太平記
- 巻 第一
- 後醍醐天皇御治世の事附武家繁昌の事
神武天皇から九十五代目の帝、後醍醐天皇の御代に相模守平高時といふ武士がゐた。此人の時代から天下は乱れに乱れて、戦争の続くこと四十年にも余り、其間に一人の長生きをする者もなく、人々は皆身の置き所もない有様であつた。事の起りを原(たづ)ねると、それは元暦年間に後白河天皇が鎌倉の右大将源頼朝を、平家討滅の功によつて、六十六箇国(一)の総追捕使(二)に補任せられた事に始まつてゐる。これ以来武家が追々と勢力を得て、天下の実権を握るやうになつた。源氏は僅かに三代で滅びたが、頼朝の舅にあたる遠江守平時政の子孫が其後を引き請け、時政の子の義時の時から其勢力が愈々盛んになつて来た。そこで時の太上天皇(三)であらせられた後鳥羽院は、此義時を亡ぼさうとせられ、遂に承久の乱となつたが、不幸にも官軍は敗北し、畏れ多くも後鳥羽院は隠岐の国へ遷幸せさせ給うたので、義時は遂に天下を己が掌中に収めてしまつた。
其後、泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時と、七代の間武家政治が続いたが、其徳望はよく人民を撫し、権勢に驕らず、謙譲で、仁恩を施し、礼儀を正しくする等の善政を行つて、鎌倉幕府の基礎を固めた。承久の乱後は、皇太子或は摂政家等の中から、治世安民にすぐれてゐられる貴族を一人鎌倉に御下りを願つて征夷将軍(四)と仰ぎ、一同は礼を厚くして之に御仕へ申したり、又京都に両六波羅、鎮西に探題を置いたり、内治外防に意を用ひた為め、天下の人々は皆其権勢に服従してゐた。
所が時政より九代目の高時に至つて、暴政を行つて人民を疲弊せしめ、権勢に驕つて遊惰の限りをつくし、見る人聞く人皆眉を顰め、悪口を云はぬ者はないといふ有様であつた。此時の帝、後醍醐天皇は御年三十一の時御位に即かせられ、御在位の間三綱五常(五)の道を正し、一切の政を忽かせになされず御精励遊ばされたので、天下の万民は皆御高徳に悦服した。凡て諸道の廃れたものは興し、一善事をも嘗めさせられた為め、神社寺院は繁昌し、仏道儒道の大学者達も其望みを達する事が出来た。誠に又となき聖主、明君であられると、御徳化を称へ奉らぬ者がない有様であつた。
- 関所停止の事
各地の関所は、元来国の禁制を知らしめ、非常の時に備へる為めであつたが、今では通行の旅人から税金を取り立てゝ通商の妨げをなし、年貢運送に煩ひがあるといふので、後醍醐天皇は大津、葛葉の二筒所以外は関所をやめられた。
又元亨元年の夏に大旱魃があり、畿内畿外とも土地は赤焼(あかやけ)となり、田には一もとの青苗もなく、餓死する者が相尋ぐ有様であつた。天皇はこれを聞召されて、「朕が不徳ならば朕一人を罪せよ。何の咎があつて人民は斯る災ひに遭ふのか。」とおつしやられ、御自身で御朝食をやめられ、飢ゑ苦んでゐる者に施しをされたが、それでも尚万民の飢ゑは救へないと、検非違使(六)の別当に仰せて、裕福な者の蓄へてゐる米を売らせたりせられた。その為め商賈は互に利益を得て、人々は皆多くの蓄へがあるやうになつた。
又訴訟人の出た時に、下々の有様が御自身に通じない事があつてはと、天皇み親ら記録所へ出御あらせられ、直々に訴へをお聞きになり、理非を決断されたので、国内の訴へは直ちになくなり、刑鞭(七)は朽ち、諌鼓(八)を撃つ人もなかつた。誠に治世安民の政治にたけさせられた、立派な明君と称へ申すべきである。
- 立石の事附三位殿御局の事
文保二年八月三日に後の西園寺太政大臣実兼公の御娘藤原禧子が后妃の御位につかれた。此家から女御(九)を立てられた事は既に五代で、一家の繁昌は天下の人々を驚かした。
此方は御歳十六で宮殿に上られたが、桃の花が春の陽になまめくやうな御顔、しだれ柳が風になぶられるやうな御姿、東西古今に比類のない絶世の美人であられた故、定めて天皇の御寵愛も深からうと思はれたが、其御情は木の葉よりも薄く、一生をお側近くへ参る事もなく、宮殿の奥深くに明け暮れ恨み欺いてゐられた。
その頃安野中将公廉の娘で三位の局といふ女房(一〇)が中宮(一一)にゐた。天皇は其方を一目御覧になられてから他に比べる者もない程の御寵愛ぶりで、直ちに准后(一二)の勅をお下しになられた。
- 儲王の御事
天皇には次々と宮が御誕生になり、十六人もあられた。中でも第一の宮尊良親王は、御子左大納言為世卿の娘為子の御腹であられたが、吉田内大臣定房公が御育て申したから十五の御歳から和歌の道にすぐれてゐられた。第二の宮も同じ腹からお産まれになり、幼時から妙法院といふ寺に入(はい)られて仏教を学ばれた。仏道に励まれる傍和歌の道をも修められ、風雅にも長じてゐられた。第三の宮は、民部卿三位殿の御腹で、御幼少から賢くいらせられたから、天皇は御位を此方に御譲りにならうと考へられたが、御治世の事は、後嵯峨院の御代から大覚寺殿(一三)と持明院殿(一四)とが代る代る遊ばされる事に定められた為め、今度の皇太子は持明院殿の方を御立て申した。国事は一切北條氏の計らひで定められ、天皇の御考へ通りにはならなかつたから、此宮は御元服の儀を改められ、梨本の寺に入(はい)つて承鎮親王の御弟子となられたが、一を聞いて十を知る程のすぐれた御性質であられた故、天台宗の奥義を究め、深くその教を会得遊ばされた。そこで衰へかけた天台宗を興し、絶え/゛\となつてゐる仏教の命脉をつなぐは此御門主の時だと、一山の僧徒は合掌して仰ぎ奉つた。第四の宮も同じ腹であられたが、此方は聖護院二品親王の御弟子であつたから、三井寺で仏教をお学びになられた。此外多くの皇子が皆立派な方々であり、皇室の御固めは愈々確かで、王業再興の御運の開ける時機が来たやうに見受けられた。
- 中宮御産御祈りの事附俊基偽つて籠居の事
元享二年の春頃から、中宮(一五)禧子の御懐妊の御祈りだと云つて、諸所の寺々から名高い僧達を呼んで秘法を行はせられたが、翌元享三年まで一向御産の御様子は拝されなかつた。これは中宮の御産にことよせて北條氏を滅す為めの呪ひのお祈りであつたといふことである。
かほどの重大事を思ひ立たれたのであるから、臣下の意見をも一わたり聞きたく思召されたが、若し北條氏の方へ謀が漏れてはとの御心配から、有徳深慮の老臣にも側近の侍者達にもお話しにはならなかつた。唯だ日野中納言資朝、蔵人右少弁俊基、四條中納言隆資、尹大納言師賢、平宰相成輔だけに内々御相談があり、相当数の兵士をお集めになつた所、錦織の判官代足助次郎重成、奈良及び叡山の僧侶達が少しばかり詔に應じて来た。
俊基は家代々の儒学を継ぎ、其の才智学問は人に優れてゐた為め、抜擢せられて弁官(一六)に列し、蔵人(一七)をつとめてゐた。所が御用が多くて、謀をめぐらす暇がないので、何とかして暫くの間籠居し、心ゆくばかり謀叛の計略を進めたいものだと考へてゐた所、比叡山横川の僧侶が願書を奉つて宮中へ訴へ事をした。俊基は其願書を披いて読んだが、わざと読み誤つた風を装ひ、楞厳院を慢厳院と読み上げたので、一座の公卿達は目を見合せ、手を叩いて笑つた。俊基は顔を赤くして、恥入つた様子で退出した。それ以来恥をかいたから籠居をすると言ひ触らして、半年ほど勤めに出ず、山伏の姿に身をやつして大和や河内の国に行き、城となりさうな所を見定め、又東国西国にも行き、其国々の人気、風土や武士の様子等を内々調べた。
- 無礼講の事附玄慧文談の事
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美濃の国の住人に土岐伯耆十郎頼員、多治見四郎次郎国長といふ者があつた。二人共清和源氏の流れを汲み、武勇の評判が高かつたから、日野資朝卿は色々の縁故をたどつて彼等に近づき、友達としての交りも深くなつてはゐたが、北條氏を滅ぼさうといふ一大密謀を容易に知らせるのは考へ物だ、猶よく其心を探つてみようと、無礼講といふものを作つた。それに入つた人々は、尹大納言師賢、四條中納言隆資、洞院左衛門督実世、蔵人右少弁俊基、伊達三位房游雅、聖護院庁の法眼玄基、足助次郎重成、多治見四郎次郎国長などである。其集會遊宴の有様は見聞きする者を驚かした。身分の上下なしに酒を酌み交はし、男は烏帽子を脱ぎ髷を切つて散髪とし、法師は法衣をつけずに白衣となり、年頃十七八の顔、姿の美くしい、特に皮膚のすべ/\した二十人余りの女に、生絹の単物だけを着せて酌をさせたから、雪のやうな白い肌が透き通つて見え、丁度大液池の水面に莟を破りたての蓮の花のやうであつた。料理は山海の珍味を尽く集め、旨い酒を泉のやうに湛へて遊び、戯れ、舞ひ、歌つた。そして其遊びの間々に、北條氏を滅ぼす計略が廻らされた。
目的のない、理由の立たぬ、こんな集會を何時も開いてゐては人が怪み咎めるであらうと、文学談にことよせる為め其頃才智学問に於ては並ぶ者がないといふ評判の学者玄慧法印を招き、『昌黎文集』の講義を行はせた。玄慧法印は謀叛の企てとは夢にも知らず、会合の日毎に會場へ来て深淵な学を説き、道理を明して行つた。此『昌黎文集(一八)』の中に『昌黎潮州に赴く』といふ長篇があるが、此処まで来ると講義を聞いてゐた人々は「これ(一九)は縁起の悪い書物であつた。呉子、孫子、六韜三略などが、今日に必要な書物だ」と云つて、『昌黎文集』の講義を止めてしまつた。
- 頼員回忠の事
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これら謀叛人の仲間である土岐左近蔵人頼員は、六波羅の奉行である齋藤太郎左衛門利行の娘を娶つて深く愛してゐたが、其妻に心をひかれて謀叛の事を打明けた。妻は驚いてそれを父の齋藤利行に知らした為め、計画は一切北條方に漏れてしまつた。六波羅では直ちに軍勢を集め、他の事に云ひふらして油断せしめ、元徳元年九月十九日の未明に、小串三郎左衛門尉範行、山本九郎時綱の二人を討手の大将として、三千余騎の軍勢を二手に分け、多治見国長、土岐頼員の宿所へ討ち寄せた。
時綱は態と大勢の兵を三条河原に止め、召使の者二人に長刀を持たせ、己れ唯一人で土岐の宿所に忍び入り、客殿の奥の間をさつと引きあけると、土岐十郎は今起き上つた所と見え、髪を結つてゐたが、山本九郎を鋭く睨み、「心得た」と云ひさま、立てかけてあつた太刀を取り、側の唐紙を蹴破つて客殿の方へ跳り出で、天井に太刀を打ち当てないやう横払ひに切りつけた。時網はわざと敵を広庭へ誘ひ出し、隙があつたら生捕らうと、相手の太刀を打ち払つては退き、受け流しては飛びのき、人を交へず戦ひつつ、後方をふり返り見ると、後詰の軍勢二千余騎は一度にどつと鬨の声を上げ、第二の門から乱れ入つて来た。土岐十郎は長く戦つては却つて生捕られると思つたか、元の寝間へ走り帰り、腹十文字にかき切つて、頭を北に伏し倒れた。中の間に寝てゐた若武者連も思ひ思ひに討死をして逃げ出す者は一人もなかつた。山本九郎は土岐十郎の首を取り、太刀先に突き通し、六波羅をさして馳せつけた。
多治見の宿所へは小串三郎左衛門範行を真先に三千余騎で押し寄せた。多治見は夜通し酒を飲んで酔ひつぶれ、前後も知らずに寝てゐたが、鬨の声に驚いて目を覚し、こりや何事だと騒ぎ廻つた。
小笠原孫六は太刀だけ持つて中門まで走り出で、あたりを見廻すと、土塀の上から車の輪のついた旗が一本見えてゐた。孫六は内へ飛び込んで、
「六波羅から討手の軍勢がやつてきた。此間の御謀叛が早くも露顕いたしたと見えまする。さあ各々方、太刀の続く限り切り合つて腹を切られよ。」
と、大声に叫び立て腹巻(二〇)をとつて急いでひつかけ、二十四本差したる胡●(「たけかんむり」+「禄」)(二一)と重籐(二二)の弓を提げて、門の上の櫓にかけ上り、中差(二三)の尖矢をとつてつがへ、櫓の窓板を一ぱいに開いて、
「まあ、何たる仰山な軍勢だ。拙者の手並を見せてやらう。一体討手の大将は何奴だ。近づいて矢を一本うけてみられい。」
と云ひさま、十二束三伏(二四)の大矢をカ一ぱい引きしぼつて打ちはなし、真先に進んできた狩野下野前司の若侍、衣摺助房の兜の真正面を鉢附(二五)の板まで射通して、馬から倒(さかさま)に射落した。
多治見を始め一族の者、若武者ら、二十余人は、甲冑にしつかりと身を堅め、大庭に跳りだして、門の閂(かんぬき)をさして待つてゐた。寄手の先陣五百余人は、皆馬から下り、徒歩となつて鬨の声を上げつつ庭へ乱れ入つてきた。庭にたてこもつてゐる兵士達はどうせ逃げられないと決死の覚悟をしてゐるから、一歩も後へは退かない。大勢の敵の中へ乱れ入つてわき目もふらず切りまくつたので、先駆けの寄手の軍勢五百余人は散々に切り立てられ、門の外へどつと逃げだした。けれども寄手は大勢故、先陣の者が退くと、二陣の者がわつとかけ込む。かけ込めば追ひ出し、追ひ出せば又新手がかけ込み、朝の八時から正午頃まで火の出るやうに烈しく戦つた。かく表門の軍勢が強くて打ち破れない為め、佐々木判官の手下千余人は後へ廻つて錦小路から近在の民家を打ち壊して乱れ入つた。多治見はこれを見て、もはや終りであると思ひ定めたのであらう、二十二人の人々と中門に並び、互にさし違へて算木を倒したやうに死に果てた。
表門の寄手の者が門を破つてゐる間に、裏門の軍勢が乱れ入つて皆の首を取り、六波羅へと馳せ帰つて行つた。四時間ほどの合戦の間に、傷ついた者、死んだ者が、合せて二百七十三人もあつた。
- 資朝俊基関東下向の事附御告文の事
土岐、多治見が討たれて後、天皇の御謀叛が段々露はれて来たので、鎌倉の使者長崎四郎左衛門泰光、南條次郎左衛門宗直の二人が上京して、五月十日に資朝、俊基の両人を召捕つた。土岐が討たれた時は、生捕りになつた者は一人もなかつたから白状する者はまさかあるまい、それにつけても自分らの謀叛の事はあらはれないだらうと、たよりない事を頼みとして油断し、一向何の用意もしてなかつたので、妻子らは東西に逃げ廻つても身を隠す処がなく、財産宝物は道に引き出され、馬の足に蹴散らされてしまつた。
五月二十七日に鎌倉の使者両人は資朝、俊基を引連れて鎌倉へ下り着いた。これらの二人は謀叛の首魁だから、直ぐ殺されるだらうと思ひの外、二人共朝廷の重臣であり、且つ才智学問もすぐれてゐたので、北條方では世間の悪口や天皇の御怒りを心配し、拷問にもかけず、唯だ普通の罪人と同じやうに取扱つて、侍所(二六)へ預けて置いた。
七月七日は七夕祭を行ふ夜であるが、世の中が騒がしい折なので、詩歌を唄ふ文人も、音楽をかなでる楽人もない。丁度御殿の宿直にあたつてゐた公卿達も、気味の悪い世の中の有様を見て、何時自分らの身の上に変りが起らないものでもないと、憂ひ怖れてゐた折なので、皆心配げに思ひ沈み、首垂れて侍つてゐた。ひどく夜が更けてから、天皇が、「誰れかをらぬか。」とお呼びになられたので、「吉田中納言冬房が居ります。」と御前に参ると、天皇は冬房をお側近く召されて「資朝、俊基が捕へられた後も、鎌倉は尚静まらず、都は常に危険にさらされてゐる。この上又どんな事をされるかわからないと思ふと心配でならぬ。何とかして第一に鎌倉方をおだやかにさす工夫はあるまいか。」
と、お問ひになられたので、冬房は畏まつて、
「資朝、俊基の二人共、白状したといふ事を聞きませんから、武臣達もこれ以上は何もすまいと存じますが、近頃の鎌倉方は、軽はずみな行ひが多うござります故、決して御油断はなりません。何よりも告文(二七)を一枚鎌倉へお下しになつて、高時の怒りを静めさせられては如何でございませう。」
と申し上げた所、天皇ももつともな事だと思召されたのか、「では冬房、お前すぐ書け。」と仰せられた。そこで冬房は御前で下書きをして、それを御覧に入れた。天皇は暫く御覧になつてゐられたが、御涙がはら/\と其告文の上にこぼれたので、御袖でそれをお拭ひになられた。御前に侍つてゐた老臣達も、皆悲嘆の涙にくれた。
やがて万里小路大納言宣房卿を勅使として、此告文を鎌倉へお下しになられた。北條高時は秋田城介に云ひつけて告文を受け取り、披いて見ようとしたのを二階堂出羽入道道蘊が強く諫めて申すには、
「天皇が武臣に向つて直接に告文をお下しになられた事は、外国にも我国にもまだ其例がございません。若し不用意に御覧になられたならば、必ず神仏のたたりがございませう。文箱を開かないで、そのまま勅使にお返しなさるがよい。」
と再三申したのを、高時は、「何のかまふことがあるものか。」と云つて、斎藤太郎左衛門利行に読ませた。所が「わが心に偽りのない事は天つ神が御存知だ。」と記(しる)された所まで読み進むと、利行は急に目まひを起し、鼻血が出た為め、読み終らないで引き退つた。其日から利行は喉の下に悪性の腫物が出て、七日の後には血を吐いて死んでしまつた。軽薄な末世とはいへ、人道は地に堕ちたとはいへ、君臣上下の礼にそむく時は、立所に神仏の罰が当ると、此事を聞き伝へた人々で、おぢ恐れない者は一人もなかつた。
高時もさすがに天つ神の御心を恐れたのか、「御治世の事は朝廷の御相談に御任せ申してある以上、武家で何かと御干渉申し上ぐべきではございません。」とお答へして、告文をお返し申した。宣房公は直ぐ都に帰り、此事を申し上げた所、天皇は始めて御顔色をやはらげられ、多くの臣下達も亦安堵の色をあらはした。
やがて俊基は微罪として放免され、資朝は死罪のところ一等を減じて、佐渡の国へ流される事になつた。
註
(一)日本全国。
(二)犯人の追捕検断等を司る役。
(三)天皇が御位を下られた後の御称号。
(四)四夷を征伐する大将軍。
(五)三綱は君臣、父子、夫婦の道。五常は仁義礼智信。
(六)非違を検断する官吏、別当は其長官。
(七)罪人を打つ鞭。
(八)君を諫めんとする者の打つ鼓。
(九)三位以上の女官。
(一〇)女官。
(一一)皇后の御所。
(一二)太皇太后、皇太后、皇后の三宮に准じた待遇を受ける者。
(一三)亀山上皇の御血筋の方。
(一四)後深草上皇の御血筋の方。
(一五)皇后と同資格の皇妃。
(一六)太政官の判官。
(一七)天皇に供奉して、宮中に於ける一切の事を司る役。
(一八)韓昌黎即ち韓退之の文集。
(一九)韓昌黎が天子に諌言を申し上げた罪で潮州へ流され、雪のふろ山路に道を見失つて悲んでゐる時、かつて此事を予知せしめようとした甥の韓湘が現はれ、昌黎は其甥の手をとつて、二度とお前に会ふこともあるまいと悲みつつ詩を作つて渡し、泣く/\西東に別れたといふ事が書いてあるので、それを縁起が悪いと云つたのである。
(二〇)前から巻いて背で合せる無袖の鎧。
(二一)矢を盛つて背に負ふ具。
(二二)黒塗の下地に籐を幾箇所にも巻いた弓。
(二三)箙にさした上差以外の矢。上差には鏑矢をさし、中差には尖矢をさす。
(二四)矢の長さを計る詞で、片手一握が一束で、指一本の幅が一伏である。
(二五)兜の鉢に附いてゐる錏(しころ)の第一枚の板。
