夢二画集 夏の巻
竹久夢二
世の人々のこゝろに映る自分の幻影は、常に、美しく、好きものでありたい。
自分の絵は、人の世の旅路に、たとへば、胸に挿むだ心の花から花弁を一つ一つ路へ捨ててはゆく──その花弁だ。おなじ路を辿つて来る、うら若い青年や少女に拾はれて、自分がどんなに自然を愛してゐるか、どんなに人生を楽むでゐるかを知らせてやりたい。そして、一度自分の絵を見た誰でもをして、世のすべてを──恋人をさへも忘れて、花弁をたづねゆかしめよ。
もし間違へて、紅い花弁のかはりに、自分の心臓の破片を落しでもしよふものなら……それでも構はない。絵は、僕の命だもの。
銀座の街などを歩いてゐて、自分の姿がふと店頭のガラスなどへ映つた時は、実にいやだ。先輩は、自覚せよ自覚せよと切りに言つてくれる。迷つた霊──我を見出せといふけれど、迷ひツ児の、迷ひツ児の三太郎やいと、探し歩いたあげく、やつれて、根性の曲つた三太郎に逢ふのはどうしても辛い。
いつまでも/\、李の花の咲いた幼時の追憶に、僕の姿を見てゐたい。
岡の上から、青年の吹きならす相図の口笛が聞えると、紅い豆の花の咲いた白壁の蔭から、しのびやかに、少女は長い袂で彼女の胸を抱いて、臆病な鳩の如く走つて来る。青年は、岡の上から滑るよふに下りて来て、少女を援けて小川を渉り、かろく青草を踏んで、かなたの森蔭に『二人の時』と『二人の世界』とを見出すことだつた。
彼女の父は、それを知つて少女の身と心とをすべてから束縛した。少女は泣いた。青年も泣いた。少女はつひに家をのがれて、森に別れ、小川に別れ、芝居に別れ、音楽に別れ、道理に別れて、青年と共に『死に』に往く……これは少年の時、読耽つた物語の一つで、僕はどんなにその物語の主人公を羨むだことか。そして主人公の言葉や身振までまねて、従妹の数枝をいかに美化して、わが恋物語の対照にしたことだつたらう。
茶色に染つた納戸の壁に貼られてあつた絵の中に、蒼い顔をした男が二人、身の丈ほどある石臼を廻してゐた。臼の中には、肉附の好い人の身体が倒さまに入れてある。血がだら/\と臼のまはりに滴つてゐた。その傍に、白い犬が首を高くあげて啼いてゐる。地平線に近い遠くの方を、影のよふな人が二三人黙々と過ぎ往く絵が画いてあつた。
その次の絵は、朱のよふに赤い顔をした、骨格の逞しい少年が、見るから繊かな、色の白い女の乳を呑むでゐる。女は、溶けるよふな眼をして、力なく少年の顔を見つめてゐる所だつた。も一つは、異様な服装をした男の股の下を、美髯の学者らしい人がもぐつてゐる絵だつた。
どの絵も、技巧は真に迫つてゐたよふに覚えてゐるが、一つとしてその主人公になりたいと企てたのはなかつた。少年が、憧れてゐる世界は、『真』でも『善』でもない、ただ、『美』くしければ好いのだ。
世の忠臣孝子が、楠正成や二宮尊徳の美談を熟読してゐる時に。僕は、淡暗い蔵の二階で、白縫物語や枕草子に耽つて、平安朝のみやびやかな宮庭生活や、春の夜の夢のよふな、江戸時代の幸福な青年少女を夢みてゐたのだ。あゝ、早く『昔』になれば好いと思つた。
最も強く、最も深い印象を与へるのが美術の目的の一つならば、十年程以前のこと、大坂朝日新聞に出た、『大阪七人斬』の挿絵に、斬殺された人々が、逃げかけて戸口に倒れてゐる所や、母親は子を抱いたまゝ死んでゐる所などを画いてあつた。
この鳥瞰図こそは、諸方の展覧会で見たどの絵よりも秀ぐれてゐると思つた。その絵を見てゐると、『人類の最後』と言つたよふな、世にもたよりない淋しさを覚える。
