火の鳥

            与謝野晶子

春の水君に馴れたる心ともわが思ひとも見ゆる夕ぐれ
火の端の見ゆと躑躅の花摘みぬ抑へんとする思ひある頃
後の世を無しとする身もこの世にてまたあり得ざる幻を描く
ことごとく石濡れ行けば俄にも夜のここちする山の家かな
花一つ胸にひらきて自らを滅ぼすばかり高き香を吐く
夏の花風のよすがににほふより心と心通ふ日もがな
わが上に春留まれと聞きつるや俄に薔薇は手にくづれきぬ
悲しみも少しは絶えずあれかしな水の絶えたる沢は気疎し
日も夜も阿房の宮に劣らざる柩つくらんいとなみをする
身を見れば君が方へと引かれ行く迷へる如く迷はぬごとく
木蓮の散りて干潟の貝めける林の道の夕月夜かな
風吹きて片破月は喘ぐなり身さへ細ると忘れてましと
木の下の池菱形にほの白き春の月夜を忘れ給ふな
うつむけば暗紅色の牡丹咲く胸覗くやと思ふみづから
自らは半人半馬降るものは珊瑚の雨と碧瑠璃の雨
山ざくら夢の隣に建てられし真白き家のここちこそすれ
ただ一人柱に倚ればわが家も御堂の如し春のたそがれ
君が鳥わが知らぬ鳥二つ居て囀りし夢また見ずもがな
雨に濡れ二月の春に風流男のうち思はるる七本の樫
ありと聞く五つの戒の一つのみ破りし人も物の歎かる
天よりも地よりもこれは放たれし人かと思ふ七日文見ず
なまめきて散るかと思ふ春の雪われのやうなる掌より
わが君よ君に向へる心をばゆめ暫くも灰色にすな
砂の坂ななめに白き松山の朝の月夜にうぐひすの啼く
天人の一瞬の間なるべし忘れはててん年ごろのこと
水枯れて金錆のごと鴨の居る城の濠よりのぼりくる風
君が見て芭蕪の若葉それよりもたをやかに居し少女なりけん
家のうち摘み残されし野の草と見えて三日四日淋しかりけり
勝れたり畏しとして思ふこと或時はいと哀れなるかな
わが街へ高き空より雪降りぬさびし心の一すぢの街
ほろほろと涙散るなる心地して羽子突くことは物憂くなりぬ
白よりも紅の椿の淋しさを知りて歎けば君もなげきぬ
天地を間に置ける人と人頼みがたしと見ねば思はる
いつしかとうち零れたる涙ゆゑ螺鈿の紋のおかれし机
幸ひのゆきもどりして目放たぬ身と思へるも君あるがため
苦しげにものの油のしづくするさまして終る秋の薔薇かな
恋などを黄金の櫃にをさめ行くものならぬこそ死は苦しけれ
夏の夜の鈍色の雲おし上げて白き孔雀の月のぼりきぬ
君と居て我がありさまを花と云ひ鳥と云はせて楽しみし時
七つ八つ薔薇かたぶきて傍の竹も濡れたる朝の雨かな
この恋を遂げずば如何にありつらん痴愚にひとしき疑ひながら
平かにありてふほどの幸は争ふときも覚ゆる人等
自らも雲また霧か煙かと見つるものより炎上りぬ
君と居て愁やうやく生じたるその思出もなつかしきかな
心をば身にゆだねたること知らずまたたぐひなく思ひ上れり
足らぬこと少しお覚ゆる頃にわれ夢などを見て歎きけるかな
白き罌粟見ればわが身も何となく病むもののごと哀れになりぬ
いと多く紅のにじめる蓼の花その草むらをわたる夕風
恋せんと進み出でたる身ならずていつしか物の尽きず思はる
いつしかと耳より入りて答へする煩らはしさもあらずなりゆく
逢ふまじと念ずる人も打ちまじり歩むと街のなつかしき時
わが心空飛ぶ雲に抱かれて日の前を行く暗がりを行く
涙にて濡れたる髪も束ぬれば少しさはやぎ夕となりぬ
いくばくもあらぬ盛りにこの桜砂を浴ぶなり街に立つとて
盛りなる桜を見れば春のため凱旅門の立つかとぞ思ふ
書きちらす歌のここちに桜散り世に好色者の春老いて行く
卯月より皐月に移るおもむきを二十歳ばかりの人は知らじな
恋つくる身を火皿にもたぐへつれ滅びざる灯のありと如くに
何ものも奪はんとする勢ある大やんまより涼しきは無し
青鈍も代赭も濡れし秋雨の小き庭の上行くとんぼ
静かなる心は持てど身の作る華著ゆゑ我れも春の花めく
白椿紅のつばきの二やうのうらなつかしき光さす庭
わが庭の彼岸桜は巡礼のむすめの如し風吹けば泣く
四五日か三月ばかりか千年かかの最終の口づけの後
自らの重き思ひに圧へられしらじらと散る心の薔薇
菊さきぬ寒き思ひを持つわれに似たる淋しき白き顔して
たをやめの靡く髪にも劣らじとかの高き空青雲を張る
その時も彼の時も身の終りかと歎きつるゆゑ身の哀れなり
そのかみの日の睦言を塗り籠めし壁の如くに寄りて歎かる
ほのかにれ煙われより上るとて君もの云ひに来給ひしかな
恋をなし火を息としてあることも倣ひまなべる君とわれかは
