晶子新集
与謝野晶子
憎むにも妨げ多きここちしぬわりなき恋をしたるものかな
折ふしに男の心まよはずばいやが上にもめでたきものを
大空の月の国より夜に落つる花びらのごと痩せし舞姫
軽やかに手をさしのべぬ薄絹のごとくその身を思ふ舞姫
軽くわれ人と人との呼びかはすものと思ひし恋に今泣く
百年に代へて悔いざる今日の日と思へる時のやや過ぎぬらし
山風に雨の混れば濡れにけり窯き枯木も白き枯木も
いつしかに良くならんとて微笑めるものありしこそ嬉しかりけれ
この女人冥府をも覗く楽みの極りぬればまた恐れ無し
いぢけたるわが魂をあざけりて夜の虫鳴くと哀れになりぬ
白菊は生物に似てわななきぬいみじき風の月よりぞ吹く
原の端薄を掘りて運び行くわざとめきたる下司男かな
今ここに身も世も忘れ乗りぬべき玉の船来よあかつきの海
この外にまた楽まずわが君の言の葉断えず耳を打てかし
心をば少ししびれてあれよとも自ら思ふ恋をなすにも
わが傷を愛づると人の思ふらん斯くうち思ひ涙零れつ
子の病めば家の中なるいかなる室いかなる隅も見てあぢきなし
秋立てば雲の裂目に金光りわれの心は藍がちになる
十年程ものあざやかに思はれて来しにも似ざるもの思ひする
今日となる褒めらるること身に過ぐと思ひし如く思はぬ如く
夏の月薄らにかかり砂浜の貝の葉めきてなつかしきかな
大空は唯だ瑠璃色の壷として見る時にさへいみじきものを
心をば先づもて遊ぶ悪をして夜も朝も涙ながせり
自らを海に沈めるはてかとも思ふ皐月の長雨のころ
赤とんぼ蝋燭とんぼ飛びかひてあぢさゐの花清らに光る
わが目にかはた心にか大海の潮時に似るもののあるかな
自らの指の節など哀れとも見つつ思へり妬みの病
われなどが思へることの滞る世なりいといとことわりの無し
中頃に君引く力与へられ二人の世ともなりにけるかな
いみじかる毒つくるごと擦り流す朱の硯より悲み来る
自らの怒を消しも果てしことあぢきなきかなわが思ひ出に
あぢきなし心に尖のあることを君もおのれも知りぬこの頃
ことごとくうらなつかしと思ふこと人にも超ゆるものにも超ゆる
よき中のよき心とも澄み返る秋の水かな秋の空かな
自らを尊とがれどもわが君をいみじとなせることに及ばず
くろ髪の端も見ざりし旅などと法師の如く云ひなすものか
ひるがほの花の色する肱まげて仮寝する間も忘れぬものを
灯のうつる夜の赤き酒うち見つつ飲めとも云はず恋のせはしき
大井川あらし山など舞子など夜の皷などにくき人書く
飛び出でて波の上より帰り来るおじけものなる浜のかはほり
春の風前をうち過ぎ日の出づと東の空を覗きにぞ行く
夏の雲ゆふべゆふべに異なりてそもいく人を忍べと云ふや
十ばかり黒き船置く大川をわがたそがれに覗く窓かな
夏の宵白き扇も水色の扇もにくし人に似たれば
敷石と並木と鳥の毛の帽子濡るる雨をば思ふ夕ぐれ
君に問ふこれ百年の後なるやはた心のみへだたりぬるや
その心夜より朝を見し如く云ひ給ふゆゑ涙こぼるる
門に来て別れて駆けも入る時に膝打たせたる石の角かな
静かなる火と噴泉の烈しきと二人を今日は逆さまに云ふ
人間は幸あれど或時は夜ごと幽かに泣かれこそすれ
恋すれば人の心を朝夕にはかるうつはとおちぶれぬわれ
若き身の恋するやうに秋の雲動きも止まずほのかなれども