(二六)兵刑を掌る役所。
(二七)天皇が臣下に告げられる文。
- 巻 第二
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- 南都北嶺行幸の事
元徳二年三月八日に天皇は東大寺、興福寺に行幸あらせられ、又同月二十七日には比叡山へ行幸遊ばされた。
元亨以後、武家の勢力強く、廷臣は辱められ、天皇は御憂鬱の生活を続けさせられ、天下には不安の空気が漂つてゐた。さうした時にこそ行幸の御機会は多かつたらうに、今日の場合、奈良や比叡山への行幸は、一体どのやうな御願(ごぐわん)があつてかと、探つて見ると、近頃北條高時の行ひが常規を逸して、不義、無道に陥つたのみならず、武臣は鎌倉の命令にこそ従へ、天皇からお召しを蒙つても応じようとしない。そこで比叡山と奈良の僧侶達を味方につけて、鎌倉方を征伐されようとする御謀叛だと申す事であつた。大塔宮二品親王は当時の貫主(一)であられたが、其為めに修行や学問は打ち捨てゝ、朝夕武芸の御錬磨に余念がなかつた。元来武術がお好きであつた故(せゐ)もあらうが、早業、打物の秘術奥義をきはめられた。最初の天台座主(二)義真和尚以来百代余りの間、こんな不思議な門主(三)は一人もゐられなかつたが、これも鎌倉方を征伐する為めの御修練であつたと、後では思ひ合はされた。
- 僧徒六波羅へ召捕の事附為明詠歌の事
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大塔宮の御行動や、宮中での北条氏の呪詛やが、すべて鎌倉方へ知れわたつた為め、北条高時は大に怒り、
「この天皇が御位にゐらせられる間は、天下は静まるまい。承久の乱の例に習つて天皇を遠国へお遷し申し、大塔宮を死罪に処し奉らねばならぬ。それには先づ、天皇の側近に奉仕して北條家を呪ふ祈りをしてゐる法勝寺の円観上人、小野の文観僧正、南都の知教、教円、浄土寺の忠円僧正を召捕つて、精しく聞き糺すがよい。」
と考へ、二階堂下野判官と長井遠江守との二人を鎌倉から京都へ上らせ、五月十一日の明方に法勝寺の円観上人、小野の文観僧正、浄土寺の忠円僧正の三人を六波羅へ召捕つた。それのみでなく奈良の知教、教円の二人も、呼び出されて六波羅へ出頭した。
又二條の中将為明卿は歌道の達人で、月の夜雪の朝に行はれる褒貶(四)の歌合の御會に常に召されてゐたので、別に疑はしい人物ではないが、天皇の御心をさぐらうとする目的で召捕り、残虐きはまる火炙りの拷問にかけようとした。為明卿はそれを見て、「硯はないか。」と問はれたので、白状する為めかと思つて、硯に紙を添へてさし出したら、白状ではなくて、すら/\と一首の歌を書きつけた。
思ひきやわが敷島の道ならで
うき世のことを問はるべしとは
(歌意──思ひがけないことだ、自分の知つてゐる歌道の事ではなく、何も知らないうき世の事を聞かれようとは。)
常葉駿河守は此歌を見て感じ入り、涙を流して其尤もな道理に服した。鎌倉の二人の使者も之を読んで、共に涙で袖をぬらした。これが為め為明卿は拷問の責苦を免れて、青天白日の身となつた。
- 三人の僧徒関東下向の事
六月八日に鎌倉の使者は忠円僧正、文観僧正、円観上人の三人を護つて鎌倉へ下つた。
円観上人には、宗印、円照、道勝といつて、何時も影のやうにお側についてゐた三人の弟子がつき随ひ、輿の前後についてゐた。文観僧正と忠円僧正とには従者が一人もなく、伝馬(五)に乗せられ、見慣れない武士に取り囲まれて、夜の中に関東への旅に出られた、其心中は誠に哀れだ。鎌倉へ着く前、途中で殺されるだらうといふ噂があつたから、行きつく宿毎に今を限りの身と思ひ、休らふ山の峠毎に之が最後かとなげき、はかない命のまだある間から心は既に消え入つてゐた。昨日も過ぎ、今日も暮れて、急ぐ旅ではなかつたが、行き行く中に日数が積つて、六月二十四日に鎌倉へ着いた。
三人はそれぞれ拷問にかけられた。文観僧正は却々白状されなかつたが、度重なる水責めに身も疲れ心も弱つてか、勅命で北條氏を呪ふ祈りをした事を白状せられた。其次に、忠円僧正を拷問しようとした所、此人は生れつき臆病で、まだ責めない先に、天皇が比叡山の僧侶を誘つて味方とせられた事、大塔官の御行動、俊基の陰謀、等々、ありもしない事までも一切白状してしまつた。又円観上人をも拷問しようとしたが、色々不思議な現れがあつた為め、これは普通(ただ)の人ではないと、それを取り止める事にした。
七月十三日には三人の僧達の遠流(六)の場所が定まり、文観僧正は硫黄が島へ、忠円僧正は越後の国へ流された。円観上人だけは遠流一等を滅ぜられて、結城上野入道に預けられる事になり、結城の居国である奥州に向つて、長い旅路をさすらひ行かれた。
- 俊基朝臣再び関東下向の事
俊基朝臣は先年召捕られた時には、色々と申し開きして赦されたが、今度再び僧達の白状によつて召捕られ、鎌倉へ送られる事になつた。自分では途中で殺されるか、鎌倉で斬られるか、二つの中の一つと決心して出かけられた。
雪かと見紛ふ落花に路を踏み迷ふ春の交野の桜狩や、紅葉の錦を身につけて帰り行く嵐山の秋の暮に、たゞ一夜を明すのさへ、旅寝といへば物憂いものであるのに、恩愛の契り浅からぬ妻や子供を、どう成り行くか末の事は分らぬままに故郷に残し置き、長年住み馴れた都も今日が見をさめと、振返り/\思ひがけない旅に出られる心の中は哀れの限りである。
逢坂の関へかかつたが、関といふのは名ばかりで、わが心にわだかまる此憂さをとどめてはくれぬばかりか、滴る清水に袖がぬれて、涙ながらに山路を過ぐれば打出の浜、浜に出て琵琶湖の沖を遙かに見渡すと、水上に浮き沈みする浮舟の如き我身の今の有様が思ひ合される。馬もとどろに踏みならす勢多の長橋を渡り、行き交ふ人に近江路を過ぎて、世をうねの野(七)に鳴く鶴の声を聞くと、子を思ふ親心に身がつまされて哀れである。時雨の森山(八)の木の下露に袖をぬらし、風に露散る篠原(九)の篠かき分けて道を行くと、行く手に鏡(一〇)の山は聳えてゐるが、涙で曇つてそれと見分けられない。物を思ふと一夜の中にも老蘇(一一)の森の下草に馬をとどめて、振返り見る故郷は雲に隔てられてゐる。番場、醒井、柏原を過ぎて、不破の関所へ来たが、荒れはてた関所を守(も)るのは秋の雨のみである。やがては我身の尾張の国へ入り、熱田神宮を伏し拝んで、折からの潮干に鳴海潟にかかると、西に傾く月明りに道がほのかに照し出されてゐる。日を重ねて行く道の、末は何処かと遠江(とほつあふみ)の国の、浜名の橋から見渡す夕べの海に、引く人もない捨小舟の如く、沈みはてた今の我身を、誰れが同情して哀れだなどと夕暮の鐘が鳴ると、今日は此処までと池田の宿に留まられた。元暦元年頃の事、重衡中将が囚へられて此宿へ着いた時、「東路の埴土生の小屋のいぶせきに故郷いかに恋しかるらむ」と長者の娘が詠んだといふ故事までも思出されて、俊基朝臣は涙をしぼられた。
旅館の燈の光がうすれ、鶏の声が暁を告げるとやがて出発。吹く風に勇む馬は噺きつつ天龍河を渡り、小夜の中山(一二)を越えて行くと、白雲が幾重にも立つて、何処が道ともわからぬ夕碁に、故郷の空を望み見るにつけ、昔西行法師が「命なりけり(一三)」と歌つて、二度も此山を越えた事を羨しく思はざるを得なかつた。
時間の経つのは早いもので、日は早や正午になつたから、食事をさし上げようとて輿を止めた。俊基卿は輿の長柄を叩いて警固の武士を呼び、宿の名を問はれたら、「菊川と申します」と答へた。菊川は承久の合戦に、院宜を書いた咎で関東へ召し下された光親卿が殺された処であるが、其時、
昔南陽県菊水(むかしなんやうけんのきくすゐ)。 汲下流而延齢(かりうをくんでよはひをのべ)。
今東海道菊河(いまとうかいだうのきくがは)。 宿西岸而終命(せいがんにやどつていのちををふ)。
と書かれた光親卿の故事を、今我身が繰返してゐることを悲しく思つて、俊基朝臣は一首の歌を宿の柱に書きつけられた。
いにしへもかかるためしをきく川の
おなじ流れに身をやしづめむ
(歌意──昔もあつたと聞いてゐる例の通り、此菊川に同じ運命の身を沈めるのか。)
大井河を過ぎる時、都にもある同名の川を思ひ出し、亀山殿(一四)の行幸や嵐山の花盛りなどに、龍頭鷁首の舟(一五)を泛べて、詩歌管絃の宴に侍つた事が、今はもう二度と見られぬ夢のやうに考へられた。島田、藤枝にかかつて、岡部(一六)の真葛のうら枯れた物悲しい夕暮に宇都の山を越えると、蔦や楓が茂り合つて道もないほどだ。昔、業平の中将が住家を求めて関東に下られ、「夢にも人に逢はぬなりけり(一七)」と此処で詠まれた心持もこんなであつたらうと思ひ合される。清見潟を通ると、せめて夢にでも都へ帰りたいと思つてゐるのに、其夢をさへ此処の波音は高くて結ばしてくれぬ。彼方に見えるのは三穂が崎、奥津、神原を過ぎて、富士の高嶺が眼に入ると、雪の中から立ち昇つてゐる煙が今の我身のはてしない物思ひと較べられ、晴れゆく霞に松の見える浮島が原を過ぎ行くと、潮干の浅瀬に船が浮いてゐる。甲斐々々しく立ち働いてゐる田子の浦を過ぎて、浮世はめぐる車返し(一八)を行き、竹の下(一九)を歩みなやみつつ足柄山にかかり、其頂から大磯小磯を見下して、袖にも波は小余綾(こゆるぎ)(二〇)の磯を過ぎ、別に急ぐ旅でもないが、日数重なつて七月二十六日の夕方に
鎌倉へ着かれた。
- 長崎新左衛門尉意見の事附阿新殿の事
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後醍醐天皇の御謀叛が露顕した後、御位は持明院殿の方へ来るであらうと、其侍臣達や年若い女房達までも悦び合つたが、そんな様子は更に見えなかつた。そこで色々申し進める者があつたからでもあらう、持明院殿から内々鎌倉へ御使を立てられ、
「後醍醐天皇の御謀叛の企ては、近頃一日を争ふ場合となつてゐる。武家の方で急ぎ方策を講じないと、天下はまもなく乱れるであらう。」
と仰せられたので、北條高時は一族の者及び評定衆を集めて、それについての各自の考へを述べさせた。一同が返事を躊躇してゐる間に、執事長崎入道の子、新左衛門尉高資が、「速かに後醍醐天皇を遠国へ御遷し申し、大塔官はお帰りになれぬやうな場所へお流し申し、俊基、資朝らの乱臣は殺してしまふより外に道がないと思ひます。」
と無遠慮に云つたのを、二階堂出羽入道道蘊(だううん)は暫く考へた後、
「武家が政をとつてから百六十年、代々富み栄えて、其威光が天下に行き渡つてゐるのは、偏へに上、天皇を仰ぎ奉つて忠義をつくし、下、百姓を労る仁政を行つて、心にすこしの私がなかつたからである。然るに天皇を遠国へ遷し奉り、大塔宮を流罪に行はれようとする。さやうの事は神の怒りを買ふのみならず、比叡山の僧侶達を憤らするに相違ない。神怒り人背かば、武家の運命はそこに尽きるであらう。君々たらずとも臣々たらざるべからずといふ事がある。たとへ天皇が御謀叛を思ひ立たれても、武家の威光が盛んであれば御身方申す者はあるまい。若し武家が益々慎んで勅命に従つたならば、天皇も御心を飜されぬ事はあるまい。かうして始めて国家は泰平となり、武家も亦た永く繁栄すると思ふ。」と云つた。之をきいて長崎新左衛門尉は大に怒り、
「文武の道は一つであるといつても、其取捨選択は時によつて異つてゐる。ぐづ/\してゐて武家追罰の宣旨(二一)を下されたなら後悔しても追ひつかぬ。今は一時も早く天皇を遠国へお遷し申し、大塔宮を硫黄が島へお流しして、資朝俊基を殺されるより外に方法はない。さうしてこそ始めて武家の安泰が後世までも続くと考へられまする。」
と伸び上つて云ひ立てたので、其場の者も皆之に賛意を表した。道蘊は押切つて再度の忠告をする勇気もなく、顔をしかめて出て行つた。
さて「天皇の御謀叛をおすすめ申したのは、源中納言具行、右少弁俊基、日野中納言資朝である。これらの人々は殺すべきである。」と相談が定まり、「先づ去年から佐渡国へ流されてゐる資朝卿を斬らう」と、佐渡国の守護本間山城入道に其命を下した。
此事が京都へ知れたから、資朝の子で、其頃は阿新殿(くまわかどの)といつて、歳が十三であつた国光の中納言は、「かうなつては何で命が惜からう、父と一所に斬られて冥途の旅のお供もし、又最後の御様子をも見とどけよう」と、心をきめて母に御暇を願つた。母も仕方なく、今まで唯だ一人附き添つてゐた召使を附けて、遥々佐渡国へ行かしめた。
やがて佐渡へ着いたが、誰れと云つて頼る人もないので、みづから本間の屋敷へ行つた所、本間も哀れに思つて丁寧にもてなしたが、今日明日の中に斬られる人に会はせては、却つて死に行く人の心残りとならうし、又鎌倉へ聞えもよくあるまいと、四五町離れた処に置いて、父子の対面を許さなかつた。それと聞いて、父子は各々悲歎の中に日を送つたが、五月二十九日の夜、遙々たづねて来た我子を一目見る事も許されずに、資朝卿は斬られてしまつた。
阿新は父の遺骨を一目見るなり、其場に倒れ伏し、
「生前に御対面が叶はず、今かうした白骨に御目にかかることは、誠に無念でございます」と声を立てて泣き悲んだ。
阿新はまだ幼なかつたが、心のしつかりした子であつたから、父の遺骨を召使に持せて、自分より先に都へ帰し、自分は病気だと云ひ立てて本間の屋敷にとどまつてゐた。これは情なくもこの世で父に会はさなかつた本間に恨みを晴らさうと考へたからである。かうして阿新は四五日の間昼間は病気の風を装つて終日寝てをり、夜になるとこつそりとぬけ出して、本間の寝間等を詳しく調べ、隙があつたら入道父子の中どちらかの一人をさし殺して腹を切らうと決心して覘つてゐた。
或夜雨風が烈しくて、宿直の家来達が皆遠侍(二二)で寝てゐるの見すまし、今夜こそは待つてゐたよい日であると、阿薪は本間の寝間をこつそり覗いて見た所、本間の運が強かつたのか、今夜は何時もと寝間を変へて、何処にゐるかわからなかつた。又二間(二三)の部屋に燈のついてゐるのが見えたので、もしや本間の子が寝てゐるのではなからうか、それでも討ち取つて恨みを晴さうと、忍び入つて見ると、其子も其処には居らず、父資朝を斬つた本間三郎といふ者が唯だ一人で寝てゐた。縦令小者でも親の敵だ、考へやうによつては山城入道と同じ事だと、走りかからうとしたが、自分は始めから太刀も刀も持つてはゐない、唯だ人の太刀を頼りとしてゐるのに、燈が赤々とついて居り、近寄れば驚いて起出すかも知れないから、容易くは近寄れない。どうしようかと考へあぐんで立つてゐたが、丁度夏の事で燈の彰を慕ふ蛾がたくさん障子にとまつてゐるのに気づき、さてさて善い機会だと、障子を少しあけたら、其蛾は続々中へ入り、間もなく燈を消してしまつた。かうなればもう大丈夫だと、阿新丸は喜んで、本間三郎の枕元に近寄つて探ると、太刀も刀も枕辺にあつて、本人はぐう/\寝入つてゐる。先づ刀を取つて腰にさし、太刀を抜いて胸元にさしつけ、寝てゐる者を殺すのは死人を殺すのも同じだから、驚かしてやらうと思ひ、足で枕をぱつと蹴とばした。蹴られて驚く処を最初の太刀で臍の上を畳まで透れとつきさし、返す太刀で喉笛を切り、落付いて後方の竹原の中へかくれた。本間三郎が最初の太刀で胸をつきさゝれた時、あつと云つた声に驚き騒いで、宿直の者が火を点して見ると、血のついた小さい足跡がついてゐた。「さては阿新殿のしわざ。堀の水は深いから、門より外へはまさかに出まい、さがし出して打ち殺せ」と云つて、手に手に松明をともし、木の下、草の蔭までも隈なく探した。阿新は竹原の中に隠れながら、今となつては何処へ逃げる事も出来ない。人に殺されるよりも自分で死なうと考へたが、既に憎いと思ふ親の敵を討ち終せたのだから、今は何とかして命を長らへ、天皇の御役にも立ち、又父の年来の志をも遂げさすのが忠臣孝子の道だ。若しかしたら助かるかも知れぬ、一応逃げのびて見ようと思ひ直して、堀を飛び越えようとしたが、口二丈、深さ一丈以上もある堀、とても越えられさうにもなかつた。ではこれを橋にして渡つてやらうと、堀の上に先の垂れてゐる呉竹へするすると登つたら、竹の梢が向岸へ垂れ下つて、楽々と堀が越えられた。
まだ夜更けであるのを幸、湊へ行つて船に乗らうと、たど/\海岸の方へ行く中、夜は段々に明けてきた。こつそり行くべき道もないので、身を隠さうと麻や蓬の茂り合つた中に隠れてゐた所、追手と思はれる者達の百四五十騎が四方に走り廻つて、
「若しや十二三歳位の子供は通らなかつたか。」
と、道で出合ふ人毎に聞いてゐる声がした。阿新は其日は麻の中で過し、夜になると湊の方へ当(あて)もなく行く中、其孝心に感じて神仏が守護されたものか、年とつた一人の山伏に行き合つた。山伏は阿新の様子を見て可愛さうで堪らず、
「あなたは何処から何処へおいでになるのか。」
と問うた。阿新は事の次第をありのまゝに話した所、山伏は聞き終つて、若し此子を自分が助けなかつたなら、直ぐひどい目に逢ふに決つてゐると思つて、声を和らげ、
「御安心なさい、湊には商人船が沢山居るから、お乗せ申して越後、越中までお送り申します。」と云つて、足の疲れた阿新を、肩に乗せたり、背負つたりして、間もなく湊へついた。
- 俊基誅せらるる事附助光が事
俊基朝臣は特に謀叛の張本人であるから、近く鎌倉で斬られる事に定められた。此俊基が長年召使つてゐた青侍(二四)に後藤左衛門尉助光といふ者があつた。此助光が俊基の北の方の文を持つて、こつそりと鎌倉へ下り、何とかして俊基に会はうとしたが、それも出来ずに日を過す中、いよ/\斬られるといふ事を聞いたので、心を決して役人に願ひ出た所、許されて漸く対面することが出来たので、北の方の文を手渡した。俊基は泣く泣く鬢の髪を少し切り取り北の方の文に巻きそへ、一筆書いて助光に渡された。助光は俊基の御最後を見とどけてから、その遺骨を首にかけ、形見の御文を身につけて京都へ帰り、北の方に前後の有様を申上げた所、北の方は又となく歎き悲まれ、遂に尼になつて亡夫の菩提を弔はれた。助光も亦髪を切つて僧となり、永く高野山に閉ぢ籠つて亡き主君の後を弔つた。
- 天下怪異の事
嘉暦二年の春頃から寺々に火災があり、又地震が頻々として処々に起つたから、人々は皆ただ事ではないと思つてゐた所、其年の八月二十二日に鎌倉の使者が三千余騎で上京した。まだ使者がついたばかりなのに、どこから聞いたものか、「今度の使者の上京は天皇を遠国へお遷し申し、大塔宮をお殺し申す為めだ」といふ知らせが比叡山へ届いたので、八月二十四日の夜、大塔宮はこつそりと天皇にお使を出されて、
