉る。此には安間・志知・小笠原の一族共、元来宮方にて城を構て居たりしかば、様々の酒肴・引出物を尽して、三百余艘の舟を汰へ、備前の小島へ送奉る。此には佐々木薩摩守信胤・梶原三郎自去年宮方に成て、島の内には又交る人もなし。されば大船数た汰へて、四月二十三日伊予国今張浦に送著奉る。大館左馬助氏明は、先帝自山門京へ御出有し時、供奉仕て有しが、如何思けん降人になり、且くは将軍に属して居たりけるが、先帝偸に楼の御所を御出有て、吉野に御座有と聞て、軈て馳参たりしかば、君御感有て伊予国の守護に被補しかば、自去年春当国に居住してあり。又四条大納言隆資子息少将有資は此国の国司にて自去々年在国せらる。土居・得能・土肥・河田・武市・日吉の者共、多年の宮方にして、讃岐の敵を支へ、西は土佐の畑を堺ふて居たりければ、大将下向に弥勢ひを得て、竜の水を得、虎の山に靠が如し。其威漸近国に振ひしかば、四国は不及申、備前・備後・安芸・周防・乃至九国の方までも、又大事出来ぬと云はぬ者こそ無りけれ。されば当国の内にも、将軍方の城僅に十余箇所有けるも、未敵も向はぬ先に皆聞落してんげれば、今は四国悉一統して、何事か可有と憑敷思あへり。
○義助朝臣病死事付鞆軍事 S2205
斯る処に、同五月四日、国府に被坐たる脇屋刑部卿義助、俄に病を受て、身心悩乱し給ひけるが、僅に七日過て、終に無墓成給にけり。相順ふ官軍共、始皇沙丘に崩じて、漢・楚機に乗事を悲み、孔明籌筆駅に死して、呉・魏便りを得し事を愁しが如く、五更に灯消て、破窓の雨に向ひ、中流に舟を失て、一瓢の浪に漂ふらんも、角やと覚へて、此事外に聞へなば、敵に気を得られつべしとて、偸に葬礼を致て、隠悲呑声いへ共、さすが隠無りしかば、四国の大将軍にて、尊氏の被置たる、細河刑部大輔頼春、此事を聞て、「時をば且くも不可失。是司馬仲達が弊に乗て蜀を亡せし謀なり。」とて、伊予・讃岐・阿波・淡路の勢七千余騎を率して、先伊予の堺なる河江城へ押寄て、土肥三郎左衛門を責らる。義助に順付たりし多年恩顧の兵共、土居・得能・合田・二宮・日吉・多田・三木・羽床・三宅・高市の者共、金谷修理大夫経氏を大将にて、兵船五百余艘にて、土肥が後攻の為に海上に推浮ぶ。是を聞て、備後の鞆・尾の道に舟汰して、土肥が城へ寄せんとしける備後・安芸・周防・長門の大船千余艘にて推出す。両陣の兵船共、渡中に帆を突て、扣舷時を作る。塩に追ひ風に随て推合々々相戦ひける。其中に大館左馬助氏明が執事、岡部出羽守が乗たる舟十七艘、備後の宮下野守兼信、左右に別て漕双べたる舟四十余艘が中へ分入て、敵の船に乗遷々々、皆引組で海中へ飛入けるこそ、いかめしかりし行迹なれ。備後・安芸・周防の舟は皆大船なれば、艫・舳に櫓を高く掻て、指下して散々に射る。伊予・土佐の舟は皆小舟なれば、逆櫓を立て縦横に相当る。両方の兵、よしや死して海底の魚腹に葬せらるゝ共、逃て天下の人口には落じ者をと、互に機を進め、一引も不引終日戦ひ暮しける処に、海上俄に風来て、宮方の舟をば悉く西を差て吹もどす。寄手の舟をば悉く伊予の地へ吹送る。夜に入て風少静まりければ、宮方の兵共、「是程に運のきかぬ時なれば、如何に思ふ共不可叶。只元の方へ漕返べき歟。」と申けるを、大将金谷修理大夫、「運を計り勝つ事を求る時こそ、身を全して功をなさんとは思へ。只一人憑たる大将軍脇屋義助は病に被侵失給ぬる上は、今は可為方なき微運の我等が、生てあらば何許の事か可有。命を限の戦して、弓矢の義を専にする許なるべし。されば運の通塞も軍の吉凶も非可謂処。いざや今夜備後の鞆へ推寄て、其城を追落して、中国の勢著かば西国を責随へん。」とて、其夜の夜半許に、備後の鞆へ押寄する。城中時節無勢也ければ、三十余人有ける者共、且く戦て皆討死しければ、宮方の士卒是に機を挙て、大可島を攻城に拵へ、鞆の浦に充満して、武島や小豆島の御方を待処に、備後・備中・安芸・周防四箇国の将軍の勢、三千余騎にて押寄たり。宮方は大可島を後ろに当て、東西の宿へ舟を漕寄て、打てはあがり/\、荒手を入替て戦たり。将軍方は小松寺を陣に取て、浜面へ騎馬の兵を出し、懸合合揉合たり。互に戦屈して、十余日を経ける処に、伊予の土肥が城被責落。細河刑部大輔頼春は、大館左馬助氏明の被篭たる世田の城へ懸ると聞へければ、土居・得能以下の者共、同く死なば、我国にてこそ尸を曝さめとて、大可島を打棄て、伊予国に引返す。敗軍の士卒相集て、二千余騎有ける其中より、日来手柄露はし名を被知たる兵を、三百余騎勝り出して、懸合の合戦に勝負を決せんと云。是は細川刑部大輔目に余る程の大勢也と聞、「中々何ともなき取集勢を対揚して合戦をせば、臆病武者に引立られて、御方の負をする事有べし。只一騎当千の兵を勝て敵の大勢を懸破り、大将細川刑部大輔と引組で差違へんとの謀也。さらば敵の国中へ入ぬ先に打立。」とて、金谷修理大夫経氏を大将として、勝たる兵三百騎、皆一様に曼荼羅を書て母衣に懸て、兎ても生ては帰まじき軍なればとて、十死一生の日を吉日に取て、大勢の敵に向ひける心の中、樊■も周勃も未得振舞也。あはれ只勇士の義を存する志程、やさしくも哀なる事はあらじとて、是を聞ける者は、皆胄の袖をぞぬらしける。去程に細川刑部大輔七千余騎を率して、敵已に打出るなれば、心よく懸合の合戦を可致とて、千町が原へ打出て、敵の陣を見渡せば、渺々たる野原に、中黒の旗一流幽に風に飛揚して、僅に勢の程三百騎許ぞ磬へたる。細川刑部大輔是を見給て、「当国の敵是程の小勢なるべしとは思はぬに、余に無勢に見ければ、一定究竟の者共を勝て、大勢の中を懸破、頼春に近づかば、組で勝負を決せん為にてぞあるらん。然者思切たる小勢を一息に討んとせば、手に余て討れぬ事有べし。只敵破らんとせば被破て然も迹を塞げ、轡を双て懸らば、偽て引退て敵の馬の足を疲らかせ、打物に成て一騎合に懸らば、あひの鞭を打て推もぢりに射て落せ。敵疲ぬと見ば、荒手を替て取篭よ。余に近付て敵に組るな。引とも御方を見放な。敵の小勢に御方を合すれば、一騎に十騎を対しつべし。飽まで敵を悩まして、弊に乗て一揉々たらんに、などか是等を可不討。」と、委細に手段を成敗して、旗の真前に露れて、閑々とぞ進まれたる。金谷修理大夫是を見て、「すはや敵は懸ると見へたるは。」とて、些も見繕ふ処もなく、相懸りにむずと攻て、矢一射違る程こそ有けれ、皆弓矢をば■し棄、打物に成て、喚叫で真闇にぞ懸たりける。細川刑部大輔馬廻に、藤の一族五百余騎にて磬へたるが、兼ての謀也ければ、左右へ颯と分れて引へたり。此中に大将有と思も不寄、三百騎の者共是をば目にも懸ず、裏へつと懸抜、二陣の敵に打て懸る。此陣には三木・坂西・坂東の兵共相集て、七百余騎甲の錣を傾て、馬を立納め、閑まり却て磬へたりけるが、勇猛強力の兵共に懸散されて、南なる山の峯へ颯と引て上りけるが、是もはか/゛\しき敵は無りけりとて、三陣の敵に打て懸る。是には詫間・香西・橘家・小笠原の一族共、二千余騎にて引へたり。是にぞ大将は御座らんと見澄して、中を颯と懸破て、取て返し、引組では差違、落重ては頚を取らる。一足も不引戦けるに、宮方の兵三百余騎忽に蹄の下に討死して、僅十七騎にぞ成たりける。其十七騎と申は、先大将金谷経氏・河野備前守通郷・得能弾正・日吉大蔵左衛門・杉原与一・富田六郎・高市与三左衛門・土居備中守・浅海六郎等也。彼等は一騎当千の兵なれば、自敵に当る事十余箇度、陣を破る事六箇度也といへ共、未痛手をも負ず又疲れける体も無りけり。一所に馬を打寄て、馬も物具も見知ねば、大将何共知がたし。差せる事もなき国勢共に逢て、討死せんよりは、いざや打破て落んとて、十七騎の人々は、又馬の鼻を引返し、七千余騎が真中を懸破て、備後を差て引て行。いかめしかりし振舞也。
○大館左馬助討死事付篠塚勇力事 S2206
斯りしかば、大将細川頼春は、今戦ひ事散じて、御方の手負死人を注さるゝに、七百人に余れりといへ共、宗徒の敵二百余人討れにければ、人皆気を挙げ勇をなせり。「さらば軈て大館左馬助が篭たる世田の城へ寄よ。」とて、八月二十四日早旦に、世田の後ろなる山へ打上て、城を遥に直下、一万余騎を七手に分て、城の四辺に打寄り、先己が陣々をぞ構へたる。対陣已に取巻せければ、四方より攻寄せて、持楯をかづき寄せ、乱杭・逆木を引のけて、夜昼三十日迄ぞ責たりける。城の内には宗徒の軍をもしつべき兵と憑れし岡部出羽守が一族四十余人、皆日比の与にて自害しぬ。其外の勇士共は、千町が原の戦に討死しぬ。力尽食乏して可防様も無りければ、九月三日の暁、大館左馬助主従十七騎、一の木戸口へ打出て、屏に著たる敵五百余人を、遥なる麓へ追下し、一度に腹を切て、枕を双てぞ臥たりける。防矢射ける兵共是を見て、今は何をか可期とて、或は敵に引組で差違るもあり、或は己が役所に火を懸て、猛火の底に死するもあり。目も当られぬ有様也。加様に人々自害しける其中に、篠塚伊賀守一人は、大手の一二の木戸無残押開て、只一人ぞ立たりける。降人に出る歟と見ればさは無て、紺糸の胄に、鍬形打たる甲の緒を縮め、四尺三寸有ける太刀に、八尺余りの金撮棒脇に挿て、大音揚て申けるは、「外にては定て名をも聞つらん。今近付て我をしれ。畠山庄司次郎重忠に六代の孫、武蔵国に生長て、新田殿に一人当千と憑れたりし篠塚伊賀守爰にあり。討て勲功に預れ。」と呼て、百騎許磬へたる敵の中へ、些も擬議せず走り懸る。其勢事柄勇鋭たるのみならず、兼て聞し大力なれば、誰かは是を可遮止。百余騎の勢東西へ颯と引退て、中を開てぞ通しける。篠塚馬にも不乗弓矢を持ず、而も只一人なれば、「何程の事か可有。只近付事無て遠矢に射殺せ。返合せば懸悩して討。」とて、藤・橘・伴の者ども、二百余騎迹に付て追懸る。篠塚些も不騒、小歌にて閑々と落行けるを、敵、「あますな。」とて追懸れば立止て、「嗚呼御辺達、痛く近付て頚に中違すな。」とあざ笑て、件の金棒を打振れば、蜘の子を散すが如く颯とは逃げ、又村立て迹に集り、鏃を汰へて射れば、「某が胄には旁のへろ/\矢はよも立候はじ。すは此を射よ。」とて、後ろを差向てぞ休みける。されども名誉の者なれば、一人なり共若や打止ると、追懸たる敵二百余騎に、六里の道を被送て、其夜の夜半許に、今張浦にぞ著たりける。自此舟に乗て、陰の島へ落ばやと志し、「舟やある。」と見るに、敵の乗棄て水主許残れる舟数多あり。是こそ我物よと悦で、胄著ながら浪の上五町許を游ぎて、ある舟に岸破と飛乗る。水主・梶取驚て、「是は抑何者ぞ。」と咎めければ、「さな云ひそ。是は宮方の落人篠塚と云者ぞ。急此舟を出して、我を陰の島へ送。」と云て、二十余人してくり立ける碇を安々と引挙げ、四十五尋ありける檣を軽々と推立て、屋形の内に高枕して、鼾かきてぞ臥たりける。水主・梶取共是を見て、「穴夥、凡夫の態にはあらじ。」と恐怖して、則順風に帆を懸て、陰の島へ送て後、暇を請てぞ帰にける。昔も今も勇士多しといへ共、懸る事をば不聞とて、篠塚を誉ぬ者こそ無りけれ。


太平記
太平記巻第二十三

○大森彦七事 S2301
暦応五年の春の比、自伊予国飛脚到来して、不思議の註進あり。其故を委く尋れば、当国の住人大森彦七盛長と云者あり。其心飽まで不敵にして、力尋常の人に勝たり。誠に血気の勇者と謂つべし。去ぬる建武三年五月に、将軍自九州攻上り給し時、新田義貞兵庫湊河にて支へ合戦の有し時、此大森の一族共、細川卿律師定禅に随て手痛く軍をし、楠正成に腹を切せし者也。されば其勲功異他とて、数箇所の恩賞を給りてんげり。此悦に誇て、一族共、様々の遊宴を尽し活計しけるが、猿楽は是遐齢延年の方なればとて、御堂の庭に桟敷を打て舞台を布、種々の風流を尽さんとす。近隣の貴賎是を聞て、群集する事夥し。彦七も其猿楽の衆也ければ、様々の装束共下人に持せて楽屋へ行けるが、山頬の細道を直様に通るに、年の程十七八許なる女房の、赤き袴に柳裏の五衣著て、鬢深く削たるが、指出たる山端の月に映じて、只独たゝずみたり。彦七是を見て、不覚、斯る田舎などに加様の女房の有べしとは。何くよりか来るらん、又何なる桟敷へか行らんと見居たれば、此女房彦七に立向ひて、「路芝の露払べき人もなし。可行方をも誰に問はまし。」とて打しほれたる有様、何なる荒夷なりとも、心を不懸云事非じと覚ければ、彦七あやしんで、何なる宿の妻にてか有らんに、善悪も不知わざは如何がと乍思、無云量わりなき姿に引れて心ならず、「此方こそ道にて候へ。御桟敷など候はずば、適用意の桟敷候。御入候へかし。」と云ければ、女些打笑て、「うれしや候。さらば御桟敷へ参り候はん。」と云て、跡に付てぞ歩ける。羅綺にだも不勝姿、誠に物痛しく、未一足も土をば不蹈人よと覚へて、行難たる有様を見て、彦七不怺、「余に露も深く候へば、あれまで負進せ候はん。」とて、前に跪たれば、女房些も不辞、「便なう如何が。」と云ながら、軈て後ろにぞ靠ける。白玉か何ぞと問し古へも、角やと思知れつゝ、嵐のつてに散花の、袖に懸るよりも軽やかに、梅花の匂なつかしく、蹈足もたど/\しく心も空にうかれつゝ、半町許歩けるが、山陰の月些暗かりける処にて、さしも厳しかりつる此女房、俄に長八尺許なる鬼と成て、二の眼は朱を解て、鏡の面に洒けるが如く、上下の歯くひ違て、口脇耳の根まで広く割、眉は漆にて百入塗たる如にして額を隠し、振分髪の中より五寸許なる犢の角、鱗をかづひて生出たり。其重事大磐石にて推が如し。彦七屹と驚て、打棄んとする処に、此化物熊の如くなる手にて、彦七が髪を掴で虚空に挙らんとす。彦七元来したゝかなる者なれば、むずと引組で深田の中へ転落て、「盛長化物組留めたり。よれや者共。」と呼りける声に付て、跡にさがりたる者共、太刀・長刀の鞘を放し、走寄て是を見れば、化物は書消す様に失にけり。彦七は若党・中間共に引起されたれ共、忙然として人心地もなければ、是直事に非ずとて、其夜の猿楽は止にけり。さればとて、是程まで習したる猿楽を、さて可有に非ずとて、又吉日を定め、堂の前に舞台をしき、桟敷を打双べたれば、見物の輩群をなせり。猿楽已に半ば也ける時、遥なる海上に、装束の唐笠程なる光物、二三百出来たり。海人の縄焼居去火か、鵜舟に燃す篝火歟と見れば、其にはあらで、一村立たる黒雲の中に、玉の輿を舁連ね、懼し気なる鬼形の者共前後左右に連なりたり。其迹に色々に胄たる兵百騎許、細馬に轡を噛せて供奉したり。近く成しより其貌は不見。黒雲の中に電光時々して、只今猿楽する舞台の上に差覆ひたる森の梢にぞ止りける。見物衆みな肝を冷す処に、雲の中より高声に、「大森彦七殿に可申事有て、楠正成参じて候也。」とぞ呼りける。彦七、加様の事に曾恐れぬ者也ければ、些も不臆、「人死して再び帰る事なし。定て其魂魄の霊鬼と成たるにてぞ有らん。其はよし何にてもあれ、楠殿は何事の用有て、今此に現じて盛長をば呼給ぞ。」と問へば、楠申けるは、「正成存命の間、様々の謀を廻して、相摸入道の一家を傾て、先帝の宸襟を休め進せ、天下一統に帰して、聖主の万歳を仰処に、尊氏卿・直義朝臣、忽に虎狼の心を挿み、遂に君を傾奉る。依之忠臣義士尸を戦場に曝す輩、悉く脩羅の眷属に成て瞋恚を含む心無止時。正成彼と共に天下を覆さんと謀に、貪瞋痴の三毒を表して必三剣を可用。我等大勢忿怒の悪眼を開て、刹那に大千界を見るに、願ふ処の剣適我朝の内に三あり。其一は日吉大宮に有しを法味に替て申給りぬ。今一は尊氏の許に有しを、寵愛の童に入り代て乞取ぬ。今一つは御辺の只今腰に指たる刀也。不知哉、此刀は元暦の古へ、平家壇の浦にて亡し時、悪七兵衛景清が海へ落したりしを江豚と云魚が呑て、讃岐の宇多津の澳にて死ぬ。海底に沈で已に百余年を経て後、漁父の綱に被引て、御辺の許へ伝へたる刀也。所詮此刀をだに、我等が物と持ならば、尊氏の代を奪はん事掌の内なるべし。急ぎ進せよと、先帝の勅定にて、正成罷向て候也。早く給らん。」と云もはてぬに、雷東西に鳴度て、只今落懸るかとぞ聞へける。盛長是にも曾て不臆、刀の柄を砕よと拳て申けるは、「さては先度美女に化て、我を誑さんとせしも、御辺達の所行也けるや。御辺存日の時より、常に申通せし事なれば、如何なる重宝なり共、御用と承らんに非可奉惜。但此刀をくれよ、将軍の世を亡さんと承つる、其こそえ進すまじけれ。身雖不肖、盛長将軍の御方に参じ、無弐者と知れ進せし間、恩賞厚く蒙て、一家の豊なる事日比に過たり。されば此猿楽をして遊ぶ事も偏に武恩の余慶也。凡勇士の本意、唯心を不変を以て為義。されば縦ひ身を寸々に割れ、骨を一々に被砕共、此刀をば進すまじく候。早御帰候へ。」とて、虚空をはたと睨で立たりければ、正成以外忿れる言ばにて、「何共いへ、遂には取ん者を。」と罵て、本の如く光渡り、海上遥に飛去にけり。見物の貴賎是を見て、只今天へ引あげられて挙る歟と、肝魂も身に添ねば、子は親を呼び、親は子の手を引て、四角八方へ逃去ける間、又今夜の猿楽も、二三番にて休にけり。其後四五日を経て、雨一通降過て、風冷吹騒ぎ、電時々しければ、盛長、「今夜何様件の化物来ぬと覚ゆ。遮て待ばやと思ふ也。」とて、中門に席皮敷て胄一縮し、二所藤の大弓に、中指数抜散し、鼻膏引て、化物遅とぞ待懸たる。如案夜半過る程に、さしも無隈つる中空の月、俄にかき曇て、黒雲一村立覆へり。雲中に声有て、「何に大森殿は是に御座ぬるか、先度被仰し剣を急ぎ進せられ候へとて、綸旨を被成て候間、勅使に正成又罷向て候は。」と云ければ、彦七聞も不敢庭へ立出て、「今夜は定て来給ぬらんと存じて、宵より奉待てこそ候へ。初は何共なき天狗・化物などの化して候事ぞと存ぜし間、委細の問答にも及候はざりき。今慥に綸旨を帯したるぞと奉候へば、さては子細なき楠殿にて御座候けりと、信を取てこそ候へ。事長々しき様に候へ共、不審の事共を尋ぬるにて候。先相伴ふ人数有げに見へ候ば、誰人にて御渡候ぞ。御辺は六道四生の間、何なる所に生てをわしますぞ。」と問ければ、其時正成庭前なる鞠の懸の柳の梢に、近々と降て申けるは、「正成が相伴人々には、先後醍醐天皇・兵部卿親王・新田左中将義貞・平馬助忠政・九郎大夫判官義経・能登守教経、正成を加へて七人也。其外泛々の輩、計るに不遑。」とぞ語ける。盛長重て申けるは、「さて抑先帝は何くに御座候ぞ。又相随奉る人々何なる姿にて御座ぞ。」と問へば、正成答て云、「先朝は元来摩醯首羅王の所変にて御座ば、今還て欲界の六天に御座あり。相順奉る人人は、悉脩羅の眷属と成て、或時は天帝と戦、或時は人間に下て、瞋恚強盛の人の心に入替る。」「さて御辺は何なる姿にて御座ぬる。」と問へば、正成、「某も最期の悪念に被引て罪障深かりしかば、今千頭王鬼と成て、七頭の牛に乗れり。不審あらば其有様を見せん。」とて、続松を十四五同時にはつと振挙たる、其光に付て虚空を遥に向上たれば、一村立たる雲の中に、十二人の鬼共玉の御輿を舁捧たり。其次には兵部卿親王、八竜に車を懸て扈従し給ふ。新田左中将義貞は、三千余騎にて前陣に進み、九郎大夫判官義経は、混甲数百騎にて後陣に支らる。其迹に能登守教経、三百余艘の兵船を雲の浪に推浮べ給へば、平馬助忠政、赤旗一流差挙て、是も後陣に控へたり。又虚空遥に引さがりて、楠正成湊川にて合戦の時見しに些も不違、紺地錦胄直垂に黒糸の胄著て、頭の七ある牛にぞ乗たりける。此外保元平治に討れし者共、治承養和の争に滅し源平両家の輩、近比元弘建武に亡し兵共、人に知れ名を顕す程の者は、皆甲胄を帯し弓箭を携へて、虚空十里許が間に無透間ぞ見へたりける。此有様、只盛長が幻にのみ見へて、他人の目には見へざりけり。盛長左右を顧て、「あれをば見ぬか。」と云はんとすれば、忽に風に順雲の如、漸々として消失にけり。只楠が物云ふ声許ぞ残ける。盛長是程の不思議を見つれ共、其心猶も不動、「「一翳在眼空花乱墜す」といへり。千変百怪何ぞ驚くに足ん。縦如何なる第六天の魔王共が来て謂ふ共、此刀をば進ずまじきにて候。然らば例の手の裏を返すが如なる綸旨給ても無詮。早々面々御帰候へ。此刀をば将軍へ進候はんずるぞ。」と云捨て、盛長は内へ入にけり。正成大に嘲て、「此国縱陸地に連なりたり共道をば輒く通すまじ。況て海上を通るには、遣事努々有まじき者を。」と、同音にどつと笑つゝ、西を指てぞ飛去にける。其後より盛長物狂敷成て、山を走り水を潜る事無休時。太刀を抜き矢を放つ事間無りける間、一族共相集て、盛長を一間なる所に推篭て、弓箭兵杖を帯して警固の体にてぞ居たりける。或夜又雨風一頻通て、電の影頻なりければ、すはや例の楠こそ来れと怪む処に、如案盛長が寝たる枕の障子をかはと蹈破て、数十人打入音しけり。警固の者共起周章て太刀長刀の鞘を外して、夜討入たりと心得て、敵は何くにかあると見れ共更になし。こは何にと思処に、自天井熊の手の如くなる、毛生て長き手を指下して、盛長が本鳥を取て中に引さげ、破風の口より出んとす。盛長中にさげられながら件の刀を抜て、化物の真只中を三刀指たりければ、被指て些弱りたる体に見へければ、むずと引組で、破風より広庇の軒の上にころび落、取て推付け、重て七刀までぞ指たりける。化物急所を被指てや有けん、脇の下より鞠の勢なる物ふつと抜出て、虚空を指てぞ挙りける。警固の者共梯を指て軒の上に登て見れば、一の牛の頭あり。「是は何様楠が乗たる牛か、不然ば其魂魄の宿れる者歟。」とて、此牛の頭を中門の柱に結著て置たれば、終夜鳴はためきて動ける間、打砕て則水底にぞ沈めける。其次の夜も月陰風悪して、怪しき気色に見へければ、警固の者共大勢遠侍に並居て、終夜睡らじと、碁双六を打てぞ遊びける。夜半過る程に、上下百余人有ける警固の者共、同時にあつと云けるが、皆酒に酔る者の如く成て、頭べを低て睡り居たり。其座中に禅僧一人眠らで有けるが、灯の影より見れば、大なる寺蜘蛛一つ天井より下て、寝入たる人の上を這行て、又天井へぞ挙りける。其後盛長俄に驚て、「心得たり。」と云侭に、人と引組だる体に見へて、上が下にぞ返しける。叶はぬ詮にや成けん、「よれや者共。」と呼ければ、傍に臥たる者共起挙らんとするに、或は柱に髻を結著られ、或は人の手を我足に結合せられて、只綱に懸れる魚の如く也。此禅僧余りの不思議さに、走立て見れば、さしも強力の者ども、僅なる蜘のゐに手足を被繋て、更にはたらき得ざりけり。されども盛長、「化物をば取て押へたるぞ。火を持てよれ。」と申ければ、警固の者共兎角して起挙り、蝋燭を灯て見に、盛長が押へたる膝を持挙んと蠢動ける。諸人手に手を重て、逃さじと推程に、大なる土器の破るゝ音して、微塵に砕けにけり。其後手をのけて是を見れば、曝たる死人の首、眉間の半ばより砕てぞ残りける。盛長大息を突て、且し心を静めて腰を探て見れば、早此化物に刀を取れ、鞘許ぞ残にける。是を見て盛長、「我已に疫鬼に魂を被奪、今は何に武く思ふ共叶まじ。我命の事は物の数ならず、将軍の御運如何。」と歎て、色を変じ泪を流して、わな/\と振ひければ、聞者見人、悉身毛よ立てぞ候ける。角て夜少し深て、有明の月中門に差入たるに、簾を高く捲上て、庭を見出したれば、空より毬の如くなる物光て、叢の中へぞ落たりける。何やらんと走出て見れば、先に盛長に推砕かれたりつる首の半残たるに、件の刀自抜て、柄口まで突貫てぞ落たりける。不思議なりと云も疎か也。軈て此頭を取て火に抛入たれば、跳出けるを、金鋏にて焼砕てぞ棄たりける。事静て後、盛長、「今は化物よも不来と覚る。其故は楠が相伴ふ者と云しが我に来事已に七度也。是迄にてぞあらめ。」と申ければ、諸人、「誠もさ覚ゆ。」と同ずるを聞て、虚空にしはがれ声にて、「よも七人には限候はじ。」と嘲て謂ければ、こは何にと驚て、諸人空を見上たれば、庭なる鞠の懸に、眉太に作、金黒なる女の首、面四五尺も有らんと覚たるが、乱れ髪を振挙て目もあやに打笑て、「はづかしや。」とて後ろ向きける。是を見人あつと脅て、同時にぞ皆倒臥ける。加様の化物は、蟇目の声に恐るなりとて、毎夜番衆を居て宿直蟇目を射させければ、虚空にどつと笑声毎度に天を響しけり。さらば陰陽師に門を封ぜさせよとて、符を書せて門々に押せば、目にも見へぬ者来て、符を取て棄ける間、角ては如何すべきと思煩ける処に、彦七が縁者に禅僧の有けるが来て申けるは、「抑今現ずる所の悪霊共は、皆脩羅の眷属たり。是を静めん謀を案ずるに、大般若経を読に不可如。其故は帝釈と、脩羅と須弥の中央にて合戦を致す時、帝釈軍に勝ては、脩羅小身を現じて藕糸の孔の裏に隠れ、脩羅又勝時は須弥の頂に座して、手に日月を握り足に大海を蹈。加之三十三天の上に責上て帝釈の居所を追落し、欲界の衆生を悉く我有に成さんとする時、諸天善神善法堂に集て般若を講じ給ふ。此時虚空より輪宝下て剣戟を雨し、脩羅の輩を寸々に割切ると見へたり。されば須弥の三十三天を領し給ふ帝釈だにも、我叶ぬ所には法威を以て魔王を降伏し給ふぞかし。況乎薄地の凡夫をや。不借法力難得退治。」と申ければ、此義誠も可然とて、俄に僧衆を請じて真読の大般若を日夜六部迄ぞ読たりける。誠に依般若講読力脩羅威を失ひけるにや。五月三日の暮程に、導師高座の上にて、啓白の鐘打鳴しける時より、俄に天掻曇て、雲上に車を轟かし馬を馳違る声無休時。矢さきの甲胄を徹す音は雨の下よりも茂く、剣戟を交る光は燿く星に不異。聞人見者推双て肝を冷して恐合へり。此闘の声休て天も晴にしかば、盛長が狂乱本復して、正成が魂魄曾夢にも不来成にけり。さても大般若経真読の功力に依て、敵軍に威を添んとせし楠正成が亡霊静まりにければ、脇屋刑部卿義助、大館左馬助を始として、土居・得能に至るまで、或は被誅或は腹切て、如無成にけり。誠哉、天竺の班足王は、仁王経の功徳に依て千王を害する事を休め、吾朝の楠正成は、大般若講読の結縁に依て三毒を免るゝ事を得たりき。誠鎮護国家の経王、利益人民の要法也。其後此刀をば天下の霊剣なればとて、委細の註進を副て上覧に備しかば、左兵衛督直義朝臣是を見給て、「事実ならば、末世の奇特何事か可如之。」とて、上を作直して、小竹作と同く賞翫せられけるとかや。沙に埋れて年久断剣如なりし此刀、盛長が註進に依て凌天の光を耀す。不思議なりし事共也。
○就直義病悩上皇御願書事 S2302
去程に諸国の宮方力衰て、天下武徳に帰し、中夏静まるに似たれ共、仏神三宝をも不敬、三台五門の所領をも不渡、政道さながら土炭に堕ぬれば、世中如何がと申合へり。吉野の先帝崩御の後、様々の事共申せしが、車輪の如くなる光物都を差して夜々飛度り、種々の悪相共を現じける間、不思議哉と申に合せて、疾疫家々に満て貴賎苦む事甚し。是をこそ珍事哉と申に、同二月五日の暮程より、直義朝臣俄に邪気に被侵、身心悩乱して、五体逼迫しければ、諸寺の貴僧・高僧に仰て御祈不斜。陰陽寮、鬼見・泰山府君を祭て、財宝を焼尽し、薬医・典薬、倉公・華佗が術を究て、療治すれ共不痊。病日々に重て今はさてと見へしかば、京中の貴賎驚き合ひて、此人如何にも成給なば、只小松大臣重盛の早世して、平家の運命忽に尽しに似たるべしと思よりて、弥天下の政道は徒事なるべしと、歎ぬ者も無りけり。持明上皇此由を聞召し殊に歎き思食しかば、潜に勅使を被立て八幡宮に一紙の御願書を被篭て、様々の御立願あり。其詞云、敬白祈願事右神霊之著明徳也。安民理国為本。王者之施政化也。賞功貴賢為先。爰左兵衛督直義朝臣者、匪啻爪牙之良将、已為股肱之賢弼。四海之安危、偏嬰此人之力。巨川之済渉、久沃眇身之心。義為君臣。思如父子。而近日之間、宿霧相侵、薬石失験。驚遽無聊。若非幽陵之擁護者、争得病源之平愈乎。仍心中有所念、廟前将奉祷請。神霊縦有忿怒之心、眇身已抽祈謝之誠、懇棘忽酬、病根速消者、点七日之光陰、課弥天之碩才、令講讃妙法偈、可勤修尊勝供。伏乞尊神哀納叡願、不忘文治撥乱之昔合体、早施経綸安全之今霊験。春秋鎮盛、華夏純煕。敬白。暦応五年二月日勅使勘解由長官公時、御願書を開て宝前に跪き、泪を流て、高らかに読上奉るに、宝殿且く振動して、御殿の妻戸開く音幽に聞へけるが、誠に君臣合体の誠を感じ霊神擁護の助をや加へ給けん。勅使帰参して三日中に、直義朝臣病忽平愈し給ひけり。是を聞者、「難有哉、昔周武王病に臥て崩じ給はんとせし時、周公旦天に祈て命に替らんとし給しかば、武王の病忽痊て、天下無為の化に誇に相似たり。」と、聖徳を感ぜぬ者こそ無りけれ。又傍に吉野殿方を引人は、「いでや徒事な云そ。神不享非礼、欲宿正直頭、何故か諂諛の偽を受ん。只時節よく、し合せられたる願書也。」と、欺く人も多かりけり。
○土岐頼遠参合御幸致狼籍事付雲客下車事 S2303
同九月三日は故伏見院御忌日也しかば、彼御仏事殊更故院の御旧迹にて、執行はせ給はん為に、持明院上皇伏見殿へ御幸なる。此離宮はさしも紫楼紺殿を彩り、奇樹怪石を集て、見所有し栖■なれ共、旧主去座を、年久く成ぬれば、見しにも非ず荒はて、一村薄野と成て、鶉の床も露滋く、八重葎のみ門を閉て、荻吹すさむ軒端の風、苔もり兼る板間の月、昔の秋を思出て今の泪をぞ催しける。毎物曳愁添悲秋の気色、光陰不待人無常迅速なる理、貴きも賎きも皆古に成ぬる哀さを、導師富楼那の弁舌を借て数刻宣説し給へば、上皇を奉始旧臣老儒悉直衣・束帯の袖を絞許にぞ見へたりける。種々の御追善端多して、秋の日無程昏はてぬ。可憐九月初三の夜の月、出る雲間に影消て、虚穹に落る雁の声、伏見の小田も物すごく、彼方人の夕と、動静まる程にも成しかば、松明を秉て還御なる。夜はさしも深ざるに、御車東洞院を登りに、五条辺を過させ給ふ。斯る処に土岐弾正少弼頼遠・二階堂下野判官行春、今比叡の馬場にて笠懸射て、芝居の大酒に時刻を移し、是も夜深て帰けるが、無端樋口東洞院の辻にて御幸にぞ参り合ける。召次御前に走散て、「何者ぞ狼籍也。下候へ。」とぞ罵ける。下野判官行春は是を聞て御幸也けりと心得て、自馬飛下傍に畏る。土岐弾正少弼頼遠は、御幸も不知けるにや、此比時を得て世をも不恐、心の侭に行迹ければ、馬をかけ居て、「此比洛中にて、頼遠などを下すべき者は覚ぬ者を、云は如何なる馬鹿者ぞ。一々に奴原蟇目負せてくれよ。」と罵りければ、前駈御随身馳散て声々に、「如何なる田舎人なれば加様に狼籍をば行迹ぞ。院の御幸にて有ぞ。」と呼りければ、頼遠酔狂の気や萌しけん、是を聞てから/\と打笑ひ、「何に院と云ふか、犬と云か、犬ならば射て落さん。」と云侭に、御車を真中に取篭て馬を懸寄せて、追物射にこそ射たりけれ。竹林院の中納言公重卿、御後に被打けるが、衛府の太刀を抜馳寄せ、「懸る浅猿き狼籍こそなけれ。御車をとく懸破て仕れ。」と、被下知けれ共、牛の胸懸被切て首木も折れ、牛童共も散々に成行き、供奉の卿相雲客も皆打落されて、御車に当る矢をだに、防ぎ進らする人もなし。下簾皆撥落され三十輻も少々折にければ、御車は路頭に顛倒す。浅猿しと云も疎か也。上皇は只御夢の心地座て、何とも思召分たる方も無りけるを、竹林院中納言公重卿御前に参られたりければ、上皇、「何公重か。」と許にて、軈て御泪にぞ咽び座しける。公重卿も進む泪を押へて、「此比の中夏の儀、蛮夷僭上無礼の至極、不及是非候。而れ共日月未天に掛らば、照鑒何の疑か候べき。」と被奏ければ、上皇些叡慮を慰させ御座す。「されば其事よ。聞や何に、五条の天神は御出を聞て宝殿より下り御幸の道に畏り、宇佐八幡は、勅使の度毎に、威儀を刷て勅答を被申とこそ聞け。さこそ武臣の無礼の代と謂からに、懸る狼籍を目の当見つる事よ。今は末代乱悪の習俗にて、衛護の神もましまさぬかとこそ覚れ。」と被仰出て、袞衣の御袖を御顔に押当させ御座せば、公重卿も涙の中に書闇て、牛童少々尋出して泣々還御成にけり。其比は直義朝臣、尊氏卿の政務に代て天下の権柄を執給ひしかば、此事を伝へ承て、「異朝にも未比類を不聞。況て本朝に於ては、曾耳目にも不触不思議也。其罪を論ずるに、三族に行ても尚不足、五刑に下しても何ぞ当らん。直に彼輩を召出して車裂にやする、醢にやすべき。」と、大に驚嘆申されけり。頼遠も行春も、角ては事悪かりなんと思ければ、皆己が本国へぞ逃下ける。此上はとて、軈て討手を差下し、可被退治評定一決したりければ、下野判官は不叶とや思けん、頚を延て上洛し、無咎由を様々陳じ申ける間、事の次第委細に糾明有て、行春をば罪の軽に依て死罪を被宥讃岐国へぞ被流ける。土岐頼遠は、弥罪科遁るゝ所無りければ、美濃国に楯篭て謀反を起さんと相議して、便宜の知音一族共を招寄と聞へしかば、急ぎ討手を差下し、可被退治とて、先甥の刑部大輔頼康を始として、宗との一族共に御教書を被成下しかば、頼遠謀反も不事行、角ては如何と思案して、潜に都へ上、夢窓国師をぞ憑ける。夢窓は此比天下の大善知識にて、公家武家崇敬類ひ無りしかば、さり共と被憑仰しか共、左兵衛督、是程の大逆を緩く閣かば、向後の積習たるべし。而れ共御口入難黙止ければ、無力其身をば被誅て、子孫の安堵を可全と返事被申、頼遠をば侍所細川陸奥守顕氏に被渡て、六条河原にて終被刎首けり。其弟に周済房とて有をも、既に可被切と評定有けるが、其時の人数にては無りける由、証拠分明也ければ、死刑の罪を免て、軈て本国へぞ下りける。夢窓和尚の武家に出て、さりともと口入し給し事不叶しを、欺く者や仕たりけん、狂歌を一首、天竜寺の脇壁の上にぞ書たりける。いしかりしときは夢窓にくらはれて周済計ぞ皿に残れる此頼遠は、当代故ら大敵を靡け、忠節を致しかば、其賞翫も人に勝れ、其恩禄も異他。さるを今浩る行迹に依て、重て吹挙をも不被用、忽に其身を失ひぬる事、天地日月未変異は無りけりとて、皆人恐怖して、直義の政道をぞ感じける。頃比習俗、華夷変じて戎国の民と成ぬれば、人皆院・国王と云事をも不知けるにや。「土岐頼遠こそ御幸に参会て、狼籍したりとて、被切進せたれ。」と申ければ、道を過る田舎人共是を聞て、「抑院にだに馬より下んには、将軍に参会ては土を可這か。」とぞ欺きける。さればをかしき事共浅猿き中にも多かりけり。爰に如何なる雲客にてか有けん、破れたる簾より見れば、年四十余りなりけるが、眉作り金付て、立烏帽子引かづき著たる人の、轅はげたる破車を、打てども行ぬ疲牛に懸て、北野の方へぞ通りける。今程洛中には武士共充満して、時を得る人其数を不知。誰とは不見、太く逞しき馬共に思々の鞍置て、唐笠に毛沓はき、色々の小袖ぬぎさげて、酒あたゝめ、たき残したる紅葉の枝、手毎に折かざし、早歌交りの雑談して、馬上二三十騎、大内野の芝生の花、露と共に蹴散かし、当りを払て歩ませたり。主人と覚しき馬上の客、此車を見付て、「すはや是こそ件の院と云くせ者よ。頼遠などだにも懸る恐者に乗会ひして生涯を失ふ。まして我等様の者いかにとゝがめられては叶まじ。いざや下ん。」とて、一度にさつと自馬下、ほうかぶりはづし笠ぬぎ、頭を地に著てぞ畏りける。車に乗たる雲客は、又是を見て、「穴浅猿哉。若是は土岐が一族にてやあるらん。院をだに散々に射進らする、況て吾等こゝを下では悪かりぬべし。」と周章騒ぎ、懸もはづさぬ車より飛下ける程に、車は生強に先へ行馳るに、軸に当て立烏帽子を打落し、本鳥放ちなる青陪従片手にては髻をとらへ、片手には笏を取直し、騎馬の客の前に跪き、「いかに/\。」と色代しけるは、前代未聞の曲事なり。其日は殊更聖廟の御縁日にて、参詣の貴賎布引き也けるが、是を見て、「けしからずの為体哉、路頭の礼は弘安の格式に被定置たり。其にも雲客武士に対せば、自車をり髻を放とはなき物を。」とて、笑はぬ者も無りけり。