この君の次ぎに思へるものも無しおふけなけれど天地の中
八百万市井の人もなすことに見ては固よりことならぬ仲
春立ちぬまたけふののち仰がんも抑へられんもかの青き空
紫を二月に着れば心やや重く湿るもならひとなりぬ
我がこころ嵐と立たんもの抑へ君が言葉を聞きもこそすれ
恨まるる逆しまごとに逢ひし後この逆しまの趣を愛づ
紫を常にめでたき人も着てまばゆき春の初めなりけり
かけ鏡あまり露はに初春の姿を置くと憎けけるかな
飛ぶ車空より来しと春の日に袖振りかへる子をば思ひし
武庫山のみどりの中にわれ立ちて打出の磯の白波を愛づ
昨夜の花をととひの花露に濡れあしたにそよぐ月見草かな
わが寝ぬる山より出づる朝の雲うすものよりもなよやかに見ゆ
遠近の水の音より夏の夜の白く明けたる山の家かな
津の園の武庫の郡に濃くうすく森ひろごりて海に靄降る
遠方の山ほととぎす波白き海の底にて啼くかとぞ思ふ
わが柩つくらん岩も恋人と居てものを云ふ岩もある山
なつかしく朝じめりして匂ふかな櫨のわかばも円葉柳も
夏の雨淵にうつれる山山の影うち叩きさとばかり降る
山映る石の湯槽にある人も子の思はれてわりなかりけれ
水色の夏の雨降りあかつきの山の石みな濡れにけるかな
夕ぐれの浅水色の浴室にあればわが身を月かとぞ思ふ
夏ざくら枝うちなびく渓を見て朝朝わたる板の橋かな
月見草雨の後なる山松のしづく散るなり黄にひらく時
わが立てるみどりの山と大海の浅黄をつなぐ白き道かな
灰色の雲の中にて山の鳥うらめしきこと思へとぞ啼く
武庫山のみどりの中に来し日よりはるかに馴れし海の色かな
この山に森の幾つを分けて入る白き道見ゆ月のひかりに
白き花風にそよげるさまばかりして目の下を去らぬ船の帆
武庫山の夜の風の音その中に子を思う人あはれにも寝る
草の葉の動くさまよりなよやかに雑木なびきて山の雨降る
ふるさとの和泉の山をきはやかに浮けし海より朝風ぞ吹く
天王寺金堂を見て西門を出づる心地は今もめでたし
六月の朔日の風けしいろの南京寺の戸をば吹くかな
水上の方より藍を染めきたる武庫の川辺の夏の夕ぐれ
夕風は浅瀬の波をしろく吹き山をば重き墨色に吹く
袂ふり武庫の河原に降り立ちて舞はんとすなる初夏の月
上もなき清く淋しき悲しみに初めて叩くしろがねの琴
うす青き悲みの道もも色のよろこびの道われに続ける
自らを証となして云ふことにをりふし涙ながれずもがな
こは世界初まる時か亡ぶ日か人多く病み家の淋しき
病める子が見る悪夢より今少しおぼろげならぬ悪夢かな是れ
一の子は病みて身丈の長きかな何時帯むすぶ附紐の上に
親なども覚束なしとなす如し病む子が飽かん力得てまし
強くしてまたわれ等には運命の無しと思へど明日の怪しき
わが子故マリヤの像に抱かるるエスさへ病める心地するかな
わが光日の輝くを透かし見て身を歎つらし病める十六
しどけなくうち乱れしも乱れぬも机は淋し君あらぬ時
しみじみと子の年ほどのわが見つる世界を思ふ病めば看護りて
病院にあるその父の影のごと病む子が立ちて踏み出だす足
君とまた明日逢はんなど云ふことも病院にして聞くは苦しき
夜の二時を昼の心地にゆききする家のうちかな子の病ゆゑ
子の病しづかに看護れ幸の今日に尽きんと思はねばこそ
おこたらん病重らんともかくも思ひえ分かずいとほしき子よ
懺悔ともわれは聞かねどやや常にことなることを許しつるかな
形あるものに足らへる人人のいのちの如く寒き冬かな
時雨降る人にはばかる消息を引きやぶるよりやや荒らやかに
灰色のうるさき雲の居る空を別れて後に見出ししかな
旅人は心行く日と死ぬばかりもの恋しさに泣く日とを持つ
曇る日は島と岬と松原とわれの心と波とかさなる
うち曇りものを思へる雲ありて圧へたれども波白く立つ
砂の上網の目つくるものの蔓何ぞと引けばひるがほの咲く
花さきぬ昔はてなき水色の世界にわれとありし白菊
月見つつ百年水にありとしぬ心も少し寒きなるべし
君とわれ塵にかさなる塵ならし行方も知らず今なりぬべし
水色の高き空より放たれし身の心地するよき端居かな
いにしへを持たず知らずとなししかど昔のものの如く衰ふ
われいまだ病みて生命を護るより苦しきことに逢はざりしかな
なつかしき魔法使の春の雨わが思ひさへ桃色にする
おほらかに此処を楽土となす如し白木蓮の高き一もと
小さなる白き把手の磁の器しづかなる日のわが磁の器
夕月を銀の匙かと見て思ふわが唇も知るものの如