古きをば忘るるは常なほいまだ得もせぬものを男は捨つる
わが昼の雨の中なる百舌の声こほろぎになれ馬追になれ
秋風にこすもすの立つ悲しけれ危き中のよろこびに似て
危さとすれすれに居て神のごとよき恋人になりぬおのれは
恋と云ふ苦しきものの上に居る人ぞと時にわれも悲しき
われは今何顕はるる知りがたき不思議の壁の下に憩へり
恋すれば毒にまさりてあでやかに甘く苦しくつくる死ぬ日を
うらめしと内にとどまるもの一つ溢れて出でて泣かれけるかな
天地もはた今日の日も過ちによりてなるかと烏滸に思はじ
われいまだおのれを寒き風なりと思はず人を恋してぞある
濃やかに自ら語ることも得る恋を持つ身とよろこぶ人ぞ
朝夕に自ら呵することなどは恋にあらねばかかはりも無し
恋すれど盲ひとなるを辞みけるその禍ひか報いかこれは
世の中の人うるはしき名を呼びぬ答へすべきか先づ君に聞く
折節に穢きこころ見るものか妬ましめざる誓ひ聞かまし
御心に追ひ附きがたき歎きすと云へどもすなり恋のかたちを
この神は何を願ふと百千度所れどいまだ知らず顔する
天地の姿もわれの心より外にある無しわれは君恋ふ
あらかじめ思ひしことと思ふ日を憂しやわれさへ人並に見る
憂しと云ひ嬉しと云へることごとくさま変りたる国にこしかな
後より来しとも前にありきとも知らぬ不思議の衰へに逢ふ
人間の力も尽くと云ふ時に微笑みおこるわが病これ
梅の花人とぞ思ふその昔丘のつづきに住みしここちに
冬の空針もて彫りし絵のやうに星きらめきて風の声する
見て思ひ見ねば忘るる生物をとりことなして守るなりけり
真白なるいみじきものに唯だ少し混りぬ墨か朱か知らねども
板敷の冷さよりも身に泌むと恋の心を思ひけるかな
春の日のみどりの峰の色などを恋かと見つる若きいにしへ
紫と寒き鼠の色を着て身をへりくだり老いぬなど云ふ
誇るにはあらねどものに泥みしははづかに君を思ふことのみ
恋と云ふ広き境に行くことをわれの惑ひて来し所らし
わが庭の窪に下りてのどかにも三月待つや天のしら雪
若き日に帰らむことを願はざりただ若きをば之に加へよ
ものの木の枝のみ繁きここちするわが一月の山の手の街
一月は築地の橋を四つ五つ越えつとのみに外のこと無し
築地なる蔵の蔭なる船着場その穴くぐり熊狸出づ
てのひらに砂の匂ひす恋人をもつ人ならば悲しからまし
はしけやしミサ礼拝に出でて行く男の子をば夏の風吹く
筆をもて黒雲または風の雲雨雲描かむ暑き日のそら
春の暮法師来りぬわが背子が心ひかるる人の国より
夕かげに銀の箔おくものと見し白罌粟の花くだけて散るを
浴みすとうすものを脱ぐ人のごと白罌粟見ゆれ落つる時にも
軽きもの重げに落つる罌粟の散るはた男より女を恋ふる
六月の夜明の風に舞へる草見むと河原に降り立つわれは
とんぼよりはしこく百合の花よりもたをやかなるは誰の心ぞ
草の穂の黒きがなびく雨を見て山の恋しき夏の夕ぐれ
わが鏡顔はよけれど寒げなる肩のあたりは映らずもがな
てのひらにさくらんぼ置き何となく后ごこちす夏はめでたし
玉虫をみちのく紙に置きたれば羽ばたきすなりもの云ふさまに
蟷螂の目を過ぐるなどここちよしとき色をする夏のひかりに
七月やうすおしろいをしたる風歩み来りぬ木の下行けば
色しろくまなじり少し上りたる浪華の人の見ゆる桔梗よ
