さくら草

            与謝野晶子

この頃のわが衰へを美くしと見るすべ時にうち忘れつつ
水色とみどりと紅の三つの色ほのかに残る心なりけり
折ふしは他界を覗き折ふしは紅友染となれるたましひ
あはやかに夜話などをすることの堪へがたきまで悲しかりけれ
はしたなき恋ばかりかな人見るははた表面にて二人が見るは
籠にあるは女と男と分かぬ二羽の鳥酔へるあはれさ君もおのれも
哀れにももの憂き日には手と足のもとも要なきここちするかな
唯ごとに喜ぶ人と唯ごとに悲む人とことなれるのみ
目を開くその前にするふためきと人の生まるる時に譬へん
恋するに物をのこさずとぞ知りしその頃見つれ君をあまさず
火の性のわれに自らあたたまり日を送るかなありがひもなし
まだかつて燃えざる炭か灰なるか何と聞かんも悲しけれども
半の身いと宜しくて半の身いとくるしやと思ふことかな
二つまで手を取り君は語らへど心おちゐず死ぬべき人か
かばかりもなよなよとせる心をば浪華育ちの傷に思へり
やるせなさこれは女のやるせなさ男の云へるそれに似たらず
酔ならず気を失ひてありぬらんかく思ふとき恋の悲しき
ふと気づくわれを眺むる心さへ無しと自ら見下げたりけん
女にて身に泌む手紙書く人を思ひ出でつつ川の岸行く
うす黄をば悲しと思ふそぞろにも物思ふ人のてのひらの色
うらさびしはかなしと云ふ言の葉を初めて文字に書くここちする
うつそみの世の物語してましとわれおとなしく君を思ひぬ
かの一人仇の如く片時も忘られぬかな恋ならねども
恋ならぬ外の思ひのその中のもとも苦しき思ひなりけり
花かをり鼠ことこともの噛める春の夜明のなまめかしけれ
かげろふのもつれ合ふごとかにかくに恋する人は物を思へり
文書けながなが書けと促しぬうすくれなゐのわが桜草
やはらかきアカシヤの葉の思はるる小雨の日かな東京にして
一足も休まずて行く旅人を心の中に見いでつるわれ
玻璃の窓しろく震ふをみづからの大事に泣くと思へるこころ
空のごと夏野の如くわたつみの風のやうなる心が思ふ
金銀の虫の啼くごと音を立つるオペラ通りの秋の夜の靴
川端の皐月の柳おもくるし恋に死ぬ身の前の日のごと
行く春の夜明に近き庭を吹く風は樺茶のつばさなるらん
紅鷺の三つ四つ立ちて水草の葉にしら雲のうつる夕ぐれ
皿に剥く林檎の色とアカシヤの若葉の色と似てかなしけれ
その恋は横堀川の柳よりつばめの出づる趣に似し
四月来ぬ紺のはんてん着るつばめ憎きことなど云ひそなつばめ
奥山の木立のごとし夜の閨死にに来よとぞ泣きに来よとぞ
横はるまばろしの国見じと云ふはかなきことに生命かけてし
紺青のわがかきつばた夕ぐれを深く苦しくいたましくする
なつかしくわが閨ほどにひろごりて牡丹の花の咲ける土かな
うす色の牡丹の花のちるけはひ身に覚えつつ文かくわれは
わが壁に紅の唐紙を張りたれば寝ても寝ずても君が夢見ゆ
水草に春の小雨のそそぐかな忍びてわらふ人のごとくに
独ごと云ひしなれども答へせずいかにしてましいかに思はん
石となりからかねの身となりぬらん逢ふを思はず聞くを欲りせず
自らをいとよく語る言葉をばわれは知らぬや教へられぬや
この人とわれを憎める心いま大波のごとおしよせて来ぬ
人ならぬここちするかな恋と云ふ獄にありて泣くもなげくも
自らを優しき人にあらぬごとわれ恋すれば思はるるかな
王侯の鬘のごとくめでたかり今日葉のおつる桐の木ながら