太平記
太平記巻第二十四

○朝儀年中行事事 S2401
暦応改元の比より兵革且く静り、天下雖属無為京中の貴賎は尚窮困の愁に拘れり。其故は国衙・荘園も本所の知行ならず。正税官物も運送の煩有て、公家は逐日狼戻せしかば、朝儀悉廃絶して政道さながら土炭に堕にける。夫天子は必万機の政を行ひ、四海を治給ふ者也。其年中行事と申は、先正月には、平旦に天地四方拝・屠蘇白散・群臣の朝賀・小朝拝・七曜の御暦・腹赤の御贄・氷様・式兵二省内外官の補任帳を進る。立春の日は、主水司立春の水を献る。子日の若菜・卯日の御杖・視告朔の礼・中春両宮の御拝賀。五日東寺の国忌・叙位の議白。七日兵部省御弓の奏。同日白馬節会。八日大極殿の御斉会。同日真言院の御修法・太元の法・諸寺の修正・女叙位。十一日外官の除目。十四日殿上の内論議。十五日七種の御粥・宮内省の御薪。十六日蹈歌節会・秋冬の馬料・諸司の大粮・射礼・賭弓・年給の帳・神祇官の御麻。晦日には御巫御贖を奉る。院の尊勝陀羅尼。二月には上の丁日尺奠・上の申日春日祭。翌日卒川祭。上の卯日大原野祭・京官の除目・祈年の祭・三省考選の目録・列見の位禄・季の御読経・仁王会を被行。三月には三日御節供・御灯・曲水の宴。七日薬師寺の最勝会・石清水の臨時の祭・東大寺の花厳会授戒。同日鎮花祭あり。四月には朔日の告朔。同日掃部寮冬の御座を徹して夏の御座を供ず。主水司始て氷を献り、兵衛府御扇を進る。山科・平野・松尾・杜本・当麻・当宗・梅宮・大神の祭・広瀬立田の祭あり。五日は中務省妃・夫人・嬪。女御の夏の衣服の文を申す。同日准蔭の位記。七日は擬階の奏也。八日は潅仏。十日は女官、春夏の時の飾り物の文を奏す。内の弓場の埒。斉内親王の御禊。中の申日国祭。関白の賀茂詣。中の酉日賀茂の祭。男女の被馬。下の子日吉田宮祭。東大寺の授戒の使。駒牽神衣の三枝の祭あり。五月には、三日六衛府、菖蒲并花を献る。四日は走馬の結番、并毛色を奏す。五日端午の祭、薬玉御節供・競馬・日吉祭・最勝講を被行。六月には、内膳司忌火の御飯を供ず。中務省暦を奏す。造酒司の醴酒。神祇官の御体の御占。月次。神今食。道饗。鎮火の祭。神祇官の荒世の御贖を奏す。東西の文部、祓の刀を奏す。十五日祇薗の祭。晦日の節折、大祓。七月には、朔日の告朔。広瀬竜田の祭に可向。五位の定め。女官の補任帳。二日最勝寺の八講・七夕の乞巧奠。八日の文殊会。十四日盂蘭盆。十九日尊勝寺の八講。二十八日相撲節会。八月には、上の丁の尺奠。明る日内論議。四日北野祭。十一日官の定考・小定考。十五日八幡放生会。十六日駒引・仁王会・季御読経あり。九月には、九日重陽の宴。十一日伊勢の例幣・祈年・月次・神甞・新甞・大忌風神。十五日東寺の灌頂。鎮花・三枝・相甞・鎮魂・道饗の祭あり。十月には、掃部寮夏の御座を徹して、冬の御座を供ず。兵庫寮鼓吹の声を発し、刑部省年終断罪の文を進る。亥日三度の猪子。五日弓場始。十日興福寺の維摩会。競馬の負方の献物。大歌始あり。十一月には、朔日に内膳司忌火の御飯を供じ、中務省御暦を奏す。神祇官の御贖。斎院の御神楽。山科・平野・春日・森本・梅宮・大原野祭。新甞会。賀茂臨時祭あり。十二月には、自朔日同十八日まで内膳司忌火の御飯を供ず。御体の御占。陰陽寮来年の御忌を勘禄して、内侍に是を進る。荷前の使。御仏名。大寒の日、土牛の童子を立、晦日に宮内省御薬を奏す。大禊。御髪上。金吾四隊に列て、院々の焼灯不異白日。沈香火底に坐して吹笙と云ぬる追儺の節会は今夜也。委細に是を註さば、車に載とも不可尽。唯大綱を申許也。是等は皆代々の聖主賢君の受天奉地、静世治国枢機なれば、一度も不可断絶事なれ共、近年は依天下闘乱一事も不被行。されば仏法も神道も朝儀も節会もなき世と成けるこそ浅猿けれ。政道一事も無きに依て、天も禍を下す事を不知。斯れ共道を知者無れば、天下の罪を身に帰して、己を責る心の無りけるこそうたてけれ。されば疾疫飢饉、年々に有て、蒸民の苦みとぞ成にける。
○天竜寺建立事 S2402
武家の輩ら如此諸国を押領する事も、軍用を支ん為ならば、せめては無力折節なれば、心をやる方も有べきに、そゞろなるばさらに耽て、身には五色を飾り、食には八珍を尽し、茶の会酒宴に若干の費を入、傾城田楽に無量の財を与へしかば、国費へ人疲て、飢饉疫癘、盜賊兵乱止時なし。是全く天の災を降すに非ず。只国の政無に依者也。而を愚にして道を知人無りしかば、天下の罪を身に帰して、己を責る心を弁へざりけるにや。夢窓国師左武衛督に被申けるは、「近〔年〕天下の様を見候に、人力を以て争か天災を可除候。何様是は吉野の先帝崩御の時、様々の悪相を現し御座候けると、其神霊御憤深して、国土に災を下し、禍を被成候と存候。去六月二十四日の夜夢に吉野の上皇鳳輦に召て、亀山の行宮に入御座と見て候しが、幾程無て仙去候。又其後時々金龍に駕して、大井河の畔に逍遥し御座す。西郊の霊迹は、檀林皇后の旧記に任せ、有謂由区々に候。哀可然伽藍一所御建立候て、彼御菩提を吊ひ進せられ候はゞ、天下などか静らで候べき。菅原の聖廟に贈爵を奉り、宇治の悪左府に官位を贈り、讃岐院・隠岐院に尊号を諡し奉り、仙宮を帝都に遷進られしかば、怨霊皆静て、却て鎮護の神と成せ給候し者を。」と被申しかば、将軍も左兵衛督も、「此儀尤。」とぞ被甘心ける。されば頓て夢窓国師を開山として、一寺を可被建立とて、亀山殿の旧跡を点じ、安芸・周防を料国に被寄、天竜寺をぞ被作ける。此為に宋朝へ宝を被渡しかば、売買其利を得て百倍せり。又遠国の材木をとれば、運載の舟更に煩もなく、自順風を得たれば、誠に天竜八部も是を随喜し、諸天善神も彼を納受し給ふかとぞ見へし。されば、仏殿・法堂・庫裏・僧堂・山門・総門・鐘楼・方丈・浴室・輪蔵・雲居庵・七十余宇の寮舎・八十四間の廊下まで、不日の経営事成て、奇麗の装交へたり。此開山国師、天性水石に心を寄せ、浮萍の跡を為事給しかば、傍水依山十境の景趣を被作たり。所謂大士応化の普明閣、塵々和光の霊庇廟、天心浸秋曹源池、金鱗焦尾三級岩、真珠琢頷龍門亭、捧三壷亀頂塔、雲半間の万松洞、不言開笑拈花嶺、無声聞音絶唱渓、上銀漢渡月橋。此十景の其上に、石を集ては烟嶂の色を仮り、樹を栽ては風涛の声移す。慧崇が烟雨の図、韋偃が山水の景にも未得風流也。康永四年に成風の功終て、此寺五山第二の列に至りしかば、惣じては公家の勅願寺、別しては武家の祈祷所とて、一千人の僧衆をぞ被置ける。
○依山門嗷訴公卿僉議事 S2403
同八月に上皇臨幸成て、供養を可被逐とて、国々の大名共を被召、代々の任例其役を被仰合。凡天下の鼓騒、洛中の壮観と聞へしかば、例の山門の大衆忿をなし、夜々の蜂起、谷々の雷動無休時。あはや天魔の障碍、法会の違乱出来ぬるとぞみへし。三門跡是を為静御登山あるを、若大衆共御坊へ押寄て、不日に追下し奉り、頓て三塔会合して大講堂の大庭にて僉議しける。其詞に云、「夫王道之盛衰者、依仏法之邪正、国家之安全者、在山門之護持。所謂桓武皇帝建平安城也。契将来於吾山、伝教大師開比叡山也。致鎮守於帝城。自爾以来、釈氏化導之正宗、天子本命之道場偏在真言止観之繁興。被専聖代明時之尊崇者也。爰頃年禅法之興行喧於世、如無顕密弘通。亡国之先兆、法滅之表事、誰人不思之。吾山殊驚嘆也。訪例於異国、宋朝幼帝崇禅宗、奪世於蒙古。引証於吾朝、武臣相州尊此法、傾家於当今。覆轍不遠、後車盍誡。而今天竜寺供養之儀、既整勅願之軌則、可及臨幸之壮観云々。事如風聞者、奉驚天聴、遠流踈石法師、於天竜寺以犬神人可令破却。裁許若及猶予者、早頂戴七社之神輿、可奉振九重之帝闕。」と僉議しければ、三千大衆一同に皆尤々とぞ同じける。同七月三日谷々の宿老捧款状陳参す。其奏状に云、延暦寺三千大衆法師等、誠恐誠惶謹言請特蒙天裁、因准先例、忽被停廃踈石法師邪法、追放其身於遠島、至天竜寺者、止勅供養儀則、恢弘顕密両宗教迹、弥致国家護持精祈状。右謹考案内、直踏諸宗之最頂、快護百王之聖躬、唯天台顕密之法而已。仰之弥高、誰攀一実円頓之月。鑽之弥堅、曷折四曼相即之花。是以累代之徳化、忝比叡運於当山。諸刹之興基、多寄称号於末寺。若夫順則不妨、建仁之儀在前。逆則不得、嘉元之例在後。今如疎石法師行迹者、食柱蠧害、射人含沙也。亡国之先兆、大教之陵夷、莫甚於此。何以道諸、纔叩其端、暗挙西来之宗旨、漫破東漸之仏法。守之者蒙缶向壁、信之者緘石為金。其愚心皆如斯矣。加旃、移皇居之遺基、為人処之栖界、何不傷哉。三朝礼儀之明堂云捐、為野干争尸之地、八宗論談之梵席永絶、替鬼神暢舌之声。笑問彼行蔵何所似。譬猶調達萃衆而落邪路、提羅貪供而開利門。嗚呼人家漸為寺、古賢悲而戒之、矧於皇居哉。聞説岩栖澗飲大忘人世、道人之幽趣也。疎石独背之。山櫛藻■、自安居所、俗士之奢侈也。疎石尚過之。韜光掩門、何異踰墻之人。垂手入市倉、宛同執鞭之士。天下言之嗽口、山上聞之洗耳処、剰今儼臨幸之装、将刷供養之儀。因茲三千学侶忽為雷動、一紙表奏、累奉驚天聴。於是有勅答云、天竜寺供養事、非厳重勅願寺供養、准拠当寺、奉為後醍醐天皇御菩提、被建立訖。而追善御仏事、武家申行之間、為御聴聞密々可有臨幸歟之由、所有其沙汰也。山門訴申何篇哉云云。就綸宣訪往事、捨元務末、非明王之至徳。軽正重邪、豈仏意所帰乎。而今九院荒廃、而旧苔疎補侵露之隙、五堂回禄而昨木未運成風之斧。吾君何閣天子本命之道場、被興犢牛前身之僧界。偉哉、世在淳朴四花敷台嶺、痛乎、時及澆薄、五葉為叢林。正法邪法興廃粲然而可覿之。倩看仏法滅尽経文、曰我滅尽期、五濁悪世、魔作沙門、壊乱吾道、但貪財物積集不散。誠哉斯言、今疎石是也。望請天裁急断葛藤、於天竜寺者、須令削勅願之号停止勅会之儀、流刑疎石、徹却彼寺。若然者、法性常住之灯長挑、而耀後五百歳之闇、皇化照耀之自暖、而麗春二三月之天。不耐懇歎之至矣。衆徒等誠恐誠惶謹言。康永四年七月日三千大衆法師等上とぞ書たりける。奏状内覧に被下て後、諸卿参列して此事可有如何と僉議あり。去共大儀なれば満座閉口の処に、坊城大納言経顕卿進で被申けるは、「先就山門申詞案事情、和漢の例を引て、此宗を好む世は必不亡云事なしと申条、愚案短才の第一也。其故は異国に此宗を尊崇せし始を云ば、梁武帝、対達磨聞無功徳話を、大同寺に禅坐し給しより以来、唐代二百八十八年、宋朝三百十七年、皆宝祚長久にして国家安静也。我朝には武臣相摸守此宗に傾て、九代累葉を栄へたり。而に幼帝の時に至て、大宋は蒙古に被奪、本朝には元弘の初に当て、高時一家を亡事は、全非禅法帰依咎、只政を乱り驕を究し故也。何必しも治りし世を捨て、亡びし時をのみ取んや。是■濫謀訴也。豈足許容哉。其上天子武を諱とし給ふ時は、世の人不謂武名、況乎此夢窓は三代の国師として四海の知識たり。山門縱訴を横すとも、義を知礼を存せば、過言を止て可仰天裁。漫疎石法師を遠島へ遣し、天竜寺を犬神人に仰て可破却と申条、奇怪至極也。罪科不軽。此時若錯刑者向後の嗷訴不可絶。早三門跡に被相尋、衆徒の張本召出し、断罪流刑にも可被行とこそ存候へ。」と、誠に無余儀被申ける。此義げにもと覚る処に、日野大納言資明卿被申けるは、「山門聊嗷訴に似て候へ共、退て加愚案一義有と存候。其故は日本開闢は自天台山起り、王城の鎮護は以延暦寺専とす。故に乱政行朝日は山門是を諌申し、邪法世に興る時は衆徒是を退る例其来尚矣。先後宇多院御宇に、横岳太応国師嘉元寺を被造時、山門依訴申其儀を被止畢。又以往には土御門院御宇元久三年に、沙門源空専修念仏敷演の時、山門訴申て是を退治す。後堀河院御宇嘉禄三年尚専修の余殃を誡て、法然上人の墳墓を令破却。又御鳥羽院御宇建久年中に、栄西・能忍等禅宗を洛中に弘めし時、南都北嶺共起て及嗷訴。而に建仁寺建立に至て、遮那・止観の両宗を被置上へ、開山以別儀可為末寺由、依被申請被免許候き。惣て仏法の一事に不限。百王の理乱四海の安危、自古至今山門是を耳外に不処、所謂治承の往代に、平相国清盛公、天下の権を執て、此平安城を福原の卑湿に移せし時も、山門独捧奏状、終に遷都の儀を申止畢ぬ。是等は皆山門の大事に非ずといへども、仏法与王法以相比故、被裁許者也。抑禅宗の摸様とする処は、宋朝の行儀、貴ぶ処は祖師の行迹也。然に今の禅僧之心操法則、皆是に相違せり。其故は、宋朝には西蕃の帝師とて、摩訶迦羅天の法を修して朝家の護持を致す真言師あり。彼れ上天の下、一人の上たるべき依有約、如何なる大刹の長老、大耆旧の人も、路次に行会時は膝をかゞめて地に跪き、朝庭に参会する時は伸手沓を取致礼といへり。我朝には不然、無行短才なれども禅僧とだに云つれば、法務・大僧正・門主・貫頂の座に均からん事を思へり。只今父母の養育を出たる沙弥喝食も、兄を超父を越んと志あり。是先仁義礼智信の法にはづる。曾て宋朝に無例我朝に始れり。言は語録に似て、其宗旨を説時は、超仏越祖の手段有といへども、向利に、他之権貴に媚る時は、檀那に諂ひ富人に不下と云事なし。身には飾五色食には尽八珍、財産を授て住持を望み、寄進と号して寄沙汰をする有様、誠に法滅の至りと見へたり。君子恥其言過其行と云り。是豈知恥云乎。凡有心人は信物化物をみじと可思。其故は戒行も欠、内証も不明ば、所得の施物、罪業に非と云事なし。又道学の者に三機あり。上機は人我無相なれば心に懸る事なし。中機は一念浮べ共、人我無理を観ずる故に二念と相続で無思事。下機は無相の理までは弁ぜね共、慙愧懺悔の心有て諸人を不悩慈悲の心あり。此外に応堕地獄者有べしと見へたり。人の生渡を失はん事を不顧、他の難非を顕す此等也。凡寺を被建事も、人法繁昌して僧法相対せば、真俗道備て尤可然。宝堂荘厳に事を寄、奇麗厳浄を雖好と、僧衆無慈悲不正直にして、法を持し人を謗して徒に明し暮さば、仏法興隆とは申難かるべし。智識とは身命を不惜随逐給仕して諸有所得の心を離て清浄を修すべきに、今禅の体を見るに、禁裏仙洞は松門茅屋の如くなれば、禅家には玉楼金殿をみがき、卿相雲客は木食草衣なれば、禅僧は珍膳妙衣に飽けり。祖師行儀如此ならんや。昔摩羯陀国の城中に一人の僧あり。毎朝東に向ては快悦して礼拝し、北に向ては嗟嘆して泪を流す。人怪みて其謂を問に答て云、「東には山中に乗戒倶に急なる僧、樹下石上に坐して、已に証を得て年久し。仏法繁昌す。故に是を礼す。北には城中に練若あり。数十の堂塔甍を双べ、仏像経巻金銀を鏤たり。此に住する百千の僧俗、飲食衣服一として乏しき事なし。雖然如来の正法を究めたる僧なし。仏法忽に滅しなんとす。故に毎朝嗟傷す。」と、是其証也。如何に寺を被造共人の煩ひ歎のみ有ては其益なかるべし。朝廷の衰微歎て有余。是を見て山門頻に禁廷に訴ふ。言之者無咎、聞之者足以誡乎。然らば山門訴申処有其謂歟とこそ存候へ。」と、無憚処ぞ被申ける。此両義相分れて是非何れにかあると諸卿傾心弁旨かねたれば、満座鳴を静めたり。良有て三条源大納言通冬卿被申けるは、「以前の義は只天地各別の異論にて、可道行とも不存。縦山門申処雖事多、肝要は只正法与邪法の論也。然らば禅僧与聖道召合せ宗論候へかしとこそ存候へ。さらでは難事行こそ候へ。凡宗論の事は、三国の間先例多く候者を。朝参の余暇に、賢愚因縁経を開見候しに、彼祇園精舎の始を尋れば、舎衛国の大臣、須達長者、此国に一の精舎を建仏を安置し奉らん為に、舎利弗と共に遍く聚落園林を廻て見給ふに、波斯匿王の太子遊戯経行し給ふ祇陀園に勝れたる処なしとて、長者、太子に此地を乞奉る。祇陀太子、「吾逍遥優遊の地也。容易汝に難与。但此地に布余す程の金を以て可買取。」とぞ戯れ給ける。長者此言誠ぞと心得て、軈て数箇の倉庫を開き、黄金を大象に負せ、祇陀園八十頃の地に布満て、太子に是を奉る。祇陀太子是を見給て、「吾言戯れ也。汝大願を発して精舎を建ん為に此地を乞。何の故にか我是を可惜。早此金を以て造功の資に可成。」被仰ければ、長者掉首曰、「国を可保太子たる人は仮にも不妄語。臣又苟不可食言、何ぞ此金を可返給。」とて黄金を地に棄ければ、「此上は無力。」とて金を収取て地を被与。長者大に悦で、軈て此精舎を立んと欲する処に、六師外道、波斯匿王に参て申けるは、「祇陀太子、為瞿曇沙門須達に祇陀園を与て精舎を建んとし給。此国の弊民の煩のみに非ず。世を失ひ国を保給ふまじき事の瑞也。速に是を停給へ。」とぞ訴へける。波斯匿王、外道の申処も有其謂、長者の願力も難棄案じ煩ひ給て、「さらば仏弟子と外道とを召合せ神力を施させ、勝負に付て事を可定。」被宣下しかば、長者是を聞て、「仏弟子の通力我足の上の一毛にも、外道は不及。」とぞ欺給ひける。さらばとて「予参の日を定め、通力の勝劣を可有御覧。」被宣下。既其日に成しかば、金鼓を打て見聞の衆を集め給ふ。舎衛国の三億悉集、重膝連座。斯る処に六師外道が門人、如雲霞早参じて著座したるに、舎利弗は寂場樹下に禅座して定より不出給。外道が門徒、「さればこそ、舎利弗我師の威徳に臆して退復し給ふ。」と笑欺ける処に、舎利弗定より起て衣服を整へ、尼師壇を左の肩に著け、歩む事如師子王来り給ふ。此時不覚外道共五体を地に著て臥ける。座定て後外道が弟子労度差禁庭に歩出て、虚空に向ひ目を眠り口に文咒したるに、百囲に余る大木俄に生出て、花散春風葉酔秋霜。見人奇特の思をなす。後に舎利弗口をすぼめて息を出し給ふに、旋嵐風となり、此木を根より吹抜て地に倒ぬ。労度差又空に向て呪する。周囲三百里にみへたる池水俄に湧出して四面皆七宝の霊池となる。舎利弗又目を揚て遥に天を見給へば、一頭六牙の白象空中より下る。一牙の上に各七宝の蓮花を生じ、一々の花の上に各七人の玉女あり。此象舌を延て、一口に彼池水を呑尽す。外道又虚空に向て且咒したるに、三の大山出現して上に百余丈の樹木あり。其花雲を凝し、其菓玉を連たり。舎利弗爰に手を揚て、空中を招き給ふに、一の金剛力士、以杵此山を如微塵打砕く。又外道如先呪するに、十頭の大龍雲より下て雨を降雷を振ふ。舎利弗又頭を挙て空中を見給ふに、一の金翅鳥飛来、此大龍を割喰。外道又咒するに、肥壮多力の鉄牛一頭出来て、地を■て吼へ忿る。舎利弗一音を出して咄々と叱し給ふに、奮迅の鉄師子走出て此牛を喰殺す。外道又座を起て咒するに、長十丈余の一鬼神を現ぜり。頭の上より火出て炎天にあがり、四牙剣よりも利にして、眼日月を掛たるが如し。人皆怖れ倒れて魂を消処に、舎利弗黙然として座し給ひたるに、多門天王身には金色の胄を著し、手に降伏の鋒をつきて出現し給ふに、此鬼神怖畏して忽に逃去ぬ。其後猛火俄に燃出、炎盛に外道が身に懸りければ、外道が門人悉く舎利弗の前に倒れ臥て、五体を地に投、礼をなし、「願は尊者慈悲の心を起して哀愍し給へ。」と、己が罪をぞ謝し申ける。此時舎利弗慈悲忍辱の意を発し、身を百千に化し、十八変を現して、還て大座に著給ふ。見聞の貴賎悉宿福開発し、随喜感動す。六師外道が徒、一時に皆出家して正法宗に帰服す。是より須達長者願望を遂て、祇園精舎建しかば、厳浄の宮殿微妙の浄刹、一生補処の菩薩、聖衆此中に来至し給へば、人天大会悉渇仰の頭を傾ける。又異朝に後漢の顕宗皇帝、永平十四年八月十六日の夜、如日輪光明を帯たる沙門一人、帝の御前に来て空中に立たりと御夢に被御覧、夙に起て群臣を召て御夢を問給に、臣傅毅奏曰、「天竺に大聖釈尊とて、独の仏出世し給ふ。其教法此国に流布して、万人彼化導に可預御瑞夢也。」と合せ申たりしが、果して摩騰・竺法蘭、仏舎利、並四十二章経を渡す。帝尊崇し給事無類。爰に荘老の道を貴で、虚無自然理を専にする道士列訴して曰、「古五帝三皇の天下に為王より以来、以儒教仁義を治め、以道徳淳朴に帰し給ふ。而るに今摩騰法師等、釈氏の教を伝へて、仏骨の貴き事を説く。内聖外王の儀に背き、有徳無為の道に違へり。早く彼法師を流罪して、太素の風に令復給べし。」とぞ申ける。依之、「さらば道士と法師とを召合せて、其威徳の勝劣を可被御覧。」とて、禁闕の東門に壇を高く築て、予参の日をぞ被定ける。既其の日に成しかば、道士三千七百人胡床を列て西に向ひ座す。沙門摩騰法師は、草座を布て東に向ひ座したりけり。其後道士等、「何様の事を以て、勝負を可決候や。」と申せば、「唯上天入地擘山握月術を可致。」とぞ被宣下ける。道士等是を聞て大に悦び、我等が朝夕為業所なれば、此術不難とて、玉晨君を礼し、焚芝荻呑気向鯨桓審、昇天すれども不被上、入地すれども不被入、まして擘山すれども山不裂、握月すれども月不下。種々の仙術皆仏力に被推不為得しか、万人拍手笑之。道士低面失機処に、摩騰法師、瑠璃の宝瓶に仏舎利を入て、左右の手に捧て虚空百余丈が上に飛上てぞ立たりける。上に著所なく下に踏所なし。仏舎利より放光明、一天四海を照す。其光金帳の裏、玉■の上まで耀きしかば、天子・諸侯・卿大夫・百寮・万民悉金色の光に映ぜしかば、天子自玉■を下させ給て、五体を投地礼を成し給へば、皇后・元妃・卿相・雲客、悉信仰の首を地に著て、随喜の泪を袖に余す。懸りしかば確執せし道士共も翻邪信心銘肝つゝ、三千七百余人即時に出家して摩騰の弟子にぞ成にける。此日頓て白馬寺を建て、仏法を弘通せしかば、同時に寺を造事、支那四百州の中に一千七百三箇所なり。自是漢土の仏法は弘りて遺教于今流布せり。又我朝には村上天皇の御宇応和元年に、天台・法相の碩徳を召て宗論有しに、山門よりは横川慈慧僧正、南都よりは松室仲■已講ぞ被参ける。予参日に成しかば、仲■既南都を出て上洛し給けるに、時節木津河の水出て舟も橋もなければ、如何せんと河の辺に輿を舁居させて、案じ煩給たる処に、怪気なる老翁一人現して、「何事に此河の辺に徘らひ給ぞ。」と問ければ、仲■、「宗論の為に召れて参内仕るが、洪水に河を渡り兼て、水の干落る程を待也。」とぞ答給ひける。老翁笑て、「水は深し智は浅し、潜鱗水禽にだにも不及、以何可致宗論。」と恥しめける間、仲■誠と思て、十二人の力者に、「只水中を舁通せ。」とぞ下知し給ひける。輿舁、「さらば。」とて水中を舁て通るに、さしも夥しき洪水左右に■と分れて、大河俄に陸地となる。供奉の大衆悉足をも不濡渡けり。慈慧僧正も、比叡山西坂下松の辺に車を儲させて下洛し給ふに、鴨河の水漲出、逆浪浸岸茫茫たり。牛童扣轅如何と立たる処に、水牛一頭自水中游出て車の前にぞ喘ぎける。僧正、「此牛に車を懸替て水中を遣。」とぞ被仰ける。牛童随命水牛に車を懸け一鞭を当たれば、飛が如く走出て、車の轅をも不濡、浪の上三十余町を游あがり、内裏の陽明門の前にて、水牛は書消様に失にけり。両方の不思議奇特、皆権者とは乍云、類少き事共也。去程に清涼殿に師子の座を布て、問者・講師東西に相対す。天子は南面にして、玉■に統■を挑げさせ給へば、臣下は北面にして、階下に冠冕を低る。法席既に定て、僧正は草木成仏の義を宣給へば、仲■は五性各別の理を立て難じて曰、「非情草木雖具理仏性、無行仏性、無行仏性何有成仏義。但有文証者暫可除疑。」と宣しかば、慈慧僧正則円覚経の文を引て、「地獄天宮皆為浄土、有性無性斉成仏道。」と誦し給ふ。仲■此文に被詰て暫閉口し給処に、法相擁護の春日大明神、高座の上に化現坐て、幽なる御声にて此文点を読替て教させ給けるは、「地獄天宮皆為浄土、有性も無性も斉成仏道。」と、慈慧僧正重て難じて曰、「此文点全法文の心に不叶。一草一木各一因果、山河大地同一仏性の故に、講答既に許具理仏性。若乍具理仏性、遂無成仏時ば、以何曰仏性耶。若又雖具仏性、言不成仏者、有情も不可成仏、有情の成仏は依具理仏性故也。」難じ給しかば、仲■無言黙止給けるが、重て答て曰、「草木成仏無子細、非情までもあるまじ。先自身成仏の証を顕し給はずば、以何散疑。」と宣ひしかば、此時慈慧僧正言を不出、且が程黙座し給ふとぞ見へし。香染の法服忽に瓔珞細■の衣と成て、肉身卒に変じて、紫磨黄金の膚となり、赫奕たる大光明十方に遍照す。されば南庭の冬木俄に花開て恰春二三月の東風に繽紛たるに不異。列座の三公九卿も、不知不替即身、至華蔵世界土、妙雲如来下に来かとぞ覚ける。爰に仲■少欺る気色にて、揚如意敲席云、「止々、不須説、我法妙難思。」と誦し給ふ。此時慈慧僧正の大光明忽消て、本の姿に成給ひにけり。是を見て、藤氏一家の卿相雲客は、「我氏寺の法相宗こそ勝れたれ。」と我慢の心を起して、退出し給ける処に、門外に繋たる牛、舌を低て涎を唐居敷に残せるを見給へば、慥に一首の歌にてぞ有ける。草も木も仏になると聞時は情有身のたのもしき哉是則草木成仏の証歌也。春日大明神の示給ひけるにや。何れを勝劣とも難定。理哉、仲■は千手の化身、慈慧は如意輪の反化也。されば智弁言説何れもなじかは可劣、唯雲間の陸士竜、日下の荀鳴鶴が相逢時の如く也。而ば法相者六宗の長者たるべし。天台者諸宗の最頂也と被宣下、共に眉目をぞ開ける。抑天台の血脈は、至師子尊者絶たりしを、緬々世隔て、唐朝の大師南岳・天台・章安・妙楽、自解仏乗の智を得て、金口の相承を続給ふ。奇特也といへども、禅宗は是を髣髴也と難じ申。又禅の立る所は、釈尊大梵王の請を受て、於■利天法を説給ひし時、一枝の花を拈じ給ひしに、会中比丘衆無知事。爰摩訶迦葉一人破顔微笑して、拈花瞬目の妙旨を以心伝心たり。此事大梵天王問仏決疑経に被説たり。然るを宋朝の舒王翰林学士たりし時、秘して官庫に収めし後、此経失たりと申条、他宗の証拠に不足と、天台は禅を難じ申て邪法と今も訴へ候上は、加様の不審をも此次に散度こそ候へ。唯禅与天台被召合宗論を被致候へかし。」とぞ被申ける。此三儀是非区に分れ、得失互に備れり。上衆の趣何れにか可被同と、閉口屈旨たる処に、二条関白殿申させ給けるは、「八宗派分れて、末流道異也といへども、共に是師子吼無畏の説に非と云事なし。而るに何れを取り何れを可捨。縦宗論を致す共、天台は唯受一人の口決、禅家は没滋味の手段、弁理談玄とも、誰か弁之誰か会之。世澆季なれば、如摩騰虚空に立人もあらじ、慈恵大師の様に、即身成仏する事もあるべからず。唯如来の権実徒に堅石白馬の論となり、祖師の心印空く叫騒怒張の中に可堕。凡宗論の難き事我曾听ぬ。如来滅後一千一百年を経て後、西天に護法・清弁とて二人の菩薩坐き。護法菩薩は法相宗の元祖にて、有相の義を談じ、清弁菩薩は三論宗の初祖にて、諸法の無相なる理を宣給ふ。門徒二に分れ、是彼非此。或時此二菩薩相逢て、空有の法論を致し給ふ事七日七夜也。共に富楼那の弁舌を仮て、智三千界を傾しかば、無心の草木も是を随喜して、時ならず花を開き、人を恐るゝ鳥獣も、是を感嘆して可去処を忘れたり。而れども論義遂に不休、法理両篇に分れしかば、よしや五十六億七千万歳を経て、慈尊の出世し給はん時、臨会座可散此疑とて、護法菩薩は蒼天の雲を分ち遥に都率天宮に上り給へば、清弁菩薩は青山の岩を擘、脩羅窟に入給にけり。其後花厳の祖師香象、大唐にして此空有の論を聞て、色即是空なれば護法の有をも不嫌、空即是色なれば清弁の空をも不遮と、二宗を会し給けり。上古の菩薩猶以如斯、況於末世比丘哉。されば宗論の事は強に無其詮候歟。とても近年天下の事、小大となく皆武家の計として、万づ叡慮にも不任事なれば、只山門の訴申処如何可有と、武家へ被尋仰、就其返事聖断候べきかとこそ存候へ。」とぞ被申ける。諸卿皆此義可然と被同、其日の議定は終にけり。さらばとて次日軈て山門の奏状を武家へ被下、可計申由被仰下しかば、将軍・左兵衛督諸共に、山門の奏状を披見して、「是はそも何事ぞ。建寺尊僧とて山門の所領をも不妨、衆徒の煩にもならず、適公家武家帰仏法大善事を修せば、方袍円頂の身としては、共に可悦事にてこそあるに、障碍を成んとする条返々不思議也。所詮神輿入洛あらば、兵を相遣して可防。路次に振棄奉らば、京中にある山法師の土蔵を点じ、造替させんに何の痛か可有。非拠の嗷訴を被棄置可被遂厳重供養。」と奏聞をぞ被経ける。武家如斯申沙汰する上は、公家何ぞ可及異儀とて、已に事厳重なりしかば、列参せし大衆、徒に款状を公庭に被棄て、失面目登山ず。依之三千の大衆憤不斜。されば可及嗷訴とて、康永四年八月十六日、三社の神輿を中堂へ上奉り、祇園・北野の門戸を閉、師子・田楽庭上に相列り、神人・社司御前に奉仕す。公武の成敗拘る処なければ、山門の安否此時に有と、老若共に驚嘆す。角ては猶も不叶とて、同十七日、剣・白山・豊原・平泉寺・書写・法花寺・多武峯・内山・日光・太平寺、其外の末寺末社、三百七十余箇所へ触送り、同十八日、四箇の大寺に牒送す。先興福寺へ送る。其牒状云、延暦寺牒興福寺衙。可早任先規致同心訴被停止天竜寺供養儀■令断絶禅室興行子細状。右大道高懸、均戴第一義天之日月、教門広開互斟無尽蔵海之源流。帝徳安寧之基、仏法擁護之要、遐迩勠力彼此同功、理之所推、其来尚矣。是以対治邪執、掃蕩異見之勤、自古覃今匪懈。扶翼朝家修整政道之例、貴寺当山合盟専起先聖明王之叡願、深託尊神霊祇之冥鑑。国之安危、政之要須、莫先於斯。誰処聊爾。爰近年禅法之興行喧天下、暗証之朋党満人間。濫觴雖浅、已揚滔天之波瀾。■火不消、忽起燎原之烟■。本寺本山之威光、白日空被掩蔽、公家武家之偏信、迷雲遂不開晴。若不加禁遏者、諸宗滅亡無疑。伝聞、先年和州片岡山達磨寺、速被焼払之、其住持法師被処流刑、貴寺之美談在茲。今般先蹤弗遠。而今就天竜寺供養之儀、此間山門及再往之訟。今月十四日院宣云、今度儀非勅命云云。仍休鬱訴属静謐之処、勅言忽有表裏、供養殊増厳重。院司公卿以下有限之職掌等、悉以可令参行之由有其聞。朝端之軌則、理豈可然乎。天下之謗議、言以不可欺。吾山已被処無失面目。神道元来如在、盍含忿怒。於今者再帰本訴、屡奉驚上聞。所詮就天竜寺供養、院中之御沙汰、公卿之参向以下一向被停止之、又於御幸者、云当日云翌日共以被罷其儀。凡又為令断絶禅法興行先被放疎石於遠島、於禅院者不限天竜一寺、洛中洛外大小寺院、悉以破却之、永掃達磨宗之蹤跡宜開正法輪之弘通。是専釈門之公儀也。尤待貴寺之与同焉。綺已迫喉、不可廻踵。若有許諾者、日吉神輿入洛之時、春日神木同奉勧神行、加之或勧彼寺供養之奉行、或致著座催促之領掌藤氏月卿雲客等、供養以前悉以被放氏、其上猶押而有出仕之人者、貴寺■山門放遣寺家・社家之神人・公人等、臨其家々可致苛法之沙汰之由、不日可被触送也。此等条々衆儀無令停滞。返報不違先規者、南北両門之和睦、先表当時之太平、自他一揆之始終、欲約将来之長久、論宗旨於公庭則、雖似有兄弟鬩墻之争、寄至好於仏家則、復須共楚越同舟之志。早成当機不拘之義勢、速聞見義即勇之歓声。仍牒送如件。康永四年八月日とぞ書たりける。山門既に南都に牒送すと聞へしかば、返牒未送以前にとて、院司の公卿藤氏の雄臣等参列して被歎申けるは、「自古山門の訴訟者以非為理事不珍候。其上今度の儀は、旁申処有其謂歟存候。就中行仏事貴僧法事も天下無為にてこそ其詮も候へ。神輿神木入洛有て、南都北嶺及嗷訴者、武家何と申共、静謐の儀なくば法会の違乱なるべし。角て又叡願も徒に成ぬと存候。只速に有聖断衆徒の鬱訴を被宥、其後御心安く法義大会をも被行候へかし。」と様々に被申しかば、誠にも近年四海半は乱て一日も不安居、此上に又南北神訴に及び、衆徒鬱憤して忿らば、以外の珍事なるべしとて、枉諸事先院宣を被成下、「勅願の義を被停止、為御結縁翌日に御幸可成。」被仰ければ、山門是に静りて、神輿忽に御帰座有しかば、陣頭警固の武士も皆馬の腹帯を解て、末寺末社の門戸も参詣の道をぞ開きける。
○天竜寺供養事付大仏供養事 S2404
此上は武家の沙汰として、当日の供養をば執行ひ、翌日に御幸可有とて、同八月二十九日、将軍並左兵衛督路次の行装を調て、天竜寺へ被参詣けり。貴賎岐に充満て、僧俗彼れに成群、前代未聞の壮観也。先一番に時の侍所にて山名伊豆守時氏、声花に冑ふたる兵五百余騎を召具して先行す。其次に随兵の先陣にて、武田伊豆前司信氏・小笠原兵庫助政長・戸次丹後守頼時・伊東大和八郎左衛門尉祐煕・土屋備前守範遠・東中務丞常顕・佐々木佐渡判官入道息男四郎左衛門尉秀定・同近江四郎左衛門尉氏綱・大平出羽守義尚・粟飯原下総守清胤・吉良上総三郎満貞・高刑部大輔師兼、以上十二人、色々の糸毛の胄に烏帽子懸して、太く逞き馬に、厚総懸て番たり。三番には帯刀にて武田伊豆四郎・小笠原七郎・同又三郎・三浦駿河次郎左衛門尉・同越中次郎左衛門尉・二階堂美作次郎左衛門尉・同対馬四郎左衛門尉・佐々木佐渡五郎左衛門尉・同佐渡四郎・海老名尾張六郎・平賀四郎・逸見八郎・小笠原太郎次郎、以上十六人、染尽したる色々の直垂に、思々の太刀帯て、二行に歩み連たり。其次に正二位大納言征夷大将軍源朝臣尊氏卿、小八葉の車の鮮なるに簾を高く揚げ、衣冠正く乗給ける。五番には後陣の帯刀にて設楽五郎兵衛尉・同六郎、寺岡兵衛五郎・同次郎・逸見又三郎・同源太・小笠原蔵人・秋山新蔵人・佐々木出羽四郎左衛門尉・同近江次郎左衛門尉・富永四郎左衛門尉・宇佐美三河守・清久左衛門次郎・森長門四郎・曾我左衛門尉・伊勢勘解由左衛門尉、以上十六人、衣服帯剣如先、行列の次等をぞ守ける。其次に参議正三位行兼左兵衛督源朝臣直義、巻纓老懸に蒔絵の細太刀帯て、小八葉の車に乗れり。七番には役人にて、南部遠江守宗継・高播磨守師冬二人は御剣の役。長井大膳大夫広秀・同治部少輔時春御沓の役。佐々木吉田源左衛門尉秀長・同加地筑前三郎左衛門貞信は御調度の役。和田越前守宣茂・千秋三河左衛門大夫惟範は御笠の役、以上八人、布衣に上括して列を引。八番には高武蔵守師直・上杉弾正少弼朝貞・高越後守師泰・上杉伊豆守重能・大高伊予守重成・上杉左馬助朝房、布衣に下括して、半靴著て、二騎充左右に打並たり。九番には、後陣の随兵、足利尾張左近大夫将監氏頼・千葉新介氏胤・二階堂美濃守行通・同山城三郎左衛門尉行光・佐竹掃部助師義・同和泉守義長・武田甲斐前司盛信・伴野出羽守長房・三浦遠江守行連・土肥美濃守高実、以上十人、戎衣甲冑何れも金玉を磨たり。十番には外様の大名五百余騎、直垂著にて相随。土佐四郎・長井修理亮・同丹波左衛門大夫・摂津左近蔵人・城丹後守・水谷刑部少輔・二階堂安芸守・同山城守・中条備前守・薗田美作権守・町野加賀守・佐々木豊前次郎左衛門尉・結城三郎・梶原河内守・大内民部大夫・佐々木能登前司・太平六郎左衛門尉・狩野下野三郎左衛門尉・里見蔵人・島津下野守・武田兵庫助・同八郎・安保肥前守・土屋三河守・小幡右衛門尉・疋田三郎左衛門尉・寺岡九郎左衛門尉・田中下総三郎・須賀左衛門尉・赤松美作権守・同次郎左衛門尉・寺尾新蔵人、以上三十二人打混に、不守次第打たりけり。此後は吉良・渋河・畠山・仁木・細川を始として、宗との氏族、外様の大名打混に弓箭兵杖を帯し、思々の馬鞍にて、大宮より西郊まで、無透間袖を連て支へたり。薄馬場より、随兵・帯刀・直垂著・布衣の役人、悉守次第列を引く。已に寺門に至しかば、佐々木佐渡判官秀綱検非違使にて、黒袴著せる走下部、水干直垂、金銀を展たる如木の雑色、粲に胄たる若党三百余人、胡床布衣の上に列居して山門を警固す。其行装辺りを払て見へたり。尊氏卿・直義朝臣既に参堂有しかば、勅使藤中納言資明卿、院司の高右衛門佐泰成陣参して、即法会を被行。其日は無為に暮にけり。明れば八月晦日也。今日は又為御結縁両上皇御幸なる。昨日には事の体替て、見物の貴賎も閭巷に足を立兼たり。御車総門に至しかば、牛を懸放して手引也。御牛飼七人、何れも皆持明党とて綱取て名誉の上手共也。中にも松一丸は遣手にて、綾羅を裁ち金銀を鏤めたり。上皇御簾を揚て見物の貴賎を叡覧あり。黄練貫の御衣に、御直衣、雲立涌、生の織物、薄色の御指貫を召れたり。竹林院大納言公重卿、濃香に牡丹を織たる白裏の狩衣に、薄色の生の衣、州流に鞆絵の藤の丸、青鈍の生の織物の指貫にて、御車寄に被参たり。左宰相中将忠季卿、薄色の織襖の裏無に、蔦を紋にぞ織たりける。女郎花の衣、浮紋に浅黄の指貫にて供奉せらる。殿上人には左中将宗雅朝臣、■線綾の女郎花の狩衣に、槿を紋にぞ織たりける。薄色の生の衣、藤の丸の指貫也。頭左中弁宗光朝臣、■線綾の比金襖の狩衣、珍しく見へたりける。右少将教貞朝臣、紫苑唐草を織たる生青裏、紅の引繕木はえ/゛\敷ぞ見へし。春宮権大進時光は、■線綾に萩を経青緯紫段にして、青く織たる女郎花の生の衣二藍の指貫也。此後は下北面の輩、中原季教・源康定・同康兼・藤原親有・安部親氏・豊原泰長、御随身には、秦久文・同久幸此等也。参会の公卿には三条帥公季卿・日野中納言資明卿・別当四条中納言隆蔭卿・春宮大夫実夏・左兵衛督直義、何れも皆行装当りを耀かす。仏殿の北の廊四間を餝て、大紋の畳を重ね布き、其上に氈を被展たり。平敷の御座其北にあり。西の間に屏風を立隔て御休所に構へたり。御前に風流の島形を被居たり。表大井河景趣、水紅錦を洗ひて、感興の心をぞ添たりける。是は三宝院僧正賢俊、依武命儲進す。仏殿の裏二間を拵て御簾を懸、御聴聞所にぞ構へたる。其北に畳を布て、公卿の座にぞ被成たる。仏殿の庭の東西に幄を打て、左右の伶倫十一人、唐装束にて胡床に坐す。左には光栄・朝栄・行重・葛栄・行継・則重也。右には久経・久俊・忠春・久家・久種也。鳳笙・竜笛の楽人十八人、新秋・則祐・信秋・成秋・佐秋・季秋・景朝・景茂・景重・栄敦・景宗・景継・景成・季氏・茂政・重方・重時是等也。国師既に自山門進出させ給へば、楽人巻幄乱声を奏する事、時をぞ移しける。聴聞の貴賎、此時感涙を流しけり。導師は金襴の袈裟・鞋著て、莚道に進ませ給へば、二階堂丹後三郎左衛門執蓋、島津常陸前司・佐々木三河守両人執綱にて、同く歩出たり。左右の伶倫何れも皆幄より起て、参向の儀有て、万秋楽の破を奏して、舞台の下に列を引けば、古清衆導師に従て入堂あり。南禅寺の長老智明・建仁寺の友梅・東福寺の一鞏・万寿寺の友松・真如寺の良元・安国寺の至孝・臨川寺の志玄・崇福寺の慧聰・清見寺の智琢、本寺当官にて、士昭首座、是等は皆江湖の竜象也。釈尊の十大弟子に擬して、扈従の装厳重なり。其後正面の戸■を閉て、願文の説法数剋也。法会終しかば、伶人本幄に帰て舞あり。左に蘇合右に古鳥蘇、陵王荒序・納蘓利・太平楽・狛杵也。中にも荒序は当道の深秘にて容易雖不奏之、適聖主臨幸の法席也。非可黙止とて、朝栄荒序を舞しかば、笙は新秋、笛は景朝、太鼓は景茂ぞ仕たる。当道の眉目、天下の壮観無比し事共也。此後国師一弁の香を拈じて、「今上皇帝聖躬万歳。」と祝し給へば、御布施の役にて、飛鳥井新中納言雅孝卿・大蔵卿雅仲・一条二位実豊卿・持明院三位家藤卿、殿上人には、難波中将宗有朝臣・二条中将資将卿・難波中将宗清朝臣・紙屋川中将教季・持明院少将基秀・姉少路侍従基賢・二条少将雅冬・持明院前美作守盛政、諸大夫には、千秋駿河左衛門大夫・星野刑部少輔・佐脇左近大夫、金銀珠玉を始として綾羅綿繍はさて置ぬ。倭漢の間に名をのみ聞て未目には不見珍宝を持連立て如山積上たり。只是王舎城の昔年、五百の車に珍貨を積で、仏に奉りしも是には過じとぞ見へし。総て此両日の儀を見る者、悉福智の二報を成就して、済度利生の道を広せし事、此国師に過たる人は非じとて、改宗帰法、偏執の心をぞ失ける。さしも違乱に及びし大法会の無事故遂て、天子の叡願、武家の帰依、一時に望み足ぬと喜悦の眉をぞ被開ける。夫仏を作り堂を立つる善根誠に勝れたりといへ共、願主聊も■慢の心を起す時は法会の違乱出来して三宝の住持不久。されば梁の武帝、対達磨、「朕建寺事一千七百箇所、僧尼を供養する事十万八千人、有功徳乎。」と問給しに、達磨、「無功徳。」と答給ふ。是誠に無功徳云には非ず。叡信■慢を破て無作の大善に令帰なり。吾朝の古、聖武天皇東大寺を造立せられ、金銅十六丈の廬舎那仏を安置して、供養を被遂しに、行基菩薩を導師に請じ給ふ。行基勅使に向て申させ給けるは、「倫命重して辞するに言なしといへ共、如此の御願は、只冥顕の所帰可被任にて候へば、供養の当日香花を備へ唱伽陀を、自天竺梵僧を奉請供養をば可被遂行候。」とぞ計ひ申されける。天子を始進せて諸卿悉世既及澆季、如何してか百万里の波涛を隔たる天竺より、俄に導師来て供養をば可被遂と大に疑をなしながら、行基の被計申上は、非可及異儀とて明日供養と云迄に、導師をば未被定。已に其日に成ける朝、行基自摂津国難波の浦に出給ひ、西に向て香花を供じ、坐具を延て礼拝し給ふに、五色の雲天に聳て、一葉の舟浪に浮で、天竺の婆羅門僧正忽然として来給ふ。諸天蓋を捧て、御津の浜松、自雪に傾歟と驚き、異香衣を染て、難波津の梅忽に春を得たるかと怪しまる。一時の奇特こゝに呈れて、万人の信仰不斜。行基菩薩則婆羅門僧正の御手を引て、伽毘羅会に共に契しかい有て文殊の御貌相みつる哉と一首の謌を詠じ給へば、婆羅門僧正、霊山の釈迦の御許に契てし真如朽せず相みつる哉と読給ふ。供養の儀則は、中々言を尽すに不遑。天花風に繽紛として梵音雲に悠揚す。上古にも末代にも難有かりし供養也。仏閣供養の有様は、尤如此こそ有べきに、此の天竜寺供養事に就て、山門強に致嗷訴、遂に勅会の儀を申止めつる事非直事、如何様真俗共に■慢の心あるに依て、天魔波旬の伺ふ処あるにやと、人皆是を怪みけるが、果して此寺二十余年の中に、二度まで焼ける事こそ不思議なれ。
○三宅・荻野謀叛事付壬生地蔵事 S2405
其比備前国住人三宅三郎高徳は、新田刑部卿義助に属して伊予国へ越たりけるが、義助死去の後、備前国へ立帰り児島に隠れ居て、猶も本意を達せん為に、上野国に坐ける新田左衛門佐義治を喚奉り、是を大将にて旗を挙んとぞ企ける。此比又丹波国住人荻野彦六朝忠、将軍を奉恨事有と聞へければ、高徳潜に使者を通じて触送るに、朝忠悦で許諾す。両国已に日を定て打立んとしける処に、事忽に漏聞へて、丹波へは山名伊豆守時氏三千余騎にて押寄せ、高山寺の麓四方二三里を屏にぬり篭て食攻にしける間、朝忠終に戦屈して降人に成て出にけり。児島へは備前・備中・備後三箇国の守護、五千余騎にて寄ける間、高徳爰にては本意を遂る程の合戦叶はじとや思けん、大将義治を引具し、海上より京へ上て、将軍・左兵衛督・高・上杉の人々を夜討にせんとぞ巧ける。「勢少くては叶まじ、廻文を遣して同意の勢を集よ。」とて、諸国へ此由を触遣すに、此彼に身を側め形を替て隠れ居たる宮方の兵千余人、夜を日に継でぞ馳参りける。此勢一所に集らば、人に怪しめらるべしとて、二百余騎をば大将義治に付奉て、東坂本に隠し置き、三百余騎をば宇治・醍醐・真木・葛葉に宿し置き、勝れたる兵三百人をば京白河に打散し、態と一所には不置けり。已に明夜木幡峠に打寄て、将軍・左兵衛督・高・上杉が館へ、四手に分て夜討に可寄と、相図を定たりける前の日、如何して聞へたりけん、時の所司代都筑入道二百余騎にて夜討の手引せんとて、究竟の忍び共が隠れ居たる四条壬生の宿へ未明に押寄る。楯篭る所の兵共、元来死生不知の者共なりければ、家の上へ走り上り、矢種のある程射尽して後、皆腹掻破て死にけり。是を聞て、処々に隠居たる与党の謀反人共も皆散々に成ければ、高徳が支度相違して、大将義治相共に、信濃国へぞ落行ける。さても此日壬生の在家に隠れ居たる謀反人共、無被遁処皆討れける中に、武蔵国住人に、香勾新左衛門高遠と云ける者只一人、地蔵菩薩の命に替らせ給ひけるに依て、死を遁れけるこそ不思議なれ。所司代の勢已に未明に四方より押寄て、十重二十重に取巻ける時、此高遠只一人敵の中を打破て、壬生の地蔵堂の中へぞ走入たりける。何方にか隠ましと彼方此方を見る処に、寺僧かと覚しき法師一人、堂の中より出たりけるが、此高遠を打見て、「左様の御姿にては叶まじく候。此念珠に其太刀を取代て、持せ給へ。」と云ける間、げにもと思ひて、此法師の云侭にぞ随ける。斯りける処に寄手共四五十人堂の大庭へ走入て、門々をさして無残処ぞ捜しける。高遠は長念珠を爪繰て、「以大神通方便力、勿令堕在諸悪趣。」と、高らかに啓白してぞ居たりける。寄手の兵共皆見之、誠に参詣の人とや思けん、敢て怪め咎むる者一人もなし。只仏壇の内天井の上まで打破て探せと許ぞ罵りける。爰に只今物切たりと覚しくて、鉾に血の著たる太刀を、袖の下に引側めて持たる法師、堂の傍に立たるを見付て、「すはや此にこそ落人は有けれ。」とて、抱手三人走寄て、中に挙打倒し、高手小手に禁て、侍所へ渡せば、所司代都筑入道是を請取て、詰篭の中にぞ入たりける。翌日一日有て、守手目も不放、篭の戸も不開して、此召人くれに失にけり。預人怪み驚て其迹を見るに、馨香座に留りて恰も牛頭旃檀の薫の如し。是のみならず、「此召人を搦捕し者共の左右手、鎧の袖草摺まで異香に染て、其匂曾て不失。」と申合ける間、さては如何様非直事とて、壬生の地蔵堂の御戸を開かせて、本尊を奉見、忝も六道能化の地蔵薩■の御身、所々為刑鞭■黒、高手小手に禁し其縄、未御衣の上に著たりけるこそ不思議なれ。是を誡め奉りぬる者共三人、発露涕泣して、罪障を懺悔するに猶を不堪、忽に本鳥切て入道し、発心修行の身と成にけり。彼は依順縁今生に助命、是は依逆縁来生の得値遇事誠に如来附属の金言不相違、今世後世能引導、頼しかりける悲願也。

