草の夢
与謝野晶子
劫初より作りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ
王宮の氈を踏むより身の派手にわが思はるる落椿かな
下り来て淋しき庭を歩めるは冬に枯れたる木と見ゆる鳥
冬木立涙ぐみたる目に似たる頬白の羽見えてめでたし
空かすめ散る葉あてなり土ぼこり土を離るるわざは拙し
いささかの朱泥の葉をばとどめたる木の枝うごく夕月夜かな
君は君われはわれをば忘れずと歎きぬすこしわれを忘れて
戒めの鈴を振るなる僧の居ぬ君とむかへる心の中に
難破船二人の中に眺めつつ君も救はずわれも救はず
大船のなにがし丸と呼ばれましかくも願へる月上りきぬ
われと云ふ不思議のものの後より歩むといふははかなけれども
楽みを極めし後の人のごと淋しなどいふわれもはかなし
翅ある鳥となりても追ひがたきものをわれより失ひしかな
今するはつひに天馬の走せ入りし雲の中なる淋しさにして
冬の夜の空のをかしく更けにけり薄き塩湯の味ひをして
温き砂の中にてわが素足四馬路をゆめみ阿片を吸へる
悲みも羊の肝の羹も昨日となればことならぬかな
わが友の薔薇に添へたる消息も師走に入ればあはれ短し
わが壼に半月ものを念じたる真白き薔薇の昇天の時
薔薇の園やや大きなる枝にただ一つ咲けるはクララの君ぞ
葉のくろみからたちめきしあさましき枝に冬咲く薔薇の花かな
薔薇すこし米要なしと法師より使きたらばをかしからまし
何事か知らず篝火の燃えに燃え宿の主人に叱らるる馬
夏草を盗人のごと憎めどもその主人より丈高くなる
裾野なる花ははかなし一草をあまさず山の風に従ふ
女郎花山の桔梗をたをやめの腰ほど抱き浅間を下る
物云へど応ずる山もあらぬなり北の信濃に夜を五つ寝る
塩のごと白く崩れぬ高原や秋風が踏む山荘の土
山荘の軒をば雲の歩むなり更に寂しき園に行くごと
姑と世に云ふものが片隅にある心地するくらき浴室
雲湧けば直ちに雨すゆとり無き若き心の初秋の空
雲間よりむら雨零れ馬車濡るる明星の湯の前の庭かな
地と空の中にいみじく揺るる馬車われそれに居ぬあなづらはしく
恋すればあはれ飛行も許さるる身の程なれど並々に泣く
天地のもの皆われを思ふなる証見すれど慰まぬかな
木蓮の蕾木の間に浮び出づいみじき春の鳥の形に
人の子をまた疑はず浴むべき泉のあれば羽衣を脱ぐ
渚より大湯の靄の立ち昇り第一の坂つばき花散る
(以下伊豆にありて)
湯槽より尽きぬ湯気湧き長安の煙霞をつくる伊豆の磯回に
きりぎしの椿の花のあぢきなし紅を零すは百尺の下
紅椿伊豆の源氏のゆきかひし路山めぐり海を廻れる
大神の宮居の山のきざはしの千段下の石の浴槽
伊豆の海限りも知らず繋がれる青藻と見ゆる底の石かな
風騒ぐ海の面は混沌に初まる春と見えてめでたし
伊豆の雨柑子椿は養へど旅のこころの上に及ばず
伊豆の雨日の光にも通ひたり降れば椿の木立輝く
岬三つ重れるかな紫をこころのままに濃く淡く着て
伊豆の雨柑子を打てり湯の宿の第二の楼に通ふわたどの
円石が池に身じろぐ音速しいねがたき夜の枕の下に
都にて見たりし夢の続きをば見し哀れなる朝ぼらけかな
浴泉に耽れど魚の性ならずものうち思ひ涙こぼるる
湯の煙潮のけぶりの中にして歌へるところ蜃気楼めく
あかつきの太陽が住む金屋と並ぶ浴槽にわれは身を置く
なほ山の滝の形をして落ちぬ何思ふらん海に入る水
しののめは翡翠色の大島を焼かんと火をば放ちけるかな
太陽が金色の髪垂したる下に浮べり伊豆の初島
波帰る天城の嶺のしら雪のここより海へくづるる如く
ひまもなく鴎飛ぶなり楼船にある心地する階上の客
伊豆の海朝来て舞ふも黄昏に飛ぶも翅の真白き鴎
旅人は朝の話も夜話もおほよそごとは云はでむつびぬ
東雲や夜の去ることを惜む灯の二三またたく網代の岬
ひんがしは鮮かに晴れわが上の仄かに曇るそよ風の朝
ほのかにも潮の音して薔薇色の波を追ひ来る藤色の波
白龍が覗く熱海の湯口にて変の迫ると知りし恋かな
丹那山洞門口の新しき塚は泣かねど大海は泣く