散らす時桜はあまりましろしと寒げに云へる夕ぐれの風
あやまりて春の暮れたるここちしぬ我身にかかる入りまじりごと
大ぞらの灰がかりたる下に散る身も世もあらずかなしき桜
何時の日か川の中より拾ひつる青き石にも病めば似る人
春の朝春のまひるも夕ぐれも淋しさつづくおのれとなりぬ
うつそみの自らよりも立ちまさることさへ遂げし心と思ふ
まことには時の立てるや立たざるやかの仄かなることも忘れず
かろやかに羅のごと君はまつはりぬ腕の上に心の上に
その二人とりなさずして面白きたはぶれとなり短夜の明く
恋すれば若き巻葉の中に寝てほのかに朝の風吸ふごとし
もの一つへだて別れぬその人をやがて卑しく思ふ日の来ぬ
わが君に恋のかさなる身のごとし白き薔薇も紅きさうびも
面白や傷のある木もその傷をまろくつつみて冬に逆らふ
いつしかと心をくぐる青き水大海となる日の見ゆるかな
死ぬばかり恋しき人も憎からぬ人の噂もここちよくする
静かにも少しほほ笑み思ふらく君が御心いと近きなり
くれなゐの桃のつぼみを思ひつつ薬をのみぬ病める三月
西の京ふりさけ見れば靄立ちて浅みどり色なせる空かな
山椿鶯の尾の動くをば見てある時のかたへに紅し
わが外にまた人影もなき園のたそがれ時の連翹の花
柳の芽枝より覗く日の来しと書けば血のぼる君に逢ふごと
いつしかもまぼろし人とあそび居ぬ細き雨ふる春のたそがれ
樽と樽中に二尺の板渡し草あそびせし春のおもひで
そぞろにも名知らぬ草の赤き茎つまさぐりつつうき思ひする
恋ならず仇にあらで友よりも忘られがたき人にもあるかな
いとせちになつかしけれど逢ひ見んとさらに思はぬ人のまぼろし
唯だひとつ恋にあらざる恋しぬと真白き塔をかたはらに立つ
生死の種と思へる恋を置きものの哀れをひとつつくりぬ
何やらん笑ひかけたるここちして枯木の中に空を仰ぎぬ
ささの葉のほほけしに似る額髪何としたるや今日は絵に描く
何よりも男の匂ひ嗅がんなど尊きことを記すごとくす
憎み居ぬ初めも今日も魔薬にて心を飼へる人ならねども
雨降れり恋のはかなし身のはかなし行末よりも今の唯今
何となり現はれぬべき夜ともなく明き日となく物のおもはる
君を刺し死なんとぞ思ふ何処まで沈む心ぞあがる心ぞ
嘘云ひぬ人目に欠くる所なきわれとなりつる禍により
こしかたのあぢきなきこと皆集めその重さもてくづされて死ぬ
うつそみの左より来て右に行く風さへ声はのこるとぞ思ふ
打見には時を忘れて飛ぶに似ぬものを見捨てて来しかたちして
いやはてに別れ別れになりたらば美くしき恋しつと思はん
若き日は寝顔を人の見ると云ふおそろしきこと気づかずて居し
実の恋まだ内心に備へねばかにかく涙おつるなるらん
悲みと恋を結びて思ふこと生れぬ日より持ちし病ぞ
春寒し大木の上のうす雲の襟の中までおつる心地に
自らにふさはしとして男より捨てられん日を夢みけるかな
走すること早しかしこに至る時蛇のかたちをなすべき心
いと寒き身にひたひたと押し寄する波の上には君のあるかな
身の中に悲みの湧く筋などのあるここちして手をながめ居ぬ
何ものも惜しからずとか云ひけらし死なんことかや逢はんことかや
あかつきの杉の木立の中を行く御裳裾川の春の水おと
天照す神の御馬のいななける清き夜明の杉木立かな
自らを旅立つ人とふと思ふ淋しき病する日となりぬ
船に居て陸に着く日を思ふごと恋醒むる日の時に思はる
目の前を美くしきものあまた飛ぶなごやかにしも涙する時