太平記
太平記巻第二十五

○持明院殿御即位事付仙洞妖怪事 S2501
貞和四年十月二十七日、後伏見院御孫御年十六にて御譲を受させ給て、同日内裏にて御元服あり。剣璽を被渡て後、同二十八日に、萩原法皇の第一の御子、春宮に立せ給ふ。御歳十三にぞ成せ給ひける。卜部宿禰兼前、軒廊の御占を奉り、国郡を卜定有て、抜穂の使を丹波国へ下さる。其十月に行事所始め有て、已に斉庁場所を作らむとしける時、院の御所に、一の不思議あり。二三歳許なる童部の頭を、斑なる犬が噛て、院の御所の南殿の大床の上にぞ居たりける。平明に御隔子進せける御所侍、箒を以て是を打むとするに、此犬孫廂の方より御殿の棟木に上て、西に向ひ三声吠てかき消様に失にけり。加様の夭怪、触穢に可成、今年の大甞会を可被停止、且は先例を引、且は法令に任て可勘申、法家の輩に被尋下。皆、「一年の触穢にて候べし。」と勘申ける中に、前の大判事明清が勘状に、法令の文を引て云、「神道は依王道所用といへり。然らば只宜在叡慮。」とぞ勘申たりける。爰に神祇大副卜部宿禰兼豊一人、大に忿て申けるは、「如法意勘進して非触穢儀、神道は無き物にてこそ候へ。凡一陽分れて後、清濁汚穢を忌慎む事、故ら是神道の所重也。而るを無触穢儀、大礼の神事無為被行、一流の神書を火に入て、出家遁世の身と可罷成。」と無所憚申ける。若殿上人など是を聞て、「余りに厳重なる申言哉、少々は存る処有とも残せかし。四海若無事にして、一事の無違乱大甞会を被行ば、兼豊が髻は不便の事哉。」とぞ被笑ける。され共主上も上皇も、此明清が勘文御心に叶ひてげにもと被思召ければ、今年大甞会を可被行とて武家へ院宣を被成下。武家是を施行して、国々へ大甞会米を宛課せて、不日に責はたる。近年は天下の兵乱打続て、国弊民苦める処に、君の御位恒に替て、大礼止時無りしかば、人の歎のみ有て、聊も是こそ仁政なれと思ふ事もなし。されば事騒がしの大甞会や、今年は無ても有なんと、世皆脣を翻せり。
○宮方怨霊会六本杉事付医師評定事 S2502
仙洞の夭怪をこそ、希代の事と聞処に、又仁和寺に一の不思議あり。往来の禅僧、嵯峨より京へ返りけるが、夕立に逢て可立寄方も無りければ、仁和寺の六本杉の木陰にて、雨の晴間を待居たりけるが、角て日已に暮にければ行前恐しくて、よしさらば、今夜は御堂の傍にても明せかしと思て、本堂の縁に寄居つゝ、閑に念誦して心を澄したる処に、夜痛く深て月清明たるに見れば、愛宕の山比叡の岳の方より、四方輿に乗たる者、虚空より来集て、此六本杉の梢にぞ並居たる。座定て後、虚空に引たる幔を、風の颯と吹上たるに、座中の人々を見れば、上座に先帝の御外戚、峯の僧正春雅、香の衣に袈裟かけて、眼は如日月光り渡り、觜長して鳶の如くなるが、水精の珠数爪操て坐し給へり。其次に南都の智教上人、浄土寺の忠円僧正、左右に著座し給へり。皆古へ見奉し形にては有ながら、眼の光尋常に替て左右の脇より長翅生出たり。往来の僧是を見て、怪しや我天狗道に落ぬるか、将天狗の我眼に遮るかはと、肝心も身にそはで、目もはなたず守り居たる程に又空中より五緒の車の鮮なるに乗て来る客あり。榻を践で下を見れば、兵部卿親王の未法体にて御座有し御貌也。先に座して待奉る天狗共、皆席を去て蹲踞す。暫有て坊官かと覚しき者一人、銀の銚子に金の盃を取副て御酌に立たり。大塔宮御盃を召れて、左右に屹と礼有て、三度聞召て閣せ給へば、峯僧正以下の人人次第に飲流して、さしも興ある気色もなし。良遥に有て、同時にわつと喚く声しけるが、手を挙て足を引かゝめ、頭より黒烟燃出て、悶絶■地する事半時許有て、皆火に入る夏の虫の如くにて、焦れ死にこそ死けれ。穴恐しや、是なめり、天狗道の苦患に、熱鉄のまろかしを日に三度呑なる事はと思て見居たれば、二時計有て、皆生出給へり。爰に峯僧正春雅苦し気なる息をついて、「さても此世中を如何して又騒動せさすべき。」と宣へば、忠円僧正末座より進出て、「其こそ最安き事にて候へ。先左兵衛督直義は他犯戒を持て候間、俗人に於ては我程禁戒を犯さぬ者なしと思ふ我慢心深く候。是を我等が依所なる大塔宮、直義が内室の腹に、男子と成て生れさせ給ひ候べし。又夢窓の法眷に妙吉侍者と云僧あり。道行共に不足して、我程の学解の人なしと思へり。此慢心我等が伺処にて候へば、峯の僧正御房其心に入替り給て、政道を輔佐し邪法を説破させ給べし。智教上人は上杉伊豆守重能・畠山大蔵少輔が心に依託して、師直・師泰を失はんと計らはれ候べし。忠円は武蔵守・越後守が心に入替て、上杉畠山を亡ぼし候べし。依之直義兄弟の中悪く成り、師直主従の礼に背かば、天下に又大なる合戦出来て、暫く見物は絶候はじ。」と申せば、大塔宮を始進せて、我慢・邪慢の小天狗共に至るまで、「いしくも計ひ申たる哉。」と、一同に皆入興して幻の如に成にけり。夜明ければ、往来の僧京に出、施薬院師嗣成に、此事をこそ語りたりけれ。四五日有て後、足利左兵衛督の北方、相労る事有て、和気・丹波の両流の博士、本道・外科一代の名医数十人被招請て脈を取せらるゝに、或は、「御労り風より起て候へば、風を治する薬には、牛黄金虎丹・辰沙天麻円を合せて御療治候べし。」と申す。或は、「諸病は気より起る事にて候へば、気を収る薬には、兪山人降気湯・神仙沈麝円を合せてまいり候べし。」と申。或は、「此御労は腹の御病にて候へば、腹病を治〔す〕る薬には、金鎖正元丹・秘伝玉鎖円を合て御療治候べし。」とぞ申ける。斯る処に、施薬院師嗣成少し遅参して、脈を取進せけるが、何なる病とも不弁。病多しといへ共束て四種を不出。雖然泯散の中に於て致料簡をけれ共、更に何れの病共不見、心中に不審を成処に、天狗共の仁和寺の六本杉にて評定しける事を屹と思出して、「是御懐姙の御脈にて候ける。しかも男子にて御渡候べし。」とぞさゝやきける。当座に聞ける者共、「あら悪の嗣成が追従や、女房の四十に余て始て懐姙する事や可有。」口を噤めぬ者は無りけり。去程に月日重、誠に只ならず成にければ、そゞろなる御労りとて、大薬を合せし医師は皆面目を失て、嗣成一人所領を給り、俸禄に預るのみならず、軈て典薬頭にぞ申成されける。猶懐姙誠しからず、月比にならば、何なる人の産たらむ子を、是こそよとて懐き冊かれむずらんとて、偏執の族は申合ひける処に、六月八日の朝、生産容易して、而も男子にてぞ坐しける。蓬矢の慶賀天下に聞へしかば、源家の御一族、其門葉、国々の大名は中々不申及、人と肩をも双べ、世に名をも知られたる公家武家の人々は、鎧・腹巻・太刀・々・馬・車・綾羅・金銀、我人にまさらんと、引出物を先立て、賀し申されける間、賓客堂上に群集し、僧俗門に立列る。後の禍をば未知、「哀大果報の少き人や。」と、云はぬ者こそ無りけれ。
○藤井寺合戦事 S2503
楠帯刀正行は、父正成が先年湊川へ下りし時、「思様あれば、今度の合戦に我は必ず打死すべし。汝は河内へ帰て、君の何にも成せ給はんずる御様を、見はて進せよ。」と申含めしかば、其庭訓を不忘、此十余年我身の長を待、討死せし郎従共の子孫を扶持して、何にも父の敵を滅し君の御憤を休め奉らんと、明暮肺肝を苦しめて思ひける。光陰過安ければ、年積て正行已に二十五、今年は殊更父が十三年の遠忌に当りしかば、供仏施僧の作善如所存致して、今は命惜とも不思ければ、其勢五百余騎を率し、時々住吉天王寺辺へ打出々々、中島の在家少々焼払て、京勢や懸ると待たりける。将軍是を聞給て、「楠が勢の分際思ふにさこそ有らめ。是に辺境を侵奪れて、洛中驚き騒ぐこと、天下嘲哢武将の恥辱也。急ぎ馳向て退治せよ。」とて、細川陸奥守顕氏を大将にて、宇都宮三河入道・佐々木六角判官・長左衛門・松田次郎左衛門・赤松信濃守範資・舎弟筑前守範貞・村田・奈良崎・坂西・坂東・菅家一族共、都合三千余騎、河内国へ差下さる。此勢八月十四日の午剋に、藤井寺にぞ著たりける。此陣より楠が館へは七里を隔たれば、縦ひ急々に寄する共、明日か明後日かの間にぞ寄せんずらんと、京勢由断して或は物具を解て休息し、或は馬鞍をおろして休める処に、誉田の八幡宮の後ろなる山陰に、菊水の旗一流ほの見へて、ひた甲の兵七百余騎、閑々と馬を歩ませて打寄せたり。「すはや敵の寄たるは。馬に鞍をけ物具せよ。」とひしめき色めく処へ、正行真前に進で、喚て懸入る。大将細川陸奥守よろいをば肩に懸たれ共未上帯をもしめ得ず、太刀を帯べき隙もなく見へ給ける間、村田の一族六騎小具足計にて、誰が馬ともなくひた/\と打乗て、如雲霞群りて磬へたる敵の中へ懸入て、火を散してぞ戦たる。され共つゞく御方なければ、大勢の中に被取篭、村田の一族六騎は一所にて討れにけり。其間に大将も物具堅め、馬に打乗て、相順ふ兵百余騎しばし支て戦ふたり。敵は小勢也。御方は大勢也。縦進で懸合するまではなく共、引退く兵だに無りせば、此軍に京勢惣て負まじかりけるを、四国中国より駈集たる葉武者、前に支へて戦へば、後ろには捨鞭を打て引ける間、無力大将も猛卒も同様にぞ落行ける。勝に乗て時を作懸々々追ける間、大将已に天王寺渡部の辺にては危く見へけるを、六角判官舎弟六郎左衛門、返合て討れにけり。又赤松信濃守範資・舎弟筑前守三百余騎命を名に替て討死せんと、取ては返し/\、七八度まで蹈留て戦けるに、奈良崎も主従三騎討れぬ。粟生田小太郎も馬を射られて討れにけり。此等に度々被支て、敵さまでも不追ければ、大将も士卒も危き命を助て、皆京へぞ返り上りにける。
○自伊勢進宝剣事付黄粱夢事 S2504
今年、古安徳天皇の壇の浦にて海底に沈めさせ給し宝剣出来れりとて、伊勢国より進奏す。其子細を能々尋ぬれば、伊勢国の国崎神戸に、下野阿闍梨円成と云山法師あり。大神宮へ千日参詣の志有ける間、毎日に潮を垢離にかいて、隔夜詣をしけるが、已千日に満ける夜、又こりをかゝんとて、礒へ行て遥の澳を見るに、一の光物あり。怪く思て、釣する海人に、「あれは何物の光りたるぞ。」と問ければ、「いさとよ何とは不知候。此二三日が間毎夜此光物浪の上に浮で、彼方此方へ流ありき候間、船を漕寄せて取らんとし候へば、打失候也。」とぞ答へける。かれを聞に弥不思議に思て、目も不放是を守て、遠渚海づらを遥々と歩行処に、此光物次第に礒へ寄て、円成が歩むに随てぞ流て来ける。さては子細有と思て立留たれば、光物些少く成て、円成が足許に来れり。懼しながら立寄て取上たれば、金にも非ず石にも非る物の、三鈷柄の剣なんどのなりにて、長さ二尺五六寸なる物にてぞ有ける。是は明月に当て光を含なる犀の角か、不然海底に生るなる珊瑚樹の枝かなんど思て、手に提て大神宮へ参たりける。爰に年十二三許なる童部一人、俄に物に狂て四五丈飛上々々けるが、思ふ事など問ふ人のなかるらんあふげば空に月ぞさやけきと云歌を高らかに詠じける間、社人村老数百人集て、「何なる神の託させ給ひたるぞ。」と問に、物付き口走申けるは、「神代より伝て我国に三種の神器あり。縦ひ継体の天子、位を継せ給ふといへ共、此三の宝なき時は、君も君たらず、世も世たらず。汝等是を見ずや、承久以後代々の王位軽くして、武家の為に威を失せ給へる事、偏に宝剣の君の御守と成せ給はで海底に沈める故也。剰へ今内侍所・璽の御箱さへ外都の塵に埋れて、登極天子空く九五の位に臨ませ給へり。依之四海弥乱て一天未静。爰に百王鎮護の崇廟の神、竜宮に神勅を被下て、元暦の古へ海底に沈し宝剣を被召出たる者也。すは爰に立て我を見るあの法師の手に持たるぞ。便宜の伝奏に属て此宝剣を内裏へ進らすべし。云処不審あらば是を見よ。」とて、円成に走懸て、手に持たる光物を取て、涙をはら/\と流し額より汗を流しけるが、暫く死入たる体に見へて、物の気は則去にけり。神託不審あるべきに非れば、斎所を始として、見及処の神人等連署の起請を書て、円成に与ふ。円成是を錦の袋に入て懸頚、任託宣先南都へぞ赴きける。春日の社に七日参篭して有けるが、是こそ事の可顕端よと思ふ験も無りければ、又初瀬へ参て、三日断食をして篭りたるに、京家の人よと覚しくて、拝殿の脇に通夜したる人の有けるが、円成を呼寄て、「今夜の夢に伊勢の国より参て、此三日断食したる法師の申さんずる事を、伝奏に挙達せよと云示現を蒙て候。御辺は若伊勢国よりや被参て候。」とぞ問ける。円成うれしく思て、始よりの有様を委細に語りければ、「我こそ日野大納言殿の所縁にて候へ。此人に属て被経奏聞候はん事、最安かるべきにて候。」とて、軈て円成を同道し京に上て、日野前大納言資明卿に属て、宝剣と斎所が起請とをぞ出たりける。資明卿事の様を能々聞給て、「誠に不思議の神託也。但加様の事には、何にも横句謀計有て、伝奏の短才、人の嘲哢となす事多ければ、能々事の実否を尋聞て、諸卿げにもと信を取程の事あらば可奏聞。何様天下静謐の奇瑞なれば引出物せよ。」とて、銀剣三振・被物十重、円成にたびて、宝剣をば前栽に崇め給へる春日の神殿にぞ納められける。神代の事をば、何にも日本記の家に可存知事なれば、委く尋給はんとて、平野の社の神主、神祇の大副兼員をぞ召れける。大納言、兼員に向て宣ひけるは、「抑三種の神器の事、家々に相伝し来る義逼也といへ共、資明は未是信。画工闘牛の尾を誤て牧童に笑れたる事なれば、御辺の被申候はん義を正路とすべきにて候。聊以事次に、此事存知度事あり。委く宣説候へ。」とぞ被仰ける。兼員畏て申けるは、「御前にて加様の事を申候はんは、只養由に弓を教へ、羲之に筆を授けんとするに相似て候へ共、御尋ある事を申さゞらむも、又恐にて候へば、伝る処の儀一事も不残申さんずるにて候。先天神七代と申は、第一国常立尊、第二国挟槌尊、第三豊斟渟尊。此時天地開け始て空中に物あり、葦芽の如しといへり。其後男神に泥土瓊尊・大戸之道尊・面足尊、女神に沙土瓊尊・大戸間辺尊・惶根尊。此時男女の形有といへ共更に婚合の儀なし。其後伊弉諾伊弉冊の男神女神の二神、天の浮橋の上にして、此下に豈国なからむやとて、天瓊鉾を差下して、大海を掻捜り給ふ。其鉾の滴、凝て一の島となる、をのころ島是也。次に一の州を産給ふ。此州余りに少かりし故、淡路州と名付、吾恥の国と云心なるべし。二神此島に天降り給て、宮造りせんとし給ふに、葦原生繁て所も無りしかば、此葦を引捨給ふに、葦を置たる所は山となり、引捨たる跡は河と成。二神夫婦と成て栖給ふといへ共、未陰陽和合の道を不知給。時に鶺鴒と云鳥の、尾を土に敲けるを見給て、始て嫁ぐ事を習て、喜哉遇可美小女焉読給。是和歌の始なり。角て四神を生給ふ。日神・月神・蛭子・素盞烏尊是也。日神と申は天照太神、是日天子の垂跡、月神と申は、月読の明神也。此御形余りにうつくしく御坐、人間の類にあらざりしかば、二親の御計ひにて天に登せ奉る。蛭子と申は、今の西宮の大明神にて坐す。生れ給ひし後、三年迄御足不立して、片輪に坐せしかば、いはくす船に乗せて海に放ち奉る。かぞいろは何に哀と思ふらん三年に成ぬ足立ずしてと読る歌是也。素盞烏尊は、出雲の大社にて御坐す。此尊草木を枯し、禽獣の命を失ひ、諸荒く坐せし間、出雲の国へ流し奉る。三神如此或は天に上り、或は海に放たれ、或流し給し間、天照太神此国の主と成給ふ。爰に素盞烏尊、吾国を取らんとて軍を起て、小蝿なす一千の悪神を率して、大和国宇多野に、一千の剣を掘り立て、城郭として楯篭り給ふ。天照太神是をよしなき事に思召て、八百万神達を引具して、葛城の天の岩戸に閉ぢ篭らせ給ひければ、六合内皆常闇に成て、日月の光も見へざりけり。此時に島根見尊是を歎て、香久山の鹿を捕へて肩の骨を抜き、合歓の木を焼て、此事可有如何と占なはせ給ふに、鏡を鋳て岩戸の前にかけ、歌をうたはゞ可有御出と、占に出たり。香久山の葉若の下に占とけて肩抜鹿は妻恋なせそと読る歌は則此意也。さて島根見尊、一千の神達を語ひて、大和国天の香久山に庭火を焼き、一面の鏡を鋳させ給ふ。此鏡は思ふ様にもなしとて被捨ぬ。今の紀州日前宮の神体也。次に鋳給ひし鏡よかるべしとて、榊の枝に著て、一千の神達を引調子を調へて、神歌を歌ひ給ければ、天照太神是にめで給て、岩根手力雄尊に岩戸を少し開かせて、御顔を差出させ給へば、世界忽に明に成て、鏡に移りける御形永く消ざりけり。此鏡を名付て八咫の鏡とも又は内侍所とも申也。天照太神岩戸を出させ給て、八百万神達を遣し、宇多野の城に掘立たる千の剣を皆蹴破て捨給ふ。是よりして千剣破とは申つゞくる也。此時一千の悪神は、小蛇と成て失ぬ。素盞烏尊一人に成て、彼方此方に迷行玉ふ程に、出雲国に行玉ひぬ。海上に浮で流るゝ島あり。此島は天照太神も知せ給べき所ならずとて、尊御手にて撫留て栖給ふ。故に此島をば手摩島とは申也。爰にて遥に見玉へば、清地の郷の奥、簸の川上に八色の雲あり。尊怪く思て行て見玉へば、老翁老婆二人うつくしき小女を中に置て、泣悲む事切也。尊彼泣故を問給へば、老翁答て曰、「我をば脚摩乳、うばをば手摩乳と申也。此姫は老翁老婆が儲たる孤子也。名をば稲田姫と申也。近比此所に八岐大蛇とて、八の頭ある大蛇、山尾七谷七にはい渡て候が、毎夜人を以て食とし候間、野人村老皆食尽、今日を限の別路の遣方もなき悲さに、泣臥也。」とぞ語ける。尊哀と思食て、「此姫を我にえさせば、此大蛇を退治して、姫が命を可助。」と宣に、老翁悦て、「子細候はじ。」と申ければ、湯津爪櫛を八作て、姫が髻にさし、八■の酒を槽に湛て、其上に棚を掻て姫を置奉、其影を酒に移してぞ待給ける。夜半過る程に、雨荒風烈吹過て、大山の如動なる物来る勢ひあり。電の光に是を見れば、八の頭に各二の角有て、あはいに松栢生茂たり。十八の眼は、日月の光に不異、喉の下なる鱗は、夕日を浸せる大洋の波に不異。暫は槽の底なる稲田姫の影を望見て、生牲爰に有とや思けん、八千石湛へたる酒を少しも不残飲尽す。尽ぬれば余所より筧を懸て、数万石の酒をぞ呑せたる。大蛇忽に飲酔て惘然としてぞ臥たりける。此時に尊剣を抜て、大蛇を寸々に切給ふ。至尾剣の刃少し折て切れず。尊怪みて剣を取直し、尾を立様に割て見玉へば、尾の中に一の剣あり。此所謂天叢雲剣也。尊是を取て天照太神に奉り玉ふ。「是は初当我高天原より落したりし剣也。」と悦玉ふ。其後尊出雲国に宮作し玉て、稲田姫を妻とし玉ふ。八雲立出雲八重垣妻篭にやへ垣造る其やへ垣を是三十一字に定たる歌の始也。其より以来此剣代代天子の御宝と成て、代十つぎを経たり。時に第十代の帝、崇神天皇の御宇に、是を伊勢太神宮に献り給ふ。十二代の帝景行天皇四十年六月に、東夷乱て天下不静。依之第二の王子日本武尊東夷征罰の為に東国に下り給ふ。先伊勢太神宮に参て、事の由を奏し給ひけるに、「慎で勿懈。」直に神勅有て件の剣を下さる。尊、剣を給て、武蔵野を過給ひける時、賊徒相謀て広野に火を放て、尊を焼殺し奉らんとす。燎原焔盛りにして、可遁方も無りければ、尊剣を抜て打払ひ給ふに、刃の向ふ方の草木二三里が間、己れと薙伏られて、烟忽に賊徒の方に靡きしかば、尊死を遁させ給て朝敵若干亡にけり。依之草薙の剣とは申也。此剣未大蛇の尾の中に有し程、簸の河上に雲懸りて、天更に不晴しかば、天の群雲の剣とも名付く。其尺僅に十束なれば又十束の剣とも名付たり。天武天皇の御宇、朱鳥元年に亦被召て、内裏に収られしより以来、代々の天子の御宝なればとて、又宝剣とは申也。神璽は、天照太神、素盞烏尊と、共為夫婦ありて、八坂瓊の曲玉をねふり給しかば、陰陽成生して、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊を生給ふ。此玉をば神璽と申也。何れも異説多端、委細尽すに不遑。蓬■に伝る所の一説、大概是にて候。」と委細にぞ答申たりける。大納言能々聞給て、「只今何の次でとしもなきに、御辺を呼候て、三種の神器の様を委く問つる事は、別の子細なし。昨日伊勢国より、宝剣と云物を持参したる事ある間、不審を開かん為に尋申つる也。委細の説大畧日来より誰も存知の前なれば、別に異儀なし。但此説の中に、十束の剣と名付しは、十束ある故也と聞つるぞ。人の無左右可知事ならずと覚る。其剣取出せ。」とて、南庭に崇給へる春日の社より、錦の袋に入たる剣を取出して、尺をさゝせて見給ふに、果して十束有けり。「さては無不審宝剣と覚。但奏聞の段は一の奇瑞なくば叡信不可立。暫此剣を御辺の許に置て、何なる不思議も一祈出されよかし。」と宣へば、兼員、「世は澆季に及て仏神の威徳も有て無きが如くに成て候へば、何に祈候とも、誠に天下の人を驚す程の瑞相、可出来覚候はず、但今も仏神の威光を顕して人の信心を催すは、夢に過たる事はなきにて候。所詮先此剣を預け給て、三七日が間幣帛を捧げ礼奠を調、祈誓を致し候はんずる最中、先は両上皇、関白殿下、院司の公卿、若は将軍、左兵衛督なんどの夢に、此剣誠に宝剣也けりと、不審を散ずる程の夢想を被御覧候はゞ、御奏聞候へかし。」と申て、卜部宿禰兼員此剣を給てぞ帰りける。翌日より兼員此剣を平野の社の神殿に安じ、十二人の社僧に真読の大般若経を読せ、三十六人の神子に、長時の御神楽を奉らしむるに、殷々たる梵音は、本地三身の高聴にも達し、玲々たる鈴の声は垂迹五能の応化をも助くらんとぞ聞へける。其外金銀弊帛の奠、蘋■蘊藻の礼、神其神たらば、などか奇瑞もこゝに現ぜざらんと覚る程にぞ祈りける。已に三七日に満じける夜、鎌倉左兵衛督直義朝臣の見給ける夢こそ不思議なれ。所は大内の神祇官かと覚へたるに、三公・九卿・百司・千官、位に依て列座す。纛の旗を建幔の坐を布て、伶倫楽を奏し、文人詩を献ず。事の儀式厳重にして大礼を被行体也。直義朝臣夢心地に、是は何事の有やらんと怪く思て、竜尾堂の傍に徘徊したれば、権大納言経顕卿出来り給へるに、直義朝臣、「是は何事の大礼を被行候やらん。」と問給へば、「伊勢太神宮より宝剣を進らせらるべしとて、中議の節会を被行候也。」とぞ被答ける。さては希代の大慶哉と思て、暫見居たる処に、南方より五色の雲一群立出て、中に光明赫奕たる日輪あり。其光の上に宝剣よと覚へたる一の剣立たり。梵天・四王・竜神八部蓋を捧げ列を引て前後左右に囲遶し給へりと見て、夢は則覚にけり。直義朝臣、夙に起て、此夢を語給に、聞人皆、「静謐の御夢想也。」と賀し申さぬは無りけり。其聞へ洛中に満て、次第に語伝へければ、卜部宿禰兼員、急ぎ夢の記録を書て、日野大納言殿に進覧す。大納言此夢想の記録を以て、仙洞に奏聞せらる。事の次第御不審を非可被残とて、八月十八日の早旦に、諸卿参列して宝剣を奉請取。翌日是を取進せし円成阿闍梨、次第を不経直任の僧都になされ、河内国葛葉の関所を恩賞にぞ被下ける。只周の代に宝鼎を掘出、夏の時に河図を得たりし祥瑞も是には過じとぞ見へし。此比朝庭に賢才輔佐の臣多といへ共、君の不義を諌め政の不善を誡めらるゝは、坊城大納言経顕・日野大納言資明二人のみ也。夫両雄は必諍ふ習なれば、互に威勢を被競けるにや、経顕卿被申沙汰たる事をば、資明卿申破らむとし、資明卿の被執奏たる事をば経顕卿支申されけり。爰に伊勢国より宝剣進奏の事、日野大納言被執申たりと聞へしかば、坊城大納言経顕卿、院参して被申けるは、「宝剣執奏の事、委細に尋承候へば、一向資明が阿党の所より事起て候なる。佞臣仕朝国有不義政とは是にて候也。先思て見候に、素盞烏尊古へ簸の河上にて切られし八岐の蛇、元暦の比安徳天皇と成て、此宝剣を執て竜宮城へ帰り給ひぬ。其より後君十九代春秋百六十余年、政盛に徳豊なりし時だにも、遂に不出現宝剣の、何故に斯る乱世無道の時に当て出来り候べき。若我君の聖徳に感じて出現せりと申さば、其よりも先天下の静謐こそ有べく候へ。若又直義が夢を以て、可有御信用にて候はゞ、世間に無定相事をば夢幻と申候はずや。されば聖人に無夢とは、是を以て申にて候。昔漢朝にして富貴を願ふ客あり。楚国の君賢才の臣を求給ふ由を聞て、恩爵を貪らん為に則楚国へぞ趣ける。路に歩疲て邯鄲の旅亭に暫休けるを、呂洞賓と云仙術の人、此客の心に願ふ事暗に悟て、富貴の夢を見する一の枕をぞ借したりける。客此枕に寝て一睡したる夢に、楚国の侯王より勅使来て客を被召。其礼其贈物甚厚し。客悦で則楚国の侯門に参ずるに、楚王席を近付て、道を計り武を問給ふ。客答ふる度毎に、諸卿皆頭を屈して旨を承くれば、楚王不斜是を貴寵して、将相の位に昇せ給ふ。角て三十年を経て後、楚王隠れ給ける刻、第一の姫宮を客に妻せ給ひければ、従官使令、好衣珍膳、心に不叶云事なく、不令目悦云事はなし。座上に客常満、樽中に酒不空。楽み身に余り遊び日を尽して五十一年と申すに、夫人独の太子を産給ふ。楚王に位を可継御子なくして、此孫子出来にければ、公卿大臣皆相計て、楚国の王に成し奉る。蛮夷率服し、諸侯の来朝する事、只秦の始皇の六国を合、漢の文慧の九夷を順へしに不異。王子已に三歳に成給ける時、洞庭の波上に三千余艘の舟を双べ、数百万人の好客を集て、三年三月の遊をし給ふ。紫髯の老将は解錦纜、青蛾の御女は唱棹歌。彼をさへや大梵高台の花喜見城宮の月も、不足見不足翫と、遊び戯れ舞歌て、三年三月の歓娯已に終ける時、夫人彼三歳の太子を懐て、舷に立給たるが、踏はづして太子夫人諸共に、海底に落入給ひてげり。数万の侍臣周章て一同に、「あらや/\。」と云声に、客の夢忽に覚てげり。倩夢中の楽みを計れば、遥に天位五十年を経たりといへ共、覚て枕の上の睡を思へば、僅に午炊一黄粱の間を不過けり。客云人間百年の楽も、皆枕頭片時の夢なる事を悟り得て、是より楚国へは不越、忽に身を捨て、世を避る人と成て、遂に名利に繋るゝ心は無りけり。是を揚亀山が謝日月詩作て云く、少年力学志須張。得失由来一夢長。試問邯鄲欹枕客。人間幾度熟黄粱。是を邯鄲午炊の夢とは申也。就中葛葉の関は、年来南都の管領の地にて候を、無謂召放れん事、衆徒の嗷訴を招くにて候はずや。綸言再し難しといへ共、過則勿憚改と申事候へば、速に以前の勅裁を被召返、南都の嗷訴事未萌前に可被止や候らん。」と委細に奏申されければ、上皇もげにもとや思召けん、則院宣を被成返ければ、宝剣をば平野社の神主卜部宿禰兼員に被預、葛葉の関所をば如元又南都へぞ被付ける。
○住吉合戦事 S2505
去九月十七日に、河内国藤井寺の合戦に、細川陸奥守顕氏、無甲斐打負て引退し後、楠帯刀左衛門正行、勢ひ機に乗て、辺境常に侵し奪はるといへ共、年内は寒気甚して兵皆指を墜し、手亀る事有ぬべければ、暫とて閣れけるが、さのみ延引せば敵に勢著ぬべしとて、十一月二十三日に軍評定有て、同二十五日、山名伊豆守時氏・細川陸奥守顕氏を両大将にて、六千余騎を住吉天王寺へ被差下。顕氏は去ぬる九月の合戦に、楠帯刀左衛門正行に打負て、天下の人口に落ぬる事、生涯の恥辱也と被思ければ、四国の兵共を召集て、「今度の合戦又如先して帰りなば、万人の嘲哢たるべし。相構て面々身命を軽じて、以前の恥を洗がるべし。」と、衆を勇め気を励されければ、坂東・坂西・藤・橘・伴の者共、五百騎づゝ一揆を結んで、大旗小旗下濃の旗三流立て三手に分け、一足も不引可討死と、神水を飲てぞ打立ける。事の■実に思切たる体哉と、先涼しくぞ見たりける。大手の大将山名伊豆守時氏、千余騎にて住吉に陣をとれば、搦手の大将細川陸奥守顕氏、八百余騎にて天王寺に陣を取る。楠帯刀正行是を聞て、「敵に足をためさせて、住吉・天王寺両所に城郭を被構なば、向神向仏挽弓放矢恐有ぬべし。不日に押寄て、先住吉の敵を追払、只攻につめ立て、急に追懸る程ならば、天王寺の敵は戦はで引退ぬと覚るぞ。」とて、同二十六日の暁天に、五百余騎を率し、先住吉の敵を追出さんと、石津の在家に火を懸て、瓜生野の北より押寄たり。山名伊豆守是を見て、「敵一方よりよも寄せじ。手を分て相戦へ。」とて、赤松筑前守範貞に、摂津国播磨両国の勢を差副て、八百余騎浜の手を防んと、住吉の浦の南に陣を取。土岐周済房・明智兵庫助・佐々木四郎左衛門、其勢三千余騎にて、安部野の東西両所に陣を張る。搦手の大将細川陸奥守は、手勢の外、四国の兵五千余騎を率して、態と本陣を不離、荒手に入替ん為に、天王寺に磬へたり。大手の大将山名伊豆守・舎弟三河守・原四郎太郎・同四郎次郎・同四郎三郎は、千余騎にて、只今馬烟を挙て進みたる先蒐の敵に懸合せんと、瓜生野の東に懸出たり。楠帯刀は敵の馬烟を見て、陣の在所四箇所に有と見てければ、多からぬ我勢を数たに分ば、中々可悪とて、本五手に分たりける二千余騎の勢を、只一手に集て、瓜生野へ打てかゝる。此陣東西南北野遠して疋馬蹄を労せしかば、両陣互に射手を進て、時の声を一声挙る程こそあれ、敵御方六千余騎一度に颯と懸合て、思々に相戦。半時許切合て、互に勝時をあげ、四五町が程両方へ引分れ、敵御方を見渡ば、両陣過半滅びて、死人戦場に充満たり。又大将山名伊豆守、切疵射疵七所迄負はれたれば、兵前に立隠して、疵をすひ血を拭ふ程、少し猶預したる処へ、楠が勢の中より、年の程二十許なる若武者、和田新発意源秀と名乗て、洗皮の鎧に、大太刀小太刀二振帯て、六尺余の長刀を小脇に挟み、閑々と馬を歩ませて小哥歌て進みたり。其次に一人、是も法師武者の長七尺余も有らんと覚たるが、阿間了願と名乗て、唐綾威の鎧に小太刀帯て、柄の長一丈許に見へたる鑓を馬の平頚に引副て、少しも不擬議懸出たり。其勢事がら、尋常の者には非ずと見へながら、跡に続く勢無ければ、あれやと許云て、山名が大勢さしも驚かで控たる中へ、只二騎つと懸入て、前後左右を突て廻に、小手の迦・髄当の余り・手反の直中・内甲、一分もあきたる所をはづさず、矢庭に三十六騎突落して、大将に近付んと目を賦る。三河守是を見て、一騎合ひの勝負は叶はじとや被思けん。「以大勢是を取篭よ。」と、百四五十騎にて横合に被懸たり。楠又是を見て、「和田討すな続けや。」とて、相懸に懸て責戦ふ。太刀の鐔音天に響き、汗馬の足音地を動す。互に御方を恥しめて、「引な進め。」と云声に退兵無りけり。されども大将山名伊豆守已に疵を被り、又入替る御方の勢はなし、可叶共覚へざりければ、歩立になる兵共、伊豆守の馬の口を引向て、後陣の御方と一処にならんと、天王寺を差て引退く。楠弥気に乗て、追懸々々責ける間、山名三川守・原四郎太郎・同四郎次郎、兄弟二騎、犬飼六郎、主従三騎、返合せて討れにけり。二陣に控たる土岐周済房・佐々木六郎左衛門三百余騎にて安部野の南に懸出て、暫し支て戦けるが、目賀田・馬淵の者共、三十八騎一所にて討れにける間、此陣をも被破て共に天王寺へと引しさる。一陣二陣如此なりしかば、浜の手も天王寺の勢も、大河後にあり両陣前に破れぬ。敵に橋を引れなば一人も生て帰る者不可有。先橋を警固せよとて、渡辺を差て引けるが、大勢の靡立たる習にて、一度も更に不返得、行先狭き橋の上を、落とも云はずせき合たり。山名伊豆守は我身深手を負のみならず、馬の三頭を二太刀切られて、馬は弱りぬ、敵は手繁く懸る。今は落延じとや被思けん、橋爪にて已に腹を切らんとせられけるを、河村山城守只一騎返合せて近付敵二騎切て落し、三騎に手を負て、暫し支へたりける間に、安田弾正走寄て、「何なる事にて候ぞ。大将の腹切所にては候はぬ者を。」と云て、己が六尺三寸の太刀を守木に成し、鎧武者を鎧の上に掻負て橋の上を渡るに、守木の太刀にせき落されて、水に溺るゝ者数を不知。播磨国住人小松原刑部左衛門は、主の三河守討れたる事をも不知、天神の松原まで落延たりけるが、三川守の乗給ひたりける馬の平頚、二太刀切れて放れたりけるを見て、「さては三川守殿は討れ給ひけり。落ては誰が為に命を可惜。」とて、只一騎天神の松原より引返し、向ふ敵に矢二筋射懸て、腹掻切て死にけり。其外の兵共、親討れ共子は不知、主討死すれ共郎従是を不助、物具を脱ぎ棄弓を杖に突て、夜中に京へ逃上る。見苦しかりし分野也。