朝がほは芝居のいろの紫も恋の心のくれなゐも咲く
箪笥より去年のかたびらとり出づる手ざはりなどは何にたとへむ
嬉しけれ緋と水色のまぼろしに見し七月の夏ともなりぬ
大空の星も渚の夕波もましろき石も一人をまねく
名なし草土の窪をば水色になして悲しき香を送るかな
この土に少女と生れ恋人と育ちこころはやや華奢に過ぐ
小指をば空にあてたる跡のごとまばらに星の見えて風吹く
はやりかに夏の風めくもの言ひをなし給ふ時覚ゆ生きがひ
ふとしたるものの起りを思ふ時神仏など拝むここちす
白き梅かひなを伸しくろ髪を被ける君の如く今咲く
わが心君を中にしめぐるをば言葉になしぬ常に変ると
春立てば浪華の街の少女達皆姉妹と見え給ふかな
炉に倚れば遠方人の恋しけれ正月もなほ常のさまかな
美くしくめでたきものが地を占めて天にをさをさ劣らず春は
たちまちに今年の春の初めともなりぬることを驚かぬかな
わが住める山の続きに神達のあるここちする元日の朝
来し春の匂ひつくりてわが小琴青き袋を出でにけるかな
街々の顔よき群に入り混り風流男めきし春ぞ遊べる
わが庭はまださへづらぬ小鳥ども起居するなり元日にして
いにしへの聚楽の第も大内も押して思はる正月人は
春立つと早くみどりの草繁るこころは少し軽きなるべし
元朝のまだ暗くして柑子の香酒の香混り立つ家のうち
何町の羽子突く群にわれありと百人程は噂すと聞く
わがかどに孔雀めでたく立ちぬとも今日は思はる二もとの松
正月の二日の朝は二月の心地に醒めぬ雪は降れども
ものの音少し途絶えて元日の悲しきばかり静かなるかな
元日は人の中より選ばれしめでたき人の心地すわれも
白菊のうつろひぬれば人の身を毒流れ行くさまかとぞ見る
冬来り菊の花などその葉などなべて紅すれ夕ぞらのごと
この君は炉のここちよく燃ゆるとて春のかたへに来よと人呼ぶ
夜に降りて柳の上に置きたるやあらず少しの円山の雪
わが前にむしろを被たる白き馬引かれてぞ来し秋のさびしさ
初秋は鳥の腹ともふつつかに咲く草花も哀れとぞ思ふ
久方の水色の空背になして極楽鳥の舞へる秋かな
土がする物好きのごと草の葉も花も落ち散る秋雨ののち
忘られていく年かへし心地しぬ白き芙蓉に向ひ居たれば
うす紅も白も黄も皆同じほどあはれ淋しく匂ふ庭かな
しどけなくもの悲める秋の草はた秋の雨秋の女よ
秋風の傍へに居るは唯一人われのみのごと涙の下る
鬼の面狐の面を被て遊ぶ子等を廊下に吹く秋の風
広き街歩みて思ひ狭き路通ひて思ふ秋きたりぬと
自らが机に倚りててのひらを見る癖などに心づく秋
暗きよりものを見出づるなつかしさ知りぬと云ふも目を病めるため
ふと心めでたき鳥を飼ふとしぬ雁来紅の尺ばかりなる
日ぐらしの女めくこそ悲しけれ青桐の幹抱きしめて鳴く
ひるがほを人の肌のあたたかさ持つ花とこそ思ひやりけれ
あはれともあぢきなしとも恋しとも云ひたげなりやひるがほの花
雑草のしなへし道の見ゆるかな夏のこの頃ものを思へば
あなわびし足らぬに足れと作られし人にもあらずかしこきものを
灰色の心を愧ぢて死ぬと云ふ友もやうやく思ひなほりぬ
夕雲の紅きがもとの石門が凉しき風を吐くと思ひぬ
あはれにも疲れたれどもよく笑ふ人ぞと思ふ或日みづから
高き草噴泉のごと火の山の煙のごとく風にうづまく