人生の哀歌をきくよふな寂しい絵や。怨霊のこもつた怨めしい情調や。『切腹』の如く、あきらめの好い観念は。日本の到る処に見出される。
鬼子母神の扉のまへに往つて見たまへ。黒い額縁の中に、若い女が赤い提灯の下に跼いて祈つて居る図が、ゴバルトやチヤイニース、ヴアミリオンやビリヂアンのやうな単純な刺撃の強い色彩で描かれてある。なほ絵のわきを注意して見たまへ、そこに『十九歳きみ』とか何とか書いてあるであらう。時とすると、この扉のまへに、房々とした黒髪がかけられてゐることがある。また時としては、生々しい血潮の滴る小指がさげられることさへある。
東京の山の手の屋敷町を通つて見たまへ、平家造りの奥深い座敷から、いともかすかな琴の音が、霧の重い夜の空気をふるはせて、昔、辻斬の盛に行はれた街角へと、響いてくるであらう。そこに君は、密閉されたる美しい小鳥の歌と、貞操と犠牲に馴れた日本婦人の低い──然しながら強い叫びを聞くことが出来る。
その他、破風造のシムプルな神社の建築や。客間の床に飾られた木と称する不快な骨董品や。地獄極楽のからくりや。枯枝に烏のとまつた枯淡な風景。木のない富士山や。数え来れば、灰色の背景は到る所にあるではないか。そしてそれ等の画材を、最も有効に最も適切に描表し得る線画を有するのは日本の誇りではあるまいか。
性欲といふことがよく言はれる。
性欲の衝動よりも、僕には、官能の刺撃から来る方が多いよふに思ふ。
晩春初夏の頃のやわらかな風。ネルのキモノを着た都会の女。三の宮の宿屋の欄干の青い毛布。馬関の港に売られてゐるネーブルの香。赤いスカートの描いた曲線。春の夜の蒼いガラス窓からもれる異人館のピアノ。芝居の終へた跡に残されたロシヤサラサの布団と褪紅色の引幕。野毛の山の雑種児女の皮膚。音楽的な下町娘の軽快な会話と彼女の素足。カルタ会の帰り途に赤いラムプの光から急に蒼い月光を浴びた血の上つた頬。新しいスコツチ洋服のにほひ。夜の電車のガラスにうつる女の白い首とゴバルトの半襟。製薬工場の裏の泥溝に咲く苔の花と、猫の死骸。眼科病院の窓にうつる青葉と、彼女の眼にあてた紅絹のきれ。支那料理の裏に捨てられた●(オウヘン+「攵」)瑰露の空瓶のだみたガランス色。そこらから僕は出立してゆくのかもしれない。
夏の日は赤くぬりたるボイラアと爛れし彼が傷口に照る
綻びし衣は縫はずもよしや母なが児の恋はまたやぶれたり
草よ草よ今宵もここに憔れたる男泣きしと人には告げそ
野の石やここに抱きぬ涙しぬ白き花さき夏とはなりぬ
かへりゆく母なき身とぞこの女かなしきことを言ふては泣くよ
ほろほろと君の涙に漂へり理解されざる二つの心
よよとばかり君泣くゆへに泣くゆへにまろき肩抱き許すと言ひぬ
姉として京の画工をひきととめ旅の話を所望せしかな
巡礼に江戸の話をきかむとてよく報捨せしふるさとの家
春風や巡礼乗せし大船は備前を出でて琴平へゆく
高原に馬をくだりて白光る草みてあれば眠たうなりぬ
かなかなと蜩なきて日は暮れて鐘など鳴れど人はこぬかな
『旅人あり絵筆を抱いてここに死す』と刻みてあらば悲しからずや
わが母の懐にてかさきの世か斯かる夕に笛の音ききし
さぼてんは壁にもたれて小春日をうつらうつらとものおもひする
ふと思ひぬかかる所にこの君とかかることして月を見しとぞ
牛の子等いとおとろきて見てありぬ君がリボンとわが長髪を
紅絹裏の君が袂に見出しぬわが処女作とダリヤの花と
別れ路や西と東に二歩三歩きゝたまひしや鶯の声
落日は手負の如く赤かりき白馬に君をぬすみ去る時