朝夕にわがする如く海を見ぬ雲は丹那のひだに潜みて
山かげやみちのく紙の一ひらの雪と並べる紅椿かな
山ありて梅の林の半をば昼と夕にかぎる線おく
湯の靄といふ生ものの美くしさ熱海を遠く眺めて感ず
観魚洞よこを過ぎ行く浦島の竹の棹のみほの白くして
わたつみが白魚となり泳ぐなり綿が浦の蘆の葉の底
あてやかに琅●洞をくぐるなり美少年めく春の波かな
●はオウヘン+「干」
松の根に縹の絖のひだ寄りて魚見が崎は夕ぐれとなる
蘆なびく松山のもと片側の石の欄干の尽くるところに
悲みも心に知りしことわりもやがて忘れし温泉の毒
天道が与へぬものを私す魚鳥にあらで朝暮に浴す
橙はひるの明りをつけたれど夜はあさましく暗き海かな
おほとりの濡れてこしごと帆をたたみ帰れる船の一つある磯
朝なれば沖の方へといぬ波も日に靡くかと美くしきかな
歎くらく日は遥かなる火なれども暖きこと斯くの如しと
海の靄心につもる恋の塵これぞと覚ゆうす墨にして
むぐらとも蔑みする山の雑木が抱ける紅の一もと椿
しどけなきわがしいでつるさまと見て心の騒ぐ落椿かな
海を見る第一段の柑子台つばきの台と白菜の台
白帆浮く伊豆の天城の山の霊大わたつみに出でて遊ぶ日
春風をわれのみ載せて立つ如く竹艶やかにむらなせるかな
湯ぶねより春の渚の白波に身をよそへつつ出づるたはぶれ
海曇り夕に似れどそれよりも更に淋しき朝となりぬ
朝は濡れ夕となれば円石の河原めきても乾く磯かな
うら悲し深きところは龍の棲むここちもすなる朝の浴槽
(以上)
愁ひつつわれと豆相の温泉をめぐるに似たり鳩色の雲
(以下湯河原にて)
橋あまた置かれ湯の香をまぜて行く箱根の水の土肥郷に落ち
清らなる蜂が搾りし花の蜜吸ふに似るかな温泉にあるは
松杉の山の指をば洩れて落つなにがしの滝それがしの滝
十の国見んと思はず恋人の心を覗く山のあれかし
ほとばしる湯に逢はんとて千尺の底なる岩に槌あつる人
この山も神通力はありしかど今は人来て槌に湯を掘る
渓間より靄は立てども霜ばしら馬転ばせぬ湯河原の朝
否といふ心のやうにわが山の上をななめに走るしら雲
目に見ゆる山の表とことなれるところに湧きて清き靄かな
月射しぬ箱根の山のいやはての渓に湧く湯をもてはやす如
湯河原の橋の上にて高名の山とも見えず箱根の眠る
温泉の湯気に触れたる川の波身をふるはせて渓曲り行く
ただ暫し指を組みてはほぐすなり思ひ乱るる渓川の岩
暖く山の肥えぬと鞍掛に日の射すを見てよろこびぬわれ
瀕の音の誘ふがままに大海へ出でしここちす谷の浴槽に
山なれど籠に養ふ鳥のごと羽まろくして立つ椿かな
湯気白し藤木の流とどめんとするにもあらず添ひて流るる
湯河原の滝の茶屋より出でて見ぬ凍りはてたる夕月の色
立ち昇る山の朝靄うすらげば既に夕の箱根よりくる
(以上)
踊湯の夜なりいみじき白花の牡丹が鳴らすかろき足音
桃畑の砂やはらかし快く春に溺るる身と思ふかな
四五木の楓の紅の芽を吸ひて眠に入りし春風の群
下総の国府の丘をば後ろにし帰る野原のむらむら桜
梅幸の鬼女の型をば舞ひながら人に近づく春の雪かな
花びらを吊鐘のごと円くして雪を覗ける紅椿かな
やはらかに身じろぐことも難きなり十日消えざる雪に囲まれ
雪かづきサンタ・マリヤのさまに咲く紅の椿と思ひけるかな
雪少し解けて地上のものの皆不具と見ゆれ朝の光に
雪の日はぎと鳴る門の扉よし音に引かれて崩るる雪も
ある夜半に雪の外なる霰来て雪を踏むなりポルカのやうに
鵠の鳥白き孔雀もなつかしきものと思はず雪に倦む人
立春の日も淋しけれ遠近の木の下の雪蝋の色して
雪の憂し土とその身の差別をばあらはにつけてかつ十日居ぬ
消えやらぬ大地の雪に木槌をばあつる二月の夜の霰かな
北国の景色を雪の前栽に見飽きわれをも見飽くこの頃
木木の枝木の葉の尖のとがりたる地上に来り悲める雪
いとわびし雪の中より醒めてこん春を待つこと久しくなれば
春の雪雛の顔ほどほの白くあえかに覗くものの梢に
泡雪をむら雨の来て掻き去りしあと静かにもなまめかしけれ
面白く春の心の並び行く踊と見えて夜のをかしけれ