わが口に含み居たりし恋しさの喉より胸の中に沁み行く
ひるがほはかづらになりてなびくさへ人のここちす我のここちす
あはれ世にひざまづかんと思ふ人来てひざまづく夢路なれども
秋の風空のひまより吹くごとし髪の端さへ冷たかりけれ
十月や野にあるよりも人よりも疾くうら枯れし屋根の草かな
浪華にて我子の病むを見がたかる境のごとく歎く日も夜も
一の子の光にかかる思ひ出の白玉のぞく重く病むとて
二フランをもていとし子の旅じたくなしつる時も辛かりしかな
わが世には光の死ぬに代へんもの無しと思へど病むを見がたし
生れたる八十日ばかりにわが涙見て泣きし子が十五にて病む
蚊遣香四五日切れし書斎にて世も苦しやとわれ歎くらく
なにがしの夫人が玉のかんざしの価をさもし忘れかねつも
子の病ややよしと云ふ消息を湯殿の外に読めるわが背子
弟の病むを泣きつつ出で立ちし光も旅に出でて後病む
帰らん日一つを母にわかたんと云ひし鞄の二つのタオル
石の卓撫でつつふともありし夜の夢思ひいでわと泣くわれは
いつまでも白く残れる心地して夜の悲しき話なるかな
わが上に残れる時の足跡は朱の色金の色をなさぬか
繋がりて堅しと許す中に似ぬことすこし見る二日三日かな
温室の牡丹はいともあえかなる葉のかたはらへ姉顔に咲く
泣くばかり心せはしくなす思ひわれも為すとて白雪ぞ降る
君とわれ語るに心はづむとて若さに帰る日かと思ひし
君なども隔てがましくよそにして一人思ひぬ衰へむ日を
争はず戦はざれど何ごともありつる跡のさまして淋し
いみじかる妬みも恋も作りけり若き心と身の熱をもて
わが泉底を思はでさざ波のいざよふ水に楽める人
十二月霜にわななく草を見て涙ぐまれぬ外濠の土手
山々の高きかぎりを白玉に変へていみじき春立ちにけり
雪少し相模の山も置くものかとどろと響く波がしらほど
遠き山雪被く日となりぬれば親しくわれと目くばせをする
雪被く山はあれども紅椿火のごとしとて人よぶわれは
今日二人かたはらの炉も遠方の雪降る山もよしと思へり
富士の嶺のいみじき雪になぞらへぬ子を思ふこと君恋ふること
山の雪朝に見出でぬ同じ時寒き思ひをなし居たりけむ
富士白し及ばずとしてみどりなる磯草に消ゆ茅が崎の雪
山脈は中に勝れてよき山もあしきもあらで真白になりぬ
夜に降りて柳の上に置きつるやあらず少しの円山の雪
病してうつし心も無きさまに七八日降る秋の雨かな
われをさへ薄墨色に染めむとてそぼ降る雨の続きぬ十日
雨降れば幽かに泣けりわがこころ蘆のたぐひか萱のたぐひか
こすもすよ強く立てよと云ひに行く女の子かな秋雨の中
地の上のものの総てを斬りきざむ白刃の如く秋雨ぞ降る
秋雨は心か物か知らねども白く裂けつつ降り下るかな
外濠に水かさまさり土手の草あへげる時の赤き夕焼
秋の日の銀の雨さへくれなゐの胸に繋げばわがものとなる
まさめには仰ぎ得ざりし君なりき今日の後はた見むすべもなし
(以下十七首上田敏博士を悼みて)
鐘鳴りぬ神か仏か夕雲かかぜか其等に君変り行く
あたらしく惜しと悲しきことを云ふわが言葉など飽き足らぬかな
殯屋の夕ぐれ時の奥ぐらさ云はんかたなし涙流るる
あなかなしいみじく清きおん娘柩の前に香ひねります
わが住める天地のはし崩れ初めいかがすべきと悲めるなり
いにしへの世の書にさへさばかりの心憎きは書かず亡き君