「今度鎌倉から使者の上京した事情を内々聞きますと、天皇を遠国へお遷し申し、私を殺さうとする為めださうでございます。今夜急いで奈良の方へお忍び下さい、城がまへが十分出来ず、味方の軍勢もまだ集つて来ない前に、賊共が若し皇居に攻め寄せて来たら、身方が如何に防ぎ戦つても敗北は必定です。一つには京都に居る敵の追跡を遮り止める為め、二つには僧侶達の心をためしてみる為めに、近臣の一人を天子と呼んで比叡山へ上らせ、臨幸のやうに云ひ広めたならば、敵はきつと比叡山に向つて合戦いたしませう。さうなれば僧侶達は自分の山を思ふ故、身命を惜まず防戦いたします。賊共が力疲れ、合戦が五六日も続けば、伊賀、伊勢、大和、河内の官軍をひきゐて、反対に京都を攻め立てさせます。かうすれば賊共の全滅はまたたく間です。国家の安危は唯だ此一挙に在ると思はれます。」と申されたので、天皇は唯だあきれさせるばかりであられたが、尹大納言師賢、万里小路中納言藤房、其弟季房ら、三四人の宮中に宿直してゐた者を御前へ召し出され、御相談の結果、御親らは三種の神器を捧持して御車に乗られ、下簾(二五)から出絹(だしぎぬ)(二六)を出して女房車のやうに見せかけ、陽明門から出御遊ばされた。
かうして天皇は奈良の東南院へ入らせられた。其処の僧正は忠義の志が厚かつたから、臨幸を秘して僧侶達の心をさぐつて見た所、西室の顕実僧正は鎌倉の一族である上に、権勢のある門主であつたから、其威光に恐れたものか、御身方する僧侶達は一人もなかつた。こんな有様では奈良の御駐輦は覚束ないと、翌二十六日に和束(わつか)の鷲峯山へ御入りなされたが、此処は又余りに山深く、人里が遠い事とて、何の計略も出来難い所であつたから、同じ二十七日、御忍びの行幸の儀式を取られ、奈良の僧侶達を少しばかり召し具せられて、笠置の石室(いはや)へ臨幸遊ばされた。
- 師賢登山の事附唐崎濱合戦の事
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尹大納言師賢卿は、天皇の御召物をつけ、天皇の御輿に乗り、比叡山の西塔院へ登られ、西塔の釈迦堂を皇居と定め、天皇は比叡山を御頼みあつて臨幸遊ばされたと云ひ触れさせたから、山上、坂本は申すに及ばず、諸処の者が吾先きにと御身方に馳せ参じた。
六波羅ではまだ此事を知らなかつたが、浄林房阿闍梨豪誉の所から、天皇が比叡山へ臨幸せられ、三千の僧侶が明日は六波羅へ攻め寄せるといふ噂である。急いで東坂本へ軍勢をお出しなされと云つて来たので、両六波羅では大いに驚き、畿内五筒国の軍勢五千余騎を大手の寄手として、赤山の麓、下松の辺までさし向け、搦手へは佐々木三郎判官時信、海東左近将監、長井丹後守宗衡、筑後前司貞知、波多野上野前司宣道、常陸前司時朝らに美濃、尾張、丹波、但馬の軍勢を添へ、七千余騎で大津、松本を経て唐崎の松の辺まで攻め寄せた。
坂本の方でもかねがね打ち合してあつたので、大塔宮、妙法院の御二人は宵から八王子(二七)へ御上りになつて、御旗を上げ合図をされたので、此処彼処より馳せ集つた軍勢が一夜の中に六千余騎となつた。大塔宮を始め皆解脱同相の衣(二八)を脱ぎ捨てゝ甲冑に身を固め、手々に武器を執つて立つたから、垂跡和光(二九)の庭は忽ち変つて勇士守禦の場となつた。其中六波羅の軍勢が近づいたといふしらせに、勇み立つた男達は取る物も取りあヘず唐崎の浜へ押し出し、岡本房の播磨の竪者(りつしや)快実を先頭に、六波羅に討ち入つて火花を散らして切りまくつた。
唐崎の濱は、東は琵琶湖で汀が崩れてをり、西は深田で馬の足も立たず、平つたい砂原のひろぴろとした場所で道が狭く、寄手も僧侶達も互に第一線にある者ばかりで戦ひ、後陣の軍勢はどうする事も出来ず、唯だ見物して控へてゐた。
さて唐崎で戦が始まつたといふので、御門徒の軍勢三千余騎は白井の前を今路へ向ひ、本院の僧侶達七千余人は三宮林(さんのみやばやし)を下り、和仁(わに)、堅田の者共は小船三百余艘に乗つて、敵の背後を遮断しようと、大津をさして漕ぎ始めた。六波羅の軍勢はこれを見て、かなはぬと思つたか、志賀の閻魔堂の前を横切り、今路の方まで引返して行つた。
- 主上臨幸実事にあらざるに依つて山門変議の事
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比叡山の僧侶達は唐崎の合戦に勝つて喜び合ひ、西塔の皇居を本院へお遷し申さうと、西塔の者共は行幸を促す為め皇居に参列した。折柄の深山おろしに吹上げられた御簾の中には龍顔が拝せられず、天皇の御衣を著けた尹大納言師賢が控へてゐられたので、僧侶達はあきれ、それ以後は誰れ一人御身方となる者もなかつた。そこで尹大納言帥賢、四條中納言隆資、二條中将為明の三人は其夜半にこつそりと比叡山を逃げ出し、笠置の石室へ行かれた。僧侶達も亦六波羅へ降参する者、逃げ出す者、四分五裂して、今は三四百人しか止まつてゐる者がなくなつた。
妙法院と大塔宮とは其夜まで八王子にゐられたが、一先づ逃げ延びて天皇の御行方を聞かうと思召され、二十九日の夜半に戸津の浜から小舟に乗られ、止まつてゐた僧達三百人程を召しつれて、先づ石山へ逃げられた。此処で御二人はお別れになり、妙法院は笠置へ行かれ、大塔宮は十津河の奥へと志し、先づ奈良の方へお逃げになられた。
註
(一)(二)比叡山延暦寺の首座の僧職。
(三)法親王の住職。
(四)歌の良否を批評して定める歌合。
(五)公役の駅馬。
(六)流罪三等(近流、中流、遠流)の中の一。
(七)(八)(九)(一〇)(一一)近江国にある地名。
(一二)遠江国にある山。
(一三)「年たけてまた越ゆべしとおもひきや命なりけりさ夜の中山」(新古今集)。
(一四)京都郊外。
(一五)龍の頭や鷁の首を船首に取りつけた快遊船。
(一六)駿河国の地名。
(一七)「駿河なる宇都の山辺のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり」(伊勢物語)。
(一八)(一九)駿河国の地名。
(二〇)相模国の地名。
(二一)天皇の御下しになる公文書。
(一三)中門の傍にあつて番をする侍の居る所。
(二三)「間」は柱と柱との間。柱間の二つある部屋。
(二四)年若くて未熟な侍。
(二五)牛車の簾の中にかけ、外へたれた帳。
(二六)生絹の裾を濃く染めて簾の外へ出し垂らしたきれ。
(二七)比叡山の東の小山の上に在る。
(二八)生死を離れた表示の袈裟。
(二九)仏が光を和げて神と現はれて衆生を利益する姿。
- 巻 第三
- 主上御夢の事附楠の事
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元弘元年八月二十七日、天皇は笠置寺へ臨幸あり、本堂を皇居とせられた。比叡山東坂本の合戦で六波羅の軍勢が負けたといふ事が知れて来たので、近国の兵士が此処彼処から笠置へ馳せ集つて来たけれども、名高い武士で手下の軍勢を百騎なり二百騎なり引連れた大名はまだ一人も来なかつた。此軍勢では皇居の警固だけもおぼつかないと、天皇は御心配の中にとろ/\と御眠りになつたところ、紫宸殿の庭前に似た所に、大きな常磐木があつて緑の葉がよく匂ひ、南へさし出た枝は特に繁り蔓つてゐた。其下に三公(一)百官達が位の順序に列坐し、南へ向いた一段高い所には、畳を高く敷いた御座があつて、まだ誰れも坐つてゐない。「はて、誰れをもてなす為めであらう。」と天皇は怪しく思して立つてゐられた処へ、鬟(二)を結つた二人の子供がひよつく現はれ、天皇の御前に跪いて涙を流し、「広い国中に少しの間さへ御身を隠される所もございません。しかしあの樹の蔭に南向きの座席がございます。これは陛下の御為めに作つた玉座でございますから、暫くの間ここにおいでになつていたゞきたい。」と云つて、子供は天へ上つてしまつた夢を見られた。御夢はまもなく覚めた。
天皇はこれを天つ神が御自分にお告げになる夢だと考へられ、文字の上から色々御思案あつた所、木に南を結びつければ楠といふ字である。其蔭に南を向いた御座があり、それに坐れと二人の子供の教へたのは、御自分が再び天子の徳を治めて、天下の士を朝廷に伺候せしめる事を示されたものであると、御自分で夢判断を遊ばされて、いと心丈夫に思召された。夜が明けると、寺の衆徒、成就房の律師を呼び出されて、「此辺に楠といふ武士はゐないか。」とお尋ねになられた。「この近くにそんな者のゐることは聞きませんが、河内国金剛山の西には楠多門兵衛正成と云つて、名高い武士が住んで居りまする。」とお答へ申し上げたところ、今夜の夢のお告げは正しくそれだと思召して、天皇は「すぐ其者を呼べ」といひつけられたので、藤房卿は勅命を承り、急いで楠正成を呼び出された。正成は武士たる者の此上もない名誉だと思つて、とかうの思案もせず、こつそりと笠置へ来た。天皇は藤房卿をして、
「北條氏の征伐について、仔細あつて正成を頼まれ、勅使を立てられた処、すぐさま馳せつけてきた事は誠に感じ入る。一体如何なる謀をめぐらせば、勝を一時に決して天下を太平にする事が出来るか。それについての考へを残らず申してみよ。」
といふ仰せを伝へさせられた所、正成が畏つて申上げるには、
「近頃北条氏の大逆が天の怒りに触れましたからには、これに天誅を加へられるのは何の仔細もございません。しかし天下の平定には武略と智謀との二つが必要でございます。若し武力のみに頼り、正面から軍勢を合せて戦つたならば、日本国中の兵を集めても、武蔵、相模、二国の兵に勝つ事は出来ません。若し謀を以て戦つたならば、関東方の武力は唯だ利を摧き、堅を破るに過ぎないものです、これは欺き易く、怖るるには足りません。勝敗は合戦の習はしでございますから、一時の勝敗に重きを置かれてはいけません。此正成がまだ生きてゐるとお聞きになられたなら、御運はきつと開けるものと思召されたうございます。」
と力強く申上げて河内へ帰つていつた。
- 置軍の事附陶山小見山夜討の事
天皇が笠置においでになり、近国の官軍が御身方に参つてゐるといふ事が京都へ知れたので、九月一日六波羅の両検断(三)は宇治の平等院へ押し出して軍勢を集め、明二日には笠置へ攻め寄せる準備をした。所が高橋又四郎といふ者があつて、抜けがけの功名をしようと、僅か三百余騎ばかりを率ゐて笠置の麓へ押し寄せたが、忽ちの内に攻め敗られ、それに続いた小早川の軍勢も亦一度に追ひ立てられてしまつた。
そこで両検断は宇治で軍勢を四手に分け、手筈を定めて、九月二日、笠置の城に向つて出発した。其軍勢は合せて七万五千余騎にも上り、笠置の山の四方二三里の間は少しの隙間もなく兵士で充ち満ちてゐた。一夜明けて九月三日朝六時、東西南北の寄手は互ひに近づいて鬨の声を上げた。其声は百千もの雷が一時に鳴り落ちたやうで、天地も動くかと思はれた。鬨の声を三度上げ、矢合(四)をして鏑矢を射かけたが、城の中は静まり返つて鬨の声も合さず、答の矢も射かけず、人が居るとは見えなかつたので、敵はもはや逃げてしまつたものと考へ、寄手の軍勢は二王堂の前まで攻め寄せ、其処から城の中を見上げると、鎧兜に身をかためた三千余人の武士達手の軍勢一万余騎はこれをみて、進む事も退く事も出来ず、仕方なく踏みとどまつて暫くの間は睨み合つてゐたが、やがて城中より足助次郎重範が名乗を上げて、一番矢に荒尾九郎兄弟を射倒したのを手始めに、大手搦手の寄手、城の中の軍勢達は互ひに喚き叫んで攻め戦つた。
寄手の軍勢は追ひ立てられて一合戦の後には、城を攻めようと云ふ者は一人もなく、唯だ城の四方を囲んで遠攻めにした。遠攻めに日を送つてゐる処へ、同月十一日河内国から急使がきて、楠兵衛正成と云ふ者が宮方につき、兵を挙げて赤坂山に立籠つたと告げた。これは一大事だと騒いでゐる処へ、亦同月十三日の夕方に備後の国から急使が到着して、桜山四郎入道が同じく宮方について兵を挙げたと告げ知らした。目の前では笠置の城が強く、諸国の大軍勢で日毎夜毎攻め立てゝも落城しないのに、後では楠、桜山らの宮方が兵を起して、急を告げる使者が毎日々々櫛の歯を引くが如くに六波羅に着いた。六波羅の北方(きたかた)駿河守は安き心もなく、日々急使を鎌倉に立てて東国の軍勢の援けを乞うた。北條高時は大いに驚いて、「すぐさま討手の軍勢を差向けよ」との命令。
二十万七千六百余騎の軍勢が九月二十日に鎌倉を出発した。
こゝに備中の国の住人で、陶山藤三義高、小見山次郎某(なにがし)といふ二人が笠置城の寄手に加はつてゐたが、関東の大軍がもはや近江に着いたと云ふ事をきいて一族の者共を集め、
「お前達はどう思ふか、此間からの合戦に死ぬる者は数知れずあるが、皆これといふ功名も立てずに死ぬのである。同じ死ぬる命なら目ざましい合戦をして死ねば、名誉は長く残り、子孫は栄えよう。まして日本中の武士が集つて五日攻めても落す事の出来ぬ此城を、我々の軍勢丈で攻め落せば名は古今に双ぶ者なく、忠義は万人の上に輝くであらう。さあ今夜の雨風に紛れて城中へ忍び込み一夜討をかけて天下の人々を驚かさう。」
と云ふと、一族五十余人の者共は「よからう」と、賛成した。
其夜は九月晦日の事とて、物のあやめもわからぬ暗闇である上、風雨が烈しく吹いて面を上げる事も出来ない中を、五十余人の者共は背に太刀を負ひ、後に刀を差して、城の北に聳えてゐる数百丈の石壁、鳥も翔りにくいやうな所を登つて行つた。岩角をよぢ、木の根にすがり、四時ほどの間苦労に苦労をして塀の側まで辿り着き、皆塀をのりこえて、先づ城中の様子を見定めた。皇居は何処であらうと、探り/\本堂の方へ行く所を咎められたが、陶山吉次が夜廻りの者(五)だと偽つた為め免れられたのを幸(さいはひ)、其後は却つて大びらに、「それぞれの御陣に御用心下さい」と高声に呼びながら通り過ぎ、静かな本堂へ上つてみると、これこそ皇居らしく、蝋燭を多く燈し、振鈴の声が幽に聞えて来た。陶山は皇居の様子を見定めて、本堂の上にある峯に上り、人の居ない僧舎があつたのに火をつけて、一度にどつと鬨の声を上げた。四方の寄手の軍勢はこれを聞いて、それ城中に裏切者が出たと、口々に鬨の声を合せて喚き叫んだ。陶山の率ゐる五十余人の兵士は今詳しく城内の様子を見て置いた事とて、此処の役所に火をつけては彼処で鬨の声を上げ、彼処で鬨の声をあげては此処の櫓に火をつけるなど、四方八方に走り廻つて、三面六臂の働きをしたので、其軍勢が城中に充ち満ちてゐるやうに見えた。そこで陣所陣所を堅めてゐた官軍は、城中に敵の大軍が攻め入つたと考へ、鎧兜を脱ぎ捨て、弓矢を放り出して、崖、堀の区別もなく、転びながら逃げて行つた。錦織判官代はこれを見て、
「何たる見苦しさだ。天皇の身方について、武士を敵として引き受ける程の者が、敵が大勢だからとて、戦はずに逃げる法があるか。何時(いつ)のために惜む命なんだ。」と云つて、向つて来る敵に打ちかかり打ちかかり、大肌脱ぎとなつて戦つたが、矢を射つくし、太刀を折つてしまつたので、父子二人に家来十三人は、各々腹をかき切つて、同じ枕に伏して死んだ。
- 主上笠置を御没落の事
笠置城の火災の為め、天皇を始め奉り、宮々、卿相(六)、雲客(七)は、皆跣のまゝ足に任して、何処といふ的(あて)もなく逃げて行かれた。暫く行く内段々に別れ別れとなり、後には唯だ藤房季房の二人より外には天皇の御手をお引き申す人もなくなつた。
畏れ多くも天皇は御姿を賤しき農民の姿に変へさせられ、目指す的もなくたゞさまよひ歩(ある)かれた。其御有様は誠にあさましい事であつた。何とかして夜の中に赤坂城まで行きたいと、御心のみはあせらせたが、慣れられぬ御歩行の事とて、夢路を辿るやうな御心地で、一足行つては休まれ、二足歩んでは立どまられ、昼は道の辺の荒塚の蔭に御身を隠し、粗末な柏草を御座の敷物とし、夜は人も通らぬ野原の露をかき分けかき分け彷ひ行かれる事とて、薄い絹の御袖は乾くひまもなかつた。このやうにして夜昼三日の後に山城国多賀郡にある有王山の麓まで逃げ延びられたが、藤房季房も三日間何も食べない為め、足はだるく身体は疲れて、今はもう、どのやうな目にあつても逃げようといふ心持になれなかつたので、深い谷の岩を枕として、君臣兄弟が共にうたた寝の夢を結ばれた。
梢を鳴らす松風の音を雨が降るかとお聞きになつて、木蔭へ立寄られると、下露がはら/\と御袖にかかつた。天皇はそれを御覧ぜられ、
さして行く笠置の山を出でしより
あめが下にはかくれがもなし
(歌意──あてにしてゐた笠置の山を逃れ出てからは、天下に身を隠す所がない。「さして行く」は「指す」に笠を「さす」を云ひ懸けたもの。「あめが下」のあめは天と雨とを云ひ懸けたもの。)
と詠ぜられたので、藤房卿は涙をおさへて、
いかにせむ憑む蔭とて立ちよれば
なほ袖ぬらす松のしたつゆ
(歌意──頼りとして立寄つた木蔭でさへ、松の下露に袖がぬれる。真に頼りとする所のない世の中だ。どうしようにもいたし方がない。)
とお答へ申した。
やがて天皇は賊軍の為め見出されて、十月二日に宇治の平等院へ行幸遊ばされた。其日鎌倉の使者、大仏貞直、金澤貞将の両大将が宇治へ来て天皇に拝謁し、三種の神器を持明院の新帝(八)へ御渡し下さるやう申上げた。天皇は藤房を通じて、
「三種の神器は古より世継の君が天皇の御位につかせられる時、天皇自ら授け奉るものである。此三種の宝器を臣下の分際で勝手に新帝へお渡し申す例はまだ聞いたことがない。其上神鏡は笠置の本堂へ捨て置かれたから、きつと戦場の灰となつてゐるであらう。神璽は山中でさまよつた時木の枝へ懸けて置いたから、いつまでも我国の守となるであらう。宝剣は武士の輩が若しも天罰を考へず御体に近づき申すやうな事があつたならば、御手づから其刀の上に伏せさせられようと、片時も玉体からお放しにならない。」
と仰せられたので、鎌倉の使者両人も、六波羅の役人も、申上ぐべき言葉がなくて退出した。
天皇は三日の間平等院に御逗留の後、六波羅へ行幸遊ばされて、同月九日に三種の神器を持明院の新帝へ御渡しになられた。同月十三日には新帝御即位の儀があつた。
- 赤坂城軍の事
遙々関東から攻上つて来た大軍は、まだ近江の国へもはいらない中に笠置の城が落ちたので、皆楠兵衛正成の立籠る赤坂城に向つた。
石川河原を過ぎて城の有様を窺ふと、急拵へと見えて十分に堀もほらず、僅に塀を一重めぐらした一二町四方足らずの狭い場所へ、櫓が二三十立ちならんでゐる。此有様を見た人々は、
「何といふ可哀さうな有様ぢや。こんな域は我々の片手にのせて、投げても投げられろだらう。何か不思議な事が起つて、せめて一日でも楠に持ちこたへさしたいものだ、分捕して功名を立て、褒美にあづからう。」
と思はぬ者はなかつた。で、寄手三十万騎の軍勢は、攻め寄せると共に皆同じく馬を走らせ走らせ、堀の中へ飛入り、櫓の下に並び立つて、我先きに攻め入らうと争つた。
正成は元来智謀の人であつたから、よりすぐりの勝れた射手二百余人を城中に置き、弟の七郎と和田五郎正遠とに三百余騎をつけてよその山に備へて置いた。寄手はそんな事とは少しも知らず、唯だ一揉みに揉み落さうと、一度に四方の崖の下まで押し寄せた処を、櫓の下や狭間(九)の陰から鏃を揃へて絶え間もなく射かけたから、一時の間に千余人の死傷者を出した。関東勢は当(あて)がはづれて、