日のくれに涙ぐみつつ見ることの三日四日ありて黄水仙枯る
何時よりかわが記すこと自らに似ぬにあらずやあぢきなけれど
恋ならねば初めもはてもなきことのはかなきさまに思はるるかな
また見じと人しかすがに思はずてあるらん我れの衰へて行く
さま悪しく獣のごとく物嗅ぎぬ病あがりのわが心これ
木蓮の蕾光りてそよ風の吹く春の日となりにけるかな
見てあれば心跳りぬ声きけば身の寒きまであぢきなき恋
海国の大船の帆にあられふる冬来にけらし厚ぶすまする
何となき淡き恐れに覗かれし心をもちて君を見るかな
あてやかに物語りしてわれ笑みぬまた逢はじとは君の思はじ
衰へし顔見に来なと文遣らん男の数の多くなりぬる
いとせめて仇となして云ふことも許されたらば嬉しからまし
よきことは君に教へて世の常の女となりぬ恋もあさまし
一群の男に逢ひぬもの問はんかく恋すれば痴れて見ゆるや
忘らるる痛さは更に思はるるむづがゆさより勝りたりけり
ばらの鉢かたぶきしまま夜の明けし師走の冬のあさましきかな
人の世をわが去らん時鳴る鐘に思ひいたりぬ香料のため
君はいま高く昇りて恋人に背くと鐘を打つにあらずや
なやましき水のおとなひ黄の色の水のおとなひ冬のおとなひ
わがこころ縛められてある如し街に吹かるる冬の夜の笛
わが心日向にあるや蔭なるや雨に濡るるや風の吹けるや
冬の雨慄へて降れるそればかり心をぞ引くうき淋しき日
人恋し相模の海の濃き藍に雪少しちる元朝にして
砂の丘雪を被ける遠近を鳥の歩めりわれも歩めり
元日やうす紫を着たる膝われとも見えず春の空かや
今ひと度西の都の元朝を緋の帯しめてわれに練らしめ
雪少し底に残りてなまめかし春の初めの砂にある船
元朝も君おもひつつ起きいでぬかにかく春をことほがんわれ
君とせしめでたき恋も備りて春の女王となりにけるかな
わが踏みて板の廊下を鳴らすこそをかしかりけれ元日の朝
遠方に船の笛鳴る元日のたそがれ時に君へ文書く
春と云ふちりめんの紐手に持ちて心跳りぬこの手弱女は
春来しと喜ぶことの程を過ぐかく身を知りていよいよ宜し
元朝や高きに上り国見してなほ云ふことは君とわがこと
うち日さす都の春の噴水の白きさまこそめでたかりけれ
いにしへの恋の反古など君と読む正月の夜の炉のほとりかな
しらじらと餅光りてめでたけれ舞の師匠の稽古舞台に
元朝や十畳の間の片隅の白き机に肱つくわれは
夜の夢君が声にて醒めしごといとここちよき春の日となる
われいく度心がはりをせしやらんかく思ふ時この世のわびし
えも云はぬ匂ひにわれのつつまると思ひしことをくつがへされぬ
目の前に恋人として思ふべき島などのある磯に行かまし
この人を淋しがらそと気の変る二三時頃の春の雨かな
菜の花もお納戸色に暮れ行けば海のここちすいたましきかな
大空の日の面をば濡らすごと菜の花に降る春の雨かな
髪際の目さむる如き人なるや菜種の上の遠山なるや
十歳のわれ狐のまねし膝つきぬばらばらと咲く菜の花の畑
薮の下橋と菜種の黄なる花つづく処も春雨ぞふる
小雨ふり美くしき人子を呼べり菜種に向ける黒き大門
菜の花の咲くころにしも祭せん七八つの日のおもひでのため
われとある唯だ四五本の菜種より淋しきものはあらじとぞ思ふ
夕ぐれの菜の花よりはやや卑し野の御社の青のかたまり
菜の花の上の空とぶ雲ながらわが息のごとさびしきいろす
西京の黒谷の寺その前の麦生まじりの菜の花の畑