法の庭端厳なれど亡き君のめでたかりしにいくばくも似ず
しるべなき世界にいますにもあらずなす息にさへ混ると知れど
谷中なる塔のわりなし其横に博士を納む塔のわりなし
亡き博士仄かにものを言ひ給ふけはひを覚ゆ居ても立ちても
雨となり風となりてはいまさむと悟るもかつはうら淋しけれ
華やかに香の煙ぞ立ちのぼる白き柩を目に見るなとて
世に君の引き勝れたるめでたさを唯だ文字にのみ見ん今日ののち
あさましき夢かなよきも勝れしも見はやす博士かくれ給ひし
亡き君がありし年頃眺めつる京の山さへせちに恋しき
さめざめと皐月の尽くる雨降りて殯の庭に鐘の鳴るかな
橋の上街の土にも置かむ霜あやまりてわが心にぞ降る
冬来り近き木立もわが軒も極めて高く思はるるかな
赤城なる冬の木立がやがて被む雪を思ひて心地よしわれ
知りがたき不思議とわれを思ふこと漸く忘れ唯だ哀れなり
冬のごと春をかたへにしてありと云ひ得るごとく云ひ得ぬごとし
雪白く駿河の山に降りたるを叩きに行くと風前を過ぐ
冬枯の木立あえかになまめかし後に朝の歩み寄る時
華やかにあてに遊ぶは心なり身は何すとも云ひがたしわれ
数知らず踊子並ぶここちして波に向へば心はなやぐ
冬の川人の顔ほど青白しかく思ふ人身のふるはれぬ
わが日記稀にまことのことも書く底なき洞を覗くなりなど
貧しさをよき言葉もて云はむとす行者の浴ぶる水ならむこれ
いつしかに冬の朝鳴る汽笛をば身の終る日に聞かむと恐る
重くして形のいとも小さなる玉のごとくに身思ふわれは
後ならず唯今の世の人間の下品下生の貧しき女
山の雪すこしかかるも重ぐるし冬にぞ僻む貧しき人は
枯々に菊の咲けるも身に沁みて冬はわが家を離れがたかり
われ一人いみじからむと身を守る外にもの無し天地のうち
めでたきと醜きものの中程の身とは夢にも思はざるかな
めでたしと自ら思ふ時にのみ身の健しかし人は知らねど
われ若し長き路をば持つ人に劣らぬさまの苦しさのため
われ昔長者の子をば羨みぬ今日愁ふるもその病のみ
君とわれ語るに心はづむとて若さに帰る日かと思ひぬ
まばらにも湧き出でしごと白菊の咲く秋の日となりにけるかな
いにしへのクレオパトラを飾りたる玉の色してめでたきダリヤ
目を閉ぢて思へることも君を見て思へることも変らぬはよし
自らに関らぬこと君なすと云はんばかりのかかはりごとす
一人をば頼み過ぎたる心をばよしあし知らね知るあぢきなさ
翅かはし飛ぶなり心天上をはた或時ははなれてぞ飛ぶ
物裂けて轟くごとく小けれど鳴く虫ありぬいねもえぬ夜に
幾時の虚無にひとしきしじまより出しとは見えぬ君とわれかな
太陽のその薔薇色の光より生れしことを誰か疑ふ
その昔この世の隅と思ひしは色と光のうづまくところ
いと多く白菊咲きぬ恋と云ふことなどすべて知らぬさまかな
かかるもの生れ出でつと涙して人より先にわれの驚く
夢かなど四五日まへの或朝のことふと思ふ恋するやうに
その犠牲にならぬを誇る人と人かかるめでたきあはひはあるや
わが耳に入りくることが哀れなる宿命のごと夜の風聞く
生くるもの気づかひ多しよく生くる我等に到りまして多かり
もろきものいとよくわれは改めぬ否この君が改め給ふ
わが痩せし肩など映す水のごと見ゆる月居てこほろぎの鳴く
地の上の霜ににじめるダリヤより思ひは赤しわが身のうちに