「いや/\此の様子では、一日や二日に城は落ちないぞ、暫くの間陣所々々を取り、役所を設け、手分をして戦へ。」
と云つて、攻口を少し退き、馬の鞍をおろし、甲胃を脱いで、皆幕の中で休んでゐた。楠七郎、和田五郎の二人は遠くの山からこれを見下して、「よい頃だ」と、三百余騎を二手に分け、東西の山の木蔭から菊水の旗を二本松吹く風になびかせて、静かに馬を歩ませつつ、煙、靄をまき起して攻め込んだ。関東勢はこれを見て敵か身方かと怪しみ、ぐづ/\してゐる処へ、三百余騎の軍勢が両方から鬨の声をどつと上げて、雲霞のやうに群つてゐる三十万騎の中へ魚鱗懸りの陣(一〇)をつくつて攻め入り、東西南北に割り込み、四方八方に斬つて廻つたから、寄手の大軍はぼんやりして陣を作る事も出来なかつた。又城中では三つの門を一度に開き、二百余騎が鋒を並べて打つていで、弓をひきしぼりひきしぼり残る隈なく射かけたので、さしもに大軍の寄手も僅の敵に驚いて、つないである馬に乗つてあふり立てたり、弦をはづした弓に矢を番へて射ようとしたり、又一つの甲冑に二三人も縋りついて、「俺のだ、人のだ」と引張り合つてゐる間に、主人が殺されても家来は知らず、親が討たれても子は助けず、蜘昧の子を散らすやうに石川河原へ引退いた。
関東勢は最初の合戦に負けたので、楠の武力侮り難いと思つたか、吐田(はんだ)楢原(ならはら)あたりまで押寄せたが、それから先きには進まうとする模様もなく、其処に暫く留つて、土地の様子をよく知つた者を先頭に立てゝ、後詰(ごづめ)のないやうに山を刈り、人家を焼き払ひ、安心して城を攻めようなどと相談してゐたが、本間、渋谷の手下の者に、親が討たれたり、子が討たれたりした者が多かつたから、「生きながらへてどうしよう、縦へ我々の軍勢だけでも、馳せ向つて討死しよう。」といきり立つたので、皆これに励まされ、我も我もと馳せ向つた。今度も亦押寄せると同時に堀の中や崖の下まで攻め込み、逆茂木(一一)を取りのけて進み入らうとしたが、城中には物音一つしない、これはきつと昨日のやうに、弓の上手にたくさん射かけさして浮足立つた処へ後詰の軍勢を出して攻めるつもりだらうと考へ、寄手は十万余騎を分けて後の山へ向はしめ、残る二十万騎は群をなして城を取巻いて攻めたてた。それでも城中からは一本の矢も射ず、人が居さうにも見えなかつたので、寄手は益々調子づき、四方の塀に手をかけて跳り越えようとした処を、もと/\塀は二重に作り、外の塀は切つて落すやうに拵へてあつたので、城中では四方の塀の釣縄を一度に切り落したから、塀に取りついてゐた寄手千余人はその下敷となり、目ばかり動かしてゐる所へ大木、大石を投げつけ投げつけ打ち下したので、寄手は又今日の合戦にも七百余人討たれてしまつた。
関東勢は二日の合戦に懲り懲りして、今はもう城を攻めようとする者が一人もなく、近くに陣をとつて遠攻にしてゐたが、余り引込み思案に守つてゐるのも意気地がない。四町四方にも足りない平城(一二)に四五百人の敵が立籠つてゐるのを、関東八箇国の軍勢が攻めかねて、見苦しくも遠攻にしたなどと、後々まで人に笑はれるのは残念だ。前には気が勇み立つてゐた為め楯も持たず、攻め道具も用意せずに攻めたからこそ失敗したのだ。今度は手段を変へて攻めようと、皆一人々々持楯(一三)をもち、其表面にいため皮(一四)をつけて容易に討たれぬやうに作り、それをかざして攻めたてた。崖の高さも堀の深さもいくらもないから、走りかかつて塀にとりつく事はわけないと思つたが、此塀も亦釣塀ではなからうかと危んで、容易にはとりつかず、皆堀の中におりて水につかり、熊手を塀にかけて引張つたので、将に引破られさうになつた時、城中から柄の一二丈もある長い杓に熱湯の沸き立つてゐるのを酌んで浴せかけた為め、兜の天辺の穴や鎧の肩の所から熱湯がさしこみ、身体が焼け爛れて、寄手の者は我慢が出来ず、楯も熊手も打捨てゝ、見苦しくもぱつと逃げ散つた。いきなり死ぬる程ではないが、或は手足を焼かれて立ち上れず、或は身体中を焼かれて病気になる者などが、二三百人も出た。
寄手が手段を変へて攻めると、城中でも亦工夫を変へて防ぎ、今はもうどうしようもなくて兵糧攻めにしようと相談した。其後は一切戦をやめて、自分の陣所に櫓を立て逆茂木を作つて遠攻にした。楠が此城を作つたのはほんの少しの間の事で、十分に兵糧を用意してゐなかつたので、合戦が始まり城を囲まれてから、まだ二十日余りにしかならないが、城中の兵糧はもはや尽きて、今はもう四五日分を残すのみとなつた。
そこで正成は家来を集めて、敵に自害したやうに見せかけ、暫くの間この城を逃げようと云つて、城中に大きな穴を二丈ほど堀りさげ、堀の中で討たれてゐる死人二三十人穴の中に入れ、炭や薪を積んで雨風の吹きつける夜を待つてゐた。やがて待ち設けてゐた雨風の夜がやつて来たので、城中に一人だけ残し、一同は四五町逃げたと思はれる頃城に火をつけよと命じ置き、皆寄手の軍勢の中へ紛れ込んで、五人或は三人づつ別々になつて逃げて行つた。正成は二十町余り逃げのぴてから、後を振返ると、約束に違はず城の役所々々から火が揚つてゐた。寄手の軍勢は火を見て驚き、勝鬨を上げて押しよせた。焼け静まつて後城中を見ると、大きな穴の中に焼け死んだ死骸がたくさんあつた。皆これを見て、「ああ可哀想に、正成は到頭自害した。敵ながらも立派な武士の死方だ。」
と誉めない者はなかつた。
- 桜山自害の事
さて桜山四郎入道は備後国を半ば従へ、これから備中へ攻めて出ようか、安芸を退治しようかと考へてゐた処へ、笠置の城も落ち、楠も自害をしたといふ事が知れて来たので、一度は附き従つた軍勢も皆逃げてしまひ、今は身を離れぬ一族の者に長年仕へてゐる家来達を併せて、二十余人が残つてゐるのみとなつた。そこで桜山は人に殺されて死骸をさらすくらゐなら、自害した方がよいと、其国の一宮へ参詣をして、八歳になつた愛子と二十七歳になつた女房とをさし殺し、社殿に火をつけ、自分も腹を切つて、一族家来二十三人と共に、灰となつて失せた。
註
(一 )太政大臣、左大臣、右大臣。
(二)頭の眞中を左右へ分けて両角を結んだ髪。
(三)巡察、警備、検罪等をつとめる職で、事ある時は在京の兵士を率ゐて軍陣に臨み、軍兵の到着を記す。
(四)戦の始まる時互ひに矢を射合はす開戦の合図。
(五)夜中巡回して非常を警める番兵。
(六)朝政に参與する高官。
(七)宮中の殿上に昇る事を許された人即ち殿上人。
(八)光厳院。
(九)城壁の窓。
(一〇)魚の鱗のやうに縦隊に馬を立て並べる陣法。
(一一)木枝を鹿角のやうに組んで垣となし、敵兵の進出を妨げるもの。
(一二)平地にある城。
(一三)手に持つて進む楯。
(一四)膠の水に革を浸し打ち固めて乾したもの。
- 巻 第四
- 笠置の囚人死罪流刑の事附藤房卿の事
笠置の城が攻め落された時召捕られた人々の処分は、元弘二年正月六波羅で定められた。比叡山、奈良の諸門跡(一)、月卿(二)、雲客、諸衛の司(三)等に至るまで、罪の軽量によつて或は禁獄(四)或は流罪に処せられた。足助次郎重範は六條河原で首を斬られることに定まり、万里小路大納言宣房卿は子の藤房季房二人に座して捕へられ、七十歳の老体を囚人の如くに取扱はれた。
罪のあるなしにかゝはらず、後醍醐天皇に御仕へ申した公卿殿上人達は、或は出勤をさしとめられて隠遁し、或は官職をやめられて飢渇の憂をいだく等、運不運、塞不塞のうつりかはりは、抑々夢といはうか幻と云はうか。
源中納言具行卿は、佐々木佐渡判官入道道誉が道中の警固をして鎌倉へ下し奉つたが、途中近江の柏原で斬られてしまはれた。
又同月二十一日に法印良忠を大炊御門油小路の警備兵である小串五郎兵衛尉秀信が召捕つて六波羅へさし出したので、六波羅では色々取調べたが、其処分については意見がまち/\となつた為め、此法印を五條京極の警備兵である加賀前司に預け、取調べの結果を鎌倉へ再び報告する事とした。
中宰相成輔は河越三河入道円重(ゑんぢう)がお連れ申して、鎌倉へ下し奉るといふ事であつたが、鎌倉ヘまでは下し奉らず、相模の早河尻で斬られてしまはれた。
侍従中納言公明、別当実世卿のお二人は、赦免になられるといふ事であつたが、安心が出来なかつたものか、波多野上野介宣通、佐々木三郎左衛門尉の二人に頂けて、邸へはお帰し申さなかつた。
尹大納言師賢卿を下総の国へ流し、千葉介に預けられた。此方は後に僧となつて仏門に帰依されたが、まもなく急病でお亡くなりになつたといふ事である。
東宮大進(とうぐうだいしん)李房(すえふさ)を常陸の国へ流して長沼駿河守に預けられ、中納言藤房も同じく常陸の国へ流して小田民部大輔に預けられた。
藤房卿は、中宮にいられた左衛門佐局といふ勝れて美しい女房に、ひそかに思ひを寄せてゐられたが、それと云ひ伝へる方法もなく、心に秘めては嘆き明し思ひ暮して、三年間も過された。所がどうした人目の紛れであつたか浅い契りを結ばれ、一夜の夢とも幻ともつかぬ枕をおかはしになられた。其次の夜、天皇が俄に笠置へ落ちさせられた為め、藤房卿も御供仕らうとしたが、今一度其女房に会ひたいものと、西の対へ行かれた所、折柄北山殿へ参られたといふ事であつた故、鬢の髪を少しばかり切りそれに歌を書きそへて置いて来られた。女房は後で其形見の髪と歌とを見て泣き悲しみ、余りの思ひに堪へかねて、哀れにも大井河へ身を投げてしまつた。
按察大納言公敏卿は上総の国へ、東南院僧正聖尋は下総の国へ、峯僧正俊雅は長門の国へ、それぞれ流された外、第四の宮は但馬の国へお流し申して、其国の守護である太田判官に預けさせられた。
- 八歳の宮御歌の事
第九の宮は今年八歳であられたから、中御門中納言宣明卿に預けられて京都にいらせられた。所が常に父君であられる後醍醐天皇を恋ひ慕はれ、万事につけ悲しいい御様子であられた。或日中門(五)にお立ちになつてゐられる時、遠寺の鐘がかすかに聞えてきたので、
つくづくと思ひ暮していりあひの
鐘をきくにも君ぞこひしき
(歌意──君の御事を一日中しみじみと思ひ暮したが、夕方になつて入相の鐘をきくと、尚一層恋しく思はれる。)
と詠まれた。
其頃京中の僧侶といはず、俗人といはず、男といはず、女と云はず、この歌を畳紙や扇に書きつけて、「八歳の宮の御歌だ」と賞翫せぬ者はなかつた。
- 一宮並妙法院二品親王の御事
-
三月一日に一の宮の中務卿親王を佐々木判官時信が御警固申して、土佐の国の畑へお流し申した。又同じ日に妙法院二品親王をも長井左近大夫将監高広が御警固を承つて讃岐の国へ流し奉つた。
配流の地も共に四国であるといふ事であつたから、せめて同じ国であつてくれ、風の便りにでも御物語をして、悲しみを慰める助けにもしようと思ひ願はれたが、其甲斐もなく、一の宮は漂ふ波に漕がれ行く浮船に身を任せて、土佐の国の畑へお着きになり、有井三郎左衛門尉の屋敷の側に設けられた一室にお入りになつた。妙法院は備前の国まで陸路を来られ、児島の吹上から乗船せられて讃岐の詫間にお着きになられた。
承久の乱の例に習つて後醍醐天皇を隠岐の国へお遷し申す事は定まつたが、臣下の分際で天皇をないがしろにし奉る事を、北條氏もさすがに畏れ多いと思つたのか、後伏見院の第一の御子(六)を御位にお即け申して、後醍醐天皇御遷幸の宣旨を下されるやうに取り計らつた。
- 俊明極(しゆんみんき)参内(さんだい)の事
-
元享元年の頃、元の国から俊明極と云ふ禅師が来朝した。天皇が直接外国の僧に人相を見させられるといふ故事はなかつたが、後醍醐天皇は御法談の為め此禅師を宮中へお召しになり、御法談が終ると禅師は会釈をして退出した。其翌日別当実世卿を勅使として禅師号を下された時、禅師は勅使に向つて、
「此天皇は高貴の極、敗亡の悔に遭はれるが、二度帝位におつき遊ばされる御相がある。」と申上げた。それ故囚はれの御身となられた今も、二度帝位に陞られる事を確信され、当分の間法師姿にはなられないと仰せ出された。
- 中宮御歎きの事
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三月七日に後醍醐天皇はいよ/\隠岐の国へお遷りになられるといふ事であつたから、中宮(七)は夜に紛れて六波羅の御所へ行啓遊ばされ、中門へ御車を寄せられると、天皇が御出ましになり、御車の簾をかゝげて御対面遊ばされた。天皇は中宮を都へ残して旅に出られた後の事を思ひ続けられ、中宮は又遠い所へ行かれる天皇の御事を想像して歎き悲しまれた。夜明け近くなつて中宮は還御になられたが、再びめぐり逢はれる事のおぼつかなさに、伏し沈まれた御心中は推しはかるだに誠に悲しいものであつた。
- 先帝遷幸の事
三月七日に、千葉介貞胤、小山五郎左衛門、佐々木佐渡判官入道道誉らが、五百余騎で道中の御警固を承つて、後醍醐天皇を隠岐の国へ遷しまいらせた。お供と云つては、一條頭大夫行房、六條少将忠顕、それに御世話役の三位殿御局の三人だけであつた。其外は甲冑を着け、弓矢を持つた武士達が、前後左右をお囲み申してゐるばかりで、七條を西へ、東洞院を下へ、御車をきしらせ行かれたから、貴賤男女を問はず、多くの人々が立ち並んで、丁度赤子が母を慕ふやうに泣き悲しんだ。
かくて日を重ねられ、都をお出ましになつてから十三日目に、出雲の見尾の湊にお着きになり、こゝで御船を用意し、渡海のため順風の時をお待ちになられた。
- 備後三郎高徳が事
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其頃備前国に児島備後三郎高徳といふ者があつた。天皇が笠置にお在(ま)しの時、御身方となつて義兵を挙げたが、まだ成功しない前に笠置も落され、楠正成も自害したといふ噂が立つたので、がつかりしてひかへてゐたが、天皇が隠岐国へ遷幸遊ばされると聞いて、二心のない一族の者を集めて相談するには、
「志士とか仁人とか云はれる者が、命を惜がつて人道をつくさぬといふ事はない。命を投げ出して当然つくすべき事を眼前にみながら、それを実行しないのは勇気のない為めだ。吾々は臨幸の御途筋へ出て、天皇をお奪ひ申して大軍を起し、縦へ死骸は戦場へさらしても名誉を子孫に伝へようではないか。」
と云つた所、心ある一族共は皆其意見に賛成した。「それでは御途筋の難所に待ち受けて、隙を覘ふことにしよう」と、備前と播磨の国境である船坂山の頂上に隠れて、今か/\と御通過を待つてゐた。臨幸が余りに遅かつたので、使を走らして様子をさぐらすと、警固の武士達は山陽道を通らず、播磨の今宿から山陰道に入つたいふ事であつた。高徳の第一の計画は全くはづれたが、次ぎは美作の杉坂こそ最も適当な深山である、そこでお待ち申さうと、三石の山から斜に道もない山の雲を凌いで杉坂へ来てみると、天皇は早や院荘(ゐんのしやう)へお入りになつたといふ事であつたから、仕方なく一族の者は此処で散り散りになつた。高徳はせめて此覚悟だけでも天皇の御耳に入れたいものと、賤しい服装に身をやつし、忍んで御跡を追ひつゝ適当な時機を覘つてゐたが、なか/\さうした隙がありさうにもなかつたので、お泊りになつてゐられろ宿の庭に大きな櫻の木のあつたのを削つて、大きな文字で
天莫空勾践(てんこうせんをむなしうするなし)。 時非無范蠡(とき はんれいなきにあらず)。(八)
といふ一句の詩を書きつけた。
御警固の武士共は、翌朝これを見つけたが、読みかねて、「何事を誰れが書いたのだらう。」と、事の次第を天皇に申し上げた。天皇はすぐさま詩の意味をおさとりになつて、晴れやかな御顔にほほ笑みを含まれたが、武士共は一向そのいはれを知らず、別に咎め立てもしなかつた。
註
(一)一門派の教義を師弟相伝し、其本寺に嗣住して法系を持続する者。
(二)朝政に参与する高官。卿相。公卿。
(三〕各衛府の役人即ち百官。
(四〕獄中におしこめておく事。
(五)寝殿と外門との間にある門。
(六)光厳院。
(七)藤原禧子。
(八)昔支那で、呉越の二国が争つてゐた時、越王の勾践は代々呉にいぢめられてゐた恨みを晴さうと、忠臣范蠡がとめるのも聞き入れず、大軍を率ゐて呉の国へ向ひ、会稽山の戦に敗れて生捕となつた。勾践は牢屋の中でひどい苦しみを辛棒し、范蠡は国にゐて難儀しつつ再び呉を攻め亡す謀を廻らして、会稽山の敗戦の恥をそそいだといふ事にことよせて、高徳が自分の心持を述べたのである。即ち天皇を勾践に、自分を范蠡に擬して、天皇に御安心下さるやうにと云つたものである。
- 巻 第五
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- 持明院殿御即位の事
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元弘二年三月二十二日、後伏見天皇の第一の御子光厳院が、御歳十九で天子の御位につかせられた。御母は竹林院左大臣公衡の御娘で、後に広義門院と申された方である。同年十月二十八日河原の御禊ひの儀(一)を、又十一月十三日には大嘗會の儀(二)を執り行はせられた。
- 宣房卿二君奉公の事
-
万里小路大納言宣房卿は、元来後醍醐天皇が寵愛せられた方である上、息子の藤房季房の二人は笠置城で生捕られて流し者にされたのであるから、父宣房卿も罪深い筈であるのに、才智にたけてゐるといふので、北條氏は特に其罪を許して、今上天皇にお召使ひになられるやうにと申上げた。そこで日野中納言資明卿を勅使として、宣房卿に其事を仰せになられたが、宣房卿は二君にお仕へして老衰の身に辱めを受けるよりも飢渇に甘んじた方がよいと云はれたのを、資明卿が色々と道理をつくして説き伏せたので、宣房卿も遂に屈服し、お仕へ申すやうお答へ申し上げた。
- 中堂の新常燈消ゆる事
其頃、比叡山の根本中堂の内陣(三)へ山鳩が一番ひ舞ひ込んで、新常燈の油盞(あぶらつき)の中へ飛び入り、燈明を消してしまつた。其鳩を又一匹の鼬が走り出て二羽共に食ひ殺して逃げてしまつた。此常燈は後醍醐天皇が臨幸遊ばされた時、昔桓武天皇が御自身で挑げられた常燈に習はれ、皇室を何時何時までも栄えさせようとする御願を以つて、御自身で燈心を束ねられ、銀の御油盞に油を入れて掻き立てさせられた燈明である。それを山鳩が飛びこんで消したのは不思議であるが、其山鳩を鼬が食ひ殺したのも亦た不思議な事である。
- 相模入道田楽を弄ぶ竝闘犬の事
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また其頃京都では田楽(四)といふ遊びがはやつて、貴賤を問はず誰れも彼れも其遊びをしてゐた。北條高時はこれをきいて、新座本座(五)の田楽を呼びよせて、毎日毎夜遊び戯れてゐた。