しみじみと思ひしめれる風吹けばほだされて泣く白梅の花
梅の花いみじき壼をつらねたり君と盛らまし若き涙を
梅の花手に受けんとはしたれども君が心のしらしらと落つ
人の云ふ美くしさにはやや遠きつりがね草のゆらぐ夕風
梅落ちて白く哀れに花つもり夕月夜ともなりにけるかな
わが門に向ひて立つは暁の月夜に似たるしろき石垣
渦巻の中に巻かれてあるは好しいつしか端の解けたるは憂し
如何にして児は生くべきぞ天地も頼しからず思ふこの頃
不思議にもつめたきものは鏡ぞとわが顔のぞき思ふ夕ぐれ
この頃は二人寄れどもうら淋し水色の衣着たるここちに
君待てば日蔭の道の春の雪門の口よりわれを覗きぬ
日を見れば君に報ゆるわが心空にかかると涙流れぬ
物云へば今も昔も淋しげに見らるる人の抱く火の鳥
若き日の心の騒ぐおもむきに桜ちるなり風立ちぬらし
わがどちの心の底に鳴る音を忌むと云ふなりかの富める人
春の夜の夢かと云へば然るやと君ももの問ふうつつならぬや
若人が縹の帯のつばめ子の誘ひに来ればいづる門口
天上を知らぬが如く地の上のめでたきものも見ぬ際に居ぬ
貧しさに馴れたるものの尊しとかのえせ者が教へてぞ行く
身貧しと唯ならぬことつぶやけど猶おほらかに人を思へり
雲に行き靄に隠れんここちしてなつかしきかな朧夜の路
憂き時もよろこぶ時も同じほど高くなるなり若き心は
悲しみの巡礼其処を此処を問ふ灰色の塔あまた立つ胸
うき時に物を思はぬさまつくるおのれと思ふ昼の月見て
疎ましや思ひ貶してあるものを羨む夢を見る人もわれ
わが庭の小米桜が薄より弱げになびく夕月夜かな
失ひし憂さかと時に知れどなほ貧しげもなくふるまふ我は
二人あることを覚えし後の日をなべて楽しと云ふも偽り
秋の夜はわりなし三時人待てば哀れに痩せし心地こそすれ
秋来りものの滅ぶを草の実の夕かぜすらも教へんとする
もの憎む心ひろごる傍らにあれども君はかかはりも無し
わが胸をさそひ動かすものこそは快楽にあらず黒き苦しみ
家ざくら痩せて疎らに花咲けば国になじまぬ人かとぞ思ふ
よきことを云へど尽さず為すことも作りごとめく君に向へば
舞ごろも霞に似たるうすものを先づ目にすなり春の初めに
哀れとも爪の先ほど思はれて片恋と云ふ名さへ失ふ
柱より裏白の葉を落し行く鼠けうとく寒き明がた
みちのくの南部の馬の木彫よりこちごちしきは誰の心ぞ
かの人の心の尖にある如き明星なれば憎みこそすれ
文書けば紙の上なる世界にて乱心者の泣きさけぶかな
紫の魚あざやかに鰭振りて海より来しと君を思ひぬ
春の野の青き蓬の匂ひをばなつかしむごと見まほしき君
頻りにも尋ぬる人を見ずと泣くわが肩先の日のくれの雪
かをる時昼も夜中のここちするわが大木の梅の花かな
憎しなどものいひ放つその後になす思ひとも思はれぬこと
うつしみにもの備はれと云ふよりも早く心は清らになりぬ
少女子の打つ皷よりはやりかにいろめく霰二月のあられ
貶めしものの中より自らをなほ頼むとて拾ひぬ我は
からたちの技より隙のいと多し心は垣にならぬなりけり
自らの心乱してある時の息のやうなる雪の音かな
恋のみは遥かに末の世となりて我れより君の教へられつる
半よく心にかなふ日の如く半の寒くさびしき日かな
いはれなく物を思ひて文多く書きちらす日もまためぐり来よ
見まほしき何に由るとも君知らず我わきまへぬ日もありしかな
見上ぐればまばらに花を残したる梅の林の夕あかりかな
人あれど人も無げなる香を放ちさびしと歎く梅の花かな
この君に頼まるること勝るべし春を重ぬるわかくさの妻
正月やわたくし物の心地する青磁の瓶の紅椿かな
温室を出で来し白の牡丹をばわれの羽子には附けんとぞ思ふ
心をばものの中よりとり出づる初春のごと思ほゆるかな
浪華より知る人来り云ふことのうらなつかしや春の初めに
青雲と桜の花のあることを恋する外に覚えこそすれ
衰へぬとしも自ら云はぬをばまことに君は何と思ふや
もの妬みふつふつせぎる心をばわれと覗きてものを思へる
君見れば心たちまちときめきぬものの蕾の花咲くごとく
何時見てもいはけなき日の妹の顔のみ作る紅椿かな
常のごと日射せば病める人もなほ常の如くに君と物云ふ
冬の日に春を思へばさし過ぎし妹のごとあなづらはしき
ことわりを遠く離れし事を云ひしみじみ流すわが涙かな
われ酔はず一度酔ひて思ひしは一時のちに二人死ぬこと
手に載せて砂を吹けども湿りたる砂も己れもなぐさまぬかな