わが胸に踊を強ふるもの来しと思ひしのちの自らのこと
いにしへの何とは無しに思はするほの黄ばみたる草の上かな
素足してよろめきながら呼ばはりぬものを恨める十月の風
名にも似ずこの世のものにあらぬなり信濃の山の万年菊は
悲めば千本鎗の摘まれけむ万年菊の花つまれけむ
昨日今日飛行機の音ききなれて紛れもするかあぢきなきこと
ある朝階上の人飛行機を見てうちかこつこれに及ばず
ふつつかに羽風鳴らすと人間の飛行を鳥も蝶も思へる
やや寒し風に混りて飛行機の音の聞ゆる白き朝かな
ひらひらと柳散るなり飛行機の若きめでたき乗手のやうに
わが恋は逆のぼるほど恨めしさ多ければとてあはれすべなし
うら淋し浅葱と白のまだらなる七里が浜の秋風のいろ
はしけやし白き孔雀を傍らに置く心地する中頃の秋
子等の寝て二三時程経ちぬらん雨そそぎ程こほろぎの鳴く
必ずと云はずて云ひし跡見ればいみじと見ゆれ明日は知らずも
神輿倉神馬の厩鈴の音それらを思ふ霧の朝かな
二階にて濠の外なる牛込の灯のまたたくを見る九月かな
初秋やわが妹へ長き文工匠がものをなすごとく書く
秋風によろめく竹の垣根より二間こなたのわが机かな
朝風や兎か熊のやうにして起き上る子のつけひもを吹く
秋風が目まぐるしくも吹くと云ふ草の中なる紅芙蓉かな
秋の雲いと哀れなる女人等の思ひ行きかふここちするかな
何処にも涙とどまり難しなど云ふ人を持つ雲走るかな
粉黛の仮を拭ふと云へばとて憎むにあらずゆめも昨日を
久方の空のめでたさ限り無しそを渡りゆく朝の飛行機
ふとおこり朝より夜に至るまで辛し辛しと泣ける風かな
日の影を雨うち続き見ざる頃色硝子をば寺へ見に行く
その昔逢ひつる憂さにつゆばかり似るものなきももの足らぬかな
身に沁めと少しの嘘を云ふものか雨の夜道を行くことにより
夏山の御堂の畳踏みに来よ忘れに来よや仏のまへに
われいまだ世を楽しとも知らぬ時君まだわれを憎みける時
あはれなる涙のしみし袴をば穿き居ますらむ夏来れども
ある一人快からず思ふことやがて変りぬあなあやふこれ
わが恋を噴泉と云ひ大きなる海にたとへて飽かぬ心ぞ
湖やわが暁の蚊帳のごとかろげに動くふなばたの波
わが待てば朝の月かとうち思ふ白き傘して来給ひしかな
憎き時なつかしき時思ふかな彼またこれにことならじとぞ
湖の波と御空の秋の日の中飛ぶごとき淋しさを知る
その昔君に聞きしや近き日に知らぬ人来てをしへしやこれ
新しきものゆゑ心引くと云ふわれしも云はんことを君云ふ
われのため若き日のため君のため熱き涙もつめたきも落つ
初夏の青玉の日をかたはらになせば翅もあるここちする
人間のいとなつかしき汗の香もまじへて白き花うばら咲く
底ひなき井を失ひぬ汲みがたし恋のこころと若きこころを
森の木のよき影のごと思ひ出は踏み行くものをためらはすかな
二人寄り創造したる境にて一人物をは思はずもがな
あやまちを正さんと手をさし出しぬわれはわれなり一人行かまし
天地の一はしのわれ一はしの君恋ふるにも苦しき目見ぬ
自らに見出でしものを告げむとて其人を待つ必ず来べし
うつくしき男女の間にも水凍れかし滑りて行かむ
名も知らぬ際にはあらぬ眼前に彩弱の鳥の居たりけるかな
君ならぬ君われならぬ今ひとり四人のなせる恋のここちす