或夜酒宴を開いて、高時は酒を飲み、酔にまかせて立上り、暫くの間舞つてゐた。四十余りの年とつた入道が酔つたまぎれに舞ふ舞のことだから、面白い筈もないのに、何処から来たともわからぬ新座本座の田楽達が十余人、ひよつくりと其酒宴の席に現れて、歌ひつつ舞つたが、其面白さはなみなみでなかつた。少したつて調子をかへて歌ふ声をきくと、「天王寺の妖霊星(えうれいぼし)を見ばや」と囃し立ててゐた。或侍女が其声をきいて、余りの面白さに障子の隙間からのぞいて見ると、新座本座の田楽達らしい者は一人も居らず、嘴が鳶(とび)のやうに曲つたものや、身体に羽根の生へた山伏のやうなものや、変な形の化物共が人間の姿をしてゐるのであつた。侍女はこれを見て余りに不思議に思つたので、使を走らして城入道時顕に此事を知らした。時顕は驚いてとるものもとりあへず太刀を握つて駆けつけて来た。中門を荒々しく歩く足音をきいて、化物はかき消すやうに見えなくなつてしまひ、高時は前後も知らず酔ひつぶれて寝てゐた。燈をつけさして酒宴の席を見ると、誠に天狗が集つてゐたものらしく、蹈み汚した畳の上に禽獣の足跡がたくさんついてゐた。時顕は暫くの間空を睨んで立つてゐたが、一向眼につく者もなかつた。少ししてから高時は驚き目ざめて起き上つたが、ぼんやりとしてゐて何事があつたのかまるで知らなかつた。
高時はこんな妖怪には驚かず、ますます変な物を愛して際限がなかつた。或時庭前に犬が集り噛み合つてゐるのを見て面白がり、これを愛するやうになつた。即ち諸国へ触れを出して、年貢として犬を納めさせたり、権門高家に云ひつけては犬を求めたりしたので、国々の守護や大名達が、十匹二十匹と飼つては鎌倉へ送りとどけて来た。鎌倉では此犬に魚や鳥を食はし、金銀をちりばめた鎖で繋いで置いた為め、無駄な費用が嵩んだ。又此犬を乗物にのせて道を通る時は、急ぎの用で行く人も馬から下りて跪いて礼をせねばならず、耕作にいそしむ百姓も人夫に当てられて其の乗物を舁かねばならぬといふ風に、非常に大切にしたので、肥え太つて、美しく着飾つた犬が鎌倉中に充ち満ちて、其数は四五千匹を計へた。一箇月に十二日を定めて、犬合戦をさせたので、其日は一族、大名、御内外様(六)の家来達が、或は屋内に竝び、或は庭前に坐つて見物した。時には両陣の犬を一二百匹づつも放ち出して戦はした為め、互に入り乱れて追ひかけ合ひ、上になり下になりして噛み合ふ声が天に響き地をゆるがす程であつた。考へのない人々はこれを見て、あゝ面白い、人間が戦場で勝負を決するのと同じだといひ、考へのある人は、あゝ嫌な事だ、野良犬が野外で死骸を奪ひ合ふやうなものだと悲しんだ。
- 時政江島に参籠の事
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昔北條四郎時政が江島に参籠して子孫の繁昌を祈つた時、三七日の夜、赤い袴に青い裏の着物を著た美しい女房が現れて、お前の前生は箱根法師(七)である。前生の善根(八)で子孫は長く日本の主となつて栄華をつくすであらう。然し行ひが悪ければ七代以上は続かないぞ、と云つて帰り去つた。時政が其姿を見送ると、忽ち大蛇になつて海中へ入つたが、其の跡に大きな鱗が三つ落ちてゐた。時政はそれを取つて旗の紋とした、今の三鱗の紋が即ちそれである。北條氏は七代を過ぎても尚天下の権を握つて居る。今の高時は九代目であるが、いよいよ亡ぶべき時が来たので、不思議な行ひをするのではないかと思はれる。
- 大塔宮熊野落ちの事
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大塔宮二品親王は笠置の城の様子をお知りになりたいばかりに、暫くの間奈良の般若寺に隠れてゐられたが、笠置の城は既に落ちて、天皇は囚はれの御身となられた事を聞かれ、虎の尾をふむやうな危険さが御身に迫り、広い天地に御身を隠される処さへもなく、日月は明るいけれども御心は常に暗く、昼は野原に隠れて草叢に置く露に御涙を争ひ、夜は人里離れた村の辻に佇んで、人をとがめて吠える犬に御心を驚かされ、何時も何処でも安心される時処はなかつたが、今少しの辛棒と、缺乏と艱難を怺へてゐられる処へ、一乗院の候人(九)である按察法眼好専が、どこから聞いたものか五百余騎を引連れて、夜明け前に般若寺へ押寄せてきた。
折悪しく宮にお附き申してゐる者は誰れもゐなかつた為め、一防ぎ戦つてお逃げになるといふことも出来なかつた上、兵士が早や隙間もない程に寺の中へ入つて来たので、敵の目を晦まして逃げ出されるわけにも行かなかつた。よし自害しようと決心せられて早や膚をお脱ぎになられたが、腹を切るのはやさしいことだ、いつでも出来る。若しかすると助かるかも知れぬ、隠れてみようとお考へ直しになつて、仏殿の方を御覧になると、誰れかが読みかけたまゝさし置いた大般若の唐櫃(一〇)が三つある。二つの櫃はまだ蓋を開けてなかつたが、一つの櫃はお経を半分以上も取出して蓋もしてなかつた。此蓋の開けてある櫃の中へ御身体を小さくしてうつ伏しにお入りになり、其上にお経をひきかぶせて、隠形の呪文(一一)を御心の中で唱へてゐれらた。若し捜し出されたらそれまでだ、直さま突き立てるまでのことだと、氷の刃を御腹に当てがはれ、兵共が「やあ此処においでになる」といふ一言をお待ちになつてゐられた。其の御心中はいくら御察し申上げても深過ぎることはない。其の中、兵共が仏殿に乱入してきて、仏壇の下や天井の上まで残る隈なく捜したが、見出しかねて、「あれこそは怪しい。あの大般若の櫃を開けて見よ。」と云つて、蓋のしてある二つの櫃を開けて、お経を取出し、底をひつくり返して見たがいらせられない。蓋の開いてゐる櫃は見るまでもないと云つて、兵等は皆寺から出て行つた。大塔宮は不思議な御命拾ひをなさつて、夢心地でまだ櫃の中にゐられたが、若し又兵が引返してきて詳しく捜すやうな事があるかも知れないと、今度は兵共が見て行つた櫃の中へ御身を忍ばせられた。豫期した通り兵共は又仏殿に引き返して、
「先刻(さつき)、蓋の開いてゐたのを見なかつたのが気懸りだ。」
とお経を皆取り出して見たが、からからと打ち笑つて、
「大般若の櫃の中をよくよく捜したが、大塔宮はおいでにならないで、大唐(一二)の玄奘三蔵がおいでになつた。」
と一人が冗談を云つた。皆の者も一斉に笑つて、どや/\と門の外へ出て行つた。
こんな有様で、奈良辺りに御隠家を見出す事も出来ないので、宮はまもなく般若寺を出られ、熊野の方へお逃げになつた。御供の者は、光林房玄尊、赤松律師則祐、木寺相模、岡本三河房、武蔵房、村上彦四郎、片岡八郎、矢田彦七、平賀三郎ら、合せて九人であつた。宮を始めとして御供の者まで、皆柿の衣(一三)を着て、笈(一四)を掛け、頭巾(一五)を前下りに冠り、其中の年長者を先達に作り立てゝ、田舎山伏が熊野へ参詣する風に見せかけた。此大塔宮は皇居の中に人とならせ、御車に召さぬ限りは御外出なされた事がないから、長途の御歩行は御無理であらうと、御供の人々は前前からお気の毒に思つてゐたが、案に相違して極めて御けなげに、何時御習ひになつたといふ事もないが、怪しげな足袋、脚絆、草鞋をおはきになつて、少しもお疲れになつた御様子もなく、神社々々への御奉幣は勿論、宿々での御勤行も怠られなかつたので、途中で行き逢つた修行者も、修行をつんだ先達も少しもあやしまなかつた。
由良の港を見渡すと、沖漕ぐ船の梶を絶えて、浦の濱ゆふ(一六)は幾重とも知らぬ浪路に千鳥が鳴く。紀伊路の遠山は渺々と、薄紫の藤代の松には磯の浪がかゝつてゐる。和歌、吹上の景色をよそに見て過ぎると、月に瑩(みが)いた玉津島へさしかゝる。其美しさもさる事ながら今度の旗は場合が異(ちが)ふ。長汀曲浦を縫うてゆくと、自ら心が千々に砕けるが、孤村の樹が雨を含み、遠寺の鐘が夕べを送るのを見聞すると、一層切実な旅愁を覚える。其時ちやうど大塔宮は切目の王子へ着かれた。
其夜は叢祠の露に御袖を片敷いて、「逆臣が直ちに亡んで、朝廷が再び栄えますやうに」と、夜通し五体を地に投げての一心不乱のお祈りが、神に通じない筈はない。宮の御心には神慮のほどもそれと推し測られるやうに感じられたが、夜通しの礼拝で疲れられ、御肱を曲げて枕とせられた間もなく、うと/\と眠りに入られた。と、鬟を結つた童子が一人現はれて、
「熊野三山の間はまだ人心が不和であるから、大義を成される事はむづかしい。これから十津河の方へおいでになつて、時機の来るのをお待ち下さい。私が御案内いたしませう。」と云つたかと思ふと、それで御夢は覚め果てた。これは権現のお告げだ、誠に心強い事だと思召され、夜明け前に御悦びの御幣を捧げられて、すぐ十津河の方へお進みになつた。
其道程三百里の間には全く人里がなかつたから、或時は高山の雲に枕を欹(そばだ)て、苔の寝床に袖を片敷いて寝ね、或時は岩間に落つる僅かの水に渇を医し、朽ちかけた橋を渡つて心を冷した。山路では雨が降らずとも、樹々の間から起る湿気に着物が濡れる。見上げると、絶壁は刀で削りとつたやうに聳え、見下すと谷底は藍で染めたやうに水を湛へてゐる。数日間はこんな嶮しい山道をお通りになつた為め、御身体が疲れて汗が水のやうに流れた。御足は傷ついて破れ草鞋は血に染つた。御供の人々とて、鉄石の身ではないから、皆飢ゑ疲れてはか/゛\しくは歩き得なかつたが、宮の御腰を押し、御手を引いて、十三日目に漸く十津河へお着きになられた。
十津河では、戸野兵衛及び其叔父竹原八郎入道らの義心によつて、大塔宮は安らかな日を送られたが、やがて熊野の別当定遍に知られて、其奸計のため御身が危険に瀕したので、又こつそりと十津河を逃げ出され、高野山の方へおいでになられた。其途中はすべて敵地であるから、反対に敵を頼んで見ようと、先づ芋瀬の荘司の所へおいでになられた。芋瀬は宮に向ひ、鎌倉へ申し開きの為め、御供の中で名前の相当知れてゐる人を一人二人頂いて鎌倉へ渡すか、又は御紋のついてゐる御旗を合戦をしたといふ証拠に頂きたいと申上げた。宮は致し方なく御旗を渡して、其処を通過なされた。所が後れた御供の一人、村上彦四郎義光が宮に追ひ著かうと急いで来る途中、芋瀬の荘司が御旗を頂いてくるのに出会ひ、其理(そのわけ)をきいて大に怒り、御旗を奪取つて肩にかけ、あたふたと宮に追ひついた。
宮はかうして御苦難を嘗めさせつゝ行かれる中、玉置の荘司のきぴしい反抗に遭つたので、御供の人々と玉置の軍勢を相手に一戦し、然る後心静かに自害をしようと決心して立ち向はれた。其時、紀伊の国の野長瀬六郎、同七郎が三千余騎を率ゐて宮の御迎へに参り、玉置の軍勢をわけもなく攻め敗つたので、大塔宮は危い御命拾ひを為された。
そこから宮は無事に大和の槇野上野房聖賢が拵へた槇野城へおはいりになられたが、こゝも土地が狭くて都合が悪いので、遂に吉野の僧侶達を御味方に引き入れられ、吉野川を前にひかへ、岩切り通す(一七)愛善宝塔を城構へにして、三千余騎の兵を随へ、そこにお立籠りになつてゐると云ひ伝へられた。
註
(一)帝が身を浄められる儀式、賀茂川原で執り行はれる。
(二〕悠基主基の両殿で天神地祇を祭られる儀式、即位の御時に行はれる。
(三)本尊を安置する奥殿。
(四)鎌倉時代から室町時代にかけて行はれた遊芸。
(五)二つ共田楽の家元の名。
(六)御内は元々からの家来。外様は或機会に外から入つてきた家来。
(七)箱根権現に仕へる僧。
(八)よい応報を受くべき所行。
(九)門跡家に使はれる人。
(一〇)大般若経を入れた脚のある櫃。
(一一)摩利支天経の中にある身を隠す呪文。
(一二)大唐と大塔との発音が似てゐるので洒落て云つたもの。玄奘三蔵は大般若経六百巻の飜訳者。
(一三)柿色で無紋の衣。
(一四)行脚僧らが仏具、衣類、食器などを入れて背に負ひ歩くつづら様の箱。
(一五)修験者の冠るもの。
(一六)海辺に生ずる万年青のやうな植物。
(一七)「さゆる夜は氷るも早し吉野河岩切り通す水の白河」(新拾遺集)。
- 巻 第六
- 民部卿三位局御夢想の事
去年の九月に笠置の城が落ち、後醍醐天皇が隠岐の国へ遷幸遊された後は、此天皇に御仕へ申してゐた多くの役人達は悲しみを抱いてあちらこちらへ引き籠り、又多くの女官達も涙を流してめいめいに泣き沈んでゐた。それは世の習ひとは云へ、誠に哀れな有様であつた。中でも哀れを留めたのは民部卿三位殿の御局であつた。何故ならば、此御局は後醍醐天皇の御寵愛が深かつた上、大塔宮の御母君でもあられたので、他の女官達は此御方に較べると、花の側の深山木の色も香もないものに過ぎなかつた。それだのに世の中が乱れてからは、万事変つてきて、宮中にも定まつた御住居がなく、荒れ狂ふ波の上に船を浮べた海人のやうな心地で、頼りない御物思ひに日月を重ねられた。天皇が西海の浪遠く身を沈めさせられ、御袖の乾く間もなく歎き悲しんでゐられる御様子をお聞きになつては、暁の月に向つて思ひを遠く西の空に馳せられ、又大塔宮が南方の道もない山奥で雲の中にとぢこめられ、心の落着かぬ御生活を営んでゐられることをお聞きになつても、御文をさへお遺はしになる事も出来ない有様である。天皇を思ひ、大塔宮を思ひまゐらせて、なみ/\ならぬ御歎きの為めに、美しい黒髪はうすれ、紅玉のやうな御膚の色もあせて、何時の間に年とつたかと怪まれる程に老いこまれてしまつた。
あまりの悲しさに御局は北野神社へ参籠せられたが、或夜の御夢に、衣冠をきちんと着けた八十歳余りの老人が、左の手に梅の花を一枝持ち、右の手に鳩を刻んだ杖をついて、いと苦しげに御局のおやすみになつてゐる枕元に立ち現れた。御局は御夢心地で、誰れも訪ねてくる筈のない此土地へ、不思議なこと、道に迷つてたたずんでいられるのはどなたかとお尋ねになられた所、此老人は誠に悲しさうな様子で、一言も物を言はず、持つてゐた梅の花を御局の前に置いて帰つて行つた。御局は不思議に思はれて、其梅を御覧になると、一首の歌を書いた短冊がついてゐた。
廻りきてつひにすむべき月影の
しばしくもるを何なげくらむ
(歌意──廻り廻つてきて、しまひには美しく澄む筈の月影が、一寸の間曇つたからとて、何をそんなに歎く事があらう。)
御夢が覚めて後歌の意味をお考へになり、これはやがて天皇が御還幸になつて、再び宮中にお住まひになられるといふめでたい兆(しるし)だと其夢を判ぜられ、いと力強い事に思召された。
- 楠天王寺に出張りの事附隅田高橋竝宇都宮が事
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楠兵衛正成が自害したやうに見せかけて、赤坂城を逃げたのを真実と思ひ、鎌倉方では其跡へ湯浅孫六入道定仏を地頭に置いて安心してゐた所、元弘二年四月三日楠正成は五百余騎を引き連れて、不意に湯浅の城へ攻め寄せ、息も継がせず攻め立てゝ攻め落し、其湯浅の軍勢を併せた七百余騎で和泉河内の両国を打ち従へ、今は雲霞の如き大軍となつたので、五月十七日に住吉天王寺辺へ押寄せ、渡部の橋から南に陣を取つた。
それと知つて京都では大いに驚き、隅田、高橋を軍兵監督に任じ、五千余騎をつけて天王寺へさし向けた。隅田、高橋は遙に楠の軍勢を望んで、それが小勢である上、如何にも弱々しさうなので、すつかり侮つて一気に撃ち滅ぼさうと、勝を焦つて攻め込んだ為め、正成の計略にかかつてまたたく間に打ち破られ、残り少くなつた軍勢は、辛うじて京都へ逃げ帰つて来た。
両六波羅ではこれをきいて安心が出来ず、其頃鎌倉から援軍として上京してゐた宇都宮治部大輔を招いて、楠の軍勢を打ち平げて呉れるやう頼み込んだ所、宇都宮はすぐさま引き受けて自分の宿所へは帰らず、そのまま六波羅から直に天王寺へと向つた。始めの内は主従併せて僅に十四五騎であつたが、四塚(よつゞか)作道では五百余騎となつた。それらは誰れ一人生きて帰らうと思ふ者もなかつた。所がこれを聞いた河内国の和田孫三郎は、楠正成に向つて、
「たとへ宇都宮がどれ程の武勇の達人であつても、大した事はありますまい、今夜逆襲をして打ち破りませう。」
といふのを、正成は制してしばらく考へ、
「合戦の勝敗は何も大軍小軍によつて決せらるるものではない。前の合戦に大軍が負けて退いた後へ、宇都宮が一人小軍勢で攻めよせて来るからには、まさか生きて帰らうと思つてはゐまい。其上宇都宮は東国一の立派な武士である。又それに従ふ紀氏、清原氏の兵共は、もと/\戦場で生命を捨てる事を何とも思はない人達である。そんな兵士が七百余騎も心を一つに合して決戦すれば、身方の大半は必ず討たれるであらう。天下の大事は今度の合戦のみで決せられるものではない。前途の遠い合戦に多くもない身方が最初の合戦で討たれたならば、後の戦ひには誰れの力を合して戦はう、良将は戦はずして勝つといふ事がある。正成は明日わざと此陣を捨てゝ退却し、敵に面目の立つやうに思はせ、四五日経(た)つてから方々の山で篝火を焼いたならば、彼等は必ず長居は危瞼だ、面目の立つてゐる間に引き返さうといふであらう。諺に進むも退くも折(をり)によるとは、このやうな場合を云ふのである。あゝ明け方近くなつた、敵はきつと押寄せてくるだらう。さあ立てよ。」
と云つて、天王寺を退いたから、和田、湯浅らも一所に引き上げた。
夜が明けると、宇都宮は七百余騎の軍勢で天王寺へ押し寄せ、古宇都(こうづ)の民家へ火をつけて鬨の声を上げたが、敵は居ない事とて誰れも出て来ない。紀氏、清原氏の軍勢は馬の足を揃へて天王寺の東西の口から攻め入つて、二三度も攻め入り攻め入りしたが、敵は一人も居らず、夜はほのぼのと明けはなれた。
宇都宮は戦はないで一勝ちした心地で、大いに喜び、直ぐさま京都へ急使を出して、「天王寺の敵を立所に追ひ払つた。」と報告したので、六波羅では皆宇都宮を誉めぬ者はなかつた。
四五日たつて後、楠、和田らは和泉、河内の野武士達を四五千人集め、それにちやんとした兵士を二三百騎つけて、天王寺附近に遠篝火を焚かせた。宇都宮の軍勢はそれを見て、敵が攻めて来たと騒いだが、夜の更け行くまゝに、秋篠や外山の里、生駒の山に見える火は晴れた夜の星よりも多く、又志城津(しきつ)の浦や住吉(すみよし)難波(なには)の里で焚く篝火は、波を焼く漁火かと怪しまれ、其軍勢は何万騎あるか分らない程である。こんな有様で三晩すぎ、火が段々近づいて来たので、油断なく待ちかまへてゐた宇都宮は、勇気疲れ、武力挫けて、今の中に退却しようかと思ふ心が起つて来た。そこへ紀氏、清原氏らもそれを勧めたので、意見は忽ち一致し、七月二十七日の夜半に、宇都宮は天王寺を退いて京都へ上つたので、翌日の早朝に楠は入れかはつて天王寺を占領した。若し宇都宮と楠とが勝負を決したならば、互角の戦、二人共一所に死んだであらう。それをちやんと知つてゐて、一度は楠が退き、一度は宇都宮が退いた。かうした見透かしは才智深謀にたけた良将でなければ出来ることでないと、ニ人を誉めぬ者はなかつた。