われ病めば身の終りかと思へどもまだ云ひ出でず恨めしきこと
春といふめでたき白き噴水はいづくに立つや自らに湧く
そぞろにも知らぬ世界の匂ひする臙脂の色の沈丁花かな
元日も二日も同じ炉のほとり君がかたへに春をことほぐ
裏白の山草の葉を掛けたれば柱もものを言ふ心地する
ささやかに松立てられて小ゆるぎの磯の船めくわが湯殿かな
正月のうらなつかしさ自らの身の淋しさを街に覚ゆる
正月はよけれど我は我なれば叶息も吐かるあなおぼつかな
ある刹那ふためきて降りある刹那のどかに降りぬ春のあわ雪
われぞ知る春は匹田の長き帯恋は縹の雲形の袖
尋ばかり紫の紗の裾を曳くわが春の夜の小きともし火
垂幕も帷も引かぬ人になほ春の初めは似る花も無し
この人は今日の己れに続くとてめでたく思ふこし方を皆
春の日の華著なる日かげ片端を濃き紫のわが袖に置く
元日の昼の静けさわが家も知らぬ島根のここちこそすれ
君にせんよき誓言を思へりと正月の炉のほとりより言ふ
山草の裏白の葉のかかるやと雪に思へるひがし山かな
大空の日とわが上に行きかへり遊ぶと見ゆるくれなゐの蝶
春の夜の月の光に漂ひて流れも来よやわが思ふ人
草踏めば微風としも思はるる身は君を見て火とぞ覚ゆる
紫の藤の花をばさと分くる風ここちよき朝ぼらけかな
泣くことも悔改めも知らぬなり恋のみ作る紫の藤
白き藤滝に似たれば山めきぬ春くれ方のわが園のうち
紫の雨もまじりて御空より地に降ると藤を思ひぬ
思ふこと語り合はんと藤の花おのれを見ればなびく頃かな
わが如く恋も病もなす如し卯月の藤はむらさきにして
藤の花横を流れて行く水を淵の如くも藍がちにする
わが門の松にかかれば藤の花皆なつかしと云ひ給ふかな
空重く曇りて藤のなつかしさ極まりもなし春の行く時
頭には男をんなも藤捲きぬほしいままなる水荘の人
白き藤セエヌの岸のアカシヤの花かとばかり若やかに咲く
若き日の心と心寄るごとく相摶つごとくなびく藤かな
高々と穂上ぐる芒茅の葉も女の身より誇らしきかな
ましぐらに急ぎて来つる道なればまたましぐらに後返りする
自らの心の裏と云ふ如きものを初めて見る時の来ぬ
春風に混るも心事一つえぞ忘れぬもおのれのこころ
初夏は百里がほどの野山をばあざやかにおくわれの心に
かの仇踏まんと云ひぬまことには青蓬よりなつかしきため
紫の睡蓮の花ほのかなる息して歎く水の上かな
あぢきなし君が心の聞えくる耳を持ちつつ忘れんとする
自らを省るてふよしなごと戯れごとはなさん隙なし
金堂の御仏のごと朝の日は菜種の畑の奥にあるかな
皐月来ぬ和泉式部に思はれし男もめでしたちばなを嗅ぐ
君を見て涙を流しやがてわれ戯れごとに思ひいたりぬ
形せぬ乱れごころも円かなる玉より優にめでたかりけれ
若くして心傷める人に似る初夏の夜となりにけるかな
石よりもいみじき身とも知らぬごと石にまじりて菁莪の花咲く
ここちよき朝の空かと思はるる矢車草の花ばたけかな
百合ひらき初めて匂ふ暁のここちを君に覚えき我は
しどけなく地をはひありく一重薔薇素肌のままに寝たる花かな
水色の玉となりけん秋の我かなしきことは失はねども
初夏のあやめと早く定めてき人より少したち勝るとて
天つ日が光を収めあるさまのこき紫のわが牡丹かな
厚やかに若葉したれば君と居て雲にかくれしここちする森
地に近きてまりの花をよごすとてこの頃憎む初夏の雨
よき言葉悪しき行ひそれをもてわが若き日に斎きてし神
濠の上四五町がほど石垣をうしろにしたる赤とんぼかな
大空のうす紫の仄うつる菊にいみじき夕風ぞ吹く
わが心やや邪になりぬなり薄黄の菊の枝くねるほど
障子どもありとある窓みな開けぬ起居に白き菊を見んとて
人間の身の衰へに進むよりあざやかにして哀れなる秋
天地のもの我がわざに倣ふとて所狭かりし人の身のはて
生れ来しつとめに心ひかれ行く己れと思ふ君と在るとき
病むはての真白き夜かや狂乱の第一日の紅き日か是れ
いと弱き身となりし時恋をもて幸となし禍と泣く
わが生命施すもののある如く得んと手あぐる子等の母われ
白き花もとの蕾にかへりたる不思議と見ゆれ子の「寸」の死よ
生みつるはこの白蝋の子なりしと二日の後に指組み思ふ
匂やかに黒瞳見せたる子なれども抱かれしこと足らず三度に
末の子はうすくれなゐに紫を重ねて箱の底に眠れる
吾子のため四曲屏風のかこひたる死の小床よりよき国のあれ
白絹に頭おほはれいやはての夜をかたはらへ吾子ぞ寝にこし