太平記
太平記巻第二十六

○正行参吉野事 S2601
安部野の合戦は、霜月二十六日の事なれば、渡辺の橋よりせき落されて流るゝ兵五百余人、無甲斐命を楠に被助て、河より被引上たれ共、秋霜肉を破り、暁の氷膚に結で、可生共不見けるを、楠有情者也ければ、小袖を脱替させて身を暖め、薬を与へて疵を令療。如此四五日皆労りて、馬に乗る者には馬を引、物具失へる人には物具をきせて、色代してぞ送りける。されば乍敵其情を感ずる人は、今日より後心を通ん事を思ひ、其恩を報ぜんとする人は、軈て彼手に属して後、四条縄手の合戦に討死をぞしける。さても今年両度の合戦に、京勢無下に打負て、畿内多く敵の為に犯し奪はる。遠国又蜂起しぬと告ければ、将軍左兵衛督の周章、只熱湯にて手を濯が如し。今は末々の源氏国々の催勢なんどを向ては可叶共不覚とて、執事高武蔵守師直、越後守師泰兄弟を両大将にて、四国・中国・東山・東海二十余箇国の勢をぞ被向ける。軍勢の手分事定て、未一日も不過に、越後守師泰は手勢三千余騎を卒して、十二月十四日の早旦に先淀に著く。是を聞て馳加る人々には、武田甲斐守・逸見孫六入道・長井丹後入道・厚東駿河守・宇都宮三川入道・赤松信濃守・小早河備後守、都合其勢二万余騎、淀・羽束使・赤井・大渡の在家に居余て、堂舎仏閣に充満たり。同二十五日武蔵守手勢七千余騎を卒して八幡に著く。此手に馳加る人々には、細川阿波将監清氏・仁木左京大夫頼章・今河五郎入道・武田伊豆守・高刑部大輔・同播磨守・南部遠江守・同次郎左衛門尉・千葉介・宇都宮遠江入道・佐々木佐渡判官入道・同六角判官・同黒田判官・長九郎左衛門尉・松田備前三郎・須々木備中守・宇津木平三・曾我左衛門・多田院御家人、源氏二十三人、外様大名四百三十六人、都合其勢六万余騎、八幡・山崎・真木・葛葉・鹿島・神崎・桜井・水無瀬に充満せり。京勢如雲霞淀・八幡に著ぬと聞へしかば、楠帯刀正行・舎弟正時一族打連て、十二月二十七日芳野の皇居に参じ、四条中納言隆資を以て申けるは、「父正成■弱の身を以て大敵の威を砕き、先朝の宸襟を休め進せ候し後、天下無程乱て、逆臣西国より責上り候間、危を見て命を致す処、兼て思定候けるかに依て、遂に摂州湊河にして討死仕候了。其時正行十三歳に罷成候しを、合戦の場へは伴はで河内へ帰し死残候はんずる一族を扶持し、朝敵を亡し君を御代に即進せよと申置て死て候。然に正行・正時已壮年に及候ぬ。此度我と手を砕き合戦仕候はずは、且は亡父の申しし遺言に違ひ、且は武略の無云甲斐謗りに可落覚候。有待の身思ふに任せぬ習にて、病に犯され早世仕事候なば、只君の御為には不忠の身と成、父の為には不孝の子と可成にて候間、今度師直・師泰に懸合、身命を尽し合戦仕て、彼等が頭を正行が手に懸て取候歟、正行・正時が首を彼等に被取候か、其二の中に戦の雌雄を可決にて候へば、今生にて今一度君の竜顔を奉拝為に、参内仕て候。」と申しも敢ず、涙を鎧の袖にかけて義心其気色に顕れければ、伝奏未奏せざる先に、まづ直衣の袖をぞぬらされける。主上則南殿の御簾を高く巻せて、玉顔殊に麗く、諸卒を照臨有て正行を近く召て、「以前両度の戦に勝つ事を得て敵軍に気を屈せしむ。叡慮先憤を慰する条、累代の武功返返も神妙也。大敵今勢を尽して向ふなれば、今度の合戦天下の安否たるべし。進退当度反化応機事は、勇士の心とする処なれば、今度の合戦手を下すべきに非ずといへ共、可進知て進むは、時を為不失也。可退見て退は、為全後也。朕以汝股肱とす。慎で命を可全。」と被仰出ければ、正行首を地に著て、兔角の勅答に不及。只是を最後の参内也と、思定て退出す。正行・正時・和田新発意・舎弟新兵衛・同紀六左衛門子息二人・野田四郎子息二人・楠将監・西河子息・関地良円以下今度の軍に一足も不引、一処にて討死せんと約束したりける兵百四十三人、先皇の御廟に参て、今度の軍難義ならば、討死仕べき暇を申て、如意輪堂の壁板に各名字を過去帳に書連て、其奥に、返らじと兼て思へば梓弓なき数にいる名をぞとゞむると一首の哥を書留め、逆修の為と覚敷て、各鬢髪を切て仏殿に投入、其日吉野を打出て、敵陣へとぞ向ける。
○四条縄手合戦事付上山討死事 S2602
師直・師泰は、淀・八幡に越年して、猶諸国の勢を待調て、河内へは可向と議しけるが、楠已に逆か寄にせん為に、吉野へ参て暇申し、今日河内の往生院に著ぬと聞へければ、師泰先正月二日淀を立て二万余騎和泉の堺の浦に陣を取る。師直も翌日三日の朝八幡を立て六万余騎四条に著く。此侭軈て相近付べけれ共、楠定て難所を前に当てぞ相待らん。寄せては可悪、被寄ては可有便とて、、三軍五所に分れ、鳥雲の陣をなして、陰に設け陽に備ふ。白旗一揆の衆には、県下野守を旗頭として、其勢五千余騎飯盛山に打上て、南の尾崎に扣たり。大旗一揆の衆には、河津・高橋二人を旗頭として、其勢三千余騎、秋篠や外山の峯に打上て、東の尾崎に控へたり。武田伊豆守は千余騎にて、四条縄手の田中に、馬の懸場を前に残して控へたり。佐々木佐渡判官入道は、二千余騎にて、伊駒の南の山に打上り、面に畳楯五百帖突並べ、足軽の射手八百人馬よりをろして、打て上る敵あらば、馬の太腹射させて猶予する処あらば、真倒に懸落さんと、後ろに馬勢控へたり。大将武蔵守師直は、二十余町引殿て、将軍の御旗下に輪違の旗打立て、前後左右に騎馬の兵二万余騎、馬回に徒立の射手五百人、四方十余町を相支て、如稲麻の打囲ふだり。手分の一揆互に勇争て陣の張様密しければ、項羽が山を抜く力、魯陽が日を返す勢有共、此堅陣に懸入て可戦とは見へざりけり。去程に正月五日の早旦に、先四条中納言隆資卿大将として、和泉・紀伊国の野伏二万余人引具して、色々の旗を手に差上、飯盛山にぞ向ひ合ふ。是は大旗・小旗両一揆を麓へをろさで、楠を四条縄手へ寄させん為の謀也。如案大旗・小旗の両一揆是を忻り勢とは不知、是ぞ寄手なるらんと心得て、射手を分て旗を進めて坂中までをり下て、嶮岨に待て戦んと見繕ふ処に、楠帯刀正行・舎弟正時・和田新兵衛高家・舎弟新発意賢秀、究竟の兵三千余騎を卒して、霞隠れより驀直に四条縄手へ押寄せ、先斥候の敵を懸散さば、大将師直に寄合て、勝負を決せざらんと、少も擬議せず進だり。県下野守は白旗一揆の旗頭にて、遥の峯に控たりけるが、菊水の旗只一流、無是非武蔵守の陣へ懸入んとするを見て、北の岡より馳下馬よりひた/\と飛下て、只今敵のましぐらに懸入んとする道の末を一文字に遮て、東西に颯と立渡り、徒立に成てぞ待懸たる。勇気尤盛なる楠が勢、僅に徒立なる敵を見て、何故か些もやすらふべき。三手に分たる前陣の勢五百余騎、閑々と打て蒐る。京勢の中秋山弥次郎・大草三郎左衛門二人、真前に進て射落さる。居野七郎是を見て、敵に気を付じと、秋山が臥たる上をつと飛越て、「爰をあそばせ。」と射向の袖を敲て、小跳して進だり。敵東西より差合せて雨の降様に射る矢に、是も内甲草摺のはづれ二所箆深に被射、太刀を倒につき、其矢を抜んとすくみて立たる所を、和田新発意つと蒐寄て、甲の鉢をしたゝかにうつ。打れて犬居に倒れければ、和田が中間走寄て、頚掻切て差上たり。是を軍の始として、楠が騎馬の兵五百余騎と、県が徒立の兵三百余人と、喚き叫で相戦ふに、田野ひらけ平にして馬の懸引自在なれば、徒立の兵汗馬に被懸悩、白旗一揆の兵三百余騎太略討れにければ、県下野守も深手五所まで被て叶はじとや思けん、被討残たる兵と師直の陣へ引て去る。二番に戦屈したる楠が勢を弊に乗て討んとて、武田伊豆守七百余騎にて進だり。楠が二陣の勢千余騎にて蒐合ひ二手に颯と分て、一人も余さじと取篭る。汗馬東西に馳違、追つ返つ旌旗南北に開分れて、巻つ巻られつ互に命を惜まで、七八度まで揉合たるに、武田が七百余騎残少なに討るれば、楠が二陣の勢も大半疵を被て、朱に成てぞ控たる。小旗一揆の衆は、始より四条中納言隆資卿の偽て控たる見せ勢に対して、飯盛山に打上て、大手の合戦をば、徒によそに直下て居たりけるが、楠が二陣の勢の戦ひ疲て麓に扣たるを見て、小旗一揆の中より、長崎彦九郎資宗・松田左近将監重明・舎弟七郎五郎・子息太郎三郎・須々木備中守高行・松田小次郎・河勾左京進入道・高橋新左衛門尉・青砥左衛門尉・有元新左衛門・広戸弾正左衛門・舎弟八郎次郎・其弟太郎次郎以下勝れたる兵四十八騎、小松原より懸下りて、山を後に当て敵を麓に直下して、懸合々々戦ふに、楠が二陣千余騎僅の敵に被遮、進かねてぞ見へたりける。佐佐木佐渡判官入道道誉は、楠が軍の疲足、推量るに自余の敵にはよも目も懸じ。大将武蔵守の旗を見てぞ蒐らんずらん。去程ならば少し遣過して、迹を塞で討んと議して、其勢三千余騎を卒して、飯盛山の南なる峯に打上て、旗打立控たりけるが、楠が二陣の勢の両度数剋の戦ひに、馬疲れ気屈して、少し猶予したる処を見澄して、三千余騎を三手に分て、同時に時をどつと作て蒐下す。楠が二陣の勢暫支て戦けるが、敵は大勢也。御方は疲れたり。馬強なる荒手に懸立られて叶はじとや思けん、大半討れて残る勢南を差て引て行く。元来小勢なる楠が兵、後陣既に破れて、残止る前陣の勢、僅に三百余騎にも足じと見へたれば、怺じと見る処に、楠帯刀・和田新発意、未討れずして此中に有ければ、今日の軍に討死せんと思て、過去帳に入たりし連署の兵百四十三人、一所に犇々と打寄て、少しも後陣の破れたるをば不顧、只敵の大将師直は迹にぞ控て有らんと、目に懸てこそ進みけれ。武蔵守が兵は、御方軍に打勝て、敵しかも小勢なれば、乗機勇み進で是を打取んとて、先一番に細川阿波将監清氏、五百余騎にて相当。楠が三百騎の勢、些も不滞相蒐りに懸て、面も不振戦ふに、細川が兵五十余騎討れて北をさして引退く。二番に仁木左京大夫頼章、七百余騎にて入替て責るに、又楠が三百余騎、轡を双て真中に懸入り、火を散して戦ふに、左京大夫頼章、四角八方へ懸立られて一所へ又も打寄らず。三番に千葉介・宇都宮遠江入道・同参河入道両勢合て五百余騎、東西より相近て、手崎をまくりて中を破とするに、楠敢て破られず。敵虎韜に連て囲めば、虎韜に分れて相当り、竜鱗に結て蒐れば竜鱗に進で戦ふ。三度合て三度分れたるに、千葉・宇都宮が兵若干討れて引返す。此時和田・楠が勢百余騎討れて、馬に矢の三筋四筋射立られぬは無りければ、馬を蹈放て徒立に成て、とある田の畔に後を差宛て、箙に差たる竹葉取出して心閑に兵粮仕ひ、機を助てぞ並居たる。是程に思切たる敵を取篭て討んとせば、御方の兵若干亡ぬべし。只後ろをあけて、落ちば落せとて、数万騎の兵皆一処に打寄て、取巻体をば見せざりけり。されば楠縦小勢也とも、落ば落べかりけるを、初より今度の軍に、師直が頚を取て返り参ぜずは、正行が首を六条河原に曝されぬと被思食候へと、吉野殿にて奏し申たりしかば、其言をや恥たりけん、又運命爰にや尽けん、和田も楠も諸共に、一足も後へは不退、「只師直に寄合て勝負を決せよ。」と声声に罵呼り、閑に歩近付たり。是を見て細川讃岐守頼春・今河五郎入道・高刑部大輔・高播磨守・南遠江守・同次郎左衛門尉・佐々木六角判官・同黒田判官・土岐周済房・同明智三郎・荻野尾張守朝忠・長九郎左衛門・松田備前次郎・宇津木平三・曾我左衛門・多田院の御家人を始として、武蔵守の前後左右に控たる究竟の兵共七千余騎、我先に打取らんと、喚き呼で蒐出たり。楠是に些も不臆して、暫息継んと思ふ時は、一度に颯と並居て鎧の袖をゆり合せ、思様に射させて、敵近付ば同時にはつと立あがり、鋒を双て跳り蒐る。一番に懸寄せける南次郎左衛門尉、馬の諸膝薙れて落る処に、起しも立ず討にけり。二番に劣らじと蒐入ける松田次郎左衛門、和田新発意に寄合て、敵を切んと差うつぶく処を、和田新発意長刀の柄を取延て、松田が甲の鉢をはたとうつ。打れて錣を傾る処に、内甲を突れて、馬より倒に落て討れにけり。此外目の前に切て落さるゝ者五十余人、小腕打落されて朱になる者二百余騎、追立々々責られて、叶はじとや思ひけん、七千余騎の兵共、開靡て引けるが、淀・八幡をも馳過て、京まで逃るも多かりけり。此時若武蔵守一足も退く程ならば、逃る大勢に引立られて洛中までも追著れぬと見へけるを、少も漂ふ気色無して、大音声を揚て、「蓬し返せ、敵は小勢ぞ師直爰にあり。見捨て京へ逃たらん人、何の面目有てか将軍の御目にも懸るべき。運命天にあり。名を惜まんと思はざらんや。」と、目をいらゝげ歯嚼をして、四方を下知せられけるにこそ、恥ある兵は引留りて師直の前後に控けれ。斯る処に土岐周済房の手の者共は、皆打散され、我身も膝口切れて血にまじり、武蔵守の前を引て、すげなう通りけるを、師直吃と見て、「日来の荒言にも不似、まさなうも見へ候者哉。」と言を懸られて、「何か見苦候べき。さらば討死して見せ申さん。」とて、又馬を引返し敵の真中へ蒐入て、終に討死してけり。是を見て雑賀次郎も蒐入り打死す。已楠と武蔵守と、あはひ僅に半町計を隔たれば、すはや楠が多年の本望爰に遂ぬと見たる処に、上山六郎左衛門、師直の前に馳塞り、大音声を挙て申けるは、「八幡殿より以来、源家累代の執権として、武功天下に顕れたる高武蔵守師直是に有。」と名乗て、討死しける其間に、師直遥に隔て、楠本意を遂ざりけり。抑多勢の中に、上山一人師直が命に代て、討死しける所存何事ぞと尋れば、只一言の情を感じて、命を軽くしけるとぞ聞へし。只今楠此陣へ可寄とは不思寄、上山閑に物語せんとて、執事の陣へ行ける処に、東西南北騒ぎ色めきて、敵寄たりと打立ける間、上山我屋に帰り物具せん逗留無りければ、師直がきせながの料に、同毛の鎧を二両まで置たりけるを、上山走寄て、唐櫃の緒を引切て鎧を取て肩に打懸けるを、武蔵守が若党、鎧の袖を控て、「是は何なる御事候ぞ。執事の御きせながにて候者を、案内をも申され候はで。」と云て、奪止んと引合ける時、師直是を聞て馬より飛で下り、若党をはたと睨で、「無云甲斐者の振舞哉。只今師直が命に代らん人々に、縦千両万両の鎧也共何か惜かるべきぞ。こゝのけ。」と制して、「いしうもめされて候者哉。」と還て上山を被感ければ、上山誠にうれしき気色にて、此詞の情を思入たる其心地、いはねども色に現れたり。されば事の儀を不知して鎧を惜みつる若党は、軍の難義なるを見て先一番に落けれ共、情を感ずる上山は、師直が其命に代て討死しけるぞ哀なる。加様の事異国にも其例あり。秦穆公と申す人、六国の諸侯と戦けるに、穆公軍破て他国へ落給ふ。敵の追事甚急にして、乗給へる馬疲れにければ、迹にさがりたる乗替の馬を待給ふ処に、穆公の舎人共馬をば引て不来して、疲たる兵共二十余人、皆高手小手に縛りて、軍門の前に引居たり。穆公自ら事の由を問ふに、舎人答て申様、「召し替への御馬を引進り候処に、戦に疲れ飢たる兵共二十余人、此御馬を殺して皆食て候間、死罪に行ひ候はんが為に生虜て参て候。」とぞ申ける。穆公さしも忿れる気色なく、「死せる者は二度生べからず。縦二度生る共、獣の卑きを以て人の貴きを失はんや。我れ聞く、飢て馬を食せる人は必病む事有。」とて其兵共に酒を飲せ薬を与へて医療を加られける上は、敢て罪科に不及。其後穆公軍に打負て、大敵に囚はれ已討れんとし給し時、馬を殺して食たりし兵共二十余人、穆公の命に代り戦ける程に、大敵皆散じて穆公死を逃れ給ひにけり。されば古も今も大将たらん人は、皆罰をば軽く行ひ宥め賞をば厚く与へしむ。若昔の穆公馬を惜み給はゞ、大敵の囲を出給はんや。今の師直鎧を不与は、上山命に代らんや。情は人の為ならずとは、加様の事をぞ申べき。楠、上山を討て其頭を見るに、太清げなる男也。鎧を見るに輪違を金物に掘透したり。「さては無子細武蔵守を討てげり。多年の本意今日已達しぬ。是を見よや人々。」とて、此頚を中に投上ては請取、請取ては手玉についてぞ悦ける。楠が弟次郎走寄て、「何にやあたら首の損じ候に、先旗の蝉本に著て敵御方の者共に見せ候はん。」と云て、太刀の鋒に指貫差上て是を見るに、「師直には非ず、上山六郎左衛門が首也。」と申ければ、大に腹立して、此頭を投て、「上山六郎左衛門とみるはひが目か、汝は日本一の剛の者哉。我君の御為に無双の朝敵也。乍去余に剛にみへつるがやさしさに、自余の頭共には混ずまじきぞ。」とて、著たる小袖の片袖を引切て、此首を押裹で岸の上にぞ指置たる。鼻田弥次郎膝口を被射、すくみ立たりけるが、「さては師直未討れざりけり。安からぬ者哉。師直何くにか有らん。」と云声を力にして、内甲にからみたる鬢の髪を押のけ、血眼に成て遥に北の方を見るに、輪違の旗一流打立て、清げなる老武者を大将として七八十騎が程控へたり。「何様師直と覚る。いざ蒐らん。」と云処に、和田新兵衛鎧の袖を引へて、「暫思様あり。余に勇み懸て大事の敵を打漏すな。敵は馬武者也。我等は徒立也。追ば敵定て可引。ひかば何として敵を可打取。事の様を安ずるに、我等怺へで引退く真似をせば、此敵、気に乗て追蒐つと覚るぞ。敵を近々と引寄て、其中に是ぞ師直と思はん敵を、馬の諸膝薙で切居へ、落る処にて細頚打落し、討死せんと思ふは如何に。」と云ければ、被打残たる五十余人の兵共、「此義可然。」と一同して、楯を後に引かづき、引退く体をぞみせたりける。師直思慮深き大将にて、敵の忻て引処を推して、些も馬を動かさず。高播磨守西なる田中に三百余騎にて控たるが、是を見て引敵ぞと心得て、一人も余さじと追蒐たり。元来剛なる和田・楠が兵なれば、敵の太刀の鋒の鎧の総角、甲の錣二つ三つ打あたる程近付て、一同に咄と喚て、礒打波の岩に当て返るが如取て返し、火出る程ぞ戦ひける。高播磨守が兵共、可引帰程の隙もなければ、矢庭に討るゝ者五十余人、散々に切立られて、馬をかけ開て逃けるが、本陣をも馳過て、二十余町ぞ引たりける。
○楠正行最期事 S2603
去程に師直と楠とが間、一町許に成にけり。是ぞ願ふ処の敵よと見澄して、魯陽二度白骨を連て韓構に戦ける心も、是には過じと勇悦て、千里を一足に飛て懸らんと、心許は早りけれども、今朝の巳刻より申時の終まで、三十余度の戦に、息絶気疲るゝのみならず、深手浅手負ぬ者も無りければ、馬武者を追攻て可討様ぞ無りける。され共多の敵共四角八方へ追散て、師直七八十騎にて控たれば、何程の事か可有と思ふ心を力にて、和田・楠・野田・関地良円・河辺石掬丸、我先我先とぞ進たる。余に辞理なく懸られて、師直已引色に見へける処に、九国の住人須々木四郎とて、強弓の矢つぎ早、三人張に十三束二伏、百歩に柳の葉を立て、百矢をはづさぬ程の射手の有けるが、人の解捨たる箙、竹尻篭・■を掻抱く許取集て、雨の降が如く矢坪を指てぞ射たりける。一日著暖たる物具なれば、中と当る矢、箆深に立ぬは無りけり。楠次郎眉間ふえのはづれ射られて抜程の気力もなし。正行は左右の膝口三所、右のほう崎、左の目尻、箆深に射られて、其矢、冬野の霜に臥たるが如く折懸たれば、矢すくみに立てはたらかず。其外三十余人の兵共、矢三筋四筋射立られぬ者も無りければ、「今は是までぞ。敵の手に懸るな。」とて、楠兄弟差違へ北枕に臥ければ、自余の兵三十二人、思々に腹掻切て、上が上に重り臥す。和田新発意如何して紛れたりけん、師直が兵の中に交りて、武蔵守に差違て死んと近付けるを、此程河内より降参したりける湯浅本宮太郎左衛門と云ける者、是を見知て、和田が後へ立回、諸膝切て倒所を、走寄て頚を掻んとするに、和田新発意朱を酒きたる如くなる大の眼を見開て、湯浅本宮をちやうど睨む。其眼終に塞ずして、湯浅に頭をぞ取られける。大剛の者に睨まれて、湯浅臆してや有けん、其日より病付て身心悩乱しけるが、仰けば和田が忿たる顔天に見へ、俯けば新発意が睨める眼地に見へて、怨霊五体を責しかば、軍散じて七日と申に、湯浅あがき死にぞ死にける。大塚掃部助手負たりけるが、楠猶跡に有共しらで、放馬の有けるに打乗て、遥に落延たりけるが、和田・楠討れたりと聞て、只一騎馳帰、大勢の中へ蒐入て、切死にこそ死にけれ。和田新兵衛正朝は、吉野殿に参て事の由を申さんとや思けん、只一人鎧一縮して、歩立に成て、太刀を右の脇に引側め、敵の頚一つ取て左の手に提て、東条の方へぞ落行ける。安保肥前守忠実只一騎馳合て、「和田・楠の人々皆自害せられて候に、見捨て落られ候こそ無情覚候へ。返され候へ。見参に入らん。」と詞を懸ければ、和田新兵衛打笑て、「返に難き事か。」とて、四尺六寸の太刀の貝しのぎに、血の著たるを打振て走懸る。忠実一騎相の勝負叶はじとや思けん、馬をかけ開て引返す。忠実留れば正朝又落、落行ば忠実又追懸、々々れば止り、一里許を過る迄、互不討不被討して日已に夕陽に及ばんとす。斯る処に青木次郎・長崎彦九郎二騎、箙に矢少し射残して馳来る。新兵衛を懸のけ/\射ける矢に、草摺の余引合の下、七筋まで射立られて、新兵衛遂に忠実に首をば取れにけり。総て今日一日の合戦に、和田・楠が兄弟四人、一族二十三人、相順ふ兵百四十三人、命を君臣二代の義に留めて、名を古今無双の功に残せり。先年奥州の国司顕家卿、安部野にて討れ、武将新田左中将義貞朝臣、越前にて亡し後は、遠国に宮方の城郭少々有といへ共、勢未振はざれば今更驚に不足。唯此楠許こそ、都近き殺所に威を逞くして、両度まで大敵を靡かせぬれば、吉野の君も、魚の水を得たる如く叡慮を令悦、京都の敵も虎の山に靠恐懼を成れつるに、和田・楠が一類皆片時に亡びはてぬれば、聖運已に傾ぬ。武徳誠に久しかるべしと、思はぬ人も無りけり。
○芳野炎上事 S2604
去程に楠が館をも焼払ひ、吉野の君をも可奉取とて、越後守師泰六千余騎にて、正月八日和泉の堺の浦を立て、石川河原に先向城をとる。武蔵守師直は、三万余騎の勢を卒して、同十四日平田を立て、吉野の麓へ押寄する。其勢已に吉野郡に近付ぬと聞へければ、四条中納言隆資卿、急ぎ黒木の御所に参て、「昨日正行已に討れ候。又明日師直皇居へ襲来仕由聞へ候。当山要害の便稀にして、可防兵更に候はず。今夜急ぎ天河の奥加納の辺へ御忍候べし。」と申て、三種の神器を内侍典司に取出させ、寮の御馬を庭前に引立たれば、主上は万づ思食分たる方なく、夢路をたどる心地して、黒木の御所を立出させ給へば、女院・皇后・准后・内親王・宮々を始進せて、内侍・上童・北政所・月卿雲客・郎吏・従官・諸寮の頭・八省の輔・僧正・僧都・児・房官に至るまで、取物も不取敢、周章騒ぎ倒れ迷て、習はぬ道の岩根を歩み、重なる山の雲を分て、吉野の奥へ迷入る。思へば此山中とても、心を可留所ならねども、年久住狎ぬる上、行末は猶山深き方なれば、さこそは住うからめと思遣に付ても、涙は袖にせき敢ず。主上勝手の宮の御前を過させ給ひける時、寮の御馬より下させ給て、御泪の中に一首かくぞ思召つゞけさせ給ひける。憑かひ無に付ても誓ひてし勝手の神の名こそ惜けれ異国の昔は、唐の玄宗皇帝、楊貴妃故に安禄山に傾られて、蜀の剣閣山に幸なる。我朝の古は、清見原の天皇、大友の宮に襲はれて、此吉野山に隠給き。是皆逆臣暫世を乱るといへども、終には聖主大化を施されし先蹤なれば、角てはよも有はてじと思食准る方は有ながら、貴賎男女周章騒で、「こはそも何くにか暫の身をも可隠。」と、泣悲む有様を御覧ぜらるゝに、叡襟更に無休時。去ほどに武蔵守師直、三万余騎を卒して吉野山に押寄せ、三度時の声を揚たれ共、敵なければ音もせず。さらば焼払へとて、皇居並卿相雲客の宿所に火を懸たれば、魔風盛に吹懸て、二丈一基の笠鳥居・二丈五尺の金の鳥居・金剛力士の二階の門・北野天神示現の宮・七十二間の回廊・三十八所の神楽屋・宝蔵・竃殿・三尊光を和げて、万人頭を傾る金剛蔵王の社壇まで、一時に灰燼と成ては、烟蒼天に立登る。浅猿かりし有様也。抑此北野天神の社壇と申は、承平四年八月朔日に、笙の岩屋の日蔵上人頓死し給たりしを、蔵王権現左の御手に乗せ奉て、炎魔王宮に至給ふに、第一の冥官、一人の倶生神を相副て、此上人に六道を見せ奉る。鉄窟苦所と云所に至て見給ふに、鉄湯中に玉冠を著て天子の形なる罪人あり。手を揚て上人を招給ふ。何なる罪人ならんと怪て立寄て見給へば、延喜の帝にてぞ御座しける。上人御前に跪て、「君御在位の間、外には五常を正して仁義を専にし、内には五戒を守て慈悲を先とし御坐しかば、何なる十地等覚の位にも到らせ給ぬらんとこそ存候つるに、何故に斯る地獄には堕させ給候やらん。」と尋申されければ、帝は御涙を拭はせ給て、「吾在位の間、万機不怠撫民治世しかば、一事も誤る事無りしに、時平が讒を信じて、無罪菅丞相を流したる故に、此地獄に堕たり。上人今冥途に趣給ふといへ共、非業なれば蘇生すべし。朕上人と師資の契不浅、早娑婆に帰給はゞ、菅丞相の廟を建て化導利生を専にし給べし。さてぞ朕が此苦患をば可免。」と、泣々勅宣有けるを、上人具に承て、堅領状申と思へば、中十二日と申に、上人生出給にけり。冥土にて正く勅を承りし事なればとて、則吉野山に廟を建、利生方便を施し給し天神の社壇是也。蔵王権現と申は、昔役優婆塞済度利生の為に金峯山に一千日篭て、生身の薩■を祈給しに、此金剛蔵王、先柔和忍辱の相を顕し、地蔵菩薩の形にて地より涌出し玉ひたりしを、優婆塞頭を掉て、未来悪世の衆生を済度せんとならば、加様の御形にては叶まじき由を被申ければ、則伯耆の大山へ飛去給ぬ。其後忿怒の形を顕し、右の御手には三鈷を握て臂をいらゝげ、左の御手には五指を以て御腰を押へ玉ふ。一睨大に忿て魔障降伏の相を示し、両脚高く低て天地経緯の徳を呈し玉へり。示現の貌尋常の神に替て、尊像を錦帳の中に鎖されて、其涌出の体を秘せん為に、役の優婆塞と天暦の帝と、各手自二尊を作副て三尊を安置し奉玉ふ。悪愛を六十余州に示して、彼を是し此を非し、賞罰を三千世界に顕して、人を悩し物を利す。総て神明権迹を垂て七千余坐、利生の新なるを論ずれば、無二亦無三の霊験也。斯る奇特の社壇仏閣を一時に焼払ぬる事誰か悲を含まざらん。されば主なき宿の花は、只露に泣ける粧をそへ、荒ぬる庭の松までも、風に吟ずる声を呑。天の忿り何れの処にか帰せん。此悪行身に留らば、師直忽に亡なんと、思はぬ人は無りけり。
○賀名生皇居事 S2605
貞和五年正月五日、四条縄手の合戦に、和田・楠が一族皆亡びて、今は正行が舎弟次郎左衛門正儀許生残たりと聞へしかば、此次に残る所なく、皆退治せらるべしとて、高越後守師泰三千余騎にて、石河々原に向城を取て、互に寄つ被寄つ、合戦の止隙もなし。吉野の主上は、天の河の奥賀名生と云所に僅なる黒木の御所を造りて御座あれば、彼唐尭虞舜の古へ、茅茨不剪柴椽不削、淳素の風も角やと思知れて、誠なる方も有ながら、女院皇后は、柴葺庵のあやしきに、軒漏雨を禦ぎかね、御袖の涙ほす隙なく、月卿雲客は、木の下岩の陰に松葉を葺かけ、苔の筵を片敷て、身を惜く宿とし給へば、高峯の嵐吹落て、夜の衣を返せども、露の手枕寒ければ、昔を見する夢もなし。況乎其郎従眷属たる者は、暮山の薪を拾ては、雪を戴くに膚寒く、幽谷の水を掬では、月を担ふに肩やせたり。角ては一日片時も有ながらへん心地もなけれ共、さすがに消ぬ露の身の命あらばと思ふ世に、憑を懸てや残るらん。
○執事兄弟奢侈事 S2606
夫富貴に驕り功に侈て、終を不慎は、人の尋常皆ある事なれば、武蔵守師直今度南方の軍に打勝て後、弥心奢り、挙動思ふ様に成て、仁義をも不顧、世の嘲弄をも知ぬ事共多かりけり。常の法には、四品以下の平侍武士なんどは、関板打ぬ舒葺の家にだに居ぬ事にてこそあるに、此師直は一条今出川に、故兵部卿親王の御母堂、宣旨の三位殿の住荒し給ひし古御所を点じて、棟門唐門四方にあけ、釣殿・渡殿・泉殿、棟梁高造り双て、奇麗の壮観を逞くせり。泉水には伊勢・島・雑賀の大石共を集たれば、車輾て軸を摧き、呉牛喘て舌を垂る。樹には月中の桂・仙家の菊・吉野の桜・尾上の松・露霜染し紅の八しほの岡の下紅葉・西行法師が古枯葉の風を詠たりし難波の葦の一村・在原中将の東に旅に露分し宇津の山辺のつた楓、名所々々の風景を、さながら庭に集たり。又月卿雲客の御女などは、世を浮草の寄方無て、誘引水あらばと打佗ぬる折節なれば、せめてはさも如何せん。申も無止事宮腹など、其数を不知、此彼に隠置奉て、毎夜通ふ方多かりしかば、「執事の宮廻に、手向を受ぬ神もなし。」と、京童部なんどが咲種なり。加様の事多かる中にも、殊更冥加の程も如何がと覚てうたてかりしは、二条前関白殿の御妹、深宮の中に被冊、三千の数にもと思召たりしを、師直盜出し奉て、始は少し忍たる様なりしが、後は早打顕れたる振舞にて、憚る方も無りけり。角て年月を経しかば、此御腹に男子一人出来て、武蔵五郎とぞ申ける。さこそ世の末ならめ。忝も大織冠の御末太政大臣の御妹と嫁して、東夷の礼なきに下らせ給ふ。浅猿かりし御事なり。是等は尚も疎か也。越後守師泰が悪行を伝聞こそ不思議なれ。東山の枝橋と云所に、山庄を造らんとて、此地の主を誰ぞと問に、北野の長者菅宰相在登卿の領地也と申ければ、軈て使者を立て、此所を可給由を所望しけるに、菅三位、使に対面して、「枝橋の事御山庄の為に承候上は、子細あるまじきにて候。但当家の父祖代々此地に墳墓を卜て、五輪を立、御経を奉納したる地にて候へば、彼墓じるしを他所へ移し候はむ程は、御待候べし。」とぞ返事をしたりける。師泰是を聞て、「何条其人惜まんずる為にぞ、左様の返事をば申らん。只其墓共皆掘崩して捨よ。」とて、軈て人夫を五六百人遣て、山を崩し木を伐捨て地を曳に、塁々たる五輪の下に、苔に朽たる尸あり。或は■々たる断碑の上、雨に消たる名もあり。青塚忽に破て白楊已に枯ぬれば、旅魂幽霊何くにか吟ふらんと哀也。是を見て如何なるしれ者か仕たりけん、一首の歌を書て引土の上にこそ立たりける。無人のしるしの率都婆堀棄て墓なかりける家作哉越後守此落書を見て、「是は何様菅三位が所行と覚るぞ。当座の口論に事を寄て差殺せ。」とて、大覚寺殿の御寵童に吾護殿と云ける大力の児を語て、無是非菅三位を殺させけるこそ不便なれ。此人聖廟の祠官として文道の大祖たり。何事の神慮に違ひて、無実の死刑に逢ぬらん。只是魏の弥子瑕が鸚鵡州の土に埋まれし昔の悲に相似たり。又此山庄を造りける時、四条大納言隆陰卿の青侍大蔵少輔重藤・古見源左衛門と云ける者二人此地を通りけるが、立寄て見るに、地を引人夫共の汗を流し肩を苦しめて、休む隙なく仕はれけるを見て、「穴かはゆや、さこそ卑しき夫也とも、是程までは打はらず共あれかし。」と慙愧してぞ過行ける。作事奉行しける者の中間是を聞て、「何者にて候哉覧、爰を通る本所の侍が、浩ける事を申て過候つる。」と語りければ、越後守大に忿て、「安き程の事哉。夫を労らば、しやつ原を仕ふべし。」とて、遥に行過たりけるを呼返して、夫の著たるつゞりを着替させ、立烏帽子を引こませて、さしも熱き夏の日に、鋤を取ては土を掻寄させ石を掘ては■にて運ばせ、終日に責仕ひければ、是を見る人々皆爪弾をし、「命は能惜き者哉、恥を見んよりは死ねかし。」と、云はぬ人こそ無りけれ。是等は尚し少事也。今年石河川原に陣を取て、近辺を管領せし後は、諸寺諸社の所領、一処も本主に不充付、殊更天王寺の常燈料所の庄を押へて知行せしかば、七百年より以来一時も更に不絶仏法常住の灯も、威光と共に消はてぬ。又如何なる極悪の者か云出しけん。「此辺の塔の九輪は太略赤銅にてあると覚る。哀是を以て鑵子に鋳たらんに何によからんずらん。」と申けるを、越後守聞てげにもと思ければ、九輪の宝形一下て、鑵子にぞ鋳させたりける。げにも人の云しに不差。膚■無くして磨くに光冷々たり。芳甘を酌てたつる時、建渓の風味濃也。東坡先生が人間第一の水と美たりしも、此中よりや出たりけん。上の好む所に下必随ふ習なれば、相集る諸国の武士共、是を聞傅て、我劣らじと塔の九輪を下て、鑵子を鋳させける間、和泉・河内の間、数百箇所の塔婆共一基も更に直なるはなく、或は九輪を被下、ます形許あるもあり。或は真柱を切れて、九層許残るもあり。二仏の並座瓔珞を暁の風に漂はせ、五智の如来は烏瑟を夜の雨に潤せり。只守屋の逆臣二度此世に生れて、仏法を亡さんとするにやと、奇き程にぞ見へたりける。
○上杉畠山讒高家事付廉頗藺相如事 S2607
此時上杉伊豆守重能・畠山大蔵少輔直宗と云人あり。才短にして、官位人よりも高からん事を望み、功少して忠賞世に超ん事を思しかば、只師直・師泰が将軍御兄弟の執事として、万づ心に任せたる事を猜み、境節に著ては吹毛の咎を争て、讒を構る事無休時。されども将軍も左兵衛督も、執事兄弟無ては、誰か天下の乱を静むる者可有と、異于他被思ければ、少々の咎をば耳にも不聞入給、只佞人讒者の世を乱らん事を悲まる。夫天下を取て、世を治る人には、必賢才輔弼の臣下有て、国の乱を鎮め君の誤を正す者也。所謂■尭の八元・舜の八凱・周の十乱・漢の三傑・世祖の二十八将・太宗の十八学士皆禄厚く官高しといへ共、諸に有て争ふ心ろ無りしかば、互に非を諌め国をしづめて、只天下の無為ならん事をのみ思へり。是をこそ呼で忠臣とは申に、今高・上杉の両家中悪くして、動もすれば得失を差て其権を奪はんと、心に挿て思へる事、豈忠烈を存ずる人とせんや。言長して聞に懈ぬべしといへ共、暫譬を取て愚なる事を述るに、昔異朝に卞和と申ける賎き者、楚山に畑を打けるが、廻り一尺に余れる石の磨かば玉に可成を求得たり。是私に可用物に非ず、誰にか可奉と人を待ける処に、楚の武王楚山に御狩をし給ひけるに、卞和此石を奉て、「是は世に無類程の玉にて候べし。琢かせて御覧候べし。」とぞ申ける。武王大に悦て、則玉磨を召て是を被磨に、光更無りければ、玉磨、「是は玉にては候はず、只尋常の石にて候也。」とぞ奏しける。武王大に忿て、「さては朕を欺ける者也。」とて、卞和を召出して其左の足を切て、彼石を背に負せて楚山にこそ被追放けれ。卞和無罪して此刑に合へる事を歎て、楚山の中に草庵を結て、此石を乍負、世に玉を知人のなき事をのみ悲で、年月久く泣居たり。其後三年有て武王隠れ給しが、御子文王の御代に成て、文王又或時楚山に狩をし給ふに、草庵の中に人の泣声あり。文王怪て泣故を問給へば、卞和答て申さく、「臣昔此山に入て畑を打し時一の石を求得たり。是世に無類程の玉なる間、先朝武王に奉りたりしを、玉磨き見知らずして、只石にて候と申たりし間、我左の足を被斬進せて不慮の刑に逢候き、願は此玉を君に献じて、臣が無罪所を顕し候はん。」と申ければ、文王大に悦て、此石を又或玉琢にぞ磨かせられける。是も又不見知けるにや、「是全く玉にては候はず。」と奏しければ、文王又大に忿て、卞和が右の足を切せて楚山の中にぞ被棄ける。卞和両足を切られて、五体苦を逼しか共、只二代の君の眼拙き事をのみ悲で、終に百年の身の死を早くせん事を不痛、落る涙の玉までも血の色にぞ成にける。角て二十余年を過けるに、卞和尚命強面して、石を乍負、只とことはに泣居たり。去程に文王崩じ給て太子成王の御代に成にけり。成王又或時楚山に狩し給けるに、卞和尚先にもこりず、草庵の内より這出て、二代の君に二の足を切れし故を語て、泣々此石を成王に奉りける。成王則玉磨きを召て、是を琢かせらるゝに、其光天地に映徹して、無双玉に成にけり。是を行路に懸たるに、車十七両を照しければ、照車の玉共名付け、是を宮殿にかくるに、夜十二街を耀かせば、夜光の玉とも名付たり。誠に天上の摩尼珠・海底の珊瑚樹も、是には過じとぞ見へし。此玉代代天子の御宝と成て、趙王の代に伝る。趙王是を重じて、趙璧と名を替て、更に身を放ち給はず。学窓に蛍を聚ね共書を照す光不暗、輦路に月を不得共路を分つ影明也。此比天下大に乱て、諸侯皆威あるは弱きを奪ひ、大なるは小を亡す世に成にけり。彼趙国の傍に、秦王とて威勢の王坐けり。秦王此趙璧の事を伝聞て、如何にもして奪取ばやとぞ被巧ける。異国には会盟とて隣国の王互に国の堺に出合て、羊を殺して其血をすゝり、天神地祇に誓て、法を定め約を堅して交りを結ぶ事あり。此時に隣国に見落されぬれば、当座にも後日にも国を傾けられ、位を奪るゝ事ある間、互に賢才の臣、勇猛の士を召具して才を■べ武を争習也。或時秦王会盟可有とて、趙王に触送る。趙王則日を定て国の堺へぞ出合ひける。会盟事未定血未啜先に、秦王宴を儲て楽を奏し酒宴終日に及べり。酒酣にして秦王盃を挙給ふ時、秦の兵共酔狂せる真似をして、座席に進出て、目を瞋し臂を張て、「我君今興に和して盃を傾むとし給ふ。趙王早く瑟を調て寿をなし給へ。」とぞいらで申ける。趙王若辞せば、秦の兵の為に殺されぬと見へける間、趙王力なく瑟を調べ給ふ。君の傍には必左史右史とて、王の御振舞と言とを註し留る人あり。時に秦の左太史筆を取て、秦趙両国の会盟に、先有酒宴、秦王盃を挙給ふ時、趙王自為寿、調瑟とぞ書付ける。趙王後記に留りぬる事心憂しと被思けれ共、すべき態なければ力なし。盃回て趙王又飲給ひける時に、趙王の臣下に、始て召仕はれける藺相如と云ける者秦王の前に進出て、剣を拉き臂をいらゝげて、「我王已に秦王の為に瑟を調ぬ。秦王何ぞ我王の為に寿を不為べき。秦王若此事辞し給はゞ、臣必ず君王の座に死すべし。」と申て、誠に思切たる体をぞ見せたりける。秦王辞するに言無ければ自ら立て寿をなし、缶を打舞給ふ。則趙の左大史進出て、其年月の何日の日秦趙両国の会盟あり。趙王盃を挙給ふ時、秦王自ら酌を取て缶を打畢ぬと、委細の記録を書留て、趙王の恥をぞ洗ける。右て趙王帰らんとし給ける時、秦王傍に隠せる兵二十万騎、甲胄を帯して馳来れり。秦王此兵を差招て、趙王に向て宣けるは、「卞和が夜光の玉、世に無類光ありと伝承る。願は此玉を給て、秦の十五城を其代に献ぜん。君又玉を出し給はずは、両国の会盟忽に破て永く胡越を隔る思をなすべし。」とぞをどされける。異国の一城と云は方三百六十里也。其を十五合せたらん地は宛二三箇国にも及べし。縦又玉を惜て十五城に不替共、今の勢にては無代に奪れぬべしと被思ければ、趙王心ならず十五城に玉を替て、秦王の方へぞ被出ける。秦王是を得て後十五城に替たりし玉なればとて、連城の玉とぞ名付ける。其後趙王たび/\使を立て、十五城を被乞けれ共秦王忽約を変て、一城をも不出、玉をも不被返、只使を欺き礼を軽して、返事にだにも及ばねば、趙王玉を失ふのみならず、天下の嘲り甚し。爰に彼藺相如、趙王の御前に参て、「願は君臣に被許ば、我秦王の都に行向て、彼玉を取返して君の御憤を休め奉るべし。」と申ければ、趙王、「さる事やあるべき、秦は已国大に兵多して、我が国の力及がたし。縦兵を引て戦を致す共、争か此玉を取返事を得んや。」と宣ひければ、藺相如、「兵を引力を以て玉を奪はんとには非ず。我秦王を欺て可取返謀候へば、只御許容を蒙て、一人罷向べし。」と申ければ、趙王猶も誠しからず思給ながら、「さらば汝が意に任すべし。」とぞ被許ける。藺相如悦て、軈て秦国へ越けるに、兵の一人も不召具、自ら剣戟をも不帯、衣冠正しくして車に乗専使の威儀を調て、秦王の都へぞ参ける。宮門に入て礼儀をなし、趙王の使に藺相如、直に可奏事有て参たる由を申入ければ、秦王南殿に出御成て、則謁を成し給ふ。藺相如畏て申けるは、「先年君王に献ぜし夜光の玉に、隠れたる瑕の少し候を、角共知せ進せで進置候し事、第一の越度にて候。凡玉の瑕をしらで置ぬれば、遂に主の宝に成らぬ事にて候間、趙王臣をして此玉の瑕を君に知せ進らせん為に参て候也。」と申ければ、秦王悦て彼玉を取出し、玉盤の上にすへて、藺相如が前に被置たり。藺相如、此玉を取て楼閣の柱に押あて、剣を抜て申けるは、「夫君子は食言せず、約の堅き事如金石。抑趙王心あきたらずといへ共、秦王強て十五城を以て此玉に替給ひき。而に十五城をも不被出、又玉をも不被返、是盜跖が悪にも過、文成が偽にも越たり。此玉全く瑕あるに非ず。只臣が命を玉と共に砕て、君王の座に血を淋がんと思ふ故に参て候也。」と忿て、玉と秦王とをはたと睨み、近づく人あらば、忽玉を切破て、返す刀に腹を切らんと、誠に思切たる眼ざし事がら、敢て可遮留様も無りけり。王秦あきれて言なく、群臣恐れて不近付。藺相如遂に連城の玉を奪取て、趙の国へぞ帰りにける。趙王玉を得て悦び給ふ事不斜。是より藺相如を賞翫せられて、大禄を与へ、高官を授給しかば、位外戚を越、禄万戸に過たり。軈て牛車の宣旨を蒙り、宮門を出入するに、時の王侯貴人も、目を側て皆道を去る。爰に廉頗将軍と申ける趙王の旧臣、代々功を積み忠を重て、我に肩を双ぶべき者なしと思けるが、忽に藺相如に権を被取、安からぬ事に思ければ、藺相如が参内しける道に三千余騎を構へて是を討んとす。藺相如も勝たる兵千余騎を召具して、出仕しけるが、遥に廉頗が道にて相待体を見て戦むともせず、車を飛せ兵を引て己が館へぞ逃去ける。廉頗が兵是を見て、「さればこそ藺相如、勢ひ只他の力をかる者也。直に戦を決せん事は、廉頗将軍の小指にだにも及ばじ。」と、笑欺ける間、藺相如が兵心憂事に思て、「さらば我等廉頗が館へ押寄せ、合戦の雌雄を決して、彼輩が欺を防がん。」とぞ望ける。藺相如是を聞て、其兵に向て涙を流て申けるは、「汝等未知乎、両虎相闘て共に死する時、一狐其弊に乗て是を咀と云譬あり。今廉頗と我とは両虎也。戦ば必ず共に死せん。秦の国は是一狐也。弊に乗て趙をくらはんに、誰か是をふせがん。此理を思う故に、我廉頗に戦ん事を不思一朝の欺を恥て、両国の傾ん事を忘れば、豈忠臣にあらん哉。」と、理を尽して制しければ、兵皆理に折れて、合戦の企を休てけり。廉頗又此由を聞て黙然として大に恥けるが、尚我が咎を直に謝せん為に、杖を背に負て、藺相如が許に行、「公が忠貞の誠を聞て我が霍執の心を恥づ、願は公我を此杖にて三百打給へ、是を以て罪を謝せん。」と請て、庭に立てぞ泣居たりける。藺相如元来有義無怨者なりければ、なじかは是を可打。廉頗を引て堂上に居へ、酒を勧め交を深して返しけるこそやさしけれ。されば趙国は秦・楚に挟て、地せばく兵少しといへども、此二人文を以て行ひ、武を以て専にせしかば、秦にも楚にも不被傾、国家を持つ事長久也。誠に私を忘て忠を存する人は加様にこそ可有に、東夷南蛮は如虎窺ひ、西戎北狄は如竜見る折節、高・上杉の両家、差たる恨もなく、又とがむべき所もなきに、権を争ひ威を猜て、動れば確執に及ばんと互に伺隙事豈忠臣と云べしや。
○妙吉侍者事付秦始皇帝事 S2608
近来左兵衛督直義朝臣、将軍に代て天下の権を取給し後、専ら禅の宗旨に傾て夢窓国師の御弟子と成り、天竜寺を建立して陞座拈香の招請無隙、供仏施僧の財産不驚目云事無りけり。爰に夢窓国師の法眷に、妙吉侍者と云ける僧是を見て浦山敷事に思ひければ、仁和寺に志一房とて外法成就の人の有けるに、荼祇尼天の法を習て三七日行ひけるに、頓法立に成就して、心に願ふ事の聊も不叶云事なし。是より夢窓和尚も此僧を以て一大事に思ふ心著給ひにければ、左兵衛督の被参たりける時、和尚宣けるは、「日夜の参禅、学道の御為に候へば、如何にも懈る処をこそ勧め申べく候へ共、行路程遠して、往還の御煩其恐候へば、今より後は、是に妙吉侍者と申法眷の僧の候を参らせ候べし。語録なんどをも甲斐々々敷沙汰し、祖師の心印をも直に承当し候はんずる事、恐らくは可恥人も候はねば、我に不替常に御相看候て御法談候べし。」とて、則妙吉侍者を左兵衛督の方へぞ被遣ける。直義朝臣一度此僧を見奉りしより、信心胆に銘じ、渇仰無類ければ、只西天祖達磨大師、二度我国に西来して、直指人心の正宗を被示かとぞ思はれける。軈一条堀川村雲の反橋と云所に、寺を立て宗風を開基するに、左兵衛督日夜の参学朝夕の法談無隙ければ、其趣に随はん為に山門寺門の貫主、宗を改めて衣鉢を持ち、五山十刹の長老も風を顧て吹挙を臨む。況乎卿相雲客の交り近づき給ふ有様、奉行頭人の諛たる体、語るに言も不可及。車馬門前に立列僧俗堂上に群集す。其一日の布施物一座の引手物なんど集めば、如山可積。只釈尊出世の其古、王舎城より毎日五百の車に色々の宝を積で、仏に奉り給ひけるも、是には過じとぞ見へたりける。加様に万人崇敬類ひ無りけれ共、師直・師泰兄弟は、何条其僧の知慧才学さぞあるらんと欺て一度も更不相看、剰へ門前を乗打にして、路次に行逢時も、大衣を沓の鼻に蹴さする体にぞ振舞ける。吉侍者是を見て安からぬ事に思ければ、物語の端、事の次には、只執事兄弟の挙動、穏便ならぬ者哉と云沙汰せられけるを聞て、上杉伊豆守、畠山大蔵少輔、すはや究竟の事こそ有けれ。師直・師泰を讒し失はんずる事は、此僧にまさる人非じと被思ければ、軈て交を深し媚を厚して様々讒をぞ構へける。吉侍者も元来悪しと思ふ高家の者共の挙動なれば、触事彼等が所行の有様、国を乱り政を破る最たりと被讒申事多かりけり。中にも言ば巧に譬のげにもと覚る事ありけるは、或時首楞厳経の談義已に畢て異国本朝の物語に及ける時、吉侍者、左兵衛督に向て被申けるは、「昔秦の始皇帝と申ける王に、二人の王子坐けり。兄をば扶蘇、弟をば胡亥とぞ申ける。扶蘇は第一の御子にて御座か共、常に始皇帝の御政の治らで、民をも愍まず仁義を専にし給はぬ事を諌申されける程に、始皇帝の叡慮に逆てさしもの御覚へも無りけり。第二の御子胡亥は、寵愛の后の腹にて御座する上、好驕悪賢、悪愛異于他して常に君の傍を離れず、趙高と申ける大臣を執政に被付、万事只此計ひにぞ任せられける。彼秦の始皇と申は、荘襄王の御子也しが、年十六の始め魏の畢万、趙の襄公・韓の白宣・斉の陳敬仲・楚王・燕王の六国を皆滅して天下を一にし給へり。諸侯を朝せしめ四海を保てる事、古今第一の帝にて御坐かば、是をぞ始て皇帝とは可申とて、始皇とぞ尊号を献りける。爰に昔洪才博学の儒者共が、五帝三王の迹を追ひ、周公・孔子の道を伝て、今の政古へに違ぬと毀申事、只書伝の世にある故也とて、三墳五典史書全経、総て三千七百六十余巻、一部も天下に不残、皆焼捨られけるこそ浅猿けれ。又四海の間に、宮門警固の武士より外は、兵具を不可持、一天下の兵共が持処の弓箭兵仗一も不残集て是を焼棄て、其鉄を以て長十二丈金人十二人を鋳させて、湧金門にぞ被立ける。加様の悪行、聖に違ひ天に背きけるにや、邯鄲と云所へ、天より災を告る悪星一落て、忽に方十二丈の石となる。面に一句の文字有て、秦の世滅て漢の代になるべき瑞相を示したりける。始皇是を聞給て、「是全く天のする所に非ず、人のなす禍也。さのみ遠き所の者はよも是をせじ四方十里が中を不可離。」とて、此石より四方十里が中に居たる貴賎の男女一人も不残皆首を被刎けるこそ不便なれ。東南には函谷二■の嶮を峙て、西北には洪河■渭の深を遶らして、其中に回三百七十里高さ三里の山を九重に築上て、口六尺の銅柱を立、天に鉄の網を張て、前殿四十六殿・後宮三十六宮・千門万戸とをり開き、麒麟列鳳凰相対へり。虹の梁金の鐺、日月光を放て楼閣互に映徹し、玉の砂・銀の床、花柳影を浮て、階闥品々に分れたり。其居所を高し、其歓楽を究給ふに付ても、只有待の御命有限事を歎給ひしかば、如何して蓬莱にある不死の薬を求て、千秋万歳の宝祚を保たんと思給ひける処に、徐福・文成と申ける道士二人来て、我不死の薬を求る術を知たる由申ければ、帝無限悦給て、先彼に大官を授けて、大禄を与へ給ふ。軈て彼が申旨に任て、年未十五に不過童男丱女、六千人を集め、竜頭鷁首の舟に載せて、蓬莱の島をぞ求めける。海漫々として辺なし。雲の浪・烟の波最深く、風浩々として不閑、月華星彩蒼茫たり。蓬莱は今も古へも只名をのみ聞ける事なれば、天水茫々として求るに所なし。蓬莱を不見否や帰らじと云し童男丱女は、徒に舟の中にや老ぬらん。徐福文成其偽の顕れて、責の我身に来らんずる事を恐て、「是は何様竜神の成祟と覚候。皇帝自海上に幸成て、竜神を被退治候なば、蓬莱の島をなどか尋得ぬ事候べき。」と申ければ、始皇帝げにもとて、数万艘の大船を漕双べ、連弩とて四五百人して引て、同時に放つ大弓大矢を船ごとに持せられたり。是は成祟竜神、若海上に現じて出たらば、為射殺用意也。始皇帝已に之罘の大江を渡給ふ道すがら、三百万人の兵共、舷を叩き大皷を打て、時を作る声止時なし。礒山嵐・奥津浪、互に響を参へて、天維坤軸諸共に、絶へ砕ぬとぞ聞へける。竜神是にや驚き給けん。臥長五百丈計なる鮫大魚と云魚に変じて、浪の上にぞ浮出たる。頭は如師子遥なる天に延揚り、背は如竜蛇万頃の浪に横れり。数万艘の大船四方に漕分れて同時に連弩を放つに、数百万の毒の矢にて鮫大魚の身に射立ければ、此魚忽に被射殺、蒼海万里の波の色、皆血に成てぞ流れける。始皇帝其夜龍神と自戦ふと夢を見給たりけるが、翌日より重き病を請て五体暫も無安事、七日の間苦痛逼迫して遂に沙丘の平台にして、則崩御成にけり。始皇帝自詔を遺して、御位をば第一の御子扶蘇に譲り給たりけるを、趙高、扶蘇御位に即給ひなば、賢人才人皆朝家に被召仕、天下を我心に任する事あるまじと思ければ、始皇帝の御譲を引破て捨、趙高が養君にし奉りたる第二の王子胡亥と申けるに、代をば譲給たりと披露して、剰討手を咸陽宮へ差遣し、扶蘇をば討奉りてげり。角て、幼稚に坐する胡亥を二世皇帝と称して、御位に即奉り、四海万機の政、只趙高が心の侭にぞ行ひける。此時天下初て乱て、高祖沛郡より起り、項羽楚より起て、六国の諸侯悉秦を背く。依之白起・蒙恬、秦の将軍として戦といへ共、秦の軍利無して、大将皆討れしかば、秦又章邯を上将軍として重て百万騎の勢を差下し、河北の間に戦しむ。百般戦千般遭といへ共雌雄未決、天下の乱止時なし。爰に趙高、秦の都咸陽宮に兵の少き時を伺見て二世皇帝を討奉り、我世を取んと思ければ、先我が威勢の程を為知、夏毛の鹿に鞍を置て、「此馬に召れて御覧候へ。」と、二世皇帝にぞ奉りける。二世皇帝是を見給て、「是非馬、鹿也。」と宣ひければ趙高、「さ候はゞ、宮中の大臣共を召れて、鹿・馬の間を御尋候べし。」とぞ申ける。二世則百司千官公卿大臣悉く召集て、鹿・馬の間を問給ふ。人皆盲者にあらざれば、馬に非ずとは見けれ共、趙高が威勢に恐て馬也と申さぬは無りけり。二世皇帝一度鹿・馬の分に迷しかば、趙高大臣は忽に虎狼の心を挿めり。是より趙高、今は我が威勢をおす人は有らじと兵を宮中へ差遣し、二世皇帝を責奉るに、二世趙高が兵を見て、遁るまじき処を知給ければ、自剣の上に臥て、則御自害有てけり。是を聞て秦の将軍にて、漢・楚と戦ける章邯将軍も、「今は誰をか君として、秦の国をも可守。」とて、忽に降人に成て、楚の項羽の方へ出ければ、秦の世忽に傾て、高祖・項羽諸共に咸陽宮に入にけり。趙高世を奪て二十一日と申に、始皇帝の御孫子嬰と申しに被殺、子嬰は又楚項羽に被殺給しかば、神陵三月の火九重の雲を焦し、泉下多少の宝玉人間の塵と成にけり。さしもいみじかりし秦の世、二世に至て亡し事は、只趙高が侈の心より出来事にて候き。されば古も今も、人の代を保ち家を失ふ事は、其内の執事管領の善悪による事にて候。今武蔵守・越後守が振舞にては、世中静り得じとこそ覚て候へ。我被官の者の恩賞をも給り御恩をも拝領して、少所なる由を歎申せば、何を少所と歎給ふ。其近辺に寺社本所の所領あらば、堺を越て知行せよかしと下知す。又罪科有て所帯を被没収たる人以縁書執事兄弟に属し、「如何可仕。」と歎けば、「よし/\師直そらしらずして見んずるぞ。縦如何なる御教書也とも、只押へて知行せよ。」と成敗す。又正く承し事の浅猿しかりしは、都に王と云人のまし/\て、若干の所領をふさげ、内裏・院の御所と云所の有て、馬より下る六借さよ。若王なくて叶まじき道理あらば、以木造るか、以金鋳るかして、生たる院、国王をば何方へも皆流し捨奉らばやと云し言の浅猿さよ。一人天下に横行するをば、武王是を恥しめりとこそ申候。況乎己が身申沙汰する事をも諛人あれば改て非を理になし、下として上を犯す科、事既に重畳せり。其罪を刑罰せられずは、天下の静謐何れの時をか期し候べき。早く彼等を討せられて、上杉・畠山を執権として、御幼稚の若御に天下を保たせ進せんと思召す御心の候はぬや。」と、言を尽し譬を引て様々に被申ければ、左兵衛督倩事の由を聞給て、げにもと覚る心著給にけり。是ぞ早仁和寺の六本杉の梢にて、所々の天狗共が又天下を乱らんと様々に計りし事の端よと覚へたる。
○直冬西国下向事 S2609
先西国静謐の為とて、将軍の嫡男宮内大輔直冬を、備前国へ下さる。抑此直冬と申は、古へ将軍の忍て一夜通ひ給たりし越前の局と申女房の腹に出来たりし人とて、始めは武蔵国東勝寺の喝食なりしを、男に成て京へ上せ奉し人也。此由内々申入るゝ人有しか共、将軍曾許容し給はざりしかば、独清軒玄慧法印が許に所学して、幽なる体にてぞ住佗給ひける。器用事がら、さる体に見へ給ければ、玄慧法印事の次を得て左兵衛督に角と語り申たりけるに、「さらば、其人是へ具足して御渡候へ。事の様能々試て、げにもと思処あらば、将軍へも可申達。」と、始て直冬を左兵衛督の方へぞ被招引ける。是にて一二年過けるまでもなを将軍許容の儀無りけるを、紀伊国の宮方共蜂起の事及難義ける時、将軍始て父子の号を被許、右兵衛佐に補任して、此直冬を討手の大将にぞ被差遣ける。紀州暫静謐の体にて、直冬被帰参しより後、早、人々是を重じ奉る儀も出来り、時々将軍の御方へも出仕し給しか共、猶座席なんどは仁木・細川の人々と等列にて、さまで賞翫は未無りき。而るを今左兵衛督の計ひとして、西国の探題になし給ひければ、早晩しか人皆帰服し奉りて、付順ふ者多かりけり。備後の鞆に座し給て、中国の成敗を司どるに、忠ある者は不望恩賞を賜り、有咎者は不罰去其堺。自是多年非をかざりて、上を犯しつる師直・師泰が悪行、弥隠れも無りけり。