- 正成天王寺の未来記披見の事
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元弘二年八月四日、楠兵衛正成は天王寺に御詣りをして、白鞍(一)をつけた馬と白覆輪の太刀(二)とに鎧を一重ねそへて寄進した。これは大般若経の転讀(三)の御布施(四)である。言上を終つて寺僧が巻数(五)を捧げてきた。そこで正成は対面をして、「昔聖徳太子の御時、日本一国の未来記を書き置かれたといふ事であるが、若し拝見が願へるならば、今の時代に当つてゐる巻だけを一見致したいものです。」
と云つた所、寺僧は、
「これは容易に人に見せられないものだが、其許に限りこつそり御目にかけませう。」と云つて、金軸の書一巻を取出した。正成は悦んでそれを見ると、明年の春頃、後醍醐天皇が隠岐国から還幸、再び帝位に陞られると想像し得べき記事があつた。正成は文意をよく考へて、天下の騒乱はもう長くないと、金作りの太刀(六)一振を老僧に與へて、其書を元の所へしまはせた。
- 赤松入道円心に大塔宮の令旨を賜はる事
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其頃播磨国の住人に、村上天皇の第七の御子具平親王から六代目の従三位季房の末孫に、赤松次郎入道円心と云つて、武勇双びなき勇士があつた。其円心の所へ、此二三年来、大塔宮のお供をして、吉野や十津河で苦しんで来た息子の律師則裕が、親王の命令書を捧持して来た。披いてみると、「直に忠義の兵を挙げ、軍勢を引き連れて、北條氏を討ち滅ぼせ。其功績あれば恩賞は望みにまかせる」と書かれてあつた。円心は大に悦んで、先づ播磨の佐用荘苔縄の山に城を作り、加担者を招き、其威勢が段々附近の国々を風靡したので、国中の兵士が馳せ集つてきて、まもなく一千余騎の大軍となつた。
- 関東の大勢上洛の事
畿内西国に兵を上げる者が段々多く現はれて来た事を、六波羅から急使で鎌倉へ知らしたので、北條高時は大いに驚き、直ぐ討手をやれと云つて、一族の者や関東八箇国の中で有名な大名達を召集して打ち向はせた。先づ一族の阿曾弾正少弼、名越遠江守、大仏(おさらぎ)前陸奥守貞直らを始めとして重だつた大名百三十二人、其軍勢すべてで三十万七千五百余騎は、九月二十日に鎌倉を立つて、十月八日に先頭が京都へ着いた。そればかりでなく河野九郎は四国の軍勢を引連れて大船三百艘に乗り、尼崎より上陸して下京に着き、厚東入道、大内介、安芸熊谷らは周防長門の軍勢を引連れて兵船二百余艘に乗り、兵庫より上陸して西の京に着き、甲斐信濃の源氏七千余騎は中山道を通つて東山へ着き、江馬越前守、淡河右京亮(あはかはうきやうのすけ)は北陸道七箇国の軍勢を引連れ、三万余騎で東坂本を通つて上京に着くなど、凡て諸国七道の軍勢が我も我もと馳せ上つてきたので、京都中は到る処軍勢の屯営でないのはなかつた。
さて元弘三年正月末日に、諸国の軍勢八十万騎を三手に分けて、吉野、赤坂、金剛山の三つの城へ向はせた。先づ吉野へは二階堂出羽入道蘊を大将として他の軍勢を交へず、二万七千余騎を三手に分けて向つた。赤坂へは阿曾弾正少弼を大将として、其軍勢八万余騎は天王寺住吉へ陣を張つた。金剛山へは陸奥右馬助が搦手の大将となつて、其軍勢二十万騎で奈良路から向ひ、長崎悪四郎左衛門尉は特別に侍大将(七)を仰せつかつて大手へ向つたが、わざと自分の軍勢の有様を人に知られようと思つたものか、一日おくれて出發した。
- 赤坂合戦の事附人見本間抜懸の事
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赤坂の城へ向つた阿曾弾正少弼は、天王寺に二日留つて軍勢を整へ、二月二日の正午頃から戦を始める手筈を定め、それ迄に抜懸をした者は処罰するといふ触れを出した。
ここに武蔵の国の住人に、人見四郎入道恩阿といふ者があつた。此恩阿が本間九郎資貞に向つて、
「明日の合戦には先懸をして、第一番に討死して、後の世までも名を遺さうと思ふ。」と語つた所、本間九郎は心中ではもつともだと思ひながら、口では、
「これ位の戦に、先懸をして討死しても、大した手柄ともいへまい。」
といつたので、人見は事の外に不機嫌で、本堂の方へ行つたが、本間が人に後をつけさして見た所、矢立を取出して石の鳥居へ何か一筆書きつけて、自分の宿へ帰つて行つた。本間九郎は人見が明日は必ず先懸をするだらうと、きつと夜の中から立ち出でゝ、唯一人で東条をさして行つた。石川河原で夜明けを待ち、朝霧をすかして南の方をみると、紺の唐綾縅の鎧(八)に白母衣(九)を懸けて鹿毛の馬(一〇)に乗つた武士が一騎赤坂の城の方へ向つて行つた。何者だらうと馬を近寄せてみると、人見四郎入道であつた。人見は本間を見つけて云ふには、
「昨夜の貴公の言葉を真実と思つたなら、孫程年の違ふ貴公に拙者は出し抜かれてゐたらう。」
と笑ひながら馬を早めた。本間は後から追ひかけて、
「今は互に先を争ふに及ばない。一所に討死をして冥途までお伴を仕らう。」
といふと、人見は、「言はずと知れた事だ。」と返事をして、後になり先になり話をしながら進んで行つた。やがて赤坂城近くなつたので、二人の者は馬の鼻を双べてかけ上り、堀の際まで押寄せて鐙を踏ん張り、弓杖をついて、大声に名乗を上げた。
「武蔵の国の住人、人見四郎入道恩阿、今年七十三歳、相模の国の住人、本間九郎資貞、年三十七歳、鎌倉を出て以来軍の先懸をして戦場に死骸を曝さうと思つて来た。我と思はん人々は出で合つて、手並の程を御覧ぜよ。」
と口々に呼び上げて、城を睨んで立つてゐた。城中の者共はこれを見て、
「これだ、坂東武者のやり口(くち)は。後を見ても続く者はない、又さまでの大名とも思はれない。乱暴者(あぶれもの)の不敵武者(ふてきむしや)に組み合つて、命を捨てたとて何になる。打捨(うつちや)らかして置いて様子を見よう。」
と物音をひそめて、返事もしなかつた。人見は腹を立てて、
「早朝から来て名乗を上げるのに、城から矢の一本も射出さないのは、臆病の為めか、敵を馬鹿にしての事か。よし、それなら我々の腕前を見せてやらう。」
と馬から飛び下り、堀の上の細橋をさら/\と走り渡つて、出張つた塀の脇に沿うて進み、戸口を切り落さうとしたので、城中の兵共(つはものども)は騒ぎ出し、城壁の矢間や櫓の上から雨の降るやうに射かけた矢が、二人の鎧へ蓑の毛のやうに立つた。本間も人見ももと/\討死の決心をしてゐる事とて、どうして一歩も退かない。命限り戦つて二人共一所に討死をしてしまつた。これを聞いた本間の息子源内兵衛資忠(げんないびやうゑすけたゞ)は泣き悲しんで、父のお供をしようと、又唯だ一人で赤坂城へ向ひ、遂に父の討たれた場所で討死をした。
さて阿曾弾正少弼は八万余騎の軍勢を引き連れて赤坂へ押し寄せ、城の四方二十余町の間を雲霞の如き大軍で取巻いて、鬨の声を上げた。其声は山を動かし、地を震はし、大空の果も破れるかと思はれる程であつた。此赤坂城はもと/\要害の所にあつて、如何なる大力早技の者でも容易には攻め落せさうにもなかつたが、寄手は大軍であるので、敵を馬鹿にして、楯も持たず、敵の矢のくる正面を進んで、堀の中へ飛び込み、崖を上らうとする処を、城中では堀の内から選(よ)り勝(すぐ)りの弓上手達が、思ふ存分に射かけたので、戦の度毎に手負や死人が五百人六百人と出ない事はなかつた。それでもひるまず、新手の軍勢を入れかへ入れかへ、十三日までひた攻めに攻め立てた。けれども城中には、少しも弱つた様子が見えなかつた。
此時播磨国の吉河八郎といふ者が、大将阿曾の前へきて、
「此城は三方が谷、一方が平地で、どこに水のあらう筈もないのに、火矢を射れば水弾きで消す。これはきつと南の山奥から地の底に樋を通して城中へ水を引き入れてゐるに相違ない。人夫を集めて山の腰を掘らせて見ようではありませんか。」
と申したので、大将は人夫を集めて、城に続いた山の裾を掘らせて見ると、思つた通り地下二丈余りの処に樋を通し、十町余りの外から水を取つてゐた。此水をとめられてからは城中では水が乏しく兵共(つはものども)は口中の渇きに堪へず、草の葉に置く朝露をなめたり、夜気に湿つた地に身を横たへたりして、四五日の間はともかくも凌いだが、待つてゐる雨はなか/\降らなかつた。寄手はこれにつけこんで、絶間もなく火矢を射かけたので、表門の櫓は二つも焼かれてしまつた。
城中の兵は十二日間も水を飲まなかつたので、自ら力が尽き、今は防ぎ戦ふ手段もなくなつてしまつた。どうせ死ぬる命だ、まだ力のある間に打ち出して敵と刺し違へて討死をしようと、城の門を開いて打ち出さうとした所を、城の大将平野将監入道がとどめて、「はやまつてはいけない。かう疲れた力では、適当な敵と渡り合ふ事もむつかしい。吉野、金剛山の城はまだ勝負が決せず、西国の乱も静まらない今日、我々が降参するとしたらどうなるだらう。我々を殺せば他の者が懲りて、今後は降参する者がなくならう。今、我々が降参しても、決して殺すやうな事はあるまいから、暫くの間敵に降参して、時機の来るのを待たうではないか。」と云つたので、皆其意見に賛成し、其日の討死はやめてしまつた。翌日平野入道は敵将渋谷十郎を通じて降参を申入れ、城中の兵二百八十二人と共に城を出た。長崎九郎左衛門尉は之を請け取つて、甲冑太刀等を奪ひ取り、縛り上げて六波羅へ送つた。六波羅では合戦の始めであるから、血祭にして人のみせしめにしようと、六條河原へ引き出して一人も残らず首を切り落して獄門にかけた。
註
(一)銀を張つた鞍。
(二)銀で鞘の縁を覆ううた太刀。
(三)経巻を処々省いて読む事。
(四)僧に與へる品物。
(五)経巻の目録を記した書き物。
(六)金具を黄金で作つた太刀。
(七)侍で一軍の大将たる者。侍は七位以上の貴人に祇候するもの。
(八)紺色の唐綾で札を縅した鎧。
(九)銀を張つた母衣。母衣は矢を防ぐ為めに背に負ふもの。
(一〇)茶色で鹿の如き毛色の馬。
- 巻 第七
- 吉野の城軍の事
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元弘三年正月十六日、二階堂出羽入道道蘊は六万余騎の軍勢で、大塔宮が立籠つてゐられる吉野の城へ押し寄せた。菜摘川のよどみから城の方を見上げると、山の上には白旗、赤旗、錦の御旗が、奥山から吹きおろす風に飜つて雲か花かと見あやまる程であつた。麓には数千の官軍が兜の星をかがやかせ、鎧の袖を並べて居ならび、刺繍をした錦のやうに土地が見えた。山が高い上に、道は細く嶮しく、苔が生へて、すべ/\してゐたので、何十万騎の軍勢で攻めようとも、容易く攻め落されさうには見えなかつた。
十八日の朝六時頃から南軍は互に矢合せをして、新手の軍勢を入替へ/\攻め戦つた。官軍は土地の様子をよく知つてゐる者達故、此処の行きつまり、彼処の嶮所を走り廻つて、追ひかけ、攻め立て、散り、群がつて、無茶苦茶に射た。寄手も亦た生死を気にかけない坂東武者であるから、親や子が討たれても互ひにかへりみもせず、主人や家来が討たれてもものともせず、死骸を乗越え乗越え攻め近づき、昼夜七日間を休みもせずに戦ひ合つたので、城中の軍勢は三百余人討たれ、寄手も亦八百余人討たれた。まして矢に当つたり石で打たれたりして、生死の分らぬ者は数へきれない程で、血は草木を染め、骸は路を哩めつくした。けれども城中は少しも弱つた様子がなかつたので、寄手の兵士達は大部分飽いて来たやうであつた。
所が寄手の案内者である吉野の執行(一)、岩菊丸が土地慣れた百五十人の兵を選み、危険をおかして城の後の金峯山によぢ登り、防ぐ兵の居ないのを幸ひに忍び込み、城中の兵が大手の敵と必死になつて戦つてゐる処へ、鬨の声を上げて攻め込んだ為め、城中の兵は前後の敵を防ぎかねて、腹を切つたり、刺し違へたりして、思ひ思ひに討死をした。
搦手の敵が思ひがけなく勝手の明神の前から押し寄せて、大塔宮がおいでになる蔵王堂へ攻めかゝつて来たので、大塔宮はもはやこれまでと決死の覚悟をせられ、赤地の錦の鎧直垂(二)に、緋縅の鎧(三)のまだ新しいのをしやんとおつけになり、龍頭の兜(四)の緒をしめ、三尺五寸の小長刀を脇に挟み、すぐれた兵二十余人を前後左右に従へ、群がる敵の中へ走り込み、東西南北に追ひ払ひ、追ひ廻し、黒煙を立てゝ斫り廻られたので、寄手は大軍ではあつたが、纔の軍兵に切りまくられ、木の葉が風に散るやうに、四方の谷へさつと引き退いた。
敵が退くと宮は蔵王堂の大庭へ大幕を引かせて、最後の御酒宴を張られた。其処へ村上彦四郎義光が鎧にさんざん矢を受けたまま馳せつけて、
「おそれ多い事でございますが、お召になつていられる錦の御鎧直垂と甲胃とを私が頂き、御名を冒し奉つて敵を欺き、御身代りになりたうございます。」
と申上げて、御鎧の上帯(五)をお解き申したので、宮は涙をお流しになり、勝手の明神の前を南へ向つてお逃げになられた。
義光は二の門の高櫓に上つてお見送り申し上げ、宮の御後姿が遙に遠くなられたのを見定め、今はこれまでと、櫓の窓の板を切り落し、敵前に身を現はして大声に名乗を上げた。「天照大神の御子孫、神武天皇から九十五代目の帝、後醍醐天皇の第二の皇子、一品兵部卿親王尊仁、賊の為めに亡ぼされ、恨を黄泉で返さん為めに今こゝに自害をする。此有様をよく見届け置いて、汝等の武運が直ぐさま尽きて、腹を切らうとする時の手本にせよ。」と云ひも終らず、鎧を脱いで櫓より投げ落し、錦の直垂だけとなり、練貫(六)の二重小袖をぬぎ、白く美しい肌に刀をつき立てて左から右へ腹一文字にかき切つて、腸をつかみ出し、櫓の板に投げつけて、太刀を口に啣(くは)へ、うつぶしとなつて死んでしまつた。
これを見て敵共が騒いでゐる間に、宮は天河(あまのがは)へ逃げ延びられた。
村上彦四郎の子の兵衛蔵人義隆は宮の御供をしてゐたが、逃げ行く道に危険が迫つたので、一人踏み留まり、追つて来る敵を切り立て、薙ぎ伏せ、五百騎を相手に半時ほどの間防ぎとめて後、腹かき切つて死んだ。其間に宮は虎口を脱せられて、高野山へ落ち行かれた。
- 千剣破城軍の事
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千剣破城の寄手は最初の軍勢八十万騎に、赤坂の軍勢、吉野の軍勢が加つて、総数百万騎以上にもなつたが、此大軍にも恐(お)ぢず、千人にも足らぬ小軍勢で、誰れを頼りにするといふ事もなく、又助けを待つといふのでもなく、城にかゝつて防ぎ戦つた楠正成の心は実に大胆不敵なものであつた。
此城は、東西が深い谷で、人の登るべき術もなく、南北は金剛山続きで、嶮しい峯が聳えてゐる。けれども高さは二町ばかり、廻りは一里もない小城であるから、大した事はあるまいと、寄手は見るから侮つて、初め一二日は向陣(七)も取らず、攻め支度も用意せず、先を争つて城の門の辺まで楯をかついで攻め上つた。城中の兵は少しもあわてず、音も立てずにゐたが、やがて高櫓の上から大石を投げかけて、楯の板を滅茶々々に砕いてしまひ、動揺する処を絶え間もなく射かけたので、敵は四方の坂から転がり落ち、重なり合つて負傷をしたり死んだりする者が、一日中に五六千人も出た。で寄手は其後暫くの間戦をやめて、己れの陣所々々を構へた。
やがて赤坂城を攻めた阿曽弾正の意見によつて、寄手の大将達は名越越前守を大将として三千余騎の軍勢をつけ、城の東の山の麓を流れてゐる谷川の辺に陣を取らせ、城から水汲みに来る人の通りさうな道々に逆茂木をつくつて待つてゐた。正成は元来勇気と智謀とを持つた人であるから、此城を作つた最初から水利を考へ、城中には多量の水が用意してあつたので、強ひて此谷川の水を汲みにゆく必要もなかつた。水を守つてゐた敵兵達は今来るか今来るかと、毎夜油断もなく待つてゐたが、城中からは一人も来ないので自づと心が弛み、段々用心を怠るやうになつてゐた。正成はこれを見定めて、よりすぐりの弓上手二三百人を、夜に紛れて城から出し、日の昇りきらない中に押し寄せて、水辺に番をして居た者二十余人を斬り倒し、隙間もなく切り込んだので、名越越前守はたまりかねて、本の陣へ引き退いた。楠の軍勢は捨ててあつた旗や大幕を持つて、静に城中へ引き上げたが、其翌日城の表門に三本傘の紋のついた旗と何じ紋のある幕とを拡げ、
「これは皆名越殿から頂いた御旗であるが、御紋附きは他人には無用であるから、御身方の方々は此処へ来てお持ち帰り下さい。」
と云つて一度にどつと笑つたので、それを聞いた天下の武士達は、
「さて/\名越殿は不面目な事をされたものだ。」
と云はぬ者はなかつた。名越一家の人々は之を聞いて大に怒り、越前守は、
「当家の兵は一人も残らず、城門を枕に討死せよ。」
といふ命令を出したので、彼れの手下五千余人は必死となつて戦ひ、討たれても射られてもびくともせず、死骸を乗り越え/\、城の逆茂木を取りのけて、崖の下まで攻め込んだが、崖は高い上に切り立てたやうになつてゐるので、心は焦つても登る事が出来ず、唯だ城を睨んで、怒りをおさへて息づいて居た。此時城中では、崖の上に横たへて置いた大木を、十本ばかり切つて落したから、寄手四五百人はそれに圧しつぶされた。大木を避けようと入り乱れて騒いでゐる処を、あちらこちらの櫓から思ふ存分に射かけたので、五千余人の兵共は残り少なに討ち取られて、其日の戦は終つた。
長崎四郎左衛門尉は其有様を見て、
「此城を力づくで攻め落さうとすれば、人が討たれるばかりだ、成功はしない。取巻いて兵糧攻めにせよ。」
と命令して、戦を止めさせてしまつた。其為め寄手の軍勢は退屈にたまりかねて、連歌を始めたり、棊や双六を打つたり、茶の湯や歌合をしたりして日を過してゐた。これには城中の兵も困つたが、正成は、
「よし、それなら又寄手をだまして眼をさましてやらう。」
と人間の大きさの藁人形(わらにんぎやう)を二三十作り、それに甲冑をきせ、武器を持たせて、夜中に城の麓に立て置き、其前に畳楯(八)を立てならべ、其後に選り抜いた兵士五百人を交へておいて、夜の明けかけの霧のたてこめてゐる中から、一時にどつと鬨の声を上げた。四方の寄手は鬨の声をきいて、
「それ、城中から打つて出たぞ。」
と先を争つて攻め合つた。城兵は前々から仕組んだ事であるから、矢を少し射かけて戦ふやうに見せかけ、大軍を近づけておいて人形のみを残し、段々に城の中へ引返して行つた。寄手は人形を本当の兵だと思ひ、これを討たうと集つて来た。正成は考へ通りに敵をだまして近寄らせ、大石を四五十、一度にどつと投げ落した。其為め一所に集つてゐた敵三百余人はいきなり打殺され、半死半生の者が五百余人も出た。戦がすんでこれを見ると、誠に強い勇者と見えて一歩も退かなかつた兵士は、皆人ではなくて藁人形であつた。これを討たうと集つて来て、石に打たれ矢に中つて死んだ所で功とはならず、又恐ろしがつて進み得なかつた者も我心の臆病さが知れてなさけない。どちらにしても多くの人の物笑ひとなつた。