いくつより恋に親しみ君を見しかく振返るわれは素直に
明かに世に同じほど相思ふ人と知りしは遅かりしかな
いみじかる恋に任せてこし身よりやがて御空の雲とならまし
三時ほど別れ居てすら望みなどことごと絶えし人のさまかな
自らによろづ捧ぐと云ふことはもとより君となす恋のため
別れつる鼠の色の外套が覆へる空のここちこそすれ
秋の雨黄泉の道まで送らんとわれ待つ門にうらの戸口に
もの云はじ山に向へるここちせよ君に加ふる半日の刑
なつかしき白き光のさし出づる心は君が与へ給ひし
とこしへに匂へる君が手の上の薔改ぞと云ひてあらましものを
その世見ゆかなしく猛にうるはしく走せ迫り来る火のこころざし
大鳥が山また丘をうち選びとどまる如く君は人見し
自らを疑ふごとく思ふ人疑ふことも恋のならはし
その昔かなしきばかり少女さび恋しと書けるそくばくの文
思ふ人旅に遣りつるたぐひかと悲しきことを聞けば泣かるる
うす色の襟をしたれば紫苑咲く野のにほひなど身に添へるかな
おぼつかな君をわが見んはかりごと説かず荘子もザラツストラも
まだ知らぬ怪しきものは心ぞと漸く知れば涙の落ちぬ
人を見て愛づる初めは恐るるに似たりと人の書ける消息
この君は恋の大路も陋巷もおよそ通れり及び難けれ
自らは自らの為めいみじかるものと思ひき君を知らねば
あさましき戦のために思ふかな世は冬のまま四とせ続くと
わが背子と云ひ我妹子と自らの身の半をば呼ぶ日きたりぬ
(以下九首真下氏の新婚の夜)
くれなゐの常世の花を摘みかはすいみじき人となり給ひけり
よろづ代も今日の心地に行き給ふ若人と見ゆ少女子と見ゆ
このうたげ神うちこぞり声上げぬ創造の業今なりぬとて
思はれて少女は人の妻となるやと皷打つやと皷打つ
世の中のみやびを達に祝はれて少女はとつぐ思はるる子に
元輔の裔と呼ばれし人よりもめでたき家の御娘にして
火の思かたみにあれどおほらかにつつましやかに在るはめでたし
人の道今あざやかに形して見ゆと二人をことほぐ我は
そこばくの人影うごき霧白し夜を歩むことやや寒くして
身のうちに情みなぎり起る時人に勝れる身と思ふ時
人皆の生れながらの悲みか恋の中なる寒き愁か
心をば笑ひたのしむ所ぞとなせる族を稀にうらやむ
夜話や心などより出つるとも無き涙落ちここちよきかな
世にありて得んとするもの敷知らずされど何よりめでたきは持つ
恋人を恨むに倦きし形する十一月の空のしら雲
この君にひざまづきつる床こそはやがて底なき洞となりけれ
かりそめに居合せしごといと重き宿命ひとつ果されしごと
君を見て時経たりとも経ざりとも二やうに思ふ朝夕に
初夏の花ことごとく自らに向ひて咲ける心地こそすれ
恋人の涙に似たる香を立ててうばら咲く日となりぬ武蔵野
桃色の心の襞に隠れ居しものなりしかど焔となりぬ
きさらぎの薄くれなゐのうす絹に青地錦の三月つづく
わが心うす紫のしづくなどしたたる如く重き春かな
春の日は鶯ぞ啼く生命にも恋にも声のまじるここちに
木の下に残れる雪の青むなり春の土ともそれを言はまし
三月はなほ椿ほどくれなゐも真白き衣もかさねてぞ着る
子の飼へる五つの雛の鶏がものの菜食めり弥生朔日
よろこびに死の次ぐことを我等のみ得ん幸のここちこそすれ
我をふと波より射たる光かと窓掛の日を思ひけるかな
明日と云ふよき日に臨むここちなどふつと忘れぬ病して後
ああロダン君は不思議のカテドラル巨大の姿よろづ代に立つ
天地はにはかに淋し今の世のミケランゼロの見がたくなりぬ
俄にも日の入る如くアウギスト・ロダンを見ざる世となりしかな
思出の中にたふとく金色すロダンと在りしアトリエの秋
忘れめやオテル・ド・井゛ロンそこに我が片手の上にキスせしロダン
東方の旅の女の手の上へ心安げに触れしくちびる
芸術よロダンよ君に帰依すると云ひ得るのみの我は果敢なし
大空に日の懸るよりおごそかに見えつる君も人のごと死ぬ
ああロダンいみじき石の御娘も石の息子もまた生む日無し
やごとなきかの老匠を隠しつるものは死なれど猶ロダン生く
わが背子もわれも東の小鳥なる人皆も泣く神去りし君
目のあたりロダンを見つる喜びを云はんとすれば唖に似るわれ
千とせ居ん殿づくりをばなすなれどものとりくづす音ばかり立つ
白き紙紅き紙など枝々に人むすぶごと椿花咲く
自らを春より後に咲く花となして四月を見下しぬわれ
われは好し翅の用をなさぬほど云ひがひもなき心持たねば
ひたひ髪ほほけしを撫で何となく春の小雨の降れと待たれぬ