自らは匂ふ薔薇にも夜を踊る人にも遠し混りたれども
誰の手にまた飾られんひひなぞと身の弱ければ涙こぼるる
雛の棚大宮人をよそにして夕を歎く藤むすめかな
人の云ふ不浄の涙流しつつわれは上なきよろこびをする
いにしへを偶ましのぶもののごとわれを思へるたちばなの花
むらさきの盛りの藤と衰へし藤と向へる蛇骨川かな
大空の星も匂ふと見てあればその朴の花山川に落つ
川の霧はた温泉の靄のごと山の生みたる月かとぞ思ふ
夕月や涼しく土の湿りたる追分町の薔薇新の門
風立てばすこしゆらぎて水草の花めく夏の夕ぐれの星
先づわれの白き衣をうつしたる鏡を賞めん夏の初めに
何処にていつ寄りたりし知らねども昔恋しき石の卓かな
うら淋しところどころの剥がれたる築土の如き五月雨の空
或時は蜂のうなりに擬ひふるくらき大木の下蔭の雨
五月雨を葛のやうにその蔓のつづける雨と眺むる夕
五月雨時の流のとどまらず行くとも見えず同じ日続く
紫陽花が地に頭をば垂れたればさもせまほしくなりぬ雨の日
見に通ふ橋作らんと思ひ立つことありて後さめし夢かな
手を挙げし像など見れば君を見し初めの心をどりこそすれ
星のごと雲を這ひても咲きぬべき白くあてなる朝顔の花
朝とるは少し反りたる良き櫛セエヌの橋の思はるる櫛
殿が谷姥が谷みな新樹もて埋れたれども見ゆる多摩川
水くらく暑き本所の堀割を並びて上る靴形の船
越の国かかる幾重の山なみの何処を裂きてわれ来りけん
(以下越後の赤倉に遊びて)
霧迷ふ信濃の渓を立ち出でて北海に来ぬ秋風とわれ
妙高の裾野の道は広けれど中に藻のごと虎杖しげる
新しく人の開きて新しく廃道となりいたどり這ふも
ほととぎすわが赤倉に来し日より乱れ心となりにけらしな
浴槽にて身を浮草の一もとと見なせる時に鳴く水鶏かな
閨を吹く妙高おろし烈しけれ恋も恨みもこれに譲らん
浦島が開きし箱か煙かと湯ぶねを覗く路のほとりに
むら鳥の佐渡より来り目の前のなにがしの木に皆とまりけり
一もとのしら花として摘みぬべき隣の国の山の湖
恋人の片頬の如く信濃路の野尻の湖の見ゆる道かな
山の花をりふし摘みて天馬より高く歩めり背と友とわれ
わが山へ白き薄を送りくる野尻の湖と思ひけるかな
白樺の木を研ぎ遠き信濃路の野尻の湖を秋風の研ぐ
ことごとく苦しき恋をになひたる秋草と見ゆ山風の中
美くしき佐渡の小島の隠れ行く黄昏時となりにけるかな
わが山に続く海晴れ空れの晴れ飛魚と見ゆ秋の夜の星
夕月の射したる原に臨む家湖上の如き悲みに満つ
妙高の山虎杖のくれなゐの鞭をつくりぬ天馬に乗らん
午近し山に寄りくる北海の裸の雲と衣着たる雲
高茅が反橋あまた懸けたれば渡りて行かん戸隠山に
茅草と頸城郡の炊煙と靡き合ひたる山のすずしき
この国の山林檎とよいと小く涙の如し青白くして
観音の千手のやうにことごとくひとしき丈の赤倉の杉
赤倉の山少女ども淡いろの雲の中にて盆の蕎麦打つ
日の射すを山の面と思ひしに夕月出でてさま変りけり
ほととぎす二三ところの駅路の灯まばたきのみす皆山を見て
杉と云ふ山の木もまた明星も香岳楼の客におもねる
女湯の灯影の霧に曇り行く戌の時こそ悲しかりけれ
またも来ぬ二三日前の月明に仙女を見たる廃湯の門
秋風やかなへの如き脚もたぬ花草どもを哀れとぞ思ふ
城塞を脱れて走るもののごと丈より高き草原を行く
我等をも山もろともに黒雲の包めることは疑ひも無し
直江津を人買船の出でぬとてふためきて追ふ山の雲かな
山山は円き棧敷の段と見ゆ雲のをどり子あまた出づれば
赤倉や山にひろごる雲を切る鋏刀をつかふかなかなの蝉
いつの間にわれ阿片をば服しけん雲騒しく山逃げて行く
山に来て哀れと思ふ大空のものとも見えず漂ふ雲を
佐渡が島海も御空のものとなりやがて山みな黒雲となる
われ追はれ此処に逃げこし心地しぬわりなき北の海の色かな
北海を湯槽に覗く人の世を恋しと思ふ天女のやうに
草むらにあるいと小きくつわ虫北の海皆ゆるがせて鳴く
すさまじき頂までは昇らじと雲の入りくる山の浴室