同じ年の三月四日に鎌倉の使者が来て、「戦をやめて無駄に日を送る事はまかりならぬ。」といふ下知を伝へたので、寄手の重立つた大将達は集つて相談をなし、身方の陣所と敵の城との間にある深い堀に橋を渡して城へ攻め込まうと考へた。其為め京都から大エを五百余人も召し出し、五六寸或は八九寸の材木を集め、広さ一丈五尺、長さ二十丈以上もある梯(はしご)を作らせた。梯がいよいよ出来上つたので、大綱を二三千筋つけ、車で其綱を巻いて城の崖の上へ倒し懸けた。軈て心のはやり勇んだ兵士五六千人が橋の上を渡り、先を争つて進んで行つた。かうなつては此城も今に攻め落されるだらうと思はれた。と、其時、楠は前から用意がしてあつたものか、投松明の先に火をつけて橋の上に投げ集め、水弾(みづはじ)きで油を瀧のやうにふりかけたので、火は橋桁に燃えつき、谷風に炎を吹きあほられて、なまなかに渡りかかつた兵士達は、前へ行かうとすると猛火が盛んに燃えてゐて身を焦し、後へ引返さうとすると後の者が前の苦しさも知らずに大勢押しかけるし、側へ飛び下りようとすると、谷が深く、岩が聳え立つてゐて思ひ切れない。どうしようかと身をもがいて押し合つてゐる中に、橋桁は真中から燃え折れて谷底へどつと落ちたので、数千の兵も亦た重なり合つて落ち、一人も残らず死んでしまつた。
其中に吉野、十津河、宇多、内郡の野武士達が、大塔宮の命令に従つて七千余人も集つて来た。それらが彼方此方の山や谷に隠れてゐて、千剣破城の寄手の往来する路を塞いでしまつた為め、諸国の兵糧はまたたく間に絶えてしまひ、人も馬も共に疲れたので、百騎、二百騎とちりぢりに退いて、帰郷する者が相尋(つ)いで現はれ、始め八十万騎といはれた大軍も、今は纔かに十万余騎になつてしまつた。
- 新田義貞に綸旨を賜ふ事
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上野国の新田小太郎義貞は、八幡太郎義家の十七代目の子孫で、源氏の正統であつたが、平氏が天下の権力をとり、国内は皆其威光に服従してゐた時だつたので、致方なく鎌倉の催促に随つて金剛山の搦手に向つてゐた。けれども本国へ帰つて忠義の旗上げをしたいと考へ、何とかして大塔宮の令旨(九)を頂きたいと、或日執事の船田入道義昌に相談した。船田入道は野武士を語らつて、うまく大塔宮の令旨を手に入れた。義貞がそれを開いてみると、令旨ではなく綸旨(一〇)の文章に書かれてあつたので、一方ならず悦び、其翌日から偽つて病気と云ひ立て、急いで本国に帰つて、旗上げの準備に着手した。
- 赤松蜂起の事
赤松二郎入道円心は播磨国苔縄城から攻めて出で、山陽山陰の道を塞いで、山里梨原の間に陣をとつた。所が備前、備中、備後、安芸、周防の軍勢が、六波羅の催促で上京しようと攻め上つて来て三石の宿に集り、山里の軍勢を追ひ払つて通らうとしたのを、赤松筑前守が船坂山で防ぎとめ、重立つた敵二十余人を生捕にしたが、それを殺さず、情をかけてやつた為め、伊東大和二郎は其恩に感じて官軍に身方し、三石山に城を作つて義兵を上げたので、西国の路は益々塞り、中国は一方ならず動乱した。西国から上京する軍勢は伊東に防がせておいて、赤松は高田兵庫助の城を攻め落し、束(つか)の間(ま)も休まず山陽道を目ざして攻め上り、途中の軍勢を合して七千余騎となつたので、兵庫の北にある摩耶山の寺を城に構へて、六波羅との距離を僅か二十里ほどに縮めた。
- 河野謀叛の事
六波羅では、四国の軍勢を摩耶の城へ向けようと相談してゐる所へ、伊豫国から急使が来て、「土居二郎、得能彌三郎が宮方に附いて旗上げしたので、長門の探題(一一)上野介時直が伊豫へ渡り、星岡で合戦をしたが、長門周防勢は一戦で負け、時直父子は行方不明である。其後四国の兵共は皆土居、得能に従つたので、其軍勢は六千余騎となり、今京都へ攻め上らうとしてゐる。御用心あれ。」と告げ知らした。
- 先帝船上へ臨幸の事
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諸国に官軍が起ると、隠岐では後醍醐天皇の御警固が一層厳しくなつた。閏二月の下旬には、佐々木富士名判官義綱が警固の番に当つた。此人は天皇をお助け申して謀叛を起したいと思つてゐたので、或夜こつそりと女官を通じて諸国の官軍の様子を申上げ、我が当番の間にそつとお逃げになつて、千波(ちぶり)の湊から御船に召され、出雲か伯耆の港へ御上陸あつて、頼りになりさうな武士を頼られ、暫くお待ち下さらば、恐れ多い事ではございますが、私がお攻め申すやうな様子に見せかけて御身方に参りませうと申上げた。そこで天皇は、「ではお前が先づ出雲の国へ行つて、身方になる者を集めて迎へに来い。」と仰せられたので、佐々木は出雲へ行つて塩谷判官に相談した所、塩谷は佐々木を押し籠めて置いて、隠岐の国へ帰なかつた。
天皇はしばらくお待ちになつてゐたが、義綱の帰りが余りに遅いので、運を天に任せて逃げて見ようと考へられ、或夜闇に紛れて、三位殿の御局が御産の為めに御所を出られると触れさせ、天皇は局の御乗物にのられ、六條少将忠顕朝臣だけをお供に、そつと御所を既出せられた。途中で乗物をお捨てになり、折柄三月二十三日の月の出の遅い暗夜に、あやめもわかぬ野道を辿り辿られる事であるから、もう大分来たらうと心では思はれるが、まだ後の山の瀧の音がかすかに聞える程しか距つてゐなかつた。若し追手の来るやうな事があつてはと、恐ろしい思ひをせられながら、一足でも先へ進まうと御心のみは焦られても、慣れさせぬ御歩行の事とて、夢路を辿る御心持で、同じ場所にのみ休んでゐられた。これではいけないと、忠顕朝臣は御手を引いたり、御腰を押したりして、今夜中に何とかして湊の辺まで行きつきたいと、心は焦つても足がいふことをきかず、身も心も疲れはてゝ、唯だ野道の露に濡れるばかりであつた。
其中、忠顕朝臣は一軒家を見出し、湊へ行く道を尋ねた所、内から出て来た賎しげな男が、天皇の御有様をしげ/\と見上げ奉つて、御いたはしく思つたものか、「私が御案内いたしませう」と、天皇を軽々と負背ひ奉つて、間もなく千波(ちぶり)の湊へ着いた。此男は湊の中をまめ/\しく走り廻つて、伯耆の国へ帰る商人船をさがし出し、天皇を屋形の中へお入れ申して後、御暇乞ひをして帰つて行つた。
夜が明けると船頭は纜をといて帆を上げ、湊の外へ漕ぎ出した。船頭は天皇の御有様を御見上げ申して、凡人ではないと思つたものか、屋形の前に畏つて、
「かういふ折に船にお乗り下さつた事は、私共の一生涯の誉れでございます、何処の湊へでも、着けと仰せ下さる処に梶を向けまする。」
と云つて、真心をこめた様子であつた。忠顕朝臣はこれを聞いて、隠しては却つてよくなからうと、船頭を側近くへ呼び寄せて、
「何を隠さう、屋形の中においでになるのは、畏れ多くも日本国の主たる天皇陛下であらせられる。お前達も豫て聞いてゐたらうが、去年以来隠岐判官の屋敷に押し籠められてゐられたのを、我が盗み出してお連れ申したのである。出雲伯耆の間で、よいと思ふ湊へ急いで船を着けてもらひたい。」
といはれたので、船頭は嬉しさうな面持で、取梶面梶(一二)を取り合せ、斜に風を受けるやうに帆を傾けて走らせた。
所が隠岐判官清高の船が十艘ばかり、天皇の御後を追つて漕ぎよせて来た。船頭達は、「これは敵はない、どうぞお隠れ下さいませ。」と、天皇と忠顕朝臣とを船底へお隠し申し、其上へ乾魚(ほしうを)の入(はい)つてゐる俵を積み重ね、水夫や船頭達が其上に竝んで●(「舟」へん+「虜」)を押した。やがて追手が追ひついて、御座船の屋形の中へ乗り移り、彼処此処と捜したが、お見つけ申す事が出来なかつた。
「さては此船でなかつたか。お前達は怪しい船を見なかつたか。」
と尋ねたので、船頭は、
「今夜子の刻(一三)に千波(ちぶり)の湊を出ました船に、京都の公卿衆と思はれる人が二人乗つてゐましたが、其船はもう五六里も先へ行つたでせう。」
と答へると、追手の人達は、「それだ/\、早く走らせ。」、と云つて遠ざかつて行つた。もう安心だと思つて後を見ると、又一里程後から、追手の船が百艘余り御座船を目がけて飛鳥の如くに追ひかけて来る。船頭はこれを見て帆の下に●(「舟」へん+「虜」)(ろ)をつけ、一気に渡らうと懸声勇ましく漕ぎだしたが、生憎風が弱り、御座船は潮に逆つて一向前へ進まない。水夫や船頭がどうしようかとあわて騒いでゐると、天皇が船底からお出ましになり、膚につけてゐられる御守の中から御舎利(一四)を一粒取出され、御畳紙(一五)に載せて波の上へ浮べられた所、風向が俄に変つて御座船を東の方へ吹き送り、追手の船を西の方へ吹きもどした。そして御船は間もなく伯耆の国の名和の湊へ着いた。
忠顕朝臣は船から下りて、
「この辺の武士では誰れが有名か。」
と問はれた所、道行く人が立ちどまつて、
「名和又太郎長年といふ者が居ります。大した武士ではありませぬが、家は富み、一族は栄え、恐ろしく考へ深い男でございます。」
と語つた。忠顕は尚詳しくきいて、直ぐさま勅使を立て、
「天皇は隠岐判官の屋敷を御逃げになり、今此湊へお着きになつた。長年の武勇は前々からお聞きになつてゐられたので、お頼り遊ばすやうに仰せ出された。御身方になるかならぬか、直ぐさま御返答申し上げよ。」
と云ひ送られた。名和又太郎は丁度一族の者を集めて酒を飲んでゐたが、勅使を受けて何とも決心しかねてゐたのを、弟の小太郎左衛門尉長重が進み出て、「此場に臨んで何をぐづ/\なされます、天皇にお身方する外にどんな道がありますか」といつたので、又太郎を始め一座の面々は皆其意見に賛成した。長重は直ぐさま鎧をつけ、一ゆすりゆすつて、天皇を御迎へに走り出た。急の事とて御乗物もなかつたので、長重は着てゐる鎧の上に荒薦を巻いて天皇を背負ひ奉り、飛鳥の如く船上山へお上し申し、附近の軍勢を集めて立籠つた。
- 船上合戦の事
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さる程に隠岐判官と佐々木弾正左衛門尉とは、二千余騎の軍勢を引き連れて、船上山の南北から押寄せた。船上山は要害でこそあれ、急拵への城なので、堀も塀も何もなかつた。所が寄手は立て竝べられた四五百の旗を見て恐れを生じ、容易に進まうとはしなかつた。其中、佐々木弾正左衛門尉は流矢に中つて即死し、八百余騎を引連れて搦手へ向つた佐渡前司は降参をしてしまつた。それを知らない隠岐判官は、一の門に押寄せて攻め立てゝゐたが、俄に暴風雨が起つて一同の恐れをののいてゐる所を、城の軍勢に攻めまくられて全滅してしまつた。唯だ隠岐判官だけは、命からがら逃げ出して行つた。
天皇が隠岐国から還幸されて、船上山に御在(おまし)になられる事が知れ渡ると、諸国の軍勢は引ききりなしに馳せ集り、遠くは九州四国からも、兵士が先を争つて集つて来た。
註
(一)一寺の事務を司る役。
(二)大将の鎧の下に着る直垂。
(三)緋に染めた革て縅した鎧。
(四)兜の眞向に龍の頭を作つたもの。
(五〕鎧の上に結ぶ帯。
(六)生糸をたて糸、練糸をよこ糸にして織つた絹布。
(七)敵に向つて構へた陣。
(八)蝶番をして畳むやうに作つた楯。
(九)親王の命令書。
(一〇)天子の詔の趣旨。
(一一)政務訴訟及び外寇の防禦を掌る役。
(一二)取梶は船の舳を左へ向ける時の梶の取り方、面梶は右へ向ける時の梶の取り方。(一三)夜の十二時。
(一四)仏の霊骨。
(一五)畳んで懐中した紙。
- 巻 第八
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- 摩耶合戦の事附酒部瀬河合戦の事
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六波羅では先づ摂津国摩耶の城を攻めて赤松を亡ぼさうと、佐々木判官時信、常陸前司時知に、京都にゐる軍勢及び三井寺の法師らを率ゐ、五千余騎でそこに向はしめた。赤松入道はこれを見て、わざと敵を山路の嶮しい処へ誘ひ込み、一戦で攻め破つてしまつた。寄手の大軍は僅に千騎足らずの小勢となつて逃げ帰つたので、六波羅では一方ならずあわて、今度は一万騎の軍勢をさしむけた。赤松入道はかくと聞いて、三千余騎を引き連れて摩耶の城を出で、久々知(くヽち)、酒部(さかべ)に陣を布いて待ちかまへてゐた。
赤松は幾分油断して、俄雨にぬれた甲冑を乾さうと民家へ入り込んで居る所へ、尼崎から上陸した阿波の小笠原の軍勢が押寄せて来たので、必死となつて戦つたが、たゞ父子六騎となつてしまひ、大軍の中を漸く切りぬけて逃げ出して来た。そこで敗軍の士卒を集め、後から来る軍勢を待つて陣容を整へ、三千余騎で瀬河の宿に陣を取つてゐる敵の中へ攻め込み、これを打破つた。戦ひ勝つて摩耶の城へ引返さうとしたのを、円心の子の帥律師則祐が、
「敗戦に疲れた敵を追撃して、一気に六波羅を攻め落しては如何。」
と云ひ立てたので、一同は之に賛成し、其夜直ちに宿河原を出発し、途中の民家に火をつけて其光を松明(たいまつ)とし、逃げ行く敵を追ひかけ/\都に攻め上つた。
- 三月十二日合戦の事
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六波羅ではそんな事とは夢にも知らず、摩耶へは大軍をさし向けたから、まもなく落城するだらうと、其報告を今か今かと待つてゐた所へ、寄手が負けて逃げ上つて来るといふ知らせ。偽(うそ)か眞(まこと)か、真相が更にわからず、どんな様子であらうと怪しんでゐると、三月十二日の午後四時頃、淀、赤井、山崎、西岡辺り三十余箇所に火の手があがつた。「こりや何事だ」と問ふと、「西国の軍勢が三方から攻め寄せて来た。」といふので、京都中は大騒ぎとなり、六波羅では隅田、高橋に、京都にゐる武士二万余騎をつけてさし向け、桂川を隔てて防ぎ戦はしめた。
さて赤松入道は三千余騎を率ゐて、桂川の西岸から六波羅軍を見渡すと、案外にも大軍なので、容易(たやす)くは攻め込まず、両軍は川を挟んで矢戦に時を過した。所が帥律師則祐は、矢戦では勝負が決しないと、いきなり馬を川に乗り入れようとしたので、父入道は其危険を説いて、之をとどめたが、則祐は、
「小勢で大軍に向ふ時は、身方の無勢を見すかされない中に、早く敵の不意を撃つて、其陣営を乱さなくてはならぬ。」
と云ひ捨てゝ馬に鞭をあて、漲る早瀬へ波を逆立てゝ乗り入れた。これを見て飽間九郎左衛門尉、伊東大輔、河原林二郎、木寺相模、宇野能登守国頼の五騎も続いて乗り入れ、やがて向岸に渡りついた。此有様を見て尋常の者ではないと思つたか、六波羅の二万余騎は、しりごみして戦はうとする者がなかつた。其処へ、「先駆の身方を殺すな。」と、信濃守範資、筑前守貞範を先頭に、三千余騎が一度にどつと攻め込んだので、六波羅勢は戦はない前に楯を捨て旗を巻いて退却し、またたくひまに総くづれとなつてしまつた。
- 持明院殿六渡羅に行幸の事
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赤松の軍勢が京都になだれ込み、御所も今は危険だといふので、光厳院は三種の神器を捧持して、二十余人の公卿殿上人らを随へ、二條河原から六波羅へ臨幸遊ばされた。これをお聞きになられて、後伏見院、花園法皇、皇太子、皇后宮、梶井二品親王まで、皆な六波羅へお入りになつた。これにも六波羅では一方ならず驚き、急に六波羅の北の方をあけて、其処を仙院皇居(一)に擬し奉つた。
さて六波羅の軍勢は七條河原で敵の近づくのを待つてゐたが、敵は小勢なりと見てとつて、隅田、高橋、及び河野九郎左衛門尉、陶山次郎に、それぞれ軍勢をつけて攻め向はしめた。やがて河野、陶山のすばらしい働きによつて、さすがの赤松勢もさんざんに打破られ、散り散りになつて退却したが、暫くして敗軍の兵を集め整へてみた所、又千余騎となつたので、七條辺まで攻め進んできたが、ここでも亦河野、陶山の軍勢に打破られ、僅かの軍勢となつて山崎さして退却した。河野、陶山は勝に乗じて追ひかけたが、「長追ひは無用」と、鳥羽殿の前から引返して、六波羅へ馳せ帰つた。其(その)目覚(めざま)しい働きを賞め称へ、其夜臨時の宣下(二)があつて、河野九郎を対馬守に補して御剣を賜ひ、陶山次郎を備中守に補して馬寮に飼育した御馬を賜はつた。
- 禁裏仙洞御修法の事附山崎合戦の事
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此頃天下は乱れに乱れて戦火の絶間なく、光厳院は御皇居さへ定まらず、年中安らかな御時とてはなく、又武士は武器を執つて戦場に馳駆し、静かな日とては一日もなかつた。今はもう法威の力を以て逆臣を鎮圧する以外、静謐を期する道があるまいと、諸社寺に命じて大法秘法を行はしめられ、宮中でも武家でも共にお祈りをしたが、元来、公家の政治が正しくなく、武家の積悪が招いた禍であつたから、いくら祈つても其効果はなかつた。
赤松は其後山崎八幡に陣をとつて、段々と兵士の馳せ集まるのを待つてゐた。六波羅では其事を知つて、五千余騎の軍勢を五條河原に集め、三月十五日の朝六時頃山崎へさし向けたが、再び赤松の計略にかかつて、またたく間に打破られ、散々な有様で京都へ逃げ帰つた。
- 山徒京都に寄する事
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大塔宮から御身方をせよとの書をうけて、比叡山の僧侶達は一山挙つて武家を討伐すべき決議をなし、三月二十八日に六波羅に攻め寄せる手筈を定めたので、近国の者も馳せ集つて、総勢十万八千余騎の大軍となつた。此大軍に早合点した僧侶達は、六波羅勢を馬鹿にして、甲胃もつけず、兵糧も持たず、ひたぶるに京都をさして山を下つた。
六波羅ではこれを聞いて僧侶の油断につけこむ謀を立て、七千余騎の軍勢を七手に分け、三條河原の東西に陣を取つて待ちかまへてゐた。そんな事とは知らぬ僧侶達は、先を争つて攻めかかつた所、まんまと六波羅勢の計略に乗つて三方から攻めまくられ、堪りかねて山上へ逃げ帰つてしまつた。
ここに東塔(三)の南谷(みなみたに)善智房(ぜんちばう)の同宿゛豪鑒(がうかん)、豪仙(がうせん)といふ三塔(四)に名高いあばれ坊主があつたが、身方の退却を歯がゆく思ひ、二人で蹈み留まつて大声に名乗を上げ、四尺余りの大長刀を水車のやうに振廻し、飛びかかり飛びかかつて切りまくり、これを討取らうと近づいた武士達は大部分馬の足を薙ぎ倒され、兜の鉢を破られて討死した。彼等二人は半時程の間敵を引きうけて戦つたが、それに続いて進む者は一人もなく、二人共十余箇所の疵を受けたので、「もうおしまひだ。」と鎧を脱ぎ捨て、肌ぬぎとなつて、腹十文字に掻き切つて果てた。