太平記
太平記巻第二十七

○天下妖怪事付清水寺炎上事 S2701
貞和五年正月の比より、犯星客星無隙現じければ旁其慎不軽。王位の愁天下の変、兵乱疫癘有べしと、陰陽寮頻に密奏す。是をこそ如何と驚処に、同二月二十六日夜半許に将軍塚夥しく鳴動して、虚空に兵馬の馳過る音半時許しければ、京中の貴賎不思議の思をなし、何事のあらんずらんと魂を冷す処に、明る二十七日午刻に、清水坂より俄に失火出来て、清水寺の本堂・阿弥陀堂・楼門・舞台・鎮守まで一宇も不残炎滅す。火災は尋常の事なれ共、風不吹大なる炎遥に飛去て、厳重の御祈祷所一時に焼失する事非直事。凡天下の大変ある時は、霊仏霊社の回禄定れる表事也。又同六月三日八幡の御殿、辰刻より酉時まで鳴動す。神鏑声を添て、王城を差て鳴て行。又同六月十日より太白・辰星・歳星の三星合て打続きしかば、不経月日大乱出来して、天子失位、大臣受災、子殺父、臣殺君、飢饉疫癘兵革相続、餓■満巷べしと天文博士注説す。又潤六月五日戌刻に、巽方と乾方より、電光耀き出て、両方の光寄合て如戦して、砕け散ては寄合て、風の猛火を吹上るが如く、余光天地に満て光る中に、異類異形の者見へて、乾の光退き行、巽の光進み行て互の光消失ぬ。此夭怪、如何様天下穏ならじと申合にけり。
○田楽事付長講見物事 S2702
今年多の不思議打続中に、洛中に田楽を翫ぶ事法に過たり。大樹是を被興事又無類。されば万人手足を空にして朝夕是が為に婬費す。関東亡びんとて、高時禅門好み翫しが、先代一流断滅しぬ。よからぬ事なりとぞ申ける。同年六月十一日抖薮の沙門有りけるが、四条橋を渡さんとて、新座本座の田楽を合せ老若に分て能くらべをぞせさせける。四条川原に桟敷を打つ。希代の見物なるべしとて貴賎の男女挙る事不斜、公家には摂禄大臣家、門跡は当座主梶井二品法親王、武家は大樹是を被興しかば、其以下の人々は不及申、卿相雲客諸家の侍、神社寺堂の神官僧侶に至る迄、我不劣桟敷を打。五六八九寸の安の郡などら鐫貫て、囲八十三間に三重四重に組上、物も夥しく要へたり。已時刻に成しかば、軽軒香車地を争ひ、軽裘肥馬繋に所なし。幔幕風に飛揚して、薫香天に散満す。新本の老若、東西に幄を打て、両方に橋懸りを懸たりける。楽屋の幕には纐纈を張、天蓋の幕は金襴なれば、片々と風に散満して、炎を揚るに不異。舞台に曲■縄床を立双べ、紅緑の氈を展布て、豹虎の皮を懸たれば、見に眼を照れて、心も空に成ぬるに、律雅調冷く、颯声耳を清処に、両方の楽屋より中門口の鼓を鳴し音取笛を吹立たれば、匂ひ薫蘭を凝し、粧ひ紅粉を尽したる美麗の童八人、一様に金襴の水干を著して、東の楽屋より練出たれば、白く清らかなる法師八人、薄化粧の金黒にて、色々の花鳥を織尽し、染狂たる水干に、銀の乱紋打たる下濃の袴に下結して拍子を打、あやい笠を傾け、西の楽屋よりきらめき渡て出たるは、誠に由々敷ぞ見へたりける。一の簓は本座の阿古、乱拍子は新座の彦夜叉、刀玉は道一、各神変の堪能なれば見物耳目を驚す。角て立合終りしかば、日吉山王の示現利生の新たなる猿楽を、肝に染てぞし出したる。斯る処に新座の楽屋八九歳の小童に猿の面をきせ、御幣を差上て、赤地の金襴の打懸に虎皮の連貫を蹴開き、小拍子に懸て、紅緑のそり橋を斜に踏で出たりけるが高欄に飛上り、左へ回右へ曲り、抛返ては上りたる在様、誠に此世の者とは不見、忽に山王神託して、此奇瑞を被示かと、感興身にぞ余りける。されば百余間の桟敷共怺兼て座にも不蹈、「あら面白や難堪や。」と、喚叫びける間、感声席に余りつゝ、且は閑りもやらず。浩処に、将軍の御桟敷の辺より、厳しき女房の練貫の妻高く取けるが、扇を以て幕を揚るとぞ見へし。大物の五六にて打付たる桟敷傾立て、あれや/\と云程こそあれ、上下二百四十九間、共に将碁倒をするが如く、一度に同とぞ倒ける。若干の大物共落重りける間、被打殺者其数不知。斯る紛れに物取共、人の太刀々を奪て逃るもあり、見付て切て留るもあり。或は腰膝を被打折、手足を打切られ、或は己と抜たる太刀長刀に、此彼を突貫れて血にまみれ、或は涌せる茶の湯に身を焼き、喚き叫ぶ。只衆合叫喚の罪人も角やとぞ見へたりける。田楽は鬼の面を著ながら、装束を取て逃る盜人を、赤きしもとを打振て追て走る。人の中間若党は、主の女房を舁負て逃る者を、打物の鞘をはづして追懸る。返し合て切合処もあり。被切朱に成者もあり。脩羅の闘諍、獄率の呵責、眼の前に有が如し。梶井宮も御腰を打損ぜさせ給ひたりと聞へしかば、一首の狂歌を四条川原に立たり。釘付にしたる桟敷の倒るは梶井宮の不覚なりけり又二条関白殿も御覧じ給ひたりと申ければ、田楽の将碁倒の桟敷には王許こそ登らざりけれ是非直事。如何様天狗の所行にこそ有らんと思合せて、後能々聞けば山門西塔院釈迦堂の長講、所用有て下りける道に、山伏一人行合て、「只今四条河原に希代の見物の候。御覧候へかし。」と申ければ、長講、「日已に日中に成候。又用意の桟敷なんど候はで、只今より其座に臨候共、中へ如何が入候べき。」と申せば、山伏、「中へ安く入奉べき様候。只我迹に付き被歩候へ。」とぞ申ける。長講、げにも聞る如くならば希代の見物なるべし。さらば行て見ばやと思ければ、山伏の迹に付て三足許歩むと思たれば、不覚四条河原に行至りぬ。早中門口打程に成ぬれば、鼠戸の口も塞りて可入方もなし。「如何して内へは入候べき。」とわぶれば、山伏、「我手に付せ給へ。飛越て内へ入候はん。」と申間、実からずと乍思、手に取付たれば、山伏、長講を小脇に挟で三重に構たる桟敷を軽々と飛越て、将軍の御桟敷の中にぞ入にける。長講座席座中の人々を見るに、皆仁木・細河・高・上杉の人々ならでは交りたる人も無ければ、「如何か此座には居候べき。」と、蹲踞したる体を見て、彼山伏忍やかに、「苦かるまじきぞ。只それにて見物し給へ。」と申間、長講は様ぞあるらんと思て、山伏と双で将軍の対座に居たれば、種々の献盃、様々の美物、盃の始まるごとに、将軍殊に此山伏と長講とに色代有て、替る替る始給ふ処に、新座の閑屋、猿の面を著て御幣を差挙、橋の高欄を一飛々ては拍子を蹈み、蹈ては五幣を打振て、誠に軽げに跳出たり。上下の桟敷見物衆是を見て、座席にもたまらず、「面白や難堪や、我死ぬるや、是助けよ。」と、喚き叫て感ずる声、半時許ぞのゝめきける。此時彼山伏、長講が耳にさゝやきけるは、「余に人の物狂はしげに見ゆるが憎きに、肝つぶさせて興を醒させんずるぞ。騒ぎ給ふな。」と云て、座より立て或桟敷の柱をえいや/\と推と見へけるが、二百余間の桟敷、皆天狗倒に逢てげり。よそよりは辻風の吹とぞ見へける。誠に今度桟敷の儀、神明御眸を被廻けるにや、彼桟敷崩て人多く死ける事は六月十一日也。其次の日、終日終夜大雨降車軸、洪水流盤石、昨日の河原の死人汚穢不浄を洗流し、十四日の祇園神幸の路をば清めける。天竜八部悉霊神の威を助て、清浄の法雨を潅きける。難有かりし様也。
○雲景未来記事 S2703
又此比天下第一の不思議あり。出羽国羽黒と云所に一人の山伏あり。名をば雲景とぞ申ける。希代の目に逢たりとて、熊野の牛王の裏に告文を書て出したる未来記あり。雲景諸国一見悉有て、過にし春の比より思立て都に上り、今熊野に居住して、華洛の名迹を巡礼する程に、貞和五年二十日の事なる天竜寺一見の為に西郊にぞ赴ける。官の庁の辺より年六十許なる山伏一人行連たり。彼雲景に、「御身は何くへ御座ある人ぞ。」と問ければ、「是は諸国一見の者にて候が、公家武家の崇敬あつて建立ある大伽藍にて候なれば、一見仕候ばやと存じて、天竜寺へ参候也。」とぞ語ける。「天竜寺もさる事なれ共、我等が住む山こそ日本無双の霊地にて侍れ。いざ見せ奉らん。」とてさそひ行程に、愛宕山とかや聞ゆる高峯に至ぬ。誠に仏閣奇麗にして、玉を敷き金を鏤めたり。信心肝に銘じ身の毛竪ち貴く思ければ、角てもあらまほしく思処に、此山伏雲景が袖を磬て、是まで参り給たる思出に秘所共を見せ奉らんとて、本堂の後、座主の坊と覚しき所へ行たれば、是又殊勝の霊地なり。爰に至て見れば人多く坐し給へり。或は衣冠正しく金笏を持給へる人もあり。或は貴僧高僧の形にて香染の衣著たる人もあり。雲景恐しながら広庇にくゞまり居たるに、御坐を二帖布たるに、大なる金の鵄翅を刷ひて著座したり。右の傍には長八尺許なる男の、大弓大矢を横へたるが畏てぞ候ける。左の一座には袞竜の御衣に日月星辰を鮮かに織たるを著給へる人、金の笏を持て並居玉ふ。座敷の体余に怖しく不思議にて、引導の山伏に、「如何なる御座敷候ぞ。」と問へば、山伏答へけるは、「上座なる金の鵄こそ崇徳院にて渡せ給へ。其傍なる大男こそ為義入道の八男八郎冠者為朝よ。左の座こそ代々の帝王、淡路の廃帝・井上皇后・後鳥羽院・後醍醐院、次第の登位を逐て悪魔王の棟梁と成給ふ、止事なき賢帝達よ。其坐の次なる僧綱達こそ、玄肪・真済・寛朝・慈慧・頼豪・仁海・尊雲等の高僧達、同大魔王と成て爰に集り、天下を乱候べき評定にて有。」とぞ語りける。雲景恐怖しながら不思議の事哉と思つゝ畏居たれば、一座の宿老山伏、「是は何くより来給ふ人ぞ。」と問ければ、引導の山伏しか/゛\と申ける。其時此老僧会尺して、「さらば此間京中の事共をば皆見聞給ふらん。何事か侍る。」と問ければ、雲景、「殊なる事も候はず。此比は只四条河原の桟敷の崩て人多く被打殺候事、昔も今も浩る事候はず、只天狗の態とこそ申候へ。其外には将軍御兄弟、此比執事の故に御中不快と候。是若天下の大儀に成候はんずるやらんと貴賎申候。」とぞ答ける。其時此山伏申けるは、「さる事も有らん、桟敷の顛倒は惣じて天狗の態許にも非ず。故をいかにと云に当関白殿は忝も天津児屋根尊の御末、天子輔佐の臣として無止事上臈にて渡らせ給ふ。梶井宮と申は、今上皇帝の御連枝にて、三塔の貫主、国家護持の棟梁、円宗顕密の主にて御坐す。将軍と申すは弓矢の長者にて海内衛護の人也。而るに此桟敷と申は、橋の勧進に桑門の捨人が興行する処也。見物の者と云は洛中の地下人、商買の輩共也。其に日本一州を治め給ふ貴人達交り雑居し給へば、正八幡大菩薩・春日大明神・山王権現の忿を含ませ給ふに依て、此地を頂き給ふ堅牢地神驚給ふ間、其勢に応じて皆崩たる也。此僧も其比京に罷出しか共、村雲の僧に可申事有て立寄しに、時刻遷りて不見。」とぞ申ける。雲景、「さて今村雲の僧と申て行徳権勢世に聞へ候は、如何なる人にて候ぞ。京童部は一向天狗にて御坐すと申候は、如何様の事にて候哉らん。」と問ければ、此僧の曰、「其はさる事候。彼僧は殊にさかしき人にて候間、天狗の中より撰び出して乱世の媒の為に遣したる也。世中乱れば本の住所へ可帰也。さてこそ所多きに村雲と云所に住するなれ。雲は天狗の乗物なるに依ての故也。加様の事努々人に不可知給。初て此所へ尋来給へば、委細の物語を申也。」とぞ語ける。雲景、不思議の事をも見聞者哉と思て天下の重事、未来の安否を聞ばやと思て、「さて将軍御兄弟執事の間の不和は、何れか道理にて始終通り候べき。」と問へば、「三条殿と執事の不快は一両月を不可過、大なる珍事なるべし。理非の事は是非を難弁。此人々身の難に逢ひ不肖なる時は、哀世を持たん時は政道をも能行はんずる者をと思しか共、富貴充満の後は古への有増一事も不通。上暗く下諛て諸事に親疎あれば、神明三宝の冥鑒にも背き、天下貴賎の人望にも違て、我非をば知ず、人を謗り合ふ心あり。只師子の虫の師子の肉を食が如し。適仁政と思事もさもあらず、只人の煩ひ歎のみ也。夫仁とは施慧四海、深く憐民云仁。夫政道と云は治国憐人、善悪親疎を不分撫育するを申也。而るに近日の儀、聊も善政を不聞欲心熾盛にして君臣父子の道をも不弁、只人の財を我有にせんと許の心なれば不矯飾無云事。仏神能知見御座さねば、我が企る処も不成、依果報浅深、聊取世持国者有といへ共、真実の儀に非ず。されば一人として治世運長久に不持也。君を軽んじ仏神をだにも恐るゝ処なき末世なれば曾其外の政道何事か可有。然間悪逆の道こそ替れ。猜みもどき合ふ輩、何れも無差別亡びん事無疑。喩へば山賊と海賊と寄合て、互に犯科の得失を指合が如し。されば近年武家の世を執事頼朝卿より以来、高時に到るまで已に十一代、蛮夷の賎しき身を以て世の主たる事必本儀にはあらね共、世澆季に及ぶ験に無力。時与事只一世の道理に非ず。臣殺君子殺父、力を以て可争時到る故に下剋上の一端にあり。高貴清花も君主一人も共に力を不得、下輩下賎の士四海を呑む。依之天下武家と成也。是必誰為にも非ず、時代機根相萌て因果業報の時到る故也。君を遠島へ配し奉り悪を天下に行し義時を、浅猿と云しか共、宿因のある程は子孫無窮に光栄せり。是又涯分の政道を行ひ、己を責て徳を施しゝかば、国豊に民不苦。されども宿報漸く傾く時、天心に背き仏神捨給ふ時を得て、先朝高時を追伐せらる。是必しも後醍醐院の聖徳の到りに非ず、自滅の時到る也。世も上代、仁徳も今の君主に勝り給し後鳥羽院の御時は、上の威も強く下の勢も弱しかども下勝ち上負ぬ。今末世濁乱の時分なれ共、不得下勝不上負事は不依貴賎運の興廃なるべし。是以可心得給。」と語りければ、雲景重て申さく、「先代尽て亡しかば、など先朝久御代をば治御座候はぬ。」と問ければ、「其又有子細事に候。先朝随分賢王の行をせんとし給しか共、真実仁徳撫育の叡慮は総じてなし。継絶興廃神明仏陀を御帰依有様に見へしか共、■慢のみ有て実儀不御座。され共其程の賢王も末代には有まじければ何事にもよき真似をばすべし。是を以て暫なれ共加様の所を以て其御器用に当り、運の傾く高時、消方の灯前の扇と成せ給ひて亡し給ひぬ。其理に答て累代繁栄四海に満ぜし先代をば亡し給ひしか共、誠尭舜の功、聖明の徳御坐ねば、高時に劣る足利に世をば奪れさせ給ぬ。今持明院殿は中々執権開運武家に順せ給て、偏に幼児の乳母を憑が如く、奴と等しく成て御座程に、依仁道善悪還て如形安全に御坐者也。是も御本意には有ね共、理をも欲心をも打捨て御座さば、末代邪悪の時中々御運を開せ給ふべき者也とても王法は平家の末より本朝には尽はてゝ、武運ならでは立まじかりしを御了知も無て、仁徳聖化は昔に不及して国を執らん御欲心許を先とし、本に代を復すべしとて、末世の機分戎夷の掌に可堕御悟無りしかば、御鳥羽院の御謀叛徒に成て、公家の威勢其時より塗炭に落し也。されば其宸襟を為休先朝高時を失給しか共、尚公家代をば執せ給はぬ者也。さても三種の神器を本朝の宝として神代より伝る璽、国を理守も此神器也。是は以伝為詮。然に今の王者此明器を伝る事無て位を践御座事、誠に王位共難申。然共さすが三箇の重事を執行はせ給へば、天照太神も守らせ給覧と憑敷処もある也。此明器我朝の宝として、神代の始より人皇の今に到るまで取伝御座事、誠に小国也といへ共、三国に超過せる吾朝神国の不思議は是也。されば此神器無らん代は月入て後の残夜の如し。末代のしるし王法を神道棄給ふ事と知べし。此重器は平家滅亡の時、安徳天皇西海に渡奉て海底に沈られし時、神璽内侍所をば取返し奉しか共宝剣は遂に沈失ぬ。されば王法悪王ながら安徳天王の御時までにて失はてぬる証は是也。其故は後鳥羽院の始て三種の重器無して元暦に践祚有しに、其末流皇統継体として、今に御相承佳模とは申せ共、今思へば彼元暦よりこそ正しく本朝に武家を被始置、則海内蔑君王奉る事は出来にけれ。されば武運王道に勝し表示には、宝剣は其時までにて失にき。仍武威昌に立て国家を奪也。然共其尽し後百余年は武家雅意に任て天下を司ると云共、王位も文道も相残る故に、関東如形政道をも理め君王をも崇め奉る体にて、諸国に総追捕使をば置たれども、諸司要脚の公事正税、仏神の本主、相伝の領には手を不懸目出かりしに、時代純機宿報の感果ある事なれば、後醍醐院武家を亡し給ふに依て、弥王道衰て公家、悉廃れたり。此時を得て三種の神器徒に微運の君に随て空く辺鄙外土に交り給ふ。是神明吾朝を棄給ひ、王威無残所尽し証拠也。是元暦の安徳天皇の御時に相同じ。国を受給ふ主に随給はぬは、国を不守験也。されば神道王法共になき代なれば、上廃れ下驕て是非を弁る事なし。然れば師直・師泰が安否、将軍兄弟の通塞も難弁。」とぞ語ける。雲景重て申けるは、「さては早乱悪の世にて下上に逆ひ、師直・師泰我侭にしすまして天下を持つべき歟。」と問へば、「いやさは不可有。如何末世濁乱の義にて、下先勝て上を可犯。され共又上を犯咎難遁ければ、下又其咎に可伏。其故は、将軍兄弟も可奉敬一人君主を軽じ給へば、執事其外家人等も又武将を軽じ候。是因果の道理也。されば地口天心を呑と云変あれば、何にも下刻上の謂にて師直先可勝。自是天下大に乱て父子兄弟怨讎を結び、政道聊も有まじければ、世上も無左右難静。」とぞ申ける。雲景、「今加様に世間の事鑒を懸て宣ひつる人は誰。」と尋れば、「彼老僧こそ、世に人の持あつかう愛宕山の太郎坊にて御座。」と答へける。尚も天下の安危国の治乱を問んとする処に、俄に猛火燃来て、座中の客七顛八倒する程に、門外へ走出ると思たれば、夢の覚たる心地して、大内の旧迹大庭の椋の木の本に、朦々としてぞ立たりける。四方を見廻したれば、日已に西の山端に残て、京へ出る人多ければ、其に伴ひて我宿坊にたどり来て、心閑に彼不思議を案ずるに、無疑天狗道に行にけり。是は只非可打棄、且は末代の物語、且は当世の用心にもなれかしと思しかば、我身の刑を不顧、委細に書載、熊野の牛王の裏に告文を書添、貞和五年潤六月三日と書付て、伝奏に付て進奏す。誠に怪異の事共也。
○左兵衛督欲誅師直事 S2704
斯りし処に、師直・師泰等誅罰の事、上杉・畠山が讒尚深く、妙吉侍者荐に被申ければ、将軍に知せ奉らで、左兵衛督窃に上杉・畠山・大高伊予守・粟飯原下総守・斉藤五郎左衛門入道五六人に評定有て、内内師直兄弟を可被誅謀をぞ被議ける。大高伊予守は大力也。宍戸安芸守は物馴たる剛の者なればとて、彼等二人を組手に定め若し手に余る事あらば、討洩さぬ様に用心せよとて、器用の者共百余人に物具せさせて窃に是を隠置、師直をぞ被召ける。師直は夢にも可思寄事ならねば、若党中間は皆遠侍大庭に並居て、中門の唐垣をかけへだてられ、師直只一人六間の客殿に座したり。師直が今の命は風待程の露よりも危しと見へける処に、殊更此事勝て申沙汰したりける粟飯原下総守清胤、俄に心替りして告知せばやと思ひければ、些色代する様にして、吃と目くはせをしたりければ、師直心早者なりければ、軈て心得て、かりそめに罷出る体にて、門前より馬に打乗、己が宿所にぞ帰ける。其夜軈粟飯原・斉藤二人、執事の屋形に来て、「此間三条殿の御企、上杉・畠山の人々の隠謀、兔こそ候つれ角こそ候つれ。」と語りければ、執事様々の引出物して、「猶も殿中様の事は内々告承候へ。」とて斉藤・粟飯原を帰しけり。師直是より用心密くして、一族若党数万人、近辺の在家に宿し置き、出仕を止め虚病してぞ居たりける。去年の春より越後守師泰は、楠退治の為に河内国に下て、石川々原に向城を構て居たりけるを、師直使を遣て事の由を告たりければ、畠山左京大夫清国紀伊国の守護にて坐しけるを呼奉て、石川城をふまへさせて、越後守は急ぎ京都へぞ帰上ける。左兵衛督は師泰が大勢にて上洛する由聞給て、此者が心をとらでは叶まじ。すかさばやと被思ければ、飯尾修理進入道を使にて、「武蔵守が行事、万短才庸愚の事ある間、暫く世務の綺を止る処也。自今後は越後守を以て、管領に居せしむる者也。政所以下の沙汰、毎事慇懃に沙汰せらるべし。」とぞ委補せられける。師泰此使に対して、「仰畏て候へ共、枝を切て後根を断んとの御意にてぞ候覧。何様罷上候て、御返事をば申入候べし。」と、事の外なる返事申て、軈て其日石河の陣をぞ打出ける。甲胄を鎧ひたる兵三千余騎にて打立て、持楯・一枚楯、人夫七千余人に持せて混合戦の体に出立て、態白昼に京へ入る。目を驚す有様也。師泰執事の宿所に著て、三条殿と合戦の企有と聞へければ、八月十一日の宵に、赤松入道円心と子息律師則祐、弾正少弼氏範、七百余騎にて武蔵守の屋形へ行向。師直急ぎ対面有て、「三条殿無謂師直が一家を亡さんとの御意、事已に喉に迫候間、将軍へ内々事の由を歎申て候へば、武衛左様の企に及条、事の体不隠便、速に其儀を留て讒者の罪を緩くすべからず。能々制止を可加。若猶不叙用して討手を遣す事あらば、尊氏必師直と一所に成て安否を共にすべしと被仰出候。将軍の御意如斯に候へば、今は乍恐三条殿の討手に向て矢一仕らんずるにて候。京都の事は内々志を通ずる人多く候へば心安候。尚も只難義に覚へ候は、左兵衛佐殿備後に被坐候へば、一定中国の勢を引て被責上ぬと覚る許にて候。今夜急ぎ播磨へ御下候て、山陰・山陽の両道を杉坂・舟坂の殺所にて支て給り候へ。」とて、一献を勧められけるが、「此太刀は保昌より伝て代々身を不放守と存候へ共、是を可進。」とて懐剣と云太刀を錦の袋より取出して、赤松にこそ引たりけれ。円心軈領掌し、其夜都を立て播磨国に馳下、三千余騎を二手に分て、備前の舟坂・美作の杉坂、二の道を差塞、義旗雲竜を靡かして回天の機をぞ露しける。されば直冬大勢にて上らんと被議けるが、其支度相違したりけり。
○御所囲事 S2705
去程に洛中には、只今可有合戦とて周章立て、貞和五年八月十二日の宵より数万騎の兵上下へ馳違ふ。馬の足音草摺の音、鳴休隙も無りけり。先三条殿へ参りける人々には、吉良左京大夫満義・同上総三郎満貞・石堂中務大輔頼房・同左馬頭頼直・石橋左衛門佐和義・子息治部大輔宣義・尾張修理大夫高経・子息民部少輔氏経・舎弟左近大夫将監氏頼・荒河三河守詮頼・細川刑部大輔頼春・同兵部大輔顕氏・畠山大蔵少輔直宗・上杉伊豆守重能・同左馬助朝房・同弾正少弼朝貞・長井大膳大夫広秀・和田越前守宣茂・高土佐守師秋・千秋三河左衛門大夫惟範・大高伊予守重成・宍戸安芸守朝重・二階堂美濃守行通・佐々木豊前次郎左衛門尉顕清・里見蔵人義宗・勝田能登守助清・狩野下野三郎・苑田美作守・波多野下野守・同因幡守・禰津小次郎・和久四郎左衛門尉・斉藤左衛門大夫利康・飯尾修理進入道・須賀壱岐守清秀・秋山新蔵人朝政・島津四郎左衛門尉、是等を宗との兵として都合其勢七千余騎、轅門を固て扣たり。執事師直の屋形へ馳加る人々には、山名伊豆守時氏・今川五郎入道心省・同駿河守頼貞・吉良左近大夫将監貞経・大島讃岐守盛真・仁木左京大夫頼章・舎弟越後守義長・同弾正少弼頼勝・桃井修理亮義盛・畠山宮内少輔国頼・細河相模守清氏・土岐刑部大輔頼康・同明智次郎頼兼・同新蔵人頼雄・佐々木佐渡判官秀綱・同四郎左衛門尉秀定・同近江四郎氏綱・佐々木大夫判官氏頼・舎弟四郎左衛門尉直綱・同五郎左衛門尉定詮・同大原判官時親・千葉介貞胤・宇都宮三河入道・武田伊豆前司信氏・小笠原兵庫助政長・逸見八郎信茂・大内民部大輔・結城小大郎・梶原河内守・佐竹掃部助師義・同和泉守・三浦遠江守行連・同駿河次郎左衛門・大友豊前太郎頼時・土肥美濃守高真・土屋備前守範遠・安保肥前守忠真・小田伊賀守・田中下総三郎・伴野出羽守長房・木村長門四郎・小幡左衛門尉・曾我左衛門尉・海老名尾張六郎季直・大平出羽守義尚・粟飯原下総守清胤・二階堂山城三郎行元・中条備前守秀長・伊勢勘解由左衛門・設楽五郎兵衛尉・宇佐美三河三郎・清久左衛門次郎・富永孫四郎・寺尾新蔵人・厚東駿河守・富樫介を始として、多田院御家人・常陸平氏・甲斐源氏・高家の一族は申に不及、畿内近国の兵、芳志恩顧の輩、我も我もと馳寄間、其勢無程五万余騎、一条大路・今出河・転法輪・柳が辻・出雲路河原に至るまで、無透間打込たる。将軍是に驚かせ給ひ、三条殿へ使を以て被仰けるは、「師直・師泰過分の奢侈身に余て忽主従の礼を乱る。末代と乍云事常篇に絶たり。此上は如何様其へ寄る事も可有、急是へ御渡候へ。一所にて安否を定めん。」と被仰ければ、左兵衛督馳集たる兵共を召具して、将軍の御所、近衛東洞院へぞ御坐ける。此事の様を見、不叶とや思けん、初馳集たる兵共、五騎十騎落失て師直の手にぞ加りける。されば宗徒の御一族、近習の輩無弐忠を存する兵僅に千騎にも不足けり。明れば八月十三日の卯刻に、武蔵守師直・子息武蔵五郎師夏、雲霞の兵を相卒て、法成寺河原に打出て、二手にむずと押分て、将軍の御所の東北を十重二十重に囲みて、三度時をぞ揚たりける。越後守師泰は七千余騎を引分て、西南の小路を立切、搦手にこそ廻けれ。四方より火を懸て焼責にすべしと聞へしかば、兵火の余烟難遁とて、其辺近卿相雲客の亭、長講堂・三宝院へ資財雑具を運び、僧俗男女東西に逃迷ふ。内裏も近ければ、軍勢事に触て狼藉をも可致とて、俄に竜駕を被促持明院殿へ行幸なる。摂禄大臣諸家の卿相、周章騒で馳参る。宮中の官女上達部、徒歩にて逃ふためけば、八座・七弁・五位・六位・大吏・外記、悉階下庭上に立連。禁中変化の有様は目も不被当事共也。暦応以来は天下武家に帰し、世上も少穏なりしに、去年楠正行乱を起せしか共討死せしかば、弥無為の世に成すと喜合処に、俄に此乱出来ぬれば、兔にも角にも治まらぬ世の中と歎かぬ者こそ無かりけれ。将軍も左兵衛督も、師直・師泰縦押寄と云共、防戦に及ん事返て恥辱なるべし。兵門前に防ば、御腹召るべしとて、小具足許にて閑り返て御座けり。師直・師泰、義勢は是までなれ共、さすが押寄る事はなく、徒に時をぞ移しける。去程に須賀壱岐守を以て師直が方へ被仰けるは、「累祖義家朝臣、天下の武将たりしより以来、汝が累祖、当家累代の家僕として未曾一日も主従の礼儀を不乱。而に以一旦忿忘余身恩、穏に不展子細大軍を起して東西に囲を成す。是縦尊氏を賎とす共天の譴をば不可遁。心中に憤る事有らば退て所存を可申。但讒者の真偽に事を寄て国家を奪んとの企ならば、再往の問答に不可及。白刃の前に我命止めて忽に黄泉の下に汝が運を可見。」と、只一言の中に若干の理を尽して被仰ければ、師直、「いや/\是までの仰を可承とは不存、只讒臣の申処を御承引候て、無故三条殿より師直が一類亡さんとの御結構にて候間、其身の不誤処を申開き、讒者の張本を給て後人の悪習をこらさん為に候。」とて、旗の手を一同に颯と下させ、楯を一面に進て両殿を囲奉り、御左右遅しとぞ責たりける。将軍弥腹を居兼て、「累代の家人に被囲て下手人被乞出す例やある。よし/\天下の嘲に身を替て討死せん。」とて、御小袖と云鎧取て被召ければ、堂上堂下に集りたる兵、甲の緒をしめ色めき渡て、「あはや天下の安否よ。」と肝を冷しける処に、左兵衛督被宥申けるは、「彼等奢侈の梟悪法に過るに依て、一旦可誡沙汰由相計を伝聞き、結句返て狼藉を企る事、当家の瑕瑾武略の衰微是に過たる事や候べき。然此禍は直義を恨たる処也。然を軽々敷家僕に対して防戦の御手を被下事口惜候べし。彼れ今讒者を差申す上は、師直が申請るに任せ、彼等を被召出事何の痛候べき。若猶予の御返答あらんに、師直逆威を振ひ忠義を忘れば、一家の武運此時軽して、天下の大変親りあるべし。」と堅制し被申しかば、将軍も諌言違処なしと思給ひければ、「師直が任申請旨、自今後は左兵衛督殿に政道綺はせ奉る事不可有。上杉・畠山をば可被遠流。」と被許ければ、師直喜悦の眉を開き、囲を解て打帰る。次の朝軈妙吉侍者を召取んと人を遣しけるに、早先立て逐電しければ行方も不知。財産は方々へ運び取り、浮雲の富貴忽に夢のごとく成にけり。
○右兵衛佐直冬鎮西没落事 S2706
斯し後は弥師直権威重く成て、三条殿方の人々は面を低れ眉を顰む。中にも右兵衛佐直冬は、中国の探題にて備後の鞆に御座けるを、師直近国の地頭・御家人に相触て討奉れと申遣したりければ、同九月十三日、杉原又四郎に百余騎にて押寄たり。俄の事なれば可防兵も少くて、直冬朝臣既に被誅給ひぬべかりしを、礒部左近将監が若党散々に防けるが、何れも究竟の手足にて志す矢坪を不違射ける矢に、十六騎に手負せて、十三騎馬より倒に射て落したりければ、杉原少し疼で不懸得ければ、其間に右兵衛佐殿は、河尻肥後守幸俊が船に乗て、肥後国へぞ被落ける。志ある者は小舟に乗て追付奉る。此佐殿は武将の嫡家にて、中国の探題に被下て人皆順靡奉り、富貴栄耀の門を開き、置酒好会の席を舒べ、楽未央しに、夢の間に引替て、心筑紫に落塩の鳴戸を差て行舟は、片帆は雲に泝り、烟水眼に范々たり。万里漂泊の愁、一葉扁舟の浮思ひ、浪馴衣袖朽て、涙忘るゝ許也。一年父尊氏卿、京都の軍に利無して九州へ落給たりしが、無幾程帰洛の喜に成給ひし事遠からぬ佳例也と、人々上には勇め共、行末も如何がしらぬひの、筑紫に赴旅なれば、無為方ぞ見へたりける。九月十三夜、名にをふ月明にして、旅泊の思も切なりければ、直冬、梓弓我こそあらめ引連て人にさへうき月を見せつると詠じ給へば、袖を濡さぬ人はなし。
○左馬頭義詮上洛事 S2707
去程に三条殿は、師直・師泰が憤猶深きに依て、天下の政務の事不及口入。大樹は元来政務を謙譲し給へば、自関東左馬頭義詮を急ぎ上洛あらせて、直義に不相替政道を申付、師直諸事を可申沙汰定りにけり。此左馬頭と申すは千寿王丸と申て久く関東に居へ置れたりしが、今は器にあたるべしとて、権柄の為に上洛あるとぞ聞へし。同十月四日左馬頭鎌倉を立て、同二十二日入洛し給けり。上洛の体由々敷見物也とて、粟田口・四宮河原辺まで桟敷を打て車を立、貴賎巷をぞ争ひける。師直以下の在京の大名、悉勢多まで参向す。東国の大名も川越・高坂を始として大略送りに上洛す。馬具足奇麗也しかば誠に耳目を驚す。其美を尽し善を尽すも理哉、将軍の長男にて直義の政務に替り天下の権を執らん為に上洛ある事なれば、一涯珍らか也。今夜将軍の亭に著給へば、仙洞より勧修寺大納言経顕卿を勅使にて、典厩上洛の事を賀し仰らる。同二十六日三条坊門高倉、直義朝臣の宿所へ被移住、頓て政務執行の沙汰始あり。目出かりし事共也。
○直義朝臣隠遁事付玄慧法印末期事 S2708
去程に直義は世の交を止、細川兵部大輔顕氏の錦小路堀川の宿所へ被移にけり。猶も師直・師泰は、角て始終御憤を被止まじければ、身の為悪かるべしとて、偸に可奉失由内々議すと聞へければ、其疑を散ぜん為に、先世に望なく御身を捨はてられたる心中を知せんとにや、貞和五年十二月八日、御歳四十二にして御髪を落し給ひける。未強仕の齢幾程も不過に、剃髪染衣の姿に帰し給ひし事、盛者必衰の理と乍云、うたてかりける事共也。斯しかば天下の事綺し程こそあれ、今は大廈高墻の内に身を置き、軽羅褥茵の上に非可楽とて、錦小路堀河に幽閉閑疎の御住居、垣に苔むし軒に松旧たるが、茅茨煙に篭て夜の月朦朧たり。荻花風に戦で暮の声蕭疎たり。時遷事去て、人物古に非る事を感じ、蘿窓草屋の底に座来して、経巻を抛隙も無りけり。時しもあれや秋暮て、時雨がちなる冬闌ぬ。冷然しさまさる簾外には、香盧峯の雪も浦山敷、身の古はあだし世の、夢かとぞ思ふ思きや、雪踏分し小野の山、今更思ひしられつゝ、問人もがなと思へども、世の聞耳を憚て事問人も無りしに、独清軒玄慧法印、師直が許しを得て、時々参りつゝ、異国本朝の物語共して慰奉りけるが、老病に被犯て不参得と申ければ、薬を一包送給ふとて、其裹紙に、ながらへて問へとぞ思ふ君ならで今は伴ふ人もなき世にと有しかば、法印是を見て泣々、感君一日恩。招我百年魂。扶病坐床下。披書拭泪痕。と一首の小詩に九回の思を尽して奉る。其後無程法印身罷にけり。慧源禅巷哀に思て、自此詩の奥に紙を継で、六兪般若の真文を写して、彼追善にぞ被擬ける。
○上杉畠山流罪死刑事 S2709
去程に上杉伊豆守重能・畠山大蔵少輔直宗をば、所領を没収し、宿所を破却して共に越前国へ流遣されけり。此人々さりとも死罪に被行までの事はよも非じと憑れけるにや、暫の別を悲て、女房少人々まで皆伴て下給へ共、馴ぬ旅寝の床の露、をきふし袖をや濡すらん。日来より翫びし事なれば、旅の思を慰めんと一面の琵琶を馬鞍にかけ、旅館の月に弾じ給へば、王昭君が胡角一声霜後夢、漢宮万里月前腸と、胡国の旅を悲しも角やと思知れたり。嵐の風に関越て、紅葉をぬさと、手向山、暮行秋の別まで、身にしられたる哀にて、遁れぬ罪を身の上に、今は大津の東の浦、浜の真砂の数よりも、思へば多き歎哉。絶ぬ思を志賀浦、渚によする佐々浪の、返るを見るも浦山敷、七座神を伏拝み、身の行末を祈ても、都に又も帰べき、事は堅田に引網の、目にもたまらぬ我泪、今津・甲斐津を過行ば、湖水の霧に峙て、波間に見へたる小島あり。是なんめり、都良香が古、三千世界は眼前に尽ぬと詠ぜしかば、十二因縁は心裡に空と云下句を、弁才天の続給し竹生島よと望見て、暫法施を奉る。焼ぬ塩津を過行ば、思ひ越路の秋の風、音は荒血の山越て、浅茅色付野を行ば、末こそしらね梓弓、敦賀の津にも身を寄せて、袖にや浪の懸るらん。稠く守る武士の、矢田野は何く帰山、名をのみ聞て甲斐もなし。治承の乱に篭けん、火打が城を見上れば、蝸牛の角の上三千界、石火の光の中一刹那、哀あだなる憂世哉と、今更驚許也。無常の虎の身を責る、上野の原を過行ば、我ゆへさはがしき、月の鼠の根をかぶる、壁草のいつまでか、露の命の懸るべき。とても可消水の泡の流留る処とて、江守の庄にぞ着にける。当国の守護代細河刑部大輔、八木光勝是を請取て、浅猿気なる柴の庵の、しばしも如何が栖れんと、見るだに物憂住居なるに、警固を居へてぞ置れたりける。痛哉都にてはさしも気高かりし薄桧皮の屋形の、三葉四葉に作双て奇麗なるに、車馬門前に群集し賓客堂上に充満して、声花にこそ住給しに、今は引替たる鄙の長途に、やすらふだにも悲きに、竹の編戸松の垣、時雨も風もたまらねば、袂の乾く隙もなし。されば如何なる宿業にてか斯る憂目に逢らんと、乍我うらめしくて、あるも甲斐なき命なりけるを、猶も師直不足にや思けん、後の禍をも不顧、潜に討手を差下し、守護代八木の光勝に云合せ、上杉・畠山を可討とぞ下知しける。光勝元は上杉が下知に随者也けるが、武蔵守に被語て俄に心変じければ、八月二十四日の夜半許に、伊豆守の配所、江守の庄へ行て、「昨日の暮程に高弁定信大勢にて当国の府に著て候を、何事やらんと内々相尋て候へば、旁を討進せん為に下て候なる。加様にて御座候ては、争か叶はせ給候べき。今夜急夜に紛れて落させ給ひ、越中越後の間に立忍ばせ給て、将軍へ事の子細を申入させ給候はゞ、師直等は忽蒙御勘気、御身の罪は軽成て、などか帰参の御事無るべき。警固の兵共にも道の程の御怖畏候まじ。只はや討手の近付候はぬさきに落させ給ひ候へ。」と誠に弐なげに申ければ、出抜とは夢にも知給はず、取物も不取敢、女房少き人々まで皆引具して、上下五十三人、歩はだしなる有様にて加賀の方へぞ被落ける。時しもこそあれ、霑交に降時雨、面を打が如くにて、僅に細き田面の道、上は氷れる馬ざくり、蹈ば深泥膝にあがる。簑もなく笠も著ざれば、膚までぬれ徹り、手亀り足寒へたるに、男は女の手を引、親は少き子を負て、何くを可落著処とも不知、只跡より討手や懸るらんと、怖ろしき侭に落行心中こそ哀なれ。八木光勝兼て近辺に触回り、「上杉・畠山の人々、流人の身として落て行事あらば、無是非皆討止よ。」と申間、江守・浅生水・八代庄・安居・波羅蜜の辺に居たる溢者共、太鼓を鳴し鐘を撞て、「落人あり打止よ。」と騒動す。上杉・畠山是に驚て、一足も前へ落延んと倒れふためきて、足羽の渡へ行著たれば、川の橋を引落して、足羽・藤島の者共、川向に楯を一面に衝双べたり。さらば跡へ帰て、八木をこそ憑まめと憂かりし江守へ立帰れば、又浅生水の橋をはねはづして、迹にも敵充満たり。只つかれの鳥の犬と鷹とに責らるらんも、角やと思ひしられたり。是までも主の先途を見はてんと、付順ひたりける若党十三人、主の自害を勧めん為、押膚脱で皆一度に腹をぞ切たりける。畠山大蔵少輔もつゞいて腹掻切、其刀を引抜て、上杉伊豆守の前に投遣、「御腰刀は些寸延て見へ候、是にて御自害候へ。」と云もはてず、うつぶしに成て倒れにけり。伊豆守其刀を手に取ながら、幾程ならぬ憂世の名残惜かねて、女房の方をつく/゛\と見て、袖を顔に押あて、只さめ/゛\と泣居たる許にて、坐に時をぞ移されける。去程に八木光勝が中間共に生捕られて、被差殺けるこそうたてけれ。武士たる人は、平生の振舞はよしや兔も角もあれ強見る処に非ず。只最後の死様をこそ執する事なるに、蓬くも見へ給ひつる死場哉と、爪弾せぬ人も無りけり。女房は年此日来のなじみ、昨日今日の情の色、いつ忘るべしとも不覚と泣悲みて其淵瀬に身をも沈めんと、人目の隙を求給ひけるを、年来知識に被憑たりける聖、兔角止め教訓して、往生院の道場にて髪剃落し奉て、無迹を訪外は更他事なしとぞ聞へし。加様に万づ成ぬれば、天下の政道然武家の執事の手に落て、今に乱ぬとぞ見へたりける。
○大嘗会事 S2710
去程に年内頓て大礼可有と、重て評定せられけり。当年三月七日に可行と沙汰有しか共、大儀不事行。乍去さのみ延引如何とて、可被果遂にぞ定りける。夫大礼と申は、大内回禄の後は代々の流例として、大極殿の儀式を被移て大政官の庁にて是を被行。内弁は洞院太政大臣公資公とぞ聞へし。即位の内弁を大相国勤仕の事先縦邂逅なり、或は不快也と僉議区也しを、勧修寺大納言経顕卿勧で被申けるは、「相国の内弁の先例両度也。保安・久寿の両主也。保安は誠に凶例とも云つべし、久寿は又佳例なれば、彼先規を争でか可被嫌。其上今の相国は時に当る職に達し、世に聞たる才幹なり。されば君主も義を訪ひ政道を■給へば、一人師範其身に当れり。諸家も礼を学和漢の鑒と仰て、四海の儀形人を恥ず。」と被申しかば、皆閉口して是非の沙汰にも不及、相国内弁に定り給ひけり。外弁は三条坊門源大納言家信・高倉宰相広通・冷泉宰相経隆也。左の侍従は花山院宰相中将家賢、右の侍従は菊亭三位中将公真也。御即位の大礼は四海の経営にて、緇素の壮観可比事無れば、遠近踵を継で群をなす。両院も御見物の為に御幸成て、外弁幄の西南の門外に御車を被立。天子諸卿冕服を著し諸衛諸陣大儀を伏す。四神幡を■に立て、諸衛鼓を陣振る。紅旗巻風画竜揚り、玉幡映日文鳳翔る、秦阿房宮にも不異、呉の姑蘇台も角やと覚て、末代と乍云、懸る大儀を被執行事有難かりし様也。此日何なる日ぞや、貞和五年十二月二十六日、天子登壇即位して数度の大礼事ゆへなく被行しかば、今年は目出度暮にけり。