この夜寝て別れんとする赤倉の山のこほろぎうす月の色
(以上)
何故に雲とさかひの入り混る山踏むことをならひ初めけん
(以下上林温泉にて)
草中に白樺立つや上林雲が残せるみなし児の如
星川の流乾くと蝉鳴けば雨の降りくる上林かな
横湯川角間の水とまだ逢はず京の河原の橋めくを架く
上つ毛か越か何れぞ旅人に悲しき音の水を送るは
秋の水もの悩みして曇るなり信濃の渋の山あひに入り
ほととぎすわれは五更の浴槽に恋の涙を洗はんとする
皆白き雲の芙蓉を抱くなり渓の上なるをとどひの山
うら枯れし柳の下の浴室の窓より人の覗くむらさめ
山の秋雲の迫れは身を少し後ろに引きて泣く柳かな
山涼し馬を雇はん価をばもろともに聞く初秋の月
夜だにも草枕して眠れかし動きもやまぬ高山の雲
信濃まで北の海辺の波音をはこび来りし胸と覚ゆる
人々と霧をへだてて立つことも淋しき山の夕まぐれかな
八月の二十日の風に髪吹かる渋の奥なる傘岳のもと
思ふこと高井郡の渋の奥上ばやしにて皆忘れけり
身のよろけしどけなきかな朝夕の雲に酔ひたる臂出しの山
山の背に雲わき出でぬ物思ひつのりて熱の発する如く
泉をば愛づるを迎ふ浴室の隣の洞を厨房とし
山の雨もろこしを焼く煙立つ宿のひさしを蔑みて打つ
身を雲に変へんと語り見てあればその雲さめぬ淋しき色に
地獄谷濁れる水の源とすなり己を人うたがはず
地獄谷白き火の立ち燃えんとす生きて唯今見るはこれのみ
地獄谷湯のみなぎりて湧く時に澄む水をもて上なしとせず
杉むらの道のをぐらし銀燭を折ふし立つる空に逢へども
上林渓に臨みて白樺の立てり他界のともし灯のごと
あさましく大雨に追はれ走るなり山を廻れる濁流とわれ
秋風や千曲の川の船橋はたなごころほど中低くして
(以上)
春の雪勧進帳の強力のごとあてやかに歩むものかな
大木の倒さるること幾度ぞ胸をば探き森とたのめど
春行くや白き雲よりうすいろの雲の淋しさ限りなきころ
死とわれとはたまた恋と近く居ぬいつ横ざまに思ひ入りけん
おとなしく同じさまして廻れども未来に線を引ける渦巻
椿をば炉として園の常磐木もさらぬ木立も冬籠りする
夜の闇の色よりも濃く大木の根を残したる春の雪かな
賜はりし牡丹に代りもの云はん長安の貴女人を怨まず
冬の海ヰ゛オロンの音のうちかすりいとめざましき潮煙立つ
鳴り出でて霰の撥は急なれど人は淋しくうら悲しけれ
薄月のまばらに射せる松原は雲間の道の心地こそすれ
たなぞこにめでたき春の片はしを置く心地する白き羽子かな
日昇ればこれも不滅の火の島の羽ぞと祝ふ大わたつみを
椿咲く島の話を常にしぬさま悪しき炉を憎むあまりに
わが心外より塵の来て積る鏡にあらず自ら曇る
十日して確かに春の来ることを知るは太皷を打てる子等のみ
菜の花がところどころを巻絵してかつ淋しけれ葛飾の野は
見る限り香油の匂ひなめらかに包める春の大空の肌
白鳥が生みたるもののここちして朝夕めづる水仙の花
雪少し懸る芥の浮ぶ水そのかたはらの一もと椿
春寒し蒲の穂よりも穢なげになりつる雪を四日五日見る
わづかなる初め終りの中にして子は見知りしや親は忘れじ
(加藤謙氏が一男終吉氏を失ひ給ひし時)
蘭の鉢百を並べて百態のおのれを見るも淋しはかなし
(以下二首山東の友を思ひて)
泰山を捨ててこよとも云ひなまし玄耳の翁唯人ならば
武蔵野の都築の園の物見台人は立たずてしら雲の居る
(以下久保田氏の家にあそびて)
物見台さることながら目を閉ぢてわれは木の葉の散る音を聞く
いと甘く黒き麦湯の湧き立てる鑵子の上を渡るかりがね
山の木の中に植ゑられ山羊めきぬ都築の岡のこすもすの花
水の落ち洞の奥にて鳴るよりもぬるでの紅葉早足に散る
何よりも江戸紫の龍胆の霜枯れたるは悲しかりけれ
秋の薔薇落葉する木の下に居てうす紫の夕月を待つ
錦木に萩も混れる下もみぢほのかに黄なる夕月夜かな
落日や楼閣めける中門の内側くらく紅葉ちりしく
森に降る夕月の色わが踏みて木の実の割るるあぢきなき音
杉山は赤き緞子の落日をもてあますごと抱くものかな
夕方は霜枯月の朝よりも雁など渡り若やかに暮る