初めをば更に云ふ時いささかのうらめしごとの交りこしかな
寒きまで青き道かな六月の橡の林の青き道かな
夏がする帯のかたはし雛罌粟の帯のかたはし見ゆる野辺かな
罌粟の花くづれしままを見る如く悲しきことはそのままに置く
夏来る肌のましろき三つ四つの男の子見ゆよき若衆見ゆ
恋しげに覗けるは誰れ靄立てる夜明の家のひなげしの花
大空のあけぼの色の翅振りさし櫛はどの蝶の来しかな
初夏や灯ともし頃のゆきかひにわがもの思ふ細きわたどの
うば玉の髪より白き簾より凉しきいろの矢ぐるまの花
この頃のものの苗よりやはらかに心は君を思へるものを
あなにくし生も得がたく死も知らぬもの一つあり心の中に
喜びに逆らふ心われになく人のもたせつそのかみの世に
この玉は運命によりいと苦き酒をたたふる杯となる
わが心はかなし紅きひとひらの切れのはしにも酔ひて泣かるる
ある時に君が曲げたる背のかたち嬉しき日にもうき日にも見ゆ
太陽が心を上るさま見よと口づけし時人やたがへし
いのちなど粟粒ほどのはかなさに見ゆる日つづき人を恋ひ居り
草抜きて指染まる時まだかつてわが覚えざるすなほさとなる
夜の汽車に鈴蘭の香のただよひし胡地の五月の白かりし月
心いと正しき人がいかさまにいつはるべきと思ひみだるる
美くしき糸のほつれてさまざまに環を描くなり君踊るなり
(倫敦にて)
蔓垂れしはかなき草を踏みながら涙くだりぬ身の尊さに
風暑しからかねに似る水無月の道踏む辛きわれの足音
やはらかに加茂の瀬の音かつら川うち思はするあかつきの風
自らは並の言葉と思へども若き人皆身に沁むと泣く
明日にのみこがるる人は自らを今日越えて行く踏みにじり行く
夏の花摘みて小馬に食らはしむ苦しきことを紛らさんため
死なんなど逆しまごとを君云ひて泣かしむる日の五月雨かな
五月雨がやはらかき土うがつ音恋知れる身に悲しかりけれ
恨めるや根浅く人を思へるや恋てふことをゆめ知らざるや
昔より不具と知れる心よりなほも劣れる姿おとろふ
わが恋のまことの力君知らずまして自ら見んすべもなし
寝たる子の腕見せたる袖口を動かす山の昼の風かな
恋と云ふ不死の大鳥羽ばたきはせねど啼かねど疑ふなゆめ
病みはてて海鼠の如くなれる髪思ひやれかし死にまさり憂し
火をば置きわたつみを見せ玉ちらす幻術をする夏の花かな
白き鶏罌粟のつぼみをついばみぬわがごと夢に酔はんとすらん
四五町をそぞろ歩きの道としぬ水引の花はやく咲けかし
簾より遠近の木の梢のみ見てきのふ今日旅ごこちする
花よりも恋しき人の顔よりも嬉しく思ふ夕風ぞ吹く
わがあるは遥かに下の世界ぞと澄める月夜に思ひけるかな
桐の葉よ木にありながら枯るる葉はあぢきなきかな三十路せし身に
えも云はぬ酔に男を導きし人さへ秋はかなしきものぞ
庭のうち何れの草の葉の裏もしらじらかへりわが愁降る
縁に散る釘の先より殺さるるわれと男のまぼろしを見つ
風通ふなほ薄着して背をゆがめ髪上げわぶるわが神無月
何の木か節細き木の木立より大文字山につづく霧かな
白き鳥見えがくれして飛ぶごとし恋するとのみ今日は見えねど
恨めしさおほよそそれも打消しぬ身のたふとさも思ひ捨てつつ
末の子の寝返るを見て白菊の香の立つごとく思ひけるかな
くれなゐの玻璃のやうなるもみぢ葉とわが肩浮ぶ石の浴槽に
箒川橋の柱に血ながしてかづらの紅葉そよぐ夕ぐれ
紅と藍空と野原に濃く置くと思へばやがて冷き日来ぬ