わが夢を襲はむものの色したる牡丹の花もくづれけるかな
あざむかれ麻痺れて花を落すごと牡丹の花の見ゆる昼かな
君はこれ仮初にだに見むことを思はぬ恋に死ぬ身ならまし
夢ならぬあかし見せよと人云へばわれ何せむとふためくこころ
いかさまに思ひ合ひつる知らねどもこの一人をば見て淋しけれ
悲みをもて練りたれど楽みをもとの心につくり置きける
もの云へば否と答へむ口つきの椿の花もあはれとぞ思ふ
開くより閉づるつとめの多き戸を佗しと云ひぬみづからのこと
青き甕小き丈にふさはしく椿をさせばひひなの如し
この愁ひ何よりしたることならん勝れし人も哀れなるかな
三人が男一人と絵を描きぬ窓二つある春の部屋かな
赤絵てふ皿見てあれば椿咲く島の話のきかまほしかり
春の日の門の檐より落つる雨音羽の滝の音立つる雨
三月や朝夕雲のゆきかひにむらさきがちの空となりゆく
魚のわれ水に帰りしここちして浴槽にあれば春雨ぞ降る
自らを忘れて望み自らを忘れてものに足れる人かな
勝れしがなすべきことをなすごとき桜の花の盛りになりぬ
遠方の三味の音にもしたがへる心を見出づ春の夕ぐれ
大きなる価あるもの心より崩れて落ちも行くごときかな
うす紅の若き心に青の縁とりぬと今日もかしこみぬわれ
春ながら風少し吹き小雨降る夕などにも今似たるべし
花などを捧げ物とはせざるため目に見えぬため人の咎むる
手を振りて商人なるが物言へる傍へに春をさびしとぞ思ふ
若き日をいにしへのごと今のごと二やうに云へば少しなやまし
悲みのこころを通る足どりに少し似通ふ春の夕かぜ
つばめ来て波形描きぬ西山に土と変らぬ古き石段
恋いのちはずみを得つつきよらなる形まうけぬありしわが世に
灰色もよしと思ひぬきよらにも幸めくものの影なればこれ
われ思ふ温室に寝て花の香にしたりてあらばこれに似るべき
近づきぬ遠退きぬなど人の見る風まじりなる春の雨かな
彼を見じ憎くかる時となつかしき時のさやかになりし心に
壷二つ右と左に置きかへしそれのみならぬときめき起る
これはいとよき心より自らのこころに蜜を塗りて相見る
自繻子の冬のここちと燃ゆる火の緋色をしたる女のこころ
別れてはペン描きの絵のここちするものの心に残りぬるかな
軽々とわれもまじりて扇など袖もやうなど見はやせる群
羽振りて彼方に去れる大いなるものある如く雪降り止みぬ
地の上に下りてはやがて消えんなどかりそめにだに思はぬ小雪
わが息か机のものか知らぬまで思ひ沈めば静かなるかな
四月来て桃咲きぬれば家の内に女うからの多きここちす
ものの本夜にひもどきてせきあへぬ女ごころをわれに見出づる
みづからは家にも似ざる狭き門おくと思へりおふけなけれど
おほらかにうす紅のかたまりと春はわが身も思はるるかな
若き人四月の花に語るべき言葉をもてく憎からぬかな
紫と寒き鼠の色を着て身をへりくだり老いぬなど云ふ
真白なる牡丹とわれの間よりものの生るる心地するかな
浅みどり心のうつるものとしてうらなつかしき草の道かな
いづくにか町の娘の淋しやと息づく如き春の夕かぜ
幸の欠目をなせる傷かこれ否いますこし大きやかなり
あてやかに浅葱の雨の降れよかしつばめ飛ぶなり二階に来れば
落日をさくらんぼともあなづりてわれ口づけを思ひけるかな
君は知る敵の呼ぶにひとしきとそのいのちなど目にも置かぬと