(以上)
松立てる岬と村と皆似れど夕は暗く移りたるかな
(以下人々と安房に遊びて)
大空は雲二つもてピエロオの眉を作れど海は愁ふる
磯山の雑木の紅葉顔寄せてかこち合ひたり日の隠るるを
はなやかに見ゆれど秋の落日はただ一重のみ紅を着る
帰りこんものと思はず大海へ沈み入るべき漁火と見ゆ
蝋の燭光となりて夜の海に臨むは人の身よりめでたし
なつかしき白鳥といふ星の名を云ふ人ありぬ海に向ひて
いさり火は身も世も無げに瞬きぬ陸は海より悲しきものを
漁船遠くもすさり三更の前の渚のほのじろきかな
大海の潮の音をば下に敷き夜を語ることあはれになりぬ
大海へ日を阻まむと現れぬ波も大地も目におかぬ船
食堂の戸口なれども大海の波のみ青く見えて悲しき
海見つつ朝語れば食堂も淋しき海となりにけるかな
霜月や前の砂丘の波形の斜面にすがり藻の乾きたる
人と云ふさかしきものの乗りぬべき船とも見えずあえかにぞ浮く
楼にめづ草の一筋青きをば道とみなせる人の歩みを
夜明くればよそよそしげに遠のくと海を思ひぬ女心に
わが立つは安房のホテルの表口白く淋しき冬の門口
磯の丘流人が寄りて語るごと砂を撫でつつ人と物云ふ
磯に居て貝のたぐひに人の身も流れ寄りつる心地こそすれ
国王の輿といへども及ばざる誇をもちて白き帆走る
海見れば人の心も停らず遠方へ行くゆるく引かれて
雑木より薄の丈の立ちまさりその穂真白く靡く山かな
日の光る安房をめでつつくぐるなり薄の山の下の洞門
大海よ陸が上げたる腕とはな見そ醜き高燈台を
美くしき水溜りいとあまた持つ安房の渚の秋の岩かな
唯だすこし身をゆするのみ磯人のつながぬ牛も繋がぬ舟も
わが立つは夕ぐれのごと朝の如昼といへども白き砂浜
撫子やひがしの安房の海風に養はれ居ぬ霜月くれど
よそにして思ひしよりも冷たけれ砂丘の上に一人座れば
渚なる濡れたる砂と白砂のさかひを踏めばあぢきなきかな
網乾しぬ梅蘭芳の軽羅より畏きものをもてなすやうに
大海の波の音をば愛づるごとはた知らぬごと列れる家
踏み行きて涙の蝋の心地しぬ安房の東の白浜の砂
うち寄する波の白きは優れたる岩ぞと覚ゆ秋の荒磯
大岩の谷とも云はん窪に居て波がしらのみ見て語らひぬ
荒磯波入りも混れりわが立つは岩のはざまか海のあひだか
岩かげの濃き青をめづ大海の一ところをば悲しきまでに
その中に経を唱ふる岩も居ぬ世盛り人とわが混るごと
岩めぐりひそかにわれをうかがへる薄に会ひぬ白日の磯
かへり見て荒海布の色に靡くとてあさましがりぬ白浜の松
海荒るるしるし上ると人云ひぬ喫茶の室の前方の窓
方形に円を重ねて鳩を置き松にかくるる那古の塔かな
空曇り海の濁ればあはれなり番所めきたる那古の仮寺
那古寺の建立を待つもののごと十三人が鳩とたはぶる
凡骨と云ふ人の撞く普陀洛の鐘と知らざる那古の浦人
凡骨は根来の僧にあらねども腕あらはに鐘と戦ふ
那古寺の普請の瓦まゐらせず海に比べて醜きがため
唯聴かず鏡が浦を行く船にものも云ふべき潮音の台
那古寺の湖音台に題すらくここより海へここより天へ
足場して堂繕はれ椎の葉の朽ちし渓のみ海に対へる
下りきぬ普陀洛山の石の段那古の本町松原のみち
青墨の色を飽かずも重ねたり師走に近き那古の松原
あぢきなし那古の入江の曲り橋顧れどもまた見えずして
ちりぢりに夜衛の如く歩みきぬ十一月の北条の町
昆布の根をもたらしたりし友の居て夜汽車の客も海の香を嗅ぐ
(以上)
降る雪も捕手が伸す足も手もうるさき中の美くしき人
幽霊のお露の横に靡く蚊帳牡丹燈記に書かねども好し
しみじみと物を思ふがめでたけれ勘弥の狂も紙屋治兵衛も
雪寒しわけて師走の舞台とて忠兵衛と云ふ横道も泣く
殿上に鱶七も居て煙草飲むかかる世界をめでてわれこし
旅立たん役者の前へ死ににきぬかかる華奢をばめづる貴女達
松助は支那の百種のくまどりを己の顔の線もてつくる
音羽屋がゆたかに踊る振を見てうら安の世と思ひ初めてき
義理に泣く小春役者は悲しけれわが見るうちに身の細り行く
歌舞伎座や村正と云ふ刃ほど西の廊下の冷たかりけれ