太平記
太平記巻第二十八

○義詮朝臣御政務事 S2801
貞和六年月二十七日に改元有て、観応に移る。去年八月十四日に、武蔵守師直・越後守師泰等、将軍の御屋形を打囲て、上杉伊豆守・畠山大蔵少輔を責出し、配所にて死罪に行ひたりし後、左兵衛督直義卿出家して、隠遁の体に成給ひしかば、将軍の嫡男宰相中将義詮、同十月二十三日鎌倉より上洛有て、天下の政道を執行ひ給ふ。雖然万事只師直・師泰が計ひにて有しかば、高家の人々の権勢恰魯の哀公に季桓子威を振ひ、唐の玄宗に楊国忠が驕を究めしに不異。
○太宰少弐奉聟直冬事 S2802
右兵衛佐直冬は、去年の九月に備後を落て、河尻肥後守幸俊が許に坐しけるを、可奉討由自将軍御教書を被成たりけれ共、是は只武蔵守師直が申沙汰する処也。誠に将軍の御意より事興て被成御教書に非ずと、人皆推量を廻しければ、後の禍を顧て、奉討する人も無りけり。斯処に太宰少弐頼尚如何思けん、此兵衛佐殿を聟に取て、己が館に奉置ければ、筑紫九国の外も随其催促重彼命人多かりけり。是に依て宮方、将軍方、兵衛佐殿方とて国々三に分れしかば、世中の総劇弥無休時。只漢の代傾て後、呉魏蜀の三国鼎の如くに峙て、互に二を亡さんとせし戦国の始に相似たり。
○三角入道謀叛事 S2803
爰石見国の住人、三角入道、兵衛佐直冬の随下知、国中を打順へ、庄園を掠領し、逆威を恣にすと聞へければ、事の大に成ぬ前に退治すべしとて、越前守師泰六月二十日都を立て、路次の軍勢を卒し石見国へ発向す。七月二十七日の暮程に江河へ打臨み、遥敵陣を見渡せば、是ぞ聞ゆる佐和善四郎が楯篭たる城よと覚て、青杉・丸屋・鼓崎とて、間四五町を隔たる城三つ、三壷の如峙て麓に大河流たり。城より下向ふたる敵三百余騎、河より向に扣てこゝを渡せやとぞ招たる。寄手二万余騎、皆河端に打臨で、何くか渡さましと見るに、深山の雲を分て流出たる河なれば、松栢影を浸して、青山も如動、石岩流を徹て、白雪の翻へるに相似たり。「案内も知ぬ立河を、早りの侭に渡し懸て、水に溺て亡びなば、猛く共何の益かあらん。日已に晩に及ぬ。夜に入らば水練の者共を数た入て、瀬踏を能々せさせて後、明日可渡。」と評定有て馬を扣へたる処に、森小太郎・高橋九郎左衛門、三百余騎にて一陣に進だりけるが申けるは、「足利又太郎が治承に宇治河を渡し、柴田橘六が承久に供御の瀬を渡したりしも、何れか瀬踏をせさせて候し。思ふに是が渡りにてあればこそ、渡さん所を防んとて敵は向に扣へたるらめ。此河の案内者我に勝たる人不可有。つゞけや殿原。」とて、只二騎真先に進で渡せば、二人が郎等三百余騎、三吉の一族二百余騎、一度に颯と馬を打入て、弓の本弭末弭取違疋馬に流をせき上て、向の岸へぞ懸襄たる。善四郎が兵暫支て戦けるが、散々に懸立られて後なる城へ引退く。寄手弥勝に乗て続て城へ蒐入んとす。三の城より木戸を開て、同時に打出て、前後左右より取篭て散々に射る。森・高橋・三吉が兵百余人、痛手を負、石弓に被打、進兼たるを見て、越後守、「三吉討すな、あれつゞけ。」と被下知ければ、山口七郎左衛門、赤旗・小旗・大旗の一揆、千余騎抜連て懸る。荒手の大勢に攻立られて、敵皆城中へ引入れば、寄手皆逆木の際まで攻寄て、掻楯かひてぞ居たりける。手合の合戦に打勝て、敵を城へは追篭たれ共、城の構密しく岸高く切立たれば、可打入便もなく、可攻落様もなし。只徒に屏を隔て掻楯をさかうて、矢軍に日をぞ送ける。或時寄手の三吉一揆の中に、日来より手柄を顕したる兵共三四人寄合て評定しけるは、「城の体を見るに如今責ば、御方は兵粮につまりて不怺共、敵の軍に負て落る事は不可有。其上備中・備後・安芸・周防の間に、兵衛佐殿に心を通する者多しと聞ゆれば、後に敵の出来らんずる事無疑。前には数十箇所の城を一も落さで、後ろには又敵道を塞ぬと聞なば、何なる樊■・張良ともいへ、片時も不可怺。いざや事の難儀に成ぬ前に、此城を夜討に落して、敵に気を失はせ、宰相殿に力を付進せん。」と申ければ、「此義尤可然。されば手柄の者共を集よ。」とて、六千余騎の兵の中より、世に勝たる剛の者をえり出すに、足立五郎左衛門・子息又五郎・杉田弾正左衛門尉・後藤左衛門蔵人種則・同兵庫允泰則・熊井五郎左衛門尉政成・山口新左衛門尉・城所藤五・村上新三郎・同弥二郎・神田八郎・奴可源五・小原平四郎・織田小次郎・井上源四郎・瓜生源左衛門・富田孫四郎・大庭孫三郎・山田又次郎・甕次郎左衛門・那珂彦五郎、二十七人をぞすぐりたる。是等は皆一騎当千の兵にて、心きゝ夜討に馴たる者共也とは云ながら、敵千余人篭て用心密しき城共を、可落とは不見ける。八月二十五日の宵の間に、えい声を出して、先立人を待調へさせ筒の火を見せて、さがる勢を進ませて、城の後なる自深山匐々忍寄て、薄・苅萱・篠竹なんどを切て、鎧のさね頭・胄の鉢付の板にひしと差て、探竿影草に身を隠し、鼓が崎の切岸の下、岩尾の陰にぞ臥たりける。かるも掻たる臥猪、朽木のうつぼなる荒熊共、人影に驚て、城の前なる篠原を、二三十つれてぞ落たりける。城中の兵共始は夜討の入よと心得て、櫓々に兵共弦音して、抛続松屏より外へ投出々々、静返て見けるが、「夜討にては無て後ろの山より熊の落て通りけるぞ、止よ殿原。」と呼はりければ、我先に射て取らんと、弓押張靭掻著々々、三百余騎の兵共、落行熊の迹を追て、遥なる麓へ下ければ、城に残る兵纔に五十余人に成にけり。夜は既に明ぬ。木戸は皆開たり。なじかは少しも可議擬、二十七人の者共、打物の鞘を迦して打入。城の本人佐和善四郎並郎等三人、腹巻取て肩に投懸、城戸口に下合て、一足も不引戦けるが、善四郎膝口切れて犬居に伏せば、郎等三人前に立塞ぎ暫し支て討死す。其間に善四郎は己が役所に走入、火を懸て腹掻切て死にけり。其外四十余人有ける者共は、一防も不防青杉の城へ落て行。熊狩しつる兵共は熊をも不追迹へも不帰、散々に成てぞ落行ける。憑切たる鼓崎の城を被落のみならず、善四郎忽討れにければ、残二の城も皆一日有て落にけり。兵、伏野飛雁乱行と云、兵書の詞を知ましかば、熊故に城をば落されじと、世の嘲に成にけり。其後越後守、石見勢を相順て国中へ打出たるに、責られては落得じとや思けん、石見国中に、三十二箇所有ける城共、皆聞落して、今は只三角入道が篭たる三隅城一ぞ残ける。此城山嶮く用心深ければ、縦力責に攻る事こそ不叶共、扶の兵も近国になし、知行の所領も無ければ、何までか怺て城にもたまるべき。只四方の峯々に向城を取て、二年三年にも攻落せとて、寄手の構密しければ、城内の兵気たゆみて、無憑方ぞ覚ける。
○直冬朝臣蜂起事付将軍御進発事 S2804
中国は大略静謐の体なれ共、九州又蜂起しければ、九月二十九日、肥後国より都へ早馬を立て注進しければ、「兵衛佐直冬、去月十三日当国に下著有て、川尻肥後守幸俊が館に居し給ふ処に、宅磨別当太郎守直与力同心して国中を駆催間、御方に志を通ずる族有といへ共、其責に不堪して悉付順はずと云者なし。然間川尻が勢如雲霞成て宇都宮三河守が城を囲むに、一日一夜合戦して討るゝ者百余人、疵を被る兵不知数。遂に三河守城を被責落、未死生の堺を不知分。宅磨・河尻、弥大勢に成て鹿子木大炊助を取巻間、後攻の為少弐が代官宗利近国を相催すといへ共、九国二島の兵共、太半兵衛佐殿に心を通ずる間、催促に順ふ輩多からず。事已に及難儀候、急御勢を被下べし。」とぞ申ける。将軍此注進に驚て、「さても誰をか討手に可下。」と執事武蔵守に間給ひければ、師直、「遠国の乱を鎮めんが為には、末々の御一族、乃至師直なんどこそ可罷下にて候へ共、是はいかにも上さまの自御下候て、御退治なくては叶まじきにて候。其故は九国の者共が兵衛佐殿に奉付事は、只将軍の君達にて御座候へば、内々御志を被通事は候はんと存ずる者にて候也。天下の人案に相違して、直に御退治の御合戦候はゞ、誰か父子の確執に天の罰を顧ぬ者候べき。将軍の御旗下にて、師直命を軽ずる程ならば、九国・中国悉御敵に与すと云共、何の恐か候べき。只夜を日に継で御下候へ。」と、強に勧め申ければ、将軍一義にも不及給、都の警固には宰相中将義詮を残置奉て、十月十三日征夷大将軍正二位大納言源尊氏卿、執事武蔵守師直を召具し、八千余騎の勢を卒し、兵衛佐直冬為誅罰とて、先中国へとぞ急給ける。
○錦小路殿落南方事 S2805
将軍、已明日西国へ可被立と聞へける其夜、左兵衛督入道慧源は、石堂右馬助頼房許を召具して、いづち共不知落給にけり。是を聞て世の危を思ふ人は、「すはや天下の乱出来ぬるは、高家の一類今に滅ん。」とぞ囁ける。事の様を知らぬ其方様の人々女姓なんどは、「穴浅猿や、こはいかに成ぬる世中ぞや。御共に参たる人もなし。御馬も皆厩に繋れたり。徒洗にては何くへか一足も落させ給ふべき。是は只武蔵守の計として、今夜忍やかに奉殺者也。」と、声も不惜泣悲む。仁木・細川の人々も執事の尾形に馳集て、「錦小路殿落させ給ひて候事、後の禍不遠と覚候へば、暫都に御逗留有て在所をも能々可被尋や候らん。」と被申ければ、師直、「穴こと/゛\し、縦何なる吉野十津河の奥、鬼海高麗の方へ落給ひたり共、師直が世にあらん程は誰か其人に与し奉べき。首を獄門の木に曝し、尸を匹夫の鏃に止め給はん事、三日が内を不可出。其上将軍御進発の事、已に諸国へ日を定て触遣しぬ。相図相違せば事の煩多かるべし。暫も非可逗留処。」とて、十月十三日の早旦に師直遂に都を立て、将軍を先立奉り、路次の軍勢駆具して、十一月十九日に備前の福岡に著給ふ。爰にて四国中国の勢を待けれ共、海上は波風荒て船も不通山陰道は雪降積て馬の蹄も立ざれば、馳参る勢不多。さては年明てこそ筑紫へは向はめとて、将軍備前の福岡にて徒に日をぞ送られける。
○自持明院殿被成院宣事 S2806
左兵衛督入道慧源は、師直が西国へ下らんとしける比をひ、潜に殺し可奉企有と聞へしかば、為遁其死忍で先大和国へ落て、越智伊賀守を憑まれたりければ、近辺の郷民共同心に合力して、路々を切塞ぎ四方に関を居て、誠に弐なげにぞ見へたりける。後一日有て、石堂右馬助頼房以下、少々志を存る旧好の人々馳参りければ、早隠れたる気色もなし。其聞へ都鄙の間に区也。何様天気ならでは私の本意を難達とて、先京都へ人を上せ、院宣を伺申されければ、無子細軈て被宣下、剰不望鎮守府将軍に被補。其詞云、被院宣云、斑鳩宮之誅守屋、朱雀院之戮将門、是豈非捨悪持善之聖猷哉。爰退治凶徒、欲息父叔両将之鬱念、叡感甚不少。仍補鎮守府将軍、被任左兵衛督畢。早卒九国二島並五畿七道之軍勢企上洛、可令守護天下。者依院宣執達如件。観応元年十月二十五日権中納言国俊奉足利左兵衛督殿
○慧源禅巷南方合体事付漢楚合戦事 S2807
左兵衛督入道、都を仁木・細川・高家の一族共に背かれて浮れ出ぬ。大和・河内・和泉・紀伊国は、皆吉野の王命に順て、今更武家に可付順共不見ければ、澳にも不著礒にも離たる心地して、進退歩を失へり。越智伊賀守、「角ては何様難儀なるべしと覚へ候。只吉野殿の御方へ御参候て、先非を改め、後栄を期する御謀を可被廻とこそ存候へ。」と申ければ、「尤此儀可然。」とて、軈て専使を以て、吉野殿へ被奏達けるは、元弘初、先朝為逆臣被遷皇居於西海、宸襟被悩候時、応勅命雖有起義兵輩、或敵被囲、或戦負屈機、空志処、慧源苟勧尊氏卿企上洛、応勅決戦、帰天下於一統皇化候事、乾臨定被残叡感候歟。其後依義貞等讒、無罪罷成勅勘之身、君臣空隔胡越之地、一類悉残朝敵之名条歎有余処也。臣罪雖誠重、天恩不過往、負荊下被免其咎、則蒙勅免綸言、静四海之逆乱、可戴聖朝之安泰候。此旨内内得御意、可令奏聞給候。恐惶謹言。十二月九日沙弥慧源進上四条大納言殿と委細の書状を捧て、降参の由をぞ被申たる。則諸卿参内して、此事如何が可有と僉議ありけるに、先洞院左大将実世公被申けるは、「直義入道が申処、甚以偽れり。相伝譜代の家人、師直・師泰が為に都を被追出身の措処なき間、聊借天威己為達宿意、奉掠天聴者也。二十余年の間一人を始進せて百司千官悉望鳳闕之雲、■飛鳥之翅事、然直義入道が不依悪逆乎。而今幸軍門に降らん事を請ふ、此天の与る処也。乗時是を不誅後の禍噛臍無益。只速に討手を差遣て首を禁門の前に可被曝とこそ存候へ。」と被申ける。次に二条関白左大臣殿暫思案して被仰けるは、「張良が三略の詞に、推慧施恩士力日新戦如風発といへり。是己謝罪者は忠貞に不懈誠以尽事、却て無弐故也。されば章邯楚に降て秦忽に破れ、管仲許罪斉則治事、尤今の世に可為指南。直義入道御方に参る程ならば、君天下を保せ給はん事万歳是より可始。只元弘の旧功を不被捨、官職に復して被召仕より外の義は非じとこそ覚へ候へ。」と異儀区にこそ被申けれ。諌臣両人の異儀、得失互に備ふ。是非難分。君も叡慮を被傾、末座の諸卿も言を出さで良久ある処に、北畠准后禅閤喩を引て被申けるは、「昔秦の世已に傾かんとせし時、沛公は沛郡より起り項羽は楚より起る。六国の諸候の秦を背く者彼両将に付順しかば、共に其威漸振て、沛公が兵十万余騎、漢の濮陽の東に軍だちし、項羽が勢は四十万騎、定陶を攻て雍丘の西に至る。沛公、項羽相共に古の楚王の末孫心と云し人、民間に下て羊を飼しを、取立義帝と号し、其御前にて、先咸陽に入て秦を亡したるらん者、必天下に王たるべしと約諾して、東西に分れて責上る。角て項羽已に鉅鹿に至時、秦の左将軍章邯、百万騎にて相待ける間、項羽自二十万騎にて河を渡て後、船を沈め釜甑を破て盧舎を焼。是は敵大勢にて御方小勢也。一人も生ては不返と心を一にして不戦ば、千に一も勝事非じと思ふ故に、思切たる心中を士卒に為令知也。於是秦の将軍と九たび遇て百たび戦。忽に秦の副将軍蘇角を討て王離を生虜しかば、討るゝ秦の兵四十余万人、章邯重て戦ふ事を不得、終に項羽に降て還て秦をぞ責たりける。項羽又新安城の戦に打勝て首を切事二十万、凡て項羽が向ふ処不破云事なく、攻る城は不落云事無りしか共、至所ごとに美女を愛し酒に淫し、財を貪り地を屠しかば、路次に数月の滞有て、末だ都へは不責入。漢の元年十一月に、函谷関にぞ著にける。沛公は無勢にして而も道難処を経しか共、民を憐み人を撫する心深して、財をも不貪人をも不殺しかば、支て防ぐ城もなく、不降云敵もなし。道開けて事安かりしかば、項羽に三月先立て咸陽宮へ入にけり。而共沛公志天下に有しかば、秦の宮室をも不焼、驪山の宝玉をも不散、剰降れる秦の子嬰を守護し奉て、天下の約を定めん為に、還て函谷へ兵を差遣し、項羽を咸陽へ入立じと関の戸を堅閉たりける。数月有て項羽咸陽へ入らんとするに、沛公の兵函谷関を閉て項羽を入ず。項羽大に怒て当陽君に十二万騎の兵を差副、函谷関を打破て咸陽宮へ入にけり。則降れる子嬰皇帝を殺奉て咸陽宮に火を懸たれば、方三百七十里に作双たる宮殿楼閣一も不残焼て、三月まで火不消、驪山の神陵忽に灰塵と成こそ悲しけれ。此神陵と申は、秦始皇帝崩御成し時、はかなくも人間の富貴を冥途まで御身に順へんと思して、楼殿を作瑩き山川をかざりなせり。天には金銀を以て日月を十丈に鋳させて懸け、地には江海を形取て銀水を百里に流せり。人魚の油十万石、銀の御錠に入て長時に灯を挑たれば、石壁暗しといへ共青天白日の如く也。此中に三公已下の千官六千人、宮門守護の兵一万人、後宮の美人三千人、楽府の妓女三百人、皆生ながら神陵の土に埋て、苔の下にぞ朽にける。始作俑人無後乎と文宣王の誡しも、今こそ思知れたれ。始皇帝如此執覚様々の詔を被残神陵なれば、さこそは其妄執も留給らんに、項羽無情是を堀崩して殿閣悉焼払しかば、九泉の宝玉二度人間に返るこそ愍なれ。此時項羽が兵は四十万騎新豊の鴻門にあり。沛公が兵は十万騎咸陽の覇上にあり。其間相去事三十里、沛公項羽に未相見。於是范増といへる項羽が老臣、項羽に口説て云けるは、「沛公沛郡に有し時、其振舞を見しかば、財を貪美女を愛する心尋常に越たりき。今咸陽に入て後、財をも不貪美女をも不愛。是其志天下にある者也。我人を遣して窃に彼陣中の体を見するに、旗文竜虎を書けり。是天子の気に非や。速に沛公を不討ば、必天下為沛公可被傾。」と申ければ、項羽げにもと聞ながら、我勢の強大なるを憑て、何程の事か可有と思侮てぞ居たりける。斯る処に沛公が臣下曹無傷と云ける者、潜に項羽の方へ人を遣して、沛公天下に王たらんとする由をぞ告たりける。項羽是を聞て、此上は無疑とて四十万騎の兵共に命じて、夜明ば則沛公の陣へ寄せ、一人も不余可討とぞ下知しける。爰に項羽が季父に項伯と云ける人、昔より張良と知音也ければ、此事を告知せて落さばやと思ける間、急沛公の陣へ行向ひ張良を呼出して、「事の体已に急也。今夜急ぎ逃去て命許を助かれ。」とぞ教訓したりける。張良元来義を重じて、節に臨む時命を思ふ事塵芥よりも軽せし者也ければ、何故か事の急なるに当て、高祖を捨て可逃去とて、項伯が云処を沛公に告ぐ。沛公大に驚て、「抑我兵を以て項羽と戦ん事、勝負可依運や。」と問給へば、張良暫く案じて、「漢の兵は十万騎、楚は是四十万騎也。平野にて戦んに、漢勝事を難得。」とぞ答へける。沛公、「さらば我項伯を呼て、兄弟の交をなし婚姻の義を約して、先事の無為ならんずる様を謀らん。」とて項伯を帷幕の内へ呼給て、先旨酒を奉じ自寿をなして宣ひけるは、「初我と項王と約を成て先咸陽に入らん者を王とせんと云き。我項王に先立て咸陽に入事七十余日、而れ共約を以て我天下に王たらん事を不思、関に入て秋毫も敢て近付処に非ず。吏民を籍し府庫を封じて項王の来給はん日を待。是世の知る処也。兵を遣して函谷関を守らせし事は、全く項王を防に非ず。他盜人の出入と非常とを備へん為也き。願は公速に帰て、我が徳に不倍処を項王に語て明日の戦を留給へ。我則旦日項王の陣に行て自無罪故を可謝。」と宣ば、項伯則許諾して馬に策てぞ帰にける。項伯則項王の陣に行て具に沛公の謝する処を申けるは、「抑沛公先関中を破らざらましかば、項王今咸陽に入て枕を高し食を安ずる事を得ましや。今天下の大功は然沛公にあり。而るを小人の讒を信じて有功人を討ん事大なる不義也。不如沛公と交を深し功を重じて天下を鎮めんには。」と、理を尽して申ければ、項羽げにもと心服して顔色快く成にけり。暫あれば沛公百余騎を随へて来て項王に見ゆ。仍礼謝して曰、「臣項王と力を勠て秦を攻し時、項王は河北に戦ひ臣は河南に戦ふ。不憶き、万死を秦の虎口に逋れて、再会を楚の鴻門に遂んとは。而るに今佞人の讒に依て臣項王と胡越の隔有らん事豈可不悲乎。」と首を著地宣へば、項羽誠に心解たる気色にて、「是沛公の左司馬曹無傷が告知せしに依て頻に沛公を疑き。不然何以てか知事あらん。」と、忽に証人を顕して誠に所存なげなる体、心浅くぞ見へたりける。項羽頻に沛公を留めて酒宴に及ぶ。項王項伯とは東に嚮て坐し、范増は南に嚮たり。沛公は北に嚮て坐し、張良は西嚮て侍り。范増は兼てより、沛公を討ん事非今日ば何をか可期と思ければ、項羽を内へ入て、沛公と刺違へん為に、帯たる所の太刀を拳て、三度まで目加しけれ共、項羽其心を不悟只黙然としてぞ居たりける。范増則座を立て、項荘を呼て申けるは、「我為項王沛公を討んとすれ共項王愚にして是を不悟。汝早席に帰て沛公を寿せよ。沛公盃を傾ん時、我与汝剣を抜て舞ふ真似をして、沛公を坐中にして殺ん。而らずは汝が輩遂に沛公が為に亡されて、項王の天下を奪はれん事は、一年の中を不可出。」と涙を流て申ければ、項荘一義に不及。則席に帰て、自酌を取て沛公を寿す。沛公盃を傾る時、項荘、「君王今沛公と飲酒す。軍中楽を不為事久し。請臣等剣を抜て太平の曲を舞ん。」とて、項荘剣を抜て立。范増も諸共に剣を指かざして沛公の前に立合たり。項伯彼等が気色を見、沛公を討せじと思ければ、「我も共に可舞。」とて同又剣を抜て立。項荘南に向へば項伯北に向て立。范増沛公に近付ば項伯身を以て立隠す。依之楽已に徹んとするまで沛公を討事不能。少し隙ある時に張良門前に走出て誰かあると見るに、樊■つと走寄て、坐中の体如何と問ければ、張良、「事甚急也。今項荘剣を抜て舞ふ。其意常に沛公に在。」と答ければ、樊■、「此已に喉迫る也。速に入て沛公と同命を失んにはしかじ。」とて、胄の緒を縮め、鉄の楯を挟て、軍門の内へ入んとす。門の左右に交戟の衛士五百余人、戈を支へ太刀を抜て是を入じとす。樊■大に忿て、其楯を身に横へ門の関の木七八本押折て、内へつと走入れば、倒るゝ扉に打倒され、鉄の楯につき倒されて、交戟の衛士五百人地に臥して皆起あがらず。樊■遂に軍門に入て、其帷幕を掲て目を嗔し、項王をはたと睨で立けるに、頭の髪上にあがりて胄の鉢をゝひ貫き、師子のいかり毛の如く巻て百千万の星となる。眦逆に裂て、光百練の鏡に血をそゝぎたるが如、其長九尺七寸有て忿れる鬼鬚左右に分れたるが、鎧突して立たる体、何なる悪鬼羅刹も是には過じとぞ見へたりける。項王是を見給て、自剣を抜懸て跪て、「汝何者ぞ。」と問給へば、張良、「沛公の兵に樊■と申者にて候也。」とぞ答ける。項羽其時に居直て、「是天下の勇士也。彼に酒を賜はん。」とて、一斗を盛る巵を召出して樊■が前にをき、七尾許なる■の肩を肴にとつて出されたり。樊■楯を地に覆剣を抜て■の肩を切て、少も不残噛食て巵に酒をたぶ/\と受て三度傾け、巵を閣て申けるは、「夫秦王虎狼の心有て人を殺し民を害する事無休時。天下依之秦を不背云者なし。爰に沛公と項王と同く義兵を揚、無道の秦を亡して天下を救はん為に、義帝の御前にして血をすゝりて約せし時、先秦を破て咸陽に入らん者を王とせんと云き。然るに今沛公項王に先立て咸陽に入事数月、然共秋毫も敢て近付る所非ず。宮室を封閉して以て項王の来給はん事を待、是豈沛公の非仁義乎。兵を遣して函谷関を守しめし事は、他の盜人の出入と非常とに備へん為也き。其功の高事如此。未封侯の賞非ずして剰有功の人を誅せんとす。是亡秦の悪を続で自天の罰を招く者也。」と、少も不憚項王を睨て申せば、項王答るに言ば無して只首を低て赤面す。樊■は加様に思程云散して、張良が末座に著。暫有て沛公厠に行真似して、樊■を招て出給ふ。潜に樊■に向て、「先に項荘が剣を抜て舞つる志偏に吾を討んと謀る者也。座久して不帰事危に近し。是より急我陣へ帰らんと思ふが、不辞出ん事非礼。如何すべき。」と宣へば、樊■、「大行は不顧細謹、大礼は不必辞譲、如今人は方に為刀俎、我は為魚肉、何ぞ辞することをせんや。」とて、白璧一双と玉の巵一双とを張良に与て留置き、驪山の下より間道を経て、竜蹄に策を進め給へば、■強・紀信・樊■・夏侯嬰四人、自楯を挟み戈を採て、馬の前後に相順ふ。其道二十余里、嶮きを凌ぎ絶たるを渡て、半時を不過覇上の陣に行至りぬ。初め沛公に順ひし百余騎の兵共は、猶項王の陣の前に並居て、張良未鴻門にあれば人皆沛公の帰給へるを不知。暫有張良座に返て謝して曰、「沛公酔て坏を酌に不堪、退出し給ひ候つるが、臣良をして、謹で足下に可献之と被申置。」とて、先白璧一双を奉て、再拝して項王の前にぞ置たりける。項王白璧を受て、「誠に天下の重宝也。」と感悦して、坐上に置て自愛し給ふ事無類。其後張良又玉斗一双を捧て范増が前にぞ置たりける。范増大に忿て、玉斗を地に投剣を抜て突摧き、項王をはたと睨て、「嗟豎子不足与謀奪項王之天下者必沛公なるべし。奈何せん吾属今為之虜とならん事。白璧重宝也といへ共豈天下に替んや。」とて、怒る眼に泪を流し半時ばかりぞ立たりける。項王猶も范増が心を不悟、痛く酔て帳中に入給へば、張良百余騎を順て覇上に帰りぬ。沛公の軍門に至て、項王の方へ返忠しつる曹無傷を斬て、首を軍門に被懸。浩りし後は沛公項王互に相見ゆる事なし。天下は只項羽が成敗に随て、賞罰共に明ならざりしかば、諸侯万民皆共、沛公が功の隠れて、天下の主たらざる事をぞ悲みける。其後項羽と沛公と天下を争気已に顕れて、国々の兵両方に属せしかば、漢楚二に分れて四海の乱無止時。沛公をば漢の高祖と称す。其手に属する兵には、韓信・彭越・蕭何・曹参・陳平・張良・樊■・周勃・黥布・盧綰・張耳・王陵・劉賈・■商・潅嬰・夏侯嬰・傅寛・劉敬・■強・呉■・■食其・董公・紀信・轅生・周苛・侯公・随何・陸賈・魏無知・斉孫通・呂須・呂巨・呂青・呂安・呂禄以下の呂氏三百余人都合其勢三十万騎、高祖の方にぞ属しける。楚の項羽は元来代々将軍の家也ければ、相順ふ兵八千人あり。其外今馳著ける兵には、櫟陽長史欣・都尉董翳・塞王司馬欣・魏王豹・瑕丘申陽・韓王・成・趙司馬■・趙王歇・常山王張耳・義帝柱国共敖・遼東韓広・燕将臧荼・田市・田都・田安・田栄・成安君陳余・番君将梅■・雍王章邯、是は河北の戦ひ破れて後、三十万騎の勢にて項羽に降て属せしかば、項氏十七人、諸侯五十三人、都合其勢三百八十六万騎、項王の方にぞ加りける。漢の二年に項王城陽に至て、高祖の兵田栄と戦ふ。田栄が軍破れて降人に出ければ、其老弱婦女に至るまで、二十万人を土の穴に入て埋て是を殺す。漢王又五十六万人を卒して彭城に入る。項羽自精兵三万人を将て胡陵にして戦ふ。高祖又打負ければ、楚則漢の兵十余万人を生虜て■水の淵にぞ沈めける。■水為之不流。高祖二度戦負て霊壁の東に至る時、其勢纔に三百余騎也。項王の兵三百万騎、漢王を囲ぬる事三匝、漢可遁方も無りける処に、俄に風吹雨荒して、白日忽に夜よりも尚暗かりければ、高祖数十騎と共に敵の囲を出て、豊沛へ落給ふ。是を追て沛郡へ押寄ければ、高祖兵共爰に支へ彼こに防で、打死する者二十余人、沛郡の戦にも又漢王打負給ひければ、高祖の父大公、楚の兵に虜れて項王の前に引出さる。漢王又周呂侯と蕭何が兵を合せて二十万余騎、■陽に至る。項王勝に乗て八十万騎彭城より押寄て相戦ふ。此時漢の戦纔に雖有利、項王更に物共せず。漢楚互に勢を振て未重て不戦、共に広武に張陣川を隔てぞ居たりける。或時項王の陣に高き俎を作て、其上に漢王の父大公を置て高祖に告て云く、「是沛公が父に非や。沛公今首を延て楚に降らば太公と汝が命を助ん。沛公若楚に降らずは、急に大公を可烹殺。」とぞ申ける。漢王是を聞て、大に嘲て云、「吾項羽と北面にして命を懐王に受し時、兄弟たらん事を誓き。然れば吾父は即汝が父也。今而に父を烹殺さば幸に我に一盃の羹を分て。」と、欺れければ、項王大に怒て即大公を殺さんとしけるを、項伯堅諌ければ、「よしさらば暫し。」とて、大公を殺事をば止めてけり。漢楚久相支て未勝負を決、丁壮は軍旅に苦み老弱は転漕に罷る。或時項羽自甲胄を著し戈を取、一日に千里を走る騅と云馬に打乗て、只一騎川の向の岸に控て宣けるは、「天下の士卒戦に苦む事已に八箇年、是我と沛公と只両人を以ての故也。そゞろに四海の人民を悩さんよりは、我と沛公と独身にして雌雄を決すべし。」と招て、敵陣を睨でぞ立たりける。爰に漢皇自帷幕の中より出て、項王をせめて宣けるは、「夫項王自義無して天罰を招く事其罪非一。始項羽と与に命を懐王に受し時、先入て関中を定めたらん者を王とせんと云き。然を項羽忽に約を背て、我を蜀漢に主たらしむ。其罪一。宋義、懐王の命を受て卿子冠軍となる処に、項羽乱に其帷幕に入て、自卿子冠軍の首を斬て、懐王我をして是を誅せしめたりと偽て令を軍中に出す。其罪二。項羽趙を救て戦利有し時、還て懐王に不報、境内の兵を掃て自関に入る。其罪三。懐王堅く令すらく、秦に入らば民を害し財を貪る事なかれと。項羽数月をくれて秦に入し後、秦の宮室を焼き、驪山の塚を堀て其宝玉を私にせり。其罪四。又降れる秦王子嬰を殺して、天下にはびこる。其罪五。詐て秦の子弟を新安城の坑に埋て殺せる事二十万。其罪六。項羽のみ善地に王として故主を逐誅たり。畔逆是より起る。其罪七。懐王を彭城に移して韓王の地を奪、合せて梁楚に王として自天下を与り聞く。其罪八。項羽人をして陰に懐王を江南に殺せり。其罪九。此罪は天下の指所、道路目を以てにくも者也。大逆無道の甚事、天豈公を誡刑せざらんや。何ぞいたづがはしく、項羽と独身にして戦ふ事を致さん。公が力山を抜といへ共我義の天に合るには如じ。而らば刑余の罪人をして甲兵金革をすて、挺楚を制して、項羽を可撃殺。」と欺て、百万の士卒、同音に箙を敲てどつと笑ふ。項羽大に怒て自強弩を引て漢王を射る。其矢河の面て四町余を射越して漢王の前に控たる兵の、鎧の草摺より引敷の板裏をかけず射徹し、高祖の鎧の胸板に、くつまき責てぞ立たりける。漢の兵に楼煩と云けるは、強弓の矢継早、馬の上の達者にて、三町四町が中の物をば、下針をも射る程の者也けるが、漢王の当の矢を射んとて矢比過て懸出たりけるを、項羽自戟を持て立向ひ、目を瞋かし大音声を揚て、「汝何者なれば、我に向て弓を引んとはするぞ。」と怒てちやうどにらむ。其勢に僻易して、さしもの楼煩目敢て物を不見、弓を不引得人馬共に振ひ戦て、漢王の陣へぞ逃入ける。漢王疵を蒙て愈を待程に、其兵皆気を失ひしかば、戦毎に楚勝に不乗云事なし。是只范増が謀より出て、漢王常に囲まれしかば、陳平・張良等、如何にもして此范増を討んとぞ計りける。或時項王の使者漢王の方に来れり。陳平是に対面して、先酒を勧めんとしけるに、大■の具へを為て山海の珍を尽し旨酒如泉湛て、沙金四万斤、珠玉・綾羅・錦綉以下の重宝、如山積上て、引出物にぞ置たりける。陳平が語る詞毎に、使者敢て不心得、黙然として答る事無りける時に、陳平詐驚て、「吾公を以て范増が使也と思て密事を語、今項王の使なる事を知て、悔るに益なし。是命を伝る者の誤也。」と云て、様々に積置ける引出物を皆取返し、大■の具へを取入て、却て飢口にだにもあきぬべき、悪食をぞ具へける。使者帰て此由を項王に語る。項王是より范増が漢王と密儀を謀て、返忠をしけるよと疑て、是が権を奪て誅せん事を計る。范増是を聞て、一言も遂に不陳謝。「天下の事大に定ぬ。君王自是を治め給へ。我已に年八十余、命の中に君が亡んを見ん事も可悲。只願は我首を刎て市朝に被曝歟、不然鴆毒を賜て死を早せん。」と請ければ、項王弥瞋て鴆毒を呑せらる。范増鴆を呑て後未三日を不過血を吐てこそ死にけれ。楚漢相戦て已に八箇年自相当る事七十余度に及ぶまで、天下楚を背といへ〔共〕、項羽度ごとに勝に乗し事は、只楚の兵の猛く勇めるのみに非ず。范増謀を出して民をはぐゝみ、士を勇め敵の気を察し、労せる兵を助け化を普く施して、人の心を和せし故也。されば范増死を賜し後、諸侯悉楚を負て漢に属せる者甚多し。漢楚共に■陽の東に至て久相支へたる時に、漢は兵盛に食多して楚は兵疲れ食絶ぬ。此時漢の陸賈を楚に使して曰、「今日より後は天下を中分して、鴻溝より西をば漢とし東をば楚とせん。」と和を請給ふに、項王悦て其約を堅し給ふ。仍先に生取て戦の弱き時には、是を烹殺さんとせし漢王の父太公を緩して、漢へぞ送られける。軍勢皆万歳を呼ふ。角て楚は東に帰り漢は西に帰らんとしける時、陳平・張良共に漢王に申けるは、「漢今天下の太半を有て諸侯皆付順ふ。楚は兵罷て食尽たり。是天の楚を亡す時也。此時不討只虎を養て自患を遺侯者なるべし。」漢王此諌に付て即諸候に約し、三百余万騎の勢にて項王を追懸給ふ。項羽僅十万騎の勢を以て固陵に返し合て漢と相戦ふ。漢の兵四十余万人討れて引退く。是を聞て韓信、斉国の兵三十万騎を卒して、寿春より廻て楚と戦ふ。彭越、彭城の兵二十万騎を卒して、城父を経て楚の陣へ寄せ、敵の行前を遮て張陣。大司馬周殷、九江の兵十万騎を卒して、楚の陣へ押寄せ水を阻て取篭る。東南西北悉百重千重に取巻たれば、項羽可落方無て、垓下の城にぞ被篭ける。漢の兵是を囲める事数百重、四面皆楚歌するを聞て項羽今宵を限と思はれければ、美人虞氏に向て、泪を流し詩を作て悲歌慷慨し給ふ。虞氏悲に不堪、剣を給て自其刃に貫れて臥ければ、項羽今は浮世に無思事と悦て、夜明ければ、討残されたる兵二十八騎を伴ふて、先四面を囲みぬる漢の兵百万余騎を懸破り、烏江と云川の辺に打出給ひ、自泪を押て其兵に語て曰、「吾兵を起してより以来、八箇年の戦に、自逢事七十余戦、当る所は必破る、撃つ所は皆服す。未嘗より一度も不敗北遂に覇として天下を有てり。然共今勢ひ尽力衰へて漢の為に被亡ぬる事、全非戦罪只天我を亡す者也。故に今日の戦に、我必快く三度打勝て、而も漢の大将の頚を取、其旗を靡かして、誠に我言処の不誤事を汝等にしらすべし。」とて、二十八騎を四手に分、漢の兵百万騎を四方に受て控へたる処に、先一番に漢の将軍淮陰侯、三十万騎にて押寄たり。項羽二十八騎を迹に立て、真前に懸入て、自敵三百余騎斬て落し、漢大将の首を取て鋒に貫て、本の陣へ馳返り、山東にして見給へば、二十八騎の兵、八騎討れて二十騎に成にけり。其勢を又三所に控へさせて、近く敵を待懸たるに、孔将軍二十万騎、費将軍五十万騎にて東西より押寄たり。項王又大に呼て山東より馳下、両陣の敵を四角八方へ懸散し、逃る敵五百余人を斬て落し、又大将都尉が頭を取、左の手に提て、本の陣へ馳返り、其兵を見給ふに纔七騎に成にけり。項羽自漢の大将軍三人の頭を鋒に貫て指揚、七騎の兵に向て、「何に汝等我言所に非ずや。」と問給へば、兵皆舌を翻て、「誠に大王の御言の如し。」と感じける。項羽已に五十余箇所疵を被てければ、「今は是までぞ、さらば自害をせん。」とて、烏江の辺に打臨給ふ。爰に烏江の亭の長と云者、舟を一艘漕寄せて、「此川の向は項王の御手に属して、所々の合戦に討死仕りし兵共の故郷にて候。地狭しといへ共其人数十万人あり。此舟より外は可渡浅瀬もなく、又橋もなし。漢の兵至る共、何を以てか渡る事を得ん。願は大王急ぎ渡て命をつぎ、重て大軍を動かして、天下を今一度覆し給へ。」と申ければ、項王大に哈て、「天我を亡せり。我何んか渡る事をせん。我昔江東の子弟八千人と此川を渡て秦を傾け、遂に天下に覇として賞未士卒に不及処に、又高祖と戦ふ事八箇年、今其子弟一人も還る者無して、我独江東に帰らば、縦江東の父兄憐で我を王とすとも、我何の面目有てか是に見ゆる事を得ん。彼縦不言共、我独心に不愧哉。」とて、遂に河を不渡給。され共、亭の長が其志を感じて、騅と云ける馬の一日に千里を翔るを、只今まで乗給ひたるを下て、亭の長にぞたびたりける。其後歩立に成て、只三人猶忿て立給へる所へ、赤泉侯騎将として二万余騎が真前に進み、項王を生取んと馳近付。項王眼を瞋し声を発して、「汝何者なれば我を討んとは近付ぞ。」と忿て立向給ふに、さしもの赤泉侯其人こそあらめ、意なき馬さへ振ひ戦て、小膝を折てぞ臥たりける。爰に漢の司馬呂馬童が遥に控たりけるを、項王手を挙て招き、「汝は吾年来の知音也。我聞、漢我頭を以て千金の報万戸の邑に購と、我今汝が為に頭を与て、朋友の恩を謝すべし。」と云。呂馬童泪を流して敢て項羽を討んとせず。項羽、「よしやさらば我と我頚を掻切て、汝に与へん。」とて、自剣を抜て己が首を掻落し、左の手に差挙て立すくみにこそ死給ひけれ。項王遂に亡て、漢七百の祚を保し事は、陣平・張良が謀にて、偽て和睦せし故也。其智謀今又当れり。然れば只直義入道が申旨に任て先御合体あらば、定て君を御位に即進せて、万機の政を四海に施されん歟。聖徳普して、士卒悉帰服し奉らば、其威忽に振て逆臣等を亡されんに、何の子細か候べき。」と、次での才学と覚へて、言ば巧に申されければ、諸卿げにもと同心して、即勅免の宣旨をぞ被下ける。被綸言云、温故知新者、明哲之所好也。撥乱復正者、良将之所先也。而不忘元弘之旧功奉帰皇天之景命、叡感之至、尤足褒賞。早揚義兵可運天下静謐之策。者綸旨如此、仍執達如件。正平五年十二月十三日左京権大夫正雄奉足利左兵衛督入道殿とぞ被成ける。是ぞ誠に君臣永不快の基、兄弟忽向背の初と覚へて、浅猿かりし世間なり。