しら露はわがくねりたる紅の菊うす黄の菊をあなづりて置く
何やらん倦みし思ひのありつるとやがても恋はものに紛れし
いと辛き心うれしき志おほく変らず今日にいたれば
メキシコのおもちやの馬を二十日程手に取らぬ子はいかになるらん
子は病めど猶つやつやし玉と云ふものより少しなまめかしけれ
ありとある悲みごとの味の皆見ゆるかなわがすなる恋
火の柱やや傾くと知りながら楼を下らずああこの心
ことごとに君の仇はおのれぞと身をさいなむもうき心かな
わが世界他人の世界なぞもかく百億万里へだたれるらん
夜も昼も我れを哀れと思ふなりつひに生命もあやまちぬべし
かにかくに円き輪われと君を巻くこのことわりに涙ながるる
二とせの御涙よりなりにたる白き泉にかくれ給ひし
(以下二首昭憲皇太后の崩御ましましし時)
かしこかる大后をば帝さへ目に見給はぬ空に送りぬ
砂舞へる辻を見るごとこし方の中にわびしきものもまじれり
何時よりかゆく春の日の思ひよりやや淋しかるものを抱けり
そよ風や慰められてある如きわがかたはらの藤の花かな
山吹の一重の花の色したる湖に入り魚とならまし
心中をせんと泣けるや雨の日の白きこすもす紅きこすもす
大海の岩吹く如きあらし来てわがこすもすをやるせなくする
花瓶の白きダリヤは哀れなりいく人の子を産みて来にけん
もの思ふ日に日の続き大海の青ばかりこそ恋しかりけれ
自らを罵ることとわれぼめの中にわづかに身を置ける人
悲みと甘き味とを分きかねて皆恋と云ひ尊くぞせし
円き山あられの中に見ゆる日の京はよしやな冬はよしやな
つつましき冬の心に手をのべぬ共に遊べと朝の霰は
しかもなほ逸楽の日の思ひ出に青ざめて立つ冬のときは木
地なるものなべてを剥がし行く冬を障子に隔て君と籠れり
わが知れるわれの心の姿より紫の衣上なしと愛づ
夜の風さえざえと吹く頃なりとここちよがれど稀に淋しき
大磯の夏のなぎさの砂めける霜のいとよき有明月夜
霜降りて一尺ほどの細き縄あはれに見ゆる冬の来りぬ
北国の氷の川に添ひつつも歩むとぞ思ふ稀におのれも
ある家の大門かなしたそがれのうす雪おける長き路かな
目はふともうす紫に匂ふなる屋根を見出でぬ初雪はよし
自らを慰め得ざる哀れなる末の日としもなりにけるかな
静かなる風のながれのここちよさ十一月の黒檀の夜
霜降るや十一月に黄なる花咲く雑草の哀れなるかな
子の叩く太皷の音の中にしていにしへの夢わすれかねつも
いとどしく藍がかりたる御空より木の葉はらはら散るここちよし
雨の日も何をして居んなど思ふ愁ひは知らぬわれなりしかな
何時の日か打たれてやがて暗やみを歩めるものと心を知りぬ
わがすなる作りごとにも喜びを胸の底より払ひたまふや
噴水と花の広場のありたらばもの思ふ時まろく歩まん
どどどどと芝居のはての足音が皆死にに行く人と聞かるる
時いたり君とおのれと二人のみ知る白金の淋しさに入る
はかなげに枕のもとへ泣きに来ぬわれを待ちけん加茂川の水
若くして思ひしことの目に見ゆれ白き扇をもてあそびつつ
家のうち香料をもて匂やかにすれどもされど人の憎かり
休む時ありや恋にもかく問はる男女はことなるものを
昨日今日こころに秋の映りきぬ庭草すこし丈の延びつつ
時のまに秋来るべき空を見てわが下心あぢきなきかな
夏祭年ほどほどに肩ゆすり男の子等の行くが凉しき
唯ひとりとどまりて見し白き帆もやがて死のごと悲しくなりぬ
わがこころ空しからねばおん心うつろならねば足ると思へり