秋来り芝居めきたるこほろぎの鳴く夜となりぬ山の手の家
梅幸も去年と今年を逆しまに若がへらぬが淋しかりけれ
人間の春を覗ける白梅のたぐひと見えてわれ哀れなり
梅の花匂へば思ふ生命より後に残らんあはれなる夢
序の曲の急なりあはれ何ごとにならんと涙滝のごと落つ
わが呼べばものの葉ほどの靴はきていでこし人に従へる鶏
開かれて空をおほへば傘もまた不思識にもれぬ小き稚児の世
冬の日の吹雪の渦の紋なども美くしむこと花に変らず
美くしき犬ころ童女の童さらにいみじき春のしら雪
楼閣の青き瓦も夕ぐれは涙の色と見ゆるをちかた
わが終り近づくことを見知る人少き国へさすらひて行く
(以下上総にて)
わたつみの波のやうにも桜咲く総の御牧を行きかへる雨
目を上げて雨を見るなり人形の国性爺めく朱の色の桃
雨降りて青磁の色に濡れ行きぬ銚子へ通ふ松山の路
この度は犬吠岬の燈台の冷きいろにおどろかずわれ
その日より波いく返りかへりけん過去も未来も知りがたきかな
白波は何企てて寄るならん恋の如くにくづるるものを
東海の岬の上に人一人物を歎くと哀れなりけれ
音もせず沖の方にて立つ波は湧きて忽ちささやかに消ゆ
波寄れば未央の園の白蘭のちりしくみちを行くここちする
程程を少し過ぐして高く鳴る笛にしたがひ動く川船
よろぼへる預言者の船新しき二十ばかりの若人の船
たたずめるわが車をば打ちて過ぐ邪宗の男女花見の道化
利根の宿松の梢に置くものは遠き鹿島の灘のしら波
あはれなる白き棧橋末とげず忘れし恋に似たる棧橋
(以上)
二階より緑の鳥の覗くをば夕月めくと君に云ふかな
洞門や箱根の渓の夕風の身に沁む人は立ちも隠れん
(以下十四首箱根堂が島に旅寝して)
車なる旅の人々一語なく振り返り見る洞門の口
星一つ渓間の灯よりはかなげにまたたく山の頂の空
ほとばしる水は焔の立てるより苦しげなりと涙こぼれぬ
堂が島渓のならひか知らねども濡れて悲しき木下路かな
明神の山の頭に灯ともれば祭壇めきてなまめかしけれ
樋のくづれ湯と冷泉と混り落つ人の悲しき身のはての如
夕まぐれ樋の湯烈しく落ち来り浴槽あはれに揺れもこそすれ
水の鳴る山の宿屋の夜の食事中頃となり味わろくなる
物思ふ人より早く眠りたり水の彼方の明星が岳
早川の岩鼻に居て深山木の一木のごとく水を覗きぬ
悲みも恋の債といふものも知らず遊べる渓のしら波
人恋し調べの滝のしぶき降る箱根の奥に入り立ちてなほ
箱根路の調の滝に翅をば揃へいで立つ春のそよ風
(以上)
子等あまた港に入りし船のごと安げに眠る春の宵かな
船のごと容易く岸を別れ去るならはしもたず人の思ひは
いにしへのわが心臓の賑はしき祭も覚ゆひなげし見れば
笑みながら欺くやうに崩れ行く女の花の夏のひなげし
鮮かに黒き班のある雛罌粟をしるしに置きて病す五月
病してひねもす見るは夕月と君のこもごもうつる夢のみ
喜びはいかなることに湧くものか忘るるまでの大事となりぬ
いと深くもの思ふ日は手ざはりの茨めきたるわが小櫛かな
ひるがほは何処に見てもわが脱ぎし衣と覚えてあはれなつかし
灯のやうににじみいでたる市川の松の木立の初夏の月
山荘の冷き書庫の露台よりひらくを見たる月見草かな
雲なれど砂にすがりて地にありぬいと哀れなる小町草かな
人なべてものの哀れを悟りたる平和と聞けどまことしからず
こし方の恨めしきこと忘れても忘れがひなき平和の二年
藻の寄りぬ思ひの根などいふもののさまにもつれて哀れなりけれ
世の末に逢ひたるものの皆すてふ祈にかへて恋もこそすれ
菊一つ尋ねいだして微笑める十一月の末の夕かぜ
この心白き花より軽やかに見ゆれど恋の涙もて満つ
巡礼を待つべからざる塔なればならひを破り九万尺に立つ
瑠璃色に黄金の緑をしたるもの太陽として懸る秋かな
岩ひろく鬼の棲む世を踏む如き波の響をきく夕かな
また物を思はじとするわが身をばこの世におくが不覚ならまし
子は海に飽くと文書く子に別れ都わびしと云はず大人は
旅をして同じ本のみ見ることを大事の如く歎く子らかな