心より鐘なり出づるさま覚ゆ待つ思ひこそわりなかりけれ
何ごとかわれを憚る思ひしてまぶたの腫れし海棠の花
かりそめに門をくぐるも涙おつ遠きに行きしわが旅の後
あることか少しの人のわたくしを助けて多く戦ひに死ぬ
カイゼルを憎める人も赤き血にその手は染めり咀はれしかな
黒き布雲のごとはた夜の如く地を掩ふ日に笑ふ死の神
女より智慧ありといふ男達この戦ひを歇めぬ賢こさ
前なるは先づ骨となり後なるは飢ゑて青めり戦国の民
塔の身は木隠れてのみ在りがたし山辺に立ちて風に吹かるる
葉の先にけしきばかりの紅さして秋待つ草の清げなるかな
わが牧の真白き馬の脇腹に紅の輪描くと春風ぞ吹く
或時は皐月の夏の雨雲をかづく二人とおもひけるかな
夏木立柱にわかき額寄せてありやと思ふ夕月をわれ
身は沼の底の底にて眠りつつすはやとのみも云ふ心かな
草ひばり泉の水のふるふごとかすかに啼きぬ六月の夜に
幾つかの明るき列の後に来ぬこは何つの日のくらき思ひ出
初夏は病めども心酒に得し酔のごとしとかろく思ひぬ
初夏は夕も朝の心地する君に逢はねど見るここちする
後ろよりむせびながらに追ひ来る並木の路の初秋の雨
とある朝恋を忘れて賢人の際になりぬとおどろきぬわれ
かぐはしき初夏の風ひろばかり身の彼方をば通るこの頃
花多き薔薇のたわわに伏したるをわが心ぞと告げ給ふかな
なつかしき靴の釦のここちして斜にならぶ鈴蘭の花
歌舞伎座の棧敷の裏の中庭に楓を打てる初夏の雨
自らを明日より後の日に待たれありとする身も病めばはかなし
いつしかと夜の明くるごとなつかしく朱の磨られ行くわが硯かな
夏の夜のくらがりに居て百合のごとわれも息づく君を見ぬ時
夏の風楓の枝もさんざしも涼しく靡く萱の葉のごと
紫の魚と思ひてわれも行く海の底めく夏の月夜に
目の前に煙のうすくひろごるも夏の夜なればなまめかしけれ
いと白く消やすきものの心地すれ泉を浴びて人はみづから
水色のうすきを着れば云ふことの身に沁むと云ふうら若き人
園に入り花めづること長ければ物思ひすとわれを人云ふ
ときめきを覚ゆる度に散るごとし君と物云ふかたはらの罌粟
空低く波より沫の散りしかと星も見えつつ涼しき夕
山の夜は石も草木も人の子も心細げに水の音きく
朝の月花環に似たりなつかしき人の門にも行きて掛けまし
何故に思ひ上りし心とは君をはなれて知りがたきかな
小半時云ひ過ぎぬとも云ひ足らぬ文字とも思ふ尋ほどの文
恋すともものあくがれの心とも見ゆる境に悲むわれは
わが心風にはためく草よりも動きやすきをはかなめる秋
道理はかしこし我れの心だにうなづく如しあらぬ恋ぞと
恋人と仮に定めしその日より涙ながれぬ君を思へば
必ずと誓言立をしたるより忘れがたきは片恋にして
よそごとになしてその人死にぬなど話を結ぶありのすさびに
天地の何の大事も知らぬごと君に傾くこころなりけり
足をもて一歩退き翅もて百里を進むわりなさか是れ
あかつきにわが来ることを知るごとし初夏の野のひなげしの花
ああ皐月めでたき夏の水色の上にいみじく白き我おく
あなかしこすべてと彼をなさねども我が心地する牡丹なるかな
夏の風砂もてきたり我を打つありのすさびに君を恨めば
我等みなこの苦しみのいやはてに云はんとぞ思ふ更に楽しと
少女子がゆたかに袖をかへす時むらさきの雲立つと思ひぬ
(以下七首小林氏令嬢の舞を観て)
夏の花すべてなびきぬ美くしき舞台の君の面てづかひに
青海波金に摺りたる袴してわたどのに立つわが舞の仕手
曲今し起らんとして静かなり千人を前に置けるわが仕手
皷よしいみじく清き猩々が波の上をばゆらゆらと行く
この少女月の小より舞ひ来るや清き光を四方に投ぐなり
楽しとは浪華に来り今日知りぬ君が少女の舞ひ給ふため
悲しみが人の身めぐり歩くごと真白き菊にまつはれる雨
束の間にわれを離れてあり得じと秋は侮る君の心も
秋風は長き廊ある石の家わがために建つ目には見えねど
戸の外に簾鳴る夜はわびしくも船に寝ねたる身の心地する
巴里にて虫啼かぬ夜をわびしやと思ひしことを病みて思へる
馬車はやく舞鶴橋の下くぐり青き世界に歩み入りにき
(以下十六首耶馬溪にて)
岩はしる流つたへば自らが繍をおきつつ行くここちする
山の草みな白き牙もつごとし草ひるがへす夕風ぞ吹く
石の山高き方より風吹けばはかなさ覚ゆ君と行けども
石多き山にしあれば楓など女めく木の哀れなるかな
わが御者が角吹き止めば渓の水高く鳴り出づ山怒るごと