目に見えぬものよりやがて形あるものに心の傾きし時
われいまだ毒を注せとも救へとも喘げる恋のことを云はなく
哀れにも心の隅に置きわびしそのかみの日の一つの思ひ
木の下に雨を覗けりなつかしき爪の色なるひるがほの花
この日よりいのちのはてに及ぶべき恋と思ひき既に死にけん
誰も皆われの絵巻に黄金を置く君と思へりかるはづみにも
なつかしき文を書きやる人一人持ちて育む朝がほの花
あかつきの青き御空にふとおびゆ飢ゑし獣の走りくるやと
夜夜に芝居の夢を見んとしぬそも何時の日の心なりけん
まぼろしに鋭きものもはたありぬうつつもはかな今日の如くば
くろ髪も嵐の息に吸はるるとあさましかれど覚めぬうたたね
わが話聞きて出で行く海人の子の長き髪かな夕月夜かな
ものを皆投げ打つ如く裂くごとく蜂の啼く日は死なまほしかり
渓間の湯槽に聞けば大馬の駆歩のひびきを立つる夕風
塔などの遠く沈めば夏の日もうらはかなしや既に虫啼く
軽やかに夕月かかる御空より来しごと君はたたずめるかな
銀のかぜ水晶の風わが思ふ男に似たる夕ぐれのかぜ
砂に居てとんぼの行くを見送れば足なへのごとやがて思はる
哀れにも頼りなげなる心ぞとわれを覗けり萱も芒も
わが二十町娘にてありし日のおもかげつくる水引の花
秋風の弱き心と少女子の恋の心とあらはにぞ泣く
秋の野の真白き花に顔合せ初めて涙ながれけるかな
ひとり身の恐れと痛き淋しさを持つごと咲ける白き朝顔
目に見えぬ真白き花の花びらの破りがたしと秋風の泣く
やがて着ん秋の袷の思はれぬかはたれ時にしら雲飛べば
秋風とひとしなみには云ひがたしわが味へる醒めたる恋も
みづからをしひて頼めり野分吹く雁来紅の一丈の紅
秋の花風に散る日はわが爪もはがれずやなど思ひぬるかな
人間は手な触れそとて置かれたる紅き芙蓉に秋風ぞ吹く
隅田川岸行く人のちらと見し秋の初めの朝の月かな
大宮のルイ王の座の思はれて心かなしき向日葵の花
みづからを罵らせまし秋風に忘れはてよと罵らせまし
朝顔は踊の所作に似る手挙げ江戸紫を藍がちに咲く
真白なる朝顔の花うちふるふ夕立まへの夏の風かな
朝顔や物のかげにも一つ咲くひるがほめきしはかなさをもて
ニコライのドオムの見ゆる小二階の欄干の下の朝がほの花
わが子等も弟の子も朝顔を持ちて走せ来ぬふと分きがたし
朝顔や紙人形にうち混ぜて刑されしごと置かれたるかな
鳴く蝉ははやく夜明の桐に来ぬ朝顔の花いたいたしけれ
われ泣かる野分の朝のしら雲のあわただしきを上になしつつ
真白なる小兎ほどの石となりまろぶ風あり秋の日の原
わが当つる熨斗の匂ひうらがなし桐の葉いたく庭に溜る日
夜の草闇になびけりこの頃のわが髪ほどの心ぼそさに
秋の日に白を着るなる物好きも今年かぎりになさんとぞ思ふ
橋の脚見えてあたりに風立てる堤の岸の底にわれ居ぬ
皐月来ぬ黒き木彫の仏にも身に沁むことをささやきなまし
みづからを四月尽きたる春のごと美くしくはたかなしくぞ見る
夜明くればたんぽぽの野にきはやかに燕飛びかひ山に雨降る
山蕗の葉の大きさに降る雨ありとうつらうつらに思ふあけがた
さくら散りなぎさの砂のここちするたそがれの庭うすき月光
秋風や白き小舟に唯だ一人ありてただよふここちこそすれ
あかあかと夕映ひかり鴨啼きぬもの恨めしき人は野に立つ
黒き鉢うすむらさきの円き瓶青き杯ならぶ秋の日
表面なるこころ底なるわが心やうやく同じ色となりゆく