云はぬをば酒にも勝り身のことに沁む酔として君を思ひぬ
しら玉の質ぞとわれを教ふれど心跳らずなりにけるかな
春の日に冬の続きて来るとも驚かじなど云へば身慄ふ
わが胸に白鳥ほどの花咲くと身をやごとなく思ふ日となる
百年もはた千年も忘れ居よよそ人としてめでんばかりぞ
少女子の早く定まる心をば持ちぬと書けば哀になりぬ
憎げなる骨高き手の磨るならぬ墨もきしみて寒き朝かな
拝むもの拝まるるもの変りなき唯だ一体の御仏の堂
赤つちの椰子の実ほどのかたまりの四五日ありぬ春の門ぐち
白き砂浜に踏むごときよらさもめでたきことも知りて侮る
目に見ゆるものに足らずと知りにけむ見るべきものを足らずとすらむ
犬ころが越後獅子よりあざやかに舞ふとて二人てのひらを打つ
死なん日に辛かりしなど泣かばとて歪形のさまもなさじ天地
わにざめが海に臥すより自らの深くしづめる世の中の底
よろづには惑へど一つとらむ時われ突進すまづ恋に見よ
天地の神にもあらず自らの後の怒りを恐れずばせん
君とわれ別るることを急かずと集七つ八つ作りけるかな
今生のわれはめでたしわれを持つ君はことさらあてにめでたし
あぢきなく天を疑ふたぐひかと言ひ解きぬれば心直りぬ
君来よと望むあたりに行き給へさくらの花に孔雀の鳥に
菜の花に春の入日の落ちぬるは若き子の死ぬけしきなるかな
大空のうち曇りつつうす色の梅など散ればきさらぎ終る
わが世これ倫敦塔の窓ほども明からぬかなわが心から
外よりも内よりも皆あらずとて操正しくわれをなせども
朝より夜に到るまで唯だ一日憎まば滅ぶ敵かと見る
君を避けわれ避けられてその二人もの云ふことを何にたとへむ
大海も憎しと心騒ぎ初め猶えしづめぬわがさまをする
われは今あるより外の心まで引かれて人におもむくものぞ
死なんとは君に引かるる心をばうち殺さむと思ふなりけり
世にいまだ触れず眺めずありながら思へり触れも見もしつる如
疎むべきものかと人の文などをとうでぬわれを師と思ふらん
砂の山朝は柑子に夕ぐれは浅葱の風の上りくるかな
煩ひを煩ひとすれわがものか多くの人のものか究めず
なごやかに恋する群のここちすと稀には聞けど親しまぬ仲
いとさむく淋しく病あるごとく白く冷きわが怒りかな
みやびかに争ひがたくなりたりし外にも心今一つある
隙間なく四人五人思へりし君よりわれは本を読みつる
捨てしもの皆いつしかに自らへ帰れることもあぢきなきかな
山ざくら大方散れどあてやかになほかがやけるここちこそすれ
牛馬を拝まむ彼等むかしより荷の重しとも語らざるかな
霞わく山にありては春のもの流れて止まぬ形すと見ゆ
われは問ふわれは疑ふはたかろく君は許さる君はほこらふ
気のまぎれものの紛れと云ふことをこの家にてはやごとなく云ふ
外側の貧しく寒く見ゆるとて時にみづからあなどるわれは
冬の夜は車にありてしみじみと人の心を思へるがよし
(底本奥付)
定本与謝野晶子全集
第三巻 歌集三
昭和五十五年六月十日 第一刷発行
定価 二千九百円
著者 与謝野晶子
発行者 野間省一
発行所 株式会社講談社
東京都文京区音羽二−一二−二一
郵便番号一一二 振替 東京八−三九三〇
電話東京(〇三)九四五−一一一一(大代表)
組版 株式会社熊谷印刷
印刷所 多田印刷株式会社
製本所 大製株式会社