大空の覗くと見れば水色の萼の咲くなり雑林の中
山の石おもしろけれど皆知れるわれの心の形するのみ
三時ほど渓を歩めば水の音心に鳴れるものかとぞ聞く
夜の蛍渓をつたへばわが涙ちるやと思ふ旅のここちに
高山の石のかぎりは墨をもて早く夕の塗りにけるかな
山の石恋にくらべて侮りぬ見て涼しさの湧くのみ是れは
水は泣く山移りてふ駅をば別れてわたる橋の下にて
木草より猿の族のそれよりも貴に思へる身を山に置く
豊国の山あひの雨あはれなる旅の心を白く打つなり
渓のかぜ冷たし鳥かはた魚か人か知らねど我等相行く
人の見る表も裏も事を見ずただその外に物思ひ持つ
萱伸びて尺に尺添ふ草ならで黒髪ならばをかしからまし
幸は全からざるものながら心は山は貴にまどかなりけり
形相のみにくき夏はわれなりと汗にひたりて思ふ人かな
天地に解けとも云はぬ謎置きて二人むかへる年月なるや
身の病めば気随つのりて思ふなり恋のがれんと男の如く
過ちてわれ人間に生れぬと打も歎かる夏のさかりに
木の間なる夏の夕日を波切りて泳ぐ魚とも見上げたるかな
誰見ても恨解けしと云ひに来るをかしき夏の夕ぐれの風
皆人の歩むところに続く道これとも更に思はぬを行く
夕風はわれより出でし思ひをも君が心もまじへてぞ吹く
よろめきて立つや己れは根ある木の安きさまして風に向ふや
母の顔木の間の月を見るやうに子は遠く見る病して後
白き家並べる街かまぼろしにわが見るものは石の柩か
あかつきにこほろぎ鳴きてふる反古の蠧魚の匂ひを立つる秋雨
長持の蓋の上にてもの読めば倉の窓より秋かぜぞ吹く
知らぬ間に工人の手の加はりて秋とはなりぬわが心さへ
秋風を負ふ人のごと冷やかに淋しくものを云ひ給ふかな
日ぐらしの鳴けば心に鋸をわれ当てらるる心地するかな
ことごとく能うしなひて君思ふ一つの心あらはになりぬ
やごとなき御仏たちに供へたる火皿と見ゆる月見草かな
或る夕倒れんとしぬ身に余る思やうやく加はれるため
日も月も野山も風も狂ほしき片恋すとて指ざす我を
夏の路忘れぬ恋の如くにも青くほのかに草のつづきぬ
草生ふる小路を好み君と行く初恋をする人ならねども
岩走る流に添へる朝の路はげしく君をわが思ふ路
君見ざる心の上を唯過ぎぬ人のよろこび人のかなしみ
紫の忘れな草よこの外にわが呼ばん名の一つあれかし
わが愁ひ夕となればひろごりぬ日を憚れるものの如くに
自らの心の底も君に云ふこの言葉より無きがいたまし
わが内に悲しくをどる血を抑へ空を見る時寒き夏の夜
目に近く悲しきことも憂きことも無しとて我れは本よりの我れ
御空より夕立降れと願ふなり愁少しく日を上ぐる時
虫啼きて降りぬ深山の香木の葉の匂などまじる夕立
海は鳴り人間の子は歎けども瞬きもせぬ砂のひるがほ
麻を着て初めて蝉を聴く日など哀れなりけり夏の盛りも
母われに白き羅与へたる夏より知りぬ人にまさると
わが上に水色の花投げにくる夏の月こそをかしかりけれ
地の底にわれを誘ひて入るさまに悲しき山の秋の水音
星多き夏の夜中に自らも星かと思ふ閨のさびしさ
くだものの皮のやうにも冷たかり今年の夏の藍のかたびら
たなごころいつしか玉も捨てはてぬ自らの指十を組むため
雲はやく来て眠るなり夕ぐれに泉を浴ぶる人のかたはら
忘るれば安く思へば苦しかり苦しきことの続くこのごろ
七つ八つ重なる山を翡翠の羽のごとくにうつす水かな
秋風に向ひて一人物云ひぬいまだ醒めずとあらがふ如く
なつかしき秋の初めの夕月は紅の芙蓉のここちこそすれ
わが身にも銀の箔など置かれしや正月いとど肌寒くして
この年の初めの朝に起き出でし萌葱の布のわが小床かな
かぎりなくめでたき人を前にして賀を述ぶれども寒き元日
元日の日のくれ前の眠げなるわが稚子と寒牡丹かな
春立ちぬ人となしたる約束を皆忘れ得ば嬉しからまし
何となくくづほほれたる心にて物読まんなどおもふ正月
たよわなるわが肩にのみ置かれたる春の腕と思ひけるかな
山に居て石の転ぶを聴くことに多く勝らぬ羽子の音かな
雨降ると家の中にて羽子つく子眺めて春にしたしくなりぬ
ふるさとの蓬の香など匂ひ来よ松立つ街の青き夕ぐれ
正月を忘れて文字を五行ほど書きたるあとに淋しさの来る
正月は白地錦のせまき帯もの思ふ身にふさはざる帯
正月は真白き椿くれなゐのおのれも椿おちたる椿
ひるまへに云ひも出しぬ正月の呆るるばかり淋しきことを
正月をうとましとする味も正月にのみ舐める甞むるあぢはひ