秋来れば恋も生命も水色の光の絹となりてはためく
雨残る黄金のしづくの雨残るこのたそがれの秋の世界に
うき恋に漸く馴れし身のごとし九月の末の寝覚のこころ
君呼びて見よと云ひけり何となく二人泣きたき雲の出づれば
かなしくも戦はざれは生きがたし男は仇と我は心と
自らをいともどかしき心ぞと人恨む時泣かれぬるかな
八月や機機虫の羽のいろしたる空より朝の風吹く
白がちの縞の袷を着たる秋水色の帯したる秋かな
自らに染みつきしごと思ふかな四五日まへの鈍色の雲
秋の宵階上に居て思ふこと庭を歩みてうち思ふこと
子に向ひかやつり草をともに裂くあぢきなきこと少し思ひて
木の実など間に置きて君とある夜など楽しや十一月は
わが船の南の島にかかり居し日などの恋し欝金の銀杏
恋人は誰れぞ心に何思ふかくものを問ふ秋の夕かぜ
かにかくに人と異るみづからをおもむくままに行き通らしめ
恋と云ふ美くしきもの見る心漸くたゆし何に行かまし
秋の昼甘しと身さへ慄ふべき木の実の欲しとふと思ふかな
秋風を思ふままにもなす如き水道橋の旗ふり男
みづからの君を思へる心見えしかもそぞろに涙くだりぬ
かたはらに居て君思ふこのことのめでたげにして時にさびしき
静かなる夕の空をかきみだし走るは何ぞおのれのこころ
初冬の水にわが手をひたすこと恋のここちにうれし冷し
さふらんが露にまろがりくれなゐの蕋しどけなく物を思へり
小鳥きて少女のやうに身を洗ふ木かげの秋の水だまりかな
十二月心細さのやや癒えて思へることの更に冷たし
身のほとり唯過ぎて行く風などもしたはしとする若き心よ
旅せんと人の語ると男をば捨てんと云ふと胸に沁むかな
二もとの裸銀杏を前にして火を焚くうへの冬の日の雲
街の上銀ねずみなる皺よりぬ雪雲ひくくはへる夕ぐれ
湯わかしは獣が水を渡る音かたはらに立て淋しき夜明く
行きあへる人の肩にもうす青き冬の顔見ゆはたあぢきなし
春立ちぬ夢多き身はこの日より髪に薔薇の油をぞ塗る
春の雲赤くたなびく津の国の四天王寺の塔の上より
初春は恋しき人と歌うたへ遊べと紅き氈の敷きにきぬ
初春のうら白の葉やかけなまし少し恨みのまじる心に
うつくしき白馬附けたる車来て出よとさそひぬ春のはじめに
手に触れて嬉しかりけり正月の緋繻子の帯の清さ冷たさ
紅と白毬の糸をばまさぐればほのかに聞ゆ春の足音
青柳とみどりの草を夢みつつ雲の歩める初春の空
渓川にあふるる水の匂ひして山の恋しきしら梅の花
わたつみの波の上より渡りきぬ黄金の翅の元朝の風
梅の花白き塔など描きながら散ること少しあわただしけれ
一人居て幽暗の世の鬼かとも身の思はれぬしら梅の花
わたつみの死の島の風通ひ来てちり行くごとししら梅の花
別るる日漸く近し夜の国ひかりなき日にわが世近づく
哀れなる一人となりぬ君は今空を行くらん地に遊ぶらん
老いぬらん去年一昨年の唯ごとのそのなつかしさ極りもなし
君ゆゑに昨日と今日のわが心あまり顕はに色変へしかな
われこそは世を寒しなど云ふべき日あらんとかけて思はざりけれ
ことのさま靄立ち霧のへだて居るそれにはあらず既に君なし
われのある辺の光うするるを知り初めしかな飛行しつつも
かばかりはかの妬き子も持つならんかく軽んじぬ思ひ出ごとを
醜くも日のくれ行くとふためくにひとしきことをなす如しわれ
夢と醒めことひるがへしそのかみの二人にすべき幻術もなし
わが上に鼠の色の雪ちると思ふがうちに埋まれはてぬ