蔓草のごと知らぬまに丈のびて子の帰りなば悲しからまし
人形の戸棚と部屋の灯火の限りも知らず淋しかりけれ
をとどしの皐月に見たる虎杖の芽の尺ほども伸びし山かな
(以下伊香保にて)
つつじの火はてなく這へる山行きぬかかる夢のみ常に見る人
煙上げ雨のつまづく初夏の榛の大木に程近く立つ
螺形の山の道をば螺形に巻く雲ありて淋しかりけれ
山の雨渓へ落つれば音もせずなほ雲とのみ呼びてあらまし
立ち舞ふと見えし夕の湯の煙山の雨ともなりにけるかな
かんばしく丹朱を敷きて流れたり伊香保の奥の極熱の川
わが恋のごと云ひがたし伊香保路の湯本の渓の靄のありなし
ほの白き葛となりて黄昏の切崖に居ぬ温泉の靄
伊香保山人通ふ棚温泉の靄湧く棚を次々に掛く
灯のにじむ雨夜の山も温泉の代赭の色に通ひたるかな
山の藤誰の肩にもよらずしてうす紫の身を楽みぬ
わが踏むは榛の下みち土濡れて杜鵑の声のしみ通り行く
遥かなる虚空も見ゆれめでたきは山をおほへる榛の大空
雨降れど枝を漏れこず緑金の光にみちぬ榛の林は
青みたる山の海棠手を上げて月を呼べども雨ぞ降りくる
雨雲の色に樗の花なびく榛名の渓の風も悲しき
小雨降る皐月の渓に花あまた摘めども淋し白がちにして
身を反し伊香保の街の石段を雨の歩める初夏の朝
雨ならで皐月を濡らす靄降ると榛の木かげに思ふ夕ぐれ
(以上)
靄立てる石の浴槽はいつとても薄明のごと白しをぐらし
春の波大根乾したる石垣の百歩の前に青く羽ばたく
人の手になしいでられてめでたきは泉の中の石のきざはし
家恋しなどつぶやけば初島の灯のまたたきぬ我子のやうに
美くしき海の男の肱と見ゆ波の上なる真鶴が崎
美くしき伊豆の小島に船をやるわれ自らを覗く心地に
青雲の深く重るところぞと島に上れば椿花咲く
初島の汀の波の底に咲く青き花ぞと見えわたる石
美くしく思ひ上れる海の石波を透して人を見るのみ
伊豆の海枕上にて鳴る波もわれを思へる心地こそすれ
白梅の黄昏時の香をかげは心悩まし春の初めも
くれ竹も春の初めは青銅の寒き色して風に鳴るかな
五月雨の三日四日つづく世の中に唯だおのれのみ清く明るし
紫陽花も花櫛したる頭をばうち傾けてなげく夕ぐれ
女郎花をとこへしより哀れなる浪の来て寄る夕ぐれの磯
この毛虫能の役者のするやうに桐の幹をば歩むものかな
わが心童めきたる毯形の地にふさはざる悲みをする
人を見て胸痛しなど云ふことを今日はなさねどなほ胸痛し
涙落ち円の縺るる面白き温泉の紋はわれのみぞ見る
(以下畑毛温泉にて)
湯口より遠く引かれて温泉は女の熱を失ひしかな
浴室の石の床をば湯のぬるく這ひたる伊豆の如月の宿
身一つを静かに浸す浴槽より湯流る心ほとばしるらん
夕月と富士の雪より射る光霧にみだるる田方の郡
伊豆の山すべて愁ひて潤むなり富士より早く春は知れども
しら玉の富士を仄かにうつしたる足柄山の頂の雪
山国の月見てありぬわが心いつあはれにも改まりけん
雲ほども進まぬ馬車にわが乗りて伊豆の沼田を巡る春かな
伊豆と云ふ温泉の国をゆきもどりすれば心も春風となる
王朝の保元の蔦のからみたる坦庵の家おのれの心
坦庵の邸の前の溝川に幌をうつしてわれを待つ馬車
反射炉を二町離れて紅梅と乳牛を見る馬車の客かな
牛ありぬ韮山川の芹の色すでに山より青き浅瀬に
真白なる富士を削りてわれに媚ぶ春の畑毛の温泉の靄
靄上り天城の嶺のふくらみぬ下の百山皆とろけ去り
山の洞茂れるままの枯歯菜をつたひて落つる二月の雫
断ち残し六尺ばかり横穴の山にあるごと忘られぬかな
土穴の門に向ひて青を伸ぶいと新しき夢を見る麦
二月来ぬ足柄おろし伊豆の野の藁によの尖を海へ傾け
蛙鳴く藁によが蓋をしたれども雪解の水のやはらかに沁み
足柄の山を後に浴む身を残れる春の雪かとぞ思ふ
わが身をば絹の綿もてつながせて浴槽にありぬ春の夜の人
愁ひては布さらすごとわが身をば山の泉にひたすならはし
微風や珊瑚の色の紐たれし寛衣の人と温泉の靄
わが前へ浮漂ひて富士の来ぬうす黄を雲の染むる夕ぐれ
浴槽より小波つくり急ぐなり月の世界へ行く湯のやうに