太平記
太平記巻第二十九

○宮方京攻事 S2901
暫時の智謀事成しかば、三条左兵衛督入道慧源と吉野殿と御合体有て、慧源は大和の越智が許に坐ければ、和田・楠を始として大和・河内・和泉・紀伊国の宮方共、我も我もと三条殿に馳参る。是のみならず、洛中辺土の武士共も、面々に参ると聞へしかば、無弐の将軍方にて、楠退治の為に、石河々原に向城を取て被居たりける畠山阿波将監国清も、其勢千余騎にて馳参る。謳歌の説巷に満て、南方の勢已に京へ寄すると聞へけれ。京都の警固にて坐ける宰相中将義詮朝臣より早馬を立て、備前の福岡に、将軍九州下向の為とて座しける所へ、急を被告事頻並也。依之将軍より飛脚を以て、越後守師泰が、石見の三角の城退治せんとて居たりけるを、其国は兔も角もあれ、先京都一大事なれば、夜を日に継で可上洛由をぞ被告ける。飛脚の行帰る程日数を経ければ、師泰が参否の左右を待までもなしとて、将軍急福岡を立て、に千余騎にて上洛し給ふ。入道左兵衛督此由を聞て、さらば京都に勢の著ぬ前に、先義詮を責落せとて、観応二年正月七日、七千余騎にて八幡山に陣を取る。桃井右馬権頭直常、其比越中の守護にて在国したりけるが、兼て相図を定たりければ、同正月八日越中を立て、能登・加賀・越前の勢を相催し、七千余騎にて夜を日に継で責上る。折節雪をびたゝしく降て、馬の足も不立ければ、兵を皆馬より下し、橇を懸させ、二万余人を前に立て、道を蹈せて過たるに、山の雪氷て如鏡なれば、中々馬の蹄を不労して、七里半の山中をば馬人容易越はてゝ、比叡山の東坂本にぞ著にける。足利宰相中将義詮は其比京都に坐しけるが、八幡山、比叡坂本に大敵を請て、非可由断、著到を付て勢を見よとて、正月八日より、日々に著到を被付けり。初日は三万騎と註したりけるが、翌日は一万騎に減ず。翌日は三千騎になる。是は如何様御方の軍勢敵になると覚ゆるぞ。道々に関を居よとて、淀・赤井・今路・関山に関を居たれば、関守共に打連て、我も我もと敵に馳著ける程に、同十二日の暮程には、御内・外様の御勢五百騎に不足とぞ注したる。さる程に十三日の夜より、桃井山上に陣を取ぬと見へて、大篝を焼けば、八幡山にも相図の篝を焼つゞけたり。是を見て、仁木・細川以下宗との人人評定有て、「合戦は始終の勝こそ肝要にて候へ。此小勢にて彼大敵にあわん事、千に一も勝事を難得覚候。其上将軍已に西国より御上候なれば、今は摂津国辺にも著せ給て候覧。只京都を無事故御開候て、将軍の御勢と一になり、則京都へ寄られ候はゞ、などか思ふ図に合戦一度せでは候べき。」と被申ければ、義詮卿、「義は宜に順ふに不如。」とて、正月十五日早旦に、西国を差て落給へば、同日の午刻に、桃井都へ入り替る。治承の古へ平家都を落たりしか共、木曾は猶天台山に陣を取て十一日まで都へ不入。是全入洛を非不急、敵を欺かざる故なり。又は軍勢の狼藉を静めん為なりき。武略に長ぜる人は、慎む処加様にこそ堅かるべし。今直常敵の落ぬといへばとて、人に兵粮をもつかはせず、馬に糠をもかはせず、楚忽に都へ入替る事其要何事ぞや。敵若偽て引退き、却て又寄来事あらば、直常打負ぬと云はぬ人こそ無りけれ。又桃井を引者は、敵御方勝負を決すべきならば、争か敵を欺ざるべき。未落ぬ先にも入洛すべし。まして敵落なば、何しにすこしも擬議すべき。如何にも入洛を急てこそ、日比の所存も達しぬべけれ。若敵偽て引退き、又帰寄る事あらば、京都にて尸を曝したらん事何か苦かるべき。又軍勢の狼藉は、入洛の遅速に依べからず。其上深き了簡もをはすらんと、申族も多かりけり。
○将軍上洛事付阿保秋山河原軍事 S2902
義詮心細く都を落て、桂河を打渡り、向明神を南へ打過させ給んとする処に、物集女の前西の岡に当て、馬煙夥しく立て、勢の多少は未見、旗二三十流翻て、小松原より懸出たり。義詮馬を控て、「是は若八幡より搦手に廻る敵にてや有らん。」とて、先人をみせに被遣たれば、八幡の敵にはあらで、将軍と武蔵守師直、山陽道の勢を駆具し、二万余騎を率して上洛し給ふにてぞ有ける。義詮を始奉て、諸軍勢に至るまで、只窮子の他国より帰て、父の長者に逢へるが如、悦び合事限なし。さらば軈取て返して洛中へ打寄せ、桃井を責落せと、将軍父子の御勢都合二万余騎を桂川より三手に分て、大手は武蔵守を大将として、仁木兵部大輔頼章・舎弟右馬権助義長・細河阿波将監清氏・今河駿河守、五千余騎四条を東へ押寄る。佐々木佐渡判官入道は、手勢七百余騎を引分て、東寺の前を東へ打通りて、今比叡の辺に控へ、大手の合戦半ならん時、思も寄ぬ方より、敵の後へ蒐出んと、旗竿を引側め笠符を巻隠し、東山へ打上る。将軍と宰相中将殿は、一万余騎を一手に合、大宮を上に打通り、二条を東へ法勝寺の前に打出んと、相図を定て寄せ給ふ。是は桃井東山に陣を取たりと聞ければ、四条より寄る勢に向て、合戦は定て川原にてぞ有んずらん。御方偽て京中へ引退かば、桃井定勝に乗て進まん歟、其時道誉桃井が陣の後へ蒐出て、不意に戦を致さば前後の大敵に遮られて、進退度を失はん時、将軍の大勢北白河へ懸出て、敵の後へ廻る程ならば、桃井武しと云共引かではやはか戦と、謀を廻す処也。如案中の手大宮にて旗を下して、直に四条川原へ懸出たれば、桃井は東山を後にあて賀茂河を前に堺て、赤旗一揆・扇一揆・鈴付一揆・二千余騎を三所に控て、射手をば面に進ませ、帖楯二三百帖つき並べて、敵懸らば共に蒐り合ふて、広みにて勝負を決せんと、静り返て待懸たり。両陣旗を上て、時の声をば揚たれ共、寄手は搦手の勢の相図を待て未懸ず。桃井は八幡の勢の攻寄んずる程を待て、態事を延さんとす。互に勇気を励す程に、或は五騎十騎馬を懸居懸廻、かけ引自在に当らんと、馬を乗浮もあり。或は母衣袋より母衣取出して、是を先途の戦と思へる気色顕れて、最後と出立人もあり。斯る処に、桃井が扇一揆の中より、長七尺許なる男の、ひげ黒に血眼なるが、火威の鎧に五枚甲の緒を縮、鍬形の間に、紅の扇の月日出したるを不残開て夕陽に耀かし、樫木の棒の一丈余りに見へたるを、八角に削て両方に石突入れ、右の小脇に引側めて、白瓦毛なる馬の太く逞しきに、白泡かませて、只一騎河原面に進出て、高声に申けるは、「戦場に臨む人毎に、討死を不志云者なし。然共今日の合戦には、某殊更死を軽じて、日来の広言をげにもと人に云れんと存也。其名人に知らるべき身にても候はぬ間、余にこと/゛\しき様に候へ共、名字を申にて候也。是は清和源氏の後胤に、秋山新蔵人光政と申者候。出王氏雖不遠、已に武略の家に生れて、数代只弓箭を把て、名を高せん事を存ぜし間、幼稚の昔より長年の今に至まで、兵法を哢び嗜む事隙なし。但黄石公が子房に授し所は、天下の為にして、匹夫の勇に非ざれば、吾未学、鞍馬の奥僧正谷にて愛宕・高雄の天狗共が、九郎判官義経に授し所の兵法に於ては、光政是を不残伝へ得たる処なり。仁木・細河・高家の御中に、吾と思はん人々名乗て是へ御出候へ。声花なる打物して見物の衆の睡醒さん。」と呼はて、勢ひ当りを撥て西頭に馬をぞ控へたる。仁木・細河・武蔵守が内に、手柄を顕し名を知れたる兵多といへ共、如何思けん、互に目を賦て吾是に懸合て勝負をせんと云者もなかりける処に、丹の党に阿保肥後守忠実と云ける兵、連銭葦毛なる馬に厚総懸て、唐綾威の鎧竜頭の甲の緒を縮め、四尺六寸の貝鏑の太刀を抜て、鞘をば河中へ投入れ、三尺二寸の豹の皮の尻鞘かけたる金作の小太刀帯副て、只一騎大勢の中より懸出て、「事珍しく耳に立ても承る秋山殿の御詞哉。是は執事の御内に阿保肥前守忠実と申者にて候。幼稚の昔より東国に居住して、明暮は山野の獣を追ひ、江河の鱗を漁て業とせし間、張良が一巻の書をも呉氏・孫氏が伝へし所をも、曾て名をだに不聞。され共変化時に応じて敵の為に気を発する処は、勇士の己れと心に得る道なれば、元弘建武以後三百余箇度の合戦に、敵を靡け御方を助け、強きを破り堅きを砕く事其数を不知。白引の精兵、畠水練の言にをづる人非じ。忠実が手柄の程試て後、左様の広言をば吐給へ。」と高かに呼はて、閑々と馬をぞ歩ませたる。両陣の兵あれ見よとて、軍を止て手を拳る。数万の見物衆は、戦場とも不云走寄て、かたづを呑て是を見る。誠に今日の軍の花は、只是に不如とぞ見へたりける。相近になれば阿保と秋山とにつこと打笑て、弓手に懸違へ馬手に開合て、秋山はたと打てば、阿保うけ太刀に成て請流す。阿保持て開てしとゞ切れば、秋山棒にて打側く。三度逢三度別ると見へしかば、秋山は棒を五尺許切折れて、手本僅に残り、阿保は太刀を鐔本より打折れて、帯添の小太刀許憑たり。武蔵守是を見て、「忠実は打物取て手はきゝたれ共、力量なき者なれば、力勝りに逢て始終は叶はじと覚るぞ、あれ討すな。秋山を射て落せ。」とぞ被下知。究竟の精兵七八人河原面に立渡て、雨の降るが如く散々に射る。秋山件の棒を以て、只中を指て当る矢二十三筋まで打落す。忠実も情ある者也ければ、今は秋山を討んともせず、剰御方より射矢を制して矢面にこそ塞りけれ。かゝる名人を無代に射殺さんずる事を惜て、制しけるこそやさしけれ。角て両方打除て、諸人の目をぞさましける。されば其比、霊仏霊社の御手向、扇団扇のばさら絵にも、阿保・秋山が河原軍とて書せぬ人はなし。其後合戦始て、桃井が七千余騎、仁木・細河が一万余騎と、白河を西へまくり東へ追靡け、七八度が程懸合たるに、討るゝ者三百人、疵を被る者数を不知。両陣互に戦屈して控息を継処に、兼の相図を守て、佐々木判官入道々誉七百余騎にて、思も寄らぬ中霊山の南より、時をどつと作て桃井が陣の後へ懸出たり。桃井が兵是に驚きあらけて、二手に分て相戦ふ。桃井は西南の敵に破立られて、兵引色にみへける間、兄弟二人態と馬より飛で下り、敷皮の上に著座して、「運は天にあり、一足も引事有べからず。只討死をせよ。」とぞ下知しける。去程に日已に夕陽に及て、戦数剋に成ぬれども、八幡の大勢は曾不攻合せ、北国の兵気疲れて暫東山に引上んとしける処に、将軍並羽林の両勢五千余騎、二条を東へ懸出て、桃井を山上へ又引返させじと、跡を隔てぞ取巻ける。桃井終日の合戦に入替る勢もなくて、戦疲れたる上、三方の大敵に囲れて、叶じとや思けん、粟田口を東へ山科越に引て行。され共尚東坂本までは引返さで、其夜は関山に陣を取て、大篝を焼てぞ居たりける。
○将軍親子御退失事付井原石窟事 S2903
将軍都へ立帰給て、桃井合戦に打負ぬれば、今は八幡の御敵共も、大略将軍へぞ馳参らんと、諸人推量を廻して、今はかうと思れけるに、案に相違して、十五日の夜半許に、京都の勢又大半落て八幡の勢にぞ加りける。「こはそも何事ぞ。戦に利あれば、御方の兵弥敵になる事は、よく早尊氏を背く者多かりける。角ては洛中にて再び戦を致し難し。暫く西国の方へ引退て、中国の勢を催し、東国の者共に牒し合て、却て敵を責ばや。」と、将軍頻に仰あれば、諸人、「可然覚へ候。」と同じて、正月十六日の早旦に丹波路を西へ落給ふ。昨日は将軍都に立帰て桃井戦に負しかば、洛中には是を悦び八幡には聞て悲む。今日は又将軍都を落給て桃井軈て入替ると聞へしかば、八幡には是を悦び洛中には潜に悲む。吉凶は糾る縄の如く。哀楽時を易たり。何を悦び何事を可歎共不定め。将軍は昨日都を東嶺の暁の霞と共に立隔り、今日は旅を山陰の夕の雲に引別て、西国へと赴き給ひけるが、名将一処に集らん事は計略なきに似たりとて、御子息宰相中将殿に、仁木左京大夫頼章・舎弟右京大夫義長を相副て二千余騎、丹波の井原石龕に止めらる。此寺の衆徒、元来無弐志を存せしかば、軍勢の兵粮、馬の糟藁に至るまで、如山積上たり。此所は岸高く峯聳て、四方皆嶮岨なれば、城郭の便りも心安く覚へたる上、荻野・波波伯部・久下・長沢、一人も不残馳参て、日夜の用心隙無りければ、他日窮困の軍勢共、只翰鳥の■を出、轍魚の水を得たるが如くにて、暫く心をぞ休めける。相公登山し給し日より、岩室寺の衆徒、坐醒さずに勝軍毘沙門の法をぞ行ける。七日に当りたりし日、当寺の院主雲暁僧都、巻数を捧げて参けり。相公則僧都に対面し給て、当寺開山の事の起り、本尊霊験顕し給ひし様など、様々問ける次に、「さても何れの薩■を帰敬し、何なる秘法を修してか、天下を静め大敵を亡す要術に叶ひ候べき。」と宣ひければ、雲暁僧都畏て申けるは、「凡、諸仏薩■の利生方便区々にして、彼を是し此を非する覚へ、応用言ば辺々に候へば、何れをまさり何れを劣たりとは難申候へども、須弥の四方を領して、鬼門の方を守護し、摧伏の形を現じて、専ら勝軍の利を施し給ふ事は、昆沙門の徳にしくは候べからず。是我寺の本尊にて候へばとて、無謂申にて候はず。古玄宗皇帝の御宇、天宝十二年に安西と申所に軍起て、数万の官軍戦ふ度毎に打負ずと云事なし。「今は人力の及処に非ず如何がすべき。」と玄宗有司に問給ふに、皆同く答て申さく、「是誠に天の擁護に不懸ば静むる事を難得。只不空三蔵を召れて、大法を行せらるべき歟。」と申ける間、帝則不空三蔵を召て昆沙門の法を行せられけるに、一夜の中に鉄の牙ある金鼠数百万安西に出来て、謀叛人の太刀・々・甲・胄・矢の筈・弓の弦に至まで、一も不残食破り食切、剰人をさへ咀殺し候ける程に、凶徒是を防ぎかねて、首をのべて軍門に降しかば、官軍矢の一をも不射して若干の賊徒を平げ候き。又吾朝に朱雀院の御宇に、金銅の四天王を天台山に安置し奉て、将門を亡されぬ。聖徳太子昆沙門の像を刻て、甲の真甲に戴て、守屋の逆臣を誅せらる。此等の奇特世の知処、人の仰ぐ処にて候へば、御不審あるべきに非ず。然るに今武将幸に多門示現の霊地に御陣を召れ候事、古の佳例に違まじきにて候へば、天下を一時に静られて、敵軍を千里の外に掃はれ候ん事、何の疑か候べき。」と、誠憑し気に被申たりければ、相公信心を発れて、丹波国小川庄を被寄附、永代の寺領にぞ被成ける。
○越後守自石見引返事 S2904
越後守師泰は、此時まで三角城を退治せんとて猶石見国に居たりけるを、師直が許より飛脚を立て、「摂津国播磨の間に合戦事已に急也。早く其国の合戦を閣て馳上らるべし。若中国の者共かゝる時の弊に乗て、道を塞んずる事もや有んずらんと存候間、武蔵五郎を兼て備前へ差遣す。中国の蜂起を静めて、待申べし。」とぞ告たりける。越後守此使に驚て石見を立て上れば、武蔵五郎の相図を違へじと播磨を立て、備後の石崎にぞ付にける。将軍は八幡比叡山の敵に襲れて、播磨の書写坂本へ落下り、越後守は三角城を責兼て、引退と聞へしかば、上杉弾正少弼八幡より舟路を経て、備後の鞆へあがる。是を聞て備後・備中・安芸・周防の兵共、我劣じと馳付ける程に、其勢雲霞の如にて、靡ぬ草木もなかりけり。去程に武蔵五郎、越後守を待付て、中国には暫も逗留せず、やがて上洛すと聞へければ、上杉取物も取敢ず、跡を追て打止よとて、其勢二千余騎、正月十三日の早旦に、草井地より打立て、跡を追てぞ寄にける。越後守は夢にも是を知ず、片時も行末を急ぐ道なれば、疋馬に鞭を進て勢山を打越ぬ。小旗一揆・川津・高橋・陶山兄弟は、遥の後陣に引殿て、未竜山の此方に支たり。先陣後陣相阻て勢の多少も見分ねば、上杉が先懸の五百余騎、一の後陣に打ける陶山が百余騎の勢を目に懸て、楯のはを敲て時を作る。陶山元来軍の陣に臨む時、仮にも人に後を見せぬ者共なれば、鬨を合て、矢一筋射違るほどこそあれ、大勢の中へ懸入て責けれども、魚鱗鶴翼の陣、旌旗電戟の光、須臾に変化して、万方に相当れば、野草紅に染て汗馬の蹄血を蹴たて、河水派せかれて、士卒の尸忽流れをたつ。かゝりけれども、前陣は隔て知ず、後陣にはつゞく御方もなし。只今を限と戦ける程に、陶山又次郎高直、脇の下・内胄・吹返の迦、三所突れて打れにけり。弟の又五郎是を見て、哀れよからんずる敵に組で、指違ばやと思処に、火威の鎧紅の母衣懸たる武者一騎、合近に寄合ふたる。「誰そ。」と問ば、土屋平三と名乗。陶山莞爾と笑て、「敵をば嫌まじ、よれ組ん。」と云侭に、引組で二疋が中へどうど落る。落付処にて、陶山上になりければ、土屋を取て押て頚をかゝんとするを見て、道口七郎落合て陶山が上に乗懸る。陶山下なる土屋をば左の手にて押へ、上なる道口をかい掴で、捩頚にせんと振返て見ける処を、道口が郎等落重て陶山がひつしきの板を畳上、あげさまに三刀指たりければ、道口・土屋は助て陶山は命を留たり。陶山が一族郎等是を見て、「何の為に命を惜むべき。」とて、長谷与一・原八郎左衛門・小池新平衛以下の一族若党共、大勢の中へ破ては入、/\、一足も引ず皆切死にこそ死にけれ。上杉若干の手者を打せ乍ら、後陣の軍には勝にけり。宮下野守兼信は、始七十騎にて中の手に有けるが、後陣の軍に御方打負ぬと聞て、何の間にか落失けん、只六騎に成にけり。兼信四方を屹と見て、「よし/\有るにかいなき大臆病の奴原は、足纏に成に、落失たるこそ逸物なれ。敵未人馬の息を休ぬ先に、倡懸らん。」と云侭に、六騎馬の鼻を双て懸入。是を見て、小旗一揆に、河津・高橋、五百余騎喚て懸りける程に、上杉が大勢跡より引立て、一度も遂に返さず、混引に引ける間、上杉深手を負のみに非ず、打るゝ兵三百余騎、疵を蒙る者は数を知ず。其道三里が間には、鎧・腹巻・小手・髄当・弓矢・太刀・々を捨たる事、足の踏所も無りけり。備中の合戦には、越後守師泰念なく打勝ぬ。是より播磨までは、道のほど異なる事あらじと思処に、美作国の住人、芳賀・角田の者共相集て七百余騎、杉坂の道を切塞で、越後守を打留んとす。只今備中の軍に打勝て、勢ひ天地を凌ぐ河津・高橋が両一揆、一矢をも射させず、抜つれて懸りける程に、敵一たまりもたまらず、谷底へまくり落て、大略皆討れにけり。両国の軍に事故なく打勝て、越後守師泰・武蔵五郎師夏、喜悦の眉を開き、観応二年二月に、将軍の陣を取てをわしける書写坂本へ馳参る。
○光明寺合戦事付師直怪異事 S2905
去程に八幡より、石堂右馬権頭を大将にて、愛曾伊勢守、矢野遠江守以下五千余騎にて書写坂本へ寄んとて下向しけるが、書写坂本へは越後守が大勢にて著たる由を聞て、播磨の光明寺に陣を取て、尚八幡へ勢をぞ乞れける。将軍此由を聞給て、光明寺に勢を著ぬ前に、先是を打散さんとて、同二月三日将軍書写坂本を打立て、一万余騎の勢を卒、光明寺の四方を取巻給ふ。石堂城を堅て光明寺に篭しかば、将軍は引尾に陣を取り、師直は泣尾に陣をとる。名詮自性の理寄手の為に、何れも忌々しくこそ聞へけれ。同四日より矢合して、寄手高倉の尾より責上れば、愛曾は二王堂の前に支て相戦ふ。城中には死生不知のあぶれ者共、此を先途と命を捨て戦ふ。寄手は功高く禄重き大名共が、只御方の大勢を憑む許にて、誠に吾一大事と思入たる事なければ、毎日の軍に、城の中勝に不乗云事なし。赤松律師則祐は、七百余騎にて泣尾へ向ひたりけるが、遥に城の体を見て、「敵は無勢なりけるを、一責々て見よ。」と下知しければ、浦上七郎兵衛行景・同五郎左衛門景嗣・吉田弾正忠盛清・長田民部丞資真・菅野五郎左衛門景文、さしも岨しき泣尾の坂を責上て、掻楯の際まで著たりける。此時に自余の道々よりも寄手同時に責上る程ならば、城をば一息に攻落すべかりしを、何となくとも今宵か明日か心落に落んずる城を骨折に責ては何かすべきとて、数万の寄手徒に見物して居たりければ、浦上七郎兵衛を始として、責入寄手一人も不残掻楯の下に射臥られて、元の陣へぞ引返しける。手合の合戦に敵を退て城中聊気を得たりといへ共、寄手は大勢也。城の構未拵、始終いかゞ有べからんと、石堂・上杉安き心も無りける処に、伊勢の愛曾が召仕ひける童一人、俄に物に狂て、十丈許飛上りて跳りけるが、「吾に伊勢太神宮乗居させ給て、此城守護の為に、三本杉の上に御坐あり。寄手縦何なる大勢なりとも、吾角てあらん程は城を被落事有べからず。悪行身を責、師直・師泰等、今七日が中に滅さんずるをば不知や。あらあつや堪がたや。いで三熱の焔さまさん。」とて、閼伽井の中へ飛漬りたれば、げにも閼伽井の水湧返てわかせる湯の如し。城中の人々是を聞て渇仰の首を不傾云事なし。寄手の赤松律師も此事を伝聞て、さては此軍墓々しからじと、気に障りて思ける処に、子息肥前権守朝範が、胄を枕にして少し目睡たる夢に、寄手一万余騎同時に掻楯の際に寄て火を懸しかば、八幡山・金峯山の方より、山鳩数千飛来て翅を水に浸して、櫓掻楯に燃著火を打消とぞ見へたりける。朝範軈て此夢を則祐に語る。則祐是を聞て、「さればこそ此城を責落さん事有難しなどやらんと思つるが、果して神明の擁護有けり。哀事の難義にならぬ前に引て帰らばや。」と思ける処に、美作より敵起て、赤松へ寄する由聞へければ、則祐光明寺の陣を捨て白旗城へ帰にけり。軍の習、一騎も勢の加る時には人の心勇み、一人もすく時は兵の気たゆむ習なれば、寄手の勢次第に減ずるを見て、武蔵守が兵共弥軍懈て、皆帷幕の中に休息して居たりける処に、巽の方より怪気なる雲一群立出て風に随て飛揚す。百千万の鳶烏其下に飛散て、雲居る山の風早み、散乱れたる木葉の空にのみして行が如し。近付に随て是を見れば、雲にも霞にも非ず、無文の白旗一流天より飛降にてぞ有ける。是は八幡大菩薩の擁護の手を加へ給ふ奇瑞也。此旗の落留らんずる方ぞ軍には打勝んずらんとて、寄手も城中も手を叉へ礼を成して、祈念を不致云人なし。此旗城の上に飛上飛下て暫く翩翻しけるが、梢の風に吹れて又寄手の上に翻る。数万の軍勢頭を地に著て、吾陣に天降せら給ふと信心を凝す処に、飛鳥十方に飛散て、旗は忽に師直が幕の中にぞ落たりける。諸人同く見て、「目出し。」と感じける声、暫しは静りも得ざりけり。師直甲を脱で、左の袖に受留め、三度礼して委く是を見れば、旌にはあらで、何共なき反古を二三十枚続集て、裏に二首の歌をぞ書たりける。吉野山峯の嵐のはげしさに高き梢の花ぞ散行限あれば秋も暮ぬと武蔵野の草はみながら霜枯にけり師直傍への人に、「此歌の吉凶何ぞ。」と問ければ、聞人毎に、穴浅猿や、高き梢の花ぞ散行とあるは、高家の人可亡事にやあるらん。然も吉野山峯の嵐のはげしさにとあるも、先年蔵王堂を被焼たりし罪、一人にや帰すらん。武蔵野の草はみながら霜枯にけりとあるも、名字の国なれば、旁以不吉なる歌と、忌々しくは思ひけれ共、「目出き歌共にてこそ候へ。」とぞ会尺しける。
○小清水合戦事付瑞夢事 S2906
去程に其日の暮程に、摂津国の守護赤松信濃守範資、使者を以て申けるは、「八幡より石堂中務大輔・畠山阿波守国清・上杉蔵人大夫を大将にて、七千余騎を光明寺の後攻の為にとて、被差下也。前には光明寺の城堅く守て、後に荒手の大敵懸りなば、ゆゝしき御大事にて候べし。只先其城をば閣れ候て、討手の下向を相支へ、神尾・十林寺・小清水の辺にて御合戦候はゞ、敵の敗北非疑処。御方一戦に利を得ば、敵所々に軍すと云ふ共、いつまでか怺へ候べき。是只一挙に戦を決して、万方に勝事を計る処にて候べし。」と、追々早馬を打せて、一日に三度までこそ申されけれ。将軍を始奉て師直・師泰に至るまで、げにも聞ゆる如ならば、敵は小勢也。御方は是に十倍せり。岨しき山の城を責ればこそ叶はね、平場に懸合て勝負を決せんに、御方不勝と云事不可有。さらば此城を閣て、先向なる敵に懸れとて、二月十三日、将軍も執事兄弟も、光明寺の麓を御立有て兵庫湊川へ馳向はる。畠山阿波守国清は、三千余騎にて播磨の東条に有けるが、此事を聞て、さては何くにてもあれ、執事兄弟のあらんずる所へこそ向めとて、湯山を南へ打越て、打出の北なる小山に陣をとる。光明寺に楯篭つる石堂右馬頭・上杉左馬助も光明寺をば打捨て皆畠山が陣へ馳加る。同十七日夜、将軍執事の勢二万余騎御影浜に押寄、追手搦手二手に分らる。「軍は追手より始て戦半ならん時、搦手の浜の南より押寄て、敵を中に取篭よ。」と被下知ける。薬師寺次郎左衛門公義は、今度の戦如何様大勢を憑て御方為損じぬと思ひければ、弥吾大事と気を励しけるにや、自余の勢に紛れじと、絹三幅を長さ五尺に縫合せて、両方に赤き手を著たる旌をぞ差たりける。一族の手勢二百余騎雀松原の木陰に控て、追手の軍今や始まると待処に、兼ての相図なれば、河津左衛門氏明・高橋中務英光、大旌一揆の六千余騎、畠山が陣へ押寄て時を作る。畠山が兵静り返て、態と時の声をも不合、此の薮陰、彼この木陰に立隠て、差攻引攻散々に射けるに、面に立つ寄手数百人、馬より真倒に射落されければ、後陣はひき足に成て不進得。河津左衛門是を見て、「矢軍許にては叶まじきぞ、抜て蒐れ。」と下知して、弓をば薮へからりと投棄て、三尺七寸の太刀を抜て、敵の群りたる中へ会尺もなく懸入んと、一段高き岸の上へ懸上ける処に、十方より鏃を汰て射ける矢に、馬の平頚草わき、弓手の小かいな、右の膝口、四所まで箆深に射られて、馬は小ひざら折てどうと臥す。乗手は朱に成て下立たり。是を見て畠山が二百余騎喚て蒐りければ、跡に控たる寄手の大勢共荒手を入替て戦はんともせず、手負を助けん共せず。鞭に鐙を合て一度にはつとぞ引たりける。石堂右馬頭が陣は、是より十余町を隔てたれば、未御方の打勝たるをも不知、「打出の浜に旌の三流見へたるは、敵か御方か見て帰れ。」と云れければ、原三郎左衛門義実只一騎、馳向て是を見に、三幅の小旗に赤き手を両方に著たり。さては敵也と見課て馳帰けるが、徒に馬の足を疲かさじとや思けん、扇を挙て御方の勢をさし招き、「浜の南に磬へたる勢は敵にて候ぞ。而も追手の軍は御方打勝たりと見へ候。早懸らせ給へ。」と、声を挙てぞ呼りける。元より気早なる石堂・上杉の兵共是を聞て何かは少しも可思惟。七百余騎の兵共、馬の轡を並べて喚て懸けるに、薬師寺が迹に扣たる執事兄弟の大勢共、未矢の一をも不被射懸、捨鞭を打てぞ逃たりける。梶原孫六・同弾正忠二人は追手の勢の中に有て、心ならず御方に被引立六七町落たりけるが、後代の名をや恥たりけん、只二騎引返して大勢の中へ懸入る。暫が程は二人一所にて戦けるが、後には別々に成て、只命を限りとぞ戦ける。孫六は敵三騎切て落して、裏へつと懸抜たるに、続く御方もなく、又見とがむる敵も無りければ、紛れて助からんよと思て、笠符を取て袖の下に収め、西宮へ打通て、夜に入ければ、小船に乗て将軍の陣へぞ参りける。弾正忠は偏に敵に紛れもせず、懸入ては戦ひ戦ひ、七八度まで馬烟を立て戦けるが、藤田小次郎と猪股弾正左衛門と、二騎に被取篭討れにけり。後に、「あはれ剛の者や、誰と云者やらん。名字を知ばや。」とて是を見るに、梅花を一枝折て箙の上に著たり。さては元暦の古、一谷の合戦に、二度の懸して名を揚し梶原平三景時が、其末にてぞ有らんと、名のらで名をぞ被知ける。薬師寺二郎左衛門公義は御方の追手搦手二万余騎、崩れ懸て引共少も不騒、二百五十騎の勢にて、石堂・上杉が七百余騎の勢を山際までまくり付て、続く御方を待処に、一騎も扣たる兵なければ、又浪打際に扣て居たるに、石堂・畠山が大勢共、「手著たる旌は薬師寺と見るぞ、一人も余すな。」とて追懸たり。公義が二百五十騎、敵後に近付ば、一度に馬を屹と引返して戦ひ、敵先を遮れば、一同にわつと喚て懸破り、打出浜の東より御景浜の松原まで、十六度迄返して戦けるに、或は討れ或は敵に被懸散、一所に控たる勢とては、弾正左衛門義冬・勘解由左衛門義治、已上六騎に成にけり。兵共暫馬の息を継せて傍を屹と見たるに、輪違の笠符著たる武者一騎、馬を白砂に馳通して、敵七騎に被取篭たり。弾正左衛門義冬是を見て、「是は松田左近将監と覚る。目前にて討るゝ御方を不助云事やあるべき。」とて、六騎抜連て懸れば、七騎の敵引退て松田は命を助てげり。松田・薬師寺七騎に成て暫し扣たる処、彼等手の者共彼方より馳付て、又百騎許に成ければ、石堂・畠山先懸して兵を三町許追返したるに、敵も勇気や疲れけん、其後よりは不追ければ、軍は此にて止にけり。薬師寺は鎧に立処の矢少し折懸て湊川へ馳帰たれば、敵の旌をだにも不見して引返しつる二万余騎の兵共、勇気を失、落方を求て、只泥に酔たる魚の小水にいきづくに異らず。さても合戦をつら/\案ずるに、勢の多少兵の勝劣、天地各別なり。何事にか是程に無念可打負。是非直事と思ふに合て、其前の夜、武蔵五郎・河津左衛門と、少も不替二人見たりける夢こそ不思議なれ。所は何く共不知渺々たる平野に、西には師直・師泰以下、高家の一族其郎従数万騎打集て、轡を双て控たる。東には錦小路禅門・石堂・畠山・上杉民部大輔、千余騎にて相向ふ。両陣鬨を合せて、其戦未半時、石堂・畠山が勢旌を巻て引退く。師直・師泰勝に乗て追蒐る処に、雲の上より錦の旌一流差挙て、勢の程百騎許懸出たり。左右に分れたる大将を誰ぞと見れば、左は吉野の金剛蔵王権現、頭に角生て八の足ある馬に被召たり。小守勝手の明神、金の鎧に鉄の楯を引側めて、馬の前後に順ひ給ふ。右は天王寺の聖徳太子、甲斐の黒駒に白鞍置て被召たり。蘇我馬子大臣甲胄を帯し、妹子大臣・跡見の赤梼・秦河勝、弓箭を取て真前に進む。師直・師泰以下の旌共、太子の御勢を小勢と見て、中に篭て討んとするに、金剛蔵王御目をいらゝげて、「あれ射て落せ。」と下知し給へば、小守・勝手・赤梼・河勝、四方に颯と走りけり。同時に引て放つ矢、師直・師泰・武蔵五郎・越後将監が眉間の真中を徹て、馬より倒に地を響して落ると見て、夢は則醒にけり。朝に此夢を語て、今日の軍如何あらんずらんと危ぶみけるが、果して軍に打負ぬ。此後とても、角ては憑しくも不思と、聞人心に思ぬはなし。此夢の記録吉野の寺僧所持して、其隠なき事也。
○松岡城周章事 S2907
小清水の軍に打負て、引退兵二万余騎、四方四町に足ぬ松岡の城へ、我も我もとこみ入ける程に、沓の子を打たるが如にて、少もはたらくべき様も無りけり。角ては叶まじ、宗との人々より外は内へ不可入とて、人の郎従若党たる者は、皆そとへ追出して、四方の関下したれば、元来落心地の付たる者共、是に事名付て、「無憑甲斐執事の有様哉。さては誰が為にか討死をもすべき。」と、面々につぶやきて打連/\落行。今は定て路々に敵有て、落得じと思ふ人は、或は釣する海人に紛れて、破れたる簔を身に纏ひ、福良の渡・淡路の迫門を、船にて落る人もあり。或は草苅をのこに窶つゝ、竹の簣を肩に懸、須磨の上野・生田の奥へ、跣にて逃る人もあり。運の傾く僻なれ共、臆病神の著たる人程見苦き者はなし。夜已に深ければ、さしもせき合つる城中さび返て、更に人ありとも見へざりけり。将軍執事兄弟を召近付て宣けるは、「無云甲斐者共が、只一軍に負たればとて、落行事こそ不思議なれ。さりとも饗庭命鶴・高橋・海老名六郎は、よも落去じな。」と問給へば、「それも早落て候。」「長井治部少輔・佐竹加賀は早落つるか。」「いやそれも皆落て候。」「さては残る勢幾程かある。」「今は御内の御勢、師直が郎従・赤松信濃守勢、彼是五百騎に過候はじ。」と申せば、将軍、「さては世中今夜を限りござんなれ、面々に其用意有べし。」とて、鎧をば脱て推除小具足許になり給ふ。是を見て高武蔵守師直・越後守師泰・武蔵五郎師夏・越後将監師世・高豊前五郎・高備前守・遠江次郎・彦部・鹿目・河津以下、高家の一族七人、宗との侍二十三人、十二間の客殿に二行に坐を列て、各諸天に焼香し、鎧直垂の上をば取て抛除、袴許に掛羅懸て、将軍御自害あらば御供申さんと、腰の刀に手を懸て、静り返てぞ居たりける。厩侍には、赤松信乃守範資上坐して、一族若党三十二人、膝を屈して並居たりけるが、「いざや最後の酒盛して、自害の思ひざしせん。」とて、大なる酒樽に酒を湛へ、銚子に盃取副て、家城源十郎師政酌をとる。信濃守次男信濃五郎直頼が、此年十三にて内に有けるを、父呼出し、「鳥之将死其鳴也。哀。人之将死其言也。善と云り。吾一言汝が耳に留らば、庭訓を不忘、身を慎て先祖を恥しむる事なかるべし。将軍已に御自害あらんずる間、範資も御供申さんずるなり。日来の好を思はゞ家の子若党共も、皆吾と共に無力死に赴かんとぞ思定たるらん。但汝は未幼少なり。今共に腹を不切共、人強に指をさす事有まじ。則祐已に汝を猶子にすべき由、兼て約束有しかば、赤松へ帰て則祐を真の父と憑て、生涯を其安否に任するか、不然は又僧法師にもなりて、吾後生をも訪らひ汝が身をも助かるべし。」と、泣々庭訓を残して涙を押拭へば、坐中の人々げにもと、同く涙を流しけれ。直頼熟と父の遺訓を聞て、扇取直して申けるは、「人の幼少程と申は、五や六や乃至十歳に足ぬ時にてこそ候へ。吾已善悪をさとる程に成て、適此坐に在合ながら、御自害を見捨て一人故郷へ帰ては、誰をか父と憑み、誰にか面を向べき。又禅僧に成たらば、沙弥喝食に指をさゝれ、聖道に成たらば、児共に被笑ずと云事不可有。縦又何なる果報有て、後の栄花を開候とも、をくれ進せては、ながらふべき心地もせず。色代は時に依る事にて候。腹切の最後の盃にて候へば、誰にか論じ申さまし。我先飲て思ざし申さん。」とて、前なる盃を少し取傾る体にて、糟谷新左衛門尉保連にさし給へば、三度飲て、糟谷新左衛門尉伊朝・奥次郎左衛門尉・岡本次郎左衛門・中山助五郎、次第に飲下、無明の酒の酔の中に、近付命ぞ哀なる。
○師直師泰出家事付薬師寺遁世事 S2908
斯る処に、東の木戸を荒らかに敲く人あり。諸人驚て、「誰そ。」と問へば、夜部落たりと沙汰せし饗庭命鶴丸が声にて、「御合体に成て、合戦は有まじきにて候ぞ。楚忽に御自害候な。」とぞ呼はりける。こはそも何とある事ぞやとて急ぎ木戸を開きたれば、命鶴将軍の御前に参て、「夜部事の由をも申さで、罷出候しが、早落たりとぞ思召候つらん。御方の軍勢の気を失、色を損じたる体を見候しに、角ては戦ふ共難勝、落共延させ給はじと覚へ候たる間、畠山阿波将監が陣へ罷向候て、御合体の由を申て候へば、錦小路殿も、只暮々其事をのみこそ仰候へ。執事兄弟の不義も、只一往思知するまでにて候へば、執事深く被誅伐までの義も候まじ。親にも超てむつましきは、同気兄弟の愛也。子にも不劣なつかしきは、多年主従の好也。禽獣も皆其心あり。況人倫に於てをや。縦合戦に及ぶ共、無情沙汰を致すなと、八幡より給て候御文数通候とて、取出して見せられ候つる。」と、命鶴委細に申ければ、将軍も執事兄弟も、さては子細非じとて、其夜の自害は留りてげり。さても三条殿は御兄弟の御事なれば、将軍をこそ悪と不思召とも、師直去年の振舞をば、尚もにくしと思召ぬ事不可有。げにも頭を延て参る位ならば、出家をして参るか、不然は将軍を赤松の城へ遣進せて、師直は四国へや落ると評定有けるを、薬師寺次郎左衛門公義、「など加様に無力事をば仰候ぞ。六条判官為義が、己が咎を謝せん為に、入道に成て出候しをば、義朝子の身としてだにも、首を刎候しぞかし。縦御出家候て、何なる持戒持律の僧と成せ給て候共、三条殿の御意も安まり、上杉・畠山の一族達、憤を散候べしとは覚候はず。剃髪の尸墨染の衣の袖に血を淋て、憂名を後代に残れ候はん事、只口惜かるべき事にて候はずや。将軍を赤松の城へ入進せて、師直を四国へ落さばやと承候事も、都て可然共覚候はず。細川陸奥守も、三条殿の召に依て、大勢早三石に著て候と聞へ候へば、将軍こそ摂州の軍に負て、赤松へ引せ給と聞て、打止奉らんと思はぬ事や候べき。又四国へ落させ給はん事も不可叶。用意の舟も候はで、此彼の浦々にて、渡海の順風を待て御渡り候はんに、敵追懸て寄候はゞ、誰か矢の一をも、墓々敷射出す人候べき。御方の兵共の有様は、昨日の軍に曇りなく被見透候者を、人に無剛臆、気に有進退と申事候間、人の心の習ひ、敵に打懸らんとする時は、心武くなり、一足も引となれば、心臆病に成者にて候。只御方の勢の未すかぬ前に、混討死と思召定て、一度敵に懸りて御覧候より外は、余義あるべし共覚候はず。」と、言を残さで申けれ共、執事兄弟只曚々としたる許にて、降参出家の儀に落伏しければ、公義泪をはら/\と流して、「嗚呼豎子不堪倶計と、范増が云けるも理り哉。運尽ぬる人の有様程、浅猿き者は無りけり。我此人と死を共にしても、何の高名かあるべき。しかじ憂世を捨て、此人々の後生を訪んには。」と、俄に思定て、取ばうし取ねば人の数ならず捨べき物は弓矢也けりと、加様に詠じつゝ、自髻押きりて、墨染に身を替て、高野山へぞ上りける。三間茅屋千株松風、ことに人間の外の天地也けりと、心もすみ身も安く覚へければ、高野山憂世の夢も覚ぬべしその暁を松の嵐にと読て、暫しは閑居幽隠の人とぞ成たりける。仏種は縁より起事なれば、かやうに次を以て、浮世を思捨たるは、やさしく優なる様なれ共、越後中太が義仲を諌かねて、自害をしたりしには、無下に劣りてぞ覚たる。
○師冬自害事付諏方五郎事 S2909
高播磨守は師直が猶子也しを、将軍の三男左馬頭殿の執事になして、鎌倉へ下りしかば、上杉民部大輔と相共に東国の管領にて、勢八箇国に振へり。西国こそ加様に師直を背く者多く共、東国はよも子細非じ、事の真に難儀ならば、兵庫より船に乗て、鎌倉へ下て師冬と一にならんと、執事兄弟潜に被評定ける処に、二十五日の夜半許に、甲斐国より時衆一人来て、忍やかに、「去年の十二月に、上杉民部大輔が養子に、左衛門蔵人、父が代官にて上野の守護にて候しが、謀叛を起て鎌倉殿方を仕る由聞へしかば、父民部大輔是を為誅伐下向の由を称して、上野に下著、則左衛門蔵人と同心して、武蔵国へ打越へ、坂東の八平氏武蔵の七党を付順ふ。播州師冬是を被聞候て、八箇国の勢を被催に、更に一騎も不馳寄。角ては叶まじ。さらば左馬頭殿を先立進せて上杉を退治せんとて、僅に五百騎を卒して、上野へ発向候し路次にて、さりとも弐ろ非じと憑切たる兵共心変りして、左馬頭殿を奪奉る間、左馬頭殿御後見三戸七郎は、其夜同士打せられて半死半生に候しが、行方を不知成候ぬ。是より上杉には弥勢加り、播州師冬には付順ふ者候はざりし間、一歩も落て此方の様をも聞ばやとて、甲斐国へ落て、州沢城被篭候処に、諏方下宮祝部六千余騎にて打寄、三日三夜の手負討死其数を不知。敵皆大手へ向ふにより、城中勢大略大手にをり下て、防戦ふ隙を得て、山の案内者後へ廻て、かさより落し懸る間、八代の某一足も不引討死仕る。城已に落んとし候時、御烏帽子々に候し諏方五郎、初は祝部に属して城を責候しが、城の弱りたるをみて、「抑吾執事の烏帽子々にて、父子の契約を致しながら、世挙て背けばとて、不義の振舞をば如何が可致。曾参は復車於勝母之郷、孔子は忍渇於盜泉之水といへり。君子は其於不為処名をだにも恐る。況乎義の違ふ処に於乎。」とて、祝部に最後の暇乞て城中へ入り、却て寄手を防ぐ事、身命を不惜。去程に城の後ろより破れて、敵四方より追しかば、諏方五郎と播州とは手に手を取違へ、腹掻切て臥給ふ。此外義を重じ名を惜む侍共六十四人、同時に皆自害して、名を九原上の苔に残し、尸を一戦場の土に曝さる。其後は東国・北国残りなく、高倉殿の御方へ成て候。世は今はさてとこそ見へて候へ。」と、泣々執事にぞ語られける。筑紫九国は兵衛佐殿に順付ぬと聞ゆ。四国は細川陸奥守に属して既に須磨大蔵谷の辺まで寄たりと告たり。今は東国をこそ、さり共と憑たれば、師冬さへ討れにけり。さては何くへか落誰をか可憑とて、さしも勇し人々の気色、皆心細見へたりける。命は能難棄物也けり。執事兄弟、かくても若命や助かると、心も発らぬ出家して、師直入道々常、師泰入道々勝とて、裳なし衣に提鞘さげて、降人に成て出ければ、見人毎に爪弾して、出家の功徳莫太なれば、後生の罪は免る共、今生の命は難助と、欺ぬ人は無りけり。
○師直以下被誅事付仁義血気勇者事 S2910
同二十六日に、将軍已に御合体にて上洛し給へば、執事兄弟も、同遁世者に打紛て、無常の岐に策をうつ。折節春雨しめやかに降て、数万の敵此彼に控たる中を打通れば、それよと人に被見知じと、蓮の葉笠を打傾け、袖にて顔を引隠せ共、中々紛れぬ天が下、身のせばき程こそ哀なれ。将軍に離れ奉ては、道にても何なる事かあらんずらんと危て少しもさがらず、馬を早めて打けるを、上杉・畠山の兵共、兼て儀したる事なれば、路の両方に百騎、二百騎、五十騎、三十騎、処々に控へて待ける者共、すはや執事よと見てければ、将軍と執事とのあはいを次第に隔んと鷹角一揆七十余騎、会尺色代もなく、馬を中へ打こみ/\しける程に、心ならず押隔られて、武庫川の辺を過ける時は、将軍と執事とのあはひ、河を隔山を阻て、五十町許に成にけり。哀なる哉、盛衰刹那の間に替れる事、修羅帝釈の軍に負て、藕花の穴に身を隠し、天人の五衰の日に逢て、歓喜苑にさまよふ覧も角やと被思知たり。此人天下の執事にて有つる程は、何なる大名高家も、其えめる顔を見ては、千鍾の禄、万戸の侯を得たるが如く悦び、少しも心にあはぬ気色を見ては、薪を負て焼原を過ぎ、雷を戴て大江を渡が如恐れき。何況将軍と打双て、馬を進め給はんずる其中へ、誰か隔て先立人有べきに、名も知ぬ田舎武士、無云許人の若党共に押隔られ/\、馬ざくりの水を蹴懸られて、衣深泥にまみれぬれば、身を知る雨の止時なく、泪や袖をぬらすらん。執事兄弟武庫川を打渡て、小堤の上を過ける時、三浦八郎左衛門が中間二人走寄て、「此なる遁世者の、顔を蔵すは何者ぞ。其笠ぬげ。」とて、執事の著られたる蓮葉笠を引切て捨るに、ほうかぶりはづれて片顔の少し見へたるを、三浦八郎左衛門、「哀敵や、所願の幸哉。」と悦て、長刀の柄を取延て、筒中を切て落さんと、右の肩崎より左の小脇まで、鋒さがりに切付られて、あつと云処を、重て二打うつ、打れて馬よりどうど落ければ、三浦馬より飛で下り、頚を掻落して、長刀の鋒に貫て差上たり。越後入道は半町許隔たりて打けるが、是を見て馬を懸のけんとしけるを、迹に打ける吉江小四郎、鑓を以て胛骨より左の乳の下へ突徹す。突れて鑓に取付、懐に指たる打刀を抜んとしける処に、吉江が中間走寄、鐙の鼻を返して引落す。落れば首を掻切て、あぎとを喉へ貫、とつ付に著馳て行。高豊前五郎をば、小柴新左衛門是を討。高備前守をば、井野弥四郎組で落て首を取る。越後将監をば、長尾彦四郎先馬の諸膝切て、落る所を二太刀うつ。打れて少弱る時、押へて軈て首を切る。遠江次郎をば小田左衛門五郎切て落す。山口入道をば小林又次郎引組で差殺す。彦部七郎をば、小林掃部助後より太刀にて切けるに、太刀影に馬驚て深田の中へ落にけり。彦部引返て、「御方はなきか、一所に馳寄て、思々に討死せよ。」と呼りけるを、小林が中間三人走寄て、馬より倒に引落し踏へて首を切て、主の手にこそ渡しけれ。梶原孫六をば佐々宇六郎左衛門是を打。山口新左衛門をば高山又次郎切て落す。梶原孫七は十余町前に打けるが、跡に軍有て執事の討れぬるやと人の云けるを聞て、取て返して打刀を抜て戦けるが、自害を半にしかけて、路の傍に伏たりけるを、阿佐美三郎左衛門、年来の知音なりけるが、人手に懸んよりはとて、泣々首を取てけり。鹿目平次左衛門は、山口が討るゝを見て、身の上とや思けん、跡なる長尾三郎左衛門に抜て懸りけるを、長尾少も不騒、「御事の身の上にては候はぬ者を、僻事し出して、命失はせ給ふな。」と云れて、をめ/\と太刀を指て、物語して行けるを、長尾中間にきつと目くはせしたれば、中間二人鹿目が馬につひ傍て、「御馬の沓切て捨候はん。」とて、抜たる刀を取直し、肘のかゝりを二刀刺て、馬より取て引落し、主に首をばかゝせけり。河津左衛門は、小清水の合戦に痛手を負たりける間、馬には乗得ずして、塵取にかゝれて、遥の迹に来けるが、執事こそ已に討れさせ給つれと、人の云を聞て、とある辻堂の有けるに、輿を舁居させ、腹掻切て死にけり。執事の子息武蔵五郎をば、西左衛門四郎是を生虜て、高手小手に禁て、其日の暮をぞ相待ける。此人は二条前関白太臣の御妹、無止事御腹に生れたりしかば、貌容人に勝れ心様優にやさしかりき。されば将軍も御覚へ異于他、世人ときめき合へる事限なし。才あるも才なきも、其子を悲むは人の父たる習なり。況乎最愛の子なりしかば、塵をも足に蹈せじ荒き風にもあてじとて、あつかい、ゝつき、かしづきしに、いつの間に尽終たる果報ぞや。年未十五に不満、荒き武士に生虜て、暮を待間の露の命、消ん事こそ哀なれ。夜に入ければ、誡たる縄をときゆるして已に切んとしけるが、此人の心の程をみんとて、「命惜く候はゞ、今夜速に髻を切て僧か念仏衆かに成せ給て、一期心安く暮らさせ給へ。」と申ければ、先其返事をばせで、「執事は何と成せ給て候とか聞へ候。」と問ければ、西左衛門四郎、「執事は早討れさせ給て候也。」と答ふ。「さては誰が為にか暫の命をも惜み候べき。死手の山三途大河とかやをも、共に渡らばやと存候へば、只急ぎ首を被召候へ。」と、死を請て敷皮の上に居直れば、切手泪を流して、暫しは目をも不持上、後ろに立て泣居たり。角てさてあるべきにあらねば、西に向念仏十遍許唱て、遂に首を打落す。小清水の合戦の後、執事方の兵共十方に分散して、残る人なしと云ながら、今朝松岡の城を打出るまでは、まさしく六七百騎もありと見しに、此人々の討るゝを見て何ちへか逃隠れけん、今討るゝ処十四人の外は、其中間下部に至るまで、一人もなく成にけり。十四人と申も、日来皆度々の合戦に、名を揚力を逞しくしたる者共なり。縦運命尽なば始終こそ不叶共、心を同して戦はゞ、などか分々の敵に合て死せざるべきに、一人も敵に太刀を打著たる者なくして、切ては被落押へては頚を被掻、無代に皆討れつる事、天の責とは知ながら、うたてかりける不覚哉。夫兵は仁義の勇者、血気の勇者とて二つあり。血気の勇者と申は、合戦に臨毎に勇進んで臂を張り強きを破り堅きを砕く事、如鬼忿神の如く速かなり。然共此人若敵の為に以利含め、御方の勢を失ふ日は、逋るに便あれば、或は降下に成て恥を忘れ、或は心も発らぬ世を背く。如此なるは則是血気の勇者也。仁義の勇者と申は必も人と先を争い、敵を見て勇むに高声多言にして勢を振ひ臂を張ざれ共、一度約をなして憑れぬる後は、弐を不存ぜ心不変して臨大節志を奪れず、傾所に命を軽ず。如此なるは則仁義の勇者なり。今の世聖人去て久く、梟悪に染ること多ければ、仁義の勇者は少し。血気の勇者は是多し。されば異朝には漢楚七十度の戦、日本には源平三箇年の軍に、勝負互に易しか共、誰か二度と降下に出たる人あるべき。今元弘以後君と臣との争に、世の変ずる事僅に両度に不過、天下の人五度十度、敵に属し御方になり、心を変ぜぬは稀なり。故に天下の争ひ止時無して、合戦雌雄未決。是を以て、今師直・師泰が兵共の有様を見るに、日来の名誉も高名も、皆血気にほこる者なりけり。さらずはなどか此時に、千騎二千騎も討死して、後代の名を挙ざらん。仁者必有勇、々者必不仁と、文宣王の聖言、げにもと被思知たり。