一人われ君と眺めし世界より幾億万里遠に来ぬらん
初恋といやはての恋その中にわが影すこしほのめきぬべし
ことごとくわが衰へにもとづくと云ふことわりは隠されて居よ
わたつみに身投ぐることもふさはざるはかなさなれば砂に埋れん
日のくれは君の恋しやなつかしや息ふさがるるここちこそすれ
心よりこのことにより老いせじと云ふなぐさめを唯一つ聞く
潤ふと身に近きもの知りし時まことは深き水底にきぬ
誰そ此処に横はれるはあはれ誰そ死をうべなはず人を恋ふるは
何等かに答ふるごとく病み初めて泣く日の多くなりにけるかな
わが閨を鼠の走る音ききて身の棄てられしはてと思ひぬ
くらき穴明るき天もわれを待つものと思はじ君にかへらん
注がれたる薬の上をゆききするわが白き息水鳥に似ぬ
老も見ず忘れられたるはてとなく死ぬるめでたき身にこそありけれ
午後三時謎を思ふと目を開けぬ涙したまふ人のかたはら
淋しともはた悲しとも云はずなり病の床を世ぞと思へる
わが胸へ霧のごとくに入りきたり仄かに匂ふ死の後のこと
木も花も水も見えざりいろいろの顔のみ見する病める身の夢
生くと云ふめでたきことと死ぬと云ふいみじきことと何れ取らまし
行くべき日行くべき道と云ふごとき唯だの言葉も身に沁む病めば
大空のうす黄の雲となりて散ることを宜しと定めかねつも
われ病めり白蝋のごといと重く白き涙のちる枕かな
暗くなりましろく広くなるものか病める身置けるうつつまぼろし
たはぶれに病める身かともかろやかにうち思はれて君を見る時
病てふ冬を過ぐさん春の日よ花さく夏よわれを忘るな
頭には草など生ひやいでつらん病める女はやるせなきかな
涙みな五彩の玉となりぬなり悲みもよし熱の上れば
身の滅び君のほろびん日の近しかく惑はずて思ふさびしさ
自らの昨日も今日も一昨日も羨しけれ後にくらべて
たをやめの死と恋人の死の姿それらを描く絵師胸に来ぬ
鶏の悲鳴夜明の初冬の風の中には死なじ日のぼれ
初恋の日に今日つづくここちしぬ命危くなりし頃より
涙おつ暁なるや夜なるや柩にあるや知らねどもわれ
病める目に身の滅びよと祈りこし妬みの姿見えて悲しき
死もよけん君が腕と目にすべき花ある園をもたらましかば
死の手こそわが思ふごと寒からずやはらかにして君に似るべき
わがうへに神の御代より天地にありつる愁ことごとぞ寄る
寝れば見ぬわがなきがらを踏み越えてよその世界にいたる夢など
熱病めば雲に入り行く身のごとしあはれかくして幾日へぬらん
身の癒えば裸になりし冬木ども撫でてややらん抱きややらまし
君の手にとざされたりし死の門のあな少し開くいかにしてまし
指をもてまさぐり寄せしくろ髪も見るがかなしや身の病めるため
みづからの灰より更に飛び出づる不死鳥などを引かまほしけれ
薄赤き梅を目にして想ふなり或夜の壁の炉の反射など
ゆくすゑを語らまほしき思ひのみ力となりて満つる朝かな
目見開きはた混沌と目をとぢて融け合はんため恋をこそすれ


(底本奥付)
定本与謝野晶子全集
第三巻 歌集三
昭和五十五年六月十日 第一刷発行
定価  二千九百円
著者  与謝野晶子
発行者 野間省一
発行所 株式会社講談社
    東京都文京区音羽二−一二−二一
    郵便番号一一二 振替 東京八−三九三〇
    電話東京(〇三)九四五−一一一一(大代表)
組版  株式会社熊谷印刷
印刷所 多田印刷株式会社
製本所 大製株式会社