盗みいだし君を抱きて馬により春の街をばのがれいでしが
若草や蹄の音もやわらかに森に入りけり白と栗毛と
『われ』といふ淋しかりける昔より『われ等』といふが悲しくなりぬ
神よなど『恋の終』と『身の果』をひとつこの夜に与へざりしや
よきことは悉く言ひたのしきは皆しつくしぬなほ生きてあり
村一の白壁の家のひとり児は七才にして少女を恋ひぬ
少女子のよきをひきゐて岡のへに小さき村の王なりしかな
暴君は少女をとらへよき布片と緋桃の花を貢がせしかな
憤りて女の腕をふりはらひゆくになれたる停車場へ来ぬ
何処へとも行衛定めぬ旅ながら汽笛をきけば心せかるる
あわただしう札を求むる旅人にせかれてわれもゆくえ定めぬ
おろかしきほこりなりけり恋ふと言はで紅き花など封じてやりぬ
鉛筆にてスケツチ帖のかたすみに『みつえ』とありぬ誰の名ならし
ハンカチーフ『何故君は貸しまさぬ』『はつかしきことかいてあるゆへ』
ピストルをまづ誰が胸にむけたまふ父と答へし不孝の少女
何故にさは泣きたまふ恋人よ昔お七は火を放ちたり
母なかせ父にそむかせなほたらで偽りごと教へむとする
人妻は春の扉ぼそにかくれけり枯れたる花を捨つるや否や
ガラス戸に春の雪ふる温泉のなかに人語はいひそ睡蓮の君
何故に雪の日さくや水仙花春の蝴蝶に捨てられければ
春や昔山ゆかば山海ゆかばそこに二人を見出せしかな
この年月うれしきことにつかれたり『反逆』といふ少女はなきや
ひとり住みひとり思ひてひとり泣く寂しき人にならばやとおもふ
北国より黄色の薬もたらせし怖き男を姉とながめぬ
あれを見よ獅子が飛ぶぞと北の山見てあるひまに髪は削られき
灰色の空よりこしかくすり売母のかげよりそと見しばかり
春の夜の窓よりなげし文がらかわがゆく海を白鴎とぶ
知るたけの少女の顔を画いて見ぬいづれを妻にするにあらねど
丘にあり君が家根見る小庭見る窓にかかれる片袖を見る
緋の襟や桃われにしてうつむきぬ君とめをとにならばやとおもふ
人まちつつそそろに歩むうしろよりつとこそよりし春の風かも
名もきかず日もわすれけり紅薔薇鬢にかざせし娘とばかり
二寸ほどたけひくき子と別れたる壁にもたれて楽書をみる
やよ壁よ夜毎夜毎に男きて少女をまつと人につげざれ
白壁や赤き蜻蛉と若人と少女と倚りてものおもひする
妻といふ名を与へたるこの年月いとたはけたる夢を見しかな
恋に倦み涙せぬ子と剥製の小鳥と飼ひてわれは絵をかく
『明日』といふはかなき町をのぞみつつさてもさみしき旅なりしかな
あやまちてきりし小指に眉よせて吸ひたまふときふと恋ひそめぬ
剥製の小鳥の嘴に唇よせて熱ある息を吹きても見しか
剥製の鳥に似たりや人妻はうれしき態はかずかずすれど
食卓の五寸ばかりの樺の木に深山のおくの鳥の声きく
なつかしさにポストに倚りてハガキ書くうしろを過ぎし馬車の女よ
屋根のうへに草あり草の上に青空あり草よ身を顛はせて何を泣くや
別れむと家をいでけり情もなうわれと泣きつつ停車場へゆく
男あり汽車は幾度いでたれど待合室を起たむともせず
告知板へあまりつれなき人の名とかなしき歌を書いて去りにき
われや抱きし君やよりけむたまゆらに花のラムプは消されてありぬ
さらさらと林檎の皮はながれけり白き指より艶なる膝へ
長椅子にふかく沈みて眼をとぢて死むとぞおもふ更けし春の夜
戻せよ泣けよといへどこの女せせら笑ひて無事を願へり
倦怠の日の永きかな北極の氷の国に二人住むなり
馴れなれて胸もおどらぬこの日頃爪などつみて日を暮すかな
馴れなれて涙なかさぬ憎き子よ昔の歌をうたへといへど