- 四月三日合戦の事附妻鹿孫三郎勇力の事
八幡山崎の赤松勢は先きの京都の合戦で、或は討たれ、或は疵をうけて、其軍勢は一万騎足らずとなつたが、六波羅の軍容、京都の形勢、共に恐るゝに足らないと見たので、七千余騎を二手に分け、四月三日に又京都へ攻め寄せた。六波羅には三万騎以上の軍勢がゐるので、少しも驚かず、それぞれ手分けをして、其日の朝十時頃から三方同時に戦を始め、一日中互に攻めつ攻められつしたが、勝負が決(きま)らぬ中に日が暮れたので、河野、陶山の軍勢は一団となつて攻め込んだ。其為め先づ木幡の寄手が打破られ、尋(つ)いで東寺の前の寄手も攻め立てられて退却した。唯だ赤松入道だけは選りすぐつた三千余騎の兵を引き連れ、三方から攻めかゝる六波羅勢を相手として容易に破られさうにもなかつた。
こゝに赤松勢の中から頓首(はみや)又次郎入道、其子、孫三郎、田中藤九郎盛兼、同じく弟の彌九郎盛泰といふ物凄い大兵の武士四人が、決死の覚悟を表はして進み出で、数千騎の敵の中へ攻めかかつた。これをみて六波羅勢からぬけ出した島津安芸前司父子三人は、四人の者に近附き、前者は金棒、後者は弓を取り、西国に名高い打物(五)の名人と北国に双ぷ者のない馬上の達人とが追ひつ追はれつ、人も交へず戦つた有様は、実に前代未聞の見物であつた。その中に田中兄弟、頓首(はみや)父子は大勢の敵に射立てられ、各々二三十本の矢をうけて皆討死をしてしまつた。播磨国の妻鹿(めじか)孫三郎長宗は力人にすぐれ、体格も亦素晴らしくすぐれてゐた。十二歳の頃からよく相撲を取つたが、日本中に其片手にもかなふ者がなかつた。此人に従ふ一族十七人の者が又並々ならず勝(すぐ)れてゐた為め、他の手の軍勢は交へず、一族の者のみで六條坊門大宮まで攻め入つたが、三千余騎の六波羅勢に取りまかれて、十七人は討死し、孫三郎一人が残り、唯一騎で退く所を印具(いぐ)駿河守の軍勢五十余騎が追ひかけ、其中から二十歳位の若武者が唯だ一騎駆け寄つて、退き帰る妻鹿孫三郎に組まうと近づき、鎧の袖に取著いたのを、孫三郎は物の数ともせず、長い肘を差し延べて鎧の総角(六)を掴み、宙にぷらさげて馬上を三町ほど走つたので、五十余騎の者は、
「あれ討たすな。」と追ひかけて来た。孫三郎はそれを睨みつけて、
「敵も敵によるぞ、一騎だからといつて我に近よつて怪我をするな。ほしければこれをやらう、うけ取れ。」
と云つて、左の手にさげてゐた鎧武者を右の手に持ちかへて、えいと放り投げた所、後の馬武者六騎の上を飛び越えて深田の泥の中へ見えぬ程深く打ち込んだ。これを見た五十余騎の者達は一度に馬を引返し、大急ぎで逃げ去つた。
さて赤松入道は今日の戦で、特に力頼みとしきつてゐた一族の兵士が、あちらこちらで八百余騎も討たれた為め、がつかりして八幡山崎へ又引返した。
- 主上自ら金輪の法を修せしめ給ふ事附千種殿京合戦の事
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京都の合戦には何時も官軍が負け、八幡山崎の陣ももはや小勢になつたといふので、後醍醐天皇は天下の安否を気づかはれ御心を痛めさせ給うて、船上山の皇居の中に壇を作り、天皇御身づから金輪の法(七)を行はせられた。其七日目の夜に、三光(八)と天子光とが並んで壇上に現はれ給ふたので、御願は直ぐさま成就するとカ強く思召された。
そこで大将をさし向け、赤松入道と力を合せて六波羅を攻めようと、六條少将忠顕朝臣を頭中将(九)に任じ、山陽山陰両道の兵の大将として京都へ差し向けられた。其軍勢は追々に加つて、まもなく二十万七千余騎となつた。其上第六の若宮が但馬国から近国の軍勢を駆り集めて馳せ加はられたので、頭中将は一方ならず悦び、錦の御旗を押し立てて此官を上将軍として仰ぎ奉り、四月二日に西山の峯の堂に御陣をしかれた。
千種頭中将忠顕朝臣は其多勢を頼んでか、又は一人で功を立てようと思つてか、八幡山崎の官軍としめし合せもせず、四月八日にこつそりと京都へ押し寄せた。六波羅では十分に準備をして、七千余騎を大宮面に配し、そこに陣を敷いて寄手の来るのを待ちかまへてゐた。
官軍は二重三重にかまへ、一陣退けば二陣と、次々に入替つて休む間もなく攻め戦ひ、何時勝負が決するとも見えなかつたが、やがて京都勢の中へ忍び込んでゐた官軍が、敵の陣中へ火をつけたので、敵の第一陣は大宮面から引き揚げた。そこで六波羅では用意に残しておいた佐々木判官時信、隅田、高橋、南部、下山、河野、陶山、富樫、小早河らに五千余騎をつけてさし向けた。此新手に官軍は攻めたてられ、あちらこちらで敗戦して、桂川の辺まで退いて来た。唯だ名和小次郎と児島備後三郎とが向つてゐた一條の寄手だけは退かず、追ひつ追はれつ戦つてゐた。防ぐ者は陶山と河野であり、攻める者は名和と児島である。児島は河野と親戚であり、名和と陶山は友人であつた為め、互に命を惜まず戦ひ合つてゐたが、頭中将は此児島と名和とを呼び返したので、二人は陶山と河野に挨拶して、後日を約して引き分れた。
千種殿は本陣峯堂(みねのだう)に帰つたが、児島三郎高徳に其戦法の拙さを辱かしめられ、且つ夜討があるかも知れぬとおどかされて、益々をぢけづき、取るものも取りあへず、大あわてで八幡をさして逃げ出して行つた。児島三郎はかくと知つて腹を立て、「ああ、此大将は堀か崖かへ落ちて死ねばよい。」と獨語しつゝ歯がみをしてゐたが、致し方なく、荻野彦六朝忠らの勇士と共に落ちて行つた。
- 谷堂炎上の事
千種頭中将が西山の陣を逃げられたといふので、翌四月九日、京都中の軍勢は谷堂(たにだう)、峯堂(みねだう)以下、浄住寺(じやうぢうじ)、松尾、万石大路(まんこくおほぢ)、葉室、衣笠に乱入して、仏閣神殿を破壊し、僧舎民家に押し入つて財宝をすべて運び取つて後、民家に火をつけたので、折柄の烈風に吹きあふられ、浄住寺、最福寺、葉室、衣笠、二尊院、等々総て三百余の寺院、五千余戸の民家が一時に灰となつてしまひ、仏像、御本体、経巻等もまたたく間に煙となつてしまつた。
註
(一)上皇及び法皇の御所。
(二)定期の任官式以外に、臨時に官職に任ずる旨の宣旨を下される事。
(三)比叡山三塔の一。
(四)比叡山の三塔即ち東塔、西塔、横川。
(五)太刀長刀の類。
(六)太い組緒で総を太く長くしたもの。
(七)天台宗の修法の一。
(八)日、月、星。
(九)蔵人頭で近衛中将を兼任するもの。
- 巻 第九
- 足利殿御上洛の事
後醍醐天皇が船上山にゐられて、討手を京都に向けられるといふ事を、六波羅の急使が度々鎌倉へ知らしてきた。北條高時は大いに驚いて再び大軍を発し、半分は京都を警護し、重立つた者は船上山を攻める手筈を決め、名越尾張守を大将として外様の大名二十人を召集した。
足利治部大輔高氏は、病気がまだ全快してゐないのに、上京の人数の中に加へられ、度々催促を受けた為め心中腹を立て、此上尚上京を催促されたら、一家を挙げて京都へ上り、後醍醐天皇の御身方となつて六波羅を攻め落さうと、人知れず決心してゐた。高時はそんな事とも知らず、一日に二度も上京を催促したので、足利高氏は一族郎党は勿論、女子供までつれて上京しようとしたのを、長崎入道円喜が怪しんで高時に耳打ちをした。そこで高時は、
「東国はまだ平和で安心だから幼い御子達は鎌倉へ置いて行かれた方がよい。又両家の交りは極めて深い上に赤橋相州の御親戚だから、何も怪しむ所はないが、諸人の疑ひを晴らす為め、誓書を一枚書いて置いて頂きたい。」
と云つてやつた。これを聞いて高氏は益々不快に思ひ、其事を弟の兵部大輔に相談した所、弟は大事の前の小事であるから、一時を偽つて誓書も差出し、又御子息と御台とを鎌倉へ残し置いて上京なされた方がよいと勧めたので、高氏は息子の千寿王と御台である赤橋相州の妹とを鎌倉に留め置き、一枚の誓書を書いて高時に送つた。高時はそれで疑を晴らして喜び、高氏に色々の贈物をした。
さて足利兄弟は吉良、上杉、仁木、細川、今川、荒川以下の一族三十二人で、三千余騎の軍勢を引き連れ、元弘三年三月二十七日、大手の大将として、鎌倉を出発し、四月十六日に京都へ着いた。
- 山崎攻めの事附久我畷合戦の事
六波羅では度々の合戦に勝つて、西国の敵恐るるに足らずと頭から侮つてゐたが、頼りにしてゐた結城九郎左衛門尉は敵になつて山崎勢へ加はり、其外にも五騎或は十騎と、或は帰国したり、或は敵についたりする者が出て来たので、官軍は負けても軍勢が増し、六波羅は勝つても兵士が一日々々と減つて行つた。
足利高氏は京都に着いた翌日、伯耆の船上山へこつそりと使を出し、御身方につくやう申し上げたので、後醍醐天皇は非常に御喜びになり、諸国の官軍を集めて朝敵を亡ぼせといふ輪旨を下された。両六波羅も名越尾張守もそんな事は少しも知らず、四月二十七日には八幡山崎勢と合戦する手筈が決つてゐたので、名越尾張守は大手の大将、足利治部大輔高氏は搦手の大将として攻め寄せた。八幡山崎の官軍はこれを聞いて、よし、其儀ならば要害の地で出合ひ、不意に勝負を決してやらうと、千種頭中将忠顕朝臣、結城九郎左衛門親光、赤松入道円心らは、それぞれ受持の場所に進んで陣を取つてゐた。
さて搦手の大将足利高氏は、夜明け前に京都を出たと云ひ触らしたので、大手の大将名越尾張守は、「しまつた、先がけをされた」と、久我畷の馬の足も立たぬ泥土の中へ馬を乗り入れ乗り入れ、先を争つて進んで行つた。尾張守は血気の若武者である上、今度の合戦には人を驚かして名を上げようと予期してゐたので、其日は特に立派に装ひ、辺りを光り輝かして進み出た為め、敵もあれこそは大将らしい、あの大将一人を討たうと、此処彼処で揉み合つたが、鎧がよいので裏まで貫く矢もなく、打物の名人であるから、近づく敵は切り殺された。其勢に辟易して、官軍はもはや退くかとさへ思はれた。其時、赤松の一族の佐用左衛門範家といふ強弓の矢続早(やつぎばや)、歩立(かちだち)の射手になつて、畔の陰に隠れ伏してゐたのが、三方の敵を追ひまくつて一休みしてゐる尾張守の近くに覘ひより、ひきしぼつてはなした矢が、覘ひはづれず尾張守の眉間にあたつて、骨を砕いて脳を射ぬいた為め、さしもの猛将も此矢一本で馬から真逆様に倒れ落ちた。大将を討たれた軍勢は、またたく間に攻め破られてしまつた。
- 足利殿大江山を打越え給ふ事
搦手の大将足利高氏は桂川の西岸で酒宴を開いてゐたが、大手の合戦で寄手が負け、大将名越尾張守が討死したと聞いて、起上つて馬に跨つた。けれども、山崎の方へは行かず、丹波路を西へ、篠村をさして馬を早めた。
所が此軍勢の中にゐた備前国の中吉十郎と摂津国の奴可四郎の二人は、大江山の麓にさしかかる頃から、高氏の行ひに疑ひを懐き、「此人はどうも野心を起したらしい、我々は附いて行くべきではない。」と大江山から引返して、事の次第を六波羅に報告した。六波羅では一番頼りにしてゐた人に背(そむ)かれたので、誰れも皆心細い思ひをした。
- 足利殿篠村に着御則ち国人馳せ参る事
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さて足利高氏は篠村に陣をとつて、近国の兵を集めた所、久下彌三郎時重が二百五十騎を率ゐて馳せ加つたのを最初に、諸所の兵士が残らず集つて来たので、篠村の軍勢はまもなく二万三千余騎となつた。
六波羅ではこれをきいて、
「今度の合戦はいよ/\天下分け目の合戦だ。若し万一にも身方が負けたら、天皇、上皇を奉じて関東へ下り、鎌倉に都を立てゝ再び大軍を起さう。」
と相談し、去る三月以来北の方を御所につくり、天皇、上皇の行幸を仰ぎ奉つたが、親王、国母、皇后、女院、北政所(一)、三台(二)、九卿(三)、槐棘(四)、三家(五)の臣をはじめ、文武百官、竹園(六)門徒の大衆、北面以下の侍(七)、女房達まで先を争つて六波羅に入つた為め、京都中は俄にさびれてしまつた。
光厳院はかうした天下の大乱は御自身が天子の徳に背かれた故であると、罪を御一身にお引き受けになつて、事の外歎き悲しまれ、一途に謹慎してゐられた。
官軍は五月七日に京都へ攻め寄せる方略が定まつてゐたので、篠原、八幡、山崎の官軍の各先陣は宵の中から陣をかまへ、篝火を焼いて待つてゐた。
六波羅勢は籠の中に取りこめられた鳥の如く、四方に敵をうけて驚きあわて、堀を掘り、塀を築き、櫓を立て、準備はをさ/\怠りなかつたが、天下分け目の一戦に進取の策を立て得ず、尻込みして小城に立て籠らうとしたのは、誠に悲しむべき作戦であつた。
- 高氏願書を篠村八幡宮に籠めらるる事
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明くれば五月七日の朝四時頃、足利治部大輔高氏は二万五千余騎を引き具して篠村宿を出発した。此宿の南方に何神ともわからぬ社があつたのを、高氏は折柄来合せた巫女に、「これは何神をお祭りした社だ。」と聞くと、「篠村の新八幡と申します」と答へたので、それでは我家の守護神であると、鎧の引合(八)から矢立の硯を取出し、筆を持つて一枚の祈願書を書き、声高らかに読み上げて、戦勝の加護を祈つた、やがて全軍勇みに勇んで、京都を指して馳せ向つた。
- 六波羅攻めの事
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六波羅では六万余騎を三手に分け、一手は神祇官の前で足利勢を、一手は東寺にさし向けて赤松勢を、又一手は伏見で千種勢をそれぞれ防がせ、朝の十時頃から大手搦手同時に戦を始めた。馬の蹴上げる塵煙は南北に靡き、鬨の声は天地をとどろかせた。
内野へは陶山と河野とが向つたので、敵も身方もたやすくは駈け入らず、互に矢戦に時を過してゐた所、官軍の中から櫨匂(九)の鎧に、薄紫の母衣をかけた武士が、唯だ一騎敵の前へ進み出て大声に、
「我こそは足利殿の身方の設楽五郎左衛門尉と云ふ者である。六波羅殿の身方で腕に自信のある者があるならば、駈け合つてわが腕前を御覚ぜよ。」
と名乗を上げた。と、六波羅勢の中からは五十余りの老武者が馬を静かに歩ませて、大声に名乗を上げた。
「我は斎藤伊予房玄基といふ者である。今日の合戦は敵にも身方にも大事な合戦、命は決して惜くない。生残つた人があつたら、我忠義のはたらきを子孫に語り伝へよ。」
互ひに馬を走り寄せ、鎧の袖と袖とを引合つて、むずと組み合ひ、どつと馬からころげ落ちた。設楽は力が強かつたから、やがて上になつて斎藤の首を取つた。斎藤もすばやい男だつたので、下から突き上げて三刀刺し、死後まで互ひに組み合つた手を放さなかつた。
又源氏の陣から敵前に向ひ、半町ほど馬を走らして出た一騎の武士が大声で、
「我は足利殿の御身方で大高二郎重成といふ者である。先日来度々の合戦に功を立てたといふ陶山備中守、河野対馬守は居られぬか。」
と名乗を上げて控へてゐた。折柄陶山は他の手に向ひ、河野対馬守がゐるだけだつたが、大高に言葉をかけられたので、「通治はここだ」と云ひつゝ大高に近づいた。これを見て河野対馬守の養子で今年十六歳の七郎通遠が、父を討たすまいと其前に立ち塞がり、大高と馬を並べて組みついた。大高は河野七郎の総角(一〇)を掴んで宙にぷら下げ、差し出しておいて片手打の下切に切り落した。対馬守は可愛い養子を目の前で殺されて、命はもはや惜しくはない、大高に組まうと馳せ出す所へ、これを見た河野の家来達が主人を討たすまいと、三百余騎でわめき立てゝ攻め込んだ。源氏も亦大高を討たすまいと、一千余騎でわめき立てて攻めかかつたので、源平互ひに入乱れ黒煙を立てて攻め戦つた。源平両軍共此処を大事と入りかはり立ちかはり、追ひつ追はれつ攻め合つたが大軍の源氏の為め平氏は遂に戦ひ負けて、六波羅へ退却した。
東寺へは赤松入道円心が押し寄せた。楼門近くまで来た時、信濃守範資が「誰かあの木戸、逆茂木をたたき壊せ。」と命令したので、三百余騎の兵共が走り出したが、皆堀を渡りかねて思案にくれてゐた。播磨国の妻鹿孫三郎長宗はこれを見て馬から飛び下り、弓を堀の中へさし入れて水の深さをはかつた所、弦をかけた上の端の方だけが残つたので、「これなら自分の脊は立つ」と、五尺三寸の太刀を抜いて肩にかけ、貫(つらぬき)(一一)を脱ぎすてて、かつぱと飛びこんだが、水は胸板の上へもとどかなかつた。後からきた武部七郎はこれを見て、「堀は浅いぞ」と身の丈五尺にも足らぬ小男が、いきなり飛び込んだので、水は頭の上にまで来た。長宗はこれを振返つて、「俺の総角につかまつてあがれ」と云つたので、武部七郎は妻鹿の鎧の上帯を踏んで肩にのり上り、一飛びとんで向ひの岸に着いた。妻鹿はから/\と笑つて、「貴公は俺を橋として渡つたのだな。いざ其塀をたたき壊さう。」と云ひつつ岸から上へ飛び上り、塀柱の四五寸ばかりあるのに手をかけて、えいや/\と引いたので、一二丈も積み上げた山のやうな揚土が壁と一緒に崩れ落ちて、塀はたちまち平地となつた。これを見て三百余箇所の櫓から、絶間なく射かける敵の矢は雨よりも烈しかつたので、長宗は高櫓の下へ走り込み、両金剛の前に太刀をさかさまについて、歯がみをしながら立ちはだかつた。其有様は、どちらを仁王、どちらを孫三郎と、見分けがつかない程であつた。そこへ大勢の敵が攻めかかつて来たので、「あれ討たすな」と赤松入道円心以下の兵三千余騎が、太刀を抜き並べて攻めこんだ為め、六波羅の軍勢一万余騎は、縦横に攻め破られ七條河原へ追ひ出されてしまつた。かうして竹田の合戦や、木幡、伏見の合戦で負けた軍勢は、散り/\ばら/\に六波羅の城へ逃げ籠つた。
官軍は遠巻に六波羅を取り巻いたが、六波羅は一致して打つて出る力もなく、唯だあきれて逃げ仕度をするばかりであつた。
光厳院を始め奉り、上皇、女院、皇后、公卿、殿上人はまだ合戦といふものを見られた事がないので、鬨の声や矢のうなりに恐れをののかせられて、今にも息の絶え入りさうな御様子であられた。それを御見受申すにつけても、両六波羅は勇気を失ひ、たゞぼんやりしてゐるのみであつた。
- 主上上皇御沈落の事
糟谷三郎宗秋は六波羅殿に向ひ、
「身方の軍勢は段々に逃げ出して、今は千騎にも足らぬ程となりました。此軍勢では大敵を防ぐ事は出来さうにもありませぬ。此上は唯だ天皇、上皇をお連れ申して関東へお下りになる外はございません。」
と、何度も/\申上げたので、両六波羅も其気になり、其事を天皇上皇にも申上げ、南六波羅方の左近将監時益は行幸の前駆として既に出発したのに、北六波羅方の越後守仲時は妻子との別れを惜んでぐづ/\してゐたので、側の者がせき立てると、泣く/\馬に乗つて立ち出で