太平記
太平記巻第三十

○将軍御兄弟和睦事付天狗勢汰事 S3001
志合則胡越も不隔地。況や同く父母の出懐抱浮沈を共にし、一日も不離咫尺、連枝兄弟の御中也。一旦師直・師泰等が、不義を罰するまでにてこそあれ、何事にか骨肉を離るゝ心可有とて、将軍と高倉殿と御合体有ければ、将軍は播磨より上洛し、宰相中将義詮は丹波石龕より上洛し、錦小路殿は八幡より入洛し給ふ。三人軈会合し給て、一献の礼有けれ共、此間の確執流石片腹いたき心地して、互の言ば少く無興気にてぞ被帰ける。高倉殿は元来仁者の行を借て、世の譏を憚る人也ければ、いつしか軈天下の政を執て、威を可振其機を出されねども、世の人重んじ仰ぎ奉る事、日来に勝れて、其被官の族、触事に気色は不増云事なし。車馬門前に立列て出入側身を、賓客堂上に群集して、揖譲の礼を慎めり。如此目出度事のみある中に、高倉殿最愛の一子今年四に成給ひてけるが、今月二十六日俄に失給ひければ、母儀を始奉上下万人泣悲む事限なし。さても西国東国の合戦、符を合せたるが如く同時に起て、師直・師泰兄弟父子の頚、皆京都に上ければ、等持寺の長老旨別源、葬礼を取営て下火の仏事をし給ひけるに、昨夜春園風雨暴。和枝吹落棣棠花。と云句の有けるを聞て、皆人感涙をぞ流しける。此二十余年執事の被官に身を寄て、恩顧に誇る人幾千万ぞ。昨日まで烏帽子の折様、衣紋のため様をまねて、「此こそ執事の内人よ。」とて、世に重んぜられん事を求しに、今日はいつしか引替て貌を窶し面を側めて、「すはや御敵方の者よ。」とて、人にしられん事を恐懼す。用則鼠も為虎、不用則虎も為鼠と云置し、東方朔が虎鼠の論、誠に当れる一言なり。将軍兄弟こそ、誠に繊芥の隔もなく、和睦にて所存もなく坐けれ。其門葉に有て、附鳳の勢ひを貪て、攀竜の望を期する族は、人の時を得たるを見ては猜み、己が威を失へるを顧ては、憤を不含云事なし。されば石塔・上杉・桃井は、様々の讒を構て、将軍に付順ひ奉る人々を失はゞやと思ひ、仁木・細川・土岐・佐々木は、種々の謀を廻して、錦小路殿に、又人もなげに振舞ふ者共を滅さばやとぞ巧ける。天魔波旬は斯る所を伺ふ者なれば、如何なる天狗共の態にてか有けん、夜にだに入ければ、何くより馳寄共知ぬ兵共、五百騎三百騎、鹿の谷・北白河・阿弥陀け峯・紫野辺に集て、勢ぞろへをする事度々に及ぶ。是を聞て将軍方の人は、「あはや高倉殿より寄らるゝは。」とて肝を冷し、高倉殿方の人は、「いかさま将軍より討手を向らるゝは。」とて用心を致す。禍利欲より起て、息ことを得ざれば、終に己が分国へ下て、本意を達せんとや思けん、仁木左京大夫頼章は病と称して有馬の湯へ下る。舎弟の右馬権助義長は伊勢へ下る。細川刑部大輔頼春は讃岐へ下る。佐々木佐渡判官入道々誉は近江へ下る。赤松筑前守貞範・甥の弥次郎師範・舎弟信濃五郎範直は、播磨へ逃下る。土岐刑部少輔頼康は、憚る気色もなく白書に都を立て、三百余騎混ら合戦用意して、美濃国へぞ下りける。赤松律師則祐は、初より上洛せで赤松に居たりけるが、吉野殿より、故兵部卿親王の若宮を大将に申下し進せて、西国の成敗を司て、近国の勢を集て、吉野・戸津河・和田・楠と牒し合せ、已に都へ攻上ばやなんど聞へければ、又天下三に分れて、合戦息時非じと、世の人安き心も無りけり。
○高倉殿京都退去事付殷紂王事 S3002
同七月晦日、石塔入道・桃井右馬権頭直常二人、高倉殿へ参て申けるは、「仁木・細河・土岐・佐々木、皆己が国々へ逃下て、謀叛を起し候なる。是も何様将軍の御意を請候歟、宰相中将殿の御教書を以て、勢を催すかにてぞ候らん。又赤松律師が大塔若宮を申下て、宮方を仕ると聞へ候も、実は寄事於宮方に、勢を催して後、宰相中将殿へ参らんとぞ存候らん。勢も少く御用心も無沙汰にて都に御坐候はん事如何とこそ存候へ。只今夜々紛れに、篠峯越に北国の方へ御下候て、木目・荒血の中山を差塞がれ候はゞ、越前に修理大夫高経、加賀に富樫介、能登に吉見、信濃に諏方下宮祝部、皆無弐の御方にて候へば、此国々へは何なる敵か足をも蹈入候べき。甲斐国と越中とは我等が已に分国として、相交る敵候はねば、旁以安かるべきにて候。先北国へ御下候て、東国・西国へ御教書を成下され候はんに、誰か応じ申さぬ者候べき。」と、又予儀もなく申ければ、禅門少しの思安もなく、「さらば軈て下るべし。」とて、取物も不取敢、御前に有逢たる人々許を召具して、七月晦日の夜半許に、篠の峯越に落給。騒がしかりし有様也。是を聞て、御内の者は不及申、外様の大名、国々の守護、四十八箇所の篝三百余人、在京人、畿内・近国・四国・九州より、此間上り集りたる軍勢共、我も我もと跡を追て落行ける程に、今は公家被官の者より外、京中に人あり共更に不見けり。夜明ければ、宰相中将殿将軍の御屋形へ被参て、「今夜京中のひしめき、非直事覚て候。落行ける兵共大勢にて候なれば、若立帰て寄る事もや候はんずらん。」と申されければ、将軍些も不騒給、「運は天にあり、何の用心かすべき。」とて、褒貶の探冊取出し、心閑に詠吟、打嘯てぞ坐ける。高倉殿已に越前の敦賀津に坐して、著到を著られけるに、初は一万三千余騎有けるが、勢日々に加て六万余騎と注せり。此時若此大勢を率して京都へ寄たらましかば、将軍も宰相中将殿も、戦ふまでも御坐まさじを、そゞろなる長僉議、道も立ぬなま才学に時移て、数日を徒に過にけり。抑是は誰が依意見、高倉殿は加様に兄弟叔父甥の間、合戦をしながらさすが無道を誅して、世を鎮めんとする所を計ひ給ふと尋れば、禅律の奉行にて被召仕ける南家の儒者、藤原少納言有範が、より/\申ける儀を用ひ給ひける故とぞ承る。「さる程に昔殷の帝武乙と申しゝ王の位に即て、悪を好む事頻也。我天子として一天四海を掌に握るといへ共、猶日月の明暗を心に不任、雨風の暴く劇しき事を止得ぬこそ安からねとて、何にもして天を亡さばやとぞ被巧ける。先木を以て人を作て、是を天神と名けて帝自是と博奕をなす。神真の神ならず、人代はて賽を打ち石を仕ふ博奕なれば、帝などか勝給はざらん。勝給へば、天負たりとて、木にて作れる神の形を手足を切り頭を刎ね、打擲蹂躪して獄門に是を曝しけり。又革を以人を作て血を入て、是を高き木の梢に懸け、天を射ると号して射るに、血出て地に洒く事をびたゝし。加様の悪行身に余りければ、帝武乙河渭に猟せし時、俄に雷落懸りて御身を分々に引裂てぞ捨たりける。其後御孫の小子帝位に即給ふ。是を殷の紂王とぞ申ける。紂王長り給て後、智は諌を拒、是非の端を餝るに足れり。勇は人に過て、手づから猛獣を挌に難しとせず。人臣に矜るに能を以てし、天下にたかぶるに声を以てせしかば、人皆己が下より出たりとて、諌諍の臣をも不被置、先王の法にも不順。妲己と云美人を愛して、万事只是が申侭に付給ひしかば、罪無して死を賜ふ者多く只積悪のみあり。鉅鹿と云郷に、まはり三十里の倉を作りて、米穀を積余し、朝歌と云所に高さ二十丈の台を立て、銭貨を積満り。又沙丘に廻一千里の苑台を造て、酒を湛へ池とし、肉を懸て林とす。其中に若く清らかなる男三百人、みめ貌勝れたる女三百人を裸になして、相逐て婚姻をなさしむ。酒の池には、竜頭鷁首の舟を浮て長時に酔をなし、肉の林には、北里の舞、新婬の楽を奏して不退の楽を尽す。天上の婬楽快楽も、是には及ばじとぞ見へたりける。或時后妲己、南庭の花の夕ばえを詠て寂寞として立給ふ。紂王見に不耐して、「何事か御意に叶ぬ事の侍る。」と問給へば、妲己、「哀炮格の法とやらんを見ばやと思ふを、心に叶はぬ事にし侍る。」と宣ければ、紂王、「安き程の事也。」とて、軈て南庭に炮格を建て、后の見物にぞ成れける。夫炮格の法と申は、五丈の銅の柱を二本東西に立て、上に鉄の縄を張て、下炭火ををき、鉄湯炉壇の如くにをこして、罪人の背に石を負せ、官人戈を取て罪人を柱の上に責上せ、鉄の縄を渡る時、罪人気力に疲て炉壇の中に落入、灰燼と成て焦れ死ぬ。焼熱大焼熱の苦患を移せる形なれば炮格の法とは名けたり。后是を見給て、無類事に興じ給ひければ、野人村老日毎に子を被殺親を失て、泣悲む声無休時。此時周の文王未西伯にて坐けるが、密に是を見て人の悲み世の謗、天下の乱と成ぬと歎給ひけるを、崇侯虎と云ける者聞て殷紂王にぞ告たりける。紂王大に忿て、則西伯を囚へて■里の獄舎に押篭奉る。西伯が臣に■夭と云ける人、沙金三千両・大宛馬百疋・嬋妍幽艶なる女百人を汰へて、紂王に奉て、西伯の囚を乞受ければ、元来色に婬し宝を好む事、後の禍をも不顧、此一を以ても西伯を免すに足ぬべし、況哉其多をやと、心飽まで悦て、則西伯をぞ免しける。西伯故郷に帰て、我命の活たる事をばさしも不悦給、只炮格の罪に逢て、無咎人民共が、毎日毎夜に十人二十人被焼殺事を、我身に当れる苦の如哀に悲く覚しければ、洛西の地三百里を、紂王の后に献じて、炮格の刑を被止事をぞ被請ける。后も同く欲に染む心深くをはしければ、則洛西の地に替て、炮格の刑を止らる。剰感悦猶是には不足けるにや、西伯に弓矢斧鉞を賜て、天下の権を執武を収ける官を授給ひければ、只龍の水を得て雲上に挙るに不異。其後西伯渭浜の陽に田せんとし給ひけるに、史編と云ける人占て申けるは、「今日の獲物は非熊非羆、天君に師を可与ふ。」とぞ占ける。西伯大に悦て潔斉し給ふ事七日、渭水の陽に出て見給ふに、太公望が半簔の烟雨水冷して、釣を垂るゝ事人に替れるあり。是則史編が占ふ所也とて、車の右に乗せて帰給ふ。則武成王と仰て、文王是を師とし仕ふる事不疎、逐に太公望が謀に依て西伯徳を行ひしかば、其子武王の世に当て、天下の人皆殷を背て周に帰せしかば、武王逐に天下を執て永く八百余年を保ちき。古への事を引て今の世を見候に、只羽林相公の淫乱、頗る殷紂王の無道に相似たり、君仁を行はせ給ひて、是を亡されんに何の子細か候べき。」と、禅門をば文王の徳に比し、我身をば太公望に准て、時節に付て申けるを、信ぜられけるこそ愚かなれ。さればとて禅門の行迹、泰伯が有徳の甥、文王に譲し仁にも非ず。又周公の無道の兄、管叔を討せし義にも非ず。権道覇業、両ながら欠たる人とぞ見へたりける。
○直義追罰宣旨御使事付鴨社鳴動事 S3003
同八月十八日、征夷将軍源二位大納言尊氏卿、高倉入道左兵衛督追討の宣旨を給て、近江国に下著して鏡宿に陣を取る。都を被立時までは其勢纔に三百騎にも不足けるが、佐々木佐渡判官入道々誉・子息近江守秀綱は、当国勢三千余騎を卒して馳参る。仁木右馬権頭義長は伊賀・伊勢の兵四千余騎を率して馳参る。土岐刑部少輔頼康は、美濃国の勢二千余騎を率して馳参りける間、其勢無程一万余騎に及ぶ。今は何なる大敵に戦ふ共、勢の不足とは不見けり。去程に高倉入道左兵衛督、石塔・畠山・桃井三人を大将として、各二万余騎の勢を差副、同九月七日近江国へ打出、八相山に陣を取る。両陣堅く守て其戦を不決。其日の未の剋に、都には鴨の糾の神殿鳴動する事良久して、流鏑矢二筋天を鳴響し、艮の方を差て去ぬとぞ奏聞しける。是は何様将軍兄弟の合戦に、吉凶を被示怪異にてぞあるらんと、諸人推量しけるが、果して翌日の午剋に、佐々木佐渡判官入道が手の者共に、多賀将監と秋山新蔵人と、楚忽の合戦し出して、秋山討れにければ、桃井大に忿て、重て可戦由を申けれ共、自余の大将に異儀有て、結句越前国へ引返す。其後畠山阿波将監国清、頻に、「御兄弟只御中なをり候て、天下の政務を宰相殿に持せ進せられ候へかし。」と申けるを、禅門許容し不給ければ、国清大に忿て、己が勢七百余騎を引分て、将軍へぞ参ける。此外縁を尋て降下になり、五騎十騎打連々々、将軍方へと参ける間、角ては越前に御坐候はん事は叶はじと、桃井頻に勧申されければ、十月八日高倉禅門又越前を立て、北陸道を打通り、鎌倉へぞ下り給ひける。
○薩多山合戦事 S3004
将軍は八相山の合戦に打勝て、軈上洛し給ひけるを、十月十三日、又直義入道可誅罰之由、重被成宣旨ければ、翌日軈都を立て鎌倉へ下給ふ。混に洛中に勢を残さゞらんも、南方の敵に隙を窺はれつべしとて、宰相中将義詮朝臣をば、都の守護にぞ被留ける。将軍已に駿河国に著給ひけれ共、遠江より東し、東国・北国の勢共、早悉高倉殿へ馳属てければ、将軍へはゝか/゛\しき勢も不参。角て無左右鎌倉へ寄ん事難叶。先且く要害に陣を取てこそ勢をも催めとて、十一月晦日駿河薩■山に打上り、東北に陣を張給ふ。相順ふ兵には、仁木左京大夫頼章・舎弟越後守義長・畠山阿波守国清兄弟四人・今河五郎入道心省・子息伊予守・武田陸奥守・千葉介・長井兄弟・二階堂信濃入道・同山城判官、其勢僅に三千余騎には不過けり。去程に将軍已薩■山に陣を取て、宇都宮が馳参るを待給ふ由聞へければ、高倉殿先宇都宮へ討手を下さでは難義なるべしとて、桃井播磨守直常に、長尾左衛門尉、並に北陸道七箇国の勢を付て、一万余騎上野国へ被差向。高倉禅門も同日に鎌倉を立て、薩■山へ向ひ給ふ。一方には上杉民部大輔憲顕を大手の大将として、二十万余騎由井・蒲原へ被向。一方には石堂入道・子息右馬頭頼房を搦手大将として、十万余騎宇都部佐へ廻て押寄する。高倉禅門は寄手の惣大将なれば、宗との勢十万余騎を順へて、未伊豆府にぞ控られける。彼薩■山と申は、三方は嶮岨にて谷深く切れ、一方は海にて岸高く峙り。敵縦ひ何万騎あり共、難近付とは見へながら、取巻く寄手は五十万騎、防ぐ兵三千余騎、而も馬疲れ粮乏しければ、何までか其山に怺へ給ふべきと、哀なる様に覚て、掌に入れたる心地しければ、強急に攻落さんともせず、只千重万重に取巻たる許にて、未矢軍をだにもせざりけり。宇都宮は、薬師寺次郎左衛門入道元可が勧に依て、兼てより将軍に志を存ければ、武蔵守師直が一族に、三戸七郎と云者、其辺に忍て居たりけるを大将に取立て、薩■山の後攻をせんと企ける処に、上野国住人、大胡・山上の一族共、人に先をせられじとや思けん。新田の大島を大将に取立て五百余騎薩■山の後攻の為とて、笠懸の原へ打出たり。長尾孫六・同平三・三百余騎にて騎上野国警固の為に、兼てより世良田に居たりけるが、是を聞と均く笠懸の原へ打寄、敵に一矢をも射させず、抜連て懸立ける程に、大島が五百余騎十方に被懸散、行方も不知成にけり。宇都宮是を聞て、「此人々憖なる事為出して敵に気を著つる事よ。」と興醒て思けれ共、「其に不可依。」と機を取直して、十二月十五日宇都宮を立て薩■山へぞ急ける。相伴ふ勢には、氏家大宰小弐周綱・同下総守・同三河守・同備中守・同遠江守・芳賀伊賀守貞経・同肥後守・紀党増子出雲守・薬師寺次郎左衛門入道元可・舎弟修理進義夏・同勘解由左衛門義春・同掃部助助義・武蔵国住人猪俣兵庫入道・安保信濃守・岡部新左衛門入道・子息出羽守、都合其勢千五百騎、十六日午剋に、下野国天命宿に打出たり。此日佐野・佐貫の一族等五百余騎にて馳加ける間、兵皆勇進で、夜明れば桃井が勢には目も不懸、打連て薩■山へ懸らんと評定しける処に、大将に取立たる三戸七郎、俄に狂気に成て自害をして死にけり。是を見て門出悪しとや思けん、道にて馳著つる勢共一騎も不残落失て、始宇都宮にて一味同心せし勢許に成ければ、僅に七百騎にも不足けり。角ては如何が有んと諸人色を失ひけるを、薬師寺入道暫思案して、「吉凶は如糾索いへり。是は何様宇都宮の大明神、大将を氏子に授給はん為に、斯る事は出来る也。暫も御逗留不可有。」と申ければ、諸人げにもと気を直して路に少しの滞もなく、引懸々々打程に、同十九日の午剋に、戸禰河を打渡て、那和庄に著にけり。此にて跡に立たる馬煙を、馳著く御方歟と見ればさにあらで、桃井播磨守・長尾左衛門、一万余騎にて迹に著て押寄たり。宇都宮、「さらば陣を張て戦へ。」とて、小溝の流れたるを前にあて、平々としたる野中に、紀清両党七百余騎は大手に向て北の端に控たり。氏家太宰小弐は、二百余騎中の手に引へ、薬師寺入道元可兄弟が勢五百余騎は、搦手に対して南の端に控、両陣互に相待て、半時計時を移す処に、桃井が勢七千余騎、時の声を揚て、宇都宮に打て懸る。長尾左衛門が勢三千余騎、魚鱗に連て、薬師寺に打て係る。長尾孫六・同平三、二人が勢五百余騎は皆馬より飛下り、徒立に成て射向の袖を差簪し、太刀長刀の鋒をそろへて、閑々と小跳して、氏家が陣へ打て係る。飽まで広き平野の、馬の足に懸る草木の一本もなき所にて、敵御方一万二千余騎、東に開け西に靡けて、追つ返つ半時計戦たるに、長尾孫六が下立たる一揆の勢五百余人、縦横に懸悩まされて、一人も不残被打ければ、桃井も長尾左衛門も、叶はじとや思ひけん、十方に分れて落行けり。軍畢て四五箇月の後までも、戦場二三里が間は草腥して血原野に淋き、地嵬くして尸路径に横れり。是のみならず、吉江中務が武蔵国の守護代にて勢を集て居たりけるも、那和の合戦と同日に、津山弾正左衛門並野与の一党に被寄、忽に討れければ、今は武蔵・上野両国の間に敵と云者一人もなく成て、宇都宮に付勢三万余騎に成にけり。宇都宮已に所々の合戦に打勝て、後攻に廻る由、薩■山の寄手の方へ聞へければ、諸軍勢皆一同に、「あはれ後攻の近付ぬ前に薩■山を被責落候べし。」と云けれ共、傾く運にや引れけん、石堂・上杉、曾不許容ければ、余りに身を揉で、児玉党三千余騎、極めて嶮しき桜野より、薩■山へぞ寄たりける。此坂をば今河上総守・南部一族・羽切遠江守、三百余騎にて堅めたりけるが、坂中に一段高き所の有けるを切払て、石弓を多く張たりける間、一度にばつと切て落す。大石共に先陣の寄手数百人、楯の板ながら打摯がれて、矢庭に死する者数を不知、後陣の兵是に色めいて、少し引色に見へける処へ、南部・羽切抜連て係りける間、大類弾正・富田以下を宗として、児玉党十七人一所にして被討けり。「此陣の合戦は加様也とも、五十万騎に余りたる陣々の寄手共、同時に皆責上らば、薩■山をば一時に責落すべかりしを、何となく共今に可落城を、高名顔に合戦して討れたるはかなさよ。」と、面々に笑嘲ける心の程こそ浅猿けれ。去程に同二十七日、後攻の勢三万余騎、足柄山の敵を追散して、竹下に陣を取る。小山判官も宇都宮に力を合て、七百余騎同日に古宇津に著ければ、焼続けたる篝火の数、震く見へける間、大手搦手五十万騎の寄手共、暫も不忍十方へ落て行。仁木越後守義長勝に乗て、三百余騎にて逃る勢を追立て、伊豆府へ押寄ける間、高倉禅門一支も不支して、北条へぞ落行給ひける。上杉民部太輔・長尾左衛門が勢二万余騎は、信濃を志て落けるを、千葉介が一族共五百騎許にて追蒐、早河尻にて打留めんとしけるが、落行大勢に被取篭、一人も不残被討けり。さてこそ其道開けて、心安く上杉・長尾左衛門は、無為に信濃の国へは落たりけれ。高倉禅門は余に気を失て、北条にも猶たまり不得、伊豆の御山へ引て、大息ついて坐しけるが、忍て何地へも一まど落てや見る、自害をやすると案じ煩給ひける処に、又和睦の儀有て、将軍より様々に御文を被遣、畠山阿波守国清・仁木左京大夫頼章・舎弟越後守義長を御迎に被進たりければ、今の命の捨難さに、後の恥をや忘れ給ひけん、禅門降人に成て、将軍に打連奉て、正月六日の夜に入て、鎌倉へぞ帰給ひける。
○慧源禅門逝去事 S3005
斯し後は、高倉殿に付順ひ奉る侍の一人もなし。篭の如くなる屋形の荒て久きに、警固の武士を被居、事に触たる悲み耳に満て心を傷しめければ、今は憂世の中にながらへても、よしや命も何かはせんと思ふべき、我身さへ無用物に歎給ひけるが、無幾程其年の観応三年壬辰二月二十六日に、忽に死去し給ひけり。俄に黄疽と云病に被犯、無墓成せ給けりと、外には披露ありけれ共、実には鴆毒の故に、逝去し給けるとぞさゝやきける。去々年の秋は師直、上杉を亡し、去年の春は禅門、師直を被誅、今年の春は禅門又怨敵の為に毒を呑て、失給けるこそ哀なれ。三過門間老病死、一弾指頃去来今とも、加様の事をや申べき。因果歴然の理は、今に不始事なれども、三年の中に日を不替、酬ひけるこそ不思議なれ。さても此禅門は、随分政道をも心にかけ、仁義をも存給しが、加様に自滅し給ふ事、何なる罪の報ぞと案ずれば、此禅門依被申、将軍鎌倉にて偽て一紙の告文を残されし故に其御罰にて、御兄弟の中も悪く成給て、終に失給歟。又大塔宮を奉殺、将軍宮を毒害し給事、此人の御態なれば、其御憤深して、如此亡給ふ歟。災患本無種、悪事を以て種とすといへり。実なる哉、武勇の家に生れ弓箭を専にすとも、慈悲を先とし業報を可恐。我が威勢のある時は、冥の昭覧をも不憚、人の辛苦をも不痛、思様に振舞ぬれば、楽尽て悲来り、我と身を責る事、哀に愚かなる事共也。
○吉野殿与相公羽林御和睦事付住吉松折事 S3006
足利宰相中将義詮朝臣は、将軍鎌倉へ下り給し時京都守護の為に被残坐しけるが、関東の合戦の左右は未聞へず、京都は以外に無勢也。角ては如何様、和田・楠に被寄て、無云甲斐京を被落ぬとをぼしければ、一旦事を謀て、暫洛中を無為ならしめん為に、吉野殿へ使者を立て、「自今以後は、御治世の御事と、国衙の郷保、並に本家領家、年来進止の地に於ては、武家一向其綺を可止にて候。只承久以後新補の率法並国々の守護職、地頭御家人所帯を武家の成敗に被許て、君臣和睦の恩慧を被施候は、武臣七徳の干戈を収て、聖主万歳の宝祚を可奉仰。」頻に奏聞をぞ被経ける。依之諸卿僉議有て、先に直義入道和睦の由を申て、言下に変じぬ。是も亦偽て申条無子細覚れ共、謀の一途たれば、先義詮が被任申旨、帝都還幸の儀を催し、而後に、義詮をば畿内・近国の勢を以て退治し、尊氏をば義貞が子共に仰付て、則被御追罰何の子細か可有とて、御問答再往にも不及、御合体の事子細非じとぞ被仰出ける。両方互に偽給へる趣、誰かは可知なれば、此間持明院殿方に被拝趨ける諸卿、皆賀名生殿へ被参。先当職の公卿には二条関白太政大臣良基公・近衛右大臣道嗣公・久我内大臣右大将通相公・葉室大納言長光・鷹司大納言左大将冬通・洞院大納言実夏・三条大納言公忠・三条大納言実継・松殿大納言忠嗣・今小路大納言良冬・西園寺大納言実俊・裏築地大納言忠季・大炊御門中納言家信・四条中納言隆持・菊亭中納言公直・二条中納言師良・華山院中納言兼定・葉室中納言長顕・万里小路中納言仲房・徳大寺中納言実時・二条宰相為明・勘解由小路左大弁宰相兼綱・堀河宰相中将家賢・三条宰相公豊・坊城右大弁宰相経方・日野宰相教光・中御門宰相宣明、殿上人には日野左中弁時光・四条左中将隆家・日野右中弁保光・権右中弁親顕・日野左少弁忠光・右少弁平信兼・勘解由次官行知・右兵衛佐嗣房等也。此外先官の公卿、非参議、七弁八座、五位六位、乃至山門園城の僧綱、三門跡の貫首、諸院家の僧綱、並に禅律の長老、寺社の別当神主に至まで我先にと馳参りける間、さしも浅猿く賎しげなりし賀名生の山中、如花隠映して、如何なる辻堂、温室、風呂までも、幔幕引かぬ所も無りけり。今参候する所の諸卿の叙位転任は、悉持明院殿より被成たる官途なればとて各一汲一階を被貶けるに、三条坊門大納言通冬卿と、御子左大納言為定卿と許は、本の官位に被復せけり。是は内々吉野殿へ被申通ける故。京都より被参仕たる月卿雲客をば、降参人とて官職を被貶、山中伺候の公卿殿上人をば、多年の労功ありとて、超涯不次の賞を被行ける間、窮達忽に地を易たり。故三位殿御局と申しは、今天子の母后にて御坐せば、院号蒙せ給て、新待賢門院とぞ申ける。北畠入道源大納言は、准后の宣旨を蒙て華著たる大童子を召具し、輦に駕して宮中を出入すべき粧、天下耳目を驚かせり。此人は故奥州の国司顕家卿の父、今皇后厳君にてをはすれば、武功と云華族と云、申に及ぬ所なれ共、竹園摂家の外に未准后の宣旨を被下たる例なし。平相国清盛入道出家の後、准后の宣旨を蒙りたりしは、皇后の父たるのみに非ず、安徳天皇の外祖たり。又忠盛が子とは名付ながら、正く白河院の御子なりしかば、華族も栄達も今の例には引がたし。日野護持院僧正頼意は、東寺の長者醍醐の座主に被補て、仁和寺諸院家を兼たり。大塔僧正忠雲は、梨本大塔の両門跡を兼て、鎌倉の大御堂、天王寺の別当職に被補。此外山中伺候の人々、名家は清華を超、庶子は嫡家を越て、官職雅意に任たり。若如今にて天下定らば、歎人は多して悦者は可少。元弘一統の政道如此にて乱しを、取て誡とせざりける心の程こそ愚かなれ。憂かりし正平六年の歳晩て、あらたまの春立ぬれども、皇居は猶も山中なれば、白馬蹈歌の節会なんどは不被行。寅の時の四方拝、三日の月奏許有て、後七日御修法は文観僧正承て、帝都の真言院にて被行。十五日過ければ、武家より貢馬十疋・沙金三千両奏進之。其外別進貢馬三十疋・巻絹三百疋・沙金五百両、女院皇后三公九卿、無漏方引進。二月二十六日、主上已に山中を御出有て、腰輿を先東条へ被促。剣璽の役人計衣冠正くして被供奉。其外の月卿・雲客・衛府・諸司の尉は皆甲胄を帯して、前騎後乗に相順ふ。東条に一夜御逗留有て、翌日頓て住吉へ行幸なれば、和田・楠以下、真木野・三輪・湯浅入道・山本判官・熊野の八庄司吉野十八郷の兵、七千余騎、路次を警固仕る。皇居は当社の神主津守国夏が宿所を俄に造替て臨幸なし奉りけり。国夏則上階して従三位に被成。先例未なき殿上の交り、時に取ての面目なり。住吉に臨幸成て三日に当りける日、社頭に一の不思議あり。勅使神馬を献て奉幣を捧げたりける時、風も不吹に、瑞籬の前なる大松一本中より折て、南に向て倒れにけり。勅使驚て子細を奏聞しければ、伝奏吉田中納言宗房卿、「妖は不勝徳。」と宣てさまでも驚給はず。伊達三位有雅が武者所に在けるが、此事を聞て、「穴浅猿や、此度の臨幸成せ給はん事は難有。其故は昔殷帝大戊の時、世の傾んずる兆を呈して、庭に桑穀の木一夜に生て二十余丈に迸れり。帝大戊懼て伊陟に問給ふ。伊陟が申く、「臣聞妖は不勝徳に、君の政の闕る事あるに依て、天此兆を降す者也。君早徳を脩め給へ。」と申ければ、帝則諌に順て正政撫民、招賢退佞給しかば、此桑穀の木又一夜の中に枯て、霜露の如くに消失たりき。加様の聖徳を被行こそ、妖をば除く事なるに、今の御政道に於て其徳何事なれば、妖不勝徳とは、伝奏の被申やらん。返々も難心得才学哉。」と、眉を顰てぞ申ける。其夜何なる嗚呼の者かしたりけん。此松を押削て一首の古歌を翻案してぞ書たりける。君が代の短かるべきためしには兼てぞ折し住吉の松と落書にぞしたりける。住吉に十八日御逗留有て、潤二月十五日天王寺へ行幸なる。此時伊勢の国司中院衛門督顕能、伊賀・伊勢の勢三千余騎を率して被馳参けり。同十九日八幡へ行幸成て、田中法印が坊を皇居に被成、赤井・大渡に関を居へて、兵山上山下に充満たるは、混ら合戦の御用意也と、洛中の聞へ不穏。依之義詮朝臣、法勝寺の慧鎮上人を使にて、「臣不臣の罪を謝して、勅免を可蒙由申入るゝ処に、照臨已に下情を被恤、上下和睦の義、事定り候ぬる上は、何事の用