泣く時はよき母ありき遊ぶにはよき姉ありき少年の頃
カムパスのまへに立ちたるこの女嬉しからずばせめて泣けかし
巣をいでて春の夜街をさまよひてたださまよひてつかれてかへる
駕駄馬車はめがねをいでていたばしへ女ふたりをのせて走りぬ
春の海船はしづかに南しぬ緑の島をいくつかぞへし
『必ず』と何盟ひけむ三つちがひ小さき指を結びけるかな
金時が姥の乳呑む江戸絵見て女はかくて死ぬとおもひぬ
朝詣よき子たまへと石投ぐる華表の上の有明の月
シグナルの赤きが落ちて汽笛鳴る血にまみれたる腕よ顔よ
トタン屋根にロシヤ更紗の布団干すうへに空あり白日かかる
血の色に『危険』と書ける電柱に来ぬ人をまつ夏の昼かな
月見草なにゆへ暗き宵にさく恋しき人に別れてこしや
わが園に勿忘草はなくもかな別るることの……………
せぐりくる涙のよふに夢を見る少女のよふに月見草さく
よく感じよく微笑みてよく泣きしいとしほらしき君なりしかど
卓上に白き食器の触るる音と恋の終といづれ寂しき
何故にさは尊大に構へたる膝に泣きたる君ならずやは
ああ博士なにゆへひとり歩むかや春の夜なるに袴うがちて
春の夜に男に誓たてぬ子は浅間の山へすてむとぞおもふ
春の戸に口笛鳴るやいそいそと宿の娘は逢ひにゆきしか
夏まつり藍の香たかき衣きせてしつけの糸を母はたべしか
わが姉の手箱にひめし紅き糸村の少女になげ与へける
村芝居石童丸に撰まれて二日二夜はまことを泣きぬ
悲しげに涙する眼のかわゆさにある夜この子を泣かせつるかな
膝に泣く髪のかげなる黒子のかわゆき子なり青き灯のまへ
いつの世に掟てられけむ恋ふる子は母にかくれて忍び泣くもの
母上よなど巡礼は殺されし赤き襦袢に涙をふきぬ
春や昔加藤清正武勇伝赤き羽織をよしとおもひぬ
うす暗き蔵の二階に抱かれし白縫姫よ遠くわかれぬ
鐘なりぬ君に逢ふべき時迫る逢ふて死ねよとあれ鐘の鳴る
何故に泣くやといへどひたに泣く淋しかりけり淋しかりけり
さらばとて手をわかちたる野の小径蛇よと泣きてすがりよる子よ
母よいま子は帰り来ぬ旅の夜にやつれし君を夢に見しゆへ
恋ふる子は誰昔よりとのもにて雪にふられて涙するもの
絹のきれ友禅のきれぞよめきて人形町を春風すぎぬ
春の夜やこの街角に少女ありわれをまつとぞ告げしならねど
灯の街をひとりさまよふつれなさに知らぬ女に『さよなら』と言ふ
青色の帽子眉ぶかにうちかむり蹌踉として春の町ゆく
南洋へ
横浜海岸なる煉瓦街に髪黒き母の顔には似も
やらで、名も、行衛さへ知らぬ仏人に似て生
れたる不幸なる雑種児の友ありき(七首)
アフリカの王たらむとてチヤムバレムに文ををくりし雑種児の友
南洋へともにゆかむと陰謀を椎の木かげにめぐらせしかな
生きのこり名しらぬ島に漂流しそこの王子にならむと言ひぬ
卓上に土製の兵士戦はせいづれおとらぬ暴君なりし
手を結び若草にねて南洋の森と自由を語りけるかな
母を捨てよわれは少女を捨てむとて窓の下にて二人は泣きぬ
アフリカにわれ王たらば必ずと君は馬関を船出せしかな
竹久夢二文学館
第7巻
歌集
万田務監修
1993年12月15日 初版第1刷発行
発行者 高野義夫
発行所 日本図書センター
〒112 東京都文京区大塚3-4-13 電話03-3947-9387
制作 オフィスコヤマ
装幀 成田克彦
印刷・製本 亜細亜印刷/関製本
定価3,800円(本体3,690円)
ISBN4-8205-9278-5 C0391 P3800E(第7巻)
ISBN4-8205-9271-5 C0391 P38000E(セット)