うす青き悲しみまでもとり入れてゆたかになりし恋のいろどり
平かに行き平かにかへりくること疑はば悲しからまし
夜も昼も何に備ふることとなく心を磨ぐは恋人のつね
水色の空せはしげに抜けて来る蜻蛉にまじる秋の夕かぜ
秋の空はしこくぞ飛ぶ君王のよき侍衛めく銀のとんぼよ
君やがて幻にのみ見ゆるなる悲しき人となり給ふかな
(以下二首北村氏を悼みて)
白き花やすらかに咲くさかしらにゆるがす風もあらぬ境に
若くしてわが生命をば自らのものと思はぬ際はめでたし
前の日の思ひはてなく破れ行く大事なれども静かに泣かる
その日より今日も身に降る金色の雨と我が呼ぶ名の長き人
ほのぼのと桜の匂ふ日となりぬ人を思はであるよしも無し
京洛を恋ふるわが目に姜くしき涙あらしむ山ざくら花
さるがうを男の云へばしだれたる桜のもとを小走りに行く
うちつけにこれは東の春の海鳴ると覚ゆる大つづみかな
雲箔の袂つらねて舞ひにけり空よりこしや初春の人
舞ふ君の中の一人を男だち寒牡丹ぞと云ひて私語く
うつつなき舞の袂よあれそこに春のひろがる恋のひろがる
なきがらの蝶かと見えてあぢきなき雨の後なる朝がほの花
消えもせずあたりを去らぬ紫のいとほのかなる煙かなこれ
露草や人を見んとて涙ぐむわが目に逢へるここちこそすれ
春の夜の皷小皷恋のごと思ひあひたる皷小つづみ
根あることはた根なしごと何れとも分ち能はずなりにけるかな
わが心ことの煩くなりにけり百年ほどは逢はであらまし
秋と云ふ真白き瓶にさされたる身は藍色の花ごこちする
秋風にゆゆしく日さへ砕けしやものの影みな形とも無し
風に散る雲のこころにわれ一人知らぬとばかり涙こぼれぬ
白き紙淋し果敢なしわりなしと切りもすさべば雪のごと散る
雲裂けて此処に隠処もとめよと悲しき人を誘はんとする
人間の身の苦しやと思ふ時おつる涙の廿きあぢはひ
願はくばわれの心の貧しさを思ひ知るまで糧を足らしめ
今更に日を見せんとて窓つくるこの工人もわりなかりけれ
惑ふこと少けれども涙おついみじき人を一人知るため
円けれどあさまし見えぬ奥もちぬ男ごころの白き貝かな
心をば洗はんと吹く秋風に触れじと籠り消息を書く
秋の花散りて一つに身を寄せぬ黄なる男も白き女も
白き雲いとここちよく真二つに中ひらけたり秋の大空
電柱のまぢたく立つを一もとの梢としたるわが家の月
薔薇咲けば初恋の日のここちしぬ花の若きか人の若きか
船を出で船に上れば草の香のいちじろかりし七月の末
向日葵を一輪切りて思ふなりああわれ此日また歌はまし
地の上の狭き所に置かれたるものことごとく哀れぞと思ふ
桐よりも厚き葉露にしとど濡れ今落ちんとすわが心より
彼方向く雁来紅の金の髪こなたを向ける龍胆の眸
めでたくて疾く滅びんと相人の云ひたる後の久しかりけれ
誰れも皆別れを告げにこしごとく飽くまで恋し今日の客人
朝露や二もと三もとふつつかにあかず伸びたり蓬生の中
いしつかと月夜になりぬわが行くは天の川より長き坂かな
わがためにいま天地も煩ふと知れども云はず一人思へり
何の来て心占むとも今一つ心備ふるわれと思ひし
その中にわが歩み行くことにより薄命道もいみじくなりぬ
彼等皆始めと果を知れるのみ産屋と白き墓を知るのみ
馬追が腰のあたりへ啼きに来ぬ草に倦きけん土に倦きけん
しめやかに濡れたる路の遠方に虫の声する山の手の朝
蓼の花露にしとどに濡れたるは薔薇のここちすそこはかとなく
母となりなほなつかしむ千代紙のたぐひと見ゆる紅萩の花
身一つを清らに守る人のため薄黄の薔薇は初秋に咲く
水毎に光の布をひたすなり少女ごころの初秋の月
ボルドオの酒とひとしき日光に白金を磨るかなかなの蝉
あまりにも今日を浦たして楽しみを明日に残さぬ紅蜀葵かな
麻の葉の少し黄ばみて垂れたるが一もと立つも哀れなりけれ
わが倚れる肱つく窓もいと高き楼のここちす初秋の風
かきつばた薄藍いろに咲き出でぬ人を思ひて身の細る頃


(底本奥付)
定本与謝野晶子全集
第四巻 歌集四
昭和五十五年十月十日 第一刷発行
昭和五十七年一月二十日 第二刷発行
定価三千五百円
著者  与謝野晶子
発行者 野間省一
発行所 株式会社講談社
    東京都文京区音羽二-一二-二一
    郵便番号一一二 振替東京八−三九三○
    電話東京(〇三)九四五−一一一一(大代表)
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