都をば出でし前夜の雨の音をりふし聞ゆ旅の心に
(以上)
湯を浴びて伊豆に結びし夢路より続きし道は洞門の断つ
(以下駿河の静浦にて)
塩屑の洞門の道なかばにて馬はいななく海潮音に
狩野川を越え塩屑の洞門を出でても馬車は天城に抱かる
泣くことを専らにする海と云ふ女の顔に逢ひし道かな
伊豆の国田方郡へ大海の風送るなる石の門これ
石の門石の館を山と呼び都と見るをおそれたる里
五つ目の洞門に逢ひ後をば惜む不覚の涙こぼれぬ
日のくれに白き馬つけ伊大利亜の車も出づる多比の洞門
変ること極り知らぬ海の道行けば恋さへはかなくなりぬ
馬車の道白く続けど黄昏れて刻々海に流れ入る墨
何すらん船の数ほど人居たり口野の浦の春の黄昏
棚船もたななし船も上げられて砂の限れる黄昏の海
むら雨が口野の浦の弓形の石の欄にてタンゴを踊る
船捨つる朝も覚えて哀れなり二時ありし青塗の馬車
波立ちて夜てふもののことごとく動き初めたる心地こそすれ
この浦を別れし疾風夜の海の大雨の奥に泣ける佗しさ
嵐おち海も林も灰色の巣に籠りたる朝ぼらけかな
鷲巣山裾の殺がれし断面の塚石のごと白き朝かな
旅をして向ひの山の明暗のはかりがたかる日は悲しけれ
静浦の半円の輪のしら波を嵐の後に見れば悲しき
浦曲りいくつ続ける奥ならん雲につながるうす煙上ぐ
靄深し海より立つか龍宮か湯の泉湧く伊豆の渓間か
前の海雲を出でたる春の日の踊場としもなりにけるかな
小舟をば踊の靴の色に塗り海に置きたる人の戯れ
(以上)
滑らかに時の潤ふ心地しぬアマリリス咲きリラの匂へば
窓開き時をば白き鳩の告ぐ明るき夢を持つ時計かな
御空よりわれを認めし星落ちぬ人の恋ほどためらはずして
われ惑ひ心に火をば放ちたりものの初めかものの終りか
煙立つ思ひしづめてある人の手に把る朝の湯の器より
唇を筆の柄にあて日を一日暮して後に病となりぬ
唯だわれを写すなれども忘れえぬ鏡と見ゆれ春の夕に
唯二つ寄り添ひて咲くその外のことは思はぬ紅の薔薇
天竺の象といふなる大きなる獣の渇き人もおぼゆる
しどけなく椿を落す小さなる二月の春のたなごころかな
われ淋し見る日来らずいつしかと文が運びし香料も尽く
歎くらく煙草の香よりやはらかく阿るものを持たぬ日なりと
しみじみと泣けば世界のかぐはしくなりぬこれより超えずわが罰
いにしへと云はんばかりの旧ごとにあらねど今日に続かざること
桂川高き欅の蔭にして鷹の巣めきし楼よりぞ見る
(以下甲斐上野原にて)
山国の西も東も知らぬなり雨と日影のこもごもに降り
いつとても河原にあるは旅人の笠と馬との七八つの点
桂川清き流をはりがねの引く船に居て星の心地す
船の人案山子のやうに直ぐに立ち米負ふ馬と秋川渡る
船に見し犬目の山の稲妻をあさましがりて走する馬の子
わが立つ瀬かの白き水石原も萩咲く路もみなかつら川
幾日して蘇州に出づや水にだにかかることばの懸けまほしけれ
引きつるべ泉の水を月のごと抱きて山をすぢかひに行く
河霧に近き露台のおばしまの乾く期もなく湿るなりけり
(以上)
わが思ひ藤かづらほど丈そひぬ恋ひ初めし日を顧みすれば
明星の光郭公はたおのれことさらめくと楽むわれは
如月や椿の花を上にして陽炎の舞ふ雪の窪かな
二日三日雪解の雫ひまなくて渓の底かと思はるる家
わが心明るき方に雪の散り小ぐらき底に薔薇の香ぞする
椿ただくづれて落ちん一瞬をよろこびとして枝に動かず
わが翅飛行の用はなさずして美くしさのみ鵬にまされる
いつ見ても水のほとりを黄昏に行く心地のみもてる月かな
悲みを抑へてあるや喜びを抑へてあるや知りがたき時
(底本奥付)
定本与謝野晶子全集
第四巻 歌集四
昭和五十五年十月十日 第一刷発行
昭和五十七年一月二十日 第二刷発行
定価三千五百円
著者 与謝野晶子
発行者 野間省一
発行所 株式会社講談社
東京都文京区音羽二-一二-二一
郵便番号一一二 振替東京八−三九三○
電話東京(〇三)九四五−一一一一(大代表)
組板 信毎書籍印刷
印刷所 多田印刷株式会社
製本所 大製株式会社